コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

パウロ・ソウザ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
パウロ・ソウザ
2014年のソウザ
名前
本名 パウロ・マヌエル・カルヴァーリョ・ソウザ
Paulo Manuel Carvalho Sousa
ラテン文字 Paulo Sousa
基本情報
国籍 ポルトガルの旗 ポルトガル
生年月日 (1970-08-30) 1970年8月30日(54歳)
出身地 ヴィゼウ
身長 177cm
体重 76kg
選手情報
ポジション MF (DH)
利き足 右足
ユース
1984-1986 ポルトガルの旗 レペセンセス
1986-1989 ポルトガルの旗 ベンフィカ
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1989-1993 ポルトガルの旗 ベンフィカ 87 (1)
1993-1994 ポルトガルの旗 スポルティングCP 31 (2)
1994-1996 イタリアの旗 ユヴェントス 54 (1)
1996-1997 ドイツの旗 ボルシア・ドルトムント 27 (1)
1998-2000 イタリアの旗 インテル・ミラノ 31 (0)
2000 イタリアの旗 パルマ (loan) 8 (0)
2000-2001 ギリシャの旗 パナシナイコス 10 (0)
2002 スペインの旗 エスパニョール 9 (0)
通算 256 (5)
代表歴
1989  ポルトガル U-20 2 (0)
1989-1991  ポルトガル U-21 9 (1)
1991-2002 ポルトガルの旗 ポルトガル 51 (0)
監督歴
2005-2008  ポルトガル U-16
2008-2009 イングランドの旗 QPR
2009-2010 ウェールズの旗 スウォンジー
2010 イングランドの旗 レスター
2011-2013 ハンガリーの旗 ヴィデオトン
2013-2014 イスラエルの旗 マッカビ・テルアビブ
2014-2015 スイスの旗 バーゼル
2015-2017 イタリアの旗 フィオレンティーナ
2017-2018 中華人民共和国の旗 天津権健
2019-2020 フランスの旗 ボルドー
2021 ポーランドの旗 ポーランド
2021-2022 ブラジルの旗 CRフラメンゴ
2023 イタリアの旗 サレルニターナ
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

パウロ・ソウザ(Paulo Manuel Carvalho Sousa, 1970年8月30日 - )は、ポルトガルヴィゼウ出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。元ポルトガル代表。現役時代のポジションはミッドフィールダー

経歴

[編集]

少年期

[編集]

父親はメカニック、母親は裁縫師の家庭に生まれた[1]。少年時代にはスポルティングのファンで、ストリートサッカーだけでなく、バスケットボールもプレーしていた[1]。12歳の時にレペセンセスというクラブに入団した[1]。学校では成績も良く、この頃の夢は、小学校の教師になることだった[1]。レペセンセスでのプレーで、注目を集める存在になりつつあったある日、ポルトガルU-20の監督を務めていた人物の目に留まり、1986年、ベンフィカへ入団することとなった[1]

クラブ

[編集]

ポルトガル時代

[編集]

3年間のユース生活を経て、1989年、19歳の時、スヴェン・ゴラン・エリクソン監督によりトップに引き上げられ、ベンフィカでプロデビュー[1]。ベンフィカではパウロ・フットレルイ・コスタジョアン・ピントらと共に1度のスーペル・リーガ制覇と1度のタッサ・デ・ポルトガル制覇に貢献した。1993年、チームの経済的な理由により、幼少の頃からファンであったスポルティングCPへ移籍した[1]クラシミール・バラコフルイス・フィーゴらと共にプレーしたが、タイトルは獲得出来なかった[1]

ユヴェントス

[編集]

1994年にユヴェントスからのオファーを受け、3年契約でユヴェントスに入団した[1]。新監督マルチェロ・リッピ下で、ディディエ・デシャンとボランチのコンビを組んだ[1]。1月9日、優勝を争っていたパルマとの対戦では、ジョヴァンニ・ガッリから、意表を突いたゴールを奪って勝利に貢献するなど、怪我を抱えながらも攻守に活躍、26試合に出場し、9シーズンぶりのスクデット獲得に貢献した[1]。この活躍により、シーズンのセリエA最優秀外国人にも選ばれた[1]

1995-96シーズン、UEFAチャンピオンズリーグ準決勝第2戦のナント戦でゴールを決め、試合には敗れたが、このゴールにより合計でナントを上回り、ユヴェントスは決勝に進出する[1]。決勝のアヤックス戦では57分までプレー、チームは優勝を果たした[1]。しかし、1月のピアチェンツァ戦でベンチスタートになったことを皮切りに、リッピとの関係が悪化したこともあり、本人は残留を望んでいたものの、放出されることとなった[1]

ドルトムント

[編集]

ドルトムントでも中心選手となり、1997年5月のUEFAチャンピオンズ・リーグ決勝進出に貢献し、決勝戦の相手は古巣ユヴェントスとなったが、3-1の勝利に貢献、異なるクラブで2年連続チャンピオンズリーグ制覇を成し遂げた2人目の選手となった(マルセル・デサイーが1992-93シーズンにマルセイユで、1993-94シーズンにミランでチャンピオンズリーグを連破[1])。1997年冬に行われた、トヨタカップクルゼイロ戦では、絶妙なクロスでヘルリッヒの得点をアシストして勝利した[2]。ドルトムントでは、1シーズン半で40試合で2ゴール10アシストを記録した[1]

1997-98シーズン途中の1998年1月、インテル・ミラノに移籍した[1]。慢性的な故障もあって実力を発揮出来ず、2年間で40試合に出場するに留まった[1]パルマACへのレンタル移籍を挟んで、ギリシャパナシナイコスに移籍。2年連続チャンピオンズリーグ1次リーグ突破の原動力となるも、2001-02シーズン途中で退団、リーガ・エスパニョーラエスパニョールへ移籍したが、僅か9試合に出場したのみだった[1]

2002年7月2日、度重なる膝の怪我に悩まされ続け、僅か31歳で現役引退を表明した[1]。引退会見では、近年、メディアから自分への報道に傷付いたこと、ユーロ2002とワールドカップにおいて、代表チームの役に立てなかったことへの口惜しさを口にした[1]

代表

[編集]

代表レベルでも1989年にはユース代表としてFIFAワールドユース制覇。1991年にはポルトガル代表に選出され1月16日のスペイン戦で代表デビューを飾った。1994 FIFAワールドカップ1998 FIFAワールドカップへの出場は逃したが、UEFA EURO '96UEFA EURO 2000に出場した。

2002年5月13日、2002 FIFAワールドカップポルトガル代表として選出された。“ゴールデン・ジェネレーション”最後の挑戦は、1勝2敗、総得点6、総失点4のグループ・リーグ敗退に終わった。ソウザは大会前の怪我の影響もあって、1試合も出場することなく終わった。

指導歴

[編集]

ポルトガルで開催されたEURO2004でアドヴァイザリースタッフとして参加、ポルトガルU-16代表の監督を務めた[1]。さらにポルトガル代表監督であったルイス・フェリペ・スコラーリの下、アシスタントコーチを務めた。

2008年の11月にイングランド2部のクイーンズ・パーク・レンジャーズの監督に就任した。2009年夏にスウォンジー・シティの監督に就任し、2010年7月からはレスター・シティ監督に就任。だが開幕から調子は上がらず、10月1日にわずか3ヶ月で解任された。2011年から、ハンガリーのヴィデオトンの監督を2年間務め初年度に国内カップ戦を制覇。2013-14シーズンはイスラエルのマッカビ・テルアビブを率いてイスラエル・プレミアリーグを優勝し、コーチングキャリアで初のリーグタイトルを獲得した。

2014-15シーズンより、スイスのバーゼルを指揮しUEFAチャンピオンズリーグベスト16進出を達成した(ラウンド16で、ポルトガルのポルトに敗戦)。

2015-16シーズンより、イタリアのフィオレンティーナの監督に就任した[3]

2018シーズンより、中国の天津権健足球倶楽部の監督に就任した

2019年3月11日、FCジロンダン・ボルドーの監督に就任した。

2021年1月21日、ポーランド代表の監督に就任した[4]。しかし、同年12月29日にCRフラメンゴの監督に転任した[5]

2023年2月15日、ダヴィデ・ニコーラの後任としてイタリア・セリエAのサレルニターナの監督に就任した[6]。2023-24シーズンは第8節時点で0勝3分5敗の19位に低迷し、10月10日に解任された[7]

人物

[編集]

読みに優れたプレーメーカーで、ボールを奪うと、守備から攻撃へと素早く味方にボールをつないで試合を組み立て[1]、プレースタイルはファルカンと比較された[1]。しかし、キャリアの中期以降、慢性的な膝の怪我により、常時試合に出場することが出来なかった[1]

代表歴

[編集]

個人成績

[編集]

試合数

[編集]

国際Aマッチ 52試合 0得点(1991年-2002年)


ポルトガル代表国際Aマッチ
出場得点
1991 5 0
1992 0 0
1993 8 0
1994 5 0
1995 6 0
1996 5 0
1997 5 0
1998 2 0
1999 8 0
2000 5 0
2001 2 0
2002 1 0
通算 52 0

監督成績

[編集]
2019年3月11日現在
クラブ 就任 退任 記録
勝率
QPR 2008年11月19日 2009年4月9日 26 7 12 7 23 24 −1 026.92
スウォンジー・シティ 2009年6月23日 2010年6月4日 49 18 18 13 45 39 +6 036.73
レスター・シティ 2010年6月7日 2010年10月1日 12 4 2 6 18 27 −9 033.33
ヴィデオトン 2011年6月1日 2013年1月7日 88 52 17 19 140 63 +77 059.09
マッカビ・テルアビブ 2013年6月11日 2014年5月28日 49 31 10 8 91 45 +46 063.27
バーゼル 2014年6月18日 2015年6月17日 50 32 7 11 112 60 +52 064.00
フィオレンティーナ 2015年6月21日 2017年6月6日 95 43 25 27 155 121 +34 045.26
天津天海 2017年11月6日 2018年10月5日 33 11 10 12 50 54 −4 033.33
ジロンダン・ボルドー 2019年3月11日 0 0 0 0 0 0 +0 !
合計 396 194 99 103 619 420 +199 048.99

タイトル

[編集]

クラブ

[編集]
SLベンフィカ
ユヴェントスFC
ボルシア・ドルトムント

代表

[編集]
U-20ポルトガル代表

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z Paulo Sousa, il cervello del centrocampo: dai Mondiali Under 20 ai trionfi con Juventus e Borussia Dortmund”. GOAL. 2022年7月28日閲覧。
  2. ^ INTERCONTINENTAL CUP 1997”. Transfermarkt. 2023年7月28日閲覧。
  3. ^ フィオレンティーナの新監督にP・ソウザ氏…14-15季は柿谷のバーゼルを指揮 soccerking 2015年6月21日
  4. ^ ポーランド代表、パウロ・ソウザ監督招聘を発表”. キッカー日本語版 (2021年1月21日). 2021年1月22日閲覧。
  5. ^ ポーランド代表からフラメンゴに引き抜かれたパウロ・ソウザ監督 重圧と責任を自覚しつつ意欲を示す”. Goleador (2022年1月8日). 2022年1月12日閲覧。
  6. ^ PAULO SOUSA È IL NUOVO ALLENATORE DELLA SALERNITANA” (イタリア語). U.S.Salernitana 1919 (2023年2月15日). 2023年2月22日閲覧。
  7. ^ 未勝利で19位に沈むサレルニターナ、パウロ・ソウザ解任でインザーギ招へい”. 超ワールドサッカー (2023年10月11日). 2023年10月12日閲覧。

外部リンク

[編集]