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「メジロマックイーン」の版間の差分

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| 説 = 種牡馬時代のメジロマックイーン<br />(2002年7月22日、社台スタリオンステーション)
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'''メジロマックイーン'''(欧字名:{{Lang|en|Mejiro McQueen}}、[[1987年]][[4月3日]] - [[2006年]][[4月3日]]([[生没同日]]))は、[[日本]]の[[競走馬]]、[[種牡馬]]<ref name="jbis">{{Cite web|title=メジロマックイーン|JBISサーチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000203356/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-04-14}}</ref>。
'''メジロマックイーン'''(欧字名:{{Lang|en|Mejiro McQueen}}、[[1987年]][[4月3日]] - [[2006年]][[4月3日]]([[生没同日]]))は、[[日本]]の[[競走馬]]、[[種牡馬]]<ref name="jbis">{{Cite web|title=メジロマックイーン|JBISサーチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000203356/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-04-14}}</ref>。


[[日本中央競馬会]]の[[顕彰馬]]である。史上初めて祖父父仔の三代連続天皇賞制覇を達成した。GI級競走を4勝するなど重賞を9勝、日本競馬で史上初めて獲得総賞金10億円に到達した。
[[中央競馬]]で[[菊花賞]]、[[宝塚記念]]、[[天皇賞(春)]](2回)などに優勝、1991年春の天皇賞では祖父[[メジロアサマ]]、父[[メジロティターン]]に続く父子3代天皇賞制覇を成し遂げた。同年秋の天皇賞で、日本における[[グレード制|GI競走]]史上初の1位[[降着制度|降着]]も記録している。獲得賞金10億1465万7700円は、当時の世界最高記録。獲得賞金額が10億円を突破した最初の馬である。1991年度[[JRA賞最優秀4歳以上牡馬|JRA賞最優秀5歳以上牡馬]]。1994年、[[JRA顕彰馬|顕彰馬]]に選出。


== 概要 ==
[[競走馬の血統#競走馬の血縁関係|半兄]]に1986年の[[菊花賞]]、1987年の[[有馬記念]]を制した[[メジロデュレン]](父[[フィディオン]])がいる。
1987年4月3日に吉田堅牧場で生産された、祖父に1970年[[天皇賞(秋)]]優勝馬[[メジロアサマ]]、父に1982年天皇賞(秋)優勝馬[[メジロティターン]]を持つ、[[芦毛]]の牡馬である。[[北野豊吉]]が始めた「メジロ」の馬となり、[[メジロライアン]]と[[メジロパーマー]]の同期として競走馬となる。[[栗東トレーニングセンター]]の[[池江泰郎]]厩舎からデビューし、[[ソエ]]で1990年春の[[クラシック (競馬)|クラシック]]は断念したが、夏の函館で出世。前哨戦の嵐山ステークスで2着に敗れオープンクラス入りを逃し[[菊花賞]]出走が危ぶまれたが、他馬の回避により出走を叶え優勝を果たした。

菊花賞の2着メジロライアン、3着[[ホワイトストーン]]とともに「新三強」を形成しながら臨んだ1991年[[天皇賞(春)]]で2頭を再び下して優勝し、史上初めて父仔三代天皇賞制覇を達成する。同年の天皇賞(秋)では天皇賞春秋連覇に挑み、1位入線するものの、第2コーナーでの[[斜行]]により他馬を妨害したとして18着に降着となる。これはJRAのGI競走史上初めてとなる1位入線馬の降着処分であった。

翌1992年、天皇賞(春)では前年の二冠馬でありそれまで無敗であった[[トウカイテイオー]]との「世紀の対決」を制し、史上初めて天皇賞(春)を連覇。直後に競走能力喪失寸前の骨折を負うも約11カ月かけて立ち直った。

復帰戦である1993年[[産経大阪杯]]を制して臨んだ天皇賞(春)で3連覇に挑んだが、[[ライスシャワー]]に敗北を喫する。しかし[[宝塚記念]]で前々年のメジロライアン、前年のメジロパーマーに続いて優勝を果たし「メジロ」の3連覇を成し遂げるとともに、自身の4年連続GI勝利の記録を達成した。秋には[[京都大賞典]]を優勝し、日本競馬史上初めて獲得賞金10億円に到達。続いて天皇賞(秋)を目指したが、[[繋靭帯炎]]を発症し引退した。通算成績21戦12勝、うちGI4勝。

競走馬引退後は種牡馬となり、2006年4月3日、誕生日と同日に死亡。2008年[[中山牝馬ステークス]]、[[クイーンステークス]]を優勝した[[ヤマニンメルベイユ]]、2009年[[フローラステークス]]、[[クイーンカップ]]を優勝した[[ディアジーナ]]の父として知られる。また2009年春秋のファン投票実施競走、通称「[[グランプリ (中央競馬)|グランプリ]]」を独占するなどGI競走3勝の[[ドリームジャーニー]]、2011年の[[中央競馬クラシック三冠|クラシック三冠]]、[[有馬記念]]2勝などGI競走6勝の[[オルフェーヴル]]、2012年の[[二冠馬|クラシック二冠]]、[[宝塚記念]]連覇などGI競走6勝の[[ゴールドシップ]]の母父として知られる。3頭の父はいずれも[[ステイゴールド]]であり、この配合パターンは「黄金配合」として広まった。

== デビューまで ==

=== 誕生までの経緯 ===

==== 北野豊吉と競走馬生産 ====
[[北野豊吉]]は、[[北野建設]]の創業者である。1933年に競馬に出会い、1936年から馬主業を開始<ref name="名前なし-pYPp-1">『優駿』2011年8月号 43頁</ref>。戦争を挟んで、高度経済成長期には[[鹿島建設]]の下請けとして超高層ビルの建設を担うなどして財を成した<ref name="名前なし-pYPp-1"/>。なかなか活躍馬に恵まれないまま迎えた1961年、自宅が[[東京都]]'''[[目白]]'''にあるということにちなみ「'''メジロ'''オー」と名付けた牡馬が[[東京優駿]](日本ダービー)に駒を進める。23番人気のメジロオーは、西博所有の[[ハクシヨウ (1958年生)|ハクシヨウ]]とほとんど同時に先頭で入線を果たす<ref>『優駿』2011年8月号 42頁</ref>。陣営は勝利を確信するほどだったが順位は[[写真判定]]に委ねられ、僅差、ハナ差だけハクシヨウの先着が認められた<ref name="優駿-2011-8-43">『優駿』2011年8月号 43頁</ref>。

こうして北野は重賞初優勝及びダービーのタイトルを逃すこととなったが、無名の北野とタイトルホルダーの西という馬主の格式の差がこの判定に影響したのではないかという噂が流布されるようになってしまっていた<ref name="優駿-2011-8-43" />。そのため北野は「メジロ」で日本一の馬主となることを決意し、以後、冠名「'''メジロ'''」を用いるようになる<ref name="名前なし-pYPp-1"/>。北野は[[シンボリ牧場|日高シンボリ牧場]]や本桐牧場などから馬を購入して走らせ、1963年には重賞タイトルに到達する<ref name="名前なし-pYPp-1"/>。そして1967年から[[北海道]][[伊達市 (北海道)|伊達市]]黄金町に生産牧場である[[メジロ牧場]]を開き、[[オーナーブリーダー]]となった<ref name="優駿-2011-8-44">『優駿』2011年8月号 44頁</ref>。

==== 父父メジロアサマ ====
[[メジロアサマ]]は、1966年に北海道[[新冠町]]の日高シンボリ牧場で生産された牡馬で、父はトウルビヨン系のパーソロン、母はスヰート{{Efn|競走馬名はスイートシックスティーン。アメリカ生まれで、イギリスで競走馬として走り1勝。日本に輸入されてからも競走馬として走り3戦2勝<ref name="優駿-1991-5-52">『優駿』1991年5月号 52頁</ref>。}}である。パーソロンとスヰートは共にシンボリの和田共弘が日本に導入していた馬で<ref name="優駿-1991-5-51">『優駿』1991年5月号 51頁</ref>、この配合は和田の大きな期待によるものだった<ref name="優駿-1991-5-52" />。またメジロアサマは[[芦毛]]であり、1910年代の活躍馬[[ザテトラーク]]などから、母スヰートを経て受け継がれていた<ref name="優駿-1991-5-57">『優駿』1991年5月号 57頁</ref>。

北野はスヰートを気に入り、その仔をシンボリ牧場から購入していた<ref name="優駿-1991-5-52" />。メジロアサマは1968年に東京競馬場の尾形藤吉厩舎からデビューし、中途で[[保田隆芳]]厩舎に転厩した。「芦毛の馬は他に比べて能力が劣る」というジンクスや、「パーソロン産駒は早熟、短距離血統」という定説が蔓延る中で臨んだ1970年天皇賞(秋)では、[[アカネテンリュウ]]などを下し、それらの風説をも覆して優勝した<ref name="優駿-1991-5-51" />。前年に同競走をメジロタイヨウで制していた北野は天皇賞(秋)連覇を果たし、<ref name="優駿-2011-8-44" />、この後翌1971年の天皇賞(春)をメジロムサシで制することで3年連続天皇賞優勝の快挙が成し遂げられることになる<ref name="優駿-2011-8-44" />。

オーナーブリーダーとなった北野は、上述のような「メジロ」の牡馬を種牡馬とし、続々自己所有の繁殖牝馬にあてがい仔を儲ける「自家生産」を開始する<ref name="優駿-2011-8-45">『優駿』2011年8月号 45頁</ref>。当時の馬産地は外国から輸入した種牡馬を重用する傾向にあったが、メジロ牧場はそれに逆行し内国産種牡馬の仔を生産し続けていた<ref name="優駿-2011-8-45" />。競走馬を引退したメジロアサマもこの例に漏れず、シンジケートが結成されて種牡馬となる{{Efn|吉沢譲治によれば、この時代にシンジケートが組まれるのは珍しいことだったという<ref name="優駿-1991-5-53">『優駿』1991年5月号 53頁</ref>。}}。北野は以下のように考えていた。{{Quotation|メジロの名で走らせた活躍馬を種牡馬にして、メジロの繁殖牝馬に配合させる。その配合馬で天皇賞に勝つのが悲願なんだ。だって天皇賞は君が代が演奏されるけど、ダービーや菊花賞は君が代が聴けないからね。|北野豊吉<ref name="優駿-1987-9-39" />}}また後に、北野の妻ミヤはこのように述べている。{{Quotation|豊吉ツァン{{ママ}}は、ダービーよりも天皇賞を大事に考えていましたね。なんていったって明治の男でしょ。だから天皇陛下の賞ということに特別の思い入れがあったんでしょうね、きっと|北野ミヤ<ref name="優駿-1994-1-108" />}}こうして悲願達成のために期待されたメジロアサマだったが、初年度に交配した28頭の牝馬は全て受胎しせず、<ref name="優駿-1994-8-35" />。続く2年目も2頭交配して同様だった<ref name="優駿-1994-8-35" />。メジロアサマは繁殖牝馬に喜び勇んで立ち向かう性格の持ち主だったが、いかんせん[[精虫]]が極端に少なく<ref name="優駿-1998-12-91" />、その原因については、思い当たる節こそあれはっきりとはしなかった{{Efn|メジロアサマは6歳時に、有馬記念に臨む予定だったが当日になってインフルエンザ感染が確認され、出走を取り消している。この際に治療に用いられた抗生物質が精虫を減らしたのではないか、という説がある<ref name="優駿-1991-5-53" />。}}。このように受胎が難しいことで「種なしスイカ」という蔑称がつけられていたという<ref name="優駿-1991-5-53" />。一般的には、役割を全うできない種牡馬は直ちに廃用や用途変更がされるものであり、メジロアサマにもとある神社から「[[神馬]]」のオファーがあった{{Efn|希少な「芦毛の天皇賞馬」という点が、神社にとっても、「神馬」にとっても「種無しスイカ」の安全な余生にとっても都合が良かった<ref name="優駿-2009-9-37">『優駿』2009年9月号 37頁</ref>。}}が北野はそれを突っぱね、種牡馬生活を続行させる<ref name="優駿-1991-5-53" />{{Efn|ここまでサラブレッドの繁殖牝馬には一切受胎しなかったが<ref name="優駿-2009-9-38" />、2年目に試しに交配させたアラブ種1頭は受胎を果たしている。この受胎が、種牡馬続行の一つの根拠となる<ref name="優駿-2011-8-45" />。}}。

北野は諦めず、牧場のすべての繁殖牝馬にメジロアサマをあてがうようになるが、それでもやはり不受胎の繁殖牝馬を量産するだけだった<ref name="優駿-2009-9-37" />{{Efn|実際のところは、とりあえずすべての繁殖牝馬の最初の発情と2回目の発情にメジロアサマをあてがい、不受胎となった場合は他の種牡馬に切り替えるという方針だった<ref name="優駿-1991-5-53" />。牧場は、メジロアサマが受胎できる相性の良い繁殖牝馬を探る段階にあって、とりあえず牧場の繁殖牝馬を手あたり次第に試していた<ref name="優駿-1991-5-53" />。}}。しかし3年目の晩期になってようやく1頭が受胎を果たし<ref name="優駿-2009-9-38" />、さらに翌4年目も複数頭の受胎に成功、最初に受胎した牝馬からは初産駒も誕生した。{{Efn|この時受胎したのは、廃用が決まっており試しに付けてみた繁殖牝馬ヤマノボリだった<ref name="優駿-1991-5-54">『優駿』1991年5月号 54頁</ref>。受胎したことでヤマノボリは生き永らえ、産駒誕生に至っている<ref name="優駿-2009-9-38">『優駿』2009年9月号 38頁</ref>。この産駒はメジロエスパーダと名付けられ、新馬戦とおおぞら特別(400万円以下)を大差で優勝<ref name="優駿-1994-8-35">『優駿』1994年8月号 35頁</ref>。また降級後400万円以下を8馬身差で優勝した<ref name="優駿-1994-8-36">『優駿』1994年8月号 36頁</ref>。通算成績6戦4勝、他に[[NHK杯 (競馬)|NHK杯]]7着(優勝:[[テルテンリュウ]]、3着:[[カツラノハイセイコ]])など<ref name="優駿-1994-8-35" />。}}<ref>{{Cite web |title=メジロエスパーダ|JBISサーチ(JBIS-Search) |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000089012/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2022-06-23}}</ref>。産駒が得られることが分かった5年目、牧場は14頭の繁殖牝馬を用意する<ref name="優駿-2009-9-38" />。そして3頭が受胎し1978年に3頭の産駒が誕生、そのうちの1頭が、[[メジロティターン]]だった<ref name="優駿-1994-8-36" />。

==== 父メジロティターン ====
メジロティターンは、1978年にメジロ牧場で生産された、父メジロアサマ、母シェリルの芦毛の牡馬である。シェリルは北野が将来的に繁殖牝馬にすることを期待してフランスの2歳馬セールにて大枚をはたいて購入した馬で{{Efn|当時の日本円にして2600万円ほどで、1991年時点の通貨価値においては1億、2億円に匹敵する。吉沢譲治によれば「牝馬としては破格の値段<ref name="優駿-1991-5-54" />」だという。}}<ref name="優駿-1991-5-54" />、現地で1974年の[[オペラ賞]](G2)を優勝するなど9戦2勝という競走成績を残した<ref>{{Cite web |title=シエリル(FR)|JBISサーチ(JBIS-Search) |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000381553/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2022-06-24}}</ref>。現地にシェリルを高く見込んだ関係者がおり、日本流出を防ぐために北野に高額の取引を持ちかけた{{Efn|提示されたのは100万フラン、当時の日本円で6000万円<ref name="優駿-1991-5-55" />。}}が、北野は誘いに乗ることなくメジロ牧場に連れ帰った<ref name="優駿-1991-5-55" />。

北野は1977年、高額で購入し競走成績も優秀である牧場屈指の優良繁殖牝馬シェリルに、種牡馬失格も同然のメジロアサマをあてがった<ref name="優駿-1991-5-55" />。この不釣り合いにも見える配合は、牧場内だけでなく競馬サークル全体からもひんしゅくを買ったという<ref name="優駿-1991-5-55">『優駿』1991年5月号 55頁</ref>が、北野は後年「周囲がなんといおうとシェリルにメジロアサマを配合して、天皇賞に勝つ馬を作りたかった<!-- 初出:『優駿』1983年3月号 大橋巨泉「巨泉の激突対談」 --><ref name="優駿-2011-8-45" />」と振り返っている。

そして翌1978年にメジロティターンが誕生。同年のメジロ牧場で流行していた原因不明のX性腸炎{{Efn|同期の6頭がこの腸炎により命を落としている。}}に感染することもなく<ref name="優駿-1987-9-36">『優駿』1987年9月号 36頁</ref>、北野が開設した北海道洞爺村の育成場での育成を経て、美浦トレーニングセンターの尾形厩舎からデビューした<ref name="優駿-1987-9-36" />。初勝利に手こずり春のクラシック戦線は断念するも、夏の函館で勝ち上がり秋の[[セントライト記念]]に臨む<ref name="優駿-1987-9-36" />。尾形が発走の約15分前にこの世を去るというアクシデントに見舞われるも優勝を果たす<ref name="優駿-1987-9-37">『優駿』1987年9月号 37頁</ref>。その後は藤吉の長男である尾形盛次厩舎に引き継がれて[[菊花賞]]を目指すが、左後脚の骨にひびが入り出走を断念<ref name="優駿-1987-9-37" /><ref>『優駿』1998年12月号 89頁</ref>。古馬となった1982年に復帰し、春には[[日経賞]]を10馬身差で優勝する<ref name="優駿-1987-9-37" />。

そして天皇賞(秋)に出走し、[[サンエイソロン]]、[[アンバーシャダイ]]、[[キョウエイプロミス]]、[[カツアール]]らを下して優勝する<ref name="優駿-1998-12-91">『優駿』1998年12月号 91頁</ref>。走破タイムは[[ホウヨウボーイ]]の樹立したレコードを1.0秒更新する日本レコードであった<ref name="優駿-1987-9-39">『優駿』1987年9月号 39頁</ref>。また[[シーマー]]、[[タカオー]]及び[[ダイナナホウシユウ|ダイナナホウシュウ]]以来2組目となる天皇賞父子制覇を達成し、北野の悲願が果たされた<ref name="優駿-1987-9-39" />。同一馬主の天皇賞4勝は「前人未踏<ref name="優駿-1987-9-39" />」(横尾一彦)の記録であった。その後メジロティターンは1983年末の[[有馬記念]]まで走り、競走馬を引退する。
引退後は本桐牧場で種牡馬となった<ref name="優駿-1998-12-91" />。1984年2月16日、北野は妻のミヤと、長男、次男、牧場の[[岩崎伸道]]を呼び寄せて以下のように述べた<ref name="優駿-2002-5-55">『優駿』2002年5月号 55頁</ref>。{{Quotation|メジロティターンの子供で、父仔三代の天皇賞馬を出せたら、思い残すことはない。|北野豊吉<ref name="優駿-2002-5-55" />}}加えて自身の天皇賞勝利数が4勝であることから「4という数字は縁起が悪い、5つ勝て<ref name="優駿-2002-5-55" />」とも語った。北野は翌17日、結婚式への出席のため自宅で支度をしていた朝に、[[脳溢血]]で倒れて80歳で死去する<ref name="優駿-2002-5-55" />。こうして北野の言葉は、遺族と牧場、そしてメジロティターンが遺言として背負うこととなった。種牡馬生活を始めたメジロティターンは種付けに前向きな性格ではなく<ref name="優駿-1998-12-91" />牝馬を前に発情することができず、最初の1頭への種付けに3日間かかるほどであった<ref name="優駿-1987-9-35">『優駿』1987年9月号 35頁</ref>が、一転して翌年からはどの牝馬にも1、2分で[[射精]]できるようになった<ref name="優駿-1987-9-35" />。

ただ、十分な生殖能力こそ備わっていたが、種牡馬としての人気はなく{{Efn|吉沢譲治によれば、天皇賞以後未勝利で、生産者にとってありがたくない晩成ステイヤー血統、かつ「種無しスイカ」の仔であることが原因だという<ref name="優駿-1987-9-35" />。4年目、すなわちメジロマックイーンが生まれる次の年から種付け数は増加するが、これは引退直後の牝馬三冠馬[[メジロラモーヌ]]の初年度の交配相手として選ばれたことで生産者からの注目を集めたためだった<ref name="優駿-1991-5-57" />。}}<ref>『優駿』1991年7月号 164頁</ref><ref>『優駿』1991年7月号 104頁</ref>、他所の牧場から繁殖牝馬が集まらないために交配相手の約半分がメジロ牧場の繁殖牝馬という状況だった<ref name="優駿-2009-9-39">『優駿』2009年9月号 39頁</ref>。3年目となる1986年に16頭の繁殖牝馬と交配するが、その中の1頭にメジロ牧場所有で吉田堅牧場に繋養されていたメジロオーロラがいた<ref name="優駿-1991-5-58" />。

==== 母メジロオーロラ ====

メジロオーロラは、1978年にメジロ牧場で生産された牝馬で、父[[リマンド]]、母父[[ヒンドスタン]]である。日本における牝系の祖は、[[小岩井農場の基礎輸入牝馬#%E6%98%8E%E6%B2%BB40%E5%B9%B4%E8%BC%B8%E5%85%A5%E3%81%AE20%E9%A0%AD%E3%81%A8%E3%81%9D%E3%81%AE%E5%AD%90%E5%AD%AB|小岩井農場が明治40年(1907年)に輸入した基礎輸入牝馬20頭]]のうちの1頭である[[アストニシメント]]で、近場では母母アサマユリを基点に繁栄を遂げており、このアサマユリ系はメジロの軸となる牝系となっていた<ref>『優駿』2012年10月号 90頁</ref>。メジロオーロラは栗東トレーニングセンターの池江泰郎厩舎から競走馬としてデビューし、24戦1勝の成績を残す<ref name="優駿-1991-7-62">『優駿』1991年7月号 62頁</ref>。引退後はメジロが他牧場に生産業務を委託する「仔分け」方式によって、メジロ牧場ではなく北海道浦河町の吉田堅牧場で繁殖牝馬となった<ref name="優駿-1991-7-62" /><ref>『優駿』2012年10月号 91頁</ref>{{Efn|吉田とメジロのつながりは1968年に、吉田隆がメジロと関係の深い同じ浦河町の冨岡農場の娘を妻としたことから始まる<ref name="優駿-1991-2-28" />。その2年後から、預かったメジロハリマからは[[メジロファントム]]、メジロジュピター<ref group="注釈">父:ホワイトファイア、1984年[[中山大障害]](春)優勝</ref>、メジロハイネ<ref group="注釈">父:メジロゲッコウ、1983年[[セントライト記念]]、1984年[[中山牝馬ステークス]](GIII)優勝。1983年[[優駿牝馬]](オークス)3着(優勝:[[ダイナカール]])</ref>などのメジロの活躍馬を提供していた<ref name="優駿-1991-2-28" />。}}。吉田はメジロオーロラを当歳の頃から見込んでおり、引退時に北野を説得し預託を勝ち取っていた<ref name="優駿-2011-1-155">『優駿』2011年1月号 155頁</ref>{{Efn|吉田はちょうどアサマユリ牝系の牝馬、もしくは父リマンドの牝馬を求めていたが、牧場がある日高地方はリマンドの血統が流行っておらず入手困難だった。そんな中両条件を同時に満たす牝馬であるメジロオーロラに出会ったのだった<ref name="優駿-1991-2-28">『優駿』1991年2月号 28頁</ref>。吉田は、自身の牧場や近所の王蔵牧場にてアサマユリ系のタイトルホルダーが続出したこと<ref group="注釈">王蔵牧場に繋養されていたアサマユリからは、吉田牧場に来て重賞優勝馬の母となるメジロハリマの他に、メジロスイセイ(父:[[ネヴァービート]]、1973年[[京都記念]](秋)優勝など)、メジロホーク(父:ファリングドン、1979年[[中京記念]]優勝など)が誕生している。</ref>から、アサマユリ系と当地の相性が良いのではと考えていた。またリマンドについてはその血統を高く買っていた<ref name="優駿-1991-2-28" />。}}{{Efn|メジロ牧場としては、メジロオーロラの最適な環境での繁殖活動を願っていた。メジロオーロラの父リマンドは湿気に弱く、メジロ牧場のある伊達市は多湿な気候であったため、浦河の吉田堅牧場が選ばれたという経緯がある<ref>{{Cite web |url=http://keiba.yahoo.co.jp/story/saikyou/1987107235/story-3.html |title=『名勝負なきステイヤー』第3話 メジロの血 |access-date=2022-07-04 |publisher=競馬最強の法則WEB |archive-url=https://web.archive.org/web/20060523124818/http://keiba.yahoo.co.jp/story/saikyou/1987107235/story-3.html |archive-date=2006-05-23}}</ref>。}}。初年度は、北野とシンボリ牧場の和田共弘が共同でフランスから輸入した種牡馬フィデイオンと交配し、初仔となる牡馬(後のメジロデュレン)が誕生した<ref name="優駿-2011-1-155" /><ref>『優駿』1991年7月号 61頁</ref>。

2年目以降は、父[[シャトーゲイ (競走馬)|シャトーゲイ]]の牝馬、父ヤマニンの牡馬、父[[モガミ]]の牡馬を産む<ref>『優駿』1992年6月号 143頁</ref>。そして5年目の1986年、ついに種牡馬生活3年目のメジロティターンと交配する。北野の遺言である「メジロティターン産駒で天皇賞優勝」を目的とした配合だった<ref name="優駿-1991-5-58" />。

「天皇賞(春)を優勝するステイヤー」を生み出すための配合を検討する牧場長武田茂男は、ステイヤーとスプリンターを交配して持久力とスピードを兼ね備える馬を生産することは困難で、ステイヤー同士を交配することがステイヤーのたやすい生産方法だと考えており<ref name="優駿-1991-5-58">『優駿』1991年5月号 58頁</ref>、また「丈夫なステイヤー」を作るには、近親交配のないアウトブリードが良いという思想の持ち主でもあった<ref name="優駿-1991-5-58" />。加えて、レコードで天皇賞を優勝したメジロティターンには、長距離戦で通用するスピードが既に十分備わっていると考えてもいた。そのため相手の牝馬は専らステイヤー血統で十分、むしろ最適ではないかという結論を導いた<ref name="優駿-1991-5-58" />。その武田の条件に合致する1頭が、リマンド、ヒンドスタン、アサマユリを受け継ぎ、5代以内に近親がおらずアウトブリードが成立するメジロオーロラだった<ref name="優駿-1991-5-58" />。

===== 兄メジロデュレン =====
メジロオーロラの初仔は、メジロ系列所有のもと[[メジロデュレン]]という名が与えられ、母同様に池江厩舎に託される<ref name="優駿-2011-1-161" /><ref name="優駿-1991-7-62" />。3歳時、1985年夏にデビューを果たしたが間もなく骨折、初勝利を挙げたのは4歳時の1986年5月だった<ref>『優駿』2011年1月号 156頁</ref>。一頓挫あったために春のクラシック参戦は叶わず、夏の[[中京競馬場]]、[[函館競馬場]]で出世する。そして10月11日、[[京都競馬場]]芝3000メートルの1400万円以下条件戦である嵐山特別に出走し4勝目を挙げた<ref>『優駿』2001年1月号 157頁</ref>。続いてクラシック三冠の最終戦である[[菊花賞]]にて重賞に初出走。6番人気の支持だったが、[[ダイナガリバー]]、[[レジェンドテイオー]]、[[ラグビーボール (競走馬)|ラグビーボール]]、タケノコマヨシらを下して優勝し、クラシック戴冠を果たした<ref>『優駿』2011年1月号 159頁</ref>。

その半年後の1987年4月3日、浦河町の吉田堅牧場にて、5番仔となる芦毛の牡馬(後のメジロマックイーン)が誕生<ref name="優駿-2002-5-56">『優駿』2002年5月号 56頁</ref>、この5番仔は生まれながらに「クラシック・菊花賞優勝馬メジロデュレンの半弟」という肩書を背負うことになった<ref name="優駿-2002-5-56" />。昭和62年にメジロオーロラから産まれたため、牧場ではしばらく「'''オーロラの62'''」という暫定的な「幼名」で呼称された<ref name="優駿-2012-8-98">『優駿』2012年8月号 98頁</ref>。

一方、菊花賞後3連敗を喫していたメジロデュレンは1987年末の有馬記念に10番人気で参戦し、[[サクラスターオー]]、[[ダイナアクトレス]]、[[メリーナイス]]などを下してGI2勝目を挙げた<ref>『優駿』1991年7月号 63頁</ref>{{Efn|その後、1988年末まで走ったが勝利を積み重ねることができなかった。通算成績21戦6勝<ref name="優駿-2011-1-161" />。}}。オーロラの62は、兄メジロデュレンを管理したという縁から、誕生する前から池江厩舎に入ることが内定していた<ref name="優駿-2002-5-56" />。


== 生涯 ==
=== 幼駒時代 ===
=== 幼駒時代 ===
オーロラの62は、メジロアサマ、メジロティターンを受け継いで芦毛だった。しかし誕生直後は全身が黒く、白くなったのは2歳の春だったという<ref name="優駿-2002-5-56" />。メジロオーロラは、メジロデュレンに対しては乳を飲ませるのを恥ずかしがったり乳の出が悪かったりしたが、オーロラの62には乳をたやすく預けられて、また乳の出も良かった<ref name="優駿-1991-1-146" />。吉田隆によれば、牧場でのオーロラの62は「図太いと言うか、いつも悠々<ref name="優駿-1991-1-146" />」「抜けた体つき<ref name="優駿-1991-1-146" />」をしていたという。また母に似て「自分が納得しなければ動かない<ref>『優駿』1993年9月号 32頁</ref>」性格だった。病気や怪我をせず、これといったトラブルを抱えることなく成長して離乳を果たし、当歳の秋にメジロ牧場の育成牧場に移動した<ref name="優駿-1991-1-146" />。
1987年、北海道浦河町の[[吉田ファーム|吉田堅牧場]]で生まれる。母メジロオーロラは[[メジロ牧場]]からの預託馬であり、離乳後の9月に同場に移動し、馴致・育成が行われた。幼いころは病弱な馬であり、高熱を出したり怪我をすることもたびたびだった<ref>木村(1994)pp.117-118</ref>。この年のメジロ牧場の同期馬は特に「メジロ87年組」と呼ばれ、後に宝塚記念を制する[[メジロライアン]]、宝塚記念と有馬記念を制する[[メジロパーマー]]などがいる豊年であり、その中で本馬は2番目ないし3番目の評価であった{{Refnest|group="注"|当時の場長・武田茂男は3番目としている<ref>木村(1994)p.119</ref>が、総帥の[[北野ミヤ]]は2番目と記憶している<ref>宝島社『競馬種牡馬読本2』p.182</ref>。}}。


メジロ牧場でオーロラの62を検分した田中秀俊獣医師は、首の見栄えが良くステイヤータイプであると考えていた<ref name="優駿-1993-9-33">『優駿』1993年9月号 33頁</ref>。そして武田茂男牧場長に「こいつが走らなければ、メジロティターンの子供は、ちょっとマズイ<ref name="優駿-1993-9-33" />」と報告するほどだった。メジロ牧場ではその年に生産されたメジロの馬が一か所に集められており、そこには[[アンバーシャダイ]]の仔である「輝光」、[[メジロイーグル]]の仔である「輝鋒」、「[[リアルシャダイ]]とシェリルの仔」など32頭の同期がいた<ref>『優駿』2000年2月号 92頁</ref>。その中で「リアルシャダイとシェリルの仔」が最も期待され、次いで輝光が2番手、オーロラの62は3番手、輝光は番外という評価だった<ref name="優駿-1994-1-109">『優駿』1994年1月号 109頁</ref><ref>木村(1994)119頁</ref>。特に「リアルシャダイとシェリルの仔」は「この馬でダービーを狙うつもり<ref name="優駿-1990-9-70">『優駿』1990年9月号 70頁</ref>」(武田茂男)だったという。
[[メジロ商事|メジロ商事株式会社]]の用いる[[冠名]]「メジロ」に[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の俳優[[スティーブ・マックイーン]]を組み合わせ「'''メジロマックイーン'''」と命名された<ref>江面(2017)p.210</ref>。


吉田隆の息子である吉田聡は、大学生だった当時メジロ牧場でアルバイトをしており、育成中のオーロラの62や輝光と対面している<ref name="優駿-1992-5-144" />。聡は輝光については「当時から光った存在<ref name="優駿-1992-5-144" />」であったとしつつも、オーロラの62は「それに比べて(中略)まったく冴えなくて、僕の目には未勝利を勝てるかなあって感じの馬にしか見えなかった<ref name="優駿-1992-5-144" />」という。ただ武田茂男は、後にオーロラの62について「当歳の時に見た時から、(メジロ)ティターンでメジロ三代天皇賞を狙える自信がわいてきました。欠点のひじょうに少ない馬で、追い運動もじつによかった。(中略)素直だし長い脚を使えるし、ひじょうに乗りやすい馬<ref>『優駿』1991年5月号 59頁</ref>」だと振り返っている。
競走年齢の3歳に達し、[[栗東トレーニングセンター]]の[[池江泰郎]][[厩舎]]に入る。500kgをはるかに超える大型馬であり、調教を積んでもなかなか体重が絞れず、さらに[[すね]]に[[骨膜炎]](ソエ)も発症したため<ref name="ezurap211">江面(2017)p.211</ref><ref name="優駿-199911-113">『優駿』1999年11月号、p.113</ref>、デビューは4歳の2月と遅れた<ref>『菊花賞十番勝負』p.324</ref><ref name="ezurap211" />。


育成段階でのオーロラの62は気性が荒く、馬群から抜け出して一人で行動し、狙った1頭を追いかけまわしていた<ref name="優駿-2002-5-56" />。3歳時の2月28日、オーロラの62がある馬を挑発したところ、その相手はオーロラの62の顔を蹴ろうとした<ref name="優駿-2002-5-56" /><ref name="優駿-1993-9-31">『優駿』1993年9月号 31頁</ref>。その際、オーロラの62はその蹴りをよけずに真正面で受け止めてしまい<ref name="優駿-1993-9-31" />、前歯を3本折り、口から血が吹き出す怪我を負っている<ref name="優駿-1993-9-31" />。加えて2歳6月には左後脚の腱に5針縫う怪我を負うなど、牧場時代はやんちゃであった<ref name="優駿-1993-9-31" />。井口民樹によれば、輝光は「慎重で臆病<ref name="優駿-2002-5-56" />」、輝峰は「ややおっちょこちょい<ref name="優駿-2002-5-56" />」であり、そしてオーロラの62は「腕白で親分肌<ref name="優駿-2002-5-56" />」だったという。
=== 戦績 ===
[[ファイル:Steve-McQueen-1968 (cropped).jpg|サムネイル|215x215ピクセル|[[スティーブ・マックイーン]]]]
==== 4歳時(1990年) ====
この年のメジロ牧場の命名規則は「海外の著名人<ref>『優駿』2008年3月号 63頁</ref>」で、牡馬は「アメリカのヒーロー<ref name="優駿-2012-8-98" />」だった。最も期待された「リアルシャダイとシェリルの仔」にはアメリカの陸上選手[[カール・ルイス]]から「ルイス」を拝借して冠名の「メジロ」と組み合わせた「メジロルイス」<ref name="優駿-1994-1-109" />、2番手の輝光は、アメリカの野球選手[[ノーラン・ライアン]]から拝借して「[[メジロライアン]]」<ref name="江面-2017-210" />、3番手のオーロラの62は、アメリカの俳優[[スティーブ・マックイーン]]から拝借して「'''メジロマックイーン'''」<ref name="江面-2017-210" />、そして輝峰は、アメリカのゴルファー[[アーノルド・パーマー]]から拝借して「[[メジロパーマー]]」という競走馬名が与えられた<ref name="江面-2017-210">江面(2017)210頁</ref>。
1990年2月、[[阪神競馬場|阪神]]の新馬戦(ダート1700m)でデビュー。当日は2番人気に支持され、道中2番手でレースを進めて直線入り口で先頭に立つと、2着のハギノレジェンドに1馬身強の差をつけて初勝利を挙げた<ref name="100meiba-12">『週刊100名馬 Vol.22 メジロマックイーン』p.12</ref>。なお、3着以下には10馬身以上の大差を付けた<ref name="100meiba-12"/>。池江が[[東京優駿]](日本ダービー)を視野に入れた<ref>『名馬列伝メジロマックイーン』p.86</ref>というほどの楽勝だったが、その後は骨膜炎が完治しなかったこともあり、この後ゆきやなぎ賞、あやめ賞を2戦続けて惜敗を喫する。これを受け陣営は秋の菊花賞に目標を切り替え、マックイーンは休養に出された。


最も期待されたメジロルイスは、育成中に腰を痛めて思うように走れなかった<ref name="優駿-1990-9-70" />{{Efn|それでも馬体の良さについての評価は高く、[[大久保洋吉]]調教師が走らせたいと申し出たため、デビューを果たす<ref name="優駿-1990-9-70" />。腰が悪いながらも新馬戦3着、4着を記録するが、腰の痛みのためにこの2戦限りで引退し<ref name="優駿-1990-9-70" />、その後は種牡馬となった<ref>{{Cite web |title=メジロルイス|JBISサーチ(JBIS-Search) |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000201479/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2022-07-04}}</ref>。}}。メジロライアンとメジロパーマーは3歳の夏にデビューを果たした一方、メジロマックイーンは化骨{{Efn|骨が十分に発達すること<ref>{{Cite web |title=ホッカイドウ競馬 門別競馬場ガイド 競馬用語集|url=http://www.hokkaidokeiba.net/guide/dictionary/dic02.php#a |access-date=2022-07-23}}</ref>。骨が充実しないと、負荷の強い調教をすることができなかった。}}がなかなか来ず<ref name="優駿-1993-9-33" />、入厩の時期を馬本位で定める牧場の方針があったため、他の2頭とは異なり時間をかけて錬成された<ref name="優駿-1993-9-33" />。
9月に復帰して緒戦の渡島特別を2着としたあと、2週間後の木古内特別([[日本の競馬の競走体系#競走条件区分|500万下条件戦]])で2勝目を挙げると、翌週も[[連闘]]で大沼ステークスに出走し、連勝する。目標としていた菊花賞出走には、京都新聞杯5着以内となればたやすく実現するが、池江は、兄のメジロデュレンが菊花賞優勝前に出走した嵐山ステークスをあえて選択<ref group="注">メジロデュレンの頃の競走名は「嵐山特別」。</ref><ref name="優駿-199911-113" />、このレースは勝利する計算で送り込んだ<ref name="優駿-199911-113" />。直前の調教では、東京優駿(日本ダービー)では2着で、京都新聞杯に出走予定のメジロライアンとともに、2頭で併せ馬を行った<ref name="優駿-199911-114">『優駿』1999年11月号、p.114</ref>。併せ馬を軽々とこなした姿に、池江は菊花賞制覇の自信を持つようになっていた<ref name="優駿-199911-114" />。


メジロマックイーンは3歳秋、母や兄同様に池江厩舎に入厩する<ref name="ライバル読本-25">『競馬ライバル読本』25頁</ref>。担当厩務員の早川清隆はまだオープンクラスの馬すら担当したことのない9年目で、レコードの販売会社勤務の傍ら、競馬好き、馬好きが高じて乗馬クラブに通い出し、遂には厩務員となった男であった<ref name="ライバル読本-25" />。早川は、入厩直後に初めてメジロマックイーンを見た際「ガラ(体格)のある、いかにも走りそうな馬<ref name="ライバル読本-25" />」という印象を持ったという。
しかし騎乗していた内田浩一は油断し、先行したにもかかわらず、直線でしばらく進路を見つけることができずにいた<ref name="優駿-199911-113" />。残り100メートルでようやく外に持ち出したものの、2着に敗れた。このミスに内田は、池江ら陣営に顔向けすることができないと思い、レース後引き揚げてくる際に、誤って落馬して救急車で搬送されたいと考えていた<ref name="優駿-199911-113" />。出走賞金の加算に失敗し<ref name="優駿-199911-113" />、賞金不足で菊花賞への出走が危ぶまれたが、賞金上位の馬が調教後に回避したため、出走が可能になった<ref name="優駿-199911-114"/>。前走の敗戦は[[内田浩一|内田]]のミスにより乗り替わりも検討されたが、池江がオーナーの[[北野ミヤ]]に内田の続投をお願いするなどもあり、北野の取り計らいで、引き続き内田での臨戦となった<ref name="優駿-199911-114" />{{Refnest|group="注"|デビューから3戦で騎乗した[[村本善之]]への乗り替わりが検討されたが、北野が「1回のミスで降ろすのはかわいそう」とも主張した<ref>『菊花賞十番勝負』p.329</ref>。}}。


池江は厩舎に来てもなお化骨が不十分と考え、3歳中のデビューを諦める<ref name="優駿-2002-5-56" />。母や兄に似ず体が大きかったために前膝にソエ(すねの骨膜炎)をきたすようになり、デビューはさらに遅れて4歳の2月となった<ref name="ezurap211">江面(2017)211頁</ref><ref name="優駿-1999-11-113" /><ref>『菊花賞十番勝負』324頁</ref>。
[[重賞]]初出走の条件馬であったが、長距離向きと見られる血統的な特長と、前走の追い切り<ref group="注">競走前に行う最終調教のこと。</ref>で当日1番人気のメジロライアンに先着するなど調子の良さが考慮され、4番人気に支持された<ref>『週刊100名馬 Vol.22 メジロマックイーン』pp.16-17</ref>。スタートから先行すると、仮柵が取り払われて馬場の良い内側を通り、最終コーナーで先頭に並びかけた<ref name="優駿-199911-114" />。単枠指定の人気馬メジロライアン、ホワイトストーンを寄せ付けずゴールまで押し切り、2着[[ホワイトストーン]]に1馬身4分の1差をつけ優勝した<ref name="優駿-199911-114" />。1番人気のライアンは3着。[[馬場状態|重馬場]]での競走ながら、優勝タイム3分6秒2は菊花賞史上3位(当時)の走破タイムだった。


== 競走馬時代 ==
この後は食欲不振に陥って調整の遅れが乱れたこと<ref name="100meiba-18">『週刊100名馬 Vol.22 メジロマックイーン』p.18</ref>、「[[有馬記念]]はライアンに獲らせたい」という馬主の意向もあり、年末の有馬記念を回避<ref>『優駿』2001年5月号、p.54</ref><ref group="注">メジロライアンはオグリキャップの2着に敗れている。</ref>、休養に入った。


==== 5時(1991年) ====
=== 4(1990年) ===
休養明け初戦は[[阪神大賞典]]から始動<ref group="注">この年は阪神競馬場改装の関係で[[中京競馬場]]での開催。</ref>。ここから内田浩一に替わり、鞍上に[[武豊]]を迎えた。休み明けということ、また前半がスローペースとなったため掛かり気味<ref group="注">掛かる、引っ掛かる=抑えようとする騎手の手綱に反し、ペース配分ができないこと。</ref>となったが、武が中団の馬群に入れて折り合いをつけ<ref name="100meiba-18"/>、最後の直線のゴール前でゴーサインをかわして復帰初戦を勝利した。そして、目標としていた天皇賞(春)に向かう。メジロライアン、ホワイトストーンとの「3強」の争いという前評判であったが、当日は単勝1.7倍の圧倒的1番人気に支持された<ref>『週刊100名馬 Vol.22 メジロマックイーン』pp.20-21</ref>。レースでは菊花賞と同様に先行、直線で抜け出して、2着のミスターアダムスに2馬身半差をつけて優勝。1984年に死去したメジログループ前総帥・[[北野豊吉]]の宿願であった父子3代天皇賞制覇を達成し、口取り撮影(競走後に行われる記念撮影)では、武が馬上で豊吉の写真を掲げた。続く[[宝塚記念]]<ref group="注">阪神競馬場改修により、京都競馬場で開催。</ref> も単勝1.4倍の1番人気に支持されたが、直線で先に抜け出したメジロライアンを捉えきれず、2着に敗れた。


==== 菊花賞出走まで ====
休養を経ての秋初戦は[[京都大賞典]]に出走、2着に3馬身半の差を付け勝利する。しかし、[[タマモクロス]]以来の天皇賞春秋連覇を目指した天皇賞(秋)では、[[プレクラスニー]]に6馬身差をつけて1位入線するも、スタート直後に内側に斜行、[[プレジデントシチー]](18位入線)の進路を妨害したことで、18着に降着となる。GI競走での1位入線馬の降着処分は日本競馬史上初めてのことであった他、この年から発売された馬番連勝式が最初に行われたG1レースであったこともあり一般紙でもレースや武豊の騎乗が大きく取り上げられた{{#tag:ref|スポーツ紙の一面には「武豊大失態」「武豊の騎乗ミス」という武を批判する見出しが多く、[[島田明宏]]は「裁決、妨害、騎乗停止、処分といった言葉の響きのせいか、(武が)まるで犯罪者の扱いのようであった」と振り返っている<ref>島田(1997)p.110</ref>。|group="注"}}{{#tag:ref|大川慶次郎は、江田の騎乗にも一因があるとし、「はっきりいってあのときの採決委員<small>''([[ママ (引用)|ママ]])''</small>がきまじめすぎたと考えています。あれは騎手に対して5万円の罰金というペナルティーですます問題だったと私は考えています。<br /><small>''(中略)''</small>メジロマックイーン自体は他の馬になにもしていないんです。むしろマックイーンに先手をとられたプレクラスニーが、あわててそうはさせじとマックイーンにつられて内へよせてしまったのが直接の原因でしょう。マックイーンとプレクラスニーが一緒になって内に幅よせし、この2頭に幅よせされたために内にいたほかの馬同士が激しくぶつかりあってしまったんです」と述べ、武は騎乗停止となったが、江田に対しては罰金ということでもいいと述べている<ref>大川(1997)pp.157-158</ref>。|group="注"}}。(レースの詳細については[[第104回天皇賞]]を参照)
2月3日、[[阪神競馬場]]の[[新馬戦]](ダート1700メートル)にて、メジロデュレンの主戦である[[村本善之]]を鞍上についにデビューを果たす。10頭立ての競走だったがうち3頭は既走馬で、デビュー戦2着のハギノレジェンドが最有力候補とされ、メジロマックイーンはそれに次ぐ2番人気だった<ref name="優駿-2009-9-12">『優駿』2009年9月号 12頁</ref>。スタートからハギノレジェンドが逃げる中、その背後を追走<ref name="100meiba-12">『週刊100名馬 Vol.22 メジロマックイーン』12頁</ref>。直線で抜け出し、ハギノレジェンドだけが抵抗したがまもなく突き放した。2着ハギノレジェンドに1馬身4分の3差、3着以下に10馬身差をつけて初勝利を挙げる<ref name="100meiba-12"/><ref name="優駿-2009-9-12" />。この優れたパフォーマンスは、池江が[[東京優駿]](日本ダービー)出走を視野に入れるほどだった<ref>『名馬列伝メジロマックイーン』86頁</ref>。


続いて東京優駿を目指し芝に転向。2月25日のゆきやなぎ賞(500万円以下)に1番人気で臨むも、シンボリデーバに敵わず2着に敗退する<ref name="優駿-2006-8-115">『優駿』2006年8月号 115頁</ref>。おまけにレース後にソエが判明して休養を余儀なくされ、東京優駿出走は断念した<ref name="優駿-1991-1-146">『優駿』1991年1月号 146頁</ref>。5月13日、[[京都競馬場]]のあやめ賞(500万円以下)で復帰し、再び1番人気の支持を集めるも、ソエが完治しておらず本来の走りができず<ref name="優駿-1991-1-146" />、さらにハミを取ることも叶わずちぐはぐで3着に敗れる<ref name="優駿-2006-8-115" />。
その後は[[ジャパンカップ]]で[[ゴールデンフェザント]]の4着に敗れ、年末の[[有馬記念]]では先行押し切りを図るも、15頭中14番人気の[[ダイユウサク]]にゴール前で差し切られ、2着に終わった。秋はやや精彩を欠いたものの、通年の安定した走りが評価され、翌1月には当年の最優秀5歳以上牡馬に選出された。


ソエに出世を阻まれていたことから池江は目標を秋に切り替える。特に大目標の菊花賞を万全の状態で迎えることを目指して再び休養となった。この時点で未だ1勝馬のメジロマックイーンが菊花賞出走を確実なものにするには、最低でもあと3つ勝利を重ねてオープンクラスに属する必要があった。池江は、まず夏の[[函館競馬場]]開催で2勝させ、それから菊花賞と同じ舞台である京都芝3000メートルの嵐山ステークスで3勝目を挙げよう、と企んでいた。函館から嵐山ステークスを経て菊花賞に臨むローテーションは、兄メジロデュレンと全く同じであった<ref name="優駿-2011-1-161">『優駿』2011年1月号 161頁</ref>。
==== 6歳時(1992年) ====
1992年は前年と同じく阪神大賞典から始動、同競走連覇を達成し、天皇賞(春)に向かう。このレースは、前年の[[中央競馬クラシック三冠|クラシック]][[二冠馬]]で、デビュー以来7連勝を続ける[[トウカイテイオー]]との「世紀の対決」が大きな話題となった。このレースは鞍上に武豊が騎乗しているレースで唯一の2番人気である。発走前にメジロマックイーンの後肢の蹄鉄が折損・落鉄し打ち直すトラブルがあったが<ref>{{citation|author=西内荘| authorlink=西内荘|title=【西内荘コラム】マックイーン落鉄の真相|url=https://keibana.com/news/25869/ | accessdate=2022-07-03 | date=2020-05-03}}</ref>、レースでは先行策から抜け出してトウカイテイオーを5着に退け、史上初の春の天皇賞連覇を達成した<ref group="注">1981年以前は、天皇賞は一度優勝すると二度と出走できない「勝ち抜け制」であった。また、春-秋は1988年にタマモクロス、秋-春は1989年-1990年に[[スーパークリーク]]が記録している。</ref>。また、鞍上の武豊は1989年の[[イナリワン]]から天皇賞(春)4連覇となった。しかし、次走予定の宝塚記念に向けた調教中に骨折(左前脚部第一指節種子骨骨折:全治6か月)が判明し、長期休養を余儀なくされる。


まず9月3日、函館の渡島特別(500万円以下、ダート1700メートル)に臨む。主戦の村本はこの時期[[小倉競馬場]]と[[中京競馬場]]を拠点としていたために騎乗できず、池江厩舎の所属騎手でデビュー3年目の22歳[[内田浩一]]に乗り替わった<ref name="優駿-1999-11-113">『優駿』1999年11月号 113頁</ref>。1番人気に支持されるも、マンジュデンカブトにアタマ差及ばず2着となる<ref name="優駿-1999-11-113" />。続いて9月16日、木古内特別(500万円以下)に臨み、今度は1番人気に応えて2勝目を挙げる<ref name="優駿-2006-8-115" />。連闘して、9月23日の大沼ステークス(900万円以下)でも再び1番人気の支持。トウショウアイ、[[トウショウファルコ]]、メイショウビトリアなどを従えて勝利し<ref name="優駿-2006-8-115" />、計画通り函館で2勝して本州に舞い戻った<ref name="優駿-1999-11-113" />。
==== 7歳時(1993年) ====
1993年、復帰戦の[[大阪杯|産経大阪杯]]をコースレコードで優勝し、天皇賞(春)3連覇に挑んだ。しかし、前年[[ミホノブルボン]]のクラシック[[三冠_(競馬)|三冠]]を菊花賞で阻んだ[[ライスシャワー]]に徹底マークされ、直線半ばで交わされて2着に敗れた。次走の宝塚記念では勝利を収め、GI競走の連続年度勝利記録となる4年連続GI制覇を達成した。


ここからメジロマックイーンが菊花賞出走という目標を叶えるにあたっては、トライアル競走である京都新聞杯に臨み5着以内になることがたやすい方法だった<ref name="優駿-1999-11-113" />。しかし池江は計画を変更せず、勝利が絶対条件となる嵐山ステークス(1500万円以下)に敢えて参戦する。池江は、メジロマックイーンの持つ能力であれば当然優勝できると高を括っていたのだった<ref name="優駿-1999-11-113" />。直前の調教で行われた東京優駿2着馬メジロライアンとの併せ馬において、格上の存在であったメジロライアンに対しメジロマックイーンが大きく先着を果たした<ref name="優駿-1999-11-114" />ことからも陣営は嵐山ステークス優勝を確信していた<ref name="優駿-1999-11-114">『優駿』1999年11月号 114頁</ref>。10月13日、1番人気の支持で臨む。先行して直線を迎えたが、勝負所で進路を見出すことができず<ref name="優駿-1999-11-114" />、残り100メートルでようやく追い込んでもミスターアダムスに敵わなかった<ref name="優駿-1999-11-114" />。2着となり賞金加算に失敗。計画通りに菊花賞出走を確定することができなかった<ref name="優駿-1999-11-114" />。
秋初戦の京都大賞典では、2分22秒7という当時のコースレコードで、[[レガシーワールド]]に3馬身半差をつけ優勝。この結果、獲得賞金が史上初の10億円突破となった。しかし、天皇賞(秋)4日前の10月27日、ウッドチップコースでの追い切りを終えた直後に歩様に異常が見られ、検査の結果左前脚部[[繋靱帯炎]]を発症していることが判明<ref name="shimada116"/>。2日後の29日に池江から現役引退・種牡馬入りが発表され<ref name="shimada117">島田(1997)p.117</ref>、約1か月後の11月21日、京都競馬場で引退式が行われた<ref name="shimada117"/>。


春のクラシック優勝馬[[ハクタイセイ]]、[[アイネスフウジン]]が揃って不在の菊花賞戦線に臨みたいメジロマックイーンだったが、3勝馬に過ぎないために出走可能な18頭以内に収まることができなかった。しかし開催が近づくにつれて回避馬が続出、直前になって抽選圏内に滑り込み出走の可能性が生まれ、遂には直前の木曜日の調教後に回避馬が発生し、抽選すら不要となり<ref name="優駿-1999-11-114" />、かくして菊花賞出走が実現した。菊花賞で騎乗する騎手を決定するにあたり、嵐山ステークスでの敗戦の原因となったミスを犯した若手の内田の処遇が問題となり、村本の再登板も考えられた<ref name="十番勝負-329">『菊花賞十番勝負』329頁</ref>が、池江はオーナーに掛け合い、内田の続投が決まった<ref name="優駿-1999-11-114" />{{Efn|北野が「1回のミスで降ろすのはかわいそう」とも主張した<ref name="十番勝負-329" />。}}。
=== 種牡馬時代 ===
競走馬引退後は、一株1200万円・総額7億2000万円の[[種牡馬#シンジケート|シンジケート]]が組まれ、[[社台スタリオンステーション|社台スタリオンステーション早来]]で種牡馬として繋養された。[[ノーザンダンサー]]や[[ロイヤルチャージャー]]など、当時の主流血脈を持っていない異系血統という点で配合選択肢の幅広さが注目され<ref name="meibaretsuden76">『名馬列伝メジロマックイーン』p.76</ref>、初年度には[[シスタートウショウ]]([[桜花賞]]優勝)、同世代の[[ユキノサンライズ]]([[重賞]]3勝)、宝塚記念でマックイーンの2着となったこともある[[イクノディクタス]](同4勝)などを含む、100頭近くへの種付けが行われた。中でもイクノディクタスとの交配は、同馬が牝馬の賞金王であったことに加え、マックイーンが競走馬時代に想いを寄せていた<ref name="meibaretsuden76"/>という、関係者からのエピソードが紹介されていたこともあり、特に注目された<ref group="注">誕生したキソジクイーンは11戦未勝利に終わり、繁殖入りしている。</ref>。


==== 菊花賞 ====
先に初年度産駒がデビューしたメジロライアンがGI優勝馬を2頭出し、マックイーンにも同様の期待が寄せられた。しかし、初年度産駒に[[クイーンカップ]]優勝、[[エリザベス女王杯]]3着などの成績を残した[[エイダイクイン]](母ユキノサンライズ)を出したものの、以降は散発的に重賞勝利馬を出すに留まり、当初の期待度ほどの成績は収めていない。2012年10月に[[ホクトスルタン]]が[[予後不良 (競馬)|予後不良]]となり登録を抹消されたことで、JRAに登録しているメジロマックイーン産駒はいなくなった<ref>[http://www.nikkansports.com/race/news/p-rc-tp0-20121010-1030498.html スルタン安楽死、最後のマックイーン産駒] 日刊スポーツ 2012年10月23日閲覧</ref>。2018年現在、父系の孫としては、ギンザグリングラスの仔であるクイーンソネラ、ミナノキングがいる。
11月4日、菊花賞(GI)に臨む。重賞初出走の3勝馬に過ぎなかったが、兄メジロデュレンなど長距離競走において実績のある血統と、調教でメジロライアンに先着したことが評価され、単勝オッズ7.8倍の4番人気に支持される<ref>『週刊100名馬 Vol.22 メジロマックイーン』16-17頁</ref>。クラシック優勝馬不在の中、最も信頼されたのは皐月賞3着、東京優駿2着のメジロライアンで、次いで支持されたのは関東のトライアル競走である[[セントライト記念]]を制した[[ホワイトストーン]]であった<ref name="優駿-1990-12-15">『優駿』1990年12月号 15頁</ref>。この2頭は予め[[単枠指定制度]]の対象となっていた<ref>『優駿』1991年1月号 148頁</ref>が、メジロライアンには8枠18番が課された一方で、ホワイトストーンは1枠1番、メジロマックイーンは2枠2番と恵まれていた<ref name="優駿-1991-1-146" />。雨中の重馬場での開催だったが仮柵が取り払われたばかりで、馬場の内側にコンディションが良好な領域、いわゆる「グリーンベルト」が出現していた<ref name="優駿-1991-1-146" /><ref name="優駿-1990-12-15" />。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=Lb7c3EPzZME&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1990年 菊花賞(GI)<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}メジロマックイーンはスタートから先行、平均ペースで先頭を追走する。極端な枠となった単枠2頭は後方に位置していた<ref name="優駿-1991-1-146" />。そのままの位置で2周目の第3コーナーの坂の上り下りに差し掛かる頃、メジロマックイーンは位置を上げて先頭オースミロッチに並びかけ、進路を確保する<ref name="優駿-1990-12-15" />。最終コーナーに差し掛かる頃には、オースミロッチをかわして先頭となり、突き放しにかかっていた<ref name="優駿-1990-12-16">『優駿』1990年12月号 16頁</ref>。後方勢はメジロマックイーンの背後にホワイトストーン、傍らにメジロライアンがおり、ホワイトストーンは最も内、メジロライアンは大外に展開して追い上げていたが、外々を回ったメジロライアンは早々に脱落、ホワイトストーンは差を詰めるも余力はなくかわす勢いはなかった<ref name="優駿-1990-12-16" />。メジロマックイーンは末脚衰えず、先頭を譲らなかった<ref>『優駿』1991年1月号 147頁</ref>。ホワイトストーンに1馬身4分の1差、メジロライアンに2馬身半以上の差をつけて決勝線を通過する。GI、クラシック初優勝。兄メジロデュレンに続いて兄弟菊花賞制覇を果たした{{Efn|菊花賞兄弟制覇は[[セントライト]]&[[トサミドリ]]、[[キタノオー]]&[[キタノオーザ]]に続き史上3組目であった<ref>『週刊100名馬 Vol.22 メジロマックイーン』17頁</ref>。}}。


この後は食欲不振に陥るなどして調整が遅れたこと<ref name="100meiba-18">『週刊100名馬 Vol.22 メジロマックイーン』18頁</ref>、オーナーがクラシック3着2着3着に終わったメジロライアンの大タイトル奪取を願っていたことから、年末の有馬記念を回避する<ref>『優駿』2008年3月号 67頁</ref>。池江は次なる目標を天皇賞(春)に定めたが、メジロの最大目標である天皇賞三代制覇がかかる重大な一戦に挑むにあたり、一度ミスを犯した若手の内田では頼りなかった<ref name="優駿-1999-11-114" />。そこで池江は内田を更迭し[[武豊]]を起用する。前年の天皇賞(春)を[[イナリワン]]で、この年の天皇賞(春)を[[スーパークリーク]]で制していた武にとっても翌年の天皇賞(春)は3連覇がかかる重大な一戦だった<ref>『優駿』2002年5月号 57頁</ref>。
[[ブルードメアサイアー|母の父]]としては、中央競馬のGI競走を3勝した[[ドリームジャーニー]]と2011年の中央競馬クラシック三冠馬[[オルフェーヴル]]の全兄弟<ref group="注">ドリームジャーニー、オルフェーヴルの父ステイゴールドは池江泰郎厩舎所属での後輩にあたり、2頭とも池江泰郎の息子・[[池江泰寿|泰寿]]が管理している。</ref>や、[[2012年]]のクラシック二冠馬([[皐月賞]]、[[菊花賞]])の[[ゴールドシップ]]など、本馬と同じく池江泰郎が管理した[[ステイゴールド]]との配合に顕著な実績を残している<ref group="注">2012年4月まで(2009年生まれの産駒まで)に同様の配合で中央競馬において出走歴があるのは合計6頭。うち5頭が勝ち上がり、4頭が重賞を勝ち、3頭がG1馬となっている。</ref>。産駒の活躍により2011年にはリーディングブルードメアサイアーとして5位に入っている<ref group="注">全46頭出走で出走回数は延べ234回。一頭当たりの賞金は2541万9739円。この数字はオルフェーヴルの活躍に負うところが大きく、リーディング上位40頭の中では最も出走頭数が少なく、最も一頭当たりの賞金が高く、2位以下を引き離す(次点は[[マキャベリアン|Machiavellian]]の1354万1383円)という極端な成績となっている。</ref>。2012年もオルフェーヴル、ゴールドシップなどの活躍により、リーディングブルードメアサイアー6位となり、2013年も9位となった。


ホワイトストーンは菊花賞の後ジャパンカップに挑み、古馬の[[オグリキャップ]]や[[ヤエノムテキ]]、外国調教馬のいくらかにも先着を果たし、外国調教馬の[[ベタールースンアップ]]、オード、[[カコイーシーズ]]の横一線の先頭争いから1馬身4分の1差の4着と日本調教馬最先着を果たしていた<ref>『優駿』1991年1月号 134-136頁</ref>。またメジロライアンとホワイトストーンは暮れの有馬記念に参戦し、オグリキャップには敵わなかったが2頭で2着3着を占めた<ref>『優駿』1991年2月号 138-140頁</ref>。
{{Wikinews|春の天皇賞初の連覇馬・メジロマックイーン死す|date=2006年4月4日}}2004年に社台スタリオンステーション荻伏に移動したあと、[[2006年]][[4月3日]]に同場で[[心不全]]のため死亡。奇しくもこの日は生まれた日と同日であった。[[北海道]][[洞爺湖町]]のメジロ牧場に墓が建てられている。


この有馬記念はオグリキャップの引退レースであり、これを以て「[[平成三強]]」と祭り上げられた3頭がすべて現役を退くことになった<ref>『優駿』1991年2月号 18-19頁</ref><ref name="優駿-1991-7-44">『優駿』1991年7月号 44頁</ref>ことから、新たな主役として菊花賞優勝馬'''メジロマックイーン'''、古馬相手に互角に戦った'''メジロライアン'''、'''ホワイトストーン'''が祭り上げられるようになる。この3頭は「平成三強」になぞらえて「'''新三強'''」とも呼ばれた<ref name="優駿-1991-7-44" /><ref name="優駿-1991-6-59">『優駿』1991年6月号 59頁</ref>。
== 競走成績 ==
{| style="font-size:90%; text-align:center; border-collapse:collapse;white-space:nowrap"
|colspan="3"|年月日
|競馬場
|競走名
|[[競馬の競走格付け|格]]
|頭数
|枠番
|馬番
|[[オッズ]]<br/>(人気)
|着順
|[[距離]]<br/>(馬場)
|タイム
|([[上がり (競馬)|上]]3[[ハロン (単位)|F]])
|タイム<br/>差
|[[騎手]]
|勝ち馬/(2着馬)


=== 5歳(1991年) ===

==== 天皇賞(春) ====
天皇賞(春)に向け、メジロマックイーンは3月10日、中京競馬場の[[阪神大賞典]](GII)で始動する。重賞2着が最高のゴーサインやミスターアダムスらが出走する9頭立ての競走となり、単枠指定制度の対象とされる<ref name="優駿-1991-5-145">『優駿』1991年5月号 145頁</ref>。単勝オッズ1.2倍の1番人気に支持された<ref>{{Cite web |title=阪神大賞典|1991年3月10日 {{!}} 競馬データベース - netkeiba.com |url=https://db.netkeiba.com/race/199107010611/ |website=db.netkeiba.com |access-date=2022-06-24}}</ref>。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=WmZL7FlZCsQ&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1991年 阪神大賞典(GII)<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}スローペースの中団を追走し、かかる場面もあったがテン乗りの武がなだめていた<ref name="100meiba-18" />。2周目に差し掛かって位置を上げて好位のゴーサインの背後を取り、第3コーナーから進出を開始、ゴーサインと並んで最終コーナーを通過する<ref name="優駿-1991-5-144">『優駿』1991年5月号 144頁</ref>。直線に差しかかる頃には優勝争いを演じるのはゴーサインとメジロマックイーンの2頭に限られており、メジロマックイーンはそのゴーサインを簡単に差し切ってからは独走となった<ref name="優駿-1991-5-98">『優駿』1991年5月号 98頁</ref>。ゴーサインに1馬身半差をつけて先頭で入線し、重賞2勝目を挙げた<ref name="優駿-1991-5-144" /><ref name="優駿-1991-5-98" />。走破タイム3分7秒3はコースレコードだった{{Efn|1979年10月に行われた長距離ハンデキャップ(1200万円以下)を優勝したチェリーリュウが記録したレコードである3分9秒1を1.6秒更新している<ref name="優駿-1991-5-145" />。}}<ref name="優駿-1991-5-145" />。<br/>4月28日、ついに天皇賞(春)(GI)に臨む。「新三強」はこの競走に向けてそれぞれ別々の進路を辿っており、メジロライアンは[[中山記念]]で2着に敗れるものの内容面に問題はなく、ホワイトストーンは[[産経大阪杯]]を優勝しての参戦であった<ref name="優駿-1991-7-142">『優駿』1991年7月号 142頁</ref>。この3頭はいずれも単枠指定を受けていて<ref name="優駿-1991-7-144">『優駿』1991年7月号 144頁</ref>、3頭同時の単枠指定はこれが史上2例目だった<ref name="優駿-1991-7-142" />。ただ「新三強」といっても人気はメジロマックイーンが抜きん出ており、4倍台の2頭に大差をつける1.7倍の1番人気だった<ref>『週刊100名馬 Vol.22 メジロマックイーン』20-21頁</ref>。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=wnPTi0U9D1g&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1991年 天皇賞(春)(GI)<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}条件馬の16番人気メジロパーマーが平均ペースで逃げて、メジロマックイーンは好位に位置する<ref name="優駿-1991-6-59" />。ホワイトストーンは先行、メジロライアンは後方に構えていた。2周目に差し掛かる頃には、メジロマックイーンが三強の内では1番前、近い所にホワイトストーンがいて、後方からメジロライアンが追う形となっていた<ref name="優駿-1991-7-144" />。メジロマックイーンは第3コーナーの上り下りで先頭を視野に入れ、直線でまもなく抜け出し末脚を用いた<ref name="優駿-1991-7-142" />。後方外からホワイトストーン、内からメジロライアンが同様に追い込んでいたが、先頭を脅かすほどの勢いはなかった<ref name="優駿-1991-7-142" />。メジロマックイーンは後続を突き放したまま先頭で入線し<ref name="優駿-1991-6-60">『優駿』1991年6月号 60頁</ref>、遅れて追い込んだ7番人気ミスターアダムスに2馬身半差をつけて優勝した<ref name="優駿-1991-7-144" />。

こうしてGI2勝目、天皇賞戴冠を果たす。メジロ牧場はメジロアサマ、メジロティターンに続いて'''父仔三代天皇賞優勝を実現'''{{Efn|同レース三代制覇は、例えば[[イギリスダービー]]三代制覇(1971年[[ミルリーフ]]、1978年[[シャーリーハイツ]]、1985年[[スリップアンカー]])などが挙げられる<ref>『優駿』2009年5月号 62頁</ref>。}}、北野豊吉の遺言が現実のものとなった。当日の競馬場には、豊吉は[[遺影]]として臨場しており、表彰式では妻ミヤの胸に、記念撮影では馬上にいる武の掲げる右手の中にいた<ref>『優駿』1991年6月号 63頁</ref><ref name="優駿-1991-6-60" />。また武豊は、'''天皇賞(春)3連覇'''を成し遂げた。加えて吉田牧場は、[[メジロファントム]]、メジロデュレンで叶えられなかった天皇賞制覇を8度目の挑戦で果たした<ref>『優駿』1991年8月号 42頁</ref>。

==== 宝塚記念 ====
その後は6月9日、京都競馬場の宝塚記念(GI)に臨む。「新三強」の再々戦となったが、メジロマックイーンのみが単枠指定を受け、人気面でも他2頭が4倍台であるのに対し1.4倍の1番人気で<ref name="優駿-2020-4-53">『優駿』2020年4月号 53頁</ref>、メジロマックイーン一強の様相が強まっていた<ref>『優駿』1991年8月号 136頁</ref><ref name="優駿-1991-7-44" />。しかし前走からの距離短縮となる京都2200メートルという舞台、そのレコードホルダーはメジロライアンだった<ref>『優駿』1991年8月号 41頁</ref><ref name="優駿-2008-3-68">『優駿』2008年3月号 68頁</ref>。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=oY9BufaB_w8&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1991年 宝塚記念(GI)<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}メジロマックイーンはスタートからメジロライアンと並んで中団を追走。メジロライアンは向こう正面で位置を上げ、先行するホワイトストーンの直後を確保し、積極策に出て第3コーナーの坂の下りでハナを奪った<ref name="優駿-1991-7-46">『優駿』1991年7月号 46頁</ref>。後れて進出を開始したメジロマックイーンはメジロライアンの後方外側から追い上げる形となり<ref name="優駿-2020-4-53" />、直線では大外に持ち出してから追い上げたが、先に抜け出したメジロライアンに突き放されてしまった<ref name="優駿-1991-7-46" />。ゴール手前でようやく末脚が利いたものの、メジロライアンには敵わず<ref name="優駿-2008-3-68" />、1馬身半差の2着となる<ref name="優駿-1991-7-46" />。ただ1971年の優勝[[メジロムサシ]]、2着メジロアサマ以来20年ぶりとなるメジロ系列による宝塚記念1着2着独占を成し遂げた<ref name="優駿-1991-8-135">『優駿』1991年8月号 135頁</ref>。その後は休養、函館競馬場で夏休みとなる<ref>『優駿』1991年9月号 16頁</ref>。

==== 天皇賞(秋) ====
{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=hRQYUbTtZmg&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1991年 京都大賞典(GI)<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}秋は天皇賞春秋制覇を目指して、10月6日の[[京都大賞典]](GII)で始動する<ref>『優駿』1991年12月号 98頁</ref>。重賞2着馬メイショウビトリア、[[金杯(西)]]優勝馬[[ダイユウサク]]など7頭立ての中、1.1倍の1番人気だった<ref>{{Cite web |title=京都大賞典|1991年10月6日 {{!}} 競馬データベース - netkeiba.com |url=https://db.netkeiba.com/race/199108060211/ |website=db.netkeiba.com |access-date=2022-06-25}}</ref>。逃げるメジロパーマーに次いで、好位を追走し、直線で抜け出してからは独走となる<ref>『優駿』1991年12月号 152頁</ref>。2着メイショウビトリアに3馬身半差、5着ダイユウサクに10馬身以上差をつけて優勝する<ref>『優駿』1991年12月号 153頁</ref>。<br/>続いて10月27日、天皇賞(秋)に臨む。相手にはホワイトストーン、[[カリブソング]]、[[カミノクレッセ]]の他に、条件戦から連勝で出世した[[プレクラスニー]]がいたが、1.9倍の1番人気となる<ref name="優駿-1991-12-18">『優駿』1991年12月号 18頁</ref>。雨が続き、馬場状態が不良になったことが、メジロマックイーンが信頼される一因だった<ref name="優駿-1991-12-18" />。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=JEJZVUtRsSQ&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1991年 天皇賞(秋)(GI)<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}

7枠13番からスタート、逃げるプレクラスニー、2番手ホワイトストーンに次ぐ3番手を確保した。上位人気3頭が並んだまま、最終コーナーを通過<ref name="優駿-1991-12-18" />。直線に入ってまもなく、ホワイトストーンが失速して脱落し、プレクラスニーとの一騎打ちとなった。一騎打ちは次第にメジロマックイーンが優勢となる。プレクラスニーは抵抗なく、メジロマックイーンが抜き去り、後は突き放す一方だった<ref name="優駿-1991-12-18" />。後方勢も失速するプレクラスニーをかわすことすらできなかった。独走したまま、プレクラスニーに6馬身差をつけて先頭で入線を果たす<ref name="優駿-1991-12-146">『優駿』1991年12月号 146頁</ref>。ただし第2コーナーを通過したときから、[[審議]]のランプが灯っていた<ref name="優駿-1991-12-18" />。{{Quotation|【降着】メジロマックイーン号は1位(タイム2分02秒9、2頭の着差6馬身)に入線したが、2コーナーで内側に斜行して「メイショウビトリア」号、「プレジデントシチ―」号および「ムービースター」号の進路を妨害したため18着に降着。<br/>【制裁】メジロマックイーン号の騎手武豊は、2コーナーで内側に斜行したことについて平成3年10月28日から平成3年11月17日まで騎乗停止{{efn|武は、この騎乗停止期間に、アメリカの[[ブリーダーズカップ]]を観戦したり、アイルランドを訪れたりしていた<ref>『優駿』1992年1月号 24頁</ref>。}}。|[[日本中央競馬会]]<ref name="優駿-1991-12-148" />}}メジロマックイーンは、'''日本のGI競走史上初めてとなる1位入線後の[[降着制度|降着]]'''に処される<ref>『優駿』1991年12月号 5頁</ref>。メジロマックイーンは、スタートから約103メートル地点にある「ほぼ直角に曲がる2コーナー<ref name="優駿-1991-12-146" />」(片山良三)にて3番手を内側に斜行して確保した後、1位入線を果たしていた<ref name="優駿-1991-12-146" />。プレクラスニーがハイペースで逃げ、末脚の利かない不良馬場では、メジロマックイーンの得た好位が絶好位だった<ref name="優駿-1991-12-23">『優駿』1991年12月号 23頁</ref>。その絶好位は、他の伏兵も当然欲しい位置であり、大本命のメジロマックイーンにたやすく譲るわけにはいかなかった。7枠13番から好位を目指すメジロマックイーンを見た、13番よりも内側の馬たちは当然張り合おうとしていた<ref name="優駿-1991-12-23" />。

そんな頃に急な第2コーナーに差し掛かり、メジロマックイーンは、コーナーを回り切るために内側に斜行する。勢いづいていた内側の馬たちは、斜行により連鎖的に内側に押し込められ、進路が狭まっていた<ref name="優駿-1991-12-23" />。やがてその密集度合いは限界に達し、メイショウビトリアは挫き、[[ムービースター (競走馬)|ムービースター]]は進路がなくなり、[[プレジデントシチー]]は転倒寸前、その騎手[[本田優]]が落馬寸前だった<ref>『優駿』1991年12月号 20頁</ref>。特に被害の大きかったプレジデントシチーは、それ以降競馬にならず、1位メジロマックイーンに7秒、さらにブービーに大差、3秒後れを取る最下位18位で入線している<ref name="優駿-1991-12-148">『優駿』1991年12月号 148頁</ref>。メジロマックイーンは、このプレジデントシチーまで繰り上げさせて、最下位18着となる<ref name="優駿-1991-12-148" />。武は1位入線後、勝利を確信してウイニングランやガッツポーズも披露しており、裁決室へ呼び出されるまでこの事象を関知していなかったという<ref name="優駿-1991-12-146" />{{Efn|スポーツ紙の一面には「武豊大失態」「武豊の騎乗ミス」という武を批判する見出しが多く、[[島田明宏]]は「裁決、妨害、騎乗停止、処分といった言葉の響きのせいか、(武が)まるで犯罪者の扱いのようであった」と振り返っている<ref>島田(1997)110頁</ref>。}}{{Efn|大川慶次郎は、江田の騎乗にも一因があるとし、「はっきりいってあのときの採決委員<small>''([[ママ (引用)|ママ]])''</small>がきまじめすぎたと考えています。あれは騎手に対して5万円の罰金というペナルティーですます問題だったと私は考えています。<br /><small>''(中略)''</small>メジロマックイーン自体は他の馬になにもしていないんです。むしろマックイーンに先手をとられたプレクラスニーが、あわててそうはさせじとマックイーンにつられて内へよせてしまったのが直接の原因でしょう。マックイーンとプレクラスニーが一緒になって内に幅よせし、この2頭に幅よせされたために内にいたほかの馬同士が激しくぶつかりあってしまったんです」と述べ、武は騎乗停止となったが、江田に対しては罰金ということでもいいと述べている<ref>大川(1997)157-158頁</ref>。}}。(詳細については、[[第104回天皇賞]]を参照。)

==== ジャパンカップ、有馬記念 ====
続いて11月24日の[[ジャパンカップ]](GI)に臨む。第11回ジャパンカップは、[[凱旋門賞]]2着のフランス・マジックナイトを筆頭に9頭の外国調教馬を迎える15頭立てだった<ref name="優駿-1992-1-156">『優駿』1992年1月号 156頁</ref>。過去10回は、外国調教馬が8勝、日本調教馬が2勝という内訳であったが1番人気は、形式上大敗から臨むメジロマックイーンだった。2番人気から8番人気までを外国調教馬が占める1番人気であり、オッズは1.9倍だった<ref>{{Cite web |title=ジャパンカップ|1991年11月24日 {{!}} 競馬データベース - netkeiba.com |url=https://db.netkeiba.com/race/199105050810/ |website=db.netkeiba.com |access-date=2022-06-26}}</ref>。また単勝支持率は、ジャパンカップ史上最高だった<ref>『優駿』1992年1月号 16頁</ref>。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=excc_IiBwTo&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1991年 ジャパンカップ(GI)<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}3枠5番からスタートして、馬場の内側、好位を確保<ref name="優駿-1992-1-18">『優駿』1992年1月号 18頁</ref>。直線では最も内側にいたが、抜け出せなかった<ref>『優駿』1992年1月号 154頁</ref>。外から追い込んだアメリカの[[ゴールデンフェザント]]、フランスのマジックナイトにかわされ、突き放される一方となる<ref name="優駿-1992-1-18" />。終いにはオーストラリアの{{仮リンク|シャフツベリーアヴェニュー (競走馬)|en|Shaftesbury Avenue (horse)|label=シャフツベリーアヴェニュー}}にもかわされていた<ref>『優駿』1992年1月号 19頁</ref>。1位入線のゴールデンフェザントに約3馬身離される4着となる<ref name="優駿-1992-1-156" />。
<br/>それから12月22日、有馬記念(GI)に臨む。[[鳴尾記念]]優勝の[[ナイスネイチャ]]<ref>『優駿』1999年10月号 95頁</ref>、繰り上げ優勝のプレクラスニー、他プリンスシン、メジロライアンが主な相手だったが、それらを8、9倍台に押し込める、1.7倍の1番人気に支持されていた<ref>『優駿』1992年2月号 18頁</ref>。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=4BB1AC6CNN8&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1991年 有馬記念(GI)<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}[[ツインターボ]]が大逃げ、それに[[ダイタクヘリオス]]やプレクラスニーが続くハイペースとなり、メジロマックイーンは中団を追走する<ref>『優駿』2007年1月号 64頁</ref>。背後ではナイスネイチャにマークされていた<ref>『優駿』2003年8月号 59頁</ref>。2周目の第3コーナーでツインターボが失速し、番手や中団待機勢の出番となり、メジロマックイーンは馬場の外側に持ち出して進路を確保する<ref name="優駿-1992-2-18">『優駿』1992年2月号 18頁</ref>。後するべきことは、ツインターボに代わって先頭となったプレクラスニーとダイタクヘリオスを捕まえ、大外から追い込むナイスネイチャを振り切るだけだった<ref>『優駿』1992年2月号 138頁</ref>。

直線ではプレクラスニーとダイタクヘリオスを楽に捉えて、そしてナイスネイチャを寄せ付けず、先頭となる<ref>『優駿』2007年1月号 66頁</ref>。ただまもなく、プレクラスニーとダイタクヘリオスの間を割って、ブービー15番人気ダイユウサクが追い上げていた<ref name="優駿-1992-2-18" />。ダイユウサクの末脚は、メジロマックイーンのそれを凌ぐものであり、メジロマックイーンはたちまち突き放された<ref>『優駿』1992年2月号 20頁</ref>。ダイユウサクのレコード優勝に敵わず、1馬身半差の2着に敗退する<ref name="優駿-1992-2-140">『優駿』1992年2月号 140頁</ref>。

=== 6歳(1992年) ===

==== 天皇賞(春) ====
天皇賞(春)連覇を目指して3月15日、阪神競馬場の阪神大賞典から始動する<ref>『優駿』1992年4月号 102頁</ref>。雨中の稍重、6頭立てとなる中、日経新春杯優勝から臨むカミノクレッセとの一騎打ちになると目されていた<ref name="名前なし-pYPp-2">『優駿』1992年5月号 100頁</ref><ref name="優駿-1992-5-145">『優駿』1992年5月号 145頁</ref>。メジロマックイーンは1.3倍、カミノクレッセは2.6倍という支持だった<ref>{{Cite web |title=阪神大賞典|1992年3月15日 {{!}} 競馬データベース - netkeiba.com |url=https://db.netkeiba.com/race/199209010611/ |website=db.netkeiba.com |access-date=2022-06-27}}</ref>。

道中は3番手を追走し、終始カミノクレッセからのマークを受けていた<ref name="優駿-1992-5-144">『優駿』1992年5月号 144頁</ref>。しかし2周目の第3コーナーにて、武が促さなくとも進出し、先頭となる。背後ではカミノクレッセが追いすがっていたが、直線では突き放す一方だった<ref name="名前なし-pYPp-2"/>。カミノクレッセには5馬身、それ以下には10馬身以上の差をつけて優勝する<ref name="優駿-1992-5-145" />。当日は武の23歳の誕生日だった<ref name="優駿-1992-5-144" />。

続いて4月26日、天皇賞(春)に臨む。連覇を目指すメジロマックイーンの前に立ちはだかったのは、トウカイテイオーだった<ref name="優駿-2013-6-87">『優駿』2013年6月号 87頁</ref>。トウカイテイオーは、同じパーソロン系、クラシック三冠馬シンボリルドルフの初年度産駒だった<ref>『優駿』2013年6月号 83頁</ref>。デビュー4連勝で臨んだ皐月賞を優勝、続く東京優駿(日本ダービー)も優勝し、クラシック二冠を達成<ref name="優駿-2013-6-86">『優駿』2013年6月号 86頁</ref>。しかし直後に骨折をきたしたことで、菊花賞に出走できず、父仔三冠の夢は潰えていた<ref name="優駿-2013-6-86" />。療養中に古馬となったトウカイテイオーは次なる目標を天皇賞(春)に据えてその前哨戦、4月5日の産経大阪杯で戦線に復帰する<ref name="優駿-2012-9-95">『優駿』2012年9月号 95頁</ref>。ダイユウサク、イブキマイカグラ、ホワイトストーンなどタイトルホルダーが揃っていたが、馬なりのまますべて振り切っていた<ref name="優駿-1992-6-47">『優駿』1992年6月号 47頁</ref><ref name="優駿-1992-6-144">『優駿』1992年6月号 144頁</ref>。東京優駿以来314日のブランクを挟んで、無敗の7連勝を記録していた<ref name="優駿-1992-6-144" />。
{| class="wikitable" style="float:right; font-size:smaller; text-align:center; margin:10px"
! colspan="2" |トウカイテイオー
!T-M
! colspan="2" |メジロマックイーン
|-
|-
|皐月賞
|1990.
|{{color|darkred|1着}}
|2.
! rowspan="2" |'91春
|3
|{{color|darkred|1着}}
|天皇賞(春)
|-
|東京優駿
|{{color|darkred|1着}}
|{{Color|darkblue|2着}}
|宝塚記念
|-
| colspan="2" rowspan="6" |骨折休養<ref name="名馬読本3-96">『競馬名馬読本3』96頁</ref>
!夏
| colspan="2" |調整休養<ref name="名馬読本3-163">『競馬名馬読本3』163頁</ref>
|-
! rowspan="4" |秋
|{{color|darkred|1着}}
|京都大賞典
|-
|1位
|天皇賞(秋)
|-
|4着
|ジャパンC
|-
|{{Color|darkblue|2着}}
|有馬記念
|-
!冬
| colspan="2" |調整休養<ref name="名馬読本3-163" />
|-
|産経大阪杯
|{{color|darkred|1着}}
!'92春
|{{color|darkred|1着}}
|阪神大賞典
|-
| colspan="5" |'''天皇賞(春)'''
|}
現役最強ステイヤーと考えられていたメジロマックイーンと、菊花賞を走れなかった無敗のトウカイテイオーの、京都芝3200メートルでの巡り会いは、大いに注目を集め、その頭文字から「'''TM対決<ref name="優駿-2020-3-50">『優駿』2020年3月号 50頁</ref>'''」、果ては「'''世紀の対決'''<ref name="Number-PLUS-2021-11-22" />」などと持ち上げられる。メジロマックイーンには関西の武が、トウカイテイオーには関東の岡部幸雄が騎乗するという、東西名手の競演となったことも、競馬ファンの興味を増幅させた<ref name="優駿-1992-6-53">『優駿』1992年6月号 53頁</ref><ref>『優駿』2014年3月号 55頁</ref>。産経大阪杯の調教時に岡部は「(トウカイテイオーは距離に関係なく)地の果てまでも駆けられる<ref name="優駿-1992-6-47" />」と述べれば、武は「こちら(メジロマックイーン)は天までも駆けられる<ref name="優駿-2009-3-25">『優駿』2009年3月号 25頁</ref>」と対抗するという競馬場外でのマイクパフォーマンスも見られた<ref name="優駿-2009-3-25" />。

14頭立てだったが、注目は専らこの2頭であり、2頭で単勝支持率86.1パーセントを占めた<ref name="優駿-2020-3-50" />。実績と無敗という魅力比べでは、無敗のトウカイテイオーの魅力が勝り、1.5倍の1番人気。メジロマックイーンは、2.2倍の2番人気となる<ref name="優駿-2013-6-87" />。3番人気以降は、18倍に飛躍していた<ref>『優駿』2015年10月号 56頁</ref>。また2頭の組み合わせの枠番連勝式、馬番連勝式も売れに売れてともに1倍台となり、ギャンブル的な側面から「銀行レース」だと考えられていた<ref name="優駿-1992-6-53" /><ref>『優駿』1992年6月号 52頁</ref>。出走時刻は午後3時40分だったが、直前になってメジロマックイーンの右前脚の蹄鉄が4分の1欠けている{{Efn|後藤正治によれば「3分の1」<ref name="優駿-1994-1-108">『優駿』1994年1月号 108頁</ref>}}ことに、早川が気づいていた<ref>『優駿』1992年6月号 140頁</ref><ref name="優駿-1992-6-48">『優駿』1992年6月号 48頁</ref>。1分前になって武が下馬して、蹄鉄の打ち替えが実施される<ref name="優駿-1992-6-48" />{{Efn|有力馬のレース直前の蹄鉄打ち替えは、騎手や観客に1991年桜花賞を想起させていた<ref>『Sports Graphic Number PLUS』2021年11月号 21頁</ref><ref name="Number-PLUS-2021-11-22">『Sports Graphic Number PLUS』2021年11月号 22頁</ref>。桜花賞では、1番人気[[イソノルーブル]]が同じように打ち替えとなったが、イソノルーブルが打ち替えを拒否。結局、裸足で走り4着に敗退する<ref name="Number-PLUS-2021-11-22" />。裁判沙汰に発展した([[イソノルーブル落鉄事件]])。}}。そのため、定刻から8分遅れての発走となった<ref name="優駿-1992-6-142">『優駿』1992年6月号 142頁</ref>。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=SunKESNR1lI&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1992年 天皇賞(春)(GI)<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}
スタートからメジロパーマーが逃げ、折り合いを保ってスローペースを演出<ref name="Number-PLUS-2021-11-22" />。2頭は、中団並んで追走し、やがてメジロマックイーンが前方となった<ref name="優駿-2020-3-50" />。2周目の第3コーナーに差し掛かり、武は後方のトウカイテイオーを初めて視認<ref name="優駿-1992-2-140" />。それから坂の上り下りにて、外を回りながら追い上げる「まくり」を敢行した<ref name="優駿-2020-3-50" />。すぐ外にトウカイテイオーが粘着している状態で最終コーナーを通過する<ref name="優駿-2020-5-26">『優駿』2020年5月号 26頁</ref>。しかし直線に入って間もなく、トウカイテイオーが失速し、メジロマックイーンが突き放した<ref name="優駿-2012-9-95" />。

以後、メジロマックイーンは独走となる<ref name="優駿-2020-5-26" />。後退するトウカイテイオーに代わってカミノクレッセ、イブキマイカグラが追い込んできたが、メジロマックイーンを脅かすものではなかった<ref>『Sports Graphic Number PLUS』2021年11月号 25頁</ref><ref>『優駿』2020年3月号 51頁</ref>。カミノクレッセに2馬身半、イブキマイカグラに約7馬身、トウカイテイオーに約9馬身差をつけて先頭で入線する<ref name="優駿-1992-6-142" /><ref>『優駿』2012年9月号 96頁</ref>。'''史上初めて天皇賞(春)連覇'''を果たす{{Efn|1981年以前は、天皇賞は一度優勝すると二度と出走できない「勝ち抜け制」であった。1988年、春秋連覇を[[タマモクロス]]が、1989年から90年にかけて秋春連覇をスーパークリークが記録している。}}<ref>『優駿』1992年6月号 141頁</ref>。武は、史上初めて同一GI4連覇、それも天皇賞(春)4連覇を果たした<ref>『優駿』1992年6月号 4頁</ref>。

==== 左前脚骨折 ====
続いて6月14日の宝塚記念を目指して調教が進められたが、その1週間前の6月7日、調教中に左第1指節種子骨骨折を発症<ref name="優駿-1992-7-36">『優駿』1992年7月号 36頁</ref>。宝塚記念を回避するとともに、長期の戦線離脱となった<ref name="優駿-1992-7-36" />。種子骨骨折は、競走能力を喪失する割合が高く、仮に治っても再発する可能性が高く、再起は難しいとされていた<ref name="優駿-1994-1-111" />。しかし「骨折箇所があと1ミリでもズレていたらカムバックは無理だった<ref name="優駿-1993-8-140">『優駿』1993年8月号 140頁</ref>」(池江泰郎)という状態で競走能力喪失は免れ、戦線復帰を目指すことができた<ref name="優駿-1994-1-111" />。骨折から1か月後、洞爺村のメジロ牧場で休養となる<ref name="優駿-1994-1-111" /><ref>『優駿』1992年9月号 38頁</ref>。また天皇賞(春)5着のトウカイテイオーも天皇賞(春)の10日後に左前脚の剥離骨折を発症していた<ref name="優駿-2013-6-87" />。宝塚記念は2頭の再戦の場と考えられたが、叶わなかった<ref name="優駿-1992-7-36" />。

メジロマックイーンが回避したことで、メジロ牧場は、阪神競馬場への宝塚記念応援団の派遣を中止している<ref>『優駿』1992年8月号 140頁</ref>。しかしメジロ勢では、メジロパーマーが出走していた。見捨てられたメジロパーマーは9番人気だったが、ダイユウサクやカミノクレッセ相手に逃げ切り優勝を果たしている。前年のメジロライアンに続いて、メジロの宝塚記念連覇と相成っていた<ref>『優駿』2006年4月号 52頁</ref>。ただ競馬場には、牧場関係者では北野俊雄しかおらず、寂しい表彰式となる<ref>『優駿』2000年1月号 95頁</ref>。

一方メジロ牧場で放牧されていたメジロマックイーンは、立ち直って一旦函館競馬場に入厩し、栗東トレーニングセンターに帰厩している<ref name="優駿-1994-1-111" />。調整が進み、この年暮れの有馬記念参戦は可能な状態だったが、池江が自重して回避。年内での復帰は叶わなかった<ref name="優駿-1994-1-111" />。

=== 7歳(1993年) ===

==== 産経大阪杯 ====
復帰が現実を帯びてきた頃、陣営は、天皇賞(春)3連覇を目標に据える。同一重賞の3連覇は、これまでにセカイオーが鳴尾記念で果たしたのみであり、GI競走3連覇、それも格式の高い天皇賞(春)3連覇は、もってのほかだった<ref name="優駿-1993-6-50">『優駿』1993年6月号 50頁</ref>。加えて武も天皇賞(春)5連覇がかかっていた<ref name="優駿-1993-6-5">『優駿』1993年6月号 5頁</ref>。厩舎に帰還したメジロマックイーンは、200メートルを15秒で走る運動を開始し、1月27日には初めて、脚元の不安が小さいプール調教に臨んでいる<ref name="優駿-1994-1-111" /><ref name="優駿-1993-3-23">『優駿』1993年3月号 23頁</ref>。一時期、左前脚に骨膜炎をきたす一頓挫もあった<ref name="優駿-1993-3-23" />。この骨膜炎を根拠に、一部スポーツ新聞がメジロマックイーンの春の復帰は不可能と報じていたが、実際はそれほど重度のものではなく、予定通り、天皇賞(春)を目指すことができた<ref name="優駿-1993-3-23" />。天皇賞戦線には、前年の皐月賞と東京優駿を優勝したクラシック二冠馬[[ミホノブルボン]]、前々年の二冠馬トウカイテイオーが存在していたが、2頭はほどなく故障し、対決は実現しなかった<ref>『優駿』2012年9月号 97頁</ref><ref>『優駿』1993年3月号 20頁</ref>。メジロマックイーンは、これまで平地コースでの調教しかしていなかったが、ここで初めて坂路調教が導入される<ref name="優駿-1994-1-111" /><ref name="優駿-2002-5-59">『優駿』2002年5月号 59頁</ref>。後に池江は、栗東に坂路とプールがなかったら復帰は不可能だったと述べている<ref name="優駿-1993-8-140" />。

当初は過去2年と同じく、3月14日の阪神大賞典を前哨戦とするつもりだった<ref name="優駿-1993-6-140">『優駿』1993年6月号 140頁</ref>。しかし一頓挫あって見送り、4月4日の産経大阪杯(GII)で始動となる<ref name="優駿-1993-6-140" />。坂路調教を積んでからの復帰となったが、マスコミは調整不足と見る声が大きかった<ref name="優駿-2002-5-59" /><ref name="優駿-1993-6-144">『優駿』1993年6月号 144頁</ref>。加えて馬体重は、約11か月前の天皇賞(春)から14キログラム増加であり、舞台は、未知数の2000メートル戦だった<ref name="優駿-1993-6-144" />。GII優勝馬に過ぎないナイスネイチャや[[エルカーサリバー]]など格下が相手だったが、メジロマックイーンは信頼を勝ち取ることができず、オッズは、ナイスネイチャと並ぶ2.4倍となる。票数の差で辛くも1番人気となっていた<ref>{{Cite web |title=天皇賞(春)|1993年4月25日 {{!}} 競馬データベース - netkeiba.com |url=https://db.netkeiba.com/race/199308030210/ |website=db.netkeiba.com |access-date=2022-06-28}}</ref>。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=lSMQn9kWrsU&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1993年 産経大阪杯(GII)<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}7枠13番を得たメジロマックイーンは、逃げる[[ラッキーゲラン]]に次ぐ2番手を追走<ref name="優駿-1993-6-144" />。最終コーナーにて、促されることなく「馬なり」で先頭となり、直線で突き放した<ref name="優駿-1993-6-144" />。以後独走、ナイスネイチャに5馬身差をつけて先頭で入線する<ref name="優駿-1993-6-145">『優駿』1993年6月号 145頁</ref><ref>『優駿』1993年6月号 98頁</ref>。前年春のバンブージャンボのタイムを0.2秒上回るコースレコードを樹立し、優勝を果たした<ref name="優駿-1993-6-145" />。

==== 天皇賞(春) ====
続いて4月25日、天皇賞(春)に臨む。ミホノブルボンの三冠を阻んだ菊花賞優勝馬ライスシャワー、同3着で重賞連勝して臨む[[マチカネタンホイザ]]、宝塚記念の後に有馬記念も制し、阪神大賞典優勝から臨むメジロパーマーなどが3連覇の前に立ちはだかった。しかし産経大阪杯の復活優勝が高く買われ、メジロマックイーンは信頼を勝ち取る。このほか武は、[[桜花賞]]を[[ベガ (競走馬)|ベガ]]で、皐月賞を[[ナリタタイシン]]で制しており、JRAGIを連勝中だった<ref>『優駿』1993年6月号 51頁</ref>。オッズ1.5倍の1番人気となる<ref name="優駿-2001-7-57">『優駿』2001年7月号 57頁</ref>。以下、ライスシャワー5倍、マチカネタンホイザ8倍、メジロパーマー9倍だった<ref name="優駿-2001-7-57" /><ref>{{Cite web |title=天皇賞(春)|1993年4月25日 {{!}} 競馬データベース - netkeiba.com |url=https://db.netkeiba.com/race/199308030210/ |website=db.netkeiba.com |access-date=2022-06-28}}</ref>。ただメジロマックイーンは、中2週での参戦だった<ref name="優駿-1993-6-140" />。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=y0tWHuTcTXU&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1993年 天皇賞(春)(GI)<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}前年落鉄した発走前、この年はゲートに収まるのを嫌がり、発走時刻を3分間遅延させた<ref name="優駿-1993-6-53">『優駿』1993年6月号 53頁</ref><ref name="優駿-1993-6-140" />。しばらくして収まり、8枠14番からスタートした。メジロパーマーが大逃げする一方で、3、4番手の好位を追走した<ref name="優駿-2001-7-58">『優駿』2001年7月号 58頁</ref>。背後にはライスシャワーがおり、マークされる形となった<ref name="優駿-1993-6-53" />。メジロパーマーは、天皇賞(春)史上2番目に早いペースで先導していた<ref name="優駿-1993-6-50" />。ハイペースとなる中、メジロマックイーンは2周目の第3コーナーから進出を開始する。ただ傍らにはライスシャワーを伴っていた。やがてメジロマックイーンとライスシャワーは、先頭のメジロパーマーに並びかける<ref name="優駿-1993-6-5" />。ただメジロパーマーも失速していなかった。3頭並ぶ雁行状態、わずかにメジロマックイーンが先頭で最終コーナーを通過する<ref name="優駿-2001-7-58" />。ただ直線半ばでその均衡も解け、ライスシャワーの末脚が優勢となる<ref name="優駿-2001-7-58" />。メジロマックイーンは抵抗することができず、脚色は、メジロパーマーのそれと同じとなった。以後、独走を許し、メジロパーマーとの2着争いとなった<ref name="優駿-1993-6-140" />。

ライスシャワーに2馬身半後れを取り、メジロパーマーに4分の3馬身先着する2着に敗退する<ref name="優駿-1993-6-142">『優駿』1993年6月号 142頁</ref>。天皇賞(春)3連覇並びに、武の天皇賞(春)5連覇は、果たせなかった<ref name="優駿-1993-6-5" />。メジロパーマーから6馬身後れを取る4着にマチカネタンホイザだったが、4着までがイナリワンのコースレコードを上回るタイムで駆けていた。5着はマチカネタンホイザから5馬身、ライスシャワーから見れば、10馬身以上存在していた<ref name="優駿-1993-6-142" />。武は「悔しいけれど、力は出し切っての結果。勝った馬が強かった<ref name="優駿-1993-6-55">『優駿』1993年6月号 55頁</ref>」、池江は「完全なレースをしての負け。相手が一枚上だった<ref name="優駿-1993-6-55" />」と述懐している。このレース、メジロマックイーンは、発走直前にゲートを入りを嫌がったことで「枠入り不良」と判断されている。そのため、発走調教再審査の制裁が課された<ref name="優駿-1993-6-142" />。

==== 宝塚記念 ====
続いて6月13日、[[奉祝競走|皇太子殿下御成婚奉祝宝塚記念]]に臨む。ライスシャワーは放牧、トウカイテイオーは復帰予定だったが再び故障し断念<ref name="優駿-1993-7-44" />。さらにカミノクレッセや[[ヒシマサル (1989年生)|ヒシマサル]]、[[シスタートウショウ]]なども断念するなど、有力馬の回避が続出<ref name="優駿-1993-7-44">『優駿』1993年7月号 44頁</ref><ref name="優駿-1993-8-140" />。注目は前年度優勝馬のメジロパーマーとの対決に絞られていた。他の相手には、[[ニシノフラワー]]、[[シャコーグレイド]]、[[アイルトンシンボリ]]がいたが、人気は2頭に集中した<ref name="優駿-1993-7-44" />。メジロマックイーンが1.5倍の1番人気、メジロパーマーが2.7倍だった<ref>{{Cite web |title=宝塚記念|1993年6月13日 {{!}} 競馬データベース - netkeiba.com |url=https://db.netkeiba.com/race/199309030810/ |website=db.netkeiba.com |access-date=2022-06-29}}</ref>。良馬場ではあったが、雨が降り、特に内側が荒れている状態での発走だった<ref name="優駿-1993-7-44" /><ref>『優駿』1993年7月号 47頁</ref>。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=E-cp_aomkGY&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1993年 宝塚記念(GI)<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}メジロパーマーが、荒れていない外側を選んで逃げに出た<ref name="優駿-1993-7-44" />。ほとんどがそれに従って馬群が形成され、2番手にニシノフラワー、3番手の好位にメジロマックイーンがいた。メジロパーマーは馬場に脚をとられ、ニシノフラワーは折り合いがつかなかった<ref name="優駿-1993-7-45">『優駿』1993年7月号 45頁</ref>。第3コーナー、前の2頭は脱落し、代わってメジロマックイーンが先頭となる<ref name="優駿-1993-8-140" />。直線では後続を突き放して独走。後方から追い上げた[[イクノディクタス]]に1馬身4分の3差をつけて先頭で入線する<ref>『優駿』1993年8月号 142頁</ref>。

GI4勝目。メジロ勢は宝塚記念3連覇<ref name="優駿-1993-7-45" />。また、祖父メジロアサマは1971年2着、1972年6着、父メジロティターンは1982年9着に敗れ、二代続けて逃した宝塚記念のタイトルを三代目が回収していた<ref name="優駿-1993-8-141">『優駿』1993年8月号 141頁</ref>。
==== 京都大賞典 ====

函館競馬場での夏休みを経て<ref>『優駿』1993年9月号 35頁</ref>、秋は前々年に1位入線も降着、前年は出走できなかった天皇賞(秋)を目指し、10月10日の京都大賞典で始動する。相手にはメジロパーマーの他に、4歳で臨んだ有馬記念でメジロパーマーにハナ差の2着となった[[レガシーワールド]]などが揃う10頭立てだった<ref name="優駿-1993-12-153">『優駿』1993年12月号 153頁</ref>。ただメジロマックイーンは1.2倍、レガシーワールドを4.4倍、メジロパーマーを14.0倍に押し込める1番人気だった<ref>{{Cite web |title=京都大賞典|1993年10月10日 {{!}} 競馬データベース - netkeiba.com |url=https://db.netkeiba.com/race/199308050211/ |website=db.netkeiba.com |access-date=2022-06-29}}</ref>。{{External media|width=300px|video1=[https://www.youtube.com/watch?v=EOqwu0Za_8w&ab_channel=JRA%E5%85%AC%E5%BC%8F%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB 1993年 京都大賞典(GII)<br />レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画]}}

メジロパーマーが逃げ、それにレガシーワールドが続く中、メジロマックイーンは中団5番手を追走する<ref name="優駿-1993-12-153" />。第3コーナーからは、武が促さずとも、前方の対抗馬と距離を縮めた。盛んに促される対抗馬に最終コーナーに並びかけて、たちまちかわして先頭となる<ref name="優駿-1993-12-98">『優駿』1993年12月号 98頁</ref>。唯一レガシーワールドが抵抗してきたが、直線で突き放していた<ref name="優駿-1993-12-98" />。以後独走、レガシーワールドに3馬身半差をつけて決勝線を通過した<ref name="優駿-1993-12-153" />。重賞9勝目。走破タイム2分22秒7は、前年優勝馬オースミロッチの記録を1.9秒上回るコースレコードだった<ref name="優駿-1993-12-153" />。武はこの直後にこう述べていた。{{Quotation|この秋はやらなくてはならないことがたくさん控えていますから、その意味でも最高のスタートを切ることができました。この次の秋の天皇賞は、メジロマックイーンといっしょ{{ママ}}に東京競馬場のウイナーズサークルに立てるように頑張りますので、皆さん応援してください。|武豊<ref name="優駿-1993-12-152">『優駿』1993年12月号 152頁</ref>}}

==== 引退 ====
前哨戦を勝利したことで、10月31日の天皇賞(秋)に大本命で臨むこととなった<ref>『優駿』1993年12月号 142頁</ref>。しかしその4日前の10月27日、ウッドチップコースでの調教を終えた後に歩様が乱れて天皇賞(秋)を回避を決定<ref name="shimada116" />{{Efn|天皇賞(秋)への出走を断念することが夜の[[日本放送協会|NHK]]ニュースで報道されるほどの衝撃であった<ref>『週刊100名馬 Vol.22 メジロマックイーン』4頁</ref>。}}。その後の検査で、左前脚の[[繋靭帯炎]]が判明する<ref name="shimada116">島田(1997)116頁</ref><ref name="優駿-1993-12-5">『優駿』1993年12月号 5頁</ref>。復帰には最低でも半年かかるとされ、既に種牡馬シンジケートが結成されていたことが後押しとなって引退が決定する<ref name="優駿-1994-1-112">『優駿』1994年1月号 112頁</ref>。29日に引退発表がなされた<ref name="shimada117">島田(1997)117頁</ref>。結局、秋の古馬GI競走には縁がないまま引退となった。欠場したこの年の秋、天皇賞(秋)は[[ヤマニンゼファー]]、ジャパンカップはレガシーワールド、有馬記念はトウカイテイオーが優勝しているが、レガシーワールドとトウカイテイオーは、メジロマックイーンが下した相手だった。またヤマニンゼファーは、[[ニホンピロウイナー]]産駒、安田記念連覇のマイラーであるが、メジロマックイーンの引退レースとなった京都大賞典の2000メートル通過タイムが、天皇賞(秋)のヤマニンゼファーの走破タイムを上回っていた<ref name="優駿-1994-1-112" />。このことから武は、天皇賞(秋)に体調の問題がないメジロマックイーンが出ていれば「100パーセント勝っていた<ref name="優駿-1994-1-112" />」と述べている。
{| class="wikitable" style="float:right; font-size:smaller; text-align:center; margin:10px"
|+歴代収得賞金ランキング(1993年終了時)<ref>『優駿』1994年2月号 134頁</ref>
!
!馬名
!総収得賞金
!戦績
!GI勝利
|-
!1
|'''メジロマックイーン'''
|'''10億1465万7700円'''
|21戦12勝
|菊花賞、天皇賞(春)連覇、宝塚記念
|-
!2
|[[オグリキャップ]]
|{{0|-}}{{0}}8億8970万2000円
|20戦12勝
|有馬記念連覇、[[マイルチャンピオンシップ|マイルCS]]、安田記念
|-
!3
|[[ダイタクヘリオス]]
|{{0}}{{0|-}}6億8995万2400円
|35戦10勝
|マイルCS連覇
|-
!4
|[[シンボリルドルフ]]
|{{0}}{{0|-}}6億8482万4200円
|15戦13勝
|三冠、有馬記念連覇、天皇賞(春)、ジャパンC
|}

引退により成績は21戦12勝、総獲得賞金は10億1465万7700円で確定する。デビューから引退まで、降着を考えなければ、入着を逃したことはなかった<ref name="優駿-1994-1-111">『優駿』1994年1月号 111頁</ref>。7歳の宝塚記念を優勝したことにより、オグリキャップなどを上回る獲得賞金9億円に到達<ref name="優駿-1993-8-141" />。続く秋の京都大賞典を優勝したことにより、アメリカの賞金王で、世界最高とされる[[アリシーバ]]でも届かなかった10億円に到達していた<ref name="優駿-1993-12-152" />。

引退決定から約1か月後の11月21日、マイルチャンピオンシップ当日昼休みの京都競馬場で引退式が行われる<ref name="shimada117" />。当日はメジロマックイーンのための徹夜組が発生するなど、ファンが集結。そのため開門が1時間繰り上げられる措置が取られた<ref name="優駿-1994-1-72">『優駿』1994年1月号 72頁</ref>。「異例のはからい」でパドックを周回してから入場。北野豊吉の悲願が果たされた1991年天皇賞(春)のゼッケン、帽色でお披露目がなされた<ref name="優駿-1994-1-72" />。故障しているため、歩くことしかできなかった<ref name="優駿-1994-1-72" />。最後は、スティーブ・マックイーンの主演映画『[[大脱走]]』のテーマソングが場内に流れながら、競馬場を退いている<ref name="優駿-1994-1-72" />。11月24日、JRAの競走馬登録を抹消する<ref name="名馬読本3-96" />。

== 種牡馬時代 ==
競走馬引退後は、生まれ故郷のメジロ牧場の検疫厩舎にて静養した後、北海道早来町の社台スタリオンステーション早来にて種牡馬として供用される<ref name="優駿-2002-5-59" />。[[ノーザンダンサー]]や[[ロイヤルチャージャー]]など、当時の主流血脈を持っていない異系血統という点で配合選択肢の幅広さが注目を集めた<ref name="meibaretsuden76">『名馬列伝メジロマックイーン』76頁</ref>。全60株、1株1200万円というシンジケートが結成されており、1日のうちに満口になっていた<ref name="優駿-2002-5-59" />。メジロマックイーンは初めは躊躇するも<ref>『優駿』1994年9月号 26頁</ref>、1994年2月16日に初めて牝馬と交配してからは、盛んに種付けできるようになったという<ref name="優駿-1994-9-27">『優駿』1994年9月号 27頁</ref>。父メジロティターンに似ず、祖父メジロアサマに似て「大の種付け好き<ref name="優駿-1998-12-91" />」(阿部珠樹)であり、牝馬の乗る馬運車が近づくだけで騒ぎたてるほどだった<ref name="優駿-2006-5-175">『優駿』2006年5月号 175頁</ref>。

初年度となる1994年は、内国産新種牡馬では最も多い98頭の繁殖牝馬と交配し<ref name="優駿-2009-5-63">『優駿』2009年5月号 63頁</ref>、2年目から4年目までは80頭ほど、5年目となる1998年にはピークとなる149頭と交配した<ref name="JBIS-種牡馬成績" />。8年目となる2001年にも142頭を集めたが、以降は右肩下がりとなる<ref name="JBIS-種牡馬成績" />。メジロマックイーンのような馬格のある産駒がなかなか生まれず、生産者側も苦労していた<ref name="優駿-2006-5-175" />。社台スタリオンステーションの徳武英介によれば、相手の牝馬にも馬格を求めて、メジロマックイーンの再現も狙ったこともあったという<ref name="優駿-2006-5-175" />。
[[ファイル:Mejiro McQueen 199608.JPG|サムネイル|237x237ピクセル|メジロマックイーン(1996年)]]
ただ産駒の成績も上がることはなく、2004年シーズンを以てシンジケートが解散される<ref name="優駿-2006-5-64">『優駿』2006年5月号 64頁</ref>。それから11年目となる2004年からは都落ちとなり、社台スタリオンステーション荻伏に移動している<ref name="優駿-2009-9-39" />。移動初年度の11年目は54頭となり、12年目には14頭にまで落ち込んだ<ref name="JBIS-種牡馬成績" /><ref>『優駿』2006年5月号 174頁</ref>。種牡馬生活13年目の2006年、3頭と交配した後の4月3日午後5時15分に[[心不全]]で19歳で死亡、生没同日を果たしている<ref name="JBIS-種牡馬成績" /><ref>『優駿』2006年5月号 172頁</ref>。生き永らえていた場合、種牡馬を引退した後は、生まれ故郷のメジロ牧場で余生を過ごす予定だった<ref name="優駿-2006-5-175" />。存命していた父メジロティターンとともに過ごす計画があったが、叶わなかった<ref name="優駿-2006-5-175" />。5月17日、[[洞爺湖町]]のメジロ牧場にて、北野雄二や池江、ファンなど100人が参列して法要が行われている<ref>『優駿』2006年7月号 65頁</ref>。

産駒は、1997年からデビューし2014年まで日本競馬で走っている<ref name="JBIS-種牡馬成績" />。2008年の[[中山牝馬ステークス]]、[[クイーンステークス]]を制した[[ヤマニンメルベイユ]](父:[[サンデーサイレンス]])や、2009年の[[クイーンカップ]]、[[フローラステークス]]を制した[[ディアジーナ]](母父:ビショップボブ)などが重賞優勝を果たしたが、JRA-GI優勝産駒は現れなかった<ref name="優駿-2012-8-100">『優駿』2012年8月号 100頁</ref><ref name="優駿-2012-8-101" />。特に天皇賞を勝てば、父系四代天皇賞制覇であり、特にメジロ牧場はそれを目指して自らの一線級の繁殖牝馬をあてがっていた<ref name="優駿-1994-9-27" />。しかし最高順位は、2008年春に臨んだ[[ホクトスルタン]](ダイイチ牧場生産、母父:サンデーサイレンス、優勝:[[アドマイヤジュピタ]])の4着に留まり、それを産駒で果たすことはできなかった<ref name="優駿-2012-8-101">『優駿』2012年8月号 101頁</ref><ref name="優駿-2015-10-45">『優駿』2015年10月号 45頁</ref>。徳武はメジロマックイーンの種牡馬時代を振り返り、「最後まで(種牡馬としての)イメージがつかめず、配合に迷いがあった<ref name="優駿-2009-5-63" />」と述べている。

== 死後 ==

=== "黄金配合" ===

種牡馬としてのメジロマックイーンは、優秀な産駒の輩出には至らず、有力な後継種牡馬は出現せず、父系は枝葉を広げるほど発展しなかった<ref name="優駿-2009-9-39" /><ref name="優駿-2013-1-67">『優駿』2013年1月号 67頁</ref>。ただ産駒の牝馬が、いくらか繁殖牝馬として残されるのみとなる。父としての産駒が活躍しなかったメジロマックイーンには、母系に降り「母の父」「母の母の父」などとしての優秀な産駒が出現する将来に託すことしかできなかったが、優秀な産駒に巡り合うことなく、メジロマックイーンは死亡している<ref name="優駿-2014-9-21">『優駿』2014年9月号 21頁</ref>。

ただ死後、遺された数少ない繁殖牝馬が、種牡馬ステイゴールドと結びつく<ref>『優駿』2011年6月号 37頁</ref>。ステイゴールドとメジロマックイーンは共に気性が荒く、馬産地ではこの2頭を繋ぎとめる行為は、気性がさらに荒い産駒が産まれるだけ、「禁じ手<ref name="優駿-2014-2-15">『優駿』2014年2月号 15頁</ref>」(後藤正俊)であると考えられて敬遠されていた<ref name="優駿-2014-2-15" />。しかしその交配に挑んだ白老ファームから、[[ドリームジャーニー]]が誕生する<ref name="優駿-2014-2-15" />。それにオルフェーヴル、ゴールドシップが続き、この3頭は共に優秀な成績を残した。
{| class="wikitable" style="float:right; font-size:smaller; text-align:center; margin:10px"
|+"黄金配合"産駒活躍時のBMS成績<ref name="JBIS-BMS成績">{{Cite web |title=種牡馬情報:BMS成績|メジロマックイーン|JBISサーチ(JBIS-Search) |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000203356/sire/bms/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2022-07-03}}</ref>
!
!順位
![[アーニングインデックス|AEI]]
|-
!没年
|97
|1.76
|-
! colspan="3" |
|-
!2010
|52
|1.28
|-
!2011
|'''9'''
|3.82
|-
!2012
|'''8'''
|3.60
|-
!2013
|'''11'''
|3.36
|}

このことからメジロマックイーンは「母の父」として、生前の種牡馬時代を上回る名声を得ることになった。特に2011年から2012年のクラシックにおいては、まずオルフェーヴルが皐月賞、東京優駿、菊花賞を優勝し、ゴールドシップがその翌年の皐月賞を優勝している<ref name="優駿-2012-8-43">『優駿』2012年8月号 43頁</ref>。同じ父のクラシック4連勝は、[[ダイオライト]]{{Efn|4連勝。1940年菊花賞[[テツザクラ]]。1941年皐月賞[[セントライト]]、東京優駿[[イエリユウ]]、菊花賞セントライト。(1942年皐月賞:アルバイト(改名後:クリヒカリ、[[シアンモア]]産駒)}}、[[プリメロ]]{{Efn|5連勝。1949年皐月賞[[トサミドリ]]、東京優駿[[タチカゼ]]、菊花賞トサミドリ。1950年皐月賞[[クモノハナ]]、東京優駿クモノハナ。(菊花賞:ハイレコード(セフト産駒)}}、サンデーサイレンス{{Efn|4連勝。2000年皐月賞[[エアシャカール]]、東京優駿[[アグネスフライト]]、菊花賞エアシャカール。2001年皐月賞[[アグネスタキオン]]。(東京優駿:[[ジャングルポケット (競走馬)|ジャングルポケット]]([[トニービン]]産駒)}}の例があったが、同じ父と母父のクラシック4連勝は、史上初めてだった<ref name="優駿-2012-8-43" />。日本競馬が成熟し、多様な配合ができる時代にあって同じ父と母父による4連勝は、増田英樹によれば「競馬史の中でいつまでも語り継がれるべき快挙<ref name="優駿-2012-8-43" />」だと評している。この配合パターンは、オルフェーヴルやゴールドシップが活躍した頃に、広く認識されるようになり、「'''黄金配合<ref name="優駿-2012-6-11">『優駿』2012年6月号 11頁</ref>'''」「'''奇跡の配合'''<ref name="優駿-2014-2-15" />」などと称された。ただメジロマックイーンは既に死んでいたこと、その血統が低く見られていたことで、その血を引く繁殖牝馬の数が少なかった。そのため、ある生産者は「黄金配合」を行うために乗馬に転用された父メジロマックイーンの牝馬を、生産牧場に引き戻し、繁殖牝馬にするといった行動も見られた<ref>『優駿』2015年3月号 99頁</ref>。

{{競走馬血統表5代
|name=黄金配合
|ref1=<ref name="JBIS-オルフェーヴル">{{Cite web |title=血統情報:5代血統表|オルフェーヴル|JBISサーチ(JBIS-Search) |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001090360/pedigree/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2022-07-03}}</ref>
|f=[[ステイゴールド]]
|f年=1994
|f毛=黒鹿毛
|f国=JPN
|f-info=7勝

|ff=[[サンデーサイレンス]]
|ff-imp=y
|ff-sub=Sunday Silence
|ff年=1986
|ff毛=青鹿毛
|ff国=USA
|ff-info=9勝

|fm=[[ゴールデンサッシュ]]
|fm年=1988
|fm毛=栗毛
|fm国=JPN
|fm-info=0勝

|fff=[[ヘイロー (競走馬)|Halo]]
|ffm=[[ウィッシングウェル|Wishing Well]]
|ffff=[[ヘイルトゥリーズン|Hail to Reason]]
|fffm=[[コスマー|Cosmah]]
|fffff=[[ターントゥ|Turn-to]]
|ffffm=Nothirdchance
|fffmf={{ill2|Cosmic Bomb|en|Cosmic Bomb (horse)}}
||fffmm=[[アルマームード|Almahmoud]]
|ffmf=Understanding
|ffmm=Mountain Flower
|ffmff=Promised Land
|ffmfm=Pretty Ways
|ffmmf=Montparnasse
|ffmmm=Edelweiss

|fmf=[[ディクタス]]
|fmf-imp=y
|fmf-sub=Dictus|
fmm=ダイナサッシュ
|fmff=[[サンクタス|Sanctus]]
|fmfm=Doronic
|fmfff=Fine Top
|fmffm=Sanelta
|fmfmf=Worden
|fmfmm=Dulzetta

|fmmf=[[ノーザンテースト]]
|fmmf-imp=y
|fmmm=[[ロイヤルサッシュ]]
|fmmm-imp=y
|fmmff=[[ノーザンダンサー|Northern Dancer]]
|fmmfm=Lady Victoria
|fmmmf=[[プリンスリーギフト|Princely Gift]]
|fmmmm=Sash of Honour

|mf=メジロマックイーン
|mf年=1987
|mf毛=芦毛
|mf国=JPN
|mf-info=12勝


|mff=[[メジロティターン]]
|mfm=メジロオーロラ
|mfff=[[メジロアサマ]]
|mfff-imp=y
|mffm=[[シェリル (競走馬)|シェリル]]
|mffm-imp=y
|mffff=[[パーソロン]]
|mffff-imp=y
|mfffm=スヰート
|mfffm-imp=y
|mffmf=スノッブ
|mffmf-imp=y
|mffmm=Chanel
|mfmf=[[リマンド]]
|mfmf-imp=y
|mfmm=メジロアイリス
|mfmff=[[アルサイド (競走馬)|Alcide]]
|mfmfm=Admonish
|mfmmf=[[ヒンドスタン]]
|mfmmf-imp=y
|mfmmm=[[アサマユリ]]

|m=-
|mm=-
|mmf=-
|mmm=-
|mmff=-
|mmfm=-
|mmfff=-
|mmffm=-
|mmfmf=-
|mmfmm=-
|mmmf=-
|mmmm=-
|mmmff=-
|mmmfm=-
|mmmmf=-
|mmmmm=-
|父系=[[サンデーサイレンス系]]
|根幹父系=[[ロイヤルチャージャー系]]
|三大父系=[[ダーレーアラビアン|ダーレーアラビアン系]]
|ref2=<ref name="JBIS-オルフェーヴル" />
}}

ドリームジャーニー、オルフェーヴル兄弟並びにゴールドシップは、競走馬引退後に種牡馬となり、重賞優勝産駒を産んでいる。例えばオルフェーヴルの初年度産駒、2018年の皐月賞を優勝した[[エポカドーロ]]の父母父が、メジロマックイーンである<ref>{{Cite web |title=血統情報:5代血統表|エポカドーロ|JBISサーチ(JBIS-Search) |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001203083/pedigree/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2022-07-03}}</ref>。エポカドーロを始め後継種牡馬もおり、メジロマックイーンの血は継承されている<ref>{{Cite web |title=エポカドーロ|JBISサーチ(JBIS-Search) |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001203083/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2022-07-03}}</ref>。

==== オリエンタルアート ====
[[オリエンタルアート]]は、父メジロマックイーン、母エレクトロアートの牝馬である。日本における牝系は、社台ファームが1982年にアメリカから輸入したグランマスティーヴンスから続いており、エレクトロアート、オリエンタルアートと社台系列の[[白老ファーム]]で育まれていた<ref>『優駿』2011年7月号 31頁</ref><ref name="優駿-2013-1-67" />。オリエンタルアートは競走馬として23戦3勝という成績を残して引退し、繁殖牝馬となる。オリエンタルアートの仔は種付けをする前から、厩舎を開業する池江泰郎の息子・池江泰寿厩舎に入厩することが内定していた<ref name="優駿-2014-2-16" />。そのため、白老ファームは、泰郎が管理したメジロマックイーンに合わせて、同じく泰郎が管理し白老産で、池江家にゆかりのあるステイゴールドをあてがう<ref name="優駿-2014-2-16">『優駿』2014年2月号 16頁</ref>。ステイゴールドは、2着10回入着22回、2001年[[香港ヴァーズ]]優勝馬、種牡馬供用2年目だった<ref name="優駿-2013-1-67" />。
[[ファイル:Dream Journey 20070527P1.jpg|サムネイル|225x225ピクセル|[[ドリームジャーニー]]]]
そして2004年に白老ファームで生産された鹿毛の牡馬が、'''ドリームジャーニー'''となる。開業したばかりの泰寿厩舎からデビューしていた<ref name="優駿-2014-2-16" />。3戦2勝で迎えた2006年の[[朝日杯フューチュリティステークス]]を、[[蛯名正義]]に導かれて優勝し、GI競走戴冠<ref name="優駿-2013-1-67" />。その後、武に導かれて2007年[[神戸新聞杯]]を優勝<ref>『優駿』2013年1月号 68頁</ref>、[[池添謙一]]に導かれて2009年の宝塚記念、有馬記念というファン投票競走、通称「[[グランプリ (中央競馬)|グランプリ]]」を連覇している<ref>『優駿』2013年1月号 70頁</ref><ref>『優駿』2013年1月号 72頁</ref>。
[[ファイル:58th Arima 20131222.jpg|サムネイル|オルフェーヴル]]
その後のオリエンタルアートは、[[ダンスインザダーク]]、[[クロフネ]]、[[ネオユニヴァース]]との交配を経て5年目<ref name="優駿-2011-12-15">『優駿』2011年6月号 14頁</ref>・2007年に、[[ディープインパクト (競走馬)|ディープインパクト]]と交配する。ただ3度挑んでも受胎しなかった<ref name="優駿-2014-2-17">『優駿』2014年2月号 17頁</ref>。仔が生まれない「空胎」の1年を作りたくなかった白老ファームは、ディープインパクトに代わる交配相手に、ドリームジャーニーを参考にして再びステイゴールドを選択する<ref name="優駿-2011-12-15" /><ref name="優駿-2014-2-17" />。そして2008年に産まれた栗毛の牡馬が、'''オルフェーヴル'''となる。徳武によれば、オルフェーヴルは顔がメジロマックイーンに似ていたという<ref>『優駿』2011年12月号 15頁</ref>。兄に同じく、泰寿厩舎からデビュー。池添に導かれて、2011年のクラシック三冠を独り占めし、有馬記念も優勝。さらに2012年宝塚記念、2013年有馬記念も優勝した<ref>{{Cite web |title=オルフェーヴル|JBISサーチ(JBIS-Search) |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001090360/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2022-07-03}}</ref>。

==== ポイントフラッグ ====
ポイントフラッグは、父メジロマックイーン、母パストラリズムの牝馬である。日本における牝系は、[[宮内省]][[宮内庁下総御料牧場|下総御料牧場]]が1931年にアメリカから輸入した星旗([[下総御料牧場の基礎輸入牝馬]])から続いている<ref name="優駿-2012-8-44">『優駿』2012年8月号 44頁</ref>。その星旗の末裔、スイートフラッグに一目惚れした若かりし頃の[[小林英一]]が、時を経て馬主となり、星旗の末裔でスイートフラッグの母の末裔{{Efn|スイートフラッグの母は、風玲という。この風玲の末裔(パストラリズムの3代母)<ref>{{Cite web |title=血統情報:5代血統表|ポイントフラッグ|JBISサーチ(JBIS-Search) |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000329411/pedigree/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2022-06-30}}</ref>。}}である牝馬パストラリズムを所有<ref name="優駿-2012-8-43" /><ref name="優駿-2012-8-44" />。北海道日高町の出口牧場に預託し、ポイントフラッグが誕生している<ref name="優駿-2012-8-43" />。ポイントフラッグは小林所有のもと、栗東の[[須貝彦三]]厩舎からデビュー。2001年[[チューリップ賞]]2着など15戦1勝で引退し、出口牧場で繁殖牝馬となる<ref name="優駿-2012-8-44" />。2004年に初仔を産んでから生産し続けた。しかしポイントフラッグは500キログラム越えの馬体をしており、仔も大きかった<ref name="優駿-2012-8-44" />。そこで2008年、出口は、ポイントフラッグとは対照的に体の小さなステイゴールドをあてがう<ref name="優駿-2012-8-44" />。
[[ファイル:Gold Ship Tenno Sho(Spring) 2015.jpg|サムネイル|233x233ピクセル|[[ゴールドシップ]]]]
そして2009年に産まれた、出口の思惑外れて大きく生まれた牡馬が、'''ゴールドシップ'''となる<ref name="優駿-2012-8-44" />。ゴールドシップは、母ポイントフラッグを、ひいてはメジロマックイーンの系譜を受け継いで芦毛だった。須貝彦三の息子・[[須貝尚介]]厩舎からデビューし、[[内田博幸]]に導かれて2012年のクラシック二冠(皐月賞、菊花賞)と有馬記念を優勝。2013年には宝塚記念を優勝。そして[[横山典弘]]に導かれて翌2014年の宝塚記念を優勝し連覇していた。そして2015年には、天皇賞(春)を優勝する<ref>{{Cite web |title=ゴールドシップ|JBISサーチ(JBIS-Search) |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001104811/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2022-07-03}}</ref>。これによりメジロマックイーンは、母の父として産駒で天皇賞優勝馬を産み出した<ref name="優駿-2015-10-45" />。

== 競走成績 ==
以下の内容は、[[netkeiba.com]]<ref>{{Cite web |title=メジロマックイーンの競走成績 {{!}} 競走馬データ |url=https://db.netkeiba.com/horse/1987107235/ |website=netkeiba.com |access-date=2022-06-25 |language=ja}}</ref>並びにJBISサーチ<ref>{{Cite web |title=競走成績:全競走成績|メジロマックイーン|JBISサーチ(JBIS-Search) |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000203356/record/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2022-06-25}}</ref>、『[[優駿]]』<ref name="優駿-2002-5-59" /><ref name="優駿-2012-8-100" />の情報に基づく。
{| style="border-collapse: collapse; font-size: 90%; text-align: center; white-space: nowrap;"
! colspan="3" |競走日
! nowrap="" |競馬場
!競走名
!格
!距離
(馬場)
!頭
!枠
!馬
!オッズ
(人気)
!着順
! colspan="2" |タイム
(上り3F)
!着差
!騎手
!斤量
[kg]
!1着馬
(2着馬)
!馬体重
[kg]
|-
|[[1990年|1990]].
|{{0}}2.
|[[2月3日|{{0}}3]]
|[[阪神競馬場|阪神]]
|[[阪神競馬場|阪神]]
|[[新馬|4歳新馬]]
|[[新馬|4歳新馬]]
|
|
| nowrap="" |ダ1700m(不)
|10
|10
|6
|6
|6
|6
|3.3(2人)
| nowrap="" |3.3(2人)
|{{color|darkred|1着}}
|{{0}}{{color|darkred|1着}}
| nowrap="" |{{0}}1.47.7
|ダ1700m(不)
|(37.0)
|1.47.7
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| (37.0)
|{{0}}[[村本善之]]
| -0.3
|55
|[[村本善之]]
|(ハギノレジェンド)
|(ハギノレジェンド)
|492

|-
|-
|
|
|2.
|{{0}}2.
|[[2月25日|25]]
|25
|阪神
|阪神
|ゆきやなぎ賞
|ゆきやなぎ賞
|5下
|{{small|500万下}}
|芝2000m(重)
|13
|13
|5
|5
|6
|6
|2.2(1人)
|2.2(1人)
|{{color|darkblue|2着}}
|{{0}}{{color|darkblue|2着}}
|{{0}}2.04.6
|芝2000m(重)
|(38.5)
|2.04.6
|{{0|-}}0.2
| (38.5)
|{{0}}村本善之
|0.2
|55
|村本善之
|シンボリデーバ
|シンボリデーバ
|486

|-
|-
|
|
|5.
|{{0}}5.
|[[5月12日|12]]
|12
|[[京都競馬場|京都]]
|[[京都競馬場|京都]]
|あやめ賞
|あやめ賞
|5下
|{{small|500万下}}
|芝2200m(良)
|15
|15
|2
|2
|3
|3
|1.7(1人)
|1.7(1人)
|{{color|darkgreen|3着}}
|{{0}}{{color|darkgreen|3着}}
|{{0}}2.17.5
|芝2200m(良)
|(37.8)
|2.17.5
|{{0|-}}0.4
| (37.8)
|{{0}}村本善之
|0.4
|55
|村本善之
|ホウユウロイヤル
|ホウユウロイヤル
|484

|-
|-
|
|
|9.
|{{0}}9.
|{{0}}[[9月2日|2]]
|2
|[[函館競馬場|函館]]
|[[函館競馬場|函館]]
|渡島特別
|渡島特別
|5下
|{{small|500万下}}
|ダ1700m(良)
|10
|10
|7
|7
|8
|8
|1.7(1人)
|1.7(1人)
|{{color|darkblue|2着}}
|{{0}}{{color|darkblue|2着}}
|{{0}}1.46.6
|ダ1700m(良)
|(38.9)
|1.46.6
|{{0|-}}0.0
| (38.9)
|{{0}}[[内田浩一]]
|0.0
|55
|[[内田浩一]]
|[[マンジュデンカブト]]
|マンジュデンカブト
|496

|-
|-
|
|
|9.
|{{0}}9.
|[[9月16日|16]]
|16
|函館
|函館
|木古内特別
|木古内特別
|5下
|{{small|500万下}}
|ダ1700m(重)
|8
|8
|4
|4
|4
|4
|1.2(1人)
|1.2(1人)
|{{color|darkred|1着}}
|{{0}}{{color|darkred|1着}}
|{{0}}1.47.3
|ダ1700m(重)
|(37.6)
|1.47.3
| (37.6)
| -0.1
| -0.1
|内田浩一
|{{0}}内田浩一
|55
|(リキサンロイヤル)
|(リキサンロイヤル)
|498

|-
|-
|
|
|9.
|{{0}}9.
|[[9月23日|23]]
|23
|函館
|函館
|大沼S
|大沼S
|9下
|{{small|900万下}}
|芝2000m(不)
|14
|14
|7
|7
|12
|12
|4.1(1人)
|4.1(1人)
|{{color|darkred|1着}}
|{{0}}{{color|darkred|1着}}
|{{0}}2.04.5
|芝2000m(不)
|(38.2)
|2.04.5
| (38.2)
| -0.3
| -0.3
|内田浩一
|{{0}}内田浩一
|54
|(トウショウアイ)
|(トウショウアイ)
|498

|-
|-
|
|
|10.
|10.
|[[10月13日|13]]
|13
|京都
|京都
|嵐山S
|嵐山S
|15下
|{{small|1500万下}}
|芝3000m(稍)
|9
|9
|5
|5
|5
|5
|2.4(1人)
|2.4(1人)
|{{color|darkblue|2着}}
|{{0}}{{color|darkblue|2着}}
|{{0}}3.06.6
|芝3000m(稍)
|(36.5)
|3.06.6
|{{0|-}}0.2
| (36.5)
|{{0}}内田浩一
|0.2
|55
|内田浩一
|ミスターアダムス
|ミスターアダムス
|480

|-
|-
|
|
|11.
|11.
|{{0}}[[11月4日|4]]
|4
|京都
|京都
|[[菊花賞]]
|[[菊花賞]]
|{{GI}}
|{{GI}}
|芝3000m(重)
|17
|17
|2
|2
|2
|2
|7.8(4人)
|7.8(4人)
|{{color|darkred|1着}}
|{{0}}{{color|darkred|1着}}
|{{0}}3.06.2
|芝3000m(重)
|(35.4)
|3.06.2
| (35.4)
| -0.2
| -0.2
|内田浩一
|{{0}}内田浩一
|57
|([[ホワイトストーン]])
|([[ホワイトストーン]])
|484

|-
|-
|1991.
|[[1991年|1991]].
|3.
|{{0}}3.
|[[3月10日|10]]
|10
|[[中京競馬場|中京]]
|[[中京競馬場|中京]]
|[[阪神大賞典]]
|[[阪神大賞典]]
|{{GII}}
|{{GII}}
|芝3000m(良)
|9
|9
|4
|4
|4
|4
|1.2(1人)
|1.2(1人)
|{{color|darkred|1着}}
|{{0}}{{color|darkred|1着}}
|芝3000m(良)
|{{color|darkred|R3.07.3}}
|{{color|darkred|R3.07.3}}
|(35.4)
| (35.4)
| -0.4
| -0.4
|[[武豊]]
|{{0}}[[武豊]]
|58
|(ゴーサイン)
|(ゴーサイン)
|488

|-
|-
|
|
|4.
|{{0}}4.
|[[4月28日|28]]
|28
|京都
|京都
|[[天皇賞(春)]]
|[[天皇賞(春)]]
|{{GI}}
|{{GI}}
|芝3200m(良)
|18
|18
|7
|7
|15
|15
|1.7(1人)
|1.7(1人)
|{{color|darkred|1着}}
|{{0}}{{color|darkred|1着}}
|{{0}}3.18.8
|芝3200m(良)
|(36.0)
|3.18.8
| (36.0)
| -0.4
| -0.4
|武豊
|{{0}}武豊
|58
|(ミスターアダムス)
|(ミスターアダムス)
|482

|-
|-
|
|
|6.
|{{0}}6.
|[[6月9日|{{0}}9]]
|9
|京都
|京都
|[[宝塚記念]]
|[[宝塚記念]]
|{{GI}}
|{{GI}}
|芝2200m(良)
|10
|10
|8
|8
|10
|10
|1.4(1人)
|1.4(1人)
|{{color|darkblue|2着}}
|{{0}}{{color|darkblue|2着}}
|{{0}}2.13.8
|芝2200m(良)
|(36.1)
|2.13.8
|{{0|-}}0.2
| (36.1)
|{{0}}武豊
|0.2
|56
|武豊
|[[メジロライアン]]
|[[メジロライアン]]
|484

|-
|-
|
|
|10.
|10.
|{{0}}[[10月6日|6]]
|6
|京都
|京都
|[[京都大賞典]]
|[[京都大賞典]]
|{{GII}}
|{{GII}}
|芝2400m(良)
|7
|7
|4
|4
|4
|4
|1.1(1人)
|1.1(1人)
|{{color|darkred|1着}}
|{{0}}{{color|darkred|1着}}
|{{0}}2.26.5
|芝2400m(良)
|(35.5)
|2.26.5
| (35.5)
| -0.6
| -0.6
|武豊
|{{0}}武豊
|59
|(メイショウビトリア)
|(メイショウビトリア)
|486

|-
|-
|
|
|10.
|10.
|[[10月27日|27]]
|27
|[[東京競馬場|東京]]
|[[東京競馬場|東京]]
|[[天皇賞(秋)]]
|[[天皇賞(秋)]]
|{{GI}}
|{{GI}}
|芝2000m(不)
|18
|18
|7
|7
|13
|13
|1.9(1人)
|1.9(1人)
|*18着
|18着
|{{0}}2.02.9
|芝2000m(不)
|(37.4)
|2.02.9
| (37.4)
| -1.0
| -1.0
|武豊
|{{0}}武豊
|58
|[[プレクラスニー]]
|[[プレクラスニー]]
|498

|-
|-
|
|
|11.
|11.
|[[11月24日|24]]
|24
|東京
|東京
|[[ジャパンカップ|ジャパンC]]
|[[ジャパンカップ]]
|{{GI}}
|{{GI}}
|芝2400m(良)
|15
|15
|3
|3
|5
|5
|1.9(1人)
|1.9(1人)
|4着
|{{0}}4着
|{{0}}2.25.3
|芝2400m(良)
|(34.9)
|2.25.3
|{{0|-}}0.6
| (34.9)
|{{0}}武豊
|0.6
|57
|武豊
|[[ゴールデンフェザント]]
|[[ゴールデンフェザント]]
|498

|-
|-
|
|
|12.
|12.
|[[12月22日|22]]
|22
|[[中山競馬場|中山]]
|[[中山競馬場|中山]]
|[[有馬記念]]
|[[有馬記念]]
|{{GI}}
|{{GI}}
|芝2500m(良)
|15
|15
|1
|1
|1
|1
|1.7(1人)
|1.7(1人)
|{{color|darkblue|2着}}
|{{0}}{{color|darkblue|2着}}
|{{0}}2.30.8
|芝2500m(良)
|(35.6)
|2.30.8
|{{0|-}}0.2
| (35.6)
|{{0}}武豊
|0.2
|57
|武豊
|[[ダイユウサク]]
|[[ダイユウサク]]
|492

|-
|-
|1992.
|[[1992年|1992]].
|3.
|{{0}}3.
|[[3月15日|15]]
|15
|阪神
|阪神
|阪神大賞典
|阪神大賞典
|{{GII}}
|{{GII}}
|芝3000m(良)
|6
|6
|4
|4
|4
|4
|1.3(1人)
|1.3(1人)
|{{color|darkred|1着}}
|{{0}}{{color|darkred|1着}}
|{{0}}3.13.5
|芝3000m(良)
|(36.7)
|3.13.5
| (36.7)
| -0.4
| -0.4
|武豊
|{{0}}武豊
|59
|([[カミノクレッセ]])
|([[カミノクレッセ]])
|492

|-
|-
|
|
|4.
|{{0}}4.
|[[4月26日|26]]
|26
|京都
|京都
|天皇賞(春)
|天皇賞(春)
|{{GI}}
|{{GI}}
|芝3200m(稍)
|14
|14
|4
|4
|5
|5
|2.2(2人)
|2.2(2人)
|{{color|darkred|1着}}
|{{0}}{{color|darkred|1着}}
|{{0}}3.20.0
|芝3200m(稍)
|(36.3)
|3.20.0
| (36.3)
| -0.8
| -0.8
|武豊
|{{0}}武豊
|58
|(カミノクレッセ)
|(カミノクレッセ)
|490

|-
|-
|1993.
|[[1993年|1993]].
|4.
|{{0}}4.
|[[4月4日|{{0}}4]]
|4
|阪神
|阪神
|[[産経大阪杯]]
|[[産経大阪杯]]
|{{GII}}
|{{GII}}
|芝2000m(良)
|16
|16
|7
|7
|13
|13
|2.4(1人)
|2.4(1人)
|{{color|darkred|1着}}
|{{0}}{{color|darkred|1着}}
|芝2000m(良)
|{{color|darkred|R2.03.3}}
|{{color|darkred|R2.03.3}}
|(37.1)
| (37.1)
| -0.8
| -0.8
|武豊
|{{0}}武豊
|59
|([[ナイスネイチャ]])
|([[ナイスネイチャ]])
|504

|-
|-
|
|
|4.
|{{0}}4.
|[[4月25日|25]]
|25
|京都
|京都
|天皇賞(春)
|天皇賞(春)
|{{GI}}
|{{GI}}
|芝3200m(良)
|15
|15
|8
|8
|14
|14
|1.6(1人)
|1.6(1人)
|{{color|darkblue|2着}}
|{{0}}{{color|darkblue|2着}}
|{{0}}3.17.5
|芝3200m(良)
|(36.8)
|3.17.5
|{{0|-}}0.4
| (36.8)
|{{0}}武豊
|0.4
|58
|武豊
|[[ライスシャワー]]
|[[ライスシャワー]]
|500

|-
|-
|
|
|6.
|{{0}}6.
|[[6月13日|13]]
|13
|阪神
|阪神
|宝塚記念
|宝塚記念
|{{GI}}
|{{GI}}
|芝2200m(良)
|11
|11
|6
|6
|6
|6
|1.5(1人)
|1.5(1人)
|{{color|darkred|1着}}
|{{0}}{{color|darkred|1着}}
|{{0}}2.17.7
|芝2200m(良)
|(38.0)
|2.17.7
| (38.0)
| -0.3
| -0.3
|武豊
|{{0}}武豊
|56
|([[イクノディクタス]])
|([[イクノディクタス]])
|494

|-
|-
|
|
|10.
|10.
|[[10月10日|10]]
|10
|京都
|京都
|京都大賞典
|京都大賞典
|{{GII}}
|{{GII}}
|芝2400m(良)
|11
|11
|1
|1
|1
|1
|1.2(1人)
|1.2(1人)
|{{color|darkred|1着}}
|{{0}}{{color|darkred|1着}}
|芝2400m(良)
|{{color|darkred|R2.22.7}}
|{{color|darkred|R2.22.7}}
|(35.7)
| (35.7)
| -0.6
| -0.6
|武豊
|{{0}}武豊
|59
|([[レガシーワールド]])
|([[レガシーワールド]])
|496
|}
|}
*1 (*)1位入線の後、18着に[[降着制度|降着]]。
*1位入線の後、18着に[[降着制度|降着]]。
*2 タイム欄の{{color|darkred|R}}はレコード勝ちを示す。
*タイム欄の{{color|darkred|R}}はレコード勝ちを示す。


== 特徴・評価 ==
== 種牡馬成績 ==

=== 競走馬としての特徴・適性 ===
=== 産駒成績 ===
「無尽蔵」とも称された豊富なスタミナを活かし、ハイペースの長距離戦でも先行策をとってそのまま押し切るというレーススタイルを得意とした。一般的に[[競走馬#ステイヤー|ステイヤー]](長距離得意の馬)と認識されており、「史上最強のステイヤー」とも評される。競馬評論家の[[大川慶次郎]]は、マックイーンは時計の早い競馬に持ち込んで勝つタイプの馬だが一瞬の切れ味とは縁がなく、「そういう意味では間違いなく真のステイヤー」と述べている<ref>大川(1997)pp.154-155</ref>。しかし5歳以降に手綱を執った武豊は「短距離でも充分に強く、ただ距離が持つだけ<ref name="shimada2003-90">島田(2003)p.90</ref>」「[[マイル]]のGIレースでも勝負になった<ref>『菊花賞十番勝負』p.330</ref>」「[[スプリンターズステークス]]でもメンバーによってはブッチぎったかもしれない」<ref>島田(2004)p.164</ref>と発言している。また一般に見られる例とは逆に加齢とともにレースでの落ち着きを失っていったといい、1993年春の天皇賞前には「今のマックイーンに3200mは長すぎます」とも語っていた<ref>島田(2003)p.105</ref>。

武は後年になって、[[凱旋門賞]]に挑戦してみたかった名馬として[[キタサンブラック]]、[[スーパークリーク]]とともに本馬を挙げた上で「スタミナが半端なかったし、道悪もいいし、スピードもある。レースに注文があまりつかなかった」と述べて能力を高く評価している<ref>{{Cite web|title=武豊が凱旋門賞にともに挑戦したかった名馬3頭とは…安藤勝己氏は即答「キンカメなら…」 - スポニチ Sponichi Annex ギャンブル|url=https://www.sponichi.co.jp/gamble/news/2019/01/29/kiji/20190129s00004048167000c.html|website=スポニチ Sponichi Annex|accessdate=2021-09-20}}</ref>。
==== 年度別成績 ====
以下の内容は、JBISサーチの情報<ref name="JBIS-種牡馬成績">{{Cite web |title=種牡馬情報:世代・年次別(サラ系総合)|メジロマックイーン|JBISサーチ(JBIS-Search) |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000203356/sire/generation/thorough_s/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2022-06-16}}</ref><ref>{{Cite web |title=種牡馬情報:種牡馬成績 |メジロマックイーン|JBISサーチ(JBIS-Search) |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000203356/sire/record/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2022-07-03}}</ref>、『優駿』<ref name="優駿-2009-5-63" />に基づく。
{| class="wikitable"
!種付年度
!生産年度
!種付頭数
!生産頭数
!血統登録頭数
!出走頭数
!勝馬頭数
!重賞勝馬頭数
![[アーニングインデックス|AEI]]
![[コンパラブルインデックス|CPI]]
!重賞優勝産駒
!順位
!勝馬率
|-
!1994
!1995
|98
|84
|84
|69
|47
|2
|1.62
|
|[[エイダイクイン]]
|8
|69.57
|-
!1995
!1996
|88
|65
|62
|56
|37
|0
|1.18
|
|
|24
|66.07
|-
!1996
!1997
|80
|53
|52
|45
|27
|0
|1.27
|
|
|27
|62.22
|-
!1997
!1998
|82
|58
|59
|52
|32
|1
|0.75
|
|タイムフェアレディ
|38
|63.46
|-
!1998
!1999
|149
|103
|102
|89
|63
|0
|0.75
|
|
|34
|71.91
|-
!1999
!2000
|100
|59
|57
|51
|34
|0
|1.03
|
|
|39
|66.67
|-
!2000
!2001
|83
|45
|44
|41
|20
|0
|0.37
|
|
|102
|48.78
|-
!2001
!2002
|142
|87
|84
|73
|43
|2
|0.59
|
|[[ヤマニンメルベイユ]]
|48
|58.90
|-
!2002
!2003
|81
|42
|41
|27
|16
|0
|0.18
|
|
|166
|59.26
|-
!2003
!2004
|64
|42
|39
|28
|17
|1
|1.07
|
|[[ホクトスルタン]]
|64
|60.71
|-
!2004
!2005
|54
|30
|30
|24
|10
|1
|0.44
|
|
|112
|41.67
|-
!2005
!2006
|14
|10
|8
|6
|2
|1
|2.21
|
|[[ディアジーナ]]
|91
|33.33
|-
!2006
!2007
|3
|2
|2
|2
|2
|-
|0.54
|
|
|215
|100.00
|-
! colspan="4" |合計
|664
|563
|350
|8
|0.93
|1.06
|
| colspan="2" |
|}

* 出走頭数、勝馬頭数、重賞勝馬頭数、[[アーニングインデックス]]、[[コンパラブルインデックス]]は、[[平地競走]]に限る。

==== 重賞優勝産駒 ====
地方競馬独自の格付けは、アスタリスクを充てる。GI級競走は、'''太字強調'''にて示す。

* 1995年産
** エイダイクイン(牝、母父:[[ホリスキー]]、1998年[[クイーンカップ]])<ref>{{Cite web |title=エイダイクイン|JBISサーチ(JBIS-Search) |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000297793/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2022-06-21}}</ref>
** ストロングライフ(牡→騸、母父:[[ハイセイコー]]、2005年*[[梅見月杯]])<ref>{{Cite web |title=ストロングライフ|JBISサーチ(JBIS-Search) |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000294206/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2022-06-21}}</ref>

* 1998年産
** タイムフェアレディ(牝、母父:[[カツラギエース]]、2001年[[フラワーカップ]])<ref>{{Cite web |title=タイムフェアレディ|JBISサーチ(JBIS-Search) |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000324097/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2022-06-21}}</ref>
* 2002年産
** ヤングブレイヴ(牡、母父:[[モガミ]]、2008年*[[新春賞]])<ref>{{Cite web |title=ヤングブレイヴ|JBISサーチ(JBIS-Search) |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000738136/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2022-07-19}}</ref>
** [[ヤマニンメルベイユ]](牝、母父:[[サンデーサイレンス]]、2008年[[中山牝馬ステークス]]、[[クイーンステークス]])<ref>{{Cite web |title=ヤマニンメルベイユ|JBISサーチ(JBIS-Search) |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000737105/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2022-06-21}}</ref>
* 2004年産
** [[ホクトスルタン]](牡、母父:サンデーサイレンス、2008年[[目黒記念]])<ref>{{Cite web |title=ホクトスルタン|JBISサーチ(JBIS-Search) |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000804077/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2022-06-21}}</ref>
*2005年産
**ドリームインボス(牡、母父:[[スティールハート]]、2008年*[[門松賞]])<ref>{{Cite web |title=ドリームインボス|JBISサーチ(JBIS-Search) |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000885112/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2022-06-21}}</ref>
*2006年産
**[[ディアジーナ]](牝、母父:ビショップボブ、2009年[[フローラステークス]]、クイーンカップ)<ref>{{Cite web |title=ディアジーナ|JBISサーチ(JBIS-Search) |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000987542/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2022-06-21}}</ref>

==== ブルードメアサイアーとしての産駒成績 ====
以下の内容は、JBISサーチの情報に基づく<ref name="JBIS-BMS成績" />。
{| class="wikitable"
!年
!2002
!03
!04
!05
!06
!07
!08
!09
!10
!11
!12
!13
!14
!15
!16
!17
!18
!19
!20
!21
!22
|-
!順位
|1016
|623
|808
|480
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* 情報は、2022年7月3日時点

* 順位、[[アーニングインデックス]]は、[[平地競走]]に限る。

==== 重賞優勝産駒 ====
地方競馬独自の格付けは、アスタリスクを充てる。GI級競走は、競走名を'''太字強調'''にて示す。また父[[ステイゴールド]]のいわゆる「黄金配合」の馬には、名前を'''太字強調'''する。
* 2004年産
** '''[[ドリームジャーニー]]'''(牡、父:[[ステイゴールド]]、2006年'''[[朝日杯フューチュリティステークス]]'''、2007年[[神戸新聞杯]]、2008年[[小倉記念]]、[[チャレンジカップ (中央競馬)|チャレンジカップ]]、2009年産経大阪杯、'''[[宝塚記念]]'''、'''[[有馬記念]]''')<ref>{{Cite web |title=ドリームジャーニー|JBISサーチ(JBIS-Search) |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000804714/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2022-06-21}}</ref>
*2007年産
**タイセイレジェンド(牡、父:キングカメハメハ、2012年[[クラスターカップ]]、'''[[JBCスプリント]]'''、2013年[[東京盃]])<ref>{{Cite web |title=タイセイレジェンド|JBISサーチ(JBIS-Search) |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001043835/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2022-06-21}}</ref>
*2008年産
**'''[[オルフェーヴル]]'''(牡、父:ステイゴールド、2011年スプリングステークス、'''中央競馬クラシック三冠(皐月賞、東京優駿、菊花賞)'''2011年並びに2013年'''有馬記念'''、2012年'''宝塚記念'''、2013年産経大阪杯)<ref>{{Cite web |title=オルフェーヴル|JBISサーチ(JBIS-Search) |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001090360/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2022-06-21}}</ref>
** '''[[フェイトフルウォー]]'''(牡、父:ステイゴールド、2011年[[京成杯]]、[[セントライト記念]])<ref>{{Cite web |title=フェイトフルウォー|JBISサーチ(JBIS-Search) |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001093512/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2022-06-21}}</ref>
* 2009年産
** '''[[ゴールドシップ]]'''(牡、父:ステイゴールド、2012年[[共同通信杯]]、'''皐月賞'''、神戸新聞杯、'''菊花賞'''、'''有馬記念'''、2013 - 2015年阪神大賞典、2013年並びに2014年'''宝塚記念'''、2015年'''[[天皇賞(春)]]''')<ref>{{Cite web |title=ゴールドシップ|JBISサーチ(JBIS-Search) |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001104811/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2022-06-21}}</ref>
** [[フーラブライド]](牝、父:[[ゴールドアリュール]]、2013年[[愛知杯]]、2014年[[中山牝馬ステークス]])<ref>{{Cite web |title=フーラブライド|JBISサーチ(JBIS-Search) |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001106184/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2022-06-21}}</ref>
** [[ラブイズブーシェ]](牡、父:[[マンハッタンカフェ]]、2014年[[函館記念]])<ref>{{Cite web |title=ラブイズブーシェ|JBISサーチ(JBIS-Search) |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001103178/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2022-06-21}}</ref>
*2011年産
**オールラウンド(牡、父:[[パーソナルラッシュ]]、2014年*[[九州ダービー栄城賞]])<ref>{{Cite web |title=オールラウンド|JBISサーチ(JBIS-Search) |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001139257/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2022-06-21}}</ref>
*2016年産
**グリードパルフェ(牡、父:[[トビーズコーナー]]、2021年*[[高知県知事賞]])<ref>{{Cite web |title=グリードパルフェ|JBISサーチ(JBIS-Search) |url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001217156/ |website=www.jbis.or.jp |access-date=2022-06-21}}</ref>

== エピソード ==

=== 花の62年組 ===
{{Main|メジロパーマー#花の62年組}}
=== サンデーサイレンスとの関係 ===
[[ファイル:Sundaysilence.jpg|サムネイル|237x237ピクセル|[[サンデーサイレンス]]]]
社台スタリオンステーション早来に繋養されていた頃、メジロマックイーンは、気性が激しいために友達を作りにくかったサンデーサイレンスと仲を深めることができた<ref name="Number PLUS-2021-11-93">『Sports Graphic Number PLUS』2021年11月号 93頁</ref><ref name="優駿-2001-8-10">『優駿』2001年8月号 10頁</ref>。メジロマックイーンは性格が大人しく、誰とでも仲良くできる才能があり、その点で相性が良かったという<ref name="Number PLUS-2021-11-93" /><ref name="優駿-2001-8-10" />。あまりの相性に2頭は「恋人」と称されるまでに発展した<ref name="mac112">『優駿』2004年10月号 98頁</ref>。2頭の出会いのきっかけは、放牧地が隣同士となったことだった<ref name="mac102">『競馬種牡馬読本』202頁</ref>。当初は、気性の激しいサンデーサイレンスがメジロマックイーンを威嚇していたが、大人しいメジロマックイーンはそれを無視<ref name="mac102" />。するとサンデーサイレンスは威嚇を止めるようになり、メジロマックイーンの前で落ち着き、打ち解けるようになった<ref name="mac102" />。

サンデーサイレンス産駒は活躍馬を輩出し続けた一方、メジロマックイーン産駒は不振だった。しかしメジロマックイーンは、早々都落ちすることはなく、有力な種牡馬が揃う社台スタリオンステーション早来に留まり続けた<ref name="Number PLUS-2021-11-93" />。これはサンデーサイレンスとの相性が考慮された側面もあった。サンデーサイレンスが衰弱し死に近づく頃、2頭の馬房は隣同士にされている<ref name="Number PLUS-2021-11-93" />。メジロマックイーンは、死にゆくサンデーサイレンスを精神的に支えていたという<ref name="Number PLUS-2021-11-93" />。2002年にサンデーサイレンスと死に別れ、2004年に遂に都落ち。荻伏へ移動しているが、今度は、サンデーサイレンスの息子である[[ロサード]]に慕われていたという<ref name="mac112" />。
== 時代背景 ==

=== 芦毛 ===
芦毛の日本競馬史という観点からは、メジロマックイーンは「芦毛伝説第三章」に位置づけられる<ref name="優駿-2015-10-45" />。このネーミングは、メジロライアンやホワイトストーンと戦った1991年天皇賞(春)、京都競馬場のパドックに、ある大学生が張り出した横断幕が由来とされている<ref name="名馬読本-226">『競馬名馬読本』226頁</ref>。「第三章」とは、二つの意味が掛かっている<ref name="優駿-2015-10-45" />。一つは芦毛の馬は走らないと言われながらも、そのジンクスを覆す活躍で天皇賞を優勝したメジロアサマ、メジロティターン親仔に続く、第三世代がメジロマックイーンであるという意味である<ref name="名馬読本-226" />。またもう一つは、芦毛ながら日本競馬の主役に躍り出て、そのジンクスを亡きものとした[[タマモクロス]]、[[オグリキャップ]]に続く、第三世代がメジロマックイーンであるという意味である<ref name="名馬読本-226" />。<gallery mode="packed-hover">
ファイル:Tamamokurosu.JPG|alt=|[[タマモクロス]]
ファイル:Oguri Cap in Yushun Stallion station.jpg|alt=|[[オグリキャップ]]
</gallery>タマモクロスは1987年後半から条件戦を連勝して成り上がり、その連勝を継続しながら翌1988年の天皇賞(春)、宝塚記念を優勝し芦毛ながら日本競馬の主役となっていた<ref>『優駿』2015年10月号 42頁</ref>。続く天皇賞(秋)では14連勝中のオグリキャップとの芦毛対決を制して優勝し、ジャパンカップ2着、有馬記念2着を経て、この年限りで引退している。オグリキャップは、タマモクロスに連勝を止められたが、タマモクロスの引退レースである有馬記念で優勝し、タマモクロスの跡を継いでいた<ref name="優駿-2015-10-43">『優駿』2015年10月号 43頁</ref>。第二次競馬ブームの中心となったオグリキャップは、翌1989年にマイルチャンピオンシップを、1990年に安田記念を優勝。しかしその年の秋に低迷する<ref name="優駿-2015-10-43" />。その頃に、メジロマックイーンが菊花賞を優勝していた。その年の有馬記念では、メジロマックイーンはメジロライアンに譲って出走していないが、オグリキャップにとっては引退レースだった。オグリキャップは、ここで復活優勝し引退している<ref name="優駿-2015-10-43" />。その直後、次の年の天皇賞(春)にて、その横断幕が掲げられていた<ref name="名馬読本-226" />。

=== 血統 ===

==== 競走馬時代 ====
血統という観点から見ると競走馬時代は、ノーザンダンサー系の活躍と、[[サンデーサイレンス]]、[[トニービン]]、[[ブライアンズタイム]]といった「御三家」の活躍の狭間となっている<ref name="優駿-2010-8-36">『優駿』2010年8月号 36頁</ref>。メジロマックイーンの活躍した頃は、それまで主流血統だったノーザンダンサー系の勢いが弱まりつつあり、それに代わる次世代の種牡馬が模索されていた<ref name="優駿-2010-8-36" />。そのため、例えば同期のクラシック三冠競走の優勝馬は、[[ハイペリオン系]]([[ゲインズバラ系]])父[[ハイセイコー]]のハクタイセイ、[[サンインロー系]]([[ダークロナルド系]])父[[シーホーク (競走馬)|シーホーク]]のアイネスフウジン、そして[[パーソロン系]]([[ヘロド系]])父メジロティターンのメジロマックイーンであったり、この時期に活躍した馬は、同じくパーソロン系のトウカイテイオー、[[ネヴァーベンド系]]のミホノブルボン、[[ネイティヴダンサー系]]のオグリキャップであったりと、血統に多様性があった<ref>『優駿』2014年9月号 19-20頁</ref><ref name="優駿-2010-8-36" />。ただメジロマックイーンが競走馬として活躍する裏で、外国からサンデーサイレンス、トニービン、ブライアンズタイムなどの種牡馬が輸入されていた。この3頭の産駒が、メジロマックイーンの引退と入れ替わる形でデビューし始め、クラシック戦線で活躍が目立つようになり、ノーザンダンサー系に続く新たな主流血統として確立されていった<ref name="優駿-2010-8-36" />。

==== 種牡馬時代 ====
競走馬引退後の種牡馬時代は、そのサンデーサイレンス、トニービン、ブライアンズタイムといった主流血統の勢いに押された<ref name="優駿-2006-5-64" />。デビューの時期が早期化したこと、スピードが重視されるようになったことで、市場は早熟のスピード馬を求めるようになり、晩成のステイヤーでは出る幕がなかった<ref name="優駿-2006-5-64" />。特にサンデーサイレンスが台頭し、次第にサンデーサイレンス産駒の割合が高まり、血統の多様性が失われていった。時代遅れとなったメジロマックイーンは活躍馬を出すことができないまま、死亡している<ref name="優駿-2014-9-21" />。

==== 死後 ====
ただ同時期に主流血統の種牡馬も死したことで、次なる主流血統が求められるようになる時代が間もなくやってきた<ref name="優駿-2006-5-64" />。主流血統に大きく傾いていた市場は、早熟性、スピードばかり勝る馬が多くなり、反対にその後の成長力に乏しかったり、スタミナが不足しがちとなったため、晩成のステイヤー寄りの血統が重視されるようになっていた<ref name="優駿-2012-6-11" />。サラブレッドの血統は、ある一方が流行してしばらく経過すると、一方とは反対方向に揺り戻ることがつきものであり{{Efn|例えば「ある1頭のサラブレッド種牡馬」の血に偏ると、繁殖牝馬や種牡馬が「ある1頭のサラブレッド」の子孫である割合が高まる。「ある1頭のサラブレッド」の血が入っている馬同士では、極度な近親交配となってしまうため、自動的に「ある1頭のサラブレッド」の血を持たない種牡馬や繁殖牝馬を相手に据える必要がある。すると必然的に「ある1頭のサラブレッド」とは異なる趣向の種牡馬が流行する。これが絶え間なく繰り返されてきた。}}、この頃は奥手のステイヤーの出番、血統が蘇る機会だったが、肝心のメジロマックイーンはこの世にいなかった<ref name="優駿-2009-5-65">『優駿』2009年5月号 65頁</ref>。

生前のメジロマックイーンは、低迷しつつあった晩期に、主流血統で飽和しつつあったサンデーサイレンス産駒の繁殖牝馬といくらか交配している。スタミナと成長力に富む父メジロマックイーンと、スピードと早熟性に富む母父サンデーサイレンスの組み合わせの仔がわずかに遺されていた<ref name="優駿-2009-5-65" />。そして死後、その仔であるヤマニンメルベイユやホクトスルタンなどが、重賞を勝利するまで出世を遂げていた<ref name="優駿-2009-5-65" />。<gallery mode="packed-hover">
ファイル:Yamanin merveilleux.jpg|alt=|[[ヤマニンメルベイユ]]
ファイル:Hokuto Sultan 20080601P1.jpg|alt=|[[ホクトスルタン]]
</gallery>またわずかに遺されたメジロマックイーン産駒の繁殖牝馬が結び付いたのが、主流血統スピードのサンデーサイレンス、スタミナの[[ディクタス]]{{Efn|例えばディクタス産駒の[[サッカーボーイ]]は、競走馬としては短中距離で活躍したが、種牡馬としてはステイヤーの産駒を多数送り出した。}}、前時代の主流血統である[[ノーザンテースト]]の組み合わせから成るステイゴールドだった<ref name="優駿-2012-6-11" />。父ステイゴールド、母父メジロマックイーンの組み合わせは先述した通り「黄金配合」と呼ばれ、特にドリームジャーニー、オルフェーヴル、ゴールドシップは中長距離で長きにわたって活躍した。

仮に生きていれば「サンデーサイレンス系牝馬との交配」もしくは「『黄金配合』を見据えたメジロマックイーン産駒の牝馬生産」などというような需要で、種付け数の増加が見込めたが、叶わなかった<ref name="優駿-2009-5-65" />。特に血統的にも好相性だったサンデーサイレンスとは、血統においてすれ違いを続けていたということとなる<ref name="優駿-2009-5-65" />。吉沢譲治は「メジロマックイーンがあと5年遅く生まれていたなら、生涯の種牡馬成績はもっと違ったものになっていた<ref name="優駿-2009-5-65" />」と振り返っている。

== 特徴 ==

=== 競走馬として ===
豊富なスタミナと先行力に秀で、好位から直線で押し切る競馬で勝ち上がった<ref name="優駿-2012-9-31">『優駿』2012年9月号 31頁</ref>。後に池江は、自身が管理した2005年のクラシック三冠などGI競走7勝のディープインパクトとの比較において「好位から抜け出すという正攻法で競馬の出来る馬でした。ディープ(インパクト)みたいに道中ハラハラすることなく安心して観ていられる馬<ref name="優駿-2012-9-31" />」だと述べている。

競馬評論家の[[大川慶次郎]]は、メジロマックイーンは時計の早い競馬に持ち込んで勝つタイプの馬だが一瞬の切れ味とは縁がなく、「そういう意味では間違いなく真のステイヤー<ref>大川(1997)154-155頁</ref>」と述べている。しかし5歳以降に手綱を執った武豊は「短距離でも充分に強く、ただ距離が持つだけ<ref name="shimada2003-90">島田(2003)90頁</ref>」「[[マイル]]のGIレースでも勝負になった<ref>『菊花賞十番勝負』330頁</ref>」「[[スプリンターズステークス]]でもメンバーによってはブッチぎったかもしれない<ref>島田(2004)164頁</ref>」だという。また一般に見られる例とは逆に加齢とともにレースでの落ち着きを失っていったといい、1993年春の天皇賞前には「今の(メジロ)マックイーンに3200メートルは長すぎます」とも語っていた<ref>島田(2003)105頁</ref>。


==== 長所・短所 ====
==== 長所・短所 ====
武豊は初めて本馬に跨った際、1200mの実戦的な調教後に息ひとつ乱れていない様子を目の当たりにし、心肺機能に優れた馬との第一印象を抱い<ref name="mac">島田(2003)p.87</ref>。武は心肺機能について「とにかく心臓がいい。走った後の息の戻りがズバ抜けて早いですね」と述べている<ref name="武・島田2003-148">島田(2003)p.148</ref>。操縦の面でも「真面目で、競馬をわりとよく理解しています。コーナーも自分から回っていく。これは強い馬の一つの共通点なんです」<ref name="武・島田2003-148"/>、「ジョッキーの意思が伝わりやすい<ref>島田(2004)p.23</ref>、「どんなレースでも、鞍上の意思通りに動かせる馬で、本当に乗りやすかった<ref name="shimada2003-90"/>と語り、総じて「とにかく欠点が少ない。欠点が少ないということは、負ける要素が少ないということ」と評している<ref>島田(2003)p.24</ref>。また武は「顔がいい」ということもマックイーンの長所として挙げており、「強い馬の顔は必ず整っているし、小さい」と述べ<ref name="武・島田2003-148"/>、池江恭郎も「頭も顔立ちもいい、男らしい馬です。人間なら女性にモテるタイプですね」と述べている<ref name="shimada2003-74-75">島田(2003)pp.74-75</ref>。大川慶次郎は、秋の天皇賞はマックイーンにとっては向いている距離のレースではないものの、重馬場で2着に入線していたプレクラスニーに6馬身の差をつけていたことで、「長距離得意というのと同じくらいに、雨が非常に得意だった」としている<ref>大川(1997)p.155</ref>。また池江は「精神的にタフで無駄な神経を使わない。2000m以上がいい馬で先行もできるし、騎手にしたら実に乗りやすいタイプ」と評している<ref>『優駿』1992年5月号、p.30</ref>
武豊は初めてメジロマックイーンに跨った際、1200mの実戦的な調教後に息ひとつ乱れていない様子を目の当たりにし、心肺機能に優れた馬との第一印象を抱いている<ref name="mac">島田(2003)87頁</ref>。「とにかく心臓がいい。走った後の息の戻りがズバ抜けて早いですね<ref name="武・島田2003-148">島田(2003)148頁</ref>」という。操縦の面でも「真面目で、競馬をわりとよく理解しています。コーナーも自分から回っていく。これは強い馬の一つの共通点<ref name="武・島田2003-148" />、「ジョッキーの意思が伝わりやすい<ref>島田(2004)23頁</ref>、「どんなレースでも、鞍上の意思通りに動かせる馬で、本当に乗りやすかった<ref name="shimada2003-90" />と語り、総じて「とにかく欠点が少ない。欠点が少ないということは、負ける要素が少ないということ<ref>島田(2003)24頁</ref>」と評している。また「顔がいい<ref name="武・島田2003-148" />」「強い馬の顔は必ず整っているし、小さい<ref name="武・島田2003-148" />」と述べている。


池江泰郎もまた「頭も顔立ちもいい、男らしい馬です。人間なら女性にモテるタイプですね<ref name="shimada2003-74-75">島田(2003)74-75頁</ref>」、「精神的にタフで無駄な神経を使わない。2000m以上がいい馬で先行もできるし、騎手にしたら実に乗りやすいタイプ<ref>『優駿』1992年5月号 30頁</ref>」と評している。大川慶次郎は、重馬場で2着に入線していたプレクラスニーに6馬身の差をつけていたことで、「長距離得意というのと同じくらいに、雨が非常に得意だった<ref>大川(1997)155頁</ref>」と判断している。
一方、関係外部からは瞬発力の不足が指摘されており、特に1991年のジャパンカップ、有馬記念において、レース後半の瞬発力勝負で敗れたことは欠点の露呈に他ならないとして、この年の[[レーティング|フリーハンデ]]評価にも影響を与えた<ref>『優駿』1992年2月号、p.12</ref><ref group="注">当年のマックイーンの評価は63kgで古牡馬最高値であったが、4歳馬のトウカイテイオーに与えられた65kgを下回った。</ref>{{Refnest|group="注"|大川慶次郎はこれを根拠に、「確かにライバルに恵まれていなかったので、中距離ぐらいなら楽に勝っていたのですが、短距離線ともなるとね。もしもマイル戦で[[ヤマニンゼファー]]と戦っていたりしたら、キレの差で敵わなかったんじゃないでしょうか」と言い、短・中距離でも勝負になったという武の見解に疑問を呈している <ref>『名馬列伝メジロマックイーン』p.94</ref>。大川自身は、仮に短・中距離のレースに出走したら「まったくだめだったでしょね」とし、普通の馬にもかなわなかったと思うと述べている<ref>大川(1997)p.154</ref>。}}。

一方、関係外部からは瞬発力の不足が指摘されている。特に1991年のジャパンカップ、有馬記念において、レース後半の瞬発力勝負で敗れたことは欠点の露呈に他ならないとして、この年の[[レーティング|フリーハンデ]]評価にも影響を与えた<ref>『優駿』1992年2月号 12頁</ref>。大川慶次郎はこれを根拠に、「確かにライバルに恵まれていなかったので、中距離ぐらいなら楽に勝っていたのですが、短距離戦ともなるとね。もしもマイル戦で[[ヤマニンゼファー]]と戦っていたりしたら、キレの差で敵わなかったんじゃないでしょうか<ref>『名馬列伝メジロマックイーン』94頁</ref>」と述べている。


==== 成長力 ====
==== 成長力 ====
1991年春の天皇賞を勝った時点では、武はその能力について、全てに自身が騎乗し、「平成三強」と呼ばれた[[オグリキャップ]]、スーパークリーク、[[イナリワン]] と比較する段階ではないと語っていた<ref>島田(2003)p.147</ref>。その後、7歳の大阪杯で初めて「凄味が出てきた」と評し、結果的にラストランとなった京都大賞典の後には「7歳の秋だというのに、さらに強くなっていた。ホンマ、わからん馬やわァ」、「これまでになかった凄みが出てきた。この秋のマックは違いますよ」とコメントし<ref name="shimada116">島田(1997)p.116</ref>、「今さら僕がどうのこうの言うレベルじゃない。本当に凄い馬ですよ」と絶賛した<ref>島田(2003)p.80</ref>。当時、7歳は一般に衰が見られる年齢とされており、その成長曲線の特殊性が指摘されている{{#tag:ref|武は後に京都大賞典を回想し、「ゴールしたときは驚きました。この馬、また強くなってるぞ、とね。6(7)歳でこれほどの強さを見せることができたのは、大事に使われてきたこともあるんでしょうけど。いろいろな意味で、初めてのことを経験させてくれた馬でした」と述べている<ref name="shimada2003-91"/>。|group="注"}}{{refnest|group="注"|「京都大賞典の驚異的なレコードは、7歳の秋を迎えてもなお、上昇を続けるメジロマックイーンという馬の"すごさ"を改めてアピールするものだった」<ref>『優駿』1993年12月号、p.5「天皇賞・秋を前に無念の引退 メジロマックイーン」</ref>}}{{Refnest|group="注"|ライターの[[成沢大輔]]は「正直、マックイーンは大嫌いな馬の1頭だった。"だった"と過去形にしたのは7歳秋の京都大賞典を見てしまったからで、よもや7歳秋に2分22秒7などという時計を出す馬が存在するとは思わなかったのである。以後、嫌いという感情は恐れにシフトし、『まあ、バケモンだから仕方ないか』に変わっていった」と述べている<ref>『名馬列伝メジロマックイーン』p.116</ref>。}}。
1991年春の天皇賞を勝った時点では、武はその能力について、全てに自身が騎乗し、「平成三強」と呼ばれた[[オグリキャップ]]、スーパークリーク、[[イナリワン]]と比較する段階ではないと語っていた<ref>島田(2003)147頁</ref>。その後、7歳の産経大阪杯で初めて「凄味が出てきた」と評し、結果的にラストランとなった京都大賞典の後には「7歳の秋だというのに、さらに強くなっていた。ホンマ、わからん馬やわァ<ref name="shimada116" />」、「これまでになかった凄みが出てきた。この秋のマックは違いますよ<ref name="shimada116" />」と述べ、「今さら僕がどうのこうの言うレベルじゃない。本当に凄い馬ですよ<ref>島田(2003)80頁</ref>」と絶賛した。当時、7歳は一般に衰退進行すると見られていた。そのためその成長曲線の特殊性が指摘されている<ref name="優駿-1993-12-5" />{{Efn|武は後に引退レースの京都大賞典を回想し、「ゴールしたときは驚きました。この馬、また強くなってるぞ、とね。6(7)歳でこれほどの強さを見せることができたのは、大事に使われてきたこともあるんでしょうけど。いろいろな意味で、初めてのことを経験させてくれた馬でした」と述べている<ref name="shimada2003-91"/>。}}{{Efn|ライターの[[成沢大輔]]は「正直、マックイーンは大嫌いな馬の1頭だった。"だった"と過去形にしたのは7歳秋の京都大賞典を見てしまったからで、よもや7歳秋に2分22秒7などという時計を出す馬が存在するとは思わなかったのである。以後、嫌いという感情は恐れにシフトし、『まあ、バケモンだから仕方ないか』に変わっていった」と述べている<ref>『名馬列伝メジロマックイーン』116</ref>。}}。


=== 気性・性格 ===
==== 気性・性格 ====
関係者の証言からは、厩舎内で見せた周囲に甘える姿と、競馬場で見せた堂々とした姿とのギャップが示されている{{Refnest|group="注"|武豊は「普段はヘラヘラしているのに、いざ舞台に上がったら信じられない実力を見せる奴。表面には凄い部分を出さないから、『ほんとにこいつが?』と思ってしまうんですよね」と述べている<ref>島田(2003)p.15</ref>。}}{{Refnest|group="注"|池江泰郎は「甘えん坊とは言っても、一歩外に足を踏み出すと決してオドオドすることなく、いつも堂々としています。第一、歩様が他の馬と全然違いますよ。人間で言えば、肩で風切って歩いているように」と述べている<ref name="shimada2003-74-75"/>。担当厩務員の早川清隆は、こうした様子から「強い馬のメンタルな部分も勉強になった」と述べている。}}。
関係者の証言からは、厩舎内で見せた周囲に甘える姿と、競馬場で見せた堂々とした姿とのギャップが示されている{{Efn|武豊は「普段はヘラヘラしているのに、いざ舞台に上がったら信じられない実力を見せる奴。表面には凄い部分を出さないから、『ほんとにこいつが?』と思ってしまうんですよね」と述べている<ref>島田(2003)15頁</ref>。}}{{Efn|池江泰郎は「甘えん坊とは言っても、一歩外に足を踏み出すと決してオドオドすることなく、いつも堂々としています。第一、歩様が他の馬と全然違いますよ。人間で言えば、肩で風切って歩いているように」と述べている<ref name="shimada2003-74-75"/>。担当厩務員の早川清隆は、こうした様子から「強い馬のメンタルな部分も勉強になった」と述べている。}}。


他方、前述の通り競走生活の晩年には落ち着きを失い始め、レースや調教も嫌がるようになっていった<ref>島田(2003)p.85-86</ref>。また、引退が決定してから引退式までの間に、急速に老け込んだ様子を見せたという。これについて武は「あの馬のことだから、周囲の雰囲気から自分の競走生活が終わったことを分かっていたんでしょうね」と語っている<ref name="shimada2003-91">島田(2003)p.91</ref>。
他方、前述の通り競走生活の晩年には落ち着きを失い始め、レースや調教も嫌がるようになっていった<ref>島田(2003)85-86</ref>。また、引退が決定してから引退式までの間に、急速に老け込んだ様子を見せたという。これについて武は「あの馬のことだから、周囲の雰囲気から自分の競走生活が終わったことを分かっていたんでしょうね<ref name="shimada2003-91">島田(2003)91頁</ref>」と語っている


=== 人気 ===
==== 人気 ====
[[ギャンブル]]の対象という側面では、全21戦中で単勝2番人気以下に落ちたのは3戦のみ、2度出走した京都大賞典ではいずれも71.8%という単勝支持を受けるなど、常に大きな信頼を置かれていた。全戦の平均では43.97%の単勝支持を受けており、これは同年代で屈指のアイドルホースであったトウカイテイオーの36.87%を大きく上回る<ref>『名馬列伝メジロマックイーン』pp.137-138</ref>。武は「クリークにしてもオグリにしても、この馬ほど勝って当たり前、とは思われていなかったでしょう」と述べている<ref name="mac" />。
[[ギャンブル]]の対象という側面では、全21戦中で単勝2番人気以下に落ちたのは3戦のみ、2度出走した京都大賞典ではいずれも71.8%という単勝支持を受けるなど、常に大きな信頼を置かれていた。全戦の平均では43.97%の単勝支持を受けており、これは同年代のアイドルホースであったトウカイテイオーの36.87%を大きく上回る<ref>『名馬列伝メジロマックイーン』137-138</ref>。武は「(スーパー)クリークにしてもオグリ(キャップ)にしても、この馬ほど勝って当たり前、とは思われていなかったでしょう<ref name="mac" />」と述べている


一方でキャラクターという側面では、同期のメジロライアンが惜敗続きで[[判官贔屓]]的な人気を博していたのに対し、マックイーンは「強いばかりで面白みがない」とも評され、強さの割に人気がないと見られていた{{Refnest|group="注"|ライターの[[中田潤]]は「オグリキャップが築き上げた『競馬興行の黄金時代』。メジロマックイーンに悲劇があったとすれば、そんな華やかなステージに『やたら強いだけの馬』として君臨しなければならなかったことだろう」と述べている<ref>『名馬列伝メジロマックイーン』 p.111</ref>。}}{{Refnest|group="注"|ライターの瀬戸慎一郎は「マックイーンは強さの割に人気のない馬でもあった。まあ、あのクラスにもなれば、知名度からしても、一言で"人気がない"と片付けるのは語弊があろう。ただ、僚馬メジロライアンのような愛され方をした馬でなかったことだけは確かである。いずれにせよ、強さの割に印象が地味であったのは否定できない」と述べている<ref>[http://keiba.yahoo.co.jp/story/saikyou/mejiromcqueen/story-1.html Yahooスポーツ競馬 最強ヒストリー瀬戸慎一郎メジロマックイーン - 名勝負なき名ステイヤー』第1話能面の裏」]</ref>。}}。しかしファンが少なかったわけではなく、6歳時に骨折した際には、回復を祈るファンからの何万という[[千羽鶴|折り鶴]]が厩舎に送られ、涙ながらに応援の電話をかけてくる女性ファンも存在したを池江が明かして<ref>『名馬列伝メジロマックイーン』p.89</ref>。また[[タマモクロス]]、オグリキャップと続いた芦毛の最強馬、さらに祖父メジロアサマ、父メジロティターンより続く芦毛の系統という事実から「芦毛伝説第三章」というフレーズ<ref group="注">元は大学の競馬サークルが、マックイーン出走時のパドックに掲げていた横断幕のフレーズ。メジロマックイーンを端的に表現しているとされ、メディアでも流用された。</ref>と共に応援するファンも存在した
一方でキャラクターという側面では、同期のメジロライアンが惜敗続きで[[判官贔屓]]的な人気を博していたのに対し、マックイーンは「強いばかりで面白みがない」とも評され、強さの割に人気がないと見られていた{{Efn|[[中田潤]]は「オグリキャップが築き上げた『競馬興行の黄金時代』。メジロマックイーンに悲劇があったとすれば、そんな華やかなステージに『やたら強いだけの馬』として君臨しなければならなかったことだろう」と述べている<ref>『名馬列伝メジロマックイーン』 111</ref>。}}{{Efn|瀬戸慎一郎は「(メジロ)マックイーンは強さの割に人気のない馬でもあった。まあ、あのクラスにもなれば、知名度からしても、一言で"人気がない"と片付けるのは語弊があろう。ただ、僚馬メジロライアンのような愛され方をした馬でなかったことだけは確かである。いずれにせよ、強さの割に印象が地味であったのは否定できない」と述べている<ref>{{Cite web |url=http://keiba.yahoo.co.jp/story/saikyou/1987107235/story-1.html |title=『名勝負なき名ステイヤー』第1話 能面の裏 |access-date=2022-07-04 |publisher=競馬最強の法則WEB |archive-url=https://web.archive.org/web/20060523124806/http://keiba.yahoo.co.jp/story/saikyou/1987107235/story-1.html |archive-date=2006-05-23}}</ref>。}}。しかしファンが少なかったわけではなく、6歳時に骨折した際には、回復を祈るファンからの何万という[[千羽鶴|折り鶴]]が厩舎に送られ、涙ながらに応援の電話をかける女性ファンも存在したとい<ref>『名馬列伝メジロマックイーン』89</ref>。


== 評価 ==
種牡馬入り後の[[1994年]]には、前年秋に創刊したばかりの『[[週刊Gallop]]』のテレビCMにメインキャラクターとして起用されている。


=== 定量的評価 ===
[[2011年]]には、JRAのテレビCM「[[The LEGEND#2011年|20th century boy]]」の天皇賞(春)に1991年の映像で起用されている。


==== 投票での評価 ====
===== レーティングによる評価 =====
{| class="wikitable"
日本中央競馬会が2000年に実施した、ファン投票による名馬選定企画「[[Dream Horses 2000|20世紀の名馬大投票]]」では、13419票を集め第12位に選出されている。また、雑誌『[[Sports Graphic Number]]』が1999年に競馬関係者に対して行った「ホースメンが選ぶ20世紀最強馬」という企画でも12位に選ばれている{{Refnest|group="注"|ただし全体の投票数が少ないため、得票は1票のみ。投票したのは[[佐藤哲三 (競馬)|佐藤哲三]]で、「オールマイティーな強さ。多分、マイルでも負けないのでは」と評している<ref>『Number PLUS』p.21</ref>。なお、武は[[サイレンススズカ]]、池江は[[シンボリルドルフ]]に投票(池江は「私が手掛けた馬」という条件でマックイーンを挙げている)。}}。
| colspan="10" |中央競馬フリーハンデ
|-
|年度
|部門
|順位
|数値
| colspan="2" |1位(2位)馬
|備考
|出典
|-
|1990
|4歳
|{{Color|darkblue|2位}}
|61
|アイネスフウジン
|63
|{{Efn|以下「60」[[ハクタイセイ]]、[[ホワイトストーン]]、[[メジロライアン]]。「58」[[アグネスフローラ]]と続く。}}
|<ref>『優駿』1991年2月号 72頁</ref>
|-
|1991
| rowspan="3" |5歳以上
|'''{{Color|darkred|1位}}'''
|'''63'''
|(ダイユウサク)
(メジロライアン)
|61
|{{Efn|3位以下は「60」プレクラスニー、「59」ダイタクヘリオス、「58」カリブソングとホワイトストーンと続く。}}
|<ref>『優駿』1992年2月号 13頁</ref>
|-
|1992
|{{Color|darkblue|2位}}
|63
|トウカイテイオー
|65
|{{Efn|3位以下は「62」メジロパーマー、「60」ダイタクヘリオスと[[レッツゴーターキン]]。「59」[[カミノクレッセ]]とメジロライアン。などと続く。}}
|<ref>『優駿』1993年2月号 21頁</ref>
|-
|1993
|{{Color|darkblue|2位タイ}}
|64
|トウカイテイオー
|65
|{{Efn|「64」でレガシーワールドが並ぶ。以下「62」ヤマニンゼファー、「61」ライスシャワー、「59」[[シンコウラブリイ]]とメジロパーマー。などと続く。}}
|<ref>『優駿』1994年2月号 27頁</ref>
|-
|}


==== JRA賞での評価 ====
== 年度別種牡馬成績 ==
{| class="wikitable"
{| class="wikitable"
| colspan="10" |JRA賞
!年度!!1997!!1998!!1999!!2000!!2001!!2002!!2003!!2004!!2005!!2006!!2007!!2008!!2009!!2010!!2011!!2012
|-
|-
|年度
||[[リーディングサイアー|順位]](日本総合)||229位||40位||22位||21位||22位||26位||28位||43位||45位||66位||78位||72位||84位||137位||285位||298位
|部門
|順位
|得票/満票
| colspan="2" |受賞(次点)馬
|備考
|出典
|-
|-
| rowspan="2" |1990
||順位([[中央競馬]])||169位||30位||18位||21位||22位||27位||27位||42位||42位||62位||81位||67位||73位||139位||401位||345位
|[[JRA賞最優秀父内国産馬|最優秀父内国産馬]]
|{{Color|darkblue|2位タイ}}
|{{0}}29/180票
|[[ヤエノムテキ]]
|{{0}}82票
|{{Efn|同じ29票のメジロライアンと並ぶ。以下、17票[[ハクタイセイ]]、15票[[ホワイトストーン]]、5票[[ホワイトアロー]]、1票[[パッシングショット]]、該当なし2票。}}
| rowspan="2" |<ref>『優駿』1991年2月号 52頁</ref>
|-
|-
|[[JRA賞最優秀4歳牡馬|最優秀4歳牡馬]]
||[[アーニングインデックス|AEI]](中央競馬)||0.47||0.78||0.88||1.02||0.77||0.73||0.89||0.74||0.86||0.74||0.83||1.45||1.72||0.99||0.00||0.42
|{{Color|darkgreen|3位}}
|{{0}}12/180票
|[[アイネスフウジン]]
|142票
|{{Efn|16票を集めたメジロライアンが次点。12票のメジロマックイーン以下には、7票ホワイトストーン、該当なし3票。}}
|-
|-
| rowspan="3" |1991
||総出走頭数(中央競馬)||22||71||90||82||102||115||96||86||70||49||35||28||16||8||4||0
|[[JRA賞年度代表馬|年度代表馬]]
|{{Color|darkblue|2位}}
|{{0}}22/176票
| rowspan="2" |[[トウカイテイオー]]
|134票
|{{Efn|以下、12票[[ダイイチルビー]]、5票[[ダイユウサク]]、2票[[プレクラスニー]]、該当なし1票。}}
| rowspan="3" |<ref name="優駿-1992-2-7">『優駿』1992年2月号 7頁</ref>
|-
|最優秀父内国産馬
|{{Color|darkblue|2位}}
|{{0}}56/176票
|{{0}}91票
|{{Efn|以下、14票ダイイチルビー、11票[[ダイタクヘリオス]]、3票[[レオダーバン]]、1票メジロライアン。}}
|-
|[[JRA賞最優秀5歳以上牡馬|'''最優秀5歳以上牡馬''']]
|'''{{Color|darkred|受賞}}'''
|134/176票
|([[ダイユウサク]])
|{{0}}38票
|{{Efn|ダイユウサク以下、3票プレクラスニー、1票[[ゴールデンフェザント]]。}}
|-
| rowspan="2" |1992
|最優秀父内国産馬
|4位
|{{00}}6/176票
| rowspan="2" |[[メジロパーマー]]
|{{0}}92票
|{{Efn|66票トウカイテイオーが2位。10票ダイタクヘリオスが3位。6票メジロマックイーンを挟んで、1票[[ヌエボトウショウ]]が5位。該当なし1票。}}
| rowspan="2" |<ref>『優駿』1993年2月号 7頁</ref>
|-
|最優秀5歳以上牡馬
|{{Color|darkgreen|3位}}
|{{00}}6/176票
|{{0}}93票
|{{Efn|73票トウカイテイオーが2位。6票メジロマックイーンを挟んで、ダイタクヘリオスが4位。該当なし2票。}}
|-
| rowspan="3" |1993
|年度代表馬
|4位
|{{00}}6/171票
|[[ビワハヤヒデ]]
|{{0}}87票
|{{Efn|56票ヤマニンゼファーが2位。17票トウカイテイオーが3位。6票メジロマックイーンを挟んで、以下4票[[レガシーワールド]]、1票[[ナリタブライアン]]。}}
| rowspan="3" |<ref>『優駿』1994年2月号 19頁</ref>
|-
|最優秀父内国産馬
|{{Color|darkgreen|3位}}
|{{0}}34/171票
| rowspan="2" |[[ヤマニンゼファー]]
|{{0}}87票
|{{Efn|50票トウカイテイオーが2位。}}
|-
|最優秀5歳以上牡馬
|4位
|{{00}}6/171票
|{{0}}88票
|{{Efn|38票トウカイテイオーが2位。22票レガシーワールドが3位。21票のメジロマックイーンを挟んで、以下2票[[ライスシャワー]]。}}
|-
|-
||総勝ち頭数(中央競馬)||7||28||28||26||21||30||29||15||13||8||6||5||3||1||0||0
|}
|}


==== グランプリのファン投票結果 ====
=== 主な産駒 ===
{| class="wikitable"
* エイダイクイン(1995年産 [[クイーンカップ]])
| colspan="8" |有馬記念
*ストロングライフ(1995年産 [[梅見月杯]])
|-
* ツジノワンダー(1996年産 NiLS21ステークス、アイルランドトロフィー)
|年度
* メジロサンドラ(1996年産 [[大阪-ハンブルクカップ]])
|順位
* タイムフェアレディ(1998年産 [[フラワーカップ]])
|票数
* グランアクトゥール(1998年産 中央1勝 種牡馬)
| colspan="2" |1位(2位)馬
* [[ヤマニンメルベイユ]](2002年産 [[中山牝馬ステークス]]、[[クイーンステークス]])
|出典
* [[ホクトスルタン]](2004年産 [[目黒記念]])
|-
* [[ギンザグリングラス]](2005年産 中央・[[南関東公営競馬|南関東]]で計3勝 種牡馬)
|1990
*ドリームインボス(2005年産 [[門松賞]])
|16位
* [[ディアジーナ]](2006年産 [[フローラステークス]]、クイーンカップ)
|{{0}}3万1868票
|[[オグリキャップ]]
|14万6738票
|<ref>『優駿』1991年1月号 54頁</ref>
|-
|1991
|'''{{Color|darkred|1位}}'''
|15万5353票
|([[レオダーバン]])
|12万9322票
|<ref>『優駿』1992年1月号 36頁</ref>
|-
|1992
|5位
|12万7670票
|トウカイテイオー
|17万7926票
|<ref>『優駿』1993年1月号 35頁</ref>
|-
|}
==== 獲得賞金の加算推移 ====
{| class="wikitable"
| colspan="8" |獲得賞金(4歳以上)
|-
|年度
|順位
|獲得賞金額
|勝ち鞍
|1位
|出典
|-
|1990
|15位
|{{0}}1億4723万1500円
|菊花賞
|[[オサイチジョージ]]
|<ref>『優駿』1991年2月号 113頁</ref>
|-
|1991
|{{0}}{{Color|darkblue|2位}}
|{{0}}3億5436万8200円
|天皇賞(春)、阪神大賞典、京都大賞典
|[[ダイイチルビー]]
|<ref>『優駿』1992年2月号 97頁</ref>
|-
|1992
|18位
|{{0}}1億9759万8000円
|天皇賞(春)、阪神大賞典
|[[ミホノブルボン]]
|<ref>『優駿』1993年2月号 113頁</ref>
|-
|1993
|{{0}}4位
|{{0}}3億1546万0000円
|宝塚記念、産経大阪杯、京都大賞典
|[[ビワハヤヒデ]]
|<ref>『優駿』1994年2月号 113頁</ref>
|-
| colspan="2" |合計
|10億1465万7700円
|
|
|
|-
|}


=== 投票による評価 ===
=== 母の父としての主な産駒 ===
※'''太字'''はGⅠ・JpnⅠ競走優勝。
* [[ドリームジャーニー]](父[[ステイゴールド]]、母[[オリエンタルアート]]):'''[[有馬記念]]'''、'''[[宝塚記念]]'''、'''[[朝日杯フューチュリティステークス]]'''、[[産経大阪杯]]、[[神戸新聞杯]]
* [[オルフェーヴル]](父ステイゴールド、母オリエンタルアート):'''[[中央競馬クラシック三冠]]([[東京優駿]]、[[皐月賞]]、[[菊花賞]])、有馬記念2回、宝塚記念'''
* [[ゴールドシップ]](父ステイゴールド、母ポイントフラッグ):'''皐月賞、菊花賞、有馬記念、宝塚記念2回、[[天皇賞(春)]]'''、[[共同通信杯]]、神戸新聞杯、[[阪神大賞典]]3回
* [[タイセイレジェンド]](父[[キングカメハメハ]]、母シャープキック):'''[[JBCスプリント]]'''、[[東京盃]]、[[クラスターカップ]]
* [[フェイトフルウォー]](父ステイゴールド、母フェートデュヴァン):[[セントライト記念]]、[[京成杯]]
* [[フーラブライド]](父[[ゴールドアリュール]]、母ヒカルカリーナ):[[愛知杯]]、[[中山牝馬ステークス]]
* [[ラブイズブーシェ]](父[[マンハッタンカフェ]]、母ローリエ):[[函館記念]]
<gallery>
ファイル:Dream Journey 20070527P1.jpg|ドリームジャーニー(2004年産)
File:Orfevre20111225(2).jpg|オルフェーヴル(2008年産)
File:Gold Ship Tenno Sho(Spring) 2015.jpg|ゴールドシップ(2009年産)
</gallery>

== エピソード ==
=== サンデーサイレンスとの関係 ===
社台スタリオンステーション早来に繋養されていた時期、非常に気性が激しいことで知られた[[サンデーサイレンス]]と仲が良かったと伝えられている。早来では両馬の放牧地は隣同士に設えられており、当初マックイーンは同馬からしきりに威嚇を受けていた<ref name="mac10">『競馬種牡馬読本』p.202</ref>。これに対してマックイーンは無視を続けていた<ref name="mac10" />ところ、サンデーも次第にマックイーンの側では落ち着きを見せるようになり、後には「恋人」と言われるほどの仲となった<ref name="mac11">『優駿』2004年10月号 p.98</ref>。サンデーの死後、マックイーンは社台スタリオンステーション荻伏に移されたが、こちらではサンデーサイレンス産駒の[[ロサード]]に慕われていた<ref name="mac11" />。なお、当時の社台スタリオンステーションでは、ファンサービスの一環で内国産種牡馬は見学可能であったが、サンデーサイレンスの隣の放牧地だった時期は見学不可であった。


* 『[[Sports Graphic Number|Sports Graphic Number PLUS]]』1999年10月号「ホースメンが選ぶ20世紀最強馬。」(調教師、騎手投票) - 第12位<ref name="Number PLUS-1999-10-21">『Sports Graphic Number PLUS』1999年10月号 21頁</ref>
== 血統表 ==
** 89票中1票(投票者:[[佐藤哲三 (競馬)|佐藤哲三]]「オールマイティーな強さ。多分、マイルでも負けないのでは<ref name="Number PLUS-1999-10-21" />」)
* 『優駿』2000年10月号「20世紀の名馬大投票 20世紀の名馬ベスト100」 - 第12位<ref>『優駿』2000年10月号 21頁</ref>
* 『優駿』2012年9月号「距離別『最強馬』はこの馬だ! 」(読者投票)
** 芝3200メートル - 1位(1157票中388票)<ref>『優駿』2012年9月号 30頁</ref>
* 『優駿』2015年3月号「未来に語り継ぎたい名馬 BEST 100」(読者、インターネット投票) - 第15位<ref>『優駿』2015年3月号 42頁</ref>
** 20代以下 - 23位
** 30代 - 19位
** 40代 - 11位
** 50代 - 13位
** 60代 - 16位
** 70代以上 - 12位
** 男性 - 14位
** 女性 - 14位
* 『優駿』2015年12月号「未来に語り継ぎたい名馬100頭のベストレース」(読者、インターネット投票)<ref>『優駿』2015年12月号 25頁</ref>
** 【第15位メジロマックイーンのベストレース】
*** 1位(56.3%) - 1992年天皇賞(春)
*** 2位(15.2%) - 1991年天皇賞(春)
*** 3位(12.3%) - 1990年菊花賞
== 血統 ==
{{競走馬血統表
{{競走馬血統表
|name = メジロマックイーン
|name = メジロマックイーン
617行目: 1,579行目:
|ref4 = <ref name="jbispe"/>
|ref4 = <ref name="jbispe"/>
|}}
|}}
曾祖父の[[パーソロン]]は本来マイルから中距離を得意とする血統であり、父方の血統は本質的にはステイヤーではない<ref name="優駿-2009-5-65" />。そのためメジロマックイーンのスタミナは、長距離に強さを見せた[[リマンド]]、[[ヒンドスタン]]などを父祖に持つ母方から受け継いだとされる<ref name="優駿-2009-5-65" /><ref>『競馬SLG名牝ファイル』135頁</ref>。
祖父[[メジロアサマ]]は名牝[[ラトロワンヌ]]の子孫だが、授精率が極端に低く、一時は種牡馬失格の烙印を押された馬だった(詳細は同馬の項参照)。また父メジロティターンも授精率に問題があり、最も多かった年でも40頭強しか産駒を送り出していない。


== 脚注 ==
曾祖父の[[パーソロン]]は本来マイルから中距離を得意とする血統であり、父方の血統は本質的にはステイヤーではなく、メジロマックイーンのスタミナは、長距離に強さを見せた[[リマンド]]、[[ヒンドスタン]]などを父祖に持つ母方から受け継いだとする意見がある<ref>『競馬SLG名牝ファイル』p.135</ref>。


祖母メジロアイリスの孫(本馬のいとこ)に[[京都金杯|スポーツニッポン賞金杯]]、[[京都記念]]の優勝馬で、天皇賞(春)と宝塚記念で2着の成績がある[[メジロトーマス]]と、[[函館記念]]優勝の[[メジロマーシャス]]がいる。

[[ファミリーライン|牝系]]は1906年に[[小岩井農場]]がイギリスより輸入した牝馬([[小岩井農場の基礎輸入牝馬]])の一頭[[アストニシメント]]〜第二アストニシメント〜[[アスベル (競走馬)|オーグメント]]の流れを汲み、とくに曾祖母のアサマユリから一大牝系が広がっている。その子孫には [[高松宮記念 (競馬)|高松宮記念]]優勝馬[[ショウナンカンプ]]、[[川崎記念]]優勝馬の[[リージェントブラフ]]など数々の重賞優勝馬がいる。

メジロマックイーンは5代までアウトブリードであるが、母メジロオーロラは2000ギニー優勝馬[[テトラテマ]]TetratemaのS5×M5、仏オークス優勝馬UgandaのS5×M5がインブリードされている。

== 脚注 ==
=== 注釈 ===
=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注"}}
{{脚注ヘルプ}}<references group="注" />

=== 出典 ===
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}
{{Reflist|3}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*江面弘也『名馬を読む』(三賢社、2017年)ISBN 4908655073
*江面弘也『名馬を読む』(三賢社、2017年)ISBN 4908655073
**同内容転載、一部加筆修正(初出:『優駿』(日本中央競馬会)内連載「偉大なる顕彰馬の蹄跡」)
***2012年8月号 江面弘也「【偉大なる顕彰馬の蹄跡】Vol.23 メジロマックイーン」
***2012年9月号 江面弘也「【偉大なる顕彰馬の蹄跡】Vol.24 トウカイテイオー」
*大川慶次郎『大川慶次郎殿堂馬を語る』(ゼスト、1997)ISBN 4916090527
*大川慶次郎『大川慶次郎殿堂馬を語る』(ゼスト、1997)ISBN 4916090527
*木村幸治『馬の王、騎手の詩』([[宝島社]]、1994年)ISBN 4796608729
*木村幸治『馬の王、騎手の詩』([[宝島社]]、1994年)ISBN 4796608729
644行目: 1,601行目:
*光栄出版部編『名馬列伝 メジロマックイーン』([[コーエー|光栄]]、1994年)ISBN 487719133X
*光栄出版部編『名馬列伝 メジロマックイーン』([[コーエー|光栄]]、1994年)ISBN 487719133X
*サラブレッド探偵局編『競馬SLG名牝ファイル』(光栄、1994年)ISBN 4877191100
*サラブレッド探偵局編『競馬SLG名牝ファイル』(光栄、1994年)ISBN 4877191100
*『競馬種牡馬読本2』(宝島社、1997年)ISBN 4796693408
*『競馬種牡馬読本2』(宝島社、1997年)ISBN 4796693408
*後藤正治「メジロマックイーンVSメジロライアン メジロ最強コンビを支えた 厩務員たちの技くらべ」『競馬ライバル読本』〈別冊宝島311号 競馬読本シリーズ〉、(宝島社、1997年)
*『Sports Graphic Number PLUS - 20世紀スポーツ最強伝説(4)競馬黄金の蹄跡』(文藝春秋、1999年)ISBN 4160081088
*渡瀬夏彦「メジロマックイーン 世にはばかる」『競馬名馬読本』〈別冊宝島143号〉(宝島社、1996年)
*『Sports Graphic Number PLUS』(文藝春秋)
**1999年10月号「20世紀スポーツ最強伝説(4)競馬黄金の蹄跡」ISBN 4160081088
**2021年11月号「競馬ノンフィクション選集 名馬堂々。」
*『[[Sports Graphic Number]]』(文藝春秋)
**1992年5月21日号(292号)
***阿部珠樹「【トウカイテイオーVSメジロマックイーン】第105回天皇賞、2強激突の果てーー。」
****同内容転載『競馬ノンフィクション選集 名馬堂々。』(『Sports Graphic Number PLUS』2021年11月号)、2021年11月24日。
**1995年10月26日号(378号)
***阿部珠樹「【ライスシャワー】京都という{{Ruby|運命|さだめ}}に生きて。」
****同内容転載『競馬ノンフィクション選集 名馬堂々。』(『Sports Graphic Number PLUS』2021年11月号)、2021年11月24日。
**2016年12月15日号(917・918号)
***片山良三「【オルフェーヴル】黄金色に輝く猛走。」
****同内容転載『競馬ノンフィクション選集 名馬堂々。』(『Sports Graphic Number PLUS』2021年11月号)、2021年11月24日。
*『[[競馬最強の法則]]』([[KKベストセラーズ]])
** 1997年3月号
*** 瀬戸慎一郎「[https://web.archive.org/web/20060523124752/http://keiba.yahoo.co.jp/story/saikyou/1987107235/index.html 【最強ヒストリー】名勝負なき名ステイヤー]」
*『[[優駿]]』([[日本中央競馬会]])
*『[[優駿]]』([[日本中央競馬会]])
**19922、5月号
**19879月号
***横尾一彦「【サラブレッド・ヒーロー列伝 19】明治人の夢 メジロティターン」
**1990年9月号
***[[吉沢譲治]]「【いま、日本のサラブレッド生産 その1】メジロ牧場密着取材1週間」
**1990年12月号
***「【第51回菊花賞】脈々とステイヤーの血、父の名はメジロティターン、メジロマックイーン」
**1991年1月号
***「【練熟か、若さか '90FINAL RUN】第35回有馬記念ファン投票結果」
***村上賢三([[デイリースポーツ]])「【今月の記録室】第51回菊花賞(GI)メジロマックイーン」
**1991年2月号
***吉沢譲治「【秋のGI競走勝ち馬の故郷紀行】メジロマックイーンの故郷 吉田堅牧場 血統と土地の相性」
***「【1990年度JRA賞決定】年度代表馬にオグリキャップ 馬事文化賞に、白井透氏、山野浩一氏」
***「【1990年度フリーハンデ決定】4歳馬 メジロマックイーン61キロ。」
**1991年5月号
***吉沢譲治「三代続く天皇賞馬の可能性」
***山田数夫([[日刊スポーツ]])「【今月の記録室】第39回阪神大賞典(GII)メジロマックイーン」
**1991年6月号
***「【第103回天皇賞・春】人は3連覇、馬は父子3代制覇、メジロマックイーン」
***志摩直人「【第103回天皇賞(春)観戦記】鞍上人なく鞍下馬なし」
**1991年7月号
***「【第32回宝塚記念】人馬渾身。これは6度目の正直です。メジロライアン」
***横尾一彦「【サラブレッド・ヒーロー列伝 62】異色のステイヤー メジロデュレン」
***「【日本の種牡馬】メジロティターン F8」
***船曳彦亟([[スポーツニッポン]])「【今月の記録室】第103回天皇賞(春)(GI)メジロマックイーン」
**1991年8月号
***吉沢譲治「【'91春のGI競走勝馬たちの故郷】宝塚記念・メジロライアン メジロ牧場 距離の適性。今回ばかりは」
***吉沢譲治「【'91春のGI競走勝馬たちの故郷】天皇賞(春)・メジロマックイーン 吉田堅牧場 8回目の挑戦でつかんだ栄光」
***寺田文雄(デイリースポーツ)「【今月の記録室】第32回宝塚記念(GI)メジロライアン」
**1991年9月号
***「【秋をめざす有力馬たちの夏】"現役三強"はそろって北海道へ」
**1991年12月号
***「【今月のNEWS&INTERVIEW】第104回天皇賞(秋)メジロマックイーン1位入線も、2コーナー斜行で18着降着」
***「【第104回天皇賞(秋)】メジロマックイーン1着→18着降着 プレクラスニー 4連勝で栄光の天皇賞馬」
***[[山野浩一]]「【第104回天皇賞(秋)観戦記】雨の空に飛び去ったメジロマックイーン」
***「【第26回京都大賞典】力が違う、格が違う、メジロマックイーン」
***片山良三([[サンケイスポーツ]])「【今月の記録室】第104回天皇賞(秋)(GI)プレクラスニー」
***松村光雄([[夕刊フジ]])「【今月の記録室】第26回農林水産省賞典 京都大賞典(GII)」
**1992年1月号
***「【第11回ジャパンカップ】府中で跳んだ、黄金のキジ ゴールデンフェザント メジロマックイーンは4着」
***[[山際淳司]]「【第11回ジャパンカップ】敗北もまたターニングポイント」
***「【第36回有馬記念&'91ジョッキーズグランプリ】ファン投票第1位は、メジロマックイーン&武豊」
***紺野真([[東京スポーツ]])「【今月の記録室】第11回ジャパンカップ〈国際招待〉(GI)ゴールデンフェザント」
**1992年2月号
***「【1991年度JRA賞決定】年度代表馬はトウカイテイオー」
***「【1991年度フリーハンデ決定】二冠馬トウカイテイオーは65キロ。」
***「【第36回有馬記念】波乱は疾風の差し脚、ダイユウサク」
***橋本全弘(スポーツニッポン)「【今月の記録室】第36回有馬記念〈グランプリ〉(GI)」
**1992年4月号
***「【今月のトピックス】メジロマックイーンVSトウカイテイオー 注目の初対決。天皇賞・春まであと1か月。」
**1992年5月号
***吉沢譲治「【'92春のGI競走】有力馬の父系 わかりやすい日本の種牡馬 パーソロン系」
***「【第40回阪神大賞典】天皇賞・春連覇へ好発進、メジロマックイーン」
***石崎善康([[大阪スポーツ]])「【今月の記録室】第40回阪神大賞典(GII)メジロマックイーン」
**1992年6月号
***木村幸治「【第105回天皇賞(春)】トウカイテイオーVSメジロマックイーン 五日間の夢」
***[[古山高麗雄]]「【第105回天皇賞(春)観戦記】三強時代到来の筋書き変わらず」
***橋本忠(サンケイスポーツ)「【今月の記録室】第105回天皇賞(春)(GI)メジロマックイーン」
***森本昭夫(サンケイスポーツ)「【今月の記録室】第36回産経大阪杯(GII)トウカイテイオー」
**1992年7月号
***「【第33回宝塚記念】代役ではありません。堂々の主役逃げ切りは、メジロパーマー」
**1992年8月号
***蔵内哲爾(日刊スポーツ)「【今月の記録室】第33回宝塚記念(GI)メジロパーマー」
**1992年9月号
***「【この秋注目の有力馬たちの夏】宿敵は療養中でも、トウカイテイオー、雪辱への秋は始まる。」
**1993年1月号
***「【第37回有馬記念&'92ジョッキーズグランプリ直前情報】鮮やかな緑のコースで、いざ、グランプリ」
**1993年2月号
***「【1992年JRA賞決定】年度代表馬にミホノブルボン」
***「【'92年度フリーハンデ決定】5歳以上 メジロマックイーンは、'91年と同じ63キロ。」
**1993年3月号
***「【誰もが知りたいことしの競馬(三)】メジロマックイーン 天皇賞・春3連覇へ 調教進む」
**1993年6月号
***「【今月の馬】ライスシャワー メジロマックイーンの天皇賞連覇を阻み 新しいステイヤーの王者に」
***石田敏徳「【第107回天皇賞(春)】王者の夢砕き 新しい最強のステイヤーに ライスシャワー」
***寺田文雄(デイリースポーツ)「【今月の記録室】第107回天皇賞(春)ライスシャワー」
***佐藤将美(サンケイスポーツ)「【今月の記録室】第37回産経大阪杯(GII)メジロマックイーン」
**1993年7月号
***「【第34回皇太子殿下御成婚奉祝宝塚記念】ユタカも感激の強さで、メジロマックイーン」
**1993年8月号
***井上泰司(スポーツニッポン)「【今月の記録室】第34回皇太子殿下御成婚奉祝宝塚記念(GI)メジロマックイーン」
**1993年9月号
***笹本晃彦「【名馬たちの誕生ものがたり】奇跡の宝塚記念3連覇 メジロ牧場・花の62年組」
**1993年12月号
**1993年12月号
***「【今月の馬】天皇賞(秋)を目前に無念の引退 メジロマックイーン」
***辻谷秋人「【第108回天皇賞(秋)】名マイラーはそのスピードの持続力を証明した」
***「【第28回京都大賞典】圧勝もその後の悪夢、メジロマックイーン」
***橋本全弘(スポーツニッポン)「【今月の記録室】第108回天皇賞(秋)(GI)ヤマニンゼファー」
***森本公久(デイリースポーツ)「【今月の記録室】第28回農林水産省賞典 京都大賞典(GII)メジロマックイーン」
**1994年1月号
***「【今月のトピックス】王者マック、思い出の京都でファンにお別れを告げる メジロマックイーン引退式」
***[[後藤正治]]「【競作ノンフィクション・シリーズ】7歳にして最強だった メジロマックイーン伝説」
**1994年2月号
***「【1993年度JRA賞決定】年度代表馬はビワハヤヒデ」
***「【'93年度フリーハンデ決定】古馬 92年に続き、トウカイテイオーが高い評価」
***「【今月の記録室】トウカイテイオー1年ぶりの出走で有馬記念優勝」
**1994年8月号
***畠山直毅「【'94年3歳新種牡馬特集 第2回】(III)1/32の奇跡がメジロマックイーンを生んだ!?」
**1994年9月号
***花岡貴子「【引退馬の近況リポート】種牡馬1年生レポート メジロマックイーン ミホノブルボン ヤマニンゼファー」
**1998年12月号
***阿部珠樹「【サラブレッド・ヒーロー列伝〈レース編〉48】盾への執念、メジロティターン(下) 白い伝承」
**1999年10月号
***[[井口民樹]]「【サラブレッド・ヒーロー列伝〈レース編〉58】ナイスネイチャの京都新聞杯(下)無冠の名馬の生涯最高レース」
**1999年11月号
**1999年11月号
***江面弘也菊花賞、逆転の記憶 ~勝利への最終切符をつかんだステイヤーたち~』
***江面弘也「【競作ノンフィクション・シリーズ】菊花賞、逆転の記憶 勝利への最終切符をつかんだステイヤーたちー」
**2000年1月号
***井口民樹「ハナ差の大逃走 - メジロパーマーとレガシーワールドの有馬記念(上)」
** 2000年2月号
***井口民樹「ハナ差の大逃走 - メジロパーマーとレガシーワールドの有馬記念(下)」
**2000年10月号
***「【20世紀の名馬大投票】第12位メジロマックイーン 天皇賞父子3代制覇も達成した 史上初の"10億円"ホース」
**2001年5月号
**2001年5月号
**2001年7月号
***井口民樹「【サラブレッド・ヒーロー列伝 20世紀を駆けた名馬たち 4】ライスシャワー 淀に咲き、淀に散ったステイヤー」
**2001年8月号
***村本浩平「【北海道・あの名馬に会いに行こう! PART1】気になる種牡馬たちの『近況レポート&ガイド』」
**2002年5月号
***井口民樹「【サラブレッド・ヒーロー列伝 20世紀を駆けた名馬たち 12】メジロマックイーン 夢をつないだ稀代のステイヤー」
**2003年8月号
***阿部珠樹「【サラブレッド・ヒーロー列伝 20世紀を駆けた名馬たち 27】ナイスネイチャ 稀代の名脇役」
**2004年10月号
**2004年10月号
***篠原美穂子、奥岡幹浩「【たずね馬&この人に聞きたいスペシャル】たずね馬」
*『週刊100名馬 Vol.22 メジロマックイーン』(産業経済新聞社、2001年)
**2006年4月号
***阿部珠樹「【サラブレッド・ヒーロー列伝 59】メジロパーマー 異色のグランプリホース」
**2006年5月号
***島田明宏「【追悼企画】さらば名ステイヤー メジロマックイーン」
***村本浩平「【追悼企画 From馬産地】親仔4代天皇賞制覇の夢は終わらない」
**2006年7月号
***篠原美穂子「【馬産地ニュース】急死したメジロマックイーンの法要が営まれました。」
**2006年8月号
***奥岡幹浩「【名馬の蹄跡シリーズ 17】メジロマックイーン 圧倒的な存在感を示した 稀代の名優」
**2007年1月号
***[[河村清明]]「【サラブレッド・ヒーロー列伝 68】遅咲きの、驚きのグランプリホース ダイユウサク」
**2008年3月号
***河村清明「【サラブレッド・ヒーロー列伝】メジロライアン 王国のお坊ちゃま」
**2009年3月号
***山河拓也「【至高のライバル対決】1992年天皇賞(春)(GI)トウカイテイオーVSメジロマックイーン」
**2009年5月号
***山田康文「【種牡馬メジロマックイーンを再評価する Part1】メジロマックイーンが種牡馬として過ごした『時代』とは?」
***吉沢譲治「【種牡馬メジロマックイーンを再評価する Part2】メジロマックイーン、その血統的本質とは?」
**2009年9月号
***[[石田敏徳]]「【あの名馬たちのデビュー戦 05】メジロマックイーン 前走2着の既走馬を問題にしない 潜在能力の高さを誇ったステイヤー」
***吉沢譲治「【血が紡ぐサラブレッドの物語 STORY2】天皇賞4代制覇という夢 メジロアサマ、ティターン、マックイーンと続く"盾"の継承」
**2010年8月号
***吉沢譲治「【未来に語り継ぎたい不滅の名馬たち】メジロマックイーン 天皇賞父系3代制覇を遂げた名ステイヤー」
**2011年1月号
***阿部珠樹「【サラブレッド・ヒーロー列伝】"離れ業"をやってのけた稀有な存在 メジロデュレン」
**2011年6月号
***軍土門隼夫「【日本ダービープレビュー】有力馬の横顔 オルフェーヴル 結実する血統への確信」
***後藤正俊「【日本ダービープレビュー】クローズアップ 小さな大種牡馬ステイゴールド」
**2011年7月号
***軍土門隼夫「【ダービー馬の故郷】白老ファーム "原点"で受け継がれてきたもの」
**2011年8月号
***江面弘也「【馬産地の話題、いっぱい集めてみました。】メジロ牧場よ、永遠に」
**2011年12月号
***軍土門隼夫「【オルフェーヴル 三冠達成の真実】オルフェーヴル ニュータイプの三冠馬が完成するまで」
**2012年5月号
***ミエスク団「【名馬図鑑 15】メジロマックイーン」
**2012年6月号
***吉沢譲治「【第79回日本ダービー】"黄金配合"の背景を探る」
**2012年8月号
***増田英樹「【日高で紡がれた血のロマン】80年の歳月を越えてーゴールドシップが果たした信念に基づく成功」
***江面弘也「【偉大なる顕彰馬の蹄跡】Vol.23 メジロマックイーン」
**2012年9月号
***阿部珠樹「【距離別『最強馬』はこの馬だ!】芝3200メートル メジロマックイーン」
***江面弘也「【偉大なる顕彰馬の蹄跡】Vol.24 トウカイテイオー」
**2012年10月号
***藤井慎一(サラブレッド血統センター)「【ニッポンの基礎牝系 第8回】アストニシメント系(2)-アサマユリ系とエベレスト系-」
**2013年1月号
***阿部珠樹「【優駿激闘譜】ドリームジャーニー グランプリで結実させた"夢の旅路"」
**2013年6月号
***河村清明「【優駿激闘譜】トウカイテイオー "皇帝"が送り出した"帝王"」
**2014年2月号
***後藤正俊「【特別寄稿 "最強馬"引退に思うところ】前途洋々な種牡馬生活」
***村本浩平「【オルフェーヴルの故郷を訪ねて】(有)社台コーポレーション白老ファーム 紡ぐ『黄金旅程』物語」
**2014年3月号
***石田敏徳「【永遠に語り継ぎたい名勝負 BEST60】メジロマックイーンVSトウカイテイオー 長距離の絶対王者に真っ向勝負を挑んだ帝王」
**2014年9月号
***阿部珠樹「【1990年代名馬&名ホースマンの記憶】メジロマックイーン 変化の時代に現れた『反時代的ヒーロー』」
**2015年3月号
***平松さとし「【未来に語り継ぎたい名馬 BEST100】史上最強のステイヤー メジロマックイーン」
***村本浩平「【追悼ステイゴールド】種牡馬時代 まさに今、種牡馬としての全盛期を迎えていたが…」
**2015年10月号
***江面弘也「【京都競馬場 開設90周年記念特集】ライバル対決に沸いた名勝負 メジロマックイーンVSトウカイテイオー」
***日夏ユタカ「【芦毛の名馬列伝】File No.4 キング・オブ・ステイヤー メジロマックイーン」
**2015年12月号
***山河拓也「【未来に語り継ぎたい名馬100頭のベストレース】メジロマックイーンのベストレース 1992年天皇賞(春)(GI)」
**2020年3月号
***栗山求「【春GIベストランキング】天皇賞(春)第1位 1992年メジロマックイーン 列島が湧いた世紀の対決」
**2020年4月号
***斎藤修「【春GIベストランキング】宝塚記念 第3位 1991年メジロライアン 常識外のロングスパート」
**2020年5月号
***辻谷秋人「【天皇賞(春)ヒストリー】連覇に挑んだ王者たち」
*『[[週刊100名馬]] Vol.22 メジロマックイーン』(産業経済新聞社、2001年)


== 外部リンク ==
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* {{競走馬成績|netkeiba=1987107235|yahoo=1987107235|jbis=0000203356|racingpost=72543}}
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* [https://www.jra.go.jp/gallery/dendo/horse22.html メジロマックイーン:競馬の殿堂 JRA]
* [https://www.jra.go.jp/gallery/dendo/horse22.html メジロマックイーン:競馬の殿堂 JRA]

2022年7月29日 (金) 20:09時点における版

メジロマックイーン
種牡馬時代のメジロマックイーン
(2002年7月22日、社台スタリオンステーション)
欧字表記 Mejiro McQueen[1]
品種 サラブレッド[2]
性別 [2][1]
毛色 芦毛[2]
(珠目上、右髪中、波分長)[1]
生誕 1987年4月3日[2][1]
死没 2006年4月3日[3]
(19歳没・旧20歳)
メジロティターン[2][4]
メジロオーロラ[2][4]
母の父 リマンド[2][4]
生国 日本の旗 日本北海道浦河町[2][1]
生産者 メジロ商事株式会社[5]
生産牧場 吉田堅[2][1]
馬主 メジロ商事株式会社[2][1]
調教師 池江泰郎栗東[2][1]
厩務員 早川清隆[6]
競走成績
タイトル JRA賞最優秀5歳以上牡馬(1991年)[2]
JRA顕彰馬(1994年選出)[7]
生涯成績 21戦12勝[2][1]
獲得賞金 10億1465万7700円[1]
勝ち鞍
GI 菊花賞 1990年
GI 天皇賞(春) 1991年・1992年
GI 宝塚記念 1993年
GII 阪神大賞典 1991年・1992年
GII 京都大賞典 1991年・1993年
GII 産経大阪杯 1993年
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メジロマックイーン(欧字名:Mejiro McQueen1987年4月3日 - 2006年4月3日生没同日))は、日本競走馬種牡馬[2]

日本中央競馬会顕彰馬である。史上初めて祖父父仔の三代連続天皇賞制覇を達成した。GI級競走を4勝するなど重賞を9勝、日本競馬で史上初めて獲得総賞金10億円に到達した。

概要

1987年4月3日に吉田堅牧場で生産された、祖父に1970年天皇賞(秋)優勝馬メジロアサマ、父に1982年天皇賞(秋)優勝馬メジロティターンを持つ、芦毛の牡馬である。北野豊吉が始めた「メジロ」の馬となり、メジロライアンメジロパーマーの同期として競走馬となる。栗東トレーニングセンター池江泰郎厩舎からデビューし、ソエで1990年春のクラシックは断念したが、夏の函館で出世。前哨戦の嵐山ステークスで2着に敗れオープンクラス入りを逃し菊花賞出走が危ぶまれたが、他馬の回避により出走を叶え優勝を果たした。

菊花賞の2着メジロライアン、3着ホワイトストーンとともに「新三強」を形成しながら臨んだ1991年天皇賞(春)で2頭を再び下して優勝し、史上初めて父仔三代天皇賞制覇を達成する。同年の天皇賞(秋)では天皇賞春秋連覇に挑み、1位入線するものの、第2コーナーでの斜行により他馬を妨害したとして18着に降着となる。これはJRAのGI競走史上初めてとなる1位入線馬の降着処分であった。

翌1992年、天皇賞(春)では前年の二冠馬でありそれまで無敗であったトウカイテイオーとの「世紀の対決」を制し、史上初めて天皇賞(春)を連覇。直後に競走能力喪失寸前の骨折を負うも約11カ月かけて立ち直った。

復帰戦である1993年産経大阪杯を制して臨んだ天皇賞(春)で3連覇に挑んだが、ライスシャワーに敗北を喫する。しかし宝塚記念で前々年のメジロライアン、前年のメジロパーマーに続いて優勝を果たし「メジロ」の3連覇を成し遂げるとともに、自身の4年連続GI勝利の記録を達成した。秋には京都大賞典を優勝し、日本競馬史上初めて獲得賞金10億円に到達。続いて天皇賞(秋)を目指したが、繋靭帯炎を発症し引退した。通算成績21戦12勝、うちGI4勝。

競走馬引退後は種牡馬となり、2006年4月3日、誕生日と同日に死亡。2008年中山牝馬ステークスクイーンステークスを優勝したヤマニンメルベイユ、2009年フローラステークスクイーンカップを優勝したディアジーナの父として知られる。また2009年春秋のファン投票実施競走、通称「グランプリ」を独占するなどGI競走3勝のドリームジャーニー、2011年のクラシック三冠有馬記念2勝などGI競走6勝のオルフェーヴル、2012年のクラシック二冠宝塚記念連覇などGI競走6勝のゴールドシップの母父として知られる。3頭の父はいずれもステイゴールドであり、この配合パターンは「黄金配合」として広まった。

デビューまで

誕生までの経緯

北野豊吉と競走馬生産

北野豊吉は、北野建設の創業者である。1933年に競馬に出会い、1936年から馬主業を開始[8]。戦争を挟んで、高度経済成長期には鹿島建設の下請けとして超高層ビルの建設を担うなどして財を成した[8]。なかなか活躍馬に恵まれないまま迎えた1961年、自宅が東京都目白にあるということにちなみ「メジロオー」と名付けた牡馬が東京優駿(日本ダービー)に駒を進める。23番人気のメジロオーは、西博所有のハクシヨウとほとんど同時に先頭で入線を果たす[9]。陣営は勝利を確信するほどだったが順位は写真判定に委ねられ、僅差、ハナ差だけハクシヨウの先着が認められた[10]

こうして北野は重賞初優勝及びダービーのタイトルを逃すこととなったが、無名の北野とタイトルホルダーの西という馬主の格式の差がこの判定に影響したのではないかという噂が流布されるようになってしまっていた[10]。そのため北野は「メジロ」で日本一の馬主となることを決意し、以後、冠名「メジロ」を用いるようになる[8]。北野は日高シンボリ牧場や本桐牧場などから馬を購入して走らせ、1963年には重賞タイトルに到達する[8]。そして1967年から北海道伊達市黄金町に生産牧場であるメジロ牧場を開き、オーナーブリーダーとなった[11]

父父メジロアサマ

メジロアサマは、1966年に北海道新冠町の日高シンボリ牧場で生産された牡馬で、父はトウルビヨン系のパーソロン、母はスヰート[注釈 1]である。パーソロンとスヰートは共にシンボリの和田共弘が日本に導入していた馬で[13]、この配合は和田の大きな期待によるものだった[12]。またメジロアサマは芦毛であり、1910年代の活躍馬ザテトラークなどから、母スヰートを経て受け継がれていた[14]

北野はスヰートを気に入り、その仔をシンボリ牧場から購入していた[12]。メジロアサマは1968年に東京競馬場の尾形藤吉厩舎からデビューし、中途で保田隆芳厩舎に転厩した。「芦毛の馬は他に比べて能力が劣る」というジンクスや、「パーソロン産駒は早熟、短距離血統」という定説が蔓延る中で臨んだ1970年天皇賞(秋)では、アカネテンリュウなどを下し、それらの風説をも覆して優勝した[13]。前年に同競走をメジロタイヨウで制していた北野は天皇賞(秋)連覇を果たし、[11]、この後翌1971年の天皇賞(春)をメジロムサシで制することで3年連続天皇賞優勝の快挙が成し遂げられることになる[11]

オーナーブリーダーとなった北野は、上述のような「メジロ」の牡馬を種牡馬とし、続々自己所有の繁殖牝馬にあてがい仔を儲ける「自家生産」を開始する[15]。当時の馬産地は外国から輸入した種牡馬を重用する傾向にあったが、メジロ牧場はそれに逆行し内国産種牡馬の仔を生産し続けていた[15]。競走馬を引退したメジロアサマもこの例に漏れず、シンジケートが結成されて種牡馬となる[注釈 2]。北野は以下のように考えていた。

メジロの名で走らせた活躍馬を種牡馬にして、メジロの繁殖牝馬に配合させる。その配合馬で天皇賞に勝つのが悲願なんだ。だって天皇賞は君が代が演奏されるけど、ダービーや菊花賞は君が代が聴けないからね。 — 北野豊吉[17]

また後に、北野の妻ミヤはこのように述べている。

豊吉ツァン〔ママ〕は、ダービーよりも天皇賞を大事に考えていましたね。なんていったって明治の男でしょ。だから天皇陛下の賞ということに特別の思い入れがあったんでしょうね、きっと — 北野ミヤ[18]

こうして悲願達成のために期待されたメジロアサマだったが、初年度に交配した28頭の牝馬は全て受胎しせず、[19]。続く2年目も2頭交配して同様だった[19]。メジロアサマは繁殖牝馬に喜び勇んで立ち向かう性格の持ち主だったが、いかんせん精虫が極端に少なく[20]、その原因については、思い当たる節こそあれはっきりとはしなかった[注釈 3]。このように受胎が難しいことで「種なしスイカ」という蔑称がつけられていたという[16]。一般的には、役割を全うできない種牡馬は直ちに廃用や用途変更がされるものであり、メジロアサマにもとある神社から「神馬」のオファーがあった[注釈 4]が北野はそれを突っぱね、種牡馬生活を続行させる[16][注釈 5]

北野は諦めず、牧場のすべての繁殖牝馬にメジロアサマをあてがうようになるが、それでもやはり不受胎の繁殖牝馬を量産するだけだった[21][注釈 6]。しかし3年目の晩期になってようやく1頭が受胎を果たし[22]、さらに翌4年目も複数頭の受胎に成功、最初に受胎した牝馬からは初産駒も誕生した。[注釈 7][25]。産駒が得られることが分かった5年目、牧場は14頭の繁殖牝馬を用意する[22]。そして3頭が受胎し1978年に3頭の産駒が誕生、そのうちの1頭が、メジロティターンだった[24]

父メジロティターン

メジロティターンは、1978年にメジロ牧場で生産された、父メジロアサマ、母シェリルの芦毛の牡馬である。シェリルは北野が将来的に繁殖牝馬にすることを期待してフランスの2歳馬セールにて大枚をはたいて購入した馬で[注釈 8][23]、現地で1974年のオペラ賞(G2)を優勝するなど9戦2勝という競走成績を残した[26]。現地にシェリルを高く見込んだ関係者がおり、日本流出を防ぐために北野に高額の取引を持ちかけた[注釈 9]が、北野は誘いに乗ることなくメジロ牧場に連れ帰った[27]

北野は1977年、高額で購入し競走成績も優秀である牧場屈指の優良繁殖牝馬シェリルに、種牡馬失格も同然のメジロアサマをあてがった[27]。この不釣り合いにも見える配合は、牧場内だけでなく競馬サークル全体からもひんしゅくを買ったという[27]が、北野は後年「周囲がなんといおうとシェリルにメジロアサマを配合して、天皇賞に勝つ馬を作りたかった[15]」と振り返っている。

そして翌1978年にメジロティターンが誕生。同年のメジロ牧場で流行していた原因不明のX性腸炎[注釈 10]に感染することもなく[28]、北野が開設した北海道洞爺村の育成場での育成を経て、美浦トレーニングセンターの尾形厩舎からデビューした[28]。初勝利に手こずり春のクラシック戦線は断念するも、夏の函館で勝ち上がり秋のセントライト記念に臨む[28]。尾形が発走の約15分前にこの世を去るというアクシデントに見舞われるも優勝を果たす[29]。その後は藤吉の長男である尾形盛次厩舎に引き継がれて菊花賞を目指すが、左後脚の骨にひびが入り出走を断念[29][30]。古馬となった1982年に復帰し、春には日経賞を10馬身差で優勝する[29]

そして天皇賞(秋)に出走し、サンエイソロンアンバーシャダイキョウエイプロミスカツアールらを下して優勝する[20]。走破タイムはホウヨウボーイの樹立したレコードを1.0秒更新する日本レコードであった[17]。またシーマータカオー及びダイナナホウシュウ以来2組目となる天皇賞父子制覇を達成し、北野の悲願が果たされた[17]。同一馬主の天皇賞4勝は「前人未踏[17]」(横尾一彦)の記録であった。その後メジロティターンは1983年末の有馬記念まで走り、競走馬を引退する。

引退後は本桐牧場で種牡馬となった[20]。1984年2月16日、北野は妻のミヤと、長男、次男、牧場の岩崎伸道を呼び寄せて以下のように述べた[31]

メジロティターンの子供で、父仔三代の天皇賞馬を出せたら、思い残すことはない。 — 北野豊吉[31]

加えて自身の天皇賞勝利数が4勝であることから「4という数字は縁起が悪い、5つ勝て[31]」とも語った。北野は翌17日、結婚式への出席のため自宅で支度をしていた朝に、脳溢血で倒れて80歳で死去する[31]。こうして北野の言葉は、遺族と牧場、そしてメジロティターンが遺言として背負うこととなった。種牡馬生活を始めたメジロティターンは種付けに前向きな性格ではなく[20]牝馬を前に発情することができず、最初の1頭への種付けに3日間かかるほどであった[32]が、一転して翌年からはどの牝馬にも1、2分で射精できるようになった[32]

ただ、十分な生殖能力こそ備わっていたが、種牡馬としての人気はなく[注釈 11][33][34]、他所の牧場から繁殖牝馬が集まらないために交配相手の約半分がメジロ牧場の繁殖牝馬という状況だった[35]。3年目となる1986年に16頭の繁殖牝馬と交配するが、その中の1頭にメジロ牧場所有で吉田堅牧場に繋養されていたメジロオーロラがいた[36]

母メジロオーロラ

メジロオーロラは、1978年にメジロ牧場で生産された牝馬で、父リマンド、母父ヒンドスタンである。日本における牝系の祖は、小岩井農場が明治40年(1907年)に輸入した基礎輸入牝馬20頭のうちの1頭であるアストニシメントで、近場では母母アサマユリを基点に繁栄を遂げており、このアサマユリ系はメジロの軸となる牝系となっていた[37]。メジロオーロラは栗東トレーニングセンターの池江泰郎厩舎から競走馬としてデビューし、24戦1勝の成績を残す[38]。引退後はメジロが他牧場に生産業務を委託する「仔分け」方式によって、メジロ牧場ではなく北海道浦河町の吉田堅牧場で繁殖牝馬となった[38][39][注釈 14]。吉田はメジロオーロラを当歳の頃から見込んでおり、引退時に北野を説得し預託を勝ち取っていた[41][注釈 16][注釈 17]。初年度は、北野とシンボリ牧場の和田共弘が共同でフランスから輸入した種牡馬フィデイオンと交配し、初仔となる牡馬(後のメジロデュレン)が誕生した[41][43]

2年目以降は、父シャトーゲイの牝馬、父ヤマニンの牡馬、父モガミの牡馬を産む[44]。そして5年目の1986年、ついに種牡馬生活3年目のメジロティターンと交配する。北野の遺言である「メジロティターン産駒で天皇賞優勝」を目的とした配合だった[36]

「天皇賞(春)を優勝するステイヤー」を生み出すための配合を検討する牧場長武田茂男は、ステイヤーとスプリンターを交配して持久力とスピードを兼ね備える馬を生産することは困難で、ステイヤー同士を交配することがステイヤーのたやすい生産方法だと考えており[36]、また「丈夫なステイヤー」を作るには、近親交配のないアウトブリードが良いという思想の持ち主でもあった[36]。加えて、レコードで天皇賞を優勝したメジロティターンには、長距離戦で通用するスピードが既に十分備わっていると考えてもいた。そのため相手の牝馬は専らステイヤー血統で十分、むしろ最適ではないかという結論を導いた[36]。その武田の条件に合致する1頭が、リマンド、ヒンドスタン、アサマユリを受け継ぎ、5代以内に近親がおらずアウトブリードが成立するメジロオーロラだった[36]

兄メジロデュレン

メジロオーロラの初仔は、メジロ系列所有のもとメジロデュレンという名が与えられ、母同様に池江厩舎に託される[45][38]。3歳時、1985年夏にデビューを果たしたが間もなく骨折、初勝利を挙げたのは4歳時の1986年5月だった[46]。一頓挫あったために春のクラシック参戦は叶わず、夏の中京競馬場函館競馬場で出世する。そして10月11日、京都競馬場芝3000メートルの1400万円以下条件戦である嵐山特別に出走し4勝目を挙げた[47]。続いてクラシック三冠の最終戦である菊花賞にて重賞に初出走。6番人気の支持だったが、ダイナガリバーレジェンドテイオーラグビーボール、タケノコマヨシらを下して優勝し、クラシック戴冠を果たした[48]

その半年後の1987年4月3日、浦河町の吉田堅牧場にて、5番仔となる芦毛の牡馬(後のメジロマックイーン)が誕生[49]、この5番仔は生まれながらに「クラシック・菊花賞優勝馬メジロデュレンの半弟」という肩書を背負うことになった[49]。昭和62年にメジロオーロラから産まれたため、牧場ではしばらく「オーロラの62」という暫定的な「幼名」で呼称された[50]

一方、菊花賞後3連敗を喫していたメジロデュレンは1987年末の有馬記念に10番人気で参戦し、サクラスターオーダイナアクトレスメリーナイスなどを下してGI2勝目を挙げた[51][注釈 18]。オーロラの62は、兄メジロデュレンを管理したという縁から、誕生する前から池江厩舎に入ることが内定していた[49]

幼駒時代

オーロラの62は、メジロアサマ、メジロティターンを受け継いで芦毛だった。しかし誕生直後は全身が黒く、白くなったのは2歳の春だったという[49]。メジロオーロラは、メジロデュレンに対しては乳を飲ませるのを恥ずかしがったり乳の出が悪かったりしたが、オーロラの62には乳をたやすく預けられて、また乳の出も良かった[52]。吉田隆によれば、牧場でのオーロラの62は「図太いと言うか、いつも悠々[52]」「抜けた体つき[52]」をしていたという。また母に似て「自分が納得しなければ動かない[53]」性格だった。病気や怪我をせず、これといったトラブルを抱えることなく成長して離乳を果たし、当歳の秋にメジロ牧場の育成牧場に移動した[52]

メジロ牧場でオーロラの62を検分した田中秀俊獣医師は、首の見栄えが良くステイヤータイプであると考えていた[54]。そして武田茂男牧場長に「こいつが走らなければ、メジロティターンの子供は、ちょっとマズイ[54]」と報告するほどだった。メジロ牧場ではその年に生産されたメジロの馬が一か所に集められており、そこにはアンバーシャダイの仔である「輝光」、メジロイーグルの仔である「輝鋒」、「リアルシャダイとシェリルの仔」など32頭の同期がいた[55]。その中で「リアルシャダイとシェリルの仔」が最も期待され、次いで輝光が2番手、オーロラの62は3番手、輝光は番外という評価だった[56][57]。特に「リアルシャダイとシェリルの仔」は「この馬でダービーを狙うつもり[58]」(武田茂男)だったという。

吉田隆の息子である吉田聡は、大学生だった当時メジロ牧場でアルバイトをしており、育成中のオーロラの62や輝光と対面している[59]。聡は輝光については「当時から光った存在[59]」であったとしつつも、オーロラの62は「それに比べて(中略)まったく冴えなくて、僕の目には未勝利を勝てるかなあって感じの馬にしか見えなかった[59]」という。ただ武田茂男は、後にオーロラの62について「当歳の時に見た時から、(メジロ)ティターンでメジロ三代天皇賞を狙える自信がわいてきました。欠点のひじょうに少ない馬で、追い運動もじつによかった。(中略)素直だし長い脚を使えるし、ひじょうに乗りやすい馬[60]」だと振り返っている。

育成段階でのオーロラの62は気性が荒く、馬群から抜け出して一人で行動し、狙った1頭を追いかけまわしていた[49]。3歳時の2月28日、オーロラの62がある馬を挑発したところ、その相手はオーロラの62の顔を蹴ろうとした[49][61]。その際、オーロラの62はその蹴りをよけずに真正面で受け止めてしまい[61]、前歯を3本折り、口から血が吹き出す怪我を負っている[61]。加えて2歳6月には左後脚の腱に5針縫う怪我を負うなど、牧場時代はやんちゃであった[61]。井口民樹によれば、輝光は「慎重で臆病[49]」、輝峰は「ややおっちょこちょい[49]」であり、そしてオーロラの62は「腕白で親分肌[49]」だったという。

スティーブ・マックイーン

この年のメジロ牧場の命名規則は「海外の著名人[62]」で、牡馬は「アメリカのヒーロー[50]」だった。最も期待された「リアルシャダイとシェリルの仔」にはアメリカの陸上選手カール・ルイスから「ルイス」を拝借して冠名の「メジロ」と組み合わせた「メジロルイス」[56]、2番手の輝光は、アメリカの野球選手ノーラン・ライアンから拝借して「メジロライアン[63]、3番手のオーロラの62は、アメリカの俳優スティーブ・マックイーンから拝借して「メジロマックイーン[63]、そして輝峰は、アメリカのゴルファーアーノルド・パーマーから拝借して「メジロパーマー」という競走馬名が与えられた[63]

最も期待されたメジロルイスは、育成中に腰を痛めて思うように走れなかった[58][注釈 19]。メジロライアンとメジロパーマーは3歳の夏にデビューを果たした一方、メジロマックイーンは化骨[注釈 20]がなかなか来ず[54]、入厩の時期を馬本位で定める牧場の方針があったため、他の2頭とは異なり時間をかけて錬成された[54]

メジロマックイーンは3歳秋、母や兄同様に池江厩舎に入厩する[66]。担当厩務員の早川清隆はまだオープンクラスの馬すら担当したことのない9年目で、レコードの販売会社勤務の傍ら、競馬好き、馬好きが高じて乗馬クラブに通い出し、遂には厩務員となった男であった[66]。早川は、入厩直後に初めてメジロマックイーンを見た際「ガラ(体格)のある、いかにも走りそうな馬[66]」という印象を持ったという。

池江は厩舎に来てもなお化骨が不十分と考え、3歳中のデビューを諦める[49]。母や兄に似ず体が大きかったために前膝にソエ(すねの骨膜炎)をきたすようになり、デビューはさらに遅れて4歳の2月となった[67][68][69]

競走馬時代

4歳(1990年)

菊花賞出走まで

2月3日、阪神競馬場新馬戦(ダート1700メートル)にて、メジロデュレンの主戦である村本善之を鞍上についにデビューを果たす。10頭立ての競走だったがうち3頭は既走馬で、デビュー戦2着のハギノレジェンドが最有力候補とされ、メジロマックイーンはそれに次ぐ2番人気だった[70]。スタートからハギノレジェンドが逃げる中、その背後を追走[71]。直線で抜け出し、ハギノレジェンドだけが抵抗したがまもなく突き放した。2着ハギノレジェンドに1馬身4分の3差、3着以下に10馬身差をつけて初勝利を挙げる[71][70]。この優れたパフォーマンスは、池江が東京優駿(日本ダービー)出走を視野に入れるほどだった[72]

続いて東京優駿を目指し芝に転向。2月25日のゆきやなぎ賞(500万円以下)に1番人気で臨むも、シンボリデーバに敵わず2着に敗退する[73]。おまけにレース後にソエが判明して休養を余儀なくされ、東京優駿出走は断念した[52]。5月13日、京都競馬場のあやめ賞(500万円以下)で復帰し、再び1番人気の支持を集めるも、ソエが完治しておらず本来の走りができず[52]、さらにハミを取ることも叶わずちぐはぐで3着に敗れる[73]

ソエに出世を阻まれていたことから池江は目標を秋に切り替える。特に大目標の菊花賞を万全の状態で迎えることを目指して再び休養となった。この時点で未だ1勝馬のメジロマックイーンが菊花賞出走を確実なものにするには、最低でもあと3つ勝利を重ねてオープンクラスに属する必要があった。池江は、まず夏の函館競馬場開催で2勝させ、それから菊花賞と同じ舞台である京都芝3000メートルの嵐山ステークスで3勝目を挙げよう、と企んでいた。函館から嵐山ステークスを経て菊花賞に臨むローテーションは、兄メジロデュレンと全く同じであった[45]

まず9月3日、函館の渡島特別(500万円以下、ダート1700メートル)に臨む。主戦の村本はこの時期小倉競馬場中京競馬場を拠点としていたために騎乗できず、池江厩舎の所属騎手でデビュー3年目の22歳内田浩一に乗り替わった[68]。1番人気に支持されるも、マンジュデンカブトにアタマ差及ばず2着となる[68]。続いて9月16日、木古内特別(500万円以下)に臨み、今度は1番人気に応えて2勝目を挙げる[73]。連闘して、9月23日の大沼ステークス(900万円以下)でも再び1番人気の支持。トウショウアイ、トウショウファルコ、メイショウビトリアなどを従えて勝利し[73]、計画通り函館で2勝して本州に舞い戻った[68]

ここからメジロマックイーンが菊花賞出走という目標を叶えるにあたっては、トライアル競走である京都新聞杯に臨み5着以内になることがたやすい方法だった[68]。しかし池江は計画を変更せず、勝利が絶対条件となる嵐山ステークス(1500万円以下)に敢えて参戦する。池江は、メジロマックイーンの持つ能力であれば当然優勝できると高を括っていたのだった[68]。直前の調教で行われた東京優駿2着馬メジロライアンとの併せ馬において、格上の存在であったメジロライアンに対しメジロマックイーンが大きく先着を果たした[74]ことからも陣営は嵐山ステークス優勝を確信していた[74]。10月13日、1番人気の支持で臨む。先行して直線を迎えたが、勝負所で進路を見出すことができず[74]、残り100メートルでようやく追い込んでもミスターアダムスに敵わなかった[74]。2着となり賞金加算に失敗。計画通りに菊花賞出走を確定することができなかった[74]

春のクラシック優勝馬ハクタイセイアイネスフウジンが揃って不在の菊花賞戦線に臨みたいメジロマックイーンだったが、3勝馬に過ぎないために出走可能な18頭以内に収まることができなかった。しかし開催が近づくにつれて回避馬が続出、直前になって抽選圏内に滑り込み出走の可能性が生まれ、遂には直前の木曜日の調教後に回避馬が発生し、抽選すら不要となり[74]、かくして菊花賞出走が実現した。菊花賞で騎乗する騎手を決定するにあたり、嵐山ステークスでの敗戦の原因となったミスを犯した若手の内田の処遇が問題となり、村本の再登板も考えられた[75]が、池江はオーナーに掛け合い、内田の続投が決まった[74][注釈 21]

菊花賞

11月4日、菊花賞(GI)に臨む。重賞初出走の3勝馬に過ぎなかったが、兄メジロデュレンなど長距離競走において実績のある血統と、調教でメジロライアンに先着したことが評価され、単勝オッズ7.8倍の4番人気に支持される[76]。クラシック優勝馬不在の中、最も信頼されたのは皐月賞3着、東京優駿2着のメジロライアンで、次いで支持されたのは関東のトライアル競走であるセントライト記念を制したホワイトストーンであった[77]。この2頭は予め単枠指定制度の対象となっていた[78]が、メジロライアンには8枠18番が課された一方で、ホワイトストーンは1枠1番、メジロマックイーンは2枠2番と恵まれていた[52]。雨中の重馬場での開催だったが仮柵が取り払われたばかりで、馬場の内側にコンディションが良好な領域、いわゆる「グリーンベルト」が出現していた[52][77]

映像外部リンク
1990年 菊花賞(GI)
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画

メジロマックイーンはスタートから先行、平均ペースで先頭を追走する。極端な枠となった単枠2頭は後方に位置していた[52]。そのままの位置で2周目の第3コーナーの坂の上り下りに差し掛かる頃、メジロマックイーンは位置を上げて先頭オースミロッチに並びかけ、進路を確保する[77]。最終コーナーに差し掛かる頃には、オースミロッチをかわして先頭となり、突き放しにかかっていた[79]。後方勢はメジロマックイーンの背後にホワイトストーン、傍らにメジロライアンがおり、ホワイトストーンは最も内、メジロライアンは大外に展開して追い上げていたが、外々を回ったメジロライアンは早々に脱落、ホワイトストーンは差を詰めるも余力はなくかわす勢いはなかった[79]。メジロマックイーンは末脚衰えず、先頭を譲らなかった[80]。ホワイトストーンに1馬身4分の1差、メジロライアンに2馬身半以上の差をつけて決勝線を通過する。GI、クラシック初優勝。兄メジロデュレンに続いて兄弟菊花賞制覇を果たした[注釈 22]

この後は食欲不振に陥るなどして調整が遅れたこと[82]、オーナーがクラシック3着2着3着に終わったメジロライアンの大タイトル奪取を願っていたことから、年末の有馬記念を回避する[83]。池江は次なる目標を天皇賞(春)に定めたが、メジロの最大目標である天皇賞三代制覇がかかる重大な一戦に挑むにあたり、一度ミスを犯した若手の内田では頼りなかった[74]。そこで池江は内田を更迭し武豊を起用する。前年の天皇賞(春)をイナリワンで、この年の天皇賞(春)をスーパークリークで制していた武にとっても翌年の天皇賞(春)は3連覇がかかる重大な一戦だった[84]

ホワイトストーンは菊花賞の後ジャパンカップに挑み、古馬のオグリキャップヤエノムテキ、外国調教馬のいくらかにも先着を果たし、外国調教馬のベタールースンアップ、オード、カコイーシーズの横一線の先頭争いから1馬身4分の1差の4着と日本調教馬最先着を果たしていた[85]。またメジロライアンとホワイトストーンは暮れの有馬記念に参戦し、オグリキャップには敵わなかったが2頭で2着3着を占めた[86]

この有馬記念はオグリキャップの引退レースであり、これを以て「平成三強」と祭り上げられた3頭がすべて現役を退くことになった[87][88]ことから、新たな主役として菊花賞優勝馬メジロマックイーン、古馬相手に互角に戦ったメジロライアンホワイトストーンが祭り上げられるようになる。この3頭は「平成三強」になぞらえて「新三強」とも呼ばれた[88][89]

5歳(1991年)

天皇賞(春)

天皇賞(春)に向け、メジロマックイーンは3月10日、中京競馬場の阪神大賞典(GII)で始動する。重賞2着が最高のゴーサインやミスターアダムスらが出走する9頭立ての競走となり、単枠指定制度の対象とされる[90]。単勝オッズ1.2倍の1番人気に支持された[91]

映像外部リンク
1991年 阪神大賞典(GII)
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画

スローペースの中団を追走し、かかる場面もあったがテン乗りの武がなだめていた[82]。2周目に差し掛かって位置を上げて好位のゴーサインの背後を取り、第3コーナーから進出を開始、ゴーサインと並んで最終コーナーを通過する[92]。直線に差しかかる頃には優勝争いを演じるのはゴーサインとメジロマックイーンの2頭に限られており、メジロマックイーンはそのゴーサインを簡単に差し切ってからは独走となった[93]。ゴーサインに1馬身半差をつけて先頭で入線し、重賞2勝目を挙げた[92][93]。走破タイム3分7秒3はコースレコードだった[注釈 23][90]
4月28日、ついに天皇賞(春)(GI)に臨む。「新三強」はこの競走に向けてそれぞれ別々の進路を辿っており、メジロライアンは中山記念で2着に敗れるものの内容面に問題はなく、ホワイトストーンは産経大阪杯を優勝しての参戦であった[94]。この3頭はいずれも単枠指定を受けていて[95]、3頭同時の単枠指定はこれが史上2例目だった[94]。ただ「新三強」といっても人気はメジロマックイーンが抜きん出ており、4倍台の2頭に大差をつける1.7倍の1番人気だった[96]

映像外部リンク
1991年 天皇賞(春)(GI)
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画

条件馬の16番人気メジロパーマーが平均ペースで逃げて、メジロマックイーンは好位に位置する[89]。ホワイトストーンは先行、メジロライアンは後方に構えていた。2周目に差し掛かる頃には、メジロマックイーンが三強の内では1番前、近い所にホワイトストーンがいて、後方からメジロライアンが追う形となっていた[95]。メジロマックイーンは第3コーナーの上り下りで先頭を視野に入れ、直線でまもなく抜け出し末脚を用いた[94]。後方外からホワイトストーン、内からメジロライアンが同様に追い込んでいたが、先頭を脅かすほどの勢いはなかった[94]。メジロマックイーンは後続を突き放したまま先頭で入線し[97]、遅れて追い込んだ7番人気ミスターアダムスに2馬身半差をつけて優勝した[95]

こうしてGI2勝目、天皇賞戴冠を果たす。メジロ牧場はメジロアサマ、メジロティターンに続いて父仔三代天皇賞優勝を実現[注釈 24]、北野豊吉の遺言が現実のものとなった。当日の競馬場には、豊吉は遺影として臨場しており、表彰式では妻ミヤの胸に、記念撮影では馬上にいる武の掲げる右手の中にいた[99][97]。また武豊は、天皇賞(春)3連覇を成し遂げた。加えて吉田牧場は、メジロファントム、メジロデュレンで叶えられなかった天皇賞制覇を8度目の挑戦で果たした[100]

宝塚記念

その後は6月9日、京都競馬場の宝塚記念(GI)に臨む。「新三強」の再々戦となったが、メジロマックイーンのみが単枠指定を受け、人気面でも他2頭が4倍台であるのに対し1.4倍の1番人気で[101]、メジロマックイーン一強の様相が強まっていた[102][88]。しかし前走からの距離短縮となる京都2200メートルという舞台、そのレコードホルダーはメジロライアンだった[103][104]

映像外部リンク
1991年 宝塚記念(GI)
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画

メジロマックイーンはスタートからメジロライアンと並んで中団を追走。メジロライアンは向こう正面で位置を上げ、先行するホワイトストーンの直後を確保し、積極策に出て第3コーナーの坂の下りでハナを奪った[105]。後れて進出を開始したメジロマックイーンはメジロライアンの後方外側から追い上げる形となり[101]、直線では大外に持ち出してから追い上げたが、先に抜け出したメジロライアンに突き放されてしまった[105]。ゴール手前でようやく末脚が利いたものの、メジロライアンには敵わず[104]、1馬身半差の2着となる[105]。ただ1971年の優勝メジロムサシ、2着メジロアサマ以来20年ぶりとなるメジロ系列による宝塚記念1着2着独占を成し遂げた[106]。その後は休養、函館競馬場で夏休みとなる[107]

天皇賞(秋)

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1991年 京都大賞典(GI)
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秋は天皇賞春秋制覇を目指して、10月6日の京都大賞典(GII)で始動する[108]。重賞2着馬メイショウビトリア、金杯(西)優勝馬ダイユウサクなど7頭立ての中、1.1倍の1番人気だった[109]。逃げるメジロパーマーに次いで、好位を追走し、直線で抜け出してからは独走となる[110]。2着メイショウビトリアに3馬身半差、5着ダイユウサクに10馬身以上差をつけて優勝する[111]
続いて10月27日、天皇賞(秋)に臨む。相手にはホワイトストーン、カリブソングカミノクレッセの他に、条件戦から連勝で出世したプレクラスニーがいたが、1.9倍の1番人気となる[112]。雨が続き、馬場状態が不良になったことが、メジロマックイーンが信頼される一因だった[112]

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1991年 天皇賞(秋)(GI)
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7枠13番からスタート、逃げるプレクラスニー、2番手ホワイトストーンに次ぐ3番手を確保した。上位人気3頭が並んだまま、最終コーナーを通過[112]。直線に入ってまもなく、ホワイトストーンが失速して脱落し、プレクラスニーとの一騎打ちとなった。一騎打ちは次第にメジロマックイーンが優勢となる。プレクラスニーは抵抗なく、メジロマックイーンが抜き去り、後は突き放す一方だった[112]。後方勢も失速するプレクラスニーをかわすことすらできなかった。独走したまま、プレクラスニーに6馬身差をつけて先頭で入線を果たす[113]。ただし第2コーナーを通過したときから、審議のランプが灯っていた[112]

【降着】メジロマックイーン号は1位(タイム2分02秒9、2頭の着差6馬身)に入線したが、2コーナーで内側に斜行して「メイショウビトリア」号、「プレジデントシチ―」号および「ムービースター」号の進路を妨害したため18着に降着。
【制裁】メジロマックイーン号の騎手武豊は、2コーナーで内側に斜行したことについて平成3年10月28日から平成3年11月17日まで騎乗停止[注釈 25] — 日本中央競馬会[115]

メジロマックイーンは、日本のGI競走史上初めてとなる1位入線後の降着に処される[116]。メジロマックイーンは、スタートから約103メートル地点にある「ほぼ直角に曲がる2コーナー[113]」(片山良三)にて3番手を内側に斜行して確保した後、1位入線を果たしていた[113]。プレクラスニーがハイペースで逃げ、末脚の利かない不良馬場では、メジロマックイーンの得た好位が絶好位だった[117]。その絶好位は、他の伏兵も当然欲しい位置であり、大本命のメジロマックイーンにたやすく譲るわけにはいかなかった。7枠13番から好位を目指すメジロマックイーンを見た、13番よりも内側の馬たちは当然張り合おうとしていた[117]

そんな頃に急な第2コーナーに差し掛かり、メジロマックイーンは、コーナーを回り切るために内側に斜行する。勢いづいていた内側の馬たちは、斜行により連鎖的に内側に押し込められ、進路が狭まっていた[117]。やがてその密集度合いは限界に達し、メイショウビトリアは挫き、ムービースターは進路がなくなり、プレジデントシチーは転倒寸前、その騎手本田優が落馬寸前だった[118]。特に被害の大きかったプレジデントシチーは、それ以降競馬にならず、1位メジロマックイーンに7秒、さらにブービーに大差、3秒後れを取る最下位18位で入線している[115]。メジロマックイーンは、このプレジデントシチーまで繰り上げさせて、最下位18着となる[115]。武は1位入線後、勝利を確信してウイニングランやガッツポーズも披露しており、裁決室へ呼び出されるまでこの事象を関知していなかったという[113][注釈 26][注釈 27]。(詳細については、第104回天皇賞を参照。)

ジャパンカップ、有馬記念

続いて11月24日のジャパンカップ(GI)に臨む。第11回ジャパンカップは、凱旋門賞2着のフランス・マジックナイトを筆頭に9頭の外国調教馬を迎える15頭立てだった[121]。過去10回は、外国調教馬が8勝、日本調教馬が2勝という内訳であったが1番人気は、形式上大敗から臨むメジロマックイーンだった。2番人気から8番人気までを外国調教馬が占める1番人気であり、オッズは1.9倍だった[122]。また単勝支持率は、ジャパンカップ史上最高だった[123]

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1991年 ジャパンカップ(GI)
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3枠5番からスタートして、馬場の内側、好位を確保[124]。直線では最も内側にいたが、抜け出せなかった[125]。外から追い込んだアメリカのゴールデンフェザント、フランスのマジックナイトにかわされ、突き放される一方となる[124]。終いにはオーストラリアのシャフツベリーアヴェニュー英語版にもかわされていた[126]。1位入線のゴールデンフェザントに約3馬身離される4着となる[121]
それから12月22日、有馬記念(GI)に臨む。鳴尾記念優勝のナイスネイチャ[127]、繰り上げ優勝のプレクラスニー、他プリンスシン、メジロライアンが主な相手だったが、それらを8、9倍台に押し込める、1.7倍の1番人気に支持されていた[128]

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1991年 有馬記念(GI)
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ツインターボが大逃げ、それにダイタクヘリオスやプレクラスニーが続くハイペースとなり、メジロマックイーンは中団を追走する[129]。背後ではナイスネイチャにマークされていた[130]。2周目の第3コーナーでツインターボが失速し、番手や中団待機勢の出番となり、メジロマックイーンは馬場の外側に持ち出して進路を確保する[131]。後するべきことは、ツインターボに代わって先頭となったプレクラスニーとダイタクヘリオスを捕まえ、大外から追い込むナイスネイチャを振り切るだけだった[132]

直線ではプレクラスニーとダイタクヘリオスを楽に捉えて、そしてナイスネイチャを寄せ付けず、先頭となる[133]。ただまもなく、プレクラスニーとダイタクヘリオスの間を割って、ブービー15番人気ダイユウサクが追い上げていた[131]。ダイユウサクの末脚は、メジロマックイーンのそれを凌ぐものであり、メジロマックイーンはたちまち突き放された[134]。ダイユウサクのレコード優勝に敵わず、1馬身半差の2着に敗退する[135]

6歳(1992年)

天皇賞(春)

天皇賞(春)連覇を目指して3月15日、阪神競馬場の阪神大賞典から始動する[136]。雨中の稍重、6頭立てとなる中、日経新春杯優勝から臨むカミノクレッセとの一騎打ちになると目されていた[137][138]。メジロマックイーンは1.3倍、カミノクレッセは2.6倍という支持だった[139]

道中は3番手を追走し、終始カミノクレッセからのマークを受けていた[59]。しかし2周目の第3コーナーにて、武が促さなくとも進出し、先頭となる。背後ではカミノクレッセが追いすがっていたが、直線では突き放す一方だった[137]。カミノクレッセには5馬身、それ以下には10馬身以上の差をつけて優勝する[138]。当日は武の23歳の誕生日だった[59]

続いて4月26日、天皇賞(春)に臨む。連覇を目指すメジロマックイーンの前に立ちはだかったのは、トウカイテイオーだった[140]。トウカイテイオーは、同じパーソロン系、クラシック三冠馬シンボリルドルフの初年度産駒だった[141]。デビュー4連勝で臨んだ皐月賞を優勝、続く東京優駿(日本ダービー)も優勝し、クラシック二冠を達成[142]。しかし直後に骨折をきたしたことで、菊花賞に出走できず、父仔三冠の夢は潰えていた[142]。療養中に古馬となったトウカイテイオーは次なる目標を天皇賞(春)に据えてその前哨戦、4月5日の産経大阪杯で戦線に復帰する[143]。ダイユウサク、イブキマイカグラ、ホワイトストーンなどタイトルホルダーが揃っていたが、馬なりのまますべて振り切っていた[144][145]。東京優駿以来314日のブランクを挟んで、無敗の7連勝を記録していた[145]

トウカイテイオー T-M メジロマックイーン
皐月賞 1着 '91春 1着 天皇賞(春)
東京優駿 1着 2着 宝塚記念
骨折休養[146] 調整休養[147]
1着 京都大賞典
1位 天皇賞(秋)
4着 ジャパンC
2着 有馬記念
調整休養[147]
産経大阪杯 1着 '92春 1着 阪神大賞典
天皇賞(春)

現役最強ステイヤーと考えられていたメジロマックイーンと、菊花賞を走れなかった無敗のトウカイテイオーの、京都芝3200メートルでの巡り会いは、大いに注目を集め、その頭文字から「TM対決[148]」、果ては「世紀の対決[149]」などと持ち上げられる。メジロマックイーンには関西の武が、トウカイテイオーには関東の岡部幸雄が騎乗するという、東西名手の競演となったことも、競馬ファンの興味を増幅させた[150][151]。産経大阪杯の調教時に岡部は「(トウカイテイオーは距離に関係なく)地の果てまでも駆けられる[144]」と述べれば、武は「こちら(メジロマックイーン)は天までも駆けられる[152]」と対抗するという競馬場外でのマイクパフォーマンスも見られた[152]

14頭立てだったが、注目は専らこの2頭であり、2頭で単勝支持率86.1パーセントを占めた[148]。実績と無敗という魅力比べでは、無敗のトウカイテイオーの魅力が勝り、1.5倍の1番人気。メジロマックイーンは、2.2倍の2番人気となる[140]。3番人気以降は、18倍に飛躍していた[153]。また2頭の組み合わせの枠番連勝式、馬番連勝式も売れに売れてともに1倍台となり、ギャンブル的な側面から「銀行レース」だと考えられていた[150][154]。出走時刻は午後3時40分だったが、直前になってメジロマックイーンの右前脚の蹄鉄が4分の1欠けている[注釈 28]ことに、早川が気づいていた[155][156]。1分前になって武が下馬して、蹄鉄の打ち替えが実施される[156][注釈 29]。そのため、定刻から8分遅れての発走となった[158]

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1992年 天皇賞(春)(GI)
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スタートからメジロパーマーが逃げ、折り合いを保ってスローペースを演出[149]。2頭は、中団並んで追走し、やがてメジロマックイーンが前方となった[148]。2周目の第3コーナーに差し掛かり、武は後方のトウカイテイオーを初めて視認[135]。それから坂の上り下りにて、外を回りながら追い上げる「まくり」を敢行した[148]。すぐ外にトウカイテイオーが粘着している状態で最終コーナーを通過する[159]。しかし直線に入って間もなく、トウカイテイオーが失速し、メジロマックイーンが突き放した[143]

以後、メジロマックイーンは独走となる[159]。後退するトウカイテイオーに代わってカミノクレッセ、イブキマイカグラが追い込んできたが、メジロマックイーンを脅かすものではなかった[160][161]。カミノクレッセに2馬身半、イブキマイカグラに約7馬身、トウカイテイオーに約9馬身差をつけて先頭で入線する[158][162]史上初めて天皇賞(春)連覇を果たす[注釈 30][163]。武は、史上初めて同一GI4連覇、それも天皇賞(春)4連覇を果たした[164]

左前脚骨折

続いて6月14日の宝塚記念を目指して調教が進められたが、その1週間前の6月7日、調教中に左第1指節種子骨骨折を発症[165]。宝塚記念を回避するとともに、長期の戦線離脱となった[165]。種子骨骨折は、競走能力を喪失する割合が高く、仮に治っても再発する可能性が高く、再起は難しいとされていた[166]。しかし「骨折箇所があと1ミリでもズレていたらカムバックは無理だった[167]」(池江泰郎)という状態で競走能力喪失は免れ、戦線復帰を目指すことができた[166]。骨折から1か月後、洞爺村のメジロ牧場で休養となる[166][168]。また天皇賞(春)5着のトウカイテイオーも天皇賞(春)の10日後に左前脚の剥離骨折を発症していた[140]。宝塚記念は2頭の再戦の場と考えられたが、叶わなかった[165]

メジロマックイーンが回避したことで、メジロ牧場は、阪神競馬場への宝塚記念応援団の派遣を中止している[169]。しかしメジロ勢では、メジロパーマーが出走していた。見捨てられたメジロパーマーは9番人気だったが、ダイユウサクやカミノクレッセ相手に逃げ切り優勝を果たしている。前年のメジロライアンに続いて、メジロの宝塚記念連覇と相成っていた[170]。ただ競馬場には、牧場関係者では北野俊雄しかおらず、寂しい表彰式となる[171]

一方メジロ牧場で放牧されていたメジロマックイーンは、立ち直って一旦函館競馬場に入厩し、栗東トレーニングセンターに帰厩している[166]。調整が進み、この年暮れの有馬記念参戦は可能な状態だったが、池江が自重して回避。年内での復帰は叶わなかった[166]

7歳(1993年)

産経大阪杯

復帰が現実を帯びてきた頃、陣営は、天皇賞(春)3連覇を目標に据える。同一重賞の3連覇は、これまでにセカイオーが鳴尾記念で果たしたのみであり、GI競走3連覇、それも格式の高い天皇賞(春)3連覇は、もってのほかだった[172]。加えて武も天皇賞(春)5連覇がかかっていた[173]。厩舎に帰還したメジロマックイーンは、200メートルを15秒で走る運動を開始し、1月27日には初めて、脚元の不安が小さいプール調教に臨んでいる[166][174]。一時期、左前脚に骨膜炎をきたす一頓挫もあった[174]。この骨膜炎を根拠に、一部スポーツ新聞がメジロマックイーンの春の復帰は不可能と報じていたが、実際はそれほど重度のものではなく、予定通り、天皇賞(春)を目指すことができた[174]。天皇賞戦線には、前年の皐月賞と東京優駿を優勝したクラシック二冠馬ミホノブルボン、前々年の二冠馬トウカイテイオーが存在していたが、2頭はほどなく故障し、対決は実現しなかった[175][176]。メジロマックイーンは、これまで平地コースでの調教しかしていなかったが、ここで初めて坂路調教が導入される[166][177]。後に池江は、栗東に坂路とプールがなかったら復帰は不可能だったと述べている[167]

当初は過去2年と同じく、3月14日の阪神大賞典を前哨戦とするつもりだった[178]。しかし一頓挫あって見送り、4月4日の産経大阪杯(GII)で始動となる[178]。坂路調教を積んでからの復帰となったが、マスコミは調整不足と見る声が大きかった[177][179]。加えて馬体重は、約11か月前の天皇賞(春)から14キログラム増加であり、舞台は、未知数の2000メートル戦だった[179]。GII優勝馬に過ぎないナイスネイチャやエルカーサリバーなど格下が相手だったが、メジロマックイーンは信頼を勝ち取ることができず、オッズは、ナイスネイチャと並ぶ2.4倍となる。票数の差で辛くも1番人気となっていた[180]

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1993年 産経大阪杯(GII)
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7枠13番を得たメジロマックイーンは、逃げるラッキーゲランに次ぐ2番手を追走[179]。最終コーナーにて、促されることなく「馬なり」で先頭となり、直線で突き放した[179]。以後独走、ナイスネイチャに5馬身差をつけて先頭で入線する[181][182]。前年春のバンブージャンボのタイムを0.2秒上回るコースレコードを樹立し、優勝を果たした[181]

天皇賞(春)

続いて4月25日、天皇賞(春)に臨む。ミホノブルボンの三冠を阻んだ菊花賞優勝馬ライスシャワー、同3着で重賞連勝して臨むマチカネタンホイザ、宝塚記念の後に有馬記念も制し、阪神大賞典優勝から臨むメジロパーマーなどが3連覇の前に立ちはだかった。しかし産経大阪杯の復活優勝が高く買われ、メジロマックイーンは信頼を勝ち取る。このほか武は、桜花賞ベガで、皐月賞をナリタタイシンで制しており、JRAGIを連勝中だった[183]。オッズ1.5倍の1番人気となる[184]。以下、ライスシャワー5倍、マチカネタンホイザ8倍、メジロパーマー9倍だった[184][185]。ただメジロマックイーンは、中2週での参戦だった[178]

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1993年 天皇賞(春)(GI)
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前年落鉄した発走前、この年はゲートに収まるのを嫌がり、発走時刻を3分間遅延させた[186][178]。しばらくして収まり、8枠14番からスタートした。メジロパーマーが大逃げする一方で、3、4番手の好位を追走した[187]。背後にはライスシャワーがおり、マークされる形となった[186]。メジロパーマーは、天皇賞(春)史上2番目に早いペースで先導していた[172]。ハイペースとなる中、メジロマックイーンは2周目の第3コーナーから進出を開始する。ただ傍らにはライスシャワーを伴っていた。やがてメジロマックイーンとライスシャワーは、先頭のメジロパーマーに並びかける[173]。ただメジロパーマーも失速していなかった。3頭並ぶ雁行状態、わずかにメジロマックイーンが先頭で最終コーナーを通過する[187]。ただ直線半ばでその均衡も解け、ライスシャワーの末脚が優勢となる[187]。メジロマックイーンは抵抗することができず、脚色は、メジロパーマーのそれと同じとなった。以後、独走を許し、メジロパーマーとの2着争いとなった[178]

ライスシャワーに2馬身半後れを取り、メジロパーマーに4分の3馬身先着する2着に敗退する[188]。天皇賞(春)3連覇並びに、武の天皇賞(春)5連覇は、果たせなかった[173]。メジロパーマーから6馬身後れを取る4着にマチカネタンホイザだったが、4着までがイナリワンのコースレコードを上回るタイムで駆けていた。5着はマチカネタンホイザから5馬身、ライスシャワーから見れば、10馬身以上存在していた[188]。武は「悔しいけれど、力は出し切っての結果。勝った馬が強かった[189]」、池江は「完全なレースをしての負け。相手が一枚上だった[189]」と述懐している。このレース、メジロマックイーンは、発走直前にゲートを入りを嫌がったことで「枠入り不良」と判断されている。そのため、発走調教再審査の制裁が課された[188]

宝塚記念

続いて6月13日、皇太子殿下御成婚奉祝宝塚記念に臨む。ライスシャワーは放牧、トウカイテイオーは復帰予定だったが再び故障し断念[190]。さらにカミノクレッセやヒシマサルシスタートウショウなども断念するなど、有力馬の回避が続出[190][167]。注目は前年度優勝馬のメジロパーマーとの対決に絞られていた。他の相手には、ニシノフラワーシャコーグレイドアイルトンシンボリがいたが、人気は2頭に集中した[190]。メジロマックイーンが1.5倍の1番人気、メジロパーマーが2.7倍だった[191]。良馬場ではあったが、雨が降り、特に内側が荒れている状態での発走だった[190][192]

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1993年 宝塚記念(GI)
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画

メジロパーマーが、荒れていない外側を選んで逃げに出た[190]。ほとんどがそれに従って馬群が形成され、2番手にニシノフラワー、3番手の好位にメジロマックイーンがいた。メジロパーマーは馬場に脚をとられ、ニシノフラワーは折り合いがつかなかった[193]。第3コーナー、前の2頭は脱落し、代わってメジロマックイーンが先頭となる[167]。直線では後続を突き放して独走。後方から追い上げたイクノディクタスに1馬身4分の3差をつけて先頭で入線する[194]

GI4勝目。メジロ勢は宝塚記念3連覇[193]。また、祖父メジロアサマは1971年2着、1972年6着、父メジロティターンは1982年9着に敗れ、二代続けて逃した宝塚記念のタイトルを三代目が回収していた[195]

京都大賞典

函館競馬場での夏休みを経て[196]、秋は前々年に1位入線も降着、前年は出走できなかった天皇賞(秋)を目指し、10月10日の京都大賞典で始動する。相手にはメジロパーマーの他に、4歳で臨んだ有馬記念でメジロパーマーにハナ差の2着となったレガシーワールドなどが揃う10頭立てだった[197]。ただメジロマックイーンは1.2倍、レガシーワールドを4.4倍、メジロパーマーを14.0倍に押し込める1番人気だった[198]

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1993年 京都大賞典(GII)
レース映像 JRA公式YouTubeチャンネルによる動画

メジロパーマーが逃げ、それにレガシーワールドが続く中、メジロマックイーンは中団5番手を追走する[197]。第3コーナーからは、武が促さずとも、前方の対抗馬と距離を縮めた。盛んに促される対抗馬に最終コーナーに並びかけて、たちまちかわして先頭となる[199]。唯一レガシーワールドが抵抗してきたが、直線で突き放していた[199]。以後独走、レガシーワールドに3馬身半差をつけて決勝線を通過した[197]。重賞9勝目。走破タイム2分22秒7は、前年優勝馬オースミロッチの記録を1.9秒上回るコースレコードだった[197]。武はこの直後にこう述べていた。

この秋はやらなくてはならないことがたくさん控えていますから、その意味でも最高のスタートを切ることができました。この次の秋の天皇賞は、メジロマックイーンといっしょ〔ママ〕に東京競馬場のウイナーズサークルに立てるように頑張りますので、皆さん応援してください。 — 武豊[200]

引退

前哨戦を勝利したことで、10月31日の天皇賞(秋)に大本命で臨むこととなった[201]。しかしその4日前の10月27日、ウッドチップコースでの調教を終えた後に歩様が乱れて天皇賞(秋)を回避を決定[202][注釈 31]。その後の検査で、左前脚の繋靭帯炎が判明する[202][204]。復帰には最低でも半年かかるとされ、既に種牡馬シンジケートが結成されていたことが後押しとなって引退が決定する[205]。29日に引退発表がなされた[206]。結局、秋の古馬GI競走には縁がないまま引退となった。欠場したこの年の秋、天皇賞(秋)はヤマニンゼファー、ジャパンカップはレガシーワールド、有馬記念はトウカイテイオーが優勝しているが、レガシーワールドとトウカイテイオーは、メジロマックイーンが下した相手だった。またヤマニンゼファーは、ニホンピロウイナー産駒、安田記念連覇のマイラーであるが、メジロマックイーンの引退レースとなった京都大賞典の2000メートル通過タイムが、天皇賞(秋)のヤマニンゼファーの走破タイムを上回っていた[205]。このことから武は、天皇賞(秋)に体調の問題がないメジロマックイーンが出ていれば「100パーセント勝っていた[205]」と述べている。

歴代収得賞金ランキング(1993年終了時)[207]
馬名 総収得賞金 戦績 GI勝利
1 メジロマックイーン 10億1465万7700円 21戦12勝 菊花賞、天皇賞(春)連覇、宝塚記念
2 オグリキャップ -08億8970万2000円 20戦12勝 有馬記念連覇、マイルCS、安田記念
3 ダイタクヘリオス 0-6億8995万2400円 35戦10勝 マイルCS連覇
4 シンボリルドルフ 0-6億8482万4200円 15戦13勝 三冠、有馬記念連覇、天皇賞(春)、ジャパンC

引退により成績は21戦12勝、総獲得賞金は10億1465万7700円で確定する。デビューから引退まで、降着を考えなければ、入着を逃したことはなかった[166]。7歳の宝塚記念を優勝したことにより、オグリキャップなどを上回る獲得賞金9億円に到達[195]。続く秋の京都大賞典を優勝したことにより、アメリカの賞金王で、世界最高とされるアリシーバでも届かなかった10億円に到達していた[200]

引退決定から約1か月後の11月21日、マイルチャンピオンシップ当日昼休みの京都競馬場で引退式が行われる[206]。当日はメジロマックイーンのための徹夜組が発生するなど、ファンが集結。そのため開門が1時間繰り上げられる措置が取られた[208]。「異例のはからい」でパドックを周回してから入場。北野豊吉の悲願が果たされた1991年天皇賞(春)のゼッケン、帽色でお披露目がなされた[208]。故障しているため、歩くことしかできなかった[208]。最後は、スティーブ・マックイーンの主演映画『大脱走』のテーマソングが場内に流れながら、競馬場を退いている[208]。11月24日、JRAの競走馬登録を抹消する[146]

種牡馬時代

競走馬引退後は、生まれ故郷のメジロ牧場の検疫厩舎にて静養した後、北海道早来町の社台スタリオンステーション早来にて種牡馬として供用される[177]ノーザンダンサーロイヤルチャージャーなど、当時の主流血脈を持っていない異系血統という点で配合選択肢の幅広さが注目を集めた[209]。全60株、1株1200万円というシンジケートが結成されており、1日のうちに満口になっていた[177]。メジロマックイーンは初めは躊躇するも[210]、1994年2月16日に初めて牝馬と交配してからは、盛んに種付けできるようになったという[211]。父メジロティターンに似ず、祖父メジロアサマに似て「大の種付け好き[20]」(阿部珠樹)であり、牝馬の乗る馬運車が近づくだけで騒ぎたてるほどだった[212]

初年度となる1994年は、内国産新種牡馬では最も多い98頭の繁殖牝馬と交配し[213]、2年目から4年目までは80頭ほど、5年目となる1998年にはピークとなる149頭と交配した[214]。8年目となる2001年にも142頭を集めたが、以降は右肩下がりとなる[214]。メジロマックイーンのような馬格のある産駒がなかなか生まれず、生産者側も苦労していた[212]。社台スタリオンステーションの徳武英介によれば、相手の牝馬にも馬格を求めて、メジロマックイーンの再現も狙ったこともあったという[212]

メジロマックイーン(1996年)

ただ産駒の成績も上がることはなく、2004年シーズンを以てシンジケートが解散される[215]。それから11年目となる2004年からは都落ちとなり、社台スタリオンステーション荻伏に移動している[35]。移動初年度の11年目は54頭となり、12年目には14頭にまで落ち込んだ[214][216]。種牡馬生活13年目の2006年、3頭と交配した後の4月3日午後5時15分に心不全で19歳で死亡、生没同日を果たしている[214][217]。生き永らえていた場合、種牡馬を引退した後は、生まれ故郷のメジロ牧場で余生を過ごす予定だった[212]。存命していた父メジロティターンとともに過ごす計画があったが、叶わなかった[212]。5月17日、洞爺湖町のメジロ牧場にて、北野雄二や池江、ファンなど100人が参列して法要が行われている[218]

産駒は、1997年からデビューし2014年まで日本競馬で走っている[214]。2008年の中山牝馬ステークスクイーンステークスを制したヤマニンメルベイユ(父:サンデーサイレンス)や、2009年のクイーンカップフローラステークスを制したディアジーナ(母父:ビショップボブ)などが重賞優勝を果たしたが、JRA-GI優勝産駒は現れなかった[219][220]。特に天皇賞を勝てば、父系四代天皇賞制覇であり、特にメジロ牧場はそれを目指して自らの一線級の繁殖牝馬をあてがっていた[211]。しかし最高順位は、2008年春に臨んだホクトスルタン(ダイイチ牧場生産、母父:サンデーサイレンス、優勝:アドマイヤジュピタ)の4着に留まり、それを産駒で果たすことはできなかった[220][221]。徳武はメジロマックイーンの種牡馬時代を振り返り、「最後まで(種牡馬としての)イメージがつかめず、配合に迷いがあった[213]」と述べている。

死後

"黄金配合"

種牡馬としてのメジロマックイーンは、優秀な産駒の輩出には至らず、有力な後継種牡馬は出現せず、父系は枝葉を広げるほど発展しなかった[35][222]。ただ産駒の牝馬が、いくらか繁殖牝馬として残されるのみとなる。父としての産駒が活躍しなかったメジロマックイーンには、母系に降り「母の父」「母の母の父」などとしての優秀な産駒が出現する将来に託すことしかできなかったが、優秀な産駒に巡り合うことなく、メジロマックイーンは死亡している[223]

ただ死後、遺された数少ない繁殖牝馬が、種牡馬ステイゴールドと結びつく[224]。ステイゴールドとメジロマックイーンは共に気性が荒く、馬産地ではこの2頭を繋ぎとめる行為は、気性がさらに荒い産駒が産まれるだけ、「禁じ手[225]」(後藤正俊)であると考えられて敬遠されていた[225]。しかしその交配に挑んだ白老ファームから、ドリームジャーニーが誕生する[225]。それにオルフェーヴル、ゴールドシップが続き、この3頭は共に優秀な成績を残した。

"黄金配合"産駒活躍時のBMS成績[226]
順位 AEI
没年 97 1.76
2010 52 1.28
2011 9 3.82
2012 8 3.60
2013 11 3.36

このことからメジロマックイーンは「母の父」として、生前の種牡馬時代を上回る名声を得ることになった。特に2011年から2012年のクラシックにおいては、まずオルフェーヴルが皐月賞、東京優駿、菊花賞を優勝し、ゴールドシップがその翌年の皐月賞を優勝している[227]。同じ父のクラシック4連勝は、ダイオライト[注釈 32]プリメロ[注釈 33]、サンデーサイレンス[注釈 34]の例があったが、同じ父と母父のクラシック4連勝は、史上初めてだった[227]。日本競馬が成熟し、多様な配合ができる時代にあって同じ父と母父による4連勝は、増田英樹によれば「競馬史の中でいつまでも語り継がれるべき快挙[227]」だと評している。この配合パターンは、オルフェーヴルやゴールドシップが活躍した頃に、広く認識されるようになり、「黄金配合[228]」「奇跡の配合[225]」などと称された。ただメジロマックイーンは既に死んでいたこと、その血統が低く見られていたことで、その血を引く繁殖牝馬の数が少なかった。そのため、ある生産者は「黄金配合」を行うために乗馬に転用された父メジロマックイーンの牝馬を、生産牧場に引き戻し、繁殖牝馬にするといった行動も見られた[229]

黄金配合の血統 (血統表の出典)[230]
        *Hail to Reason *Turn-to
  *Nothirdchance
  Sunday Silence Halo *Cosmah *Cosmic Bomb英語版
* サンデーサイレンス   *Almahmoud
    *Understanding *Promised Land
  1986 青鹿毛 USA   *Pretty Ways
  9勝 Wishing Well *Mountain Flower *Montparnasse
ステイゴールド       *Edelweiss
      Dictus *Sanctus *Fine Top
    *Sanelta
1994 黒鹿毛 JPN   * ディクタス *Doronic *Worden
7勝 ゴールデンサッシュ   *Dulzetta
      *ノーザンテースト *Northern Dancer
  1988 栗毛 JPN   *Lady Victoria
  0勝 ダイナサッシュ *ロイヤルサッシュ *Princely Gift
      *Sash of Honour
        *メジロアサマ *パーソロン
  *スヰート
  メジロティターン *シェリル *スノッブ
メジロマックイーン   *Chanel
    *リマンド *Alcide
  1987 芦毛 JPN   *Admonish
  12勝 メジロオーロラ *メジロアイリス *ヒンドスタン
-       *アサマユリ
      *- *-
    *-
  - *- *-
-   *-
      *- *-
    *-
  - *- *-
      *-
父系 サンデーサイレンス系< ロイヤルチャージャー系<< ダーレーアラビアン系 (出典)[230]
母系  
5代内の近親交配  
上記血統表中、4桁の数字は生年を表す。国名は生産国を表す。「*」は日本へ輸入された馬を示す。太字は近親交配が行われていることを示す。


ドリームジャーニー、オルフェーヴル兄弟並びにゴールドシップは、競走馬引退後に種牡馬となり、重賞優勝産駒を産んでいる。例えばオルフェーヴルの初年度産駒、2018年の皐月賞を優勝したエポカドーロの父母父が、メジロマックイーンである[231]。エポカドーロを始め後継種牡馬もおり、メジロマックイーンの血は継承されている[232]

オリエンタルアート

オリエンタルアートは、父メジロマックイーン、母エレクトロアートの牝馬である。日本における牝系は、社台ファームが1982年にアメリカから輸入したグランマスティーヴンスから続いており、エレクトロアート、オリエンタルアートと社台系列の白老ファームで育まれていた[233][222]。オリエンタルアートは競走馬として23戦3勝という成績を残して引退し、繁殖牝馬となる。オリエンタルアートの仔は種付けをする前から、厩舎を開業する池江泰郎の息子・池江泰寿厩舎に入厩することが内定していた[234]。そのため、白老ファームは、泰郎が管理したメジロマックイーンに合わせて、同じく泰郎が管理し白老産で、池江家にゆかりのあるステイゴールドをあてがう[234]。ステイゴールドは、2着10回入着22回、2001年香港ヴァーズ優勝馬、種牡馬供用2年目だった[222]

ドリームジャーニー

そして2004年に白老ファームで生産された鹿毛の牡馬が、ドリームジャーニーとなる。開業したばかりの泰寿厩舎からデビューしていた[234]。3戦2勝で迎えた2006年の朝日杯フューチュリティステークスを、蛯名正義に導かれて優勝し、GI競走戴冠[222]。その後、武に導かれて2007年神戸新聞杯を優勝[235]池添謙一に導かれて2009年の宝塚記念、有馬記念というファン投票競走、通称「グランプリ」を連覇している[236][237]

オルフェーヴル

その後のオリエンタルアートは、ダンスインザダーククロフネネオユニヴァースとの交配を経て5年目[238]・2007年に、ディープインパクトと交配する。ただ3度挑んでも受胎しなかった[239]。仔が生まれない「空胎」の1年を作りたくなかった白老ファームは、ディープインパクトに代わる交配相手に、ドリームジャーニーを参考にして再びステイゴールドを選択する[238][239]。そして2008年に産まれた栗毛の牡馬が、オルフェーヴルとなる。徳武によれば、オルフェーヴルは顔がメジロマックイーンに似ていたという[240]。兄に同じく、泰寿厩舎からデビュー。池添に導かれて、2011年のクラシック三冠を独り占めし、有馬記念も優勝。さらに2012年宝塚記念、2013年有馬記念も優勝した[241]

ポイントフラッグ

ポイントフラッグは、父メジロマックイーン、母パストラリズムの牝馬である。日本における牝系は、宮内省下総御料牧場が1931年にアメリカから輸入した星旗(下総御料牧場の基礎輸入牝馬)から続いている[242]。その星旗の末裔、スイートフラッグに一目惚れした若かりし頃の小林英一が、時を経て馬主となり、星旗の末裔でスイートフラッグの母の末裔[注釈 35]である牝馬パストラリズムを所有[227][242]。北海道日高町の出口牧場に預託し、ポイントフラッグが誕生している[227]。ポイントフラッグは小林所有のもと、栗東の須貝彦三厩舎からデビュー。2001年チューリップ賞2着など15戦1勝で引退し、出口牧場で繁殖牝馬となる[242]。2004年に初仔を産んでから生産し続けた。しかしポイントフラッグは500キログラム越えの馬体をしており、仔も大きかった[242]。そこで2008年、出口は、ポイントフラッグとは対照的に体の小さなステイゴールドをあてがう[242]

ゴールドシップ

そして2009年に産まれた、出口の思惑外れて大きく生まれた牡馬が、ゴールドシップとなる[242]。ゴールドシップは、母ポイントフラッグを、ひいてはメジロマックイーンの系譜を受け継いで芦毛だった。須貝彦三の息子・須貝尚介厩舎からデビューし、内田博幸に導かれて2012年のクラシック二冠(皐月賞、菊花賞)と有馬記念を優勝。2013年には宝塚記念を優勝。そして横山典弘に導かれて翌2014年の宝塚記念を優勝し連覇していた。そして2015年には、天皇賞(春)を優勝する[244]。これによりメジロマックイーンは、母の父として産駒で天皇賞優勝馬を産み出した[221]

競走成績

以下の内容は、netkeiba.com[245]並びにJBISサーチ[246]、『優駿[177][219]の情報に基づく。

競走日 競馬場 競走名 距離

(馬場)

オッズ

(人気)

着順 タイム

(上り3F)

着差 騎手 斤量

[kg]

1着馬

(2着馬)

馬体重

[kg]

1990. 02. 03 阪神 4歳新馬 ダ1700m(不) 10 6 6 3.3(2人) 01着 01.47.7 (37.0) -0.3 0村本善之 55 (ハギノレジェンド) 492
02. 25 阪神 ゆきやなぎ賞 5下 芝2000m(重) 13 5 6 2.2(1人) 02着 02.04.6 (38.5) -0.2 0村本善之 55 シンボリデーバ 486
05. 12 京都 あやめ賞 5下 芝2200m(良) 15 2 3 1.7(1人) 03着 02.17.5 (37.8) -0.4 0村本善之 55 ホウユウロイヤル 484
09. 02 函館 渡島特別 5下 ダ1700m(良) 10 7 8 1.7(1人) 02着 01.46.6 (38.9) -0.0 0内田浩一 55 マンジュデンカブト 496
09. 16 函館 木古内特別 5下 ダ1700m(重) 8 4 4 1.2(1人) 01着 01.47.3 (37.6) -0.1 0内田浩一 55 (リキサンロイヤル) 498
09. 23 函館 大沼S 9下 芝2000m(不) 14 7 12 4.1(1人) 01着 02.04.5 (38.2) -0.3 0内田浩一 54 (トウショウアイ) 498
10. 13 京都 嵐山S 15下 芝3000m(稍) 9 5 5 2.4(1人) 02着 03.06.6 (36.5) -0.2 0内田浩一 55 ミスターアダムス 480
11. 04 京都 菊花賞 GI 芝3000m(重) 17 2 2 7.8(4人) 01着 03.06.2 (35.4) -0.2 0内田浩一 57 ホワイトストーン 484
1991. 03. 10 中京 阪神大賞典 GII 芝3000m(良) 9 4 4 1.2(1人) 01着 R3.07.3 (35.4) -0.4 0武豊 58 (ゴーサイン) 488
04. 28 京都 天皇賞(春) GI 芝3200m(良) 18 7 15 1.7(1人) 01着 03.18.8 (36.0) -0.4 0武豊 58 (ミスターアダムス) 482
06. 09 京都 宝塚記念 GI 芝2200m(良) 10 8 10 1.4(1人) 02着 02.13.8 (36.1) -0.2 0武豊 56 メジロライアン 484
10. 06 京都 京都大賞典 GII 芝2400m(良) 7 4 4 1.1(1人) 01着 02.26.5 (35.5) -0.6 0武豊 59 (メイショウビトリア) 486
10. 27 東京 天皇賞(秋) GI 芝2000m(不) 18 7 13 1.9(1人) 18着 02.02.9 (37.4) -1.0 0武豊 58 プレクラスニー 498
11. 24 東京 ジャパンカップ GI 芝2400m(良) 15 3 5 1.9(1人) 04着 02.25.3 (34.9) -0.6 0武豊 57 ゴールデンフェザント 498
12. 22 中山 有馬記念 GI 芝2500m(良) 15 1 1 1.7(1人) 02着 02.30.8 (35.6) -0.2 0武豊 57 ダイユウサク 492
1992. 03. 15 阪神 阪神大賞典 GII 芝3000m(良) 6 4 4 1.3(1人) 01着 03.13.5 (36.7) -0.4 0武豊 59 カミノクレッセ 492
04. 26 京都 天皇賞(春) GI 芝3200m(稍) 14 4 5 2.2(2人) 01着 03.20.0 (36.3) -0.8 0武豊 58 (カミノクレッセ) 490
1993. 04. 04 阪神 産経大阪杯 GII 芝2000m(良) 16 7 13 2.4(1人) 01着 R2.03.3 (37.1) -0.8 0武豊 59 ナイスネイチャ 504
04. 25 京都 天皇賞(春) GI 芝3200m(良) 15 8 14 1.6(1人) 02着 03.17.5 (36.8) -0.4 0武豊 58 ライスシャワー 500
06. 13 阪神 宝塚記念 GI 芝2200m(良) 11 6 6 1.5(1人) 01着 02.17.7 (38.0) -0.3 0武豊 56 イクノディクタス 494
10. 10 京都 京都大賞典 GII 芝2400m(良) 11 1 1 1.2(1人) 01着 R2.22.7 (35.7) -0.6 0武豊 59 レガシーワールド 496
  • 1位入線の後、18着に降着
  • タイム欄のRはレコード勝ちを示す。

種牡馬成績

産駒成績

年度別成績

以下の内容は、JBISサーチの情報[214][247]、『優駿』[213]に基づく。

種付年度 生産年度 種付頭数 生産頭数 血統登録頭数 出走頭数 勝馬頭数 重賞勝馬頭数 AEI CPI 重賞優勝産駒 順位 勝馬率
1994 1995 98 84 84 69 47 2 1.62 エイダイクイン 8 69.57
1995 1996 88 65 62 56 37 0 1.18 24 66.07
1996 1997 80 53 52 45 27 0 1.27 27 62.22
1997 1998 82 58 59 52 32 1 0.75 タイムフェアレディ 38 63.46
1998 1999 149 103 102 89 63 0 0.75 34 71.91
1999 2000 100 59 57 51 34 0 1.03 39 66.67
2000 2001 83 45 44 41 20 0 0.37 102 48.78
2001 2002 142 87 84 73 43 2 0.59 ヤマニンメルベイユ 48 58.90
2002 2003 81 42 41 27 16 0 0.18 166 59.26
2003 2004 64 42 39 28 17 1 1.07 ホクトスルタン 64 60.71
2004 2005 54 30 30 24 10 1 0.44 112 41.67
2005 2006 14 10 8 6 2 1 2.21 ディアジーナ 91 33.33
2006 2007 3 2 2 2 2 0.54 215 100.00
合計 664 563 350 8 0.93 1.06

重賞優勝産駒

地方競馬独自の格付けは、アスタリスクを充てる。GI級競走は、太字強調にて示す。

ブルードメアサイアーとしての産駒成績

以下の内容は、JBISサーチの情報に基づく[226]

2002 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22
順位 1016 623 808 480 97 86 66 21 52 9 8 11 20 29 83 78 67 85 85 104 115
AEI 0.71 0.80 0.18 0.35 1.76 1.43 1.57 2.77 1.28 3.82 3.60 3.36 2.56 1.93 0.83 0.74 0.89 0.84 0.88 0.88 0.87
  • 情報は、2022年7月3日時点

重賞優勝産駒

地方競馬独自の格付けは、アスタリスクを充てる。GI級競走は、競走名を太字強調にて示す。また父ステイゴールドのいわゆる「黄金配合」の馬には、名前を太字強調する。

エピソード

花の62年組

サンデーサイレンスとの関係

サンデーサイレンス

社台スタリオンステーション早来に繋養されていた頃、メジロマックイーンは、気性が激しいために友達を作りにくかったサンデーサイレンスと仲を深めることができた[265][266]。メジロマックイーンは性格が大人しく、誰とでも仲良くできる才能があり、その点で相性が良かったという[265][266]。あまりの相性に2頭は「恋人」と称されるまでに発展した[267]。2頭の出会いのきっかけは、放牧地が隣同士となったことだった[268]。当初は、気性の激しいサンデーサイレンスがメジロマックイーンを威嚇していたが、大人しいメジロマックイーンはそれを無視[268]。するとサンデーサイレンスは威嚇を止めるようになり、メジロマックイーンの前で落ち着き、打ち解けるようになった[268]

サンデーサイレンス産駒は活躍馬を輩出し続けた一方、メジロマックイーン産駒は不振だった。しかしメジロマックイーンは、早々都落ちすることはなく、有力な種牡馬が揃う社台スタリオンステーション早来に留まり続けた[265]。これはサンデーサイレンスとの相性が考慮された側面もあった。サンデーサイレンスが衰弱し死に近づく頃、2頭の馬房は隣同士にされている[265]。メジロマックイーンは、死にゆくサンデーサイレンスを精神的に支えていたという[265]。2002年にサンデーサイレンスと死に別れ、2004年に遂に都落ち。荻伏へ移動しているが、今度は、サンデーサイレンスの息子であるロサードに慕われていたという[267]

時代背景

芦毛

芦毛の日本競馬史という観点からは、メジロマックイーンは「芦毛伝説第三章」に位置づけられる[221]。このネーミングは、メジロライアンやホワイトストーンと戦った1991年天皇賞(春)、京都競馬場のパドックに、ある大学生が張り出した横断幕が由来とされている[269]。「第三章」とは、二つの意味が掛かっている[221]。一つは芦毛の馬は走らないと言われながらも、そのジンクスを覆す活躍で天皇賞を優勝したメジロアサマ、メジロティターン親仔に続く、第三世代がメジロマックイーンであるという意味である[269]。またもう一つは、芦毛ながら日本競馬の主役に躍り出て、そのジンクスを亡きものとしたタマモクロスオグリキャップに続く、第三世代がメジロマックイーンであるという意味である[269]

タマモクロスは1987年後半から条件戦を連勝して成り上がり、その連勝を継続しながら翌1988年の天皇賞(春)、宝塚記念を優勝し芦毛ながら日本競馬の主役となっていた[270]。続く天皇賞(秋)では14連勝中のオグリキャップとの芦毛対決を制して優勝し、ジャパンカップ2着、有馬記念2着を経て、この年限りで引退している。オグリキャップは、タマモクロスに連勝を止められたが、タマモクロスの引退レースである有馬記念で優勝し、タマモクロスの跡を継いでいた[271]。第二次競馬ブームの中心となったオグリキャップは、翌1989年にマイルチャンピオンシップを、1990年に安田記念を優勝。しかしその年の秋に低迷する[271]。その頃に、メジロマックイーンが菊花賞を優勝していた。その年の有馬記念では、メジロマックイーンはメジロライアンに譲って出走していないが、オグリキャップにとっては引退レースだった。オグリキャップは、ここで復活優勝し引退している[271]。その直後、次の年の天皇賞(春)にて、その横断幕が掲げられていた[269]

血統

競走馬時代

血統という観点から見ると競走馬時代は、ノーザンダンサー系の活躍と、サンデーサイレンストニービンブライアンズタイムといった「御三家」の活躍の狭間となっている[272]。メジロマックイーンの活躍した頃は、それまで主流血統だったノーザンダンサー系の勢いが弱まりつつあり、それに代わる次世代の種牡馬が模索されていた[272]。そのため、例えば同期のクラシック三冠競走の優勝馬は、ハイペリオン系ゲインズバラ系)父ハイセイコーのハクタイセイ、サンインロー系ダークロナルド系)父シーホークのアイネスフウジン、そしてパーソロン系ヘロド系)父メジロティターンのメジロマックイーンであったり、この時期に活躍した馬は、同じくパーソロン系のトウカイテイオー、ネヴァーベンド系のミホノブルボン、ネイティヴダンサー系のオグリキャップであったりと、血統に多様性があった[273][272]。ただメジロマックイーンが競走馬として活躍する裏で、外国からサンデーサイレンス、トニービン、ブライアンズタイムなどの種牡馬が輸入されていた。この3頭の産駒が、メジロマックイーンの引退と入れ替わる形でデビューし始め、クラシック戦線で活躍が目立つようになり、ノーザンダンサー系に続く新たな主流血統として確立されていった[272]

種牡馬時代

競走馬引退後の種牡馬時代は、そのサンデーサイレンス、トニービン、ブライアンズタイムといった主流血統の勢いに押された[215]。デビューの時期が早期化したこと、スピードが重視されるようになったことで、市場は早熟のスピード馬を求めるようになり、晩成のステイヤーでは出る幕がなかった[215]。特にサンデーサイレンスが台頭し、次第にサンデーサイレンス産駒の割合が高まり、血統の多様性が失われていった。時代遅れとなったメジロマックイーンは活躍馬を出すことができないまま、死亡している[223]

死後

ただ同時期に主流血統の種牡馬も死したことで、次なる主流血統が求められるようになる時代が間もなくやってきた[215]。主流血統に大きく傾いていた市場は、早熟性、スピードばかり勝る馬が多くなり、反対にその後の成長力に乏しかったり、スタミナが不足しがちとなったため、晩成のステイヤー寄りの血統が重視されるようになっていた[228]。サラブレッドの血統は、ある一方が流行してしばらく経過すると、一方とは反対方向に揺り戻ることがつきものであり[注釈 36]、この頃は奥手のステイヤーの出番、血統が蘇る機会だったが、肝心のメジロマックイーンはこの世にいなかった[274]

生前のメジロマックイーンは、低迷しつつあった晩期に、主流血統で飽和しつつあったサンデーサイレンス産駒の繁殖牝馬といくらか交配している。スタミナと成長力に富む父メジロマックイーンと、スピードと早熟性に富む母父サンデーサイレンスの組み合わせの仔がわずかに遺されていた[274]。そして死後、その仔であるヤマニンメルベイユやホクトスルタンなどが、重賞を勝利するまで出世を遂げていた[274]

またわずかに遺されたメジロマックイーン産駒の繁殖牝馬が結び付いたのが、主流血統スピードのサンデーサイレンス、スタミナのディクタス[注釈 37]、前時代の主流血統であるノーザンテーストの組み合わせから成るステイゴールドだった[228]。父ステイゴールド、母父メジロマックイーンの組み合わせは先述した通り「黄金配合」と呼ばれ、特にドリームジャーニー、オルフェーヴル、ゴールドシップは中長距離で長きにわたって活躍した。

仮に生きていれば「サンデーサイレンス系牝馬との交配」もしくは「『黄金配合』を見据えたメジロマックイーン産駒の牝馬生産」などというような需要で、種付け数の増加が見込めたが、叶わなかった[274]。特に血統的にも好相性だったサンデーサイレンスとは、血統においてすれ違いを続けていたということとなる[274]。吉沢譲治は「メジロマックイーンがあと5年遅く生まれていたなら、生涯の種牡馬成績はもっと違ったものになっていた[274]」と振り返っている。

特徴

競走馬として

豊富なスタミナと先行力に秀で、好位から直線で押し切る競馬で勝ち上がった[275]。後に池江は、自身が管理した2005年のクラシック三冠などGI競走7勝のディープインパクトとの比較において「好位から抜け出すという正攻法で競馬の出来る馬でした。ディープ(インパクト)みたいに道中ハラハラすることなく安心して観ていられる馬[275]」だと述べている。

競馬評論家の大川慶次郎は、メジロマックイーンは時計の早い競馬に持ち込んで勝つタイプの馬だが一瞬の切れ味とは縁がなく、「そういう意味では間違いなく真のステイヤー[276]」と述べている。しかし5歳以降に手綱を執った武豊は「短距離でも充分に強く、ただ距離が持つだけ[277]」「マイルのGIレースでも勝負になった[278]」「スプリンターズステークスでもメンバーによってはブッチぎったかもしれない[279]」だという。また一般に見られる例とは逆に加齢とともにレースでの落ち着きを失っていったといい、1993年春の天皇賞前には「今の(メジロ)マックイーンに3200メートルは長すぎます」とも語っていた[280]

長所・短所

武豊は初めてメジロマックイーンに跨った際、1200mの実戦的な調教後に息ひとつ乱れていない様子を目の当たりにし、心肺機能に優れた馬だとの第一印象を抱いている[281]。「とにかく心臓がいい。走った後の息の戻りがズバ抜けて早いですね[282]」という。操縦の面でも「真面目で、競馬をわりとよく理解しています。コーナーも自分から回っていく。これは強い馬の一つの共通点[282]」、「ジョッキーの意思が伝わりやすい[283]」、「どんなレースでも、鞍上の意思通りに動かせる馬で、本当に乗りやすかった[277]」と語り、総じて「とにかく欠点が少ない。欠点が少ないということは、負ける要素が少ないということ[284]」と評している。また「顔がいい[282]」「強い馬の顔は必ず整っているし、小さい[282]」と述べている。

池江泰郎もまた「頭も顔立ちもいい、男らしい馬です。人間なら女性にモテるタイプですね[285]」、「精神的にタフで無駄な神経を使わない。2000m以上がいい馬で先行もできるし、騎手にしたら実に乗りやすいタイプ[286]」と評している。大川慶次郎は、重馬場で2着に入線していたプレクラスニーに6馬身の差をつけていたことで、「長距離得意というのと同じくらいに、雨が非常に得意だった[287]」と判断している。

一方、関係外部からは瞬発力の不足が指摘されている。特に1991年のジャパンカップ、有馬記念において、レース後半の瞬発力勝負で敗れたことは欠点の露呈に他ならないとして、この年のフリーハンデ評価にも影響を与えた[288]。大川慶次郎はこれを根拠に、「確かにライバルに恵まれていなかったので、中距離ぐらいなら楽に勝っていたのですが、短距離戦ともなるとね。もしもマイル戦でヤマニンゼファーと戦っていたりしたら、キレの差で敵わなかったんじゃないでしょうか[289]」と述べている。

成長力

1991年春の天皇賞を勝った時点では、武はその能力について、全てに自身が騎乗し、「平成三強」と呼ばれたオグリキャップ、スーパークリーク、イナリワンと比較する段階ではないと語っていた[290]。その後、7歳の産経大阪杯で初めて「凄味が出てきた」と評し、結果的にラストランとなった京都大賞典の後には「7歳の秋だというのに、さらに強くなっていた。ホンマ、わからん馬やわァ[202]」、「これまでになかった凄みが出てきた。この秋のマックは違いますよ[202]」と述べ、「今さら僕がどうのこうの言うレベルじゃない。本当に凄い馬ですよ[291]」と絶賛した。当時、7歳は一般に衰退が進行すると見られていた。そのためその成長曲線の特殊性が指摘されている[204][注釈 38][注釈 39]

気性・性格

関係者の証言からは、厩舎内で見せた周囲に甘える姿と、競馬場で見せた堂々とした姿とのギャップが示されている[注釈 40][注釈 41]

他方、前述の通り競走生活の晩年には落ち着きを失い始め、レースや調教も嫌がるようになっていった[295]。また、引退が決定してから引退式までの間に、急速に老け込んだ様子を見せたという。これについて武は「あの馬のことだから、周囲の雰囲気から自分の競走生活が終わったことを分かっていたんでしょうね[292]」と語っている。

人気

ギャンブルの対象という側面では、全21戦中で単勝2番人気以下に落ちたのは3戦のみ、2度出走した京都大賞典ではいずれも71.8%という単勝支持を受けるなど、常に大きな信頼を置かれていた。全戦の平均では43.97%の単勝支持を受けており、これは同年代のアイドルホースであったトウカイテイオーの36.87%を大きく上回る[296]。武は「(スーパー)クリークにしてもオグリ(キャップ)にしても、この馬ほど勝って当たり前、とは思われていなかったでしょう[281]」と述べている。

一方でキャラクターという側面では、同期のメジロライアンが惜敗続きで判官贔屓的な人気を博していたのに対し、マックイーンは「強いばかりで面白みがない」とも評され、強さの割に人気がないと見られていた[注釈 42][注釈 43]。しかしファンが少なかったわけではなく、6歳時に骨折した際には、回復を祈るファンからの何万という折り鶴が厩舎に送られ、涙ながらに応援の電話をかける女性ファンも存在したという[299]

評価

定量的評価

レーティングによる評価
中央競馬フリーハンデ
年度 部門 順位 数値 1位(2位)馬 備考 出典
1990 4歳 2位 61 アイネスフウジン 63 [注釈 44] [300]
1991 5歳以上 1位 63 (ダイユウサク)

(メジロライアン)

61 [注釈 45] [301]
1992 2位 63 トウカイテイオー 65 [注釈 46] [302]
1993 2位タイ 64 トウカイテイオー 65 [注釈 47] [303]

JRA賞での評価

JRA賞
年度 部門 順位 得票/満票 受賞(次点)馬 備考 出典
1990 最優秀父内国産馬 2位タイ 029/180票 ヤエノムテキ 082票 [注釈 48] [304]
最優秀4歳牡馬 3位 012/180票 アイネスフウジン 142票 [注釈 49]
1991 年度代表馬 2位 022/176票 トウカイテイオー 134票 [注釈 50] [6]
最優秀父内国産馬 2位 056/176票 091票 [注釈 51]
最優秀5歳以上牡馬 受賞 134/176票 ダイユウサク 038票 [注釈 52]
1992 最優秀父内国産馬 4位 006/176票 メジロパーマー 092票 [注釈 53] [305]
最優秀5歳以上牡馬 3位 006/176票 093票 [注釈 54]
1993 年度代表馬 4位 006/171票 ビワハヤヒデ 087票 [注釈 55] [306]
最優秀父内国産馬 3位 034/171票 ヤマニンゼファー 087票 [注釈 56]
最優秀5歳以上牡馬 4位 006/171票 088票 [注釈 57]

グランプリのファン投票結果

有馬記念
年度 順位 票数 1位(2位)馬 出典
1990 16位 03万1868票 オグリキャップ 14万6738票 [307]
1991 1位 15万5353票 レオダーバン 12万9322票 [308]
1992 5位 12万7670票 トウカイテイオー 17万7926票 [309]

獲得賞金の加算推移

獲得賞金(4歳以上)
年度 順位 獲得賞金額 勝ち鞍 1位 出典
1990 15位 01億4723万1500円 菊花賞 オサイチジョージ [310]
1991 02位 03億5436万8200円 天皇賞(春)、阪神大賞典、京都大賞典 ダイイチルビー [311]
1992 18位 01億9759万8000円 天皇賞(春)、阪神大賞典 ミホノブルボン [312]
1993 04位 03億1546万0000円 宝塚記念、産経大阪杯、京都大賞典 ビワハヤヒデ [313]
合計 10億1465万7700円

投票による評価

  • Sports Graphic Number PLUS』1999年10月号「ホースメンが選ぶ20世紀最強馬。」(調教師、騎手投票) - 第12位[314]
    • 89票中1票(投票者:佐藤哲三「オールマイティーな強さ。多分、マイルでも負けないのでは[314]」)
  • 『優駿』2000年10月号「20世紀の名馬大投票 20世紀の名馬ベスト100」 - 第12位[315]
  • 『優駿』2012年9月号「距離別『最強馬』はこの馬だ! 」(読者投票)
    • 芝3200メートル - 1位(1157票中388票)[316]
  • 『優駿』2015年3月号「未来に語り継ぎたい名馬 BEST 100」(読者、インターネット投票) - 第15位[317]
    • 20代以下 - 23位
    • 30代 - 19位
    • 40代 - 11位
    • 50代 - 13位
    • 60代 - 16位
    • 70代以上 - 12位
    • 男性 - 14位
    • 女性 - 14位
  • 『優駿』2015年12月号「未来に語り継ぎたい名馬100頭のベストレース」(読者、インターネット投票)[318]
    • 【第15位メジロマックイーンのベストレース】
      • 1位(56.3%) - 1992年天皇賞(春)
      • 2位(15.2%) - 1991年天皇賞(春)
      • 3位(12.3%) - 1990年菊花賞

血統

メジロマックイーン血統 (血統表の出典)[§ 1]
父系 パーソロン系
[§ 2]

メジロティターン
1978 芦毛
父の父
メジロアサマ
1966 芦毛
*パーソロン Milesian
Paleo
*スヰート First Fiddle
Blue Eyed Momo
父の母
*シェリル
Cheryl
1971 鹿毛
フランス
*スノッブ Mourne
Senones
Chanel Pan
Barley Corn

メジロオーロラ
1978 栗毛
*リマンド
Remand
1965 栗毛
イギリス
Alcide Alycidon
Chenille
Admonish Palestine
Warning
母の母
メジロアイリス
1964 黒鹿毛
*ヒンドスタン Bois Roussel
Sonibai
アサマユリ ボストニアン
トモエ
母系(F-No.) アサマユリ系(FN:7-c) [§ 3]
5代内の近親交配 アウトブリード [§ 4]
出典
  1. ^ [319]
  2. ^ [320]
  3. ^ [321]
  4. ^ [319]

曾祖父のパーソロンは本来マイルから中距離を得意とする血統であり、父方の血統は本質的にはステイヤーではない[274]。そのためメジロマックイーンのスタミナは、長距離に強さを見せたリマンドヒンドスタンなどを父祖に持つ母方から受け継いだとされる[274][322]

脚注

注釈

  1. ^ 競走馬名はスイートシックスティーン。アメリカ生まれで、イギリスで競走馬として走り1勝。日本に輸入されてからも競走馬として走り3戦2勝[12]
  2. ^ 吉沢譲治によれば、この時代にシンジケートが組まれるのは珍しいことだったという[16]
  3. ^ メジロアサマは6歳時に、有馬記念に臨む予定だったが当日になってインフルエンザ感染が確認され、出走を取り消している。この際に治療に用いられた抗生物質が精虫を減らしたのではないか、という説がある[16]
  4. ^ 希少な「芦毛の天皇賞馬」という点が、神社にとっても、「神馬」にとっても「種無しスイカ」の安全な余生にとっても都合が良かった[21]
  5. ^ ここまでサラブレッドの繁殖牝馬には一切受胎しなかったが[22]、2年目に試しに交配させたアラブ種1頭は受胎を果たしている。この受胎が、種牡馬続行の一つの根拠となる[15]
  6. ^ 実際のところは、とりあえずすべての繁殖牝馬の最初の発情と2回目の発情にメジロアサマをあてがい、不受胎となった場合は他の種牡馬に切り替えるという方針だった[16]。牧場は、メジロアサマが受胎できる相性の良い繁殖牝馬を探る段階にあって、とりあえず牧場の繁殖牝馬を手あたり次第に試していた[16]
  7. ^ この時受胎したのは、廃用が決まっており試しに付けてみた繁殖牝馬ヤマノボリだった[23]。受胎したことでヤマノボリは生き永らえ、産駒誕生に至っている[22]。この産駒はメジロエスパーダと名付けられ、新馬戦とおおぞら特別(400万円以下)を大差で優勝[19]。また降級後400万円以下を8馬身差で優勝した[24]。通算成績6戦4勝、他にNHK杯7着(優勝:テルテンリュウ、3着:カツラノハイセイコ)など[19]
  8. ^ 当時の日本円にして2600万円ほどで、1991年時点の通貨価値においては1億、2億円に匹敵する。吉沢譲治によれば「牝馬としては破格の値段[23]」だという。
  9. ^ 提示されたのは100万フラン、当時の日本円で6000万円[27]
  10. ^ 同期の6頭がこの腸炎により命を落としている。
  11. ^ 吉沢譲治によれば、天皇賞以後未勝利で、生産者にとってありがたくない晩成ステイヤー血統、かつ「種無しスイカ」の仔であることが原因だという[32]。4年目、すなわちメジロマックイーンが生まれる次の年から種付け数は増加するが、これは引退直後の牝馬三冠馬メジロラモーヌの初年度の交配相手として選ばれたことで生産者からの注目を集めたためだった[14]
  12. ^ 父:ホワイトファイア、1984年中山大障害(春)優勝
  13. ^ 父:メジロゲッコウ、1983年セントライト記念、1984年中山牝馬ステークス(GIII)優勝。1983年優駿牝馬(オークス)3着(優勝:ダイナカール
  14. ^ 吉田とメジロのつながりは1968年に、吉田隆がメジロと関係の深い同じ浦河町の冨岡農場の娘を妻としたことから始まる[40]。その2年後から、預かったメジロハリマからはメジロファントム、メジロジュピター[注釈 12]、メジロハイネ[注釈 13]などのメジロの活躍馬を提供していた[40]
  15. ^ 王蔵牧場に繋養されていたアサマユリからは、吉田牧場に来て重賞優勝馬の母となるメジロハリマの他に、メジロスイセイ(父:ネヴァービート、1973年京都記念(秋)優勝など)、メジロホーク(父:ファリングドン、1979年中京記念優勝など)が誕生している。
  16. ^ 吉田はちょうどアサマユリ牝系の牝馬、もしくは父リマンドの牝馬を求めていたが、牧場がある日高地方はリマンドの血統が流行っておらず入手困難だった。そんな中両条件を同時に満たす牝馬であるメジロオーロラに出会ったのだった[40]。吉田は、自身の牧場や近所の王蔵牧場にてアサマユリ系のタイトルホルダーが続出したこと[注釈 15]から、アサマユリ系と当地の相性が良いのではと考えていた。またリマンドについてはその血統を高く買っていた[40]
  17. ^ メジロ牧場としては、メジロオーロラの最適な環境での繁殖活動を願っていた。メジロオーロラの父リマンドは湿気に弱く、メジロ牧場のある伊達市は多湿な気候であったため、浦河の吉田堅牧場が選ばれたという経緯がある[42]
  18. ^ その後、1988年末まで走ったが勝利を積み重ねることができなかった。通算成績21戦6勝[45]
  19. ^ それでも馬体の良さについての評価は高く、大久保洋吉調教師が走らせたいと申し出たため、デビューを果たす[58]。腰が悪いながらも新馬戦3着、4着を記録するが、腰の痛みのためにこの2戦限りで引退し[58]、その後は種牡馬となった[64]
  20. ^ 骨が十分に発達すること[65]。骨が充実しないと、負荷の強い調教をすることができなかった。
  21. ^ 北野が「1回のミスで降ろすのはかわいそう」とも主張した[75]
  22. ^ 菊花賞兄弟制覇はセントライト&トサミドリキタノオー&キタノオーザに続き史上3組目であった[81]
  23. ^ 1979年10月に行われた長距離ハンデキャップ(1200万円以下)を優勝したチェリーリュウが記録したレコードである3分9秒1を1.6秒更新している[90]
  24. ^ 同レース三代制覇は、例えばイギリスダービー三代制覇(1971年ミルリーフ、1978年シャーリーハイツ、1985年スリップアンカー)などが挙げられる[98]
  25. ^ 武は、この騎乗停止期間に、アメリカのブリーダーズカップを観戦したり、アイルランドを訪れたりしていた[114]
  26. ^ スポーツ紙の一面には「武豊大失態」「武豊の騎乗ミス」という武を批判する見出しが多く、島田明宏は「裁決、妨害、騎乗停止、処分といった言葉の響きのせいか、(武が)まるで犯罪者の扱いのようであった」と振り返っている[119]
  27. ^ 大川慶次郎は、江田の騎乗にも一因があるとし、「はっきりいってあのときの採決委員ママがきまじめすぎたと考えています。あれは騎手に対して5万円の罰金というペナルティーですます問題だったと私は考えています。
    (中略)メジロマックイーン自体は他の馬になにもしていないんです。むしろマックイーンに先手をとられたプレクラスニーが、あわててそうはさせじとマックイーンにつられて内へよせてしまったのが直接の原因でしょう。マックイーンとプレクラスニーが一緒になって内に幅よせし、この2頭に幅よせされたために内にいたほかの馬同士が激しくぶつかりあってしまったんです」と述べ、武は騎乗停止となったが、江田に対しては罰金ということでもいいと述べている[120]
  28. ^ 後藤正治によれば「3分の1」[18]
  29. ^ 有力馬のレース直前の蹄鉄打ち替えは、騎手や観客に1991年桜花賞を想起させていた[157][149]。桜花賞では、1番人気イソノルーブルが同じように打ち替えとなったが、イソノルーブルが打ち替えを拒否。結局、裸足で走り4着に敗退する[149]。裁判沙汰に発展した(イソノルーブル落鉄事件)。
  30. ^ 1981年以前は、天皇賞は一度優勝すると二度と出走できない「勝ち抜け制」であった。1988年、春秋連覇をタマモクロスが、1989年から90年にかけて秋春連覇をスーパークリークが記録している。
  31. ^ 天皇賞(秋)への出走を断念することが夜のNHKニュースで報道されるほどの衝撃であった[203]
  32. ^ 4連勝。1940年菊花賞テツザクラ。1941年皐月賞セントライト、東京優駿イエリユウ、菊花賞セントライト。(1942年皐月賞:アルバイト(改名後:クリヒカリ、シアンモア産駒)
  33. ^ 5連勝。1949年皐月賞トサミドリ、東京優駿タチカゼ、菊花賞トサミドリ。1950年皐月賞クモノハナ、東京優駿クモノハナ。(菊花賞:ハイレコード(セフト産駒)
  34. ^ 4連勝。2000年皐月賞エアシャカール、東京優駿アグネスフライト、菊花賞エアシャカール。2001年皐月賞アグネスタキオン。(東京優駿:ジャングルポケットトニービン産駒)
  35. ^ スイートフラッグの母は、風玲という。この風玲の末裔(パストラリズムの3代母)[243]
  36. ^ 例えば「ある1頭のサラブレッド種牡馬」の血に偏ると、繁殖牝馬や種牡馬が「ある1頭のサラブレッド」の子孫である割合が高まる。「ある1頭のサラブレッド」の血が入っている馬同士では、極度な近親交配となってしまうため、自動的に「ある1頭のサラブレッド」の血を持たない種牡馬や繁殖牝馬を相手に据える必要がある。すると必然的に「ある1頭のサラブレッド」とは異なる趣向の種牡馬が流行する。これが絶え間なく繰り返されてきた。
  37. ^ 例えばディクタス産駒のサッカーボーイは、競走馬としては短中距離で活躍したが、種牡馬としてはステイヤーの産駒を多数送り出した。
  38. ^ 武は後に引退レースの京都大賞典を回想し、「ゴールしたときは驚きました。この馬、また強くなってるぞ、とね。6(7)歳でこれほどの強さを見せることができたのは、大事に使われてきたこともあるんでしょうけど。いろいろな意味で、初めてのことを経験させてくれた馬でした」と述べている[292]
  39. ^ ライターの成沢大輔は「正直、マックイーンは大嫌いな馬の1頭だった。"だった"と過去形にしたのは7歳秋の京都大賞典を見てしまったからで、よもや7歳秋に2分22秒7などという時計を出す馬が存在するとは思わなかったのである。以後、嫌いという感情は恐れにシフトし、『まあ、バケモンだから仕方ないか』に変わっていった」と述べている[293]
  40. ^ 武豊は「普段はヘラヘラしているのに、いざ舞台に上がったら信じられない実力を見せる奴。表面には凄い部分を出さないから、『ほんとにこいつが?』と思ってしまうんですよね」と述べている[294]
  41. ^ 池江泰郎は「甘えん坊とは言っても、一歩外に足を踏み出すと決してオドオドすることなく、いつも堂々としています。第一、歩様が他の馬と全然違いますよ。人間で言えば、肩で風切って歩いているように」と述べている[285]。担当厩務員の早川清隆は、こうした様子から「強い馬のメンタルな部分も勉強になった」と述べている。
  42. ^ 中田潤は「オグリキャップが築き上げた『競馬興行の黄金時代』。メジロマックイーンに悲劇があったとすれば、そんな華やかなステージに『やたら強いだけの馬』として君臨しなければならなかったことだろう」と述べている[297]
  43. ^ 瀬戸慎一郎は「(メジロ)マックイーンは強さの割に人気のない馬でもあった。まあ、あのクラスにもなれば、知名度からしても、一言で"人気がない"と片付けるのは語弊があろう。ただ、僚馬メジロライアンのような愛され方をした馬でなかったことだけは確かである。いずれにせよ、強さの割に印象が地味であったのは否定できない」と述べている[298]
  44. ^ 以下「60」ハクタイセイホワイトストーンメジロライアン。「58」アグネスフローラと続く。
  45. ^ 3位以下は「60」プレクラスニー、「59」ダイタクヘリオス、「58」カリブソングとホワイトストーンと続く。
  46. ^ 3位以下は「62」メジロパーマー、「60」ダイタクヘリオスとレッツゴーターキン。「59」カミノクレッセとメジロライアン。などと続く。
  47. ^ 「64」でレガシーワールドが並ぶ。以下「62」ヤマニンゼファー、「61」ライスシャワー、「59」シンコウラブリイとメジロパーマー。などと続く。
  48. ^ 同じ29票のメジロライアンと並ぶ。以下、17票ハクタイセイ、15票ホワイトストーン、5票ホワイトアロー、1票パッシングショット、該当なし2票。
  49. ^ 16票を集めたメジロライアンが次点。12票のメジロマックイーン以下には、7票ホワイトストーン、該当なし3票。
  50. ^ 以下、12票ダイイチルビー、5票ダイユウサク、2票プレクラスニー、該当なし1票。
  51. ^ 以下、14票ダイイチルビー、11票ダイタクヘリオス、3票レオダーバン、1票メジロライアン。
  52. ^ ダイユウサク以下、3票プレクラスニー、1票ゴールデンフェザント
  53. ^ 66票トウカイテイオーが2位。10票ダイタクヘリオスが3位。6票メジロマックイーンを挟んで、1票ヌエボトウショウが5位。該当なし1票。
  54. ^ 73票トウカイテイオーが2位。6票メジロマックイーンを挟んで、ダイタクヘリオスが4位。該当なし2票。
  55. ^ 56票ヤマニンゼファーが2位。17票トウカイテイオーが3位。6票メジロマックイーンを挟んで、以下4票レガシーワールド、1票ナリタブライアン
  56. ^ 50票トウカイテイオーが2位。
  57. ^ 38票トウカイテイオーが2位。22票レガシーワールドが3位。21票のメジロマックイーンを挟んで、以下2票ライスシャワー

出典

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  301. ^ 『優駿』1992年2月号 13頁
  302. ^ 『優駿』1993年2月号 21頁
  303. ^ 『優駿』1994年2月号 27頁
  304. ^ 『優駿』1991年2月号 52頁
  305. ^ 『優駿』1993年2月号 7頁
  306. ^ 『優駿』1994年2月号 19頁
  307. ^ 『優駿』1991年1月号 54頁
  308. ^ 『優駿』1992年1月号 36頁
  309. ^ 『優駿』1993年1月号 35頁
  310. ^ 『優駿』1991年2月号 113頁
  311. ^ 『優駿』1992年2月号 97頁
  312. ^ 『優駿』1993年2月号 113頁
  313. ^ 『優駿』1994年2月号 113頁
  314. ^ a b 『Sports Graphic Number PLUS』1999年10月号 21頁
  315. ^ 『優駿』2000年10月号 21頁
  316. ^ 『優駿』2012年9月号 30頁
  317. ^ 『優駿』2015年3月号 42頁
  318. ^ 『優駿』2015年12月号 25頁
  319. ^ a b JBISサーチ メジロマックイーン 5代血統表2016年6月29日閲覧。
  320. ^ netkeiba.com メジロマックイーンの血統表2020年2月17日閲覧。
  321. ^ 平出貴昭『日本の牝系』競馬通信社、2001年、180頁。ISBN 4434013882 
  322. ^ 『競馬SLG名牝ファイル』135頁

参考文献

  • 江面弘也『名馬を読む』(三賢社、2017年)ISBN 4908655073
    • 同内容転載、一部加筆修正(初出:『優駿』(日本中央競馬会)内連載「偉大なる顕彰馬の蹄跡」)
      • 2012年8月号 江面弘也「【偉大なる顕彰馬の蹄跡】Vol.23 メジロマックイーン」
      • 2012年9月号 江面弘也「【偉大なる顕彰馬の蹄跡】Vol.24 トウカイテイオー」
  • 大川慶次郎『大川慶次郎殿堂馬を語る』(ゼスト、1997)ISBN 4916090527
  • 木村幸治『馬の王、騎手の詩』(宝島社、1994年)ISBN 4796608729
  • 島田明宏『「武豊」の瞬間 稀代の天才騎手 10年の歩み』(集英社、1997年)ISBN 4087831094
  • 島田明宏『武豊インタビュー集〈2〉美技』(広済堂出版、2003年)ISBN 4331510077
  • 島田明宏『武豊インタビュー集〈3〉躍動(広済堂出版、2004年)ISBN 4331510646
  • 寺山修司志摩直人ほか『優駿観戦記で見る菊花賞十番勝負』(小学館文庫、1999年)ISBN 4094024824
  • 光栄出版部編『名馬列伝 メジロマックイーン』(光栄、1994年)ISBN 487719133X
  • サラブレッド探偵局編『競馬SLG名牝ファイル』(光栄、1994年)ISBN 4877191100
  • 『競馬種牡馬読本2』(宝島社、1997年)ISBN 4796693408
  • 後藤正治「メジロマックイーンVSメジロライアン メジロ最強コンビを支えた 厩務員たちの技くらべ」『競馬ライバル読本』〈別冊宝島311号 競馬読本シリーズ〉、(宝島社、1997年)
  • 渡瀬夏彦「メジロマックイーン 世にはばかる」『競馬名馬読本』〈別冊宝島143号〉(宝島社、1996年)
  • 『Sports Graphic Number PLUS』(文藝春秋)
    • 1999年10月号「20世紀スポーツ最強伝説(4)競馬黄金の蹄跡」ISBN 4160081088
    • 2021年11月号「競馬ノンフィクション選集 名馬堂々。」
  • Sports Graphic Number』(文藝春秋)
    • 1992年5月21日号(292号)
      • 阿部珠樹「【トウカイテイオーVSメジロマックイーン】第105回天皇賞、2強激突の果てーー。」
        • 同内容転載『競馬ノンフィクション選集 名馬堂々。』(『Sports Graphic Number PLUS』2021年11月号)、2021年11月24日。
    • 1995年10月26日号(378号)
      • 阿部珠樹「【ライスシャワー】京都という運命さだめに生きて。」
        • 同内容転載『競馬ノンフィクション選集 名馬堂々。』(『Sports Graphic Number PLUS』2021年11月号)、2021年11月24日。
    • 2016年12月15日号(917・918号)
      • 片山良三「【オルフェーヴル】黄金色に輝く猛走。」
        • 同内容転載『競馬ノンフィクション選集 名馬堂々。』(『Sports Graphic Number PLUS』2021年11月号)、2021年11月24日。
  • 競馬最強の法則』(KKベストセラーズ
  • 優駿』(日本中央競馬会
    • 1987年9月号
      • 横尾一彦「【サラブレッド・ヒーロー列伝 19】明治人の夢 メジロティターン」
    • 1990年9月号
      • 吉沢譲治「【いま、日本のサラブレッド生産 その1】メジロ牧場密着取材1週間」
    • 1990年12月号
      • 「【第51回菊花賞】脈々とステイヤーの血、父の名はメジロティターン、メジロマックイーン」
    • 1991年1月号
      • 「【練熟か、若さか '90FINAL RUN】第35回有馬記念ファン投票結果」
      • 村上賢三(デイリースポーツ)「【今月の記録室】第51回菊花賞(GI)メジロマックイーン」
    • 1991年2月号
      • 吉沢譲治「【秋のGI競走勝ち馬の故郷紀行】メジロマックイーンの故郷 吉田堅牧場 血統と土地の相性」
      • 「【1990年度JRA賞決定】年度代表馬にオグリキャップ 馬事文化賞に、白井透氏、山野浩一氏」
      • 「【1990年度フリーハンデ決定】4歳馬 メジロマックイーン61キロ。」
    • 1991年5月号
      • 吉沢譲治「三代続く天皇賞馬の可能性」
      • 山田数夫(日刊スポーツ)「【今月の記録室】第39回阪神大賞典(GII)メジロマックイーン」
    • 1991年6月号
      • 「【第103回天皇賞・春】人は3連覇、馬は父子3代制覇、メジロマックイーン」
      • 志摩直人「【第103回天皇賞(春)観戦記】鞍上人なく鞍下馬なし」
    • 1991年7月号
      • 「【第32回宝塚記念】人馬渾身。これは6度目の正直です。メジロライアン」
      • 横尾一彦「【サラブレッド・ヒーロー列伝 62】異色のステイヤー メジロデュレン」
      • 「【日本の種牡馬】メジロティターン F8」
      • 船曳彦亟(スポーツニッポン)「【今月の記録室】第103回天皇賞(春)(GI)メジロマックイーン」
    • 1991年8月号
      • 吉沢譲治「【'91春のGI競走勝馬たちの故郷】宝塚記念・メジロライアン メジロ牧場 距離の適性。今回ばかりは」
      • 吉沢譲治「【'91春のGI競走勝馬たちの故郷】天皇賞(春)・メジロマックイーン 吉田堅牧場 8回目の挑戦でつかんだ栄光」
      • 寺田文雄(デイリースポーツ)「【今月の記録室】第32回宝塚記念(GI)メジロライアン」
    • 1991年9月号
      • 「【秋をめざす有力馬たちの夏】"現役三強"はそろって北海道へ」
    • 1991年12月号
      • 「【今月のNEWS&INTERVIEW】第104回天皇賞(秋)メジロマックイーン1位入線も、2コーナー斜行で18着降着」
      • 「【第104回天皇賞(秋)】メジロマックイーン1着→18着降着 プレクラスニー 4連勝で栄光の天皇賞馬」
      • 山野浩一「【第104回天皇賞(秋)観戦記】雨の空に飛び去ったメジロマックイーン」
      • 「【第26回京都大賞典】力が違う、格が違う、メジロマックイーン」
      • 片山良三(サンケイスポーツ)「【今月の記録室】第104回天皇賞(秋)(GI)プレクラスニー」
      • 松村光雄(夕刊フジ)「【今月の記録室】第26回農林水産省賞典 京都大賞典(GII)」
    • 1992年1月号
      • 「【第11回ジャパンカップ】府中で跳んだ、黄金のキジ ゴールデンフェザント メジロマックイーンは4着」
      • 山際淳司「【第11回ジャパンカップ】敗北もまたターニングポイント」
      • 「【第36回有馬記念&'91ジョッキーズグランプリ】ファン投票第1位は、メジロマックイーン&武豊」
      • 紺野真(東京スポーツ)「【今月の記録室】第11回ジャパンカップ〈国際招待〉(GI)ゴールデンフェザント」
    • 1992年2月号
      • 「【1991年度JRA賞決定】年度代表馬はトウカイテイオー」
      • 「【1991年度フリーハンデ決定】二冠馬トウカイテイオーは65キロ。」
      • 「【第36回有馬記念】波乱は疾風の差し脚、ダイユウサク」
      • 橋本全弘(スポーツニッポン)「【今月の記録室】第36回有馬記念〈グランプリ〉(GI)」
    • 1992年4月号
      • 「【今月のトピックス】メジロマックイーンVSトウカイテイオー 注目の初対決。天皇賞・春まであと1か月。」
    • 1992年5月号
      • 吉沢譲治「【'92春のGI競走】有力馬の父系 わかりやすい日本の種牡馬 パーソロン系」
      • 「【第40回阪神大賞典】天皇賞・春連覇へ好発進、メジロマックイーン」
      • 石崎善康(大阪スポーツ)「【今月の記録室】第40回阪神大賞典(GII)メジロマックイーン」
    • 1992年6月号
      • 木村幸治「【第105回天皇賞(春)】トウカイテイオーVSメジロマックイーン 五日間の夢」
      • 古山高麗雄「【第105回天皇賞(春)観戦記】三強時代到来の筋書き変わらず」
      • 橋本忠(サンケイスポーツ)「【今月の記録室】第105回天皇賞(春)(GI)メジロマックイーン」
      • 森本昭夫(サンケイスポーツ)「【今月の記録室】第36回産経大阪杯(GII)トウカイテイオー」
    • 1992年7月号
      • 「【第33回宝塚記念】代役ではありません。堂々の主役逃げ切りは、メジロパーマー」
    • 1992年8月号
      • 蔵内哲爾(日刊スポーツ)「【今月の記録室】第33回宝塚記念(GI)メジロパーマー」
    • 1992年9月号
      • 「【この秋注目の有力馬たちの夏】宿敵は療養中でも、トウカイテイオー、雪辱への秋は始まる。」
    • 1993年1月号
      • 「【第37回有馬記念&'92ジョッキーズグランプリ直前情報】鮮やかな緑のコースで、いざ、グランプリ」
    • 1993年2月号
      • 「【1992年JRA賞決定】年度代表馬にミホノブルボン」
      • 「【'92年度フリーハンデ決定】5歳以上 メジロマックイーンは、'91年と同じ63キロ。」
    • 1993年3月号
      • 「【誰もが知りたいことしの競馬(三)】メジロマックイーン 天皇賞・春3連覇へ 調教進む」
    • 1993年6月号
      • 「【今月の馬】ライスシャワー メジロマックイーンの天皇賞連覇を阻み 新しいステイヤーの王者に」
      • 石田敏徳「【第107回天皇賞(春)】王者の夢砕き 新しい最強のステイヤーに ライスシャワー」
      • 寺田文雄(デイリースポーツ)「【今月の記録室】第107回天皇賞(春)ライスシャワー」
      • 佐藤将美(サンケイスポーツ)「【今月の記録室】第37回産経大阪杯(GII)メジロマックイーン」
    • 1993年7月号
      • 「【第34回皇太子殿下御成婚奉祝宝塚記念】ユタカも感激の強さで、メジロマックイーン」
    • 1993年8月号
      • 井上泰司(スポーツニッポン)「【今月の記録室】第34回皇太子殿下御成婚奉祝宝塚記念(GI)メジロマックイーン」
    • 1993年9月号
      • 笹本晃彦「【名馬たちの誕生ものがたり】奇跡の宝塚記念3連覇 メジロ牧場・花の62年組」
    • 1993年12月号
      • 「【今月の馬】天皇賞(秋)を目前に無念の引退 メジロマックイーン」
      • 辻谷秋人「【第108回天皇賞(秋)】名マイラーはそのスピードの持続力を証明した」
      • 「【第28回京都大賞典】圧勝もその後の悪夢、メジロマックイーン」
      • 橋本全弘(スポーツニッポン)「【今月の記録室】第108回天皇賞(秋)(GI)ヤマニンゼファー」
      • 森本公久(デイリースポーツ)「【今月の記録室】第28回農林水産省賞典 京都大賞典(GII)メジロマックイーン」
    • 1994年1月号
      • 「【今月のトピックス】王者マック、思い出の京都でファンにお別れを告げる メジロマックイーン引退式」
      • 後藤正治「【競作ノンフィクション・シリーズ】7歳にして最強だった メジロマックイーン伝説」
    • 1994年2月号
      • 「【1993年度JRA賞決定】年度代表馬はビワハヤヒデ」
      • 「【'93年度フリーハンデ決定】古馬 92年に続き、トウカイテイオーが高い評価」
      • 「【今月の記録室】トウカイテイオー1年ぶりの出走で有馬記念優勝」
    • 1994年8月号
      • 畠山直毅「【'94年3歳新種牡馬特集 第2回】(III)1/32の奇跡がメジロマックイーンを生んだ!?」
    • 1994年9月号
      • 花岡貴子「【引退馬の近況リポート】種牡馬1年生レポート メジロマックイーン ミホノブルボン ヤマニンゼファー」
    • 1998年12月号
      • 阿部珠樹「【サラブレッド・ヒーロー列伝〈レース編〉48】盾への執念、メジロティターン(下) 白い伝承」
    • 1999年10月号
      • 井口民樹「【サラブレッド・ヒーロー列伝〈レース編〉58】ナイスネイチャの京都新聞杯(下)無冠の名馬の生涯最高レース」
    • 1999年11月号
      • 江面弘也「【競作ノンフィクション・シリーズ】菊花賞、逆転の記憶 ー勝利への最終切符をつかんだステイヤーたちー」
    • 2000年1月号
      • 井口民樹「ハナ差の大逃走 - メジロパーマーとレガシーワールドの有馬記念(上)」
    • 2000年2月号
      • 井口民樹「ハナ差の大逃走 - メジロパーマーとレガシーワールドの有馬記念(下)」
    • 2000年10月号
      • 「【20世紀の名馬大投票】第12位メジロマックイーン 天皇賞父子3代制覇も達成した 史上初の"10億円"ホース」
    • 2001年5月号
    • 2001年7月号
      • 井口民樹「【サラブレッド・ヒーロー列伝 20世紀を駆けた名馬たち 4】ライスシャワー 淀に咲き、淀に散ったステイヤー」
    • 2001年8月号
      • 村本浩平「【北海道・あの名馬に会いに行こう! PART1】気になる種牡馬たちの『近況レポート&ガイド』」
    • 2002年5月号
      • 井口民樹「【サラブレッド・ヒーロー列伝 20世紀を駆けた名馬たち 12】メジロマックイーン 夢をつないだ稀代のステイヤー」
    • 2003年8月号
      • 阿部珠樹「【サラブレッド・ヒーロー列伝 20世紀を駆けた名馬たち 27】ナイスネイチャ 稀代の名脇役」
    • 2004年10月号
      • 篠原美穂子、奥岡幹浩「【たずね馬&この人に聞きたいスペシャル】たずね馬」
    • 2006年4月号
      • 阿部珠樹「【サラブレッド・ヒーロー列伝 59】メジロパーマー 異色のグランプリホース」
    • 2006年5月号
      • 島田明宏「【追悼企画】さらば名ステイヤー メジロマックイーン」
      • 村本浩平「【追悼企画 From馬産地】親仔4代天皇賞制覇の夢は終わらない」
    • 2006年7月号
      • 篠原美穂子「【馬産地ニュース】急死したメジロマックイーンの法要が営まれました。」
    • 2006年8月号
      • 奥岡幹浩「【名馬の蹄跡シリーズ 17】メジロマックイーン 圧倒的な存在感を示した 稀代の名優」
    • 2007年1月号
      • 河村清明「【サラブレッド・ヒーロー列伝 68】遅咲きの、驚きのグランプリホース ダイユウサク」
    • 2008年3月号
      • 河村清明「【サラブレッド・ヒーロー列伝】メジロライアン 王国のお坊ちゃま」
    • 2009年3月号
      • 山河拓也「【至高のライバル対決】1992年天皇賞(春)(GI)トウカイテイオーVSメジロマックイーン」
    • 2009年5月号
      • 山田康文「【種牡馬メジロマックイーンを再評価する Part1】メジロマックイーンが種牡馬として過ごした『時代』とは?」
      • 吉沢譲治「【種牡馬メジロマックイーンを再評価する Part2】メジロマックイーン、その血統的本質とは?」
    • 2009年9月号
      • 石田敏徳「【あの名馬たちのデビュー戦 05】メジロマックイーン 前走2着の既走馬を問題にしない 潜在能力の高さを誇ったステイヤー」
      • 吉沢譲治「【血が紡ぐサラブレッドの物語 STORY2】天皇賞4代制覇という夢 メジロアサマ、ティターン、マックイーンと続く"盾"の継承」
    • 2010年8月号
      • 吉沢譲治「【未来に語り継ぎたい不滅の名馬たち】メジロマックイーン 天皇賞父系3代制覇を遂げた名ステイヤー」
    • 2011年1月号
      • 阿部珠樹「【サラブレッド・ヒーロー列伝】"離れ業"をやってのけた稀有な存在 メジロデュレン」
    • 2011年6月号
      • 軍土門隼夫「【日本ダービープレビュー】有力馬の横顔 オルフェーヴル 結実する血統への確信」
      • 後藤正俊「【日本ダービープレビュー】クローズアップ 小さな大種牡馬ステイゴールド」
    • 2011年7月号
      • 軍土門隼夫「【ダービー馬の故郷】白老ファーム "原点"で受け継がれてきたもの」
    • 2011年8月号
      • 江面弘也「【馬産地の話題、いっぱい集めてみました。】メジロ牧場よ、永遠に」
    • 2011年12月号
      • 軍土門隼夫「【オルフェーヴル 三冠達成の真実】オルフェーヴル ニュータイプの三冠馬が完成するまで」
    • 2012年5月号
      • ミエスク団「【名馬図鑑 15】メジロマックイーン」
    • 2012年6月号
      • 吉沢譲治「【第79回日本ダービー】"黄金配合"の背景を探る」
    • 2012年8月号
      • 増田英樹「【日高で紡がれた血のロマン】80年の歳月を越えてーゴールドシップが果たした信念に基づく成功」
      • 江面弘也「【偉大なる顕彰馬の蹄跡】Vol.23 メジロマックイーン」
    • 2012年9月号
      • 阿部珠樹「【距離別『最強馬』はこの馬だ!】芝3200メートル メジロマックイーン」
      • 江面弘也「【偉大なる顕彰馬の蹄跡】Vol.24 トウカイテイオー」
    • 2012年10月号
      • 藤井慎一(サラブレッド血統センター)「【ニッポンの基礎牝系 第8回】アストニシメント系(2)-アサマユリ系とエベレスト系-」
    • 2013年1月号
      • 阿部珠樹「【優駿激闘譜】ドリームジャーニー グランプリで結実させた"夢の旅路"」
    • 2013年6月号
      • 河村清明「【優駿激闘譜】トウカイテイオー "皇帝"が送り出した"帝王"」
    • 2014年2月号
      • 後藤正俊「【特別寄稿 "最強馬"引退に思うところ】前途洋々な種牡馬生活」
      • 村本浩平「【オルフェーヴルの故郷を訪ねて】(有)社台コーポレーション白老ファーム 紡ぐ『黄金旅程』物語」
    • 2014年3月号
      • 石田敏徳「【永遠に語り継ぎたい名勝負 BEST60】メジロマックイーンVSトウカイテイオー 長距離の絶対王者に真っ向勝負を挑んだ帝王」
    • 2014年9月号
      • 阿部珠樹「【1990年代名馬&名ホースマンの記憶】メジロマックイーン 変化の時代に現れた『反時代的ヒーロー』」
    • 2015年3月号
      • 平松さとし「【未来に語り継ぎたい名馬 BEST100】史上最強のステイヤー メジロマックイーン」
      • 村本浩平「【追悼ステイゴールド】種牡馬時代 まさに今、種牡馬としての全盛期を迎えていたが…」
    • 2015年10月号
      • 江面弘也「【京都競馬場 開設90周年記念特集】ライバル対決に沸いた名勝負 メジロマックイーンVSトウカイテイオー」
      • 日夏ユタカ「【芦毛の名馬列伝】File No.4 キング・オブ・ステイヤー メジロマックイーン」
    • 2015年12月号
      • 山河拓也「【未来に語り継ぎたい名馬100頭のベストレース】メジロマックイーンのベストレース 1992年天皇賞(春)(GI)」
    • 2020年3月号
      • 栗山求「【春GIベストランキング】天皇賞(春)第1位 1992年メジロマックイーン 列島が湧いた世紀の対決」
    • 2020年4月号
      • 斎藤修「【春GIベストランキング】宝塚記念 第3位 1991年メジロライアン 常識外のロングスパート」
    • 2020年5月号
      • 辻谷秋人「【天皇賞(春)ヒストリー】連覇に挑んだ王者たち」
  • 週刊100名馬 Vol.22 メジロマックイーン』(産業経済新聞社、2001年)

外部リンク