「京都・大阪連続強盗殺人事件」の版間の差分
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{{Notice|本記事事件の犯人である死刑囚(廣田雅晴)は、実名で自身が起こした事件に関する投書や手記を『[[人民新聞]]』や『[[噂の眞相]]』に寄稿しており、[[WP:DP#B-2]]の「削除されず、伝統的に認められている例」に該当するため、実名を掲載しています。}} |
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{{Infobox 事件・事故 |
{{Infobox 事件・事故 |
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|名称=京都・大阪連続強盗殺人事件 |
|名称= 京都・大阪連続強盗殺人事件 |
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|正式名称=[[警察庁広域重要指定事件|警察庁広域重要指定]]115号事件 |
|正式名称= [[警察庁広域重要指定事件|警察庁広域重要指定]]115号事件 |
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|画像= |
|画像= |
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|module={{OSM Location map |
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|脚注= |
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| coord = {{coord|34.8698|135.6279}} | zoom = 9 |
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|場所= |
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| caption = 京都事件・大阪事件それぞれの現場 | auto-caption = 1 |
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|標的= |
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|日付=[[1984年]]([[昭和]]59年)[[9月4日]] |
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| mark-coord1 = {{coord|35|02|19.2|N|135|44|30.9|E}} |
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|時間= |
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| mark-title1 = 京都事件の現場([[京都市]][[北区 (京都市)|北区]][[京都市北区の町名#旧大宮村・野口村|紫野北舟岡町]]:[[船岡山]]公園) |
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|開始時刻= |
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|終了時刻= |
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|時間帯= |
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|概要= |
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|手段=発砲、刺傷 |
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|武器=[[銃]]([[ニューナンブM60]]38口径)、刃物 |
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| mark-coord2 = {{coord|34|41|47.9|N|135|31|50.7|E}} |
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|死亡=2名([[京都府警察]]の巡査S・<30歳> [[大阪府]]の消費者金融社員S・<23歳>) |
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| mark-title2 = 大阪事件の現場([[大阪市]][[都島区]][[東野田町]]二丁目) |
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|犯人=元警官 H |
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| shape2 = n-circle |
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|対処=[[日本における死刑|死刑]]判決が確定 |
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|脚注= |
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'''京都・大阪連続強盗殺人事件'''(きょうと・おおさかれんぞくごうとうさつじんじけん)とは、[[1984年]]([[昭和]]59年)[[9月4日]]に[[京都府]][[京都市]]と[[大阪府]][[大阪市]]で発生した2件の連続[[強盗致死傷罪|強盗殺人]]事件。元警察官の犯行であったことから'''元警官連続強盗殺人事件'''と表記する場合もある。 |
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|場所= {{JPN}}:[[京都府]][[京都市]][[北区 (京都市)|北区]]・[[大阪府]][[大阪市]][[都島区]] |
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|座標概要= 京都事件:京都府京都市北区[[京都市北区の町名#旧大宮村・野口村|紫野北舟岡町]]42番地{{Sfn|判例時報|1989|p=57}}([[船岡山]]の山頂南側遊歩道)<ref name="読売新聞1984-09-05">『[[読売新聞]]』1984年9月5日東京朝刊第14版一面1頁「【京都、大阪】大阪 強奪短銃で店員射殺 有力容疑者に元警官 サラ金襲い逃走 警官殺害の3時間後」「【京都】ジュース缶に指紋」([[読売新聞東京本社]]) - 『読売新聞』[[新聞縮刷版|縮刷版]] 1984年(昭和59年)9月号165頁。</ref> |
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|緯度度=35 |緯度分=02 |緯度秒=19.2 |
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|経度度=135 |経度分=44 |経度秒=30.9 |
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|座標2概要= 大阪事件:大阪府大阪市都島区[[東野田町]]二丁目2番20号<ref name="京都新聞1984-09-06"/><ref name="読売新聞1984-09-05"/> |
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|緯度度2=34 |緯度分2=41 |緯度秒2=47.9 |N(北緯)及びS(南緯)2= N |
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|経度度2=135 |経度分2=31 |経度秒2=50.7 |E(東経)及びW(西経)2= E |
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|標的= |
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|日付= [[1984年]]([[昭和]]59年)[[9月4日]]{{Sfn|判例時報|1989|p=57}}<ref name="京都新聞1984-09-06"/><ref name="読売新聞1984-09-05"/> |
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|時間= |
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|開始時刻= 京都事件発生(12時50分ごろ){{Sfn|判例時報|1989|p=57}} |
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|終了時刻= 大阪事件発生(16時ごろ){{Sfn|判例時報|1989|p=57}} |
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|時間帯= [[UTC+9]] |
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|概要= 1978年に拳銃を警察署から盗み出して強盗事件を起こし、懲役7年に処された[[京都府警察|京都府警]]の元[[巡査部長]]が、[[仮釈放]]から5日後にかつて勤務していた[[上京警察署|西陣警察署]]十二坊派出所{{Efn2|name="十二坊派出所"|西陣警察署十二坊派出所は、2022年時点では[[北警察署 (京都府)|北警察署]]十二坊交番(所在地:京都市北区紫野十二坊町33-4)となっている<ref>{{Cite web |url=https://www.pref.kyoto.jp/fukei/site/policemap/kita/ |title=十二坊(じゅうにぼう)交番 |access-date=2022-05-07 |publisher=[[京都府警察]] |website=[[北警察署 (京都府)|北警察署]](きたけいさつしょ) |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20220507164847/https://www.pref.kyoto.jp/fukei/site/policemap/kita/ |archive-date=2022-05-07}}</ref>。}}の巡査を殺害して拳銃を強奪。その拳銃を持って消費者金融店に押し入り、店員を射殺して現金60万円を奪った。 |
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|懸賞金= |
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|原因= |
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|手段= |
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|攻撃側人数= 1人 |
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|凶器= ステンレス製包丁(刃体の長さ約16.9 [[センチメートル|cm]]){{Efn2|name="包丁"|廣田が京都事件で凶器として用いた包丁(刃体の長さ約16.9 cm)は{{Sfn|判例時報|1989|p=57}}、細身で堅刃の[[柳刃包丁]]<ref name="京都新聞1984-10-15">『京都新聞』1984年10月15日朝刊第17版第一社会面23頁「連続強殺 広田 現場近くで包丁購入 巡査殺害の凶器に」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1984年(昭和59年)10月号505頁。</ref>。}}、[[ニューナンブM60|警察用ニューナンブ回転弾倉式拳銃]]{{Sfn|判例時報|1989|p=57}}(38口径)<ref name="読売新聞1984-09-05"/> |
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|武器= |
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|兵器= |
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|死亡= 2人 |
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|負傷= |
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|行方不明= |
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|被害者= |
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* 京都事件 - 京都府警の男性[[巡査]]A(当時30歳:[[殉職]]後、[[警部補]]に2階級特進)<ref name="京都新聞1984-09-05"/> |
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* 大阪事件 - 男性B(事件当時23歳:消費者金融店従業員)<ref name="京都新聞1984-09-05"/> |
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|損害= |
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|犯人= 廣田雅晴(当時{{年数|1943|1|5|1984|9|4}}歳:京都府警の元巡査部長)<ref name="京都新聞1984-09-06"/> |
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|容疑= |
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|動機= |
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|関与= |
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|防御= |
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|対処= [[逮捕 (日本法)|逮捕]]・[[起訴]]<ref name="京都新聞1984-10-20"/> |
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|謝罪= なし([[無罪]]を主張) |
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|補償= |
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|賠償= |
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|刑事訴訟= [[日本における死刑|死刑]]<ref name="京都新聞1997-12-20"/>([[日本における収監中の死刑囚の一覧|未執行]]) |
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|少年審判= |
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|海難審判= |
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|民事訴訟= |
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|影響= |
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|遺族会= |
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|被害者の会= |
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|管轄= |
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* [[京都府警察]]・[[大阪府警察]] |
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* [[京都地方検察庁]]・[[大阪地方検察庁]]<ref name="京都新聞1984-09-28"/><ref name="京都新聞1984-10-20"/> |
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'''京都・大阪連続強盗殺人事件'''<ref name="京都新聞1984-09-06">『[[京都新聞]]』1984年9月6日朝刊第17版一面1頁「短銃強奪射殺事件 広田 千葉で逮捕 実家前 29時間ぶり 犯行は全面否認 京へ護送 短銃の行方も不明」警察庁 “第3の事件”を厳戒 短銃早期発見を指示」「広田 警察に深い恨み 服役中から挑戦状」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1984年(昭和59年)9月号165頁。</ref>{{Sfn|京都新聞社|1989|p=50}}<ref>『[[朝日新聞]]』1984年10月20日東京朝刊第一総合面1頁「大阪地検、京都・大阪連続強盗殺人事件の広田を一括起訴 凶器など未発見で」([[朝日新聞東京本社]])</ref><ref>『朝日新聞』1984年12月24日東京夕刊第一社会面13頁「自供変転の果て 初公判の広田、真っ向から否認 連続強殺事件」(朝日新聞東京本社)</ref><ref>『京都新聞』1990年10月23日朝刊第17版第一社会面23頁「連続強殺の広田被告 控訴審初公判 来年1月に」(京都新聞社)</ref><ref>『[[日本経済新聞]]』1993年4月30日大阪夕刊一面1頁「京都・大阪連続強盗殺人事件、広田被告、二審も死刑。」([[日本経済新聞大阪本社]])</ref><ref>『[[毎日新聞]]』2014年5月23日大阪朝刊第二社会面26頁「京都・大阪連続強盗殺人:死刑囚の投稿、不許可取り消し--大阪地裁」([[毎日新聞大阪本社]] 記者:堀江拓哉)</ref><ref>『毎日新聞』2014年11月15日大阪朝刊第一社会面29頁「京都・大阪連続強盗殺人:出版社への送稿不許可訴訟 死刑囚が逆転敗訴--大阪高裁」(毎日新聞大阪本社 記者:堀江拓哉)</ref><ref>『日本経済新聞』2014年5月23日大阪朝刊社会面16頁「死刑囚の原稿送らせず、大阪拘置所の処分を取り消し、地裁「表現の自由」。」(日本経済新聞大阪本社)</ref><ref>{{Cite news|title=神宮死刑囚の原稿発信認める 「表現の自由」と大阪地裁|newspaper=[[千葉日報]]|date=2014-05-22|url=https://www.chibanippo.co.jp/newspack/20140522/194551|access-date=2022-05-04|publisher=千葉日報社|language=ja|archive-url=http://web.archive.org/web/20220504062303/https://www.chibanippo.co.jp/newspack/20140522/194551|archive-date=2022年5月4日}}</ref><ref name="産経新聞2016-06-02"/>{{Sfn|佐木隆三1|1988|p=78}}(きょうと・おおさかれんぞくごうとうさつじんじけん)は、[[1984年]]([[昭和]]59年)[[9月4日]]に[[京都府]][[京都市]][[北区 (京都市)|北区]]と[[大阪府]][[大阪市]][[都島区]]で発生した2件の連続[[強盗致死傷罪|強盗殺人]]事件<ref name="京都新聞1984-09-05"/><ref name="京都新聞1988-10-25"/>。 |
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犯人の'''廣田 雅晴'''(ひろた まさはる、本事件当時{{年数|1943|1|5|1984|9|4}}歳)は、[[京都府警察]]の元[[日本の警察官|警察官]](最終階級は[[巡査部長]]、最終配属先は[[上京警察署|西陣警察署]]十二坊派出所{{Efn2|name="十二坊派出所"}})だが、本事件から7年前の[[1978年]](昭和53年)に西陣署から盗んだ[[拳銃]]で強盗傷人などの事件を起こして[[免職#懲戒免職|懲戒免職]]となり、[[懲役]]7年の刑に処されていた{{Sfn|判例時報|1989|p=56}}。事件5日前(1984年8月30日)に[[加古川刑務所]]を[[仮釈放|仮出所]]した廣田は、9月4日に京都市北区の[[船岡山|船岡山公園]]で、十二坊派出所の男性[[巡査]]A(当時30歳、[[殉職]]後[[警部補]]に2階級特進)を包丁{{Efn2|name="包丁"}}で滅多刺しにした上、奪った拳銃で銃撃して殺害('''京都事件''')<ref name="京都新聞1988-10-25"/>。さらにその拳銃を持って大阪市都島区の[[消費者金融]]店舗を襲撃し、従業員の男性B(当時23歳)を射殺して現金60万円を奪った('''大阪事件''')<ref name="京都新聞1988-10-25"/>。警察官から奪われた拳銃が用いられた強盗殺人事件は、1982年(昭和57年)に発生した[[勝田清孝事件]]以来で<ref name="京都新聞1984-09-05"/>、[[警察庁]]は一連の事件を、'''[[警察庁広域重要指定事件|広域重要事件]]115号'''に指定している<ref name="京都新聞1984-09-05夕刊">『京都新聞』1984年9月5日夕刊第7版一面1頁「短銃強奪射殺事件 広田元巡査部長の犯行、ほぼ断定 府警、きょう中に逮捕状 西陣署へ本人電話 6年前、郵便局強盗 広域事件に指定 警察庁」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1984年(昭和59年)9月号151頁。</ref>。廣田は刑事裁判で無実を主張したが、[[1998年]]([[平成]]10年)[[1月16日]]に[[日本における死刑|死刑]][[判決 (日本法)|判決]]が[[確定判決|確定]]している{{Sfn|集刑287号|2005|p=576}}{{Sfn|大阪地裁|2014|loc=第2 事案の概要 > 2 前提事実 > (1)原告の収容経緯}}{{Sfn|稲葉実香|2015|p=19}}。 |
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'''京都・大阪短銃強奪射殺事件'''<ref name="京都新聞1984-09-06夕刊">『京都新聞』1984年9月6日夕刊第7版一面1頁「短銃強奪射殺 広田、依然犯行を否認 本格取り調べ 短銃の行方など追及」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1984年(昭和59年)9月号189頁。</ref><ref name="京都新聞1984-09-07">『京都新聞』1984年9月7日朝刊第17版第一社会面27頁「広田 一人勤務確かめ凶行 直前に派出所下見」「「何もいわぬ」調べに黙秘」「“でっち上げ”弁護士に主張」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1984年(昭和59年)9月号189頁。</ref>、'''京都・大阪短銃連続強盗殺人'''<ref name="朝日新聞1984-09-06ドキュメント">『朝日新聞』1984年9月6日東京朝刊第二社会面22頁「ドキュメント 「京都・大阪短銃連続強盗殺人」」(朝日新聞東京本社)</ref>、'''ピストル強盗連続殺人事件'''{{Sfn|判例時報|1989|p=55}}{{Sfn|判例時報|1994|p=151}}、'''広田事件'''<ref>{{Cite book|和書|title=広報資料(5月分)|publisher=[[内閣総理大臣]][[官房]]広報室|date=1985-02-20|page=18|chapter=捜査活動に対する国民の理解と協力の確保(警察庁)|quote=内容的にも、警察庁指定第114号事件( いわゆる[[グリコ・森永事件]] )及び同115号事件( いわゆる'''広田事件''' )等、広域にわたり、かつ社会的反響の極めて大きい重要凶悪事件が発生したほか、身の代金目的誘拐事件、保険金目的殺人・放火事件、金融機関対象強盗事件、けん銃使用強盗事件等の凶悪事件が多発し、殺人、強盗殺人等で設置した捜査本部の数も152と最近10年間の最高となっています。|id={{国立国会図書館書誌ID|000000025271}}・{{全国書誌番号|00025463}}}}</ref><ref>{{Cite journal|和書|journal=時の動き|title=霞が関だより 警察の捜査活動にご協力を(警察庁)|volume=29|page=65|editor=[[内閣府]]|date=1985-04-15|issue=8|chapter=|publisher=[[大蔵省]][[国立印刷局|印刷局]]|DOI=10.11501/2783355|id={{NDLJP|2783355/33}}|quote=警察庁指定第百十四号事件(いわゆるグリコ・森永事件)及び同百十五号事件(いわゆる'''広田事件''')等}} - 通巻:第723号(昭和60年4月15日号)</ref><ref>{{Cite book|和書|title=警察のあゆみ 昭和60年版|publisher=[[警察庁]]|date=1985-07|page=7|chapter=どんな犯罪が増えているか――犯罪の特徴的傾向|quote=昭和59年中の犯罪の特徴をみますと、社会経済情勢の変化を反映して、次のような悪質で巧妙な事件が多く発生しています。①警察庁指定第114号事件(いわゆるグリコ・森永事件)、同115号事件(いわゆる'''広田事件''')などの広域重要事件|doi=|id={{国立国会図書館書誌ID|000001748755}}・{{全国書誌番号|85052903}}}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.npa.go.jp/hakusyo/s60/s600200.html |title=第2章 犯罪情勢と捜査活動 |access-date=2022-05-13 |publisher=警察庁 |date=1985-08 |quote= |language=ja |archive-url=https://web.archive.org/web/20210313034136/https://www.npa.go.jp/hakusyo/s60/s600200.html |archive-date=2021-03-13}} |
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* 原典:{{Cite book|和書|title=昭和60年 警察白書 科学化の進む警察活動|publisher=大蔵省印刷局|date=1985-08|page=91|editor=警察庁|url=https://www.npa.go.jp/hakusyo/s60/s600200.html|edition=|series=|NCID=BN02720334|chapter=第2章 犯罪情勢と捜査活動 > 4 犯罪情勢の変化と捜査環境の悪化に対応する捜査活動の推進 > ア 犯罪の広域化、スピード化|quote=自動車利用犯罪が増加傾向を示すとともに、警察庁指定第114号事件、同第115号事件(いわゆる'''広田事件'''-京都府における警察官殺害、けん銃強奪及び大阪府における 強盗殺人事件)等広域にわたる凶悪事件が発生するなど、犯罪の広域化、スピード化が目立っている。|doi=10.11501/9903431|id={{NDLJP|9903431/91}}|archive-url=https://web.archive.org/web/20210313034136/https://www.npa.go.jp/hakusyo/s60/s600200.html|archive-date=2021-03-13}}</ref><ref name="読売新聞1984-09-30">『読売新聞』1984年9月30日東京朝刊第14版第一社会面23頁「【[[宇都宮市|宇都宮]]】サラ金苦男、駐在所襲う 坊や人質、短銃要求 広田事件にヒント」(読売新聞東京本社) - 『読売新聞』縮刷版 1984年(昭和59年)9月号1239頁。</ref><ref name="京都新聞1988-07-13論告"/><ref name="毎日新聞1998-12-08">『毎日新聞』1998年12月8日大阪朝刊社会面27頁「[攻防]毒物カレー事件/1 決め手は消去法 「真須美容疑者しかいない」◆広田事件と共通の手法」(毎日新聞大阪本社) - [[和歌山毒物カレー事件]]の関連記事。</ref><ref>『読売新聞』2004年9月4日大阪朝刊京都市内版31頁「「広田事件」きょう20年 殉職警部補に西陣署長ら献花=京都」([[読売新聞大阪本社]]・京都総局)</ref>、'''広田雅晴事件'''<ref>{{Cite book|和書|title=朝日キーワード 1986|publisher=[[朝日新聞出版|朝日新聞社出版局]]|date=1985-09-20|page=197|author=|editor=朝日新聞社|edition=第1刷発行|isbn=978-4022275868|NCID=BN00737358|chapter=情報犯罪 グリコ・森永事件|quote=84年9月の「警察官殺害けん銃強奪、けん銃使用強盗殺人事件('''広田雅晴事件''', 115号)」|id={{国立国会図書館書誌ID|000001767173}}・{{全国書誌番号|86006000}}}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=毎日放送の40年 [資料編]|publisher=[[毎日放送]]|date=1991-09-01|page=340|editor=株式会社毎日放送40年史編纂室|NCID=BN06977977|quote=9. 4 京都で警官殺害・短銃強盗事件発生('''広田雅晴事件''')|chapter=年表 昭和59 1984|id={{国立国会図書館書誌ID|000002157746}}・{{全国書誌番号|92020531}}}}</ref>とも呼称される。 |
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== 概要 == |
== 概要 == |
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本事件の犯人である廣田はかつて、京都府警の巡査部長として西陣警察署(現:[[上京警察署]])の十二坊派出所{{Efn2|name="十二坊派出所"}}に務めていたが、1978年7月に西陣署から盗んだ拳銃を用い、京都市[[南区 (京都市)|南区]]内の郵便局などで強盗傷人などの事件を起こした{{Sfn|判例時報|1989|p=56}}。廣田はこの件で懲戒免職になり、1981年(昭和56年)2月に[[大阪高等裁判所|大阪高裁]]で懲役7年の刑に処されたが{{Sfn|判例時報|1989|p=56}}、同事件の[[公判]]中から京都府警への敵意を顕にし、知人に「出所後は西陣署長と検察官を殺してやる」という[[逆恨み]]の念を書いた手紙を送ったり、[[新左翼]]系の新聞『[[人民新聞]]』に「[[お礼参り|出所したら京都府警に復讐する]]」という趣旨の投書を送ったりしていた{{Sfn|週刊現代|1984|p=35}}。そして[[仮釈放]]から5日後、かつて務めていた十二坊派出所の警察官を殺害して拳銃を奪い、その拳銃を持って大阪市都島区の消費者金融店に押し入り、店員を射殺して現金を奪うという事件を起こした<ref name="京都新聞1988-10-25"/>。本事件と同時期には、元[[警視庁]]の[[警部]]・澤地和夫による2人殺害事件([[山中湖]]連続殺人事件:1984年11月){{Efn2|name="澤地和夫"|澤地和夫は1980年1月、21年あまり勤務した警視庁を退職し、[[新宿]]に大衆割烹店を開店したが、経営が悪化し、1983年8月には1億5,000万円の負債を抱えて閉店に追い込まれ、一攫千金を狙って強盗殺人を計画した<ref name="読売新聞1987-10-31"/>。1984年10月11日、澤地は自分と同じく借金に苦しんでいた仲間の男2人(猪熊武夫・Pの両名。それぞれ死刑と無期懲役が確定)と共謀し、[[東京都]][[北区 (東京都)|北区]]の宝石商男性(当時36歳)を[[山梨県]][[南都留郡]][[山中湖村]]の別荘に誘い出して絞殺、現金や指輪など6,000万円相当を奪い、死体を床下に埋めた<ref name="読売新聞1987-10-31"/>。次いで同月25日、猪熊と共謀して[[埼玉県]][[上尾市]]の女性金融業者(当時61歳)を土地をめぐる融資話で誘い出し、[[浦和市]](現:[[さいたま市]][[浦和区]])内を走行中の車内で絞殺、現金2,000万円や指輪、預金通帳などを奪い、死体を別荘床下に埋めた<ref name="読売新聞1987-10-31">『読売新聞』1987年10月31日東京朝刊第一社会面27頁「元警部「沢地」ら2人に死刑 宝石商ら2人殺害 共犯も無期懲役/東京地裁判決」(読売新聞東京本社)</ref>。1987年10月30日、東京地裁刑事第2部(中山善房裁判長)は澤地・猪熊を死刑、Pを無期懲役とする判決を言い渡し<ref name="読売新聞1987-10-31"/>、[[東京高等裁判所|東京高裁]]第9刑事部(内藤丈夫裁判長)も1989年3月31日に3被告人の控訴をいずれも棄却する判決を言い渡した<ref>『読売新聞』1989年3月31日東京夕刊第二社会面18頁「連続強盗殺人の元警視庁警部・沢地和夫被告 東京高裁が一審の死刑支持」(読売新聞東京本社)</ref>。その後澤地・猪熊の両被告人は最高裁に上告していたが、1993年3月に死刑執行が3年4か月ぶりに再開されると、澤地はそれに対する抗議の意図で<ref>『読売新聞』1993年5月24日東京夕刊一面1頁「強盗殺人の沢地被告 死刑確定求め上告取り下げへ 法相への抗議の理由」(読売新聞東京本社)</ref>、最高裁第二小法廷([[大西勝也]]裁判長)に対し上告取下書を提出<ref>『読売新聞』1993年7月8日東京朝刊第二社会面30頁「元警察官沢地被告の死刑判決確定 上告取り下げ/東京高裁」(読売新聞東京本社)</ref>。同年7月7日付で上告取下書が送付・受理され、死刑が確定した<ref>『朝日新聞』1993年7月8日東京朝刊第一社会面31頁「元警察官警部、沢地和夫被告の死刑確定 強盗殺人事件の上告取り下げ」(朝日新聞東京本社)</ref>。しかし死刑は執行されず、再審請求中の2008年12月16日に[[東京拘置所]]で病死している(69歳没){{Sfn|年報・死刑廃止|2021|p=213}}。なお、共犯の猪熊は1995年(平成7年)7月3日に最高裁第二小法廷(大西勝也裁判長)で上告棄却の判決を受け<ref>『読売新聞』1995年7月4日東京朝刊第二社会面26頁「元警察官らと共謀の猪熊被告、強盗殺人で死刑確定へ/最高裁」(読売新聞東京本社)</ref>、判決訂正申立も同月24日付の決定で棄却されたため<ref>{{Cite journal|和書|journal=最高裁判所刑事裁判書総目次 平成7年7月分|year=1995|title=刑事雑(全) > 判決訂正申立 > 事件番号:平成7年(み)第3号、第4号 事件名:強盗殺人、死体遺棄 申立人又は被告人氏名:猪熊武夫 裁判月日:(平成7年)7月24日 法廷:第二小法廷 結果:棄却 原本綴丁数:173|page=15|month=7|publisher=最高裁判所事務総局|ref=}} - 『最高裁判所裁判集 刑事』(集刑)第266号(平成7年7 - 12月分)の巻末付録。</ref>、同月25日付で死刑が確定している{{Sfn|集刑287号|2005|p=577}}<ref>山中湖連続殺人事件の死刑囚・猪熊武夫による国家賠償請求訴訟の判決文 - {{Cite 判例検索システム|事件番号=平成26年(行ウ)第426号|裁判年月日=2017年(平成29年)10月24日|裁判所=東京地方裁判所|法廷=民事第51部|裁判形式=判決|判例集=『D1-Law.com』([[第一法規]]法情報総合データベース)判例ID:29038063|事件名=国家賠償等請求事件|判示事項=|裁判要旨=}} |
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1984年9月4日、男が[[京都市]]で警察官から銃を奪って射殺し、その後に[[大阪市]]で[[消費者金融]]に強盗に入って店員を射殺する事件が発生した。 |
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* 主文 |
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*# 被告は、原告に対し、1万円及びこれに対する平成26年9月25日から支払い済まで年5分の割合による金員を支払え。 |
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*# 原告のその余の請求をいずれも棄却する。 |
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*# 訴訟費用は、これを300分し、その299を原告の負担とし、その余は被告の負担とする。 |
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* 裁判官:清水知恵子(裁判長)・進藤壮一郎・池田美樹子 |
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* 訴訟代理人弁護士:大野鉄平・赤羽悠一・若林亮 |
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* 被告:国(代表者:法務大臣)</ref>。Pも7月3日付で第二小法廷から上告棄却の決定を受け<ref>{{Cite journal|和書|journal=最高裁判所刑事裁判書総目次 平成7年7月分|year=1995|title=刑事決定(1) > 事件番号:平成元年(あ)第654号 事件名:強盗殺人、死体遺棄 被告人氏名:P 裁判月日:(平成7年)7月3日 法廷:第二小法廷 結果:棄却 原審:東京高裁 原本綴丁数:1|page=3|month=7|publisher=[[最高裁判所事務総局]]|ref=}} - 『最高裁判所裁判集 刑事』(集刑)第266号(平成7年7 - 12月分)の巻末付録。</ref>、同決定に対する異議申立も同月12日付の決定で棄却されたため<ref>{{Cite journal|和書|journal=最高裁判所刑事裁判書総目次 平成7年7月分|year=1995|title=刑事雑(全) > 決定に対する異議申立 > 事件番号:平成7年(す)第117号 事件名:強盗殺人、死体遺棄 申立人又は被告人氏名:P 裁判月日:(平成7年)7月12日 法廷:第二小法廷 結果:棄却 原本綴丁数:224|page=18|month=7|publisher=最高裁判所事務総局|ref=}} - 『最高裁判所裁判集 刑事』(集刑)第266号(平成7年7 - 12月分)の巻末付録。</ref>、無期懲役が確定している<ref>『毎日新聞』1995年7月5日東京朝刊第一社会面23頁「共犯の無期懲役が確定--山梨・宝石商強盗殺人」(毎日新聞東京本社)</ref>。}}、元[[奈良県警察|奈良県警]]巡査による[[消費者金融|サラ金]]会社社長[[拉致]]・[[監禁]]事件(1984年12月)、元[[神奈川県警察|神奈川県警]]巡査部長による[[三菱UFJ銀行|三菱銀行]]強盗人質事件(1985年3月)など、[[警察不祥事|現職警察官や元警察官が借金苦を動機に強盗・殺人などの凶悪犯罪を犯す事件]]が多発し{{Sfn|小林道雄|2000|pp=12-13}}、「'''西の廣田、東の澤地'''」とも言われた{{Sfn|宍倉正弘|1990|p=13}}<ref>{{Cite journal|和書|journal=月刊自由民主|author=宍倉正弘|title=ずいひつ――罪と罰|editor=自由民主党|date=1987-09-01|issue=415|pages=153-154|publisher=[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]・千代田永田書房|id={{NDLJP|2826534/76}}|DOI=10.11501/2826534}}</ref>。 |
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本事件の捜査段階で、廣田は犯行を自白したが、刑事裁判の公判では全面否認に転じ、彼による犯行を裏付ける凶器(包丁{{Efn2|name="包丁"}}・拳銃)なども発見されなかったため、検察側は目撃証言や銃弾の鑑定結果などといった間接証拠を中心に犯行を立証しようとした一方、廣田や弁護人は「自白は取調官の暴行によって強制されたもので、[[自白法則|任意性]]はなく、目撃証言も信用性がない」と主張。しかし、[[審級|第一審]]([[大阪地方裁判所|大阪地裁]])や[[控訴]]審(大阪高裁)はそれぞれ、間接証拠から[[起訴]]事実を全面的に[[事実認定|認定]]し、廣田に死刑判決を言い渡した<ref name="京都新聞1988-10-25"/><ref name="京都新聞1993-04-30"/>。[[最高裁判所 (日本)|最高裁]]も1997年(平成9年)12月、廣田を有罪として死刑に処した原判決を支持して廣田の[[上告]]を[[棄却]]する判決を言い渡し<ref name="京都新聞1997-12-20"/>、翌1998年(平成10年)1月に死刑が確定した{{Sfn|集刑287号|2005|p=576}}{{Sfn|大阪地裁|2014|loc=第2 事案の概要 > 2 前提事実 > (1)原告の収容経緯}}{{Sfn|稲葉実香|2015|p=19}}。なお1972年(昭和47年)以降、警察官の拳銃が奪われたり、盗まれたりした事件は本事件が11件目(12丁目)だったが、拳銃が未回収に終わった事例は本事件が初である<ref name="京都新聞1984-09-06"/>。 |
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二つの事件で使用された銃の[[ライフリング|線条痕]]が一致したため、[[警察庁]]は二つの事件を同一犯によるものとして「[[警察庁広域重要指定事件|警察庁広域重要指定]]115号事件」に指定。捜査から[[強盗致死傷罪|強盗傷害罪]]で[[懲役]]7年の刑で服役して仮出所中の元警官Hが事件の犯人とされた。 |
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本事件は、『[[読売新聞]]』の同年の「読者が選んだ10大ニュース」で第8位(得票率50.8%、得票数9,756票)に選出され、廣田自身も同紙の「最近、とくに印象に残っている人」の年間累計で第8位に選出されている<ref>『読売新聞』1984年12月25日東京朝刊第12版12頁「読者が選んだ10大ニュース」(読売新聞東京本社) - 『読売新聞』縮刷版 1984年(昭和59年)12月号986頁。</ref>。[[崔洋一]][[映画監督|監督]]による映画『[[十階のモスキート]]』(1983年7月公開、主演:[[内田裕也]])は、廣田が1978年に起こした強盗事件をモデルにしている{{Sfn|平凡パンチ|1984|p=50}}。 |
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Hは事件翌日の[[9月5日]]に[[千葉県]]に所在する実家前でHを乗せたタクシー運転手の通報で追跡していた[[千葉県警察]]の刑事によって逮捕された。 |
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== 廣田雅晴 == |
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== 京都・巡査殺害事件 == |
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{{Infobox Serial Killer |
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1984年9月4日午後1時頃、Hは京都市[[北区 (京都市)|北区]]の[[船岡山|船岡山公園]]で警ら中の警察官([[京都府警察]][[上京警察署|西陣警察署]]外勤課所属のS[[巡査]] 30歳 死後[[警部補]]に昇進)を刃物で襲い、全身16ヶ所を刺した後で奪ったピストルで背中に発砲した。その後、瀕死のS巡査が西陣署の通信司令室に「至急、至急、助けてくれ」との緊急連絡を入れたことで事件が発覚。その後散歩中の老人がS巡査を発見し[[110番]]通報。近くの病院に収容したが、1時46分に出血多量で殉職した。S警部補は現場近くの交番に2人体制で勤務していたが、事件当日は同僚の[[巡査長]]が昇進試験で不在だった。 |
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| name = 廣田 雅晴 |
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| image = |
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| caption = |
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| alt = |
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| birth_name = 神宮 雅晴<ref name="毎日新聞1997-12-20">『毎日新聞』1997年12月20日東京朝刊第14版第一社会面31頁「警官ら連続殺害 元巡査部長の死刑確定 最高裁が上告棄却」([[毎日新聞東京本社]]) - 『毎日新聞』縮刷版 1997年(平成9年)12月号793頁。</ref> |
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| alias = |
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| birth_date = {{生年月日と年齢|1943|1|5}}{{Sfn|判例時報|1989|p=55}}{{Sfn|集刑272号|1998|p=613}}{{Sfn|年報・死刑廃止|2021|p=215}} |
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| birth_place = {{JPN}}:[[千葉県]][[山武郡]][[成東町]]成東(現:[[山武市]]成東){{Sfn|集刑272号|1998|p=613}} |
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| death_date = |
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| death_place = <!--{{死亡年月日と没年齢|1943|1|5|xxxx|x|xx}}--> |
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| cause_of_death = |
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| resting_place = |
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| nationality = {{JPN}} |
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| residence = |
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| education = |
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| alma_mater = [[千葉県立成東高等学校]]{{Sfn|サンデー毎日|1984|p=18}}(普通科:1961年3月卒業){{Sfn|判例時報|1989|p=56}} |
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| occupation = [[京都府警察|京都府警察官]]([[巡査部長]]:事件前に[[免職#懲戒免職|懲戒免職]]) |
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| party = |
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| signature = |
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| signature_size = |
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| signature_alt = |
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| victims = 2人 |
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| beginning year = |
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| end year = |
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| country = {{JPN}} |
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| states = |
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| prefecture = 京都府・大阪府 |
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| locations = |
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| targets = |
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| weapons = 包丁・拳銃 |
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| motive = |
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| apprehended = |
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| charge = [[強盗致死傷罪|強盗殺人]]、[[銃砲刀剣類所持等取締法]]違反、[[火薬類取締法]]違反 |
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| penalty = [[絞首刑]](未執行) |
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| conviction = [[日本における死刑|死刑]]([[確定判決|確定]]:1998年1月16日){{Sfn|集刑287号|2005|p=576}}{{Sfn|大阪地裁|2014|loc=第2 事案の概要 > 2 前提事実 > (1)原告の収容経緯}}{{Sfn|稲葉実香|2015|p=19}} |
|||
| sentence = |
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| judicial_status = [[死刑囚]]([[日本における死刑囚|死刑確定者]]) |
|||
| criminal_status = [[日本における収監中の死刑囚の一覧|収監中]](死刑確定から{{For year month day|year=1998|month=1|day=16}}経過) |
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| imprisoned = [[大阪拘置所]]{{Sfn|年報・死刑廃止|2021|p=215}}(2021年9月20日時点){{Sfn|年報・死刑廃止|2021|p=235}} |
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}} |
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本事件の犯人は、'''廣田 雅晴'''(ひろた まさはる、[[1943年]]〈昭和18年〉[[1月5日]]{{Sfn|判例時報|1989|p=55}}{{Sfn|集刑272号|1998|p=613}}{{Sfn|年報・死刑廃止|2021|p=215}} - 、本事件当時{{年数|1943|1|5|1984|9|4}}歳)である。「'''広田 雅晴'''」とも表記される<ref name="京都新聞1984-09-06"/><ref name="京都新聞1988-10-25"/>。上告審弁論後に改姓届を出し、姓を結婚前の「'''神宮'''」(しんぐう)に戻している<ref name="毎日新聞1997-12-20"/>。本事件を起こした当時、身長は161.5 [[センチメートル|cm]]、体重は63 [[キログラム|kg]]だった{{Sfn|佐木隆三1|1988|p=78}}。 |
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刑事裁判により、[[1998年]]([[平成]]10年)[[1月16日]]に[[日本における死刑|死刑]][[判決 (日本法)|判決]]が[[確定判決|確定]]{{Sfn|集刑287号|2005|p=576}}{{Sfn|大阪地裁|2014|loc=第2 事案の概要 > 2 前提事実 > (1)原告の収容経緯}}{{Sfn|稲葉実香|2015|p=19}}(死刑確定から{{For year month day|year=1998|month=1|day=16}}経過)。[[2021年]]([[令和]]3年)9月20日時点で{{Sfn|年報・死刑廃止|2021|p=235}}、廣田こと神宮雅晴(現在{{年数|1943|1|5}}歳)は[[死刑囚]]([[日本における死刑囚|死刑確定者]])として[[大阪拘置所]]に[[日本における収監中の死刑囚の一覧|収監されている]]{{Sfn|年報・死刑廃止|2021|p=215}}。 |
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== 大阪・消費者金融強盗殺人事件 == |
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1984年9月4日午後4時頃、Hはピストルを持って大阪市[[都島区]]の[[京橋駅 (大阪府)|京橋駅]]前の消費者金融に強盗目的で押し入り、カウンター越しにピストルを突きつけ「金を出せ」と脅した。応対した店員のS(23歳)はHを見ると、「冗談でしょう?」と言ったという。その直後、HはSを射殺し、別の店員を脅し現金73万円を奪って逃走した。Sの[[司法解剖]]の際に摘出された銃弾が京都で奪われたピストルから発射されたものであることが判明し、警察庁は5日に2つの事件を広域重要事件に指定した。 |
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=== 経歴 === |
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==== 生い立ち ==== |
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捜査段階で犯行を認めたが、公判では全面否認に転じ無罪を主張。拳銃、包丁などの直接証拠は見つかっていないため、[[弁護人|弁護]]側は |
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雅晴は1943年1月5日、大阪市で5人兄弟姉妹の第三子(次男)として生まれた{{Sfn|判例時報|1989|pp=55-56}}。雅晴の父親{{Efn2|雅晴の父親は1968年に死去している{{Sfn|判例時報|1989|p=55}}。}}は運送会社に勤めており、結婚して妻(雅晴の母親)の故郷である[[千葉県]][[山武郡]][[成東町]](現:[[山武市]])に住み着いていたが、雅晴の出生当時は大阪に在勤していた<ref name="落差">『京都新聞』1984年9月11日夕刊第7版第一社会面9頁「追跡 連続強盗殺人事件 落差 実直さ見込まれ警官に」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1984年(昭和59年)9月号373頁。</ref>。1歳のころ、雅晴は家族とともに成東町に転居した{{Sfn|判例時報|1989|p=56}}。その後、農業を営む両親{{Efn2|name="実家"|本事件当時、成東町の実家には雅晴の母親と、弟夫婦が住んでいた<ref name="京都新聞198-09-06社会"/>。}}のもとで育ち、地元の小中学校を経て、1961年(昭和36年)3月{{Sfn|判例時報|1989|p=56}}、[[千葉県立成東高等学校]]{{Sfn|サンデー毎日|1984|p=18}}(普通科)を卒業{{Efn2|5人兄弟姉妹のうち、高校まで進学したのは雅晴だけだった{{Sfn|週刊現代|1984|p=34}}。}}{{Sfn|判例時報|1989|p=56}}。高校卒業時、雅晴は兄に対し「警察官になりたい」と話していたが、兄は雅晴について「小さいころから暗くなると一人で外へ出れないような臆病者」と感じていたため、「無理だ」と反対していた<ref name="落差"/>。その後、[[IHI|石川島造船化工機]]{{Sfn|週刊現代|1984|p=34}}([[東京都]][[江東区]])に就職したが、高所での作業を嫌い、1年余りで退社{{Sfn|サンデー毎日|1984|p=18}}。都内で電気溶接工や司法書士事務所事務員として働いた後、関西に渡った{{Sfn|判例時報|1989|p=56}}。 |
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* 自白は暴行により強要されたもの |
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* 目撃証言はマスコミ報道から思いこんだ可能性が高い |
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* 目撃証言は食い違いが多く信用性に欠ける |
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* 短銃を発射したとされる被告の手から硝煙反応が出てない |
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などと主張したが、いずれも退けられ[[1997年]][[12月19日]]、[[最高裁判所 (日本)|最高裁]]でHへの[[日本における死刑|死刑]]が確定した。 |
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==== 京都府警時代 ==== |
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2020年現在、Hは[[大阪拘置所]]に[[収監]]されている。 |
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1964年(昭和39年)6月の深夜、製麺業従業員として働いていた雅晴(当時{{年数|1943|1|5|1964|6|1}}歳)は、京都・[[五条通]]で[[七条警察署]]の署員(東洞院六条派出所に配属)から[[職務質問]]を受けたが、その署員は体格が良く、実直な雅晴に好感を抱き、職務質問を終えると「警察官にならないか」と勧誘した{{Efn2|当時は[[オリンピック景気]]で警察官の希望者が少なく、京都府警は同郷の知人へのはがき作戦など、優秀な人材の確保に躍起になっていた<ref name="落差"/>。}}<ref name="落差"/>。雅晴はこの誘いを受けて仕事を辞め、同年の[[京都府警察]]の採用試験に合格<ref name="落差"/>、同年10月1日付で巡査として採用される{{Sfn|判例時報|1989|p=56}}。1965年(昭和40年)9月に京都府警察学校を修了し、九条警察署(現:[[南警察署 (京都府)|南警察署]])警ら課に配属され、下殿田派出所などで勤務した{{Sfn|判例時報|1989|p=56}}。巡査時代は、巡回先で「ダッコちゃん」の愛称で呼ばれていた{{Sfn|週刊文春|1984|p=160}}。 |
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1967年(昭和42年)4月に結婚して「廣田」に改姓し、妻との間に3児をもうけた{{Efn2|廣田の子供3人はいずれも男の子(1978年の事件時点でそれぞれ11歳、7歳、4歳){{Sfn|週刊サンケイ|1978|p=19}}。1984年12月時点では長男が17歳、次男が14歳、三男が11歳だった<ref name="京都新聞1984-12-24"/>。}}{{Sfn|判例時報|1989|p=56}}。また、1968年(昭和43年)3月には年間勤務優秀で本部長賞誉を受けており、その検挙率の高さから、刑事への登用も検討されていた<ref name="輝いた時"/>。一方、友人は少なく、休日には1人で[[競輪]]に出かけることもあり<ref>『京都新聞』1984年9月12日夕刊第7版第一社会面9頁「追跡 連続強盗殺人事件 孤独な青春 休日は一人で競輪へ」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1984年(昭和59年)9月号403頁。</ref>、昇任試験で面接の幹部と言い争い、腹を立てたり<ref name="輝いた時">『京都新聞』1984年9月13日夕刊第7版第一社会面13頁「追跡 連続強盗殺人事件 輝いた時 数多くの褒賞受賞も…」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1984年(昭和59年)9月号441頁。</ref>、上司の指示に不貞腐れて反発したりするような一面もあった<ref name="転落への道"/>。九条署でかつて廣田の直属上司だった府警OBは、廣田の性格について「自分の意に反することにはすぐカッとなるが、じっくり話し込み、信頼してやればとことんやる男だった」と評している<ref name="転落への道"/>。 |
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== 関連書籍 == |
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*『警察庁広域重要指定事件完全ファイル』[[ぶんか社]]。 |
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1971年(昭和46年)に巡査部長昇任試験に合格すると、翌1972年(昭和47年)3月には初の外勤幹部として峰山警察署(現:[[京丹後警察署]])に赴任し、2年間にわたって外勤在所主任を務めた<ref name="輝いた時"/>。この間、署長褒章を4回受けており、当時の署長は廣田について「みんなから頼られて声を掛けてもらえる立場で生き生きしていた」と評している<ref name="輝いた時"/>。一方、京都市内の中心署である西陣署への配転を希望し<ref name="転落への道">『京都新聞』1984年9月14日夕刊第7版第一社会面13頁「追跡 連続強盗殺人事件 転落への道 派出所配転で不満倍加」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1984年(昭和59年)9月号485頁。</ref>、1974年(昭和49年)3月からは西陣署外勤課などに配置換えされた{{Sfn|判例時報|1989|p=56}}。そして、1977年(昭和52年)3月から、後述の強盗事件までは西陣署十二坊派出所{{Efn2|name="十二坊派出所"}}で勤務するようになっていた{{Sfn|判例時報|1989|p=56}}。しかし、廣田がこのころ、パトロール中に出会った知人に対し「寝ずに勉強して巡査部長になったのに交番勤めとはバカにしている」と不満を漏らし、同僚から教わった[[競馬]]にのめり込んで多額の借金を抱え、強盗事件を起こす半年前ごろからは、借金返済のために仕事を休んで消費者金融を回るようになったという旨や<ref name="転落への道"/>、派出所へ転出させられる前後には[[競艇]]や[[先物取引|小豆相場]]に手を出し、それも借金を抱える要因となったという旨が報じられている{{Sfn|穴吹史士|1984|p=23}}。一方、強盗事件当時の直属上司であった西陣署外勤第一係長は「廣田は西陣署へ着任した当時、司令室に配属されたが、実質1人勤務で『こんな忙しいところはかなわん。性格的にも向いていない』と自ら派出所配転を訴えた」と主張し、廣田が犯行に走った動機について「峰山署で在署幹部として活躍していた廣田は、市内署でも幹部として活躍することを夢見ていたが、市内署は巡査部長の数も多く、異動前に抱いていたイメージと現実との落差からプライドを傷つけられた」と考察している<ref>『京都新聞』1984年9月17日夕刊第7版第一社会面9頁「追跡 連続強盗殺人事件 誤解 配転、本人の希望だった」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1984年(昭和59年)9月号567頁。</ref>。 |
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=== 強盗傷人事件 === |
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| mark-title1 = 廣田がバイクに発砲した現場(枳殻邸北側)<!--位置座標の出典:<ref>『京都新聞』1978年8月2日朝刊第16版第一社会面19頁「広田、市民に向けた銃口 背後、至近からバーン 風防に穴、改めて震え 恐怖語る○○さん 強盗か…4日後に届け」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1978年(昭和53年)8月号57頁。</ref>--> |
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| mark-title2 = 札ノ辻郵便局(南区東九条石田町) |
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| mark-title3 = 六孫王神社の手水舎 |
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1978年(昭和53年)7月17日8時30分ごろ、廣田(当時{{年数|1943|1|5|1978|7|17}}歳)は西陣署の拳銃保管庫から、同僚が保管していた実包5発入りの拳銃1丁を盗む事件を起こした<ref name="京都新聞1980-06-10"/>。当時、廣田は非番で自分の拳銃を収めに西陣署に行ったが、その際に幹部の立会がなく、人もいなかったことから{{Efn2|西陣署では通常、派出所勤務の警官が当直明けや非番の日には、いったん拳銃を本署に預けて帰宅する規定になっているが、拳銃は幹部立ち会いのもとに保管庫に入れ、幹部がさらに確認することになっていた<ref name="京都新聞1978-07-20">『京都新聞』1978年7月20日夕刊第6版一面1頁「西陣署でけん銃盗難 派出所巡査 保管庫から? 実弾5個入り」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1978年(昭和53年)7月号649頁。</ref>。}}、拳銃保管庫の扉の影に隠れ、同僚の巡査{{Efn2|廣田に拳銃を盗まれた巡査は、廣田とは別の金閣寺派出所に勤務していたが、16日夕方に拳銃を本署に預けて帰宅し、拳銃を盗まれた17日は非番、18日は公休で、19日の点検の際に初めて自分の拳銃がなくなっていることに気づいた<ref name="京都新聞1978-07-20"/>。}}の拳銃をサックから取り出し、自分の持っていた紙袋に入れて署外に持ち出した<ref name="京都新聞1978-08-01夕刊"/>。廣田は17日から18日にかけ、盗んだ拳銃を自宅の押し入れに隠し、19日にハンカチで包んで紙袋に入れ、制服で隠して持ち出すと、船岡山公園の失対事務所床下にハンカチでくるんだ状態で隠した<ref name="京都新聞1978-08-01夕刊"/>。拳銃の所有者である巡査は19日朝、自身の拳銃がなくなっていることに気づき、それ以降は府警が特捜班を編成して西陣署に出入りした派出所員や、祇園祭の応援に出た署員ら13人をリストアップし、アリバイなどを調べていた<ref name="読売新聞1978-07-24">『読売新聞』1978年7月24日東京朝刊第14版第一社会面23頁「【京都】“拾った”警官逮捕 西陣署の短銃蒸発」(読売新聞東京本社) - 『読売新聞』縮刷版 1978年(昭和53年)7月号843頁。</ref>。 |
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20日16時30分ごろ、西陣署近くの公衆電話から、上鴨警察署(現:[[北警察署 (京都府)|北警察署]])へ「田中」と名乗る中年の男が「西陣署の拳銃はわしがやった。拳銃は後日、[[東寺]]の方から通っている警官を通じて返す」という電話をかけている<ref name="京都新聞1978-07-22">『京都新聞』1978年7月22日朝刊第16版第一社会面23頁「上鴨署へ不審な電話 西陣署けん銃盗難事件 検察に恨み…と2度 “田中”名乗り「弾は山で撃った」 内部精通 ねらわれた2時間20分」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1978年(昭和53年)7月号725頁。</ref>。同日18時ごろ、廣田はタクシーで船岡山公園に行って拳銃を取り出し、自宅に持ち帰ると、21日9時40分ごろ、拳銃を持って自宅を自転車で出た<ref name="京都新聞1978-08-01夕刊"/>。 |
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同月21日11時45分ごろ、廣田は京都市[[下京区]][[上珠数屋町通]]河原町西入ルの路上<ref name="京都新聞1980-06-10"/>([[渉成園|枳殻邸]]北側)で<ref name="京都新聞1978-08-02">『京都新聞』1978年8月2日朝刊第16版一面1頁「広田、銀行員もそ撃? 首筋かすめ、風防(バイク)貫通 府警「殺人未遂」適用も」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1978年(昭和53年)8月号39頁。</ref>、バイクで通りかかった近畿相互銀行{{Efn2|近畿相互銀行は、後の[[近畿大阪銀行]](現:[[関西みらい銀行]])。}}京都支店の店長代理男性(当時32歳)めがけて1発発砲し<ref>『読売新聞』1978年8月1日東京夕刊第4版第一社会面9頁「【京都】警官「広田」は三重犯行 窃盗、強盗に殺人未遂 集金行員をそ撃失敗 その直後、郵便局を襲う 借金、上司に注意されカッと」(読売新聞東京本社) - 『読売新聞』縮刷版 1978年(昭和53年)8月号33頁。</ref>、現金を奪おうとしたが、風防ガラスを貫通したのみで、男性がそのまま走り去ったため未遂に終わった<ref name="京都新聞1980-06-10"/>。その直後の12時10分ごろ、札ノ辻郵便局([[南区 (京都市)|南区]][[京都市南区の町名#旧東九条村|東九条石田町]]){{Efn2|現場となった札ノ辻郵便局(南区東九条石田町)は当時、竹田街道の十条上ル約150 mに位置していた<ref>『京都新聞』1978年7月21日夕刊第6版第一社会面15頁「東九条 郵便局にけん銃?強盗 女子事務員殴り逃走」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1978年(昭和53年)7月号701頁。</ref>。}}に強盗目的で押し入り<ref name="京都新聞1980-06-10"/>、窓口係職員の女性(当時45歳)に対し、銃を突きつけて金を出すよう迫ったが、相手が悲鳴を上げたため、拳銃で頭を殴りつけて1週間の怪我を負わせ、自転車で逃走した<ref>『読売新聞』1978年7月26日東京夕刊第4版第一社会面11頁「【京都】「広田」が郵便局強盗 盗んだ短銃?で殴る 逮捕状を請求」(読売新聞東京本社) - 『読売新聞』縮刷版 1978年(昭和53年)7月号925頁。</ref>。同日16時ごろ、再び上鴨署に「田中」と名乗る男が「拳銃は今でも持っている。全弾山で撃った。薬莢はそちらに送る」などという電話をかけている<ref name="京都新聞1978-07-22"/>。 |
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==== 発覚・逮捕 ==== |
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同月22日、廣田は「犯人から自宅に電話があり、ピストルの隠し場所を教えてきた」と届け出、[[六孫王神社]](京都市南区[[八条通]])の境内で{{Efn2|拳銃が発見された場所は、六孫王神社の手水舎で、昼は近所の子供たちや散歩の人たちで賑わう場所だった<ref>『京都新聞』1978年7月23日朝刊第16版第一社会面19頁「西陣署のけん銃盗難事件 “身内”調べ 苦悩の府警 力なく「目下捜査中」 幹部会見 深々とおわび」「六孫王神社 けん銃「あれば、わかるはず」 昼は子の遊び場」(京都新聞社) - 『読売新聞』縮刷版 1978年(昭和53年)7月号759頁。</ref>。}}、盗難された拳銃([[ニューナンブM60|ニューナンブ]]38口径、実包4発入り)と空薬莢1個が回収されたが、当時の廣田の状況説明に曖昧な点が多かったことや{{Efn2|廣田の説明は、まず21日18時ごろ、自宅に男の声で「東寺で会って返す」という電話がかかり、次いで22日14時40分ごろになって「六孫王神社に隠しておく」という電話がかかってきたというもので、前者の「電話」を受けた際には署長に連絡していたが、結局「男」は姿を見せなかった。しかし、2度目の電話は拳銃の置き場所を変更する重要な電話にも拘らず、それを署長に連絡しないまま1人で現場に行ったことや、拳銃に素手で触れたり、実弾を抜き取るなど、「警察官としての初歩的な常識に欠ける行動」を取っていたため、廣田はそれらの不審点を追及された<ref name="読売新聞1978-07-23"/>。}}<ref name="読売新聞1978-07-23"/>、捜査中に不審な言動を取っていたこと{{Efn2|廣田は「自宅に『犯人』から電話がかかってきた」として東寺境内に行き、「犯人」との接触が不成功に終わったにも拘らず、西陣署の幹部に対し「今日は犯人が泡割れなかったが、そのうち見つかりますよ」などと電話していたり、盗まれた拳銃を所持していた同僚の巡査に対し「君はこの事件のことで退職を考える必要はない」と話したりなど、拳銃発見の目処が立たない時期に不審な言動を取っていた<ref name="京都新聞1978-07-24"/>。}}、そして廣田が事件当日、署の外勤室で数分間一人になり、拳銃を保管庫から自由に取り出せる状態にあったことなどから、廣田は重要参考人として取り調べを受けた<ref name="読売新聞1978-07-23">『読売新聞』1978年7月23日東京朝刊第14版第一社会面23頁「【京都】巡査部長が短銃“拾う” 西陣署盗難、事情に不審」(読売新聞東京本社) - 『読売新聞』縮刷版 1978年(昭和53年)7月号811頁。</ref>。廣田は「自分は拳銃の発見に努力したのに、疑われて残念だ」などと容疑を否認し、[[ポリグラフ]]検査を拒否するなどしたが、23日に[[窃盗罪|窃盗]]容疑で[[逮捕 (日本法)|逮捕]]された<ref name="京都新聞1978-07-24">『京都新聞』1978年7月24日夕刊第16版一面1頁「広田巡査部長を逮捕 西陣署けん銃盗難事件 潔白、証明できず 核心黙秘 犯行は否認 異動で不満、報復?」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1978年(昭和53年)7月号761頁。</ref>。翌24日、廣田は窃盗・[[銃砲刀剣類所持等取締法]]違反・[[火薬類取締法]]違反の容疑で[[京都地方検察庁]]に[[送致|送検]]され、同日付で[[免職#懲戒免職|懲戒免職]]処分を受けた<ref>『京都新聞』1978年7月25日朝刊第16版第一社会面19頁「西陣署けん銃盗難事件 広田、否認のまま送検 府警 懲戒免職処分に」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1978年(昭和53年)7月号811頁。</ref>。さらに同月26日には郵便局での強盗傷人容疑で再逮捕され<ref>『京都新聞』1978年7月27日朝刊第16版一面1頁「郵便局強盗 広田を逮捕 拘置を10日間延長 京地裁 準抗告を認める」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1978年(昭和53年)7月号857頁。</ref>、8月17日には窃盗・銃刀法違反・火薬類取締法違反・強盗傷人の罪で[[京都地方裁判所]]に[[起訴]]された<ref name="京都新聞1978-08-17">『京都新聞』1978年8月17日夕刊第6版一面1頁「ピストル窃盗 郵便局強盗 広田元巡査部長を起訴 発砲事件も追送検 「金を奪うつもり」 広田自供」「佃本部長が辞任 後任に相川氏 竹林刑務部長を戒告 国家公安委」「西陣署長ら減給処分」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1978年(昭和53年)8月号509頁。</ref>。 |
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廣田は逮捕後も容疑を否認し、強盗事件が起きた21日当時の行動について「新聞を買いに出た」「子供を散歩に連れて出た」「南区の知人宅で話し込んでいた」とアリバイを主張したが、それらの主張はすべて虚偽であることが判明<ref name="京都新聞1978-07-28">『京都新聞』1978年7月28日朝刊第16版第一社会面23頁「広田 動機など自供 けん銃窃盗郵便局強盗 西陣署幹部にうらみ 勤務休んで競艇通い 小豆相場でも穴 サラ金地獄にあせり」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1978年(昭和53年)7月号917頁。</ref>。7月27日になって犯行の一部を認め<ref name="京都新聞1978-07-28"/>、逮捕から10日目の8月1日には犯行をほぼ全面的に自供した<ref name="京都新聞1978-08-01夕刊">『京都新聞』1978年8月1日夕刊第6版一面1頁「けん銃盗難 郵便局強盗 広田 犯行認める “上司の悪口”恨み 一発、枳殻邸近くで」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1978年(昭和53年)8月号25頁。</ref>。動機については、当初は「信頼していた直属の上司が自分の病気欠勤のことで悪口を言っているとの噂を聞き、『拳銃がなくなれば困るだろう』ととっさに思いついた」と供述し、計画性を否定した<ref name="京都新聞1978-08-17"/>。しかし、多額の借金があったことを追及され<ref name="京都新聞1978-08-01夕刊"/>、強盗については「借金返済のために金が欲しかったため、かねてから事情を知っていた札ノ辻郵便局を襲った」と自供したが、拳銃窃盗の計画性については一貫して否定した<ref name="京都新聞1978-08-17"/>。なお、銀行員銃撃事件については被害者が「廣田らしき男を追い越した直後、至近距離から発砲された」と主張したことや、現場の道幅は狭く、人通りがあれば必ず目に入るであろう場所であったことなどから、(強盗)殺人未遂容疑の適用も検討したが<ref name="京都新聞1978-08-02"/>、廣田は強盗の犯意は認めたものの、殺意に関しては否認し、殺意の存在を裏付ける証拠もなかったため、[[強盗罪|強盗]]未遂罪での立件となった<ref name="京都新聞1978-08-17"/>。 |
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当時は[[田岡一雄]]([[山口組]]組長)が銃撃される事件が発生したばかりで、暴力団の[[抗争事件|対立抗争]]が激化し、拳銃などの武器摘発に全国の警察が躍起になっている中で発生した事件であり、京都府警に衝撃が走った<ref name="京都新聞1978-07-21社会">『京都新聞』1978年7月21日朝刊第16版第一社会面23頁「西陣署 けん銃盗難事件 ズサンだった管理 「取り扱い規定」は無視同然 カギの保管も無防備 「まさか…」の油断がアダ」「一刻も早く探せ 悲痛な府警幹部」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1978年(昭和53年)7月号685頁。</ref>。また、同年1月には[[制服警官女子大生殺人事件]]が発生しており、警察官の規律が大問題となっていた{{Efn2|1978年に懲戒処分を受けた警察官の人数は272人(うち、免職者数は26人)で、どちらの人数も1979年(昭和54年) - 1983年(昭和58年)の人数を大きく上回っていた{{Sfn|山中幸一郎|1985|p=31}}。}}直後に本事件が発生したことで<ref name="京都新聞1980-06-11">『京都新聞』1980年6月11日朝刊7頁「社説 府警の信頼回復 実で示せ」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1980年(昭和55年)6月号327頁。</ref>、社会に衝撃を与え<ref>{{Cite journal|和書|journal=[[週刊新潮]]|title=新聞閲覧室 元警官の獄中からの投稿|volume=23|editor=[[野平健一]](編集人・発行人)|date=1978-11-23|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3378048/64|issue=47|publisher=[[新潮社]]|DOI=10.11501/3378048|id={{NDLJP|3378048/64}}}} - 通巻:第1178号(1978年11月23日号)。</ref>、警察の威信は大きく失墜する形となった<ref name="京都新聞1980-06-11"/>。それまでの警察不祥事事件は多くが20歳代など、比較的年代の若い警官に集中していた一方、廣田によるこの事件は「安定した世代」と見られていた中堅級警察官による事件であったことも注目された<ref>『京都新聞』1978年7月25日朝刊5頁「社説 けん銃盗難事件の根を洗え」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1978年(昭和53年)7月号797頁。</ref>。 |
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一方、本事件をきっかけに京都府警における拳銃取り扱い規定が順守されていなかったことも問題視された<ref name="京都新聞1978-07-21社会"/>。一連の事件を受け、京都府警本部長の佃泰は8月18日付で引責辞任し、廣田の直属の上司だった西陣署長の小西昭が6か月間の減給処分(100分の10)と警備第一課長への左遷を受けるなど、合わせて11人が懲戒処分を受けた<ref name="京都新聞1978-08-17"/>。 |
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==== 懲役7年が確定 ==== |
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廣田は一連の犯行で、窃盗・銃刀法違反・火薬類取締法違反・強盗傷人・強盗未遂の罪に問われた{{Sfn|判例時報|1989|p=56}}。同年10月16日、京都地裁第3刑事部(吉田治正裁判長)で初公判が開かれたが、被告人の廣田は盗まれた拳銃を所持していたことこそ認めたものの、それ以外の犯行については「みんな警察の作り事だ。真犯人は別にいる」として、起訴事実を全面的に否認した<ref>『京都新聞』1978年10月16日夕刊第6版一面1頁「西陣署のけん銃事件 広田元巡査部長、初公判で公訴事実を全面否認 京都地裁 「真犯人、別にいる」」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1978年(昭和53年)10月号497頁。</ref>。そのため、18回にわたる公判では廣田の犯意・計画性・実行行為など、犯罪の事実認定をめぐる攻防が繰り広げられた<ref name="京都新聞1980-03-04"/>。また公判中、[[京都拘置所]]に勾留されていた廣田は、『[[人民新聞]]』に「公安の実態を暴く これが警察の内状だ」と題した投書を寄稿し、その中で冤罪を訴え、西陣署長の小西を名指しで非難するとともに、「出所した折りは、私は京都府警に対し「ふくしゅう」をしてやるつもりでいます。そうでなければ私は死んでも死にきれないのです。」など、京都府警への怨嗟を綴っていた<ref>『[[人民新聞]]』1978年11月5日付4頁「公安の実態を暴く これが警察の内状だ 京拘 広田雅晴」(株式会社人民新聞)</ref>。同紙に投書を寄せたきっかけは、拘置所時代に[[連合赤軍]]の[[加藤倫教]]と知り合ったことだが{{Sfn|週刊アサヒ芸能|1984|p=25}}、[[公安警察|公安]]関係者や、同事件で弁護人を務めた堀和幸(後に115号事件でも弁護人を担当)は、「廣田は思想的に新左翼に傾倒していたわけではなく、反権力・反警察という点で新左翼と利害が一致したにすぎない」と考察している{{Sfn|週刊アサヒ芸能|1984|p=25}}{{Sfn|週刊現代|1984|p=35}}。 |
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1980年(昭和55年)3月3日の公判で、廣田は検察官から懲役8年を[[求刑]]された<ref name="京都新聞1980-03-04">『京都新聞』1980年3月4日朝刊第16版第一社会面23頁「西陣署のけん銃盗難事件 広田に8年求刑」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1980年(昭和55年)3月号127頁。</ref>。一方、廣田の弁護人を務めた堀は同年3月24日の最終弁論で、「廣田の自白以外に確たる証拠はなく、その自白も信用性が低い」として無罪を主張、廣田本人も最終意見陳述で「警察側<!--原文ママ-->の証人は、裁判所の判断を誤らせようと、故意に真実を隠したりして全く卑怯だ。検察官の求刑には“ノシ”を付けて返したい」などと陳述した<ref>『京都新聞』1980年3月25日朝刊第16版第二社会面18頁「5月27日広田に判決 西陣署けん銃盗」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1980年(昭和55年)3月号812頁。</ref>。 |
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京都地裁第3刑事部(吉田治正裁判長)は同年6月10日、廣田に[[懲役]]5年(刑期に[[未決勾留]]日数650日を算入)の[[実刑]]判決を言い渡した<ref name="京都新聞1980-06-10">『京都新聞』1980年6月10日夕刊第6版一面1頁「短銃強盗警官 広田に懲役5年 京地裁判決 “信頼”裏切り悪質」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1980年(昭和55年)6月号309頁。</ref>。同地裁は、捜査段階における廣田の自供が、各種状況証拠と一致することや、廣田が信頼していた上司から説得を受けて自白に至ったという経緯などから、自白の任意性・信用性を認定した上で、拳銃も部外者が盗み出すことは不可能な状態だったことも併せ、「内部の者による極めて短時間の犯行」として、一連の事件を廣田の犯行と[[事実認定|認定]]した<ref name="京都新聞1980-06-10"/>。その上で[[量刑]]理由では、犯行動機となった巨額の借金は廣田自身が招いた事態である点や、市民を犯罪から守るべき立場の現職警察官による悪質な犯行であり、刑事責任が重大である点を指摘した一方、犯行が「無計画・衝動的」なものであり{{Efn2|京都地裁 (1980) は、拳銃窃盗が廣田の思惑とは異なり、警察の内部処理では済まず、予想外の社会的大騒ぎになったことや、郵便局強盗事件では被害者に騒がれ、簡単に諦めるなどした点から「衝動的な犯行」と認定した<ref name="京都新聞1980-06-10"/>。}}、社会的制裁を受けている点などを考慮した<ref name="京都新聞1980-06-10"/>。同月21日、[[京都地方検察庁|京都地検]]は量刑不当を理由に[[控訴]]した<ref>『京都新聞』1980年6月22日朝刊第16版第二社会面22頁「強盗の広田を「控訴」手続き 京都地検「量刑不当」と」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1980年(昭和55年)6月号730頁。</ref>。一方、無罪を主張していた廣田は控訴せず、弁護人を担当した堀に対し「もう裁判はあきらめます。早く服役し、出所して警察の腐敗ぶりを告発したい」と発言していた{{Sfn|週刊読売|1984|p=23}}。その後、廣田は控訴審の公判には出廷しなかった<ref name="京都新聞1984-09-05夕刊社会"/>。 |
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[[大阪高等裁判所]]第4刑事部(吉川寛吾裁判長)は1981年(昭和56年)2月19日<ref name="朝日新聞1981-02-20"/>、「派出所主任という地位にある現職警察官が犯した重大かつ悪質な犯罪」<ref name="京都新聞1981-02-20"/>「言語道断の犯行で、市民に与えた不安は大きい。反省もしておらず、一審の量刑は軽すぎる」として<ref name="朝日新聞1981-02-20">『朝日新聞』1981年2月20日大阪朝刊第13版第二社会面22頁「京都の強盗元警官 「一審軽すぎた」 懲役七年判決」([[朝日新聞大阪本社]])</ref>、原判決を破棄[[自判]]し、廣田に懲役7年の実刑判決を言い渡した<ref name="京都新聞1981-02-20">『京都新聞』1981年2月20日朝刊第16版第一社会面23頁「元警官の広田に懲役7年 大阪高裁判決 「一審の刑軽すぎる」 短銃強盗、重大かつ悪質」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1981年(昭和56年)2月号625頁。</ref>。廣田は[[上告]]を勧める弁護人に対し、「検察も裁判所も信用できない。服役して出所後のことを考える」と答え<ref>{{Cite journal|和書|journal=週刊新潮|title=事件 『府警憎し』で連続殺人 ―“京都のワル警官”六年目の復讐―|volume=29|page=26|date=1984-09-20|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3378346/14|issue=38|publisher=新潮社|DOI=10.11501/3378346|id={{NDLJP|3378346/14}}}} - 通巻:第1476号(1984年9月20日号)。</ref>、上告することなく同判決が[[確定判決|確定]]した<ref name="朝日新聞1984-09-05夕刊">『朝日新聞』1984年9月5日東京夕刊第一総合面1頁「連続短銃殺人は元警官、飲料缶の指紋一致 6年前にも短銃強盗」(朝日新聞東京本社)</ref>。 |
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=== 服役生活 === |
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廣田は同年3月26日から1984年8月29日まで、4年5か月24日間([[未決勾留]]日数を除く)にわたり、[[加古川刑務所]]に服役した<ref name="読売新聞1984-09-06二社"/>。満期は1985年(昭和60年)8月29日で、府警が加古川刑務所に確認したところ、1983年(昭和58年)5月26日に「満期まで仮釈放はない」という公式な返答を得ていた一方、裏ルートで調べたところ、「出所近し」の情報も入手していた<ref name="仮釈放への無念">『京都新聞』1984年9月7日夕刊第7版第一社会面11頁「追跡 連続強盗殺人事件 仮釈放への無念 「出所後きっと何か…」」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1984年(昭和59年)9月号241頁。</ref>。廣田は[[仮釈放|仮出獄]]許可決定を受け、1984年8月30日に出所していた{{Sfn|判例時報|1989|p=56}}。服役中、廣田はボイラーマンの2種免許(乙種)や危険物取扱主任(乙種)の資格を取得し、簿記・そろばんに励むなど、成績は「良好」とされていた<ref name="読売新聞1984-09-06二社"/>。仮釈放が認められた理由は、「引受人として成東町に家族がいる」「委員会での面接調査で改悛の情、更生の意欲が確認できた」の2点で、廣田が公判中に『人民新聞』に警察への復讐の念を書き綴った文章を投稿したり、刑務所内で待遇改善を求める闘争を続けていた事実は、刑務所側から近畿地方更生保護委員会には報告されていなかった<ref name="読売新聞1984-09-06二社">『読売新聞』1984年9月6日東京朝刊第14版第二社会面22頁「仮釈放、5日後の犯行 服役良好の“仮面” 更生誓ったばかり 調査に不備 法務省衝撃」(読売新聞東京本社) - 『読売新聞』縮刷版 1984年(昭和59年)9月号234頁。</ref>。一方、廣田は同房者に対し、「西陣署に仕返ししてやる」と漏らしていた<ref name="京都新聞1984-09-05夕刊社会"/>。捜査関係者は、廣田が真面目に服役していた理由について「早く出所して早く(京都府警に)復讐しようという計算のためではないか」という推論を述べている{{Sfn|穴吹史士|1984|p=22}}。 |
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== 犯行の準備 == |
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加古川刑務所を出所した廣田は、家族とともに[[滋賀県]][[大津市]]内のホテルで一泊し、翌日(8月31日)に[[日本国有鉄道]](国鉄)の[[京都駅]]で、妻から仮出獄前に用意させていた現金20万円を受け取り、実母とともに[[東海道新幹線|新幹線]]で[[東京]]に向かった{{Sfn|判例時報|1989|p=56}}。同日午後、千葉保護観察所に出頭した廣田は、担当の保護観察官と面接したが、仮釈放中の注意事項を話された際には素直に聞いており<ref name="出頭勧めた保護司"/>、今後の生活方針については「就職先が決まるまで、しばらく母親の農業を手伝いたい」<ref name="朝日新聞1984-09-05夕刊"/>「実家{{Efn2|name="実家"}}で農業の手伝いをしながら仕事を見つけ、京都市に住む妻子を呼びたい」などと話していた<ref name="出頭勧めた保護司"/>。同日16時ごろ、廣田は帰住先である実母宅{{Sfn|判例時報|1989|p=56}}(成東町)に赴いた<ref name="読売新聞1984-09-06">『読売新聞』1984年9月6日東京朝刊第14版朝刊一面1頁「連続殺人「広田」を逮捕 28時間ぶり 成東(千葉)の実家前 短銃は所持せず 犯行否認のまま護送」(読売新聞東京本社) - 『読売新聞』縮刷版 1984年(昭和59年)9月号213頁。</ref>。同日夜、成東町の[[保護司]]が廣田の実家を訪れた際、廣田は久しぶりに再会した母親と歓談していた<ref name="出頭勧めた保護司"/>。 |
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同年9月2日夜、廣田は母に対し、「明日東京へ仕事を探しに行く」と言い、3日4時40分過ぎごろに家を出て、5時18分発の[[成東駅]](総武本線)の始発電車に乗って[[千葉駅]]へ向かった{{Sfn|判例時報|1989|p=56}}。しかし本当の行き先は東京ではなく京都で、[[東京駅]]から新幹線に乗り、10時前後に京都駅に到着した{{Sfn|判例時報|1989|p=56}}。当時、廣田は強盗でまとまった金を得ようと考えていたため、そのための凶器として、京都市[[上京区]]の[[千本通]]沿いで買い物をした{{Sfn|判例時報|1989|p=56}}。10時30分ごろ、廣田は(後に京都事件で凶器として用いた)ステンレス製の包丁{{Efn2|name="包丁"}}1本を千本通沿いの金物店で、[[クロスボウ|ボウガン]](全長約79 [[センチメートル|cm]])1丁{{Efn2|廣田が購入したボウガン(ボウガン・モデル1300)は、最大有効射程距離25 mで、近距離なら瞬発力が強く、フライパンを貫通する威力があった<ref name="京都新聞1984-10-13"/>。}}とその矢(長さ約36 cm)6本・射撃用革手袋一双・サングラス1個を、それぞれ金物店近くの銃砲火薬店で購入し、観光者用の手提げ袋に入れている{{Sfn|判例時報|1989|p=56}}。代金は合計8万円で{{Sfn|判例時報|1989|p=74}}、うちボウガンと矢6本が5万5,000円だった<ref name="京都新聞1984-10-13"/>。この銃砲火薬店の店員によれば、この時に廣田が所持していた手提げ袋は、「旅行者が持つようなベージュっぽい色の編み込んだようなビニールでできた袋」(縦約70 cm×横約50 - 60 cm)で、[[鹿苑寺|金閣寺]]か[[慈照寺|銀閣寺]]のような寺と[[五重塔]]のような図柄が黒で描かれ、ローマ字で「KYOTO」と書かれていた{{Sfn|判例時報|1989|p=70}}。その後、ボウガンが長くて目立つため、銃床部分と先台部分を切り離そうと考え、前述の金物店で折りたたみ式のこぎり1本を追加で購入したほか、11時30分過ぎごろには銃砲火薬店でボウガンの撃ち方などの説明を受けた後、偽名を用いてボウガンなどの入った手提げ袋を預け、18時ごろ以降に受け取りに戻った{{Sfn|判例時報|1989|p=56}}。その後、ボウガン本体をのこぎりで銃床部分と先台部分とに切り離したが、結局は凶器として使うことは断念し{{Efn2|冒頭陳述で、検察官は廣田がボウガンを凶器として用いることを断念した理由について「試射がうまく行かなかったため」と述べている<ref name="京都新聞1984-12-24"/>。}}、それぞれ別々の場所に捨てた{{Sfn|判例時報|1989|p=56}}。 |
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その後、廣田は拳銃を奪うため、以下のように「放置バイクがある」と虚偽の申告をして警察官をおびき出そうとしたが、いずれも失敗に終わった{{Sfn|判例時報|1989|p=56}}。 |
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# [[亀山公園 (京都市)|亀山公園]](京都市[[右京区]])付近に行き、18時50分ごろ、近くの公衆電話から太秦警察署(現:[[右京警察署]])へ電話をかけ、嵐山派出所へつないでもらうと、応対した派出所の警察官に「亀山公園に放置バイクがある。昨日から言っているのに何で見に来んのや。中央広場の看板がある所や。俺が見てたるさかい来いよ」などと言った{{Sfn|判例時報|1989|p=56}}。そして、同公園南側入口付近で警察官を待ち伏せたが、出会うことはできず{{Efn2|廣田からの電話に応対した巡査部長は、同僚の巡査と2人で亀山公園まで出向いたが、バイクを見つけることは出来ず、派出所へ戻った<ref>『京都新聞』1984年9月10日朝刊第17版第一社会面23頁「前日も派出所狙う 広田 嵐山で同一手口 偽電話で誘い出し 2人パトで断念」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1984年(昭和59年)9月号329頁。</ref>。}}、19時50分ごろ、公園東方の[[渡月橋]]北詰からタクシーに乗車し、千本北大路交差点付近(京都市[[北区 (京都市)|北区]]:{{ウィキ座標|35|02|27.1|N|135|44|18.9|E||座標}})で下車した{{Sfn|判例時報|1989|p=56}}。 |
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# 20時30分ごろ、千本北大路交差点付近にある北区衣笠北荒見町15番地の紙屋児童公園({{ウィキ座標|35.039068|||N|135.735926|||E||座標}})付近にあった公衆電話から、西陣署に電話して十二坊派出所につないでもらい、応対した警察官に対し「児童公園の前の大槻だが、公園の前に長い間バイクが放置してある。前から言ってある。早く来てほしい」などと言い、公園で警察官を待ち伏せた{{Sfn|判例時報|1989|pp=56-57}}。しかし、21時ごろに警察官が公園に赴く前に廣田はその場を離れてしまった{{Sfn|判例時報|1989|p=57}}。 |
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このため、いったんは警察官をおびき出すことを諦めたが、下殿田派出所に勤務していた1967年(昭和42年) - 1968年(昭和43年)ごろ、職務上何度も出入りしていた南区内の質屋の経営者が老夫婦だったことを知っていたことから、その夫婦を包丁で脅すなどして金品を奪おうと決意し、警察官を装って同店に電話を掛けた{{Sfn|判例時報|1989|p=57}}。そして、22時 - 22時20分ごろにかけ、「職務質問を受けている男が持っている腕時計などをそちらの店で買ったと言っているので、確認のために派出所まで来てほしい」などと嘘を言い、夫婦を店外に出てこさせようとしたが、相手が容易に応じようとしなかったため、失敗した{{Sfn|判例時報|1989|p=57}}。廣田は23時30分ごろ、[[京都駅#八条口|京都駅八条口]]近くのラーメン店でラーメンを食べ、翌4日1時40分<ref name="京都新聞1984-09-11夕刊"/>、京都駅八条口からタクシーに乗車したが、この時には先端30 - 40 cmを新聞紙で覆った細長い棒状のもの(長さ約1.4 [[メートル|m]]×直径約2.5 cm)を持っていた<ref name="京都新聞1984-09-11">『京都新聞』1984年9月11日朝刊第17版第一社会面19頁「サウナ宿泊の広田 持っていた棒は凶器? 殺傷状況に一致 眠らず犯行計画練る」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1984年(昭和59年)9月363頁。</ref>。廣田は1時50分<ref name="京都新聞1984-09-11夕刊"/>、「京都スポーツサウナ」([[東山区]][[三条大橋]]東方){{Sfn|判例時報|1989|p=57}}に入店し<ref name="京都新聞1984-09-11夕刊"/>、同店で宿泊した{{Sfn|判例時報|1989|p=57}}。滞在中、廣田はロッカールームで服を着替えたり、店内でラーメンを食べたりしてから仮眠室に入ったが、従業員によれば寝入ることはなく、じっと考え込んでいる様子だった<ref name="京都新聞1984-09-11"/>。廣田は7時40分にサウナを退店したが、その際には下着としてランニングシャツを着用し{{Sfn|判例時報|1989|p=66}}、先述の棒状のものを持っており、タクシーに乗車して現場に向かっている<ref name="京都新聞1984-09-11夕刊"/>。その後、廣田は京都事件の約3時間前(10時ごろ)に[[今出川通]]千本東入ルの「[[ジャスコ]]」に立ち寄り、衣類やバッグなどを品定めしたが、この時点では先述の棒は持っていなかった<ref name="京都新聞1984-09-16"/>。 |
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== 京都事件 == |
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{{Maplink2|frame=yes|type=point|zoom=12|frame-width=400|frame-height=267|coord={{coord|35|02|19.2|N|135|44|30.9|E}}|text={{ウィキ座標|35|02|19.2|N|135|44|30.9|E|region:JP-26|name=京都事件の現場|京都事件現場周辺の地図}}:京都府京都市北区[[京都市北区の町名#旧大宮村・野口村|紫野北舟岡町]]42番地{{Sfn|判例時報|1989|p=57}}([[船岡山]]の山頂南側遊歩道)<ref name="読売新聞1984-09-05"/>|marker-color=FF0000}} |
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廣田は以上のように、警察官から拳銃を奪う計画や、質屋を標的とした強盗がいずれも失敗に終わったことから、警察官を殺害して拳銃を奪い、その拳銃で強盗をしてまとまった金を得ようと決意{{Sfn|判例時報|1989|p=57}}。9月4日12時40分ごろ、船岡山公園(京都市北区[[京都市北区の町名#旧大宮村・野口村|紫野北舟岡町]]42番地)正門付近の公衆電話から、かつて勤務していた十二坊派出所に電話し、それに応対した男性巡査A(当時30歳)を騙して公園内におびき出した{{Sfn|判例時報|1989|p=57}}。通常、十二坊派出所は2人勤務だったが、同日は相勤者の巡査長が巡査部長昇任試験を受験するため、警察学校に出掛けており、Aが1人で勤務していた<ref name="京都新聞1984-09-05"/>。Aは電話を受けた当時(12時42分ごろ)、昼の休憩時間中だったが{{Efn2|西陣署では、通常の派出所勤務では正午から13時まで休憩時間となっており、この時間帯にパトロールに出掛けることはほとんどなかった<ref name="朝日新聞1984-09-05">『朝日新聞』1984年9月5日東京朝刊第一総合面1頁「強奪短銃で連続殺人 サラ金店員射殺、73万円奪う 京都の警官も死亡」(朝日新聞東京本社)</ref>。通常の巡回連絡の場合は、連絡簿などの書類を携帯して出掛けることが普通だったが、Aは事件当時、それらの書類を派出所に残していた<ref name="京都新聞1984-09-05"/>。}}、携行の署活系携帯無線機で西陣署指令室係員に対し、これから警らに向かう旨を送信し、派出所前からバイクに乗って千本通を北上し、船岡山公園に向かった{{Sfn|判例時報|1989|p=58}}。事件現場となった船岡山公園の山頂広場南側斜面は、十二坊派出所から北東に直線で約250 mの距離に位置し、同派出所からのオートバイによる所要時間は約2分30秒だった{{Sfn|判例時報|1989|p=58}}。 |
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12時50分ごろ、廣田は公園内山頂広場南側斜面で、騙されて1人でやってきたAをステンレス製包丁(刃体の長さ約16.9 [[センチメートル|cm]])で襲い、右太腿内側や右肩内側など、多数箇所を突き刺し、右大腿動静脈切断などの傷害を負わせた{{Sfn|判例時報|1989|p=57}}。そして、Aの右肩にかけられていた拳銃の吊り紐を切断し<ref name="読売新聞1984-09-05"/>、Aが持っていた[[ニューナンブM60|警察用ニューナンブ回転弾倉式拳銃]]{{Sfn|判例時報|1989|p=57}}(実包5発装填:38口径、銃番号632606<ref name="読売新聞1984-09-05"/>)1丁を奪うと、うつ伏せに倒れていたAの左背部に1発銃弾を撃ち込んだ{{Sfn|判例時報|1989|p=57}}。Aは指令室係員に対し、無線機のプレストークボタンを押さえたままの状態で、「115から西陣」との送信を2、3回繰り返し、うめき声とともに「助けてくれ」と送信したが、無線機の緊急発進ボタンを押したと見られる緊急信号を最後に、送信は途絶えた{{Sfn|判例時報|1989|p=58}}。 |
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発信地が不明だったため、西陣署は全署員を動員してAを捜索<ref name="読売新聞1984-09-05"/>。Aは13時6分ごろ、全身を鋭利な刃物で刺されてうつ伏せに倒れているところを発見され、病院に搬送されたが、13時46分、搬送先で死亡が確認された(死因:失血死){{Sfn|判例時報|1989|p=58}}。京都府警は同日、[[殉職]]した被害者Aを警部補に2階級特進させ<ref name="京都新聞1984-09-05"/>、同月7日に行われたAの告別式では、霊前に「多大な功労があった」として府警本部長の賞詞を贈っている<ref>『京都新聞』1984年9月8日朝刊第17版第一社会面23頁「連続強盗殺人事件 犯行前日、京都へ 広田、周到な準備 タクシー「乗せた」 宿泊先など足取り追う」「検事事情聴取にも完全黙秘」「犯行後の広田 次々着替え逃走 その夜、新幹線で上京か」「涙ながら逮捕を報告 山形 A巡査の告別式」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1984年(昭和59年)9月号265頁。</ref>。なお、現場では相当な格闘があったと思われているが、毛髪など(犯人につながる)有力な遺留物は採取されなかった<ref name="乏しい物証"/>。 |
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=== 不審な男の目撃情報 === |
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==== 事件前 ==== |
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発生直前の12時には、十二坊派出所近くに住んでいた男性(1978年の事件以前から廣田の顔を知っており、同事件の際に名前を知った)が、自宅近くで廣田を目撃していたが、彼は事件を知り、同日夜に父親に対し「今日昼に廣田を見た」と話していた{{Sfn|判例時報|1989|p=76}}。また12時30分ごろには、船岡山公園正門(公園北西側)のすぐ西側に住んでいた女性が、自宅近くの公衆電話で廣田に似た不審な男(白い棒状のものを持っていた)を目撃し、それからしばらくして公園正門付近にパトカーや救急車が着て騒がしくなった旨を公判で証言しているが、彼女は同日中に警察官から事情聴取を受けた際に4人の写真を見せられ、その中から廣田の写真を選んでいる{{Sfn|判例時報|1989|pp=76-77}}。 |
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==== 事件後 ==== |
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{{OSM Location map |
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| mark-title1 = 事件現場(船岡山) |
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| mark-title2 = タクシーに乗車する直前の廣田が目撃された地点(上京区大宮通り寺之内上ル) |
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| mark-title3 = 千本中立売交差点 |
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}} |
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12時57分ごろから13時ごろにかけ、船岡山の南部で不審な男が南東方向へ向かって歩いていく姿を男女2人が目撃しており、次いで13時5分から15分ごろにかけても、同所から南東方向にある[[大宮通]]周辺で、男性5人が先述の男と似た人物を目撃している{{Sfn|判例時報|1989|p=63}}。彼らの目撃証言を総合すれば、その男は身長160 cm前後、顔は色黒で、頭髪は短く、白い半袖シャツないしランニングシャツを着用しており、片肘ないし両肘に血が付着していた{{Sfn|判例時報|1989|p=63}}。年齢については、「40歳前後」「40から45歳」「35、36歳」「40歳より上」などの証言があった{{Sfn|判例時報|1989|p=63}}。 |
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また13時15分ごろ、上京区大宮通寺之内上ルの喫茶店「カトレア」付近で、45歳くらいの男(白の半袖開襟シャツ)1人がタクシーに乗車し、[[西陣京極|千本中立売]]交差点({{ウィキ座標|35.025022|||N|135.742456|||E||座標}}、現場付近から約2 [[キロメートル|km]]南<ref name="読売新聞1984-09-05夕刊"/>)の東側で下車して東に歩いていった{{Sfn|判例時報|1989|pp=63-64}}。タクシー運転手の証言によれば、この男は45歳程度で背はあまり高くなく、色黒で頭髪は短く、白い半袖開襟シャツを着用していたが、乗車時から下車時まで両腕を前で組み、それを隠すようにベージュ色の麻袋のようなものを持っていた{{Sfn|判例時報|1989|p=64}}。彼が下りた後、運転手が後部座席を確認したところ、座席カバー左側の端に赤黒いもの(前の客を乗せた際にはなかった)が付着していた{{Sfn|判例時報|1989|p=64}}。このタクシー運転手は13時50分、「シャツに血のついた男を乗せ、千本通中立売で降ろした」と110番通報している<ref name="ドキュメント">『読売新聞』1984年9月5日東京朝刊第14版第一社会面23頁「ドキュメント カキ氷食べて下見」(読売新聞東京本社) - 『読売新聞』縮刷版 1984年(昭和59年)9月号87頁。</ref>。 |
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13時30分ごろ、千本中立売交差点東側路上で、左腕の肘から手首にかけて拭ったように血を付けた男(身長165 - 166 cm)が[[中立売通]]を南から北に横断し、「[[千中劇場|千中ミュージック]]」や「[[西陣大映]]」のある方向に歩いている姿を、先述とは別のタクシー運転手{{Efn2|廣田と思しき男を目撃したタクシー運転手2人はいずれも、無線基地からの指示に基づいて目撃後、直ちに基地に通報した上、警察署に出頭している{{Sfn|判例時報|1989|p=64}}。}}が目撃している{{Sfn|判例時報|1989|p=64}}。そして同時刻ごろ、西陣大映に不審な男(35 - 40歳程度、身長160 - 165 cm、短髪、色黒、白のランニングシャツ姿、左肘や顔面に血が付着していた)が入場し、約5分後に出ていった{{Sfn|判例時報|1989|p=64}}。この男は場内に入った際、肘のあたりに血がついていることや、ズボンに土による汚れがついていることを従業員に目撃されており、しばらくして場内からロビーに出てきて、自動販売機で清涼飲料水「[[リアルゴールド]]」を購入して飲み、その空き瓶を館内に残していた{{Sfn|判例時報|1989|p=65}}。男が館外に出た直後、この従業員は同館に駆けつけた警察官に対し、血を付けた男が入館して「リアルゴールド」を飲み、短時間で出ていったことを説明し、すぐに警察官が水滴のついた空き瓶(廣田の[[指紋]]が付着していた)を発見している{{Sfn|判例時報|1989|p=65}}。 |
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以上の目撃証言すべての共通点として、両肘もしくはどちらかの肘に血を付着させていたことが認められるほか、年齢・身長・体格・頭髪の状態・容貌(色黒で丸顔)などの点もよく合致していた{{Sfn|判例時報|1989|p=64}}。また、すべての証人が一致して証言したことではないが、「ズボンの後ろ側に土(砂)によると思われる汚れを付着させていた」「ベージュ色用の紙袋を持っていた」「両腕を前で組み、これを紙袋用のもので隠すようにしていた」「顔面に細かい血痕様のものを付着させていた」など、それぞれ複数人の証言が一致する点も見られた{{Sfn|判例時報|1989|p=64}}。そして、着衣についても上は白いランニングシャツか半袖シャツ、下は濃紺か黒っぽいズボンということで一致しており、各目撃時刻が接着してほぼ連続していたこと、目撃された不審な男が歩いた方向やタクシーに乗って向かった方向もそれぞれ連続していたことなどから、一連の目撃された男は同一人物で、船岡山東南部の南側から「西陣大映」まで移動したことが認められた{{Sfn|判例時報|1989|pp=64-65}}。 |
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そして、タクシーから発見された血痕の[[血液型]]は[[ABO式血液型|A型]]でMN型の人血(被害者Aと同一型)であることや、「リアルゴールド」の空き瓶に廣田の指紋が付着していたことなどから、一連の目撃された人物は廣田と結論づけられている{{Sfn|判例時報|1989|p=66}}。なお、14時過ぎには[[新京極通|新京極]](京都市[[中京区]])の喫茶店に廣田らしい男(浅黒い顔で赤系統のポロシャツを着ていた)が来店し、約20分間滞在してオレンジジュースを飲んでいた<ref name="京都新聞1984-09-10">『京都新聞』1984年9月10日朝刊第17版第二社会面22頁「広田 犯行後 新京極に 喫茶店に立ち寄る」「前夜、南区で目撃」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1988年(昭和63年)9月号328頁。</ref>。廣田はAから奪った拳銃で金融業者に強盗に入ろうと考え、[[京阪電気鉄道|京阪電車]]で京都から大阪に移動したが{{Sfn|判例時報|1989|p=57}}、仮にこの男が廣田であると仮定した場合、彼は新京極に近い[[三条駅 (京都府)|三条駅]]か[[祇園四条駅|四条駅]]から[[京阪本線]]を利用したものと見られる<ref name="京都新聞1984-09-10"/>。 |
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== 大阪事件 == |
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{{Maplink2|frame=yes|type=point|zoom=12|frame-width=400|frame-height=267|coord={{coord|34|41|47.9|N|135|31|50.7|E}}|text={{ウィキ座標|34|41|47.9|N|135|31|50.7|E|region:JP-27|name=大阪事件の現場|大阪事件現場周辺の地図}}:大阪府大阪市都島区[[東野田町]]二丁目2番20号<ref name="京都新聞1984-09-06"/><ref name="読売新聞1984-09-05"/>|marker-color=5E74F3}} |
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[[File:Nagai Building, Osaka City.jpg|thumb|大阪事件の現場となった永井ビル(2022年5月撮影)]] |
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大阪事件発生の約30分足らず前{{Efn2|「あんどれー」の従業員である女性は、廣田が来店した時間について「15時10分ごろ以降」と証言している{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=253}}。}}、廣田は[[京橋駅 (大阪府)|京橋駅]]([[京阪本線]])北側の飲食店{{Sfn|判例時報|1989|p=68}}「あんどれー」京橋店{{Efn2|同店は、大阪事件現場の「永井ビル」から約56 mほどしか離れていなかった{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=253}}。主に若い女性向けの店で、廣田のような中年男性が来客することはほとんどなかった{{Sfn|判例時報|1989|p=68}}。}}に入店し、約5 - 10分ほど滞在した{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=253}}。廣田は同店でレモン味のかき氷を食べ、コカコーラの紙コップで水を飲んだが、その際にかき氷のカップに右手親指の指紋を遺している{{Sfn|判例時報|1989|p=68}}。なお、廣田は京都事件では白い半袖シャツを着用していた一方、大阪事件の犯行時には赤いシャツを着用していたが、購入時期や着替えた時期は特定されていない{{Sfn|判例時報|1989|p=79}}。 |
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16時ごろ{{Sfn|判例時報|1989|p=57}}、廣田は大阪府大阪市都島区東野田町二丁目2番20号の「永井ビル」2階に入居していた消費者金融店「ローンズタカラ京橋店」に押し入った<ref name="読売新聞1984-09-05"/>。「永井ビル」は、京阪京橋駅の北西側に位置し、東西に通ずる道路北側に面した南向きの6階建て賃貸ビルで{{Sfn|判例時報|1989|p=59}}、2階に事件現場となった「ローンズタカラ京橋店」が<ref name="読売新聞1984-09-05"/>、4階には別の消費者金融店「甲」が入居していた{{Sfn|判例時報|1989|p=59}}。また、同ビル前の道路の向かい側(約15 m離れた位置)には[[都島警察署]]京橋派出所があったが{{Sfn|判例時報|1989|p=59}}、事件後の[[実況見分]]により、同派出所は「ローンズタカラ京橋店」内の犯人が立っていた位置から、南側の窓を通して見える場所にあったことが判明している{{Sfn|判例時報|1989|p=77}}。 |
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犯行直前の16時前ごろ、「甲」(当時、店長と従業員2人の3人が勤務していた)の北側にある入口に、赤いかぶりの半袖シャツ(胸にボタンが3、4個ある)を着用し、金縁の薄い黒のレンズのサングラスを掛け、黒い手袋をし、ベージュの手提げ袋を持った男が訪れていた{{Sfn|判例時報|1989|p=69}}。店員らの証言によれば、その男が持っていた手提げ袋は、ベージュ色で光沢があり、編んだ感じの材質で、上の方にローマ字で「KYOTO」と書かれ、中央部には金閣寺の墨絵が描かれており、下の方には崩した字で「金閣寺」と書かれていた{{Sfn|判例時報|1989|p=69}}。その男は最初、「甲」のドアを顔が入る程度に開け、店内を左右に覗いてすぐに閉め、しばらく入口外の踊り場付近にいたが、今度はドアを前より大きく開け、店内西側にいた男性従業員と話をしてから退店し{{Efn2|この男は借金を申し出たが、身分証明書の提示を求められ、立ち去った<ref name="京都新聞1984-09-05"/>。}}、階段を降りていった{{Sfn|判例時報|1989|p=69}}。「バーン」という銃声が聞こえたのは、その直後である{{Sfn|判例時報|1989|p=69}}。 |
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廣田が「ローンズタカラ」に入店した当時、店にはBと、女性従業員C(当時26歳)の2人がいた<ref name="読売新聞1984-09-05"/>。当時、同店の店長は集金のため外出中だった<ref name="京都新聞1984-09-05"/>。Cの証言によれば、当時、店に押し入った男は35 - 40歳程度で、身長は160 - 165 cm、小太り、スポーツ刈りで顔は色黒といった風貌であり、赤いかぶりの袖付き半袖ポロシャツ(胸にボタンが3個ほどついていた)を着用し、薄い黒のレンズのサングラスを掛け、右手には黒い手袋をはめていた{{Sfn|判例時報|1989|p=71}}。Cは後の公判で、法廷で廣田の姿を見て「よく似ている。顔の輪郭、顎、目の感じが一緒」と証言している<ref name="京都新聞1988-07-11"/>。また、当時男が持っていた手提げ袋には、金閣寺の写真が印刷してあった<ref name="京都新聞1984-09-05"/>。廣田は店に入ると、カウンター内の自席で新聞を読んでいた従業員の男性B(当時23歳)の前にカウンター越しに立ち、右手に持った拳銃をBに突きつけ、「金を出せ」と脅した{{Sfn|判例時報|1989|p=57}}。しかし、Bは突然の事態を理解できず{{Sfn|判例時報|1989|p=80}}、「冗談でしょう」と繰り返し<ref>『読売新聞』1984年9月5日東京朝刊第14版第一社会面23頁「【大阪、京都】冷血、白昼の連続殺人 衝撃!!元警官犯人説 メッタ刺し、とどめ一発 「冗談でしょう」で発射 大阪のサラ金」(読売新聞東京本社) - 『読売新聞』縮刷版 1984年(昭和59年)9月号187頁。</ref>、要求に応じなかった{{Sfn|判例時報|1989|p=57}}。そのため、廣田はBを射殺して金員を奪おうと決意し、拳銃でBの右前胸部を1発撃ち抜き{{Sfn|判例時報|1989|p=57}}、Bを即死させた<ref name="京都新聞1984-09-05"/>。そして、そばにいたCを「金を出せ」と脅迫し、現金約60万円を奪った{{Sfn|判例時報|1989|p=57}}。16時2分ごろ、現場に居合わせて事件を目撃したCが110番通報し、駆けつけた警察官によって事件が認知された{{Sfn|判例時報|1989|p=59}}。 |
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=== 逃走 === |
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廣田は大阪事件発生後の16時45分ごろ、大阪市[[北区 (大阪市)|北区]][[曾根崎]]一丁目の[[ソープランド|特殊浴場]]を訪れ{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=253}}、2万円を費消したが{{Sfn|判例時報|1989|p=72}}、この時にはヘルスバスの蓋に左手掌紋を残していた{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=254}}。当時、廣田は黒みがかった赤い半袖シャツを着用し、「あんどれー」の店員らが目撃したものと似たような手提げ袋を所持していた{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=254}}。また、ベージュ色の麻でできたような大きい手提げ袋を所持しており{{Sfn|判例時報|1989|p=70}}、接客サービスをしたホステスにより、左足の指の近くにできたまめを自ら剥いでいるのを目撃されている{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=254}}。 |
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17時45分ごろ、廣田は曾根崎二丁目の[[ピンクサロン]]を{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=254}}、同日最初の客として訪れ、ホステス全員を指名し、その指名料として10万円を費消しているが{{Sfn|判例時報|1989|p=72}}、その際にも「臙脂色ないし赤っぽい色の半袖シャツ」を着用し、「あんどれー」で目撃された際と似たような手提げ袋を所持していた{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=254}}。また、同店ではホステスに、左足裏の指に近い部位の「まめ」の皮膚が剥がれたところへバンドエイドを貼ってもらっている{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=254}}。廣田は同店の従業員に頼み、カーキ色の合織製で、中央部に「LESTEMER」の文字が織り込まれている手提げバッグ(縦24 cm×横37 cm)や、白い半袖ポロシャツ、紺色スラックスなどを購入させると、同店のトイレで服を着替え、先に着替えた衣服をバッグに入れた<ref name="京都新聞1984-09-15">『京都新聞』1984年9月15日朝刊第17版一面1頁「京都・大阪連続強盗殺人 広田のバッグ?を発見 東京・江戸川べりで 短銃の行方に全力」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1984年(昭和59年)9月号487頁。</ref>。この時に用いた代金は5万円で、廣田はソープランドと合わせて計17万円余を費消したことになる{{Sfn|判例時報|1989|p=72}}。同店のホステスは、廣田が「千葉出身」「京都府警の元警察官」と名乗った上で、京都府警の悪口を言っていたことを証言している{{Sfn|週刊文春|1984|p=161}}。 |
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その後、廣田は国鉄[[大阪駅]]からタクシーに乗車した<ref name="京都新聞1984-09-15"/>。タクシーは[[名神高速道路]]を経由し、廣田は20時20分ごろに京都駅八条口で下車したが、廣田は運転手に対し「京都駅に置いた荷物を取りに来たんや」と話していた<ref name="京都新聞1984-09-11夕刊">『京都新聞』1984年9月11日夕刊第7版第一社会面9頁「「連続強盗殺人」から1週間 証拠の短銃どこにある 広田、固く口つぐむ 懸命の捜査陣 発見へ足取り追う」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1984年(昭和59年)9月号373頁。</ref>。廣田は京都駅から東京行きの新幹線に乗車し{{Efn2|捜査段階では最終列車1本前の「ひかり530号」(京都駅20時37分発、東京駅23時42分着)に乗車したと見られていたが<ref name="京都新聞1984-09-12夕刊"/>、検察官の冒頭陳述によれば、乗車した列車は20時29分発である<ref name="京都新聞 冒頭陳述"/>。}}<ref name="京都新聞 冒頭陳述"/>、23時40分前後に実家{{Efn2|name="実家"}}に「今、東京駅に着いた」と電話している<ref name="京都新聞1984-09-12夕刊">『京都新聞』1984年9月12日夕刊第7版第一社会面9頁「犯行後の廣田 20時37分(新幹線)に乗車 東京への足取り」「タクシー運転日報から判明」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1984年(昭和59年)9月号403頁。</ref>。 |
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検察官の[[公判#証拠調べ|冒頭陳述]]によれば、廣田は5日未明、タクシーで[[江戸川]]右岸に向かい、曾根崎二丁目のピンクサロンで従業員に買わせたボストンバッグを投棄した<ref name="京都新聞 冒頭陳述"/>。[[警視庁]]などの調べにより<ref name="京都新聞1984-09-15社会">『京都新聞』1984年9月15日朝刊第17版第一社会面27頁「広田バッグ発見 短銃探し、はずみ 捜査陣 さらに厳しく追及」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1984年(昭和59年)9月号513頁。</ref>、同日1時ごろと10時ごろの2回、廣田らしい男が江戸川河岸に現れていたことが判明している<ref name="京都新聞1984-09-14">『京都新聞』1984年9月14日朝刊第17版第一社会面27頁「江戸川捜索 短銃見つからず 広田の持ち物も」「広田の目撃者60人が面通し」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1984年(昭和59年)9月号469頁。</ref>。一連の目撃証言によれば、その男は1時ごろ、[[京葉道路]]の[[江戸川大橋]]東側(東京都[[江戸川区]])手前で個人タクシーを止めて乗車し、[[千葉市]]内で降車したが、車内では終始落ち着かない様子だった<ref name="京都新聞1984-09-14"/>。廣田はバッグを捨てた後、成東町の実家近くの裏山まで行ったが、警察の張り込みに気づき、タクシーを乗り継いで[[総武本線]]沿線を逃走した<ref name="京都新聞 冒頭陳述">『京都新聞』1984年12月24日夕刊第7版二面2頁「連続射殺 冒頭陳述」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1984年(昭和59年)9月号827頁。</ref>。廣田らしき男が再び江戸川大橋付近に現れたのは、その後のことである<ref name="京都新聞1984-09-15社会"/>。 |
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== 捜査 == |
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京都事件の被害者Aの拳銃が奪われていたことや、現場状況から、京都府警はAが拳銃強奪目的で殺されたと推測し、「警官殺害・短銃強奪事件[[捜査本部]]」を西陣署に設置、府内全域に[[緊急配備]]を行った<ref name="京都新聞1984-09-05">『京都新聞』1984年9月5日朝刊第17版一面1頁「警官を殺害、短銃強奪 直後、大阪で店員(サラ金)射殺 元警官に有力容疑 船岡山 背中に1発 止どめ」「大阪のサラ金強盗 京の事件と同一犯 第3の犯行厳戒」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1984年(昭和59年)9月号131頁。</ref>。一方、[[大阪府警察]]も大阪事件発生を受け、同事件を強盗殺人事件と断定して[[都島警察署]]に捜査本部を設置した<ref name="京都新聞1984-09-05"/>。 |
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事件翌日の9月5日1時40分、有力な[[被疑者]]として廣田が浮上した<ref name="ドキュメント2"/>。事件直後の現場周辺の目撃情報や、その目撃者が廣田の顔写真を見て「犯人とよく似ている」と証言したこと、そして犯人らしき男が立ち寄った映画館に遺された飲料水の瓶から廣田の指紋が採取されたこと([[#事件後|前述]])などが、その理由である<ref name="京都新聞1984-09-05"/>。また、大阪事件の被害者Bからも38口径の実弾が検出され<ref name="京都新聞1984-09-05"/>、2つの弾丸はそれぞれ[[ライフリング|線条痕]]が一致<ref name="ドキュメント2"/>。犯人の人相・着衣から、両事件は同一犯(京都事件でAから奪われた拳銃が大阪事件でも凶器として用いられた)と断定された<ref name="京都新聞1984-09-05"/>。 |
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6日には[[大韓民国|韓国]]の[[全斗煥]][[大統領 (大韓民国)|大統領]]が来日することになっていたため、京都府警は5日、2,000人(全警察官の3分の1)を警戒出動に動員させ、京都駅などの主要ターミナル駅で厳戒態勢を張ったほか、捜査本部は同日9時から船岡山公園一帯に機動隊員約100人らを動員し、凶器や遺留品などを捜索した<ref name="京都新聞1984-09-05夕刊"/>。また、警視庁や[[警察庁]]の警備当局も、獄中で過激派との結びつきを持ったとみられていた廣田の動向を強く懸念<ref name="読売新聞1984-09-05夕刊"/>、警視庁を始めとした首都圏の警察本部は厳戒態勢に入っていた{{Efn2|警視庁は5日2時、警備中の各方面本部長に「廣田警戒」を連絡している<ref name="朝日新聞1984-09-06ドキュメント"/>。}}<ref name="千葉日報1984-09-06">『[[千葉日報]]』1984年9月6日朝刊一面1頁「短銃連続殺人、広田を逮捕 29時間ぶりに 成東の実家に張り込み 凶器不明、犯行は否認 飲料缶の指紋決めて 第三の凶行阻止 身柄移送本格追及」「広域配備に問題残す “厳戒”の網抜け逃走」(千葉日報社)</ref>。特に、[[千葉県警察]]は管内に廣田の実家を抱えていたため、「廣田は県内に立ち回る可能性が高い」として<ref name="千葉日報1984-09-06"/>、警察官250人を非常招集し<ref name="読売新聞1984-09-06"/>、廣田の実家周辺や知人宅、主要幹線道路、国鉄、私鉄の駅などを中心に張り込みや検問体制を強化していた<ref name="千葉日報1984-09-06"/>。警察庁も事件の凶悪性や再犯性(当時、拳銃に実弾3発が残っていたと見られていた)を考慮し<ref name="千葉日報1984-09-06"/>、2時15分、一連の連続殺人を[[警察庁広域重要指定事件|広域重要]]115号事件に指定した<ref name="朝日新聞1984-09-06ドキュメント"/>。大阪府警は当時、[[グリコ・森永事件]](広域重要事件114号)の捜査に追われており、同時に2件の重要事件を抱えることとなった<ref name="京都新聞1984-09-05夕刊社会">『京都新聞』1984年9月5日夕刊第7版第一社会面13頁「短銃強奪射殺事件 凶行、また広田 服役中仕返し宣言 6年前事件逆恨み」「また揺らぐ信頼感 大阪府警も深刻」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1984年(昭和59年)9月号163頁。</ref>。同事件の犯人(かい人21面相)は、廣田が逮捕された後の9月25日、『[[朝日新聞]]』『[[毎日新聞]]』『[[読売新聞]]』『[[産経新聞|サンケイ新聞]]』の4紙に送った「挑戦状」で、「警官広田は かっこ ええやんか」などと綴っている{{Sfn|朝倉喬司|山崎哲|1985|p=166}}。 |
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当時、大阪府警特殊班の一員としてグリコ・森永事件の捜査に携わっていた岡田和磨は{{Sfn|NHKスペシャル|2012|p=224}}、現役時代に府警捜査一課が取り扱った事件の被疑者の似顔絵を手掛け、その数は「キツネ目の男」を含む数百枚におよんでいたが、彼がCの目撃証言をもとに描いた似顔絵は、描いた瞬間に警察内部で「あの廣田だ」という声が上がるほど再現度の高いものだった{{Sfn|NHKスペシャル|2012|pp=225-230}}。警察当局は2時30分、検問中の警察官らに対し、廣田の顔写真約10,000枚を配布している<ref name="朝日新聞1984-09-06ドキュメント"/>。 |
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=== 廣田逮捕 === |
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廣田は7時過ぎ{{Efn2|『読売新聞』 (1984) では「7時25分ごろ」となっている<ref name="読売新聞1984-09-05夕刊">『読売新聞』1984年9月5日東京夕刊第4版一面1頁「【京都、大阪】短銃強奪殺人 元警官・広田、都内潜伏か 実家(千葉)に電話、逆探 全大統領来日控え 過激派と関連も」(読売新聞東京本社) - 『読売新聞』縮刷版 1984年(昭和59年)9月号197頁。</ref>。}}、成東町の実家{{Efn2|name="実家"}}に「俺だ。元気にしているか」と電話をかけ<ref name="朝日新聞1984-09-06ドキュメント"/>、それ以降も数回にわたって電話した<ref name="朝日新聞1984-09-06">『朝日新聞』1984年9月6日東京朝刊第一総合面1頁「短銃強奪連続殺人、元警官・広田を千葉で逮捕 短銃持たず、犯行否認」(朝日新聞東京本社)</ref>。廣田が実家に電話した際、テレビで事件を知った廣田の長男が「お父さん、ほんとに人殺しをしたのか」と泣きながら話すと、廣田は怒って電話を切った<ref name="京都新聞1985-02-05">『京都新聞』1985年2月5日夕刊第7版第一社会面9頁「「広田事件」第2回公判 検察、41人の証拠申請 提出の証拠、説明」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1985年(昭和60年)2月号159頁。</ref>。 |
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また、7時48分には西陣署の交換台に架電し、「署長を出せ。お前らが捜している廣田や」と名乗り、千葉にいることを告げている<ref name="朝日新聞1984-09-06ドキュメント"/>。実家に張り込んでいた捜査員による[[逆探知]]の結果<ref name="読売新聞1984-09-05夕刊"/>、廣田は千葉市内に潜伏していることが判明<ref name="朝日新聞1984-09-06ドキュメント"/>。このため、千葉県警と警視庁は第3の犯行に備え、それぞれ管内全署に警戒を指示した<ref name="読売新聞1984-09-05夕刊"/>。一方、廣田は同日8時過ぎ、自宅近くに住んでいた担当の保護司宅にも電話をかけ、「今東京にいるが、俺は犯人じゃない」「警官が自宅を張っている。のけてくれ」などと話したが、保護司から「犯人じゃないなら、警察に出頭して事情を説明しなさい」と説得されていた<ref name="出頭勧めた保護司"/>。保護司はその後、千葉保護観察所を通じて廣田から電話があったことなどを捜査当局に通報した<ref name="出頭勧めた保護司">『千葉日報』1984年9月6日朝刊第二社会面12頁「出頭勧めた保護司 広田「オレは犯人じゃない」」(千葉日報社)</ref>。 |
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9時30分、警察庁刑事局幹部が廣田への容疑について検討を始めたが、当時は物証が十分ではなかったため、京都府警に「今少し状況証拠を積み上げるように」と指示している<ref name="朝日新聞1984-09-06ドキュメント"/>。一方、大阪府警は13時に総合対策本部(本部長:[[四方修]]府警本部長)を設置していた<ref name="朝日新聞1984-09-06ドキュメント"/>。なお、10時45分ごろには警視庁[[新宿警察署]]に対し、[[新宿区]][[西新宿]]二丁目の都営4号地脇にあった公衆電話ボックスから、関西訛りの男の声で「京都の事件を知っている」という電話がかかっている<ref name="京都新聞1984-09-05夕刊"/>。同署員が現場に急行したところ、男は既にいなくなっていたが、目撃者はその男について「廣田に似ている」と証言していた<ref name="京都新聞1984-09-05夕刊"/>。廣田は14時ごろ、実家(当時、周辺に捜査員約30人が張り込んでいた)に電話をかけ、母親に対し「俺はやっていない」と話したが、母から「生きた心地がしない。なんとかして」と言われていた<ref name="千葉日報1984-09-06"/>。 |
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廣田は身柄を確保される約40分前<ref name="まさか犯人とは"/>、千葉市[[都町 (千葉市)|都町]]{{Efn2|現:千葉市[[中央区 (千葉市)|中央区]]都町。}}の[[千葉県知事一覧|千葉県知事]]公舎近くから個人タクシーに乗車し<ref name="あとになってゾッ">『千葉日報』1984年9月6日朝刊第一社会面13頁「あとになってゾッ 個人タクシー運転手」(千葉日報社)</ref>、運転手に対し「成東まで有料道路を通っていってくれ」と行き先を告げた<ref name="まさか犯人とは"/>。このタクシーの運転手は事件のことは知っていたが、客として乗ってきたその男(廣田)が犯人であるとは思わなかったという<ref name="あとになってゾッ"/>。タクシーに乗車している間、廣田は「東京からタクシーに乗ってきたが、運転手が道を知らず、遠回りをしたので、千葉で降りた」と話すのみで、道順を指示する以外にほとんど口を利かず、タクシーの助手席にあった新聞朝刊(本事件を報じていた)にも気づかぬ素振りをしていた<ref name="まさか犯人とは">『朝日新聞』1984年9月6日東京朝刊第一社会面23頁「「まさか犯人とは…」 連続殺人の広田乗せた○○運転手」(朝日新聞東京本社)</ref>。一方で15時35分ごろ<ref name="オレはやってない"/>、千葉県警捜査一課の警部ら捜査員4人が{{Efn2|4人とも、当時は作業服を着用していた<ref name="銃撃戦も想定"/>。}}、[[千葉東金道路|千葉東金有料道路]]の[[東金インターチェンジ|東金料金所]]([[東金市]])付近をライトバンで、成東町へ向けて移動しながら警戒に当たっていたところ、前方を走っていたタクシーの車内に<ref name="銃撃戦も想定"/>、白いゴルフ帽を目深に被り、座席に身を隠すようにして乗車している男を見つけた<ref name="オレはやってない"/>。「ゴルフ場に行くには時間が遅すぎる」と考えて車に接近し、男の顔を確認したところ、手配されていた廣田の顔写真とそっくりだったため、彼らはこの男を廣田と直感し<ref name="銃撃戦も想定"/>、廣田が凶器の拳銃を持っていることを前提に銃撃戦も想定した上で、車内で作戦を練りながらタクシーを尾行した<ref name="銃撃戦も想定"/>。その後、タクシーは約10分走行し、廣田の実家前(成東町)で停車した<ref name="オレはやってない">『朝日新聞』1984年9月6日東京朝刊第一社会面23頁「連続殺人の広田、「オレはやってない」と平然、短銃の行方は沈黙」(朝日新聞東京本社)</ref>。 |
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15時46分<ref name="朝日新聞1984-09-06ドキュメント"/>、廣田はタクシーから降車したところ、朝から実家前に張り込んでいた千葉県警捜査一課の警部補から職務質問された<ref name="銃撃戦も想定"/>。廣田は声を掛けてきた警部補に対し、「逮捕状は出たのか」と問い掛けていたが<ref name="銃撃戦も想定">『千葉日報』1984年9月7日朝刊第一社会面13頁「“広田確保”銃撃戦も想定 お手柄四警察官に本部長賞詞」(千葉日報社)</ref>、特に抵抗することもなく本名を名乗り、[[山武警察署|成東警察署]]への任意同行に応じた<ref name="オレはやってない"/>。取り調べは成東署刑事課の取調室で、先述の警部と警部補が行ったが、廣田は犯行について「知らない」「やってない」と頑強に否認した<ref name="オレはやってない"/>。 |
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大阪府警捜査一課は15時55分、「廣田、任意同行」の緊急連絡を受け、警察庁も16時、千葉県警から「廣田確保」の一報を受けた<ref name="朝日新聞1984-09-06ドキュメント"/>。また、京都府警も千葉県警から連絡を受け、16時16分<ref name="ドキュメント2"/>、京都地裁に対し、Aに対する強盗殺人容疑で廣田の逮捕状を請求した<ref name="朝日新聞1984-09-06ドキュメント"/>。同府警は17時5分に逮捕状を取り<ref name="朝日新聞1984-09-06ドキュメント"/>、京都事件発生から約29時間後の17時37分<ref name="千葉日報1984-09-06"/>、成東署内で逮捕状が執行された<ref name="ドキュメント2">『京都新聞』1984年9月6日朝刊第17版第二社会面22頁「ドキュメント」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1984年(昭和59年)9月号186頁。</ref>。この時点での廣田の所持品は現金約14万円と、汚れた靴下などで<ref name="千葉日報1984-09-06"/>、廣田から拳銃の発砲を裏付ける[[射撃残渣|硝煙反応]]は出なかった<ref name="乏しい物証"/>。逮捕後、廣田の実家近く(北東へ約100 m)の雑木林で合成皮革製のショルダーバッグが発見されたが、拳銃は入っていなかった<ref name="京都新聞1984-09-07夕刊"/>。 |
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=== 京都府警の取り調べ === |
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逮捕後、廣田は18時に成東署を出て護送車に乗せられ、20時10分過ぎに東京駅に着くと<ref name="朝日新聞1984-09-06ドキュメント"/>、21時発の「[[ひかり (列車)|ひかり]]541号」([[名古屋駅|名古屋]]行き){{Efn2|当時の東京駅発[[東海道新幹線]]の最終列車。}}に乗車し、名古屋まで護送された<ref name="不敵な立ち回り">『読売新聞』1984年9月6日東京朝刊第14版第一社会面23頁「「広田」不敵な立ち回り 「府警にヘタうらす」――失敗させてやる―― 護送の新幹線、暴れ放題」(読売新聞東京本社) - 『読売新聞』縮刷版 1984年(昭和59年)9月号235頁。</ref>。新幹線の車内で、廣田は「何か言いたいことはないのか」という報道陣の質問に対し、「'''京都府警にはヘタ売らしてやるが、千葉県警にはヘタ売らすわけにはいかん'''」{{Efn2|「[[萼|ヘタ]]を売る」とは、京都の極道筋の間で「面子を潰す」という意味合いで使われる言葉である{{Sfn|穴吹史士|1984|p=22}}。}}と吐き捨てているほか、カメラマンに顔写真を撮影されると、「もうやめさせろ。俺、頭にくるぞ」と叫んでカメラマンに掴みかかったり、別のカメラマンに駅弁を投げつけ、足で蹴りかかったりした<ref name="京都新聞198-09-06社会">『京都新聞』1984年9月6日朝刊第17版第一社会面23頁「護送車中の広田 大胆不敵…にらみつけ怒鳴る 「府警にヘタ売らす」 格闘の傷跡生々しく」「千葉・実家前 「オレは広田だ」 ぶ然と捜査員に一言」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1984年(昭和59年)9月号187頁。</ref>。廣田は当時の経緯について、当時両足の裏に「正常に歩行ができない程の傷」を負っていたにも拘らず、千葉県警の護送警察官によって無理矢理歩かされ、報道陣の前に連れ出されたことや、被疑者段階であるにも拘らず報道陣から犯人視されて罵声を浴びせられ、新幹線の車内でも護送員から弁当を渡されて食べたところ、報道陣から挑発を受け、最終的には「どこの[[部落問題|部落]]の人間や!」「部落の人間でも箸を使ってメシを食うのか!」と罵られたことに憤慨し、駅弁を投げつけたことなどを主張している{{Sfn|廣田雅晴|1992|pp=94-96}}。また、取り調べ中に接見に来た弁護人から、ある新聞社が自身を被差別部落の出身者かどうか調査していると聞かされ、控訴審の公判中にその新聞社が[[毎日新聞大阪本社|毎日新聞京都支局]]であることを知り、同支局長の河北明宛てに謝罪を求める信書を出したが、河北は自分に対しその件を「調査する」と約束しながら、それを有耶無耶にしたという旨を主張し、「新聞屋」(新聞社のこと)を「人間の皮を被った化物」「『[[赤報隊]]』に射殺されるべき」と強く非難している{{Sfn|廣田雅晴|1992|pp=96-97}}。 |
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23時16分、廣田は名古屋駅に到着し、駅前に待機していた京都府警の護送用ワゴン車に乗せられ<ref name="朝日新聞1984-09-06ドキュメント"/>、6日1時49分、西陣署に到着<ref name="ドキュメント2"/>。7日午後、廣田は捜査本部から強盗殺人・銃刀法違反・火薬類取締法違反の容疑で[[京都地方検察庁]]に[[送致|送検]]された<ref name="京都新聞1984-09-07夕刊">『京都新聞』1984年9月7日夕刊第7版第一社会面11頁「広田、いぜん黙秘 府警 千葉へ捜査員派遣」「広田を送検」「実家近く バッグ発見」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1984年(昭和59年)9月号241頁。</ref>。6日11時30分以降、廣田は西陣署内で本格的な取り調べを受けた<ref name="京都新聞1984-09-06夕刊"/>。それ以降、同地検や京都府警捜査本部によって20日間にわたる取り調べが行われたが、廣田は犯行に関わる質問に終始供述を拒否した<ref name="京都新聞1984-09-28"/>。一方、京都地検は8日、廣田を10日間拘置することを京都地裁に請求したが、京都地裁は「被害者 (A) が警察官であり、被疑者を警察の支配下(府警本部)に置くことは問題が多い」として、拘置場所を[[京都拘置所]]に指定し、廣田に対する接見禁止の申請も却下した<ref>『京都新聞』1984年9月8日夕刊第7版第一社会面11頁「連続強盗殺人 広田 京都駅から東京へ 大阪の犯行後戻る」「広田の拘置場所を限定」「全国から見舞金続々 殉職のA巡査に49万円」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1984年(昭和59年)9月号277頁。</ref>。凶悪事件で、被疑者の拘置先が拘置所に制限指定されたことは極めて異例のことであり、京都地検は同決定への準抗告を行ったが{{Efn2|準抗告を行った理由は、「廣田は犯行を全面否認しており、犯行立証のために目撃者らに顔を確認してもらう必要があるが、拘置所にはその設備がない」「拘置所では時間の制約(起床時間が7時20分、就寝時間が21時)があり、十分な取り調べができない」「弁護人以外の接見を認めると、証拠隠滅などを図る虞がある」などだが、京都地裁は「被害者は現職警官であり、廣田は犯行を否認し、警察に強い反感を持っていることを考慮すれば、京都拘置所を拘置場所に指定した原判断は正当で、拘置所での面通しや実況見分が不可能とは認め難い。共犯者や組織を背景にした犯行とも認めがたく、廣田と共謀・同調して証拠隠滅を図る者がいるとも想定しにくい」との理由から、準抗告を棄却した<ref name="京都新聞1984-09-09"/>。目撃者たちに対する面通しは、京都地検で行われている<ref name="京都新聞1984-09-14"/>。}}、いずれも棄却された<ref name="京都新聞1984-09-09">『京都新聞』1984年9月9日朝刊第17版第一社会面27頁「連続強盗殺人 広田、パチンコ店で血洗う? 犯行現場から直行 トイレドアに血痕」「犯行前 東寺付近に出没」「京地裁が準抗告棄却 捜査陣 “広田調べ”に制約」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1984年(昭和59年)9月号305頁。</ref>。 |
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警視庁は5日の未明と早朝、廣田が江戸川河岸に現れていたことを把握し、13日から河岸を捜索したところ<ref name="京都新聞1984-09-15"/>、14日に江戸川区[[篠崎町]]3丁目2番地先の[[江戸川大橋]]付近で、ボストンバッグを発見{{Efn2|バッグは発見時点でチャックが全開になっており、中には何も入っていなかった{{Sfn|判例時報|1989|p=72}}。}}{{Sfn|判例時報|1989|p=72}}。バッグを売ったかばん店の店員の証言などから、廣田が曾根崎二丁目のピンクサロンの店員に買わせたものと断定した<ref name="京都新聞1984-09-16">『京都新聞』1984年9月16日朝刊第17版第一社会面23頁「江戸川で発見のバッグ 広田のものと断定 カバン店員ら証言」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1984年(昭和59年)9月号537頁。</ref>。 |
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=== 起訴まで === |
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その後、京都地検は10日間の拘置延長を請求し、取り調べを続けた<ref>『京都新聞』1984年9月17日夕刊第7版第一社会面9頁「広田の拘置を延長」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1984年(昭和59年)9月号567頁。</ref>。 |
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廣田は拘置延長が認められた9月17日、身上調書を取らせるとともに、「自分は事件は無関係」というそれまでの供述を翻し、「事件前日の3日に京都に来て、当日(4日)、刑務所仲間から持ち掛けられていた[[覚醒剤]]の取引のため、仲間3人とともに船岡山に行ったところ、A巡査に職務質問されたため、仲間がAを刺殺した。そいつに血が付いたので拭いてやった。千本中立売にも覚醒剤の取引で行った」<ref name="京都新聞1984-10-17"/>「西陣大映などで密売をした後、刑務所仲間の1人と京阪七条駅から電車で京橋へ行き、密売の報酬30万円を受け取った。その後、彼と特殊浴場やピンクサロンに行った後、紙袋を始末するよう頼まれ、2人で東京に行ったが、その車中で『紙袋には拳銃も入っている』と言われた」{{Sfn|判例時報|1989|p=60}}などと供述したが、この供述は虚偽だった{{Efn2|廣田が「一緒に船岡山に行った」と自供した刑務所仲間3人のうち、1人は既に死亡しており、もう1人は服役中だったほか、残る1人もアリバイがあった<ref name="京都新聞1984-10-17"/>。}}<ref name="京都新聞1984-10-17"/>。結局、廣田自身が犯行を認める供述は得られないまま、拘置期限切れ(9月27日)を迎えたが<ref>『京都新聞』1984年9月26日朝刊第17版第一社会面23頁「広田、あす拘置期限切れ 起訴か再逮捕か」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1984年(昭和59年)9月号839頁。</ref>、京都地検はそれまでに廣田の犯行を匂わせる数多くの状況証拠(犯行前後に廣田を目撃したという証言、タクシーから検出されたAの血痕、廣田が遺した指紋など:[[#不審な男の目撃情報|前述]])を得ていたものの、拳銃などの直接証拠は発見できず、自供も得られなかったため、同日午後に廣田を処分保留のままいったん釈放、廣田は直ちに大阪府警捜査本部(都島署)によって大阪事件の強盗殺人容疑で再逮捕された<ref name="京都新聞1984-09-28">『京都新聞』1984年9月28日朝刊第17版一面1頁「広田、追及へ再逮捕 大阪府警 京都事件は処分保留」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1984年(昭和59年)9月号897頁。</ref>。同日、京都地検次席検事の増田豊は、処分保留の理由について「京都事件は現在でも起訴可能であるが、大阪事件と一連の事件であるため、大阪事件について取り調べを済ませ、事件の全貌を解明した上で処理するのが相当」と、京都府警刑事部長の中長昌一は「廣田の自供は得られなかったが、敗北ではない。現在の捜査結果でも、廣田の犯罪は十分立証できると確信している」とそれぞれコメントした<ref>『京都新聞』1984年9月28日朝刊第17版第一社会面23頁「広田の処分保留 口重い捜査幹部 ノーコメント繰り返す「自供なくても敗北せず」」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1984年(昭和59年)9月号919頁。</ref>。同日、廣田は身柄を大阪府警に移され<ref name="京都新聞1984-09-28"/>、同月29日には強盗殺人・銃刀法違反などの容疑で[[大阪地方検察庁]]に送検された<ref>『京都新聞』1984年9月29日夕刊第7版第一社会面13頁「サラ金強殺広田を送検 大阪府警否認のまま」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1984年(昭和59年)9月号979頁。</ref>。 |
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大阪地検は送検後の30日、廣田の勾留請求に加え、[[接見交通権#接見等禁止決定|接見禁止]]と[[代用刑事施設|代用監獄]](都島署への拘置)を[[大阪地方裁判所]]に請求したが、大阪地裁は勾留以外は認めず、廣田の身柄は大阪拘置所に移された<ref>『京都新聞』1984年10月1日朝刊第17版第一社会面27頁「広田の拘置認められる 大阪拘置所へ移す」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1984年(昭和59年)10月号27頁。</ref>。大阪府警の取り調べに対し、廣田は当初、事件当日に京都から京阪電車に乗って京橋駅に行ったことや、大阪事件の現場となったサラ金の近くまで来たことは認めたが<ref name="京都新聞1984-09-29">『京都新聞』1984年9月29日朝刊第17版第一社会面23頁「広田、サラ金強殺は否認 「大阪へは仕事で来た」」(京都新聞社)</ref>、両事件への関与は全面的に否認し<ref name="京都新聞1984-10-20"/>、「大阪へは仕事で来た。京橋駅から[[大阪環状線]]で大阪駅に行った」などと供述<ref name="京都新聞1984-09-29"/>。取調官から商売相手などについて追及されると「相手に迷惑がかかる、信義上言えない」などと供述し<ref name="京都新聞1984-10-11"/>、実行犯や「行動をともにしていた」と主張した人物などについても供述を転々とさせ続けた{{Sfn|判例時報|1989|p=60}}。また、10月1日には取り調べ中に警察官のネクタイを引っ張り、取調警察官3人によって制止されていたほか、同月12日には供述調書への署名・指印を拒否して取調室から飛び出したが、その際に自ら窓ガラスを割って負傷している{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=251}}。 |
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しかし、10月10日ごろから態度を軟化させ<ref name="京都新聞1984-10-20"/>、犯行時に着ていた着衣の隠し場所など、犯行の一部に触れる供述をするようになる<ref name="京都新聞1984-10-11">『京都新聞』1984年10月11日朝刊第17版第二社会面20頁「連続強盗殺人 広田に軟化の兆し 着衣など隠し場所供述」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1984年(昭和59年)10月号360頁。</ref>。その後、「人から聞いた話だが、拳銃は江戸川右岸の橋桁の下に埋めてあると聞いた」と供述{{Efn2|この供述を受け、警視庁や京都府警などは、廣田のカバンが発見された地点から約6 km上流の江戸川に架かる[[市川橋 (江戸川)|市川橋]]([[国道14号]])や総武線・[[京成本線]]の両鉄橋などの付近を捜索した<ref name="京都新聞1984-10-11夕刊"/>。}}<ref name="京都新聞1984-10-11夕刊">『京都新聞』1984年10月11日夕刊第7版一面1頁「広田、核心を自供 「短銃、江戸川右岸に」 警視庁、府警が大捜索」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1984年(昭和59年)10月号363頁。</ref>、そして後述の犯行自供後は拳銃や包丁の隠し場所について、「[[江戸川競艇場]](江戸川区[[東小松川]])近く」と供述し、その近辺の詳細な地図を書いた<ref name="京都新聞1984-10-18">『京都新聞』1984年10月18日朝刊第17版一面1頁「広田、地図書き自供 短銃など隠し場所 江戸川の競艇場近く」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1984年(昭和59年)10月号577頁。</ref>。そのため、京都・大阪の両府警捜査本部はそれぞれ捜査員を東京に派遣し、警視庁の応援を得て<ref name="京都新聞1984-10-18"/>、[[荒川 (関東)|荒川]]に架かる[[小松川大橋]]付近(江戸川区[[小松川]]二丁目、[[首都高速7号小松川線|首都高速道路]]〈[[荒川大橋 (首都高速道路)|荒川大橋]]〉 - 京葉道路〈小松川大橋〉間の河川敷)を捜索した<ref>『京都新聞』1984年10月18日夕刊第7版一面1頁「連続強盗殺人 短銃発見へ大捜索 広田拘置 あす期限切れ」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1984年(昭和59年)10月号601頁。</ref>。結局、それらの凶器を勾留期間中に発見することはできなかったが<ref name="京都新聞1984-10-20"/>、京都・大阪の両地検はそれまでに得た数々の状況証拠や、後述のような廣田の自供や状況証拠などから、廣田の犯行を立証可能と判断し、起訴に踏み切った<ref name="京都新聞1984-10-17">『京都新聞』1984年10月17日朝刊第17版第一社会面19頁「京・大阪両地検 広田を一括起訴か 短銃・刃物なしでも 「状況証拠固まる」 立件可能と判断」「広田 京都府警の取り調べで犯行認めていた」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1984年(昭和59年)10月号565頁。</ref>。 |
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10月11日、廣田は京都事件・大阪事件とも自身の単独犯行である旨を自供した{{Sfn|判例時報|1989|p=60}}。また、拳銃は東京都内に隠し、着衣・手袋は江戸川近くに捨てた旨を供述した<ref>『京都新聞』1984年10月15日夕刊第7版一面1頁「広田 連続射殺を自供 「短銃、都内に隠した」」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1984年(昭和59年)10月号507頁。</ref>。それに前後して、廣田が京都事件前に京都市内で凶器となるボウガンや包丁などを買い揃えていたことや<ref name="京都新聞1984-10-15"/><ref name="京都新聞1984-10-13">『京都新聞』1984年10月13日朝刊第17版一面1頁「広田 洋弓でA巡査撃つ? 「近くで前日購入」供述 2日後の検索 船岡山山中で回収」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1984年(昭和59年)10月号415頁。</ref>、Aの遺体に残されていた傷の状況は、廣田が購入したものと同種の包丁の刃と一致するものであることなどが判明した<ref>『京都新聞』1984年10月16日朝刊第17版第一社会面19頁「警官傷口と一致 広田購入の包丁が凶器 京都府警断定」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1984年(昭和59年)10月号535頁。</ref>。その後も廣田の供述は変遷し続けていたが、廣田は起訴後の10月25日に行われた取り調べまで、自身の単独犯行であることは一貫して認めていた{{Sfn|判例時報|1989|p=60}}。 |
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大阪地検は10月19日、京都事件・大阪事件の双方について、廣田を強盗殺人・銃刀法違反・火薬類取締法違反の罪で[[起訴]]した<ref name="京都新聞1984-10-20">『京都新聞』1984年10月20日朝刊第17版一面1頁「連続強盗殺人 広田を一括起訴 物証えられぬまま 広田自供 検察側は自信 公判で波乱必至 広田、犯行否認の恐れ 弁護側の出方、焦点」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1984年(昭和59年)9月号653頁。</ref><ref name="読売新聞1984-10-20">『読売新聞』1984年10月20日東京朝刊第14版一面1頁「【大阪】大阪地検 「広田」連続殺人で起訴 短銃、着衣発見できず」(読売新聞東京本社) - 『読売新聞』縮刷版 1984年(昭和59年)10月号807頁。</ref>。しかし、それ以降も廣田は拳銃の所在について供述を転々と変え続けた<ref>『京都新聞』1984年12月23日朝刊第17版第二社会面18頁「連続強盗射殺事件 広田、あす初公判 罪状認否で対決か」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1984年(昭和59年)12月号806頁。</ref>。京都府警は起訴後も専従捜査員を残して拳銃の発見に努めたものの<ref>『京都新聞』1984年12月24日夕刊第7版第二社会面8頁「京都府警 どこへ消えた凶器の短銃 決め手求め捜査続行」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1984年(昭和59年)12月号832頁。</ref>、最後まで発見には至らなかった。 |
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== 刑事裁判 == |
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=== 第一審 === |
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[[審級|第一審]]における[[事件記録符号|事件番号]]は'''昭和59年(わ)第4576号'''で、審理は[[大阪地方裁判所]]第1刑事部に係属した{{Sfn|判例時報|1989|p=55}}。[[判決 (日本法)|判決]]が言い渡された当時の[[合議審|合議体]]は、青木暢茂裁判長と、林正彦・河田充規の両陪席裁判官で構成されていた{{Sfn|判例時報|1989|p=81}}。廣田は逮捕後、1978年の事件で第一審の弁護を担当していた堀和幸(京都弁護士会所属)を再び弁護人として選任している<ref name="京都新聞1984-09-07"/>。 |
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==== 初公判 ==== |
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1984年12月24日に初[[公判]]が開かれたが、[[被告人]]の廣田は[[罪状認否]]で、起訴事実を全面的に否認した<ref name="京都新聞1984-12-24">『京都新聞』1984年12月24日夕刊第7版一面1頁「廣田、罪状を全面否認 連続強盗殺人で初公判 大阪地裁 検察と真っ向対立」(京都新聞社) - 『京都新聞』縮刷版 1984年(昭和59年)12月号825頁。</ref><ref>『読売新聞』1984年12月24日東京夕刊第4版第一社会面11頁「【大阪】広田被告、初公判で全面否認 「警察へ恨み」検察冒陳 「生活資金も目当て」証拠676点を申請」(読売新聞東京本社) - 『読売新聞』縮刷版 1984年(昭和59年)12月号973頁。</ref>。公判中、廣田は宗教関係以外の本を多数読むようになったほか、フリージャーナリストと文通を重ねており、その獄中書簡(1986年7月 - 9月)がオピニオン誌『ジャクタ』第22号に掲載された<ref>{{Cite journal|和書|journal=[[週刊サンケイ]]|title=INSIDE すっかり読書人になった広田雅晴の「獄中書簡」公開|volume=35|page=25|date=1986-11-13|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1811420/13|issue=69|publisher=[[扶桑社]]|DOI=10.11501/1811420|id={{NDLJP|1811420/13}}}} - 通巻:第2003号(1986年11月13日号)。</ref>。検察官は、廣田の動機について「一連の行動から見て、強盗を働いてまとまったカネを手に入れるため」と主張した一方、弁護人は「仮に廣田が犯人だとしても、金欲しさの人間が犯行後、特殊浴場やピンクサロンで無造作に浪費したことは不自然だ」と疑義を呈した<ref name="乏しい物証">『京都新聞』1988年10月24日朝刊第17版第二社会面24頁「連続強盗殺人<下> 「広田裁判」25日判決へ 謎 乏しい物証、動機は?」(京都新聞社)</ref>。 |
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==== 検察官の立証 ==== |
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1985年(昭和60年)2月5日に開かれた第2回公判で、検察官は以下のように、雅晴の母親が捜査員に心境を述べた調書を朗読している。 |
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{{Quotation|「みんなに迷惑かけて息子がにくくて仕方ありません。被害者やその家族にどう言ってあやまっていいかわかりません。息子がこんな事件を起こし、あちこちから電話がかかり、生きた心地がしません。私の生きているうちに死刑にしてもらいたい。そうでないとまた、迷惑をかけることになります。私が毎日、先祖にお参りして極楽に行けるようにしてあげる。どうか子供の時のような素直な気持ちになって反省してほしい」|廣田雅晴の母親|京葉讀賣 (1985) <ref>『読売新聞』1985年2月6日東京朝刊第13版京葉版(京葉讀賣)地方面18頁「【大阪】広田の母、悲痛な叫び 「私の生きているうち死刑に」 公判に調書」(読売新聞東京本社・千葉支局)</ref>}} |
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最大の物的証拠となる凶器(包丁や拳銃)が発見されなかったため、被害者2人の遺体から検出された弾丸と、京都府警が保存していた試射弾丸{{Efn2|name="試射弾丸"}}の合わせて3個だけが、2つの事件を直接結びつける唯一の物証となった。検察側の依頼を受けて弾丸を鑑定した坂田八昭(警察庁[[科学警察研究所]]技官)は、「3個の弾丸を比較顕微鏡で対照したところ、線条痕が一致するため、同一銃から発射されたと推定できる」と証言した一方、弁護側は「同じ工具で作った銃なら、線条痕が類似するのでは」と反論し、再鑑定を求めた。しかし、再鑑定を行った[[福岡県警察]][[科学捜査研究所]]職員も「理論に立脚した経験から、同一銃から発射されたものと考えざるを得ない」と証言した<ref name="京都新聞1988-07-11"/>。 |
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また、検察側は計60人の証人(うち35人は目撃証人)を召喚し、その中でも最重要証人である女性C(大阪事件で同僚Bを目の前で殺された)から「廣田は犯人の男に似ている」という言質を取った<ref name="京都新聞1988-07-11">『京都新聞』1988年7月11日朝刊第17版第一社会面23頁「連続強盗殺人あす求刑 広田被告 否認のまま 決めて欠く物証・自白「線条痕は一致」」(京都新聞社 社会部:直野信之記者)</ref>。一方、直接目撃者がいなかった京都事件では、事件現場(船岡山)周辺で犯行前後に不審な男を目撃した人物や、事件前日に凶器と推定される包丁を売った金物店の主人、ボウガンを売った銃砲店の従業員が証人として尋問され、「廣田は事件前、何か怖い印象を持って見た男によく似ている」「(包丁やボウガンを売った相手は)廣田に間違いない」という証言がなされた<ref name="京都新聞1988-07-11"/>。 |
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==== 廣田の主張 ==== |
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一方、廣田は1987年(昭和62年)10月から開始された被告人質問で、「出所後、3つの犯罪を実行するつもりだった。昔の貸金を恐喝してでも取ること。その金で[[覚醒剤|覚せい剤]]の密売をすること。最後に前回の郵便局強盗事件で[[お礼参り|取り調べに当たった京都府警の捜査員の両目をつぶしてやりたい]]、と思った」と陳述した<ref name="京都新聞1988-10-22">『京都新聞』1988年10月22日朝刊第17版第二社会面28頁「連続強盗殺人<上> 「広田裁判」25日判決へ 目撃 「点から線」掘り起こし」(京都新聞社)</ref>。また、「一連の事件が発生した当時は警察官時代、ともに[[ノミ行為]]などを行っていた男性(以下『X』)とともに行動しており、京都事件当時(9月4日12時50分ごろ)はアリバイがあった{{Efn2|「12時50分ごろ、以前のノミ行為の客に対する未回収金を取り立てるため、Xと2人で[[京都市立金閣小学校|金閣寺小学校]]近辺にいた」{{Sfn|判例時報|1989|p=57}}「13時ごろ、映画館に行った」と主張した<ref name="京都新聞1988-10-22"/>。}}。その後、Xと2人で京阪電車で京橋駅に向かったが、同駅に着いたのは大阪事件の発生後だ」と、両事件についてアリバイがある旨を主張した{{Sfn|判例時報|1989|p=57}}。しかし大阪地裁 (1988) は、廣田がXの電話番号などを明らかにできなかったことや、[[司法警察員]]が作成した「Xの所在捜査結果について」と題する書面によれば、Xが居住していたという京都市南区内には1983年1月以降、そのような人物が住民登録をした事実はないと認められることなどから、「Xが存在すること自体に裏付けがない」と指摘{{Sfn|判例時報|1989|p=66}}。6年以上も前の「ノミ行為の未回収金を取り立てる」という点や、廣田の「8月30日にXから回収を依頼され、9月4日までにほぼ全額の1,500万円近くを回収し終わった」という主張もそれぞれ不自然で、そもそも「ノミ行為」の未回収金が存在していたことを裏付けるメモなどの証拠も何ら提出されていない点から、廣田のアリバイ主張を「'''到底措信できないばかりか、虚偽の供述といわざるを得ない'''」と断じている{{Sfn|判例時報|1989|p=66}}。 |
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捜査段階における自白についても、「大阪府警の取調官による暴行に耐えかねて虚偽の自白をした」と弁解し{{Sfn|判例時報|1989|pp=57-58}}、殴る蹴る、タバコの火や焼けたトタン板のようなものを手に押し付けられる、[[オナニー|自慰行為]]を強要される、[[陰茎]]を[[金的|蹴りつけられた]]り[[睾丸]]にライターの日を近づけられたりするなどの暴行を受けたり{{Sfn|判例時報|1989|pp=60-61}}、自白しないと「父親の墓を捜索する」と脅迫されたりした旨を主張した<ref>『京都新聞』1988年10月23日朝刊第17版第二社会面24頁「連続強盗殺人<中> 「広田裁判」25日判決へ 自白 暴行の有無、どう判断」(京都新聞社)</ref>。 |
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実際、廣田が大阪拘置所で弁護人と接見した際、廣田の手足に傷があることが確認されたり、1987年11月25日に廣田が弁護人に宅下げしたズボンに、廣田と同じ血液型の人血や精液が付着していたりなどの事実も確認されたが、大阪地裁 (1988) は廣田が「タバコの火や熱したトタン板様のものを体に押し付けられた」と主張している点について、弁護人と接見した際に訴え出ていない(弁護人もそのような火傷を確認していない)点や、拘置所でも火傷の治療をしたことがない点、「取調官から自慰行為を強要された」という点も取り調べ当時は弁護人に訴えておらず、その証拠とされたズボンも公判中の1987年11月まで着用していたと見られる(その間、廣田自身が血液や精液を付着させることも可能だった)ことなどから、「火傷をさせられる拷問を受けた」「自慰行為を強要された」という主張については「虚偽の供述」と認定している{{Sfn|判例時報|1989|pp=61-62}}。その上で、当時の取調官による「廣田は取調べ時、警察官のネクタイを引っ張ったため、別の警察官が制止したところ、ネクタイを引っ張られた警察官だけでなく、廣田も指に怪我をした。また、廣田は取調べ中、廊下に出て自ら窓ガラスを割り、指を切ってかなり出血したことがある」という証言([[#起訴まで|参照]])を「各種証拠から信用できる」と認定し、廣田の供述の任意性を認定している{{Sfn|判例時報|1989|p=62}}。 |
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==== 死刑求刑 ==== |
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1988年(昭和63年)7月12日に[[論告]][[求刑]]公判が開かれ、廣田は検察官から死刑を求刑された<ref name="京都新聞1988-07-13">『京都新聞』1988年7月13日朝刊第17版一面1頁「連続強盗殺人事件 広田被告に死刑求刑 大阪地裁論告公判 「犯行立証は十分 極悪、改善余地ない」」(京都新聞社)</ref>。論告は約1時間40分におよび、検察官はまず銃弾の鑑定結果から、両事件の凶器がAから奪われた拳銃であることを挙げた上で<ref name="京都新聞1988-07-13"/>、以下のような客観的証拠を挙げ、廣田の犯行を立証した<ref name="京都新聞1988-07-13論告">『京都新聞』1988年7月13日朝刊国際面4頁「京都・大阪での連続強殺 広田事件論告要旨」(京都新聞社)</ref>。 |
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;京都事件 |
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::事件発生直後、現場周辺で(十二坊派出所付近から西陣大映に入場するまでの間に)返り血を浴びた廣田を目撃した人物が断続的にいたこと |
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::廣田が犯行後に西陣大映まで乗車したタクシーの座席に、被害者Aと一致する血液型(A-MN型)の血液が付着していたこと |
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::西陣大映で発見された清涼飲料水(リアルゴールド)の瓶に、廣田の指紋が付着していたこと |
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;大阪事件 |
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::犯行を直接目撃した女性店員が、「犯人は廣田に酷似している」と証言していること |
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::廣田は犯行直前、現場至近の飲食店に立ち寄ってかき氷を食べていた(容器から廣田の指紋が検出された)こと |
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::廣田の所持していた手提げ袋は、前日に銃砲火薬店でボウガンを購入して預けた際の手提げ袋と同一のものであること |
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::周辺での目撃証言、および犯行直後に廣田が遊興費として12万円を支出した状況証拠<ref name="京都新聞1988-07-13"/> |
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::「サラ金の窓越しに交番が見えた」という自白内容は、犯行現場にいなければわからない「[[秘密の暴露]]」に当たること<ref name="京都新聞1988-07-13"/> |
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また、捜査段階における廣田の自白の内容は虚実ないまぜになっている(犯行動機や事件当時の状況などに虚偽の点が含まれる)点を指摘した上で、公判における「犯人は別人で、自分は現場にも行っていない」という廣田の弁解については虚偽であると主張<ref name="京都新聞1988-07-13論告"/>。その上で、強盗傷人事件などを起こして服役したにも拘らず、仮出所からわずか5日後に本事件(2件の強盗殺人)を起こしたことを「一片の人間性すら見い出せない」と非難した<ref name="京都新聞1988-07-13論告"/>。特に、京都事件でAの全身を包丁で滅多刺しにし、奪った拳銃で背後から撃つなどの犯行態様については「他人の生命をもてあそぶ殺人鬼の行動」と<ref name="京都新聞1988-07-13"/>、金品強取のために大阪事件を起こした点についても「殺人鬼とも言うべき非人間性を余すことなく示している」と指弾し、「警察官を襲撃することは、市民生活の平穏と安全に対する重大な挑戦であり、まして犯罪の凶器を入手するため警察官を殺害することは、社会の安全を根底から否定するものであって、許すことはできない。」と主張した<ref name="京都新聞1988-07-13論告"/>。そして、犯行の残虐性、結果の重大性{{Efn2|検察官は、[[永山基準#被害者2人の場合|死刑を選択する量刑事情を「強盗殺人の被害者が2人の事例を原則とする」]]と明言した<ref>『京都新聞』1988年7月13日朝刊第17版第一社会面19頁「目には目をでよいか 佐木隆三さん(作家)の話」(京都新聞社)</ref>。}}、社会的影響、被害者・遺族におよぼした影響などを鑑み、死刑を求めた<ref name="京都新聞1988-07-13論告"/>。廣田は論告後、最終弁論の内容について、主任弁護人の堀に対し「正面から堂々と事実を争ってほしい。[[死刑制度合憲判決事件|死刑は違憲]]などという主張はしないでほしい」と要望し<ref>『京都新聞』1988年7月13日朝刊第17版第一社会面19頁「広田被告求刑 [死刑」の一瞬にも平然 論告中も無表情 公判記録読み返す 大阪地裁」(京都新聞社)</ref>、自ら構築した論理・主張を取り入れさせた<ref name="乏しい物証"/>。 |
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同年9月8日に最終弁論が行われ、弁護人が全面的に無罪を主張、結審した<ref>『京都新聞』1988年9月9日朝刊第17版第一社会面31頁「連続強盗殺人最終弁論 広田被告の無罪主張 弁護側「自白に信用性ない」 包丁、短銃が未発見」(京都新聞社)</ref>。 |
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==== 死刑判決 ==== |
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1988年10月25日に判決公判が開かれ、大阪地裁(青木暢茂裁判長)は廣田に求刑通り死刑を言い渡した<ref name="京都新聞1988-10-25">『[[京都新聞]]』1988年10月25日夕刊第7版一面1頁「元警官広田に死刑 大阪地裁 連続強盗殺人で判決 自白、目撃証言信用できる 「残虐かつ冷酷」と断罪」(京都新聞社)</ref>。死刑判決を言い渡す際は[[主文]]を後回しにし、[[判決理由]]から先に朗読する場合が多いが、青木裁判長は冒頭で主文を言い渡す異例の対応を取った<ref name="京都新聞1988-10-25"/>。 |
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大阪地裁 (1988) は判決理由で、以下のように判示し、「被告人と本件各犯行との結びつきを裏付ける数々の間接事実が存在し、また、被告人の自白のうち、右間接事実によって裏付けられた部分は、その信用性も認められ、更に、大阪事件の目撃者〔C〕の識別供述も信用するに足るものであり、以上を総合すると、結局、判示各事実を認定するにつき、合理的疑いを容れる余地はない」と結論づけた{{Sfn|判例時報|1989|p=79}}。その上で[[量刑]]面については、[[永山基準|最高裁が示した死刑適用基準(1983年7月8日:第二小法廷判決)]]に照らし、動機に酌量の余地がない点、犯行は計画的で、殺害の手段方法が残虐かつ冷酷である点、2人の生命が奪われた結果の重大性、社会的影響の重大さや、廣田に反省・悔悟の情がまったく認められず、矯正教育の効果が期待できない(犯罪傾向や反社会的性格が改善不能である)点を挙げ、「死刑をもって臨む以外にない」と判断した{{Sfn|判例時報|1989|pp=80-81}}。 |
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;廣田の自白の任意性{{Sfn|判例時報|1989|p=60}}・信用性{{Sfn|判例時報|1989|p=77}} |
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:廣田の「取調官から拷問を受けた」という主張に関しては、[[#廣田の主張|先述]]のように不自然な点が見られることを理由に退け、「廣田の供述の任意性に疑いを抱かせる事情は認められない」と判断した{{Sfn|判例時報|1989|p=62}}。一方でその自白内容については、京都に来た本来の目的、拳銃などを隠したり捨てたり下敷き・場所など、自白の重要部分が短期間で大きく変遷している部分があったり、直ちに信用できない箇所(「Aが発砲した」「Bが『撃てるものなら撃ってみろ』と言ってきた」などの主張)があったりすることから、「認めざるを得ない部分を最小限認め、しかもその場合でも、できるだけ自己に有利な形で供述し、あるいは虚偽の事実を取り混ぜている」「本件の全貌を明らかにしたものとは到底いえない」と指摘、後述する様々な証拠によって裏付けられた部分のみ信用に値すると判断した{{Sfn|判例時報|1989|p=77}}。 |
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;[[#事件後|京都事件後に寄せられた多数の目撃証言]] |
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:「いずれの目撃情報も昼間、至近距離で目撃したものである上、事件直後(遅くとも2、3日以内)に得られたもので、信用性は高い」とした上で、複数の証言で服装・風貌、「腕に血がついていた」などの特徴などについて共通点が認められることなどから、目撃された人物は同一人物と判断した{{Sfn|判例時報|1989|pp=63-64}}。そして、「西陣大映」に廣田の指紋が付着していた「リアルゴールド」の空き瓶が残されていた事実を前提に、同館従業員の「廣田らしき男が『リアルゴールド』を飲み、その空き瓶を残していた。男の左肘の後ろには血が付いており、顔にも血痕のようなものが付いていた」という証言の信用性を検討し、「証言に不自然・不合理な点はなく、具体的な記憶に基づく証言といえる」として、目撃された男を廣田と断定した{{Sfn|判例時報|1989|p=65}}。 |
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:一方、テレビニュースや新聞報道による影響についても考慮し、それらをまだ受けていない段階で寄せられた証言については、目撃当日に警察官から廣田を含む何枚かの写真を見せられ、すぐに廣田の写真を選びだした証人がいたことなどから、信用性を認め{{Sfn|判例時報|1989|pp=65-66}}、廣田が逮捕後、自ら事件前日に千本通の金物店で包丁やのこぎりを購入した事実を明かした(特に、のこぎりを買ったという事実は[[秘密の暴露|捜査機関側はまだ把握していなかった]])ことや、その際に購入した包丁はAの受傷と一致することなども、廣田が京都事件の犯人であることを伺わせる間接事実の一部として挙げた{{Sfn|判例時報|1989|pp=66-68}}。 |
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;大阪事件後の目撃証言([[#大阪事件|参照]]) |
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:事件直前、犯行現場となった「ローンズタカラ」の入居する「永井ビル」近くの飲食店「あんどれー」で目撃された中年の男を、かき氷の容器から検出された指紋から廣田と認定した上で、その男と酷似した男が同店から「永井ビル」近くで左右を見渡したり、同ビルを見渡したりしているところを目撃した人物の目撃証言、「甲」の従業員3人が都島署員の取り調べに対し、「事件直前に手提げ袋を持って『甲』に現れた不審な男は、廣田で間違いない」と証言している{{Efn2|この3人の目撃証言は、いずれも大阪事件直後(同日夜)から翌5日午前にかけて都島署で得られたが、3人ともまだ廣田に関する新聞報道やテレビニュースが出る前に証言を行っており、また互いに別々の部屋で聴取を受けていたため、3人で男の特徴などについて口裏合わせを行う機会はなかった{{Sfn|判例時報|1989|p=69}}。}}点から、廣田が事件直前、「永井ビル」周辺に現れていたことを認定{{Sfn|判例時報|1989|pp=69-70}}。その際に廣田が持っていた手提げ袋の特徴から、廣田は京都事件前(9月3日)にボウガンを購入した銃砲火薬店を、大阪事件後に曾根崎の特殊浴場やピンクサロンをそれぞれ訪れていたことも認定した上で、大阪事件の目撃者であるCの目撃証言を検討{{Sfn|判例時報|1989|pp=70-71}}。Cは事件翌日、警察官から6人の写真を見せられ、その中から犯人として廣田の写真を選んだほか、110番通報時に述べた男の風貌や服装の特徴も廣田と合致していたことから、大阪事件の犯人は、先述の「甲」に現れた人物と同一人物である可能性が高いことを指摘し、「廣田が大阪事件の犯人であることを伺わせる重要な間接事実」と位置づけた{{Sfn|判例時報|1989|p=71}}。 |
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;大阪事件後の不審な行動 |
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:大阪事件後、廣田が曾根崎二丁目のピンクサロンで店員に着替えの服を購入させてきて着替えたことや、着替える前の服を逮捕時点で所持していなかった一方、その服を入れたボストンバッグが江戸川に捨てられていたことから、「廣田は(何らかの犯罪の証拠となるなどの理由から)着替える前の服を処分する必要があったものと考えられる」と指摘{{Sfn|判例時報|1989|pp=71-72}}。また、廣田は出所時に2万6,583円を所持しており、妻から20万円を受け取った一方、逮捕時には14万2,650円を所持していたが、その間に20万円を大きく上回ると見られる出費{{Efn2|京都・千葉間の新幹線など利用料金(1往復半)で約3万5,000円、ボウガンの購入で約8万円を、また特殊浴場で2万円、ピンクサロンで10万円、着替え用衣服などで5万円を遣ったほか、宿泊代・食事代・タクシー代などで相当額を費消した{{Sfn|判例時報|1989|p=72}}。}}があったことから、出どころを説明できない10万円単位の収入があったことを認定し、廣田が大阪事件の犯人であることを窺わせる事情として挙げた{{Sfn|判例時報|1989|pp=72-73}}。 |
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:廣田はこの金の出どころについて、8月30日に[[琵琶湖ホテル]]の前で、Xから20万円を受け取ったという旨を主張したが、捜査段階での否認供述と大きく異なるものであることや、20万円をもらった経緯や理由も不自然であること、そして「Xと行動をともにしていた」という供述自体が信用し難いことなどから、大阪地裁は廣田の弁解を「到底信用できない」と退けている{{Sfn|判例時報|1989|pp=72-73}}。 |
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;両事件の犯人は同一人物か否か |
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:以上のように、両事件についてそれぞれ廣田が犯人であることを窺わせる間接事実の存在を挙げた上で、Aから奪われた拳銃と、両事件で用いられた拳銃の同一性について検討{{Sfn|判例時報|1989|p=73}}。A・B両被害者の体内から摘出された弾丸と、京都府警が保管していた試射弾丸1個{{Efn2|name="試射弾丸"|京都府警では[[国家公安委員会]]規則に基づき、各警察官に貸与される拳銃については試射を行った上で、試射弾丸と試射薬莢を銃番号によって登録・保管する扱いになっている{{Sfn|判例時報|1989|p=73}}(参照<ref>{{Cite web |url=https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=337M50400000007#Mp-At_24 |title=(試射弾丸及び試射薬きようの登録)第二十四条 |access-date=2022-05-17 |publisher=[[デジタル庁]] |date=1962-05-10 |website=[[E-Gov法令検索]] |work=警察官等拳銃使用及び取扱い規範(昭和三十七年国家公安委員会規則第七号) |quote=管理責任者は、その管理する拳銃については、試射を行つた上、試射弾丸及び試射薬きように別記様式第一号による登録票を付けてその所轄庁の科学捜査研究所(科学捜査についての研究に関する事務を所掌する所属をいう。以下同じ。)に送付し、登録しなければならない。拳銃の銃身等を取り替えたときも、また同様とする。 |language=ja}}</ref>)。}}のそれぞれに残されていた線条痕から、それら3個の弾丸は同一の拳銃(Aから奪われたニューナンブ38口径拳銃)から発射されたものと認定した上で、共犯者の存在が証拠上窺えないことから、両事件の犯人を同一人物と結論づけた{{Sfn|判例時報|1989|p=73}}。 |
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;その他の事項 |
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:廣田が事件前日にボウガンや手袋などを購入し、処分した事実や、事件前日に嵐山派出所や十二坊派出所へ電話して警察官をおびき出そうとしたり、南区の質屋の主人を店外におびき出そうとしたりしたことが、それぞれ廣田自身の自供も含めた各種証拠から認められることから、廣田は強盗するか、拳銃を奪うために京都に来ており、そのために事前に凶器を準備し、警察官をおびき出そうと計画した末に実行に至ったという旨を推認{{Sfn|判例時報|1989|pp=73-76}}。京都事件発生直前に十二坊派出所や船岡山公園正門(公園北西側)で廣田らしき男が目撃されていた事実([[#事件前|参照]])を指摘し、廣田の自白のうち「当日昼過ぎごろ、警察官をおびき出すため、船岡山公園入口の公衆電話から十二坊派出所に電話した」という事実の裏付けになると判断した{{Sfn|判例時報|1989|pp=76-77}}。 |
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廣田は判決に前後して、山中湖連続殺人事件で[[東京地方裁判所|東京地裁]]から死刑判決を受けた澤地和夫{{Efn2|name="澤地和夫"}}に対し「同じ警察の落ちこぼれとして力を合わせておれたちを犯罪者に追いやった国家権力と戦おう」という趣旨の手紙を数通送ったが、澤地からは相手にされていなかった{{Sfn|SPA!|1988|p=27}}。廣田は1987年夏、澤地に「いい弁護士を紹介してほしい」という手紙を出したが、澤地から「お互い警察のクズ。やったことは素直に認めなさい」という返事を受け取っている<ref>{{Cite journal|和書|journal=[[読売ウイークリー|週刊読売]]|title=News Compo 死刑判決の瞬間「薄笑い」を浮かべた連続強盗殺人・広田の精一杯の虚勢|volume=47|page=34|date=1988-11-13|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1815206/18|issue=49|publisher=[[読売新聞社]]|DOI=10.11501/1815206|id={{NDLJP|1815206/18}}}} - 通巻:第2091号(1988年11月13日号)。</ref>。廣田は判決を不服として、即日[[控訴]]した<ref>『京都新聞』1988年10月26日朝刊第17版第一社会面23頁「広田が控訴」(京都新聞社)</ref>。 |
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=== 控訴審 === |
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控訴審における事件番号は'''平成元年(う)第162号'''で、審理は[[大阪高等裁判所]]第6刑事部に係属した{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=249}}。裁判長は初公判から判決公判まで、村上保之助が務めた<ref>『朝日新聞』1991年1月25日東京夕刊第一社会面23頁「死刑判決の広田雅晴被告、再び無罪主張 京都・連続強殺の控訴審」(朝日新聞東京本社)</ref><ref name="京都新聞1993-04-30"/>。 |
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初公判は1991年(平成3年)1月25日に開かれ<ref>『読売新聞』1991年1月25日東京夕刊第二社会面14頁「警察官ら殺害の広田被告の控訴審初公判 無罪を主張/大阪高裁」(読売新聞東京本社)</ref>、1993年(平成5年)2月10日の第11回公判で結審した<ref name="京都新聞1993-02-11">『京都新聞』1993年2月11日朝刊第17版第二社会面30頁「広田被告の控訴審結審 4月30日に判決」(京都新聞社)</ref><ref>『読売新聞』1993年2月11日大阪朝刊第二社会面30頁「115号事件(連続強盗殺人・広田雅晴被告)の2審結審/大阪高裁」(読売新聞大阪本社)</ref>。控訴趣意書で、弁護人(堀和幸・塚本誠一)は「訴訟手続の法令違反」(自白は違法な取り調べによって強要されたもので、任意性がないとする主旨){{Sfn|判例時報|1994|p=152}}、「事実誤認」(直接証拠は信用性に欠ける自白のみで、数々の間接証拠も証拠価値が乏しいとする主旨){{Sfn|判例時報|1994|p=153}}、「法令適用の誤り」(死刑制度は[[日本国憲法第13条|第13条]]・[[日本国憲法第31条|第31条]]・[[日本国憲法第36条|第36条]]に違反するとする主旨)、「[[量刑]]不当」を主張した{{Sfn|判例時報|1994|p=160}}。それらの論旨は、以下の通りである。 |
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;訴訟手続の法令違反(弁護人および被告人の控訴趣意) |
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:1984年10月1日以降、廣田は大阪拘置所で大阪府警の警察官から暴行・拷問を受けて自白を強要され、11日以降、自身の犯行を認める旨を自供した。そのような取り調べによって得られた自白には任意性はなく、原判決には判決に影響をおよぼすことが明らかな訴訟手続の法令違反がある{{Sfn|判例タイムズ|1994|pp=250-251}}。 |
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;事実誤認の主張(弁護人および被告人の控訴趣意) |
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:原判決は京都・大阪の両事件の犯人を廣田と認定したが、その直接証拠は廣田の警察官・検察官に対する自白(信用性を欠く)だけで、原判決が廣田を両事件の犯人と認定するのに列挙した一連の間接証拠はいずれも証拠価値が乏しく、証拠情、廣田を両事件の犯人とするには多分に[[合理的な疑い]]が残る{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=252}}。 |
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;法令適用の誤りの主張(弁護人の控訴趣意) |
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:[[刑法 (日本)|刑法]]の[[日本における死刑|死刑]]の規定は、[[日本国憲法]]([[日本国憲法第13条|第13条]]・[[日本国憲法第31条|第31条]]・[[日本国憲法第36条|第36条]])に違反し、無効である{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=258}}。 |
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;量刑不当の主張(弁護人の控訴趣意) |
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:原判決は、京都事件及び大阪事件の各罪について死刑を選択したが、死刑の選択はあくまで慎重になされるべきだ。廣田が犯行に至った経緯や動機は十分に解明されておらず、原判決がいうように「犯行に至る経緯、動機に酌量すべき事情は何ら見い出せない」とまでは決めつけられない。犯行態様は両事件とも計画的というよりはむしろ場当たり的で、京都事件は目撃者がなく、犯行自体も原判決の言うような一方的な攻撃であったかは疑問である。大阪事件で強奪した現金も約60万円で、多額とはいえない。廣田は、前刑の事件を起こすまでは真面目な社会人として生活してきたのであり、彼が一連の犯行におよんだ経緯・動機が十分解明されていない以上、「反省・悔悟の情がない」「矯正不可能」と決めつけるには疑問がある。また、死刑を選択する事情として被害者の遺族の被害感情や事件の社会的影響を考慮するのは相当でない。以上より、いずれの事件についても死刑を選択した原判決の量刑は不当である{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=259}}。 |
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なお、弁護側は最終弁論要旨を2通(弁護人が用意したもの+廣田本人が書いたもの)大阪高裁に提出したが、廣田自身が書いた最終弁論要旨は、「警察は犯人をデッチ上げ、検察は警察の御用機関になり下がった」などと激しい言葉で検察側の主張を批判し、冤罪を訴えるものだった<ref name="朝日新聞1993-02-11">『朝日新聞』1993年2月11日大阪朝刊第一社会面27頁「大阪高裁で広田被告側、無罪主張し結審 連続強盗殺人事件【大阪】」(朝日新聞大阪本社)</ref>。 |
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公判中、廣田は山中湖連続殺人事件の犯人(澤地和夫の共犯者)である猪熊武夫([[東京拘置所]]在監){{Efn2|name="澤地和夫"}}から紹介を受け、彼が事務局長を務めていた「ユニテ=死刑囚の会」に入会、同会の機関誌である『ユニテ通信 希望』に手記を寄稿している<ref>{{Cite journal|和書|journal=ユニテ通信 希望|author=廣田雅晴|title=入会にあたってのあいさつ|editor=|date=1991-12-25|issue=5|publisher=ユニテ=死刑囚の会}} - 編集担当:[[名古屋拘置所|名拘]] [[名古屋保険金殺人事件|竹内敏彦]]、[[大阪拘置所|大拘]] 山野静二郎(議長)連絡先 [[東京拘置所|東京都葛飾区小菅1-35-1]] 事務局 猪熊武夫。[[大宅壮一文庫]](東京本館)に所蔵。</ref>。また、1993年当時大阪拘置所に勾留されていた[[山之内幸夫]](山口組の元顧問弁護士)は、当時大阪拘置所の五舎3階(死刑確定者や、死刑判決を受けた被告人が収監されていた舎房)に収監されていた廣田<!--本文中では「H氏」と表記。同書101頁で「元京都府警巡査部長で連続強盗殺人犯のH(五〇歳)」{{Sfn|山之内幸夫|2002|p=101}}と言及している-->が、控訴審で無罪判決を言い渡されると強く信じ、判決前に私物をすべて宅下げしており、判決当日には言い渡し直後に釈放されるものだと思って房を出ていったものの、判決言い渡し後に茫然自失の状態で房に戻ってきたという旨を述べている{{Sfn|山之内幸夫|2002|p=105}}。 |
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==== 控訴棄却判決 ==== |
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1993年4月30日の控訴審判決公判で、大阪高裁(村上保之助裁判長)は原判決を支持し、廣田の控訴を[[棄却]]する判決を宣告した<ref name="京都新聞1993-04-30">『京都新聞』1993年4月30日夕刊第7版一面1頁「連続強盗殺人事件 広田被告 2審も死刑 大阪高裁 控訴棄却 犯行は冷酷、残虐」(京都新聞社)</ref>。日本では同年3月末、約3年4か月ぶりに死刑執行が行われていたが、それ以降では初めての死刑判決宣告となった<ref>『[[産経新聞]]』1993年4月30日大阪夕刊総合一面「短銃強奪連続殺人 広田被告2審も死刑」([[産経新聞大阪本社]])</ref>。廣田は開廷直後、控訴棄却の主文を言い渡されると、大声で「(判決理由は)聞きたくないので退廷します」と吐き捨て、開廷からわずか2分で退廷した<ref>『京都新聞』1993年4月30日夕刊第7版第一社会面11頁「2審も死刑 広田被告 「聞きたくない」2分で退廷 横向き無表情のまま」(京都新聞社)</ref>。 |
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判決理由の要旨は以下の通りである。 |
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;自白の信用性について |
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:弁護人は控訴趣意書で「廣田は大阪府警による大阪拘置所での取り調べで、殴る蹴るなどの暴行や、自慰行為の強要、タバコの火や熱した金属片を手などに押し付けられるといった拷問によって自白を強要された」と主張したが、大阪高裁 (1993) は廣田が「拷問を受けた」と主張している時期にかなり頻繁に弁護人と接見していたにも拘らず、「自慰行為を強要された」「タバコの火や熱したトタン様の金属片を皮膚に押し付けられた」と訴えたのは起訴から約3年後であることや、ガラスで手の指を切って治療を受けた際にもそのような火傷が発見されていないことなどから、「自慰行為の強要」「タバコの火などを押し付けられた」などの拷問の事実を否定{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=251}}。「殴る蹴るなどの暴行を受けた」などの暴行についても、原判決の「当時取り調べに当たった警察官2人の供述を信用すべき」とした判断を追認した{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=251}}。 |
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;事実誤認の主張について |
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:大阪高裁 (1993) はまず、両事件の被害者の遺体から摘出された2個の弾丸と、京都府警本部で保管されていたAの拳銃の試射弾丸の線状痕について、同一拳銃によって発砲されたとする鑑定結果(原判決が採用)の信用性を追認し、大阪事件は京都事件で奪われた拳銃による犯行とであると認定した{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=252}}。その上で、目撃者が存在する大阪事件について検討し、Cや「甲」の従業員、「あんどれー」の店員、事件後に立ち寄った曾根崎の特殊浴場やピンクサロンの従業員らによる目撃証言の信用性を認め、それらの証言や、「あんどれー」に残されたかき氷の容器に付着していた廣田の指紋、廣田の取り調べ中の自白(犯行前後の行動に関する部分)といった間接証拠の数々から、大阪事件は廣田の犯行と認定した{{Sfn|判例タイムズ|1994|pp=253-256}}。そして、京都事件についても事件直後、廣田に酷似した男が乗ったタクシーにAと同じ血液型の血痕が付着していたことや、その男がタクシーを降りた地点の近辺にある「西陣大映」で男が飲んだ「リアルゴールド」の空き瓶に廣田の指紋が付着していたこと、事件前に千本通の金物店で包丁を購入した男は廣田と酷似しており、その購入された包丁が凶器となりうるものであったことなどの事情から、京都事件も廣田の犯行と結論づけた{{Sfn|判例タイムズ|1994|pp=256-258}}。 |
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;法令適用の誤りの主張について |
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:[[死刑制度合憲判決事件|死刑制度を合憲と判断した1948年3月12日の最高裁大法廷判決]]を引用し、死刑制度を違憲とする弁護人の論旨を退けた{{Sfn|判例タイムズ|1994|pp=258-259}}。 |
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;量刑不当の主張について |
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:動機については所論で指摘されたように「必ずしも十分に解明されていない」としたものの、廣田の事件前の行動や一連の犯行状況から、京都事件の動機に奪った拳銃による現金強盗の意図があった可能性を指摘した上で、仮出獄時に家族から暖かく迎えられたにも拘らず、わずか5日後に一連の犯行におよんだことから、犯行経緯・動機に酌量の余地はないと指摘{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=259}}。犯行態様についても、事前に凶器を用意するなど計画的である点や、京都事件では執拗にAを滅多突きにした上で拳銃を奪ってとどめを刺したことや、大阪事件でも至近距離からBの胸を狙撃していることを挙げ、「原判決のいうとおり、強固な確定殺意に基づくもので人命を著く軽視した冷酷、非情で残虐な犯行といわねばならない。」と判示した{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=259}}。 |
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:その上で、2人の生命が奪われた結果の重大性や、仮出獄からわずか5日後に犯行におよび、逮捕後も自白に虚実を取り混ぜ、凶器の在り処については最後まで明かさなかったことや、公判でも不合理な弁解を繰り返し、反省・悔悟の情が見られないことから、「原判決のいうとおり、もはや被告人に対して矯正教育の効果は期待できない」と指摘、被害者遺族らの被害感情の峻烈さ、地域住民を不安に陥れたことを挙げた一方、「特に被告人のために有利に斟酌すべき事情は、これといって見当たらない。」と断じた{{Sfn|判例タイムズ|1994|pp=259-260}}。 |
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:そして、「両事件の罪質、動機、犯行態様、結果の重大性、各被害者の遺族の被害感情、社会的影響、被告人の前科及び犯行後の態度等の諸情状を併せ考えると、両事件の罪責は極めて重大であって、[[永山基準|罪刑の均衡及び一般予防の見地から両事件について極刑をもって臨むのはやむをえない]]と認められ、原判決が両事件につき死刑を選択したことは是認できる。」と結論づけた{{Sfn|判例タイムズ|1994|p=260}}。 |
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廣田は判決を不服として、5月10日までに最高裁へ[[上告]]した<ref>『京都新聞』1993年5月11日朝刊第17版第一社会面23頁「連続強盗殺人事件 広田被告が上告」(京都新聞社)</ref>。 |
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=== 上告審 === |
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上告審における事件番号は'''平成5年(あ)第570号'''で、審理は[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]第三[[小法廷]]に係属した。神山啓史・松島曉の両弁護人は1994年(平成6年)3月31日付で{{Sfn|集刑272号|1997|p=615}}、全173ページ(目次4ページ+本文169ページ)におよぶ上告趣意書を提出した。その内容は、物証や直接証拠の不存在{{Sfn|集刑272号|1997|pp=619-620}}、目撃証言の信用性への疑念{{Sfn|集刑272号|1997|p=625}}、自白の任意性への異論{{Sfn|集刑272号|1997|p=770}}、そして[[死刑制度合憲判決事件|死刑制度の違憲性]]などを主張するものだった{{Sfn|集刑272号|1997|pp=785-787}}。 |
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1997年(平成9年)11月14日、最高裁第三小法廷([[園部逸夫]]裁判長)で[[公判#上告審における公判|上告審の公判]]が開かれ、弁護人と検察官の双方による弁論が行われて結審した<ref name="京都新聞1997-11-15">『京都新聞』1997年11月15日朝刊第17版第一社会面31頁「連続殺人の広田被告 上告審で口頭弁論 「銃弾鑑定に矛盾」 無罪を主張」(京都新聞社)</ref>。弁護人は同日、京都事件・大阪事件とも廣田は無罪である旨を主張<ref>『産経新聞』1997年11月15日東京朝刊第二社会面「京都の連続強盗殺人 一、二審で死刑判決 元警官の上告審結審」([[産経新聞東京本社]])</ref>。京都事件で奪われた拳銃と、大阪事件で凶器として用いられた拳銃を同一とする2つの鑑定結果について、[[ライフリング|線条痕]]の場所が食い違っているという旨を指摘し、廣田の関与を裏付ける物証(凶器・犯行時の衣服など)がないことや<ref name="京都新聞1997-11-15"/>、目撃証言の貧弱さなどに言及した<ref name="産経新聞1997-12-20"/>。その上で、廣田の「真犯人は別にいる」という意見陳述書も提出し<ref name="産経新聞1997-12-20">『産経新聞』1997年12月20日東京朝刊第三社会面「京都・大阪の連続強盗殺人 元巡査部長死刑確定へ 上告棄却「犯行は冷酷、残虐」」(産経新聞大阪本社)</ref>、線条痕の鑑定結果や自白・目撃証言などから、両事件を廣田の単独犯と推論した原判決を破棄し、審理をやり直すよう訴えた<ref name="京都新聞1997-11-15"/>。一方、検察官は「自白には虚実が入り交じっているが、自分一人でやったという骨格部分は信用できる」と反論した上で、目撃証言<ref>『朝日新聞』1997年11月15日大阪朝刊第二社会面30頁「京都・連続強殺被告の元警官、上告審も無罪主張 【大阪】」(朝日新聞大阪本社)</ref>・鑑定に矛盾はないとして、上告棄却を求めた<ref name="京都新聞1997-11-15"/>。なお、同日の弁論後、廣田は「神宮」に復姓している<ref name="毎日新聞1997-12-20"/>。 |
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同年12月19日、最高裁第三小法廷(園部逸夫裁判長)は原判決を支持し、廣田の上告を棄却する判決を言い渡した<ref name="京都新聞1997-12-20">『京都新聞』1997年12月20日朝刊第17版一面1頁「府警元巡査部長の連続強盗殺人 広田被告の死刑確定へ 最高裁が上告棄却」(京都新聞社)</ref><ref name="毎日新聞1997-12-20"/>。廣田は判決訂正申立を行ったが、1998年(平成10年)1月13日付の同小法廷決定[事件番号:平成9年(み)第5号、平成10年(み)第1号]により棄却され<ref>{{Cite journal|和書|journal=最高裁判所刑事裁判書総目次 平成10年1月分|title=刑事雑(全) > 判決訂正申立 > 事件番号:九(み)五、一〇(み)一 事件名:強盗殺人、銃砲刀剣類所持等取締法違反、火薬類取締法違反 申立人又は被告人氏名:旧姓廣田 神宮雅晴 裁判月日:平成一〇年一・一三 法廷:三 結果:棄却 原本綴丁数:一|page=11|date=1998-01-01|publisher=最高裁判所事務総局}} - 『最高裁判所裁判集 刑事』第273号(平成10年1月 - 9月分)の巻末付録。</ref>、同月16日付で死刑が確定した{{Sfn|集刑287号|2005|p=576}}{{Sfn|大阪地裁|2014|loc=第2 事案の概要 > 2 前提事実 > (1)原告の収容経緯}}{{Sfn|稲葉実香|2015|p=19}}。 |
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== 死刑確定後 == |
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廣田は死刑確定後、1998年12月3日から7回にわたって[[再審]]請求を行ったが、いずれも棄却され{{Efn2|1999年(平成11年)11月25日、最高裁第二小法廷が再審請求事件についてした即時抗告棄却決定に対する特別抗告を棄却する決定[事件番号:平成11年(し)第182号]を出した<ref>{{Cite journal|和書|journal=最高裁判所刑事裁判書総目次 平成11年11月分|title=刑事雑(全) > 判決訂正申立 > 事件番号:11(し)182 事件名:再審請求事件についてした即時抗告棄却決定に対する特別抗告 申立人又は被告人氏名:神宮雅晴 裁判月日:〔平成11年〕11・25 法廷:二 結果:棄却 原審:大阪高 原本綴丁数:150|page=20|date=1999-11-01|publisher=最高裁判所事務総局}} - 『最高裁判所裁判集 刑事』第277号(平成11年7月 - 11月分)の巻末付録。</ref>。2000年(平成12年)12月5日にも、第二小法廷が特別抗告棄却の決定[平成12年(し)第267号]を出している<ref>{{Cite journal|和書|journal=最高裁判所刑事裁判書総目次 平成12年12月分|title=刑事雑(全) > 判決訂正申立 > 事件番号:12(し)267 事件名:再審請求事件についてした即時抗告棄却決定に対する特別抗告 申立人又は被告人氏名:神宮雅晴 裁判月日:〔平成12年〕12・5 法廷:二 結果:棄却 原審:大阪高 原本綴丁数:377|page=15|date=2000-12-01|publisher=最高裁判所事務総局}} - 『最高裁判所裁判集 刑事』第279号(平成12年7月 - 12月分)の巻末付録。</ref>。}}、2011年(平成23年)1月21日には第8次再審請求を行った{{Sfn|大阪地裁|2014|loc=第2 事案の概要 > 2 前提事実 > (1)原告の収容経緯}}。 |
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2008年(平成20年)には[[福島瑞穂]]([[参議院]][[日本の国会議員|議員]])が実施したアンケート{{Efn2|福島は[[国政調査権]]を使い{{Sfn|フォーラム90|2009|p=6}}、2008年7月に死刑確定者たちへアンケート用紙を郵送し(最終締切は同年8月末){{Sfn|フォーラム90|2009|p=13}}、郵送相手105人のうち78人から回答を得ている{{Sfn|フォーラム90|2009|p=6}}。}}に対し、以下のように回答している{{Sfn|フォーラム90|2009|pp=30-31}}。 |
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{{Quotation|娘が自殺をした。20歳の処女の身体で。ショックで気違いになった。ムスコ、愛人も今流行の国に拉致をされた。この世に3人類似した他人がいるというが、娘によく似た女子マラソンの[[高橋尚子]]さんに逢いたい(泣くかもしれないが)。写真を見ただけで涙が出て来る。 |
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〔獄中生活で一番苦しいこと、つらいこと〕<br/>暑さ寒さへの対応。再審で正しいことを主張しても嘘と言われ、裁判に必要な用紙代、カンテイ代もない秋(トキ)。嘘を正確と判示された書面を読む秋。<br/>他にも多くの訴えがしたいが、今のところ、再審請求に影響があるので沈黙をする。<br/>[[日本国政府|日本政府]]は真犯人を知りながら沈黙をし、オレを処刑して、真実を闇にほうむろうとしている。 |
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|神宮雅晴}} |
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2009年(平成21年)11月16日17時34分ごろ、廣田は親族らに宛てた遺書4通を作成した上で、居室の窓に取り付けられている金属製の網戸を四角形状に破り、シーツを網戸に通して自殺を図ったため、要注意者(自殺・自傷・逃走・暴行)に指定された{{Sfn|大阪地裁|2014|loc=第3 争点に対する判断 > 1 認定事実}}。その後、2010年(平成22年)11月25日には要注意者に指定された当時に比べて精神的に落ち着いた様子が見受けられるようになったとして、要視察者(自殺・自傷・逃走・暴行)に指定が変更された{{Sfn|大阪地裁|2014|loc=第3 争点に対する判断 > 1 認定事実}}。 |
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また、福島は2011年6月20日 - 8月31日にも死刑確定者120人(2011年6月20日時点)を対象としたアンケートを実施したが{{Efn2|2011年12月時点で新たな死刑確定者にも同様のアンケートを送付している{{Sfn|フォーラム90|2012|p=10}}。}}{{Sfn|フォーラム90|2012|pp=10-12}}、廣田はこのアンケートに対し、久間三千年([[飯塚事件]]の死刑囚)に対する刑執行{{Efn2|name="久間三千年"}}を批判し、久間に有罪判決を言い渡した「裁判屋」(=裁判官)や起訴した「検察屋」(=検察官)、逮捕した「ポリスケ」(=警察官)らについて「無実の者を処刑して、手前はのうのうと生存をすることなど許されない。全員公開処刑をすべきだ。」などと主張した上で、以下のような回答を寄せている{{Sfn|フォーラム90|2012|pp=47-48}}。 |
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{{Quotation|此の様なことが何故立法府で問題にされないのか、立法府が如何に人間の生命などを軽視する機関で在るのか判るだろう。全議員が知恵を出して先の[[東日本大震災]]の復興をせねばならないのに、瑣末なことのみにとらわれて、政局争ひを政治と考えている。これからも立法府が如何に人命を粗末にする機関で在るのか判るだらふ。 |
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みずほさん!あんたは何をしに議員バッチを付けているのか。久間氏の問題を取り上げてこそ議員としての価値観が在る。単にメシを食ひに行く為で在れば議員として何んの価値もない。俺は大阪拘置所からの暴行を参議院[[法務委員会]]に請願をしたが総て握り潰された。このことから、参議院は当然として議員など鼻クソ程も信用をしていない。いずれにしても、久間氏の弁護人は何をしていたのかと問いたい。無能な弁護士で在ったと想う。俺の時も証拠の見方も判らぬ弁護士で在ったので、久間氏に同情をする。 |
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(日本の司法に言いたいこと)<br/>裁判官に良く証拠を見ろといいたい。検察官に証拠を隠すなといいたい。弁護人に証拠の見方も判らぬボンクラ連中と定義付けをしたい。法務大臣に事実を握り潰す様なことをするなといいたい。再審請求している者の処刑など絶対にするな。久間氏を処刑した法務大臣{{Efn2|name="久間三千年"|久間は冤罪を主張していたが{{Sfn|フォーラム90|2012|p=48}}、[[森英介]]法務大臣が発した死刑執行命令により、2008年(平成20年)10月28日に収監先の[[福岡拘置所]]で死刑を執行されている<ref>{{Cite news|title=死刑執行:2死刑囚に刑執行 森法相下で初--福岡と福島の殺人|newspaper=毎日新聞|date=2008-10-28|edition=東京夕刊|author=石川淳一|url=http://mainichi.jp/select/seiji/news/20081028dde001010018000c.html|publisher=毎日新聞東京本社|language=ja|archive-url=https://web.archive.org/web/20081031102831/http://mainichi.jp/select/seiji/news/20081028dde001010018000c.html|archive-date=2008年10月31日}}</ref>。}}は切腹しろ!それが責任の取り方だ。 |
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拘置所長・職員に、今戦争中で在り、其の戦争は更に長く成る。泣きを入れるなよ! |
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必ず地獄の底に落してやる |
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|神宮雅晴|{{Sfn|フォーラム90|2012|p=48}}}} |
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=== 国家賠償請求訴訟 === |
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2013年(平成25年)4月1日、廣田は第8次再審請求のための費用を工面するため、著書を出版して印税を得ようと考え{{Sfn|大阪地裁|2014|loc=3 争点 > (原告の主張)}}、「極悪死刑囚の笑福転倒」と題する原稿と{{Sfn|大阪地裁|2014|loc=第2 事案の概要 > 2 前提事実 > (1)原告の収容経緯}}、その原稿を[[徳間書店]]<!--大阪高裁 (2014) には、対象となる出版社が「徳間書店」と明記されている{{Sfn|大阪高裁|2014|loc=第2 事案の概要 > 4 争点及び争点についての当事者の主張 (2)当審における補充主張}}-->に送るよう依頼する信書を{{Sfn|大阪高裁|2014|loc=第2 事案の概要 > 4 争点及び争点についての当事者の主張 (2)当審における補充主張}}、知人宛に郵送しようとした<ref name="京都新聞2014-05-23"/>。原稿は、原稿用紙175枚で、日本の政治を風刺する内容だった{{Sfn|大阪地裁|2014|loc=第3 争点に対する判断 > 1 認定事実}}。しかし、処分行政庁が同月5日付で信書の発信を不許可にしたことから、廣田は同年4月27日付で国に対し、処分取り消しを求める[[国家賠償請求権|国家賠償請求訴訟]]を提起した{{Sfn|大阪地裁|2014|loc=第2 事案の概要 > 2 前提事実 > (1)原告の収容経緯}}。 |
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被告(処分行政庁)は当時、原稿を原告(廣田)に返戻し、その写しを所持していなかったため、一審手続では原稿の内容に即した反論をしていなかった{{Sfn|大阪地裁|2015|pp=3-4}}。大阪地裁第7民事部(田中健治裁判長)は2014年5月22日、[[原告]](神宮)の請求を認める判決を言い渡した{{Sfn|大阪地裁|2014}}<ref name="京都新聞2014-05-23">『[[京都新聞]]』2014年5月23日朝刊27頁「84年京都・大阪連続強盗殺人 死刑囚の原稿発信認める 大阪地裁「表現の自由」」(京都新聞社)</ref><ref name="読売新聞2014-05-23">『[[読売新聞]]』2014年5月23日大阪朝刊第三社会面27頁「死刑囚の原稿発信認める 大阪地裁判決 拘置所の不許可「違法」」(読売新聞大阪本社)</ref>。しかし、被告側が同年6月4日付で大阪高裁に控訴したところ{{Sfn|大阪地裁|2015|p=4}}、大阪高裁第14民事部(森義之裁判長)は同年11月14日{{Sfn|大阪高裁|2014}}、原判決を取り消し、原告(廣田)の請求を棄却する判決を言い渡した<ref name="読売新聞2014-11-15">『読売新聞』2014年11月15日大阪朝刊第三社会面37頁「死刑囚の原稿発送不許可 拘置所の裁量 逸脱なし 大阪高裁」(読売新聞大阪本社)</ref><ref name="毎日新聞2014-11-15">{{Cite news|title=死刑囚の信書:出版社への原稿送付で「拘置所に裁量権」◇死刑囚が逆転敗訴、大阪高裁|newspaper=[[毎日新聞]]|date=2014-11-15|author=堀江拓哉|url=http://mainichi.jp/select/news/20141115k0000m040145000c.html|publisher=[[毎日新聞社]]|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141117072618/http://mainichi.jp/select/news/20141115k0000m040145000c.html|archivedate=2014年11月17日}}</ref>。大阪高裁 (2014) は、「死刑確定者は死刑の執行を待つという特殊な身分にあり、心情の安定を損なうおそれが大きい状況にあるため、その処遇にあたっては、施設管理の必要上、死刑確定者における心情の安定の確保に特段の配慮が必要と考えられる」とした上で、原告の「発信不許可処分は、[[日本国憲法第21条|憲法第21条]]で保証された出版の自由の侵害」という主張について検討<ref>{{Cite journal|和書|journal=[[法学セミナー]]|author=麻生多聞([[鳴門教育大学]]准教授)|title=最新判例演習室――憲法 刑事収容施設法下における死刑確定者の外部交通権[大阪高裁平成26.11.14判決]|volume=60|page=122|date=2015-03-01|issue=3|publisher=[[日本評論社]]|id={{国立国会図書館書誌ID|026087769}}}} - 通巻:第722号(2015年3月号)。</ref>。「刑事施設の長の裁量により、信書の発信を認められるためには、社会通念上必要というべき事情がなければならないが、原告(神宮)の主張する理由(再審請求のために必要な費用を工面するために原稿を出版して印税を得ようとした)はそれに該当しない。また、出版社(徳間書店)との間で折衝が行われた形跡はなく、原稿の内容も元[[内閣総理大臣]]を誹謗中傷する趣旨のものが中心で、犯罪被害者を批判する記載、[[ヘイトスピーチ|他民族を侮辱・蔑視する記載]]、わいせつな表現などが多数含まれるものであり、徳間書店によって出版される可能性が高かったとはいえない」と判断した{{Sfn|大阪高裁|2014}}。 |
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廣田は上告したが、上告は最高裁第三小法廷([[山崎敏充]]裁判長)が2016年5月31日付で出した決定によって棄却され<ref>{{Cite news|title=死刑囚の原稿発送不許可、判決確定|newspaper=朝日新聞デジタル|date=2016-06-03|url=https://www.asahi.com/articles/DA3S12390247.html|accessdate=2021-05-28|publisher=朝日新聞社|language=ja|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210528133757/https://www.asahi.com/articles/DA3S12390247.html|archivedate=2021年5月28日}}</ref>、廣田の敗訴が確定した<ref name="産経新聞2016-06-02">{{Cite news|title=京都・大阪連続強盗殺人事件の死刑囚 原稿送付不許可で敗訴確定|newspaper=[[産経新聞ニュース|産経WEST]]|date=2016-06-02|url=https://www.sankei.com/west/news/160602/wst1606020093-n1.html|publisher=[[産経デジタル]]|language=ja|archiveurl=http://web.archive.org/web/20160603174905/https://www.sankei.com/west/news/160602/wst1606020093-n1.html|archivedate=2016年6月3日}}</ref>。 |
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また、この訴訟に関連して、廣田は自身の著作物である原稿を大阪拘置所職員に騙されて提出させられ、無断で原稿の写しを作成された{{Efn2|大阪拘置所や大阪法務局が廣田の原稿の写しを作成したのは、2013年の訴訟における控訴理由書を作成するためだった{{Sfn|大阪地裁|2015|p=11}}。}}上、その写しを[[大阪法務局]]訟務部職員に交付され、同訟務部職員によって書面を作成された(写しや書面の作成は[[著作権]]侵害行為)として、[[国家賠償法]]第1条1項に基づき、被告(国)に対し、損害金300万円などの支払いを求めた国賠訴訟を提起した{{Sfn|大阪地裁|2015|pp=2-3}}。しかし、大阪地裁第21民事部(森崎英二裁判長){{Sfn|大阪地裁|2015|p=18}}は2015年(平成27年)6月11日{{Sfn|大阪地裁|2015|p=1}}、「原稿の提出を求めた行為は、所轄の統括において、発受の可否を判断するために本件原稿を必要があると認めて本件原稿を提出させた行為と評価できるから、刑事収容施設法上、当然に発受できない信書の発信を求める本件願箋への対処として適法なもの」「原稿を騙して提出させたとまで認めることはできない」{{Sfn|大阪地裁|2015|p=13}}と指摘。廣田による「著作権侵害」の主張についても、「写しの作成は[[著作権法]]第42条1項本文に定める『行政の目的のために内部資料として必要と認められる場合』に該当し、違法ではない」{{Sfn|大阪地裁|2015|p=15}}などとして退け、廣田の請求を棄却する判決を言い渡した{{Sfn|大阪地裁|2015|p=2}}。 |
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== 考察・評価 == |
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第一審の公判を3回傍聴した作家の[[佐木隆三]]は、自身が[[死刑存廃問題|死刑廃止論者]]であることを前置きした上で、本事件については日本の刑事裁判の[[量刑相場|量刑事情]]を踏まえ「(死刑は)仕方ない判決」と述べ、また廣田については「冤罪を訴える真摯な姿勢が感じられず、彼の主張に最後まで共鳴することはできなかった」と述べている<ref>『京都新聞』1997年12月20日朝刊第17版第二社会面24頁「佐木隆三さんに聞く えん罪主張 共鳴出来ず 「真摯な姿勢がない」」(京都新聞社)</ref>。 |
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[[福島章]]は、廣田が本事件を起こした動機について(廣田なりの)「たったひとりの正義」と評している{{Sfn|福島章|1987|p=43}}。 |
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山中幸一郎 (1985) は、昭和戦前から1984年までに起きた警察官の非行・不祥事を総括し、当時は戦前に多かった汚職型の不祥事が減少していた一方、本事件や山中湖連続殺人事件{{Efn2|name="澤地和夫"}}のような凶悪犯型の犯罪が増加傾向にあったことや、これらの事件は計画性・残忍性を有したもので、それ以前の警察官による殺人事件(泥酔しての犯行や、[[心中|無理心中]]崩れの犯行などが多かった)とは異質であることを指摘し、両事件を「元警官の犯罪とはいえ、凶悪化を象徴する事件と言える。」と評している{{Sfn|山中幸一郎|1985|p=35}}。 |
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小林道雄(ノンフィクション作家)は、1983年 - 1985年にかけて発生した警察官・元警察官による犯罪(本事件や山中湖連続殺人事件を含む)について、いずれの事件もサラ金苦を動機に、主に40 - 45歳の人物が起こしているという共通項を挙げた上で、彼らのような世代は警察官のなり手が少なかったことから、採用人数を稼ぐために採用基準が甘くなっていたという可能性や{{Efn2|小林から取材を受けた警視庁OBは、1961年(昭和36年)から1962年(昭和37年)ごろは[[安保闘争|60年安保]]の後遺症から、若者の間で警察が不人気だった頃に[[高度経済成長]]も重なり、高卒者の求人が殺到していたことや、70年安保に向けて警察官の増員が求められていたことから、採用に当たっては質より人数が優先されたという可能性を指摘している{{Sfn|小林道雄|2000|p=14}}。}}、発生地が大都市に集中している一方、犯人のほとんどは地方出身者であること{{Efn2|元[[中国管区警察局]]長の鈴木達也は、大都市圏(首都圏や関西圏など)は警察官の需要の高さに反してなり手が少なく、地方出身者を多数採用する傾向にある一方、警察官の間では都会志向はあまり強くないため、優秀な地方出身者の多くは地元に残り、それより劣る者が大都市圏で警察官として就職し、「田舎者」としてのコンプレックス由来のストレスを抱えたり、周囲に知人がいないことで誘惑に弱くなったりすることで不祥事を起こす、という旨を指摘し、「地方出身者の指導は特に配慮が必要」と指摘している{{Sfn|小林道雄|2000|pp=15-16}}。}}、そして外勤(警ら)・交通などの「制服組」に犯罪者が集中していた一方、刑事が不祥事を起こした事例は極めて少ない{{Efn2|刑事に不祥事を起こした者が少ない理由について、元[[近畿管区警察学校]]講師の板谷多一は「刑事は世間の裏表を知り尽くしており、上からの締め付けも厳しいため、人間的にできていないと務まらない。また、自分が逮捕して刑務所に送った者の家族がどれほどつらい目に遭っているかも知っているからだ」という旨を指摘している{{Sfn|小林道雄|2000|p=17}}。}}という点を指摘している{{Sfn|小林道雄|2000|pp=13-17}}。その上で、犯罪・不祥事を生む本質的な問題として、昇任試験制度を挙げ、不祥事を起こした者の多くを占める40 - 45歳は「この制度によって自分たちの警察社会における先行きが、はっきりと見えてしまう」年代という旨を指摘している{{Sfn|小林道雄|2000|p=18}}。 |
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『[[諸君!]]』1984年11月号は、新幹線の車内でカメラマンに駅弁を投げつけた廣田の行動について一定の理解を示す旨を述べている<ref>{{Cite journal|和書|journal=[[諸君!]]|title=紳士と淑女|volume=16|page=21|date=1984-11-01|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3368599/12|issue=11|publisher=[[文藝春秋]]|DOI=10.11501/3368599|id={{NDLJP|3368599/12}}}}</ref>。 |
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[[朝日新聞大阪本社]]社会部の山崎正弘は、本事件や大阪府警[[淀川警察署]]の巡査部長による愛人射殺事件(1983年9月)、1984年3月・4月に相次いで発生した[[兵庫県警察]]の現職警官による銀行強盗事件など、関西の3府県警(京都・大阪・兵庫)で相次いで[[警察不祥事|不祥事]]が発生した背景として、各事件の犯人たちがサラ金から多額の借金を抱えていたことや、警察などの権力機構(「お上」)に対する庶民の畏敬の念が薄く、期待も少ないことから、「世の中は金次第」と打算的に物事を考える傾向が強い(=警察官が職業的な誇りを持ちにくい)関西特有の土壌などを挙げている{{Sfn|山崎正弘|1984|pp=23-24}}。『[[週刊文春]]』記者の網谷隆司郎は、兵庫県警の幹部や[[難波利三]](作家)、[[谷沢永一]]([[関西大学]]教授)・[[大村英昭]]([[大阪大学]]助教授)の意見を引用し、関西は関東に比べて庶民感覚が強いゆえ、警察官たちの間でも「けじめ」の意識が薄く、それが関西における警察不祥事多発の遠因になっている旨を指摘していた{{Sfn|サンデー毎日|1984|p=20}}。 |
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本事件は直接証拠がない中、多数の目撃証言などの間接証拠の積み重ねにより、事件当日の状況を分刻みで再現し、嫌疑を否認している被疑者が犯人であることを立証するという捜査手法が取られたが、『[[毎日新聞]]』([[毎日新聞大阪本社|大阪本社]]版)は[[和歌山毒物カレー事件]](1998年発生)の捜査手法もそれと同一である旨を述べている<ref name="毎日新聞1998-12-08"/>。 |
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== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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=== 注釈 === |
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{{Notelist2|30em}} |
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=== 出典 === |
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{{Reflist|30em}} |
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== 参考文献 == |
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'''本事件の刑事裁判の判決文''' |
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* [[審級|第一審]][[判決 (日本法)|判決]] - {{Cite 判例検索システム|事件番号=昭和59年(わ)第4576号|裁判年月日=1988年(昭和63年)10月25日|裁判所=[[大阪地方裁判所]]|法廷=第1刑事部|裁判形式=判決|判例集=|事件名=強盗殺人、銃砲刀剣類所持等取締法違反、火薬類取締法違反被告事件}} |
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** 判決[[主文]]:被告人を死刑に処する。 |
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** 裁判官:青木暢茂(裁判長)・林正彦・河田充規 |
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** {{Cite journal|和書|journal=[[判例時報]]|title=一、仮釈放の五日後に、パトロール中の警察官一名を殺害してピストルを強奪し、さらにそのピストルでサラ金の従業員一名を射殺して現金約六〇万円を強奪したという事案につき、死刑が言い渡された事例 二、自白につき、捜査官の暴行によるものである旨の被告人の主張が排斥され、任意性が認められた事例 三、目撃証言につき、観察条件、目撃内容、証言の具体性などの信用性が高いとされた事例――ピストル強盗連続殺人事件第一審判決 大阪地裁 63. 10. 25 判決〔強盗殺人、銃砲刀剣類所持等取締法違反、火薬類取締法違反被告事件、'''大阪地裁'''昭五九(わ)四五七六号、昭'''63・10・25'''刑一部'''判決'''、有罪(控訴)〕|date=1989-05-11|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2795315/28|issue=1304|pages=55-81|publisher=判例時報社|DOI=10.11501/2795315|ref={{SfnRef|判例時報|1989}}|id={{NDLJP|2795315/28}}}} - 1989年5月11日号。 |
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* [[控訴]]審判決 - {{Cite 判例検索システム|事件番号=平成元年(う)第162号|裁判年月日=1993年(平成5年)4月30日|裁判所=[[大阪高等裁判所]]|法廷=第6刑事部|裁判形式=判決|判例集=|事件名=強盗殺人、銃砲刀剣類所持等取締法違反、火薬類取締法違反被告事件}} |
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** 判決主文:本件[[控訴]]を[[棄却]]する。 |
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** 裁判官:村上保之助(裁判長)・米田俊昭・安原浩(安原は転勤のため署名・押印できず) |
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** 弁護人・検察官 |
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*** 弁護人:堀和幸・塚本誠一(控訴趣意書を連名作成。なお、被告人の廣田本人も控訴趣意書を作成) |
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*** 検察官:藤野千代麿(控訴趣意書に対する答弁書を作成) |
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** {{Cite journal|和書|journal=判例時報|title=一、仮釈放の五日後に、パトロール中の警察官一名を殺害してピストルを強奪し、さらにそのピストルでサラ金の従業員一名を射殺して現金約六〇万円を強奪したという事案につき死刑を言い渡した原判決の判断を正当とした事例 二、自白は警察官の拷問により強要されたものであるから任意性がないという被告人側の主張を排斥した事例 三、目撃証言の信用性などを認めて被告人と犯人の同一性を肯定した事例――ピストル強盗連続殺人事件控訴審判決 〔強盗殺人、銃砲刀剣類所持等取締法違反、火薬類取締法違反被告事件、'''大阪高裁''' 平'''5. 4. 30''' 刑六部'''判決'''、控訴棄却(上告) 一審大阪地裁五九(わ)四五七六号、昭63・10・25判決〕|date=1994-11-01|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2795517/76|issue=1503|pages=151-161|publisher=判例時報社|DOI=10.11501/2795517|ref={{SfnRef|判例時報|1994}}|id={{NDLJP|2795517/76}}}} - 1994年11月1日号。 |
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** {{Cite journal|和書|journal=[[判例タイムズ]]|title=ピストル強盗連続殺人事件控訴審判決 一 連続強盗殺人事件につき自白の任意性及び信用性を肯定して被告人を犯人と認めた事例 二 死刑を言い渡した第一審判決の量刑を維持した事例〔'''大阪高裁'''平元(う)第一六二号、強盗殺人、銃砲刀剣類所持等取締法違反、火薬類取締法違反被告事件、'''平5・4・30第六刑事部'''判決、控訴棄却・上告、原審大阪地裁昭五九(わ)第四五七六号、昭63・10・25判決〕|volume=45|date=1994-05-15|issue=13|pages=249-260|publisher=判例タイムズ社|ref={{SfnRef|判例タイムズ|1994}}}} - 通巻:第840号(1994年5月15日号)。 |
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* [[上告]]審判決 - {{Cite 判例検索システム|Ref={{SfnRef|最高裁第三小法廷|1997}}|事件番号=平成5年(あ)第570号|裁判年月日=1997年(平成9年)12月19日|法廷名=[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]第三[[小法廷]]|裁判形式=判決|判例集=集刑 第272号613頁|url=https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=57978|事件名=強盗殺人、銃砲刀剣類所持等取締法違反、火薬類取締法違反|判示事項=死刑事件(元警察官による連続強盗殺人事件)}} |
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** 判決主文:本件上告を棄却する。 |
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** [[最高裁判所裁判官]]:[[園部逸夫]](裁判長)・[[千種秀夫]]・[[尾崎行信]]・[[元原利文]]・[[金谷利廣]] |
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** 弁護人・検察官 |
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*** 弁護人:神山啓史・松島曉 |
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*** 検察官:山口一誠・山本恒巳(公判出席) |
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** {{Cite journal|和書|journal=最高裁判所裁判集 刑事|year=1998|title=|issue=272|pages=613-788|publisher=最高裁判所|ref={{SfnRef|集刑272号|1998}}}} - 平成9年10月 - 12月分。 |
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'''[[国家賠償請求権|国家賠償請求訴訟]]の判決文''' |
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* 2013年に提起した訴訟の第一審判決 - {{Cite 判例検索システム|Ref={{SfnRef|大阪地裁|2014}}|事件番号=平成25年(行ウ)第96号|裁判年月日=2014年(平成26年)5月22日|裁判所=[[大阪地方裁判所]]|法廷=第7民事部<!--D1-Lawのデータには「第7民事部」は非掲載、TKCには掲載-->|裁判形式=判決|判例集=『訟務月報』第61巻8号1615頁、『[[TKC]]ローライブラリー』(LEX/DBインターネット)文献番号:25504117、『D1-Law.com』(第一法規法情報総合データベース)判例ID:28234422|事件名=発信不許可処分取消請求事件|裁判要旨=死刑確定者として大阪拘置所に収容中の原告が、平成25年4月1日付けで、原告が書いた原稿が同封されたα宛の信書の発信を申請したところ、処分行政庁(大阪拘置所)が同月5日付けで同申請を不許可としたことから、被告(国)に対し、本件不許可処分の取消しを求めた事案において、本件信書は、[[刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律]]139条2項により発信が許されるべき信書で、本件信書の発信を制限することは、必要性及び合理性を欠くものであることは明らかであるとし、本件不許可処分は、裁量権の範囲を逸脱したものとして違法であるとして、原告の請求を認容した事例。 (TKC)<!--死刑確定者が知人に宛てて出版を目的とした原稿を同封した信書の発信を申請したところ、同信書が刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律139条2項に該当しないことを理由になされた拘置所長の不許可処分につき、発信の制限が必要性及び合理性を欠くものであったとして、[[国家賠償請求権|国家賠償請求]]が認容された事例。(D1-Law)-->}} |
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** 判決主文 |
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**# 処分行政庁が平成25年4月5日付けで原告に対してした、原告が書いた原稿が同封されたA宛の信書の発信を許可しない旨の処分を取り消す。 |
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**# 訴訟費用は被告の負担とする。 |
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** 裁判官:田中健治(裁判長)・三宅知三郎・松本論 |
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** [[原告]]:神宮雅晴(旧姓:廣田) |
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** [[被告]]:[[日本国]] |
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*** 判例解説 - {{Cite journal|和書|journal=[[法学セミナー]]増刊 新・判例解説Watch[2015年4月]速報判例解説|author=稲葉実香|title=新・判例解説Watch◆憲法 No.3 死刑確定者の信書発信の権利 文献番号 z18817009-00-010871120|volume=16|editor=新・判例解説編集委員会|date=2015-04-25|url=https://www.nippyo.co.jp/shop/book/6797.html|pages=19-22|chapter=|publisher=[[日本評論社]]|ref={{SfnRef|稲葉実香|2015}}}} |
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* 2013年に提起した訴訟の控訴審判決 - {{Cite 判例検索システム|Ref={{SfnRef|大阪高裁|2014}}|事件番号=平成26年(行コ)第107号|裁判年月日=2014年(平成26年)11月14日|裁判所=[[大阪高等裁判所]]|法廷=第14民事部<!--D1-Lawのデータには「第14民事部」は非掲載、TKCには記載あり-->|裁判形式=判決|判例集=『訟務月報』第61巻8号1601頁、『TKCローライブラリー』(LEX/DBインターネット)文献番号:25505187、『D1-Law.com』(第一法規法情報総合データベース)判例ID:28234421|事件名=発信不許可処分取消請求控訴事件|判示事項=〔訟務月報〕出版を目的とした死刑確定者の原稿が同封された知人宛ての信書の発信申請について、当該原稿が犯罪被害者を批判する記載等を多数含むものであって、出版社との間で何らかの折衝が行われた形跡もないなどの事情の下では、同新書が刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律139条2項に該当しないとして不許可とした刑事施設の長の判断に裁量権の範囲の逸脱又は濫用がないとされた事例|裁判要旨=【事案の概要】死刑確定者として拘置所に収容中の被控訴人(原告)が、被控訴人が書いた原稿が同封された信書の発信の申請をしたところ、不許可処分を受けたことから、控訴人(被告、国)に対し、同処分の取り消しを求め、原審は、同処分は裁量権の範囲を逸脱したとして、請求を認容し、処分を取り消したとの事案において、控訴審は、同信書について、刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律139条2項所定の「その発受を必要とする事情」があるとは認められないから、同処分には、裁量の範囲を逸脱した違法があるということはできないとして、原判決を取消し、被控訴人の請求を棄却した事例。 (TKC)}} |
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** 判決主文 |
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**# 原判決を取り消す。 |
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**# 被控訴人の請求を棄却する。 |
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**# 訴訟費用は、第1、2審とも被控訴人の負担とする。 |
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** 裁判官:森義之(裁判長)・龍見昇・金地香枝 |
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* {{Cite 判例検索システム|Ref={{SfnRef|大阪地裁|2015}}|事件番号=平成26年(ワ)第7683号|裁判年月日=2015年(平成27年)6月11日|裁判所=大阪地方裁判所|法廷=第21民事部|裁判形式=判決|判例集=裁判所ウェブサイト、『TKCローライブラリー』(LEX/DBインターネット)文献番号:25447336|url=https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail7?id=85190|事件名=損害賠償請求事件|判示事項=|裁判要旨=【事案の概要】死刑確定者として拘置所に収容中の原告が、拘置所職員等が、信書を発信する手続に際し、原告の著作物である原稿を騙して提出させた行為、同職員が同原稿の写しを原告の許諾なく作成した行為等が、いずれも違法な行為であると主張して、被告(国)に対し、損害賠償を求めた事案において、原告は、本件出版社への出版を依頼するための外部交通を行うことを求めて本件順を提出したものであり、副看守長が原告に本件原稿の提出を求めた行為は、所轄の統括において、発受の可否を判断するために本件原稿を必要があると認めて本件原稿を提出させた行為と評価できるから、刑事施設及び被収容者の処遇に関する法律上、当然に発受できない信書の発信を求める本件順箋への対処として適法なものといえるとし、原告の請求を棄却した事例。 (TKC)}} |
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** 判決主文 |
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**# 原告の請求を棄却する。 |
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**# 訴訟費用は原告の負担とする。 |
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** 裁判官:森崎英二(裁判長)・田原美奈子・大川潤子 |
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'''その他裁判資料''' |
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* {{Cite journal|和書|journal=最高裁判所裁判集 刑事|year=2005|title=|page=575|issue=287|publisher=最高裁判所|ref={{SfnRef|集刑287号|2005}}}} - 平成17年1月 - 8月分。 |
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** [[日本における死刑囚の一覧 (2000-2009)#2007年死刑確定囚(23人)|三重連続射殺事件]]の共犯者(死刑を求刑されたが、一・二審で無期懲役判決)に対する検察官の上告趣意書別表3「被害者二名の強盗殺人事件で、永山判決以後最高裁判所において死刑選択の当否が判断された事例一覧表」が収録されている。同事件は2005年(平成17年)7月15日付で、最高裁第二小法廷([[津野修]]裁判長)が上告棄却の決定[[https://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=57819 平成12年(あ)第690号]]を出した。 |
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'''雑誌記事''' |
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* {{Cite journal|和書|journal=[[週刊サンケイ]]|title=やっぱりサラ金も登場する 京都・悪徳警官転落の出発点|volume=27|date=1978-08-17|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1811154/10|issue=36|pages=19-21|publisher=[[扶桑社]]|DOI=10.11501/1811154|ref={{SfnRef|週刊サンケイ|1978}}|id={{NDLJP|1811154/10}}}} - 通巻:第1492号(1978年8月17日号)。 |
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* {{Cite journal|和書|journal=[[週刊文春]]|title=元警官・広田の連続殺人事件 凶暴な“ダッコちゃん” 逃走ミステリー謎ときの「鍵」|volume=26|date=1984-09-20|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3376066/86|issue=37|pages=160-163|publisher=[[文藝春秋]]|DOI=10.11501/3376066|ref={{SfnRef|週刊文春|1984}}|id={{NDLJP|3376066/86}}}} - 通巻:第1302号(1984年9月20日号)。 |
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* {{Cite journal|和書|journal=[[アサヒ芸能|週刊アサヒ芸能]]|title=更生誓って仮出所直後に 連続ピストル殺人鬼 広田雅晴 京都府警への怨念と凶悪の軌跡 仮出所をひたすら待って発射した「6年越しの凶弾」|volume=39|date=1984-09-20|issue=38|pages=22-25|publisher=[[徳間書店]]|ref={{SfnRef|週刊アサヒ芸能|1984}}}} - 通巻:第1981号(1984年9月20日号)。 |
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* {{Cite journal|和書|journal=[[アサヒグラフ]]|author=穴吹史士|title=元警官による短銃強奪殺人事件 連続殺人に走った「異常な恨み」|editor=藤井敏明(編集長)|date=1984-09-21|issue=3220|pages=20-23|publisher=朝日新聞社|ref={{SfnRef|穴吹史士|1984}}}} |
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* {{Cite journal|和書|journal=[[朝日ジャーナル]]|author=[[朝日新聞大阪本社|朝日新聞大阪]]社会部・山崎正弘|title=社会 関西で「警官」の不祥事がなぜ多いのか|volume=26|editor=[[筑紫哲也]](編集長)|date=1984-09-21|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1811839/12|issue=39|pages=23-24|publisher=朝日新聞社|DOI=10.11501/1811839|ref={{SfnRef|山崎正弘|1984}}|id={{NDLJP|1811839/12}}}} - 通巻:第1338号(1984年9月21日号)。 |
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* {{Cite journal|和書|journal=[[週刊現代]]|author=木内貞之|author2=油井富雄|author3=荒木美知子|title=緊急追跡 またも“警官”のショック! 京都・大阪連続射殺魔 広田雅晴 元巡査部長・41歳 『仕返し』の狂った執念|volume=26|editor=(編集長)[[岩見隆夫]]|date=1984-09-22|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3372323/18|issue=37|pages=34-35|publisher=[[講談社]]|DOI=10.11501/3372323|ref={{SfnRef|週刊現代|1984}}|id={{NDLJP|3372323/18}}}} - 1984年9月22日号。 |
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* {{Cite journal|和書|journal=[[サンデー毎日]]|author=石渡明|author2=鈴木充|author3=竹田令二|title=ピストル強奪連続殺人 警察憎しの復讐鬼・広田雅晴元巡査部長の狂った人生|volume=63|editor=(編集長)[[岩見隆夫]]|date=1984-09-23|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3370127/9|issue=42|pages=16-20|publisher=[[毎日新聞出版|毎日新聞社出版部]]|DOI=10.11501/3370127|ref={{SfnRef|サンデー毎日|1984}}|id={{NDLJP|3370127/9}}}} - 通巻:第3849号(1984年9月23日号)。 |
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* {{Cite journal|和書|journal=[[読売ウイークリー|週刊読売]]|title=気をつけろ警官だ!ピストル殺人の「広田」同房のヤクザもビビった冷徹さ|volume=43|date=1984-09-23|url=https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1815206/18|issue=40|pages=20-23|publisher=[[読売新聞社]]|DOI=10.11501/1814465|ref={{SfnRef|週刊読売|1984}}|id={{NDLJP|1814465/11}}}} - 通巻:第1874号(1988年9月23日号)。 |
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* {{Cite journal|和書|journal=[[平凡パンチ]]|title=内田裕也緊急発言 「広田雅晴はなまぬるい狂気のはびこる社会に弾丸を撃ちこんだ〈確信犯〉だ!」|volume=21|date=1984-10-08|issue=38|pages=50-52|publisher=[[マガジンハウス]]|ref={{SfnRef|平凡パンチ|1984}}}} - 通巻:第1029号(1984年10月8日号)。廣田が1978年に起こした郵便局強盗未遂などの事件を題材にした映画『[[十階のモスキート]]』([[映画監督|監督]]:[[崔洋一]])の主演者である[[内田裕也]]へのインタビューを交えた記事。 |
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* {{Cite journal|和書|journal=[[思想の科学]]|author=山中幸一郎|title=警察官の犯罪|volume=7|editor=『思想の科学』臨時増刊号編集委員会|date=1985-03-10|issue=60|pages=30-39|publisher=思想の科学社|ref={{SfnRef|山中幸一郎|1985}}|DOI=10.11501/2223125|id={{NDLJP|2223125/17}}}} - 第7次60号(通巻:第397号、1985年3月臨時増刊号)。 |
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* {{Cite journal|和書|journal=[[週刊大衆]]|author=[[佐木隆三]]|title=新事実発掘 異色ノンフィクション(前篇) 爆走した人間凶器 広域重要一一五事件(元巡査部長・広田の連続殺人)|volume=31|date=1988-10-31|issue=46|pages=78-82|publisher=[[双葉社]]|ref={{SfnRef|佐木隆三1|1988}}}} - 通巻:第1708号(1988年10月31日号)。 |
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* {{Cite journal|和書|journal=週刊大衆|author=佐木隆三|title=新事実発掘 異色ノンフィクション(後篇) 爆走した人間凶器 広域重要一一五事件(元巡査部長・広田の連続殺人)|volume=31|date=1988-11-07|issue=47|pages=78-82|publisher=双葉社|ref={{SfnRef|佐木隆三2|1988}}}} - 通巻:第1709号(1988年11月7日号)。 |
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* {{Cite journal|和書|journal=[[SPA!]]|title=NEWS CHOP 死刑判決 死刑囚仲間もワルと呼ぶ広田雅晴の悪あがき|volume=37|editor=宇留田俊夫|date=1988-11-10|issue=44|pages=26-27|publisher=[[扶桑社]]|ref={{SfnRef|SPA!|1988}}}} - 通巻:第2116号(1988年11月10日号)。 |
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* {{Cite journal|和書|journal=[[噂の眞相]]|author=廣田雅晴(大阪拘置所)|year=1992|title=毎日を先陣としたマスコミ報道陣は「赤報隊」に射殺されよ!|volume=14|month=1|issue=1|pages=94-97|publisher=株式会社噂の真相|ref={{SfnRef|廣田雅晴|1992}}}} - 通巻第155号(1992年1月号:毎月10日発売)。犯人本人による手記。 |
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'''書籍''' |
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* {{Cite book|和書|title=NHK年鑑'85|publisher=[[NHK出版|日本放送出版協会]]|date=1985-09-25|page=143|ref={{SfnRef|NHK|1985}}|editor=[[NHK放送文化研究所|日本放送協会放送文化調査研究所]]放送情報調査部|edition=|isbn=|NCID=BN00828872|chapter=NHK > 放送番組 > 報道番組 > ニュース > 主なニュース|quote=(9月)元巡査部長による京都・大阪連続強盗殺人。|id={{国立国会図書館書誌ID|000001771745}}・{{全国書誌番号|86010578}}}} |
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* {{Cite book|和書|title=犯罪の向う側へ <small>80年代を代表する事件を読む</small>|publisher=[[洋泉社]]|date=1985-11-25|pages=161-187|ref={{SfnRef|朝倉喬司|山崎哲|1985}}|author=[[朝倉喬司]]|NCID=BN03821406|chapter=11 支配権力構造のなかで拡大する恨みと腐敗|author2=山崎哲|doi=|id={{国立国会図書館書誌ID|000001831215}}・{{全国書誌番号|87008659}}}} |
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* {{Cite book|和書|title=犯罪者たち 罪にいたる病|publisher=[[平凡社]]|date=1987-08-20|pages=41-48|ref={{SfnRef|福島章|1987}}|author=[[福島章]]|edition=初版第一刷|isbn=978-4582746020|NCID=BN01880062|chapter=正義・狂信・犯罪|id={{国立国会図書館書誌ID|000001878270}}・{{全国書誌番号|87055775}}}} |
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* {{Cite book|和書|title=京都新聞110年史|publisher=[[京都新聞|京都新聞社]]|date=1989-10-23<!--印刷:平成元年10月20日、発行:平成元年10月23日-->|page=50|ref={{SfnRef|京都新聞社|1989}}|editor=京都新聞創刊110年記念事業実行委員会社史編さん部会(編集・発行者)|edition=|isbn=|NCID=BN04038281|chapter=|quote=元警官の京都・大阪連続強盗殺人事件の発生|id={{国立国会図書館書誌ID|000002066667}}・{{全国書誌番号|91001302}}}} |
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* {{Cite book|和書|title=手錠 ある警察官の犯罪|publisher=講談社|date=1990-07-15|ref={{SfnRef|宍倉正弘|1990}}|author=宍倉正弘|url=https://bookclub.kodansha.co.jp/product?item=0000160891|edition=第1刷発行|series=[[講談社文庫]]|isbn=978-4061847149|NCID=|volume=し-36|id={{国立国会図書館書誌ID|000002054593}}・{{全国書誌番号|90048540}}}} |
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* {{Cite book|和書|title=捜査指揮官 <small>37年間の記録</small>|publisher=[[朝日ソノラマ]]|date=1993-03-01|pages=18-86|ref={{SfnRef|川畑久広|1993}}|author=川畑久廣|edition=第1刷発行|NCID=BN0956280X|chapter=第一章 苦闘の地 〈検証――グリコ・森永事件〉|id={{国立国会図書館書誌ID|000002234029}}・{{全国書誌番号|93027101}}}} - 著者は[[警察庁]]や[[徳島県警察|徳島]]・[[愛知県警察|愛知]]・[[栃木県警察|栃木]]の各県警、[[近畿管区警察局]](保安部長)、[[北海道警察]](本部長)などを歴任し(1987年7月に[[警視監]]昇進、退職)、本事件の発生当時は近畿管区警察局で[[グリコ・森永事件]]、[[山口組]]分裂などの事件に携わっていた。 |
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* {{Cite book|和書|title=日本警察腐敗の構造|publisher=[[筑摩書房]]|date=2000-08-09|pages=41-44|ref={{SfnRef|小林道雄|2000}}|author=小林道雄|url=https://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480035837/|edition=第一刷発行|series=[[ちくま文庫]]|isbn=978-4480035837|NCID=BA48016499|chapter=第一章 不祥事を招く案件|volume=こ-19-1|id={{国立国会図書館書誌ID|000002926902}}・{{全国書誌番号|20099061}}}} |
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* {{Cite book|和書|title=はぐれ弁護士「生贄」の記 山口組元顧問弁護士述懐|publisher=(発行者・発行所)株式会社システムファイブ|date=2002-04-20|pages=55-136|ref={{SfnRef|山之内幸夫|2002}}|author=[[山之内幸夫]]|edition=初版1刷発行|series=Justice-09|isbn=978-4915689178|NCID=BA61817018|chapter=3 拘置所の内と外 > 93-120頁 囚人生活――その日常と死刑囚たち|id={{国立国会図書館書誌ID|000003630165}}・{{全国書誌番号|20271943}}}} |
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* {{Cite book|和書|title=命の灯を消さないで 死刑囚からあなたへ 105人の死刑確定者へのアンケートに応えた魂の叫び|publisher=[[インパクト出版会]]|date=2009-04-10|ref={{SfnRef|フォーラム90|2009}}|author=死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90|editor=(編集委員:可知亮、国分葉子、中井厚、深田卓 / 協力=[[福島瑞穂|福島みずほ]]事務所)|url=http://impact-shuppankai.com/products/detail/184|edition=発行|page=|isbn=978-4755401978|NCID=|BA89722905id={{国立国会図書館書誌ID|000010608364}}・{{全国書誌番号|21680088}}}} |
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* {{Cite book|和書|title=死刑囚90人 とどきますか、獄中からの声|publisher=インパクト出版会|date=2012-05-23|ref={{SfnRef|フォーラム90|2012}}|author=死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90|editor=(編集委員:可知亮、国分葉子、高田章子、中井厚、深瀬暢子、[[安田好弘]]、深田卓 / 協力=福島みずほ事務所、死刑廃止のための大道寺幸子基金)|url=http://impact-shuppankai.com/products/detail/208|edition=発行|isbn=978-4755402241|NCID=BB09377869|id={{国立国会図書館書誌ID|023615338}}・{{全国書誌番号|22127584}}}} |
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* {{Cite book|和書|title=未解決事件 グリコ・森永事件〜捜査員300人の証言|publisher=[[文藝春秋]]|date=2012-05-25|pages=224-241|ref={{SfnRef|NHKスペシャル|2012}}|author=小口拓朗(報道局ディレクター・一九七八年生まれ)|editor=NHKスペシャル取材班|url=https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163752006|edition=第一刷発行|series=NHKスペシャル|isbn=978-4163752006|NCID=BB09437381|chapter=第3章 時効のその日まで 2. 似顔絵捜査――キツネ目の男を追って|id={{国立国会図書館書誌ID|023630615}}・{{全国書誌番号|22114961}}}} |
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* {{Cite book|和書|title=アメリカは死刑廃止に向かうか 年報・死刑廃止2021|publisher=インパクト出版会|date=2021-10-10|ref={{SfnRef|年報・死刑廃止|2021}}|author=年報・死刑廃止編集委員会|editor=(編集委員:岩井信・可知亮・笹原恵・島谷直子・高田章子・永井迅・安田好弘・深田卓) / (協力:死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90、死刑廃止のための大道寺幸子・[[島田事件|赤堀政夫]]基金、深瀬暢子・国分葉子・岡本真菜)|url=http://impact-shuppankai.com/products/detail/310|edition=第1刷発行|isbn=978-4755403132|NCID=BC10317158|id={{国立国会図書館書誌ID|031703858}}}} |
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== 関連項目 == |
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* [[シリアルキラー]] |
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* [[警察庁広域重要指定事件]] |
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* [[日本における死刑囚の一覧 (1970-1999)]] |
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** [[日本における収監中の死刑囚の一覧]] |
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* [[警察不祥事]] |
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2022年5月29日 (日) 15:19時点における版
京都・大阪連続強盗殺人事件 | |
---|---|
正式名称 | 警察庁広域重要指定115号事件 |
場所 | 日本:京都府京都市北区・大阪府大阪市都島区 |
座標 | |
日付 |
1984年(昭和59年)9月4日[1][3][2] 京都事件発生(12時50分ごろ)[1] – 大阪事件発生(16時ごろ)[1] (UTC+9) |
概要 | 1978年に拳銃を警察署から盗み出して強盗事件を起こし、懲役7年に処された京都府警の元巡査部長が、仮釈放から5日後にかつて勤務していた西陣警察署十二坊派出所[注 1]の巡査を殺害して拳銃を強奪。その拳銃を持って消費者金融店に押し入り、店員を射殺して現金60万円を奪った。 |
攻撃側人数 | 1人 |
武器 | ステンレス製包丁(刃体の長さ約16.9 cm)[注 2]、警察用ニューナンブ回転弾倉式拳銃[1](38口径)[2] |
死亡者 | 2人 |
被害者 | |
犯人 | 廣田雅晴(当時41歳:京都府警の元巡査部長)[3] |
対処 | 逮捕・起訴[7] |
謝罪 | なし(無罪を主張) |
刑事訴訟 | 死刑[8](未執行) |
管轄 |
京都・大阪連続強盗殺人事件[3][10][11][12][13][14][15][16][17][18][19][20](きょうと・おおさかれんぞくごうとうさつじんじけん)は、1984年(昭和59年)9月4日に京都府京都市北区と大阪府大阪市都島区で発生した2件の連続強盗殺人事件[6][21]。
犯人の廣田 雅晴(ひろた まさはる、本事件当時41歳)は、京都府警察の元警察官(最終階級は巡査部長、最終配属先は西陣警察署十二坊派出所[注 1])だが、本事件から7年前の1978年(昭和53年)に西陣署から盗んだ拳銃で強盗傷人などの事件を起こして懲戒免職となり、懲役7年の刑に処されていた[22]。事件5日前(1984年8月30日)に加古川刑務所を仮出所した廣田は、9月4日に京都市北区の船岡山公園で、十二坊派出所の男性巡査A(当時30歳、殉職後警部補に2階級特進)を包丁[注 2]で滅多刺しにした上、奪った拳銃で銃撃して殺害(京都事件)[21]。さらにその拳銃を持って大阪市都島区の消費者金融店舗を襲撃し、従業員の男性B(当時23歳)を射殺して現金60万円を奪った(大阪事件)[21]。警察官から奪われた拳銃が用いられた強盗殺人事件は、1982年(昭和57年)に発生した勝田清孝事件以来で[6]、警察庁は一連の事件を、広域重要事件115号に指定している[23]。廣田は刑事裁判で無実を主張したが、1998年(平成10年)1月16日に死刑判決が確定している[24][25][26]。
京都・大阪短銃強奪射殺事件[27][28]、京都・大阪短銃連続強盗殺人[29]、ピストル強盗連続殺人事件[30][31]、広田事件[32][33][34][35][36][37][38][39]、広田雅晴事件[40][41]とも呼称される。
概要
本事件の犯人である廣田はかつて、京都府警の巡査部長として西陣警察署(現:上京警察署)の十二坊派出所[注 1]に務めていたが、1978年7月に西陣署から盗んだ拳銃を用い、京都市南区内の郵便局などで強盗傷人などの事件を起こした[22]。廣田はこの件で懲戒免職になり、1981年(昭和56年)2月に大阪高裁で懲役7年の刑に処されたが[22]、同事件の公判中から京都府警への敵意を顕にし、知人に「出所後は西陣署長と検察官を殺してやる」という逆恨みの念を書いた手紙を送ったり、新左翼系の新聞『人民新聞』に「出所したら京都府警に復讐する」という趣旨の投書を送ったりしていた[42]。そして仮釈放から5日後、かつて務めていた十二坊派出所の警察官を殺害して拳銃を奪い、その拳銃を持って大阪市都島区の消費者金融店に押し入り、店員を射殺して現金を奪うという事件を起こした[21]。本事件と同時期には、元警視庁の警部・澤地和夫による2人殺害事件(山中湖連続殺人事件:1984年11月)[注 3]、元奈良県警巡査によるサラ金会社社長拉致・監禁事件(1984年12月)、元神奈川県警巡査部長による三菱銀行強盗人質事件(1985年3月)など、現職警察官や元警察官が借金苦を動機に強盗・殺人などの凶悪犯罪を犯す事件が多発し[56]、「西の廣田、東の澤地」とも言われた[57][58]。
本事件の捜査段階で、廣田は犯行を自白したが、刑事裁判の公判では全面否認に転じ、彼による犯行を裏付ける凶器(包丁[注 2]・拳銃)なども発見されなかったため、検察側は目撃証言や銃弾の鑑定結果などといった間接証拠を中心に犯行を立証しようとした一方、廣田や弁護人は「自白は取調官の暴行によって強制されたもので、任意性はなく、目撃証言も信用性がない」と主張。しかし、第一審(大阪地裁)や控訴審(大阪高裁)はそれぞれ、間接証拠から起訴事実を全面的に認定し、廣田に死刑判決を言い渡した[21][59]。最高裁も1997年(平成9年)12月、廣田を有罪として死刑に処した原判決を支持して廣田の上告を棄却する判決を言い渡し[8]、翌1998年(平成10年)1月に死刑が確定した[24][25][26]。なお1972年(昭和47年)以降、警察官の拳銃が奪われたり、盗まれたりした事件は本事件が11件目(12丁目)だったが、拳銃が未回収に終わった事例は本事件が初である[3]。
本事件は、『読売新聞』の同年の「読者が選んだ10大ニュース」で第8位(得票率50.8%、得票数9,756票)に選出され、廣田自身も同紙の「最近、とくに印象に残っている人」の年間累計で第8位に選出されている[60]。崔洋一監督による映画『十階のモスキート』(1983年7月公開、主演:内田裕也)は、廣田が1978年に起こした強盗事件をモデルにしている[61]。
廣田雅晴
廣田 雅晴 | |
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個人情報 | |
本名 | 神宮 雅晴[62] |
生誕 |
1943年1月5日(81歳)[30][63][64] 日本:千葉県山武郡成東町成東(現:山武市成東)[63] |
国籍 | 日本 |
出身校 | 千葉県立成東高等学校[65](普通科:1961年3月卒業)[22] |
職業 | 京都府警察官(巡査部長:事件前に懲戒免職) |
殺人 | |
犠牲者数 | 2人 |
国 | 日本 |
都道府県 | 京都府・大阪府 |
凶器 | 包丁・拳銃 |
司法上処分 | |
罪名 | 強盗殺人、銃砲刀剣類所持等取締法違反、火薬類取締法違反 |
刑罰 | 絞首刑(未執行) |
有罪判決 | 死刑(確定:1998年1月16日)[24][25][26] |
司法上現況 | 死刑囚(死刑確定者) |
犯罪者現況 | 収監中(死刑確定から26年11か月と11日経過) |
収監場所 | 大阪拘置所[64](2021年9月20日時点)[66] |
本事件の犯人は、廣田 雅晴(ひろた まさはる、1943年〈昭和18年〉1月5日[30][63][64] - 、本事件当時41歳)である。「広田 雅晴」とも表記される[3][21]。上告審弁論後に改姓届を出し、姓を結婚前の「神宮」(しんぐう)に戻している[62]。本事件を起こした当時、身長は161.5 cm、体重は63 kgだった[20]。
刑事裁判により、1998年(平成10年)1月16日に死刑判決が確定[24][25][26](死刑確定から26年11か月と11日経過)。2021年(令和3年)9月20日時点で[66]、廣田こと神宮雅晴(現在81歳)は死刑囚(死刑確定者)として大阪拘置所に収監されている[64]。
経歴
生い立ち
雅晴は1943年1月5日、大阪市で5人兄弟姉妹の第三子(次男)として生まれた[67]。雅晴の父親[注 4]は運送会社に勤めており、結婚して妻(雅晴の母親)の故郷である千葉県山武郡成東町(現:山武市)に住み着いていたが、雅晴の出生当時は大阪に在勤していた[68]。1歳のころ、雅晴は家族とともに成東町に転居した[22]。その後、農業を営む両親[注 5]のもとで育ち、地元の小中学校を経て、1961年(昭和36年)3月[22]、千葉県立成東高等学校[65](普通科)を卒業[注 6][22]。高校卒業時、雅晴は兄に対し「警察官になりたい」と話していたが、兄は雅晴について「小さいころから暗くなると一人で外へ出れないような臆病者」と感じていたため、「無理だ」と反対していた[68]。その後、石川島造船化工機[70](東京都江東区)に就職したが、高所での作業を嫌い、1年余りで退社[65]。都内で電気溶接工や司法書士事務所事務員として働いた後、関西に渡った[22]。
京都府警時代
1964年(昭和39年)6月の深夜、製麺業従業員として働いていた雅晴(当時21歳)は、京都・五条通で七条警察署の署員(東洞院六条派出所に配属)から職務質問を受けたが、その署員は体格が良く、実直な雅晴に好感を抱き、職務質問を終えると「警察官にならないか」と勧誘した[注 7][68]。雅晴はこの誘いを受けて仕事を辞め、同年の京都府警察の採用試験に合格[68]、同年10月1日付で巡査として採用される[22]。1965年(昭和40年)9月に京都府警察学校を修了し、九条警察署(現:南警察署)警ら課に配属され、下殿田派出所などで勤務した[22]。巡査時代は、巡回先で「ダッコちゃん」の愛称で呼ばれていた[71]。
1967年(昭和42年)4月に結婚して「廣田」に改姓し、妻との間に3児をもうけた[注 8][22]。また、1968年(昭和43年)3月には年間勤務優秀で本部長賞誉を受けており、その検挙率の高さから、刑事への登用も検討されていた[74]。一方、友人は少なく、休日には1人で競輪に出かけることもあり[75]、昇任試験で面接の幹部と言い争い、腹を立てたり[74]、上司の指示に不貞腐れて反発したりするような一面もあった[76]。九条署でかつて廣田の直属上司だった府警OBは、廣田の性格について「自分の意に反することにはすぐカッとなるが、じっくり話し込み、信頼してやればとことんやる男だった」と評している[76]。
1971年(昭和46年)に巡査部長昇任試験に合格すると、翌1972年(昭和47年)3月には初の外勤幹部として峰山警察署(現:京丹後警察署)に赴任し、2年間にわたって外勤在所主任を務めた[74]。この間、署長褒章を4回受けており、当時の署長は廣田について「みんなから頼られて声を掛けてもらえる立場で生き生きしていた」と評している[74]。一方、京都市内の中心署である西陣署への配転を希望し[76]、1974年(昭和49年)3月からは西陣署外勤課などに配置換えされた[22]。そして、1977年(昭和52年)3月から、後述の強盗事件までは西陣署十二坊派出所[注 1]で勤務するようになっていた[22]。しかし、廣田がこのころ、パトロール中に出会った知人に対し「寝ずに勉強して巡査部長になったのに交番勤めとはバカにしている」と不満を漏らし、同僚から教わった競馬にのめり込んで多額の借金を抱え、強盗事件を起こす半年前ごろからは、借金返済のために仕事を休んで消費者金融を回るようになったという旨や[76]、派出所へ転出させられる前後には競艇や小豆相場に手を出し、それも借金を抱える要因となったという旨が報じられている[77]。一方、強盗事件当時の直属上司であった西陣署外勤第一係長は「廣田は西陣署へ着任した当時、司令室に配属されたが、実質1人勤務で『こんな忙しいところはかなわん。性格的にも向いていない』と自ら派出所配転を訴えた」と主張し、廣田が犯行に走った動機について「峰山署で在署幹部として活躍していた廣田は、市内署でも幹部として活躍することを夢見ていたが、市内署は巡査部長の数も多く、異動前に抱いていたイメージと現実との落差からプライドを傷つけられた」と考察している[78]。
強盗傷人事件
1978年(昭和53年)7月17日8時30分ごろ、廣田(当時35歳)は西陣署の拳銃保管庫から、同僚が保管していた実包5発入りの拳銃1丁を盗む事件を起こした[79]。当時、廣田は非番で自分の拳銃を収めに西陣署に行ったが、その際に幹部の立会がなく、人もいなかったことから[注 9]、拳銃保管庫の扉の影に隠れ、同僚の巡査[注 10]の拳銃をサックから取り出し、自分の持っていた紙袋に入れて署外に持ち出した[81]。廣田は17日から18日にかけ、盗んだ拳銃を自宅の押し入れに隠し、19日にハンカチで包んで紙袋に入れ、制服で隠して持ち出すと、船岡山公園の失対事務所床下にハンカチでくるんだ状態で隠した[81]。拳銃の所有者である巡査は19日朝、自身の拳銃がなくなっていることに気づき、それ以降は府警が特捜班を編成して西陣署に出入りした派出所員や、祇園祭の応援に出た署員ら13人をリストアップし、アリバイなどを調べていた[82]。
20日16時30分ごろ、西陣署近くの公衆電話から、上鴨警察署(現:北警察署)へ「田中」と名乗る中年の男が「西陣署の拳銃はわしがやった。拳銃は後日、東寺の方から通っている警官を通じて返す」という電話をかけている[83]。同日18時ごろ、廣田はタクシーで船岡山公園に行って拳銃を取り出し、自宅に持ち帰ると、21日9時40分ごろ、拳銃を持って自宅を自転車で出た[81]。
同月21日11時45分ごろ、廣田は京都市下京区上珠数屋町通河原町西入ルの路上[79](枳殻邸北側)で[84]、バイクで通りかかった近畿相互銀行[注 11]京都支店の店長代理男性(当時32歳)めがけて1発発砲し[85]、現金を奪おうとしたが、風防ガラスを貫通したのみで、男性がそのまま走り去ったため未遂に終わった[79]。その直後の12時10分ごろ、札ノ辻郵便局(南区東九条石田町)[注 12]に強盗目的で押し入り[79]、窓口係職員の女性(当時45歳)に対し、銃を突きつけて金を出すよう迫ったが、相手が悲鳴を上げたため、拳銃で頭を殴りつけて1週間の怪我を負わせ、自転車で逃走した[87]。同日16時ごろ、再び上鴨署に「田中」と名乗る男が「拳銃は今でも持っている。全弾山で撃った。薬莢はそちらに送る」などという電話をかけている[83]。
発覚・逮捕
同月22日、廣田は「犯人から自宅に電話があり、ピストルの隠し場所を教えてきた」と届け出、六孫王神社(京都市南区八条通)の境内で[注 13]、盗難された拳銃(ニューナンブ38口径、実包4発入り)と空薬莢1個が回収されたが、当時の廣田の状況説明に曖昧な点が多かったことや[注 14][89]、捜査中に不審な言動を取っていたこと[注 15]、そして廣田が事件当日、署の外勤室で数分間一人になり、拳銃を保管庫から自由に取り出せる状態にあったことなどから、廣田は重要参考人として取り調べを受けた[89]。廣田は「自分は拳銃の発見に努力したのに、疑われて残念だ」などと容疑を否認し、ポリグラフ検査を拒否するなどしたが、23日に窃盗容疑で逮捕された[90]。翌24日、廣田は窃盗・銃砲刀剣類所持等取締法違反・火薬類取締法違反の容疑で京都地方検察庁に送検され、同日付で懲戒免職処分を受けた[91]。さらに同月26日には郵便局での強盗傷人容疑で再逮捕され[92]、8月17日には窃盗・銃刀法違反・火薬類取締法違反・強盗傷人の罪で京都地方裁判所に起訴された[93]。
廣田は逮捕後も容疑を否認し、強盗事件が起きた21日当時の行動について「新聞を買いに出た」「子供を散歩に連れて出た」「南区の知人宅で話し込んでいた」とアリバイを主張したが、それらの主張はすべて虚偽であることが判明[94]。7月27日になって犯行の一部を認め[94]、逮捕から10日目の8月1日には犯行をほぼ全面的に自供した[81]。動機については、当初は「信頼していた直属の上司が自分の病気欠勤のことで悪口を言っているとの噂を聞き、『拳銃がなくなれば困るだろう』ととっさに思いついた」と供述し、計画性を否定した[93]。しかし、多額の借金があったことを追及され[81]、強盗については「借金返済のために金が欲しかったため、かねてから事情を知っていた札ノ辻郵便局を襲った」と自供したが、拳銃窃盗の計画性については一貫して否定した[93]。なお、銀行員銃撃事件については被害者が「廣田らしき男を追い越した直後、至近距離から発砲された」と主張したことや、現場の道幅は狭く、人通りがあれば必ず目に入るであろう場所であったことなどから、(強盗)殺人未遂容疑の適用も検討したが[84]、廣田は強盗の犯意は認めたものの、殺意に関しては否認し、殺意の存在を裏付ける証拠もなかったため、強盗未遂罪での立件となった[93]。
当時は田岡一雄(山口組組長)が銃撃される事件が発生したばかりで、暴力団の対立抗争が激化し、拳銃などの武器摘発に全国の警察が躍起になっている中で発生した事件であり、京都府警に衝撃が走った[95]。また、同年1月には制服警官女子大生殺人事件が発生しており、警察官の規律が大問題となっていた[注 16]直後に本事件が発生したことで[97]、社会に衝撃を与え[98]、警察の威信は大きく失墜する形となった[97]。それまでの警察不祥事事件は多くが20歳代など、比較的年代の若い警官に集中していた一方、廣田によるこの事件は「安定した世代」と見られていた中堅級警察官による事件であったことも注目された[99]。
一方、本事件をきっかけに京都府警における拳銃取り扱い規定が順守されていなかったことも問題視された[95]。一連の事件を受け、京都府警本部長の佃泰は8月18日付で引責辞任し、廣田の直属の上司だった西陣署長の小西昭が6か月間の減給処分(100分の10)と警備第一課長への左遷を受けるなど、合わせて11人が懲戒処分を受けた[93]。
懲役7年が確定
廣田は一連の犯行で、窃盗・銃刀法違反・火薬類取締法違反・強盗傷人・強盗未遂の罪に問われた[22]。同年10月16日、京都地裁第3刑事部(吉田治正裁判長)で初公判が開かれたが、被告人の廣田は盗まれた拳銃を所持していたことこそ認めたものの、それ以外の犯行については「みんな警察の作り事だ。真犯人は別にいる」として、起訴事実を全面的に否認した[100]。そのため、18回にわたる公判では廣田の犯意・計画性・実行行為など、犯罪の事実認定をめぐる攻防が繰り広げられた[101]。また公判中、京都拘置所に勾留されていた廣田は、『人民新聞』に「公安の実態を暴く これが警察の内状だ」と題した投書を寄稿し、その中で冤罪を訴え、西陣署長の小西を名指しで非難するとともに、「出所した折りは、私は京都府警に対し「ふくしゅう」をしてやるつもりでいます。そうでなければ私は死んでも死にきれないのです。」など、京都府警への怨嗟を綴っていた[102]。同紙に投書を寄せたきっかけは、拘置所時代に連合赤軍の加藤倫教と知り合ったことだが[103]、公安関係者や、同事件で弁護人を務めた堀和幸(後に115号事件でも弁護人を担当)は、「廣田は思想的に新左翼に傾倒していたわけではなく、反権力・反警察という点で新左翼と利害が一致したにすぎない」と考察している[103][42]。
1980年(昭和55年)3月3日の公判で、廣田は検察官から懲役8年を求刑された[101]。一方、廣田の弁護人を務めた堀は同年3月24日の最終弁論で、「廣田の自白以外に確たる証拠はなく、その自白も信用性が低い」として無罪を主張、廣田本人も最終意見陳述で「警察側の証人は、裁判所の判断を誤らせようと、故意に真実を隠したりして全く卑怯だ。検察官の求刑には“ノシ”を付けて返したい」などと陳述した[104]。
京都地裁第3刑事部(吉田治正裁判長)は同年6月10日、廣田に懲役5年(刑期に未決勾留日数650日を算入)の実刑判決を言い渡した[79]。同地裁は、捜査段階における廣田の自供が、各種状況証拠と一致することや、廣田が信頼していた上司から説得を受けて自白に至ったという経緯などから、自白の任意性・信用性を認定した上で、拳銃も部外者が盗み出すことは不可能な状態だったことも併せ、「内部の者による極めて短時間の犯行」として、一連の事件を廣田の犯行と認定した[79]。その上で量刑理由では、犯行動機となった巨額の借金は廣田自身が招いた事態である点や、市民を犯罪から守るべき立場の現職警察官による悪質な犯行であり、刑事責任が重大である点を指摘した一方、犯行が「無計画・衝動的」なものであり[注 17]、社会的制裁を受けている点などを考慮した[79]。同月21日、京都地検は量刑不当を理由に控訴した[105]。一方、無罪を主張していた廣田は控訴せず、弁護人を担当した堀に対し「もう裁判はあきらめます。早く服役し、出所して警察の腐敗ぶりを告発したい」と発言していた[106]。その後、廣田は控訴審の公判には出廷しなかった[107]。
大阪高等裁判所第4刑事部(吉川寛吾裁判長)は1981年(昭和56年)2月19日[108]、「派出所主任という地位にある現職警察官が犯した重大かつ悪質な犯罪」[109]「言語道断の犯行で、市民に与えた不安は大きい。反省もしておらず、一審の量刑は軽すぎる」として[108]、原判決を破棄自判し、廣田に懲役7年の実刑判決を言い渡した[109]。廣田は上告を勧める弁護人に対し、「検察も裁判所も信用できない。服役して出所後のことを考える」と答え[110]、上告することなく同判決が確定した[111]。
服役生活
廣田は同年3月26日から1984年8月29日まで、4年5か月24日間(未決勾留日数を除く)にわたり、加古川刑務所に服役した[112]。満期は1985年(昭和60年)8月29日で、府警が加古川刑務所に確認したところ、1983年(昭和58年)5月26日に「満期まで仮釈放はない」という公式な返答を得ていた一方、裏ルートで調べたところ、「出所近し」の情報も入手していた[113]。廣田は仮出獄許可決定を受け、1984年8月30日に出所していた[22]。服役中、廣田はボイラーマンの2種免許(乙種)や危険物取扱主任(乙種)の資格を取得し、簿記・そろばんに励むなど、成績は「良好」とされていた[112]。仮釈放が認められた理由は、「引受人として成東町に家族がいる」「委員会での面接調査で改悛の情、更生の意欲が確認できた」の2点で、廣田が公判中に『人民新聞』に警察への復讐の念を書き綴った文章を投稿したり、刑務所内で待遇改善を求める闘争を続けていた事実は、刑務所側から近畿地方更生保護委員会には報告されていなかった[112]。一方、廣田は同房者に対し、「西陣署に仕返ししてやる」と漏らしていた[107]。捜査関係者は、廣田が真面目に服役していた理由について「早く出所して早く(京都府警に)復讐しようという計算のためではないか」という推論を述べている[114]。
犯行の準備
加古川刑務所を出所した廣田は、家族とともに滋賀県大津市内のホテルで一泊し、翌日(8月31日)に日本国有鉄道(国鉄)の京都駅で、妻から仮出獄前に用意させていた現金20万円を受け取り、実母とともに新幹線で東京に向かった[22]。同日午後、千葉保護観察所に出頭した廣田は、担当の保護観察官と面接したが、仮釈放中の注意事項を話された際には素直に聞いており[115]、今後の生活方針については「就職先が決まるまで、しばらく母親の農業を手伝いたい」[111]「実家[注 5]で農業の手伝いをしながら仕事を見つけ、京都市に住む妻子を呼びたい」などと話していた[115]。同日16時ごろ、廣田は帰住先である実母宅[22](成東町)に赴いた[116]。同日夜、成東町の保護司が廣田の実家を訪れた際、廣田は久しぶりに再会した母親と歓談していた[115]。
同年9月2日夜、廣田は母に対し、「明日東京へ仕事を探しに行く」と言い、3日4時40分過ぎごろに家を出て、5時18分発の成東駅(総武本線)の始発電車に乗って千葉駅へ向かった[22]。しかし本当の行き先は東京ではなく京都で、東京駅から新幹線に乗り、10時前後に京都駅に到着した[22]。当時、廣田は強盗でまとまった金を得ようと考えていたため、そのための凶器として、京都市上京区の千本通沿いで買い物をした[22]。10時30分ごろ、廣田は(後に京都事件で凶器として用いた)ステンレス製の包丁[注 2]1本を千本通沿いの金物店で、ボウガン(全長約79 cm)1丁[注 18]とその矢(長さ約36 cm)6本・射撃用革手袋一双・サングラス1個を、それぞれ金物店近くの銃砲火薬店で購入し、観光者用の手提げ袋に入れている[22]。代金は合計8万円で[118]、うちボウガンと矢6本が5万5,000円だった[117]。この銃砲火薬店の店員によれば、この時に廣田が所持していた手提げ袋は、「旅行者が持つようなベージュっぽい色の編み込んだようなビニールでできた袋」(縦約70 cm×横約50 - 60 cm)で、金閣寺か銀閣寺のような寺と五重塔のような図柄が黒で描かれ、ローマ字で「KYOTO」と書かれていた[119]。その後、ボウガンが長くて目立つため、銃床部分と先台部分を切り離そうと考え、前述の金物店で折りたたみ式のこぎり1本を追加で購入したほか、11時30分過ぎごろには銃砲火薬店でボウガンの撃ち方などの説明を受けた後、偽名を用いてボウガンなどの入った手提げ袋を預け、18時ごろ以降に受け取りに戻った[22]。その後、ボウガン本体をのこぎりで銃床部分と先台部分とに切り離したが、結局は凶器として使うことは断念し[注 19]、それぞれ別々の場所に捨てた[22]。
その後、廣田は拳銃を奪うため、以下のように「放置バイクがある」と虚偽の申告をして警察官をおびき出そうとしたが、いずれも失敗に終わった[22]。
- 亀山公園(京都市右京区)付近に行き、18時50分ごろ、近くの公衆電話から太秦警察署(現:右京警察署)へ電話をかけ、嵐山派出所へつないでもらうと、応対した派出所の警察官に「亀山公園に放置バイクがある。昨日から言っているのに何で見に来んのや。中央広場の看板がある所や。俺が見てたるさかい来いよ」などと言った[22]。そして、同公園南側入口付近で警察官を待ち伏せたが、出会うことはできず[注 20]、19時50分ごろ、公園東方の渡月橋北詰からタクシーに乗車し、千本北大路交差点付近(京都市北区:座標)で下車した[22]。
- 20時30分ごろ、千本北大路交差点付近にある北区衣笠北荒見町15番地の紙屋児童公園(座標)付近にあった公衆電話から、西陣署に電話して十二坊派出所につないでもらい、応対した警察官に対し「児童公園の前の大槻だが、公園の前に長い間バイクが放置してある。前から言ってある。早く来てほしい」などと言い、公園で警察官を待ち伏せた[121]。しかし、21時ごろに警察官が公園に赴く前に廣田はその場を離れてしまった[1]。
このため、いったんは警察官をおびき出すことを諦めたが、下殿田派出所に勤務していた1967年(昭和42年) - 1968年(昭和43年)ごろ、職務上何度も出入りしていた南区内の質屋の経営者が老夫婦だったことを知っていたことから、その夫婦を包丁で脅すなどして金品を奪おうと決意し、警察官を装って同店に電話を掛けた[1]。そして、22時 - 22時20分ごろにかけ、「職務質問を受けている男が持っている腕時計などをそちらの店で買ったと言っているので、確認のために派出所まで来てほしい」などと嘘を言い、夫婦を店外に出てこさせようとしたが、相手が容易に応じようとしなかったため、失敗した[1]。廣田は23時30分ごろ、京都駅八条口近くのラーメン店でラーメンを食べ、翌4日1時40分[122]、京都駅八条口からタクシーに乗車したが、この時には先端30 - 40 cmを新聞紙で覆った細長い棒状のもの(長さ約1.4 m×直径約2.5 cm)を持っていた[123]。廣田は1時50分[122]、「京都スポーツサウナ」(東山区三条大橋東方)[1]に入店し[122]、同店で宿泊した[1]。滞在中、廣田はロッカールームで服を着替えたり、店内でラーメンを食べたりしてから仮眠室に入ったが、従業員によれば寝入ることはなく、じっと考え込んでいる様子だった[123]。廣田は7時40分にサウナを退店したが、その際には下着としてランニングシャツを着用し[124]、先述の棒状のものを持っており、タクシーに乗車して現場に向かっている[122]。その後、廣田は京都事件の約3時間前(10時ごろ)に今出川通千本東入ルの「ジャスコ」に立ち寄り、衣類やバッグなどを品定めしたが、この時点では先述の棒は持っていなかった[125]。
京都事件
廣田は以上のように、警察官から拳銃を奪う計画や、質屋を標的とした強盗がいずれも失敗に終わったことから、警察官を殺害して拳銃を奪い、その拳銃で強盗をしてまとまった金を得ようと決意[1]。9月4日12時40分ごろ、船岡山公園(京都市北区紫野北舟岡町42番地)正門付近の公衆電話から、かつて勤務していた十二坊派出所に電話し、それに応対した男性巡査A(当時30歳)を騙して公園内におびき出した[1]。通常、十二坊派出所は2人勤務だったが、同日は相勤者の巡査長が巡査部長昇任試験を受験するため、警察学校に出掛けており、Aが1人で勤務していた[6]。Aは電話を受けた当時(12時42分ごろ)、昼の休憩時間中だったが[注 21]、携行の署活系携帯無線機で西陣署指令室係員に対し、これから警らに向かう旨を送信し、派出所前からバイクに乗って千本通を北上し、船岡山公園に向かった[127]。事件現場となった船岡山公園の山頂広場南側斜面は、十二坊派出所から北東に直線で約250 mの距離に位置し、同派出所からのオートバイによる所要時間は約2分30秒だった[127]。
12時50分ごろ、廣田は公園内山頂広場南側斜面で、騙されて1人でやってきたAをステンレス製包丁(刃体の長さ約16.9 cm)で襲い、右太腿内側や右肩内側など、多数箇所を突き刺し、右大腿動静脈切断などの傷害を負わせた[1]。そして、Aの右肩にかけられていた拳銃の吊り紐を切断し[2]、Aが持っていた警察用ニューナンブ回転弾倉式拳銃[1](実包5発装填:38口径、銃番号632606[2])1丁を奪うと、うつ伏せに倒れていたAの左背部に1発銃弾を撃ち込んだ[1]。Aは指令室係員に対し、無線機のプレストークボタンを押さえたままの状態で、「115から西陣」との送信を2、3回繰り返し、うめき声とともに「助けてくれ」と送信したが、無線機の緊急発進ボタンを押したと見られる緊急信号を最後に、送信は途絶えた[127]。
発信地が不明だったため、西陣署は全署員を動員してAを捜索[2]。Aは13時6分ごろ、全身を鋭利な刃物で刺されてうつ伏せに倒れているところを発見され、病院に搬送されたが、13時46分、搬送先で死亡が確認された(死因:失血死)[127]。京都府警は同日、殉職した被害者Aを警部補に2階級特進させ[6]、同月7日に行われたAの告別式では、霊前に「多大な功労があった」として府警本部長の賞詞を贈っている[128]。なお、現場では相当な格闘があったと思われているが、毛髪など(犯人につながる)有力な遺留物は採取されなかった[129]。
不審な男の目撃情報
事件前
発生直前の12時には、十二坊派出所近くに住んでいた男性(1978年の事件以前から廣田の顔を知っており、同事件の際に名前を知った)が、自宅近くで廣田を目撃していたが、彼は事件を知り、同日夜に父親に対し「今日昼に廣田を見た」と話していた[130]。また12時30分ごろには、船岡山公園正門(公園北西側)のすぐ西側に住んでいた女性が、自宅近くの公衆電話で廣田に似た不審な男(白い棒状のものを持っていた)を目撃し、それからしばらくして公園正門付近にパトカーや救急車が着て騒がしくなった旨を公判で証言しているが、彼女は同日中に警察官から事情聴取を受けた際に4人の写真を見せられ、その中から廣田の写真を選んでいる[131]。
事件後
12時57分ごろから13時ごろにかけ、船岡山の南部で不審な男が南東方向へ向かって歩いていく姿を男女2人が目撃しており、次いで13時5分から15分ごろにかけても、同所から南東方向にある大宮通周辺で、男性5人が先述の男と似た人物を目撃している[132]。彼らの目撃証言を総合すれば、その男は身長160 cm前後、顔は色黒で、頭髪は短く、白い半袖シャツないしランニングシャツを着用しており、片肘ないし両肘に血が付着していた[132]。年齢については、「40歳前後」「40から45歳」「35、36歳」「40歳より上」などの証言があった[132]。
また13時15分ごろ、上京区大宮通寺之内上ルの喫茶店「カトレア」付近で、45歳くらいの男(白の半袖開襟シャツ)1人がタクシーに乗車し、千本中立売交差点(座標、現場付近から約2 km南[133])の東側で下車して東に歩いていった[134]。タクシー運転手の証言によれば、この男は45歳程度で背はあまり高くなく、色黒で頭髪は短く、白い半袖開襟シャツを着用していたが、乗車時から下車時まで両腕を前で組み、それを隠すようにベージュ色の麻袋のようなものを持っていた[135]。彼が下りた後、運転手が後部座席を確認したところ、座席カバー左側の端に赤黒いもの(前の客を乗せた際にはなかった)が付着していた[135]。このタクシー運転手は13時50分、「シャツに血のついた男を乗せ、千本通中立売で降ろした」と110番通報している[136]。
13時30分ごろ、千本中立売交差点東側路上で、左腕の肘から手首にかけて拭ったように血を付けた男(身長165 - 166 cm)が中立売通を南から北に横断し、「千中ミュージック」や「西陣大映」のある方向に歩いている姿を、先述とは別のタクシー運転手[注 22]が目撃している[135]。そして同時刻ごろ、西陣大映に不審な男(35 - 40歳程度、身長160 - 165 cm、短髪、色黒、白のランニングシャツ姿、左肘や顔面に血が付着していた)が入場し、約5分後に出ていった[135]。この男は場内に入った際、肘のあたりに血がついていることや、ズボンに土による汚れがついていることを従業員に目撃されており、しばらくして場内からロビーに出てきて、自動販売機で清涼飲料水「リアルゴールド」を購入して飲み、その空き瓶を館内に残していた[137]。男が館外に出た直後、この従業員は同館に駆けつけた警察官に対し、血を付けた男が入館して「リアルゴールド」を飲み、短時間で出ていったことを説明し、すぐに警察官が水滴のついた空き瓶(廣田の指紋が付着していた)を発見している[137]。
以上の目撃証言すべての共通点として、両肘もしくはどちらかの肘に血を付着させていたことが認められるほか、年齢・身長・体格・頭髪の状態・容貌(色黒で丸顔)などの点もよく合致していた[135]。また、すべての証人が一致して証言したことではないが、「ズボンの後ろ側に土(砂)によると思われる汚れを付着させていた」「ベージュ色用の紙袋を持っていた」「両腕を前で組み、これを紙袋用のもので隠すようにしていた」「顔面に細かい血痕様のものを付着させていた」など、それぞれ複数人の証言が一致する点も見られた[135]。そして、着衣についても上は白いランニングシャツか半袖シャツ、下は濃紺か黒っぽいズボンということで一致しており、各目撃時刻が接着してほぼ連続していたこと、目撃された不審な男が歩いた方向やタクシーに乗って向かった方向もそれぞれ連続していたことなどから、一連の目撃された男は同一人物で、船岡山東南部の南側から「西陣大映」まで移動したことが認められた[138]。
そして、タクシーから発見された血痕の血液型はA型でMN型の人血(被害者Aと同一型)であることや、「リアルゴールド」の空き瓶に廣田の指紋が付着していたことなどから、一連の目撃された人物は廣田と結論づけられている[124]。なお、14時過ぎには新京極(京都市中京区)の喫茶店に廣田らしい男(浅黒い顔で赤系統のポロシャツを着ていた)が来店し、約20分間滞在してオレンジジュースを飲んでいた[139]。廣田はAから奪った拳銃で金融業者に強盗に入ろうと考え、京阪電車で京都から大阪に移動したが[1]、仮にこの男が廣田であると仮定した場合、彼は新京極に近い三条駅か四条駅から京阪本線を利用したものと見られる[139]。
大阪事件
大阪事件発生の約30分足らず前[注 23]、廣田は京橋駅(京阪本線)北側の飲食店[141]「あんどれー」京橋店[注 24]に入店し、約5 - 10分ほど滞在した[140]。廣田は同店でレモン味のかき氷を食べ、コカコーラの紙コップで水を飲んだが、その際にかき氷のカップに右手親指の指紋を遺している[141]。なお、廣田は京都事件では白い半袖シャツを着用していた一方、大阪事件の犯行時には赤いシャツを着用していたが、購入時期や着替えた時期は特定されていない[142]。
16時ごろ[1]、廣田は大阪府大阪市都島区東野田町二丁目2番20号の「永井ビル」2階に入居していた消費者金融店「ローンズタカラ京橋店」に押し入った[2]。「永井ビル」は、京阪京橋駅の北西側に位置し、東西に通ずる道路北側に面した南向きの6階建て賃貸ビルで[143]、2階に事件現場となった「ローンズタカラ京橋店」が[2]、4階には別の消費者金融店「甲」が入居していた[143]。また、同ビル前の道路の向かい側(約15 m離れた位置)には都島警察署京橋派出所があったが[143]、事件後の実況見分により、同派出所は「ローンズタカラ京橋店」内の犯人が立っていた位置から、南側の窓を通して見える場所にあったことが判明している[144]。
犯行直前の16時前ごろ、「甲」(当時、店長と従業員2人の3人が勤務していた)の北側にある入口に、赤いかぶりの半袖シャツ(胸にボタンが3、4個ある)を着用し、金縁の薄い黒のレンズのサングラスを掛け、黒い手袋をし、ベージュの手提げ袋を持った男が訪れていた[145]。店員らの証言によれば、その男が持っていた手提げ袋は、ベージュ色で光沢があり、編んだ感じの材質で、上の方にローマ字で「KYOTO」と書かれ、中央部には金閣寺の墨絵が描かれており、下の方には崩した字で「金閣寺」と書かれていた[145]。その男は最初、「甲」のドアを顔が入る程度に開け、店内を左右に覗いてすぐに閉め、しばらく入口外の踊り場付近にいたが、今度はドアを前より大きく開け、店内西側にいた男性従業員と話をしてから退店し[注 25]、階段を降りていった[145]。「バーン」という銃声が聞こえたのは、その直後である[145]。
廣田が「ローンズタカラ」に入店した当時、店にはBと、女性従業員C(当時26歳)の2人がいた[2]。当時、同店の店長は集金のため外出中だった[6]。Cの証言によれば、当時、店に押し入った男は35 - 40歳程度で、身長は160 - 165 cm、小太り、スポーツ刈りで顔は色黒といった風貌であり、赤いかぶりの袖付き半袖ポロシャツ(胸にボタンが3個ほどついていた)を着用し、薄い黒のレンズのサングラスを掛け、右手には黒い手袋をはめていた[146]。Cは後の公判で、法廷で廣田の姿を見て「よく似ている。顔の輪郭、顎、目の感じが一緒」と証言している[147]。また、当時男が持っていた手提げ袋には、金閣寺の写真が印刷してあった[6]。廣田は店に入ると、カウンター内の自席で新聞を読んでいた従業員の男性B(当時23歳)の前にカウンター越しに立ち、右手に持った拳銃をBに突きつけ、「金を出せ」と脅した[1]。しかし、Bは突然の事態を理解できず[148]、「冗談でしょう」と繰り返し[149]、要求に応じなかった[1]。そのため、廣田はBを射殺して金員を奪おうと決意し、拳銃でBの右前胸部を1発撃ち抜き[1]、Bを即死させた[6]。そして、そばにいたCを「金を出せ」と脅迫し、現金約60万円を奪った[1]。16時2分ごろ、現場に居合わせて事件を目撃したCが110番通報し、駆けつけた警察官によって事件が認知された[143]。
逃走
廣田は大阪事件発生後の16時45分ごろ、大阪市北区曾根崎一丁目の特殊浴場を訪れ[140]、2万円を費消したが[150]、この時にはヘルスバスの蓋に左手掌紋を残していた[151]。当時、廣田は黒みがかった赤い半袖シャツを着用し、「あんどれー」の店員らが目撃したものと似たような手提げ袋を所持していた[151]。また、ベージュ色の麻でできたような大きい手提げ袋を所持しており[119]、接客サービスをしたホステスにより、左足の指の近くにできたまめを自ら剥いでいるのを目撃されている[151]。
17時45分ごろ、廣田は曾根崎二丁目のピンクサロンを[151]、同日最初の客として訪れ、ホステス全員を指名し、その指名料として10万円を費消しているが[150]、その際にも「臙脂色ないし赤っぽい色の半袖シャツ」を着用し、「あんどれー」で目撃された際と似たような手提げ袋を所持していた[151]。また、同店ではホステスに、左足裏の指に近い部位の「まめ」の皮膚が剥がれたところへバンドエイドを貼ってもらっている[151]。廣田は同店の従業員に頼み、カーキ色の合織製で、中央部に「LESTEMER」の文字が織り込まれている手提げバッグ(縦24 cm×横37 cm)や、白い半袖ポロシャツ、紺色スラックスなどを購入させると、同店のトイレで服を着替え、先に着替えた衣服をバッグに入れた[152]。この時に用いた代金は5万円で、廣田はソープランドと合わせて計17万円余を費消したことになる[150]。同店のホステスは、廣田が「千葉出身」「京都府警の元警察官」と名乗った上で、京都府警の悪口を言っていたことを証言している[153]。
その後、廣田は国鉄大阪駅からタクシーに乗車した[152]。タクシーは名神高速道路を経由し、廣田は20時20分ごろに京都駅八条口で下車したが、廣田は運転手に対し「京都駅に置いた荷物を取りに来たんや」と話していた[122]。廣田は京都駅から東京行きの新幹線に乗車し[注 26][155]、23時40分前後に実家[注 5]に「今、東京駅に着いた」と電話している[154]。
検察官の冒頭陳述によれば、廣田は5日未明、タクシーで江戸川右岸に向かい、曾根崎二丁目のピンクサロンで従業員に買わせたボストンバッグを投棄した[155]。警視庁などの調べにより[156]、同日1時ごろと10時ごろの2回、廣田らしい男が江戸川河岸に現れていたことが判明している[157]。一連の目撃証言によれば、その男は1時ごろ、京葉道路の江戸川大橋東側(東京都江戸川区)手前で個人タクシーを止めて乗車し、千葉市内で降車したが、車内では終始落ち着かない様子だった[157]。廣田はバッグを捨てた後、成東町の実家近くの裏山まで行ったが、警察の張り込みに気づき、タクシーを乗り継いで総武本線沿線を逃走した[155]。廣田らしき男が再び江戸川大橋付近に現れたのは、その後のことである[156]。
捜査
京都事件の被害者Aの拳銃が奪われていたことや、現場状況から、京都府警はAが拳銃強奪目的で殺されたと推測し、「警官殺害・短銃強奪事件捜査本部」を西陣署に設置、府内全域に緊急配備を行った[6]。一方、大阪府警察も大阪事件発生を受け、同事件を強盗殺人事件と断定して都島警察署に捜査本部を設置した[6]。
事件翌日の9月5日1時40分、有力な被疑者として廣田が浮上した[158]。事件直後の現場周辺の目撃情報や、その目撃者が廣田の顔写真を見て「犯人とよく似ている」と証言したこと、そして犯人らしき男が立ち寄った映画館に遺された飲料水の瓶から廣田の指紋が採取されたこと(前述)などが、その理由である[6]。また、大阪事件の被害者Bからも38口径の実弾が検出され[6]、2つの弾丸はそれぞれ線条痕が一致[158]。犯人の人相・着衣から、両事件は同一犯(京都事件でAから奪われた拳銃が大阪事件でも凶器として用いられた)と断定された[6]。
6日には韓国の全斗煥大統領が来日することになっていたため、京都府警は5日、2,000人(全警察官の3分の1)を警戒出動に動員させ、京都駅などの主要ターミナル駅で厳戒態勢を張ったほか、捜査本部は同日9時から船岡山公園一帯に機動隊員約100人らを動員し、凶器や遺留品などを捜索した[23]。また、警視庁や警察庁の警備当局も、獄中で過激派との結びつきを持ったとみられていた廣田の動向を強く懸念[133]、警視庁を始めとした首都圏の警察本部は厳戒態勢に入っていた[注 27][159]。特に、千葉県警察は管内に廣田の実家を抱えていたため、「廣田は県内に立ち回る可能性が高い」として[159]、警察官250人を非常招集し[116]、廣田の実家周辺や知人宅、主要幹線道路、国鉄、私鉄の駅などを中心に張り込みや検問体制を強化していた[159]。警察庁も事件の凶悪性や再犯性(当時、拳銃に実弾3発が残っていたと見られていた)を考慮し[159]、2時15分、一連の連続殺人を広域重要115号事件に指定した[29]。大阪府警は当時、グリコ・森永事件(広域重要事件114号)の捜査に追われており、同時に2件の重要事件を抱えることとなった[107]。同事件の犯人(かい人21面相)は、廣田が逮捕された後の9月25日、『朝日新聞』『毎日新聞』『読売新聞』『サンケイ新聞』の4紙に送った「挑戦状」で、「警官広田は かっこ ええやんか」などと綴っている[160]。
当時、大阪府警特殊班の一員としてグリコ・森永事件の捜査に携わっていた岡田和磨は[161]、現役時代に府警捜査一課が取り扱った事件の被疑者の似顔絵を手掛け、その数は「キツネ目の男」を含む数百枚におよんでいたが、彼がCの目撃証言をもとに描いた似顔絵は、描いた瞬間に警察内部で「あの廣田だ」という声が上がるほど再現度の高いものだった[162]。警察当局は2時30分、検問中の警察官らに対し、廣田の顔写真約10,000枚を配布している[29]。
廣田逮捕
廣田は7時過ぎ[注 28]、成東町の実家[注 5]に「俺だ。元気にしているか」と電話をかけ[29]、それ以降も数回にわたって電話した[163]。廣田が実家に電話した際、テレビで事件を知った廣田の長男が「お父さん、ほんとに人殺しをしたのか」と泣きながら話すと、廣田は怒って電話を切った[164]。
また、7時48分には西陣署の交換台に架電し、「署長を出せ。お前らが捜している廣田や」と名乗り、千葉にいることを告げている[29]。実家に張り込んでいた捜査員による逆探知の結果[133]、廣田は千葉市内に潜伏していることが判明[29]。このため、千葉県警と警視庁は第3の犯行に備え、それぞれ管内全署に警戒を指示した[133]。一方、廣田は同日8時過ぎ、自宅近くに住んでいた担当の保護司宅にも電話をかけ、「今東京にいるが、俺は犯人じゃない」「警官が自宅を張っている。のけてくれ」などと話したが、保護司から「犯人じゃないなら、警察に出頭して事情を説明しなさい」と説得されていた[115]。保護司はその後、千葉保護観察所を通じて廣田から電話があったことなどを捜査当局に通報した[115]。
9時30分、警察庁刑事局幹部が廣田への容疑について検討を始めたが、当時は物証が十分ではなかったため、京都府警に「今少し状況証拠を積み上げるように」と指示している[29]。一方、大阪府警は13時に総合対策本部(本部長:四方修府警本部長)を設置していた[29]。なお、10時45分ごろには警視庁新宿警察署に対し、新宿区西新宿二丁目の都営4号地脇にあった公衆電話ボックスから、関西訛りの男の声で「京都の事件を知っている」という電話がかかっている[23]。同署員が現場に急行したところ、男は既にいなくなっていたが、目撃者はその男について「廣田に似ている」と証言していた[23]。廣田は14時ごろ、実家(当時、周辺に捜査員約30人が張り込んでいた)に電話をかけ、母親に対し「俺はやっていない」と話したが、母から「生きた心地がしない。なんとかして」と言われていた[159]。
廣田は身柄を確保される約40分前[165]、千葉市都町[注 29]の千葉県知事公舎近くから個人タクシーに乗車し[166]、運転手に対し「成東まで有料道路を通っていってくれ」と行き先を告げた[165]。このタクシーの運転手は事件のことは知っていたが、客として乗ってきたその男(廣田)が犯人であるとは思わなかったという[166]。タクシーに乗車している間、廣田は「東京からタクシーに乗ってきたが、運転手が道を知らず、遠回りをしたので、千葉で降りた」と話すのみで、道順を指示する以外にほとんど口を利かず、タクシーの助手席にあった新聞朝刊(本事件を報じていた)にも気づかぬ素振りをしていた[165]。一方で15時35分ごろ[167]、千葉県警捜査一課の警部ら捜査員4人が[注 30]、千葉東金有料道路の東金料金所(東金市)付近をライトバンで、成東町へ向けて移動しながら警戒に当たっていたところ、前方を走っていたタクシーの車内に[168]、白いゴルフ帽を目深に被り、座席に身を隠すようにして乗車している男を見つけた[167]。「ゴルフ場に行くには時間が遅すぎる」と考えて車に接近し、男の顔を確認したところ、手配されていた廣田の顔写真とそっくりだったため、彼らはこの男を廣田と直感し[168]、廣田が凶器の拳銃を持っていることを前提に銃撃戦も想定した上で、車内で作戦を練りながらタクシーを尾行した[168]。その後、タクシーは約10分走行し、廣田の実家前(成東町)で停車した[167]。
15時46分[29]、廣田はタクシーから降車したところ、朝から実家前に張り込んでいた千葉県警捜査一課の警部補から職務質問された[168]。廣田は声を掛けてきた警部補に対し、「逮捕状は出たのか」と問い掛けていたが[168]、特に抵抗することもなく本名を名乗り、成東警察署への任意同行に応じた[167]。取り調べは成東署刑事課の取調室で、先述の警部と警部補が行ったが、廣田は犯行について「知らない」「やってない」と頑強に否認した[167]。
大阪府警捜査一課は15時55分、「廣田、任意同行」の緊急連絡を受け、警察庁も16時、千葉県警から「廣田確保」の一報を受けた[29]。また、京都府警も千葉県警から連絡を受け、16時16分[158]、京都地裁に対し、Aに対する強盗殺人容疑で廣田の逮捕状を請求した[29]。同府警は17時5分に逮捕状を取り[29]、京都事件発生から約29時間後の17時37分[159]、成東署内で逮捕状が執行された[158]。この時点での廣田の所持品は現金約14万円と、汚れた靴下などで[159]、廣田から拳銃の発砲を裏付ける硝煙反応は出なかった[129]。逮捕後、廣田の実家近く(北東へ約100 m)の雑木林で合成皮革製のショルダーバッグが発見されたが、拳銃は入っていなかった[169]。
京都府警の取り調べ
逮捕後、廣田は18時に成東署を出て護送車に乗せられ、20時10分過ぎに東京駅に着くと[29]、21時発の「ひかり541号」(名古屋行き)[注 31]に乗車し、名古屋まで護送された[170]。新幹線の車内で、廣田は「何か言いたいことはないのか」という報道陣の質問に対し、「京都府警にはヘタ売らしてやるが、千葉県警にはヘタ売らすわけにはいかん」[注 32]と吐き捨てているほか、カメラマンに顔写真を撮影されると、「もうやめさせろ。俺、頭にくるぞ」と叫んでカメラマンに掴みかかったり、別のカメラマンに駅弁を投げつけ、足で蹴りかかったりした[69]。廣田は当時の経緯について、当時両足の裏に「正常に歩行ができない程の傷」を負っていたにも拘らず、千葉県警の護送警察官によって無理矢理歩かされ、報道陣の前に連れ出されたことや、被疑者段階であるにも拘らず報道陣から犯人視されて罵声を浴びせられ、新幹線の車内でも護送員から弁当を渡されて食べたところ、報道陣から挑発を受け、最終的には「どこの部落の人間や!」「部落の人間でも箸を使ってメシを食うのか!」と罵られたことに憤慨し、駅弁を投げつけたことなどを主張している[171]。また、取り調べ中に接見に来た弁護人から、ある新聞社が自身を被差別部落の出身者かどうか調査していると聞かされ、控訴審の公判中にその新聞社が毎日新聞京都支局であることを知り、同支局長の河北明宛てに謝罪を求める信書を出したが、河北は自分に対しその件を「調査する」と約束しながら、それを有耶無耶にしたという旨を主張し、「新聞屋」(新聞社のこと)を「人間の皮を被った化物」「『赤報隊』に射殺されるべき」と強く非難している[172]。
23時16分、廣田は名古屋駅に到着し、駅前に待機していた京都府警の護送用ワゴン車に乗せられ[29]、6日1時49分、西陣署に到着[158]。7日午後、廣田は捜査本部から強盗殺人・銃刀法違反・火薬類取締法違反の容疑で京都地方検察庁に送検された[169]。6日11時30分以降、廣田は西陣署内で本格的な取り調べを受けた[27]。それ以降、同地検や京都府警捜査本部によって20日間にわたる取り調べが行われたが、廣田は犯行に関わる質問に終始供述を拒否した[9]。一方、京都地検は8日、廣田を10日間拘置することを京都地裁に請求したが、京都地裁は「被害者 (A) が警察官であり、被疑者を警察の支配下(府警本部)に置くことは問題が多い」として、拘置場所を京都拘置所に指定し、廣田に対する接見禁止の申請も却下した[173]。凶悪事件で、被疑者の拘置先が拘置所に制限指定されたことは極めて異例のことであり、京都地検は同決定への準抗告を行ったが[注 33]、いずれも棄却された[174]。
警視庁は5日の未明と早朝、廣田が江戸川河岸に現れていたことを把握し、13日から河岸を捜索したところ[152]、14日に江戸川区篠崎町3丁目2番地先の江戸川大橋付近で、ボストンバッグを発見[注 34][150]。バッグを売ったかばん店の店員の証言などから、廣田が曾根崎二丁目のピンクサロンの店員に買わせたものと断定した[125]。
起訴まで
その後、京都地検は10日間の拘置延長を請求し、取り調べを続けた[175]。
廣田は拘置延長が認められた9月17日、身上調書を取らせるとともに、「自分は事件は無関係」というそれまでの供述を翻し、「事件前日の3日に京都に来て、当日(4日)、刑務所仲間から持ち掛けられていた覚醒剤の取引のため、仲間3人とともに船岡山に行ったところ、A巡査に職務質問されたため、仲間がAを刺殺した。そいつに血が付いたので拭いてやった。千本中立売にも覚醒剤の取引で行った」[176]「西陣大映などで密売をした後、刑務所仲間の1人と京阪七条駅から電車で京橋へ行き、密売の報酬30万円を受け取った。その後、彼と特殊浴場やピンクサロンに行った後、紙袋を始末するよう頼まれ、2人で東京に行ったが、その車中で『紙袋には拳銃も入っている』と言われた」[177]などと供述したが、この供述は虚偽だった[注 35][176]。結局、廣田自身が犯行を認める供述は得られないまま、拘置期限切れ(9月27日)を迎えたが[178]、京都地検はそれまでに廣田の犯行を匂わせる数多くの状況証拠(犯行前後に廣田を目撃したという証言、タクシーから検出されたAの血痕、廣田が遺した指紋など:前述)を得ていたものの、拳銃などの直接証拠は発見できず、自供も得られなかったため、同日午後に廣田を処分保留のままいったん釈放、廣田は直ちに大阪府警捜査本部(都島署)によって大阪事件の強盗殺人容疑で再逮捕された[9]。同日、京都地検次席検事の増田豊は、処分保留の理由について「京都事件は現在でも起訴可能であるが、大阪事件と一連の事件であるため、大阪事件について取り調べを済ませ、事件の全貌を解明した上で処理するのが相当」と、京都府警刑事部長の中長昌一は「廣田の自供は得られなかったが、敗北ではない。現在の捜査結果でも、廣田の犯罪は十分立証できると確信している」とそれぞれコメントした[179]。同日、廣田は身柄を大阪府警に移され[9]、同月29日には強盗殺人・銃刀法違反などの容疑で大阪地方検察庁に送検された[180]。
大阪地検は送検後の30日、廣田の勾留請求に加え、接見禁止と代用監獄(都島署への拘置)を大阪地方裁判所に請求したが、大阪地裁は勾留以外は認めず、廣田の身柄は大阪拘置所に移された[181]。大阪府警の取り調べに対し、廣田は当初、事件当日に京都から京阪電車に乗って京橋駅に行ったことや、大阪事件の現場となったサラ金の近くまで来たことは認めたが[182]、両事件への関与は全面的に否認し[7]、「大阪へは仕事で来た。京橋駅から大阪環状線で大阪駅に行った」などと供述[182]。取調官から商売相手などについて追及されると「相手に迷惑がかかる、信義上言えない」などと供述し[183]、実行犯や「行動をともにしていた」と主張した人物などについても供述を転々とさせ続けた[177]。また、10月1日には取り調べ中に警察官のネクタイを引っ張り、取調警察官3人によって制止されていたほか、同月12日には供述調書への署名・指印を拒否して取調室から飛び出したが、その際に自ら窓ガラスを割って負傷している[184]。
しかし、10月10日ごろから態度を軟化させ[7]、犯行時に着ていた着衣の隠し場所など、犯行の一部に触れる供述をするようになる[183]。その後、「人から聞いた話だが、拳銃は江戸川右岸の橋桁の下に埋めてあると聞いた」と供述[注 36][185]、そして後述の犯行自供後は拳銃や包丁の隠し場所について、「江戸川競艇場(江戸川区東小松川)近く」と供述し、その近辺の詳細な地図を書いた[186]。そのため、京都・大阪の両府警捜査本部はそれぞれ捜査員を東京に派遣し、警視庁の応援を得て[186]、荒川に架かる小松川大橋付近(江戸川区小松川二丁目、首都高速道路〈荒川大橋〉 - 京葉道路〈小松川大橋〉間の河川敷)を捜索した[187]。結局、それらの凶器を勾留期間中に発見することはできなかったが[7]、京都・大阪の両地検はそれまでに得た数々の状況証拠や、後述のような廣田の自供や状況証拠などから、廣田の犯行を立証可能と判断し、起訴に踏み切った[176]。
10月11日、廣田は京都事件・大阪事件とも自身の単独犯行である旨を自供した[177]。また、拳銃は東京都内に隠し、着衣・手袋は江戸川近くに捨てた旨を供述した[188]。それに前後して、廣田が京都事件前に京都市内で凶器となるボウガンや包丁などを買い揃えていたことや[5][117]、Aの遺体に残されていた傷の状況は、廣田が購入したものと同種の包丁の刃と一致するものであることなどが判明した[189]。その後も廣田の供述は変遷し続けていたが、廣田は起訴後の10月25日に行われた取り調べまで、自身の単独犯行であることは一貫して認めていた[177]。
大阪地検は10月19日、京都事件・大阪事件の双方について、廣田を強盗殺人・銃刀法違反・火薬類取締法違反の罪で起訴した[7][190]。しかし、それ以降も廣田は拳銃の所在について供述を転々と変え続けた[191]。京都府警は起訴後も専従捜査員を残して拳銃の発見に努めたものの[192]、最後まで発見には至らなかった。
刑事裁判
第一審
第一審における事件番号は昭和59年(わ)第4576号で、審理は大阪地方裁判所第1刑事部に係属した[30]。判決が言い渡された当時の合議体は、青木暢茂裁判長と、林正彦・河田充規の両陪席裁判官で構成されていた[193]。廣田は逮捕後、1978年の事件で第一審の弁護を担当していた堀和幸(京都弁護士会所属)を再び弁護人として選任している[28]。
初公判
1984年12月24日に初公判が開かれたが、被告人の廣田は罪状認否で、起訴事実を全面的に否認した[73][194]。公判中、廣田は宗教関係以外の本を多数読むようになったほか、フリージャーナリストと文通を重ねており、その獄中書簡(1986年7月 - 9月)がオピニオン誌『ジャクタ』第22号に掲載された[195]。検察官は、廣田の動機について「一連の行動から見て、強盗を働いてまとまったカネを手に入れるため」と主張した一方、弁護人は「仮に廣田が犯人だとしても、金欲しさの人間が犯行後、特殊浴場やピンクサロンで無造作に浪費したことは不自然だ」と疑義を呈した[129]。
検察官の立証
1985年(昭和60年)2月5日に開かれた第2回公判で、検察官は以下のように、雅晴の母親が捜査員に心境を述べた調書を朗読している。
「みんなに迷惑かけて息子がにくくて仕方ありません。被害者やその家族にどう言ってあやまっていいかわかりません。息子がこんな事件を起こし、あちこちから電話がかかり、生きた心地がしません。私の生きているうちに死刑にしてもらいたい。そうでないとまた、迷惑をかけることになります。私が毎日、先祖にお参りして極楽に行けるようにしてあげる。どうか子供の時のような素直な気持ちになって反省してほしい」 — 廣田雅晴の母親、京葉讀賣 (1985) [196]
最大の物的証拠となる凶器(包丁や拳銃)が発見されなかったため、被害者2人の遺体から検出された弾丸と、京都府警が保存していた試射弾丸[注 37]の合わせて3個だけが、2つの事件を直接結びつける唯一の物証となった。検察側の依頼を受けて弾丸を鑑定した坂田八昭(警察庁科学警察研究所技官)は、「3個の弾丸を比較顕微鏡で対照したところ、線条痕が一致するため、同一銃から発射されたと推定できる」と証言した一方、弁護側は「同じ工具で作った銃なら、線条痕が類似するのでは」と反論し、再鑑定を求めた。しかし、再鑑定を行った福岡県警察科学捜査研究所職員も「理論に立脚した経験から、同一銃から発射されたものと考えざるを得ない」と証言した[147]。
また、検察側は計60人の証人(うち35人は目撃証人)を召喚し、その中でも最重要証人である女性C(大阪事件で同僚Bを目の前で殺された)から「廣田は犯人の男に似ている」という言質を取った[147]。一方、直接目撃者がいなかった京都事件では、事件現場(船岡山)周辺で犯行前後に不審な男を目撃した人物や、事件前日に凶器と推定される包丁を売った金物店の主人、ボウガンを売った銃砲店の従業員が証人として尋問され、「廣田は事件前、何か怖い印象を持って見た男によく似ている」「(包丁やボウガンを売った相手は)廣田に間違いない」という証言がなされた[147]。
廣田の主張
一方、廣田は1987年(昭和62年)10月から開始された被告人質問で、「出所後、3つの犯罪を実行するつもりだった。昔の貸金を恐喝してでも取ること。その金で覚せい剤の密売をすること。最後に前回の郵便局強盗事件で取り調べに当たった京都府警の捜査員の両目をつぶしてやりたい、と思った」と陳述した[197]。また、「一連の事件が発生した当時は警察官時代、ともにノミ行為などを行っていた男性(以下『X』)とともに行動しており、京都事件当時(9月4日12時50分ごろ)はアリバイがあった[注 38]。その後、Xと2人で京阪電車で京橋駅に向かったが、同駅に着いたのは大阪事件の発生後だ」と、両事件についてアリバイがある旨を主張した[1]。しかし大阪地裁 (1988) は、廣田がXの電話番号などを明らかにできなかったことや、司法警察員が作成した「Xの所在捜査結果について」と題する書面によれば、Xが居住していたという京都市南区内には1983年1月以降、そのような人物が住民登録をした事実はないと認められることなどから、「Xが存在すること自体に裏付けがない」と指摘[124]。6年以上も前の「ノミ行為の未回収金を取り立てる」という点や、廣田の「8月30日にXから回収を依頼され、9月4日までにほぼ全額の1,500万円近くを回収し終わった」という主張もそれぞれ不自然で、そもそも「ノミ行為」の未回収金が存在していたことを裏付けるメモなどの証拠も何ら提出されていない点から、廣田のアリバイ主張を「到底措信できないばかりか、虚偽の供述といわざるを得ない」と断じている[124]。
捜査段階における自白についても、「大阪府警の取調官による暴行に耐えかねて虚偽の自白をした」と弁解し[198]、殴る蹴る、タバコの火や焼けたトタン板のようなものを手に押し付けられる、自慰行為を強要される、陰茎を蹴りつけられたり睾丸にライターの日を近づけられたりするなどの暴行を受けたり[199]、自白しないと「父親の墓を捜索する」と脅迫されたりした旨を主張した[200]。
実際、廣田が大阪拘置所で弁護人と接見した際、廣田の手足に傷があることが確認されたり、1987年11月25日に廣田が弁護人に宅下げしたズボンに、廣田と同じ血液型の人血や精液が付着していたりなどの事実も確認されたが、大阪地裁 (1988) は廣田が「タバコの火や熱したトタン板様のものを体に押し付けられた」と主張している点について、弁護人と接見した際に訴え出ていない(弁護人もそのような火傷を確認していない)点や、拘置所でも火傷の治療をしたことがない点、「取調官から自慰行為を強要された」という点も取り調べ当時は弁護人に訴えておらず、その証拠とされたズボンも公判中の1987年11月まで着用していたと見られる(その間、廣田自身が血液や精液を付着させることも可能だった)ことなどから、「火傷をさせられる拷問を受けた」「自慰行為を強要された」という主張については「虚偽の供述」と認定している[201]。その上で、当時の取調官による「廣田は取調べ時、警察官のネクタイを引っ張ったため、別の警察官が制止したところ、ネクタイを引っ張られた警察官だけでなく、廣田も指に怪我をした。また、廣田は取調べ中、廊下に出て自ら窓ガラスを割り、指を切ってかなり出血したことがある」という証言(参照)を「各種証拠から信用できる」と認定し、廣田の供述の任意性を認定している[202]。
死刑求刑
1988年(昭和63年)7月12日に論告求刑公判が開かれ、廣田は検察官から死刑を求刑された[203]。論告は約1時間40分におよび、検察官はまず銃弾の鑑定結果から、両事件の凶器がAから奪われた拳銃であることを挙げた上で[203]、以下のような客観的証拠を挙げ、廣田の犯行を立証した[37]。
- 京都事件
-
- 事件発生直後、現場周辺で(十二坊派出所付近から西陣大映に入場するまでの間に)返り血を浴びた廣田を目撃した人物が断続的にいたこと
- 廣田が犯行後に西陣大映まで乗車したタクシーの座席に、被害者Aと一致する血液型(A-MN型)の血液が付着していたこと
- 西陣大映で発見された清涼飲料水(リアルゴールド)の瓶に、廣田の指紋が付着していたこと
- 大阪事件
また、捜査段階における廣田の自白の内容は虚実ないまぜになっている(犯行動機や事件当時の状況などに虚偽の点が含まれる)点を指摘した上で、公判における「犯人は別人で、自分は現場にも行っていない」という廣田の弁解については虚偽であると主張[37]。その上で、強盗傷人事件などを起こして服役したにも拘らず、仮出所からわずか5日後に本事件(2件の強盗殺人)を起こしたことを「一片の人間性すら見い出せない」と非難した[37]。特に、京都事件でAの全身を包丁で滅多刺しにし、奪った拳銃で背後から撃つなどの犯行態様については「他人の生命をもてあそぶ殺人鬼の行動」と[203]、金品強取のために大阪事件を起こした点についても「殺人鬼とも言うべき非人間性を余すことなく示している」と指弾し、「警察官を襲撃することは、市民生活の平穏と安全に対する重大な挑戦であり、まして犯罪の凶器を入手するため警察官を殺害することは、社会の安全を根底から否定するものであって、許すことはできない。」と主張した[37]。そして、犯行の残虐性、結果の重大性[注 39]、社会的影響、被害者・遺族におよぼした影響などを鑑み、死刑を求めた[37]。廣田は論告後、最終弁論の内容について、主任弁護人の堀に対し「正面から堂々と事実を争ってほしい。死刑は違憲などという主張はしないでほしい」と要望し[205]、自ら構築した論理・主張を取り入れさせた[129]。
同年9月8日に最終弁論が行われ、弁護人が全面的に無罪を主張、結審した[206]。
死刑判決
1988年10月25日に判決公判が開かれ、大阪地裁(青木暢茂裁判長)は廣田に求刑通り死刑を言い渡した[21]。死刑判決を言い渡す際は主文を後回しにし、判決理由から先に朗読する場合が多いが、青木裁判長は冒頭で主文を言い渡す異例の対応を取った[21]。
大阪地裁 (1988) は判決理由で、以下のように判示し、「被告人と本件各犯行との結びつきを裏付ける数々の間接事実が存在し、また、被告人の自白のうち、右間接事実によって裏付けられた部分は、その信用性も認められ、更に、大阪事件の目撃者〔C〕の識別供述も信用するに足るものであり、以上を総合すると、結局、判示各事実を認定するにつき、合理的疑いを容れる余地はない」と結論づけた[142]。その上で量刑面については、最高裁が示した死刑適用基準(1983年7月8日:第二小法廷判決)に照らし、動機に酌量の余地がない点、犯行は計画的で、殺害の手段方法が残虐かつ冷酷である点、2人の生命が奪われた結果の重大性、社会的影響の重大さや、廣田に反省・悔悟の情がまったく認められず、矯正教育の効果が期待できない(犯罪傾向や反社会的性格が改善不能である)点を挙げ、「死刑をもって臨む以外にない」と判断した[207]。
- 廣田の自白の任意性[177]・信用性[144]
- 廣田の「取調官から拷問を受けた」という主張に関しては、先述のように不自然な点が見られることを理由に退け、「廣田の供述の任意性に疑いを抱かせる事情は認められない」と判断した[202]。一方でその自白内容については、京都に来た本来の目的、拳銃などを隠したり捨てたり下敷き・場所など、自白の重要部分が短期間で大きく変遷している部分があったり、直ちに信用できない箇所(「Aが発砲した」「Bが『撃てるものなら撃ってみろ』と言ってきた」などの主張)があったりすることから、「認めざるを得ない部分を最小限認め、しかもその場合でも、できるだけ自己に有利な形で供述し、あるいは虚偽の事実を取り混ぜている」「本件の全貌を明らかにしたものとは到底いえない」と指摘、後述する様々な証拠によって裏付けられた部分のみ信用に値すると判断した[144]。
- 京都事件後に寄せられた多数の目撃証言
- 「いずれの目撃情報も昼間、至近距離で目撃したものである上、事件直後(遅くとも2、3日以内)に得られたもので、信用性は高い」とした上で、複数の証言で服装・風貌、「腕に血がついていた」などの特徴などについて共通点が認められることなどから、目撃された人物は同一人物と判断した[134]。そして、「西陣大映」に廣田の指紋が付着していた「リアルゴールド」の空き瓶が残されていた事実を前提に、同館従業員の「廣田らしき男が『リアルゴールド』を飲み、その空き瓶を残していた。男の左肘の後ろには血が付いており、顔にも血痕のようなものが付いていた」という証言の信用性を検討し、「証言に不自然・不合理な点はなく、具体的な記憶に基づく証言といえる」として、目撃された男を廣田と断定した[137]。
- 一方、テレビニュースや新聞報道による影響についても考慮し、それらをまだ受けていない段階で寄せられた証言については、目撃当日に警察官から廣田を含む何枚かの写真を見せられ、すぐに廣田の写真を選びだした証人がいたことなどから、信用性を認め[208]、廣田が逮捕後、自ら事件前日に千本通の金物店で包丁やのこぎりを購入した事実を明かした(特に、のこぎりを買ったという事実は捜査機関側はまだ把握していなかった)ことや、その際に購入した包丁はAの受傷と一致することなども、廣田が京都事件の犯人であることを伺わせる間接事実の一部として挙げた[209]。
- 大阪事件後の目撃証言(参照)
- 事件直前、犯行現場となった「ローンズタカラ」の入居する「永井ビル」近くの飲食店「あんどれー」で目撃された中年の男を、かき氷の容器から検出された指紋から廣田と認定した上で、その男と酷似した男が同店から「永井ビル」近くで左右を見渡したり、同ビルを見渡したりしているところを目撃した人物の目撃証言、「甲」の従業員3人が都島署員の取り調べに対し、「事件直前に手提げ袋を持って『甲』に現れた不審な男は、廣田で間違いない」と証言している[注 40]点から、廣田が事件直前、「永井ビル」周辺に現れていたことを認定[210]。その際に廣田が持っていた手提げ袋の特徴から、廣田は京都事件前(9月3日)にボウガンを購入した銃砲火薬店を、大阪事件後に曾根崎の特殊浴場やピンクサロンをそれぞれ訪れていたことも認定した上で、大阪事件の目撃者であるCの目撃証言を検討[211]。Cは事件翌日、警察官から6人の写真を見せられ、その中から犯人として廣田の写真を選んだほか、110番通報時に述べた男の風貌や服装の特徴も廣田と合致していたことから、大阪事件の犯人は、先述の「甲」に現れた人物と同一人物である可能性が高いことを指摘し、「廣田が大阪事件の犯人であることを伺わせる重要な間接事実」と位置づけた[146]。
- 大阪事件後の不審な行動
- 大阪事件後、廣田が曾根崎二丁目のピンクサロンで店員に着替えの服を購入させてきて着替えたことや、着替える前の服を逮捕時点で所持していなかった一方、その服を入れたボストンバッグが江戸川に捨てられていたことから、「廣田は(何らかの犯罪の証拠となるなどの理由から)着替える前の服を処分する必要があったものと考えられる」と指摘[212]。また、廣田は出所時に2万6,583円を所持しており、妻から20万円を受け取った一方、逮捕時には14万2,650円を所持していたが、その間に20万円を大きく上回ると見られる出費[注 41]があったことから、出どころを説明できない10万円単位の収入があったことを認定し、廣田が大阪事件の犯人であることを窺わせる事情として挙げた[213]。
- 廣田はこの金の出どころについて、8月30日に琵琶湖ホテルの前で、Xから20万円を受け取ったという旨を主張したが、捜査段階での否認供述と大きく異なるものであることや、20万円をもらった経緯や理由も不自然であること、そして「Xと行動をともにしていた」という供述自体が信用し難いことなどから、大阪地裁は廣田の弁解を「到底信用できない」と退けている[213]。
- 両事件の犯人は同一人物か否か
- 以上のように、両事件についてそれぞれ廣田が犯人であることを窺わせる間接事実の存在を挙げた上で、Aから奪われた拳銃と、両事件で用いられた拳銃の同一性について検討[214]。A・B両被害者の体内から摘出された弾丸と、京都府警が保管していた試射弾丸1個[注 37]のそれぞれに残されていた線条痕から、それら3個の弾丸は同一の拳銃(Aから奪われたニューナンブ38口径拳銃)から発射されたものと認定した上で、共犯者の存在が証拠上窺えないことから、両事件の犯人を同一人物と結論づけた[214]。
- その他の事項
- 廣田が事件前日にボウガンや手袋などを購入し、処分した事実や、事件前日に嵐山派出所や十二坊派出所へ電話して警察官をおびき出そうとしたり、南区の質屋の主人を店外におびき出そうとしたりしたことが、それぞれ廣田自身の自供も含めた各種証拠から認められることから、廣田は強盗するか、拳銃を奪うために京都に来ており、そのために事前に凶器を準備し、警察官をおびき出そうと計画した末に実行に至ったという旨を推認[216]。京都事件発生直前に十二坊派出所や船岡山公園正門(公園北西側)で廣田らしき男が目撃されていた事実(参照)を指摘し、廣田の自白のうち「当日昼過ぎごろ、警察官をおびき出すため、船岡山公園入口の公衆電話から十二坊派出所に電話した」という事実の裏付けになると判断した[131]。
廣田は判決に前後して、山中湖連続殺人事件で東京地裁から死刑判決を受けた澤地和夫[注 3]に対し「同じ警察の落ちこぼれとして力を合わせておれたちを犯罪者に追いやった国家権力と戦おう」という趣旨の手紙を数通送ったが、澤地からは相手にされていなかった[217]。廣田は1987年夏、澤地に「いい弁護士を紹介してほしい」という手紙を出したが、澤地から「お互い警察のクズ。やったことは素直に認めなさい」という返事を受け取っている[218]。廣田は判決を不服として、即日控訴した[219]。
控訴審
控訴審における事件番号は平成元年(う)第162号で、審理は大阪高等裁判所第6刑事部に係属した[220]。裁判長は初公判から判決公判まで、村上保之助が務めた[221][59]。
初公判は1991年(平成3年)1月25日に開かれ[222]、1993年(平成5年)2月10日の第11回公判で結審した[223][224]。控訴趣意書で、弁護人(堀和幸・塚本誠一)は「訴訟手続の法令違反」(自白は違法な取り調べによって強要されたもので、任意性がないとする主旨)[225]、「事実誤認」(直接証拠は信用性に欠ける自白のみで、数々の間接証拠も証拠価値が乏しいとする主旨)[226]、「法令適用の誤り」(死刑制度は第13条・第31条・第36条に違反するとする主旨)、「量刑不当」を主張した[227]。それらの論旨は、以下の通りである。
- 訴訟手続の法令違反(弁護人および被告人の控訴趣意)
- 1984年10月1日以降、廣田は大阪拘置所で大阪府警の警察官から暴行・拷問を受けて自白を強要され、11日以降、自身の犯行を認める旨を自供した。そのような取り調べによって得られた自白には任意性はなく、原判決には判決に影響をおよぼすことが明らかな訴訟手続の法令違反がある[228]。
- 事実誤認の主張(弁護人および被告人の控訴趣意)
- 原判決は京都・大阪の両事件の犯人を廣田と認定したが、その直接証拠は廣田の警察官・検察官に対する自白(信用性を欠く)だけで、原判決が廣田を両事件の犯人と認定するのに列挙した一連の間接証拠はいずれも証拠価値が乏しく、証拠情、廣田を両事件の犯人とするには多分に合理的な疑いが残る[229]。
- 法令適用の誤りの主張(弁護人の控訴趣意)
- 刑法の死刑の規定は、日本国憲法(第13条・第31条・第36条)に違反し、無効である[230]。
- 量刑不当の主張(弁護人の控訴趣意)
- 原判決は、京都事件及び大阪事件の各罪について死刑を選択したが、死刑の選択はあくまで慎重になされるべきだ。廣田が犯行に至った経緯や動機は十分に解明されておらず、原判決がいうように「犯行に至る経緯、動機に酌量すべき事情は何ら見い出せない」とまでは決めつけられない。犯行態様は両事件とも計画的というよりはむしろ場当たり的で、京都事件は目撃者がなく、犯行自体も原判決の言うような一方的な攻撃であったかは疑問である。大阪事件で強奪した現金も約60万円で、多額とはいえない。廣田は、前刑の事件を起こすまでは真面目な社会人として生活してきたのであり、彼が一連の犯行におよんだ経緯・動機が十分解明されていない以上、「反省・悔悟の情がない」「矯正不可能」と決めつけるには疑問がある。また、死刑を選択する事情として被害者の遺族の被害感情や事件の社会的影響を考慮するのは相当でない。以上より、いずれの事件についても死刑を選択した原判決の量刑は不当である[231]。
なお、弁護側は最終弁論要旨を2通(弁護人が用意したもの+廣田本人が書いたもの)大阪高裁に提出したが、廣田自身が書いた最終弁論要旨は、「警察は犯人をデッチ上げ、検察は警察の御用機関になり下がった」などと激しい言葉で検察側の主張を批判し、冤罪を訴えるものだった[232]。
公判中、廣田は山中湖連続殺人事件の犯人(澤地和夫の共犯者)である猪熊武夫(東京拘置所在監)[注 3]から紹介を受け、彼が事務局長を務めていた「ユニテ=死刑囚の会」に入会、同会の機関誌である『ユニテ通信 希望』に手記を寄稿している[233]。また、1993年当時大阪拘置所に勾留されていた山之内幸夫(山口組の元顧問弁護士)は、当時大阪拘置所の五舎3階(死刑確定者や、死刑判決を受けた被告人が収監されていた舎房)に収監されていた廣田が、控訴審で無罪判決を言い渡されると強く信じ、判決前に私物をすべて宅下げしており、判決当日には言い渡し直後に釈放されるものだと思って房を出ていったものの、判決言い渡し後に茫然自失の状態で房に戻ってきたという旨を述べている[234]。
控訴棄却判決
1993年4月30日の控訴審判決公判で、大阪高裁(村上保之助裁判長)は原判決を支持し、廣田の控訴を棄却する判決を宣告した[59]。日本では同年3月末、約3年4か月ぶりに死刑執行が行われていたが、それ以降では初めての死刑判決宣告となった[235]。廣田は開廷直後、控訴棄却の主文を言い渡されると、大声で「(判決理由は)聞きたくないので退廷します」と吐き捨て、開廷からわずか2分で退廷した[236]。
判決理由の要旨は以下の通りである。
- 自白の信用性について
- 弁護人は控訴趣意書で「廣田は大阪府警による大阪拘置所での取り調べで、殴る蹴るなどの暴行や、自慰行為の強要、タバコの火や熱した金属片を手などに押し付けられるといった拷問によって自白を強要された」と主張したが、大阪高裁 (1993) は廣田が「拷問を受けた」と主張している時期にかなり頻繁に弁護人と接見していたにも拘らず、「自慰行為を強要された」「タバコの火や熱したトタン様の金属片を皮膚に押し付けられた」と訴えたのは起訴から約3年後であることや、ガラスで手の指を切って治療を受けた際にもそのような火傷が発見されていないことなどから、「自慰行為の強要」「タバコの火などを押し付けられた」などの拷問の事実を否定[184]。「殴る蹴るなどの暴行を受けた」などの暴行についても、原判決の「当時取り調べに当たった警察官2人の供述を信用すべき」とした判断を追認した[184]。
- 事実誤認の主張について
- 大阪高裁 (1993) はまず、両事件の被害者の遺体から摘出された2個の弾丸と、京都府警本部で保管されていたAの拳銃の試射弾丸の線状痕について、同一拳銃によって発砲されたとする鑑定結果(原判決が採用)の信用性を追認し、大阪事件は京都事件で奪われた拳銃による犯行とであると認定した[229]。その上で、目撃者が存在する大阪事件について検討し、Cや「甲」の従業員、「あんどれー」の店員、事件後に立ち寄った曾根崎の特殊浴場やピンクサロンの従業員らによる目撃証言の信用性を認め、それらの証言や、「あんどれー」に残されたかき氷の容器に付着していた廣田の指紋、廣田の取り調べ中の自白(犯行前後の行動に関する部分)といった間接証拠の数々から、大阪事件は廣田の犯行と認定した[237]。そして、京都事件についても事件直後、廣田に酷似した男が乗ったタクシーにAと同じ血液型の血痕が付着していたことや、その男がタクシーを降りた地点の近辺にある「西陣大映」で男が飲んだ「リアルゴールド」の空き瓶に廣田の指紋が付着していたこと、事件前に千本通の金物店で包丁を購入した男は廣田と酷似しており、その購入された包丁が凶器となりうるものであったことなどの事情から、京都事件も廣田の犯行と結論づけた[238]。
- 法令適用の誤りの主張について
- 死刑制度を合憲と判断した1948年3月12日の最高裁大法廷判決を引用し、死刑制度を違憲とする弁護人の論旨を退けた[239]。
- 量刑不当の主張について
- 動機については所論で指摘されたように「必ずしも十分に解明されていない」としたものの、廣田の事件前の行動や一連の犯行状況から、京都事件の動機に奪った拳銃による現金強盗の意図があった可能性を指摘した上で、仮出獄時に家族から暖かく迎えられたにも拘らず、わずか5日後に一連の犯行におよんだことから、犯行経緯・動機に酌量の余地はないと指摘[231]。犯行態様についても、事前に凶器を用意するなど計画的である点や、京都事件では執拗にAを滅多突きにした上で拳銃を奪ってとどめを刺したことや、大阪事件でも至近距離からBの胸を狙撃していることを挙げ、「原判決のいうとおり、強固な確定殺意に基づくもので人命を著く軽視した冷酷、非情で残虐な犯行といわねばならない。」と判示した[231]。
- その上で、2人の生命が奪われた結果の重大性や、仮出獄からわずか5日後に犯行におよび、逮捕後も自白に虚実を取り混ぜ、凶器の在り処については最後まで明かさなかったことや、公判でも不合理な弁解を繰り返し、反省・悔悟の情が見られないことから、「原判決のいうとおり、もはや被告人に対して矯正教育の効果は期待できない」と指摘、被害者遺族らの被害感情の峻烈さ、地域住民を不安に陥れたことを挙げた一方、「特に被告人のために有利に斟酌すべき事情は、これといって見当たらない。」と断じた[240]。
- そして、「両事件の罪質、動機、犯行態様、結果の重大性、各被害者の遺族の被害感情、社会的影響、被告人の前科及び犯行後の態度等の諸情状を併せ考えると、両事件の罪責は極めて重大であって、罪刑の均衡及び一般予防の見地から両事件について極刑をもって臨むのはやむをえないと認められ、原判決が両事件につき死刑を選択したことは是認できる。」と結論づけた[241]。
廣田は判決を不服として、5月10日までに最高裁へ上告した[242]。
上告審
上告審における事件番号は平成5年(あ)第570号で、審理は最高裁判所第三小法廷に係属した。神山啓史・松島曉の両弁護人は1994年(平成6年)3月31日付で[243]、全173ページ(目次4ページ+本文169ページ)におよぶ上告趣意書を提出した。その内容は、物証や直接証拠の不存在[244]、目撃証言の信用性への疑念[245]、自白の任意性への異論[246]、そして死刑制度の違憲性などを主張するものだった[247]。
1997年(平成9年)11月14日、最高裁第三小法廷(園部逸夫裁判長)で上告審の公判が開かれ、弁護人と検察官の双方による弁論が行われて結審した[248]。弁護人は同日、京都事件・大阪事件とも廣田は無罪である旨を主張[249]。京都事件で奪われた拳銃と、大阪事件で凶器として用いられた拳銃を同一とする2つの鑑定結果について、線条痕の場所が食い違っているという旨を指摘し、廣田の関与を裏付ける物証(凶器・犯行時の衣服など)がないことや[248]、目撃証言の貧弱さなどに言及した[250]。その上で、廣田の「真犯人は別にいる」という意見陳述書も提出し[250]、線条痕の鑑定結果や自白・目撃証言などから、両事件を廣田の単独犯と推論した原判決を破棄し、審理をやり直すよう訴えた[248]。一方、検察官は「自白には虚実が入り交じっているが、自分一人でやったという骨格部分は信用できる」と反論した上で、目撃証言[251]・鑑定に矛盾はないとして、上告棄却を求めた[248]。なお、同日の弁論後、廣田は「神宮」に復姓している[62]。
同年12月19日、最高裁第三小法廷(園部逸夫裁判長)は原判決を支持し、廣田の上告を棄却する判決を言い渡した[8][62]。廣田は判決訂正申立を行ったが、1998年(平成10年)1月13日付の同小法廷決定[事件番号:平成9年(み)第5号、平成10年(み)第1号]により棄却され[252]、同月16日付で死刑が確定した[24][25][26]。
死刑確定後
廣田は死刑確定後、1998年12月3日から7回にわたって再審請求を行ったが、いずれも棄却され[注 42]、2011年(平成23年)1月21日には第8次再審請求を行った[25]。
2008年(平成20年)には福島瑞穂(参議院議員)が実施したアンケート[注 43]に対し、以下のように回答している[257]。
娘が自殺をした。20歳の処女の身体で。ショックで気違いになった。ムスコ、愛人も今流行の国に拉致をされた。この世に3人類似した他人がいるというが、娘によく似た女子マラソンの高橋尚子さんに逢いたい(泣くかもしれないが)。写真を見ただけで涙が出て来る。〔獄中生活で一番苦しいこと、つらいこと〕
— 神宮雅晴
暑さ寒さへの対応。再審で正しいことを主張しても嘘と言われ、裁判に必要な用紙代、カンテイ代もない秋(トキ)。嘘を正確と判示された書面を読む秋。
他にも多くの訴えがしたいが、今のところ、再審請求に影響があるので沈黙をする。
日本政府は真犯人を知りながら沈黙をし、オレを処刑して、真実を闇にほうむろうとしている。
2009年(平成21年)11月16日17時34分ごろ、廣田は親族らに宛てた遺書4通を作成した上で、居室の窓に取り付けられている金属製の網戸を四角形状に破り、シーツを網戸に通して自殺を図ったため、要注意者(自殺・自傷・逃走・暴行)に指定された[258]。その後、2010年(平成22年)11月25日には要注意者に指定された当時に比べて精神的に落ち着いた様子が見受けられるようになったとして、要視察者(自殺・自傷・逃走・暴行)に指定が変更された[258]。
また、福島は2011年6月20日 - 8月31日にも死刑確定者120人(2011年6月20日時点)を対象としたアンケートを実施したが[注 44][260]、廣田はこのアンケートに対し、久間三千年(飯塚事件の死刑囚)に対する刑執行[注 45]を批判し、久間に有罪判決を言い渡した「裁判屋」(=裁判官)や起訴した「検察屋」(=検察官)、逮捕した「ポリスケ」(=警察官)らについて「無実の者を処刑して、手前はのうのうと生存をすることなど許されない。全員公開処刑をすべきだ。」などと主張した上で、以下のような回答を寄せている[261]。
此の様なことが何故立法府で問題にされないのか、立法府が如何に人間の生命などを軽視する機関で在るのか判るだろう。全議員が知恵を出して先の東日本大震災の復興をせねばならないのに、瑣末なことのみにとらわれて、政局争ひを政治と考えている。これからも立法府が如何に人命を粗末にする機関で在るのか判るだらふ。みずほさん!あんたは何をしに議員バッチを付けているのか。久間氏の問題を取り上げてこそ議員としての価値観が在る。単にメシを食ひに行く為で在れば議員として何んの価値もない。俺は大阪拘置所からの暴行を参議院法務委員会に請願をしたが総て握り潰された。このことから、参議院は当然として議員など鼻クソ程も信用をしていない。いずれにしても、久間氏の弁護人は何をしていたのかと問いたい。無能な弁護士で在ったと想う。俺の時も証拠の見方も判らぬ弁護士で在ったので、久間氏に同情をする。
(日本の司法に言いたいこと)
裁判官に良く証拠を見ろといいたい。検察官に証拠を隠すなといいたい。弁護人に証拠の見方も判らぬボンクラ連中と定義付けをしたい。法務大臣に事実を握り潰す様なことをするなといいたい。再審請求している者の処刑など絶対にするな。久間氏を処刑した法務大臣[注 45]は切腹しろ!それが責任の取り方だ。拘置所長・職員に、今戦争中で在り、其の戦争は更に長く成る。泣きを入れるなよ!
必ず地獄の底に落してやる
— 神宮雅晴、[262]
国家賠償請求訴訟
2013年(平成25年)4月1日、廣田は第8次再審請求のための費用を工面するため、著書を出版して印税を得ようと考え[264]、「極悪死刑囚の笑福転倒」と題する原稿と[25]、その原稿を徳間書店に送るよう依頼する信書を[265]、知人宛に郵送しようとした[266]。原稿は、原稿用紙175枚で、日本の政治を風刺する内容だった[258]。しかし、処分行政庁が同月5日付で信書の発信を不許可にしたことから、廣田は同年4月27日付で国に対し、処分取り消しを求める国家賠償請求訴訟を提起した[25]。
被告(処分行政庁)は当時、原稿を原告(廣田)に返戻し、その写しを所持していなかったため、一審手続では原稿の内容に即した反論をしていなかった[267]。大阪地裁第7民事部(田中健治裁判長)は2014年5月22日、原告(神宮)の請求を認める判決を言い渡した[268][266][269]。しかし、被告側が同年6月4日付で大阪高裁に控訴したところ[270]、大阪高裁第14民事部(森義之裁判長)は同年11月14日[271]、原判決を取り消し、原告(廣田)の請求を棄却する判決を言い渡した[272][273]。大阪高裁 (2014) は、「死刑確定者は死刑の執行を待つという特殊な身分にあり、心情の安定を損なうおそれが大きい状況にあるため、その処遇にあたっては、施設管理の必要上、死刑確定者における心情の安定の確保に特段の配慮が必要と考えられる」とした上で、原告の「発信不許可処分は、憲法第21条で保証された出版の自由の侵害」という主張について検討[274]。「刑事施設の長の裁量により、信書の発信を認められるためには、社会通念上必要というべき事情がなければならないが、原告(神宮)の主張する理由(再審請求のために必要な費用を工面するために原稿を出版して印税を得ようとした)はそれに該当しない。また、出版社(徳間書店)との間で折衝が行われた形跡はなく、原稿の内容も元内閣総理大臣を誹謗中傷する趣旨のものが中心で、犯罪被害者を批判する記載、他民族を侮辱・蔑視する記載、わいせつな表現などが多数含まれるものであり、徳間書店によって出版される可能性が高かったとはいえない」と判断した[271]。
廣田は上告したが、上告は最高裁第三小法廷(山崎敏充裁判長)が2016年5月31日付で出した決定によって棄却され[275]、廣田の敗訴が確定した[19]。
また、この訴訟に関連して、廣田は自身の著作物である原稿を大阪拘置所職員に騙されて提出させられ、無断で原稿の写しを作成された[注 46]上、その写しを大阪法務局訟務部職員に交付され、同訟務部職員によって書面を作成された(写しや書面の作成は著作権侵害行為)として、国家賠償法第1条1項に基づき、被告(国)に対し、損害金300万円などの支払いを求めた国賠訴訟を提起した[277]。しかし、大阪地裁第21民事部(森崎英二裁判長)[278]は2015年(平成27年)6月11日[279]、「原稿の提出を求めた行為は、所轄の統括において、発受の可否を判断するために本件原稿を必要があると認めて本件原稿を提出させた行為と評価できるから、刑事収容施設法上、当然に発受できない信書の発信を求める本件願箋への対処として適法なもの」「原稿を騙して提出させたとまで認めることはできない」[280]と指摘。廣田による「著作権侵害」の主張についても、「写しの作成は著作権法第42条1項本文に定める『行政の目的のために内部資料として必要と認められる場合』に該当し、違法ではない」[281]などとして退け、廣田の請求を棄却する判決を言い渡した[282]。
考察・評価
第一審の公判を3回傍聴した作家の佐木隆三は、自身が死刑廃止論者であることを前置きした上で、本事件については日本の刑事裁判の量刑事情を踏まえ「(死刑は)仕方ない判決」と述べ、また廣田については「冤罪を訴える真摯な姿勢が感じられず、彼の主張に最後まで共鳴することはできなかった」と述べている[283]。
福島章は、廣田が本事件を起こした動機について(廣田なりの)「たったひとりの正義」と評している[284]。
山中幸一郎 (1985) は、昭和戦前から1984年までに起きた警察官の非行・不祥事を総括し、当時は戦前に多かった汚職型の不祥事が減少していた一方、本事件や山中湖連続殺人事件[注 3]のような凶悪犯型の犯罪が増加傾向にあったことや、これらの事件は計画性・残忍性を有したもので、それ以前の警察官による殺人事件(泥酔しての犯行や、無理心中崩れの犯行などが多かった)とは異質であることを指摘し、両事件を「元警官の犯罪とはいえ、凶悪化を象徴する事件と言える。」と評している[285]。
小林道雄(ノンフィクション作家)は、1983年 - 1985年にかけて発生した警察官・元警察官による犯罪(本事件や山中湖連続殺人事件を含む)について、いずれの事件もサラ金苦を動機に、主に40 - 45歳の人物が起こしているという共通項を挙げた上で、彼らのような世代は警察官のなり手が少なかったことから、採用人数を稼ぐために採用基準が甘くなっていたという可能性や[注 47]、発生地が大都市に集中している一方、犯人のほとんどは地方出身者であること[注 48]、そして外勤(警ら)・交通などの「制服組」に犯罪者が集中していた一方、刑事が不祥事を起こした事例は極めて少ない[注 49]という点を指摘している[289]。その上で、犯罪・不祥事を生む本質的な問題として、昇任試験制度を挙げ、不祥事を起こした者の多くを占める40 - 45歳は「この制度によって自分たちの警察社会における先行きが、はっきりと見えてしまう」年代という旨を指摘している[290]。
『諸君!』1984年11月号は、新幹線の車内でカメラマンに駅弁を投げつけた廣田の行動について一定の理解を示す旨を述べている[291]。
朝日新聞大阪本社社会部の山崎正弘は、本事件や大阪府警淀川警察署の巡査部長による愛人射殺事件(1983年9月)、1984年3月・4月に相次いで発生した兵庫県警察の現職警官による銀行強盗事件など、関西の3府県警(京都・大阪・兵庫)で相次いで不祥事が発生した背景として、各事件の犯人たちがサラ金から多額の借金を抱えていたことや、警察などの権力機構(「お上」)に対する庶民の畏敬の念が薄く、期待も少ないことから、「世の中は金次第」と打算的に物事を考える傾向が強い(=警察官が職業的な誇りを持ちにくい)関西特有の土壌などを挙げている[292]。『週刊文春』記者の網谷隆司郎は、兵庫県警の幹部や難波利三(作家)、谷沢永一(関西大学教授)・大村英昭(大阪大学助教授)の意見を引用し、関西は関東に比べて庶民感覚が強いゆえ、警察官たちの間でも「けじめ」の意識が薄く、それが関西における警察不祥事多発の遠因になっている旨を指摘していた[293]。
本事件は直接証拠がない中、多数の目撃証言などの間接証拠の積み重ねにより、事件当日の状況を分刻みで再現し、嫌疑を否認している被疑者が犯人であることを立証するという捜査手法が取られたが、『毎日新聞』(大阪本社版)は和歌山毒物カレー事件(1998年発生)の捜査手法もそれと同一である旨を述べている[38]。
脚注
注釈
- ^ a b c d 西陣警察署十二坊派出所は、2022年時点では北警察署十二坊交番(所在地:京都市北区紫野十二坊町33-4)となっている[4]。
- ^ a b c d 廣田が京都事件で凶器として用いた包丁(刃体の長さ約16.9 cm)は[1]、細身で堅刃の柳刃包丁[5]。
- ^ a b c d 澤地和夫は1980年1月、21年あまり勤務した警視庁を退職し、新宿に大衆割烹店を開店したが、経営が悪化し、1983年8月には1億5,000万円の負債を抱えて閉店に追い込まれ、一攫千金を狙って強盗殺人を計画した[43]。1984年10月11日、澤地は自分と同じく借金に苦しんでいた仲間の男2人(猪熊武夫・Pの両名。それぞれ死刑と無期懲役が確定)と共謀し、東京都北区の宝石商男性(当時36歳)を山梨県南都留郡山中湖村の別荘に誘い出して絞殺、現金や指輪など6,000万円相当を奪い、死体を床下に埋めた[43]。次いで同月25日、猪熊と共謀して埼玉県上尾市の女性金融業者(当時61歳)を土地をめぐる融資話で誘い出し、浦和市(現:さいたま市浦和区)内を走行中の車内で絞殺、現金2,000万円や指輪、預金通帳などを奪い、死体を別荘床下に埋めた[43]。1987年10月30日、東京地裁刑事第2部(中山善房裁判長)は澤地・猪熊を死刑、Pを無期懲役とする判決を言い渡し[43]、東京高裁第9刑事部(内藤丈夫裁判長)も1989年3月31日に3被告人の控訴をいずれも棄却する判決を言い渡した[44]。その後澤地・猪熊の両被告人は最高裁に上告していたが、1993年3月に死刑執行が3年4か月ぶりに再開されると、澤地はそれに対する抗議の意図で[45]、最高裁第二小法廷(大西勝也裁判長)に対し上告取下書を提出[46]。同年7月7日付で上告取下書が送付・受理され、死刑が確定した[47]。しかし死刑は執行されず、再審請求中の2008年12月16日に東京拘置所で病死している(69歳没)[48]。なお、共犯の猪熊は1995年(平成7年)7月3日に最高裁第二小法廷(大西勝也裁判長)で上告棄却の判決を受け[49]、判決訂正申立も同月24日付の決定で棄却されたため[50]、同月25日付で死刑が確定している[51][52]。Pも7月3日付で第二小法廷から上告棄却の決定を受け[53]、同決定に対する異議申立も同月12日付の決定で棄却されたため[54]、無期懲役が確定している[55]。
- ^ 雅晴の父親は1968年に死去している[30]。
- ^ a b c d 本事件当時、成東町の実家には雅晴の母親と、弟夫婦が住んでいた[69]。
- ^ 5人兄弟姉妹のうち、高校まで進学したのは雅晴だけだった[70]。
- ^ 当時はオリンピック景気で警察官の希望者が少なく、京都府警は同郷の知人へのはがき作戦など、優秀な人材の確保に躍起になっていた[68]。
- ^ 廣田の子供3人はいずれも男の子(1978年の事件時点でそれぞれ11歳、7歳、4歳)[72]。1984年12月時点では長男が17歳、次男が14歳、三男が11歳だった[73]。
- ^ 西陣署では通常、派出所勤務の警官が当直明けや非番の日には、いったん拳銃を本署に預けて帰宅する規定になっているが、拳銃は幹部立ち会いのもとに保管庫に入れ、幹部がさらに確認することになっていた[80]。
- ^ 廣田に拳銃を盗まれた巡査は、廣田とは別の金閣寺派出所に勤務していたが、16日夕方に拳銃を本署に預けて帰宅し、拳銃を盗まれた17日は非番、18日は公休で、19日の点検の際に初めて自分の拳銃がなくなっていることに気づいた[80]。
- ^ 近畿相互銀行は、後の近畿大阪銀行(現:関西みらい銀行)。
- ^ 現場となった札ノ辻郵便局(南区東九条石田町)は当時、竹田街道の十条上ル約150 mに位置していた[86]。
- ^ 拳銃が発見された場所は、六孫王神社の手水舎で、昼は近所の子供たちや散歩の人たちで賑わう場所だった[88]。
- ^ 廣田の説明は、まず21日18時ごろ、自宅に男の声で「東寺で会って返す」という電話がかかり、次いで22日14時40分ごろになって「六孫王神社に隠しておく」という電話がかかってきたというもので、前者の「電話」を受けた際には署長に連絡していたが、結局「男」は姿を見せなかった。しかし、2度目の電話は拳銃の置き場所を変更する重要な電話にも拘らず、それを署長に連絡しないまま1人で現場に行ったことや、拳銃に素手で触れたり、実弾を抜き取るなど、「警察官としての初歩的な常識に欠ける行動」を取っていたため、廣田はそれらの不審点を追及された[89]。
- ^ 廣田は「自宅に『犯人』から電話がかかってきた」として東寺境内に行き、「犯人」との接触が不成功に終わったにも拘らず、西陣署の幹部に対し「今日は犯人が泡割れなかったが、そのうち見つかりますよ」などと電話していたり、盗まれた拳銃を所持していた同僚の巡査に対し「君はこの事件のことで退職を考える必要はない」と話したりなど、拳銃発見の目処が立たない時期に不審な言動を取っていた[90]。
- ^ 1978年に懲戒処分を受けた警察官の人数は272人(うち、免職者数は26人)で、どちらの人数も1979年(昭和54年) - 1983年(昭和58年)の人数を大きく上回っていた[96]。
- ^ 京都地裁 (1980) は、拳銃窃盗が廣田の思惑とは異なり、警察の内部処理では済まず、予想外の社会的大騒ぎになったことや、郵便局強盗事件では被害者に騒がれ、簡単に諦めるなどした点から「衝動的な犯行」と認定した[79]。
- ^ 廣田が購入したボウガン(ボウガン・モデル1300)は、最大有効射程距離25 mで、近距離なら瞬発力が強く、フライパンを貫通する威力があった[117]。
- ^ 冒頭陳述で、検察官は廣田がボウガンを凶器として用いることを断念した理由について「試射がうまく行かなかったため」と述べている[73]。
- ^ 廣田からの電話に応対した巡査部長は、同僚の巡査と2人で亀山公園まで出向いたが、バイクを見つけることは出来ず、派出所へ戻った[120]。
- ^ 西陣署では、通常の派出所勤務では正午から13時まで休憩時間となっており、この時間帯にパトロールに出掛けることはほとんどなかった[126]。通常の巡回連絡の場合は、連絡簿などの書類を携帯して出掛けることが普通だったが、Aは事件当時、それらの書類を派出所に残していた[6]。
- ^ 廣田と思しき男を目撃したタクシー運転手2人はいずれも、無線基地からの指示に基づいて目撃後、直ちに基地に通報した上、警察署に出頭している[135]。
- ^ 「あんどれー」の従業員である女性は、廣田が来店した時間について「15時10分ごろ以降」と証言している[140]。
- ^ 同店は、大阪事件現場の「永井ビル」から約56 mほどしか離れていなかった[140]。主に若い女性向けの店で、廣田のような中年男性が来客することはほとんどなかった[141]。
- ^ この男は借金を申し出たが、身分証明書の提示を求められ、立ち去った[6]。
- ^ 捜査段階では最終列車1本前の「ひかり530号」(京都駅20時37分発、東京駅23時42分着)に乗車したと見られていたが[154]、検察官の冒頭陳述によれば、乗車した列車は20時29分発である[155]。
- ^ 警視庁は5日2時、警備中の各方面本部長に「廣田警戒」を連絡している[29]。
- ^ 『読売新聞』 (1984) では「7時25分ごろ」となっている[133]。
- ^ 現:千葉市中央区都町。
- ^ 4人とも、当時は作業服を着用していた[168]。
- ^ 当時の東京駅発東海道新幹線の最終列車。
- ^ 「ヘタを売る」とは、京都の極道筋の間で「面子を潰す」という意味合いで使われる言葉である[114]。
- ^ 準抗告を行った理由は、「廣田は犯行を全面否認しており、犯行立証のために目撃者らに顔を確認してもらう必要があるが、拘置所にはその設備がない」「拘置所では時間の制約(起床時間が7時20分、就寝時間が21時)があり、十分な取り調べができない」「弁護人以外の接見を認めると、証拠隠滅などを図る虞がある」などだが、京都地裁は「被害者は現職警官であり、廣田は犯行を否認し、警察に強い反感を持っていることを考慮すれば、京都拘置所を拘置場所に指定した原判断は正当で、拘置所での面通しや実況見分が不可能とは認め難い。共犯者や組織を背景にした犯行とも認めがたく、廣田と共謀・同調して証拠隠滅を図る者がいるとも想定しにくい」との理由から、準抗告を棄却した[174]。目撃者たちに対する面通しは、京都地検で行われている[157]。
- ^ バッグは発見時点でチャックが全開になっており、中には何も入っていなかった[150]。
- ^ 廣田が「一緒に船岡山に行った」と自供した刑務所仲間3人のうち、1人は既に死亡しており、もう1人は服役中だったほか、残る1人もアリバイがあった[176]。
- ^ この供述を受け、警視庁や京都府警などは、廣田のカバンが発見された地点から約6 km上流の江戸川に架かる市川橋(国道14号)や総武線・京成本線の両鉄橋などの付近を捜索した[185]。
- ^ a b 京都府警では国家公安委員会規則に基づき、各警察官に貸与される拳銃については試射を行った上で、試射弾丸と試射薬莢を銃番号によって登録・保管する扱いになっている[214](参照[215])。
- ^ 「12時50分ごろ、以前のノミ行為の客に対する未回収金を取り立てるため、Xと2人で金閣寺小学校近辺にいた」[1]「13時ごろ、映画館に行った」と主張した[197]。
- ^ 検察官は、死刑を選択する量刑事情を「強盗殺人の被害者が2人の事例を原則とする」と明言した[204]。
- ^ この3人の目撃証言は、いずれも大阪事件直後(同日夜)から翌5日午前にかけて都島署で得られたが、3人ともまだ廣田に関する新聞報道やテレビニュースが出る前に証言を行っており、また互いに別々の部屋で聴取を受けていたため、3人で男の特徴などについて口裏合わせを行う機会はなかった[145]。
- ^ 京都・千葉間の新幹線など利用料金(1往復半)で約3万5,000円、ボウガンの購入で約8万円を、また特殊浴場で2万円、ピンクサロンで10万円、着替え用衣服などで5万円を遣ったほか、宿泊代・食事代・タクシー代などで相当額を費消した[150]。
- ^ 1999年(平成11年)11月25日、最高裁第二小法廷が再審請求事件についてした即時抗告棄却決定に対する特別抗告を棄却する決定[事件番号:平成11年(し)第182号]を出した[253]。2000年(平成12年)12月5日にも、第二小法廷が特別抗告棄却の決定[平成12年(し)第267号]を出している[254]。
- ^ 福島は国政調査権を使い[255]、2008年7月に死刑確定者たちへアンケート用紙を郵送し(最終締切は同年8月末)[256]、郵送相手105人のうち78人から回答を得ている[255]。
- ^ 2011年12月時点で新たな死刑確定者にも同様のアンケートを送付している[259]。
- ^ a b 久間は冤罪を主張していたが[262]、森英介法務大臣が発した死刑執行命令により、2008年(平成20年)10月28日に収監先の福岡拘置所で死刑を執行されている[263]。
- ^ 大阪拘置所や大阪法務局が廣田の原稿の写しを作成したのは、2013年の訴訟における控訴理由書を作成するためだった[276]。
- ^ 小林から取材を受けた警視庁OBは、1961年(昭和36年)から1962年(昭和37年)ごろは60年安保の後遺症から、若者の間で警察が不人気だった頃に高度経済成長も重なり、高卒者の求人が殺到していたことや、70年安保に向けて警察官の増員が求められていたことから、採用に当たっては質より人数が優先されたという可能性を指摘している[286]。
- ^ 元中国管区警察局長の鈴木達也は、大都市圏(首都圏や関西圏など)は警察官の需要の高さに反してなり手が少なく、地方出身者を多数採用する傾向にある一方、警察官の間では都会志向はあまり強くないため、優秀な地方出身者の多くは地元に残り、それより劣る者が大都市圏で警察官として就職し、「田舎者」としてのコンプレックス由来のストレスを抱えたり、周囲に知人がいないことで誘惑に弱くなったりすることで不祥事を起こす、という旨を指摘し、「地方出身者の指導は特に配慮が必要」と指摘している[287]。
- ^ 刑事に不祥事を起こした者が少ない理由について、元近畿管区警察学校講師の板谷多一は「刑事は世間の裏表を知り尽くしており、上からの締め付けも厳しいため、人間的にできていないと務まらない。また、自分が逮捕して刑務所に送った者の家族がどれほどつらい目に遭っているかも知っているからだ」という旨を指摘している[288]。
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- 主文
- 被告は、原告に対し、1万円及びこれに対する平成26年9月25日から支払い済まで年5分の割合による金員を支払え。
- 原告のその余の請求をいずれも棄却する。
- 訴訟費用は、これを300分し、その299を原告の負担とし、その余は被告の負担とする。
- 裁判官:清水知恵子(裁判長)・進藤壮一郎・池田美樹子
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参考文献
本事件の刑事裁判の判決文
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- 判決主文:被告人を死刑に処する。
- 裁判官:青木暢茂(裁判長)・林正彦・河田充規
- 「一、仮釈放の五日後に、パトロール中の警察官一名を殺害してピストルを強奪し、さらにそのピストルでサラ金の従業員一名を射殺して現金約六〇万円を強奪したという事案につき、死刑が言い渡された事例 二、自白につき、捜査官の暴行によるものである旨の被告人の主張が排斥され、任意性が認められた事例 三、目撃証言につき、観察条件、目撃内容、証言の具体性などの信用性が高いとされた事例――ピストル強盗連続殺人事件第一審判決 大阪地裁 63. 10. 25 判決〔強盗殺人、銃砲刀剣類所持等取締法違反、火薬類取締法違反被告事件、大阪地裁昭五九(わ)四五七六号、昭63・10・25刑一部判決、有罪(控訴)〕」『判例時報』第1304号、判例時報社、1989年5月11日、55-81頁、doi:10.11501/2795315、NDLJP:2795315/28。 - 1989年5月11日号。
- 控訴審判決 - 大阪高等裁判所第6刑事部判決 1993年(平成5年)4月30日 、平成元年(う)第162号、『強盗殺人、銃砲刀剣類所持等取締法違反、火薬類取締法違反被告事件』。
- 判決主文:本件控訴を棄却する。
- 裁判官:村上保之助(裁判長)・米田俊昭・安原浩(安原は転勤のため署名・押印できず)
- 弁護人・検察官
- 弁護人:堀和幸・塚本誠一(控訴趣意書を連名作成。なお、被告人の廣田本人も控訴趣意書を作成)
- 検察官:藤野千代麿(控訴趣意書に対する答弁書を作成)
- 「一、仮釈放の五日後に、パトロール中の警察官一名を殺害してピストルを強奪し、さらにそのピストルでサラ金の従業員一名を射殺して現金約六〇万円を強奪したという事案につき死刑を言い渡した原判決の判断を正当とした事例 二、自白は警察官の拷問により強要されたものであるから任意性がないという被告人側の主張を排斥した事例 三、目撃証言の信用性などを認めて被告人と犯人の同一性を肯定した事例――ピストル強盗連続殺人事件控訴審判決 〔強盗殺人、銃砲刀剣類所持等取締法違反、火薬類取締法違反被告事件、大阪高裁 平5. 4. 30 刑六部判決、控訴棄却(上告) 一審大阪地裁五九(わ)四五七六号、昭63・10・25判決〕」『判例時報』第1503号、判例時報社、1994年11月1日、151-161頁、doi:10.11501/2795517、NDLJP:2795517/76。 - 1994年11月1日号。
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国家賠償請求訴訟の判決文
- 2013年に提起した訴訟の第一審判決 - 大阪地方裁判所第7民事部判決 2014年(平成26年)5月22日 『訟務月報』第61巻8号1615頁、『TKCローライブラリー』(LEX/DBインターネット)文献番号:25504117、『D1-Law.com』(第一法規法情報総合データベース)判例ID:28234422、平成25年(行ウ)第96号、『発信不許可処分取消請求事件』、“死刑確定者として大阪拘置所に収容中の原告が、平成25年4月1日付けで、原告が書いた原稿が同封されたα宛の信書の発信を申請したところ、処分行政庁(大阪拘置所)が同月5日付けで同申請を不許可としたことから、被告(国)に対し、本件不許可処分の取消しを求めた事案において、本件信書は、刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律139条2項により発信が許されるべき信書で、本件信書の発信を制限することは、必要性及び合理性を欠くものであることは明らかであるとし、本件不許可処分は、裁量権の範囲を逸脱したものとして違法であるとして、原告の請求を認容した事例。 (TKC)”。
- 2013年に提起した訴訟の控訴審判決 - 大阪高等裁判所第14民事部判決 2014年(平成26年)11月14日 『訟務月報』第61巻8号1601頁、『TKCローライブラリー』(LEX/DBインターネット)文献番号:25505187、『D1-Law.com』(第一法規法情報総合データベース)判例ID:28234421、平成26年(行コ)第107号、『発信不許可処分取消請求控訴事件』「〔訟務月報〕出版を目的とした死刑確定者の原稿が同封された知人宛ての信書の発信申請について、当該原稿が犯罪被害者を批判する記載等を多数含むものであって、出版社との間で何らかの折衝が行われた形跡もないなどの事情の下では、同新書が刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律139条2項に該当しないとして不許可とした刑事施設の長の判断に裁量権の範囲の逸脱又は濫用がないとされた事例」、“【事案の概要】死刑確定者として拘置所に収容中の被控訴人(原告)が、被控訴人が書いた原稿が同封された信書の発信の申請をしたところ、不許可処分を受けたことから、控訴人(被告、国)に対し、同処分の取り消しを求め、原審は、同処分は裁量権の範囲を逸脱したとして、請求を認容し、処分を取り消したとの事案において、控訴審は、同信書について、刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律139条2項所定の「その発受を必要とする事情」があるとは認められないから、同処分には、裁量の範囲を逸脱した違法があるということはできないとして、原判決を取消し、被控訴人の請求を棄却した事例。 (TKC)”。
- 判決主文
- 原判決を取り消す。
- 被控訴人の請求を棄却する。
- 訴訟費用は、第1、2審とも被控訴人の負担とする。
- 裁判官:森義之(裁判長)・龍見昇・金地香枝
- 判決主文
- 大阪地方裁判所第21民事部判決 2015年(平成27年)6月11日 裁判所ウェブサイト、『TKCローライブラリー』(LEX/DBインターネット)文献番号:25447336、平成26年(ワ)第7683号、『損害賠償請求事件』、“【事案の概要】死刑確定者として拘置所に収容中の原告が、拘置所職員等が、信書を発信する手続に際し、原告の著作物である原稿を騙して提出させた行為、同職員が同原稿の写しを原告の許諾なく作成した行為等が、いずれも違法な行為であると主張して、被告(国)に対し、損害賠償を求めた事案において、原告は、本件出版社への出版を依頼するための外部交通を行うことを求めて本件順を提出したものであり、副看守長が原告に本件原稿の提出を求めた行為は、所轄の統括において、発受の可否を判断するために本件原稿を必要があると認めて本件原稿を提出させた行為と評価できるから、刑事施設及び被収容者の処遇に関する法律上、当然に発受できない信書の発信を求める本件順箋への対処として適法なものといえるとし、原告の請求を棄却した事例。 (TKC)”。
- 判決主文
- 原告の請求を棄却する。
- 訴訟費用は原告の負担とする。
- 裁判官:森崎英二(裁判長)・田原美奈子・大川潤子
- 判決主文
その他裁判資料
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- 「更生誓って仮出所直後に 連続ピストル殺人鬼 広田雅晴 京都府警への怨念と凶悪の軌跡 仮出所をひたすら待って発射した「6年越しの凶弾」」『週刊アサヒ芸能』第39巻第38号、徳間書店、1984年9月20日、22-25頁。 - 通巻:第1981号(1984年9月20日号)。
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- 木内貞之、油井富雄、荒木美知子(著)、(編集長)岩見隆夫(編)「緊急追跡 またも“警官”のショック! 京都・大阪連続射殺魔 広田雅晴 元巡査部長・41歳 『仕返し』の狂った執念」『週刊現代』第26巻第37号、講談社、1984年9月22日、34-35頁、doi:10.11501/3372323、NDLJP:3372323/18。 - 1984年9月22日号。
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- 京都新聞創刊110年記念事業実行委員会社史編さん部会(編集・発行者) 編『京都新聞110年史』京都新聞社、1989年10月23日、50頁。 NCID BN04038281。国立国会図書館書誌ID:000002066667・全国書誌番号:91001302。「元警官の京都・大阪連続強盗殺人事件の発生」
- 宍倉正弘『手錠 ある警察官の犯罪』 し-36(第1刷発行)、講談社〈講談社文庫〉、1990年7月15日。ISBN 978-4061847149。国立国会図書館書誌ID:000002054593・全国書誌番号:90048540 。
- 川畑久廣「第一章 苦闘の地 〈検証――グリコ・森永事件〉」『捜査指揮官 37年間の記録』(第1刷発行)朝日ソノラマ、1993年3月1日、18-86頁。 NCID BN0956280X。国立国会図書館書誌ID:000002234029・全国書誌番号:93027101。 - 著者は警察庁や徳島・愛知・栃木の各県警、近畿管区警察局(保安部長)、北海道警察(本部長)などを歴任し(1987年7月に警視監昇進、退職)、本事件の発生当時は近畿管区警察局でグリコ・森永事件、山口組分裂などの事件に携わっていた。
- 小林道雄「第一章 不祥事を招く案件」『日本警察腐敗の構造』 こ-19-1(第一刷発行)、筑摩書房〈ちくま文庫〉、2000年8月9日、41-44頁。ISBN 978-4480035837。 NCID BA48016499。国立国会図書館書誌ID:000002926902・全国書誌番号:20099061 。
- 山之内幸夫「3 拘置所の内と外 > 93-120頁 囚人生活――その日常と死刑囚たち」『はぐれ弁護士「生贄」の記 山口組元顧問弁護士述懐』(初版1刷発行)(発行者・発行所)株式会社システムファイブ〈Justice-09〉、2002年4月20日、55-136頁。ISBN 978-4915689178。 NCID BA61817018。国立国会図書館書誌ID:000003630165・全国書誌番号:20271943。
- 死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90 著、(編集委員:可知亮、国分葉子、中井厚、深田卓 / 協力=福島みずほ事務所) 編『命の灯を消さないで 死刑囚からあなたへ 105人の死刑確定者へのアンケートに応えた魂の叫び』(発行)インパクト出版会、2009年4月10日。ISBN 978-4755401978 。
- 死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90 著、(編集委員:可知亮、国分葉子、高田章子、中井厚、深瀬暢子、安田好弘、深田卓 / 協力=福島みずほ事務所、死刑廃止のための大道寺幸子基金) 編『死刑囚90人 とどきますか、獄中からの声』(発行)インパクト出版会、2012年5月23日。ISBN 978-4755402241。 NCID BB09377869。国立国会図書館書誌ID:023615338・全国書誌番号:22127584 。
- 小口拓朗(報道局ディレクター・一九七八年生まれ) 著「第3章 時効のその日まで 2. 似顔絵捜査――キツネ目の男を追って」、NHKスペシャル取材班 編『未解決事件 グリコ・森永事件〜捜査員300人の証言』(第一刷発行)文藝春秋〈NHKスペシャル〉、2012年5月25日、224-241頁。ISBN 978-4163752006。 NCID BB09437381。国立国会図書館書誌ID:023630615・全国書誌番号:22114961 。
- 年報・死刑廃止編集委員会 著、(編集委員:岩井信・可知亮・笹原恵・島谷直子・高田章子・永井迅・安田好弘・深田卓) / (協力:死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90、死刑廃止のための大道寺幸子・赤堀政夫基金、深瀬暢子・国分葉子・岡本真菜) 編『アメリカは死刑廃止に向かうか 年報・死刑廃止2021』(第1刷発行)インパクト出版会、2021年10月10日。ISBN 978-4755403132。 NCID BC10317158。国立国会図書館書誌ID:031703858 。