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|原語表記 = Juventus Football Club S.p.A. |
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|愛称 = ''I Bianconeri'' (白と黒)<ref name="br206">[[#斉藤 2010|斉藤 2010]] 206頁</ref><br/>''La Vecchia Signora'' (老貴婦人)<ref name="br209">[[#斉藤 2010|斉藤 2010]] 209頁</ref><br/>''La Fidanzata d'Italia'' (イタリアの恋人)<ref name="br210">[[#斉藤 2010|斉藤 2010]] 210頁</ref><br/>''La Madama'' ([[ピエモンテ語]]で、「婦人」)<ref name="br209">[[#斉藤 2010|斉藤 2010]] 209頁</ref><br/>''Le Zebre'' (シマウマ)<ref name="br206">[[#斉藤 2010|斉藤 2010]] 206頁</ref> |
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|創設 = 1897 |
|創設 = 1897 |
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|スタジアム = [[File:Juventus v Real Madrid, Champions League, Stadium, Turin, 2013.jpg|250px]][[ユヴェントス・スタジアム|アリアンツ・スタジアム]] |
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'''ユヴェントスFC'''(Juventus Football Club, {{IPA-it|juˈvɛntus}})は、[[イタリア]]の[[トリノ]]をホームタウンと |
'''ユヴェントスFC'''(Juventus Football Club, {{IPA-it|juˈvɛntus}})は、[[イタリア]]の[[トリノ]]をホームタウンとするプロサッカークラブ。 |
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1897年創設<ref name="juvehistory1"/>。イタリアに現存するサッカークラブでは、[[ジェノアCFC]]の1893年に次ぐ2番目に古いクラブである<ref>{{Cite web2|df=ja|title=【コラム】100年以上の歴史を誇るイタリアの古豪、消えた最古のクラブとウディネーゼの伝説|url=https://www.dazn.com/ja-JP/news/serie-a/%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%A0100%E5%B9%B4%E4%BB%A5%E4%B8%8A%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%82%92%E8%AA%87%E3%82%8B%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%81%AE%E5%8F%A4%E8%B1%AA%E6%B6%88%E3%81%88%E3%81%9F%E6%9C%80%E5%8F%A4%E3%81%AE%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%96%E3%81%A8%E3%82%A6%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%8D%E3%83%BC%E3%82%BC%E3%81%AE%E4%BC%9D%E8%AA%AC-%E3%82%BB%E3%83%AA%E3%82%A8a/1lo802geedasr1um2gb3xa9216|publisher=dazn|date=2021-12-18|accessdate=2022-08-02}}</ref>。[[セリエA (サッカー)#スクデット|スクデット]]獲得回数はセリエA最多の36回<ref>{{Cite web2|df=ja|title=ユベントスが前人未到9連覇!36回目のスクデッド獲得|url=https://web.gekisaka.jp/news/world/detail/?306706-306706-fl|publisher=ゲキサカ|date=2020-07-27|accessdate=2022-07-28}}</ref>、国内[[カップ戦]]である[[コッパ・イタリア]]では最多の14回の優勝<ref>{{Cite web2|df=ja|title=ユヴェントスが3季ぶりのコッパ・イタリア制覇!…キエーザ決勝弾でアタランタを撃破|url=https://www.soccer-king.jp/news/world/ita/20210520/1466436.html|publisher=サッカーキング|date=2021-05-20|accessdate=2022-07-28}}</ref>、国内スーパーカップである[[スーペルコッパ・イタリアーナ]]でも最多の9回の優勝を果たしている<ref>{{Cite web2|df=ja|title=C・ロナウドが決勝弾!…ユヴェントス、PK失敗のナポリ破りスーペルコッパ制覇|url=https://www.soccer-king.jp/news/world/ita/20210121/1170166.html|publisher=サッカーキング|date=2021-01-21|accessdate=2022-07-28}}</ref>。欧州の舞台では、[[UEFAチャンピオンズリーグ]]で2度の優勝<ref>{{Cite web2|df=ja|title=ユヴェントスが最後にチャンピオンズリーグを制覇したのはいつ?デル・ピエロ、コンテら豪華布陣|url=https://www.goal.com/jp/%E3%82%AE%E3%83%A3%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC/juventus-champions-league-last-champion/1/1nre8io6dpoe6127cw7zkbnqga|publisher=GOAL|date=2022-07-05|accessdate=2022-07-28}}</ref>、[[UEFAヨーロッパリーグ|旧UEFAカップ]]で3度の優勝を果たしており<ref>{{Cite web2|df=ja|title=UEFAヨーロッパリーグ(EL)歴代優勝チーム一覧|url=https://www.goal.com/jp/%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88/uefa-europa-league-winners/blt42e2c9b593125811#cs6164ba2685034486|publisher=GOAL|date=2022-05-19|accessdate=2022-07-28}}</ref>、イタリアで最もタイトル獲得数の多いサッカークラブである<ref>{{Cite web2|df=ja|title=総タイトル獲得数が世界トップのクラブは? ランキング形式で紹介|url=https://www.soccer-king.jp/news/world/20210315/1223660.html|publisher=サッカーキング|date=2021-03-15|accessdate=2022-07-28}}</ref>。 |
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[[1923年]]以来、多数の[[実業家]]を輩出する[[イタリア]]の名門一族[[アニェッリ家]]がオーナーとなっており、2018年8月現在アニェッリ家の投資会社「[[エクソール]]」がクラブの株式の63.77パーセントを所有している。 |
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[[1923年]]以来、多数の[[実業家]]を輩出するイタリアの名門一族[[アニェッリ家]]がオーナーとなっており、2023年1月現在アニェッリ家の投資会社「[[エクソール]]」がクラブの株式の63.8パーセントを所有している<ref name="WSK202103marco">{{Cite book2|df=ja|chapter=Derby della Mole 1つの街に同居する2つの心|author=Marco Bonetto|translator=小川光生|title=サッカーキング|volume=2021年3月号|publisher=フロムワン|pages=86-89}}</ref><ref>{{Cite web2|df=ja|title=ユベントス、新会長に公認会計士のフェレーロ氏を指名|url=https://web.ultra-soccer.jp/news/view?news_no=435548|publisher=超WORLDサッカー|date=2023-01-18|accessdate=2023-01-20}}</ref>。 |
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== 概要 == |
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ユヴェントスはラテン語で「若者」や「青春」を意味する'''ユウェントゥス''' (juventus/iuventus) に由来し、略称で'''ユーヴェ''' (Juve, {{IPA-all|ˈjuːve}})とも呼ばれる。愛称は、エンブレムやユニフォームの配色から'''ビアンコネーロ'''([[イタリア語]]で白と黒)、'''ビアンコネーリ'''(複数形)や、'''ラ・ヴェッキア・シニョーラ'''(老貴婦人)などがある。サポーターは、'''ユヴェンティーノ'''(単数形)や、'''ユヴェンティーニ'''(複数形)と呼ばれている。 |
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世界最大の[[4大会計事務所|会計事務所]]である『[[デロイト トウシュ トーマツ|デロイト]]』が公表した2022年度版の[[デロイト・フットボール・マネー・リーグ]]によると、2021-22シーズンのクラブ収入は4億3350万ユーロであり、世界9位、イタリアでは1位である<ref>{{Cite web2|df=ja|title=Deloitte Football Money League 2022|url=https://www2.deloitte.com/content/dam/Deloitte/uk/Documents/sports-business-group/deloitte-uk-dfml22.pdf|publisher=Deloitte|year=2022|accessdate=2022-06-18}}(2022年3月に国際監査法人『デロイト』が公表した2021-2022シーズンの欧州サッカーのクラブ収入ランキング)</ref>。 |
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いくつかのデザインの変化を経ながら100年以上使われていたエンブレムには、真ん中に牡牛が描かれており、トリノの語源がタウリーニ(牛の人々)であることが由来である<ref name="juve logo">{{Cite web|title=ユベントスの新ブランドロゴは、サッカークラブの常識を覆す|url=https://www.footballista.jp/special/34754|publisher=Number|accessdate=2022-05-29|date=2017.06.14}}</ref>。2017年に一新された現在のロゴは、ユヴェントスのイニシャルの「J」をモチーフにしたシンプルなものになっており、グッズやアパレル商品に馴染む大胆な変更となった<ref name="juve logo"/>。 |
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== 名称・愛称 == |
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セリエAにおいて最も成功したクラブの一つである。セリエAでは「三階建て」構造と呼ばれる、「ユヴェントス」、「[[ACミラン]]」、「[[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル]]」のビッグ3の一角を占め、[[セリエA (サッカー)#スクデット|スクデット]]獲得回数はセリエA最多の36回で、ACミラン、インテル(どちらもスクデット獲得19回)と共にイタリアのみならず世界でも指折りのビッグクラブの一つである。1996年から1998年には3年連続で[[UEFAチャンピオンズリーグ]]決勝に進出、過去9度決勝に進み、そのうち2度優勝している。 |
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ユヴェントスを創設したマッシモ・ダゼーリオ高校の学生たちは最年長でも17歳で、ラテン語で「若者」や「青春」を意味する'''ユウェントゥス''' (juventus/iuventus) がクラブ名に採用された<ref name="juvehistory1"/>。採用されなかった候補名には、「ルドゥス」、「ファティガンド・デレクタムル」、「マッシモ・ダゼーリオ」、「ヴィゴル・エ・ロブル」などがあった<ref name="Cerretti20">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 20頁</ref>。愛称は、ユニフォームの配色から'''ビアンコネーロ'''([[イタリア語]]で白と黒)、選手を含むチーム全体の場合は複数形になり'''ビアンコネーリ'''と呼ばれる<ref name="br206">[[#斉藤 2010|斉藤 2010]] 206頁</ref>。配色以外で有名な愛称は「老貴婦人」を意味する'''ラ・ヴェッキア・シニョーラ'''だろう<ref>{{Cite web2|df=ja|title=「“老貴婦人”のスタイルに合う監督か?」「ジャージ姿の愛煙家」 EL制覇のサッリにユベンティーノからは疑問の声|url=https://www.soccerdigestweb.com/news/detail/id=59323|publisher=サッカーダイジェスト|date=2019-05-30|accessdate=2022-07-24}}</ref><ref>{{Cite web2|df=ja|title=「老貴婦人の口説き方」|url=https://qoly.jp/2013/04/06/15879-20130406-colum-yuki|publisher=qoly|date=2013-04-06|accessdate=2022-07-24}}</ref>。この愛称には、クラブを創設した高校生たちがサッカーをしていた広場にいたイレアーナ(Ileana)という年配の女性が最初のファンだったという説と<ref>{{Cite web2|df=ja|title=ユベントスのちょっと面白い話。クラブ愛称が“老貴婦人”の理由とは?|url=https://www.footballchannel.jp/2016/06/01/post155633/2/|publisher=フットボールチャンネル|date=2016-06-01|accessdate=2022-07-24}}</ref>、1930年代当時の主力選手達の年齢が30代中心で、若者というクラブ名にそぐわないことからシャレで対義語の愛称を付けたという説がある<ref name="br209">[[#斉藤 2010|斉藤 2010]] 209頁</ref>。地元の人は'''La Madama'''という愛称も使っており、これは[[ピエモンテ語|ピエモンテ方言]]でフランス語の[[マダム]]とほぼ同じ意味の言葉である<ref name="br209">[[#斉藤 2010|斉藤 2010]] 209頁</ref>。[[シマウマ]]を意味する'''Le Zebre'''は白と黒の配色からで<ref name="br206">[[#斉藤 2010|斉藤 2010]] 206頁</ref>、そこから「JAY」という名前のシマウマのマスコットが採用されている<ref>{{Cite web2|df=ja|title=愛らしいものから“問題児”まで…海外クラブのマスコットたちを紹介|url=https://www.soccer-king.jp/news/world/world_other/20190218/908141.html|publisher=サッカーキング|date=2019-02-18|accessdate=2022-07-24}}</ref>。「イタリアの恋人」を意味する'''La Fidanzata d'Italia'''は、1930年代にラジオのアナウンサーが名付けたとされる<ref name="br210">[[#斉藤 2010|斉藤 2010]] 210頁</ref>。全国的な人気があることと、本拠地トリノには[[フィアット]]社で働くために出稼ぎに来た南部からの移住者が多く、ラジオでユヴェントスの活躍を聴く南部の人々が北部の家族に想いを馳せたことが由来となっている<ref name="br210">[[#斉藤 2010|斉藤 2010]] 210頁</ref>。1956年に導入したユニフォームが空気が入りやすかったため、背中が膨らんで見えたことから[[くる病|せむし]]を意味する'''gobba'''という呼ばれ方もあったが、ネガティブな意味を持っているため他クラブのサポーターから蔑称として使われている<ref name="br75">[[#小川 2008|小川 2008]] 75頁</ref><ref>{{Cite web2|df=ja|title=Paulo Sousa silences hunchback taunts by putting Juventus in a straitjacket|url=https://www.theguardian.com/football/blog/2017/jan/16/paulo-sousa-hunchback-taunts-juventus-fiorentina-dans|publisher=The Guardian|date=2017-01-16|accessdate=2022-10-03}}</ref><ref>{{Cite web2|df=ja|title=Perché gli juventini vengono chiamati “gobbi”|url=https://www.ilpost.it/2014/11/24/tifosi-juventus-gobbi/|publisher=il Post|date=2014-11-24|accessdate=2022-10-03}}</ref>。 |
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== 歴史 == |
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2005-06シーズン時点までは、1929年のセリエA開幕以来一度も[[セリエB (サッカー)|セリエB]]([[イタリア]]2部リーグ)に降格したことがない2チームのうちの1つであったが、「[[カルチョ・スキャンダル]]」によるペナルティを受け、2006年にクラブ史上初めてセリエBへ降格した。2021年現在も降格経験がないインテルとの対戦は、[[イタリアダービー]]と呼ばれ国内外の注目を集め、[[ミラノダービー]]や[[デルビー・デッラ・カピターレ|ローマダービー]]と並び、イタリアを代表するビッグマッチの一つである。[[トリノFC]]との対戦は[[デルビー・デッラ・モーレ|トリノ・ダービー]]と呼ばれる。 |
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=== 創設期 === |
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[[ファイル:Pionieri Juve 1898.gif|right|thumb|1898年の選手]] |
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クラブは1897年11月1日にマッシモ・ダゼーリオ高等学校の生徒らによって'''スポルト・クラブ・ユヴェントス''' (''Sport Club Juventus'') として創設され<ref name="juveuni">{{Cite web2|df=ja|title=ユニフォームの歴史〜ユベントス編(2)〜|url=https://web.ultra-soccer.jp/index/index/c/regular/id/juventus|publisher=超worldサッカー|accessdate=2022-05-29}}</ref>、2年後にフットボールクラブとなった<ref name="Cerretti20">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 20頁</ref>。[[カンピオナート・イタリアーノ・ディ・フットボール 1900|1900年]]よりイタリア選手権(後の[[セリエA (サッカー)|セリエA]]に相当する全国大会)に参加<ref name="Cerretti19">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 19頁</ref>。[[カンピオナート・イタリアーノ・ディ・フットボール 1903|1903年]]、[[プリマ・カテゴリア 1904|1904年]]と2年連続で決勝戦に進出するも、[[ジェノアCFC|ジェノア]]の牙城を崩すことはできなかった<ref name="Cerretti24">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 24頁</ref><ref name="Cerretti25">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 25頁</ref>。翌[[プリマ・カテゴリア 1905|1905年]]、決勝ラウンドでジェノアを1ポイント上回り<ref name="Cerretti308">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 308頁</ref>、イタリア選手権で初優勝を果たした<ref name="Cerretti26">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 26頁</ref>。ユヴェントスは他のクラブに比べ外国人選手の比率が低く、イングランド・スタイルのジェノアや、スイス・スタイルの[[ACミラン|ミラン]]と異なり、我流の全員サッカーで勝利したことはイタリアサッカーの転機になった<ref name="Cerretti24">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 24頁</ref><ref name="Cerretti26">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 26頁</ref>。[[ファイル:Italian Football Champion 1905.jpg|right|thumb|1905年の選手]] |
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[[プリマ・カテゴリア 1906|1906年]]の選手権でも決勝ラウンドに進出し、ミランと勝ち点で並んだため優勝決定のための[[プレーオフ]]が開催されることになった<ref name="Cerretti27">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 27頁</ref>。試合は0-0で決着が付かず2戦目が行われることになり、ユヴェントスは中立地としてジェノヴァでの開催を提案した<ref name="Cerretti27">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 27頁</ref>。しかし協会はUSミラネーゼのホームグラウンドであるミラノでの開催を決定し、これに抗議したユヴェントスは延長試合を放棄し、ミランの優勝が確定した<ref name="Cerretti27">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 27頁</ref>。さらに、スイス人のアルフレド・ディック会長がトリノからの移転を主導したことや、[[民族主義]]的なイタリア人のグループとの間に対立が起こったことにより、ディックはクラブへの出資を打ち切るとユヴェントスを去った後にFBCトリノ(現[[トリノFC]])の創設に関わることとなる<ref name="juvehistory1">{{Cite web2|df=ja|title=レジェンド物語|url=https://www.juventus.com/jp/club/history/the-story-of-a-legend|publisher=juventus.com|accessdate=2022-05-29}}</ref><ref name="Cerretti27">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 27頁</ref><ref name="Cerretti28">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 28頁</ref><ref name="Digby15">[[#Digby 2015|Digby 2015]] 15頁</ref>。 |
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ホームタウンという概念が確立しているヨーロッパには珍しく、全国的な人気を持つクラブである。 |
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1908年にイタリアサッカー協会が外国人選手の抑制に動くと、ミラン、トリノ、ジェノアに続きユヴェントスも一旦選手権から撤退することとなった<ref name="Cerretti32">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 32頁</ref>。同年にタイトルを獲得した同じ[[ピエモンテ州]]のクラブである[[FCプロ・ヴェルチェッリ|プロ・ヴェルチェッリ]]が台頭すると<ref name="Cerretti33">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 33頁</ref>、以降ユヴェントスは地域グループ予選を突破できず、しばらくタイトル争いから遠ざかることとなる<ref name="Cerretti308">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 308頁</ref><ref name="Cerretti309">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 309頁</ref><ref name="Cerretti310">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 310頁</ref>。 |
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[[2014年]]1月、世界最大の[[4大会計事務所|会計事務所]]である『[[デロイト トウシュ トーマツ|デロイト]]』が公表した[[デロイト・フットボール・マネー・リーグ]]によると、2012-13シーズンのクラブ収入は2億7240万ユーロであり、世界9位、イタリアでは1位である<ref>[http://www.deloitte.com/assets/Dcom-UnitedKingdom/Local%20Assets/Documents/Industries/Sports%20Business%20Group/uk-deloitte-sbg-dfml-2014.pdf Deloitte Football Money League 2014] {{webarchive|url=https://web.archive.org/web/20140907212137/http://www.deloitte.com/assets/Dcom-UnitedKingdom/Local%20Assets/Documents/Industries/Sports%20Business%20Group/uk-deloitte-sbg-dfml-2014.pdf |date=2014年9月7日 }}(2014年1月に国際監査法人『デロイト』が公表した2012-2013シーズンの欧州サッカーのクラブ収入ランキング)</ref>。 |
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=== 1920年代 === |
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2011-12シーズンには9季ぶり28度目のスクデットを獲得し、2019-20シーズンまでセリエA前人未到の9連覇を達成している。 |
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[[ファイル:Edoardo Agnelli.jpg|right|thumb|エドゥアルド・アニェッリ]] |
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地域リーグを突破できないシーズンが続いた中<ref name="Cerretti311">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 311頁</ref><ref name="Cerretti312">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 312頁</ref><ref name="Cerretti313">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 313頁</ref>、1923年に地元の自動車会社[[フィアット]]創業者の息子である{{仮リンク|エドゥアルド・アニェッリ|en|Edoardo Agnelli (entrepreneur, born 1892)}}がクラブを買い取り、会長に就任した<ref name="Agnelli">{{Cite web2|df=ja|title=コラム:アニェッリ家はユーヴェを救えるか|url=https://www.goal.com/jp/%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9/%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%83%A0%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%82%A7%E3%83%83%E3%83%AA%E5%AE%B6%E3%81%AF%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%83%B4%E3%82%A7%E3%82%92%E6%95%91%E3%81%88%E3%82%8B%E3%81%8B/blt6a59458917500cf3|date=2010-05-09|accessdate=2022-08-27}}</ref>。当時エドゥアルドはフィアットの経営に深く携わっておらず、自動車レースやサッカーなどのスポーツに熱中していた<ref name="agnelli20100804">{{Cite book2|df=ja|chapter=ユーベの支配者 アニエッリ家の思惑とは?|author=片野道郎|title=footballista|volume=2010年8月4日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=6-7}}</ref>。好きが高じて、トリノで有力チームだったユヴェントスのオーナーになるが、アニェッリ家との関係は金持ち息子の趣味の延長から始まった<ref name="agnelli20100804"/>。 |
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1925–26シーズンには21年ぶりに、2度目のイタリア選手権優勝を果たす<ref name="juvehistory1"/><ref name="Cerretti314">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 314頁</ref>。[[ゴールキーパー]]には、ユース出身でイタリア代表の[[ジャンピエロ・コンビ]]<ref name="Digby18">[[#Digby 2015|Digby 2015]] 18頁</ref>、プロ・ヴェルチェッリから移籍してきた{{仮リンク|ヴィルジーニオ・ロセッタ|it|Virginio Rosetta}}はヨーロッパ有数のディフェンダーとして評価されていた<ref name="Cerretti55">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 55頁</ref>{{Efn|{{仮リンク|ロセッタ事件|it|Caso Rosetta}}と呼ばれるロセッタ移籍にまつわる係争は、イタリアサッカーで最初のスキャンダルとされ、移籍やプロのルール整備のきっかけとなった<ref name="Digby1820">[[#Digby 2015|Digby 2015]] 18-20頁</ref>。}}。中盤の{{仮リンク|ヨージェフ・ヴィオーラ|it|József Viola}}とガゼルと称されたフォワードの{{仮リンク|フェレンツ・ヒルツァー|it|Ferenc Hirzer}}は[[ハンガリー人]]選手であった<ref name="Cerretti55">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 55頁</ref>{{Efn|1924年頃から外国人選手がイタリアサッカー界に参入する流れがあった<ref name="Cerretti53">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 53頁</ref>。}}。ユヴェントスにおける最初の公式監督とされているハンガリー人の{{仮リンク|イェネー・カロリ|it|Jenő Károly}}は、練習と技術の習得に重きを置いた指導をした<ref name="Cerretti55">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 55頁</ref>。北部リーグ決勝では、ボローニャ相手に2戦連続で引き分けたが、3戦目の直前にカロリが[[心筋梗塞]]で亡くなってしまう<ref name="Cerretti56">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 56頁</ref>。タイトル獲得を誓った選手たちは3戦目を2-1で勝利し、ファイナルでもアルバ・ローマ相手に2試合で12ゴールを量産し亡き監督に捧げる優勝となった<ref name="Cerretti56">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 56頁</ref>。 |
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== ユニフォーム == |
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クラブカラーは白と黒の縦縞。クラブ創設当初はピンクのユニフォームに黒いパンツであったが、色褪せしやすいという問題があり、1903年に現在の白と黒(ビアンコネッロ)に代わった。この配色は、当時クラブに所属したイングランド人選手ジョン・サヴェージから代替ユニフォームを頼まれた母国の友人が[[ノッツ・カウンティFC|ノッツ・カウンティ]]のファンであったことに由来する<ref name="juveuni"/>。2011-12シーズンや2015-16シーズンには、アウェイユニフォームの配色にピンクが使われた<ref>{{Cite web|title=ユヴェントス、adidasによる2015-16新ユニフォームを発表!|url=https://qoly.jp/2015/07/01/juventus-2015-16-adidas-kit?part=2|publisher=qoly|date=2015/07/01|accessdate=2022-06-07}}</ref>。 |
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1926-27シーズンに優勝したのはトリノであったが、決勝リーグで対戦したユヴェントスの選手の{{仮リンク|ルイージ・アッレマンディ|it|Luigi Allemandi}}が八百長に関与したとされ、トリノの優勝ははく奪されている<ref name="Cerretti57">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 57頁</ref><ref name="Cerretti58">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 58頁</ref>{{Efn|弁護側は、むしろ対象試合でアッレマンディが他の選手より良くプレーしていたと容疑に対し否認している<ref name="Cerretti58">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 58頁</ref>。}}。 |
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{|class="wikitable" style="text-align: center" |
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!Period |
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!Kit manufacturer |
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!Shirt sponsor |
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|1979–1989 |
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|rowspan=6|[[Kappa]] |
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|[[Indesit|Ariston]] |
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|1989–1992 |
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|[[UPIM]] |
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|1992–1995 |
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|[[Groupe Danone|Danone]] |
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|1995–1998 |
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|[[Sony]] |
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|1998–1999 |
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|[[Tele+ Digitale|D+Libertà digitale/Tele+]] |
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|1999–2000 |
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|[[Tele+ Digitale|CanalSatellite/D+Libertà digitale]]/[[Sony]] |
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|2000–2001 |
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|rowspan=3|[[ロット (企業)|Lotto]] |
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|Sportal.com/[[Tele+ Digitale|Tele+]] |
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|2001–2002 |
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|[[Fastweb (telecommunications company)|Fastweb]]/Tu Mobile |
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|2002–2003 |
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|rowspan=2|[[Fastweb (telecommunications company)|Fastweb]]/[[Tamoil]] |
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|- |
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|2003–2004 |
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|rowspan=6|[[ナイキ|Nike]] |
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|2004–2005 |
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||[[Sky Sport (Italy)|Sky Sport]]/[[Tamoil]] |
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|2005–2007 |
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|[[Tamoil]] |
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|- |
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|2007–2010 |
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|[[Fiat Group|FIAT]] ([[New Holland Agriculture|New Holland]]) |
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|- |
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|2010–2012 |
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|[[:fr:BetClic|BetClic]]/[[Balocco (company)|Balocco]] |
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|- |
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|2012–2015 |
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|rowspan=2|[[FCAイタリー|FIAT/ FCA Italy]] ([[Jeep]]) |
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|2015– |
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|[[アディダス|Adidas]] |
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|} |
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ユヴェントスは1928年の[[1928年アムステルダムオリンピックのサッカー競技|アムステルダム五輪]]で結果を残した[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン代表]]の[[ライムンド・オルシ]]にいち早く目を付け、決勝戦翌日には契約条件として破格の10万リラと、フィアット509を提示した<ref name="Cerretti62">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 62頁</ref>{{Efn|アムステルダム五輪でウルグアイとアルゼンチンが結果を残したことから、イタリア系外国人選手の登録許可へつながった<ref name="Cerretti60">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 60頁</ref>。}}。この契約についてアルゼンチン側から多く批判が寄せられ、イタリア系であることを確認するため実際にプレーしたのは翌シーズンからとなってしまった<ref name="Cerretti62">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 62頁</ref>。1929-30シーズンから1リーグ制の全国選手権が発足し、前年度に成績上位であったユヴェントスは初年度から参加した<ref name="Cerretti67">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 67頁</ref>。 |
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2017-18シーズンから背中側のスポンサーを採用し、日本企業である[[Cygames]]と契約を締結した<ref>{{Cite web|title=ユーヴェ、日本企業と歴史的契約!今季から初めて「背中スポンサー」が付くぞ|url=https://qoly.jp/2017/07/20/juventus-20170720-kwm-1|publisher=qoly|date=2017/07/20|accessdate=2022-06-07}}</ref>。Cygamesがオフィシャルスポンサーをしていた[[サガン鳥栖]]とは、名前の語呂が近いということから交流があり、2015年にはOBによる親善試合が開催されていた<ref>{{Cite web|title=ユヴェントスOB、鳥栖でのレジェンドマッチで先発したのはこの3トップ!|url=https://qoly.jp/2015/05/05/kyushu-legends-vs-juventus-legends|publisher=qoly|date=2015/05/05|accessdate=2022-06-07}}</ref>。また、Cygamesのコーポレートカラーがユヴェントスと同じ白と黒だったこともあり、縁のあるスポンサードとなった<ref>{{Cite web|title=Cygamesは、なぜユベントスとサガン鳥栖に投資をしたのか?|url=https://azrena.com/post/8689/|publisher=AZrena|date=2017.11.05|accessdate=2022-06-07}}</ref>。 |
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=== 1930年代 - 最初の黄金期 === |
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== 歴史 == |
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[[File:FBC Juventus - 1930s - Luis Monti.jpg|right|thumb|upright|170px|ルイス・モンティ]] |
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=== 創設期 - セリエA以前 === |
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1930年から35年にかけてユヴェントスは5シーズン連続の優勝を飾り、「'''クインクエンニオ・ドーロ''' (黄金の5年間)」と呼ばれるクラブの歴史上最初の黄金時代を築いた<ref name="br75">[[#小川 2008|小川 2008]] 75頁</ref><ref name="WSK201903ogawa">{{Cite book2|df=ja|chapter=ユーヴェはなぜこんなに強いのか?|author=小川光生|title=ワールドサッカーキング|volume=2019年3月号|publisher=フロムワン|pages=7}}</ref>。1934年の[[1934 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップ・イタリア大会]]に優勝した[[サッカーイタリア代表|イタリア代表]]には、実に9人ものユヴェントス選手を送り込んでおり<ref>{{Cite web2|df=ja|title=リッピは暴君か、賢帝か? アズーリをめぐるイタリア大論争。|url=https://number.bunshun.jp/articles/-/14464|publisher=Number|accessdate=2022-05-29|date=2009-11-14}}</ref>、代表主将を務めたGK[[ジャンピエロ・コンビ]]に加えて、「オリウンディ」<ref>{{Cite web2|df=ja|title=“オリウンディ”頼み?何をもって自国選手とみなすか 人材難イタリア代表|url=https://www.sponichi.co.jp/soccer/yomimono/column/kaigai/kiji/K20150912011104380.html|publisher=スポニチ|accessdate=2022-08-27|date=2015-09-12}}</ref>と呼ばれる[[アルゼンチン]]出身のFW[[ライムンド・オルシ]]やMF[[ルイス・モンティ]]ら帰化選手が活躍した<ref name="br27">[[#西部 2020|西部 2020]] 27頁</ref>。イタリア大会は[[ベニート・ムッソリーニ|ムッソリーニ]]が[[ファシズム]]宣伝のために力を入れており、助っ人としてイタリア系のオルシやモンティがイタリア代表に加わることとなり<ref name="2003goto163">[[#後藤 2003|後藤 2003]] 163頁</ref>、ユヴェントスでも黄金時代の原動力となった<ref name="2003goto164">[[#後藤 2003|後藤 2003]] 164頁</ref>。 |
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[[ファイル:Pionieri Juve 1898.gif|left|thumb|1898年の選手]] |
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[[ファイル:Italian Football Champion 1905.jpg|left|thumb|1905年の選手]] |
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クラブは1897年11月1日にマッシモ・ダゼーリオ高等学校の生徒らによって'''スポルト・クラブ・ユヴェントス''' (''Sport Club Juventus'') として創設された<ref name="juveuni">{{Cite web|title=ユニフォームの歴史〜ユベントス編(2)〜|url=https://web.ultra-soccer.jp/index/index/c/regular/id/juventus|publisher=超worldサッカー|accessdate=2022-05-29}}</ref>。1900年よりイタリア選手権(後の[[セリエA (サッカー)|セリエA]]に相当する全国大会)に参加。 |
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新任監督の{{仮リンク|カルロ・カルカーノ|it|Carlo Carcano}}は、アレッサンドリアから{{仮リンク|ジョヴァンニ・フェッラーリ|it|Giovanni Ferrari}}を伴ってユヴェントスにやってきた<ref name="Cerretti71">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 71頁</ref>。イタリア代表でも最高の頭脳とされたフェッラーリとオルシのコンビは抜群で、フェッラーリのロングパスが効果的に働き、オルシはチーム総得点79のうち18点を記録した<ref name="Cerretti71">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 71頁</ref>。わずか4敗で2位のローマに4ポイント差を付けて3度目の優勝を果たすと<ref name="Cerretti72">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 72頁</ref>、1931-32シーズンもエドゥアルド・アニェッリは改革の手を止めず、再びアレッサンドリアから{{仮リンク|ルイージ・ベルトリーニ|it|Luigi Bertolini}}を獲得した<ref name="Cerretti72">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 72頁</ref>。アルゼンチンから獲得したモンティが太りすぎでダイエットが必要だったり、自分にパスを出されないと不満に思ったオルシが{{仮リンク|レナート・チェザリーニ|it|Renato Cesarini}}を外す要求をするなどトラブルがあったが、それでも前年より総得点を10伸ばし連覇を達成した<ref name="Cerretti73">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 73頁</ref><ref name="Cerretti74">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 74頁</ref>。 |
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1905年にイタリア選手権で初優勝した。1906年にはクラブの紛争によってスイス人のアルフレド・ディック会長がクラブを去り、FBCトリノ(現[[トリノFC]])を創設した<ref name="juvehistory1">{{Cite web|title=レジェンド物語|url=https://www.juventus.com/jp/club/history/the-story-of-a-legend|publisher=juventus.com|accessdate=2022-05-29}}</ref>。 |
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[[File:Felice Placido Borel - 1930s - FBC Juventus.jpg|right|thumb|upright|170px|フェリーチェ・ボレル]] |
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1923年、地元の自動車会社[[フィアット]]社オーナーの[[エドアルド・アニェッリ]]がクラブを買い取り、会長に就任。これが現在まで続くアニェッリ家とフィアットによるユヴェントスへの関与の端緒となる。1925–26シーズンには21年ぶりに、3度目のイタリア選手権優勝を果たした<ref name="juvehistory1"/>。 |
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フィアットの経営哲学をクラブ運営に活かし、[[アニェッリ家]]の強い経済基盤を基にしたチーム作りが行われたが<ref name="Cerretti71">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 71頁</ref>、トリノのユースチームに所属していた{{仮リンク|フェリーチェ・ボレル|it|Felice Borel}}を発掘し無名選手も登用した<ref name="Cerretti76">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 76頁</ref>。契約のトラブルで前年にチームに加わるはずだった{{仮リンク|ピエトロ・セルナジョット|it|Pedro Sernagiotto}}とオルシ、ボレルのトリオは強力で、前年から失点を改善しながらゴール数を維持し2位のアンブロジアーナ・インテルに8もの勝ち点差を付けて3連覇を達成した<ref name="Cerretti76">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 76頁</ref><ref name="Cerretti316">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 316頁</ref>{{Efn|イタリア渡航中にセルナジョットは偽の契約書にサインしてしまい、協会は二重契約状態になったセルナジョットに出場停止処分を下した<ref name="Cerretti76">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 76頁</ref>。}}。1933-34シーズンにはボレルが2年連続で得点王に輝き、4連覇を達成すると守護神のコンビが現役引退した<ref name="Cerretti77">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 77頁</ref><ref name="Cerretti80">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 80頁</ref>。1934-35シーズンの優勝でユヴェントスは5連覇を達成するものの、シーズン中盤に監督が交代しオルシもシーズン終了前にアルゼンチンに帰国した<ref name="Cerretti81">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 81頁</ref>。最終節の時点でアンブロジアーナ・インテルと勝ち点が並んでいた優勝はサイクルの終わりを象徴し、1935年6月15日にエドゥアルド・アニェッリが飛行機事故で亡くなると栄光の時代は終わりを告げた<ref name="Cerretti81">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 81頁</ref>。エドゥアルドの死によってアニェッリ家との関係が途切れることはなかったが<ref name="Agnelli"/>、財政的に問題を抱え黄金期のメンバーを維持することはできなかった<ref name="Cerretti81">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 81頁</ref>。 |
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1937-38シーズンはインテルと最後まで優勝争いをするものの、格下であるリグーリアに敗れ勝ち点差2で優勝を逃すこととなった<ref name="Cerretti87">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 87頁</ref>。一方、[[コッパ・イタリア]]ではトリノを破り初優勝を果たした<ref name="Chris156">[[#Chris 2002|Chris 2002]] 156頁</ref>。それ以外の4シーズンでは優勝争いに絡むことはできなかった<ref name="Cerretti318">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 318頁</ref><ref name="Cerretti319">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 319頁</ref><ref name="Cerretti320">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 320頁</ref>。 |
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=== セリエA発足 - 欧州制覇 === |
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1929年に[[セリエA (サッカー)|セリエA]]が発足。間もない1930年代前半には5シーズン連続の優勝を飾り、クラブの歴史上最初の黄金時代を築いた。1934年の[[1934 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップ・イタリア大会]]に優勝した[[サッカーイタリア代表|イタリア代表]]には、[[アルゼンチン]]出身のFW[[ライムンド・オルシ]]やMF[[ルイス・モンティ]]、代表主将を務めたGK[[ジャンピエロ・コンビ]]ら、実に9人ものユヴェントス選手を含んだ<ref>{{Cite web|title=リッピは暴君か、賢帝か? アズーリをめぐるイタリア大論争。|url=https://number.bunshun.jp/articles/-/14464|publisher=Number|accessdate=2022-05-29|date=2009-11-14}}</ref>。 |
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=== 1940年代 === |
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1947年に[[ジャンニ・アニェッリ]]が会長に就任、クラブは株式会社化された。1940年代はライバルであるACトリノ(現[[トリノFC]])の好調の影に隠れる格好になった。 |
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[[File:Fiat Sen. con Avv.-1940.jpg|right|thumb|upright|200px|ジャンニ・アニェッリ(左)]] |
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1940年代の主役は「グランデ・トリノ」と称された地元のライバルチームのトリノであった<ref name="2000goto50">[[#後藤 2000|後藤 2000]] 50頁</ref>。1940-41シーズンの[[コッパ・イタリア]]を制覇した[[ヴェネツィアFC|ヴェネツィア]]の中心選手である[[ヴァレンティーノ・マッツォーラ]]と[[エツィオ・ロイク]]の争奪戦に敗れ、両選手はトリノの栄光の中心選手となる<ref name="Cerretti93">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 93頁</ref><ref name="Cerretti94">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 94頁</ref>。また、トリノはユヴェントスから、ボレル、{{仮リンク|グリエルモ・ガベット|it|Guglielmo Gabetto}}と{{仮リンク|アルフレド・ボドイーラ|it|Alfredo Bodoira}}を引き抜き、強力なチーム作りを進めていった<ref name="Cerretti97">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 97頁</ref>。トリノの5連覇中は2~4位の好成績を残すが、1942-43シーズンは7ポイント差、1946-47シーズンの2位でも10ポイントの差をつけられてしまった<ref name="Cerretti99">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 99頁</ref><ref name="Cerretti107">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 107頁</ref>{{Efn|1945-46シーズンはトリノに1ポイント差の2位だったが、戦後まもない変則的な開催で8クラブの総当たりで全14試合で行われた<ref name="Cerretti104">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 104頁</ref>。}}。1947年にエドゥアルドの息子[[ジャンニ・アニェッリ]]が会長に就任し、再びアニェッリ家が実権を握ることになった<ref name="Digby35">[[#Digby 2015|Digby 2015]] 35頁</ref>。 |
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[[スペルガの悲劇]]の翌年、不幸にも有力チームがいない1949-50シーズンの選手権を制したのはユヴェントスであった<ref name="Cerretti115">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 115頁</ref>。拡大された外国人枠にはデンマーク人の{{仮リンク|ジョン・ハンセン|en|John Hansen (footballer, born 1924)}}、{{仮リンク|カール・プラエスト|en|Karl Aage Præst}}、アルゼンチン人の{{仮リンク|リナルド・マルティーノ|it|Rinaldo Martino}}が加わり、イタリア人選手も1947-48シーズン得点王の[[ジャンピエロ・ボニペルティ]]をはじめ一流選手が揃っていた<ref name="Cerretti114">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 114頁</ref>。イングランド人監督の{{仮リンク|ジェス・カーヴァー|en|Jesse Carver}}は、母国から[[ゾーンディフェンス]]を持ち込み守備陣から素早く前線にボールを配給させ、攻守にハードワークするトルナンテと呼ばれるサイドのポジション<ref>{{Cite web2|df=ja|title=「位置」と「属性」。カルチョの奥深さを表す2つのポジション名|url=https://www.footballista.jp/special/39931|publisher=footballista|date=2017-11-23|accessdate=2022-11-11}}</ref>を採用し、攻守のバランスを取った時代の先駆けとなるサッカーを展開した<ref name="Cerretti115">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 115頁</ref>。 |
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1957-58シーズン、初めての[[ダブル (サッカー)|ダブル]]を達成したのみならず、通算10回目のリーグ優勝によってステッラ(星)を胸に付けることを認められる最初のクラブになった。このシーズンから1960-61シーズンまでの4シーズンの間に[[セリエA (サッカー)#スクデット|スクデット]]3回、カップ2回を獲得。長らくクラブの最多得点記録者だった[[ジャンピエロ・ボニペルティ]]、[[ジョン・チャールズ]]、[[オマール・シボリ|オマール・シヴォリ]]のFW三人組は「魔法のトリオ (Il Trio Magico)」と呼ばれた。 |
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=== 1950年代 === |
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1960年代以降、欧州のカップ戦でたびたび上位に入ったが、優勝にまでは至らなかった。 |
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[[1948年ロンドンオリンピックのサッカー競技|オリンピック]]での北欧の躍進やハンセンの活躍により、ユヴェントスとミランは{{仮リンク|ヨハネス・プロエゲル|en|Johannes Pløger}}をめぐって争奪戦となる<ref name="Cerretti116">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 116頁</ref>。友人であるハンセンを交渉の席に派遣することでミランを出し抜いたユヴェントスは、代わりに獲得寸前だった[[グンナー・ノルダール]]を融通した<ref name="Cerretti118">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 118頁</ref>。目論みとは違いノルダールは得点王の活躍でミランを優勝に導き、デンマーク人トリオが不発だったユヴェントスは1950-51を3位で終えた<ref name="Cerretti119">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 119頁</ref>{{Efn|ノルダールは後に10年で225ゴールを挙げ、5度の得点王に輝いた<ref name="Cerretti118">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 118頁</ref>。}}。厳しい練習から選手と確執を生んだカーヴァーが監督の座を追われ、後を継いだベルトリーニも1951-52シーズンの途中に退任する<ref name="Cerretti119">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 119頁</ref><ref name="Cerretti122">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 122頁</ref>。首位のチームを率いることになった[[シャーロシ・ジェルジ|ジョルジョ・サロージ]]は戦術的に柔軟性を持った[[ジャンピエロ・ボニペルティ]]を軸に据え、選手権を制しスクデットを奪取した<ref name="Cerretti122">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 122頁</ref>。 |
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[[File:Charles, Sívori and Boniperti in training for Juventus (1957).jpg|right|thumb|upright|200px|魔法のトリオ 左からチャールズ、シヴォリ、ボニペルティ]] |
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[[File:FIFA WC-qualification 2014 - Austria vs Ireland 2013-09-10 - Giovanni Trapattoni 03 (cropped).JPG|left|thumb|upright|170px|ジョヴァンニ・トラパットーニ]] |
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1952-53、1953-54シーズンはわずかながらインテルに及ばず2年連続の2位だったが<ref name="Cerretti329">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 329頁</ref><ref name="Cerretti330">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 330頁</ref>、1954年から57年まで中位に沈み降格の危機さえあった<ref name="Cerretti138">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 138頁</ref><ref name="Cerretti331">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 331頁</ref><ref name="Cerretti332">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 332頁</ref><ref name="Cerretti333">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 333頁</ref>。1955年頃に[[ジャンニ・アニェッリ]]が会長から退いたが、後任のずさんな運営により1年で[[ウンベルト・アニェッリ]]へ交代された<ref name="Cerretti138">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 138頁</ref>。再び手綱を握ったアニェッリ家は再建にあたり、[[ジョン・チャールズ]]を[[リーズ・ユナイテッドFC|リーズ]]から1億1500万リラで、[[CAリーベル・プレート|リーベル・プレート]]に所属していた[[オマール・シボリ|シヴォリ]]の獲得には更に1億9000万リラを費やした<ref name="Cerretti138">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 138頁</ref><ref name="Cerretti140">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 140頁</ref>。「魔法のトリオ (Il Trio Magico)」<ref name="br27">[[#西部 2020|西部 2020]] 27頁</ref>と称されたボニペルティ、シヴォリ、チャールズの攻撃陣と若手選手たちが融合した勢いは凄まじく、2位に8ポイント差を付け10度目の優勝を達成した初めてのクラブとなった<ref name="Cerretti137">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 137頁</ref><ref name="Cerretti140">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 140頁</ref>。1959-60シーズンには、全得点の92のうち50点をシヴォリとチャールズが記録しており11度目の優勝を果たした<ref name="Cerretti147">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 147頁</ref>。 |
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{| style="float:right; margin-left:0.5em; width:190px; border:#99B3FF solid 1px;" |
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|<div style="position:relative;"> |
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[[ファイル:Soccer Field Transparant.svg|210px]] |
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{{Image label|x=0.26|y=0.103|scale=330|text=[[ディノ・ゾフ|<span style="font-size:78%; color:black;">'''ゾフ''']]</span>{{Captain}}}} |
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{{Image label|x=0.06|y=0.29|scale=330|text=[[クラウディオ・ジェンティーレ|<span style="font-size:78%; color:Maroon;">'''ジェンティーレ'''</span>]]}} |
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{{Image label|x=0.18|y=0.22|scale=330|text=[[ガエターノ・シレア|<span style="font-size:78%; color:Maroon;">'''シレア''']]}} |
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{{Image label|x=0.39|y=0.22|scale=330|text=[[セルジオ・ブリオ|<span style="font-size:78%; color:Maroon;">'''ブリオ'''</span>]]}} |
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{{Image label|x=0.43|y=0.29|scale=330|text=[[アントニオ・カブリーニ|<span style="font-size:78%; color:Maroon;">'''カブリーニ'''</span>]]}} |
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{{Image label|x=0.12|y=0.40|scale=330|text=[[マッシモ・ボニーニ|<span style="font-size:78%; color:Navy;">'''ボニーニ'''</span>]]}} |
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{{Image label|x=0.39|y=0.40|scale=330|text=[[マルコ・タルデッリ|<span style="font-size:78%; color:Navy;">'''タルデッリ'''</span>]]}} |
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{{Image label|x=0.26|y=0.52|scale=330|text=[[ミシェル・プラティニ|<span style="font-size:78%; color:Navy;">'''プラティニ'''</span>]]}} |
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{{Image label|x=0.06|y=0.62|scale=330|text=[[ロベルト・ベッテガ|<span style="font-size:78%; color:White;">'''ベッテガ'''</span>]]}} |
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{{Image label|x=0.45|y=0.62|scale=330|text=[[ズビグニェフ・ボニエク|<span style="font-size:78%; color:White;">'''ボニエク'''</span>]]}} |
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{{Image label|x=0.27|y=0.68|scale=330|text=[[パオロ・ロッシ|<span style="font-size:78%; color:White;">'''ロッシ'''</span>]]}} |
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</div> |
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|<small>[[UEFAチャンピオンズカップ 1982-83]]決勝、[[ハンブルガーSV]]戦のスターティングメンバー。</small> |
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1976年に監督に就任した[[ジョバンニ・トラパットーニ]]は、1986年まで続く長期政権下に多くの栄誉をもたらした。まず、初年度の1976-77シーズンにクラブ初の欧州タイトルとなる[[UEFAカップ1976-77|UEFAカップ]]で優勝。[[セリエA (サッカー)|セリエA]]でもコンスタントに優勝し、1981-82シーズンに通算20回目のリーグ優勝を達成。1983-84シーズンに[[UEFAカップウィナーズカップ]]で初優勝。 |
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=== 1960年代 === |
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1984-85シーズンの[[UEFAチャンピオンズカップ 1984-85|UEFAチャンピオンズカップ]](現[[UEFAチャンピオンズリーグ]])において、3度目の決勝進出で初勝利し、念願の欧州チャンピオンに輝いた。試合前にはイングランドのフーリガンの蛮行に端を発する惨劇で多くの死傷者が出た(詳細は[[ヘイゼルの悲劇]]を参照)。同年末には[[インターコンチネンタルカップ (サッカー)|トヨタカップ]]でアルゼンチンの[[AAアルヘンティノス・ジュニアーズ|アルヘンティノス・ジュニアーズ]]をPK戦で破り、世界一のタイトルも手に入れた。 |
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性格が評価されていたチャールズとは対照的にシヴォリの気性は激しく、{{仮リンク|リュビサ・ブロチッチ|en|Ljubiša Broćić}}はシヴォリとの確執で解任となり<ref name="Cerretti140">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 140頁</ref>、ボニペルティを冷遇しシヴォリを擁護した南米派閥のチェザリーニはアニェッリ家の意向とそぐわずテクニカルディレクターを解任され、内部の状況は決して芳しくなかった<ref name="Cerretti138">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 138頁</ref><ref name="Cerretti148">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 148頁</ref><ref name="Cerretti149">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 149頁</ref>。ユヴェントスは連覇を達成するものの、前年ほど圧倒した結果ではなかった<ref name="Cerretti147">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 147頁</ref><ref name="Cerretti149">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 149頁</ref>。その後スクデットから遠ざかっているユヴェントスでは、1964-65シーズンに[[パラグアイ人]]である{{仮リンク|エリベルト・エッレーラ|it|Heriberto Herrera}}が就任するまで監督交代が相次いだ<ref name="Cerretti168">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 168頁</ref><ref name="Cerretti170">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 170頁</ref>。エリベルト・エッレーラは偶然の一致か、「魔術師」と称されたインテル監督の[[エレニオ・エレーラ]]と名前だけでなく手法も通ずるところがあり、規律を重要視しチームを変革した<ref name="Cerretti156">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 156頁</ref><ref name="Cerretti170">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 170頁</ref>。チームのエースだったシヴォリとは噛み合わずナポリへ移籍する要因になるものの、就任から3年目の1966-67シーズンに待望の優勝を果たした<ref name="Cerretti170">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 170頁</ref>。 |
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1930年から1960年代まで10回以上の国内優勝を果たすユヴェントスだったが、ミランとインテルが欧州のカップ戦で2度ずつ優勝しているのとは対照的にタイトル獲得までは至らなかった<ref name="br28">[[#西部 2020|西部 2020]] 28頁</ref>。 |
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=== 1970年代前半 === |
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[[File:Juventus FC - 1973 - Roberto Bettega.jpg|right|thumb|upright|170px|ロベルト・ベッテガ]] |
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エッレーラの後任にふさわしい監督はなかなか見つからず、選手としてグランデ・インテルで活躍した[[アルマンド・ピッキ]]にようやく落ち着いた<ref name="Cerretti185">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 185頁</ref>。ローマから獲得した[[ファビオ・カペッロ]]、{{仮リンク|ルイジアーノ・スピノージ|it|Luciano Spinosi}}、[[ヴァレーゼ・カルチョSSD|ヴァレーゼ]]から[[ロベルト・ベッテガ]]、[[パレルモFC|パレルモ]]から[[フランコ・カウジオ]]が復帰しメンバーが揃いつつあった<ref name="Cerretti186">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 186頁</ref>。1970-71シーズン半ばにピッキの不治の病が発覚すると、[[ズデネク・ゼーマン]]の叔父の[[チェストミール・ヴィツパーレク]]を下部組織のコーチから昇格せざるをえなかった<ref name="br28">[[#西部 2020|西部 2020]] 28頁</ref><ref name="Cerretti186">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 186頁</ref>。1971-72シーズンは前半の折り返し地点で首位に立つものの、ベッテガの病、ヴィツパーレクの身内の不幸と災難が相次ぐ<ref name="Cerretti188">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 188頁</ref>。ここで心が折れなかったユヴェントスは終盤戦を戦い抜き、2位のミラン、トリノとわずか勝ち点差1でピッキらに捧げる優勝を果たした<ref name="Cerretti188">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 188頁</ref>。 |
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1972-73シーズンでは、当時最高の評価を得ていた[[ディノ・ゾフ]]を[[SSCナポリ|ナポリ]]から獲得し守備の穴を埋めることに成功する<ref name="Cerretti189">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 189頁</ref>。しかし、前半戦終了時点ではラツィオとミランが上回り、ユヴェントスは勝ち点で5ポイント離されている状態だった<ref name="Cerretti189">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 189頁</ref>。また、[[UEFAチャンピオンズリーグ|チャンピオンズカップ]]の両立とワールドカップの予選にイタリア代表メンバーが駆り出されていたこともあり、残り6節時点で優勝の可能性はほぼ閉ざされていた<ref name="Cerretti190">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 190頁</ref>。しかしここから怒涛の追い上げを見せたユヴェントスは、最終戦のローマに終了間際の逆転弾で勝利し、最終節で首位ミランとの1ポイント差をひっくり返し連覇を達成した<ref name="Cerretti190">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 190頁</ref>。1972-73シーズンは、初めて[[UEFAチャンピオンズリーグ|チャンピオンズカップ]]の決勝に進んだシーズンでもあった<ref name="br28">[[#西部 2020|西部 2020]] 28頁</ref>。国内リーグと[[コッパ・イタリア]]を制しており3冠がかかる試合には、GKにゾフ、MFにカペッロと[[フランコ・カウジオ]]、FWには[[ジョゼ・アルタフィーニ]]、[[ピエトロ・アナスタシ]]、ベッテガの3トップと初優勝が期待できるメンバーが揃っていた<ref name="br28">[[#西部 2020|西部 2020]] 28頁</ref>。しかし、決勝の相手は3連覇を達成する黄金時代の[[アヤックス・アムステルダム]]で、試合開始わずか5分に[[ヨニー・レップ]]のゴールで失点すると、そこからスコアは動かず0-1で敗戦し優勝を逃した<ref name="Digby5960">[[#Digby 2015|Digby 2015]] 59-60頁</ref>。トンマーゾ・マエストレッリのラツィオに及ばず2位で1973-74シーズンを終えると、翌1974-75シーズンではヴィツパーレクが監督から身を引きオブザーバーとしてクラブに関わることになり、1959年から2年連続優勝を果たしたカルロ・パローラに再び監督を任せることになった<ref name="Cerretti194">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 194頁</ref><ref name="Cerretti195">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 195頁</ref>。前年に加入した[[クラウディオ・ジェンティーレ]]に加え、{{仮リンク|オスカル・ダミアーニ|it|Oscar Damiani}}、後にクラブのレジェンドになる[[ガエターノ・シレア]]を補強したユヴェントスは16度目の優勝を果たす<ref name="Cerretti195">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 195頁</ref>。敗北した試合は2位ナポリよりも多く、得点・失点においても優れた成績ではなかったが、シーズンを通して安定感のある戦いを続けた<ref name="Cerretti196">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 196頁</ref>。1975-76シーズンは前シーズンの調子のまま首位で3月を迎えるが、ミラン戦の引き分け後の3連敗で5ポイントのリードを失い、地元のライバルであるトリノに27年ぶりの優勝を許してしまった<ref name="Cerretti202">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 202頁</ref>。 |
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=== 1970年代後半~1980年代前半 - トラパットーニ政権の黄金期 === |
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[[File:FIFA WC-qualification 2014 - Austria vs Ireland 2013-09-10 - Giovanni Trapattoni 03 (cropped).JPG|right|thumb|upright|170px|ジョヴァンニ・トラパットーニ]] |
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[[ジョバンニ・トラパットーニ]]が監督に就任した1976年から退任する1986年までの10年間に、[[セリエA (サッカー)|セリエA]]では6度の優勝、1976-77シーズンにクラブ初の欧州タイトルとなる[[UEFAカップ1976-77|UEFAカップ]]で優勝しユヴェントスは多くのタイトルを獲得した<ref name="br30">[[#西部 2020|西部 2020]] 30頁</ref>。 |
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37歳でユヴェントスの監督に就任した[[ジョバンニ・トラパットーニ]]は、ミランでDFとして活躍した後に[[ネレオ・ロッコ]]の下で経験を積んだ若手監督だった<ref name="Cerretti203">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 203頁</ref>。チームの中心選手だったアナスタージやカペッロを放出するものの、引き換えに獲得した[[ロベルト・ボニンセーニャ]]、[[ロメオ・ベネッティ]]がその穴を埋め安定感のあるチーム構成になった<ref name="Cerretti203">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 203頁</ref><ref name="Cerretti204">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 204頁</ref>。1976-77シーズンは勢いのあるユヴェントスとトリノが他クラブを15ポイント以上引き離し優勝争いをしており、最終節の勝利により1ポイント上回ったユヴェントスが監督就任1年目での優勝を果たした<ref name="Cerretti204">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 204頁</ref><ref name="Cerretti206">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 206頁</ref><ref name="Cerretti353">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 353頁</ref>。スクデット獲得の直前には[[UEFAカップ1976-77|UEFAカップ]]の決勝に進出し、アウェーゴールの差で[[アスレティック・ビルバオ]]を上回り欧州カップ戦で初優勝を果たした<ref name="Digby66">[[#Digby 2015|Digby 2015]] 66頁</ref><ref name="Digby67">[[#Digby 2015|Digby 2015]] 67頁</ref>。翌シーズンは[[アントニオ・カブリーニ]]の台頭というポジティブな要素があったものの、[[ピエトロ・パオロ・ビルディス]]ら新加入選手は定位置を掴むまでには至らず、地力を押し通した2連覇となった<ref name="Cerretti207">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 207頁</ref><ref name="Cerretti208">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 208頁</ref>。調子の上がらないユヴェントスはその後2シーズンを3位、2位と順位を落とし、その後の2シーズンを再び連覇する<ref name="Cerretti210">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 210頁</ref><ref name="Cerretti355">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 355頁</ref><ref name="Cerretti356">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 356頁</ref><ref name="Cerretti357">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 357頁</ref><ref name="Cerretti358">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 358頁</ref>。1980年からの2回の優勝にはいくつか不可解な判定があったと指摘されており、特に1981-82シーズン最終節でユヴェントスがPKを得て優勝したことは、1ポイント差で2位になったフィオレンティーナが長く抱く遺恨の始まりとされている<ref name="Cerretti217">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 217頁</ref><ref name="Cerretti218">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 218頁</ref><ref name="Cerretti219">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 219頁</ref><ref>{{Cite web2|df=ja|title=遺恨――フィオレンティーナとユベントスの場合|url=https://sports.yahoo.co.jp/column/detail/200809030004-spnavi|author= ポール・ギバルシュタイン|website=sportsnavi|accessdate=2022-11-27|date=2008-09-04}}</ref>。 |
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[[File:Platini ElGráfico.jpg|right|thumb|upright|170px|ミシェル・プラティニ]] |
[[File:Platini ElGráfico.jpg|right|thumb|upright|170px|ミシェル・プラティニ]] |
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1980年に解禁された外国人選手の登録により、1982-83シーズンには[[ズビグニェフ・ボニエク]]、[[ミシェル・プラティニ]]らと契約しプラティニは早速得点王に輝く<ref name="Cerretti216">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 216頁</ref><ref name="Cerretti224">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 224頁</ref>。[[1982 FIFAワールドカップ|ワールドカップ]]の優勝メンバーにユヴェントスから6人も選出されていたこともあり、コンディション面からリーグでは振るわず2位に甘んじるものの、欧州の舞台では2度目の[[UEFAチャンピオンズカップ 1982-83|チャンピオンズカップ]]決勝に進出した<ref name="Cerretti224">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 224頁</ref><ref name="br30">[[#西部 2020|西部 2020]] 30頁</ref>。メンバーにはイタリア代表の[[ディノ・ゾフ]]、[[クラウディオ・ジェンティーレ]]、[[ガエターノ・シレア]]、[[アントニオ・カブリーニ]]、[[マルコ・タルデッリ]]、[[パオロ・ロッシ]]、[[ロベルト・ベッテガ]]が揃い、[[ハンブルガーSV]]に敗れまたしても優勝を逃す<ref name="Digby74">[[#Digby 2015|Digby 2015]] 74頁</ref>。この敗戦で奮起したユヴェントスは、翌年[[UEFAカップウィナーズカップ 1983-84|UEFAカップウィナーズカップ]]を制す<ref name="Digby74">[[#Digby 2015|Digby 2015]] 74頁</ref>。この勝利で出場権を得た[[1984 UEFAスーパーカップ|UEFAスーパーカップ]]では、チャンピオンズリーグ決勝で相対するリヴァプールとの前哨戦となり、2-0で勝利している<ref name="Digby80">[[#Digby 2015|Digby 2015]] 80頁</ref>。 |
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この時代には、セリエAで3シーズン連続得点王となった[[ミシェル・プラティニ]]を始め、後にユヴェントスの最多試合出場記録を作る[[ガエターノ・シレア]]、[[1982 FIFAワールドカップ|FIFAワールドカップ・スペイン大会]]得点王のFW[[パオロ・ロッシ]]らがいた。 |
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1983-84シーズンは前シーズンと同様にユヴェントスとローマの一騎打ちの構図となったが、シーズン中盤過ぎからは首位を明け渡すことなくスクデットを獲得した<ref name="Cerretti228">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 228頁</ref>。また、プラティニが2年連続の得点王に輝いた<ref name="Cerretti228">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 228頁</ref>。1984-85シーズンにも得点王に輝いたプラティニは3年連続で[[バロンドール]]受賞となったが、主力の故障でリーグでは6位と大きく順位を落とした<ref name="Cerretti231">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 231頁</ref><ref name="Cerretti232">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 232頁</ref><ref name="Cerretti361">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 361頁</ref>。残るチャンピオンズカップ獲得へ目標を定めると、準決勝で[[FCジロンダン・ボルドー|ボルドー]]に競り勝ち、[[ボードゥアン国王競技場|ヘイゼル・スタジアム]]で行われる決勝へ駒を進めた<ref name="Digby80">[[#Digby 2015|Digby 2015]] 80頁</ref><ref name="Digby81">[[#Digby 2015|Digby 2015]] 81頁</ref>。決勝ではプラティニのPKゴールを守り切り、クラブ創設から88年目で初の欧州チャンピオンに輝いた<ref name="WSK20149cl">{{Cite book2|df=ja|chapter=ユヴェントス チャンピオンズリーグ史|title=ワールドサッカーキング|volume=2014年9月号|publisher=フロムワン|pages=28-31}}</ref>。しかし、試合前にはリヴァプールサポータを原因とする群衆事故で39人が亡くなっており、心から喜べる戴冠にはならなかった<ref name="WSK20149cl"/><ref name="2019katano59">[[#片野 2019|片野 2019]] 59頁</ref>(詳細は[[ヘイゼルの悲劇]]を参照)。 |
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1980年代後半から1990年代前半にかけて、セリエAではしばらく優勝から遠ざかったが、その間にも[[ロベルト・バッジョ]]等の活躍もあり、欧州では2度の[[UEFAヨーロッパリーグ|UEFAカップ]]優勝を果たした。 |
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1985-86シーズンは、ボニエクとロッシを放出する一方、[[ミカエル・ラウドルップ]]をラツィオから呼び戻し、トリノからは[[アルド・セレーナ]]を獲得した<ref name="Digby83">[[#Digby 2015|Digby 2015]] 83頁</ref>。セレーナの獲得にはサポーターの反発もあったが、シーズンを通して21ゴールと活躍した<ref name="Digby83">[[#Digby 2015|Digby 2015]] 83頁</ref>。残り2節で勝ち点で並んでいたローマとの首位争いを制し22度目の優勝を果たした<ref name="Cerretti234">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 234頁</ref><ref name="Cerretti235">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 235頁</ref>。同年末には[[インターコンチネンタルカップ (サッカー)|トヨタカップ]]でアルゼンチンの[[AAアルヘンティノス・ジュニアーズ|アルヘンティノス・ジュニアーズ]]と対戦し、2-2で決着がつかずPK戦までもつれ込んだものの<ref name="Digby94">[[#Digby 2015|Digby 2015]] 94頁</ref>、GKのタッコーニが2本セーブする活躍で世界一に輝き、この勝利により欧州クラブが獲得できる国際タイトルを全て獲得した初のクラブとなった<ref name="Digby84">[[#Digby 2015|Digby 2015]] 84頁</ref><ref>{{Cite web2|df=ja|title=VICTORY IS IN THE DNA|url=https://www.juventus.com/en/club/trophies|website=juventus.com|accessdate=2023-04-16}}</ref>。後半にはプラティニのテクニカルなボレーシュートのゴールが取り消されており、プラティニが芝生に寝転んで抗議している有名な写真はこの時に撮られたものである<ref name="Digby94">[[#Digby 2015|Digby 2015]] 94頁</ref>。 |
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=== 2度目の欧州制覇 === |
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1994年に[[マルチェロ・リッピ]]が監督に就任すると、初年度の1994-95シーズンに9年ぶりにスクデットを獲得。1995-96シーズンには、後に絶対的な[[フランチャイズ・プレイヤー|バンディエラ]]となる[[アレッサンドロ・デル・ピエロ]]がエースとして活躍、[[ジャンルカ・ヴィアリ|ヴィアリ]]、[[ファブリッツィオ・ラバネッリ|ラバネッリ]]等と3トップを形成し[[UEFAチャンピオンズリーグ]]で2度目の欧州チャンピオンに輝き、同年末のトヨタカップにも勝利した。特にUEFAチャンピオンズリーグでは、その後[[ジネディーヌ・ジダン]]、[[フィリッポ・インザーギ]]、[[ディディエ・デシャン]]等の活躍により1995-96シーズンから3シーズン連続で決勝に進出するという離れ業を成し遂げている。 |
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トラパットーニ監督時代の10年間で、セリエAで6度の優勝、コッパ・イタリアで2度の優勝、チャンピオンズカップ、カップウィナーズカップ、UEFAカップの欧州3大タイトルも制覇した<ref>{{Cite web2|df=ja|title=名伯楽が整えた伝統のイタリア式戦術。勝ちまくった要因を探る|url=https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/football/wfootball/2020/07/02/___split_68/|website=Sportiva|accessdate=2022-12-02|date=2020-07-02}}</ref>。 |
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=== 低迷期 === |
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1998-99シーズンはセリエA3連覇は堅いと予想されていた。しかし、蓋を開けてみると、予想に反して期待を裏切ったシーズンだった。開幕戦こそ[[ペルージャ・カルチョ|ペルージャ]]に勝利したものの、デル・ピエロがシーズンを棒に振るほどの大怪我を負って以降は、無得点試合が何試合も続くほどの慢性的な得点欠乏症に苦しみ、中位に低迷した。[[マルチェロ・リッピ]]が監督を退任した後、[[カルロ・アンチェロッティ]]が監督に就任したが、セリエA優勝には届かなかった。 |
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=== 1980年代後半~1990年代前半 - 低迷期=== |
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=== 不正による2つのスクデット剥奪と史上初の降格 === |
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[[File:Baggio juventus.jpg|right|thumb|upright|170px|ロベルト・バッジョ]] |
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トラパットーニがインテルの監督に就任しプラティニが引退したことで黄金期が終わり、[[ディエゴ・マラドーナ|マラドーナ]]擁する[[SSCナポリ|ナポリ]]や[[シルヴィオ・ベルルスコーニ|ベルルスコーニ]]が会長に就任したミランが台頭するとユヴェントスは長い低迷期に入る<ref name="Cerretti238">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 238頁</ref><ref name="Cerretti240">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 240頁</ref><ref name="Cerretti241">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 241頁</ref>。クラブOBであるゾフに監督を託すも状況は好転せず、プラティニの代わりを期待された[[イアン・ラッシュ]]が振るわない等、補強でも活躍する選手を獲得できなかった<ref name="Cerretti248">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 248頁</ref><ref name="Digby97">[[#Digby 2015|Digby 2015]] 97頁</ref>。1989-90シーズンにはコッパ・イタリアとUEFAカップを制するものの、{{仮リンク|ルイージ・マイフレディ|it|Luigi Maifredi}}に監督の座を譲ることとなる<ref name="Cerretti255">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 255頁</ref>。UEFAカップ決勝の数日後には、対戦相手のフィオレンティーナから花形選手の[[ロベルト・バッジョ]]の引き抜きに成功したが<ref name="Digby103">[[#Digby 2015|Digby 2015]] 103頁</ref><ref name="Digby105">[[#Digby 2015|Digby 2015]] 105頁</ref>、7位と結果を残すことができなかったマイフレディは1年で解任となり、黄金期の監督だったトラパットーニに再び指揮を委ねた<ref name="Cerretti268">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 268頁</ref><ref name="Cerretti367">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 367頁</ref>。[[ジャンルカ・ヴィアッリ]]、[[ディノ・バッジョ]]、[[ファブリッツィオ・ラバネッリ]]、[[アンジェロ・ペルッツィ]]、[[アントニオ・コンテ]]らを補強し優勝争いができるまでチームの力が戻り、ディノとロベルト二人のバッジョの活躍により再びUEFAカップを制するものの、時代遅れとなったカテナチオでは[[アリゴ・サッキ]]の[[ゾーンプレス]]で革新を起こしたミランに及ばず、1985-86シーズン以来のスクデットまでは至らなかった<ref name="Cerretti263">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 263頁</ref><ref name="Cerretti270">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 270頁</ref><ref name="Cerretti274">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 274頁</ref><ref name="SC2017hosoe">{{Cite book2|df=ja|chapter=「ユベントス監督」列伝|author=細江克弥|title=サッカー批評|volume=87号|publisher=双葉社|pages=36-41}}</ref><ref name="Digby110">[[#Digby 2015|Digby 2015]] 110頁</ref><ref name="Digby111">[[#Digby 2015|Digby 2015]] 111頁</ref><ref name="Digby112">[[#Digby 2015|Digby 2015]] 112頁</ref>。 |
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約3年間のブランクを経て、再び[[マルチェロ・リッピ]]が監督に就任すると、てこ入れとして[[ジネディーヌ・ジダン]]と[[フィリッポ・インザーギ]]というこれまでの主力を放出する一方で、[[ダヴィド・トレゼゲ]]、[[パベル・ネドベド]]、[[ジャンルイジ・ブッフォン]]、[[リリアン・テュラム]]らを獲得した。その結果、2001-02及び2002-03シーズンのセリエA連覇を果たす。また、2002-03シーズンにはUEFAチャンピオンズリーグ決勝に駒を進めたが、PK戦の末[[ACミラン]]に敗れる。2003-04シーズンは68ゴールのローマに続く67ゴールであったにも関わらず、[[パオロ・モンテーロ]]の衰えや[[ニコラ・レグロッターリエ]]ら最終ラインのミスに加え、ダービッツが契約延長を拒否したことで事実上の懲罰的な処置として出場機会の減少に繋がり最終的には[[FCバルセロナ]]へ放出。その関係で素早い潰しで炎上を防ぐ中盤のフィルター役がいなくなり最終ラインが早い段階で相手の攻撃に晒される悪循環に陥った為<ref>日本スポーツ企画出版社 2003-2004 EUROPE SOCCER TODAY 完結編10、11頁</ref>、連覇を果たした前シーズンより引き分けが3つ少ないだけ(前シーズンの21勝9分け4敗から21勝6分け7敗)でありながらセリエAで優勝したミランに13ポイント差の3位に終わった事の責任を取り、[[マルチェロ・リッピ]]監督が辞任。フロントは新監督に[[ファビオ・カペッロ]]を指名した。 |
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=== 1990年代後半 - リッピ政権の黄金期 === |
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[[エメルソン・フェレイラ・ダ・ローザ|エメルソン]]や[[ファビオ・カンナヴァーロ]]、[[ズラタン・イブラヒモビッチ]]といった新戦力を補強し、カペッロ監督の下、ユヴェントスは2004-05及び2005-06シーズンを連覇する。しかし、2006年夏にルチアーノ・モッジGMらによる審判への買収・脅迫行為が発覚([[カルチョ・スキャンダル]]も参照)クラブは2004-05及び2005-06シーズンのスクデット剥奪に加え、史上初のセリエB降格処分を受けた。 |
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[[File:Marcello Lippi at China-Iran press conference 20190123.jpg|right|thumb|upright|170px|マルチェロ・リッピ]] |
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体制の刷新が行われ、副会長に[[ロベルト・ベッテガ]]、[[ゼネラルマネージャー|GM]]に[[ルチアーノ・モッジ]]、取締役に{{仮リンク|アントニオ・ジラウド|it|Antonio Giraudo}}が就任し、監督には[[マルチェロ・リッピ]]が招聘された<ref name="Cerretti277">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 277頁</ref>。チーム編成も見直され、[[アンドレアス・メラー]]、[[ジュリオ・セザール・ダ・シウバ|ジュリオ・セザール]]、[[ディノ・バッジョ]]らスター選手を放出した一方、[[チロ・フェラーラ]]、[[ディディエ・デシャン]]、[[パウロ・ソウザ]]ら黄金期を象徴する選手たちが1994年に加入しチームの強化がはかられた<ref name="Cerretti278">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 278頁</ref><ref name="WSD20000106saraba">{{Cite book2|df=ja|chapter=第7章 さらばユベントス|title=ワールドサッカーダイジェスト|volume=2000年1月6日号|publisher=日本スポーツ企画|pages=52-55}}</ref>。前シーズンに加入した[[アレッサンドロ・デル・ピエロ]]も主力として定着し、強力なFW陣が得点を量産しリッピ体制初年度でスクデットを獲得した<ref name="Cerretti278">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 278頁</ref>。リッピはトラパットーニの守備的なメンタリティを捨て、前線からハイプレスを仕掛ける攻撃的なサッカーへ転換を図り、守備にも貢献できる若いデル・ピエロをチームの主軸としていくことに決めたユヴェントスは、1995-96シーズンにミランから届いたバッジョへのオファーを受け入れた<ref name="SC2017hosoe"/><ref name="Cerretti280">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 280頁</ref>。翌シーズンはミランに8ポイント差を離されて優勝を逃すものの<ref name="Cerretti283">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 283頁</ref>、チャンピオンズリーグではレアル・マドリード、ナントを下して決勝に進出した<ref name="2019katano58">[[#片野 2019|片野 2019]] 58頁</ref>。決勝の相手は前年王者でありシーズンで52戦無敗の強さを誇る[[アヤックス・アムステルダム]]だったが、ラヴァネッリのゴールで1-1となったPK戦で勝利し、2度目の欧州制覇を果たした<ref name="WSK20149cl"/><ref name="2019katano57">[[#片野 2019|片野 2019]] 57頁</ref>。副会長の[[ロベルト・ベッテガ]]は、「[[ヘイゼルの悲劇|1985年の優勝]]は祝えなかった、この時を待っていた」と喜びを口にした<ref name="Digby117">[[#Digby 2015|Digby 2015]] 117頁</ref>。更に11月には[[インターコンチネンタルカップ (サッカー)1996|東京の地]]で再び世界一の称号に輝いている<ref name="Digby119">[[#Digby 2015|Digby 2015]] 119頁</ref>。 |
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[[File:Del Piero Juventus 1998.jpg|right|thumb|upright|220px|アレッサンドロ・デル・ピエロ]] |
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=== セリエA昇格から低迷期 === |
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1996-97シーズンには、更に[[ジネディーヌ・ジダン]]、[[パオロ・モンテーロ]]、[[マルク・ユリアーノ]]、[[クリスティアン・ヴィエリ]]らが加わりチームが強化された<ref name="Cerretti286">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 286頁</ref>。ライバルであったミランが大失速し、パルマに競り勝ったユヴェントスはスクデットの奪還に成功する<ref name="Cerretti286">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 286頁</ref><ref name="Cerretti287">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 287頁</ref>。翌シーズンはデル・ピエロと[[フィリッポ・インザーギ|インザーギ]]の「デルピッポ」コンビとジダンの組み合わせでゴールを量産し、連覇を果たしたリッピ監督は4年で3度のリーグ優勝を勝ち取った<ref name="Cerretti290">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 290頁</ref><ref name="WSD20180405">{{Cite book2|df=ja|chapter=記憶に残るユベントスの最強攻撃ユニット「4選」|title=ワールドサッカーダイジェスト|volume=2018年4月5日号|publisher=日本スポーツ企画|pages=51}}</ref>。[[ボスマン判決]]後で移籍が活発になり優勝メンバーが様変わりしたものの、勢いは国内に留まらず攻守にアグレッシブなサッカーの質を高めてチャンピオンズリーグ決勝に3年連続で進出した<ref name="WSK20149cl"/><ref name="2019katano65">[[#片野 2019|片野 2019]] 65頁</ref>。事前予想では有利とされていたものの、流れを掴めなかったユヴェントスは2年連続で決勝敗退となった<ref name="WSK20149cl"/><ref name="2019katano66">[[#片野 2019|片野 2019]] 66頁</ref><ref name="2019katano73">[[#片野 2019|片野 2019]] 73頁</ref>。 |
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[[File:Alessandro Del Piero 2008 cropped.jpg|thumb|upright|アレッサンドロ・デル・ピエロ]] |
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カルチョ・スキャンダルでの厳しい処分による影響や相次ぐ主力放出により、苦戦が予想された2006-07シーズンは、[[アレッサンドロ・デル・ピエロ]]、[[ダヴィド・トレゼゲ]]、[[ジャンルイジ・ブッフォン]]、[[パベル・ネドベド]]などが残留し、[[ディディエ・デシャン]]監督の下、セリエB優勝を決めて1年でのセリエA復帰を果たした。 |
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独立採算体制への移行で選手の入れ替わりが激しかったものの、モッジは監督のサッカーに適合する選手の獲得でリッピをサポートし、4年連続でタイトルを獲得しクラブ史上でも有数の黄金期となった<ref name="WSD20060302">{{Cite book2|df=ja|chapter=ユベントスの10年史|title=ワールドサッカーダイジェスト|volume=2006年3月2日号|publisher=日本スポーツ企画|pages=28-29}}</ref><ref name="SC2017hosoe"/>。 |
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下馬評ではUEFAチャンピオンズリーグへの復帰は難しいだろうと考えられていた2007-08シーズンは予想を覆す勢いで勝利を挙げ3位でシーズンを終え、2008-09シーズンの[[UEFAチャンピオンズリーグ]]予備戦3回戦からの復帰が確定。デル・ピエロとトレゼゲの2トップはリーグ戦合計で41ゴールを挙げ、デル・ピエロは21ゴールで得点王のタイトルを獲得した。 |
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=== 2000年代初頭 === |
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しかし、2008-09シーズンは無冠が決定し、シーズン途中で[[クラウディオ・ラニエリ]]は解任され、かつてユヴェントスのDFとして活躍した[[チロ・フェラーラ]]がシーズン終了まで指揮を執ることとなった。 |
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1998-99シーズンは、11月8日、第8節のウディネーゼ戦において、後半[[アディショナルタイム|ロスタイム]]にデル・ピエロが靭帯損傷の大怪我を負い、直後に同点弾を決められ首位から陥落すると、インザーギやジダンら主力も怪我に苦しみ7位でシーズンを終えることとなった<ref name="WSD20000106">{{Cite book2|df=ja|chapter=ALESSANDRO DEL PIERO 復活宣言|title=ワールドサッカーダイジェスト|volume=2000年1月6日号|publisher=日本スポーツ企画|pages=4-11}}</ref><ref name="151Qoly2015">[[#Qoly 2015|Qoly 2015]] 151頁</ref>{{Efn|勝ち点では5位ローマ、6位ウディネーゼと並んでいるが直接対決の結果等から7位となっている<ref name="Cerretti375">[[#Cerretti 2000|Cerretti 2000]] 375頁</ref><ref>{{Cite web2|df=ja|title=NORME ORGANIZZATIVE INTERNE DELLA F.I.G.C. Art. 51.6|url=https://www.figc.it/media/55325/tit3_noif_art_da47a70_23-06-2017__________12-09-2018.pdf|publisher=FIGC|access-date=2023-02-08}}</ref>。}}。20節のパルマ戦に敗北すると、リッピは急遽辞意を口にしそのまま監督の座を降りてしまう<ref name="WSD20010719">{{Cite book2|df=ja|chapter=JUVENTUS 「栄光との再会」|title=ワールドサッカーダイジェスト|author=Paolo FORCOLIN|translator=利根川晶子|volume=2001年7月19日号|publisher=日本スポーツ企画|pages=32-35}}</ref><ref name="WSD20010719lippi">{{Cite book2|df=ja|chapter=名称たちの挑戦|title=ワールドサッカーダイジェスト|author=Paolo FORCOLIN|translator=小宮良之|volume=2001年7月19日号|publisher=日本スポーツ企画|pages=59}}</ref>。後任には[[カルロ・アンチェロッティ]]が選出されたが、サポーターからの歓迎は受けられなかった<ref name="Digby122">[[#Digby 2015|Digby 2015]] 122頁</ref>。 |
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アンチェロッティが留任して迎えた1999-2000シーズンは、[[ジャンルカ・ザンブロッタ]]、[[エトヴィン・ファン・デル・サール|ファン・デル・サール]]が加入したが、振るわなかった前シーズンのメンバー構成に大きな変化はなく、メディアからも優勝候補とは見られていなかった<ref name="152Qoly2015">[[#Qoly 2015|Qoly 2015]] 152頁</ref><ref name="WSD20000615">{{Cite book2|df=ja|chapter=1999-2000 campionato di SERIE A 激闘の結末|author=片野道郎|title=ワールドサッカーダイジェスト|volume=2000年6月15日号|publisher=日本スポーツ企画|pages=44-49}}</ref>。安定感のある守備に支えられ、徐々に順位を上げ前半戦を首位で折り返すと、スクデット争いはラツィオとの一騎打ちとなった<ref name="WSD20000615"/><ref name="WSD20000106big7">{{Cite book2|df=ja|chapter=ビッグ7の通信簿|title=ワールドサッカーダイジェスト|volume=2000年1月6日号|publisher=日本スポーツ企画|pages=34-35}}</ref>。中盤戦の連勝で勢いに乗ると、残り8試合で2位ラツィオとの差は9まで広がり、メディアもユヴェントスの優勝を有力とした<ref name="WSD20000615"/><ref name="WSD20000420">{{Cite book2|df=ja|chapter=JUVENTUS 栄光へのカウントダウン|title=ワールドサッカーダイジェスト|volume=2000年4月20日号|publisher=日本スポーツ企画|pages=48-51}}</ref>。しかし、直接対決の敗北を含む7試合で3敗を喫すると、最終節の[[ペルージャ・カルチョ|ペルージャ]]戦にも敗北し最後の最後で1ポイント上回られ優勝を逃した<ref name="WSD20000615"/>。 |
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2008-09シーズンが無冠で終わったことから、2009年夏の移籍市場では活発に動き、市場開幕前に[[レアル・マドリード]]よりフリートランスファーで、かつて所属した[[ファビオ・カンナヴァーロ]]を、また、[[ヴェルダー・ブレーメン]]より2450万ユーロで[[ジエゴ・リバス・ダ・クーニャ|ジエゴ]]を、更に移籍金2050万ユーロに加え、[[サッカーイタリア代表|イタリア代表]]経験のあるMF[[マルコ・マルキオンニ]]と引き換えに[[ACFフィオレンティーナ|フィオレンティーナ]]からブラジル代表の[[フェリペ・メロ]]を獲得した。 |
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2000-01シーズンは、戦力は十分と判断し移籍市場では消極的で、層に厚みを持たせるため[[ダヴィド・トレゼゲ]]らを獲得した<ref name="WSD20000907">{{Cite book2|df=ja|chapter=2000-2001 SERIE A ユベントス ビッグ7徹底分析|title=ワールドサッカーダイジェスト|volume=2000年9月7日号|publisher=日本スポーツ企画|pages=8-9}}</ref>。記者の事前予想ではタイトル獲得へのリベンジが期待されていたものの、コッパイタリアで早くも3回戦で敗北すると、チャンピオンズリーグでもグループリーグで最下位になり2つのタイトル争いから脱落してしまう<ref name="WSD20001005">{{Cite book2|df=ja|chapter=2000-2001 セリエA 完全予想|title=ワールドサッカーダイジェスト|author=Alessandro BOCCI|translator=Minato TAKAYAMA|volume=2000年10月5日号|publisher=日本スポーツ企画|pages=6-9}}</ref><ref name="WSD20001221">{{Cite book2|df=ja|chapter=北の逆襲 JUVENTUS|title=ワールドサッカーダイジェスト|author=Paolo FORCOLIN|translator=利根川晶子|volume=2000年12月21日号|publisher=日本スポーツ企画|pages=6-9}}</ref>。11月初めに残されたタイトルがリーグだけというのは19年ぶりとなる不振で、サポーターは練習場やスタジアムで批判の声を上げた<ref name="WSD20001221"/>。移籍市場で積極的に動き、[[ワルテル・サムエル]]や[[ガブリエル・バティストゥータ]]らを獲得したローマほどの勢いはなかったが、10節終了時点で2位につけスクデット争いに望みをかけた<ref name="WSD20001005"/><ref name="WSD20010104">{{Cite book2|df=ja|chapter=カルチョ通信簿|title=ワールドサッカーダイジェスト|volume=2001年1月4日号|publisher=日本スポーツ企画|pages=16}}</ref>。第29節は首位ローマと直接対決となり勝ち点差6を縮めるチャンスであったが、[[中田英寿]]が2得点に絡み終了間際に同点となり追撃に失敗する<ref name="WSD20010607">{{Cite book2|df=ja|chapter=カペッロの英断 中田の投入ですべてが変わった|title=ワールドサッカーダイジェスト|volume=2001年6月7日号|publisher=日本スポーツ企画|pages=40-41}}</ref>。最終節の逆転優勝に望みをかけたが叶わず、2年連続で2位という結果でアンチェロッティは監督の座から退くこととなった<ref name="WSD20010705">{{Cite book2|df=ja|chapter=ユベントスの嘆息 奇跡は起こらず…|title=ワールドサッカーダイジェスト|volume=2001年7月5日号|publisher=日本スポーツ企画|pages=6}}</ref>。アンチェロッティには次シーズンの契約が残っていたが、リッピの監督就任の確約を得たクラブから最終節直前に解雇通知を受け取ることとなった<ref name="WSD20010719"/>。 |
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2009-10シーズンは昨季途中から引き続きフェラーラの指揮の下、開幕当初は勝ち星を重ねることができたものの、徐々に成績を落としていき、チャンピオンズリーグはグループリーグで敗退、21節を終えた時点で首位と勝ち点16差を付けられるなどチームは低迷する。コッパ・イタリアも敗退が決まるとクラブはフェラーラを解任。後任として[[アルベルト・ザッケローニ]]の監督就任が発表された。36節[[カルチョ・カターニア|カターニア]]戦で引き分け、来季のチャンピオンズリーグ出場権が消滅してしまった。このシーズン結局7位に終わる。 |
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リッピ時代の補強の成功とは打って変わって、アンチェロッティが就任してから獲得した選手がなかなか主力として定着せず<ref name="WSD20001221"/>、 |
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=== アンドレア・アニエッリ就任と盟主復活へ === |
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ジダンやデル・ピエロのような代えのきかないタレントの調子に左右され続けた<ref name="WSD20000106"/>。アンチェロッティは「ユヴェントスで監督を務めることは楽しいか?」というインタビューに「ノー」と答えており<ref name="2000goto23">[[#後藤 2000|後藤 2000]] 23頁</ref>、ファミリーのようだった[[パルマ・カルチョ1913|パルマ]]監督時代と比べてユヴェントスは会社のようだったと回想している<ref>{{Cite |和書|author=カルロ・アンチェロッティ|title=戦術としての監督|page=34|date=2018|publisher=[[KADOKAWA]]|isbn=978-4041051627|}}</ref>。 |
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アレッシオ・セッコSD(スポーツディレクター)らフロント陣の改造が行われ、会長にアンドレア・アニェッリが就任し、GD(ゼネラルディレクター)に[[ジュゼッペ・マロッタ]]を招聘。監督には[[ルイジ・デルネーリ]]が就任。 |
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=== 2000年代前半 第二次リッピ政権=== |
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2011年、セリエAのチームとしては珍しい[[チアリーダー|チアリーディング]]チームが結成され、[[フロムワン]]の雑誌「[[CALCIO2002]]」(2011年3月号)に紹介された。チアリーダーの面々はホームスタジアムでの入場セレモニーやスタンドの応援だけにとどまらず、トリノの街角で選手と同じユニフォームとチームカラーの黒と白の大きい[[ポンポン]]を振りかざしてのゲリラ的パフォーマンスを繰り広げるなどしている。セリエAのクラブではチアリーダーはこれまで登場したことがないことから、注目された。 |
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[[File:Nedved vs Chinese Olympic Team.jpg|right|thumb|upright|250px|パベル・ネドベド]] |
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2001年5月6日のローマ戦直後、モッジはリッピへ新シーズンの監督を打診する<ref name="WSD20010719"/>。バルセロナからもオファーを受け取っていたリッピだったが、最終的にユヴェントスを選んだ<ref name="WSD20010719lippi"/>。移籍市場では従来の堅実な方針を転換し、チームの大改革に取り組んだ<ref name="WSD20010906">{{Cite book2|df=ja|chapter=カルロ・アンチェロッティのS級カルチョ講座|author=Carlo ANCELOTTI|translator=片野道郎|title=ワールドサッカーダイジェスト|volume=2001年9月6日号|publisher=日本スポーツ企画|pages=16}}</ref>。[[フィリッポ・インザーギ]]と[[ジネディーヌ・ジダン]]の移籍により巨額の資金を獲得すると、リーグ屈指の選手である[[パベル・ネドベド]]、[[ジャンルイジ・ブッフォン]]、[[リリアン・テュラム]]を引き抜いた<ref name="WSD20010906"/><ref name="WSD20010802">{{Cite book2|df=ja|chapter=2001-2002 狂乱のメルカート|author=Paolo VIGANO|translator=Minato TAKAYAMA|title=ワールドサッカーダイジェスト|volume=2001年8月2日号|publisher=日本スポーツ企画|pages=4-7}}</ref>。優勝経験監督が帰還したものの、主力級選手の入れ替えにより評価が未知数なシーズンスタートとなった<ref name="WSD20010816">{{Cite book2|df=ja|chapter=2001-2002 SERIE A ビッグ6徹底分析|title=ワールドサッカーダイジェスト|volume=2001年8月16日号|publisher=日本スポーツ企画|pages=16-17}}</ref>。開幕節を4-0で勝利し不安を吹き飛ばしたかに思えたのは束の間で<ref name="WSD20010920">{{Cite book2|df=ja|chapter=新生ユベントスにはジダン離脱の傷跡すら見当たらなかった|title=ワールドサッカーダイジェスト|volume=2001年9月20日号|publisher=日本スポーツ企画|pages=8-9}}</ref>、出場停止処分が解けたダーヴィッツとネドヴェドの相性が噛み合わず、9月15日から2カ月勝利することができない不調で、第14節時点で首位インテルと9ポイント離された6位に沈んでいた<ref name="utsumi20151">{{Cite book2|df=ja|chapter=あの「5月5日」はどん底の前半から|author=内海浩子|title=footballista|volume=2015年1月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=35}}</ref><ref name="WSD20020103">{{Cite book2|df=ja|chapter=2001-02 EUROPEAN LEAGUE ビッグクラブの通信簿|title=ワールドサッカーダイジェスト|volume=2002年1月3日号|publisher=日本スポーツ企画|pages=49}}</ref>。しかし後半戦になると、新戦力のネドヴェドがトップ下のポジションを掴み、トレゼゲ、デル・ピエロと強力な攻撃陣となってからは連勝で上位に浮上する<ref name="WSD20020221">{{Cite book2|df=ja|chapter=2001-2002 Canpionato di SERIE A JUVEが来た!!|title=ワールドサッカーダイジェスト|volume=2002年2月21日号|publisher=日本スポーツ企画|pages=49}}</ref>。残り5試合の時点で首位と6ポイントの差があったが、最終節までの5連勝で1ポイント上回り大逆転優勝を果たした<ref name="utsumi20151"/><ref name="WSD20020606">{{Cite book2|df=ja|chapter=カルロ・アンチェロッティのS級カルチョ講座 第10回 2001-02シーズン セリエA総括|author=Carlo ANCELOTTI|translator=片野道郎|title=ワールドサッカーダイジェスト|volume=2002年6月6日号|publisher=日本スポーツ企画|pages=54-56}}</ref>。 |
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続くシーズンではリーグ最少失点を記録した守備陣を維持し、中盤に[[マウロ・カモラネージ]]、トレゼゲが負傷した攻撃陣に[[マルコ・ディ・ヴァイオ]]が加わった<ref name="WSD20021003">{{Cite book2|df=ja|chapter=2002-2003 Campionato di SERIE A JUVENTUS|title=ワールドサッカーダイジェスト|volume=2002年10月3日号|publisher=日本スポーツ企画|pages=34}}</ref>。安定感のある守備で前半戦を1敗で乗り切ると<ref name="WSD20030102">{{Cite book2|df=ja|chapter=冬の通信簿|title=ワールドサッカーダイジェスト|volume=2003年1月2日号|publisher=日本スポーツ企画|pages=10}}</ref>、中盤戦の11試合で10勝1分けと勢いに乗り<ref name="WSD20030605matome">{{Cite book2|df=ja|chapter=ヨーロッパが変わる「今シーズンのまとめ」&「新シーズンの展望」|title=ワールドサッカーダイジェスト|volume=2003年6月5日号|publisher=日本スポーツ企画|pages=10-11}}</ref>、最終節を待たずに優勝が決定するのは5年ぶりのことであった<ref name="WSD20030619">{{Cite book2|df=ja|chapter=CALCIO 解体新書 チームスピリットの勝利|author=Simone BOLDINI|translator=片野道郎|title=ワールドサッカーダイジェスト|volume=2003年6月19日号|publisher=日本スポーツ企画|pages=26-29}}</ref>。FWの調子が万全とはいえないシーズンだったが、リッピは攻守に切り替えが早いチーム戦術を浸透させ、その中でネドベドは獅子奮迅の活躍を見せた<ref name="WSD20030619"/><ref name="WSD20030605serie">{{Cite book2|df=ja|chapter=「2002-2003シーズン総評」ヨーロッパ3大リーグの「謎解き」セリエA編|author=Antonio FINCO|translator=片野道郎|title=ワールドサッカーダイジェスト|volume=2003年6月5日号|publisher=日本スポーツ企画|pages=28-29}}</ref>。チャンピオンズリーグでは決勝に進出し、[[ACミラン]]と初のイタリア勢対決となった<ref name="WSD20030605cl">{{Cite book2|df=ja|chapter=2002-2003 CHAMPIONS LEAGUE FINAL JUVENTUS vs AC MILAN イタリアの流儀|author=Jiro YOSHIDA|title=ワールドサッカーダイジェスト|volume=2003年6月5日号|publisher=日本スポーツ企画|pages=26-29}}</ref>。リーグ優勝の立役者のネドヴェドを出場停止で欠き、トゥドール、ダーヴィッツの故障で効果的な交代策を講じれず、メディアによって「史上最も退屈なファイナル」、「退屈な試合」と形容されたこの試合は延長含めた120分でスコアが動くことはなかった<ref name="WSD20030605cl"/><ref>{{Cite web2|df=ja|title=なぜ、頂上決戦は「最も退屈なファイナル」になったのか?【CL決勝 同国対決の激闘史/セリエA編】|url=https://www.soccer-king.jp/news/world/cl/20190528/941808.html|author=細江克弥|website=サッカーキング|accessdate=2023-03-11|date=2019-05-28}}</ref>。PK戦ではブッフォンが2本のシュートをセーブするものの、相手GKの[[ネウソン・デ・ジェズス・シウヴァ|ジーダ]]から2本のゴールしか奪えず、あと一歩のところで優勝を逃すこととなった<ref name="WSD20030605cl"/>。 |
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2010-11シーズン中盤以降の失速により、最終的に前年度と同じ7位となった。また、[[UEFAヨーロッパリーグ|ヨーロッパリーグ]]ではグループリーグ敗退。デルネーリを解任し、クラブOBで[[SSローブル・シエーナ|ACシエーナ]]をセリエA昇格へ導いた[[アントニオ・コンテ]]を監督に招聘。 |
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2003-04シーズンは連覇を達成したメンバーに大きな変更はなく、開幕前から3連覇に期待が寄せられた<ref name="WSD20030821">{{Cite book2|df=ja|chapter=2003-2004 EUROPEAN LEAGUE シーズン展望 JUVENTUS|title=ワールドサッカーダイジェスト|volume=2003年8月21日号|publisher=日本スポーツ企画|pages=10-11}}</ref>。しかし11節、12節の連敗で順位を落としたことに加え<ref name="WSD20040101">{{Cite book2|df=ja|chapter=前半戦総括「冬の通信簿」|title=ワールドサッカーダイジェスト|volume=2004年1月1日号|publisher=日本スポーツ企画|pages=10}}</ref>、[[エドガー・ダーヴィッツ]]との関係が悪化し冬にバルセロナに放出すると、守備にほころびが出始め最終的に42失点を記録してしまう<ref name="SK202103hosoe64">{{Cite book2|df=ja|chapter=白と黒、光と闇の20年史|title=サッカーキング|author=細江克弥|volume=2021年3月号|publisher=フロムワン|pages=64-65}}</ref><ref name="koly14">[[#koly 2004|koly 2004]] 14頁</ref>。前年のチャンピオンズリーグにおける敗戦で「来年このタイトルを獲得できなければ、ユーベを去る」という発言をしていたリッピだが、最低限のノルマであるチャンピオンズリーグ出場権を獲得すると退任を発表し、第2次リッピ政権は幕を閉じることとなった<ref name="SK202103hosoe64"/><ref name="WSD20040219">{{Cite book2|df=ja|chapter=ユベントスをめぐる噂|author=Antonio FINCO|title=ワールドサッカーダイジェスト|volume=2004年2月19日号|publisher=日本スポーツ企画|pages=15}}</ref>。 |
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2011-12シーズンに向けてユヴェントスのオーナー陣は増資を決定し、1億2000万ユーロの補強資金が用意された。このうち3700万ユーロは昨季レンタルで獲得した[[ファビオ・クアリャレッラ]]([[SSCナポリ]])を3年契約、[[アレッサンドロ・マトリ]]([[カリアリ・カルチョ|カリアリ]])を4年契約、[[シモーネ・ペペ]]、[[マルコ・モッタ]](ともに[[ウディネーゼ・カルチョ|ウディネーゼ]])を4年契約で、完全移籍で獲得するのに使われた。スイス代表の[[レト・ツィークラー]]、ACミランでの契約延長に合意しなかったイタリア代表MF[[アンドレア・ピルロ]]をフリーで獲得した。[[フェリペ・メロ]]や[[モハメド・シソッコ]]を売却する一方で、[[ステファン・リヒトシュタイナー]]や[[アルトゥーロ・ビダル]]、[[ミルコ・ヴチニッチ]]を獲得した。 |
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=== 2004-06 カペッロ政権=== |
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2011年9月、イタリアでは初めてのクラブ占有のスタジアム、[[ユヴェントス・スタジアム]]が完成した。スタジアム完成後初のシーズンを23勝15分の無敗で優勝し、セリエA復帰後初優勝を達成した。なお、今回で公式には28回目の優勝であるが、カルチョ・スキャンダルで剥奪された分も含めて30回目の優勝だと主張しており、「30 Sul Campo」(フィールド上では30回)の文字をユニフォームに入れている。このシーズン限りで[[フランチャイズ・プレイヤー|バンディエラ]]でもあるキャプテンの[[アレッサンドロ・デル・ピエロ]]がユヴェントスのユニフォームを脱ぐことが決定した。その後、デル・ピエロは[[シドニーFC]]に移籍が決定。 |
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[[File:Russia-Aizer (4).jpg|right|thumb|upright|180px|ファビオ・カペッロ]] |
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後任の監督としてデシャンが有力とされている中、2004年5月27日にローマから[[ファビオ・カペッロ]]を引き抜いたことが急遽発表された<ref name="WSD20040617">{{Cite book2|df=ja|chapter=THE JUDGE その選択は正しいか?|author=Antonio FINCO|title=ワールドサッカーダイジェスト|volume=2004年6月17日号|publisher=日本スポーツ企画|pages=65}}</ref>{{Efn|ローマ監督時代にカペッロは公にモッジを批判し、モッジもそれに応戦する形で舌戦を繰り広げていたため、二人が同じクラブで仕事をすることはありえないとみられていた<ref name="Digby139">[[#Digby 2015|Digby 2015]] 139-140頁</ref>。}}。カペッロの教え子である[[エメルソン・フェレイラ・ダ・ローザ|エメルソン]]をローマから連れてくることに成功するものの、新監督を迎えるための即戦力補強の動きは見られなかった<ref name="WSD20040819">{{Cite book2|df=ja|chapter=ヨーロッパ109クラブの「開幕フォーメーション」JUVENTUS|title=ワールドサッカーダイジェスト|volume=2004年8月19日号|publisher=日本スポーツ企画|pages=9}}</ref>。しかし、移籍期間最終日である8月31日に[[ファビオ・カンナヴァーロ]]、[[ズラタン・イブラヒモビッチ]]の2選手の獲得を発表する<ref name="WSD20041007">{{Cite book2|df=ja|chapter=「8・31」の舞台裏|author=Antonio FINCO|translator=片野道郎|title=ワールドサッカーダイジェスト|volume=2004年10月7日号|publisher=日本スポーツ企画|pages=4-7}}</ref>。特にイブラヒモビッチの交渉は水面下で行われており、電撃的な移籍ニュースとなった<ref name="WSD20041007"/>。前シーズンの課題であった守備の不安定さ、ダーヴィッツが抜けた穴、怪我がちのトレゼゲに新戦力が完全な解答となり、新体制初年度での優勝を果たした<ref name="WSD20050616">{{Cite book2|df=ja|chapter=2004-05 SERIE A CHAMPIONS JUVENTUS|title=ワールドサッカーダイジェスト|volume=2005年6月16日号|publisher=日本スポーツ企画|pages=46-47}}</ref>。 |
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2005-06シーズンは、プレシーズンマッチでブッフォンが負傷するアクシデントがあったものの、優勝メンバーに[[パトリック・ヴィエラ]]が加わったことでチームが強化され、セリエA記録となる開幕9連勝という最高のスタートを切った<ref name="WSD20051201">{{Cite book2|df=ja|chapter=CALCIO 解体新書 JUVENTUS 完全無欠の信憑性|author=Simone BOLDINI|translator=片野道郎|title=ワールドサッカーダイジェスト|volume=2005年12月1日号|publisher=日本スポーツ企画|pages=40-43}}</ref>。[[ターンオーバー]]を好まないカペッロの方針で、シーズン中盤には選手に疲労が見られたが<ref name="WSD20051201maurizio">{{Cite book2|df=ja|chapter=先行逃げ切りは妥当な策?|author=Maurizio CROSETTI|translator=片野道郎|title=ワールドサッカーダイジェスト|volume=2005年12月1日号|publisher=日本スポーツ企画|pages=28}}</ref>、シーズンを通して敗戦は1試合のみで、勝ち点91を積み上げ2連覇を達成した<ref name="SK202103hosoe66">{{Cite book2|df=ja|chapter=白と黒、光と闇の20年史|title=サッカーキング|author=細江克弥|volume=2021年3月号|publisher=フロムワン|pages=66-67}}</ref>。 |
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2012-13シーズンは、[[クワドォー・アサモア]]と[[マウリシオ・イスラ]]のウディネーゼからのコンビや[[ポール・ポグバ]]らを獲得したが監督のコンテがシエナ時代の八百長の報告義務違反で処分され、10ヶ月出場停止となったが(4ヶ月に軽減)、2013年5月5日に連覇を果たした。また、3シーズンぶりの[[UEFAチャンピオンズリーグ 2012-13|チャンピオンズリーグ]]では、グループリーグを突破するも準々決勝で[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]にホーム・アウェーとも2-0で敗れた。 |
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シーズン末の5月初旬に[[カルチョ・スキャンダル]]の問題が噴出し、FIGCによる裁判により2004-05、2005-06シーズンの優勝の剥奪と[[セリエB (サッカー)|セリエB]]への降格という判決が下された<ref name="WSD20060803">{{Cite book2|df=ja|chapter=緊急レポート JUVENTUS カルチョ・スキャンダルの後始末|author=片野道郎|author2=Antonio FINCO|title=ワールドサッカーダイジェスト|volume=2006年8月3日号|publisher=日本スポーツ企画|pages=32-35}}</ref><ref name="WSD20060817">{{Cite book2|df=ja|chapter=名門解体 セリエB降格でユベントスはどう変わるのか|title=ワールドサッカーダイジェスト|volume=2006年8月17日号|publisher=日本スポーツ企画|pages=56-57}}</ref>。主力選手のエメルソン、カンナヴァーロ、テュラム、ザンブロッタ、ヴィエラ、イブラヒモビッチが退団し戦力を大きく失うことになった<ref name="WSD20060817"/><ref name="WSD20061102">{{Cite book2|df=ja|chapter=名門クラブの「内幕」 SERIE B編 JUVENTUS|author=片野道郎|title=ワールドサッカーダイジェスト|volume=2006年11月2日号|publisher=日本スポーツ企画|pages=28-29}}</ref>。 |
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2013-14シーズンは、2013年1月に獲得が内定していた[[フェルナンド・ジョレンテ]]や、デル・ピエロが着用していた「10番」を継ぐ[[カルロス・テベス]]、同じ街の[[トリノFC]]生え抜きの[[アンジェロ・オグボンナ]]を獲得。3節にインテルとのイタリアダービーに引き分け、8節のフィオレンティーナ戦でも2-0から逆転負けし、当時首位で開幕10連勝のセリエA新記録を更新したローマとの勝ち点差が4となる。しかしローマがその後の4戦を続け様にドローで終えると間隙を縫って勝ちを積み重ね13節から再び首位に浮上。まだシーズンの3分の1しか消化していない時点でローマこそ勝ち点差が1だったが、ナポリに6、インテルに8、フィオレンティーナに10の勝ち点差をつけ、敗れたフィオレンティーナ戦以降12連勝。その中には2014年1月5日に行われた新年最初のセリエAにあたるローマとの頂上決戦も含まれ(3-0で快勝)、ホーム戦全勝でリーグ3連覇を達成し、公式に30回目の優勝を果たした。また、このシーズンにチームが積み上げた勝ち点「102」は、欧州主要リーグの最多勝ち点記録を更新した。その一方で[[UEFAチャンピオンズリーグ 2013-14|チャンピオンズリーグ]]は、勝ちを計算出来た筈の[[FCコペンハーゲン]]と[[ガラタサライSK (サッカー)|ガラタサライ]]に引き分け、アンチェロッティが就任したレアル・マドリードの敵地で敗れ3連敗とヨーロッパ戦線では躓き、FCコペンハーゲンのホームでやっと初勝利を挙げ、最終戦にあたる敵地の[[トルコ・テレコム・アリーナ|ガラタサライホーム]]での悪天候による再試合といったハプニングもあり、翌日に再開された試合では引き分けてもベスト16に入れた状況だった為当時勝ち点4でグループ3位、このままではグループリーグ3位となって[[UEFAヨーロッパリーグ 2013-14|ヨーロッパリーグ]]に回る為、勝たなければならない状況で諦めない姿勢を見せたトルコの[[ガラタサライSK (サッカー)|ガラタサライ]]の抵抗に遭い、勝利への執念を見せなかったツケが[[ヴェスレイ・スナイデル]]の一発で1-0と沈む形で回り、グループリーグ3位で敗退。引き分け狙いの油断が招いた悲劇がイタリアでは記録的な強さを見せたシーズンの汚点を残す羽目になった。3位で敗退した事で回ってきた[[UEFAヨーロッパリーグ 2013-14|ヨーロッパリーグ]]は、ベスト32からのスタート。[[トラブゾンスポル・クラブ (サッカー)|トラブゾンスポル]]には2戦合計4-0と快勝し、ベスト16では同じイタリアのフィオレンティーナから失点が目立つようになり、フィオレンティーナ戦は2戦合計2-1、かつてリーグ7連覇を果たした[[オリンピック・リヨン]]との準々決勝でも3-1で勝ち上がり、決勝がホームグラウンドのユヴェントス・スタジアムであった為、地元開催の決勝進出が後半戦の目標だったが準決勝で国内3冠を果たしポルトガルを牛耳った[[SLベンフィカ|ベンフィカ]]と対戦し初戦の2-1で敗れた試合を取り戻せず、ホームでスコアレスドローを演じてしまいベスト4で敗退となった。 |
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{{Main|#カルチョ・ポリ}} |
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=== セリエBの戦い === |
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2014-15シーズンの夏の移籍市場においては、[[アルバロ・モラタ]]や[[パトリス・エブラ]]、[[ロベルト・ペレイラ]]らを獲得。しかし開幕前のプレシーズンキャンプ中、7月15日に監督のコンテが突然辞任。翌日、元ミラン監督である[[マッシミリアーノ・アッレグリ]]の監督就任が決定した。このシーズンは4試合を残してリーグ戦4連覇を達成、[[コッパ・イタリア]]では[[SSラツィオ|ラツィオ]]を延長戦の末2-1で下し、20年ぶりの10回目となるコッパ・イタリア制覇を果たした。[[UEFAチャンピオンズリーグ 2014-15|チャンピオンズリーグ]]では、準決勝で前回チャンピオンの[[レアル・マドリード]]を2戦合計3-2で下し12年ぶりの決勝進出を果たした。決勝では同じく2冠を達成したバルサとお互いに3冠を賭けて対戦したが、試合開始早々に失点し、追いつくも再び勝ち越され、結果的に3-1で敗れた。これにより歴代最多となる6度目の準優勝に終わった。 |
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カルチョ・ポリでの厳しい処分により経営陣は刷新を迫られ、それまでサッカー界に関わりのなかった[[ジョヴァンニ・コボッリ・ジッリ]]が会長に、[[:en:Jean-Claude Blanc|ジャン=クロード・ブラン]]が代表取締役に就任した<ref name="フットボリスタ20061101">{{Cite book2|df=ja|chapter=CALCIOおもてうら 第83回 ユベントスFC株式会社の現在と未来|author=片野道郎|title=footballista|volume=2006年11月1日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=26}}</ref>。また、2005-06シーズンの経営赤字は3545万ユーロ(約53億円)になっており、前年から赤字が10倍に膨れ上がるほど厳しい状態だった<ref name="フットボリスタ20061101"/>。 |
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さらに、勝ち点を-17した状態から[[セリエB (サッカー)|セリエB]]を戦わなければならなかった<ref name="フットボリスタ20061025">{{Cite book2|df=ja|chapter=ユベントス セリエA昇格プロジェクト①|author=佐藤貴洋|title=footballista|volume=2006年10月25日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=19}}</ref>。クラブOBのデシャンに監督を託すと、開幕戦引き分け後の6連勝で8節には早くも借金を返済し、カルチョ・ポリの再審議により勝ち点マイナスは9まで軽減されることになった<ref name="SC2017hosoe"/><ref name="フットボリスタ20061025"/><ref name="フットボリスタ20061101katano">{{Cite book2|df=ja|chapter=Round Up|author=片野道郎|title=footballista|volume=2006年11月1日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=14}}</ref>。2007年1月20日には、デルピエロの500試合目となったバーリ戦に勝利し単独首位に立つと<ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=Round Up|author=片野道郎|title=footballista|volume=2007年1月24日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=15}}</ref><ref>{{Cite web2|df=ja|title=<サッカー セリエB>デル・ピエロ ユベントス通算500試合目の出場を果たす - フランス|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2169966|publisher=AFP|date=2007-01-21|accessdate=2022-09-02}}</ref>、2007年5月19日、閉幕まで3節を残し1年でのセリエA復帰を決めた<ref>{{Cite web2|df=ja|title=サッカー=ユベントス、来季からセリエA復帰|url=https://jp.reuters.com/article/idJPJAPAN-26048020070520|publisher=reuters|date=2007-05-20|accessdate=2022-09-03}}</ref><ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=SerieB Giornata39|author=内海浩子|title=footballista|volume=2007年5月23日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=21}}</ref>。セリエBは所属22クラブ、6月末までシーズンが続く過酷なリーグだが<ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=A以上? 過酷さを増す"飢えた獣"の闘い|author=片野道郎|title=footballista|volume=2009年4月1日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=28}}</ref>、セリエBでの闘いについて、ブッフォンは「ファンと触れ合うことと、プレーすることの喜びを再発見したんだ。」とポジティブに振り返っているが<ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=BとCLの距離感|translator=内海浩子|author=エマヌエーレ・ガンバ|title=footballista|volume=2007年6月6日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=4-5}}</ref>、ネドヴェドは「セリエBでの1年は厳しく、困難で、長く、骨の折れるだった。」と述べている<ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=終わらない疾走|translator=内海浩子|author=エマヌエーレ・ガンバ|title=footballista|volume=2007年8月22日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=4-5}}</ref>。また、20ゴールで得点王を獲得したデルピエロは、降格した年にも関わらず「もう一度体験したい時」に2006年を挙げている<ref>{{Cite web2|df=ja|title=40歳を迎えたデル・ピエロ「キャリア最高の瞬間は2006年」。W杯制覇も2部降格も成長の一因に|url=https://www.footballchannel.jp/2014/11/09/post55001/|publisher=フットボールチャンネル|date=2014-11-09|accessdate=2022-09-06}}</ref>。一方、カモラネージやサラジェタら数人の選手がデシャンと問題を抱え、1年での復帰に貢献したデシャンはクラブを去ることになった<ref name="SC2017hosoe"/>。 |
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=== 安定感のない新体制 === |
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2015-16シーズン前にはテベス、ピルロ、ビダルといった主力に加え、ジョレンテやオグボンナを放出する一方、[[パウロ・ディバラ]]、[[マリオ・マンジュキッチ]]、[[サミ・ケディラ]]、[[アレックス・サンドロ・ロボ・シウバ|アレックス・サンドロ]]、[[フアン・クアドラード]]、[[シモーネ・ザザ]]、[[ダニエレ・ルガーニ]]、[[アンデルソン・エルナネス・デ・カルヴァーリョ・アンドラーデ・リマ|エルナネス]]といった新戦力を獲得した。[[SSラツィオ]]との[[スーペルコッパ・イタリアーナ]]は制覇したものの、クラブ史上初の開幕からの2連敗や開幕からの10試合で3勝3分4敗という不振ぶりであった、2015年10月31日のトリノFCとの[[デルビー・デッラ・モーレ|トリノダービー]]からのクラブ新記録の15連勝で首位に浮上。その後1度の引き分けを挟むと9連勝。3試合を残して4月25日に優勝を決め、セリエA史上4チーム目となる5連覇を達成した。コッパ・イタリアでは決勝に勝ち進み、5月21日のACミランとの決勝では0-0で延長戦に入るも延長戦後半に途中出場のモラタがゴールを挙げ、1-0で勝利し連覇を達成した。これで2年連続の国内二冠を達成。またスーペルコッパ・イタリアーナを含めて史上初のイタリア国内三冠を達成した。また、キャプテン・ブッフォンが2016年3月20日のトリノとのトリノダービーで1993-94シーズンに元イタリア代表GK[[セバスティアーノ・ロッシ]]が記録した929分のセリエAにおける無失点記録を更新する「974分」の無失点記録を達成した。[[UEFAチャンピオンズリーグ 2015-16|UEFAチャンピオンズリーグ]]では、ベスト16でバイエルンと対戦。ホームアウェー共に2-2、180分で合計4-4のスコアとなり延長戦にもつれこんだ。しかし、延長戦で2点を決められ敗退した。 |
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セリエB優勝が決定した2007年5月26日の試合後、1年での昇格に貢献したデシャン監督の退任が発表された<ref>{{Cite web2|df=ja|title=ユベントス デシャン監督の辞任を発表|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2230766|publisher=AFP|date=2007-05-27|accessdate=2022-09-06}}</ref>。6月4日には後任に[[クラウディオ・ラニエリ]]の就任が発表された<ref>{{Cite web2|df=ja|title=ユベントス ラニエリ氏の新監督就任を発表|url=https://www.afpbb.com/articles/2234841|publisher=AFP|date=2007-06-05|accessdate=2022-09-07}}</ref>。 |
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開幕前の予想では、[[UEFAヨーロッパリーグ|UEFAカップ]]出場権獲得も難しいだろうという声もあったが<ref name="utsumi20080109">{{Cite book2|df=ja|chapter=新生ユーベ、期待以上の船出|author=内海浩子|title=footballista|volume=2008年1月9日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=23}}</ref>、2008年4月12日のミランとの直接対決を制しチャンピオンズリーグ出場権をほぼ手中に収めることになった<ref name="katano20080416">{{Cite book2|df=ja|chapter=Match Review|author=片野道郎|title=footballista|volume=2008年4月16日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=20}}</ref>。シーズンは20勝12分6敗で3位で終え、セリエA復帰1年目、また夏の補強失敗を考えると奇跡的な復活になった<ref name="katano20080528">{{Cite book2|df=ja|chapter=Season Review|author=片野道郎|title=footballista|volume=2008年5月28日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=18}}</ref>。シーズン前半はベンチスタートも多かったデル・ピエロだが、21ゴールの内ラスト8試合で10ゴールを決める勢いで33歳で初のセリエA得点王に輝いた<ref name="katano20080528"/><ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=Match Review|author=内海浩子|title=footballista|volume=2007年8月29日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=25}}</ref>。ユヴェントスとしても2年連続の得点王排出となった<ref name="katano20080528"/>。 |
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翌シーズンは開幕から常に10人前後の負傷者が発生し<ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=Match Review|author=内海浩子|title=footballista|volume=2009年3月4日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=13}}</ref>、前シーズン41点を決めたトレゼゲとデル・ピエロも、トレゼゲは膝の手術で離脱、デル・ピエロは開幕5試合でノーゴールと勝ちきれない試合が続き<ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=Match Review|author=内海浩子|title=footballista|volume=2008年10月1日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=18}}</ref>、11位まで順位を落とした<ref name="katano20081022">{{Cite book2|df=ja|chapter=悩めるユベントスとローマ 出遅れの原因を探る|author=片野道郎|title=footballista|volume=2008年10月22日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=18}}</ref>。一時は首位インテルと3ポイント差まで迫るも、徐々に順位を落としチャンピオンズリーグ出場権が危うくなってきたユヴェントスは、2009年5月18日、ラニエリ監督の解任を発表した<ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=ITALY SERIE A|author=片野道郎|title=footballista|volume=2009年1月28日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=18}}</ref><ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=Round up|author=神尾光臣|title=footballista|volume=2009年2月18日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=22}}</ref><ref>{{Cite web2|df=ja|title=サッカー=ユベントスがラニエリ監督を解任、後任にフェラーラ氏|url=https://jp.reuters.com/article/idJPJAPAN-38087320090519|publisher=ロイター|date=2009-05-19|accessdate=2022-09-09}}</ref>。ユヴェントスがシーズン途中に監督を解任するのは40年ぶりのことだった<ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=ユベントス、ラニエーリ監督を解任|author=神尾光臣|title=footballista|volume=2009年5月27日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=33}}</ref>。ユースチームを率いていた[[チロ・フェラーラ]]が暫定監督に就任し<ref name="ciro">{{Cite web2|df=ja|title=ユベントスの新監督にフェラーラ氏|url=https://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2009/06/06/kiji/K20090606Z00000250.html|publisher=スポニチ|date=2009-06-06|accessdate=2022-09-09}}</ref>、シエーナ戦に勝利しチャンピオンズリーグ出場を確定させた<ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=Round up|author=神尾光臣|title=footballista|volume=2009年5月27日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=29}}</ref>。最終節のラツィオ戦は、退団が決まっていたネドヴェドのラストゲームとなった<ref name="utsumi20090603">{{Cite book2|df=ja|chapter=Match Review|author=内海浩子|title=footballista|volume=2009年6月3日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=21}}</ref>{{Efn|2月の時点で引退意向を示していたものの<ref>{{Cite web2|df=ja|title=サッカー=ユベントスのネドベド、今季限りで現役引退へ|url=https://jp.reuters.com/article/idJPJAPAN-36720320090227|publisher=ロイター|date=2009-02-27|accessdate=2022-09-14}}</ref>、正式な引退表明はシーズン終了後の8月26日だった<ref>{{Cite web2|df=ja|title=ネドベド引退表明、オファー届くも受けず|url=https://www.nikkansports.com/soccer/world/news/p-sc-tp3-20090827-535929.html|publisher=日刊スポーツ|date=2009-08-27|accessdate=2022-09-14}}</ref>。}}。327試合に出場したネドヴェドは最後の試合でもアシストを記録し勝利に貢献、21勝6敗11分で2位という成績でシーズンを終了した<ref name="utsumi20090603"/>。 |
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2016-17シーズン前にはポグバを当時サッカー界史上最高額の移籍金である1億500万ユーロで[[マンチェスター・ユナイテッドFC|マンチェスター・ユナイテッド]]に売却し、モラタを古巣であるレアル・マドリードに買戻しされた一方、[[ダニエウ・アウヴェス]]をフリー、[[メディ・ベナティア]]をレンタルで獲得し、移籍市場閉鎖直前にクアドラードをレンタルの形で再獲得。さらにナポリから昨シーズンの得点王である[[ゴンサロ・イグアイン]]をセリエA史上最高額の9000万ユーロで、[[ASローマ]]から[[ミラレム・ピャニッチ]]を3200万ユーロで獲得。また夏には[[マルコ・ピアツァ]]を、冬には[[リッカルド・オルソリーニ|リカルド・オルソリーニ]]、[[マッティア・カルダーラ]]を獲得した。2017年5月21日、セリエA史上初となるリーグ6連覇を達成。コッパ・イタリアでは準決勝でナポリとの第2戦を落としただけで決勝に勝ち進み、2017年5月17日のラツィオ戦で2-0の勝利。史上初となるコッパ・イタリア3連覇と3年連続の国内2冠を達成した。しかし最重要課題だった[[UEFAチャンピオンズリーグ 2016-17 決勝]]ではスペイン王者でもあるレアル・マドリードとの対戦になった。1-4で大敗しCL決勝では5連敗、通算7度目の準優勝となった。 |
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新シーズンに正式に監督に就任したフェラーラは、前線からのプレッシングとショートカウンターを基本とする戦術でリッピ監督時代を彷彿とさせ<ref name="ciro"/><ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=ジエゴ=ジダン? 「リッピ時代のユーベ」が復活|author=片野道郎|title=footballista|volume=2009年9月2日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=14}}</ref>、サンプドリアと並び首位に立つ勢いを見せた<ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=MATCH REVIEW|author=内海浩子|title=footballista|volume=2009年9月2日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=14}}</ref><ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=ROUND UP|author=神尾光臣|title=footballista|volume=2009年9月24日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=27}}</ref>。しかし、その後3戦で1敗2分と勢いにブレーキがかかり3位まで順位を下げてしまうと<ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=MATCH REVIEW|author=内海浩子|title=footballista|volume=2009年9月30日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=11}}</ref><ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=ROUND UP|author=神尾光臣|title=footballista|volume=2009年10月7日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=20}}</ref><ref name="katano20091021">{{Cite book2|df=ja|chapter=MATCH REVIEW|author=片野道郎|title=footballista|volume=2009年10月21日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=12}}</ref>、年明け後はさらに故障者も増え<ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=ROUND UP|author=神尾光臣|title=footballista|volume=2010年1月20日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=24}}</ref>、ホーム3連敗で6位まで順位を落とす<ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=MATCH REVIEW|author=内海浩子|title=footballista|volume=2010年1月27日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=6}}</ref>。[[コッパ・イタリア]]の準々決勝、インテル戦に敗れた翌日の2010年1月28日、フェラーラ監督の解任と後任に[[アルベルト・ザッケローニ]]が就任することが発表された<ref>{{Cite web2|df=ja|title=サッカー=ユベントスがフェラーラ監督解任、新監督にザッケローニ氏|url=https://jp.reuters.com/article/idJPJAPAN-13634820100130|publisher=ロイター|date=2010-01-30|accessdate=2022-09-15}}</ref>。ザッケローニは、監督2戦目で得意の3バックを導入するが、初勝利は3戦目のジェノア戦となり<ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=ROUND UP|author=神尾光臣|title=footballista|volume=2010年2月17日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=18-19}}</ref>、[[ロベルト・ベッテガ|ベッテガ]]は「良い監督だが、魔法の杖は持っていない」と皮肉交じりのコメントを残した<ref name="Taccone166">[[#Taccone 2011|Taccone 2011]] 166頁</ref>。シーズンは7位で終了し、なんとか[[UEFAヨーロッパリーグ|ヨーロッパリーグ]]予選枠を得たものの、38戦16勝15敗7分という結果は過去数シーズンでも最悪の成績で、敗戦数、総得点、総失点では、20チーム制になってから最も悪い記録となった<ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=ROUND UP|author=神尾光臣|title=footballista|volume=2010年5月19日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=18}}</ref><ref name="katano20100519"/><ref name="Taccone170">[[#Taccone 2011|Taccone 2011]] 170頁</ref>。 |
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2017-18シーズンは4-1で下した昨シーズン2月のパレルモ戦でアッレグリと激しく口論し、アッレグリ監督との対立していたボヌッチを[[ACミラン]]へ、ダニエウ・アウベスを契約解除でのフリー移籍で[[パリ・サンジェルマンFC|パリ・サンジェルマン]]へと放出した。一方、[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]から[[ドウグラス・コスタ・デ・ソウザ|ドウグラス・コスタ]]を、[[シャルケ04]]から[[ベネディクト・ヘーヴェデス]]を買取OP付きのレンタルで獲得し、ボヌッチとの紳士協定で[[マッティア・デ・シリオ]]をミランから<ref>{{Cite web|title=ボヌッチがミラン移籍間近! なぜ王者ユーベからあえて「格下」へ?|url=https://www.soccerdigestweb.com/news/detail/id=27763|website=www.soccerdigestweb.com|accessdate=2019-07-18|language=|publisher=}}</ref>、[[ヴォイチェフ・シュチェスニー]]を[[アーセナルFC]]から、さらに[[パリ・サンジェルマンFC|パリ・サンジェルマン]]から[[ブレーズ・マテュイディ]]を完全移籍で獲得。さらに[[ロベルト・バッジョ]]の再来と言われている[[フェデリコ・ベルナルデスキ]]を[[ACFフィオレンティーナ]]から獲得した<ref>[https://www.theworldmagazine.jp/20170722/01world/italy/172494 バッジョの再来!? 英雄の軌跡をたどるベルナルデスキ、約52億円でユーヴェ移籍合意] the WORLD (2017年7月22日)</ref>。コッパ・イタリア4連覇、4年連続国内二冠を達成した。[[UEFAチャンピオンズリーグ 2017-18|チャンピオンズリーグ]]ではグループリーグで[[FCバルセロナ]]の後塵を拝してグループ2位通過となる。ラウンド16では[[トッテナム・ホットスパーFC]]と対戦。1stレグを2-2の同点で終え、[[ウェンブリー・スタジアム]]に乗り込んでの2ndレグで先制を許し、勝ち抜けには後半だけで最低2得点必要な状況まで追い込まれたが、イグアインとディバラの連続得点により2-1で逆転勝利した。準々決勝では前回決勝で敗れ、目の前で連覇を許した[[レアル・マドリード]]との対戦になった。2戦合計3-4で敗退となった。2017-18シーズン閉幕前の2018年5月17日、キャプテンの[[ジャンルイジ・ブッフォン]]が退団を発表<ref>http://www.skysports.com/football/news/11095/11375820/gianluigi-buffon-to-leave-juventus-after-17-years-at-the-club</ref>。後継キャプテンは[[ジョルジョ・キエッリーニ]]になった。 |
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2009年から会長に昇格したブランは、2006年当時「スクデットを争うのに3年かかる」と見込んでいた<ref name="katano20100217">{{Cite book2|df=ja|chapter=CALCIOおもてうら 第190回 混迷するユベントスと「リッピの呪縛」|author=片野道郎|title=footballista|volume=2010年2月17日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=20}}</ref>。1年でセリエAに復帰し2年連続で好成績を残すなど順調に進んでいると思われたが、経営陣に強力なリーダーシップを発揮する人物が存在せず、2年連続でシーズン途中に監督が交代し盤石な基盤を整えることはできなかった<ref name="katano20100217"/><ref>{{Cite web2|df=ja|title=ユーベの迷走が止まらない。 欧州の名門に何が起きているのか?|url=https://number.bunshun.jp/articles/-/15240?page=2|author=弓削高志|publisher=Number|date=2010-03-05|accessdate=2023-05-21}}</ref>。モッジの後任にスポーツディレクターに就任したアレッシオ・セッコは、2004年から2年間チームマネージャーを務めたが、記者からは「モッジのカバン持ち」として知られていた<ref name="dominique20091216">{{Cite book2|df=ja|chapter=第13回 ユーベ不振の元凶は誰だ?|author=ドミニク・アントニョーニ|translator =片野道郎|title=footballista|volume=2009年12月16日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=34}}</ref>。アマチュアのセッコにユヴェントスの重職は荷が重く、元上司のモッジに助言を求めることはイメージ悪化のためにクラブから禁じられ名門復活のための的確な補強ができず、特に目玉補強だったジエゴとフェリペ・メロの不調には悩まされた<ref name="dominique20091216"/><ref name="SK202103hosoe74">{{Cite book2|df=ja|chapter=白と黒、光と闇の20年史|title=サッカーキング|author=細江克弥|volume=2021年3月号|publisher=フロムワン|pages=74}}</ref>。2009-10シーズン終了後、オーナーであるアニェッリ家は運営体制の改革に踏み切り、プロジェクトは4年で幕を閉じることとなった<ref name="katano20100519">{{Cite book2|df=ja|chapter=次期監督はデル・ネーリ?|author=片野道郎|title=footballista|volume=2010年5月19日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=18}}</ref>。 |
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2018-19シーズン開幕前に、[[ジャンルイジ・ブッフォン]]をはじめ、[[ステファン・リヒトシュタイナー]]、[[クワドォー・アサモア]]、さらに[[クラウディオ・マルキジオ]]、[[ゴンサロ・イグアイン]]といったユヴェントスのセリエA7連覇に貢献してきた選手が退団。一方、補強では7月11日に1億ユーロで2017年のバロンドーラーである[[クリスティアーノ・ロナウド]]を[[レアル・マドリード]]から獲得し、世界を驚かせた。さらに、[[マッティア・カルダーラ]]との実質トレードの形で[[ACミラン]]から[[レオナルド・ボヌッチ]]を出戻りの形で獲得。その他に[[ジョアン・カンセロ]]や[[マッティア・ペリン]]、[[エムレ・ジャン]]を獲得。リーグ戦では、開幕8連勝を記録し、第28節のジェノア戦で敗れるまで無敗を維持した。第33節のフィオレンティーナ戦に勝利し、セリエA優勝を決め、8連覇を達成した。[[UEFAチャンピオンズリーグ 2018-19|チャンピオンズリーグ]]では、マンチェスター・ユナイテッド、バレンシア、ヤング・ボーイズと同組となったグループリーグを首位で突破した。決勝トーナメント・ラウンド16のアトレティコ・マドリード戦では、アウェーでの1stレグを0-2で落としたが、ホームでの2ndレグでロナウドがハットトリックを達成し3-0で勝利し、逆転で突破を果たした。しかし、アヤックスとの準々決勝は2戦合計2-3で敗退した。コッパ・イタリアは準々決勝でアタランタに敗れて5連覇を逃した。シーズン終了後、アッレグリ監督が退任した。 |
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=== アンドレア・アニェッリの会長就任 === |
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2019-20シーズン開幕前に、前チェルシー監督の[[マウリツィオ・サッリ]]が監督に就任した。夏の移籍市場では、クラブのレジェンドとも言えるブッフォンが[[パリ・サンジェルマンFC]]から電撃復帰した他、[[アーロン・ラムジー]]、[[アドリアン・ラビオ]]をいずれもフリーで獲得。また昨シーズンCLベスト4進出と大躍進した[[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]から[[マタイス・デ・リフト]]を、[[USサッスオーロ・カルチョ|サッスオーロ]]からも[[メリフ・デミラル]]を獲得してDF陣の若返りに成功。さらにジョアン・カンセロとのトレードでマンチェスター・シティから[[ダニーロ・ルイス・ダ・シウバ|ダニーロ]]を獲得した他、買取オプションが行使されなかったゴンザロ・イグアインも復帰した。ところが、イタリアで猛威を振るう[[COVID-19]]の世界的大流行はセリエAでも直撃し、[[ダニエレ・ルガーニ]]が感染したことを発表。活動中止を余儀なくされた。セリエAでは優勝を果たし、9連覇を達成したものの、コッパ・イタリアでは、決勝でナポリに敗れて準優勝となり、[[UEFAチャンピオンズリーグ 2019-20|UEFAチャンピオンズリーグ]]でも決勝トーナメントには進出したが、ラウンド16でオリンピック・リヨンに敗れて敗退した<ref>{{Cite web|title=ユヴェントス、サッリ監督の解任を発表…セリエA制覇もCL16強で敗退|url=https://www.soccer-king.jp/news/world/ita/20200808/1105697.html|website=サッカーキング|accessdate=2020-08-08|publisher=}}</ref>。シーズン終了後、サッリ監督を解任した<ref>{{Cite web|title=マウリツィオ・サッリ監督解任のお知らせ|url=https://www.juventus.com/jp/news/articles/マウリツィオ-サッリ監督か退任|website=Juventus.com|accessdate=2020-08-08|last=Juventus.com|publisher=}}</ref>。 |
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アニェッリ家当主の[[ジョン・エルカーン]]は、より深く経営にコミットするため、1956年から5年間会長を務めた[[ウンベルト・アニェッリ]]の息子である[[アンドレア・アニェッリ]]に会長を委ねた<ref name="katano20100804">{{Cite book2|df=ja|chapter=経営陣入れ替えという激震|author=片野道郎|title=footballista|volume=2010年8月4日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=6-7}}</ref>。移籍市場やチーム強化のプロがいなかったことを反省し、[[UCサンプドリア|サンプドリア]]でゼネラルマネージャーを8年間務めた[[ジュゼッペ・マロッタ]]を引き抜いた<ref name="katano20100804"/>{{Efn|マロッタを引き抜かれたサンプドリアは、チャンピオンズリーグ出場からわずか1年でセリエBに降格した<ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=CALCIOおもてうら 第217回 サンプドリア、CLからセリエB転落|author=片野道郎|title=footballista|volume=2011年5月18日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=18}}</ref>。}}。マロッタは[[セリエC (サッカー)|セリエC]]からキャリアを積み上げてきた叩き上げで、サンプドリアをセリエBからチャンピオンズリーグ出場まで引き上げた実績があった<ref name="katano20100804"/>。また、限られた予算で結果を出すことからも、イタリアで高く評価されていた<ref name="katano20100804"/>。マロッタはサンプドリアで仕事を共にした[[ルイジ・デルネーリ]]を新監督に任命し、右腕の部下の{{仮リンク|ファビオ・パラティチ|en|Fabio Paratici}}も引き抜いた<ref name="katano20100804"/>。デル・ネーリ監督は、2000年代前半にミラクル・キエーヴォと称されたチームを率いていた頃から一貫して、スピードに乗ったサイド攻撃を活かした速攻攻撃型サッカーを志向していた<ref name="katano20100825">{{Cite book2|df=ja|chapter=サイドアタック中心の「速攻型」 序盤から波に乗れば、首位戦線に参加も|author=片野道郎|title=footballista|volume=2010年8月25日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=8}}</ref><ref>{{Cite book2|df=ja|chapter="雑草集団"が起こしたセンセーション 伝説の「ミラクル・キエーボ」|author=片野道郎|title=footballista|volume=2016年10月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=69}}</ref>。マロッタは、サイドを主戦場とする[[シモーネ・ペペ]]、[[ミロシュ・クラシッチ]]、[[ホルヘ・マルティネス (サッカー選手)|ホルヘ・マルティネス]]らを補強し、監督の戦術を後押しした<ref name="katano20100825"/>。 |
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第5節から第17節まで7勝6分という負けなしの成績で一時は2位まで順位を押し上げるものの<ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=MATCH REVIEW|author=片野道郎|title=footballista|volume=2010年9月22日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=8}}</ref><ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=ROUND UP|author=神尾光臣|title=footballista|volume=2010年12月24日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=29}}</ref><ref>{{Cite web2|df=ja|title=ユベントス復活の要因|url=https://web.ultra-soccer.jp/index/index/c/regular/id/tactics_20|publisher=ゲキサカ|accessdate=2022-09-17}}</ref><ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=MATCH REVIEW|author=内海浩子|title=footballista|volume=2010年12月15日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=18-19}}</ref>、クアリャレッラがシーズン終了の大けがを負ったりと浮き沈みが激しく<ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=求む救世主! 悩める名門の移籍市場|author=Emanuele Gamba|translator=内海浩子|title=footballista|volume=2011年1月19日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=26}}</ref><ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=ROUND UP|author=神尾光臣|title=footballista|volume=2011年2月9日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=20}}</ref>、第34節の引き分けでチャンピオンズリーグ出場が絶望的になり<ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=MATCH REVIEW|author=内海浩子|title=footballista|volume=2011年4月27日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=13}}</ref>、15勝10敗13分で7位という成績でシーズンを終えヨーロッパリーグ出場も逃した<ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=ROUND UP|author=片野道郎|title=footballista|volume=2011年5月25日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=26}}</ref><ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=10-11 欧州カップ戦 予想外はなぜ生まれた?|author=片野道郎|title=footballista|volume=2011年6月1日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=21}}</ref>。2011年5月21日、デルネーリ監督の解任が発表され<ref>{{Cite web2|df=ja|title=サッカー=ユベントス、デル・ネーリ監督は今季限り|url=https://jp.reuters.com/article/idJPJAPAN-21230420110522|publisher=ロイター|date=2011-05-22|accessdate=2022-09-18}}</ref>、5年で5度目の監督解任と継続性の無さがあらわになった<ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=そろそろ気になる来季の監督事情|author=片野道郎|title=footballista|volume=2011年5月25日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=27}}</ref>。シーズンの不振について、中心選手の負傷と補強選手が活躍できなかったことが指摘されている<ref name="kamio20110608">{{Cite book2|df=ja|chapter=10-11 欧州各国リーグ総括|author=片野道郎|title=footballista|volume=2011年6月8日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=9}}</ref>。新加入の[[レオナルド・ボヌッチ|ボヌッチ]]はしばしば失点に絡んだが、冬に加入した[[アンドレア・バルツァッリ|バルザーリ]]と合わせて、後に「[[BBC (曖昧さ回避)|BBC]]」と呼ばれる守備ユニットの礎が誕生したシーズンとなった<ref name="kamio20110608"/><ref>{{Cite web2|df=ja|title=ユーベ退団のキエッリーニ、堅守の“BBC”を振り返る「歴史の一部だった」|url=https://web.ultra-soccer.jp/news/view?news_no=419766|publisher=超WORLDサッカー|date=2022-06-06|accessdate=2022-09-19}}</ref>。 |
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=== コンテ政権での3連覇 === |
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[[File:20150616 Antonio Conte.jpg|right|thumb|upright|170px|アントニオ・コンテ]] |
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2011年5月31日、現役時代に「"闘将"」と呼ばれ、ユヴェントスで13シーズンプレーした[[アントニオ・コンテ]]が新監督として就任した<ref>{{Cite web2|df=ja|title=サッカー=ユベントス、コンテ氏が新監督就任へ|url=https://jp.reuters.com/article/idJPJAPAN-21469820110601|publisher=ロイター|date=2011-06-01|accessdate=2022-09-19}}</ref><ref name="utsumi20110608">{{Cite book2|df=ja|chapter=新監督たちに、課された使命とは?|author=内海浩子|title=footballista|volume=2011年8月3日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=7}}</ref>。失いかけていた名門の誇りと、勝利に対する精神をチームに蘇らせることを期待され、コンテ本人も「ユベントス・スピリットを取り戻す」ことを第一目標に挙げた<ref name="utsumi20110608"/>。不振の前シーズンを受けて増資がなされ、フロントも積極的な補強を宣言し<ref name="utsumi20110727">{{Cite book2|df=ja|chapter=大嘘だらけの移籍市場を笑え 火のないところに煙を立てる、メディア情報の真実|author=アントニオ・バリッラ|translator=内海浩子|title=footballista|volume=2011年7月27日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=16}}</ref>、[[ステファン・リヒトシュタイナー]]、[[アルトゥーロ・ビダル]]、[[ミルコ・ヴチニッチ]]らを獲得し、ミランで契約延長に至らなかった[[アンドレア・ピルロ]]はフリーでの加入となった<ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=超攻撃的な[4-2-4]で、ユーベは"コンテ色"に|author=内海浩子|title=footballista|volume=2011年8月17日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=17}}</ref><ref>{{Cite web2|df=ja|title=サッカー=ピルロ、ACミランからユベントスに移籍|url=https://jp.reuters.com/article/idJPJAPAN-21275220110525|publisher=ロイター|date=2011-05-25|accessdate=2022-09-20}}</ref>。 |
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サイド攻撃を軸にした4-2-4と、ピルロ、マルキージオ、ヴィダルのコンビネーションを活かす4-3-3を使い分け開幕2連勝を飾る<ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=MATCH REVIEW|author=片野道郎|title=footballista|volume=2011年9月21日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=13}}</ref>{{Efn|"開幕"2連勝としているが、第1節が延期されたため、正しくは第2節・3節の連勝である。イタリアサッカー選手協会とクラブ側で、統一労働契約の更新について合意に至ることができなかった<ref name="katano20110831">{{Cite book2|df=ja|chapter=スペインに続き、イタリアでもスト勃発!|author=片野道郎|title=footballista|volume=2011年8月31日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=16}}</ref>。選手会は統一契約書の更新が認められなければストライキをするという声明を出し、2011年8月26日、セリエA・第1節の延期が確定した<ref name="katano20110831"/>。}}。4-3-3のシステムが固まり、迎えた第13節ラツィオ戦は首位攻防戦で、試合をコントロールしたユヴェントスが1-0で勝利し首位で前半戦を終えた<ref name="katano20111130">{{Cite book2|df=ja|chapter=MATCH REVIEW|author=片野道郎|title=footballista|volume=2011年11月30日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=30-31}}</ref><ref name="katano20120125">{{Cite book2|df=ja|chapter=MATCH REVIEW|author=片野道郎|title=footballista|volume=2012年1月25日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=23}}</ref>。ユヴェントスが冬の王者になるのは、2005-06シーズン以来のことであった<ref name="katano20120125"/>。前半戦の戦いについて、使い慣れていた4-2-4の布陣より、4-3-3が機能すると分かると即座に戦術変更を決断し、デル・ピエロのような[[フランチャイズ・プレイヤー|バンディエラ]]をベンチに置くこともためらわないチームマネジメントを評価されている<ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=悩めるユーベを復活させたコンテ|author=片野道郎|title=footballista|volume=2011年12月27日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=8}}</ref>。「スクデット決定戦」と喧伝された第25節のミラン戦から、降雪で延期された第23節も含み4戦連続で引き分けとなり、勝利より引き分けの方が多くなってしまうとコンテは無敗を強調したが、首位ミランとの差が広がり始めていた<ref name="katano20120229">{{Cite book2|df=ja|chapter=「スクデット決定戦」は波乱万丈。ミラン側は不満のドロー|author=片野道郎|title=footballista|volume=2012年2月29日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=4-5}}</ref><ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=ROUND UP|author=神尾光臣|title=footballista|volume=2012年2月15日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=17}}</ref><ref name="katano20120314">{{Cite book2|df=ja|chapter=ユーベ、14回目の引き分け。首位ミランの背中が徐々に…|author=片野道郎|title=footballista|volume=2012年3月14日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=10-11}}</ref><ref name="katano20120314"/><ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=ROUND UP|author=神尾光臣|title=footballista|volume=2012年3月14日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=13}}</ref>。ミランを追う形となったユヴェントスは、第28節の快勝を皮切りに<ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=MATCH REVIEW|author=神尾光臣|title=footballista|volume=2012年3月21日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=21}}</ref>、4試合で12得点、523分間無失点継続と、怒涛の4連勝で首位に返り咲いた<ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=MATCH REVIEW|author=内海浩子|title=footballista|volume=2012年4月11日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=21}}</ref>。連勝は8まで伸び<ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=ユベントス 優勝への足取り|author=片野道郎|title=footballista|volume=2012年5月9日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=7}}</ref>、第37節の勝利で9シーズンぶりの優勝が決定した<ref name="utsumi20120519">{{Cite book2|df=ja|chapter=盟主ユーベが帰ってきた! 9シーズンぶり28回目のスクデット|author=内海浩子|title=footballista|volume=2012年5月9日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=6-7}}</ref>。就任1年目で優勝を達成したコンテは、試合終了後のインタビューを「今日、ユベントスが帰ってきた」という言葉で締めた<ref name="utsumi20120519"/>。シーズン前半の10月18日の株主総会で、アニェッリ会長自らデル・ピエロとの契約が終了することを明言しており<ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=ユベントス会長 「デル・ピエーロは今季限り」"フライング退団宣言"の真意とは|author=神尾光臣|title=footballista|volume=2011年10月26日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=42}}</ref>、シーズン最終試合は退団試合となった<ref name="katano20120516">{{Cite book2|df=ja|chapter=ROUND UP|author=神尾光臣|title=footballista|volume=2012年5月16日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=27}}</ref>。前半28分に得点を決め、後半57分の交代では満員のスタンディングオベーションに見送られた<ref name="katano20120516"/>。最終成績は38戦23勝15分で、無敗での優勝となった<ref name="utsumi20120530">{{Cite book2|df=ja|chapter=無敗だけじゃない! 記録尽くめの一年 "パレッジーテ"は、むしろ伸びシロ|author=内海浩子|title=footballista|volume=2012年5月30日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=14}}</ref>。総失点の「20」は、セリエAにおける最少失点記録更新となり、「20人」からゴールが生まれたことも最多得点者数の記録更新となった<ref name="utsumi20120530"/>。 |
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2012-13シーズンはチャンピオンズリーグ参戦のため、戦力補強としてウディネーゼから[[クワドォー・アサモア]]と[[マウリシオ・イスラ]]を獲得し、[[マンチェスター・ユナイテッドFC|マンチェスター・ユナイテッド]]からは、[[ポール・ポグバ]]を獲得した<ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=CL参戦へ。今夏の話題は補強一色|author=内海浩子|title=footballista|volume=2012年7月25日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=12}}</ref><ref name="WSK20149renpa">{{Cite book2|df=ja|chapter=アントニオ・コンテ セリエA3連覇の軌跡|title=ワールドサッカーキング|volume=2014年9月号|publisher=フロムワン|pages=12-15}}</ref>。一方コンテは、シエナ監督時代に八百長の事実を知りながら報告を怠ったとして、10ヶ月の資格停止処分が下された<ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=賭博・八百長スキャンダル: アントニオ・コンテをめぐる状況|author=片野道郎|title=footballista|volume=2012年8月29日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=31}}</ref>{{Efn|2016年に関与疑惑について無罪判決がされている<ref>{{Cite web2|df=ja|title=コンテ監督無罪に シエナ時代の八百長関与疑惑審理|url=https://www.nikkansports.com/soccer/world/news/1648435.html|publisher=日刊スポーツ|date=2016-05-16|accessdate=2022-09-20}}</ref>。}}。コンテ不在の間、代行監督としてアシスタントコーチの[[マッシモ・カレーラ]]が指名された<ref name="uchiumi20110727">{{Cite book2|df=ja|chapter=好調ユーベをうまく操縦する監督代行カレーラとは何者か?|author=内海浩子|title=footballista|volume=2012年10月3日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=37}}</ref>。第8節のナポリ戦から5連勝で迎えたイタリアダービーで敗北すると、2011年から続いていたリーグ無敗記録は49でストップしてしまった<ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=MATCH REVIEW|author=内海浩子|title=footballista|volume=2012年10月24日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=26}}</ref><ref name="20121107seriea">{{Cite book2|df=ja|chapter=王者ユーベの無敗記録を49で止めたのは宿敵インテル|title=footballista|volume=2012年11月7日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=19}}</ref>。資格停止処分が4か月に軽減されたコンテが第16節からベンチに復帰し<ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=ROUND UP|title=footballista|volume=2012年12月12日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=26}}</ref><ref>{{Cite web2|df=ja|title=コンテ監督の復帰を喜ぶネドヴェド氏「ユヴェントスに“フォーリクラッセ”が帰ってくる」|url=https://www.soccer-king.jp/news/world/ita/20121208/84909.html|publisher=SOCCERKING|date=2012-12-08|accessdate=2022-09-22}}</ref>、リーグでも2位と勝ち点8差の首位で年内最終戦を終えた<ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=ROUND UP|title=footballista|volume=2012年12月26日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=32}}</ref>。年明けは、ピルロ、マルキージオ、キエッリーニら主力の故障でクオリティが低下したが<ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=ユベントス 主力たちの相次ぐ故障|author=片野道郎|title=footballista|volume=2013年2月6日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=35}}</ref>、2位との直接対決となった第27節のナポリ戦では、引き分けという結果で差を縮めさせなかった<ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=MATCH REVIEW|author=内海浩子|title=footballista|volume=2013年3月6日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=10-11}}</ref>。ナポリ戦以降8連勝で勝ち点を積み上げ<ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=ユベントス優勝への足どり|author=神尾光臣|title=footballista|volume=2013年5月8日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=17}}</ref>、2013年5月5日に3節を残し2連覇を達成した<ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=MATCH REVIEW|author=内海浩子|title=footballista|volume=2013年5月8日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=16}}</ref>。最終成績は、27勝6分5敗であり<ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=欧州各国リーグ総括。12-13シーズンの喜怒哀楽|title=footballista|volume=2013年6月5日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=20}}</ref>、開幕から1度も首位の座を譲ることがなかった<ref name="katano20130605">{{Cite book2|df=ja|chapter=進化した王者ユーベの[3-5-2]システム|author=片野道郎|title=footballista|volume=2013年6月5日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=22}}</ref>。 |
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前年に4-3-3で固まったとみられていたフォーメーションだが、コンテは改善の手を緩めず3バックを導入する<ref name="katano20121121l">{{Cite book2|df=ja|chapter=なぜイタリアで3バックが急増しているのか?|author=片野道郎|title=footballista|volume=2012年11月21日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=5}}</ref>。見た目上は3-5-2であるが、より攻撃的にするためサイドの選手を前線に押し上げ、4-2-4の4トップの考え方を活かした3-3-4という布陣にたどり着く<ref name="katano20121121l"/>。また、3バックの導入は移籍当初から守備のミスで批判されていたボヌッチの負担を軽減し、長所であるビルドアップ能力をより活かせるようになった<ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=「-1」がもたらした恩恵 CBのビルドアップ能力を引き出す|author=神尾光臣|title=footballista|volume=2012年11月21日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=6}}</ref>。2トップにはヴチニッチとマトリを起用し、前線からの積極的なプレッシングを要求することでインテンシティが高まった<ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=「対策→勝利」の自信か、スタイル定着か|author=片野道郎|title=footballista|volume=2013年2月13日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=20-21}}</ref>。相手を選ばず、常に主導権を握っていく「強者のスタイル」が浸透したシーズンとなり、コンテも「今季のチームは昨季より強かった」と讃えている<ref name="katano20130605"/>。 |
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[[ガゼッタ・デロ・スポルト]]に補強の必要性が指摘されていた大型FWには<ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=現実をかみ締め、大型補強を迫る|author=神尾光臣|title=footballista|volume=2013年4月17日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=16}}</ref>、[[マンチェスター・シティFC|マンチェスター・シティ]]から[[カルロス・テベス]]と、2013年1月に加入内定が発表されていた[[フェルナンド・ジョレンテ]]が加入した<ref name="katano20139">{{Cite book2|df=ja|chapter=できた! 「前輪駆動型」の[3-3-4]。ホップ、ステップ、ジャンプへ|author=片野道郎|title=footballista|volume=2013年9月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=16}}</ref><ref>{{Cite web2|df=ja|title=ユヴェントス加入のジョレンテがトリノに到着、背番号は14に|url=https://www.soccer-king.jp/news/world/ita/20130702/120295.html|publisher=SOCCERKING|date=2013-07-02|accessdate=2022-09-23}}</ref>。前シーズンの3-5-2を土台にしながら、リヒトシュタイナーが担っていた右ウィングのポジションをヴチニッチに変えることで、より重心を前に置いた3-3-4のフォーメーションを完成させようと目論んだ<ref name="katano20139"/>。ハードワークが要求されるコンテの2トップの元で、テベスは開幕1カ月でシステムに適応し、DFとの駆け引きやポストプレーでの組み立てに参加しながら6試合で4ゴールの活躍ぶりを見せた<ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=2トップで欧州の頂を狙うなら、戦術的FWが不可欠|author=片野道郎|title=footballista|volume=2013年11月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=32-33}}</ref>。開幕8試合で無得点試合がないという攻撃の充実ぶりながら、前シーズンからの課題であるチャンピオンズリーグとの両立には悩まされた<ref name="utsumi201312">{{Cite book2|df=ja|chapter=「みそぎ」で失った勝者の心を呼び覚ます|author=内海浩子|title=footballista|volume=2013年12月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=36-37}}</ref>。それでも新戦力のジョレンテがレギュラーに定着し攻撃にバリエーションが増え、序盤戦に勢いのあったローマ、ナポリの両クラブが停滞している間に6連勝で首位に躍り出た<ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=ユベントス首位進出の影にジョレンテの台頭あり|author=片野道郎|title=footballista|volume=2014年1月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=85}}</ref><ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=ブラジル大会まで残り半年 中堅国のタレント見本市|author=片野道郎|title=footballista|volume=2014年1月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=84}}</ref>。マルキージオの怪我で出場機会が回ってきたポグバも<ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=日本ではつかめない5つの論点|author=神尾光臣|title=footballista|volume=2013年10月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=82}}</ref>、ビダルとのコンビで中盤を制圧しており、ヨーロッパでも屈指のレベルにあると評価された<ref name="katano20145">{{Cite book2|df=ja|chapter=優勝ペースのローマをさらに上回る規格外ユーベ|author=片野道郎|title=footballista|volume=2014年5月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=72}}</ref>。リーグ戦では、38戦33勝3分2敗という成績で通算30回目の優勝を果たし、3連覇を達成した<ref name="katano20147">{{Cite book2|df=ja|chapter=13-14 シーズン総括:二極化の進展が著しいシーズン|author=片野道郎|title=footballista|volume=2014年7・8月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=78-79}}</ref><ref>{{Cite web2|df=ja|title=サッカー=3連覇のユベントス、ホーム全勝キープし優勝祝う|url=https://jp.reuters.com/article/socceritaly-idJPKBN0DM00L20140506|publisher=ロイター|date=2014-05-06|accessdate=2022-09-24}}</ref>。12連勝1回、7連勝2回とシーズンで大崩れすることがなく、勝ち点「'''102'''」はセリエだけでなく欧州主要リーグの最多勝ち点記録を更新し、ホーム開催試合19試合全てで勝利する圧倒的な強さを示したシーズンとなった<ref name="katano20147"/><ref>{{Cite web2|df=ja|title=ユベントス、ホーム全勝&欧州最多勝ち点記録更新!!|url=https://web.gekisaka.jp/news/world/detail/?139215-139215-fl|publisher=ゲキサカ|date=2014-05-19|accessdate=2022-09-24}}</ref>。 |
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国内では圧倒的な強さを見せ、3年間の114試合のうち敗北したのは7試合だけだった<ref name="WSK20149conte">{{Cite book2|df=ja|chapter=激震 コンテ電撃辞任の真相|author=グイド・ヴァチャーゴ|translator=高山港|title=ワールドサッカーキング|volume=2014年9月号|publisher=フロムワン|pages=8-11}}</ref>。しかし欧州の舞台では結果が振るわず、ヨーロッパリーグでもホームスタジアムで行われる決勝にたどり着けなかった<ref name="WSK20149conte"/>。コンテもフロントもチャンピオンズリーグ制覇の気持ちは同じだったが、積極的な補強を望むコンテに対してフロントは健全な財政を優先し、納得のいかないコンテはサマーキャンプ初日に電撃辞任した<ref name="WSK20149conte"/>。 |
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=== アッレグリ政権の黄金期 === |
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[[File:Allegri with Milan players (cropped) - 2.jpg|right|thumb|upright|200px|マッシミリアーノ・アッレグリ]] |
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[[アントニオ・コンテ]]辞任の翌日に後任として[[マッシミリアーノ・アッレグリ]]の就任が発表された<ref name="katano20149">{{Cite book2|df=ja|chapter=急に開いたユーベの世界 まず踏襲、何より人心掌握|author=片野道郎|title=footballista|volume=2014年9月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=50-51}}</ref>。アッレグリは2010-11シーズンにミランでスクデットを勝ち取っているものの、ピルロを冷遇しユヴェントスへ移籍する原因となったことや、ユヴェントスへの批判を口にしていたためサポーターから歓迎されず、「#NoAllegri」というハッシュタグがTwitter上で拡散してしまった<ref name="katano20149"/><ref name="yuge2014">{{Cite web2|df=ja|title=コンテの電撃辞任とアッレグリ就任。ユーベ監督交代劇でセリエが変わる!|url=https://number.bunshun.jp/articles/-/821315|publisher=Number|date=2014-07-24|accessdate=2022-09-24}}</ref>。また、3連覇チームの3-5-2を基本方針とする発言をしたものの、アッレグリはキャリアで一貫して4バックと3センターの中盤のシステムを用いてきたため、短い準備時間でどのように戦術を浸透させていくかが最初の課題となった<ref name="katano20149"/><ref name="yuge2014"/>。開幕から2カ月後の11月に入り、アッレグリは4バックの4-3-1-2のフォーメーション移行へ踏み切ると、トップ下に加えて中盤に下りて組み立てに参加するテベスの5人でポゼッションを維持することが可能になり、得点率、失点率ともに数値が改善した<ref name="katano20151">{{Cite book2|df=ja|chapter=コンテなしでも強いユベントス しかし、今後も安泰とは限らない|author=片野道郎|title=footballista|volume=2015年1月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=28-29}}</ref>。リーグ後半戦が始まると2位ローマが徐々に勝ち点を取りこぼすのに対し、安定感のあるユヴェントスは独走態勢に入っていき<ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=移籍をめぐるノイズ ローマ、ミラノ勢の狂った歯車|author=片野道郎|title=footballista|volume=2015年3月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=68-69}}</ref>、2015年5月2日、4試合を残し2位ラツィオとの勝ち点差が17となりリーグ優勝が確定、コンテ時代から合わせて4連覇達成となった<ref>{{Cite web2|df=ja|title=サッカー=ユベントス勝利、セリエ4連覇が決定|url=https://www.reuters.com/article/juventus-idJPKBN0NO00920150503|publisher=ロイター|date=2015-05-03|accessdate=2022-09-27}}</ref>。最終成績は、26勝9分3敗で前年に比べれば勝ち点は減少したものの、コッパイタリアで20年ぶりの優勝、チャンピオンズリーグで決勝進出と3つのコンペティションを戦い切った<ref name="katano20157">{{Cite book2|df=ja|chapter=一つの区切りを迎えたシーズン それぞれの集大成、新時代が始まる|author=片野道郎|title=footballista|volume=2015年7月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=64-65}}</ref>。単純に控え選手と入れ替えるターンオーバーではなく個々の体調に合わせて出場時間を調整し、コンディションの悪化を防いだ<ref name="katano20157allegri">{{Cite book2|df=ja|chapter=複数プランとターンオーバー。欧州を勝ち抜く"模範解答"|author=片野道郎|title=footballista|volume=2015年7月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=26-27}}</ref>。チャンピオンズリーグ決勝トーナメントで息切れした試合はなく、リーグでも突出して出場時間が多かったのはブッフォン、ボヌッチ、マルキージオの3名に限られた<ref name="katano20157allegri"/>。 |
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チャンピオンズリーグ準決勝に進出したチームの中で唯一格下と見られていたユヴェントスだったが、前年王者のレアル・マドリードから移籍してきた[[アルバロ・モラタ]]が古巣相手に2試合連続ゴールの活躍で決勝に進出した<ref name="2019katano372">[[#片野 2019|片野 2019]] 372頁</ref><ref name="2019katano373">[[#片野 2019|片野 2019]] 373頁</ref><ref name="2019katano374">[[#片野 2019|片野 2019]] 374頁</ref>。チャンピオンズリーグ決勝の[[FCバルセロナ|バルセロナ]]戦では、前半4分に失点するものの後半55分にモラタのゴールで振り出しに戻す<ref name="katano20157cl">{{Cite book2|df=ja|chapter=予想以上の健闘も、足りなかったプラスα 良き敗者として去る|author=片野道郎|title=footballista|volume=2015年7月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=12-13}}</ref>。しかし、逆転しようと攻めあがったところに[[MSN (曖昧さ回避)|MSN]]トリオのカウンターで2失点すると、前評判を覆せず1-3で敗戦した<ref name="katano20157cl"/><ref name="2019katano379">[[#片野 2019|片野 2019]] 379頁</ref>。 |
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夏のマーケットではテベス、ピルロ、ビダルが移籍し、4連覇の核だったセンターラインが総入れ替えとなったものの<ref name="kamio20159">{{Cite book2|df=ja|chapter=「みそぎ」で失った勝者の心を呼び覚ます|author=フリオ・フェデーレ|translator=神尾光臣|title=footballista|volume=2015年9月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=56}}</ref><ref name="kamio20159allegri">{{Cite book2|df=ja|chapter=大改革の2年目で問われる、本当の信頼関係|author=神尾光臣|title=footballista|volume=2015年9月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=60-61}}</ref>、[[マリオ・マンジュキッチ|マンジュキッチ]]や[[サミ・ケディラ|ケディラ]]の獲得に加え、ウィングのポジションでも起用できる[[フアン・クアドラード|クアドラード]]は攻撃のオプションを増やし、[[パウロ・ディバラ|ディバラ]]や[[ダニエレ・ルガーニ|ルガーニ]]のような若い選手の加入で中期的なチーム作りへの投資も行った<ref name="kamio20159allegri"/><ref name="katano201510calcio">{{Cite book2|df=ja|chapter=CALCIOおもてうら 第293回 15-16 夏のカルチョメルカート総括|author=片野道郎|title=footballista|volume=2015年10月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=110}}</ref>。 |
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迎えた新シーズンはクラブ史上初の開幕2連敗を喫すると、10試合で勝ち点を12しか積み上げられずクラブ史上最悪の成績で14位まで沈んでしまった<ref name="katano201510">{{Cite book2|df=ja|chapter=最悪のスタート。早くも正念場のアレグリ|author=片野道郎|title=footballista|volume=2015年10月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=88-89}}</ref><ref>{{Cite web2|df=ja|title=新エース誕生でユーベが完全復活。 テベスを手本に成長を続けるディバラ。|url=https://number.bunshun.jp/articles/-/824758|website=NumberWEB|accessdate=2022-09-27|date=2015-12-18}}</ref>。浮上のきっかけは11節の[[トリノダービー]]で<ref name="WSK2019037renpa">{{Cite book2|df=ja|chapter=JUVENTUS 7連覇の軌跡|title=ワールドサッカーキング|volume=2019年3月号|publisher=フロムワン|pages=40-43}}</ref>、マルキージオ、ケディラが復帰しディバラ、マンジュキッチのコンビがチームにフィットし始めた11月から本来の調子を取り戻し<ref name="katano20167">{{Cite book2|df=ja|chapter=世代交代のデリケートな1年を模範解答でクリア|author=片野道郎|title=footballista|volume=2016年7月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=72}}</ref>、首位ナポリとの天王山となった第25節に勝利し15連勝で首位まで順位を上げた<ref name="20164serie">{{Cite book2|df=ja|chapter=天王山を制したユーベ ローマ、ミランが来た!|title=footballista|volume=2016年2月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=92}}</ref>。3月20日のトリノダービーにおいてブッフォンは、1992-93シーズンに[[セバスティアーノ・ロッシ]]が記録した930分間無失点という記録を更新し、973分間無失点のセリエA新記録を樹立した<ref name="kamio20165">{{Cite book2|df=ja|chapter=38歳で成し遂げた前人未到の大記録|author=神尾光臣|title=footballista|volume=2016年5月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=85}}</ref>。15連勝から引き分けを挟み、更に10連勝と26試合無敗で順位を上げていき、最終成績は29勝4分5敗で圧倒的強さを見せつけ5連覇を達成した<ref name="WSK2019037renpa"/><ref name="katano20167"/><ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=新旧イタリア式のナポリとインテル 最先端フィオレンティーナの可能性|author=片野道郎|title=footballista|volume=2016年7月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=70-71}}</ref>。 |
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前年と同様に主力選手であるポグバがマンチェスター・ユナイテッドへ移籍したものの、前年にセリエAの得点記録を更新した[[ゴンサロ・イグアイン]]、[[ミラレム・ピャニッチ]]、[[ダニエウ・アウヴェス]]を補強<ref name="WSK2019037renpa"/><ref name="katano20169">{{Cite book2|df=ja|chapter=限界を乗り越えて… 目指すは欧州最強の座|author=片野道郎|title=footballista|volume=2016年9月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=76-77}}</ref>。ピャニッチ、イグアインの獲得はローマ、ナポリの両チームに契約解除金を払っており、移籍交渉をせず優勝を争うライバルから引き抜いた形となった<ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=CALCIOおもてうら 第304回 セリエA新時代:「バイエルン化」するユベントス|author=片野道郎|title=footballista|volume=2016年9月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=110}}</ref>。 |
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マルキージオの長期離脱でレジスタを任せられる選手がおらず試行錯誤が続いた中<ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=イグアイン&ピャニッチは、なぜユーベのサッカーにはまらないのか?|author=レナート・バルディ、ダビデ・ランベルティ|translator=片野道郎|title=footballista|volume=2017年1月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=47-48}}</ref>、2017年1月22日の[[SSラツィオ|ラツィオ]]戦において、スターティングメンバーにイグアイン、ディバラ、マンジュキッチ、クアドラード、ケディラ、ピャニッチという攻撃的なメンバーが並んだ<ref name="katano20173cl">{{Cite book2|df=ja|chapter=これが未来のユベントス?|author=ファビオ・バルチェッローナ|translator=片野道郎|title=footballista|volume=2017年1月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=40-42}}</ref>。それまで用いていた3-5-2でも4-3-1-2の布陣でもなく、ワントップにイグアイン、ツーボランチにケディラとピャニッチ、左サイドにマンジュキッチという4-2-3-1の構成だった<ref name="katano20173cl"/>。トップ下のディバラはスペースを自由に移動しながらプレーし、マンジュキッチはフィジカルで優位に立つ等新たな可能性を示した<ref name="katano20173cl"/>。アッレグリは起床時にこのフォーメーションを思いついたと言い、攻撃的な選手を同時に5人起用することから、イタリアの政党・[[五つ星運動]]になぞらえてメディアは「チンクエ・ステッレ」と呼んだ<ref>{{Cite web2|df=ja|title=“五つ星の攻撃陣”はCL優勝仕様。守備の権化・ユーベが選んだ道。|url=https://number.bunshun.jp/articles/-/827399|author=弓削高志|publisher=Number|date=2017-02-09|accessdate=2023-05-21}}</ref>。システム変更で最適解を発見しコッパイタリアでも3連覇を達成する力の配分で、終盤には引き分け試合が増えたものの一度も首位を譲ることなく29勝4分5敗の最終成績でリーグ6連覇を達成した<ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=欧州各国リーグ戦 総括 セリエA|author=片野道郎|title=footballista|volume=2017年7月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=78-79}}</ref><ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=4-2-3-1導入が転機。冴えるアレグリの柔軟性|author=片野道郎|title=footballista|volume=2017年7月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=80}}</ref>。 |
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チャンピオンズリーグでは2年前の決勝で敗れたバルセロナや[[キリアン・エムバペ]]を擁し勢いに乗る[[ASモナコ]]を退け、レアル・マドリードと相対する決勝へ2年ぶりに駒を進めた<ref name="2019katano426">[[#片野 2019|片野 2019]] 426頁</ref>。「可変システム」対「不変システム」の対決となったチャンピオンズリーグ決勝は、ユヴェントスが前半からプレスをかけレアルマドリードに効果的な攻めをさせず1-1の同点で折り返すものの<ref name="2019katano427">[[#片野 2019|片野 2019]] 427頁</ref><ref name="kimura20177cl">{{Cite book2|df=ja|chapter=可変システム 「15分のみ」の謎。万能ユーベを縛った王者の圧力|author=木村浩嗣|title=footballista|volume=2017年7月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=9-10}}</ref>、プレスの圧力が弱まり受けに回った後半61分、64分に立て続けに失点し、為す術がなく1-4で敗戦した<ref name="kimura20177cl"/><ref name="2019katano429">[[#片野 2019|片野 2019]] 429頁</ref>。 |
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2017-18シーズンは、前シーズンの[[パレルモFC|パレルモ]]戦でアッレグリと言い争いになり、直後のチャンピオンズリーグの[[FCポルト|ポルト]]戦でベンチ外処分になるなど関係悪化が噂されていたボヌッチが移籍志願し、ACミランへ加入する不穏なスタートとなった<ref name="kamio20179">{{Cite book2|df=ja|chapter=強すぎる王者の憂鬱 「変化」を強要されるアレグリ|author=神尾光臣|title=footballista|volume=2017年9月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=34}}</ref><ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=なぜボヌッチが(格下)のミランに!? ユベンティーノを騒がせた移籍の内幕|author=神尾光臣|title=footballista|volume=2017年9月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=91}}</ref>。アッレグリは毎年序盤戦にシステムの最適解を試行錯誤しながら、後半戦にピークパフォーマンスを持ってくる戦略を取っている<ref name="katano20182">{{Cite book2|df=ja|chapter=ユーベの前半戦の不振はなぜ?|author=片野道郎|title=footballista|volume=2018年2月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=46}}</ref>。それでも例年通りの首位独走とはいかず、ナポリと1ポイント差の2位で冬の中断期間を迎えることとなった<ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=17-18前半戦108の謎 SERIE A|title=footballista|volume=2018年2月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=44}}</ref>。12月には調子の上がらないディバラをスタメンから外し、ピャニッチを中心にケディラとマテュイディの3人の中盤で攻守のバランスを改善した4-3-3の布陣を採用し始めた<ref name="katano20182"/>。 |
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独走して優勝した過去2シーズンと同等の勝ち点を積み上げたものの、欧州5大リーグで唯一最終盤まで優勝争いが決着せず、ユヴェントスの7連覇が確定したのは2018年5月13日のことだった<ref name="katano20186">{{Cite book2|df=ja|chapter=[4-3-3]のプランBの方が強い? アレグリを悩ませ続けた「ディバラ問題」|author=片野道郎|title=footballista|volume=2018年6月号号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=76-77}}</ref><ref>{{Cite web2|df=ja|title=サッカー=ユベントスが史上初の7連覇|url=https://jp.reuters.com/article/soccer-italy-rom-juv-idJPKCN1IF05S|publisher=ロイター|date=2018-05-14|accessdate=2022-09-30}}</ref>。12月から用いられた4-3-3のシステムではチームのエースであるディバラを活かすことができず、4-4-2や3-5-2のフォーメーションも試されたものの最終形が固まることはなかった<ref name="katano20186"/>。また、バルザーリの衰え、ブッフォンの退団、マルキージオの相次ぐ故障と連覇を支えてきたメンバーが中心ではなくなり、サイクルの終わりを感じさせるシーズンとなった<ref name="katano20186"/>。 |
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アッレグリが就任してからの4年間は、リーグだけでなく[[コッパ・イタリア]]でも勝ち続け、4年連続で国内2冠を達成した<ref>{{Cite web2|df=ja|title=異論承知で言う、MVPはブッフォン!史上初7連覇ユーベのみが持つ強さ。|url=https://number.bunshun.jp/articles/-/830784|author=弓削高志|publisher=Number|date=2018-05-16|accessdate=2023-05-21}}</ref>。また、2015年8月23日から2017年10月14日までのおよそ2年間、ホームスタジアムで開催した57試合で無敗を継続しその内45勝する圧倒ぶりだった<ref>{{Cite web2|df=ja|title=ユーベ、ホームで実に「782日ぶり」の黒星。2年以上の無敗記録に終止符|url=https://www.footballchannel.jp/2017/10/15/post236068/|publisher=footballchannel|date=2017-10-15|accessdate=2023-05-21}}</ref>。高いインテンシティで相手を圧倒するようなコンテのサッカーから、ポゼッションで試合をコントロールしながらゆっくり相手を料理するサッカーへ変化し<ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=飽和状態に達したチームをアレグリが異なる方法でリフレッシュ|author=片野道郎|title=footballista|volume=2015年6月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=39}}</ref>、積極的な補強策で毎年メンバーを入れ替えながらもアッレグリのマネジメント力でタイトルを獲得し続けた<ref>{{Cite web2|df=ja|title=【9連覇の軌跡】 マッシミリアーノ・アッレグリ時代編 | 卓越した手腕で築いた“最強”の5年間|url=https://www.soccer-king.jp/news/world/ita/20210219/1193572.html|author=細江克弥|publisher=soccer-king|date=2021-02-19|accessdate=2023-05-21}}</ref>{{Efn|2012年からの6シーズンの内、チャンピオンズリーグの決勝に進出したクラブの中で、ユヴェントスの平均在籍年数は2.39年ともっとも短かった<ref name="2019katano453">[[#片野 2019|片野 2019]] 453頁</ref>。}}。 |
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=== 拡大路線とコロナ禍 === |
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[[File:Cristiano-ronaldo-juventus-2019 (cropped).jpg|right|thumb|クリスティアーノ・ロナウド]] |
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ユヴェントスの課題は収益改善で、新スタジアムや継続的なチャンピオンズリーグ出場によりイタリアのクラブで唯一健闘していたが、欧州のトップクラブとは2008-09シーズンからの10年間で大きく差をつけられておりトップ10に入るのがやっとという状況であった<ref name="SK201903sakamoto">{{Cite book2|df=ja|chapter=JUVENTUS 経営力の勝利|title=サッカーキング|author=坂本聡|volume=2019年3月号|publisher=フロムワン|pages=36-37}}</ref><ref name="katano20207">{{Cite book2|df=ja|chapter=もともとが「綱渡り」の経営戦略。給与カット&支払い延期、デリケートな移籍戦略|author=片野道郎|title=footballista|volume=2020年7月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=42-43}}</ref>。最初は噂話だと思われていた2018年の[[クリスティアーノ・ロナウド]]の獲得は、あと一歩で届かなかったチャンピオンズリーグ制覇のための戦力補強以上にマーケティング改善の狙いがあった<ref name="katano20189">{{Cite book2|df=ja|chapter=CR7とJUVENTUSのブランド戦略|author=片野道郎|title=footballista|volume=2018年9月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=10-13}}</ref><ref name="WSK20189">{{Cite book2|df=ja|chapter=クリスティアーノ・ロナウドを失ったクラブ、獲得したクラブ|title=ワールドサッカーキング|author=ジョバンニ・バッティスタ・オリヴェーロ|translator=小川光生|volume=2018年9月号|publisher=フロムワン|pages=8-13}}</ref>。マドリーやバルセロナ、マンUといったマーケットにおいて知名度のあるクラブはSNSでも影響力を持っており、ユヴェントスと大きな差があった<ref name="katano20189"/>。[[Instagram]]だけで1億人を超えるフォロワーを持つロナウドの宣伝効果は凄まじく、移籍から1カ月経たない間にユヴェントスのInstagramのフォロワーは1.5倍に増加している<ref name="katano20189"/>。33歳を超えた選手に総額3億ユーロもの資金を投じることは、[[フィナンシャル・タイムズ]]紙にギャンブルだと評された一方、ユニフォームの売り上げは1日で52万枚に達し、さらに株価は33%上昇し、[[KPMG]]によるレポート「ロナウド・エコノミクス」では、コマーシャル収入は3年で1億ユーロの増収になり投資が回収できる見込みがあると分析された<ref name="katano20189"/><ref name="WSK20189"/>。ロナウドの獲得では意見の対立があり、反対意見のマロッタの契約が更新されなかったことからインテルへ移ることになり、アニェッリ会長と一緒に交渉を進めていたパラティチが強化責任者に昇格することになった<ref name="WSD20190207">{{Cite book2|df=ja|chapter=取材記者が打ち明ける"とっておきの話" ユベントスとミランの「内紛」|author=Gianluca DI MARZIO|translator=片野道郎|title=ワールドサッカーダイジェスト|volume=2019年2月7日号|publisher=日本スポーツ企画|pages=16}}</ref>。2019年10月24日の株主総会では、アニェッリの就任から9年間で売り上げが3.6倍、株価が9倍になったことが紹介され、2019年を「新たなゼロ年」とし、テレビ視聴者の減少に触れながらよりグローバルなマーケットへの方向性が示された<ref name="katano201912">{{Cite book2|df=ja|chapter=CALCIOおもてうら 第343回 サッカークラブからグローバル企業へ。ユベントスFC株式会社のビジョン|author=片野道郎|title=footballista|volume=2019年12月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=94}}</ref>。 |
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この路線は競技面にも影響し、ロナウドを巨額の資金で獲得した時点で「優勝は当たり前、チャンピオンズリーグを制覇できなければ失敗」という空気ができあがってしまった<ref name="katano20197"/>。開幕15試合で14勝1分けは5大リーグの記録となる勢いで、第16節時点で既に2位ナポリと8ポイントの勝ち点差を付けており、「11月にリーグは終わった」「早くも8連覇は確実」という声すらあった<ref name="katano20192">{{Cite book2|df=ja|chapter=ユベントスの「ロナウド効果」とは何なのか?|author=片野道郎|title=footballista|volume=2019年2月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=64-65}}</ref><ref name="WSD20190103">{{Cite book2|df=ja|chapter=2018-2019シーズン前半戦総括 冬の通信簿 ユベントス|author=片野道郎|title=ワールドサッカーダイジェスト|volume=2019年1月3日号|publisher=日本スポーツ企画|pages=34-35}}</ref>。初黒星は3月19日に行われた第28節のジェノア戦で、その頃にはナポリと20もの勝ち点差が開いていた<ref name="katano20197">{{Cite book2|df=ja|chapter=カルチョの王=ローカルモデルの終焉。変質していく「ユベントスという生態系」|author=片野道郎|title=footballista|volume=2019年7月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=52-54}}</ref>。 |
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4月20日のフィオレンティーナ戦に勝利し前人未到の8連覇を達成したものの喜びは一瞬で、4日前のチャンピオンズリーグ・ベスト8の[[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]戦の敗戦を忘れさせてくれるものではなかった<ref name="katano20196">{{Cite book2|df=ja|chapter=CALCIOおもてうら 第337回 ユーベ、ナポリですら不満ばかり…「勝ち組」がいない奇妙なセリエA|author=片野道郎|title=footballista|volume=2019年6月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=94}}</ref><ref>{{Cite web2|df=ja|title=サッカー=ユベントスが8連覇達成、ロナルド「とてもうれしい」|url=https://jp.reuters.com/article/juventus-idJPKCN1RX00Y|publisher=ロイター|date=2019-04-21|accessdate=2022-09-30}}</ref>。求めるところは国内リーグの外側にあり、サポーターを満足させるスペクタクルなサッカーを実現できなかったことから、5年連続でリーグ優勝に導いたアッレグリは事実上の解任となってしまった<ref name="katano20197"/><ref name="europe2019">{{Cite book2|df=ja|chapter=2018-2019 SEASON in REVIEW ITALY|author=片野道郎|title=ワールドサッカーダイジェスト責任編集 2018-2019 EUROPE SOCCER TODAY 完結編|volume=2019年6月5日号|publisher=日本スポーツ企画|pages=124-125}}</ref>。アッレグリ解任の意見はパラティチやネドヴェド副会長から出ていたとされ、会長のアニェッリはアッレグリの退任会見において、会長の一存ではなく企業として下された決断だということを強調した<ref name="katano20197calcio">{{Cite book2|df=ja|chapter=CALCIOおもてうら 第338回 「総力戦」にならなかったセリエA。産みの苦しみを経て「三位一体」が整う?|author=片野道郎|title=footballista|volume=2019年7月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=94}}</ref>。 |
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後任の[[マウリツィオ・サッリ]]監督は、よりモダンな特徴を持った[[マタイス・デ・リフト]]に出場機会を与え、センターバックに高い位置を要求し積極的にビルドアップに参加させた<ref name="kamio201911">{{Cite book2|df=ja|chapter=求めるのは「対人」よりも「頭脳」 サッリ流の完全ゾーンディフェンス|author=神尾光臣|title=footballista|volume=2019年11月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=48}}</ref>。26勝5分7敗の成績で優勝し9連覇を果たしたものの、「サッリボール」とメディアが称したショートパスで相手を崩していくサッカーと、ブランドイメージのためにロナウドを中心にするタスクは噛み合わず、試行錯誤の末首脳陣を満足させられず「サッリのユヴェントス」という具体的な形を提示できずにシーズンは終了してしまった<ref name="katano20209">{{Cite book2|df=ja|chapter=見つからない「ロナウド・システム」 「工事中」の看板を外せないまま終了|author=片野道郎|title=footballista|volume=2020年9月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=42-43}}</ref><ref name="katano20201">{{Cite book2|df=ja|chapter=新監督サッリの仕事をどう評価すべきか?|author=片野道郎|title=footballista|volume=2020年1・2月合併号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=50-51}}</ref><ref name="europe2020">{{Cite book2|df=ja|chapter=2019-2020 SEASON in REVIEW ITALY|author=片野道郎|title=ワールドサッカーダイジェスト責任編集 2019-2020 EUROPE SOCCER TODAY 完結編|volume=2020年8月27日号|publisher=日本スポーツ企画|pages=124-125}}</ref>。 |
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! 年度<ref name="katano202011"/> !! スポンサー収入!! [[マーチャンダイジング|MD]]収入!! [[コマーシャル (曖昧さ回避)|コマーシャル]]総収入 |
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! 2017-18 |
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| style="text-align:center;" | 8690万€ || 2780万€ || style="text-align:center;"| 1億1470万€ |
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! 2018-19 |
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| style="text-align:center;" | 1億880万€ || 4400万€ || style="text-align:center;"| 1億5280万€ |
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! 2019-20 |
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| style="text-align:center;" | 1億2950万€ || 3170万€ || style="text-align:center;"| 1億6120万€ |
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2020年3月に[[新型コロナウイルス感染症 (2019年)|新型コロナ]]の感染拡大でリーグが中断されると、拡大路線で売り上げの中で人件費の占める割合が7割まで達していたユヴェントスは財政的な苦境に陥った<ref name="WSD20200702">{{Cite book2|df=ja|chapter=[オンライン鼎談] 現地記者のセリエA「クライマックス」大展望|author=Maurizio CROSETTI|author2=Antonio BARILLA|author3=片野道郎|translator=片野道郎|title=ワールドサッカーダイジェスト|volume=2020年7月2日号|publisher=日本スポーツ企画|pages=51-55}}</ref><ref name="katano20207"/><ref name="WSD20201105">{{Cite book2|df=ja|chapter=ユベントスが抱える「困難」の裏側|author=Maurizio CROSETTI|translator=片野道郎|title=ワールドサッカーダイジェスト|volume=2020年11月5日号|publisher=日本スポーツ企画|pages=76-77}}</ref>。実質的な親会社[[フィアット・クライスラー・オートモービルズ]]のブランド・[[ジープ|Jeep]]の契約でスポンサー収入を確保したものの、営業収入は20~30%減少する厳しい見通しで、全体的な売り上げが8%減少することで人件費の割合は80%に達してしまった<ref name="katano20207"/><ref name="katano202011">{{Cite book2|df=ja|chapter=CALCIOおもてうら 第349回 「ロナウド・エコノミクス」の中間決算。ピッチ内外の収支は大幅なマイナス|author=片野道郎|title=footballista|volume=2020年11月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=70-71}}</ref>。コロナ禍という不運があったとはいえ、2016年から3年間でバランスを取っていた収支が一気に傾き、[[UEFAのファイナンシャル・フェアプレー規則|FFP]]の基準を超える赤字が積み重なっていた<ref name="katano202011"/>{{Efn|FFPには、3年間の収支を参照し赤字を出さないようにする「ブレイクイーブン」という基準がある<ref name="ffp">{{Cite web2|df=ja|title=4つのキーワードで読み解くFFPの仕組み|author=schumpeter|url=https://www.footballista.jp/special/101456|website=footballista|accessdate=2023-05-16|date=2020-12-03}}</ref>。2017-18シーズンに1922万ユーロ、2018-19シーズンには3989万ユーロまで増加していた赤字だが、2016-17シーズンに4257万ユーロの黒字を計上していたため3年間で基準をクリアしていた<ref name="katano202011"/>。しかし、2017-18シーズンからコロナの影響があった2019-20シーズンまでの3年間では1億4000万ユーロを超える程悪化しており、影響が大きいクラブの救済のためUEFAは基準の一時的な緩和措置を講じている<ref name="katano202011"/><ref name="ffp"/>}}。 |
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=== リーグ連覇の終焉 - 転換期へ === |
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2020-21シーズンではU-23の監督に就任することになっていた[[アンドレア・ピルロ]]が監督に就任。[[ACFフィオレンティーナ]]から[[フェデリコ・キエーザ]]、[[シャルケ04]]から[[ウェストン・マッケニー]]らがレンタル移籍、FCバルセロナに[[ミラレム・ピャニッチ]]が移籍し、トレードの形で[[アルトゥール・エンヒキ・ハモス・ジ・オリヴェイラ・メロ|アルトゥール]]を獲得。[[アトレティコ・マドリード]]から[[アルバロ・モラタ]]が復帰した。ピルロ監督は3バックと4バックを使い分ける可変式サッカーを演出、若手選手も活かした采配をした。しかし、[[COVID-19]]の影響による選手の離脱やピルロ新監督が監督経験のなかった影響もあり苦しいシーズンとなり、勝ちきれない試合を増やした結果、最終節までチャンピオンズリーグの出場権を争うことになった。[[UEFAチャンピオンズリーグ]]ではグループステージで[[FCバルセロナ]]などと戦いグループ首位で突破し、ラウンド16では[[FCポルト|ポルト]]と対戦した。アウェーの1stレグを2-1で落とし、逆転を狙ったホームの2ndレグで延長戦の末に3-2で勝利するも[[アウェーゴール]]差により敗退した。シーズンを[[インテルナツィオナーレ・ミラノ]]にスクデットを譲り、4位で終えた。しかし、[[スーペルコッパ・イタリアーナ]]で[[SSCナポリ]]を2-0で破り2季ぶり9度目のタイトル、[[コッパ・イタリア]]でアタランタに2-1で勝利し3季ぶり14度目のタイトルでシーズン2冠を達成した。シーズン終了後、ピルロ監督の解任が決定した。またSDのファビオ・パラティチが契約満了に伴い退団した。 |
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サッリの解任により、監督経験が無い[[アンドレア・ピルロ]]をBチームから急遽トップチームに抜擢したのは会長の判断だった<ref name="katano202011pirlo">{{Cite book2|df=ja|chapter=モダンサッカーの最新トレンドてんこ盛り。初陣から明確だった監督ピルロの哲学と課題|author=片野道郎|title=footballista|volume=2020年11月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=120-121}}</ref><ref name="katano20217calcio">{{Cite book2|df=ja|chapter=CALCIOおもてうら 第353回 ロナウド・エコノミクスの失敗。ユーベ1強時代の終焉と過渡期の始まり|author=片野道郎|title=footballista|volume=2021年7月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=106-107}}</ref>。ピルロの志向するサッカーは、UEFAライセンスの修了論文「私の望むサッカー (Il calcio che vorrei)」<ref>{{Cite web2|df=ja|title=IL CALCIO CHE VORREI|url=https://www.figc.it/media/124922/andrea-pirlo_tesi.pdf|publisher=figc.it|author= Andrea Pirlo|access-date=2022-10-01|year=2020}}</ref>に書かれているモダンでイタリア代表のゲームモデルと通ずるものであり、ロナウドのような守備のタスクが少ない選手を前線に置きながらハイプレスをどのように実現するか手腕が問われた<ref name="katano202011pirlo"/><ref name="katano20211calcio">{{Cite book2|df=ja|chapter=CALCIOおもてうら 第350回 育成改革から10年の果実。「1-0のカルチョ」の終焉|author=片野道郎|title=footballista|volume=2021年1月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=72-73}}</ref>。しかし新人監督にとって故障者、世代交代、ロナウドと相性の悪かった可変システムの断念と問題が積み重なり、スクデット10連覇を逃し最終節でなんとかチャンピオンズリーグ出場権は確保するという結果に終わった<ref name="europe2021juve">{{Cite book2|df=ja|chapter=SERIE A JUVENTUS|title=ワールドサッカーダイジェスト責任編集 2020-2021 EUROPE SOCCER TODAY 完結編|volume=2021年6月7日号|publisher=日本スポーツ企画|pages=68}}</ref><ref name="europe2021">{{Cite book2|df=ja|chapter=2020-2021 SEASON in REVIEW ITALY|author=片野道郎|title=ワールドサッカーダイジェスト責任編集 2020-2021 EUROPE SOCCER TODAY 完結編|volume=2021年6月7日号|publisher=日本スポーツ企画|pages=124-125}}</ref>。ネドヴェドと共にアッレグリ解任を強く主張していたパラティチはマロッタと同様に契約を更新されず、2年連続で監督の哲学との妥協点を探ったシーズンの後に再びアッレグリを呼び戻したことに迷走が表れていた<ref name="katano20217calcio"/><ref name="europe2021"/>。 |
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2021-22シーズン、フロント陣の一新が行われパラティチの後任の座にフェデリコ・ケルビーニが収まり2012年よりユヴェントスの役員を務めていたF1フェラーリの元代表である[[マウリツィオ・アリバベーネ]]氏が新CEOに就任した。マッシミリアーノ・アッレグリを監督に再招聘し、サッスオーロから[[マヌエル・ロカテッリ]]、サントスから[[カイオ・ジョルジ・ピント・ラモス|カイオ・ジョルジ]]を獲得した。開幕節ウディネーゼ戦は移籍が噂されるクリスティアーノ・ロナウドが勝ち越し弾を決めるがVARに取り消されたことで引き分けとなった。ロナウドがマンチェスター・ユナイテッドに電撃移籍し、その穴をプリマヴェーラ出身の[[モイーズ・キーン]]を帰還させ迎えた第2節は昇格組のエンポリに敗北を喫し、初勝利は第5節の格下スペツィア戦であった。勝利はしたものの試合内容は後半での逆転勝利であり、低調なシーズンスタートとなった。冬の移籍市場では積極的に動きフィオレンティーナから本シーズン暫定得点王のセルビア代表FW[[ドゥシャン・ヴラホヴィッチ]]を、[[ボルシア・メンヒェングラートバッハ|ボルシアMG]]から毎移籍市場で動向を注視されるスイス代表MF[[デニス・ザカリア]]を獲得した。CLでは[[チェルシーFC|チェルシー]]、[[FCゼニト・サンクトペテルブルク|ゼニト]]、[[マルメFF|マルメ]]とのグループを1位で通過すると、ラウンド16で[[ビジャレアルCF|ビジャレアル]]と対戦。アウェーでの1st legはヴラホヴィッチのCL初ゴールで先制するも追いつかれて1-1のドローに終わり、ホームの2nd legでは2つのPK献上が響いて0-3、2試合合計4-1で敗退し、3シーズン連続のラウンド16敗退となった。国内でも勝ちきれない試合が続き、リーグ戦は4位で終了し、コッパ・イタリア、スーペルコッパ・イタリアーナでは共にインテルに敗れ、11年ぶりに無冠でシーズンを終えることになった。このシーズンをもってキャプテンのジョルジョ・キエッリーニと10番のパウロ・ディバラの退団が決定。フェデリコ・ベルナルデスキとドウグラス・コスタも契約満了で退団となった。 |
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2021年4月18日に発表された[[スーパーリーグ (サッカー)|スーパーリーグ]]構想では、ユヴェントスは参加クラブに名を連ねた<ref name="superkamio">{{Cite book2|df=ja|title=カルチョを揺るがした3クラブの“裏切り”。首謀者のユベントス会長は総すかん状態|url=https://www.footballista.jp/special/110128|author=神尾光臣|publisher=footballista|access-date=2023-05-18|date=2021-04-27}}</ref>。アニェッリ会長は[[欧州クラブ協会]]の代表であり、[[欧州サッカー連盟|UEFA]]とチャンピオンズリーグのフォーマットについて協議していたが、コロナ後の人件費高騰、経営悪化などを理由に寝返る形でスーパーリーグ構想を主導した<ref name="superkatano">{{Cite book2|df=ja|chapter=対談 片野道郎×利重孝夫 欧州スーパーリーグ構想の是非を考える|author=足立真俊|title=footballista|volume=2021年7月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=118-123}}</ref>。サッカー界の反発が強く構想はすぐさま頓挫してしまったが、ユヴェントスサポーターも拒否反応を示し、スタジアムではアニェッリ会長を非難するバナーが掲げられた<ref name="superkamio"/><ref name="superkatano"/>。 |
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22-23シーズン、加入が内定していた[[フェデリコ・ガッティ]]と[[ニコロ・ロヴェッラ]]が合流。夏の移籍市場では[[アンヘル・ディ・マリア]]とポール・ポグバをフリーで獲得。ポグバは6年ぶりの復帰となる。デ・リフトがバイエルン・ミュンヘンに移籍したためトリノから昨シーズンに評価を高めたブラジル人DF[[グレイソン・ブレーメル・シウヴァ・ナシメント|ブレーメル]]を獲得。EL王者の[[アイントラハト・フランクフルト]]から[[フィリップ・コスティッチ]]、[[オリンピック・マルセイユ]]から[[アルカディウシュ・ミリク]]、パリ・サンジェルマンから[[レアンドロ・パレデス]]を獲得した。放出面では前述のデ・リフトに加え負傷欠場が多いアーロン・ラムジーとの契約を解除。[[ルカ・ペッレグリーニ]]がフランクフルトに、ニコロ・ロヴェッラが[[ACモンツァ|モンツァ]]に、アルトゥールが[[リヴァプールFC|リヴァプール]]、デニス・ザカリアがチェルシーにそれぞれレンタルで移籍した。また2022年7月14日に[[ジェノアCFC|ジェノア]]から[[アンドレア・カンビアーゾ]]を獲得し、翌15日に[[ボローニャFC|ボローニャ]]へレンタル移籍している。 |
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[[2022 FIFAワールドカップ]]による中断期間中の11月28日に臨時取締役会が行われ虚偽会計&不正なキャピタルゲインの疑惑への対応として翌日11月29日、アニェッリ会長、ネドベド副会長等の役員の総辞職が発表された<ref>{{Cite web|title=ユベントスに激震! アニェッリ会長、ネドベド副会長を含む経営陣の総辞職を発表。虚偽会計などの疑惑で調査中|url=https://www.soccerdigestweb.com/news/detail/id=121679|website=www.soccerdigestweb.com|accessdate=2023-05-14|language=|publisher=}}</ref>。後任としてジャンルカ・フェレーロが会長、マウリツィオ・スカナヴィーノがCEO兼GMに就任した。1月20日にはイタリアサッカー連盟から勝ち点15剥奪の処分を受け3位から10位に転落した。勝ち点剥奪に加えアニェッリ、アリバベーネは2年、ケルビーニは1年4ヵ月、ネドベドは8ヶ月の職務停止処分が科されその処分は既にユヴェントスに籍がない元SDファビオ・パラティチにも及んだ(2年半)。しかし他にも嫌疑がかけられたクラブがあるにも関わらずユヴェントスのみに処分が科された等もあり不正を否定し控訴<ref>{{Cite web|title=「吐き気を覚える」ユベントス、不正会計による勝点15マイナス処分に怒りの声!「イタリアサッカーは病んでいる。常にユーべだけが代償を払う」|url=https://www.soccerdigestweb.com/news/detail/id=125359|website=www.soccerdigestweb.com|accessdate=2023-05-14|language=|publisher=}}</ref>。2023年4月21日、イタリアオリンピック委員会による判決で勝ち点15剥奪処分が暫定的に取り消され7位からCL圏内の3位に浮上した<ref>{{Cite web|title=財務違反も急展開!ユヴェントス、勝ち点「15」剥奪が取り消しに。処分不当を暫定的に承認…7位からCL圏3位に浮上|url=https://news.yahoo.co.jp/articles/3011758ab14b55b0ee7f1174cd654f1cfd4b94eb|website=news.yahoo.co.jp|accessdate=2023-05-14|language=|publisher=}}</ref>。 |
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冬の移籍市場ではウェストン・マッケニーが[[リーズ・ユナイテッド]]にレンタルで移籍、ルカ・ペッレグリーニのレンタル先がフランクフルトからラツィオに変更された。またトップチームに登録されていた[[マルレー・アケ]]が[[ディジョンFCO]]にレンタルされた。 |
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CLではパリ・サンジェルマン、ベンフィカ、[[マッカビ・ハイファ]]と同組となる。勝利したのは格下のマッカビ・ハイファとのホームゲームのみで1勝5敗、勝ち点差による3位という惨憺たる結果でELに回り、ベスト4でセビージャに敗れた。コッパ・イタリアは準決勝でインテルに敗れた。 |
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== タイトル == |
== タイトル == |
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[[image:Juventus Museum - Trophy Room.jpg|thumb|220px|トロフィールーム]] |
[[image:Juventus Museum - Trophy Room.jpg|thumb|220px|トロフィールーム]] |
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=== 国内タイトル === |
=== 国内タイトル === |
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* '''[[セリエA (サッカー)|セリエA]]:36回''' [[File:Star*.svg|13px]][[File:Star*.svg|13px]][[File:Star*.svg|13px]][[File:Scudetto.svg|20px]][[File:Scudetto.svg|20px]][[File:Scudetto.svg|20px]][[File:Scudetto.svg|20px]][[File:Scudetto.svg|20px]][[File:Scudetto.svg|20px]] |
* '''[[セリエA (サッカー)|セリエA]]:36回''' [[File:Star*.svg|13px]][[File:Star*.svg|13px]][[File:Star*.svg|13px]][[File:Scudetto.svg|20px]][[File:Scudetto.svg|20px]][[File:Scudetto.svg|20px]][[File:Scudetto.svg|20px]][[File:Scudetto.svg|20px]][[File:Scudetto.svg|20px]] <ref>{{Cite web2|df=ja|title=HALL OF FAME|url=https://www.legaseriea.it/en/serie-a/albo|publisher=legaseriea|accessdate=2023-05-17}}</ref> |
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** [[:it:Prima Categoria 1905|1905]], [[:it:Prima Divisione 1925-1926|1925-26]], [[:it:Serie A 1930-1931|1930-31]], [[:it:Serie A 1931-32|1931-32]], [[:it:Serie A 1932-33|1932-33]], [[:it:Serie A 1933-34|1933-34]], [[:it:Serie A 1934-35|1934-35]], [[:it:Serie A 1949-50|1949-50]], [[:it:Serie A 1951-52|1951-52]], [[:it:Serie A 1957-58|1957-58]], [[:it:Serie A 1959-60|1959-60]], [[:it:Serie A 1960-61|1960-61]], [[:it:Serie A 1966-67|1966-67]], [[:it:Serie A 1971-72|1971-72]], [[:it:Serie A 1972-73|1972-73]], [[:it:Serie A 1974-75|1974-75]], [[:it:Serie A 1976-77|1976-77]], [[:it:Serie A 1977-78|1977-78]], [[:it:Serie A 1980-81|1980-81]], [[:it:Serie A 1981-82|1981-82]], [[:it:Serie A 1983-84|1983-84]], [[:it:Serie A 1985-86|1985-86]], [[:it:Serie A 1994-95|1994-95]], [[:it:Serie A 1996-97|1996-97]], [[:it:Serie A 1997-98|1997-98]], [[セリエA (サッカー) 2001-2002|2001-02]], [[セリエA (サッカー) 2002-2003|2002-03]], [[セリエA (サッカー) 2011-2012|2011-12]], [[セリエA (サッカー) 2012-2013|2012-13]], [[セリエA (サッカー) 2013-2014|2013-14]], [[セリエA (サッカー) 2014-2015|2014-15]], [[セリエA (サッカー) 2015-2016|2015-16]], [[セリエA (サッカー) 2016-2017|2016-17]], [[セリエA (サッカー) 2017-2018|2017-18]], [[セリエA (サッカー) 2018-2019|2018-19]], [[セリエA (サッカー) 2019-2020|2019-20]]([[カルチョ・スキャンダル]]により[[セリエA (サッカー) 2004-2005|2004-05]], [[セリエA (サッカー) 2005-2006|2005-06]]のスクデット剥奪) |
** [[:it:Prima Categoria 1905|1905]], [[:it:Prima Divisione 1925-1926|1925-26]], [[:it:Serie A 1930-1931|1930-31]], [[:it:Serie A 1931-32|1931-32]], [[:it:Serie A 1932-33|1932-33]], [[:it:Serie A 1933-34|1933-34]], [[:it:Serie A 1934-35|1934-35]], [[:it:Serie A 1949-50|1949-50]], [[:it:Serie A 1951-52|1951-52]], [[:it:Serie A 1957-58|1957-58]], [[:it:Serie A 1959-60|1959-60]], [[:it:Serie A 1960-61|1960-61]], [[:it:Serie A 1966-67|1966-67]], [[:it:Serie A 1971-72|1971-72]], [[:it:Serie A 1972-73|1972-73]], [[:it:Serie A 1974-75|1974-75]], [[:it:Serie A 1976-77|1976-77]], [[:it:Serie A 1977-78|1977-78]], [[:it:Serie A 1980-81|1980-81]], [[:it:Serie A 1981-82|1981-82]], [[:it:Serie A 1983-84|1983-84]], [[:it:Serie A 1985-86|1985-86]], [[:it:Serie A 1994-95|1994-95]], [[:it:Serie A 1996-97|1996-97]], [[:it:Serie A 1997-98|1997-98]], [[セリエA (サッカー) 2001-2002|2001-02]], [[セリエA (サッカー) 2002-2003|2002-03]], [[セリエA (サッカー) 2011-2012|2011-12]], [[セリエA (サッカー) 2012-2013|2012-13]], [[セリエA (サッカー) 2013-2014|2013-14]], [[セリエA (サッカー) 2014-2015|2014-15]], [[セリエA (サッカー) 2015-2016|2015-16]], [[セリエA (サッカー) 2016-2017|2016-17]], [[セリエA (サッカー) 2017-2018|2017-18]], [[セリエA (サッカー) 2018-2019|2018-19]], [[セリエA (サッカー) 2019-2020|2019-20]]([[カルチョ・スキャンダル]]により[[セリエA (サッカー) 2004-2005|2004-05]], [[セリエA (サッカー) 2005-2006|2005-06]]のスクデット剥奪) |
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* '''[[セリエB]]:1回''' |
* '''[[セリエB]]:1回''' <ref name="149Qoly2015">[[#Qoly 2015|Qoly 2015]] 149頁</ref> |
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** 2006-07 |
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* '''[[コッパ・イタリア]]:14回''' [[File:Star empty.svg|13px]][[File:Coccarda_Coppa_Italia.svg|17px]][[File:Coccarda_Coppa_Italia.svg|17px]][[File:Coccarda_Coppa_Italia.svg|17px]][[File:Coccarda_Coppa_Italia.svg|17px]] |
* '''[[コッパ・イタリア]]:14回''' [[File:Star empty.svg|13px]][[File:Coccarda_Coppa_Italia.svg|17px]][[File:Coccarda_Coppa_Italia.svg|17px]][[File:Coccarda_Coppa_Italia.svg|17px]][[File:Coccarda_Coppa_Italia.svg|17px]] <ref>{{Cite web2|df=ja|title=HALL OF FAME|url=https://www.legaseriea.it/en/coppa-italia/albo|publisher=legaseriea|accessdate=2023-05-17}}</ref> |
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** [[:it:Coppa Italia 1937-1938|1937-38]], [[:it:Coppa Italia 1941-1942|1941-42]], [[:it:Coppa Italia 1958-1959|1958-59]], [[:it:Coppa Italia 1959-1960|1959-60]], [[:it:Coppa Italia 1964-1965|1964-65]], [[:it:Coppa Italia 1978-1979|1978-79]], [[:it:Coppa Italia 1982-1983|1982-83]], [[:it:Coppa Italia 1989-1990|1989-90]], [[:it:Coppa Italia 1994-1995|1994-95]], [[:it:Coppa Italia 2014-2015|2014-15]], [[:it:Coppa Italia 2015-2016|2015-16]], [[:it:Coppa Italia 2016-17|2016-17]], [[:it:Coppa Italia 2017-18|2017-18]], [[:it:Coppa Italia 2020-21|2020-21]] |
** [[:it:Coppa Italia 1937-1938|1937-38]], [[:it:Coppa Italia 1941-1942|1941-42]], [[:it:Coppa Italia 1958-1959|1958-59]], [[:it:Coppa Italia 1959-1960|1959-60]], [[:it:Coppa Italia 1964-1965|1964-65]], [[:it:Coppa Italia 1978-1979|1978-79]], [[:it:Coppa Italia 1982-1983|1982-83]], [[:it:Coppa Italia 1989-1990|1989-90]], [[:it:Coppa Italia 1994-1995|1994-95]], [[:it:Coppa Italia 2014-2015|2014-15]], [[:it:Coppa Italia 2015-2016|2015-16]], [[:it:Coppa Italia 2016-17|2016-17]], [[:it:Coppa Italia 2017-18|2017-18]], [[:it:Coppa Italia 2020-21|2020-21]] |
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* '''[[スーペルコッパ・イタリアーナ]]:9回''' [[File:Supercoppaitaliana.png|20px]][[File:Supercoppaitaliana.png|20px]][[File:Supercoppaitaliana.png|20px]][[File:Supercoppaitaliana.png|20px]][[File:Supercoppaitaliana.png|20px]][[File:Supercoppaitaliana.png|20px]][[File:Supercoppaitaliana.png|20px]][[File:Supercoppaitaliana.png|20px]][[File:Supercoppaitaliana.png|20px]] |
* '''[[スーペルコッパ・イタリアーナ]]:9回''' [[File:Supercoppaitaliana.png|20px]][[File:Supercoppaitaliana.png|20px]][[File:Supercoppaitaliana.png|20px]][[File:Supercoppaitaliana.png|20px]][[File:Supercoppaitaliana.png|20px]][[File:Supercoppaitaliana.png|20px]][[File:Supercoppaitaliana.png|20px]][[File:Supercoppaitaliana.png|20px]][[File:Supercoppaitaliana.png|20px]]<ref>{{Cite web2|df=ja|title=HALL OF FAME|url=https://www.legaseriea.it/en/supercoppa/albo|publisher=legaseriea|accessdate=2023-05-17}}</ref> |
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** [[:en:1995 Supercoppa Italiana|1995]], [[:en:1997 Supercoppa Italiana|1997]], [[:en:2002 Supercoppa Italiana|2002]], [[:en:2003 Supercoppa Italiana|2003]], [[:en:2012 Supercoppa Italiana|2012]], [[:en:2013 Supercoppa Italiana|2013]], [[:en:2015 Supercoppa Italiana|2015]], [[:en:2018 Supercoppa Italiana|2018]], [[:en:2020 Supercoppa Italiana|2020]] |
** [[:en:1995 Supercoppa Italiana|1995]], [[:en:1997 Supercoppa Italiana|1997]], [[:en:2002 Supercoppa Italiana|2002]], [[:en:2003 Supercoppa Italiana|2003]], [[:en:2012 Supercoppa Italiana|2012]], [[:en:2013 Supercoppa Italiana|2013]], [[:en:2015 Supercoppa Italiana|2015]], [[:en:2018 Supercoppa Italiana|2018]], [[:en:2020 Supercoppa Italiana|2020]] |
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=== 国際タイトル === |
=== 国際タイトル === |
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* '''[[インターコンチネンタルカップ (サッカー)|トヨタカップ]]:2回''' |
* '''[[インターコンチネンタルカップ (サッカー)|トヨタカップ]]:2回''' <ref name="trophy">{{Cite web2|df=ja|title=VICTORY IS IN THE DNA|url=https://www.juventus.com/en/club/trophies|publisher=juventus|accessdate=2023-05-17}}</ref> |
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** [[インターコンチネンタルカップ (サッカー)1985|1985]], [[インターコンチネンタルカップ (サッカー)1996|1996]] |
** [[インターコンチネンタルカップ (サッカー)1985|1985]], [[インターコンチネンタルカップ (サッカー)1996|1996]] |
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* '''[[UEFAチャンピオンズリーグ]]:2回''' [[File:Coppacampioni.png|20px]][[File:Coppacampioni.png|20px]] |
* '''[[UEFAチャンピオンズリーグ]]:2回''' [[File:Coppacampioni.png|20px]][[File:Coppacampioni.png|20px]] <ref>{{Cite web2|df=ja|title=Juventus|url=https://www.uefa.com/uefachampionsleague/history/clubs/50139--juventus/|publisher=uefa|accessdate=2023-05-17}}</ref> |
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** [[UEFAチャンピオンズカップ 1984-85|1984-85]], [[UEFAチャンピオンズリーグ 1995-96|1995-96]] |
** [[UEFAチャンピオンズカップ 1984-85|1984-85]], [[UEFAチャンピオンズリーグ 1995-96|1995-96]] |
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* '''[[UEFAカップウィナーズカップ]]:1回''' [[File:Coppa delle Coppe.svg|20px]] |
* '''[[UEFAカップウィナーズカップ]]:1回''' [[File:Coppa delle Coppe.svg|20px]] <ref name="koly10">[[#koly 2004|koly 2004]] 10頁</ref> |
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** [[:it:Coppa delle Coppe 1983-1984|1983-84]] |
** [[:it:Coppa delle Coppe 1983-1984|1983-84]] |
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* '''[[UEFAヨーロッパリーグ|UEFAカップ]]:3回''' [[File:UEFA Cup (adjusted).png|20px]][[File:UEFA Cup (adjusted).png|20px]][[File:UEFA Cup (adjusted).png|20px]] |
* '''[[UEFAヨーロッパリーグ|UEFAカップ]]:3回''' [[File:UEFA Cup (adjusted).png|20px]][[File:UEFA Cup (adjusted).png|20px]][[File:UEFA Cup (adjusted).png|20px]] <ref>{{Cite web2|df=ja|title=Juventus|url=https://www.uefa.com/uefaeuropaleague/history/clubs/50139--juventus/|publisher=uefa|accessdate=2023-05-17}}</ref> |
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** [[UEFAカップ1976-77|1976-77]], [[UEFAカップ1989-90|1989-90]], [[UEFAカップ1992-93|1992-93]] |
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* '''[[UEFAスーパーカップ]]:2回'''[[File: |
* '''[[UEFAスーパーカップ]]:2回'''[[File:Supercoppa UEFA.svg|17px]][[File:Supercoppa UEFA.svg|17px]] <ref>{{Cite web2|df=ja|title=UEFA Super Cup history|url=https://www.uefa.com/uefasupercup/history/|publisher=uefa|accessdate=2023-05-17}}</ref> |
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** [[1984 UEFAスーパーカップ|1984]], [[1996 UEFAスーパーカップ|1996]] |
** [[1984 UEFAスーパーカップ|1984]], [[1996 UEFAスーパーカップ|1996]] |
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* '''[[UEFAインタートトカップ]]:1回''' |
* '''[[UEFAインタートトカップ]]:1回''' <ref name="trophy"/> |
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** [[UEFAインタートトカップ 1999|1999]] |
** [[UEFAインタートトカップ 1999|1999]] |
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== 過去の成績 == |
== 過去の成績 == |
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{{main|ユヴェントスFCの年度別成績一覧}} |
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!シーズン |
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!カテゴリ |
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!試!!勝!!分!!負!!得!!失!!点!!順位 |
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!試 |
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!点 |
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![[コッパ・イタリア]] |
![[コッパ・イタリア]] |
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![[UEFAチャンピオンズリーグ|UEFA CL]] |
![[UEFAチャンピオンズリーグ|UEFA CL]] |
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![[UEFAヨーロッパリーグ|UEFA EL]] |
![[UEFAヨーロッパリーグ|UEFA EL]] |
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!監督 |
!監督 |
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!1976-77 |
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|[[セリエA (サッカー)|セリエA]]||30||23||5||2||50||20||51||bgcolor="gold"|'''1位'''||2回戦敗退||||bgcolor="gold"|'''優勝'''||rowspan="10"|[[ジョバンニ・トラパットーニ]] |
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!1977-78 |
|||
|セリエA||30||15||14||1||46||17||44||bgcolor="gold"|'''1位'''||2回戦敗退||ベスト4|| |
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|- |
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!1978-79 |
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|セリエA||30||12||13||5||40||23||37||bgcolor=#cc9966|3位||bgcolor="gold"|'''優勝'''||2回戦敗退|| |
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!1979-80 |
|||
|セリエA||30||16||6||8||42||25||38||bgcolor="silver"|2位||準決勝敗退|||| |
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!1980-81 |
|||
|セリエA||30||17||10||3||46||15||44||bgcolor="gold"|'''1位'''||準決勝敗退||||2回戦敗退 |
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|- |
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!1981-82 |
|||
|セリエA||30||19||8||3||48||14||46||bgcolor="gold"|'''1位'''||1回戦敗退||ベスト16|| |
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|- |
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!1982-83 |
|||
|セリエA||30||15||9||6||49||26||39||bgcolor="silver"|2位||bgcolor="gold"|'''優勝'''||bgcolor="silver"|準優勝|| |
|||
|- |
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!1983-84 |
|||
|セリエA||30||17||9||4||57||29||43||bgcolor="gold"|'''1位'''||ベスト16|||| |
|||
|- |
|||
!1984-85 |
|||
|セリエA||30||11||14||5||48||33||36||5位||準々決勝敗退||bgcolor="gold"|'''優勝'''|| |
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|- |
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!1985-86 |
|||
|セリエA||30||18||9||3||43||17||45||bgcolor="gold"|'''1位'''||ベスト16||ベスト8|| |
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|- |
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!1986-87 |
|||
|セリエA||30||14||11||5||42||27||39||bgcolor="silver"|2位||準々決勝敗退||ベスト16||||rowspan="2"|[[リノ・マルケージ]] |
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|- |
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!1987-88 |
|||
|セリエA||30||11||9||10||35||30||31||6位||準決勝敗退||||ベスト32 |
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|- |
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!1988-89 |
|||
|セリエA||34||15||13||6||51||36||43||4位||2回戦敗退||||ベスト8||rowspan="2"|[[ディノ・ゾフ]] |
|||
|- |
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!1989-90 |
|||
|セリエA||34||15||14||5||56||36||44||4位||bgcolor="gold"|'''優勝'''||||bgcolor="gold"|'''優勝''' |
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|- |
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!1990-91 |
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|セリエA||34||13||11||10||45||32||37||7位||準々決勝敗退||||||[[ルイジ・マイフレディ]] |
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|- |
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!1991-92 |
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|セリエA||34||18||12||4||45||22||48||bgcolor="silver"|2位||bgcolor="silver"|準優勝||||||rowspan="3"|ジョバンニ・トラパットーニ |
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|- |
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!1992-93 |
|||
|セリエA||34||15||9||10||59||47||39||4位||準決勝敗退||||bgcolor="gold"|'''優勝''' |
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|- |
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!1993-94 |
|||
|セリエA||34||17||13||4||58||25||47||bgcolor="silver"|2位||2回戦敗退||||ベスト8 |
|||
|- |
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!1994-95 |
|||
|セリエA||34||23||4||7||59||32||73||bgcolor="gold"|'''1位'''||bgcolor="gold"|'''優勝'''||||bgcolor="silver"|準優勝||rowspan="4"|[[マルチェロ・リッピ]] |
|||
|- |
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!1995-96 |
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|セリエA||34||19||8||7||58||35||65||bgcolor="silver"|2位||ベスト16||bgcolor="gold"|'''優勝'''|| |
|||
|- |
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!1996-97 |
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|セリエA||34||17||14||3||51||24||65||bgcolor="gold"|'''1位'''||準々決勝敗退||bgcolor="silver"|準優勝|| |
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|- |
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!1997-98 |
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|セリエA||34||21||11||2||67||28||74||bgcolor="gold"|'''1位'''||準決勝敗退||bgcolor="silver"|準優勝|| |
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![[セリエA (サッカー) 1998-1999|1998-99]] |
|||
|セリエA||34||15||9||10||42||36||54||6位||準々決勝敗退||ベスト4||||rowspan="3"|[[カルロ・アンチェロッティ]] |
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![[セリエA (サッカー) 1999-2000|1999-00]] |
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|セリエA||34||21||8||5||46||20||71||bgcolor="silver"|2位||準々決勝敗退||||ベスト16 |
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![[セリエA (サッカー) 2000-2001|2000-01]] |
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|セリエA||34||21||11||3||61||27||73||bgcolor="silver"|2位||ベスト16||1次リーグ敗退|| |
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|- |
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![[セリエA (サッカー) 2001-2002|2001-02]] |
|||
|セリエA||34||20||11||3||64||23||71||bgcolor="gold"|'''1位'''||bgcolor="silver"|準優勝||2次リーグ敗退||||rowspan="3"|マルチェロ・リッピ |
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|- |
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![[セリエA (サッカー) 2002-2003|2002-03]] |
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|セリエA||34||21||9||4||64||29||72||bgcolor="gold"|'''1位'''||準々決勝敗退||bgcolor="silver"|準優勝|| |
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|- |
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![[セリエA (サッカー) 2003-2004|2003-04]] |
|||
|セリエA||34||21||6||7||67||42||69||bgcolor=#cc9966|3位||bgcolor="silver"|準優勝||ベスト16|| |
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|- |
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![[セリエA (サッカー) 2004-2005|2004-05]] |
|||
|セリエA||38||26||8||4||67||27||86||<del>1位</del><ref>カルチョ・スキャンダルによって優勝を剥奪された。</ref>||ベスト16||ベスト8||||rowspan="2"|[[ファビオ・カペッロ]] |
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|- |
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![[セリエA (サッカー) 2005-2006|2005-06]] |
|||
|セリエA||38||27||10||1||71||24||0||bgcolor="#ffcccc"|<del>1位</del>→20位<ref>カルチョ・スキャンダルによって優勝を剥奪され、セリエB降格処分となった。</ref>||準々決勝敗退||ベスト8|| |
|||
|- |
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!2006-07 |
|||
|[[セリエB (サッカー)|セリエB]]||42||28||10||4||83||30||85||bgcolor="#ccffcc"|1位||3回戦敗退||||||[[ディディエ・デシャン]] |
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|- |
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![[セリエA (サッカー) 2007-2008|2007-08]] |
|||
|セリエA||38||20||12||6||72||37||72||bgcolor=#cc9966|3位||準々決勝敗退|||||| rowspan="2" |[[クラウディオ・ラニエリ]] |
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|- |
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! rowspan="2" |[[セリエA (サッカー) 2008-2009|2008-09]] |
|||
| rowspan="2" |セリエA|| rowspan="2" |38|| rowspan="2" |21|| rowspan="2" |11|| rowspan="2" |6|| rowspan="2" |69|| rowspan="2" |37|| rowspan="2" |74|| rowspan="2" bgcolor="silver" |2位|| rowspan="2" |準決勝敗退|| rowspan="2" |ベスト16|| rowspan="2" | |
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|- |
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| rowspan="2" |[[チロ・フェラーラ]] |
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! rowspan="2" |[[セリエA (サッカー) 2009-2010|2009-10]] |
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| rowspan="2" |セリエA |
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| rowspan="2" |38 |
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| rowspan="2" |16 |
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| rowspan="2" |7 |
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| rowspan="2" |15 |
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| rowspan="2" |55 |
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| rowspan="2" |56 |
|||
| rowspan="2" |55 |
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| rowspan="2" |7位 |
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| rowspan="2" |準々決勝敗退 |
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| rowspan="2" |グループリーグ敗退 |
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| rowspan="2" |ベスト16 |
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|[[アルベルト・ザッケローニ]] |
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![[セリエA (サッカー) 2010-2011|2010-11]] |
![[セリエA (サッカー) 2010-2011|2010-11]] |
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|セリエA||38||15||13||10||57||47||58 |
| rowspan=14|[[セリエA (サッカー)|セリエA]] |
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|38||15||13||10||57||47||58||7位||準々決勝敗退||||グループリーグ敗退||[[ルイジ・デルネーリ]] |
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![[セリエA (サッカー) 2011-2012|2011-12]] |
![[セリエA (サッカー) 2011-2012|2011-12]] |
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|38||23||15||0||68||20||84||bgcolor="gold"|'''1位'''||bgcolor="silver"|準優勝||||||rowspan="3"|[[アントニオ・コンテ]] |
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![[セリエA (サッカー) 2012-2013|2012-13]] |
![[セリエA (サッカー) 2012-2013|2012-13]] |
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|38||27||6||5||71||24||87||bgcolor="gold"|'''1位'''||準決勝敗退||ベスト8|| |
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![[セリエA (サッカー) 2013-2014|2013-14]] |
![[セリエA (サッカー) 2013-2014|2013-14]] |
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|38||33||3||2||80||23||102||bgcolor="gold"|'''1位'''||準々決勝敗退||グループリーグ敗退||ベスト4 |
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![[セリエA (サッカー) 2014-2015|2014-15]] |
![[セリエA (サッカー) 2014-2015|2014-15]] |
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|38||26||9||3||72||24||87||bgcolor="gold"|'''1位'''||bgcolor="gold"|'''優勝'''||bgcolor="silver"|準優勝||||rowspan="5"|[[マッシミリアーノ・アッレグリ]] |
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![[セリエA (サッカー) 2015-2016|2015-16]] |
![[セリエA (サッカー) 2015-2016|2015-16]] |
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|38||29||4||5||75||20||91||bgcolor="gold"|'''1位'''||bgcolor="gold"|'''優勝'''||ベスト16|| |
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![[セリエA (サッカー) 2016-2017|2016-17]] |
![[セリエA (サッカー) 2016-2017|2016-17]] |
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|38||29||4||5||77||27||91||bgcolor="gold"|'''1位'''||bgcolor="gold"|'''優勝'''||bgcolor="silver"|準優勝|| |
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![[セリエA (サッカー) 2017-2018|2017-18]] |
![[セリエA (サッカー) 2017-2018|2017-18]] |
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|38||30||5||3||86||24||95||bgcolor="gold"|'''1位'''||bgcolor="gold"|'''優勝'''||ベスト8|| |
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![[セリエA (サッカー) 2018-2019|2018-19]] |
![[セリエA (サッカー) 2018-2019|2018-19]] |
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|38||28||6||4||70||30||90||bgcolor="gold"|'''1位'''||準々決勝敗退||ベスト8|| |
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![[セリエA (サッカー) 2019-2020|2019-20]] |
![[セリエA (サッカー) 2019-2020|2019-20]] |
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|38||26||5||7||76||43||83||bgcolor="gold"|'''1位'''||bgcolor="silver"|準優勝||ベスト16||||[[マウリツィオ・サッリ]] |
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![[セリエA (サッカー) 2020-2021|2020-21]] |
![[セリエA (サッカー) 2020-2021|2020-21]] |
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|38||23||9||6||77||38||78||4位||bgcolor="gold"|'''優勝'''||ベスト16||||[[アンドレア・ピルロ]] |
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![[セリエA (サッカー) 2021-2022|2021-22]] |
![[セリエA (サッカー) 2021-2022|2021-22]] |
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|38||20||10||8||57||37||70||4位||bgcolor="silver"|準優勝||ベスト16||||rowspan="3"|マッシミリアーノ・アッレグリ |
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![[セリエA (サッカー) 2022-2023|2022-23]] |
![[セリエA (サッカー) 2022-2023|2022-23]] |
||
|38||22||6||10||56||33||<del>72</del>→62{{efn|財務違反処分として[[イタリアサッカー連盟|FIGC]]から勝点10が剥奪された<ref>{{cite web|url=https://www.figc.it/it/federazione/news/caso-plusvalenze-dieci-punti-di-penalizzazione-per-la-juventus-da-scontare-nella-corrente-stagione-sportiva/ |title=Caso plusvalenze, dieci punti di penalizzazione per la Juventus da scontare nella corrente stagione sportiva |publisher=[[イタリアサッカー連盟|FIGC]] |language=it |date=2023-05-22 |accessdate=2023-06-20}}</ref>。}}||7位||準決勝敗退||グループリーグ敗退||ベスト4 |
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|セリエA |
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![[セリエA (サッカー) 2023-2024|2023-24]] |
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{{サッカークラブチーム選手一覧 中央}} |
{{サッカークラブチーム選手一覧 中央}} |
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{{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=17|国籍=SRB|ポジション=MF|名前=[[フィリップ・コスティッチ]]}}★ |
{{サッカークラブチーム選手一覧 選手|背番号=17|国籍=SRB|ポジション=MF|名前=[[フィリップ・コスティッチ]]}}★ |
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{{サッカークラブチーム選手一覧 終了}} |
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* {{Flagicon|ITA}} [[マッシミリアーノ・アッレグリ]] |
* {{Flagicon|ITA}} [[マッシミリアーノ・アッレグリ]] |
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※括弧内の国旗はその他の保有国籍を、 |
※括弧内の国旗はその他の保有国籍を、★はEU圏外選手を、☆はクラブ育成選手を示す。 |
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=== Bチーム === |
=== Bチーム === |
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=== プリマヴェーラ === |
=== プリマヴェーラ === |
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{{main|en:Juventus F.C. Youth Sector}} |
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== エンブレム == |
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いくつかのデザインの変化を経ながら100年以上使われていたエンブレムには真ん中に牡牛が描かれており、トリノの語源がタウリーニ(牛の人々)であることが由来である<ref name="juve logo">{{Cite web2|df=ja|title=ユベントスの新ブランドロゴは、サッカークラブの常識を覆す|url=https://www.footballista.jp/special/34754|publisher=footballista|accessdate=2022-05-29|date=2017-06-14}}</ref><ref name="katano20173">{{Cite book2|df=ja|chapter=CALCIOおもてうら 第310回 ユーベの新ロゴ戦略は、エンブレムの常識を変える|author=片野道郎|title=footballista|volume=2017年3月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=110}}</ref>。しかし、ユニフォームの配色やマスコットにシマウマが使われていることもあり、「牛ではなくシマウマなのではないか?」とネットで論争になったこともある<ref name="br206">[[#斉藤 2010|斉藤 2010]] 206頁</ref>。ACミランと形が近い楕円形はイタリアの紋章の特色であり<ref>{{Cite web2|df=ja|title=紋章の比較研究|url=https://bunkyo.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=4313&item_no=1&attribute_id=37&file_no=1|publisher=文教大学女子短期大学部|author= 奥平 志づ江|access-date=2022-08-02|date=1984-12-01}}</ref>、クラブ名の下の金色の曲線は「栄光」を表している<ref name="br110">[[#斉藤 2009|斉藤 2009]] 110頁</ref>。2017年に一新された現在のロゴは、ユヴェントスのイニシャルの「J」をモチーフにしたシンプルなものになっており、グッズやアパレル商品に馴染む大胆な変更となった<ref name="juve logo"/>。また「J」という文字はイタリア語のアルファベットには元々存在せず、クラブ名がラテン語由来であるアイデンティティを強く押し出している<ref name="katano20173"/>。ロゴは世界的なブランディング会社である[[インターブランド]]のデザインによるもので、「ユヴェントス・ファンズ」というフォントも合わせて開発されている<ref name="katano20173"/><ref name="2017katano135">[[#片野 2017|片野 2017]] 135頁</ref>。変化の背景には、ユヴェントスが資金力のある欧州のトップクラブとの競争に後れを取り、特に売り上げの中でコマーシャル分野が占める割合が低いことがあった<ref name="2017katano132">[[#片野 2017|片野 2017]] 132頁</ref>。片野道郎は、シンプルなロゴとフォントを用いてグッズ展開していくことから、「クラブエンブレム」から「ブランドロゴ」へ再定義する狙いがあると分析している<ref name="2017katano135"/><ref name="2017katano133">[[#片野 2017|片野 2017]] 133頁</ref>。 |
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== ユニフォーム == |
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クラブカラーは白と黒の縦縞<ref name="story110">[[#Ray, Giancarlo 1994|Ray, Giancarlo 1994]] 110頁</ref>。クラブ創設当初はピンクのシャツに黒いパンツ、加えて黒いネクタイを着用していた<ref name="br207">[[#斉藤 2010|斉藤 2010]] 207頁</ref>。当時のユニフォームは色褪せしやすいという問題があり、1903年に共同経営者で選手としてもクラブに所属したイングランド人ジョン・サヴェージはユニフォームの新調を決めた<ref name="br208">[[#斉藤 2010|斉藤 2010]] 208頁</ref>。サヴェージは当初、[[ノッティンガム・フォレストFC|ノッティンガム・フォレスト]]のような赤いユニフォームにしようとしていたが<ref name="br208"/>、代替ユニフォームを頼まれた母国の友人は、色褪せたピンク色のユニフォームを白いユニフォームが汚れたと勘違いしてしまい、更に[[ノッツ・カウンティFC|ノッツ・カウンティ]]のファンであったため勝手に黒のストライプを追加してしまった<ref name="juveuni"/>。依頼していたものとは全く違うものが届くこととなったが、開幕直前で代わりのものが用意できずそのまま白と黒のユニフォームを着用した<ref name="br208"/>。次第に白と黒は攻撃的な色で優雅なイメージだと考えるようになり、クラブを象徴するユニフォームとなった<ref name="juveuni"/>。2011-12シーズンや2015-16シーズンには、アウェイユニフォームの配色にピンクが使われている<ref>{{Cite web2|df=ja|title=ユヴェントス、adidasによる2015-16新ユニフォームを発表!|url=https://qoly.jp/2015/07/01/juventus-2015-16-adidas-kit?part=2|publisher=qoly|date=2015-07-01|accessdate=2022-06-07}}</ref>。 |
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{|class="wikitable" style="text-align: center" |
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!シーズン |
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!サプライヤー<ref name="Qoly148">[[#Qoly 2015|Qoly 2015]] 148-149頁</ref><ref name="WSD20060302"/> |
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!スポンサー<ref name="Qoly148">[[#Qoly 2015|Qoly 2015]] 148-149頁</ref><ref name="WSD20060302"/> |
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|1979–1989 |
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|rowspan=6|[[Kappa]] |
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|[[Indesit|Ariston]] |
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|1989–1992 |
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|[[UPIM]] |
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|1992–1995 |
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|[[ダノン|Danone]] |
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|1995–1998 |
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|[[Sony]] |
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|- |
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|1998–1999 |
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|[[Tele+ Digitale|D+Libertà digitale/Tele+]] |
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|1999–2000 |
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|[[Tele+ Digitale|CanalSatellite/D+Libertà digitale]]/[[Sony]] |
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|2000–2001 |
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|rowspan=3|[[ロット (企業)|Lotto]] |
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|Sportal.com/[[Tele+ Digitale|Tele+]] |
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|2001–2002 |
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|[[Fastweb (telecommunications company)|Fastweb]]/Tu Mobile |
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|2002–2003 |
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|rowspan=2|[[Fastweb (telecommunications company)|Fastweb]]/[[Tamoil]] |
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|- |
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|2003–2004 |
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|rowspan=6|[[ナイキ|Nike]] |
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|- |
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|2004–2005 |
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||[[Sky Sport (Italy)|Sky Sport]]/[[Tamoil]] |
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|- |
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|2005–2007 |
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|[[Tamoil]] |
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|2007–2010 |
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|[[フィアット|FIAT]] ([[New Holland Agriculture|New Holland]]) |
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|- |
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|2010–2012 |
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|[[:fr:BetClic|BetClic]]/[[Balocco (company)|Balocco]] |
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|- |
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|2012–2015 |
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|rowspan=2|[[FCA Italy|FIAT/ FCA Italy]] ([[Jeep]]) |
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|- |
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|2015– |
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|[[アディダス|Adidas]]<ref name="utsumi201312"/> |
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|} |
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1979年に胸元のスポンサー広告が解禁されてから、[[ダノン]]や[[Sony]]<ref>{{Cite web2|df=ja|title=欧州サッカー、知られざる胸スポンサー効果|url=https://toyokeizai.net/articles/-/192704|publisher=東洋経済|author=岡田 真理|date=2017-10-14|accessdate=2022-08-04}}</ref>といった会社がスポンサーになってきた<ref name="br109">[[#斉藤 2009|斉藤 2009]] 109頁</ref>。2003年からリビアのオイル会社であった{{仮リンク|Tamoil|en|Tamoil}}がスポンサーになったが、サプライヤーであるナイキのロゴが入らなかった<ref name="br109">[[#斉藤 2009|斉藤 2009]] 109頁</ref>。政治的な関係からナイキが拒否したといわれるが、2006年にはユヴェントスがセリエBに降格し契約破棄条項があったため、Tamoilはスポンサーから撤退した<ref name="br109">[[#斉藤 2009|斉藤 2009]] 109頁</ref>。 |
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2017-18シーズンからは背中側のスポンサーを採用し、日本企業である[[Cygames]]と3年間の契約を締結した<ref name="hihyocy">{{Cite book2|df=ja|chapter=「白と黒」の哲学に重ね合わせて|author=伊藤亮|title=サッカー批評|volume=87号|publisher=双葉社|pages=42-45頁}}</ref>。Cygamesの[[渡邊耕一]]代表取締役社長はスポンサードの理由について、Cygamesがオフィシャルスポンサーをしていた[[サガン鳥栖]]と名前の語呂が近いことと、Cygamesのコーポレートカラーがユヴェントスと同じ白と黒だったことを挙げている<ref name="hihyocy"/>。Cygamesより配信されている[[Shadowverse]]では、ユヴェントスのロゴがデザインされたコラボエンブレムやスリーブが入手できるキャンペーンが行われた<ref name="hihyocy"/><ref>{{Cite web2|df=ja|title=Cygames、『Shadowverse』でユヴェントスF.C. スポンサー記念キャンペーンを開催 特別ログインボーナスでコラボエンブレム&スリーブを配布|url=https://gamebiz.jp/news/190676|publisher=gamebiz|date=2017-08-07|accessdate=2022-07-02}}</ref>。 |
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== スタジアム == |
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=== ユヴェントス・スタジアム === |
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{{See also|ユヴェントス・スタジアム}} |
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総工費は1億500万ユーロ<ref name="katano20080416omote">{{Cite book2|df=ja|chapter=CALCIOおもてうら 第140回 新デッレ・アルピに未来を託すユベントス|author=片野道郎|title=footballista|volume=2008年4月16日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=36}}</ref>。カルチョ・スキャンダルによる収入の悪化や、EURO2012招致の失敗により一時計画が危ぶまれた<ref name="katano20080416omote"/>。ユベントスは建設費の調達のため、スタジアム完成前の2008年からマーケティング会社の「Sportfive」社と提携し、イタリアのクラブで初めて命名権を売却した<ref>{{Cite web2|df=ja|title=Juventus sells stadium name rights to Sportfive|url=https://jp.reuters.com/article/juventus/juventus-sells-stadium-name-rights-to-sportfive-idUSL2060240120080320|publisher=ロイター|date=2008-03-21|accessdate=2022-08-28}}</ref><ref name="SK201903ogawa9">{{Cite book2|df=ja|chapter=ユーヴェはなぜこんなに強いのか?|title=サッカーキング|author=小川光生|volume=2019年3月号|publisher=フロムワン|pages=9}}</ref>。12年間で総額7500万ユーロの契約になり、建設額の7割ほどの担保を確保している<ref name="katano20080416omote"/>。しかし、命名権は行使されずユヴェントス・スタジアムのまま使用されていたが<ref name="br58">[[#斉藤 2015|斉藤 2015]] 58頁</ref>、2017年に[[アリアンツ]]が命名権を取得し'''アリアンツ・スタジアム'''の名称を用いている<ref>{{Cite web2|df=ja|title=ユーヴェ、本拠地名称を「アリアンツ・スタジアム」に変更へ…2023年6月末まで|url=https://www.soccer-king.jp/news/world/ita/20170602/595746.html|publisher=サッカーキング|date=2017-06-02|accessdate=2023-05-04}}</ref>。2020年には契約が2030年まで延長されている<ref>{{Cite web2|df=ja|title=アリアンツと2030年までパートナーシップを延長|url=https://www.juventus.com/jp/news/articles/with-allianz-until-2030|publisher=juventus.com|date=2020-02-12|accessdate=2023-05-04}}</ref>。 |
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{| class="wikitable floatright" |
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|+ |
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! 年度 !! 平均観客動員数<ref name="20190516WSD18">{{Cite book2|df=ja|chapter=[クラブ格付け企画] 5つ星の総合評価が付くのはどこ?|title=ワールドサッカーダイジェスト|volume=2019年5月16日号|publisher=日本スポーツ企画出版社|pages=18}}</ref>!! 占有率 |
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|- |
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! 2014-15 |
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| style="text-align:center;" | 38,553人 || 約92.9% |
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! 2015-16 |
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| style="text-align:center;" | 38,662人 || 約93.1% |
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|- |
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! 2016-17 |
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| style="text-align:center;" | 39,936人 || 約96.2% |
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|- |
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! 2017-18 |
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| style="text-align:center;" | 39,316人 || 約94.7% |
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|- |
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! 2018-19 |
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| style="text-align:center;" | 40,082人 || 約96.6% |
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|} |
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オープニングセレモニーは2011年9月8日に行われ、[[こけら落とし]]として白と黒のユニフォームの元となった[[ノッツ・カウンティFC]]との試合が行われた<ref name="br58">[[#斉藤 2015|斉藤 2015]] 58頁</ref><ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=ユーベの勢いを加速させる新スタジアムの好感触|author=内海浩子|title=footballista|volume=2011年9月21日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=13}}</ref>。2010-11シーズンに2万2000人程だった平均入場者数は、新スタジアムで3万6千人まで上昇した<ref name="katano20111109">{{Cite book2|df=ja|chapter=CALCIOおもてうら 第228回 ガラガラのスタジアムと満員のテレビ桟敷|author=片野道郎|title=footballista|volume=2011年11月9日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=19}}</ref>。この数字は10節終了時点であるが、前年比で64%増の改善となった<ref name="katano20111109"/>。これは一時的なものではなく、2018-19シーズンまで最大収容人数における占有率で90%以上の数字を維持し続けた<ref name="20190516WSD18"/>。また、入場料収入も2010-11シーズンの1160万ユーロから、2013-14シーズンには4100万ユーロまで大幅に改善し、この数字は2010-11シーズンに優勝したACミランの[[スタディオ・ジュゼッペ・メアッツァ|サン・シーロ]]の入場料収入を、半分の収容人数ながら上回っていることになる<ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=これからのスタジアムを考える|author=山口祐平|title=footballista|volume=2015年8月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=103}}</ref>。 |
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スタジアム住所には、交通事故で亡くなった[[ガエターノ・シレア]]の名前が冠されている<ref name="br54">[[#斉藤 2015|斉藤 2015]] 54頁</ref>。スタジアムには、ミュージアム、公式ショップ、「Area12」というショッピングモールが併設され複合施設となっており<ref name="br58">[[#斉藤 2015|斉藤 2015]] 58頁</ref><ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=スタジアム探訪 第9回 ビアンコネロのお膝元満喫ルート|author=片野道郎|title=footballista|volume=2014年6月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=103}}</ref>、なかでもトロフィーや写真が展示されクラブの歴史を知ることができるミュージアムは、2012年の開館から2018年までで112万の来館者が訪れた<ref name="br59">[[#斉藤 2015|斉藤 2015]] 59頁</ref><ref>{{Cite web2|df=ja|title=ユベントス・ミュージアムへの来場者が急増 昨シーズンより25%増加|url=https://www.daily.co.jp/soccer/2019/01/07/0011960322.shtml|publisher=デイリー|date=2019-01-07|accessdate=2022-08-28}}</ref>。 |
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=== 過去のスタジアム === |
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==== スタディオ・コムナーレ ==== |
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{{See also|スタディオ・オリンピコ・グランデ・トリノ}} |
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[[ファイル:Stadio Comunale Benito Mussolini.jpg|200px|thumb|right|1930年代のスタディオ・コムナーレ]] |
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[[スタディオ・コムナーレ]]はイタリア語で市営スタジアムという意味で、1934年から1990年までユヴェントスとトリノのホームスタジアムとして使用されていた<ref name="フットボリスタ20061025katano">{{Cite book2|df=ja|chapter=CALCIOおもてうら 第82回 何もかもあべこべなトリノ|author=片野道郎|title=footballista|volume=2006年10月25日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=26}}</ref>。[[スタディオ・デッレ・アルピ]]が完成すると、ユヴェントスとトリノの練習場として使われていた<ref name="2000goto32-33">[[#後藤 2000|後藤 2000]] 32-33頁</ref>。2006年に[[2006年トリノオリンピック|トリノオリンピック]]のために改築され、トリノFCのホームスタジアムになる<ref name="フットボリスタ20061025katano"/>。しかし、2006年からデッレ・アルピの改修のため、ユヴェントスもホームゲームを開催した<ref name="フットボリスタ20061025katano"/>。 |
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==== スタディオ・デッレ・アルピ ==== |
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{{See also|スタディオ・デッレ・アルピ}} |
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[[ファイル:Torino, Stadio 'Delle Alpi', Mondiali 1990, Brasile-Svezia 2-1.jpg|200px|thumb|right|1990年W杯でのデッレ・アルピ]]1990年の[[1990 FIFAワールドカップ|ワールドカップ・イタリア大会]]のために新設されたスタジアムで<ref>{{Cite web2|df=ja|title=サッカー=ユベントス、新スタジアム建設を承認|url=https://jp.reuters.com/article/idJPJAPAN-30908320080319|publisher=reuters|date=2020-02-12|accessdate=2023-05-04}}</ref>、[[トリノ]]が[[アルプス山脈]]の麓にあることから、イタリア語で「アルプスのスタジアム」という意味の'''デッレ・アルピ (Delle Alpi)'''と命名された<ref name="br111">[[#斉藤 2009|斉藤 2009]] 111頁</ref>。市街地から離れている、アルプスの北風が吹きつける、陸上トラックがありピッチと客席が遠い等の問題があり、ファンからは'''「イタリアで最悪のスタジアム」'''と揶揄されていた<ref name="br112">[[#斉藤 2009|斉藤 2009]] 112頁</ref>。加えて、トリノ市所有のため使用料が高く、ユヴェントスはデッレ・アルピを利用するにあたり、年間85億リラ(約4億7000万円)の使用料をトリノ市に支払っていた<ref name="2000goto35">[[#後藤 2000|後藤 2000]] 35頁</ref>。スタジアムは自治体の所有物であるためクラブが自由に改築を行うこともできず、入場料収入も伸び悩み他国のクラブと比べると著しく低い割合となっていた<ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=CALCIOおもてうら 第99回 クラブの収益構造にも垣間見えるイタリアの困難|author=片野道郎|title=footballista|volume=2007年3月14日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=26}}</ref><ref name="Deloitte2007">{{Cite web2|df=ja|title=Deloitte Football Money League 2007|url=https://www2.deloitte.com/content/dam/Deloitte/uk/Documents/sports-business-group/deloitte-uk-deloitte-football-money-league-2007.pdf|publisher=Deloitte|year=2007|accessdate=2022-09-03}}(2007年2月に国際監査法人『デロイト』が公表した2005-2006シーズンの欧州サッカーのクラブ収入ランキング)</ref>。開場まもない1994年から新スタジアムの計画がされており<ref name="br111">[[#斉藤 2009|斉藤 2009]] 111頁</ref>、2003年には市と合意を得たが[[カルチョ・スキャンダル|カルチョ・ポリ]]の影響で計画に支障が出てしまった<ref name="br111">[[#斉藤 2009|斉藤 2009]] 111頁</ref>。2007年には、[[UEFA EURO 2012|2012年の欧州選手権]]開催を目指す[[イタリアサッカー連盟]]と建設計画を進める予定だったが、イタリアが開催国から落選<ref name="br111">[[#斉藤 2009|斉藤 2009]] 111頁</ref>。それでも、2008年には建設計画を発表し、2009年に着工した<ref name="br111">[[#斉藤 2009|斉藤 2009]] 111頁</ref>。 |
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== ライバル == |
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=== トリノFC === |
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[[File:Derby di Torino - Serie A 1976-1977.jpg|right|thumb|upright|200px|1976-77シーズンのデルビー・デッラ・モーレ]] |
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{{See also|デルビー・デッラ・モーレ}} |
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[[トリノFC]]との対戦は、街の象徴的な建物[[モーレ・アントネリアーナ]]から[[デルビー・デッラ・モーレ]]と呼ばれる<ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=過去の成績は五分。トリノの街を二分する伝統のダービー|author=内海浩子|title=footballista|volume=2007年10月3日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=13}}</ref>。フィアットがオーナーで上流階級の学生により創設されたユヴェントスに対し、1906年に方針の違いから離脱し新クラブを設立したトリノFCは地元の労働者階級から支援された<ref name="torino20155">{{Cite book2|df=ja|chapter=ダービーは生きている トリノダービー|author=内海浩子|title=footballista|volume=2015年5月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=18}}</ref>。地元ファンの支持層を端的にまとめると、ブルジョア vs プロレタリアートとなる<ref name="torino20155"/>。トリノFC創設の翌年である1907年1月に初対戦が行われており、イタリア国内最古のダービーである<ref name="torino20155"/>。また、ユヴェントス・スタジアム完成以降、イタリア国内で唯一異なるホームスタジアムで行われるダービーとなっている<ref name="torino20155"/>。 |
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=== インテル === |
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[[File:Morini Boninsegna 1973-74.jpg|right|thumb|upright|200px|1973-74シーズンのイタリアダービー]] |
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{{See also|イタリアダービー}} |
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インテルとの対戦はホームタウンが異なるものの、ライバル心や因縁から'''イタリアダービー'''、'''デルビー・ディタリア'''と呼ばれる<ref name="SK20204-5ogawa">{{Cite book2|df=ja|chapter="デルビー"とは勝つためのものだ|author=小川光生|title=サッカーキング|volume=2020年4-5月合併号|publisher=フロムワン|pages=35}}</ref>。この2クラブの対戦がイタリアダービーと呼ばれ始めたのは1960年代の頃で、優勝回数の多い両クラブの対決がスクデットの行方を争う大一番となったためである<ref name="katano20071107">{{Cite book2|df=ja|chapter=イタリアダービーの今|author=片野道郎|title=footballista|volume=2007年11月7日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=11}}</ref>。1980年代にACミランが優勝回数で追い抜くと、一時期はユヴェントスvsミランの方がイタリアダービーにふさわしいのではないかという声もあった<ref name="katano20071107"/>。 |
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== 移籍市場 == |
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2023年時点で、ユヴェントスは4度の移籍金最高額の記録を更新しており、ACミランとインテルと並び2番目に回数の多いクラブである<ref name="football_zone_2019-01-30" />。1957年に[[CAリーベル・プレート]]から[[オマール・シボリ]]の獲得で9万3000ポンド、1968年に[[ヴァレーゼ・カルチョSSD|ヴァレーゼ]]から[[ピエトロ・アナスタージ]]の獲得で50万ポンド、1990年に[[ACFフィオレンティーナ|フィオレンティーナ]]から[[ロベルト・バッジョ]]の獲得に800万ポンド、1992年に[[UCサンプドリア|サンプドリア]]から[[ジャンルカ・ヴィアッリ]]の獲得に1200万ポンド支払った合わせて4回である<ref>{{Cite web2|df=ja|title=さすがの面々…! ユベントスで背番号10を背負った12人の選手。デル・ピエロ、バッジョ…受け継がれるレジェンドの系譜|url=https://www.footballchannel.jp/2020/02/27/post364539/5/|publisher=footballchannel|date=2020-02-27|accessdate=2022-08-29}}</ref><ref name="record">{{Cite web2|df=ja|title=1940s to 2010s: Evolution of record transfer fees in every decade|url=https://www.sportskeeda.com/football/1940s-to-2010s-evolution-of-record-transfer-fees-in-every-decade|publisher=sportskeeda|date=2019-04-21|accessdate=2022-08-29}}</ref><ref>{{Cite web2|df=ja|title=ロベルト・バッジョ―「偉大なるポニーテール」|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3011148?pid=13408257&page=2|publisher=AFP|date=2018-06-11|accessdate=2022-08-30}}</ref><ref name="football_zone_2019-01-30">{{Cite web2|df=ja|title=「移籍金“世界最高額”更新クラブ」TOP5を発表 名門と肩を並べた意外なクラブとは?|url=https://www.football-zone.net/archives/166022/2|publisher=FOOTBALL ZONE|date=2019-01-30|accessdate=2022-08-29}}</ref>{{Efn|[[パオロ・ロッシ]]の移籍金記録は、正確には共同保有の交渉がまとまらず行われたブラインド形式の入札<ref>{{Cite web2|df=ja|title=共同保有|url=https://web.ultra-soccer.jp/index/index/c/Transfer/id/page_3_4_2|publisher=超WORLDサッカー|accessdate=2022-08-29}}</ref>であり、オークション時の価格<ref>{{Cite web2|df=ja|title=Italy's co-ownership of players antiquated but purposeful|url=https://www.espn.co.uk/football/blog/name/73/post/1845887/headline|publisher=ESPN|date=2014-05-31|accessdate=2022-08-29}}</ref>。175万£の移籍金が支払われた<ref name="record"/><ref>{{Cite web2|df=ja|title=Football transfer records broken by teams outside the top division|url=https://www.theguardian.com/football/2016/aug/03/football-transfer-records-broken-by-teams-outside-the-top-division|publisher=theguardian|date=2016-08-03|accessdate=2022-08-30}}</ref>。}}。 |
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選手の獲得だけでなく、売却でも2度の最高額取り引きに関わっている。2001年に、[[ジネディーヌ・ジダン]]が[[レアル・マドリード]]へ移籍した際に支払われた移籍金は4600万ポンドで、前年に移籍した[[ルイス・フィーゴ]]の移籍金記録を900万ポンドも更新している<ref>{{Cite web2|df=ja|title=移籍金の「史上最高額」を更新した5人のサッカー選手|url=https://qoly.jp/2016/08/10/transfer-records-in-21th-century|publisher=qoly|date=2016-08-10|accessdate=2022-08-30}}</ref>。ユヴェントスは、ジダンの移籍金を補強資金に充て、同移籍期間に[[パベル・ネドベド]]、[[リリアン・テュラム]]、[[ジャンルイジ・ブッフォン]]を獲得しており<ref>{{Cite web2|df=ja|title=「移籍金レコード更新」の歴史は? シアラー、ロナウド、ジダン、C・ロナウド、ベイル、そしてポグバ――|url=https://www.soccerdigestweb.com/news/detail3/id=18246|publisher=サッカーダイジェストWeb|date=2016-08-17|accessdate=2022-08-30}}</ref><ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=ポグバ売却を後押しする、ジダンの成功例|author=片野道郎|title=footballista|volume=2015年4月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=37}}</ref>、特にブッフォンの移籍金3260万ポンドは当時の[[ゴールキーパー]]最高額で<ref>{{Cite web2|df=ja|title=GK移籍金ランキングTOP10! ブッフォン超えは当たり前、世界で”GK祭り”止まらない|url=https://www.theworldmagazine.jp/20180810/01world/215560|publisher=theworld|date=2018-08-10|accessdate=2022-08-30}}</ref>、[[アリソン・ラムセス・ベッカー]]が[[リヴァプールFC]]へ移籍するまで17年最高記録であり続けた<ref>{{Cite web2|df=ja|title=移籍金はGK史上最高ブッフォン超え…リバプールがブラジル正守護神を獲得へ|url=https://web.gekisaka.jp/news/world/detail/?249978-249978-fl|publisher=ゲキサカ|date=2018-07-19|accessdate=2022-08-30}}</ref>。[[ラ・スタンパ]]のアントニオ・バリッラ記者は、ユヴェントスの優れた選手獲得のランキングにおいてブッフォンとネドベドの取り引きを1位と3位にそれぞれ挙げている<ref name="WSD20220317">{{Cite book2|df=ja|chapter=クラブ別「歴代補強ランキング」ベスト5&ワースト|author=アントニオ・バリッラ|translator=片野道郎|title=ワールドサッカーダイジェスト|volume=2022年3月17日号|publisher=日本スポーツ企画|pages=82}}</ref>。2016年に[[マンチェスター・ユナイテッドFC|マンチェスター・ユナイテッド]]へ移籍した[[ポール・ポグバ]]には1億500万ユーロが支払われており、元々マンチェスター・ユナイテッドからフリートランスファーで移籍してきたことから、代理人である[[ミノ・ライオラ]]への手数料を差し引いても7500万ユーロの利益を得ている<ref>{{Cite web2|df=ja|title=ポグバがマンU復帰で歴代移籍金ランクトップに…ユーヴェが約119億円と発表|url=https://www.soccer-king.jp/news/world/ita/20160809/474018.html|publisher=SOCCERKING|date=2016-08-09|accessdate=2023-05-19}}</ref><ref name="2017katano172">[[#片野 2017|片野 2017]] 172頁</ref>{{Efn|ポグバは2022年に再びフリートランスファーでユヴェントスへ加入している<ref>{{Cite web2|df=ja|title=ポグバ、7季ぶりのユーヴェ復帰が決定! マンUから“2度目”のフリー移籍…4年契約|url=https://www.soccer-king.jp/news/world/ita/20220711/1665837.html|publisher=SOCCERKING|date=2022-07-11|accessdate=2023-05-19}}</ref>}}。 |
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一方、[[ジュゼッペ・マロッタ]]GM時代にはクラブの再建期ということもあり、就任から5年間は1人の移籍金は2000万ユーロまで抑えられ、[[アンドレア・ピルロ]]、ポール・ポグバ、[[フェルナンド・ジョレンテ]]、[[キングスレイ・コマン]]、[[サミ・ケディラ]]、[[ダニエウ・アウヴェス]]、[[エムレ・ジャン]]ら主力級選手をフリートランスファーで獲得し、健全な財政でチームを強化していった<ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=CALCIO おもてうら 第330回 敏腕マロッタGDを切った裏事情。アニエッリ会長の「脱イタリア計画」|author=片野道郎|title=footballista|volume=2018年11月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=94}}</ref><ref>{{Cite web2|df=ja|title=チャルハノールも仲間入り…“ゼロ円移籍の達人”マロッタ氏が獲得した大物10選手|url=https://www.soccer-king.jp/news/world/ita/20210623/1542357.html|publisher=SOCCERKING|date=2021-06-23|accessdate=2023-05-19}}</ref>。 |
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=== 禁断の移籍 === |
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フィオレンティーナサポーターから愛された[[ロベルト・バッジョ]]の移籍が報道されるとサポーターは抗議のため広場に集まり、100人の逮捕者が出る大騒ぎとなった<ref name="2021marzio116">[[#ディ・マルツィオ 2021|ディ・マルツィオ 2021]] 116頁</ref><ref name="2021marzio119">[[#ディ・マルツィオ 2021|ディ・マルツィオ 2021]] 119頁</ref>。それ以来フィオレンティーナとの取り引きは禁断の移籍とされている<ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=早々にテベス、ジョレンテ決定! あとは強引な根拠で"ゴリ押し"|author=アントニオ・バリッラ|translator=内海浩子|title=footballista|volume=2013年9月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=82}}</ref>。しかしサポーターの拒否反応はありつつも、ユース出身の[[フェデリコ・ベルナルデスキ]]、[[フェデリコ・キエーザ]]、得点ランキングトップの活躍だった[[ドゥシャン・ヴラホヴィッチ]]ら主力選手の移籍が成立している<ref>{{Cite web2|df=ja|title=ベルナルデスキがユーベ移籍内定!「栄光の10番」を継承か?|url=https://www.soccerdigestweb.com/news/detail/id=28013|publisher=サッカーダイジェストWEB|date=2017-07-22|accessdate=2023-05-05}}</ref><ref>{{Cite web2|df=ja|title=「恥を知れ」「道化師め」ユベントスへ“禁断の移籍”をしたキエーザに、フィオレンティーナのファンが激怒!|url=https://www.soccerdigestweb.com/news/detail/id=80190|publisher=サッカーダイジェストWEB|date=2020-10-06|accessdate=2023-05-05}}</ref><ref>{{Cite web2|df=ja|title=冬のビッグディール。ユベントス、フィオレンティーナから現セリエA得点王を獲得|url=https://www.footballista.jp/news/131410|publisher=footballista|date=2022-01-29|accessdate=2023-05-05}}</ref>。 |
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ナポリに所属していた[[エディンソン・カバーニ]]は、ユヴェントスからの移籍オファーに対し「サポーターを裏切ることになる」と断っており、[[ドリース・メルテンス]]はナポリの道化師である[[プルチネッラ]]のタトゥーを見せ即座に断ったという<ref name="2021marzio77">[[#ディ・マルツィオ 2021|ディ・マルツィオ 2021]] 77頁</ref><ref name="2021marzio78">[[#ディ・マルツィオ 2021|ディ・マルツィオ 2021]] 78頁</ref>。[[ゴンサロ・イグアイン]]は契約解除金を支払っての移籍であり、ナポリとの交渉を通していない<ref name="2021marzio77"/>。ナポリの人々の持つ嫌悪感情の根底には、イタリア経済の[[南北問題#イタリア|南北問題]]があると神尾光臣は指摘している<ref>{{Cite web2|df=ja|title=イグアイン、ユーベ移籍はなぜ「禁断」か? 150年に及ぶ南北問題、トリノに軽蔑され続けたナポリの歴史|url=https://www.footballchannel.jp/2016/08/04/post167467/2/|publisher=footballchannel|date=2016-08-04|accessdate=2023-05-21}}</ref>。 |
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=== 協力関係 === |
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ミランとは選手獲得で争い合わないという紳士協定を結んでいるとされる<ref name="WSD20050203">{{Cite book2|df=ja|chapter=ヨーロッパ66クラブの「強化プラン」 ユベントス|author=Antonio FINCO|translator=片野道郎|title=ワールドサッカーダイジェスト|volume=2005年2月3日号|publisher=日本スポーツ企画|pages=28}}</ref>。 |
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[[グンナー・ノルダール]]を融通したり、デ・シリオとボヌッチの交渉では協調関係で取引をまとめた<ref name="Cerretti118"/><ref>{{Cite web2|df=ja|title=ボヌッチ電撃移籍の舞台裏。「最初は代理人に馬鹿にされていると…」|url=https://www.soccerdigestweb.com/news/detail/id=28049|publisher=サッカーダイジェストWEB|date=2017-07-23|accessdate=2023-05-02}}</ref>。当初バッジョはミランへの移籍で合意していたが、横やりを入れたユヴェントスはジャンニ・アニエッリ本人が直接ベルルスコーニと交渉し、出版社の[[フィニンヴェスト|モンダドーリ]]を買収できるよう便宜を図ることで取引を成功させた<ref name="2021marzio117">[[#ディ・マルツィオ 2021|ディ・マルツィオ 2021]] 117頁</ref><ref name="2021marzio118">[[#ディ・マルツィオ 2021|ディ・マルツィオ 2021]] 118頁</ref>。 |
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モッジGM時代には、出身地に近く関係が深かった[[ACNシエーナ1904|シエーナ]]へ[[イゴール・トゥドール]]や[[ダニエレ・ガスタルデッロ]]がレンタル移籍し、出場機会や安価な選手確保の手段として両クラブにメリットがある傘下クラブのような関係を築いていた<ref name="kamio20162">{{Cite book2|df=ja|chapter=COLUMN #3 ユベントスとサッスオーロの不思議な関係|author=神尾光臣|title=footballista|volume=2016年2月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=23}}</ref>。一方、[[USサッスオーロ・カルチョ|サッスオーロ]]とは[[シモーネ・ザザ]]や[[ドメニコ・ベラルディ]]との取引で共同保有や優先的な交渉権など協調関係があったが、あくまでビジネスの関係である<ref name="kamio20162"/>。 |
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=== フィーゴの二重契約 === |
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[[スポルティングCP|スポルティング]]から[[パルマ・カルチョ1913|パルマ]]への移籍で合意していた[[ルイス・フィーゴ]]だが、ユヴェントスは関係の深かった[[サッカーポルトガル代表|ポルトガル代表]]の[[パウロ・ソウザ]]の助言により獲得に興味を持つ<ref name="2021marzio23">[[#ディ・マルツィオ 2021|ディ・マルツィオ 2021]] 23頁</ref><ref name="2021marzio24">[[#ディ・マルツィオ 2021|ディ・マルツィオ 2021]] 24頁</ref>。UEFAカップでポルトガルに遠征した1994年10月18日に接触し、即日条件で合意に達し契約書へのサインに至った<ref name="2021marzio24"/>。11月にフィーゴから「公証人がいなかったから契約は無効だ」という申し立てがあったものの、1995年1月に移籍市場が開くとユヴェントスは契約書を提出する<ref name="2021marzio24"/>。パルマは2月1日に契約書を交わし2重契約状態になった問題は、[[イタリアサッカー連盟]]が介入し2年間フィーゴはイタリアのクラブと契約できないという痛み分けに決着した<ref name="2021marzio25">[[#ディ・マルツィオ 2021|ディ・マルツィオ 2021]] 25頁</ref><ref name="2021marzio26">[[#ディ・マルツィオ 2021|ディ・マルツィオ 2021]] 26頁</ref>。 |
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== 育成組織 == |
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{{See also|ユヴェントス Next Gen}} |
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ユヴェントスの育成組織のU-19カテゴリである[[イタリアのサッカークラブの下部組織|プリマヴェーラ]]は、[[カンピオナート・プリマヴェーラ]]で4度の優勝<ref>{{Cite web2|df=ja|title=COMPETIZIONE PRIMAVERA 1 TIM ALBO D'ORO|url=https://www.legaseriea.it/it/primavera/albo|publisher=legaseriea|accessdate=2022-01-10}}</ref>、コッパ・イタリア・プリマヴェーラでは4度の優勝<ref>{{Cite web2|df=ja|title=COMPETIZIONE PRIMAVERA TIM CUP ALBO D'ORO|url=https://www.legaseriea.it/it/coppa-italia-primavera/albo|publisher=legaseriea|accessdate=2022-01-10}}</ref>、[[スーペルコッパ・プリマヴェーラ]]では3度の優勝を果たしている<ref>{{Cite web2|df=ja|title=COMPETIZIONE SUPERCOPPA PRIMAVERA TIM ALBO D'ORO|url=https://www.legaseriea.it/it/supercoppa-primavera/albo|publisher=legaseriea|accessdate=2022-01-10}}</ref>。 |
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古くは[[ジャンピエロ・ボニペルティ]]、[[ロベルト・ベッテガ]]が育成組織出身で、[[トンマーゾ・ロッキ]]、[[マッティア・カッサーニ]]、[[アントニオ・ノチェリーノ]]、[[ドメニコ・クリッシト]]、[[チーロ・インモービレ]]ら[[サッカーイタリア代表|イタリア代表]]経験者を輩出してきた<ref name="WSK20120119">{{Cite book2|df=ja|chapter=[総力特集] 強豪クラブの育成哲学]|title=ワールドサッカーキング|volume=2012年1月19日号|publisher=フロムワン|pages=56}}</ref>。しかし、1970年から80年代のユヴェントスでは、イタリア国内の[[プロビンチャーレ|プロビンチャ]]や海外のクラブから選手を獲得した方がコストや手間がかからず、育成組織は重要視されていなかった<ref name="WSD20050303">{{Cite book2|df=ja|chapter=タレント発掘・淘汰のメカニズム|title=ワールドサッカーダイジェスト|author=マッシモ・ルッケージ|translator=片野道郎|volume=2005年3月3日号|publisher=日本スポーツ企画|pages=54-55}}</ref>。1990年代に入り、ミランやインテル、ローマといったライバルクラブが移籍市場のライバルとなりコストが増したことと、プロビンチャクラブも育成力を強化したことによりそれまでの方針を改めることとなった<ref name="WSD20050303"/>。1994年から[[ジャン・ピエロ・ガスペリーニ]]が指導を始めるとユースが活性化し、特に[[クラウディオ・マルキジオ|クラウディオ・マルキージオ]]、[[セバスティアン・ジョヴィンコ]]、[[パオロ・デ・チェリエ]]らが在籍した2000年代中頃には、カンピオナート・プリマヴェーラでの優勝、スーペルコッパ・プリマヴェーラでの連覇を達成し黄金世代と称された<ref name="WSK20120119"/><ref>{{Cite web2|df=ja|title=カルチョ大好き“3人衆”がセリエA全20クラブに言いたい放題!(1)|url=https://www.soccer-king.jp/news/world/ita/20200617/1080994.html?cx_news=page669|publisher=サッカーキング|date=2020-06-17|accessdate=2022-12-30}}</ref>。 |
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しかしながら、ユース組織に力を入れていたインテルやローマと違いトップチームに昇格する選手が少なく、2010年代から予算を使った若手タレントの青田買いに方針転換していた<ref name="WSK20120119"/><ref name="katano20110427">{{Cite book2|df=ja|chapter="育成大国"の最新クラブユース事情|author=片野道郎|title=footballista|volume=2011年4月27日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=27}}</ref>。片野道郎はその理由について、トップチームでは欧州の舞台で戦うための即戦力が求められていたことを挙げている<ref name="katano201910">{{Cite book2|df=ja|chapter=【変化するメガクラブの戦略】ユベントス 育成とトップチームを切り離す、という結論|author=片野道郎|title=footballista|volume=2019年10月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=20-21}}</ref>。また、イタリア人の戦術アナリストであるマッシモ・ルッケージは、ユヴェントスの育成部門をイタリアで最も優れていたと評価しているが、2006年に9人の若手選手が昇格したのは、皮肉なことにカルチョ・ポリによって規模が縮小し、トップチームから主力が移籍したためだったと述べている<ref name="WSD20061207">{{Cite book2|df=ja|chapter=「育成部門のお国事情」 ITALY]|title=ワールドサッカーダイジェスト|volume=2006年12月7日号|publisher=日本スポーツ企画|pages=53}}</ref>。 |
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[[2014 FIFAワールドカップ|2014年のワールドカップ]]でイタリア代表の結果が振るわなかったことを契機にセリエAの選手登録の規定が改訂され、4名の下部組織出身者の優遇枠が設定されたこと<ref name="hihyo2017kamio">{{Cite book2|df=ja|chapter=イタリアで始まった「超・育成改革」|author=神尾光臣|title=サッカー批評 ユベントス 「ユーベメソッド」世界最強の教科書|volume=2017年87号|publisher=双葉社|pages=76}}</ref>、19歳までのカテゴリではレンタル以外に選手をサポートできる仕組みがないこと<ref name="katano20193">{{Cite book2|df=ja|chapter=CALCIOおもてうら 第334回 ユベントスのアカデミー改革。「育てる」ではなく「売る」時代|author=片野道郎|title=footballista|volume=2019年3月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=94}}</ref>、加えて[[国際サッカー連盟|FIFA]]が選手のレンタルに規制をかけようとしていることなどから<ref name="katano20211">{{Cite book2|df=ja|chapter=「未来のスタンダード」を育てて売る ユーベで機能する新たなアカデミーの形|author=片野道郎|title=footballista|volume=2021年1月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=18-21}}</ref>、2018年8月に[[ユヴェントス Next Gen|Bチーム]]を発足し[[セリエC (サッカー)|セリエC]]に参入することが発表された<ref>{{Cite web2|df=ja|url=https://www.juventus.com/jp/news/articles/juventus-launch-u23s-team|title=ユヴェントスU23チームが発足|date=2018-08-03|accessdate=2023-04-25}}</ref>{{Efn|インテル、ミラン、フィオレンティーナ、アタランタがBチームに興味を示していたものの、セリエCの登録枠がなかなか確定せず、割り当て順位で上位にいたユヴェントスだけの参加となった<ref name="katano201812">{{Cite book2|df=ja|chapter=CALCIOおもてうら 第331回 若手に出番を!カルチョ復活の福音?ようやく実現したBチーム制度の現状|author=片野道郎|title=footballista|volume=2018年12月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=94}}</ref>。}}。同時に育成組織の見直しを行い、Bチームの育成目標を23歳の時点で欧州5大リーグで通用する選手を輩出することに定め、トップチームとの連続性を意図的に切り離した<ref name="katano201910"/><ref name="katano20193"/>。Bチーム発足から15年遡ってもトップチームに定着できた選手がマルキージオ、ジョビンコのみという現実を受けとめ、高い結果を求めるのではなく選手売却益をトップチームの強化に充てることを狙いとした<ref name="katano20193"/>{{Efn|2010年代以降の5大リーグへの排出数ではユヴェントスが13人なのに対し、バルセロナ、マドリー、リヨンでは30人を超え大きな差がある<ref name="katano20193"/>。}}。2019年の夏の移籍市場では、若手選手の放出で8000万ユーロの利益を上げている<ref name="katano201910"/>。 |
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Bチーム発足から4年経過しU-19の若手選手が自クラブ内で昇格していくと、Bチームで選手獲得にかかった費用が2019-20シーズンの2500万ユーロから2022-23シーズンには0まで削減された<ref name="katano202211">{{Cite book2|df=ja|chapter=CALCIOおもてうら 第361回 ユベントスの育成戦略は変わったのか? 「内部昇格3人」記者会見の意図を読む|author=片野道郎|title=footballista|volume=2022年11月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=124-125}}</ref>。2023年9月8日にはトップチームに昇格した[[ニコロ・ファジョーリ]]、[[ファビオ・ミレッティ]]、[[マティアス・スーレ]]3名同席の記者会見が行われた<ref name="katano202211"/>。片野は3名の昇格について、コロナによる影響でコストカットが求められていた財布事情に合致していたとみているが、一方トップチームに定着する選手が出てきた長期的な取り組みを評価している<ref name="katano202211"/>。 |
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== サポーター == |
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ホームタウンという概念が確立しているヨーロッパ<ref>{{Cite web2|df=ja|title=連載 スポーツ法とEU法 第11回 EU市民法とプロ・サッカー|url=http://www.yuhikaku.co.jp/static/shosai_mado/html/1411/03.html|publisher=有斐閣|author= 井上典之|accessdate=2022-08-04}}</ref>には珍しく全国的な人気を持つクラブで<ref name="WSK202103marco"/>、[[フィレンツェ]]以外の大都市には必ずサポータークラブが存在するといわれる<ref name="story116">[[#Ray, Giancarlo 1994|Ray, Giancarlo 1994]] 116頁</ref>。2008年に行われた[[ラ・レプッブリカ]]のアンケートによると、イタリアのサッカーファンの32%の400万人がユヴェントスのファンであるという結果が出た<ref name="br106">[[#斉藤 2009|斉藤 2009]] 106頁</ref>。また、同アンケートによると、国外では欧州で4300万人、全世界では1億7000万ものファンがいることが示された<ref name="br110hihyo">[[#批評 2009|批評 2009]] 110頁</ref>。[[第二次世界大戦]]後、特に1960年代の[[奇跡の経済|イタリアの奇跡]]と呼ばれた高度経済成長期には、[[フィアット]]がある[[トリノ]]へイタリア南部から出稼ぎに来た移民が集中した<ref name="br107">[[#斉藤 2009|斉藤 2009]] 107頁</ref>。元々トリノに住んでいた住民は[[トリノFC]]を応援していたため移住者はユヴェントスファンになっていく<ref name="br110hihyo">[[#批評 2009|批評 2009]] 110頁</ref>。1970年代の[[オイルショック]]で職を失った労働者<ref>{{Cite web2|df=ja|title=「危機の時代」におけるイタリア経済と構造再編|url=https://repository.tku.ac.jp/dspace/bitstream/11150/635/1/keizai255-02.pdf|publisher=東京経済大学経済学会|author= 堺 憲一|pages= 15-20|access-date=2022-8-28|date=2007-10-24}}</ref>は、それぞれの地元へ帰っていきファンが全国へ広がっていった<ref name="br111hihyo">[[#批評 2009|批評 2009]] 111頁</ref>。また、1970年代に[[フランコ・カウジオ]]のような南イタリア出身選手を獲得したことから[[シチリア]]や[[プッリャ州|プーリア]]で強い人気があり、1990年代に行われたアバカスの調査によると700万人のサポーターの内、200万人が南イタリア在住という結果が出た<ref name="story116"/><ref name="story104">[[#Ray, Giancarlo 1994|Ray, Giancarlo 1994]] 104頁</ref>。 |
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[[File:Supporters of Juventus FC - Stadio Comunale, Turin (circa 1973).jpg|right|thumb|upright|200px|スタディオ・コムナーレで応援するティフォージ(1973)]] |
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イタリアでは、高熱に侵されたように熱狂して応援する様から、サポーターのことを[[チフス]]患者から転じて[[ティフォシ|ティフォージ]]と呼ぶ<ref name="br94hihyo">[[#批評 2009|批評 2009]] 94頁</ref>。ユヴェントスのティフォージはクラブ名から、ユヴェンティーノ(単数形)<ref>{{Cite web2|df=ja|title=ユベントス・サポーターの「観戦会」に潜入!「ピャニッチに譲れ(笑)」この日一番の声援を受けたのは…|url=https://thedigestweb.com/topics_detail_ad/id=8098|website=thedigestweb|accessdate=2022-09-12|date=2020-01-03}}</ref>や、ユヴェンティーニ(複数形)<ref>{{Cite web2|df=ja|title=ユヴェンティーニ日本地図が完成!|url=https://www.juventus.com/jp/news/articles/juventini-japanese-map-completed|website=juventus.com|accessdate=2022-09-12|date=2019-12-26}}</ref>と呼ばれている。そんなティフォージの中でも、集団で過激な応援をする一団を[[ウルトラス]]と呼ぶ<ref name="br94hihyo">[[#批評 2009|批評 2009]] 94頁</ref><ref name="2017katano201">[[#片野 2017|片野 2017]] 201頁</ref>。ユヴェントスでは、[[ルチアーノ・モッジ]]の傘下にあった「ドゥルーギ」や、モッジ失脚後に勢力を拡大した「バイキング」のようにいくつかグループが結成されていて、派閥争いの激しさはイタリアでもトップクラスである<ref name="br111hihyo">[[#批評 2009|批評 2009]] 111頁</ref>。力を持ったウルトラスにはクラブから供与される無料のチケットの利権があり、横流しで幹部が生活できるほどの巨大な利益になりウルトラス間の抗争の火種となっている<ref name="br112hihyo">[[#批評 2009|批評 2009]] 112頁</ref><ref name="2017katano203">[[#片野 2017|片野 2017]] 203頁</ref>。ユヴェントスはスタジアムでの安全を第一に考え、ゴール裏チケットの融通でコントロールしようとする苦肉の懐柔策だった<ref name="katano2017ultra">{{Cite web2|df=ja|title=ユベントス会長が活動禁止処分?伊ゴール裏ビジネスの実態|url=https://www.footballista.jp/special/38406|author=片野道郎|website=footballista|accessdate=2023-04-01|date=2017-09-27}}</ref>。2017-18シーズンには、チケットの提供を断られたグループによって[[カリドゥ・クリバリ]]への差別チャントが行われ、スタンド封鎖の処分を受けている<ref>{{Cite web2|df=ja|title=脅迫、暴行、報復上等の半グレ集団。ウルトラスの実態を潜入記者が語る。|url=https://number.bunshun.jp/articles/-/840935?page=2|author=弓削高志|website=Number|accessdate=2023-05-21|date=2019-10-02}}</ref>。 |
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2017年にはゴール裏のビジネスにイタリア[[マフィア]]の[[ンドランゲタ]]が関与している容疑で、アニエッリ会長ら幹部の捜査が行われた<ref name="katano2017ultra"/>。ユヴェントスは捜査に全面協力し<ref>{{Cite web2|df=ja|title=クラブ声明|url=https://www.juventus.com/jp/news/articles/club-statement-26012016|website=juventus.com|accessdate=2023-04-01|date=2017-01-26}}</ref>、最大派閥であった「ドゥルーギ」のリーダーが逮捕され50人近いメンバーがスタジアムから出禁になった<ref name="katano201911">{{Cite book2|df=ja|chapter=CALCIOおもてうら 第342回 ルカクへの人種差別問題があぶり出す伊ウルトラスの歪んだ価値観|author=片野道郎|title=footballista|volume=2019年11月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=94}}</ref>{{Efn|ユヴェントスに限らずウルトラスがゴール裏を占有し非合法なビジネスをしているのは、人種差別チャントを行う行為含めてイタリア全体の問題である<ref name="katano201911"/>。}}。 |
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== エピソード == |
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=== モットー === |
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ユヴェントスには「最後の最後まで」を意味する'''Fino Alla Fine'''という[[モットー (紋章学)|モットー]]があり、SNSのハッシュタグとして使われている<ref name="20193style">{{Cite book2|df=ja|chapter=サッカー界では最先端のブランド戦略。その一方で「ユーベ・スタイルはない」|author=片野道郎|title=footballista|volume=2019年3月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=46-47}}</ref>。また、[[ジャンピエロ・ボニペルティ|ボニペルティ]]による「'''勝利は重要なのではなく、唯一のもの'''」という言葉は勝利至上主義のユヴェントスを象徴するものとなっている<ref name="20193style"/><ref name="Digby13">[[#Digby 2015|Digby 2015]] 13頁</ref><ref>{{Cite web2|df=ja|title=Morto Giampiero Boniperti, sua la frase : Vincere è l'unica cosa che conta|url=https://www.ilmattino.it/sport/calcio/boniperti_morto_frase_vincere_importante_unica_cosa_che_conta_juventus_ultime_notizie-6029951.html|website=ilmattino|accessdate=2023-05-16|date=2021-06-18}}</ref>。 |
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=== 応援歌 === |
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試合開始前に流れる応援歌は、'''「Juve, Storia Di Un Grande Amore」'''という曲名で、{{仮リンク|パオロ・ベッリ|en|Paolo Belli}}という歌手が歌っている<ref name="br112">[[#斉藤 2009|斉藤 2009]] 112頁</ref>。この曲の採用にはファンが関わっており、TV番組内の投票で3つの候補の中から選ばれた<ref name="br112">[[#斉藤 2009|斉藤 2009]] 112頁</ref>。 |
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=== ヴィッラール・ペローザでの紅白戦 === |
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[[アニェッリ家]]のルーツの地であり、1980年代までユヴェントスの練習拠点だった[[ヴィッラール・ペローザ]]で、シーズン開幕前の紅白戦が行われるのが伝統行事になっている<ref name="Villar Perosa">{{Cite web2|df=ja|title=ヴィッラール・ペローザのすべて|url=https://www.juventus.com/jp/news/articles/everything-to-know-about-sunday-s-villar-perosa-friendly|publisher=juventus.com|accessdate=2022-07-05|date=2018-08-11}}</ref><ref name="WSK201903hosoe">{{Cite book2|df=ja|chapter="JVUE"とは何なのか。|title=ワールドサッカーキング|author=細江克弥|volume=2019年3月号|publisher=フロムワン|pages=44-45}}</ref><ref name="Digby27">[[#Digby 2015|Digby 2015]] 27頁</ref>。トップチームと対戦するBチームは、ユース所属選手や[[ユヴェントス Next Gen|U23チーム]]から構成される<ref name="WSK201903hosoe"/>。1955年から開催されており、最初の試合ではBチームが3-2で勝利している<ref name="Villar Perosa"/>。試合後半になると写真撮影やユニフォームをお願いするファンが乱入し、試合が途中で打ち切られるのがお馴染みの光景になっている<ref>{{Cite web2|df=ja|title=C・ロナウドが大人な対応 乱入者との“頬寄せショット”に英紙驚愕「喜んでポーズ」|url=https://www.football-zone.net/archives/128106|website=フットボールゾーン|accessdate=2022-07-05|date=2018-08-13}}</ref><ref>{{Cite web2|df=ja|title=ディバラが移籍報道払いのける2得点、恒例の一戦は51分で打ち切りに|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3239928|website=AFP|accessdate=2022-07-05|date=2019-08-15}}</ref>。[[クリスティアーノ・ロナウド]]のユヴェントス移籍後初得点は、2018年の紅白戦でのゴールで<ref>{{Cite web2|df=ja|title=「素晴らしい結婚だ」C・ロナウドの“初戦”ゴールにユーベ親会社も歓喜! アッレグリは欧州制覇に意欲|url=https://www.soccerdigestweb.com/news/detail/id=45586|website=サッカーダイジェスト|accessdate=2022-07-05|date=2018-08-13}}</ref>、この試合では4000人程の小さな村に5000人の観客が来場した<ref>{{Cite web2|df=ja|title=村の人口を超える観衆殺到! イタリア席巻の“C・ロナウド狂騒曲”に英メディアも注目|url=https://www.football-zone.net/archives/128403|website=フットボールゾーン|accessdate=2022-07-05|date=2018-08-15}}</ref>。 |
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[[ジョルジョ・キエッリーニ|キエッリーニ]]はこの紅白戦について、チームだけでなくオーナーやファンが小さな自治体のピッチに集まることで、クラブの団結を感じることができると語っている<ref name="WSK201903hosoe"/>。 |
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=== 日本との関わり === |
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ユヴェントスは1994年にトリノにあるマネジメント会社であるコンパクト[http://www.compact.it/]と契約し、アジアマーケットに力を入れていく<ref name="br114">[[#マリオ 2012|マリオ 2012]] 114頁</ref>。コンパクト創業者の1人であるマリオ宮川は、後に[[中田英寿]]のユベントス短期留学をサポートしている<ref name="br194">[[#マリオ 2012|マリオ 2012]] 194頁</ref>。[[日本プロサッカーリーグ|Jリーグ]]発足直後の日本ではサッカー熱が高まり、国内だけでなく国外へも関心の目が向けられていた<ref name="br116">[[#マリオ 2012|マリオ 2012]] 116頁</ref>。それまでは現地でしか手に入れることが出来なかった[[テレホンカード]]やTシャツなどのグッズ開発、ビデオ販売によりユヴェントスの人気が高まり、日本企業のスポンサー獲得につながった<ref name="br117">[[#マリオ 2012|マリオ 2012]] 117頁</ref>。[[スズキ (企業)|スズキ]]もその内の一つで、欧州向けの[[コマーシャルメッセージ|コマーシャル]]に[[アレッサンドロ・デル・ピエロ|デル・ピエロ]]を起用し<ref>{{Cite web2|df=ja|url=http://www.compact.it/suzuki/|title=SUZUKI|accessdate=2022年8月27日 }}</ref>、[[スタディオ・デッレ・アルピ|ホームスタジアム]]に広告を掲載した<ref name="br117">[[#マリオ 2012|マリオ 2012]] 117頁</ref>。 |
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東京で開催された[[インターコンチネンタルカップ (サッカー)|トヨタカップ]]では2度優勝しており<ref name="Digby84"/><ref name="Digby119"/>、[[アントニオ・コンテ]]はインタビューで日本について訊ねられると、1996年にトヨタカップで優勝したことについて述べている<ref>{{Cite book|和書|chapter=目標実現への揺るぎない歩み|author=エマヌエーレ・ガンバ|translater=内海浩子|title=footballista|volume=2011年8月31日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=18-19}}</ref>。また、[[マルチェロ・リッピ]]も2度目の監督就任の記者会見において、「もっとも記憶に残っているタイトルは?」という質問に1996年の世界一の称号を挙げている<ref name="WSD20010719lippi"/>。 |
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2005年にユヴェントスは初めてアジアツアーを企画し、6月1日に[[横浜国際総合競技場|日産スタジアム]]で[[横浜F・マリノス]]と対戦し1対0で勝利した<ref>{{cite news|title=ユベントスが横浜M下す サッカー国際親善試合|url=http://j.people.com.cn/2005/06/02/jp20050602_50572.html|access-date=2022-08-26|date=2005-06-02}}</ref>。[[香港]]での2戦目を挟み、6月7日には[[東京スタジアム (多目的スタジアム)|味の素スタジアム]]で[[FC東京]]に4-1で勝利した<ref>{{cite news|title=試合結果|url=https://www.fctokyo.co.jp/game/1079|access-date=2022-08-26}}</ref>。両試合とも平日にもかかわらず入場観客は3万人を超え、ツアーを好評で終えることとなった<ref name="br126">[[#マリオ 2012|マリオ 2012]] 126頁</ref>。{{仮リンク|トゥットスポルト|it|Tuttosport}}の記者であるアントニーノ・ミローネは、多くの観客が訪れた様子を報じたニュースに驚きユヴェンティーノとして誇りを感じたと語っている<ref name="SK202103antonino">{{Cite book2|df=ja|chapter=ユヴェントスを愛するということ|author=アントニーノ・ミローネ|translator=小川光生|title=サッカーキング|volume=2021年3月号|publisher=フロムワン|pages=8-11}}</ref>。 |
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ユヴェントスは[[サッカー日本代表|日本代表]]と試合を行っており、1992年8月に神戸にて行われた試合では1戦目が2-2、2戦目が1-1と2試合続けて引き分けている<ref name="japan">{{Cite|和書|author=加部究|title=日本サッカー戦記|page=227|date=2018|publisher=[[カンゼン]]|isbn=978-4862554345|}}</ref><ref name="blue20">{{Cite|和書|author=戸塚啓|title=青の群像 サッカー日本代表クロニクル 1992~2007|page=20|date=2007|publisher=[[ソニー・マガジンズ]]|isbn=978-4789732178|}}</ref>。遠征メンバーには[[ロベルト・バッジョ]]、[[ディノ・バッジョ]]、[[ジャンルカ・ヴィアッリ]]、[[アントニオ・コンテ]]ら[[サッカーイタリア代表|イタリア代表]]の選手に加えて、[[アンドレアス・メラー]]、[[デビッド・プラット]]もいたが、ロベルト・バッジョの「チームの誰一人、日本がこんなに強いと思っていなかった」というコメントにあるように、プレシーズンで観光気分だったと指摘されている<ref name="japan"/><ref name="blue20"/>。翌年2月の日本代表のイタリア遠征において[[レッチェ]]で再び試合をしており、こちらは3-1で勝利している<ref name="japan"/><ref>{{Cite|和書|author=戸塚啓|title=青の群像 サッカー日本代表クロニクル 1992~2007|page=39|date=2007|publisher=[[ソニー・マガジンズ]]|isbn=978-4789732178|}}</ref>。 |
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2015年5月4日には、ユヴェントスOBと九州出身Jリーガーによる親善試合「九州レジェンズ vs ユヴェントスレジェンズ レジェンドマッチ 2015」が開催された<ref>{{Cite web2|df=ja|title=ザッケローニ氏が九州レジェンズの監督に就任…ユヴェントスレジェンズと対戦|url=https://www.soccer-king.jp/news/japan/jl/20150416/302607.html|publisher=soccer-king|date=2015-04-16|accessdate=2023-05-21}}</ref><ref name="legends">{{Cite web2|df=ja|title=レジェンドマッチに1万5千人が熱狂…トレゼゲ氏がハットトリックで会場沸かす|url=https://www.soccer-king.jp/news/japan/japan_other/20150504/309275.html|publisher=soccer-king|date=2015-05-04|accessdate=2023-05-21}}</ref>。九州レジェンズの監督にはユヴェントスと日本代表の監督経験があるザッケローニが務め、1万5千人の観客が来場した<ref name="legends"/>。また、2014年には[[ベガルタ仙台]]OBと、2016年には元日本代表経験者も参加した「日伊国交150周年ユヴェントスレジェンドチャリティーマッチ」が開催された<ref>{{Cite web2|df=ja|title=ユーヴェOBが仙台OBに勝利、決勝弾の矢野前日本代表通訳「ザックの言っていた形」|url=https://www.soccer-king.jp/news/japan/japan_other/20140817/222297.html|publisher=soccer-king|date=2014-08-17|accessdate=2023-05-21}}</ref><ref>{{Cite web2|df=ja|title=ユーヴェOBが群馬で魅せた! トレゼゲ、スキラッチがゴールもジャパンレジェンズが計9点の打ち合い制す|url=https://www.soccer-king.jp/news/japan/japan_other/20161105/511811.html|publisher=soccer-king|author=田丸英生|date=2016-11-05|accessdate=2023-05-21}}</ref>。 |
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2014年には、[[青山 (東京都港区)|青山]]のフィアットカフェにおいて、ユヴェントスとのコラボイベントであるJUVENTUS Loungが世界で初めて開催された<ref>{{Cite web2|df=ja|title=世界初!「ユベントス」のオフィシャルカフェが期間限定でオープン|url=https://autoc-one.jp/news/1684198/|publisher=MOTA|author=樺田卓也|date=2014-03-10|accessdate=2023-05-21}}</ref>。会場には、ユベントスミュージアムでも飾られている[[ヨーロピアン・チャンピオン・クラブズ・カップ|ビッグイヤー]]や有名選手のユニフォームが展示され、オープニングイベントには[[エドガー・ダーヴィッツ]]、[[アンドレア・アニェッリ]]会長、[[日伊関係#駐日イタリア大使・公使|駐日イタリア大使]]のドメニコ・ジョルジらが登壇した<ref>{{Cite web2|df=ja|title=世界初、<ユベントス ラウンジ>がフィアットカフェに期間限定オープン!|url=https://jeepstyle.jp/juventus-lounge-open/|publisher=jeepstyle|author=Shota Kato|date=2014-03-12|accessdate=2023-05-21}}</ref>。2015年には[[JR博多シティ]]の駅構内でも開催され、[[ダヴィド・トレゼゲ]]が挨拶を行った<ref>{{Cite web2|df=ja|title=博多駅に「ユヴェントスラウンジ」-「ユヴェントスFC」グッズやトロフィー展示|url=https://hakata.keizai.biz/headline/1997/|publisher=博多経済新聞|date=2015-01-28|accessdate=2023-05-21}}</ref><ref>{{Cite web2|df=ja|title=ユーヴェイベントに出席のトレゼゲ氏が現役復帰に意欲?「早く九州でプレーがしたい」|url=https://www.soccer-king.jp/news/japan/japan_other/20150131/276897.html|publisher=soccer-king|date=2015-01-31|accessdate=2023-05-21}}</ref>。 |
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File:JUVENTUS Loung.jpg|チャンピオンズリーグの優勝トロフィー |
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File:JUVENTUS Loung2.jpg|選手のユニフォーム |
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File:JUVENTUS Loung3.jpg|アレッサンドロ・デル・ピエロのスパイク |
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File:JUVENTUS Loung4.jpg|選手のサインが入ったポスター |
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== カルチョ・ポリ == |
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{{See also|カルチョ・スキャンダル}} |
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カルチョ・ポリとは、[[ルチアーノ・モッジ]]、{{仮リンク|アントニオ・ジラウド|it|Antonio Giraudo}}らユヴェントス経営陣が、サッカー連盟や審判協会と癒着し、圧力をかけ審判の選出の操作などで恩恵を受けていたとされる不正事件である<ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=CALCIO おもてうら 第237回 カルチョポリの呪縛。ユーベの審判批判キャンペーンの背景|author=片野道郎|title=footballista|volume=2012年3月21日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=23}}</ref>。不正の首謀者とされるユヴェントスには、フィオレンティーナ、ラツィオ、ミランと比べ重いペナルティが課せられた<ref name="WSD20060803"/>。外部の賭博が絡み選手の敗退行為が行われる[[八百長]]とは性質が異なり、選手は事実を知らずクラブ、サッカー協会、審判部それぞれの上層部の間でやり取りが行われた<ref name="2017katano189">[[#片野 2017|片野 2017]] 189頁</ref>。また、金品の授受の事実も無いことから、買収事件でもない<ref name="2017katano189"/>。 |
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2004年からナポリ検察によって行われた盗聴捜査でモッジによる圧力が明るみに出ると、2006年6月に[[イタリアサッカー連盟]]によるスポーツ裁判が開かれユヴェントスには2シーズンの優勝タイトル剥奪と[[セリエC (サッカー)|セリエC]]への降格が求刑された<ref name="WSD20060803"/>。裁判の中で担当弁護士は、容疑を認めつつも3部への降格は重過ぎると訴え、第一審では[[セリエB (サッカー)|セリエB]]降格とマイナス30の勝ち点減点の判決となり、上訴審ではマイナス17まで軽減され確定した<ref name="WSD20060803"/><ref name="WSD20060817"/>。一旦は判決を受け入れる姿勢を見せていたものの、他の3クラブが降格処分を免れたことによりサッカー連盟を統括する{{仮リンク|イタリアオリンピック委員会|it|Comitato olimpico nazionale italiano}}へ提訴し、調停により最終的に勝ち点はマイナス9まで軽減されることになった<ref name="WSD20061102"/><ref name="フットボリスタ20061101katano"/>。 |
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また、公判中にモッジの弁護団から「インテルの幹部も口利きを受けていた」という証言がなされ、インテルの前会長であった故[[ジャチント・ファッケッティ]]による審判への口利きの証拠のテープが提出された<ref name="katano20100421omote">{{Cite book2|df=ja|chapter=カルチョポリ再燃 暗躍するモッジ|author=片野道郎|title=footballista|volume=2010年4月21日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=6}}</ref><ref name="kamio20110727">{{Cite book2|df=ja|chapter=インテルお咎めなしにユーベ激怒 損害賠償求め、民事訴訟へ発展か|author=神尾光臣|title=footballista|volume=2011年7月27日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=34}}</ref>。2011年7月18日の[[イタリアサッカー連盟]]の役員会でインテルも不正に関わっていた事実が認められたが、時効を理由に2005-06シーズンのインテルのタイトルは剥奪されなかった<ref name="katano20100421omote"/><ref name="kamio20110727"/><ref name="katano20111130kage">{{Cite book2|df=ja|chapter=サッカーの影を歩く 第42回 「カルチョポリの歴史を書き換えたいユベントス」|author=片野道郎|title=footballista|volume=2011年11月30日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=39}}</ref>。2011年11月8日にモッジに5年4カ月の実刑判決が下ると、判決文に「クラブとしてユヴェントスの法的責任を問わない」という一文が添えられていたこともあり、ユヴェントスはモッジ個人の責任として改めて無実を訴えた<ref name="katano20111130kage"/><ref>{{Cite book2|df=ja|chapter=モッジに5年4カ月の実刑判決 ユベントスとは新たな遺恨が勃発|author=神尾光臣|title=footballista|volume=2011年11月16日号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=42}}</ref>。最終的にはモッジ、ジラウドらは2015年3月に下された判決により、時効による罪の免除となった<ref name="katano20155omote">{{Cite book2|df=ja|chapter=CALCIO おもてうら 第288回 カルチョポリ裁判に最終判決 : モッジらは「時効による免罪」|author=片野道郎|title=footballista|volume=2015年5月号|publisher=株式会社ソル・メディア|pages=108}}</ref>。モッジらの罪は認定されたが、ユヴェントスと他3クラブの罰則の重さの違い、処分の対象にならなかったインテルについては議論の余地があると片野道郎は指摘している<ref name="katano20155omote"/>。 |
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== 歴代記録 == |
== 歴代記録 == |
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|3||[[ジョルジョ・キエッリーニ]] (#)||561||2005-2022 |
|3||[[ジョルジョ・キエッリーニ]] (#)||561||2005-2022 |
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|4||[[ガエターノ・シレア]]|| |
|4||[[ガエターノ・シレア]]||550||1974-1988 |
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|5||[[ジュゼッペ・フリーノ]]||528||1965-1966, 1969-1984 |
|5||[[ジュゼッペ・フリーノ]]||528||1965-1966, 1969-1984 |
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|6||[[ |
|6||[[レオナルド・ボヌッチ]] (#)||500||2010-2017, 2018- |
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|7||[[ |
|7||[[ロベルト・ベッテガ]]||482||1966-1969, 1970-1983 |
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|8||[[ディノ・ゾフ]]||473||1972-1983 |
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|9||[[ジャンピエロ・ボニペルティ]]|| |
|9||[[ジャンピエロ・ボニペルティ]]||465||1946-1961 |
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|10||[[サンドロ・サルヴァドーレ]]|| |
|10||[[サンドロ・サルヴァドーレ]]||453||1962-1974 |
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!位!!名前!!試合数!!期間 |
!位!!名前!!試合数!!期間 |
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|11||[[フランコ・カウジオ]]|| |
|11||[[フランコ・カウジオ]]||446||1970-1981 |
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|12||[[アントニオ・カブリーニ]]||440||1976-1989 |
|12||[[アントニオ・カブリーニ]]||440||1976-1989 |
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|13||[[アントネッロ・クックレドゥ]]|| |
|13||[[アントネッロ・クックレドゥ]]||432||1969-1981 |
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|14||[[アントニオ・コンテ]]|| |
|14||[[アントニオ・コンテ]]||420||1991-2004 |
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|15||[[クラウディオ・ジェンティーレ]]|| |
|15||[[クラウディオ・ジェンティーレ]]||411||1973-1984 |
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|16||[[ |
|16||[[アレッシオ・タッキナルディ]]||404||1994-2007 |
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|17||[[マリオ・ヴァーリエン]]||402||1927-1942 |
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|18||[[ |
|18||[[クラウディオ・マルキジオ]]||389||2005-2018 |
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|19||[[ジョバンニ・ヴァーリエン]]||388||1929-1947 |
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|19||[[クラウディオ・マルキジオ]]||389||2005-2018 |
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|20||[[ |
|20||[[ジャンフランコ・レオンチーニ]]||382||1958-1970 |
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|} |
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|13||[[ミシェル・プラティニ]]||1982-1987||104||68||16||19||1 |
|13||[[ミシェル・プラティニ]]||1982-1987||104||68||16||19||1 |
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|14||[[ |
|14||[[クリスティアーノ・ロナウド]] (#)||2018-2021||101||81||4||14||2 |
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|15||[[ |
|15||[[グリエルモ・ガベット]]||1934-1941||100||84||11||0||5 |
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|16||[[フィリッポ・インザーギ]]||1997-2001||89||57||2||20||10 |
|16||[[フィリッポ・インザーギ]]||1997-2001||89||57||2||20||10 |
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|} |
|} |
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(#) は現役選手であることを示す。成績は[[transfermarkt]]による<ref>{{Cite web2|df=ja| url = https://www.transfermarkt.jp/juventus-turin/rekordspieler/verein/506| title = 選手記録 | accessdate = 2023年5月17日 }}</ref><ref>{{Cite web2|df=ja| url = https://www.transfermarkt.jp/juventus-turin/topTorschuetzen/verein/506| title = 通算得点ランキング | accessdate = 2023年5月17日 }}</ref> |
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(#) は現役選手であることを示す。 |
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== 歴代監督 == |
== 歴代監督 == |
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!国籍 |
!国籍 |
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!期間 |
!期間 |
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|[[イェネー・カロリ]] |
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|rowspan="2"|{{HUN}} |
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|1923-1926 |
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|[[ヨージェフ・ヴィオーラ]] |
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|1926-1928 |
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|[[ウィリアム・エイトケン]] |
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|{{SCO}} |
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|1928-1930 |
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|[[カルロ・カルカーノ]] |
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|rowspan="9"|{{ITA}} |
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|1930-1934 |
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|[[カルロ・ビガット]] |
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|1934-1935 |
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|- |
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|[[ヴィルジニオ・ロゼッタ]] |
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|1935-1939 |
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|- |
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|[[ウンベルト・カリガリス]] |
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|1939-1940 |
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|- |
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|[[フェデリコ・ムネラティ]] |
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|1940-1941 |
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|- |
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|[[ジョヴァンニ・フェラーリ]] |
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|1941-1942 |
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|- |
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|[[ルイス・モンティ]] |
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|1942 |
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|- |
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|[[フェリーチェ・ボレル]] |
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|1942-1946 |
|||
|- |
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|[[レナト・チェザリーニ]] |
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|1946-1948 |
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|- |
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|[[ウィリアム・チャーマーズ]] |
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|{{SCO}} |
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|1948-1949 |
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|- |
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|[[ジェス・カーヴァー]] |
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|{{ENG}} |
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|1949-1951 |
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|- |
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|[[ルイージ・ベルトリーニ]] |
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|{{ITA}} |
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|1951 |
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|- |
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|[[シャーロシ・ジェルジ|ジョルジョ・サロージ]] |
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|{{HUN}} |
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|1951-1953 |
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|- |
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|[[アルド・オリヴィエーリ]] |
|||
|rowspan="2"|{{ITA}} |
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|1953-1955 |
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|- |
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|[[サンドロ・プッポ]] |
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|1955-1957 |
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|- |
|||
|[[リュビサ・ブロチッチ]] |
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|{{YUG1945}} |
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|1957-1958 |
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|- |
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|[[カルロ・パローラ]] |
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|{{ITA}} |
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|1959-1962 |
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|- |
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|[[パウロ・アマラウ]] |
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|{{BRA}} |
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|1962-1963 |
|||
|- |
|||
|[[エラルド・モンゼーリオ]] |
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|rowspan="2"|{{ITA}} |
|||
|1963-1964 |
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|- |
|||
|[[エルコーレ・ラビッティ]] |
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|1964 |
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|- |
|- |
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|[[エリベルト・エレーラ]] |
|[[エリベルト・エレーラ]] |
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|{{PAR}} |
|{{PAR}} |
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|1964-1969 |
|1964-1969 |
||
|- |
|||
|} |
|||
|width="5"| |
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|valign="top"| |
|||
{| class="wikitable" |
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|- |
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!氏名 |
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!国籍 |
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!期間 |
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|- |
|- |
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|[[ルイス・カルニグリア]] |
|[[ルイス・カルニグリア]] |
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|{{ARG}} |
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|1969 |
|1969 |
||
|- |
|- |
||
| |
|エルコーレ・ラビッティ |
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|rowspan="2"|{{ITA}} |
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|1970 |
|1969-1970 |
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|- |
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|[[アルマンド・ピッキ]] |
|[[アルマンド・ピッキ]] |
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|[[マッシミリアーノ・アッレグリ]] |
|[[マッシミリアーノ・アッレグリ]] |
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|2021- |
|2021- |
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|} |
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|} |
|} |
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情報は[[transfermarkt]]による<ref>{{Cite web2|df=ja|url=https://www.transfermarkt.jp/juventus-turin/mitarbeiterhistorie/verein/506|title=現および元スタッフ ユヴェントスFC|accessdate=2023年5月21日 }}</ref> |
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== 歴代所属選手 == |
== 歴代所属選手 == |
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{{main|ユヴェントスFCの選手一覧}} |
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=== 背番号10番 === |
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1960年代のシボリ、80年代のプラティニ、90年代にはバッジョが10番を身に着けていた<ref name="WSD20200604">{{Cite book2|df=ja|chapter=メガクラブ「10番の系譜」JUVENTUS|title=ワールドサッカーダイジェスト|volume=2020年6月4日号|publisher=日本スポーツ企画|pages=29}}</ref>。1995-95シーズンからセリエAにおいて固定番号制が導入されると、デルピエロが17年背負い続け象徴的な番号になった<ref name="WSD20200604"/>。その後は[[カルロス・テベス]]、[[ポール・ポグバ]]、[[パウロ・ディバラ]]らが10番を背負っている<ref name="WSD20200604"/>。2021年に[[ガゼッタ・デロ・スポルト]]が実施した「ユベントス歴代最高の“10番”は?」というアンケートでは、半数近いファンがデルピエロを選んでいる<ref>{{Cite web2|df=ja|title=「ユベントス歴代最高の“10番”は?」伊紙のアンケートで断トツだった名手は…|url=https://www.soccerdigestweb.com/news/detail/id=100561|publisher=soccerdigestweb|date=2021-11-04|accessdate=2023-05-18}}</ref>。 |
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=== ユヴェントスとバロンドール === |
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ユヴェントスは[[バロンドール]]賞において8回、6名の受賞者を輩出している<ref>{{Cite web2|df=ja|title=バロンドール受賞者を最も輩出しているクラブはどこ 全“19クラブ”の頂点は|url=https://www.theworldmagazine.jp/20191205/01world/263912|publisher=theWORLD|date=2019-12-05|accessdate=2022-08-29}}</ref>。[[ファビオ・カンナヴァーロ]]は受賞時点で[[レアル・マドリード]]所属であったが、自クラブでの活躍としてミュージアムで讃えている<ref>{{Cite web2|df=ja|title=シェフチェンコは本物、フリットはレプリカ、ジダンはなし…ビッグクラブのミュージアムに見る《バロンドールの価値》とは?|url=https://number.bunshun.jp/articles/-/850575?page=2|publisher=Number web|date=2021-11-11|accessdate=2023-03-15}}</ref>。 |
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{{flagicon|ITA}} [[オマール・シボリ]] 1961年 |
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*1960-61シーズンのリーグで25得点と活躍した<ref>{{Cite web2|df=ja|title=43本目にしてようやく…C・ロナウドがユヴェントスでの初FK弾を決める|url=https://www.soccer-king.jp/news/world/ita/20200705/1093064.html|publisher=soccer-king|date=2020-07-05|accessdate=2023-03-14}}</ref>。 |
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{{flagicon|ITA}} [[パオロ・ロッシ]] 1982年 |
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*1982年の[[1982 FIFAワールドカップ|ワールドカップ]]で大会6ゴールで得点王に輝き、優勝に貢献した<ref>{{Cite web2|df=ja|title=イタリア国民に最も愛された選手パオロ・ロッシ、64年の生涯を閉じる|url=https://www.footballista.jp/news/101741|author=神尾光臣|publisher=footballista|date=2020-12-14|accessdate=2023-03-14}}</ref>。 |
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{{flagicon|FRA}} [[ミシェル・プラティニ]] 1983年、1984年、1985年 |
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*1982-83シーズンから3年連続でセリエA得点王に輝く活躍をする<ref name="br160">[[#Richard 2007|Richard 2007]] 160頁</ref>。 |
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{{flagicon|ITA}} [[ロベルト・バッジョ]] 1993年 |
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*1992-93シーズンの[[UEFAカップ1992-93|UEFAカップ]]で9試合で6ゴールと活躍し、バロンドールと[[FIFA最優秀選手賞]]をダブル受賞した<ref name="br256-257">[[#Richard 2007|Richard 2007]] 256-257頁</ref>。 |
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{{flagicon|FRA}} [[ジネディーヌ・ジダン]] 1998年 |
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*リーグ優勝と[[1998 FIFAワールドカップ|ワールドカップ]]での活躍により、バロンドールとFIFA最優秀選手賞をダブル受賞した<ref name="br315-316">[[#Richard 2007|Richard 2007]] 315-316頁</ref>。 |
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{{flagicon|CZE}} [[パベル・ネドベド]] 2003年 |
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*中盤の選手ながら9ゴールでリーグ優勝とスーパーカップ優勝に貢献した<ref name="WSD20040205">{{Cite book2|df=ja|chapter=2003 BALLON D'OR Pavel NEDVED 努力の結晶|title=ワールドサッカーダイジェスト|author=Palo FORCOLIN|translator=利根川晶子|volume=2004年2月5日号|publisher=日本スポーツ企画|pages=56-58}}</ref>。 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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=== 注釈 === |
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{{脚注ヘルプ}} |
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<references /> |
<references group="注釈" /> |
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=== 出典 === |
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{{Reflist|30em}} |
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== 参考文献 == |
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=== 和書 === |
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<!-- story -->* {{Cite book2|df=ja|author=レイ・デラ・ピエトラ|author2=ジャンカ−ロ・リナルディ|translator=野間 けい子|year=1994|title=世界最強イタリア―セリエAストーリー|publisher=[[大栄出版]]|isbn=978-4886825780 |ref=Ray, Giancarlo 1994}} |
|||
<!-- Cerretti -->* {{Cite book2|df=ja|author=Franco Cerretti|translator=横山 修一郎|year=2000|title=セリエAの20世紀|publisher=[[ビクターブックス]]|isbn=978-4893891631 |ref=Cerretti 2000}} |
|||
<!-- 2000goto -->* {{Cite book2|df=ja|author=後藤 健生|year=2000|title=ヨーロッパ・サッカーの源流へ―プレミア、セリエA、フランスリーグ取材ノートから|publisher=[[双葉社]]|isbn=978-4575291391 |ref=後藤 2000}} |
|||
<!-- br -->* {{Cite book2|df=ja|author=Christopher Hilton|translator=野間 けい子|year=2002|title=欧州サッカーのすべて 3rd edition|publisher=ダイエックス出版|isbn=978-4812519097 |ref=Chris 2002}} |
|||
<!-- 2003goto -->* {{Cite book2|df=ja|author=後藤 健生|year=2003|title=欧州サッカーを極める―その戦いと栄光の歴史|publisher=[[青春出版社]]|isbn=978-4413040525 |ref=後藤 2003}} |
|||
<!-- br -->* {{Cite book2|df=ja|author=Koly Football Production 編|year=2004|title=欧州クラブサッカー解体新書1995~2005|publisher=[[東邦出版]]|isbn=978-4809404184 |ref=Koly 2004}} |
|||
<!-- br -->* {{Cite book2|df=ja|author=Richard Williams|translator=町田 敦夫|year=2007|title=背番号10のファンタジスタ|publisher=[[ベースボールマガジン社]]|isbn=978-4583100104 |ref=Richard 2007}} |
|||
<!-- br -->* {{Cite book2|df=ja|author=小川 光生|year=2008|title=サッカーとイタリア人|publisher=[[光文社]]|isbn=978-4334034856 |ref=小川 2008}} |
|||
<!-- br -->* {{Cite book2|df=ja|author=斉藤 健仁|year=2009|title=欧州サッカークラブ最強「事情通」読本―中堅クラブの歴史からメガクラブの細部まで|publisher=[[東邦出版]]|isbn=978-4809407611 |ref=斉藤 2009}} |
|||
<!-- br -->* {{Cite book2|df=ja|author=サッカー批評編集部 編|year=2009|title=世界のサッカー応援スタイル|publisher=[[カンゼン]]|isbn=978-4862550446 |ref=批評 2009}} |
|||
<!-- br -->* {{Cite book2|df=ja|author=斉藤 健仁|year=2010|title=図解 世界のサッカー 愛称のひみつ 国旗とエンブレムで読み解く|publisher=[[光文社]]|isbn=978-4334035648 |ref=斉藤 2010}} |
|||
<!-- Taccone -->* {{Cite book2|df=ja|author=Sergio Taccone|translator=利根川 晶子|year=2011|title=ザッケローニ 新たなる挑戦|publisher=[[宝島社]]|isbn=978-4796680776 |ref=Taccone 2011}} |
|||
<!-- br -->* {{Cite book2|df=ja|author=マリオ 宮川|year=2012|title=スポーツのマネジメント ユベントス・フェラーリ その交渉と契約|publisher=[[東邦出版]]|isbn=978-4809410277 |ref=マリオ 2012}} |
|||
<!-- br -->* {{Cite book2|df=ja|author=斉藤 健仁|year=2015|title=死ぬまでに行きたい 欧州サッカースタジアム巡礼|publisher=[[エクスナレッジ (出版社)|エクスナレッジ]]|isbn=978-4767819259 |ref=斉藤 2015}} |
|||
<!-- br -->* {{Cite book2|df=ja|author=Qoly Football Web Magazine編集部 編|year=2015|title=欧州クラブサッカー究極読本|publisher=[[東邦出版]]|isbn=978-4809413070 |ref=Qoly 2015}} |
|||
<!-- 2017katano -->* {{Cite book2|df=ja|author=片野 道郎|year=2017|title=それでも世界はサッカーとともに回り続ける|publisher=[[河出書房新社]]|isbn=978-4309279077 |ref=片野 2017}} |
|||
<!-- 2019katano -->* {{Cite book2|df=ja|author=片野 道郎|year=2019|title=チャンピオンズリーグ・クロニクル: 「サッカー最高峰の舞台」がたどった激動の四半世紀|publisher=[[河出書房新社]]|isbn=978-4309290157 |ref=片野 2019}} |
|||
<!-- br -->* {{Cite book2|df=ja|author=西部 謙司|year=2020|title=フットボールクラブ哲学図鑑|publisher=[[カンゼン]]|isbn=978-4862555687 |ref=西部 2020}} |
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<!-- 2021marzio -->* {{Cite book2|df=ja|author=ジャンルカ・ディ・マルツィオ|translator=片野 道郎|year=2021|title=カルチョメルカート劇場 世界一クレイジーな移籍市場の秘密をすべて教えよう|publisher=[[ソル・メディア]]|isbn=978-4905349563 |ref=ディ・マルツィオ 2021}} |
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=== 洋書 === |
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<!-- Digby -->* {{Cite book|author=Adam Digby|year=2015|title=Juventus: A History in Black and White|publisher=Ockley Books Ltd|isbn=978-0957141087 |ref=Digby 2015}}(Kindle版 2022年9月16日ダウンロード) |
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=== 雑誌記事 === |
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*『[[footballista]]』([[ソル・メディア]]) |
|||
*『[[ワールドサッカーダイジェスト]]』([[日本スポーツ企画出版社]]) |
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*『[[ワールドサッカーキング]]』([[フロムワン]]) |
|||
*『[[ワールドサッカーキング|SOCCER KING]]』([[フロムワン]]) |
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*『[[サッカー批評]]』([[双葉社]]) |
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**2017年87号 ユベントス 「ユーベ・メソッド」世界最強の教科書 |
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*『ワールドサッカーダイジェスト責任編集 EUROPE SOCCER TODAY』([[日本スポーツ企画出版社]]) |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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*[https://www.juventus.com/ Juventus.com] - 公式サイト |
*[https://www.juventus.com/ Juventus.com] - 公式サイト |
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*[https://www.juventus.com/jp/ Juventus.com/jp/] - 公式サイト{{ja icon}} |
*[https://www.juventus.com/jp/ Juventus.com/jp/] - 公式サイト{{ja icon}} |
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*[http://www.lega-calcio.it/ita/atim_juve_squ.shtml Lega Nazionale Professionisti] {{it icon}} |
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*{{Facebook|Juventus|Juventus FC}} |
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*{{Twitter|juventusfc|Juventus FC}} |
*{{Twitter|juventusfc|Juventus FC}} |
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*{{Instagram|juventus|Juventus FC}} |
*{{Instagram|juventus|Juventus FC}} |
2023年6月20日 (火) 02:57時点における版
ユヴェントスFC | ||||
---|---|---|---|---|
原語表記 | Juventus Football Club S.p.A. | |||
愛称 |
I Bianconeri (白と黒)[1] La Vecchia Signora (老貴婦人)[2] La Fidanzata d'Italia (イタリアの恋人)[3] La Madama (ピエモンテ語で、「婦人」)[2] Le Zebre (シマウマ)[1] | |||
クラブカラー | 白・ 黒 | |||
創設年 | 1897年 | |||
所属リーグ | セリエA | |||
所属ディビジョン | 1部(2022-23) | |||
ホームタウン | トリノ | |||
ホームスタジアム | アリアンツ・スタジアム | |||
収容人数 | 41,507 | |||
代表者 | ジャンルカ・フェッレーロ | |||
監督 | マッシミリアーノ・アッレグリ | |||
公式サイト | 公式サイト | |||
| ||||
■テンプレート(■ノート)■サッカークラブPJ |
ユヴェントスFC(Juventus Football Club, イタリア語発音: [juˈvɛntus])は、イタリアのトリノをホームタウンとするプロサッカークラブ。
1897年創設[4]。イタリアに現存するサッカークラブでは、ジェノアCFCの1893年に次ぐ2番目に古いクラブである[5]。スクデット獲得回数はセリエA最多の36回[6]、国内カップ戦であるコッパ・イタリアでは最多の14回の優勝[7]、国内スーパーカップであるスーペルコッパ・イタリアーナでも最多の9回の優勝を果たしている[8]。欧州の舞台では、UEFAチャンピオンズリーグで2度の優勝[9]、旧UEFAカップで3度の優勝を果たしており[10]、イタリアで最もタイトル獲得数の多いサッカークラブである[11]。
1923年以来、多数の実業家を輩出するイタリアの名門一族アニェッリ家がオーナーとなっており、2023年1月現在アニェッリ家の投資会社「エクソール」がクラブの株式の63.8パーセントを所有している[12][13]。
世界最大の会計事務所である『デロイト』が公表した2022年度版のデロイト・フットボール・マネー・リーグによると、2021-22シーズンのクラブ収入は4億3350万ユーロであり、世界9位、イタリアでは1位である[14]。
名称・愛称
ユヴェントスを創設したマッシモ・ダゼーリオ高校の学生たちは最年長でも17歳で、ラテン語で「若者」や「青春」を意味するユウェントゥス (juventus/iuventus) がクラブ名に採用された[4]。採用されなかった候補名には、「ルドゥス」、「ファティガンド・デレクタムル」、「マッシモ・ダゼーリオ」、「ヴィゴル・エ・ロブル」などがあった[15]。愛称は、ユニフォームの配色からビアンコネーロ(イタリア語で白と黒)、選手を含むチーム全体の場合は複数形になりビアンコネーリと呼ばれる[1]。配色以外で有名な愛称は「老貴婦人」を意味するラ・ヴェッキア・シニョーラだろう[16][17]。この愛称には、クラブを創設した高校生たちがサッカーをしていた広場にいたイレアーナ(Ileana)という年配の女性が最初のファンだったという説と[18]、1930年代当時の主力選手達の年齢が30代中心で、若者というクラブ名にそぐわないことからシャレで対義語の愛称を付けたという説がある[2]。地元の人はLa Madamaという愛称も使っており、これはピエモンテ方言でフランス語のマダムとほぼ同じ意味の言葉である[2]。シマウマを意味するLe Zebreは白と黒の配色からで[1]、そこから「JAY」という名前のシマウマのマスコットが採用されている[19]。「イタリアの恋人」を意味するLa Fidanzata d'Italiaは、1930年代にラジオのアナウンサーが名付けたとされる[3]。全国的な人気があることと、本拠地トリノにはフィアット社で働くために出稼ぎに来た南部からの移住者が多く、ラジオでユヴェントスの活躍を聴く南部の人々が北部の家族に想いを馳せたことが由来となっている[3]。1956年に導入したユニフォームが空気が入りやすかったため、背中が膨らんで見えたことからせむしを意味するgobbaという呼ばれ方もあったが、ネガティブな意味を持っているため他クラブのサポーターから蔑称として使われている[20][21][22]。
歴史
創設期
クラブは1897年11月1日にマッシモ・ダゼーリオ高等学校の生徒らによってスポルト・クラブ・ユヴェントス (Sport Club Juventus) として創設され[23]、2年後にフットボールクラブとなった[15]。1900年よりイタリア選手権(後のセリエAに相当する全国大会)に参加[24]。1903年、1904年と2年連続で決勝戦に進出するも、ジェノアの牙城を崩すことはできなかった[25][26]。翌1905年、決勝ラウンドでジェノアを1ポイント上回り[27]、イタリア選手権で初優勝を果たした[28]。ユヴェントスは他のクラブに比べ外国人選手の比率が低く、イングランド・スタイルのジェノアや、スイス・スタイルのミランと異なり、我流の全員サッカーで勝利したことはイタリアサッカーの転機になった[25][28]。
1906年の選手権でも決勝ラウンドに進出し、ミランと勝ち点で並んだため優勝決定のためのプレーオフが開催されることになった[29]。試合は0-0で決着が付かず2戦目が行われることになり、ユヴェントスは中立地としてジェノヴァでの開催を提案した[29]。しかし協会はUSミラネーゼのホームグラウンドであるミラノでの開催を決定し、これに抗議したユヴェントスは延長試合を放棄し、ミランの優勝が確定した[29]。さらに、スイス人のアルフレド・ディック会長がトリノからの移転を主導したことや、民族主義的なイタリア人のグループとの間に対立が起こったことにより、ディックはクラブへの出資を打ち切るとユヴェントスを去った後にFBCトリノ(現トリノFC)の創設に関わることとなる[4][29][30][31]。
1908年にイタリアサッカー協会が外国人選手の抑制に動くと、ミラン、トリノ、ジェノアに続きユヴェントスも一旦選手権から撤退することとなった[32]。同年にタイトルを獲得した同じピエモンテ州のクラブであるプロ・ヴェルチェッリが台頭すると[33]、以降ユヴェントスは地域グループ予選を突破できず、しばらくタイトル争いから遠ざかることとなる[27][34][35]。
1920年代
地域リーグを突破できないシーズンが続いた中[36][37][38]、1923年に地元の自動車会社フィアット創業者の息子であるエドゥアルド・アニェッリがクラブを買い取り、会長に就任した[39]。当時エドゥアルドはフィアットの経営に深く携わっておらず、自動車レースやサッカーなどのスポーツに熱中していた[40]。好きが高じて、トリノで有力チームだったユヴェントスのオーナーになるが、アニェッリ家との関係は金持ち息子の趣味の延長から始まった[40]。
1925–26シーズンには21年ぶりに、2度目のイタリア選手権優勝を果たす[4][41]。ゴールキーパーには、ユース出身でイタリア代表のジャンピエロ・コンビ[42]、プロ・ヴェルチェッリから移籍してきたヴィルジーニオ・ロセッタはヨーロッパ有数のディフェンダーとして評価されていた[43][注釈 1]。中盤のヨージェフ・ヴィオーラとガゼルと称されたフォワードのフェレンツ・ヒルツァーはハンガリー人選手であった[43][注釈 2]。ユヴェントスにおける最初の公式監督とされているハンガリー人のイェネー・カロリは、練習と技術の習得に重きを置いた指導をした[43]。北部リーグ決勝では、ボローニャ相手に2戦連続で引き分けたが、3戦目の直前にカロリが心筋梗塞で亡くなってしまう[46]。タイトル獲得を誓った選手たちは3戦目を2-1で勝利し、ファイナルでもアルバ・ローマ相手に2試合で12ゴールを量産し亡き監督に捧げる優勝となった[46]。
1926-27シーズンに優勝したのはトリノであったが、決勝リーグで対戦したユヴェントスの選手のルイージ・アッレマンディが八百長に関与したとされ、トリノの優勝ははく奪されている[47][48][注釈 3]。
ユヴェントスは1928年のアムステルダム五輪で結果を残したアルゼンチン代表のライムンド・オルシにいち早く目を付け、決勝戦翌日には契約条件として破格の10万リラと、フィアット509を提示した[49][注釈 4]。この契約についてアルゼンチン側から多く批判が寄せられ、イタリア系であることを確認するため実際にプレーしたのは翌シーズンからとなってしまった[49]。1929-30シーズンから1リーグ制の全国選手権が発足し、前年度に成績上位であったユヴェントスは初年度から参加した[51]。
1930年代 - 最初の黄金期
1930年から35年にかけてユヴェントスは5シーズン連続の優勝を飾り、「クインクエンニオ・ドーロ (黄金の5年間)」と呼ばれるクラブの歴史上最初の黄金時代を築いた[20][52]。1934年のFIFAワールドカップ・イタリア大会に優勝したイタリア代表には、実に9人ものユヴェントス選手を送り込んでおり[53]、代表主将を務めたGKジャンピエロ・コンビに加えて、「オリウンディ」[54]と呼ばれるアルゼンチン出身のFWライムンド・オルシやMFルイス・モンティら帰化選手が活躍した[55]。イタリア大会はムッソリーニがファシズム宣伝のために力を入れており、助っ人としてイタリア系のオルシやモンティがイタリア代表に加わることとなり[56]、ユヴェントスでも黄金時代の原動力となった[57]。
新任監督のカルロ・カルカーノは、アレッサンドリアからジョヴァンニ・フェッラーリを伴ってユヴェントスにやってきた[58]。イタリア代表でも最高の頭脳とされたフェッラーリとオルシのコンビは抜群で、フェッラーリのロングパスが効果的に働き、オルシはチーム総得点79のうち18点を記録した[58]。わずか4敗で2位のローマに4ポイント差を付けて3度目の優勝を果たすと[59]、1931-32シーズンもエドゥアルド・アニェッリは改革の手を止めず、再びアレッサンドリアからルイージ・ベルトリーニを獲得した[59]。アルゼンチンから獲得したモンティが太りすぎでダイエットが必要だったり、自分にパスを出されないと不満に思ったオルシがレナート・チェザリーニを外す要求をするなどトラブルがあったが、それでも前年より総得点を10伸ばし連覇を達成した[60][61]。
フィアットの経営哲学をクラブ運営に活かし、アニェッリ家の強い経済基盤を基にしたチーム作りが行われたが[58]、トリノのユースチームに所属していたフェリーチェ・ボレルを発掘し無名選手も登用した[62]。契約のトラブルで前年にチームに加わるはずだったピエトロ・セルナジョットとオルシ、ボレルのトリオは強力で、前年から失点を改善しながらゴール数を維持し2位のアンブロジアーナ・インテルに8もの勝ち点差を付けて3連覇を達成した[62][63][注釈 5]。1933-34シーズンにはボレルが2年連続で得点王に輝き、4連覇を達成すると守護神のコンビが現役引退した[64][65]。1934-35シーズンの優勝でユヴェントスは5連覇を達成するものの、シーズン中盤に監督が交代しオルシもシーズン終了前にアルゼンチンに帰国した[66]。最終節の時点でアンブロジアーナ・インテルと勝ち点が並んでいた優勝はサイクルの終わりを象徴し、1935年6月15日にエドゥアルド・アニェッリが飛行機事故で亡くなると栄光の時代は終わりを告げた[66]。エドゥアルドの死によってアニェッリ家との関係が途切れることはなかったが[39]、財政的に問題を抱え黄金期のメンバーを維持することはできなかった[66]。
1937-38シーズンはインテルと最後まで優勝争いをするものの、格下であるリグーリアに敗れ勝ち点差2で優勝を逃すこととなった[67]。一方、コッパ・イタリアではトリノを破り初優勝を果たした[68]。それ以外の4シーズンでは優勝争いに絡むことはできなかった[69][70][71]。
1940年代
1940年代の主役は「グランデ・トリノ」と称された地元のライバルチームのトリノであった[72]。1940-41シーズンのコッパ・イタリアを制覇したヴェネツィアの中心選手であるヴァレンティーノ・マッツォーラとエツィオ・ロイクの争奪戦に敗れ、両選手はトリノの栄光の中心選手となる[73][74]。また、トリノはユヴェントスから、ボレル、グリエルモ・ガベットとアルフレド・ボドイーラを引き抜き、強力なチーム作りを進めていった[75]。トリノの5連覇中は2~4位の好成績を残すが、1942-43シーズンは7ポイント差、1946-47シーズンの2位でも10ポイントの差をつけられてしまった[76][77][注釈 6]。1947年にエドゥアルドの息子ジャンニ・アニェッリが会長に就任し、再びアニェッリ家が実権を握ることになった[79]。
スペルガの悲劇の翌年、不幸にも有力チームがいない1949-50シーズンの選手権を制したのはユヴェントスであった[80]。拡大された外国人枠にはデンマーク人のジョン・ハンセン、カール・プラエスト、アルゼンチン人のリナルド・マルティーノが加わり、イタリア人選手も1947-48シーズン得点王のジャンピエロ・ボニペルティをはじめ一流選手が揃っていた[81]。イングランド人監督のジェス・カーヴァーは、母国からゾーンディフェンスを持ち込み守備陣から素早く前線にボールを配給させ、攻守にハードワークするトルナンテと呼ばれるサイドのポジション[82]を採用し、攻守のバランスを取った時代の先駆けとなるサッカーを展開した[80]。
1950年代
オリンピックでの北欧の躍進やハンセンの活躍により、ユヴェントスとミランはヨハネス・プロエゲルをめぐって争奪戦となる[83]。友人であるハンセンを交渉の席に派遣することでミランを出し抜いたユヴェントスは、代わりに獲得寸前だったグンナー・ノルダールを融通した[84]。目論みとは違いノルダールは得点王の活躍でミランを優勝に導き、デンマーク人トリオが不発だったユヴェントスは1950-51を3位で終えた[85][注釈 7]。厳しい練習から選手と確執を生んだカーヴァーが監督の座を追われ、後を継いだベルトリーニも1951-52シーズンの途中に退任する[85][86]。首位のチームを率いることになったジョルジョ・サロージは戦術的に柔軟性を持ったジャンピエロ・ボニペルティを軸に据え、選手権を制しスクデットを奪取した[86]。
1952-53、1953-54シーズンはわずかながらインテルに及ばず2年連続の2位だったが[87][88]、1954年から57年まで中位に沈み降格の危機さえあった[89][90][91][92]。1955年頃にジャンニ・アニェッリが会長から退いたが、後任のずさんな運営により1年でウンベルト・アニェッリへ交代された[89]。再び手綱を握ったアニェッリ家は再建にあたり、ジョン・チャールズをリーズから1億1500万リラで、リーベル・プレートに所属していたシヴォリの獲得には更に1億9000万リラを費やした[89][93]。「魔法のトリオ (Il Trio Magico)」[55]と称されたボニペルティ、シヴォリ、チャールズの攻撃陣と若手選手たちが融合した勢いは凄まじく、2位に8ポイント差を付け10度目の優勝を達成した初めてのクラブとなった[94][93]。1959-60シーズンには、全得点の92のうち50点をシヴォリとチャールズが記録しており11度目の優勝を果たした[95]。
1960年代
性格が評価されていたチャールズとは対照的にシヴォリの気性は激しく、リュビサ・ブロチッチはシヴォリとの確執で解任となり[93]、ボニペルティを冷遇しシヴォリを擁護した南米派閥のチェザリーニはアニェッリ家の意向とそぐわずテクニカルディレクターを解任され、内部の状況は決して芳しくなかった[89][96][97]。ユヴェントスは連覇を達成するものの、前年ほど圧倒した結果ではなかった[95][97]。その後スクデットから遠ざかっているユヴェントスでは、1964-65シーズンにパラグアイ人であるエリベルト・エッレーラが就任するまで監督交代が相次いだ[98][99]。エリベルト・エッレーラは偶然の一致か、「魔術師」と称されたインテル監督のエレニオ・エレーラと名前だけでなく手法も通ずるところがあり、規律を重要視しチームを変革した[100][99]。チームのエースだったシヴォリとは噛み合わずナポリへ移籍する要因になるものの、就任から3年目の1966-67シーズンに待望の優勝を果たした[99]。
1930年から1960年代まで10回以上の国内優勝を果たすユヴェントスだったが、ミランとインテルが欧州のカップ戦で2度ずつ優勝しているのとは対照的にタイトル獲得までは至らなかった[101]。
1970年代前半
エッレーラの後任にふさわしい監督はなかなか見つからず、選手としてグランデ・インテルで活躍したアルマンド・ピッキにようやく落ち着いた[102]。ローマから獲得したファビオ・カペッロ、ルイジアーノ・スピノージ、ヴァレーゼからロベルト・ベッテガ、パレルモからフランコ・カウジオが復帰しメンバーが揃いつつあった[103]。1970-71シーズン半ばにピッキの不治の病が発覚すると、ズデネク・ゼーマンの叔父のチェストミール・ヴィツパーレクを下部組織のコーチから昇格せざるをえなかった[101][103]。1971-72シーズンは前半の折り返し地点で首位に立つものの、ベッテガの病、ヴィツパーレクの身内の不幸と災難が相次ぐ[104]。ここで心が折れなかったユヴェントスは終盤戦を戦い抜き、2位のミラン、トリノとわずか勝ち点差1でピッキらに捧げる優勝を果たした[104]。
1972-73シーズンでは、当時最高の評価を得ていたディノ・ゾフをナポリから獲得し守備の穴を埋めることに成功する[105]。しかし、前半戦終了時点ではラツィオとミランが上回り、ユヴェントスは勝ち点で5ポイント離されている状態だった[105]。また、チャンピオンズカップの両立とワールドカップの予選にイタリア代表メンバーが駆り出されていたこともあり、残り6節時点で優勝の可能性はほぼ閉ざされていた[106]。しかしここから怒涛の追い上げを見せたユヴェントスは、最終戦のローマに終了間際の逆転弾で勝利し、最終節で首位ミランとの1ポイント差をひっくり返し連覇を達成した[106]。1972-73シーズンは、初めてチャンピオンズカップの決勝に進んだシーズンでもあった[101]。国内リーグとコッパ・イタリアを制しており3冠がかかる試合には、GKにゾフ、MFにカペッロとフランコ・カウジオ、FWにはジョゼ・アルタフィーニ、ピエトロ・アナスタシ、ベッテガの3トップと初優勝が期待できるメンバーが揃っていた[101]。しかし、決勝の相手は3連覇を達成する黄金時代のアヤックス・アムステルダムで、試合開始わずか5分にヨニー・レップのゴールで失点すると、そこからスコアは動かず0-1で敗戦し優勝を逃した[107]。トンマーゾ・マエストレッリのラツィオに及ばず2位で1973-74シーズンを終えると、翌1974-75シーズンではヴィツパーレクが監督から身を引きオブザーバーとしてクラブに関わることになり、1959年から2年連続優勝を果たしたカルロ・パローラに再び監督を任せることになった[108][109]。前年に加入したクラウディオ・ジェンティーレに加え、オスカル・ダミアーニ、後にクラブのレジェンドになるガエターノ・シレアを補強したユヴェントスは16度目の優勝を果たす[109]。敗北した試合は2位ナポリよりも多く、得点・失点においても優れた成績ではなかったが、シーズンを通して安定感のある戦いを続けた[110]。1975-76シーズンは前シーズンの調子のまま首位で3月を迎えるが、ミラン戦の引き分け後の3連敗で5ポイントのリードを失い、地元のライバルであるトリノに27年ぶりの優勝を許してしまった[111]。
1970年代後半~1980年代前半 - トラパットーニ政権の黄金期
ジョバンニ・トラパットーニが監督に就任した1976年から退任する1986年までの10年間に、セリエAでは6度の優勝、1976-77シーズンにクラブ初の欧州タイトルとなるUEFAカップで優勝しユヴェントスは多くのタイトルを獲得した[112]。
37歳でユヴェントスの監督に就任したジョバンニ・トラパットーニは、ミランでDFとして活躍した後にネレオ・ロッコの下で経験を積んだ若手監督だった[113]。チームの中心選手だったアナスタージやカペッロを放出するものの、引き換えに獲得したロベルト・ボニンセーニャ、ロメオ・ベネッティがその穴を埋め安定感のあるチーム構成になった[113][114]。1976-77シーズンは勢いのあるユヴェントスとトリノが他クラブを15ポイント以上引き離し優勝争いをしており、最終節の勝利により1ポイント上回ったユヴェントスが監督就任1年目での優勝を果たした[114][115][116]。スクデット獲得の直前にはUEFAカップの決勝に進出し、アウェーゴールの差でアスレティック・ビルバオを上回り欧州カップ戦で初優勝を果たした[117][118]。翌シーズンはアントニオ・カブリーニの台頭というポジティブな要素があったものの、ピエトロ・パオロ・ビルディスら新加入選手は定位置を掴むまでには至らず、地力を押し通した2連覇となった[119][120]。調子の上がらないユヴェントスはその後2シーズンを3位、2位と順位を落とし、その後の2シーズンを再び連覇する[121][122][123][124][125]。1980年からの2回の優勝にはいくつか不可解な判定があったと指摘されており、特に1981-82シーズン最終節でユヴェントスがPKを得て優勝したことは、1ポイント差で2位になったフィオレンティーナが長く抱く遺恨の始まりとされている[126][127][128][129]。
1980年に解禁された外国人選手の登録により、1982-83シーズンにはズビグニェフ・ボニエク、ミシェル・プラティニらと契約しプラティニは早速得点王に輝く[130][131]。ワールドカップの優勝メンバーにユヴェントスから6人も選出されていたこともあり、コンディション面からリーグでは振るわず2位に甘んじるものの、欧州の舞台では2度目のチャンピオンズカップ決勝に進出した[131][112]。メンバーにはイタリア代表のディノ・ゾフ、クラウディオ・ジェンティーレ、ガエターノ・シレア、アントニオ・カブリーニ、マルコ・タルデッリ、パオロ・ロッシ、ロベルト・ベッテガが揃い、ハンブルガーSVに敗れまたしても優勝を逃す[132]。この敗戦で奮起したユヴェントスは、翌年UEFAカップウィナーズカップを制す[132]。この勝利で出場権を得たUEFAスーパーカップでは、チャンピオンズリーグ決勝で相対するリヴァプールとの前哨戦となり、2-0で勝利している[133]。
1983-84シーズンは前シーズンと同様にユヴェントスとローマの一騎打ちの構図となったが、シーズン中盤過ぎからは首位を明け渡すことなくスクデットを獲得した[134]。また、プラティニが2年連続の得点王に輝いた[134]。1984-85シーズンにも得点王に輝いたプラティニは3年連続でバロンドール受賞となったが、主力の故障でリーグでは6位と大きく順位を落とした[135][136][137]。残るチャンピオンズカップ獲得へ目標を定めると、準決勝でボルドーに競り勝ち、ヘイゼル・スタジアムで行われる決勝へ駒を進めた[133][138]。決勝ではプラティニのPKゴールを守り切り、クラブ創設から88年目で初の欧州チャンピオンに輝いた[139]。しかし、試合前にはリヴァプールサポータを原因とする群衆事故で39人が亡くなっており、心から喜べる戴冠にはならなかった[139][140](詳細はヘイゼルの悲劇を参照)。
1985-86シーズンは、ボニエクとロッシを放出する一方、ミカエル・ラウドルップをラツィオから呼び戻し、トリノからはアルド・セレーナを獲得した[141]。セレーナの獲得にはサポーターの反発もあったが、シーズンを通して21ゴールと活躍した[141]。残り2節で勝ち点で並んでいたローマとの首位争いを制し22度目の優勝を果たした[142][143]。同年末にはトヨタカップでアルゼンチンのアルヘンティノス・ジュニアーズと対戦し、2-2で決着がつかずPK戦までもつれ込んだものの[144]、GKのタッコーニが2本セーブする活躍で世界一に輝き、この勝利により欧州クラブが獲得できる国際タイトルを全て獲得した初のクラブとなった[145][146]。後半にはプラティニのテクニカルなボレーシュートのゴールが取り消されており、プラティニが芝生に寝転んで抗議している有名な写真はこの時に撮られたものである[144]。
トラパットーニ監督時代の10年間で、セリエAで6度の優勝、コッパ・イタリアで2度の優勝、チャンピオンズカップ、カップウィナーズカップ、UEFAカップの欧州3大タイトルも制覇した[147]。
1980年代後半~1990年代前半 - 低迷期
トラパットーニがインテルの監督に就任しプラティニが引退したことで黄金期が終わり、マラドーナ擁するナポリやベルルスコーニが会長に就任したミランが台頭するとユヴェントスは長い低迷期に入る[148][149][150]。クラブOBであるゾフに監督を託すも状況は好転せず、プラティニの代わりを期待されたイアン・ラッシュが振るわない等、補強でも活躍する選手を獲得できなかった[151][152]。1989-90シーズンにはコッパ・イタリアとUEFAカップを制するものの、ルイージ・マイフレディに監督の座を譲ることとなる[153]。UEFAカップ決勝の数日後には、対戦相手のフィオレンティーナから花形選手のロベルト・バッジョの引き抜きに成功したが[154][155]、7位と結果を残すことができなかったマイフレディは1年で解任となり、黄金期の監督だったトラパットーニに再び指揮を委ねた[156][157]。ジャンルカ・ヴィアッリ、ディノ・バッジョ、ファブリッツィオ・ラバネッリ、アンジェロ・ペルッツィ、アントニオ・コンテらを補強し優勝争いができるまでチームの力が戻り、ディノとロベルト二人のバッジョの活躍により再びUEFAカップを制するものの、時代遅れとなったカテナチオではアリゴ・サッキのゾーンプレスで革新を起こしたミランに及ばず、1985-86シーズン以来のスクデットまでは至らなかった[158][159][160][161][162][163][164]。
1990年代後半 - リッピ政権の黄金期
体制の刷新が行われ、副会長にロベルト・ベッテガ、GMにルチアーノ・モッジ、取締役にアントニオ・ジラウドが就任し、監督にはマルチェロ・リッピが招聘された[165]。チーム編成も見直され、アンドレアス・メラー、ジュリオ・セザール、ディノ・バッジョらスター選手を放出した一方、チロ・フェラーラ、ディディエ・デシャン、パウロ・ソウザら黄金期を象徴する選手たちが1994年に加入しチームの強化がはかられた[166][167]。前シーズンに加入したアレッサンドロ・デル・ピエロも主力として定着し、強力なFW陣が得点を量産しリッピ体制初年度でスクデットを獲得した[166]。リッピはトラパットーニの守備的なメンタリティを捨て、前線からハイプレスを仕掛ける攻撃的なサッカーへ転換を図り、守備にも貢献できる若いデル・ピエロをチームの主軸としていくことに決めたユヴェントスは、1995-96シーズンにミランから届いたバッジョへのオファーを受け入れた[161][168]。翌シーズンはミランに8ポイント差を離されて優勝を逃すものの[169]、チャンピオンズリーグではレアル・マドリード、ナントを下して決勝に進出した[170]。決勝の相手は前年王者でありシーズンで52戦無敗の強さを誇るアヤックス・アムステルダムだったが、ラヴァネッリのゴールで1-1となったPK戦で勝利し、2度目の欧州制覇を果たした[139][171]。副会長のロベルト・ベッテガは、「1985年の優勝は祝えなかった、この時を待っていた」と喜びを口にした[172]。更に11月には東京の地で再び世界一の称号に輝いている[173]。
1996-97シーズンには、更にジネディーヌ・ジダン、パオロ・モンテーロ、マルク・ユリアーノ、クリスティアン・ヴィエリらが加わりチームが強化された[174]。ライバルであったミランが大失速し、パルマに競り勝ったユヴェントスはスクデットの奪還に成功する[174][175]。翌シーズンはデル・ピエロとインザーギの「デルピッポ」コンビとジダンの組み合わせでゴールを量産し、連覇を果たしたリッピ監督は4年で3度のリーグ優勝を勝ち取った[176][177]。ボスマン判決後で移籍が活発になり優勝メンバーが様変わりしたものの、勢いは国内に留まらず攻守にアグレッシブなサッカーの質を高めてチャンピオンズリーグ決勝に3年連続で進出した[139][178]。事前予想では有利とされていたものの、流れを掴めなかったユヴェントスは2年連続で決勝敗退となった[139][179][180]。
独立採算体制への移行で選手の入れ替わりが激しかったものの、モッジは監督のサッカーに適合する選手の獲得でリッピをサポートし、4年連続でタイトルを獲得しクラブ史上でも有数の黄金期となった[181][161]。
2000年代初頭
1998-99シーズンは、11月8日、第8節のウディネーゼ戦において、後半ロスタイムにデル・ピエロが靭帯損傷の大怪我を負い、直後に同点弾を決められ首位から陥落すると、インザーギやジダンら主力も怪我に苦しみ7位でシーズンを終えることとなった[182][183][注釈 8]。20節のパルマ戦に敗北すると、リッピは急遽辞意を口にしそのまま監督の座を降りてしまう[186][187]。後任にはカルロ・アンチェロッティが選出されたが、サポーターからの歓迎は受けられなかった[188]。
アンチェロッティが留任して迎えた1999-2000シーズンは、ジャンルカ・ザンブロッタ、ファン・デル・サールが加入したが、振るわなかった前シーズンのメンバー構成に大きな変化はなく、メディアからも優勝候補とは見られていなかった[189][190]。安定感のある守備に支えられ、徐々に順位を上げ前半戦を首位で折り返すと、スクデット争いはラツィオとの一騎打ちとなった[190][191]。中盤戦の連勝で勢いに乗ると、残り8試合で2位ラツィオとの差は9まで広がり、メディアもユヴェントスの優勝を有力とした[190][192]。しかし、直接対決の敗北を含む7試合で3敗を喫すると、最終節のペルージャ戦にも敗北し最後の最後で1ポイント上回られ優勝を逃した[190]。
2000-01シーズンは、戦力は十分と判断し移籍市場では消極的で、層に厚みを持たせるためダヴィド・トレゼゲらを獲得した[193]。記者の事前予想ではタイトル獲得へのリベンジが期待されていたものの、コッパイタリアで早くも3回戦で敗北すると、チャンピオンズリーグでもグループリーグで最下位になり2つのタイトル争いから脱落してしまう[194][195]。11月初めに残されたタイトルがリーグだけというのは19年ぶりとなる不振で、サポーターは練習場やスタジアムで批判の声を上げた[195]。移籍市場で積極的に動き、ワルテル・サムエルやガブリエル・バティストゥータらを獲得したローマほどの勢いはなかったが、10節終了時点で2位につけスクデット争いに望みをかけた[194][196]。第29節は首位ローマと直接対決となり勝ち点差6を縮めるチャンスであったが、中田英寿が2得点に絡み終了間際に同点となり追撃に失敗する[197]。最終節の逆転優勝に望みをかけたが叶わず、2年連続で2位という結果でアンチェロッティは監督の座から退くこととなった[198]。アンチェロッティには次シーズンの契約が残っていたが、リッピの監督就任の確約を得たクラブから最終節直前に解雇通知を受け取ることとなった[186]。
リッピ時代の補強の成功とは打って変わって、アンチェロッティが就任してから獲得した選手がなかなか主力として定着せず[195]、 ジダンやデル・ピエロのような代えのきかないタレントの調子に左右され続けた[182]。アンチェロッティは「ユヴェントスで監督を務めることは楽しいか?」というインタビューに「ノー」と答えており[199]、ファミリーのようだったパルマ監督時代と比べてユヴェントスは会社のようだったと回想している[200]。
2000年代前半 第二次リッピ政権
2001年5月6日のローマ戦直後、モッジはリッピへ新シーズンの監督を打診する[186]。バルセロナからもオファーを受け取っていたリッピだったが、最終的にユヴェントスを選んだ[187]。移籍市場では従来の堅実な方針を転換し、チームの大改革に取り組んだ[201]。フィリッポ・インザーギとジネディーヌ・ジダンの移籍により巨額の資金を獲得すると、リーグ屈指の選手であるパベル・ネドベド、ジャンルイジ・ブッフォン、リリアン・テュラムを引き抜いた[201][202]。優勝経験監督が帰還したものの、主力級選手の入れ替えにより評価が未知数なシーズンスタートとなった[203]。開幕節を4-0で勝利し不安を吹き飛ばしたかに思えたのは束の間で[204]、出場停止処分が解けたダーヴィッツとネドヴェドの相性が噛み合わず、9月15日から2カ月勝利することができない不調で、第14節時点で首位インテルと9ポイント離された6位に沈んでいた[205][206]。しかし後半戦になると、新戦力のネドヴェドがトップ下のポジションを掴み、トレゼゲ、デル・ピエロと強力な攻撃陣となってからは連勝で上位に浮上する[207]。残り5試合の時点で首位と6ポイントの差があったが、最終節までの5連勝で1ポイント上回り大逆転優勝を果たした[205][208]。
続くシーズンではリーグ最少失点を記録した守備陣を維持し、中盤にマウロ・カモラネージ、トレゼゲが負傷した攻撃陣にマルコ・ディ・ヴァイオが加わった[209]。安定感のある守備で前半戦を1敗で乗り切ると[210]、中盤戦の11試合で10勝1分けと勢いに乗り[211]、最終節を待たずに優勝が決定するのは5年ぶりのことであった[212]。FWの調子が万全とはいえないシーズンだったが、リッピは攻守に切り替えが早いチーム戦術を浸透させ、その中でネドベドは獅子奮迅の活躍を見せた[212][213]。チャンピオンズリーグでは決勝に進出し、ACミランと初のイタリア勢対決となった[214]。リーグ優勝の立役者のネドヴェドを出場停止で欠き、トゥドール、ダーヴィッツの故障で効果的な交代策を講じれず、メディアによって「史上最も退屈なファイナル」、「退屈な試合」と形容されたこの試合は延長含めた120分でスコアが動くことはなかった[214][215]。PK戦ではブッフォンが2本のシュートをセーブするものの、相手GKのジーダから2本のゴールしか奪えず、あと一歩のところで優勝を逃すこととなった[214]。
2003-04シーズンは連覇を達成したメンバーに大きな変更はなく、開幕前から3連覇に期待が寄せられた[216]。しかし11節、12節の連敗で順位を落としたことに加え[217]、エドガー・ダーヴィッツとの関係が悪化し冬にバルセロナに放出すると、守備にほころびが出始め最終的に42失点を記録してしまう[218][219]。前年のチャンピオンズリーグにおける敗戦で「来年このタイトルを獲得できなければ、ユーベを去る」という発言をしていたリッピだが、最低限のノルマであるチャンピオンズリーグ出場権を獲得すると退任を発表し、第2次リッピ政権は幕を閉じることとなった[218][220]。
2004-06 カペッロ政権
後任の監督としてデシャンが有力とされている中、2004年5月27日にローマからファビオ・カペッロを引き抜いたことが急遽発表された[221][注釈 9]。カペッロの教え子であるエメルソンをローマから連れてくることに成功するものの、新監督を迎えるための即戦力補強の動きは見られなかった[223]。しかし、移籍期間最終日である8月31日にファビオ・カンナヴァーロ、ズラタン・イブラヒモビッチの2選手の獲得を発表する[224]。特にイブラヒモビッチの交渉は水面下で行われており、電撃的な移籍ニュースとなった[224]。前シーズンの課題であった守備の不安定さ、ダーヴィッツが抜けた穴、怪我がちのトレゼゲに新戦力が完全な解答となり、新体制初年度での優勝を果たした[225]。
2005-06シーズンは、プレシーズンマッチでブッフォンが負傷するアクシデントがあったものの、優勝メンバーにパトリック・ヴィエラが加わったことでチームが強化され、セリエA記録となる開幕9連勝という最高のスタートを切った[226]。ターンオーバーを好まないカペッロの方針で、シーズン中盤には選手に疲労が見られたが[227]、シーズンを通して敗戦は1試合のみで、勝ち点91を積み上げ2連覇を達成した[228]。
シーズン末の5月初旬にカルチョ・スキャンダルの問題が噴出し、FIGCによる裁判により2004-05、2005-06シーズンの優勝の剥奪とセリエBへの降格という判決が下された[229][230]。主力選手のエメルソン、カンナヴァーロ、テュラム、ザンブロッタ、ヴィエラ、イブラヒモビッチが退団し戦力を大きく失うことになった[230][231]。
セリエBの戦い
カルチョ・ポリでの厳しい処分により経営陣は刷新を迫られ、それまでサッカー界に関わりのなかったジョヴァンニ・コボッリ・ジッリが会長に、ジャン=クロード・ブランが代表取締役に就任した[232]。また、2005-06シーズンの経営赤字は3545万ユーロ(約53億円)になっており、前年から赤字が10倍に膨れ上がるほど厳しい状態だった[232]。 さらに、勝ち点を-17した状態からセリエBを戦わなければならなかった[233]。クラブOBのデシャンに監督を託すと、開幕戦引き分け後の6連勝で8節には早くも借金を返済し、カルチョ・ポリの再審議により勝ち点マイナスは9まで軽減されることになった[161][233][234]。2007年1月20日には、デルピエロの500試合目となったバーリ戦に勝利し単独首位に立つと[235][236]、2007年5月19日、閉幕まで3節を残し1年でのセリエA復帰を決めた[237][238]。セリエBは所属22クラブ、6月末までシーズンが続く過酷なリーグだが[239]、セリエBでの闘いについて、ブッフォンは「ファンと触れ合うことと、プレーすることの喜びを再発見したんだ。」とポジティブに振り返っているが[240]、ネドヴェドは「セリエBでの1年は厳しく、困難で、長く、骨の折れるだった。」と述べている[241]。また、20ゴールで得点王を獲得したデルピエロは、降格した年にも関わらず「もう一度体験したい時」に2006年を挙げている[242]。一方、カモラネージやサラジェタら数人の選手がデシャンと問題を抱え、1年での復帰に貢献したデシャンはクラブを去ることになった[161]。
安定感のない新体制
セリエB優勝が決定した2007年5月26日の試合後、1年での昇格に貢献したデシャン監督の退任が発表された[243]。6月4日には後任にクラウディオ・ラニエリの就任が発表された[244]。 開幕前の予想では、UEFAカップ出場権獲得も難しいだろうという声もあったが[245]、2008年4月12日のミランとの直接対決を制しチャンピオンズリーグ出場権をほぼ手中に収めることになった[246]。シーズンは20勝12分6敗で3位で終え、セリエA復帰1年目、また夏の補強失敗を考えると奇跡的な復活になった[247]。シーズン前半はベンチスタートも多かったデル・ピエロだが、21ゴールの内ラスト8試合で10ゴールを決める勢いで33歳で初のセリエA得点王に輝いた[247][248]。ユヴェントスとしても2年連続の得点王排出となった[247]。
翌シーズンは開幕から常に10人前後の負傷者が発生し[249]、前シーズン41点を決めたトレゼゲとデル・ピエロも、トレゼゲは膝の手術で離脱、デル・ピエロは開幕5試合でノーゴールと勝ちきれない試合が続き[250]、11位まで順位を落とした[251]。一時は首位インテルと3ポイント差まで迫るも、徐々に順位を落としチャンピオンズリーグ出場権が危うくなってきたユヴェントスは、2009年5月18日、ラニエリ監督の解任を発表した[252][253][254]。ユヴェントスがシーズン途中に監督を解任するのは40年ぶりのことだった[255]。ユースチームを率いていたチロ・フェラーラが暫定監督に就任し[256]、シエーナ戦に勝利しチャンピオンズリーグ出場を確定させた[257]。最終節のラツィオ戦は、退団が決まっていたネドヴェドのラストゲームとなった[258][注釈 10]。327試合に出場したネドヴェドは最後の試合でもアシストを記録し勝利に貢献、21勝6敗11分で2位という成績でシーズンを終了した[258]。
新シーズンに正式に監督に就任したフェラーラは、前線からのプレッシングとショートカウンターを基本とする戦術でリッピ監督時代を彷彿とさせ[256][261]、サンプドリアと並び首位に立つ勢いを見せた[262][263]。しかし、その後3戦で1敗2分と勢いにブレーキがかかり3位まで順位を下げてしまうと[264][265][266]、年明け後はさらに故障者も増え[267]、ホーム3連敗で6位まで順位を落とす[268]。コッパ・イタリアの準々決勝、インテル戦に敗れた翌日の2010年1月28日、フェラーラ監督の解任と後任にアルベルト・ザッケローニが就任することが発表された[269]。ザッケローニは、監督2戦目で得意の3バックを導入するが、初勝利は3戦目のジェノア戦となり[270]、ベッテガは「良い監督だが、魔法の杖は持っていない」と皮肉交じりのコメントを残した[271]。シーズンは7位で終了し、なんとかヨーロッパリーグ予選枠を得たものの、38戦16勝15敗7分という結果は過去数シーズンでも最悪の成績で、敗戦数、総得点、総失点では、20チーム制になってから最も悪い記録となった[272][273][274]。
2009年から会長に昇格したブランは、2006年当時「スクデットを争うのに3年かかる」と見込んでいた[275]。1年でセリエAに復帰し2年連続で好成績を残すなど順調に進んでいると思われたが、経営陣に強力なリーダーシップを発揮する人物が存在せず、2年連続でシーズン途中に監督が交代し盤石な基盤を整えることはできなかった[275][276]。モッジの後任にスポーツディレクターに就任したアレッシオ・セッコは、2004年から2年間チームマネージャーを務めたが、記者からは「モッジのカバン持ち」として知られていた[277]。アマチュアのセッコにユヴェントスの重職は荷が重く、元上司のモッジに助言を求めることはイメージ悪化のためにクラブから禁じられ名門復活のための的確な補強ができず、特に目玉補強だったジエゴとフェリペ・メロの不調には悩まされた[277][278]。2009-10シーズン終了後、オーナーであるアニェッリ家は運営体制の改革に踏み切り、プロジェクトは4年で幕を閉じることとなった[273]。
アンドレア・アニェッリの会長就任
アニェッリ家当主のジョン・エルカーンは、より深く経営にコミットするため、1956年から5年間会長を務めたウンベルト・アニェッリの息子であるアンドレア・アニェッリに会長を委ねた[279]。移籍市場やチーム強化のプロがいなかったことを反省し、サンプドリアでゼネラルマネージャーを8年間務めたジュゼッペ・マロッタを引き抜いた[279][注釈 11]。マロッタはセリエCからキャリアを積み上げてきた叩き上げで、サンプドリアをセリエBからチャンピオンズリーグ出場まで引き上げた実績があった[279]。また、限られた予算で結果を出すことからも、イタリアで高く評価されていた[279]。マロッタはサンプドリアで仕事を共にしたルイジ・デルネーリを新監督に任命し、右腕の部下のファビオ・パラティチも引き抜いた[279]。デル・ネーリ監督は、2000年代前半にミラクル・キエーヴォと称されたチームを率いていた頃から一貫して、スピードに乗ったサイド攻撃を活かした速攻攻撃型サッカーを志向していた[281][282]。マロッタは、サイドを主戦場とするシモーネ・ペペ、ミロシュ・クラシッチ、ホルヘ・マルティネスらを補強し、監督の戦術を後押しした[281]。
第5節から第17節まで7勝6分という負けなしの成績で一時は2位まで順位を押し上げるものの[283][284][285][286]、クアリャレッラがシーズン終了の大けがを負ったりと浮き沈みが激しく[287][288]、第34節の引き分けでチャンピオンズリーグ出場が絶望的になり[289]、15勝10敗13分で7位という成績でシーズンを終えヨーロッパリーグ出場も逃した[290][291]。2011年5月21日、デルネーリ監督の解任が発表され[292]、5年で5度目の監督解任と継続性の無さがあらわになった[293]。シーズンの不振について、中心選手の負傷と補強選手が活躍できなかったことが指摘されている[294]。新加入のボヌッチはしばしば失点に絡んだが、冬に加入したバルザーリと合わせて、後に「BBC」と呼ばれる守備ユニットの礎が誕生したシーズンとなった[294][295]。
コンテ政権での3連覇
2011年5月31日、現役時代に「"闘将"」と呼ばれ、ユヴェントスで13シーズンプレーしたアントニオ・コンテが新監督として就任した[296][297]。失いかけていた名門の誇りと、勝利に対する精神をチームに蘇らせることを期待され、コンテ本人も「ユベントス・スピリットを取り戻す」ことを第一目標に挙げた[297]。不振の前シーズンを受けて増資がなされ、フロントも積極的な補強を宣言し[298]、ステファン・リヒトシュタイナー、アルトゥーロ・ビダル、ミルコ・ヴチニッチらを獲得し、ミランで契約延長に至らなかったアンドレア・ピルロはフリーでの加入となった[299][300]。 サイド攻撃を軸にした4-2-4と、ピルロ、マルキージオ、ヴィダルのコンビネーションを活かす4-3-3を使い分け開幕2連勝を飾る[301][注釈 12]。4-3-3のシステムが固まり、迎えた第13節ラツィオ戦は首位攻防戦で、試合をコントロールしたユヴェントスが1-0で勝利し首位で前半戦を終えた[303][304]。ユヴェントスが冬の王者になるのは、2005-06シーズン以来のことであった[304]。前半戦の戦いについて、使い慣れていた4-2-4の布陣より、4-3-3が機能すると分かると即座に戦術変更を決断し、デル・ピエロのようなバンディエラをベンチに置くこともためらわないチームマネジメントを評価されている[305]。「スクデット決定戦」と喧伝された第25節のミラン戦から、降雪で延期された第23節も含み4戦連続で引き分けとなり、勝利より引き分けの方が多くなってしまうとコンテは無敗を強調したが、首位ミランとの差が広がり始めていた[306][307][308][308][309]。ミランを追う形となったユヴェントスは、第28節の快勝を皮切りに[310]、4試合で12得点、523分間無失点継続と、怒涛の4連勝で首位に返り咲いた[311]。連勝は8まで伸び[312]、第37節の勝利で9シーズンぶりの優勝が決定した[313]。就任1年目で優勝を達成したコンテは、試合終了後のインタビューを「今日、ユベントスが帰ってきた」という言葉で締めた[313]。シーズン前半の10月18日の株主総会で、アニェッリ会長自らデル・ピエロとの契約が終了することを明言しており[314]、シーズン最終試合は退団試合となった[315]。前半28分に得点を決め、後半57分の交代では満員のスタンディングオベーションに見送られた[315]。最終成績は38戦23勝15分で、無敗での優勝となった[316]。総失点の「20」は、セリエAにおける最少失点記録更新となり、「20人」からゴールが生まれたことも最多得点者数の記録更新となった[316]。
2012-13シーズンはチャンピオンズリーグ参戦のため、戦力補強としてウディネーゼからクワドォー・アサモアとマウリシオ・イスラを獲得し、マンチェスター・ユナイテッドからは、ポール・ポグバを獲得した[317][318]。一方コンテは、シエナ監督時代に八百長の事実を知りながら報告を怠ったとして、10ヶ月の資格停止処分が下された[319][注釈 13]。コンテ不在の間、代行監督としてアシスタントコーチのマッシモ・カレーラが指名された[321]。第8節のナポリ戦から5連勝で迎えたイタリアダービーで敗北すると、2011年から続いていたリーグ無敗記録は49でストップしてしまった[322][323]。資格停止処分が4か月に軽減されたコンテが第16節からベンチに復帰し[324][325]、リーグでも2位と勝ち点8差の首位で年内最終戦を終えた[326]。年明けは、ピルロ、マルキージオ、キエッリーニら主力の故障でクオリティが低下したが[327]、2位との直接対決となった第27節のナポリ戦では、引き分けという結果で差を縮めさせなかった[328]。ナポリ戦以降8連勝で勝ち点を積み上げ[329]、2013年5月5日に3節を残し2連覇を達成した[330]。最終成績は、27勝6分5敗であり[331]、開幕から1度も首位の座を譲ることがなかった[332]。
前年に4-3-3で固まったとみられていたフォーメーションだが、コンテは改善の手を緩めず3バックを導入する[333]。見た目上は3-5-2であるが、より攻撃的にするためサイドの選手を前線に押し上げ、4-2-4の4トップの考え方を活かした3-3-4という布陣にたどり着く[333]。また、3バックの導入は移籍当初から守備のミスで批判されていたボヌッチの負担を軽減し、長所であるビルドアップ能力をより活かせるようになった[334]。2トップにはヴチニッチとマトリを起用し、前線からの積極的なプレッシングを要求することでインテンシティが高まった[335]。相手を選ばず、常に主導権を握っていく「強者のスタイル」が浸透したシーズンとなり、コンテも「今季のチームは昨季より強かった」と讃えている[332]。
ガゼッタ・デロ・スポルトに補強の必要性が指摘されていた大型FWには[336]、マンチェスター・シティからカルロス・テベスと、2013年1月に加入内定が発表されていたフェルナンド・ジョレンテが加入した[337][338]。前シーズンの3-5-2を土台にしながら、リヒトシュタイナーが担っていた右ウィングのポジションをヴチニッチに変えることで、より重心を前に置いた3-3-4のフォーメーションを完成させようと目論んだ[337]。ハードワークが要求されるコンテの2トップの元で、テベスは開幕1カ月でシステムに適応し、DFとの駆け引きやポストプレーでの組み立てに参加しながら6試合で4ゴールの活躍ぶりを見せた[339]。開幕8試合で無得点試合がないという攻撃の充実ぶりながら、前シーズンからの課題であるチャンピオンズリーグとの両立には悩まされた[340]。それでも新戦力のジョレンテがレギュラーに定着し攻撃にバリエーションが増え、序盤戦に勢いのあったローマ、ナポリの両クラブが停滞している間に6連勝で首位に躍り出た[341][342]。マルキージオの怪我で出場機会が回ってきたポグバも[343]、ビダルとのコンビで中盤を制圧しており、ヨーロッパでも屈指のレベルにあると評価された[344]。リーグ戦では、38戦33勝3分2敗という成績で通算30回目の優勝を果たし、3連覇を達成した[345][346]。12連勝1回、7連勝2回とシーズンで大崩れすることがなく、勝ち点「102」はセリエだけでなく欧州主要リーグの最多勝ち点記録を更新し、ホーム開催試合19試合全てで勝利する圧倒的な強さを示したシーズンとなった[345][347]。
国内では圧倒的な強さを見せ、3年間の114試合のうち敗北したのは7試合だけだった[348]。しかし欧州の舞台では結果が振るわず、ヨーロッパリーグでもホームスタジアムで行われる決勝にたどり着けなかった[348]。コンテもフロントもチャンピオンズリーグ制覇の気持ちは同じだったが、積極的な補強を望むコンテに対してフロントは健全な財政を優先し、納得のいかないコンテはサマーキャンプ初日に電撃辞任した[348]。
アッレグリ政権の黄金期
アントニオ・コンテ辞任の翌日に後任としてマッシミリアーノ・アッレグリの就任が発表された[349]。アッレグリは2010-11シーズンにミランでスクデットを勝ち取っているものの、ピルロを冷遇しユヴェントスへ移籍する原因となったことや、ユヴェントスへの批判を口にしていたためサポーターから歓迎されず、「#NoAllegri」というハッシュタグがTwitter上で拡散してしまった[349][350]。また、3連覇チームの3-5-2を基本方針とする発言をしたものの、アッレグリはキャリアで一貫して4バックと3センターの中盤のシステムを用いてきたため、短い準備時間でどのように戦術を浸透させていくかが最初の課題となった[349][350]。開幕から2カ月後の11月に入り、アッレグリは4バックの4-3-1-2のフォーメーション移行へ踏み切ると、トップ下に加えて中盤に下りて組み立てに参加するテベスの5人でポゼッションを維持することが可能になり、得点率、失点率ともに数値が改善した[351]。リーグ後半戦が始まると2位ローマが徐々に勝ち点を取りこぼすのに対し、安定感のあるユヴェントスは独走態勢に入っていき[352]、2015年5月2日、4試合を残し2位ラツィオとの勝ち点差が17となりリーグ優勝が確定、コンテ時代から合わせて4連覇達成となった[353]。最終成績は、26勝9分3敗で前年に比べれば勝ち点は減少したものの、コッパイタリアで20年ぶりの優勝、チャンピオンズリーグで決勝進出と3つのコンペティションを戦い切った[354]。単純に控え選手と入れ替えるターンオーバーではなく個々の体調に合わせて出場時間を調整し、コンディションの悪化を防いだ[355]。チャンピオンズリーグ決勝トーナメントで息切れした試合はなく、リーグでも突出して出場時間が多かったのはブッフォン、ボヌッチ、マルキージオの3名に限られた[355]。
チャンピオンズリーグ準決勝に進出したチームの中で唯一格下と見られていたユヴェントスだったが、前年王者のレアル・マドリードから移籍してきたアルバロ・モラタが古巣相手に2試合連続ゴールの活躍で決勝に進出した[356][357][358]。チャンピオンズリーグ決勝のバルセロナ戦では、前半4分に失点するものの後半55分にモラタのゴールで振り出しに戻す[359]。しかし、逆転しようと攻めあがったところにMSNトリオのカウンターで2失点すると、前評判を覆せず1-3で敗戦した[359][360]。
夏のマーケットではテベス、ピルロ、ビダルが移籍し、4連覇の核だったセンターラインが総入れ替えとなったものの[361][362]、マンジュキッチやケディラの獲得に加え、ウィングのポジションでも起用できるクアドラードは攻撃のオプションを増やし、ディバラやルガーニのような若い選手の加入で中期的なチーム作りへの投資も行った[362][363]。
迎えた新シーズンはクラブ史上初の開幕2連敗を喫すると、10試合で勝ち点を12しか積み上げられずクラブ史上最悪の成績で14位まで沈んでしまった[364][365]。浮上のきっかけは11節のトリノダービーで[366]、マルキージオ、ケディラが復帰しディバラ、マンジュキッチのコンビがチームにフィットし始めた11月から本来の調子を取り戻し[367]、首位ナポリとの天王山となった第25節に勝利し15連勝で首位まで順位を上げた[368]。3月20日のトリノダービーにおいてブッフォンは、1992-93シーズンにセバスティアーノ・ロッシが記録した930分間無失点という記録を更新し、973分間無失点のセリエA新記録を樹立した[369]。15連勝から引き分けを挟み、更に10連勝と26試合無敗で順位を上げていき、最終成績は29勝4分5敗で圧倒的強さを見せつけ5連覇を達成した[366][367][370]。
前年と同様に主力選手であるポグバがマンチェスター・ユナイテッドへ移籍したものの、前年にセリエAの得点記録を更新したゴンサロ・イグアイン、ミラレム・ピャニッチ、ダニエウ・アウヴェスを補強[366][371]。ピャニッチ、イグアインの獲得はローマ、ナポリの両チームに契約解除金を払っており、移籍交渉をせず優勝を争うライバルから引き抜いた形となった[372]。
マルキージオの長期離脱でレジスタを任せられる選手がおらず試行錯誤が続いた中[373]、2017年1月22日のラツィオ戦において、スターティングメンバーにイグアイン、ディバラ、マンジュキッチ、クアドラード、ケディラ、ピャニッチという攻撃的なメンバーが並んだ[374]。それまで用いていた3-5-2でも4-3-1-2の布陣でもなく、ワントップにイグアイン、ツーボランチにケディラとピャニッチ、左サイドにマンジュキッチという4-2-3-1の構成だった[374]。トップ下のディバラはスペースを自由に移動しながらプレーし、マンジュキッチはフィジカルで優位に立つ等新たな可能性を示した[374]。アッレグリは起床時にこのフォーメーションを思いついたと言い、攻撃的な選手を同時に5人起用することから、イタリアの政党・五つ星運動になぞらえてメディアは「チンクエ・ステッレ」と呼んだ[375]。システム変更で最適解を発見しコッパイタリアでも3連覇を達成する力の配分で、終盤には引き分け試合が増えたものの一度も首位を譲ることなく29勝4分5敗の最終成績でリーグ6連覇を達成した[376][377]。
チャンピオンズリーグでは2年前の決勝で敗れたバルセロナやキリアン・エムバペを擁し勢いに乗るASモナコを退け、レアル・マドリードと相対する決勝へ2年ぶりに駒を進めた[378]。「可変システム」対「不変システム」の対決となったチャンピオンズリーグ決勝は、ユヴェントスが前半からプレスをかけレアルマドリードに効果的な攻めをさせず1-1の同点で折り返すものの[379][380]、プレスの圧力が弱まり受けに回った後半61分、64分に立て続けに失点し、為す術がなく1-4で敗戦した[380][381]。
2017-18シーズンは、前シーズンのパレルモ戦でアッレグリと言い争いになり、直後のチャンピオンズリーグのポルト戦でベンチ外処分になるなど関係悪化が噂されていたボヌッチが移籍志願し、ACミランへ加入する不穏なスタートとなった[382][383]。アッレグリは毎年序盤戦にシステムの最適解を試行錯誤しながら、後半戦にピークパフォーマンスを持ってくる戦略を取っている[384]。それでも例年通りの首位独走とはいかず、ナポリと1ポイント差の2位で冬の中断期間を迎えることとなった[385]。12月には調子の上がらないディバラをスタメンから外し、ピャニッチを中心にケディラとマテュイディの3人の中盤で攻守のバランスを改善した4-3-3の布陣を採用し始めた[384]。
独走して優勝した過去2シーズンと同等の勝ち点を積み上げたものの、欧州5大リーグで唯一最終盤まで優勝争いが決着せず、ユヴェントスの7連覇が確定したのは2018年5月13日のことだった[386][387]。12月から用いられた4-3-3のシステムではチームのエースであるディバラを活かすことができず、4-4-2や3-5-2のフォーメーションも試されたものの最終形が固まることはなかった[386]。また、バルザーリの衰え、ブッフォンの退団、マルキージオの相次ぐ故障と連覇を支えてきたメンバーが中心ではなくなり、サイクルの終わりを感じさせるシーズンとなった[386]。
アッレグリが就任してからの4年間は、リーグだけでなくコッパ・イタリアでも勝ち続け、4年連続で国内2冠を達成した[388]。また、2015年8月23日から2017年10月14日までのおよそ2年間、ホームスタジアムで開催した57試合で無敗を継続しその内45勝する圧倒ぶりだった[389]。高いインテンシティで相手を圧倒するようなコンテのサッカーから、ポゼッションで試合をコントロールしながらゆっくり相手を料理するサッカーへ変化し[390]、積極的な補強策で毎年メンバーを入れ替えながらもアッレグリのマネジメント力でタイトルを獲得し続けた[391][注釈 14]。
拡大路線とコロナ禍
ユヴェントスの課題は収益改善で、新スタジアムや継続的なチャンピオンズリーグ出場によりイタリアのクラブで唯一健闘していたが、欧州のトップクラブとは2008-09シーズンからの10年間で大きく差をつけられておりトップ10に入るのがやっとという状況であった[393][394]。最初は噂話だと思われていた2018年のクリスティアーノ・ロナウドの獲得は、あと一歩で届かなかったチャンピオンズリーグ制覇のための戦力補強以上にマーケティング改善の狙いがあった[395][396]。マドリーやバルセロナ、マンUといったマーケットにおいて知名度のあるクラブはSNSでも影響力を持っており、ユヴェントスと大きな差があった[395]。Instagramだけで1億人を超えるフォロワーを持つロナウドの宣伝効果は凄まじく、移籍から1カ月経たない間にユヴェントスのInstagramのフォロワーは1.5倍に増加している[395]。33歳を超えた選手に総額3億ユーロもの資金を投じることは、フィナンシャル・タイムズ紙にギャンブルだと評された一方、ユニフォームの売り上げは1日で52万枚に達し、さらに株価は33%上昇し、KPMGによるレポート「ロナウド・エコノミクス」では、コマーシャル収入は3年で1億ユーロの増収になり投資が回収できる見込みがあると分析された[395][396]。ロナウドの獲得では意見の対立があり、反対意見のマロッタの契約が更新されなかったことからインテルへ移ることになり、アニェッリ会長と一緒に交渉を進めていたパラティチが強化責任者に昇格することになった[397]。2019年10月24日の株主総会では、アニェッリの就任から9年間で売り上げが3.6倍、株価が9倍になったことが紹介され、2019年を「新たなゼロ年」とし、テレビ視聴者の減少に触れながらよりグローバルなマーケットへの方向性が示された[398]。
この路線は競技面にも影響し、ロナウドを巨額の資金で獲得した時点で「優勝は当たり前、チャンピオンズリーグを制覇できなければ失敗」という空気ができあがってしまった[399]。開幕15試合で14勝1分けは5大リーグの記録となる勢いで、第16節時点で既に2位ナポリと8ポイントの勝ち点差を付けており、「11月にリーグは終わった」「早くも8連覇は確実」という声すらあった[400][401]。初黒星は3月19日に行われた第28節のジェノア戦で、その頃にはナポリと20もの勝ち点差が開いていた[399]。
4月20日のフィオレンティーナ戦に勝利し前人未到の8連覇を達成したものの喜びは一瞬で、4日前のチャンピオンズリーグ・ベスト8のアヤックス戦の敗戦を忘れさせてくれるものではなかった[402][403]。求めるところは国内リーグの外側にあり、サポーターを満足させるスペクタクルなサッカーを実現できなかったことから、5年連続でリーグ優勝に導いたアッレグリは事実上の解任となってしまった[399][404]。アッレグリ解任の意見はパラティチやネドヴェド副会長から出ていたとされ、会長のアニェッリはアッレグリの退任会見において、会長の一存ではなく企業として下された決断だということを強調した[405]。
後任のマウリツィオ・サッリ監督は、よりモダンな特徴を持ったマタイス・デ・リフトに出場機会を与え、センターバックに高い位置を要求し積極的にビルドアップに参加させた[406]。26勝5分7敗の成績で優勝し9連覇を果たしたものの、「サッリボール」とメディアが称したショートパスで相手を崩していくサッカーと、ブランドイメージのためにロナウドを中心にするタスクは噛み合わず、試行錯誤の末首脳陣を満足させられず「サッリのユヴェントス」という具体的な形を提示できずにシーズンは終了してしまった[407][408][409]。
年度[410] | スポンサー収入 | MD収入 | コマーシャル総収入 |
---|---|---|---|
2017-18 | 8690万€ | 2780万€ | 1億1470万€ |
2018-19 | 1億880万€ | 4400万€ | 1億5280万€ |
2019-20 | 1億2950万€ | 3170万€ | 1億6120万€ |
2020年3月に新型コロナの感染拡大でリーグが中断されると、拡大路線で売り上げの中で人件費の占める割合が7割まで達していたユヴェントスは財政的な苦境に陥った[411][394][412]。実質的な親会社フィアット・クライスラー・オートモービルズのブランド・Jeepの契約でスポンサー収入を確保したものの、営業収入は20~30%減少する厳しい見通しで、全体的な売り上げが8%減少することで人件費の割合は80%に達してしまった[394][410]。コロナ禍という不運があったとはいえ、2016年から3年間でバランスを取っていた収支が一気に傾き、FFPの基準を超える赤字が積み重なっていた[410][注釈 15]。
サッリの解任により、監督経験が無いアンドレア・ピルロをBチームから急遽トップチームに抜擢したのは会長の判断だった[414][415]。ピルロの志向するサッカーは、UEFAライセンスの修了論文「私の望むサッカー (Il calcio che vorrei)」[416]に書かれているモダンでイタリア代表のゲームモデルと通ずるものであり、ロナウドのような守備のタスクが少ない選手を前線に置きながらハイプレスをどのように実現するか手腕が問われた[414][417]。しかし新人監督にとって故障者、世代交代、ロナウドと相性の悪かった可変システムの断念と問題が積み重なり、スクデット10連覇を逃し最終節でなんとかチャンピオンズリーグ出場権は確保するという結果に終わった[418][419]。ネドヴェドと共にアッレグリ解任を強く主張していたパラティチはマロッタと同様に契約を更新されず、2年連続で監督の哲学との妥協点を探ったシーズンの後に再びアッレグリを呼び戻したことに迷走が表れていた[415][419]。
2021年4月18日に発表されたスーパーリーグ構想では、ユヴェントスは参加クラブに名を連ねた[420]。アニェッリ会長は欧州クラブ協会の代表であり、UEFAとチャンピオンズリーグのフォーマットについて協議していたが、コロナ後の人件費高騰、経営悪化などを理由に寝返る形でスーパーリーグ構想を主導した[421]。サッカー界の反発が強く構想はすぐさま頓挫してしまったが、ユヴェントスサポーターも拒否反応を示し、スタジアムではアニェッリ会長を非難するバナーが掲げられた[420][421]。
タイトル
国内タイトル
- セリエA:36回 [422]
- 1905, 1925-26, 1930-31, 1931-32, 1932-33, 1933-34, 1934-35, 1949-50, 1951-52, 1957-58, 1959-60, 1960-61, 1966-67, 1971-72, 1972-73, 1974-75, 1976-77, 1977-78, 1980-81, 1981-82, 1983-84, 1985-86, 1994-95, 1996-97, 1997-98, 2001-02, 2002-03, 2011-12, 2012-13, 2013-14, 2014-15, 2015-16, 2016-17, 2017-18, 2018-19, 2019-20(カルチョ・スキャンダルにより2004-05, 2005-06のスクデット剥奪)
国際タイトル
- UEFAカップ:3回 ファイル:UEFA Cup (adjusted).pngファイル:UEFA Cup (adjusted).pngファイル:UEFA Cup (adjusted).png [429]
- UEFAスーパーカップ:2回 [430]
過去の成績
シーズン | カテゴリ | 試 | 勝 | 分 | 負 | 得 | 失 | 点 | 順位 | コッパ・イタリア | UEFA CL | UEFA EL | 監督 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2010-11 | セリエA | 38 | 15 | 13 | 10 | 57 | 47 | 58 | 7位 | 準々決勝敗退 | グループリーグ敗退 | ルイジ・デルネーリ | |
2011-12 | 38 | 23 | 15 | 0 | 68 | 20 | 84 | 1位 | 準優勝 | アントニオ・コンテ | |||
2012-13 | 38 | 27 | 6 | 5 | 71 | 24 | 87 | 1位 | 準決勝敗退 | ベスト8 | |||
2013-14 | 38 | 33 | 3 | 2 | 80 | 23 | 102 | 1位 | 準々決勝敗退 | グループリーグ敗退 | ベスト4 | ||
2014-15 | 38 | 26 | 9 | 3 | 72 | 24 | 87 | 1位 | 優勝 | 準優勝 | マッシミリアーノ・アッレグリ | ||
2015-16 | 38 | 29 | 4 | 5 | 75 | 20 | 91 | 1位 | 優勝 | ベスト16 | |||
2016-17 | 38 | 29 | 4 | 5 | 77 | 27 | 91 | 1位 | 優勝 | 準優勝 | |||
2017-18 | 38 | 30 | 5 | 3 | 86 | 24 | 95 | 1位 | 優勝 | ベスト8 | |||
2018-19 | 38 | 28 | 6 | 4 | 70 | 30 | 90 | 1位 | 準々決勝敗退 | ベスト8 | |||
2019-20 | 38 | 26 | 5 | 7 | 76 | 43 | 83 | 1位 | 準優勝 | ベスト16 | マウリツィオ・サッリ | ||
2020-21 | 38 | 23 | 9 | 6 | 77 | 38 | 78 | 4位 | 優勝 | ベスト16 | アンドレア・ピルロ | ||
2021-22 | 38 | 20 | 10 | 8 | 57 | 37 | 70 | 4位 | 準優勝 | ベスト16 | マッシミリアーノ・アッレグリ | ||
2022-23 | 38 | 22 | 6 | 10 | 56 | 33 | 7位 | 準決勝敗退 | グループリーグ敗退 | ベスト4 | |||
2023-24 | 38 |
現所属メンバー
- 2022-23シーズン 開幕戦フォーメーション
- 2023年1月31日現在
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
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※括弧内の国旗はその他の保有国籍を、★はEU圏外選手を、☆はクラブ育成選手を示す。
Bチーム
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
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登録外の選手
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
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ローン移籍
- in
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
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- out
注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。
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プリマヴェーラ
エンブレム
いくつかのデザインの変化を経ながら100年以上使われていたエンブレムには真ん中に牡牛が描かれており、トリノの語源がタウリーニ(牛の人々)であることが由来である[432][433]。しかし、ユニフォームの配色やマスコットにシマウマが使われていることもあり、「牛ではなくシマウマなのではないか?」とネットで論争になったこともある[1]。ACミランと形が近い楕円形はイタリアの紋章の特色であり[434]、クラブ名の下の金色の曲線は「栄光」を表している[435]。2017年に一新された現在のロゴは、ユヴェントスのイニシャルの「J」をモチーフにしたシンプルなものになっており、グッズやアパレル商品に馴染む大胆な変更となった[432]。また「J」という文字はイタリア語のアルファベットには元々存在せず、クラブ名がラテン語由来であるアイデンティティを強く押し出している[433]。ロゴは世界的なブランディング会社であるインターブランドのデザインによるもので、「ユヴェントス・ファンズ」というフォントも合わせて開発されている[433][436]。変化の背景には、ユヴェントスが資金力のある欧州のトップクラブとの競争に後れを取り、特に売り上げの中でコマーシャル分野が占める割合が低いことがあった[437]。片野道郎は、シンプルなロゴとフォントを用いてグッズ展開していくことから、「クラブエンブレム」から「ブランドロゴ」へ再定義する狙いがあると分析している[436][438]。
ユニフォーム
クラブカラーは白と黒の縦縞[439]。クラブ創設当初はピンクのシャツに黒いパンツ、加えて黒いネクタイを着用していた[440]。当時のユニフォームは色褪せしやすいという問題があり、1903年に共同経営者で選手としてもクラブに所属したイングランド人ジョン・サヴェージはユニフォームの新調を決めた[441]。サヴェージは当初、ノッティンガム・フォレストのような赤いユニフォームにしようとしていたが[441]、代替ユニフォームを頼まれた母国の友人は、色褪せたピンク色のユニフォームを白いユニフォームが汚れたと勘違いしてしまい、更にノッツ・カウンティのファンであったため勝手に黒のストライプを追加してしまった[23]。依頼していたものとは全く違うものが届くこととなったが、開幕直前で代わりのものが用意できずそのまま白と黒のユニフォームを着用した[441]。次第に白と黒は攻撃的な色で優雅なイメージだと考えるようになり、クラブを象徴するユニフォームとなった[23]。2011-12シーズンや2015-16シーズンには、アウェイユニフォームの配色にピンクが使われている[442]。
シーズン | サプライヤー[443][181] | スポンサー[443][181] |
---|---|---|
1979–1989 | Kappa | Ariston |
1989–1992 | UPIM | |
1992–1995 | Danone | |
1995–1998 | Sony | |
1998–1999 | D+Libertà digitale/Tele+ | |
1999–2000 | CanalSatellite/D+Libertà digitale/Sony | |
2000–2001 | Lotto | Sportal.com/Tele+ |
2001–2002 | Fastweb/Tu Mobile | |
2002–2003 | Fastweb/Tamoil | |
2003–2004 | Nike | |
2004–2005 | Sky Sport/Tamoil | |
2005–2007 | Tamoil | |
2007–2010 | FIAT (New Holland) | |
2010–2012 | BetClic/Balocco | |
2012–2015 | FIAT/ FCA Italy (Jeep) | |
2015– | Adidas[340] |
1979年に胸元のスポンサー広告が解禁されてから、ダノンやSony[444]といった会社がスポンサーになってきた[445]。2003年からリビアのオイル会社であったTamoilがスポンサーになったが、サプライヤーであるナイキのロゴが入らなかった[445]。政治的な関係からナイキが拒否したといわれるが、2006年にはユヴェントスがセリエBに降格し契約破棄条項があったため、Tamoilはスポンサーから撤退した[445]。
2017-18シーズンからは背中側のスポンサーを採用し、日本企業であるCygamesと3年間の契約を締結した[446]。Cygamesの渡邊耕一代表取締役社長はスポンサードの理由について、Cygamesがオフィシャルスポンサーをしていたサガン鳥栖と名前の語呂が近いことと、Cygamesのコーポレートカラーがユヴェントスと同じ白と黒だったことを挙げている[446]。Cygamesより配信されているShadowverseでは、ユヴェントスのロゴがデザインされたコラボエンブレムやスリーブが入手できるキャンペーンが行われた[446][447]。
スタジアム
ユヴェントス・スタジアム
総工費は1億500万ユーロ[448]。カルチョ・スキャンダルによる収入の悪化や、EURO2012招致の失敗により一時計画が危ぶまれた[448]。ユベントスは建設費の調達のため、スタジアム完成前の2008年からマーケティング会社の「Sportfive」社と提携し、イタリアのクラブで初めて命名権を売却した[449][450]。12年間で総額7500万ユーロの契約になり、建設額の7割ほどの担保を確保している[448]。しかし、命名権は行使されずユヴェントス・スタジアムのまま使用されていたが[451]、2017年にアリアンツが命名権を取得しアリアンツ・スタジアムの名称を用いている[452]。2020年には契約が2030年まで延長されている[453]。
年度 | 平均観客動員数[454] | 占有率 |
---|---|---|
2014-15 | 38,553人 | 約92.9% |
2015-16 | 38,662人 | 約93.1% |
2016-17 | 39,936人 | 約96.2% |
2017-18 | 39,316人 | 約94.7% |
2018-19 | 40,082人 | 約96.6% |
オープニングセレモニーは2011年9月8日に行われ、こけら落としとして白と黒のユニフォームの元となったノッツ・カウンティFCとの試合が行われた[451][455]。2010-11シーズンに2万2000人程だった平均入場者数は、新スタジアムで3万6千人まで上昇した[456]。この数字は10節終了時点であるが、前年比で64%増の改善となった[456]。これは一時的なものではなく、2018-19シーズンまで最大収容人数における占有率で90%以上の数字を維持し続けた[454]。また、入場料収入も2010-11シーズンの1160万ユーロから、2013-14シーズンには4100万ユーロまで大幅に改善し、この数字は2010-11シーズンに優勝したACミランのサン・シーロの入場料収入を、半分の収容人数ながら上回っていることになる[457]。
スタジアム住所には、交通事故で亡くなったガエターノ・シレアの名前が冠されている[458]。スタジアムには、ミュージアム、公式ショップ、「Area12」というショッピングモールが併設され複合施設となっており[451][459]、なかでもトロフィーや写真が展示されクラブの歴史を知ることができるミュージアムは、2012年の開館から2018年までで112万の来館者が訪れた[460][461]。
過去のスタジアム
スタディオ・コムナーレ
スタディオ・コムナーレはイタリア語で市営スタジアムという意味で、1934年から1990年までユヴェントスとトリノのホームスタジアムとして使用されていた[462]。スタディオ・デッレ・アルピが完成すると、ユヴェントスとトリノの練習場として使われていた[463]。2006年にトリノオリンピックのために改築され、トリノFCのホームスタジアムになる[462]。しかし、2006年からデッレ・アルピの改修のため、ユヴェントスもホームゲームを開催した[462]。
スタディオ・デッレ・アルピ
1990年のワールドカップ・イタリア大会のために新設されたスタジアムで[464]、トリノがアルプス山脈の麓にあることから、イタリア語で「アルプスのスタジアム」という意味のデッレ・アルピ (Delle Alpi)と命名された[465]。市街地から離れている、アルプスの北風が吹きつける、陸上トラックがありピッチと客席が遠い等の問題があり、ファンからは「イタリアで最悪のスタジアム」と揶揄されていた[466]。加えて、トリノ市所有のため使用料が高く、ユヴェントスはデッレ・アルピを利用するにあたり、年間85億リラ(約4億7000万円)の使用料をトリノ市に支払っていた[467]。スタジアムは自治体の所有物であるためクラブが自由に改築を行うこともできず、入場料収入も伸び悩み他国のクラブと比べると著しく低い割合となっていた[468][469]。開場まもない1994年から新スタジアムの計画がされており[465]、2003年には市と合意を得たがカルチョ・ポリの影響で計画に支障が出てしまった[465]。2007年には、2012年の欧州選手権開催を目指すイタリアサッカー連盟と建設計画を進める予定だったが、イタリアが開催国から落選[465]。それでも、2008年には建設計画を発表し、2009年に着工した[465]。
ライバル
トリノFC
トリノFCとの対戦は、街の象徴的な建物モーレ・アントネリアーナからデルビー・デッラ・モーレと呼ばれる[470]。フィアットがオーナーで上流階級の学生により創設されたユヴェントスに対し、1906年に方針の違いから離脱し新クラブを設立したトリノFCは地元の労働者階級から支援された[471]。地元ファンの支持層を端的にまとめると、ブルジョア vs プロレタリアートとなる[471]。トリノFC創設の翌年である1907年1月に初対戦が行われており、イタリア国内最古のダービーである[471]。また、ユヴェントス・スタジアム完成以降、イタリア国内で唯一異なるホームスタジアムで行われるダービーとなっている[471]。
インテル
インテルとの対戦はホームタウンが異なるものの、ライバル心や因縁からイタリアダービー、デルビー・ディタリアと呼ばれる[472]。この2クラブの対戦がイタリアダービーと呼ばれ始めたのは1960年代の頃で、優勝回数の多い両クラブの対決がスクデットの行方を争う大一番となったためである[473]。1980年代にACミランが優勝回数で追い抜くと、一時期はユヴェントスvsミランの方がイタリアダービーにふさわしいのではないかという声もあった[473]。
移籍市場
2023年時点で、ユヴェントスは4度の移籍金最高額の記録を更新しており、ACミランとインテルと並び2番目に回数の多いクラブである[474]。1957年にCAリーベル・プレートからオマール・シボリの獲得で9万3000ポンド、1968年にヴァレーゼからピエトロ・アナスタージの獲得で50万ポンド、1990年にフィオレンティーナからロベルト・バッジョの獲得に800万ポンド、1992年にサンプドリアからジャンルカ・ヴィアッリの獲得に1200万ポンド支払った合わせて4回である[475][476][477][474][注釈 17]。
選手の獲得だけでなく、売却でも2度の最高額取り引きに関わっている。2001年に、ジネディーヌ・ジダンがレアル・マドリードへ移籍した際に支払われた移籍金は4600万ポンドで、前年に移籍したルイス・フィーゴの移籍金記録を900万ポンドも更新している[481]。ユヴェントスは、ジダンの移籍金を補強資金に充て、同移籍期間にパベル・ネドベド、リリアン・テュラム、ジャンルイジ・ブッフォンを獲得しており[482][483]、特にブッフォンの移籍金3260万ポンドは当時のゴールキーパー最高額で[484]、アリソン・ラムセス・ベッカーがリヴァプールFCへ移籍するまで17年最高記録であり続けた[485]。ラ・スタンパのアントニオ・バリッラ記者は、ユヴェントスの優れた選手獲得のランキングにおいてブッフォンとネドベドの取り引きを1位と3位にそれぞれ挙げている[486]。2016年にマンチェスター・ユナイテッドへ移籍したポール・ポグバには1億500万ユーロが支払われており、元々マンチェスター・ユナイテッドからフリートランスファーで移籍してきたことから、代理人であるミノ・ライオラへの手数料を差し引いても7500万ユーロの利益を得ている[487][488][注釈 18]。
一方、ジュゼッペ・マロッタGM時代にはクラブの再建期ということもあり、就任から5年間は1人の移籍金は2000万ユーロまで抑えられ、アンドレア・ピルロ、ポール・ポグバ、フェルナンド・ジョレンテ、キングスレイ・コマン、サミ・ケディラ、ダニエウ・アウヴェス、エムレ・ジャンら主力級選手をフリートランスファーで獲得し、健全な財政でチームを強化していった[490][491]。
禁断の移籍
フィオレンティーナサポーターから愛されたロベルト・バッジョの移籍が報道されるとサポーターは抗議のため広場に集まり、100人の逮捕者が出る大騒ぎとなった[492][493]。それ以来フィオレンティーナとの取り引きは禁断の移籍とされている[494]。しかしサポーターの拒否反応はありつつも、ユース出身のフェデリコ・ベルナルデスキ、フェデリコ・キエーザ、得点ランキングトップの活躍だったドゥシャン・ヴラホヴィッチら主力選手の移籍が成立している[495][496][497]。
ナポリに所属していたエディンソン・カバーニは、ユヴェントスからの移籍オファーに対し「サポーターを裏切ることになる」と断っており、ドリース・メルテンスはナポリの道化師であるプルチネッラのタトゥーを見せ即座に断ったという[498][499]。ゴンサロ・イグアインは契約解除金を支払っての移籍であり、ナポリとの交渉を通していない[498]。ナポリの人々の持つ嫌悪感情の根底には、イタリア経済の南北問題があると神尾光臣は指摘している[500]。
協力関係
ミランとは選手獲得で争い合わないという紳士協定を結んでいるとされる[501]。 グンナー・ノルダールを融通したり、デ・シリオとボヌッチの交渉では協調関係で取引をまとめた[84][502]。当初バッジョはミランへの移籍で合意していたが、横やりを入れたユヴェントスはジャンニ・アニエッリ本人が直接ベルルスコーニと交渉し、出版社のモンダドーリを買収できるよう便宜を図ることで取引を成功させた[503][504]。
モッジGM時代には、出身地に近く関係が深かったシエーナへイゴール・トゥドールやダニエレ・ガスタルデッロがレンタル移籍し、出場機会や安価な選手確保の手段として両クラブにメリットがある傘下クラブのような関係を築いていた[505]。一方、サッスオーロとはシモーネ・ザザやドメニコ・ベラルディとの取引で共同保有や優先的な交渉権など協調関係があったが、あくまでビジネスの関係である[505]。
フィーゴの二重契約
スポルティングからパルマへの移籍で合意していたルイス・フィーゴだが、ユヴェントスは関係の深かったポルトガル代表のパウロ・ソウザの助言により獲得に興味を持つ[506][507]。UEFAカップでポルトガルに遠征した1994年10月18日に接触し、即日条件で合意に達し契約書へのサインに至った[507]。11月にフィーゴから「公証人がいなかったから契約は無効だ」という申し立てがあったものの、1995年1月に移籍市場が開くとユヴェントスは契約書を提出する[507]。パルマは2月1日に契約書を交わし2重契約状態になった問題は、イタリアサッカー連盟が介入し2年間フィーゴはイタリアのクラブと契約できないという痛み分けに決着した[508][509]。
育成組織
ユヴェントスの育成組織のU-19カテゴリであるプリマヴェーラは、カンピオナート・プリマヴェーラで4度の優勝[510]、コッパ・イタリア・プリマヴェーラでは4度の優勝[511]、スーペルコッパ・プリマヴェーラでは3度の優勝を果たしている[512]。
古くはジャンピエロ・ボニペルティ、ロベルト・ベッテガが育成組織出身で、トンマーゾ・ロッキ、マッティア・カッサーニ、アントニオ・ノチェリーノ、ドメニコ・クリッシト、チーロ・インモービレらイタリア代表経験者を輩出してきた[513]。しかし、1970年から80年代のユヴェントスでは、イタリア国内のプロビンチャや海外のクラブから選手を獲得した方がコストや手間がかからず、育成組織は重要視されていなかった[514]。1990年代に入り、ミランやインテル、ローマといったライバルクラブが移籍市場のライバルとなりコストが増したことと、プロビンチャクラブも育成力を強化したことによりそれまでの方針を改めることとなった[514]。1994年からジャン・ピエロ・ガスペリーニが指導を始めるとユースが活性化し、特にクラウディオ・マルキージオ、セバスティアン・ジョヴィンコ、パオロ・デ・チェリエらが在籍した2000年代中頃には、カンピオナート・プリマヴェーラでの優勝、スーペルコッパ・プリマヴェーラでの連覇を達成し黄金世代と称された[513][515]。
しかしながら、ユース組織に力を入れていたインテルやローマと違いトップチームに昇格する選手が少なく、2010年代から予算を使った若手タレントの青田買いに方針転換していた[513][516]。片野道郎はその理由について、トップチームでは欧州の舞台で戦うための即戦力が求められていたことを挙げている[517]。また、イタリア人の戦術アナリストであるマッシモ・ルッケージは、ユヴェントスの育成部門をイタリアで最も優れていたと評価しているが、2006年に9人の若手選手が昇格したのは、皮肉なことにカルチョ・ポリによって規模が縮小し、トップチームから主力が移籍したためだったと述べている[518]。
2014年のワールドカップでイタリア代表の結果が振るわなかったことを契機にセリエAの選手登録の規定が改訂され、4名の下部組織出身者の優遇枠が設定されたこと[519]、19歳までのカテゴリではレンタル以外に選手をサポートできる仕組みがないこと[520]、加えてFIFAが選手のレンタルに規制をかけようとしていることなどから[521]、2018年8月にBチームを発足しセリエCに参入することが発表された[522][注釈 19]。同時に育成組織の見直しを行い、Bチームの育成目標を23歳の時点で欧州5大リーグで通用する選手を輩出することに定め、トップチームとの連続性を意図的に切り離した[517][520]。Bチーム発足から15年遡ってもトップチームに定着できた選手がマルキージオ、ジョビンコのみという現実を受けとめ、高い結果を求めるのではなく選手売却益をトップチームの強化に充てることを狙いとした[520][注釈 20]。2019年の夏の移籍市場では、若手選手の放出で8000万ユーロの利益を上げている[517]。
Bチーム発足から4年経過しU-19の若手選手が自クラブ内で昇格していくと、Bチームで選手獲得にかかった費用が2019-20シーズンの2500万ユーロから2022-23シーズンには0まで削減された[524]。2023年9月8日にはトップチームに昇格したニコロ・ファジョーリ、ファビオ・ミレッティ、マティアス・スーレ3名同席の記者会見が行われた[524]。片野は3名の昇格について、コロナによる影響でコストカットが求められていた財布事情に合致していたとみているが、一方トップチームに定着する選手が出てきた長期的な取り組みを評価している[524]。
サポーター
ホームタウンという概念が確立しているヨーロッパ[525]には珍しく全国的な人気を持つクラブで[12]、フィレンツェ以外の大都市には必ずサポータークラブが存在するといわれる[526]。2008年に行われたラ・レプッブリカのアンケートによると、イタリアのサッカーファンの32%の400万人がユヴェントスのファンであるという結果が出た[527]。また、同アンケートによると、国外では欧州で4300万人、全世界では1億7000万ものファンがいることが示された[528]。第二次世界大戦後、特に1960年代のイタリアの奇跡と呼ばれた高度経済成長期には、フィアットがあるトリノへイタリア南部から出稼ぎに来た移民が集中した[529]。元々トリノに住んでいた住民はトリノFCを応援していたため移住者はユヴェントスファンになっていく[528]。1970年代のオイルショックで職を失った労働者[530]は、それぞれの地元へ帰っていきファンが全国へ広がっていった[531]。また、1970年代にフランコ・カウジオのような南イタリア出身選手を獲得したことからシチリアやプーリアで強い人気があり、1990年代に行われたアバカスの調査によると700万人のサポーターの内、200万人が南イタリア在住という結果が出た[526][532]。
イタリアでは、高熱に侵されたように熱狂して応援する様から、サポーターのことをチフス患者から転じてティフォージと呼ぶ[533]。ユヴェントスのティフォージはクラブ名から、ユヴェンティーノ(単数形)[534]や、ユヴェンティーニ(複数形)[535]と呼ばれている。そんなティフォージの中でも、集団で過激な応援をする一団をウルトラスと呼ぶ[533][536]。ユヴェントスでは、ルチアーノ・モッジの傘下にあった「ドゥルーギ」や、モッジ失脚後に勢力を拡大した「バイキング」のようにいくつかグループが結成されていて、派閥争いの激しさはイタリアでもトップクラスである[531]。力を持ったウルトラスにはクラブから供与される無料のチケットの利権があり、横流しで幹部が生活できるほどの巨大な利益になりウルトラス間の抗争の火種となっている[537][538]。ユヴェントスはスタジアムでの安全を第一に考え、ゴール裏チケットの融通でコントロールしようとする苦肉の懐柔策だった[539]。2017-18シーズンには、チケットの提供を断られたグループによってカリドゥ・クリバリへの差別チャントが行われ、スタンド封鎖の処分を受けている[540]。
2017年にはゴール裏のビジネスにイタリアマフィアのンドランゲタが関与している容疑で、アニエッリ会長ら幹部の捜査が行われた[539]。ユヴェントスは捜査に全面協力し[541]、最大派閥であった「ドゥルーギ」のリーダーが逮捕され50人近いメンバーがスタジアムから出禁になった[542][注釈 21]。
エピソード
モットー
ユヴェントスには「最後の最後まで」を意味するFino Alla Fineというモットーがあり、SNSのハッシュタグとして使われている[543]。また、ボニペルティによる「勝利は重要なのではなく、唯一のもの」という言葉は勝利至上主義のユヴェントスを象徴するものとなっている[543][544][545]。
応援歌
試合開始前に流れる応援歌は、「Juve, Storia Di Un Grande Amore」という曲名で、パオロ・ベッリという歌手が歌っている[466]。この曲の採用にはファンが関わっており、TV番組内の投票で3つの候補の中から選ばれた[466]。
ヴィッラール・ペローザでの紅白戦
アニェッリ家のルーツの地であり、1980年代までユヴェントスの練習拠点だったヴィッラール・ペローザで、シーズン開幕前の紅白戦が行われるのが伝統行事になっている[546][547][548]。トップチームと対戦するBチームは、ユース所属選手やU23チームから構成される[547]。1955年から開催されており、最初の試合ではBチームが3-2で勝利している[546]。試合後半になると写真撮影やユニフォームをお願いするファンが乱入し、試合が途中で打ち切られるのがお馴染みの光景になっている[549][550]。クリスティアーノ・ロナウドのユヴェントス移籍後初得点は、2018年の紅白戦でのゴールで[551]、この試合では4000人程の小さな村に5000人の観客が来場した[552]。
キエッリーニはこの紅白戦について、チームだけでなくオーナーやファンが小さな自治体のピッチに集まることで、クラブの団結を感じることができると語っている[547]。
日本との関わり
ユヴェントスは1994年にトリノにあるマネジメント会社であるコンパクト[1]と契約し、アジアマーケットに力を入れていく[553]。コンパクト創業者の1人であるマリオ宮川は、後に中田英寿のユベントス短期留学をサポートしている[554]。Jリーグ発足直後の日本ではサッカー熱が高まり、国内だけでなく国外へも関心の目が向けられていた[555]。それまでは現地でしか手に入れることが出来なかったテレホンカードやTシャツなどのグッズ開発、ビデオ販売によりユヴェントスの人気が高まり、日本企業のスポンサー獲得につながった[556]。スズキもその内の一つで、欧州向けのコマーシャルにデル・ピエロを起用し[557]、ホームスタジアムに広告を掲載した[556]。
東京で開催されたトヨタカップでは2度優勝しており[145][173]、アントニオ・コンテはインタビューで日本について訊ねられると、1996年にトヨタカップで優勝したことについて述べている[558]。また、マルチェロ・リッピも2度目の監督就任の記者会見において、「もっとも記憶に残っているタイトルは?」という質問に1996年の世界一の称号を挙げている[187]。
2005年にユヴェントスは初めてアジアツアーを企画し、6月1日に日産スタジアムで横浜F・マリノスと対戦し1対0で勝利した[559]。香港での2戦目を挟み、6月7日には味の素スタジアムでFC東京に4-1で勝利した[560]。両試合とも平日にもかかわらず入場観客は3万人を超え、ツアーを好評で終えることとなった[561]。トゥットスポルトの記者であるアントニーノ・ミローネは、多くの観客が訪れた様子を報じたニュースに驚きユヴェンティーノとして誇りを感じたと語っている[562]。
ユヴェントスは日本代表と試合を行っており、1992年8月に神戸にて行われた試合では1戦目が2-2、2戦目が1-1と2試合続けて引き分けている[563][564]。遠征メンバーにはロベルト・バッジョ、ディノ・バッジョ、ジャンルカ・ヴィアッリ、アントニオ・コンテらイタリア代表の選手に加えて、アンドレアス・メラー、デビッド・プラットもいたが、ロベルト・バッジョの「チームの誰一人、日本がこんなに強いと思っていなかった」というコメントにあるように、プレシーズンで観光気分だったと指摘されている[563][564]。翌年2月の日本代表のイタリア遠征においてレッチェで再び試合をしており、こちらは3-1で勝利している[563][565]。
2015年5月4日には、ユヴェントスOBと九州出身Jリーガーによる親善試合「九州レジェンズ vs ユヴェントスレジェンズ レジェンドマッチ 2015」が開催された[566][567]。九州レジェンズの監督にはユヴェントスと日本代表の監督経験があるザッケローニが務め、1万5千人の観客が来場した[567]。また、2014年にはベガルタ仙台OBと、2016年には元日本代表経験者も参加した「日伊国交150周年ユヴェントスレジェンドチャリティーマッチ」が開催された[568][569]。
2014年には、青山のフィアットカフェにおいて、ユヴェントスとのコラボイベントであるJUVENTUS Loungが世界で初めて開催された[570]。会場には、ユベントスミュージアムでも飾られているビッグイヤーや有名選手のユニフォームが展示され、オープニングイベントにはエドガー・ダーヴィッツ、アンドレア・アニェッリ会長、駐日イタリア大使のドメニコ・ジョルジらが登壇した[571]。2015年にはJR博多シティの駅構内でも開催され、ダヴィド・トレゼゲが挨拶を行った[572][573]。
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チャンピオンズリーグの優勝トロフィー
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選手のユニフォーム
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アレッサンドロ・デル・ピエロのスパイク
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選手のサインが入ったポスター
カルチョ・ポリ
カルチョ・ポリとは、ルチアーノ・モッジ、アントニオ・ジラウドらユヴェントス経営陣が、サッカー連盟や審判協会と癒着し、圧力をかけ審判の選出の操作などで恩恵を受けていたとされる不正事件である[574]。不正の首謀者とされるユヴェントスには、フィオレンティーナ、ラツィオ、ミランと比べ重いペナルティが課せられた[229]。外部の賭博が絡み選手の敗退行為が行われる八百長とは性質が異なり、選手は事実を知らずクラブ、サッカー協会、審判部それぞれの上層部の間でやり取りが行われた[575]。また、金品の授受の事実も無いことから、買収事件でもない[575]。
2004年からナポリ検察によって行われた盗聴捜査でモッジによる圧力が明るみに出ると、2006年6月にイタリアサッカー連盟によるスポーツ裁判が開かれユヴェントスには2シーズンの優勝タイトル剥奪とセリエCへの降格が求刑された[229]。裁判の中で担当弁護士は、容疑を認めつつも3部への降格は重過ぎると訴え、第一審ではセリエB降格とマイナス30の勝ち点減点の判決となり、上訴審ではマイナス17まで軽減され確定した[229][230]。一旦は判決を受け入れる姿勢を見せていたものの、他の3クラブが降格処分を免れたことによりサッカー連盟を統括するイタリアオリンピック委員会へ提訴し、調停により最終的に勝ち点はマイナス9まで軽減されることになった[231][234]。
また、公判中にモッジの弁護団から「インテルの幹部も口利きを受けていた」という証言がなされ、インテルの前会長であった故ジャチント・ファッケッティによる審判への口利きの証拠のテープが提出された[576][577]。2011年7月18日のイタリアサッカー連盟の役員会でインテルも不正に関わっていた事実が認められたが、時効を理由に2005-06シーズンのインテルのタイトルは剥奪されなかった[576][577][578]。2011年11月8日にモッジに5年4カ月の実刑判決が下ると、判決文に「クラブとしてユヴェントスの法的責任を問わない」という一文が添えられていたこともあり、ユヴェントスはモッジ個人の責任として改めて無実を訴えた[578][579]。最終的にはモッジ、ジラウドらは2015年3月に下された判決により、時効による罪の免除となった[580]。モッジらの罪は認定されたが、ユヴェントスと他3クラブの罰則の重さの違い、処分の対象にならなかったインテルについては議論の余地があると片野道郎は指摘している[580]。
歴代記録
出場試合数
|
|
得点
位 | 名前 | 期間 | 合計 | 国内リーグ | 国内カップ | 欧州カップ | その他 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1 | アレッサンドロ・デル・ピエロ | 1993-2012 | 290 | 208 | 25 | 50 | 7 |
2 | ジャンピエロ・ボニペルティ | 1946-1961 | 179 | 178 | 1 | 0 | 0 |
3 | ロベルト・ベッテガ | 1966-1969, 1970-1983 | 178 | 129 | 22 | 27 | 0 |
4 | ダヴィド・トレゼゲ | 2000-2009 | 171 | 138 | 2 | 30 | 1 |
5 | オマール・シヴォリ | 1957-1965 | 167 | 135 | 24 | 8 | 0 |
6 | フェリス・ボレル | 1932-1941, 1942-1946 | 158 | 138 | 9 | 0 | 11 |
7 | ピエトロ・アナスタージ | 1968-1976 | 130 | 78 | 30 | 22 | 0 |
8 | ヨン・ハンセン | 1948-1954 | 124 | 124 | 0 | 0 | 0 |
9 | ロベルト・バッジョ | 1990-1995 | 115 | 78 | 14 | 22 | 1 |
9 | パウロ・ディバラ (#) | 2015-2022 | 115 | 82 | 11 | 18 | 4 |
11 | フェデリコ・ムネラーティ | 1922-1933 | 113 | 110 | 0 | 1 | 2 |
12 | ジョン・チャールズ | 1957-1962 | 105 | 93 | 12 | 0 | 0 |
13 | ミシェル・プラティニ | 1982-1987 | 104 | 68 | 16 | 19 | 1 |
14 | クリスティアーノ・ロナウド (#) | 2018-2021 | 101 | 81 | 4 | 14 | 2 |
15 | グリエルモ・ガベット | 1934-1941 | 100 | 84 | 11 | 0 | 5 |
16 | フィリッポ・インザーギ | 1997-2001 | 89 | 57 | 2 | 20 | 10 |
(#) は現役選手であることを示す。成績はtransfermarktによる[581][582]
歴代監督
|
|
情報はtransfermarktによる[583]
歴代所属選手
背番号10番
1960年代のシボリ、80年代のプラティニ、90年代にはバッジョが10番を身に着けていた[584]。1995-95シーズンからセリエAにおいて固定番号制が導入されると、デルピエロが17年背負い続け象徴的な番号になった[584]。その後はカルロス・テベス、ポール・ポグバ、パウロ・ディバラらが10番を背負っている[584]。2021年にガゼッタ・デロ・スポルトが実施した「ユベントス歴代最高の“10番”は?」というアンケートでは、半数近いファンがデルピエロを選んでいる[585]。
ユヴェントスとバロンドール
ユヴェントスはバロンドール賞において8回、6名の受賞者を輩出している[586]。ファビオ・カンナヴァーロは受賞時点でレアル・マドリード所属であったが、自クラブでの活躍としてミュージアムで讃えている[587]。
オマール・シボリ 1961年
- 1960-61シーズンのリーグで25得点と活躍した[588]。
パオロ・ロッシ 1982年
ミシェル・プラティニ 1983年、1984年、1985年
- 1982-83シーズンから3年連続でセリエA得点王に輝く活躍をする[590]。
ロベルト・バッジョ 1993年
- 1992-93シーズンのUEFAカップで9試合で6ゴールと活躍し、バロンドールとFIFA最優秀選手賞をダブル受賞した[591]。
ジネディーヌ・ジダン 1998年
パベル・ネドベド 2003年
- 中盤の選手ながら9ゴールでリーグ優勝とスーパーカップ優勝に貢献した[593]。
脚注
注釈
- ^ ロセッタ事件と呼ばれるロセッタ移籍にまつわる係争は、イタリアサッカーで最初のスキャンダルとされ、移籍やプロのルール整備のきっかけとなった[44]。
- ^ 1924年頃から外国人選手がイタリアサッカー界に参入する流れがあった[45]。
- ^ 弁護側は、むしろ対象試合でアッレマンディが他の選手より良くプレーしていたと容疑に対し否認している[48]。
- ^ アムステルダム五輪でウルグアイとアルゼンチンが結果を残したことから、イタリア系外国人選手の登録許可へつながった[50]。
- ^ イタリア渡航中にセルナジョットは偽の契約書にサインしてしまい、協会は二重契約状態になったセルナジョットに出場停止処分を下した[62]。
- ^ 1945-46シーズンはトリノに1ポイント差の2位だったが、戦後まもない変則的な開催で8クラブの総当たりで全14試合で行われた[78]。
- ^ ノルダールは後に10年で225ゴールを挙げ、5度の得点王に輝いた[84]。
- ^ 勝ち点では5位ローマ、6位ウディネーゼと並んでいるが直接対決の結果等から7位となっている[184][185]。
- ^ ローマ監督時代にカペッロは公にモッジを批判し、モッジもそれに応戦する形で舌戦を繰り広げていたため、二人が同じクラブで仕事をすることはありえないとみられていた[222]。
- ^ 2月の時点で引退意向を示していたものの[259]、正式な引退表明はシーズン終了後の8月26日だった[260]。
- ^ マロッタを引き抜かれたサンプドリアは、チャンピオンズリーグ出場からわずか1年でセリエBに降格した[280]。
- ^ "開幕"2連勝としているが、第1節が延期されたため、正しくは第2節・3節の連勝である。イタリアサッカー選手協会とクラブ側で、統一労働契約の更新について合意に至ることができなかった[302]。選手会は統一契約書の更新が認められなければストライキをするという声明を出し、2011年8月26日、セリエA・第1節の延期が確定した[302]。
- ^ 2016年に関与疑惑について無罪判決がされている[320]。
- ^ 2012年からの6シーズンの内、チャンピオンズリーグの決勝に進出したクラブの中で、ユヴェントスの平均在籍年数は2.39年ともっとも短かった[392]。
- ^ FFPには、3年間の収支を参照し赤字を出さないようにする「ブレイクイーブン」という基準がある[413]。2017-18シーズンに1922万ユーロ、2018-19シーズンには3989万ユーロまで増加していた赤字だが、2016-17シーズンに4257万ユーロの黒字を計上していたため3年間で基準をクリアしていた[410]。しかし、2017-18シーズンからコロナの影響があった2019-20シーズンまでの3年間では1億4000万ユーロを超える程悪化しており、影響が大きいクラブの救済のためUEFAは基準の一時的な緩和措置を講じている[410][413]
- ^ 財務違反処分としてFIGCから勝点10が剥奪された[431]。
- ^ パオロ・ロッシの移籍金記録は、正確には共同保有の交渉がまとまらず行われたブラインド形式の入札[478]であり、オークション時の価格[479]。175万£の移籍金が支払われた[476][480]。
- ^ ポグバは2022年に再びフリートランスファーでユヴェントスへ加入している[489]
- ^ インテル、ミラン、フィオレンティーナ、アタランタがBチームに興味を示していたものの、セリエCの登録枠がなかなか確定せず、割り当て順位で上位にいたユヴェントスだけの参加となった[523]。
- ^ 2010年代以降の5大リーグへの排出数ではユヴェントスが13人なのに対し、バルセロナ、マドリー、リヨンでは30人を超え大きな差がある[520]。
- ^ ユヴェントスに限らずウルトラスがゴール裏を占有し非合法なビジネスをしているのは、人種差別チャントを行う行為含めてイタリア全体の問題である[542]。
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洋書
- Adam Digby (2015). Juventus: A History in Black and White. Ockley Books Ltd. ISBN 978-0957141087(Kindle版 2022年9月16日ダウンロード)
雑誌記事
- 『footballista』(ソル・メディア)
- 『ワールドサッカーダイジェスト』(日本スポーツ企画出版社)
- 『ワールドサッカーキング』(フロムワン)
- 『SOCCER KING』(フロムワン)
- 『サッカー批評』(双葉社)
- 2017年87号 ユベントス 「ユーベ・メソッド」世界最強の教科書
- 『ワールドサッカーダイジェスト責任編集 EUROPE SOCCER TODAY』(日本スポーツ企画出版社)
外部リンク
- 公式
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