令子内親王
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(二条大宮から転送)
令子内親王 | |
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第74代天皇准母 | |
皇后 |
嘉承2年12月1日(1108年1月15日) (皇后宮) |
太皇太后 | 長承3年3月19日(1134年4月15日) |
誕生 | 承暦2年5月18日(1078年6月30日) |
崩御 |
天養元年4月21日(1144年5月25日) |
陵所 | 上醍醐陵(京都市伏見区醍醐) |
諱 | 令子 |
別称 | 二条大宮、二条太皇太后 |
氏族 | 皇族 |
父親 | 白河天皇 |
母親 | 藤原賢子 |
養子女 | 鳥羽天皇(甥) |
准后 | 応徳元年11月14日(1084年12月14日) |
宮廷女房 | 二条太皇太后宮大弐 ほか |
内親王宣下 | 承暦3年4月26日(1079年5月29日) |
賀茂斎院 | 在任:1089年 - 1099年 |
令子内親王(れいしないしんのう、承暦2年5月18日[1](1078年6月30日) - 天養元年4月21日[2](1144年5月25日))は、平安時代後期の皇女、賀茂斎院である。白河天皇の第3皇女。母は中宮藤原賢子(六条右大臣源顕房の娘、関白藤原師実養女)。同腹の姉に、郁芳門院媞子内親王、弟に堀河天皇。二条大宮、二条太皇太后とも呼ばれた。
経歴
[編集]承暦3年(1079年)4月、内親王宣下。応徳元年(1084年)9月に生母・賢子を亡くし、養祖父母の藤原師実・麗子に養育される[3][4]。同年11月、准三后。
寛治3年(1089年)6月28日、堀河天皇の斎院に卜定。承徳3年(1099年)、病を理由に退下。五条坊門東洞院家に居住。康和4年(1102年)11月以降は、宮中弘徽殿に移る[5]。嘉承元年(1106年)3月、二条堀河亭(前斎院御所)が落成[6]し、居住をはじめる。
嘉承2年(1107年)、甥である鳥羽天皇の准母となり[7]、その即位に伴って皇后(尊称皇后)となる[8][* 1]。大治5年(1130年)7月に出家。長承3年(1134年)、鳥羽上皇の妃藤原泰子の皇后宮冊立に伴い、太皇太后となる[* 2]。
天養元年(1144年)崩ずると、左大文字山近くの「石陰」(いわかげ)と呼ばれた葬送地[* 3]に埋葬された。参列する者数百名と記録されている[2]。陵墓は上醍醐陵。
逸話
[編集]去る三日 皇后御方に落書あり 件の書に云ふ 主上を犯し奉らんと構ふる人あり 件の事は或る人の 醍醐座主勝覚許に千手丸と云ふ童あり 件の童をすかして構へたる事なり と書くなり 件の書を皇后宮より院に奉らしめ給ふなり — 『殿暦』[* 4] 永久元年十月五日条
歌壇
[編集]- 令子内親王自身には歌人としての活躍は見られないが、その周辺には、金葉和歌集を中心に多数の歌人を輩出し、歌壇のオーナー的役割を果たしていたと言える。内親王に出仕していた女房から、金葉和歌集に入集しているのは、以下の通り。
- 皇后宮肥後(前斎院肥後とも):家集『肥後集』(宮内庁書陵部)
- 皇后宮摂津:家集『前斎院摂津集』(宮内庁書陵部)
- 皇后宮式部
- 皇后宮美濃(上西門院讃岐とも)
- 皇后宮右衛門佐
- 皇后宮女別当
- 皇后宮少将
- 皇后宮大弐(斎院の大弐とも):家集『二条太皇太后宮大弐集』(宮内庁書陵部)
- 前斎院尾張
- 前斎院六条(後の待賢門院堀河)
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]参考文献
[編集]- 塚谷多貴子 「皇后宮令子歌壇論--金葉集期の女流歌壇」 『国語国文研究』 (52),24-35 1974年11月 北海道大学国語国文学会
- 所京子 「斎院令子内親王関係の和歌集成」 『聖徳学園女子短期大学紀要』 15,86-74 1989年3月31日 岐阜聖徳学園大学