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1952年の国鉄スワローズ(1952ねんのこくてつスワローズ)では、1952年の国鉄スワローズの動向をまとめる。
この年の国鉄スワローズは、西垣徳雄監督の3年目のシーズンである。
前年5位ながらも借金が大きく減ったことから西垣監督3年目はAクラス入りが期待されたが、この年も金田正一をはじめ投手陣の好投を打線が見殺しにし、さらに拙守から試合を落とすという悪循環は解消されず4月を7球団中5位で終え、前年優勝の巨人に8ゲーム差を付けられる最悪のスタートで、5月には6位に転落。その後は持ち直して7月以降は5位で終えたが借金は前年の13から7つ増えて20になり、首位の巨人に33ゲーム、さらに4位の大洋(翌年松竹と合併)に8ゲームも付けられてシーズンを終えた。投手陣は3年目の金田が269奪三振で最多奪三振のタイトルを獲得したが、2ケタ勝利は金田1人だったがチーム防御率は3.38と4位と健闘。打撃陣は中日で活躍したこともある杉浦清が25本塁打で気を吐き、ルーキー佐藤孝夫が14本塁打ながら45盗塁で俊足ぶりを見せ、新人王となった。打線はチーム打率が5位に終わったものの、67本塁打はリーグ3位で、154盗塁もリーグ2位となった。この年からプロ野球でフランチャイズ制が導入され巨人とともに後楽園球場をホームグラウンドにすることになった。
1952年セントラル・リーグ順位変動
順位
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4月終了時
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5月終了時
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6月終了時
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7月終了時
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8月終了時
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9月終了時
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最終成績
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1位
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巨人 |
--
|
巨人 |
--
|
巨人 |
--
|
巨人 |
--
|
巨人 |
--
|
巨人 |
--
|
巨人 |
--
|
2位
|
名古屋 |
2.5
|
大洋 |
3.0
|
大阪 |
5.5
|
大阪 |
3.0
|
大阪 |
6.0
|
大阪 |
5.5
|
大阪 |
3.5
|
3位
|
大洋 |
4.0
|
大阪 |
3.0
|
名古屋 |
5.5
|
名古屋 |
6.5
|
名古屋 |
7.0
|
名古屋 |
7.0
|
名古屋 |
7.0
|
4位
|
大阪 |
4.5
|
名古屋 |
5.0
|
大洋 |
12.5
|
大洋 |
12.5
|
大洋 |
18.5
|
大洋 |
21.5
|
大洋 |
25.0
|
5位
|
国鉄 |
8.0
|
松竹 |
18.0
|
国鉄 |
21.0
|
国鉄 |
25.0
|
国鉄 |
31.5
|
国鉄 |
31.5
|
国鉄 |
33.0
|
6位
|
松竹 |
9.0
|
国鉄 |
18.5
|
松竹 |
24.5
|
松竹 |
29.0
|
広島 |
37.5
|
広島 |
43.5
|
広島 |
44.5
|
7位
|
広島 |
10.5
|
広島 |
19.0
|
広島 |
25.5
|
広島 |
29.5
|
松竹 |
39.5
|
松竹 |
44.0
|
松竹 |
48.0
|
[2]
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1950年代 | |
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1960年代 | |
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1970年代 | |
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1980年代 | |
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1990年代 | |
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2000年代 | |
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2010年代 | |
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2020年代 | |
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