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*外務省時代の吉田の行動を見てみると、[[田中義一内閣]]で[[森恪]](政務次官)とともに外務次官を務めてその外交政策を支えるなど、その立場は「英米協調派」ではなく、[[有田八郎]]らと同じ「アジア派」に属すると言われている。だが、イギリスの[[ネヴィル・チェンバレン]]とは個人的に親しく、政治思想的には[[ナチス・ドイツ]]との接近には常に警戒していたため、岳父である[[牧野伸顕]]との関係とともに枢軸派からは「親英米派」と看做された。[[二・二六事件]]後の[[広田内閣]]の組閣では[[外務大臣]]・[[内閣書記官長]]の候補に挙がったが[[陸軍]]の反対で叶わなかった。駐英大使として日英の和平を目指すが、情勢の悪化はいかんともしがたかった。また、[[日独伊三国同盟]]には強硬に反対していた。 |
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*帰国後は対米強硬策をとる[[近衛文麿]]内閣に突然書簡で総辞職を要求した。[[東条英機]]内閣が成立すると[[東郷茂徳]]外相に対し、[[幣原喜重郎]]と協議して決めた和平案を提出するが、和平がならないとみると東郷に閣内不一致で総辞職に持ち込むよう要求したが東郷はきかなかった。 |
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*[[1964年]]、[[日中貿易覚書]]にともなう[[中国共産党|中共]]との関係促進や[[周鴻慶事件]]の処理に態度を硬化させた[[中華民国|台湾]]を池田勇人首相の特使として訪問、[[蒋介石]]と会談した。同年、生前叙勲制度の復活により、[[大勲位菊花大綬章]]を受章。また、この年、マッカーサー元帥の葬儀に参列するため渡米。 |
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*臨終[[洗礼]]を受けて正式に[[カトリック]]信徒になる。若い頃からカトリック思想に影響されていたにもかかわらず洗礼を受けなかったのは「極右による暗殺を避けるため」との義父[[牧野伸顕]]のアドバイスによるものという。 |
*臨終[[洗礼]]を受けて正式に[[カトリック]]信徒になる。若い頃からカトリック思想に影響されていたにもかかわらず洗礼を受けなかったのは「極右による暗殺を避けるため」との義父[[牧野伸顕]]のアドバイスによるものという。 |
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*1967年(昭和42年)10月20日正午頃、死去 |
*1967年(昭和42年)10月20日正午頃、死去。同日、[[従一位]][[大勲位菊花章頸飾]]を授かる。 |
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*葬儀は本人の信仰に基づき[[東京カテドラル聖マリア大聖堂]](東京教区の司教座聖堂)で行われた。 |
*葬儀は本人の信仰に基づき[[東京カテドラル聖マリア大聖堂]](東京教区の司教座聖堂)で行われた。 |
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*[[次官]]経験者では、[[大蔵省|大蔵次官]]の池田勇人、[[運輸省|運輸次官]]の佐藤栄作、[[外務省|外務次官]]の[[岡崎勝男]]、[[労働省|労働次官]]の[[吉武恵市]]、[[農林省|農林次官]]の[[坂田英一]]がいる。 |
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その他、出身省庁別に挙げると、 |
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*[[内務省]]出身、関係者では、[[西村直己]]、[[藤枝泉介]]、[[田中啓一]]、[[大橋武夫]]、[[塚原俊郎]]、[[中村純一]]。[[埼玉県]]副知事だった[[福永健司]]はこの範疇にも含まれる。 |
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以上の官僚出身者が挙げられる。 |
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*首相になったのは、半ば騙された形での総裁就任からであった。[[公職追放]]で[[自由党 (日本)#日本自由党 (1945-1948)|日本自由党]]の人材は枯れ、戦後政治を左翼に渡すわけにはいかないという危機感もあり、仕方なく吉田に白羽の矢を立てた。目論見が判明した瞬間は、党から首相就任を告げられた際である。当然吉田家は大混乱に陥った。 |
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*吉田家の主治医をしていた[[武見太郎]]が党に猛抗議すると共に、吉田に対して「あなたには首相は無理だ、あなたは政治家ではなく外交官だ」と説得し、辞退するよう迫った。娘・和子も、父親のかんしゃく持ちを心配していた。 |
*吉田家の主治医をしていた[[武見太郎]]が党に猛抗議すると共に、吉田に対して「あなたには首相は無理だ、あなたは政治家ではなく外交官だ」と説得し、辞退するよう迫った。娘・和子も、父親のかんしゃく持ちを心配していた。このとき、'''「戦争に負けて、外交に勝った歴史はある」'''と語ったと伝えられる。 |
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=== 孤独なるサイン === |
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2007年5月23日 (水) 22:45時点における版
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生年月日 |
吉田 茂(よしだ しげる、1878年(明治11年)9月22日 ‐ 1967年(昭和42年)10月20日)は、日本の外交官・政治家。
内閣総理大臣(45・48・49・50・51代)。外務大臣。衆議院議員(7期)。貴族院議員(1期)。従一位大勲位。
概要
生い立ち
- 1878年(明治11年)9月22日、 竹内綱(現・高知県宿毛市出身の自由民権運動家)の5男として東京府神田区(現・東京都千代田区)に生まれた。
- 1881年(明治14年)8月、旧福井藩士で横浜の貿易商・吉田健三の養子となる。
- 数年後に、養父 健三が若くして他界し、まだ少年だった茂に莫大な遺産が相続された。
- 1906年(明治39年)7月、学習院を経て東京帝国大学法科大学政治科卒業。9月、外交官及び領事官試験合格。
外務官僚時代
- 1906年(明治39年)11月、外務省に入省。領事官補として天津で勤務。
- 1907年(明治40年)、奉天領事館勤務。
- 1909年(明治42年)、牧野伸顕の長女雪子と結婚後ロンドンに勤務。
- 1912年(大正元年)、安東領事を命じられる。
- 1918年(大正7年)、済南領事を命じられる。同年、岳父である全権牧野伸顕に随行、パリ講和会議へ。
- 1922年(大正11年)、天津総領事を命ぜられる。
- 1923年(大正12年)、奉天総領事を命ぜられる。
- 1928年(昭和3年)、田中義一内閣の下、外務次官に任ぜられる。
- 1928年(昭和5年)、駐イタリア特命全権大使
- 1932年(昭和3年)、待命
- 1935年(昭和10年)、待命期間満了。退官。
- 1936年(昭和11年)、駐在イギリス特命全権大使
- 1939年(昭和14年)、依願免本官
- 外務省時代の吉田の行動を見てみると、田中義一内閣で森恪(政務次官)とともに外務次官を務めてその外交政策を支えるなど、その立場は「英米協調派」ではなく、有田八郎らと同じ「アジア派」に属すると言われている。だが、イギリスのネヴィル・チェンバレンとは個人的に親しく、政治思想的にはナチス・ドイツとの接近には常に警戒していたため、岳父である牧野伸顕との関係とともに枢軸派からは「親英米派」と看做された。二・二六事件後の広田内閣の組閣では外務大臣・内閣書記官長の候補に挙がったが陸軍の反対で叶わなかった。駐英大使として日英の和平を目指すが、情勢の悪化はいかんともしがたかった。また、日独伊三国同盟には強硬に反対していた。
- 太平洋戦争中は牧野伸顕、元首相近衛文麿ら重臣グループの連絡役として和平工作に従事(ヨハンセングループ)。
- ミッドウェー大敗を和平の好機とみて近衛とともにスイスに赴いて和平へ導く計画を立てるが、成功しなかった。その後、殖田俊吉を近衛文麿に引き合わせ後の近衛上奏文につながる終戦策を検討。しかし書生として吉田邸に潜入したスパイによって1945年2月の近衛上奏に協力したことが露見し憲兵隊に拘束される。40日後に仮釈放、後に不起訴とされた。
第二次世界大戦後
- 重光葵の後をうけて東久邇宮稔彦王内閣の外務大臣となり、つづく幣原喜重郎内閣においても外相を務めた。外相在任中の1945年12月には、貴族院議員に任命された。公職追放となった鳩山一郎の要請で急遽日本自由党の総裁となった。
- 1946年5月、首相に就任し第1次吉田内閣を組織した。選挙を経ていない、非衆議院議員(貴族院議員なので国会議員ではあった)では最後の首相である。
- 1947年5月、日本国憲法の公布に伴う第23回総選挙では、日本国憲法第67条第1項において国会議員であることが首相の要件とされ、また貴族院が廃止されたため、竹内綱の選挙区であった高知全県区から立候補した。自身はトップ当選したが、与党の日本自由党は日本社会党に第一党を奪われた。社会党の西尾末広は、第一党として与党に参加するが、社会党からは首相を出さず、吉田続投を企図していた。しかし、吉田は首相は第一党から出すべきという「憲政の常道」を強調し、また社会党左派の「容共」を嫌い下野した。こうして初の社会党政権である片山哲内閣が成立したが、長続きせず、続く芦田均内閣も1948年、昭電疑獄により瓦解した。これを受けて吉田は第2次内閣を組織し、直後の総選挙で大勝し第3次内閣を発足させた。
- 朝鮮戦争の勃発により内外で高まった講和促進機運により、1951年9月8日、サンフランシスコ平和条約を締結、同日日米安全保障条約を結んだ。以後、公職追放解除後の鳩山一郎グループとの抗争やバカヤロー解散、造船疑獄などあった。
- 1954年12月7日に内閣総理大臣と自由党総裁を辞任した。日本で5回にわたって内閣総理大臣に任命されたのは吉田茂ただ1人である。これに次ぐのが伊藤博文で4回組閣の大命を受けている。また日本国憲法下において、下野した総理大臣が再任したのも吉田ただ1人である。
首相辞任後
- 1955年の自由民主党結成には当初参加せず、佐藤栄作らとともに無所属となるが、池田勇人の仲介でのちに入党する。
- 1962年皇學館大學総長就任。
- 1963年10月14日、次期総選挙への不出馬を表明し政界を引退。引退後も大磯の自邸には政治家が出入りし、政界の実力者として影響を及ぼした。
- 1964年、日中貿易覚書にともなう中共との関係促進や周鴻慶事件の処理に態度を硬化させた台湾を池田勇人首相の特使として訪問、蒋介石と会談した。同年、生前叙勲制度の復活により、大勲位菊花大綬章を受章。また、この年、マッカーサー元帥の葬儀に参列するため渡米。
- 臨終洗礼を受けて正式にカトリック信徒になる。若い頃からカトリック思想に影響されていたにもかかわらず洗礼を受けなかったのは「極右による暗殺を避けるため」との義父牧野伸顕のアドバイスによるものという。
- 1967年(昭和42年)10月20日正午頃、死去。同日、従一位大勲位菊花章頸飾を授かる。
- 葬儀は本人の信仰に基づき東京カテドラル聖マリア大聖堂(東京教区の司教座聖堂)で行われた。
- 1967年10月31日、第二次世界大戦後初の国葬が日本武道館で行われた。
- 墓所は港区の青山霊園。
吉田学校・ワンマン体制
自由党入党・総裁就任後の吉田は、元来が外交官出身であり、国会議員には、戦前、戦時中、軍部に屈したとして不信感を抱いていた。さらに党人派の国会議員の政策立案能力にも疑問を持っていたため、多くの官僚出身者を国会議員に引き立て子飼いの勢力を拡張することに腐心した。吉田は昭和24年(1949年)の第24回総選挙の勝利と第3次吉田内閣の組閣を通して、自由党(民主自由党)内を完全に掌握した。こうして「吉田ワンマン体制」が確立した。吉田ワンマン体制の中で側近として大きな位置を占めるのが閨閥に連なる人々と上記官僚出身者を中心とする国会議員たち、すなわち「吉田学校」と呼ばれた集団である。
吉田の閨閥に連なる側近としては、三女の和子とその夫君で九州財界の重鎮であった麻生太賀吉を中心とする人々が挙げられる(一族を参照のこと)。麻生は、吉田の政治資金を担当しており、党内の議員が入れ替わり立ち代り、麻生夫妻に接近し、猟官運動を展開していた。この麻生夫妻の媒酌人であった縁で白洲次郎がこのグループに含まれる。白州は終戦連絡中央事務局参与としてGHQとの交渉に大きな役割を果たしたほか、貿易庁長官などを務めた。このほか、麻生夫妻を通じて、福永健司、保利茂、小坂善太郎、坪川信三らが吉田側近となった。
官僚出身者では、池田勇人、佐藤栄作などがその代表的人物とされる。ちなみに第一号とされるのが、第2次吉田内閣で北海道長官から運輸大臣に抜擢した増田甲子七とみなされる。増田は、以後、吉田内閣で労働大臣、内閣官房長官、建設大臣、自由党幹事長を歴任した。この増田に次いで官僚派が大量当選したのが昭和24年(1949年)の第24回総選挙である。このうち、
その他、出身省庁別に挙げると、
- 外務省出身者では、福田篤泰。
- 大蔵省出身者では、前尾繁三郎、橋本龍伍。
- 農林省出身者では、遠藤三郎。
- 商工省出身者では、小金義照。
- 文部省出身者では、福井勇。
- 運輸省出身者では、西村英一。
- 内務省出身、関係者では、西村直己、藤枝泉介、田中啓一、大橋武夫、塚原俊郎、中村純一。埼玉県副知事だった福永健司はこの範疇にも含まれる。
- 司法関係からは、瀬戸山三男、。
以上の官僚出身者が挙げられる。
このほか、財界から、岡野清豪、小山長規、小川平次、小峰柳多、鹿野彦吉。学者からは青木孝義(日本大学経済学部長)。マスコミ出身者から橋本登美三郎、青木正、佐々木盛雄、本間俊一、篠田弘作、天野公義がいる。
また、第24回総選挙で再選を果たした国会議員2年生以上の人々では、田中角栄、根本龍太郎、鈴木善幸、二階堂進、江崎真澄、塚田十一郎、坂田道太、牧野寛索、守島伍郎(外務省出身でもある)、亘四郎、平井義一、松野頼三が吉田派に加わった。また、正式な吉田派ではないが小沢佐重喜などは重用されている。
吉田は、以上の議員たちを藩屏としたほか、私的な政治顧問として松野鶴平、自由党三酒仙と言われた林譲治、益谷秀次、大野伴睦ら古参の党人派を政権の抑え役として重用した。これに加えて、党内に一大勢力を誇る広川弘禅をも一時期翼下に置き、吉田学校、ワンマン体制を構築した。
こうして吉田が登用した人材は全部が全部成功したわけではないが、戦後、保守政治の中で中核を担うこととなり、後の保守本流を形成する。また、吉田の人物に対する鑑定眼が高い評価を受ける所以ともなった。
人格・言動
『戦後』の始まり
- 首相になったのは、半ば騙された形での総裁就任からであった。公職追放で日本自由党の人材は枯れ、戦後政治を左翼に渡すわけにはいかないという危機感もあり、仕方なく吉田に白羽の矢を立てた。目論見が判明した瞬間は、党から首相就任を告げられた際である。当然吉田家は大混乱に陥った。
- 吉田家の主治医をしていた武見太郎が党に猛抗議すると共に、吉田に対して「あなたには首相は無理だ、あなたは政治家ではなく外交官だ」と説得し、辞退するよう迫った。娘・和子も、父親のかんしゃく持ちを心配していた。このとき、「戦争に負けて、外交に勝った歴史はある」と語ったと伝えられる。
孤独なるサイン
- 日本はサンフランシスコ講和会議に吉田を団長とする派遣団を結成したが、その中には側近池田勇人もいた。彼もまた、日米協調派だった。出発前から全面講和派や平和主義者に総攻撃され、さすがの吉田も疲弊していた。
- 講和条約調印後、吉田は池田を呼びつけ、「君はついてくるな」と命じた。講和条約はともかく、次の条約に君は立ち会うことは許さん、というのである。吉田の一番弟子を自任し、吉田と同じく全権委員でもある池田は憤慨し、半ば体当たりで吉田のタクシーに体を割り込ませて乗車。向かった先はゴールデンゲートブリッジ、プレサリオ将校クラブの一室。ここで、マスコミもテレビカメラも傍聴も無く日米安全保障条約調印が行われるのだったが、吉田はそこでも池田らを部屋から追い出し、ついに一人でサインした。彼らを日米安保否定派の攻撃から守るためだった。
マッカーサーとの関係
- 連合国総司令官マッカーサーと初対面した時、葉巻きタバコをすすめられたが「それはマニラでしょう?私はハバナしか吸いません」と断り、評価されたという。このエピソードは、マッカーサーに葉巻を勧められた吉田が、懐から日本の紙巻タバコ「光」を取り出して「私はこれしか吸わないのです」と言った、という話に改変され、第2次内閣での解散・総選挙の際、吉田が「贅沢をしない、国産品を愛用する愛国者」であることを示すエピソードとして、吉田の率いる民主自由党の候補者によって喧伝された(反米主義者による国産たばこ愛用運動は戦前から盛んであり、「メンソール入り(のアメリカ製)たばこを吸うとインポになる」という迷信もこの時生まれている)。
- 吉田とマッカーサーは、マッカーサーがトルーマン大統領によって解任され日本を去るまで親密であった。前述のエピソードに示されているが、吉田は「戦争に負けて、外交に勝った歴史はある」として、マッカーサーに対しては「よき敗者」(good loser)としてふるまうことで個人的な信頼関係を構築することを努めた。
- 一方、マッカーサーから吉田に届いた最初の書簡を、冒頭の決まり文句「Dear」を「親愛なる」に直訳させ、「親愛なる吉田総理」で始まる文面を公表して、マッカーサーとの親密ぶりを国民にアピールしようとしたが、それを知ったマッカーサーは次の書簡から「Dear」を削ってしまったと言う話もある。
- 復興を成し遂げた日本を見てもらいたいと考えた吉田は東京オリンピックにマッカーサーを招待しようとしたが、マッカーサーは既に老衰で動ける状態にはなく、オリンピックの半年前に死去した。吉田はその国葬に参列した。
- 一方で腹に据えかねる事もあったらしく、自分の飼い犬に「マッカーサー」という名前をつけて、機嫌の悪い時にはこの犬を殴っていたという。
ユーモア
癇癪持ちの頑固者であり、また洒脱かつ辛辣なユーモリストとしての一面もあった。公私に渡りユニークな逸話や皮肉な名台詞を多数残している。有名な例として、以下のやりとりがある。
- 田中義一が首相になった時、就任挨拶に行った吉田は田中から総理秘書官就任を要請された。しかし吉田の返答は「秘書官は務まりませんが、総理なら務まります」。
- ある日、会いたくなかった客人に対して居留守を使った吉田であったが、その客人に居留守がばれてしまった。抗議をする客人に対して、吉田の返答は「本人が「いない」と言っているのだから、それ以上確かな事はないだろう」。
- 名ヴァイオリニストのユーディ・メニューインが来日公演を行った際、日比谷公会堂で演奏を聴き終えた吉田は感想を聞かれ、「大変立派なピアノ演奏でした」と答えたために、周囲からは「吉田は音楽がわからない」等と批判されたが、その日の演奏会は主役のメニューインの演奏の出来が実際に良いとは言えず、逆に伴奏のピアノ演奏の方が立派だったので、吉田はむしろ音楽がわかる人間だったようだ。
- 皇太子明仁親王から皇太子妃に関して記者に追いかけられて困っているとの話があった際に、そういう記者には水をぶっ掛けておやりなさい(吉田は気に入らない質問をした記者に水をぶっ掛けたことがあった)と返答した(それに対して皇太子からは吉田さんのようにはいかないと応じ苦笑したとされる)。
- 憲法改正を急ぐ吉田に疑問を呈する議員たちに対して「日本としては、なるべく早く主権を回復して、占領軍に引き上げてもらいたい。彼らのことをGHQ(General Head Quarters)というが、実は、『Go Home Quickly』の略語だというものもあるくらいだ。」と、吉田らしい辛辣な皮肉をこめた答えを返した。
- 単独講和に反対していた松野鶴平に、「このご時世、番犬くらい飼ってるだろう?」と持ちかけ、「それがどうした」と返されると、「犬とえさ代は向こう持ちなんだよ」。だが30年後に思いやり予算問題が出現。
- GHQに提出した統計資料の数値が根拠に乏しくマッカーサーの怒りをかった事があった。それに対して、「統計がまともに取れるくらいなら、あなたの国とあんな無謀な戦争はやらなかったでしょう」と返した。これにはマッカーサーも大笑いだったという。
- 晩年に大勲位の勲章を授与された後、養父である吉田健三の墓の前で「(養父の)財産は使い果たしてしまったが、その代わり(天皇)陛下から最高の勲章を戴いたので許して欲しい」と詫びたと言うエピソードも残している。
- 吉田は米寿をすぎてもまだかくしゃくとしていたが、ある日大磯を訪れたある財界人がそんな吉田に感心して「それにしても先生はご長寿でいらっしゃいますな。なにか健康の秘訣でもあるのですか」と尋ねると、「それはあるよ。だいたい君たちとは食い物が違う」と吉田は答えた。そういった食べ物があるのならぜひ聞きたいと財界人が身を乗り出すと、「それは君、人を食っているのさ」と吉田はからからと笑った。これが吉田がこの世に残した最後のジョークとなった。[1]
性格
吉田は駐英大使時代にイギリス流の生活様式に慣れ、貴族趣味に浸って帰国した。そのため、官僚以外の人間、共産党員や党人などを見下すところがあった。その彼のワンマンぶりがよく表れているのが、彼の言い放った暴言・迷言の数々である。
- 1947年(昭和22年)、GHQにより公認された労働組合がストライキを乱発し、政治闘争路線を突っ走っていた頃、吉田は「年頭の辞」の中で、「かかる不逞の輩が、わが国民中に多数あるものとは信じませぬ」と言い放った(参照 - 二・一ゼネスト)。
- 保安庁が改組され防衛庁(自衛隊)が発足された際、野党は「自衛隊の存在は違憲ではないのか」「自衛隊は軍隊となんら変わらない」と、吉田を追及した。それに対し、吉田は「自衛隊は戦力なき軍隊である」と答弁した。自身の体験から来る極端な軍隊アレルギーが放たせた迷言であった。
- サンフランシスコ平和会議直前、ソ連や中国共産党政府を除く国々との単独講和を進める吉田政権に対し、東京大学総長南原繁がこれらの政府を含めた全面講和を主張した。これに激怒した吉田は「これは国際問題を知らぬ曲学阿世(きょくがくあせい)の徒、学者の空論に過ぎない」と発言。「学者風情に何がわかる」とばかり、南原の意見を一蹴したのであった。南原の主張は理想を持っていたというよりは共産勢力の時間稼ぎと見る面が強い。
- サンフランシスコ平和会議の受諾演説の際、吉田は横書きの原稿ではなく、あえて巻物に書いた文章を読んで演説を行ったが、当時の現地メディアから、「巨大なトイレットペーパー状のものを読み上げた」と書かれるなどした。当の吉田も後に回顧録(吉田茂『回想十年』)で「結局最後まで嫌々我慢しながら読み続けた」と語っている。
- 上記の「曲学阿世の徒」発言と同様、全面講和を主張する日本社会党に対し、吉田は「社会党のいう全面講和は空念的、危険思想である。エデンの花園を荒らす者は天罰覿面」と発言。こちらも大いに物議を醸した。
- 吉田は人の名前を覚えるのが苦手だったらしく、自党の議員の名前を間違えたりする事もしばしばあった。昭和天皇に閣僚名簿を報告する際に自分の側近である小沢佐重喜の名前を間違えて天皇から注意を受けたことがある。
- 1952年に京都での演説会に参加した際、カメラマンのしつこい写真撮影に激怒し、カメラマンにコップの水を浴びせ「人間の尊厳を知らないか」と大見得を切り、会場の拍手を浴びたことがある。
- 1952年(昭和27年)11月の明仁親王の立太子礼に臨み、昭和天皇に自ら「臣 茂」と称した。
- これら吉田の行動は、当時の新聞の風刺漫画の格好の標的になった。実際に吉田が退陣した時には、ある新聞の風刺漫画で大勢の漫画家が、辞める吉田に頭を下げる(風刺漫画のネタになってくれた吉田に感謝を表明している)漫画が描かれたほどである。
- 駐イタリア大使時代にベニート・ムッソリーニ首相に初めて挨拶に行った際に、イタリア外務省から吉田の方から歩み寄るように指示された(国際慣例では、ムッソリーニの方から歩み寄って歓迎の意を示すべき場面であった)。だが、ムッソリーニの前に出た吉田は国際慣例どおりにムッソリーニが歩み寄るまで直立不動の姿勢を貫いた。ムッソリーニは激怒したものの、以後吉田に一目置くようになったと言われている。
- 首相時代、利益誘導してもらうべく、たびたび地元高知県から有力者が陳情に訪れたが、その都度「私は日本国の代表であって、高知県の利益代表者ではない」と一蹴した。
一族
家族・親族
- 実父: 竹内綱(実業家、政治家)
- 実母: 瀧(実業家・藤田九平の娘)
- 実兄: 明太郎(実業家、政治家)
- 養父: 吉田健三(旧福井藩士、実業家)
- 養母: 士子(佐藤一斎(儒学者)の孫娘、士族・東京府官吏・佐藤新九郎の娘)
- 岳父: 牧野伸顕(旧薩摩藩士、政治家、伯爵、大久保利通の三男)
- 妻: 雪子(二男三女を産む)
- 長男: 健一(英文学者)
- 次男: 正男(東北大学助教授、学習院大学教授などを歴任)
- 長女: 桜子(夫は外交官の吉田寛。吉田寛は岸信介・佐藤栄作兄弟とは従兄弟にあたり、元外相松岡洋右の甥にあたる)
- 三女: 和子(夫は実業家・政治家の麻生太賀吉。和子と太賀吉を結びつけたのは側近の白洲次郎であり2人の仲人をつとめた)
- 孫: 麻生太郎(実業家、政治家、現外務大臣)
- 孫: 寛仁親王妃信子
- 曾孫: 彬子女王
- 曾孫: 瑶子女王
系譜
- 吉田氏
竹内庄右衛門━━綱 ┣━┓ 瀧 ┃ ┃ 吉田健三──茂 ┏健一 ┣━━┣桜子 雪子 ┣正男 ┣江子 ┗和子 ┏太郎 ┣━━┣泰 麻生太賀吉 ┣雪子 ┣旦子 ┗信子 ┣━━━━━┳彬子女王 三笠宮寛仁親王 ┗瑶子女王
略歴
経歴
- 明治11年(1878年)
- 9月22日 出生(父・竹内綱、母・瀧)。
- 明治14年(1881年)
- 8月 吉田健三・士子と養子縁組。
- 明治27年(1894年)
- 明治28年(1895年)
- 9月 高等商業学校(現・一橋大学)入学。
- 明治29年(1896年)
- 明治34年(1901年)
- 明治39年(1906年)
- 明治40年(1907年)
- 2月 奉天在勤。
- 明治42年(1909年)
- 12月 大使館三等書記官・イタリア在勤。
- 大正元年(1912年)
- 8月 安東領事。
- 大正5年(1916年)
- 8月 二等書記官・米国在勤。
- 大正6年(1917年)
- 7月 文書課長心得。
- 大正7年(1917年)
- 2月 済南領事。
- 大正8年(1919年)
- 2月 第一次世界大戦講和会議随員。
- 大正9年(1920年)
- 5月 大使館一等書記官・英国在勤。
- 大正11年(1922年)
- 3月 天津総領事。
- 大正14年(1925年)
- 10月 奉天総領事。
- 昭和3年(1928年)
- 7月 外務次官就任。
- 昭和5年(1930年)
- 12月 イタリア大使。
- 昭和11年(1936年)
- 4月 イギリス大使。
- 昭和14年(1939年)
- 3月 退官。
政歴
- 昭和20年(1945年)
- 昭和21年(1946年)
- 昭和22年(1947年)
- 4月25日 第23回衆議院議員総選挙(旧高知全県区・日本自由党公認)当選。
- 昭和24年(1949年)
- 1月23日 第24回衆議院議員総選挙(旧高知全県区・民主自由党公認)2期目当選。
- 昭和27年(1952年)
- 10月1日 第25回衆議院議員総選挙(旧高知全県区・自由党公認)3期目当選。
- 昭和28年(1953年)
- 4月19日 第26回衆議院議員総選挙(旧高知全県区・自由党公認)4期目当選。
- 昭和30年(1955年)
- 2月27日 第27回衆議院議員総選挙(旧高知全県区・自由党公認)5期目当選。
- 昭和33年(1958年)
- 5月22日 第28回衆議院議員総選挙(旧高知全県区・自由民主党公認)6期目当選。
- 昭和35年(1960年)
- 11月20日 第29回衆議院議員総選挙(旧高知全県区・自民党公認)7期目当選。
- 昭和37年(1962年)
- 4月 皇學館大学総長。
- 昭和38年(1963年)
- 二松学舎大学舎長
引退後
関連項目
- 日本のクリスチャン有名人一覧
- 内閣総理大臣
- 外務省
- 第1次吉田内閣
- 第2次吉田内閣
- 第3次吉田内閣
- 第4次吉田内閣
- 第5次吉田内閣
- 吉田13人衆
- 宮島清次郎
- 池田勇人
- 佐藤栄作
- 田中角栄
- 大平正芳
- 鈴木善幸
- 宮澤喜一
- 白洲次郎
- 横浜新道戸塚支線
出典
外部リンク
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