1958年の国鉄スワローズ
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1958年の国鉄スワローズ | |
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成績 | |
セントラル・リーグ4位 | |
58勝68敗4分 勝率.460[1] | |
本拠地 | |
都市 | 東京都文京区 |
球場 | 後楽園球場 |
球団組織 | |
経営母体 | 日本国有鉄道 |
監督 | 宇野光雄 |
« 1957 1959 » |
1958年の国鉄スワローズ(1958ねんのこくてつスワローズ)では、1958年の国鉄スワローズの動向をまとめる。
この年の国鉄スワローズは、宇野光雄監督の3年目のシーズンである。
概要
[編集]宇野監督3年目のチームは開幕戦で前年優勝の巨人と対戦。このカードで巨人のルーキー・長嶋茂雄がデビューするのを受け、エースの金田正一は「若造になめられてたまるか」と対抗心をあらわにし、その長嶋に対して金田は4打席4三振を奪い巨人ファンからも「国鉄は金田のためにある」と言わしめるほどであった。チームは6月まで首位の巨人に食らいつき、7月までは12ゲーム差の3位で中日とAクラスを争い球団初の3位は秒読みと言われた。しかし、8月に入るとチームの勢いは急降下。9月以降は広島にゲーム差を詰められたが、辛うじて4位を死守した。結局チームは優勝の巨人に13勝13敗と健闘するも17.5ゲームを離され、8月までAクラスを争った中日にも8勝18敗と負け越し大きく引き離された。投手陣は金田がこの年も絶好調で31勝で最多勝を、1.30で最優秀防御率、311奪三振で最多奪三振をそれぞれ獲得、特に勝利数に至っては、「開幕71日」「チーム試合数51試合」での6月13日に史上最速の20勝を達成、「この分なら51勝も」と思われたが、金田夏の持病「肘の痛み」のためにペースダウンしてしまう有様だった、その一方で打線の援護に乏しく、チーム打率.223はリーグ4位、チーム防御率も3.10とリーグ最下位で、最終的に9年連続のBクラスでシーズンを終えた。
チーム成績
[編集]レギュラーシーズン
[編集]1 | 一 | 飯田徳治 |
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2 | 三 | 箱田淳 |
3 | 中 | 佐藤孝夫 |
4 | 右 | 町田行彦 |
5 | 二 | 佐々木重徳 |
6 | 左 | 鵜飼勝美 |
7 | 遊 | 渡辺礼次郎 |
8 | 捕 | 谷田比呂美 |
9 | 投 | 金田正一 |
順位 | 4月終了時 | 5月終了時 | 6月終了時 | 7月終了時 | 8月終了時 | 最終成績 | ||||||
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1位 | 大阪 | -- | 巨人 | -- | 巨人 | -- | 巨人 | -- | 巨人 | -- | 巨人 | -- |
2位 | 国鉄 | 2.5 | 国鉄 | 1.0 | 国鉄 | 5.0 | 大阪 | 4.5 | 大阪 | 5.5 | 大阪 | 5.5 |
3位 | 中日 | 4.5 | 大阪 | 2.5 | 大阪 | 5.0 | 国鉄 | 12.0 | 中日 | 15.0 | 中日 | 9.0 |
4位 | 巨人 | 5.0 | 中日 | 8.0 | 大洋 | 12.0 | 中日 | 12.5 | 国鉄 | 16.5 | 国鉄 | 17.5 |
5位 | 大洋 | 5.0 | 大洋 | 9.0 | 中日 | 12.5 | 大洋 | 16.5 | 大洋 | 22.0 | 広島 | 19.5 |
6位 | 広島 | 7.0 | 広島 | 9.5 | 広島 | 16.5 | 広島 | 20.5 | 広島 | 25.0 | 大洋 | 23.5 |
順位 | 球団 | 勝 | 敗 | 分 | 勝率 | 差 |
1位 | 読売ジャイアンツ | 77 | 52 | 1 | .597 | 優勝 |
2位 | 大阪タイガース | 72 | 58 | 0 | .554 | 5.5 |
3位 | 中日ドラゴンズ | 66 | 59 | 5 | .528 | 9.0 |
4位 | 国鉄スワローズ | 58 | 68 | 4 | .460 | 17.5 |
5位 | 広島カープ | 54 | 68 | 8 | .443 | 19.5 |
6位 | 大洋ホエールズ | 51 | 73 | 6 | .411 | 23.5 |
オールスターゲーム1958
[編集]ファン投票 | 金田正一 | |
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監督推薦 | 村田元一 | 箱田淳 |
できごと
[編集]- 4月5日 - セ・リーグ開幕。国鉄は後楽園球場で巨人と対戦、開幕投手・金田正一は巨人ルーキー長嶋茂雄を4打席4三振にきって取る。
- 5月4日 - 大阪7回戦(阪神甲子園球場)6回裏、一塁走者の飯田徳治は、佐藤孝夫の中前打で二塁を回った際、右足アキレス腱を痛めて退場、直ちに大阪大学医学部附属病院に運ばれて精密検査を受けた結果、「右足アキレス腱断裂」で全治2ヶ月と判明、南海時代、1948年9月12日の金星戦から始まった連続試合出場が1246試合で止まった。
- 6月13日 - 金田正一、巨人戦で完投勝利、史上最速の「開幕70試合」「チーム試合数51試合」での20勝到達となる。
選手・スタッフ
[編集]表彰選手
[編集]リーグ・リーダー | |||
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選手名 | タイトル | 成績 | 回数 |
金田正一 | 最優秀防御率 | 1.30 | 2年連続2度目 |
最多勝利 | 31勝 | 2年連続2度目 | |
最多奪三振 | 311個 | 2年ぶり6度目 | |
沢村賞 | 3年連続3度目 |
ベストナイン | ||
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選手名 | ポジション | 回数 |
金田正一 | 投手 | 2年連続2度目 |
出典
[編集]- ^ “年度別成績 1958年 セントラル・リーグ”. 日本野球機構. 2017年7月31日閲覧。
- ^ スワローズ激動の歩み (徳永喜男 ed.), 恒文社, (1980), p. 453
セントラル・リーグ | パシフィック・リーグ | ||||||
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優勝 | 読売ジャイアンツ | 2位 | 大阪タイガース | 優勝 | 西鉄ライオンズ | 2位 | 南海ホークス |
3位 | 中日ドラゴンズ | 4位 | 国鉄スワローズ | 3位 | 阪急ブレーブス | 4位 | 毎日大映オリオンズ |
5位 | 広島カープ | 6位 | 大洋ホエールズ | 5位 | 東映フライヤーズ | 6位 | 近鉄パールス |
:日本一 :日本シリーズ出場 | |||||||