「2002 FIFAワールドカップ」の版間の差分
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この一連の誤審疑惑問題における騒動は、[[2006年]][[3月24日]]にFIFAの映像ライセンスを持った会社(なお、FIFAが公認しているわけではなく、ランキング作成には関与していない<ref>太田(2006)、P12</ref>)が創立100周年を記念して発売した[[DVDビデオ]]『FIFA FEVER FIFA創立100周年記念DVD』に収録されている「世紀の10大誤審」の6位〜9位(6・7位がイタリア戦、8・9位はスペイン戦)にランクイン(更には同大会におけるブラジル対ベルギー戦が3位)と、半数がこの大会のワールドカップで占められる結果となった。これに関して大韓サッカー協会は猛反発した<ref>[http://number.bunshun.jp/articles/-/11004 文藝春秋 Number Web]2004年12月2日付『日韓W杯の誤審疑惑をFIFAが公式認定?』より。</ref>。[[2000年代]]のサッカーの出来事を扱った[[スポーツイラストレイテッド]]誌の記事ではイタリア戦・スペイン戦で誤審疑惑が指摘されていると記された一方で、韓国代表はシンデレラとして扱われている<ref>{{Cite web |url=http://sportsillustrated.cnn.com/2009/magazine/specials/2000s/12/09/soccer.highs.lows/ | title= Soccer: Highlights and lowlights | publisher=SI.com |first=Grant |last=Wahl |accessdate=2010-10-20}}</ref>。 |
この一連の誤審疑惑問題における騒動は、[[2006年]][[3月24日]]にFIFAの映像ライセンスを持った会社(なお、FIFAが公認しているわけではなく、ランキング作成には関与していない<ref>太田(2006)、P12</ref>)が創立100周年を記念して発売した[[DVDビデオ]]『FIFA FEVER FIFA創立100周年記念DVD』に収録されている「世紀の10大誤審」の6位〜9位(6・7位がイタリア戦、8・9位はスペイン戦)にランクイン(更には同大会におけるブラジル対ベルギー戦が3位)と、半数がこの大会のワールドカップで占められる結果となった。これに関して大韓サッカー協会は猛反発した<ref>[http://number.bunshun.jp/articles/-/11004 文藝春秋 Number Web]2004年12月2日付『日韓W杯の誤審疑惑をFIFAが公式認定?』より。</ref>。[[2000年代]]のサッカーの出来事を扱った[[スポーツイラストレイテッド]]誌の記事ではイタリア戦・スペイン戦で誤審疑惑が指摘されていると記された一方で、韓国代表はシンデレラとして扱われている<ref>{{Cite web |url=http://sportsillustrated.cnn.com/2009/magazine/specials/2000s/12/09/soccer.highs.lows/ | title= Soccer: Highlights and lowlights | publisher=SI.com |first=Grant |last=Wahl |accessdate=2010-10-20}}</ref>。 |
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今大会で、[[NHK]]のサッカー解説員を務めた[[加藤久]]は2002年6月24日のNHKのニュース番組に出演し、判定にまつわる議論について「特別な問題はない」と述べている<ref name=chuo>『中央日報』電子版(日本語版)、2002年6月25日</ref>。また、今大会で提起されている問題は過去にもあり、特にアジアのチームは今回のような問題提起もできないで敗れたケースが多く、今大会で判定に注目されているのは、今大会がサッカー強国が相次いで敗れている波乱の高い大会であるからだと述べている<ref name=chuo/>。 |
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アメリカの[[ニューヨークタイムズ]]とイギリスの[[フィナンシャルタイムズ]]もまた、6月24日に審判は公正だとそれぞれ報じている<ref name=chuo2>『中央日報』電子版(日本語版)2002年6月24日</ref>。ニューヨークタイムズは審判についての陰謀論は、韓国に敗れたヨーロッパチームの「愚痴」に過ぎないとし、ベスト4入りを果たした韓国とトルコの組織力や闘志などを評価すべきだと述べた<ref name=chuo2/>。 |
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フィナンシャルタイムズは韓国対イタリア戦、韓国対スペイン戦の判定は非常に模範的(exemplary)と評し、また、FIFA審判委員会のメンデス委員の話を引用し、56試合で4000件余りの審判判定があったが、問題がある誤審は5、6件と非常に少ないと述べた<ref name=chuo2/>。同紙は、韓国対イタリアの延長戦においてモレノ主審がイタリアのトッティを退場させたのは正しい審判であるが、線審については、オフサイドとゴールラインアウトの判定は正確な測定が難しいため、問題がある可能性があるとし、韓国対スペインの延長戦で線審が、スペインのボールがゴールラインを割ったとしたのは誤審だとした<ref name=chuo2/>。 |
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アメリカの[[CNN]]放送は「モレノ主審は偏向していたというイタリアの主張をどう思うか」という質問のネットアンケートを行い、回答者9万人余のうち約94%が「そうは思わない」とし、イタリアの主張に賛同したのは約6%であった<ref>『中央日報』電子版(日本語版)2002年6月19日</ref>。また、フランスの日刊紙[[ルモンド]]はイタリア敗北の原因は審判ではなく、弱い闘志、稚拙な戦略、選手の高齢化といったイタリア自身にあり、 審判の判定に対して提訴も辞さないというイタリアの姿勢は単なる脅迫に過ぎないと報じている<ref>『中央日報』電子版(日本語版)、2002年6月21日</ref>。また、98年大会でフランス代表を優勝に導いた[[エメ・ジャケ]]元監督はイタリア代表の戦いぶりを「陳腐」と酷評した<ref>『中央日報』電子版(日本語版)、2002年6月20日</ref>。 |
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中国[[人民日報]]は7月10日、チームの実力を高め、このために傾けた努力こそ韓国代表がW杯で善戦した本当の理由だとし、「韓国代表は強烈な根性と進取の気質、すばらしい体力、優れた戦術・戦略」を見せ、韓国代表の成績は予想を上回ったが十分共感できる業績だと報じた<ref>『中央日報』電子版(日本語版)2002年7月11日</ref>。 |
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ロイター通信は7月1日、「ロイター通信の記者が選んだ2002年ワールドカップの各部門ベスト、ワースト」を発表し、「ワースト判定」に韓国対スペイン、延長戦の[[フェルナンド・モリエンテス]]のゴールを無効としたガマル・ガンドゥール(エジプト)主審の判定を挙げるとともに、スペイン代表を「最も運の悪いチーム」に選出し、イタリア代表についても「最も惨めだった敗者」に選出している(なお、韓国代表を率いたヒディンク監督が「最優秀監督」に選定されている)<ref>『ロイター通信』電子版(日本語版)、2002年7月1日</ref>。週刊誌[[TIME]]においてもヒディンク監督は「最高の監督」に選ばれ、イタリアを率いた[[ジョバンニ・トラパットーニ]]が「最悪の監督」に選ばれている<ref>『中央日報』電子版(日本語)、2002年7月3日</ref>[[ロサンゼルスタイムズ]]もまた、6月30日に部門別ベスト・ワーストを発表し、「ベストチーム」に韓国代表、「最も醜いチーム」にイタリア代表(「クロアチアと韓国に敗れ、陰謀論を提起した」と説明されている)が選ばれている(なお、「ワーストチーム」は別にあり、ドイツに0-8で大敗したサウジアラビア代表が選ばれている)<ref>『中央日報』電子版(日本語)、2002年7月1日</ref>。 |
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イギリス全土に準決勝の韓国対ドイツ戦を放送した[[ITV]]テレビでは、この試合を担当した解説者たちは両チームは準決勝にふさわしい試合をしたと賞賛するとともに韓国代表は準決勝に進むだけの実力があったとし、韓国代表のベスト4進出に対する陰謀論は「ばかばかしい」と述べている<ref>『中央日報』電子版(日本語版)2002年6月26日</ref>。 |
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香港英字紙サウスチャイナ・モーニングポストは6月26日の記事において、ヨーロッパの監督たちが試合後の記者会見で証拠も示さずに判定の偏向を主張し更には陰謀論まで提起したのは人種主義的、差別主義的であり、この陰謀論こそ韓国代表に揺さぶりをかけるための陰謀だったとの非難は免れにくいと述べた<ref>『中央日報』電子版(日本語)、2002年6月27日</ref>。 |
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スペイン最大の日刊紙「エルムンド」やバルセロナのラジオ放送「ビア・デジタル」は、イタリア戦の後(つまりスペイン戦の前)、韓国代表を世界上位圏のフィジカルと戦術を持つと評し、イタリア戦のトッティの退場といった主審の判定について、ヨーロッパなら激しい当たりにはもう少し寛大だが審判には従うべきであり審判の判定に適応しなければいけないと述べている<ref>『中央日報』電子版(日本語版)2002年6月19日</ref>。 |
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イギリス[[BBC]]において元イングランド代表の[[ゲーリー・リネカー]]は、韓国による大会運営は素晴らしいものだと述べた上で、韓国代表が対戦相手よりも幸運に恵まれていたのは事実だが、準決勝進出は驚異的な成果であり、間違いなく韓国代表の成功は、(監督の)優れた指導、ハードワーク、信念、決断力、サポーターの応援によるものだと述べた<ref name=BBC1>[http://news.bbc.co.uk/sport3/worldcup2002/specials/html/linekers_verdict/south_korea.stm]</ref>。また、韓国という例をアジアサッカー全体を構築していくための基盤にすべきだとも述べた<ref name=BBC1/>。リネカーは、イタリア代表は、ポテンシャルの発揮に失敗することがよくあり、今大会でも例外ではなかったと述べ、イタリアが韓国に負けたときは、それについてあれこれとたくさんの唸り声が起きたが、結局のところ非難を行っていたのはイタリアだけであったと述べた<ref>[http://news.bbc.co.uk/sport3/worldcup2002/specials/html/linekers_verdict/italy.stm]</ref>。スペインについては、彼らが不運だったのは誰もが知るところであるが、疑うべくもないクオリティーを持つスペインは延長戦は言うまでもなくPK戦にも頼るべきではなかったと言い、スペインは大一番で常に能力を発揮できないのが最大の謎だと述べている<ref>[http://news.bbc.co.uk/sport3/worldcup2002/specials/html/linekers_verdict/spain.stm]</ref>。 |
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BBCは「最も驚くべき瞬間」にセネガルのフランスに対する勝利と共に、韓国のイタリアを撃破を挙げ、「敗北に対する最悪の反応」ではイタリアが選ばれており、[[ペルージャ]]のガウチ会長によるイタリア戦で決勝ゴールを決めた[[安貞桓]]に対する発言はイタリア以外の世界中から笑い物になったと述べた<ref>[http://news.bbc.co.uk/sport3/worldcup2002/hi/features/newsid_2077000/2077810.stm]</ref>。また、韓国の業績は審判のまずい判断に不満を持つイタリアとスペインの泣きごとによって価値が下げられるかもしれないが、イタリア・スペインの見苦しさによって韓国の業績が傷つくことは許されるべきではないとも報じた<ref>[http://news.bbc.co.uk/sport3/worldcup2002/hi/features/newsid_2076000/2076952.stm]</ref>。 |
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=== 会場一覧 === |
=== 会場一覧 === |
2012年6月12日 (火) 13:36時点における版
2002 FIFAワールドカップ 2002 FIFA World Cup | |
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大会概要 | |
開催国 |
日本 韓国 |
日程 | 2002年5月31日 - 6月30日 |
チーム数 | 32 (6連盟) |
開催地数 | 20 (20(それぞれ10)都市) |
大会結果 | |
優勝 | ブラジル (5回目) |
準優勝 | ドイツ |
3位 | トルコ |
4位 | 韓国 |
大会統計 | |
試合数 | 64試合 |
ゴール数 |
161点 (1試合平均 2.52点) |
総入場者数 |
2,705,197人 (1試合平均 42,269人) |
得点王 | ロナウド(8点) |
最優秀選手 | オリバー・カーン |
< 19982006 > |
2002 FIFAワールドカップ(英: 2002 FIFA World Cup)は、2002年5月31日から6月30日にかけて、日本と韓国で共同開催された第17回目のFIFAワールドカップである。
大会招致の経緯
これまで、FIFAワールドカップ(以下W杯と略すことあり)は欧州と南北アメリカ間で交互に行われてきたが、1986年に国際サッカー連盟(FIFA)のジョアン・アヴェランジェ会長(当時)が「初のアジア・アフリカ大陸による開催」案を打ち出した。その後、同会長から大会開催の打診を受けた日本サッカー協会が各国に先駆けて招致に名乗りをあげ、当時の低迷する日本国内のサッカー界の活性化も念頭に置いた上で1988年にFIFAワールドカップの日本開催を構想、1989年11月にFIFAにW杯開催国立候補の意思表示をし、招致活動を開始した。1991年6月に2002年W杯招致委員会が発足、翌年1992年3月24日にはW杯国会議員招致委員会(以下招致議連)が誕生し、W杯招致は日本の国家的事業となった[1]。日本はFIFAワールドカップを「より平和の祭典」としてメッセージ性あるイベントにしようと提案し、トヨタカップなどの開催実績と「平和で安全」、「豊かな経済」、「政治的安定」、「自由と民主主義」、「世界の先進国」である点などを示し日本で開催する意義を謳った。また、「バーチャルスタジアム構想」(使用していないスタジアムに巨大なスクリーンを配置し3次元映像を投影。あたかも実際に目の前で選手がプレーしているように観客に観せる日本が誇る最新映像技術を駆使した仮想のスタジアム観戦システム)を提案し、史上最大の計400万人がスタジアムで観戦することが可能な大会にすることを謳った(バーチャルスタジアム構想はその後、メガビジョンという大画面投影技術へ姿を変えた。しかし、放映権の問題があったため、実際にメガビジョンが使われたのは準決勝1試合だけであった)。
その一方で、FIFAが想定するアジア初のワールドカップ開催に日本が立候補すると知った韓国は「アジア初」を賭けて日本に続く形で1993年11月に立候補を表明、1994年の初めに招致委員会を組織した。日本よりも招致活動に出遅れた韓国は、同1994年にFIFA副会長に選出された鄭夢準大韓サッカー協会会長(現代重工業顧問。韓国国会議員)を先頭にして、現代財閥を中心に韓国国内の政財界をあげての招致活動に乗り出し、「南北朝鮮共同開催案」を持ち出すなどして日本の招致活動に激しく対抗した。そして、1995年2月、立候補すると表明していたメキシコが辞退し、日本と韓国の2国のみが正式に立候補を表明した。日韓以外に立候補した国はなく、招致活動は日韓の一騎打ちとなった。1995年9月28日に日本はFIFAワールドカップ開催提案書をFIFAに提出した。これを受けて、同年11月にFIFA視察団(インスペクショングループ)が日韓両国を訪問し、スタジアムや国内リーグ、インフラなどをチェックした。視察団は『日本は施設も、歓迎も(サポーターたちが視察団が立ち入りそうな場所に予め先回りして歓迎したり、その場に居合わせた一般人たちが歓迎した)、技術も素晴らしい』と日本を高く評価した[1]。
開催国決定は当初、1996年6月1日のFIFA臨時理事会で会長、副会長を含む理事21人の投票によって決定される予定だった。しかし、時期を同じくしてFIFA会長選挙を控え、一貫して日本単独開催を推していたFIFAのアヴェランジェ会長の会長派とヨハンソンUEFA会長を次期FIFA会長にしたい欧州のFIFA理事派の勢力が次期会長職を巡って対立し始める。そして、アヴェランジェ会長の会長続投を阻止しようと反会長派の欧州理事たちは日本と韓国の共同開催(日韓共催)を強く推進したが、南米の会長派はあくまでも日本による単独開催を支持した為にアフリカの理事らの動向が投票を左右することとなった[1]。ただ、こうした状況の中で次第に日韓共催案が現実味を帯び始める事となる。
直前になって欧州理事らが、欧州の各国サッカーリーグに選手を受け入れてもらう立場にあるアフリカ理事の票を押え多数派(FIFA理事全21名中11名)となった[1]。その為、開催国を決定する投票日前日の定例理事会前に行われたパーティー会場でアフリカ理事らとの歓談から敗北を悟ったアヴェランジェ会長は、会長としての権威を保つ為、それまで自身が強硬に反対していた日韓共催(当時の規則ではワールドカップは単独開催のみ)を自ら提案することを決断した。1996年5月30日午後、アヴェランジェ会長はFIFA事務局長のゼップ・ブラッターを通して、ヴィダーホテルで投票を待つ日本招致委員会に対し、非公式に日韓共催案打診の電話をかけさせた。電話を受けたのは語学が堪能な岡野日本招致委員会実行委員長だった。なお、ブラッターの口ぶりは切羽詰まっており、打診というより要請だったという[1]。岡野は電話では不正確として、FIFAの公式文書を求めた。午後3時過ぎ、ブラッターの署名入りのFIFA公式文書がFAXで届いた。その文書には、『既に韓国は1996年5月15日付の文書で日韓共催受け入れをFIFAに回答した。日本の立場をたずねたい』と書かれていた。2時間ほどの協議でも結論は出なかったが、もしも日本が共同開催の受け入れを拒否した場合は「韓国の単独開催」になるのは必至だった。ブラッターへの返答刻限が迫る中、宮澤喜一招致議連会長が「日韓共催は政治にとって悪くない選択だ」と発言した。その発言をきっかけに長沼日本サッカー協会会長はやむを得ず、共同開催案受け入れを決断した。その後、ブラッターから二度目の電話が入り、長沼自身が共催受け入れを伝えた。翌日の5月31日午前7時すぎ、岡野が日本サッカー協会公式の共催受け入れ文書をブラッターに手渡した。そのわずか2時間後の午前9時の定例理事会で、アヴェランジェFIFA会長が日韓両国による共同開催案を提案、満場一致の拍手の賛成決議で定例理事会は幕を閉じた。結局、投票を待たずして日韓共催が決定した。同日、午後4時過ぎ、FIFAと開催国に決定した日本と韓国による共同開催決定の会見が開かれた。独の当時サッカージャーナリスト(現バイエルン・ミュンヘン海外担当)マーティン・ヘーゲレらの警鐘(趨勢を悟ればアベランジェは日本を裏切る等)等の重要な情報を無視し、欧州やアフリカ理事らの動向を掴めず、日本単独開催を支持していたアヴェランジェ会長を最後まで盲信し続けた日本招致委員会の実質的な敗北であった[1]。ちなみに、もしも日本が共同開催の受け入れを拒否した場合は「韓国の単独開催」以外の案としては「開催国決定の延長」、「中国での開催」などといった諸案があった。
結局、日韓共催はアヴェランジェ会長・南米派と反会長・欧州派のFIFA内部の政治的対立の産物であったが、アヴェランジェ会長は程なくしてFIFAの会長職から引退する形で退いた。また、当ワールドカップ組織委員会委員長には、FIFA副会長の鄭夢準大韓サッカー協会会長が就任した(この件に関してマーティン・ヘーゲレは「各国の担当者に高価な物を贈ったり、娼婦を抱かせようとした」「ヘーゲレへ圧力をかけるよう鄭本人がフランツ・ベッケンバウアー(現ドイツサッカー連盟副会長)に依頼したものの、一蹴された」と主張している[2]。
その後、1997年後半に韓国はアジア通貨危機に巻き込まれてデフォルト寸前の不況に陥り、国際通貨基金(IMF)の管理下に入った[3]。IMF経由の日本を中心とした金融支援やIMFによる米国式経済の導入によって大量の失業者を生みながらも経済はV字回復した為に最後まで日本単独開催には至らなかった。しかし、経済回復は対米輸出に頼った状態であった為に2001年のアメリカ同時多発テロ事件で韓国経済がまたも失速し[4]、試合会場となるスタジアム建設が滞る事態となった。そこで、国際協力銀行(旧日本輸出入銀行)がスタジアム建設費として2億ドルの融資を計画したが、韓国政府が断り、中止になった[5]。結局、韓国でのスタジアム建設は続けられて日韓共催はようやく実現した。なお、2001年に韓国のスタジアム建設が滞っていた為に、日本が30億ドルを融資し、スタジアムが完成したとの記述がネットで見られるが、厳密には間違いである。実際は、1998年に、韓国の中小企業の救済やインフラ(電力・ガス)の安定供給を支援するための融資を韓国政府が日本政府に要請し、日本が韓国に30億ドルのアンタイドローン(資金の使途に制限のない融資)を融資したというのが事実である[6]。
なお、鄭夢準大韓サッカー協会会長は、韓国へのワールドカップ誘致と韓国代表ベスト4に導いた業績を背景に2002年大韓民国大統領選挙への立候補を表明している(投票日前日に盧武鉉との取引に応じて立候補取り止め)。
日本国内への影響
日本国内には、1993年(平成5年)にJリーグが開幕した時以上の影響がこの大会の開催によってもたらされた。当時の日本サッカー界は前回大会で史上初めての出場を果たしたものの、この頃のJリーグには平成不況とブームの沈静化の影響が直撃していた。その結果、それらの影響で資金繰りに行き詰るJリーグクラブが急激に増え始め、それまでのずさんな各クラブの経営実態を浮き彫りにする事となってしまった。
ところが、そんな状況を一変させたのが本大会の開催だった。それまでは日本国内でサッカー人気があまり盛り上がらなかったが、本大会の開幕が近づくに連れてマスコミを中心にして次第にサッカー人気が盛り上がっていった。そして、本大会が開幕すると、日本代表が出場しない他国同士の試合でも、強豪国を中心にテレビの視聴率は軒並み30%以上を記録、日本各地で「ワールドカップフィーバー」が巻き起こり、一躍国民的な関心事になった。その一方で、試合以外でも大会期間中には日本人女性の間でイングランド代表のデビッド・ベッカムやトルコ代表のイルハン・マンスズに対して注目が集まって熱狂的なブームが巻き起こり、若い日本人男性の間では大会期間中にベッカムがセットしていたソフトモヒカンの髪型を真似た「ベッカムヘアー」が流行った。また、カメルーン代表の合宿地である大分県日田郡中津江村(現在の日田市中津江村)が、カメルーン代表の本大会前の来日遅刻騒動によって、全国から意外な注目を集めるなどの珍事も起きた。
なお、この影響は大会終了後も約4年間程は続く事となる。日本代表の試合は毎試合ごとに満員の観客席で埋まり、日本代表関連の試合中継も毎試合ごとに高視聴率を記録、試合の前後はメディアが毎回派手に扱った。また、若者を中心に欧州のプロサッカーリーグやフットサルなどへの注目を向けるきっかけも作った。そして、Jリーグでも大会開幕を控えた2001年(平成13年)頃から観客動員数が急激に好転し、その後も徐々に増加を始めた。ただ、本大会の影響はそれだけに留まらず、Jリーグ加盟を目標として標榜するアマチュアのサッカークラブが多数誕生するきっかけも作った。
予選大会
本大会に出場できるのは32か国で、各地域の出場国の出場枠数は、アジア:2.5、アフリカ:5、北中米カリブ海:3、南米:4.5、オセアニア:0.5、ヨーロッパ:13.5であった。これに、予選を免除された前回大会優勝国のフランスと開催国の日本、韓国が加わる(なお、2001年に2006年大会からの前回優勝国枠廃止が決まったため、フランスは最後の前回優勝による予選免除国となった)。
南米予選では過去最多の優勝を誇るブラジルが予選でなかなか本来の力が発揮できずに苦しむものの、終わってみれば過去の優勝国が勢揃いしたように、順当な結果が多かった。ただ、死のグループに入っていたとはいえ、オランダが予選落ちしたのが最大の波乱とされる。大の飛行機嫌いで知られるデニス・ベルカンプが早々に代表から引退した影響がなかったとはいえない。なお、これがオランダ人の映画プロデューサー、ヨハン・クレマーによる世界最弱代表チーム同士の対戦、アザー・ファイナル構想のきっかけとなった。
日本と韓国が抜けたアジア予選では、サウジアラビアと中国が勝ち抜いた。中国代表にとっては初出場で、ユーゴスラビア出身のボラ・ミルティノヴィッチ監督は5大会連続で別の国から本大会に参加する記録を作った。また、イラン代表は2大会連続で大陸間プレーオフに回ったが、アイルランド代表に敗れ、連続出場を逃した。オセアニア予選1位のオーストラリアは南米予選5位のウルグアイとの大陸間プレーオフに敗れた。
本大会前には、ロベルト・バッジョ、ロマーリオらが代表に選ばれなかったことがトピックの一つとされた。
出場国
出場選手は2002 FIFAワールドカップ参加チームを参照。
大陸連盟 | 出場 枠数 |
予選大会 | 組 予選順位 |
出場国・地域 | 出場回数 | 備考 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|
AFC | 2+2.5 | 開催国 | 日本 | 2大会連続2回目 | |||
韓国 | 5大会連続6回目 | ||||||
最終予選 | 1組 | 1位 | サウジアラビア | 3大会連続3回目 | |||
2組 | 1位 | 中国 | 初出場 | ||||
UEFA | 1+13.5 | 前回優勝国 | フランス | 2大会連続11回目 | |||
欧州予選 | 1組 | 1位 | ロシア | 2大会ぶり9回目[7] | |||
2位 | スロベニア | 初出場 | ☆ | ||||
2組 | 1位 | ポルトガル | 4大会ぶり3回目 | ||||
2位 | アイルランド | 2大会ぶり3回目 | ○ | ||||
3組 | 1位 | デンマーク | 2大会連続3回目 | ||||
4組 | 1位 | スウェーデン | 2大会ぶり10回目 | ||||
2位 | トルコ | 12大会ぶり2回目 | ☆ | ||||
5組 | 1位 | ポーランド | 4大会ぶり6回目 | ||||
6組 | 1位 | クロアチア | 2大会連続2回目 | ||||
2位 | ベルギー | 6大会連続11回目 | ☆ | ||||
7組 | 1位 | スペイン | 7大会連続11回目 | ||||
8組 | 1位 | イタリア | 11大会連続15回目 | ||||
9組 | 1位 | イングランド | 2大会連続11回目 | ||||
2位 | ドイツ | 13大会連続15回目[8] | ☆ | ||||
CONMEBOL | 4.5 | 南米予選 | 1位 | アルゼンチン | 8大会連続13回目 | ||
2位 | エクアドル | 初出場 | |||||
3位 | ブラジル | 17大会連続17回目 | |||||
4位 | パラグアイ | 2大会連続6回目 | |||||
5位 | ウルグアイ | 3大会ぶり10回目 | ○ | ||||
CONCACAF | 3 | 最終予選 | 1位 | コスタリカ | 3大会ぶり2回目 | ||
2位 | メキシコ | 3大会連続12回目 | |||||
3位 | アメリカ合衆国 | 4大会連続7回目 | |||||
CAF | 5 | 最終予選 | A組 | 1位 | カメルーン | 4大会連続5回目 | |
B組 | 1位 | ナイジェリア | 3大会連続3回目 | ||||
C組 | 1位 | セネガル | 初出場 | ||||
D組 | 1位 | チュニジア | 2大会連続3回目 | ||||
E組 | 1位 | 南アフリカ共和国 | 2大会連続2回目 | ||||
OFC | 0.5 | 地区予選 | 出場国無し |
- 備考欄の「☆」は欧州予選プレーオフ、「○」は大陸間プレーオフに勝利の上、出場が決定したチーム。
本大会
概要
21世紀に入って初となるFIFAワールドカップは、大会史上初めて日本と韓国の2か国による共同開催となったが、アジアで開催された事も初めてであった。さらに日本は初の本大会未経験国(1996年(平成8年)の時点)での開催地決定であった(翌1997年のフランス大会で初出場を決めている)。
2002年(平成14年)5月31日から6月30日の31日間に、日本と韓国それぞれ10か所、計20都市で64試合を行った。ブラジルが5度目の優勝を遂げた。開催国である日本は決勝トーナメント進出(ベスト16)の成績を残した。
大会の開催期間は通常より約10日から2週間程度早まり、末日ではあるが珍しく5月からの開催となった。これは、欧州や南米とは異なる日韓の気候、つまり梅雨を考慮したためと言われている。大会前は、フーリガンの暴動などを危惧する声が聞かれたが、大きなトラブルはなく終わった。日本では当初寄付金が集まらずに赤字が懸念されたが、円安の影響などで大幅な黒字となった。また高円宮夫妻が韓国を公式訪問し、開会式に出席した。皇族の韓国訪問は第二次世界大戦後初である。
ソウルで行われた開幕戦では、前回優勝国のフランスが初出場のセネガルと対戦。この試合でセネガルが1対0で勝利し、波乱の大会の幕開けとなった。EURO2000、コンフェデ杯2001で優勝して前評判が高く優勝候補筆頭と目されていたフランスは結局、事前の対韓国の親善試合で負傷したジダンの抜けた穴を埋めることができず、アンリ、トレゼゲ、シセと3か国のリーグ得点王を擁しながらグループリーグで1得点もあげられずに敗退した。
開催国の日本は、初戦でベルギーと2対2で引き分け、ワールドカップで初の勝ち点を獲得すると、次戦のロシア戦に1対0で勝ち、ワールドカップ初勝利を挙げる。そして、次のチュニジア戦も2対0で危なげなく勝利し、グループリーグ1位通過で、初の決勝トーナメント(ベスト16)進出も決める。
もう一つの開催国の韓国もまた、ポーランドとポルトガルから勝利をあげ、グループリーグ1位で通過した。フィーゴなどの有力選手をそろえ前評判が高かったポルトガルが第3戦の韓国戦で2名が退場となり敗れたことによりグループリーグで敗退するという波乱があった。
アルゼンチン、ナイジェリア、スウェーデン、イングランドが集まり「死のグループ」と呼ばれたグループFでは、両国の歴史的背景や前回大会の遺恨から「因縁の対決」と言われているアルゼンチン対イングランド戦が日本の札幌会場の札幌ドームで実現して大きく注目された。南米予選を1位で通過して、フランスに継ぐ優勝候補と目されていたアルゼンチンがグループリーグで敗退するという波乱があった。
次回開催が決まっているドイツは、世界一のGKと評されたカーンや新星FWクローゼの活躍に、恵まれた組み合わせにも味方され決勝まで進出した。
決勝トーナメントでは、日本は1回戦でトルコと対戦し0対1で敗れ、初のベスト8進出はならなかった。韓国はイタリア、スペインに勝利し、アジア勢として初の準決勝に進出した。韓国国内がこの快進撃に熱狂する一方、韓国選手のラフプレーに審判が笛を吹かないなどの審判の誤審が問題となった。横浜国際総合競技場で行われた決勝は、地区予選で大苦戦して前評判が決して高いとは言えなかったドイツとブラジルの戦いとなった。優勝回数1位と2位の国同士であるにもかかわらず、ワールドカップでは初対戦となった。この試合を2対0で勝利したブラジルが5度目の優勝に輝いた。大会の得点王はブラジル代表FWのロナウド(8ゴール)。
大会呼称問題
1996年11月、FIFA本部で行われた共催検討委員会で、大会の呼称を慣例に従ったアルファベット順で「2002 FIFA World Cup Japan/Korea」とする提案がなされたが、鄭夢準大韓サッカー協会会長が強硬に反対した。会議は紛糾したが、最終的に国名表示順を「Korea/Japan」とする一方で決勝戦を日本で行うことで決着とした[9]。尚、この際、日本側は日本国内で大会名を呼称する時は日本/韓国で構わないとの確約を得ていたが、検討会が非公開だった為に、FIFAに公的な議事録を残すことを求めなかった[1]。これが後に大きな問題になる。
日本語の表記は、当初「2002 FIFAワールドカップ 日本・韓国」と表記していた。その後、5年ほどは何事もなかったが、2001年1月、日本の教科書の検定問題で韓国の対日感情が悪化し、韓国マスコミに追い込まれる形で、鄭大韓サッカー協会会長は「日本国内であっても大会名を「日本・韓国」と表記するのは正式名称(Korea/Japan)と異なっており、開催合意に背く」として抗議した。その為、2001年(平成13年)3月15日の「FIFAのW杯組織委員会」で大会呼称問題について話し合われることになった。岡野は1996年11月の共催検討会での大会名の決定事項を詳しく説明したが、FIFAのW杯組織委員長であるヨハンソンが「大会名決定から長い時間が経っており、しかもその時の議事録もない。大切なのはW杯の成功。国名を入れない大会名の使用を認めるということでどうだろうか」と提案、日韓双方ともこの案を受け入れた[1]。これ以降、日本国内では、国名部分を省略して「2002 FIFAワールドカップ」との表記で統一されることになった。(注:W杯組織委員会は2種類あり、W杯開催国内の『開催国のワールドカップ組織委員会』とそれとは別にFIFA内に設けられる『FIFAのワールドカップ組織委員会』(FIFA関係者及び外部の有識者で構成)がある[10])。
また、これはあくまでも正式名称の問題であるために、日本では多くの場所で「2002 FIFAワールドカップ 日本・韓国」という表記も見ることができた。大会終了後の現在でも日本国内では「日韓ワールドカップ」などと表記することが多い。
両国の開催都市選定
日本では当初、日本による単独開催を視野に大会開催の準備を進めていたために1993年(平成5年)1月に最初の国内開催都市候補地を選定した。候補の15か所(札幌市、青森県、宮城県、茨城県、埼玉県、千葉県、横浜市、新潟県、静岡県、愛知県、京都府、大阪市、神戸市、広島市、大分県)の中、この時点で開催予定施設が完成していたのは1994年アジア競技大会のために整備されていた広島市の広島広域公園陸上競技場(広島ビッグアーチ)のみ、小幅な改修で対応可能だったのは大阪市の長居スタジアムのみで、あとは各自治体がスタジアムを新設する予定になっていた。
ただ、東京都は立候補を見合わせた。これは、トヨタカップや東京オリンピックの会場として世界的に知名度の高い新宿区の国立霞ヶ丘競技場が観客席への屋根設置(スタジアムの観客席の4分の3が屋根に覆われている事)などの改修条件を満たせなかった上に、2013年(平成25年)に開催予定の「多摩国体」用のメインスタジアムの整備計画もまだ確定していなかったからである(多摩国体用のメインスタジアムは後に東京スタジアムとして整備された)。そのため、もしもこの時点で日本開催が実現した場合、世界有数の人口を抱えながらも1974年(昭和49年)の西ドイツ大会以来となる首都での開催がない大会になる事が確実になっていた。
また、参加チーム32か国・開催数64試合で行われたアメリカ大会では9会場、フランス大会では10会場で、日本開催でも採算面から10-12会場での開催が適当と目されていた。ただし、1996年(平成8年)6月に日韓共催が決定したことは、各立候補地域にとって深刻な問題になった。日本国内での試合数が32試合へと半減されたため、6試合前後と見込まれていた各会場の試合数は3-4試合にとどまる事になった。これにより、日本各地で試合会場となるスタジアム建設に対しての費用対効果や採算面からの疑問が提起された為に建設決定が延期される所も出て来た。その一方で、大分県知事の平松守彦は、2008年(平成20年)開催の大分国体メイン会場を兼ねるとの理由で大分スタジアム(現在の大分スポーツ公園総合競技場)の建設を決断し、自身も自治体の代表としてFIFAワールドカップの日本組織委員会(JAWOC)の副会長に就任するなどの積極的な行動を行った。これにより、大分県での開催は確実という見方もなされた。
1996年(平成8年)12月、JAWOCは国内開催都市として10か所を選定した。まず各スタジアムの開催条件充足を調べたが、広島市が予算を理由にしてバックスタンドへの屋根設置と座席改修を見送る事を事前発表していた広島ビッグアーチは開催不適格と判断され、広島市は開催候補都市から外された。アジア大会開催の経験に加え、国際平和都市として抜群の知名度を持ち、「平和のシンボル」としてFIFAからも開催を熱望されていた広島市の落選は、予想されていたとはいえ、衝撃を与えた。次いで、収容人員6万人を超える巨大スタジアム整備を理由に埼玉県と横浜市が、地域バランスの観点から札幌市・静岡県・大阪市・大分県が選出された。最後に投票によって8つの候補地から4開催地が決定された。ここではスタジアム整備構想が難航していた青森県(青森県営サッカースタジアム)・千葉県(千葉県立スタジアム)・京都府(京都スタジアム)が宮城県・茨城県・神戸市にそれぞれ敗れた。これは多くの事前報道の通りになった。
唯一の波乱とされたのが愛知県に対する新潟県の勝利だった。「トヨタカップ」のスポンサーでもあるトヨタ自動車の本社所在地・豊田市での会場となるスタジアム建設構想が具体化している上に県内には既にJリーグクラブの名古屋グランパスエイトがある愛知県に対し、新潟県は2009年(平成21年)の新潟国体での利用も兼ねた新潟スタジアムの着工こそ近かったものの、県内にはJリーグのクラブや全国で活躍する高校や大学が無く、ようやくアルビレオ新潟(現在のアルビレックス新潟)がJリーグを目指して活動を開始した段階だったため、「サッカー不毛の地」と評価されていた。しかし、新潟県はプレゼンテーションで「日本海側唯一の開催地(札幌市を除く)」としてアピールし、「日本全国が参加するFIFAワールドカップ」という意味を持たせられると主張して、愛知県を破った。この招致成功は、新潟県でアルビレックス新潟を中核として活発な地域スポーツ活動が展開されるようになるまでの重要な第一歩であったが、愛知県にとっては1981年(昭和56年)の名古屋オリンピック招致失敗に続く大規模スポーツイベント開催の挫折となった。豊田市はFIFAワールドカップ前年の2001年(平成13年)に市営の豊田スタジアムを完成させたが、FIFAワールドカップの開催基準を満たす規模を持つスタジアムでありながら、肝心なFIFAワールドカップの試合には使用され無かった為に建設の意義を巡る批判を受けた。
その後、会場ごとの試合の割り振りが焦点になったが、特に埼玉県(埼玉スタジアム2002)と横浜市(横浜国際総合競技場)は決勝戦開催を巡って激しく争った。しかし、結局は1999年(平成11年)8月にスタジアム収容人数と各地からのアクセスに優れている横浜での決勝戦開催が決まった。その一方、埼玉県にはグループリーグの日本戦の初戦と準決勝があてがわれ、埼玉・横浜(第2戦)に続く日本戦の第3戦は地域バランスから大阪市(長居スタジアム)開催となった。
韓国でも日本と同様に国内での開催都市選定作業が進められ、共催という理由もあって日本と同数の10都市がFIFAワールドカップを開催したが、韓国国内の大都市(ソウル特別市と国内6か所の広域市)を網羅し、人口の少ない江原道を除く全国に万遍なく配置されたため、韓国社会で深刻な地域対立の新たな発生は抑えられた。しかし、国民の人口や国家の経済規模が日本の半分ほどしかない韓国が日本と同水準のスタジアム整備を行う事は大きな負担であった。その後、1997年後半に韓国はアジア通貨危機で不況に陥ったが、国際通貨基金(IMF)の管理下で経済を一旦は回復させた。ところが、経済回復は対米輸出に頼った状態であった為に2001年のアメリカ同時多発テロ事件で韓国経済がまたも失速し、スタジアム建設が滞る事態となった。そこで、国際協力銀行(旧日本輸出入銀行)がスタジアム建設費として2億ドルの融資を計画したが、韓国政府が断り、中止になった[5]。その後、韓国のスタジアム建設は再開され、完成にこぎつけた。
大会運営資金
開催地決定後もJAWOCと開催する各自治体との緊張関係は続いた。各自治体はJAWOCに対してそれぞれ2億5000万円の運営資金を負担し、それ以外にも要員派遣やさまざまな補助金を与えていたが、2000年(平成12年)12月には開催経費の増大で財政が圧迫されたJAWOCから各1億円の追加負担を求められ、自治体自身や各議会からの批判が起こった。しかし、JAWOCからは円滑な大会開催に必要という理由を付けられたため、各自治体とも負担に応ぜざるを得なかった。なお、この追加負担分は、大会が予想以上の収益を挙げて終了したことによって各自治体へ返還された。
キャンプ地誘致合戦
本大会を印象づけるもう一つの争いとして、各自治体によるキャンプ地誘致合戦が挙げられる。キャンプ地に名乗りを上げた自治体は、予選の段階での確約を含め70以上に上った。結局、グループステージの日本開催分であるE、F、G、Hの4組に出場する全16ヶ国が日本でキャンプをし、さらにグループリーグの韓国開催分であるA、B、C、Dの4組16ヶ国のうちA組の全4チーム、B組の3チーム、C組の1チームの計8チームが開幕前に日本でキャンプをした。
誘致の成否には戦略の違いが見られ、川崎市がどこの国と決めず誘致活動のみに腐心したため誘致に失敗した一方、伊達政宗の命でローマに派遣された慶長遣欧使節が1615年(元和元年)にローマ教皇に謁見したことから1997年(平成9年)に姉妹県締結をした宮城県とローマ県の交流をもとに、2000年(平成12年)に仙台フィルハーモニー管弦楽団のローマ公演を成功させた仙台市が、イタリア代表に対象を絞って誘致を成功させた。また、徳島県鳴門市は第一次世界大戦時のドイツ兵捕虜への人道的な扱いや地元住民との交流が縁で「バルトの楽園」として映画化もされている程に古くからドイツと親交がありながらも、グラウンドの整備の悪さのためにほぼ誘致が確定していたドイツ代表をみすみす逃がす事態も発生した。岐阜県古川町(現:飛騨市)のように、特定の国(ルーマニア)と出場確定前から確約を結んだために誘致が実現できなかった自治体も多い。
キャンプ期間中は、強豪国を中心に非公開の練習にする代表チームが比較的に多かった中で、デンマーク、エクアドル、セネガル、サウジアラビア、チュニジア、アイルランドの各代表などは交流に積極的であり、非常に好印象を与え、特にデンマーク代表の公開練習に至っては、地元のみならず全国からも多くのサッカーファンが詰めかけたといわれる。その他の国も、小学校や少年サッカースクール、各種福祉施設など小規模な交流は積極的に行われ、国同士の交換留学生なども送られた。
注目を集めたキャンプ地として、スター選手や美男子選手目当ての女性ファンが多く詰め掛けた仙台市(イタリア代表)や兵庫県津名町(イングランド代表)があった一方、大分県中津江村(カメルーン代表)は山奥の小さな村のキャンプ地として早くから注目され、代表の到着遅延によってさらに全国にその名が知れ渡ることとなった。中津江村は2005年3月22日に日田市への編入合併により自治体としては消滅したが、旧中津江村域の地名は「中津江村」を冠したまま存続された。
現在でも、キャンプ地となった自治体とキャンプを行った国との間で親交が深い所が多い。例えば、千葉県千葉市ではアイルランド代表がキャンプを行ったのを機に、有志による「アイルランドサポートクラブ千葉」というアイルランド代表を応援する会を発足。大会終了後もアイルランド代表の応援活動や、「日本代表対アイルランド代表戦の実現」に向けての署名活動を現在でも続けている。また、クロアチア代表のキャンプ地の新潟県十日町市では、2006 FIFAワールドカップが開催された時に日本との対戦が決まったために「どちらを応援するか?」でジレンマが起きたり、「日本を応援しないとはどういうことか」という批判が寄せられるなどした。その他、イタリア代表のキャンプ地となったことを記念して仙台市では仙台カップ国際ユースサッカー大会が始まり、第2種世代のサッカー日本代表にとって重要な大会に育っている。
キャンプ地一覧
キャンプ地 | 代表チーム | グループ |
---|---|---|
宮城県仙台市 | イタリア | G(日本開催) |
福島県楢葉町・広野町(Jヴィレッジ) | アルゼンチン | F(日本開催) |
千葉県千葉市 島根県出雲市 |
アイルランド | E(日本開催) |
東京都調布市 | サウジアラビア | E(日本開催) |
神奈川県平塚市 | ナイジェリア | F(日本開催) |
新潟県十日町市 富山県富山市 |
クロアチア | G(日本開催) |
福井県三国町 | メキシコ | G(日本開催) |
山梨県富士吉田市 大分県中津江村(現:日田市) |
カメルーン | E(日本開催) |
長野県松本市 | パラグアイ | B(韓国開催) |
静岡県御殿場市・裾野市 | ウルグアイ | A(韓国開催) |
静岡県清水市(現:静岡市清水区) | ロシア | H(日本開催) |
静岡県藤枝市 | セネガル | A(韓国開催) |
静岡県磐田市 | 日本 | H(日本開催) |
三重県上野市(現:伊賀市) | 南アフリカ共和国 | B(韓国開催) |
三重県鈴鹿市 | コスタリカ | C(韓国開催) |
兵庫県津名町(現:淡路市) | イングランド | F(日本開催) |
奈良県橿原市・新庄町(現:葛城市)・大和高田市 大分県佐伯市 |
チュニジア | H(日本開催) |
和歌山県和歌山市 | デンマーク | A(韓国開催) |
鳥取県鳥取市 | エクアドル | G(日本開催) |
岡山県美作町(現:美作市) | スロベニア | B(韓国開催) |
熊本県熊本市 | ベルギー | H(日本開催) |
宮崎県宮崎市 | ドイツ | E(日本開催) |
宮崎県宮崎市 | スウェーデン | F(日本開催) |
鹿児島県指宿市 | フランス | A(韓国開催) |
チケット・空席問題
前回大会の反省を活かして、FIFAは「今後、チケットを含めたツアー旅行は、原則認めない」とし、一部を除きチケットは原則単独販売のみとするとした。それに伴いチケット販売をバイロム社へ一元管理を委託し、またバイロム社もチケットを記名式にすることで、闇売買を防ぐ仕組みを導入した。しかし結果的には前回大会同様に日本の組織委員会や観客も問題に頭を悩ませる事となり、バイロム社への責任問題へと発展した。問題の例としては、以下の通り。
- 記名されている、いないに関係なくチケット人気が高騰し、インターネットオークションでは高額な値段で売買される。このため、ヤフーオークションや楽天フリマは「チケットの異常な高額売買やそれに伴う詐欺行為を防止するため、日韓ワールドカップのチケットの出品は禁止」することを表明[11][12]、後日出品されたワールドカップのチケットの出品に対し、該当すると思われる出品に関しては片っ端から削除を行った。
- インターネット上のチケット販売サイトはアクセスが集中、購入できない状態が続いたものの、実際の試合では大量の空席が発生。販売サイトでは、実際にチケットが売り切れているにもかかわらず、ホストコンピューターの異常により画面上で「空席アリ」の表示が出続けていたため、チケットを求める人達のアクセスが減少せず、余計に混乱を招いた。
- チケットが試合直前までに到着しない。
- 日本で開催された試合ではチケットが全試合完売していたにもかかわらず、実際には大量の空席が存在することが明らかになった。そのため開催当初のグループステージの試合では、いざ試合が始まってみると明らかに空席の目立つエリアが存在し、日本代表戦でも大量の空席があることが判明した。このため日本対ベルギー戦では「チケットはどこにあるのか?」と問題に抗議する横断幕まで出る事態となった。(右の画像を参照のこと。)また大量の空席が存在しているという事態に、後日空席部分を調査、試合開始までにチケット販売が間に合うと判断された試合に関しては「最終販売」とし、チケットの予約・販売をチケットぴあに委託した。委託を受けたチケットぴあは、最終販売分を電話予約のみで受付し、会場近くのチケット受取所にて予約済みのチケットを手渡すという方法をとった。尚、チケット販売に関してはテレビを通して告知されたため、日本代表戦はチケットを求める大勢の人達がチケット販売日前日より予約電話番号に電話をし、販売前日の深夜にも拘らず「大変込み合っている」というアナウンスが流れる事態となった。
尚、大会後にはFIFAが日韓両国に対して1億円ずつの慰謝料を支払った。
また、日本国内では全試合完売だったのに対し、韓国国内では大量にチケットの売れ残りが発生、韓国国内で開催される決勝トーナメントですら空席が大量に発生した為に韓国政府が学生を動員して何とか会場の空席を埋めた。特に、西帰浦市で行われた決勝トーナメントの「ドイツ対パラグアイ戦」は韓国組織委員会の動員にもかかわらず、会場の空席が4割に達した。
誤審問題
本大会では多くの誤審が存在した。ブラジル対トルコ戦ではPKと判定されたファールや、イタリア対クロアチア戦でオフサイド判定されたプレーにも疑問が呈された。ブラジル対ベルギー戦ではゴールが直前のファールにより無効とされた[13]。
誤審続出の背景には国際マッチの経験が豊富ではない審判が多く起用されたことがあり、そこにはワールドカップ直前に行われたFIFA会長選が関わっている[14]。この選挙において、ブラッター現会長を支持するスペインのビジャル審判委員長らは中米・アジアの票を取り込むために本大会に出場していないサッカー途上国からも審判を起用する方針を打ち出し、そのため国際経験が不足している審判が数多く起用された[14]。また、ビジャル委員長はスペインサッカー協会会長も兼任しており韓国対スペイン戦(後述)以降、FIFAのみならずスペイン本国でも責任を問う声が強まったため、ビジャルは審判委員長を辞任することになった[14]。
特に注目を集めた韓国対イタリア戦は、エクアドル人のバイロン・モレノが主審を務めたが、試合開始早々、イタリア選手に韓国選手のユニフォームを引っ張って倒したという理由でイエローカードが出され、さらに韓国にPKが与えられた(このPKは得点には至らなかった)。延長13分にはトッティが倒れたプレーがシミュレーションと判定され、2枚目のイエローカードを受けて退場となった。延長20分にはイタリアが決めた得点がオフサイドの判定により取り消され、逆に韓国は安貞恒がゴールデンゴールを決めてベスト8に進出した。この判定に対し、トッティは「審判を変えて最初からワールドカップをやり直すべきだ」と不満[13]をあらわにし、事態沈静化を図ったFIFAのブラッター会長が大会中に異例の声明を出すほどであった[15]。FIFAはイタリア戦での誤審を認定した[要出典]。イタリアサッカー協会のモレノ主審の誤審の調査要請を受け、FIFAは2002年9月13日から調査を開始したが、2003年1月にモレノ主審の誤審は買収などの規約違反によるものではなかったと結論付けて決着とした[16]。その後、FIFAは理由の明示なしにモレノ主審を国際審判リストから除名した[要出典]。モレノ主審はエクアドルリーグでも誤審騒動を起こすなど紆余曲折を経て、今大会の4年後に36歳というサッカー審判員としては若い年齢で審判を引退した。
続く韓国対スペイン戦はエジプト人のガマル・ガンドゥールが主審を務めたが、48分にスペインの得点がファールの判定により取り消され、結局何のファールがあったのかも明らかにされなかった[要出典]。延長2分にはその直前のセンタリングがゴールラインを割っていたとの線審(現副審)の判定でスペインの得点は取り消された[13]。試合はスコアレスのままPK戦となり、韓国が勝利した。このように決勝トーナメントに入ってからの誤審疑惑は韓国戦に集中し、韓国代表の相手国はいずれも上位進出候補の強豪国であったことから、ホスト国の韓国代表チームに対し意図的に有利な判定が行われたと考えられる[誰?]。スペイン戦後、FIFAはこれまでの『異なる大陸から審判を起用する慣例』を変えて、準決勝以降の試合は全て欧州出身の審判で固めた[13]。
この一連の誤審疑惑問題における騒動は、2006年3月24日にFIFAの映像ライセンスを持った会社(なお、FIFAが公認しているわけではなく、ランキング作成には関与していない[17])が創立100周年を記念して発売したDVDビデオ『FIFA FEVER FIFA創立100周年記念DVD』に収録されている「世紀の10大誤審」の6位〜9位(6・7位がイタリア戦、8・9位はスペイン戦)にランクイン(更には同大会におけるブラジル対ベルギー戦が3位)と、半数がこの大会のワールドカップで占められる結果となった。これに関して大韓サッカー協会は猛反発した[18]。2000年代のサッカーの出来事を扱ったスポーツイラストレイテッド誌の記事ではイタリア戦・スペイン戦で誤審疑惑が指摘されていると記された一方で、韓国代表はシンデレラとして扱われている[19]。
会場一覧
日本
韓国
結果
日時はすべて現地時間。日本は日本標準時(JST)、韓国は韓国標準時(KST)(ともにUTC+9)。
組み合わせ抽選
本大会のグループリーグの組み合わせ抽選は、開催国である韓国・釜山コンベンションセンターで、2001年12月1日に行われた。この抽選会の模様は全世界に生中継され、日本でもNHK(地上波とBS)、BSデジタル民放5局、スカイパーフェクTVにて、また民放ラジオもいくつかの局が「民放ラジオ共同制作」として生中継した。
抽選方法は以下の通りである。まず参加国を4つの「ポット」に分ける。
- ホスト国である日本と韓国、前回大会優勝のフランス、過去のW杯本大会直近3大会の成績並びに過去3年のFIFAランキングで算出したシード国としてブラジル、アルゼンチン、イタリア、ドイツ、スペインの5か国、計8か国を「ポット1」
日韓W杯公式シード算出方法は以下の通り([5])。
- 過去3大会の成績は優勝が32ポイント、準優勝が31ポイントと順位に従い減るものとし、グループリーグ敗退は3位で敗退時9ポイント、4位で敗退時8ポイントになる。そして、1990年伊W杯本大会の成績は1倍、1994年米W杯本大会の成績は2倍、1998年仏W杯本大会の成績は3倍として合計ポイントを3で割る。→W杯3大会のポイント(1)
- 過去3年のFIFAランキングが出場国中最も高い国に32ポイント、それに次ぐ国に31ポイントを与え合計を3で割る。計算するFIFAランキングは年平均ではなく、1999年と2000年は12月時点のFIFAランキング、2001年は11月時点のFIFAランキングを使う(抽選会が12月の為)。→FIFAランキング3年間のポイント(2)
(1)+(2)=ワールドカップ(W杯)シードポイント W杯シードポイント上位5カ国と開催国の日本と韓国と前回優勝のフランスが第1シード。
- シード国以外のヨーロッパの残り11か国を「ポット2」
- シード国以外の南米3か国とアジア2か国を「ポット3」
- 北中米・カリブ海とアフリカの8か国を「ポット4」
- A-D組は韓国、E-H組は日本で試合を行う。
- フランスはA組(前回優勝国が開幕戦を行うため)、韓国はD組、日本はH組に決定。
- ポット1の残り5か国を順にドローし、B、C、E-G組に入れる。
- ポット1の国は、抽選で選ばれた組の1番に配置する。
- ポット2-4に選ばれた国は、各ポットからA組→H組の順に1カ国ずつ選ばれた後、選ばれた組の何番に配置されるかが抽選される。この選ばれた番号により、試合日等が決定される。
- ポット2のうち8か国を順にドローし、A-H組に入れる。
- ポット2の残り3か国を順にドローし、ポット1のヨーロッパ以外の国(日本、韓国、ブラジル、アルゼンチン)のいる組に入れる。
(今回はD組(韓国)、F組(アルゼンチン)、H組(日本)に入った) - ポット3の5か国を順にドローし、ポット2の残り3か国が入らなかった組に入れる。
- 尚、アジア大陸は出場国が合計4か国のため、韓国で開催されるA-D組と日本で開催されるE-H組に、それぞれ2か国ずつ均一に振り分けるようにする。そのため、予め中国は韓国側(A-C組)、サウジアラビアは日本側(E-G組)に振り分けるように抽選を行なう。
またシード国にアジア大陸及び南米大陸の国があるため、ポット2の残り3か国の抽選で選ばれなかった国がアジア大陸の国の組であれば、南米大陸の3か国の中で最初に選ばれた国は、ポット2の残り3か国の抽選で選ばれなかったアジア大陸の国の組へ、またポット2の残り3か国の抽選で選ばれなかった国が南米大陸の国の組であれば、その国の組がA-C組であれば中国がその国の組へ、E-G組であればサウジアラビアがその国の組へ、先に配置される。
(今回はポット3の抽選で最初に中国が選ばれた。中国の配置されるA組-C組の中で、ポット2の残り3か国の抽選で選ばれなかった国はブラジルのいるC組であったため、中国は先にC組に配置された。また3番目に選ばれたサウジアラビアは日本側で試合を行うため、日本側で3か国目が決まっていなかったE組とG組のうち、E→G組の順番によりE組に配置された)
- 尚、アジア大陸は出場国が合計4か国のため、韓国で開催されるA-D組と日本で開催されるE-H組に、それぞれ2か国ずつ均一に振り分けるようにする。そのため、予め中国は韓国側(A-C組)、サウジアラビアは日本側(E-G組)に振り分けるように抽選を行なう。
- ポット4の8か国を順にドローし、各組に入れる。
この結果、A組とF組に強豪が集中し、死の組と呼ばれた。
グループリーグ
グループ A
順 位 |
チーム | 勝 点 |
試 合 |
勝 利 |
引 分 |
敗 戦 |
得 点 |
失 点 |
点 差 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | デンマーク | 7 | 3 | 2 | 1 | 0 | 5 | 2 | +3 |
2 | セネガル | 5 | 3 | 1 | 2 | 0 | 5 | 4 | +1 |
3 | ウルグアイ | 2 | 3 | 0 | 2 | 1 | 4 | 5 | -1 |
4 | フランス | 1 | 3 | 0 | 1 | 2 | 0 | 3 | -3 |
グループ B
順 位 |
チーム | 勝 点 |
試 合 |
勝 利 |
引 分 |
敗 戦 |
得 点 |
失 点 |
点 差 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | スペイン | 9 | 3 | 3 | 0 | 0 | 9 | 4 | +5 |
2 | パラグアイ | 4 | 3 | 1 | 1 | 1 | 6 | 6 | 0 |
3 | 南アフリカ共和国 | 4 | 3 | 1 | 1 | 1 | 5 | 5 | 0 |
4 | スロベニア | 0 | 3 | 0 | 0 | 3 | 2 | 7 | -5 |
グループ C
順 位 |
チーム | 勝 点 |
試 合 |
勝 利 |
引 分 |
敗 戦 |
得 点 |
失 点 |
点 差 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | ブラジル | 9 | 3 | 3 | 0 | 0 | 11 | 3 | +8 |
2 | トルコ | 4 | 3 | 1 | 1 | 1 | 5 | 3 | +2 |
3 | コスタリカ | 4 | 3 | 1 | 1 | 1 | 5 | 6 | -1 |
4 | 中国 | 0 | 3 | 0 | 0 | 3 | 0 | 9 | -9 |
グループ D
順 位 |
チーム | 勝 点 |
試 合 |
勝 利 |
引 分 |
敗 戦 |
得 点 |
失 点 |
点 差 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | 韓国 | 7 | 3 | 2 | 1 | 0 | 4 | 1 | +3 |
2 | アメリカ合衆国 | 4 | 3 | 1 | 1 | 1 | 5 | 6 | -1 |
3 | ポルトガル | 3 | 3 | 1 | 0 | 2 | 6 | 4 | +2 |
4 | ポーランド | 3 | 3 | 1 | 0 | 2 | 3 | 7 | -4 |
グループ E
順 位 |
チーム | 勝 点 |
試 合 |
勝 利 |
引 分 |
敗 戦 |
得 点 |
失 点 |
点 差 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | ドイツ | 7 | 3 | 2 | 1 | 0 | 11 | 1 | +10 |
2 | アイルランド | 5 | 3 | 1 | 2 | 0 | 5 | 2 | +3 |
3 | カメルーン | 4 | 3 | 1 | 1 | 1 | 2 | 3 | -1 |
4 | サウジアラビア | 0 | 3 | 0 | 0 | 3 | 0 | 12 | -12 |
グループ F
順 位 |
チーム | 勝 点 |
試 合 |
勝 利 |
引 分 |
敗 戦 |
得 点 |
失 点 |
点 差 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | スウェーデン | 5 | 3 | 1 | 2 | 0 | 4 | 3 | +1 |
2 | イングランド | 5 | 3 | 1 | 2 | 0 | 2 | 1 | +1 |
3 | アルゼンチン | 4 | 3 | 1 | 1 | 1 | 2 | 2 | 0 |
4 | ナイジェリア | 1 | 3 | 0 | 1 | 2 | 1 | 3 | -2 |
グループ G
順 位 |
チーム | 勝 点 |
試 合 |
勝 利 |
引 分 |
敗 戦 |
得 点 |
失 点 |
点 差 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | メキシコ | 7 | 3 | 2 | 1 | 0 | 4 | 2 | +2 |
2 | イタリア | 4 | 3 | 1 | 1 | 1 | 4 | 3 | +1 |
3 | クロアチア | 3 | 3 | 1 | 0 | 2 | 2 | 3 | -1 |
4 | エクアドル | 3 | 3 | 1 | 0 | 2 | 2 | 4 | -2 |
グループ H
順 位 |
チーム | 勝 点 |
試 合 |
勝 利 |
引 分 |
敗 戦 |
得 点 |
失 点 |
点 差 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | 日本 | 7 | 3 | 2 | 1 | 0 | 5 | 2 | +3 |
2 | ベルギー | 5 | 3 | 1 | 2 | 0 | 6 | 5 | +1 |
3 | ロシア | 3 | 3 | 1 | 0 | 2 | 4 | 4 | 0 |
4 | チュニジア | 1 | 3 | 0 | 1 | 2 | 1 | 5 | -4 |
決勝トーナメント
ラウンド16 | 準々決勝 | 準決勝 | 決勝 | |||||||||||
6月15日 - 新潟 | ||||||||||||||
デンマーク | 0 | |||||||||||||
6月21日 - 静岡 | ||||||||||||||
イングランド | 3 | |||||||||||||
イングランド | 1 | |||||||||||||
6月17日 - 神戸 | ||||||||||||||
ブラジル | 2 | |||||||||||||
ブラジル | 2 | |||||||||||||
6月26日 - 埼玉 | ||||||||||||||
ベルギー | 0 | |||||||||||||
ブラジル | 1 | |||||||||||||
6月16日 - 大分 | ||||||||||||||
トルコ | 0 | |||||||||||||
スウェーデン | 1 | |||||||||||||
6月22日 - 大阪 | ||||||||||||||
セネガル (GG) | 2 | |||||||||||||
セネガル | 0 | |||||||||||||
6月18日 - 宮城 | ||||||||||||||
トルコ (GG) | 1 | |||||||||||||
日本 | 0 | |||||||||||||
6月30日 - 横浜 | ||||||||||||||
トルコ | 1 | |||||||||||||
ブラジル | 2 | |||||||||||||
6月16日 - スウォン | ||||||||||||||
ドイツ | 0 | |||||||||||||
スペイン (PK) | 1 (3) | |||||||||||||
6月22日 - クァンジュ | ||||||||||||||
アイルランド | 1 (2) | |||||||||||||
スペイン | 0 (3) | |||||||||||||
6月18日 - テジョン | ||||||||||||||
韓国 (PK) | 0 (5) | |||||||||||||
韓国 (GG) | 2 | |||||||||||||
6月25日 - ソウル | ||||||||||||||
イタリア | 1 | |||||||||||||
韓国 | 0 | |||||||||||||
6月15日 - ソギポ | ||||||||||||||
ドイツ | 1 | 3位決定戦 | ||||||||||||
ドイツ | 1 | |||||||||||||
6月21日 - ウルサン | 6月29日 - テグ | |||||||||||||
パラグアイ | 0 | |||||||||||||
ドイツ | 1 | トルコ | 3 | |||||||||||
6月17日 - チョンジュ | ||||||||||||||
アメリカ合衆国 | 0 | 韓国 | 2 | |||||||||||
メキシコ | 0 | |||||||||||||
アメリカ合衆国 | 2 | |||||||||||||
1回戦
スペイン | 1 - 1 (延長) |
アイルランド |
---|---|---|
モリエンテス 8分 | レポート | ロビー・キーン 90分 (PK) |
PK戦 | ||
イエロ バラハ フアンフラン バレロン メンディエタ |
3 - 2 | ロビー・キーン ホランド コノリー キルベイン フィナン |
準々決勝
準決勝
3位決定戦
決勝
優勝国
2002 FIFAワールドカップ優勝国 |
---|
ブラジル 2大会ぶり5回目 |
得点ランキング
順位 | 選手名 | 国籍 | 得点数 |
---|---|---|---|
1 | ロナウド | ブラジル | 8 |
2 | ミロスラフ・クローゼ | ドイツ | 5 |
リバウド | ブラジル | ||
4 | クリスティアン・ヴィエリ | イタリア | 4 |
ヨン・ダール・トマソン | デンマーク | ||
6 | ミヒャエル・バラック | ドイツ | 3 |
パパ・ブバ・ディオプ | セネガル | ||
ペドロ・パウレタ | ポルトガル | ||
ヘンリク・ラーション | スウェーデン | ||
マルク・ヴィルモッツ | ベルギー | ||
ラウル・ゴンサレス | スペイン | ||
イルハン・マンスズ | トルコ | ||
ロビー・キーン | アイルランド | ||
フェルナンド・モリエンテス | スペイン |
表彰
個人賞
賞 | 選手名 | 国籍 | 備考 |
---|---|---|---|
ゴールデンボール(大会MVP) | オリバー・カーン | ドイツ | 準優勝 |
シルバーボール | ロナウド | ブラジル | 優勝 |
ブロンズボール | 洪明甫 | 韓国 | 4位 |
ゴールデンシューズ(得点王) | ロナウド | ブラジル | 8得点 |
ヤシン賞(最優秀GK) | オリバー・カーン | ドイツ | 3失点 |
ベストイレブン
ポジション | 選手名 | 国籍 |
---|---|---|
GK | オリバー・カーン | ドイツ |
DF | ソル・キャンベル | イングランド |
ロベルト・カルロス | ブラジル | |
カルレス・プジョル | スペイン | |
リオ・ファーディナンド | イングランド | |
MF | フランチェスコ・トッティ | イタリア |
ロナウジーニョ | ブラジル | |
リバウド | ブラジル | |
ジウベルト・シウバ | ブラジル | |
ミヒャエル・バラック | ドイツ | |
FW | ロナウド | ブラジル |
FIFA ワールドカップ オフィシャル・コンサート
2002 FIFA ワールドカップの開催を記念し、ワールドカップ開催史上初めてFIFAの公式イベントとして、『2002 FIFA WORLD CUP KOREA/JAPAN OFFICIAL CONCERT』と題し、コンサートが開催された。場所は両日共に、東京スタジアムにて開催された。
- 6月27日 「INTERNATIONAL DAY」
- 6月28日 「KOREA/JAPAN DAY」
記念発行物
2002 FIFA ワールドカップ公式アルバムや、大会マスコットなどをあしらった公式記念品が多数販売された。また、日本においてはアディダス製の公式ユニフォームが記録的な売り上げを記録した。
なお、日本においては下記の物が発行された。
- 記念切手
- 80円切手2種類。試合日程などが記されたシート(切手5枚ずつ10枚が付属)は各会場版10種、全国版、準決勝版、決勝版各1種の13種類。
大会協賛
オフィシャルパートナー
2002 FIFAワールドカップオフィシャルパートナー
- アディダス(ドイツ:スポーツ用品メーカー)
- アンハイザー・ブッシュ(米国:バドワイザー製造元のビール会社)
- アバイア(米国:IP電話)
- ザ コカ・コーラ カンパニー(米国:飲料メーカー)
- 東芝(日本:電機メーカー)
- ジレット(米国:剃刀メーカー)
- 日本電信電話(日本:通信業)
- 日本ビクター(日本:電機メーカー)[22]
- 富士フイルム(日本:写真メーカー)
- 現代自動車(韓国:自動車メーカー)[23]
- マスターカード(米国:クレジットカード会社)
- マクドナルド(米国:ファストフード飲食店)
- フィリップス(オランダ:電機メーカー)
- Yahoo!(米国:インターネット検索エンジン)
オフィシャルサプライヤー
- 日本
- 韓国
その他
- アンセム - 2002 FIFA World Cup公式アンセム=今大会に限り、通常のFIFA Anthemではなくヴァンゲリスの楽曲が公式Anthemとして使用された。また、この楽曲の公式リミックス版も石野卓球から発表された。Fifa World Cup 2002 Anthem - Takkyu Ishino Mix
- 公式テーマソングはアナスタシアの『Boom』
- マスコットキャラクターは「スフェリックス」。
- 決勝戦の6時間前、ブータンにおいてFIFAランキング最下位決定戦「アザー・ファイナル(もうひとつの決勝戦)」が行われた。
脚注
- ^ a b c d e f g h 『中田英寿・洪明甫 TOGETHER 2002ワールドカップBook』, 講談社, (2001年), ISBN 4-06-179351-9
- ^ ワールドサッカーダイジェスト 2005年8月号
- ^ [1](PDF)
- ^ [2](PDF)
- ^ a b 韓国、2億ドル融資を断る 読売新聞2001年2月6日付
- ^ 国際協力銀行 国別案件紹介(アジア) 韓国の対日輸入決済を支援
- ^ ソビエト連邦時代を含む。
- ^ 西ドイツ時代を含む。
- ^ http://www.bunkyo.ac.jp/faculty/lib/slib/kiyo/Inf/if36/if3607.pdf 日本の全国紙における国名表記順序についての一分析『朝日新聞』による「韓日」表記(2001〜2005)を中心に(後編)(pdf) - 文教大学
- ^ ブラジル大会へテコ入れ W杯組織委にFIFA理事会が全面参加-スポニチ2012年3月29日
- ^ [3] ヤフー、W杯チケットのオークション出品を禁止 日本経済新聞 2002年5月17日付
- ^ [4] やっぱり出品されたW杯チケット 日本戦チケットにもユーザーは予想外の静観!? ITメディア 2002年6月号付
- ^ a b c d 生島淳 (2004年), 『世紀の誤審 - オリンピックからW杯まで』, 光文社, ISBN 4334032591
- ^ a b c 『太田修著「マンガ嫌韓流」のここがデタラメ』コモンズ、2006年 P13-14
- ^ 当時、FIFAが誤審を認めることは異例であった[要出典]。2002年大会以前も誤審はあったが、今大会前後から放送用カメラの性能と台数が向上し、ピッチ全体を細かく「監視」できる状況になったため、2002年大会以後からは毎回誤審騒動が繰り返されている
“Blatter condemns officials”. BBC News. (2002年6月20日) 2010年4月28日閲覧。 - ^ モレノ審判が現場復帰 エクアドル各紙報道
- ^ 太田(2006)、P12
- ^ 文藝春秋 Number Web2004年12月2日付『日韓W杯の誤審疑惑をFIFAが公式認定?』より。
- ^ Wahl, Grant. “Soccer: Highlights and lowlights”. SI.com. 2010年10月20日閲覧。
- ^ 2003年(平成15年)4月1日に政令指定都市に移行し、現在は埼玉県さいたま市緑区
- ^ 2007年(平成19年)4月1日に政令指定都市に移行し、現在は新潟県新潟市中央区。
- ^ 日本代表戦では「Victor/JVC」表記の広告を使用し、それ以外の全ての試合では「JVC」表記の広告を使用した。この措置は1998年大会でも同様。
- ^ 韓国でのゲームでは選手送迎バスにヒュンダイ製をオフィシャルとして使用していたが、日本ではヒュンダイ製バスはほとんど存在していなかったので、当時業務提携していた三菱自動車(現三菱ふそうトラック・バス)のバスを使用していた
関連項目
外部リンク
- 2002 FIFA World Cup Korea/Japan - FIFA.com
- RSSSFによる記録