「東名高速道路」の版間の差分
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{{告知|議論|施設間距離から独自研究を排除するための試行議論|プロジェクト:道路/高速道路の施設間距離}} |
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なはなゆら |
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{{Redirect|東名}} |
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{{Infobox_road |
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|種別・系統 = [[高速自動車国道]]<br />([[有料道路|有料]]) |
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|アイコン = [[ファイル:TOMEI EXP (E1).svg|130px|東名高速道路]] |
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|名前 = {{Ja Exp Route Sign|E1}} 東名高速道路 |
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|名前の補足 = {{AHN-AH|1}} [[アジアハイウェイ1号線]] |
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{{Highway system OSM map |
{{Highway system OSM map |
2021年12月2日 (木) 07:37時点における版
なはなゆら
|地図画像 =
|総距離 = 346.7 km
|開通年 = 1968年(昭和43年)- 1969年(昭和44年)
|起点 = 東京都世田谷区(東京IC)
|主な経由都市 = 川崎市、横浜市、静岡市、浜松市、岡崎市、豊田市、名古屋市
|終点 = 愛知県小牧市(小牧IC)
|接続する主な道路 = 記事参照
}}
東名高速道路(とうめいこうそくどうろ、Tomei Expressway)は、東京都世田谷区の東京インターチェンジ (IC) から、神奈川県・静岡県を経由し、愛知県小牧市の小牧ICへ至る高速道路(高速自動車国道)である。通称東名高速(とうめいこうそく、Tomei Expwy)、東名(とうめい)、新東名高速道路と特に区別する場合には旧東名・現東名など。中日本高速道路(NEXCO中日本)の公式的呼称は東名と現東名。法令上の正式な路線名は第一東海自動車道である[1]。また、アジアハイウェイ1号線「AH1」の一部である。
高速道路ナンバリングによる路線番号は名神高速道路とともに 「E1」 が割り振られている[2]。
概要
東名高速道路は、東海道を走る国道1号の貨物輸送量増加による逼迫を受けて、大量、高速輸送等の時代の要請に応える新たな自動車専用道路として開通した[3][4]。
全区間をNEXCO中日本が管理・運営している。中央自動車道・名神高速道路・新東名高速道路・伊勢湾岸自動車道・新名神高速道路・東名阪自動車道・名阪国道・西名阪自動車道とともに、東京23区付近から名古屋付近を経由し大阪付近につながる日本の大動脈となっている。新東名高速道路が未開通の時代にあっては日本の最大動脈であり続け、高度経済成長期を牽引した東海道メガロポリスの産業発展の基盤を提供した[5]。
「東名高速道路」の名称は東京IC - 小牧IC間の道路名(通称名)である。また、小牧IC以西に連続する道路名は「名神高速道路」である。法令(国土開発幹線自動車道建設法の別表、高速自動車国道の路線を指定する政令の別表)による路線名は、東京IC - 小牧IC間は第一東海自動車道で、かつ小牧JCT - 小牧IC間は中央自動車道西宮線と第一東海自動車道の重複区間である[6]。
「高速道路」という呼称を使用しているのは、現在、新東名・東名と新名神・名神のみであるが、これは東名・名神の計画・建設の進められる過程で広く民間において「高速道路」という通称が使用され、一般的に定着して馴染みがある名称となったという歴史的な背景を考慮して採用されたものである[7]。ただし新聞等のメディアでは、東名開通後も暫く「東名高速自動車道」「名神高速自動車道」と表記していた[8]。なお、中央道については開通当初「中央高速道路」と称していたこともあり、現在でも中央高速と呼ばれることがある。近年開通した新東名、新名神についてはそれぞれ東名、名神のバイパスルートとして建設されたという経緯を踏まえた特例である。逆に一部のサービスエリアの案内板や一部の公的文書[9]、新聞などにおいて「東名高速道路」「新東名高速道路」「名神高速道路」「新名神高速道路」の略称として「東名道」「新東名道」「名神道」「新名神道」と表記されるケースもある。
東京ICから小牧ICまでの直線距離は248.4キロメートル (km) [注釈 1]であるが、東名の延長距離は346.8 kmと、約98 kmも迂回している(東海道新幹線の東京駅 - 名古屋駅とほぼ同じ距離)。
東京IC・横浜青葉IC・裾野ICの3箇所のICを除き、全てトランペット型ICとなっている。また台風接近時は、高潮と高波の影響で、駿河湾に面した下り線(名古屋方面)の富士IC - 清水ジャンクション (JCT) が度々通行止になる。
東京IC - 厚木ICは大都市近郊区間、豊田JCT - 小牧IC間は普通区間における大都市近郊区間と同じ料金水準の区間となるため、普通区間に比べて通行料金が割高になっている。 また、ETC割引制度については東京IC-厚木IC間のみ対象外となる。
道路カラーは スカイブルー[10]。
新東名高速道路との関係
東名に並行している新東名高速道路(以下、新東名)は、東名のバイパス路線として建設された道路である。東名は交通量が多く、そのため渋滞や事故が常態化していて、さらに設計が古いため急曲線・急勾配等が多く、近年は老朽化が深刻であり大規模な更新工事を多数実施する状況となっている。さらに、東名は首都圏と中部地方や関西地方等を結ぶ大動脈の一つであるため、災害時においては東西間の物流に障害が生じる。そのため、高速道路ネットワークを本道路と相互に補完し合う新たな路線として新東名が建設された。
新東名は東名と比較して高規格で設計され、急曲線・急勾配等が少ない上、最高速度120 km/hで運用されている区間も存在する。御殿場JCT - 豊田JCTで新東名・伊勢湾岸道を利用した場合は、東名経由に比べ距離が数十キロメートル短縮され、さらに新東名経由の方が所要時間短縮となる事が多いという結果になっている。
2012年(平成24年)4月14日に御殿場JCT - 浜松いなさJCT間と清水連絡路・引佐連絡路が、2016年(平成28年)2月13日には浜松いなさJCT - 豊田東JCT間が開通し、静岡県内から愛知県内までの区間で東名・新東名のダブルネットワークが形成された。また、神奈川県中部から静岡県に至る区間については、2021年(令和3年)4月10日までに海老名南JCT - 伊勢原JCT - 伊勢原大山IC間、および新御殿場IC - 御殿場JCT間が開通しており[11]、残る未開通区間も2023年度(令和5年度)までに全通する予定である[12]。なお、海老名南JCT以東の横浜・東京方面に向けた区間については、基本計画路線および予定路線に留まっており、ルートや整備計画は決定していない。
路線データ
- 東京都世田谷区用賀(東京IC)
- 愛知県小牧市大字村中松原(小牧IC)
- 全長 : 346.7 km
- 道路構造令
- 第1種第1級(横浜町田IC - 秦野中井IC・岡崎IC - 小牧IC)
- 第1種第2級(東京IC - 横浜町田IC・御殿場IC - 岡崎IC)
- 第1種第3級(秦野中井IC - 御殿場IC)
- 設計速度
- 120 km/h(横浜町田IC - 秦野中井IC・岡崎IC - 小牧IC)
- 100 km/h(東京IC - 横浜町田IC・御殿場IC - 岡崎IC)
- 80 km/h(秦野中井IC - 御殿場IC)
- 車線幅員 : 3.6 m
- 道路幅員 : 24.9 m - 32.1 m
- 車線数 : 4車線 - 6車線(一部7車線区間あり)
法律上の根拠
東名高速道路を整備・建設するための根拠となる法律を制定順に列挙する。既に廃止されたものも含む。
制定日 | 廃止日 | 法律名 | 備考 |
---|---|---|---|
1960年7月25日[13] | 1966年7月30日[14] | 東海道幹線自動車国道建設法 | 議員立法(個別立法)により制定 |
1966年7月30日[14] | 高速自動車国道の路線を指定する政令一部改正 | 東海道幹線自動車国道建設法廃止に伴い、東海自動車道(東京 - 小牧)を高速自動車国道に指定 | |
1966年7月1日[14] | 国土開発幹線自動車道建設法(国幹道法) | 国土開発縦貫自動車道建設法を一部改正のうえ、東海道幹線自動車国道建設法など個別に制定された5路線を統合[14](7月31日施行) |
インターチェンジなど
- IC番号欄の背景色が である部分については道路が供用済みの区間を示す。施設名欄の背景色が である部分は施設が供用されていない、または完成していないことを示す。
- スマートインターチェンジ (SIC) は背景色 で示す。
- 路線名の特記がないものは市町道。
- バスストップ (BS) のうち、○/●は運用中、◆は休止中の施設。無印はBSなし。
- 浜松IC、名古屋ICは▲としている。これは当該BSはIC近隣に設置された施設でIC設備からも離れており、本高速道路に属すBSではないためであるが、実際の運用上の扱いは一緒である。
- TB は本線料金所の略称を示す。
- SA はサービスエリア、PA はパーキングエリアの略称をそれぞれ示す。
IC 番号 |
施設名 | 接続路線名 | 東京 から (km) |
BS | 備考 | 所在地 | ||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
首都高速3号渋谷線 | ||||||||
1 | 東京IC | 都道311号環状八号線 | 0.0 | 東京都 | 世田谷区 | |||
- | 東名JCT | 東京外かく環状道路 (C3 東京外環自動車道) |
1.8 | - | 事業中[15] | |||
- | 東京TB/向ヶ丘BS | - | 6.7 | ○ | 神奈川県 | 川崎市 宮前区 | ||
3 | 東名川崎IC | 市道野川菅生線 | 7.6 | |||||
- | 江田BS | - | 10.5 | ○ | 横浜市 | 青葉区 | ||
3-1 | 横浜青葉IC/JCT | 国道246号 首都高速神奈川7号横浜北西線 |
13.3 | |||||
- | 港北PA | - | 14.1 14.8 |
名古屋方面 東京方面 |
緑区 | |||
4 | 横浜町田IC | 国道16号(大和バイパス/保土ヶ谷バイパス) | 19.7 | ◆ | BSは1999年(平成11年)廃止 | |||
- | 大和BS | - | 24.0 | ○ | 大和市 | |||
4-1 | 綾瀬SIC/BS | 県道42号藤沢座間厚木線 | 28.9 | ○ | 綾瀬市 | |||
- | 海老名SA | - | 31.3 | 海老名市 | ||||
4-2 | 海老名JCT | 支線(海老名IC - 海老名南JCT間) (C4 首都圏中央連絡自動車道方面) |
33.9 | - | ||||
5 | 厚木IC | 国道129号 E85 小田原厚木道路 |
35.0 | 厚木市 | ||||
- | 厚木BS | - | 36.7 | ○ | ||||
5-1 | 伊勢原JCT | E1A 新東名高速道路 | 40.2 | - | 東名東京方面⇔新東名海老名南JCT方面 及び東名名古屋方面⇔新東名伊勢原大山IC相互間の利用不可 |
伊勢原市 | ||
- | 伊勢原BS/救急車緊急退出路 | 41.7 | ○ | 東海大学医学部付属病院に接続 | ||||
5-2 | 秦野中井IC/秦野BS | 県道71号秦野二宮線 厚木秦野道路(事業中) |
50.1 | ○ | 秦野市 | |||
- | 中井PA | - | 53.6 | 足柄上郡 | 中井町 | |||
- | 大井BS | - | 57.1 | ○ | 大井町 | |||
6 | 大井松田IC | 国道255号 県道78号御殿場大井線 |
57.9 | |||||
- | 松田BS | - | 60.2 | ○ | 下り線は左ルート | 松田町 | ||
- | 山北BS | - | 63.6 | ○ | 下り線は左ルート | 山北町 | ||
- | 鮎沢PA | - | 71.9 72.5 |
下り線左ルートのみ設置 上り線 | ||||
- | 小山BS | - | 75.5 | ○ | 下り線は左ルート | 静岡県 | 駿東郡 小山町 | |
- | 足柄BS | - | 79.2 | ○ | ||||
6-1 | 足柄SA/SIC | 80.9 | ||||||
御殿場市 | ||||||||
7 | 御殿場IC第二出入口 | 国道138号(御殿場バイパス) | 83.7 | 東京方面出入口(ハーフインターチェンジ) | ||||
御殿場IC第一出入口 御殿場BS |
県道401号御殿場箱根線 | ○ | 東名高速の最高地点(標高454メートル) | |||||
7-1 | 御殿場JCT | E1A 新東名高速道路 | 88.3 | - | 東名東京方面⇔新東名新御殿場IC方面 及び東名名古屋方面⇔新東名長泉沼津IC方面相互間の利用不可 | |||
7-2 | 駒門PA/SIC | 市道3698号線 市道3697号線 |
91.6 90.0 |
◆ | 名古屋方面 東京方面 | |||
7-3 | 裾野IC | 県道82号裾野インター線 | 93.8 | 裾野市 | ||||
- | 裾野BS | - | 95.5 | ○ | ||||
8 | 沼津IC | E70 伊豆縦貫自動車道 県道83号沼津インター線 県道405号足高三枚橋線 |
103.3 | ○ | 沼津市 | |||
8-1 | 愛鷹PA/SIC | 105.9 | ○ | |||||
- | 原BS | - | 112.2 | ◆ | ||||
- | 中里BS | - | 115.7 | ○ | 富士市 | |||
9 | 富士IC | 国道139号(西富士道路) 県道353号田子浦港富士インター線 県道414号富士富士宮線 |
121.5 | ○ | ||||
- | 松岡BS | - | 125.0 | ○ | ||||
9-1 | 富士川SA/SIC | 県道10号富士川身延線 | 127.5 | ○ | 上り線のみハイウェイオアシス併設 | |||
- | 蒲原BS | - | 133.1 | ○ | 静岡市 | 清水区 | ||
- | 由比PA | - | 138.6 139.7 |
◆ | 名古屋方面 東京方面 | |||
- | 興津BS | - | 142.5 | ○ | ||||
9-2 | 清水JCT | E52 新東名高速道路(清水連絡路) | 146.4 | - | ||||
10 | 清水IC | 国道1号(静清バイパス) | 147.8 | ○ | ||||
- | 日本平PA | - | 155.8 | ○ | 駿河区 | |||
10-1 | 日本平久能山SIC | 静岡市道大谷改良区7号線 | 158.8 | - | ||||
11 | 静岡IC | 県道84号中島南安倍線 | 161.8 | ○ | ||||
- | 日本坂PA | - | 171.5 171.6 |
東京方面 名古屋方面 |
焼津市 | |||
12 | 焼津IC | 県道81号焼津森線 | 173.6 | |||||
- | 焼津西BS | - | 176.1 | ○ | ||||
12-1 | 大井川焼津藤枝SIC 大井川BS |
181.4 | ○ | |||||
13 | 吉田IC | 県道34号島田吉田線 | 185.6 | ○ | 榛原郡 吉田町 | |||
- | 牧之原SA/牧の原BS | - | 194.5 | ○ | 牧之原市 | |||
13-1 | 相良牧之原IC | 国道473号(金谷御前崎連絡道路) | 197.0 | |||||
14 | 菊川IC | 県道79号吉田大東線 | 201.8 | ○ | 菊川市 | |||
14-1 | 掛川IC | 県道38号掛川大東線 県道403号磐田掛川線 |
207.8 | ○ | 掛川市 | |||
- | 小笠PA | - | 209.7 | |||||
- | 岡津BS | - | 212.9 | ○ | ||||
15 | 袋井IC | 県道61号浜北袋井線 | 219.4 | ● | 袋井市 | |||
15-1 | 磐田IC | 県道86号磐田インター線 県道283号横川磐田線 |
223.3 | 磐田市 | ||||
- | 磐田原PA | - | 1997年(平成9年)6月1日廃止 | |||||
15-2 | 遠州豊田PA/SIC | 225.2 | ||||||
- | 磐田BS | - | 226.2 | ○ | ||||
16 | 浜松IC | 県道65号浜松環状線 | 230.0 | ▲ | 浜松市 | 東区 | ||
- | 浜松北BS | - | 233.5 | ○ | ||||
16-1 | 三方原PA/SIC | 市道有玉南初生線 市道有玉西12号線 |
234.9 | |||||
16-2 | 浜松西IC | 県道65号浜松環状線 | 240.5 | 西区 | ||||
16-3 | 舘山寺BS/SIC | 県道320号引佐舘山寺線 県道368号湖東舘山寺線 |
244.4 | ○ | ||||
- | 浜名湖SA/BS | - | 247.9 | ○ | 北区 | |||
17 | 三ヶ日IC | 県道85号三ヶ日インター線 県道308号鳳来三ケ日線 |
251.1 | |||||
- | 三ヶ日BS | - | 255.0 | ○ | ||||
17-1 | 三ヶ日JCT | E69 新東名高速道路(引佐連絡路) 三遠伊勢連絡道路(調査中) |
255.8 | - | ||||
- | 新城PA | - | 261.1 | 愛知県 | 新城市 | |||
- | 豊橋北BS | - | 262.3 | ○ | ||||
- | 豊橋新城SIC | 262.7 | 事業中[16] | 豊橋市 | ||||
- | 豊橋PA/TB | - | 265.8 | 本線料金所(検札所)は2007年(平成19年)5月31日廃止 PAは名古屋方面のみ | ||||
18 | 豊川IC | 国道151号 | 269.0 | ○ | 豊川市 | |||
- | 赤塚PA | - | 274.0 | |||||
- | 音羽BS | - | 279.1 | ○ | ||||
18-1 | 音羽蒲郡IC | 国道1号 県道73号長沢蒲郡線(音羽蒲郡道路) |
280.2 | |||||
- | 本宿BS | - | 285.4 | ○ | 岡崎市 | |||
- | 美合PA | - | 289.7 | |||||
19 | 岡崎IC | 国道1号 | 293.4 | ○ | ||||
- | 岡崎阿知和SIC | 299.5 | - | 事業中[17] | ||||
- | 岩津BS | - | 301.5 | ○ | ||||
19-2 | 豊田JCT | E1A 伊勢湾岸自動車道 | 304.1 | 豊田市 | ||||
19-3 | 豊田上郷SA/SIC | 県道76号豊田安城線 市道環状5号線 |
305.8 | ○ | ||||
20 | 豊田IC | 国道155号(豊田南バイパス) 県道76号豊田安城線 |
310.8 | ○ | ||||
20-1 | 東名三好IC/三好BS | 県道54号豊田知立線 | 315.8 | ○ | みよし市 | |||
- | 東郷PA/SIC | - | 318.1 | SICは2024年度(令和6年)末供用予定[18] | 日進市 | |||
- | 日進BS | - | 319.3 | ○ | ||||
20-2 | 日進JCT | 名古屋瀬戸道路 | 322.3 | |||||
21 | 名古屋IC | C2 名古屋第二環状自動車道支線 県道60号名古屋長久手線(東山通) |
325.5 | ▲ | 名古屋市 名東区 | |||
- | 旭BS | - | 329.5 | ◆ | 尾張旭市 | |||
21-1 | 守山PA/SIC | 市道志段味環状線 | 333.6 | 名古屋市 守山区 | ||||
22 | 春日井IC | 国道19号(春日井バイパス) | 337.6 | ◆ | 春日井市 | |||
23 | 小牧JCT | E19 中央自動車道 | 339.8 | - | 小牧市 | |||
24 | 小牧IC | 国道41号(名濃バイパス) 名古屋高速11号小牧線 |
346.7 | |||||
E1 名神高速道路 |
なお、全線開通日から現在に至るまでIC番号の2は欠番となっている。
歴史
前史
東海道の高速道路の計画は1940年(昭和15年)に当時の内務省土木局が「重要道路整備調査」を提唱したことに端を発し、諸々の調査を経て1943年(昭和18年)には全国自動車国道網計画ができあがった。この道路は太平洋岸と日本海側をそれぞれ一本ずつの幹線で構成するループであることが特徴で、各港湾を連絡する国防的要請がその背景にあった[22]。この路線を当時は「弾丸道路」と呼び[23]、鉄道における高速鉄道構想を戦前は弾丸列車と呼称したことに倣ったものであった[24]。路線は出入制限を行った自動車専用道路として計画され、一般道路との交差は立体交差であるなど、その後の東名の原型といえるが、有料道路としては計画されていなかった[25]。この自動車道路網は、その優先順位の検討において東京 - 神戸間を最優先とするに至り、相応の予算が付けられて測量、設計が行われた[26]。さらに、名古屋 - 神戸間において緊急度が高いと認められて予算請求を行ったところ、当時の内務大臣の東条英機から「土木局は気が狂ったか」という一喝のあと、本案は差し戻された[27]。また、その後の戦況悪化もあって道路予算の極度の削減に至り[28]、1944年(昭和19年)に計画は打ち切りとなった[29]。
頓挫の憂き目に遭った弾丸道路計画だが、大戦終結後の混乱もやがて収まるにおよび[30]、輸送体系の整備としての高速道路の計画が主に3つの機関から発案されるに至った。一つは静岡県出身の有力実業家、田中清一による計画で、1947年(昭和22年)頃に提唱した「平和国家建設国土計画大綱」である。計画の趣旨は、狭い国土に大人数が住み、それも敗戦後の食糧難にあえぐ国家を立ち直らせるためには食料の自給自足と未開発資源の大規模開発が必要であるとして、農地に適する平野部は人口過密と産業集中にあることでこれを山間部へ移し、入替えに平野部を農耕地に転用するというものであった。それを具現化する手法として田中は幹線道路網の必要を挙げた。山間地が占める内陸部に幅100 mの大幹線道路を列島の東西に通し、そこから太平洋岸と日本海岸の重要港湾に向けて支線道路を複数設けるという、背骨と肋骨の関係にも似た道路網を構築する計画であった。つまり、大幹線道路に沿って平野から移転させた軽工業、各種研究と試験場、精密工業、学校、官庁等を再配置し、道路に沿う大河川には水力発電所を建設し、併せて道路開墾により重要地下資源と観光資源の開発までも行うという趣旨である[31]。その計画遂行の最初の一手として、東京 - 大阪間の道路計画に着手するべきであり、東京 - 大阪間を最も短絡する中部山岳地帯を通ることを提唱したが、これが後述する中央道案の原形である[19]。この発想は戦時下において内務省土木局が計画した路線網と対照的で、この相違が後述する論争の種となった[19]。もっとも、田中が構想した高速道路は、インターチェンジからのみ出入可能な完全出入制限型の道路であったかどうかは不明であった[32]。ともかく、田中案は有力国会議員の支持を次第に獲得し、1953年(昭和28年)には支持者によって「国土建設推進連盟」を結成、同年5月には「国土開発中央自動車道事業法案」が提出されるに至った[33]。
田中が計画を推し進めている頃、別のもう1案が構想された。これが久しく途絶えていた弾丸道路計画の再始動であり、建設省が1951年(昭和26年)に提唱した東京 - 神戸間の高速道路構想であった。これは、サンフランシスコ平和条約の締結後、戦後日本を平和国家として再出発させるにあたり、外資を導入した事業を推進し、日本経済の再建に役立てようとする動きの中から生まれたものであった。その対象事業の一つに高速道路の建設を選択しようという気運が首相の吉田茂を介して生まれ、建設省に資料の提出を求めた。同省はそれに応え、戦争により中断した東京 - 神戸間の高速道路計画を再検討することにした[32]。再始動した計画が戦時下のものと異なるのは、有料道路として検討されたことである。このため、果たして高速道路を新設することが経済的に成り立つのか、必要資金の調達方法や運営者を誰にするのか、という問題提起がなされ、それに道筋を与えるために経済調査と技術調査を行った[32]。概ねまとまったところで、1952年(昭和27年)2月以降、アメリカ人コンサルタントを2人招いて調査を依頼した。その結果、東京から神戸に至る道路は、日本の全人口の30パーセントにあたる2,600万人に対して利益をもたらし、全国総生産額の半分以上にあたる15億円の年間生産額を有する地域を通過することで、全く健全な投資と考えられる。よって、東京 - 神戸間の高速道路は経済的に十分実現性があり、有料道路としても交通量の激増からみて、通行料金収入によって十分採算の採れることは疑う余地がない、との回答を得たが[34]、このルートは東海道を考慮した計画であった[30]。この一連の調査は5年間に6,300万円の調査費を投じて行われ、その成果として「東京神戸間有料道路計画書」が公表された[32]。しかしながら、公表のタイミングがときあたかも中央道案が具体化した時期と重なったこともあって、両案を巡る対立が次第に表面化することになった[33]。
この2案より遅れて第3案がシンクタンクの「産業計画会議」により提案された。このシンクタンクは電力界の鬼才の異名を持つ松永安左衛門が1956年(昭和31年)に設立したもので、1958年(昭和33年)に至って「東京・神戸間高速自動車道路についての勧告」として独自に考案した東海道案を前面に打ち出したのであるが、ルートが建設省案と微妙に異なった[35]。原則的に全線高架式で、海岸沿いに建設することを主張し、「東海道海岸路線案」を称した[35]。海岸にこだわったのは公有地の多さから土地の買収が早くて取得費用も安い[36]、高架橋にこだわったのは盛土では締め固まりに時間を要するためである。松永の計算では、工期5年、工費は土地収用費を別にしても2、3割安くできるとした[37]。特にプレストレスト・コンクリート工法で橋を造ることで、盛り土に比べて工費で差はないか、多少高くなる程度と主張した[38]。そして将来、交通量が増えたときは、その上に道路を積みますことで二階建てとすることも可能で、それを考慮してトンネルは天井を少し尖らせて造っておきたいという[39]。また、漁業に対する補償問題もあろうが、遠洋漁業は衰退しており、小舟の漁業は東海道ではあまり見られず、あるとすればアサリかタコを探すくらいであるとして、見通しはかなり楽観的であった[38]。これを受けて建設省は自案と東海道海岸路線案を比較したが、それは東京 - 名古屋間の長距離におよんだ。東海道海岸路線案は、東京都大田区から藤沢を経て、相模湾、駿河湾、遠州灘と海岸に沿い、蒲郡から一宮まで直線で結ぶことが特徴であった。利点としては、海岸地帯の開発に役立ち、120 km/h走行可能な区間が全体距離の半数を占めることがあった。しかし海岸案が決定された場合、国道や東海道新幹線との路線競合が甚だしくなる[40]。さらに、漁業権や海水浴施設、海岸砂防施設等に対する補償問題、客土の多さ等の問題もあった[40]。とりわけ、距離が建設省案と比較して20 km長く、走行経費が嵩張ることの他に[35]、松永の主張と違って橋の工事費が盛り土の二倍であること[41]を勘案して、海岸線案は最終的に却下された[35]。
東海道案か中央道案か
田中清一発案の中央道案に対して建設省は否定的であった。日本列島の中央に高速道路を縦に通す馬鹿馬鹿しい構想で、あんな無茶苦茶な高速道路網はないと省内で言い合っていたという[21]。赤石山脈を貫いて道路を通すことの難しさを建設省はよく理解していて、ゆえに建設省に相手にされない中央道派は、鉄道、運輸省関係に働きかけ、さらに建設予定地域の国会議員の代表として青木一男が中央道実現に向けて強力な運動を展開した[44]。鉄道派の議員などは特に中央道に肩入れし、東海道本線を守るために東海道案に反対したが[21]、対する東海道派も参議院議員の太田正孝が先頭に立って中央道に対抗した[45]。
両派の論争は理想と現実の争いであった。中央道派は田中の掲げた構想を貫き、「国土開発、沿線への人口の再配分、酪農中心の農業振興、工場誘致、観光と地下資源開発」等の理想を追い、それは長野県、山梨県など、関係県が後進性打開の夢を中央道に託しているのに対し、東海道派は限界を超えた交通状況の打開という現実に重きを置いていた[42]。
両派の対立は次第に大きくなっていき、政府は東京 - 神戸間のうち、計画ルートが決まらない東京 - 名古屋間を後回しにして、とりあえず整備すべき区間を名古屋 - 神戸間に限定し、名神高速道路として先行建設されることになった[46]。1957年(昭和32年)に建設省から日本道路公団へ施行命令が出されたことによって名神高速道路の建設は始められたが、この時点でも東京 - 名古屋間の建設ルートを東海道にするのか中央道にするのかについての話し合いは依然としてまとまらず、ルートは決まらなかった[47]。
このような混乱の中、1955年(昭和30年)6月に超党派の衆議院議員430名によって提出されていた、田中構想を軸に約5000 kmの自動車道を整備するとした「国土開発縦貫自動車道建設法案」が、1957年(昭和32年)4月に成立した[49][42]。法的根拠を得た中央道派の勢いは凄まじく、法律に示される名古屋以東の中央道の予定路線を建設するのは当然として、ますますその主張を強めた[50]。この時期、政治家と官庁のほとんどは中央道支持で、東海道支持は建設省など、ごく少数であった[51]。
東海道不利のなか、世論は政治臭の強い中央道案よりも東海道案に同情的で、さらに東海道を擁護する団体が現れたが、これが産業計画会議であった。1958年(昭和33年)3月に「東京・神戸間高速自動車道路についての勧告」としてレコメンデーションを出した[35]。松永は建設省案に対してさらに安上がりの方法があるとして、チャーターしたヘリコプターに建設省職員を乗せて、東京から京都まで東海道海岸を往復して見せるなど、間接的に東海道案促進に大きな力を与えた[52]。また、この頃には国道1号の混雑はいよいよ限界に達し、沿線自治体は東海道に高速道路を呼び込むべく「東海道第二国道期成同盟会」[注釈 2]を立ち上げて国に陳情するなど[53]、東海道派も着実に歩を進めていた。
建設省は一貫して東海道実現のために運動していたが、国土開発縦貫自動車道建設法の施行に伴って中央道をいつまでも放置しておくことは出来なくなった。予定路線について調査し、基本計画、整備計画を策定せねばならなかったからである[35]。このため、精細な調査をおこなって、その結果を「建設省中央道調査報告書」[42]にまとめて中央道派に示したところ、猛烈な反撃が加えられた[54]。このとき提示した建設費用は3,200億円、kmあたり10.8億円で[54]、中央道派が信じていたkmあたり3.2億円、事業費にして約1,000億円とはほど遠かったからである。これにより「建設省の積算は過大だ」「建設省はやる気がないのだ」と怒って、席を立って出て行く者が多かった[35]。しかし、積算が間違っていたのは中央道派のデータで、全延長の50パーセントが山岳区間ゆえ、建設費用も勢い高額になることは明らかで[注釈 3]、一般に言われている資金では到底、中央道の建設は不可能であることを、実際に中央道の通過予定地を視察した関係者は確信したという[55]。
この試算結果を受けて大蔵省は、3,200億の建設費に見合うだけの交通需要の見込めないところに世界銀行が融資するはずがないとして、中央道案に反対した[42]。経済企画庁も開発の趣旨には賛同するも、予算とのバランスの悪さによって消極的で、農林水産省に至っては、酪農振興は結構だが、中央道予算のあおりを受けて本来の農林予算が縮小されてはたまらないとして警戒するなど、中央道の旗色はいよいよ悪くなってきた[42]。
依然として法的根拠を持たない東海道案であったが、中央道派は焦りを覚えていた。建設費用で圧倒的有利、かつ経済効果もある東海道案が法的根拠を得れば、中央道実現の道が遠のくことから、どうしても東海道案に法的根拠を与えるわけにはいかなかった[42]。しかし、建設省が示した3,200億円という予想外の建設費用に対して「悪意に満ちた大げさな報告」と決めつけた中央道派も、さすがに採算の採れないことは認めざるを得なかった。このため、有料道路にこだわる必要はないとして態度を軟化させながらも着工へのこだわりを捨てることはなかった[42]。できれば両案採用に越したことはないが、当時の貧乏な日本にそれは叶わず、いずれか一つを採択せざるを得ないことで、両派の争いはいよいよ激しくなった[42]。こうした中で、アメリカの交通経済学者のオーエン[注釈 4]が来日し、東海道案を追い込もうとする中央道派に痛烈な批判を浴びせたが、その趣旨はかつてワトキンス調査団が示した意見と同様であった(後述)[56]。
こうした中央道派の不利に乗じて、東海道派は一気に攻勢を仕掛け[42]、まずは建設の根拠を得るための立法化に全力を傾注した。これは中央道と違って東海道には「国土開発縦貫自動車道建設法」に予定路線の記載がないためである。よって、それに拠らずに建設するための独自の法律策定を目指したが[57]、これが「東海道幹線自動車国道建設法案」で、議員立法としての成立を試みることになった[42]。
この時に至って、中央道案唯一の優位性といえば、東海道案よりも先に法的整備がなされたことくらいで、ゆえに整備優先順位の上位を主張することがせいぜいできることであった。総仕上げとしての建設に持って行くためには、中央道の予定路線法案を国会に提出する必要があるが[注釈 5]、かつて中央道を強力に支持した運輸省にさえ、成立しても着工とは別問題であるとして敬遠される始末であった[42]。ただし、中央道予定路線法案は法律上、早かに手続きすることが定められおり[注釈 6]、このため交通関係の閣僚[注釈 7]からなる「交通関係閣僚協議会」は、中央道の予定路線を定める法案の国会提出を決定した[60]。
そして迎えた1960年(昭和35年)7月15日の夜、自民党と同志会だけで開かれた参議院本会議で「東京 - 小牧間国土開発縦貫自動車道予定路線法案」(中央道)と「東海道幹線自動車国道建設法案」(東海道)が同時に可決成立した。同じ自民党議員同士で最後までいがみ合った挙げ句の会期終了間際の際どさで[注釈 8]、自民党政策審議会の「両方とも通す」の裁定により通過した。今国会では日米安全保障条約の改定と、岸信介の跡目争いなど、政界の混乱によって参議院が停止したまま、両案廃案になりかねない危うさの中での成立であった[61]。こうした安保闘争のどさくさに紛れての成立であったが、経済成長の只中にあったこともまた両道成立の要因であった[62]。なお、東海道幹線自動車国道建設法は、それ自体が予定路線を法定するため、今回同時成立した中央道の予定路線案とようやく同等の立場となった[63][注釈 9]。
両法案成立で決着をみたが、いざ着工の段取りを決める段になって今度は大蔵省と建設省の対立が生じた。政府の意向で公共投資を抑える必要から効果の薄い中央道を後回しにしたい大蔵省と、東海道と並行して一部にせよ中央道の同時着工を行いたい建設省の争いであったが、建設省には運輸、通産、農林の各省が味方し、かつていがみあった中央道派と東海道派の国会議員も一体となって大蔵省に圧力をかけた結果、1960年(昭和35年)10月の協議で両道の同時着工が決定した[62][64]。
その後の東海道と中央道は明暗が分かれた。翌昭和36年度(1961年)の予算編成で、経済企画庁が東海道と中央道の同時着工に難色を示したことが影響して、その翌年1962年(昭和37年)に建設省は日本道路公団に対して、中央道の東京 - 富士吉田間の施行命令を出して以後保留したのに対し、経済効率的に有利な東名高速については、次々と全線に渡って施行命令を出していった[47]。
こうして両案は妥協に至ったのであるが、その契機の一助となったのが、ワトキンス調査団のレポートであった。揉める東京 - 名古屋間を後回しにして、名古屋 - 神戸間のみ建設するにあたり、政府は建設資金の調達を世界銀行に打診したところ、融資に当たっての実態調査のために、ラルフ・ワトキンス率いる調査団が1956年(昭和31年)5月に来日し、その後約80日間に渡って各地を調査のうえ提出したレポートである[30]。この中で2案対立に触れて、「比較すべきは計画ではなく、それぞれ異なった根拠で有益」との見解を示し、東海道案については、現在の交通需要を満たし、ごく近い将来の経済的発展に十分な容量を確保するために必要なルートであるとした。一方の中央道案については、新しい土地の開発および資源の開発を目的とした開発道路であると位置づけた[65]。
調査団来日当時の日本の政治家と官僚、銀行団は、とにかく東海道案に反対であった。その理由として、東海道案は国鉄東海道線と競合して国鉄の経営を悪化させる。また、高級な道路を造ることは外国製の機械を輸入する必要が生じ、同時に道路開通後は石油の輸入も必要であることで、日本の外貨状況を悪化させることであった。こうした政府や国会の誤った考えに対して、ワトキンスは真っ向から反論した[51]。1956年(昭和31年)時点で日本の経済成長率が年々10パーセント以上を示している以上は、それによる鉄道貨物の容量不足をいかに解消するかを考えるべきで、そのために鉄道が不得手とする短距離、小口の輸送をいち早く道路に明け渡すべきである。経済が進むほど交通、運輸の需要は高まって様々なサービスを要求する。したがって、道路と鉄道の競争ではなく、互いの長所を発揮し合う補完関係に立つことが進んだ経済に対する交通体系であり、鉄道経営が悪くなるから東海道の高速道路を造らないという考えは間違いであると指摘した[51]。また、外貨が悪くなる事に関しては、支出により失うことを恐れるのではなく、むしろ外貨を稼ぐ方に目を向けるべきであるとした。道路が悪いことによって原材料や半製品の動きに時間とコストがかかることは、日本の生産性と国際競争力を大きくそぎ落とす。重量にして2.5ポンド(約1.1 kg)しかない日本製カメラが、輸入する鉄の1トンの値段と等しくなることを考えると、日本が生産性を高くして輸出を振興することによって、逆に道路を造るために輸入しなければならない外貨支出をはるかに上回る外貨収入を得られることに、もっと目を向けるべきであると力説した[66]。こうした調査団の分析にもかかわらず、両道の論争はその後約4年間も継続したが、少なくとも両道並立の気運はこのレポートによって蒔かれた[29]。
国道1号の逼迫
東京 - 名古屋間のルートを巡って論戦が繰り広げられている時、以前から渋滞気味であった国道1号の道路事情はさらに悪化していた[67]。
国道1号逼迫の原因は、昭和30年代以降、急速に増大したトラックの影響である。それ以前のトラック輸送といえば、鉄道貨物輸送を補完する形で日用品の地域輸送、および鉄道の両端を担当する小運送であった。当時の陸上貨物運送は鉄道が主流で、トラックはあくまで脇役であり、トラックの主な形態は小型三輪車や軽自動車であった[68]。やがて100 kmに及ぶ近距離輸送にトラックが進出し始め、それが東海道の貨物輸送の九割を占めるまでになった。よって、国道1号における交通混雑はまず、都市部周辺で始まった[69]。さらに、首都圏と中京圏、近畿圏をつなぐ東海道は長距離貨物の需要が旺盛であることから、近距離貨物に割って入って長距離貨物の伸長も著しかった[70]。
東海道に対する路線トラックの免許は、1950年(昭和25年)に東京 - 名古屋間におり[注釈 10]、4年後には東京 - 大阪間を22時間で結ぶに至った[71]。一方で国鉄貨物は東京 - 大阪間に3日を要し、以後、鉄道貨物輸送はトラック輸送の後塵を拝するようになった[71]。これには、政府の所得倍増計画を受けて高度経済成長へと至り、大量生産、大量消費時代へと突入して増え続ける輸送需要を鉄道貨物が賄いきれず、それに代わってトラックが持ち前の機動力と利便性で次々と貨物を取り込んでいったこともトラック輸送伸長の一要因である[68]。事実、1956年度から1965年度までのトラック輸送の伸びは、1955年(昭和30年)の12 %から1965年(昭和40年)には26 %と倍以上に伸び、一方の国鉄貨物は53 %から10年後には31 %までシェアを落とした[72]。この流れを受けて1959年(昭和34年)には、路線トラック12社が東海道路線の免許を取得し、同年に全面舗装なった国道1号で長距離の定期便トラックの運行を本格化させた[73]。もっとも、舗装といっても相変わらず道幅は狭く、曲がりくねったままの旧道がコンクリートに置き換えられただけのことで、東京 - 大阪間を大型トラックが高速で移動することは到底不可能であった[74]。
なお、ワトキンス調査団のまとめたレポートの巻頭には、米国の高速道路の写真に続き10葉の日本の道路の写真が掲載されており、その全てが調査団来日当時の国道1号である[75]。そこには、未舗装の道を砂埃を舞い上げて走る自動車、大雨によってぬかるんだ未舗装の道に轍をとられた自動車を大人数で押している写真、あるいは首都東京の路面を無秩序に占有するおびただしい数の自動車の写真など、凄まじいまでの東海道が写されていた。当時の国道1号は道幅が狭く、その両脇を民家が軒を連ねていた。そこを道幅一杯にトラックやダンプカーが走ることで、軒先が瓦もろとも剥ぎ取られる始末で、およそ安全とは言い難い道路であった。挙げ句は、車の往来で路面に敷かれた砂利が吹き飛ばされることで、民家の戸や障子が傷つけられるため、被害防止のために金網を付けるか、日中でも雨戸を閉める家も少なくなかった[75]。そして町を抜ければ、歌川広重の東海道五十三次、あるいは東海道中膝栗毛に登場する松並木の牧歌的光景が広がり、これでは到底、戦後の新生日本を背負って立つ大動脈の役割を国道1号に着せることは出来なかった[75]。
昭和30年代は、自動車交通の異常な進展に対して道路条件の改善が進まなかった時代である[76]。昭和20年代には自動車の通行がほとんど見られなかった農山村にも自動車が入り込み、大小の型の貨物自動車が通過するようになった。行き交う交通は、10トン級の大型トラックから、軽三輪自動車、原付自転車をはじめ、1960年(昭和35年)頃までは東京銀座の繁華街さえ荷馬車が通行していた[77]。国道1号においても、道路を走り抜く交通は自動車だけではなかった。牛車、馬車、自転車、人間が走り、そこへ大型バスがすれすれにすれ違うという状況で、こうした緩速交通に邪魔されることから、国道1号の一日に走りうる距離はせいぜい220 km(東京 - 静岡市清水区間に相当)が限界であった[78]。なお、1960年(昭和35年)末に、1964年開催の東京オリンピック大会の事前視察に来日したローマの新聞記者達は「日本の交通状況は狂的といってよいほどに悪く、果たして、オリンピック大会が実施できるかと思うほどに悪い」と本国に打電している。一方で、その2年後に来日したフランス人記者達は、「日本の自動車生産施設の整備および生産体制の充実は見事というほかない」と評したが、これなど、当時の道路状況の劣悪さと、躍進する自動車交通のアンバランスさを象徴的に捉えたエピソードである[79]。
その後、建設省によって大規模な改良が施されたが、その努力を突き破る勢いで遠距離の自動車交通が急増し、日に日に国道1号の交通状況は悪化した。かつて「ゴールデンロード」と呼ばれたこの道路は、この時に至って「倒壊道」とあだ名された[80]。建設省がまとめた1965年度全国交通量調査では、国道1号の全延長636 kmの約86パーセントにあたる547 kmが混雑度100パーセントを超え、そのうちの272.8 kmが許容量の2倍に到達するという凄まじさであった。特に、京浜間、藤沢 - 小田原間、清水 - 静岡間、浜松市内、岡崎 - 名古屋間で顕著で、トラックの平均時速は 37 km/hという低速ぶりであった[80]。こうした混雑によって、東京 - 大阪間における大型トラックの走行時間は、当時の標準15 - 16時間が18時間に増加し、事故発生のあかつきには20時間まで伸びるに至った。その上、ひとたび大雨が降ればところによっては立ち往生が発生し、時間を浪費したトラックが遅れを取り戻そうと空いている区間を猛スピードで飛ばして事故に至るケースが多発した。警視庁の1964年度の主要国道の事故件数(重傷、死亡)において、国道1号はそのトップとなった[80]。建設省が中央道案よりも東海道案を優先的に考えていたのは、こうした国道1号の逼迫によった[50][81]。
ワトキンス調査団は名神の調査のために来日したが、それは最終的に東京 - 名古屋 - 神戸間の高速道路の実現を見据えて調査したことで[82]、ゆえに東京 - 名古屋間の国道1号の調査も行っている。その調査を元に調査団が下した結論とは次の通りである。国道1号が線形改良、路線の拡幅、完全舗装に動き出していることは評価するが、国道1号がいかに改良されようとも、今後増加する自動車交通を吸収することは不可能である。古い道路の最悪の点を変えるだけで近代的道路を造ることは出来ない。新しい位置の新しい道路だけが自動車時代の求める便宜を供与することができる。つまり、国道1号とは全くの別路線による、完全出入制限を行って緩速交通(人間、自転車、手押し車、荷牛馬車)を排した自動車専用道路を造ることが経済の発展に有効であることを、アメリカのターンパイクを引き合いにして報告した[83]。調査団の脳裏には、かつてU.S1号線が20 - 30年間にわたる渋滞解消の応急対策と数百万ドルの経費投入を結局水泡に帰せしめた失敗がよぎり、このままでは国道1号もその轍を踏むことに警鐘をならした。つまり、国道1号にいかに金をかけて改良を行っても効果は上がらず[84]、増える需要によって早期に陳腐化して投資ロスとなる恐れがあるため、それを回避するには近代的規格の道路が必要であると勧告した[81]。また、この時点で東海道案が中央道案に押され気味であったことに触れて、海岸に沿う高度の人口密集地帯における交通混雑を解消するには、中央道にその役割は期待できず、ほぼ東海道に並行する高速道路が依然として必要であると報告した[65]。
国幹道法への組替え
議員立法として成立した東海道幹線自動車国道建設法は、1966年(昭和41年)7月1日をもって廃止され[87]、代替の国土開発幹線自動車道建設法(国幹道法)の予定路線に組入れられて、全国高速道路ネットワーク7,600 kmを構成する道路の一部となった[88][63]。
これ以前の高速道路の整備に関する法的根拠は、1957年(昭和32年)4月に制定された国土開発縦貫自動車道建設法(国開道法)であった[89]。そこへ中央道に対抗して東海道幹線自動車国道建設法が制定され以降[90]、関越、東海北陸、九州横断、中国横断の各議員立法が次々と可決成立した[63]。このままではなりふり構わず議員立法で増殖することから、道路局長に議員立法を止めさせるよう当時の担当者は申し入れた[91]。こうした個別の立法は関係地域の利害にとらわれた計画に陥りやすい。むやみに高速道路を提案するのではなく、全国的な視野から見たあるべき高速道路網の姿を示し、秩序だった整備計画のうえに策定されたのが国幹道法であった[63][90]。
組替えに際し、法定路線名が従来の「高速自動車国道東海道幹線自動車国道」から「高速自動車国道東海自動車道」に変更された[92]。
設計と建設
施行命令
建設大臣から日本道路公団に下される施行命令は次の順になされた。1962年(昭和37年)5月30日(東京 - 静岡間)、同年9月17日(豊川 - 小牧間)、1963年(昭和38年)10月25日(静岡 - 豊川間を含めた東京 - 小牧間の全線)[93]。
しかし、命令は真っ先に下されたが、その時点で路線が確定していたわけではなかった[94]。特に後述する松田 - 山北間の路線が確定したのは1964年(昭和39年)8月である[95]。施行命令が下されたからと言って直ちに工事に入るのではなく、様々な調査結果を考慮しながら、諸々の事情を取り入れて路線を決定し[94]、中心杭設置、設計協議、用地買収を経てはじめて工事に取りかかる[96]。
路線選定
建設省案採用後、静岡県西部の焼津 - 三ヶ日間の大比較線を残し、以後は日本道路公団が路線の詰めを担当した。建設省が大比較線を残したのは、いずれも決っしえなかったためである。よって公団の手で改めて比較調査を行った[40]。大比較線は3ルート用意され、この中から、経済効果、建設費用、工事の難易度、走行安全性といった要素を加味して一本に絞る。3案とは、内陸、海岸、その中間であるが、内陸は路線延長が短く建設費も最小だが浜松市から遠く、利用交通量が低い。海岸は路線延長が長く建設費も高いうえに、利用交通量が少ないことで2,000億円相当の損失が見込まれた。よって、公団は中間を採用することにしたが、そこへ静岡県が海岸案を主張してきた。これは静岡県が1961年(昭和36年)に策定した総合開発計画がこの海岸線案を骨子として出来たためで、県の考えでは、開発の遅れている遠州灘海岸地帯の振興のために東名を利用しようということであったが[99]、いかんせん損失額が大きすぎるため、県は海岸よりやや内陸案を提案した[100]。それでも中間有利と判定されたのは、利用する地形がよく、路線延長が短い、3パーセント以上の勾配距離が海岸の半分以下、建設費が97億円安い、海岸と比べ交通量が多い、よって超過便益は海岸に比べて差し引き504億円相当で圧倒的に中間有利という結果が出たことによる。ただし、海岸は未開発地帯を通るだけに、東名開通の折には土地の利用効率は約69億円相当海岸有利であるが、それとて建設費97億円の差額にも及ばない[101]。だが、静岡県の主張する海岸地帯開発の考えを一部取り入れてルートに反映させた。これに茶畑の潰地を少なくし、橋梁を避ける等の修正を行って最終ルートが確定した[102]。路線の内定は1963年(昭和38年)6月で[103]、一年以上も遅れていた整備計画にさっそく反映のうえ施行命令が出された[104]
大比較線以外では、比較的小さい比較線が幾本も検討された。なかでも、複数の比較線の中から路線を選定する場合、建設費用を低減できる初期投資が低いルートを選ぶか、あるいは、初期投資が高くとも走行時間や走行距離が短いために走行費が低い長期的な便益を選択するのか、という二択を突きつけられるケースがあり、この場合は選択が困難となる。例えば、豊川付近では初期投資の低いルート、蒲原では初期投資の高いルートが選ばれた。豊川の場合、山の通過においてトンネルを取りやめて建設費の安い迂回ルートが選ばれているが、トンネルの方が迂回ルートより300 m短いものの、建設費は418億円余分にかかる。しかし、距離が短いことによる走行費と時間の節減により477億円の超過便益があるが、初期投資の差が少ないことから豊川は初期投資が低いルートが選択された。一方の蒲原の場合、山の通過において迂回路では多くの人家にかかって地元の反対が強く、曲線半径500 mという急曲線が生じることで、トンネルを通した。この場合、迂回に比べて250 mの短縮ではあるが、初期投資は218億円増である。それでも1,554億円の超過便益があり、その圧倒的な差によって蒲原は初期投資が多いルートが選択された。このように東名のルート選択は、経済比較を綿密に行ったうえで決定した[105]。
初期投資と超過便益を秤にかけて選定された典型的なルートが、静岡県と愛知県の県境を通過する宇利トンネル区間である。ここは当初案(建設省案)と比べてルートが大きく北寄りに移動した。建設省案では、三ヶ日町を通過する予定であった。しかし、市街地分断は避けたいとの思惑から、公団は当区間を南北それぞれに移した。南側の猪鼻湖と、北側の三ヶ日トンネルを通す二案である[107]。ここからさらに分岐して、都合五案が考案された[108]。ここから取捨選択して二案に絞り、これ以外の案は、通過する地質が悪く、工事が難航するために破棄した[107]。二案が選択されたのは、建設費、超過便益で勝っていることによるが、それぞれを比較すると以下のようになる。
つまり、初期投資が少なく、施工が容易なルートを選ぶか、初期投資は多いが長期的に有利なルートを選ぶかの二者択一となったが、結果は初期投資の少ない宇利トンネル線が採用された[107]。
こうしたルート選択において難渋を極めたのが松田 - 山北間で、インターチェンジでいえば大井松田IC - 御殿場IC間である。このわずか14 kmの区間に工費254億円を投じ、km換算では17億円という、東京付近の地価の高い区間を除いて最高の建設費を要した[95]。東京 - 小牧間の東名にあって最後に開通した区間であり、予算不足ゆえ工事の発注が遅れたうえに高難度の建設工事、そして路線選定でもめた区間であった[113]。松田 - 山北間は、箱根山と丹沢山塊に囲まれた、急峻で狭隘な谷間とをぬって進み[114]、鮎沢川と酒匂川による浸食作用が手伝って山腹や山裾は急崖をなし、その川と急崖の間のわずかな平地に人家が建ち並ぶ。加えて国道と鉄道が並行し、山の斜面にはミカン畑がある。結果、高速道路を造りうるような場所は全て国道、人家、鉄道で埋め尽くされており[114]、こうした狭隘な地形条件とあっては東名は高所を通さざるを得ない[115]。東名が切り立った山の側面に取り付いているのはこうした理由からである[114]。
この区間は当初、大小を含めて10本の比較ルートが用意されたが、大別すれば橋が多い南線と、トンネルが多い北線に収れんされる[116]。一般的にトンネルは工費が高いことから、建設費抑制の観点からいえばトンネルを要する山の通過は避けて山あいを迂回すればよい。しかし、それによって山肌を削り取る必要が生じ、結果、工事中の危険性が高く、開通後も崖崩れの危険がつきまとう。山あいの通過ではカーブがきつくなることでドライバーの負担が増し、さらに高い橋脚を要することはトンネル以上の建設費を要する。そして、高所ゆえ冬は路面凍結の恐れがあることを考慮すると、むしろトンネルを挿入する方が線形や構造物を楽にでき、全体としては安全になる。都夫良野トンネルはこうして入ることになったが、これが北線であり、こちらが採択された[112]。
比較線でもう1本苦慮したのは由比地区である。もともと建設省が海岸ルートを検討していたものを放棄して山手まわりとしたが、この付近の山は地滑り地帯であることから、それを避けるためにトンネルを通す位置を最も安全な位置に計画した。ところが、そこを東海道新幹線に奪われたことで、計画が立ちいかなくなった。しかし、1961年(昭和36年)に発生した由比町寺尾地区で発生した地滑りにおいて約120万立方メートルの排土が必要となり、様々な理由から海岸へ投棄する以外に選択肢がなく、農林省から建設省に対して協力要請があった。公団はこれに飛びつき、急遽海岸回りの検討に入った。距離にして山手回りと比較して大差なく、海岸埋め立て事業を国道事業、海岸保全事業との合併施工で行えば工費もいくぶん節約できる。結局、海岸を埋め立てて、そこに東名を通すことになった[117]。東名の施行命令は1962年(昭和37年)5月の東京 - 静岡間を皮切りになされたが、当該区間を最優先としたのは、由比地区の地滑り地帯の工事に早く取りかかる必要によった。当該地帯の工事は同年10月からの開始を予定し、そのためには一刻も早い路線指定を行って、土砂の搬出についての契約を遅くとも5月中に済ませなければ間に合わないためである[118]。
なお、東名の起点は当初、渋谷区代々木八幡の環状6号接続であったが、東名の道路規格で都心部まで乗り入れることは極めて困難であることから、世田谷区の環状8号まで後退した。最終的な起点位置は、首都高速3号渋谷線の連結を考慮して決定した[98]。
推定交通量
費用対効果の確認や車線数、インターチェンジ位置を計画するに当たって推定交通量を算出した。1969年(昭和44年)の東名開通時点の交通量は、東京の日換算33,000台を頂点に厚木までが2万台以上と突出しており[119]、さらに開通後10年以内の東京 - 厚木間の推計は2倍以上に増加するとの見立てから、東京 - 厚木間は往復6車線、それ以外は往復4車線とした[120]。ただし、当初整備計画では東京 - 大井松田間を往復6車線としたが、小田原厚木道路が計画されたことによって、厚木 - 大井松田間は往復4車線に縮小された[121]。
なお、1時間あたりの交通容量は、6車線7,000台、4車線4,600台で、これを基に年平均の1日の交通容量を算出した場合、往復6車線区間で88,000台、往復4車線区間で48,000台である。これだけの交通容量ならば、東名は無理なく車を流すことができる[122]。しかしながら、開通後ほどなくして、この交通容量では圧倒的に不足することが明らかとなった[123]。
用地買収
地形図を入れたルートを地元関係者に発表(路線発表)してのち、諸々の協議を経て用地取得に入る[96]。用地が確保されれば道路は完成したようなものだ、といわれる[124]。しかし、土地が確保されなければ路線計画は絵に描いた餅で、期限までに収容できなければ、予定された開通日に間に合わないだけではなく、税金の優遇措置に影響するなど様々な不都合が生じる[125][126]。よって、調印を取り付けるために地主の感情を読み解きながら、いたずらに感情を刺激しないように事を運び、期限内の取得を目指した[127]。
かつて行われた名神の用地買収は、地元民から強い抵抗を受けた。地元に直接の利益をもたらさないと思われる高速道路に先祖から受け継いだ大切な土地を取られてはならぬ、という執念があって[128]、「弾丸道路通過絶対反対」という看板が沿道の至る所で押し立てられた[129][130]。そして、名古屋駅にはむしろ旗がならび、地元民が公団の現地機関や県庁、市役所に押しかけ、打たれた杭は焼かれたり抜かれたりするなどの激しい抵抗に遭った[130]。そのあとに続く東名では、こうした絶対反対という過激な抵抗は少なく、条件闘争がおもだった争点となった[131]。以下、買収事例を挙げる。
高速道路における用地買収では、限られた期間内で大量の土地を一々評価することはできないので、各々の場所から価格を決めるにふさわしい土地を選び、それを標準値として価格の算定を行い、その他の土地については、この標準値を基準として価格決定するプロセスを採用した[132]。よって、買い取る場所によっては価格差が生じ、それが地権者の思い描いた価格と相違する場合は激しい対立が生じた[133]。それを避けるために地元民を組織化して、その代表と交渉する等の対策を講じた[134]。それでも金銭が絡むことゆえ内部分裂が生じることも多々あって、そのために地主たちをまとめる代表の苦労も並々ならぬものであった。ある交渉では、地元民を束ねる用地対策委員長が連日の一般地主の強い突き上げにより過労で倒れ、代わった副委員長も心労によって憔悴はなはだしく、妥結の瞬間に至ってはまさに崩れ落ちるような表情であったという[135]。これが袋井市の場合、東海道新幹線の用地買収に2年を費やし、国道1号のそれに8か月を要した土地柄の場所へ東名が交渉に入った。価格協議は予想通りの難航を示し、ほうぼう手を尽くして妥結に至ったのであるが、この間、地主会会長が三人交代している[136]。また、対立が深く、協議に一向の進展も見られない場合、自治体のトップに斡旋を依頼して解決を図った[137][138]。
先述のように、用地買収は時間との戦いでもあった。秦野市では1966年(昭和41年)3月以降、公団の単価発表に不満を持つ地権者との交渉が決裂し、租税特別措置法の優遇措置が適用される最終期限の3日前に行われた地権者総会では、集まった約200人が関係地主の総意として、公団の買収価格には一切応じられないとして、いよいよ怪しい雰囲気が漂い始めた。そこで公団は地権者会を相手にすることをやめて各地主との直接交渉に乗り出した。そして迎えた最終日、公団は価格を再調整して市長室にて地権者会会長を呼んで協議したところ、会長は公団価格を了承、ただちに公民館に待機中の地権者に発表の上、有線放送で各地主に個別調印の呼びかけを行った。しかし、それに応じる動きを見せる一部地権者を妨害する者の仕業もあって夜半になっても1割弱の調印しか得られなかった。それでもなお公団は諦めず、特別班を編成のうえ夜を徹しての個別の説得工作を試みた結果、夜明け前に調印に訪れる者が現れ、最終的に関係地主が公団事務所を訪れて、ここにようやく団体調印が完了をみた[139]。また、世田谷区では、都営砧緑地公園(現・都立砧公園)と区営総合体育グランドの用地を取得するに際し、東京都議会と区議会の承認を要することで短期間取得が危ぶまれた。しかし、都区関係者の尽力によって、まれにみる短期間での都議会の議決に至った[140]。
宗教施設の買収には困難が伴った。四部落共有の神社を曳家工法で移転させる事例があったが、氏子側は公団提示額の3倍を要求して交渉は難航した。最終手段として土地収用法による採決を公団が迫り、氏子側は神社移転を収用に持ち込むのは地元の恥であるとして交渉は妥結した[141]。この土地収用は最終手段ではあるが、東名の用地買収ではやむを得ず行使した例がある。ある交渉において最後まで了承しなかった地主数人に対して、市長が午前9時より翌日の午前2時まで、連続17時間にもわたる説得で妥結した者を除く残り1名について、公団の妥結価格を不服として最後まで調印を拒絶し、そのうえ、7兆円の5億万倍という天文学的な価格を突きつけたことから、やむなく収用法を適用したものである[142]。
買収地には農地も少なからず存在し、時には農協に斡旋を依頼した[143]。清水市(現・静岡市清水区)内の海岸と山に挟まれた農地の買収では、残り少ない農地を提供する農民の苦悩を嫌というほど味わいながら、それでも農民を説得した用地職員の苦労は並大抵ではなかった[144]。
特異な例として、ある買収予定地が共有地で、複数人(100名や60名等)で一つの土地を所有という事例があった。そこは相続登記がされておらず、その相続を調査すると300人以上となるものが数件あり、その者が北海道から九州まで居場所が散在、中にはアメリカ在住者でベトナム戦争に出兵して居場所が不明という者がおり、土地一つの調印を得るために大変な時間と労力を費やす事になった[145]。一方で、名古屋市とその近辺の自治体は、土地区画整理事業の只中にあって土地が商品化されていることもあり、買収は比較的スムーズであった[146]。
用地買収で総じて言えることは、限られた予算を踏み越えないように、買い取る土地の価格を厳正に査定し、それを地権者に示したうえで買収したことである[132]。そのために、公団の提示した価格に対して不満を持つ地権者と対峙することも厭わなかった[137]。時には昼夜を分かたず怒号が飛び交う中を論争が繰り返され、そうした険悪な雰囲気の中にあっても公団は粘り強く交渉して[147]用地を確保した。後年、新東名高速道路の用地買収において、地権者の希望する価格を否定もせずにそのまま承諾した公団の姿勢[148]とは全く違う、当時の公団の厳しい姿勢がそこには見られた。
線形・インターチェンジ計画
名神高速道路では、設計に際し日本道路公団がドイツから道路計画の技術専門家であるフランツ・クサーヴァー・ドルシュ、アメリカからは土質、舗装の専門家としてポール・ソレデンガーを雇って、この両名の指導の下で高速道路の計画設計がなされており、これに引き続く東名高速建設においても両名が顧問を務めた[151][152]。
東名は名神の設計を基本としながらも、幾つかの改良を加えている。名神では線形が栗東以西と以東で異なっており、早期に開通した西部が直線主体、それより遅く開通した東部が曲線主体であるが、これはドルシュの影響である[153]。東名では、直線をほとんど用いず、曲線主体である。その比率は東名の総延長346.7 kmのうちの330.7 kmに達し、95.5パーセントとなっている。名神の約57パーセントと比較しても、東名の曲線の多さが際立っている[154]。曲線への移行の背景として、ドライバーに緊張を持続させる意図がある[153]。直線道路は単調であり、ドライバーの疲労感を高めて距離の目測を誤らせ[155]、ひいては眠気さえ催すにことが経験的に実証されていることから、適度な刺激としてのカーブや勾配が必要となる[156]。また、曲線主体とすることは、線形設計の自由度が高められ[153]、用地取得においても建設費用にとっても望ましいものとなる[157]。
曲線は平面線形と縦断(坂の上り下り)線形に用いられたが、2つはそれぞれ独立したものではなく、立体的に組み合わさったものである[158]。設計段階で2つを組み合わせ、運転席から見たのと同様の三次元の立体像として捉えたのが透視図で、ドルシュは名神建設に際してこの透視図の効用を説いたが、道路の設計に利用され始めたのは東名と中央道からである[159]。東名では透視図の作成に電子計算機を使用し、東名全域にわたって100 - 200 m毎に透視図を作成のうえ、問題箇所について再検討する手法を採った[160]。平面線形、あるいは縦断線形だけを見た場合、円、クロソイド曲線、直線を入れて完璧な線形に見えても、ドライバー目線の立体的な視点から前方の道路を見たとき、道路が途切れて見えたり、先の道路形状が不明で運転予測が立てづらく、ドライバーの心理を不安に陥れることがある[161]。2次元ではわからない欠点を3次元の透視図で洗い出し、それによって2次元の図に修正を加えて完成度を上げた。
東名において最も急な勾配は、大井松田IC - 御殿場IC間の内、滝沢橋から東名皆瀬川橋に至る約2 km区間に挿入された5パーセント(100 mの間に5 mの高低差)である。当初は、急な当該区間の高低差(約15 km区間を標高差約190 m)を、地形になじませつつ、神奈川県から静岡県の県境に向けてゆるやかに上ることが計画されていた。しかし、延長約1,670 mの都夫良野トンネルの工事から出る湧水を考慮して、トンネルの中央付近を縦断曲線の頂点になるよう計画を変更した。これにより水はトンネルの両口へと分散して流出するが、ここで問題が出た。トンネル位置を高くしたことによって、県境に向けて緩やかに上るという当初方針を崩さざるを得なくなり、そのしわ寄せがどこかに向かうことになった。結局、都夫良野トンネルから見て大井松田IC側、滝沢橋と皆瀬川橋間の約2 km区間がその無理を引き受け、緩やかな勾配が一転、東名最大の5パーセントとなった[162]。後年、新東名の走行性解説のために、東名の最大勾配と比べて新東名は2パーセントという比較が行われたが[163]、その比較元となったのが本区間である。
路線の95パーセント以上に曲線が取り入れられたことは、路線を構成する橋梁にも曲線橋が多用されたことを意味する。平面曲線を描く過程で橋があるなら、橋にも曲線が取り入れられ、勾配の過程にあれば橋にも高低差を取り入れた[166]。その中でも規模の大きい曲線橋としては、東名酒匂川橋、浜名湖橋、富士川橋がある。中でも浜名湖橋は横断勾配6パーセントから、S曲線を描いてマイナス4パーセントに移行することで、橋全体がねじれた構造となっている[167]。富士川橋の場合は、クロソイド曲線が入るうえに、勾配も入り、高低差でいえば、名古屋側25 m、東京側11 mと橋の前後で14 mの差がある[167]。東名酒匂川橋の場合、2箇所の曲線半径と、それを挟み込む4箇所のクロソイド曲線で構成され、このうちの一箇所は曲線半径400 mという急カーブである[168]。
インターチェンジは21箇所を計画した。設計の基本としたことは、有料道路という建前から、管理業務の容易さを考慮して、料金所を1箇所に集約できるトランペット型を採用したことである[169]。あらかじめ割り出した出入り交通量を踏まえ、インターチェンジ、接続する一般道路、両者の合計のそれぞれの基準量を設定し、設計時点、あるいは将来その基準量に達すると見込まれる場合は、一般道路との接続も立体交差としたダブルトランペット、また15年以内に達すると見込まれる場合はダブルトランペットの用地を確保したシングルトランペットとした[170]。例外的に、東京インターチェンジは料金所が本線料金所であることからダイヤモンド型が採用されている[171]。曲線半径35 m(最小値)、設計速度40 km/hという急曲線のトランペット型が採用できるのは、接続先が低速走行の一般道路だからである[172]。これに対して、高速道路同士を直接接続するジャンクションでは高速で円滑に連絡できるように比較的緩いカーブが計画された[173]。なお、開通時点で全てのジャンクションは未供用であったため[174]、砧ジャンクションと小牧ジャンクションは設計にとどまっている[175]。
インターチェンジの建設には莫大な費用がかかり、設計時点の物価では最低数億円、横浜インターチェンジ(現・横浜町田IC)で13億円である。よって、その投資に見合うだけの需要が建設場所になければならないことから、交通量の調査と共に、交通発着の度合いが高いところを見極め、そこをインターチェンジ設置の目安とした[176]。インターチェンジ名称は地元要望が入り乱れたこともあって議論となった。川崎は第三京浜道路に同名のICがあることから「東名川崎」、松田は松田町がICの中心にありながら大井町の要望が強いため「大井松田」、富士は当初は「吉原」を称したが、吉原市と富士市の合併によって富士市になったことで自動的に「富士」となった[177]。東京は将来的に東北道や常磐道の東京側の入口名称をどうするか、という問題があって、「東京世田谷」、「東京環8」の候補が挙がったが立ち消えとなった[178]。
建設資金と通行料金
敗戦後の日本は極端に税収が少なく、税金だけで高速道路を造ることは不可能であった。そこでアメリカに倣って、道路の建設は借入金で賄うことで税収不足を補い、返済方法は道路を有料にしたうえで、通行料金収入で返済にあてる方法が画策された。道路とは本来公共物であるから、税金で造って無料で通行できる類いのものである。それを有料にして通行料金を取るというのは、当時は画期的なことであった。こうした道路造りの方法として日本道路公団が発足したのであるが、名神、東名、中央道の公団による建設は、税収の少ない当時の日本において選択しうる唯一の方法であった[179]。よって、東名は当初から有料道路として計画され、それを日本道路公団が建設し、開通後の料金収入で借入金を返済することになった[180]。
東名の概算事業費は3,425億円で発足した。これは、東名全線開通における総事業費3,425億円と同額であり、これほどの大規模工事でありながら、予算枠内で出費を抑えることに成功している[181]。この3,425億円という事業費に対し、1962年度(昭和37年度)における国全体の総道路投資額は約4,000億円であったことからも、東名における事業規模の大きさが解る[182]。1 km当たりの工事費は9.8億円で、これをアメリカの2.25億円、西ドイツの3.5億円、フランスの1.8億円と比べると約3倍となっている。これは日本の特殊事情から来るもので、地質が軟弱地盤、平地面積に比べて山地部が多く、かつ急峻で河川が多い、人口密度が高く土地利用が高度化している事が費用の増加要因として挙げられる[183]。
建設資金は東名建設前の見立てでは、名神の2倍(2,442億円)は必要との見地から、日本道路公団はこの巨額な資金調達を名神に引き続いて国際復興開発銀行(世界銀行)からの借款によることを強く要望した[184]。1962年(昭和37年)12月に、大蔵大臣の田中角栄が渡米し、世界銀行総裁と会談した結果、事業費7,500億ドルの借款(名神に続くことから[128]第3次借款)に成功した。続いて、豊川 - 小牧間の第4次借款5,000万ドル、静岡 - 豊川間の第5次借款7,500万ドル、東京 - 静岡間の6次借款1億ドルと全部で4次に渡って借り入れ、合計3億ドル(1ドル=360円の固定相場制、1,080億円)を賄った[185][184]。従って、東名の総建設費用の32パーセントを外貨に依存したことになる。名神の外貨依存率が約25パーセントであるから、東名においては建設費の財源としてより大きな割合を占めることになった[186]。この借入金は、道路債権に比べて長期かつ低利(償還期間15 - 26年、利率5.5 - 6.625パーセント)であることから、建設費の金利負担の軽減に寄与した[187]。なお、世界銀行以外の借入では、政府出資金(資本金)、道路債権、産業投資特別会計借入金がある[185]。
東名は名神同様、建設資金の関係から通行料金の徴収を行い、完成後20年を目処に建設資金を償還しうるものとされた[188]。通行料金の設定は名神を参考としたが、名神の考え方を東名にそのまま当てはめることは適正でないことから、学識経験者の意見を元に検討した[189]。その結果、長距離てい減制、画一料率制、車種区分などの議論がなされた[190]。
この内の画一料率制とは、同じ高速自動車国道である名神、東名、中央道で料率が異なるのは不合理であることを理由として導入された。これは、それぞれ異なる路線であっても、各路線のサービスはほぼ同質であり、経営主体が同一であることによっている[191]。この画一料率制を基礎として、対距離制で料金徴収することとした[192]。なお、制定当時の料率は普通車の場合、1 kmで9.5円、東京 - 横浜間は2割増(後述)の11.4円であった[193]。
また、長距離利用を促進するために該当利用者の負担を軽減する「長距離てい減制」を導入することとしたが、そこへ大蔵省(現・財務省)が横やりを入れた。大都市では建設費が著しく高く(東名の1 kmあたり建設費9.9億円対して大都市近郊は15億円を要した[194])、東名利用者の利便性が大きいことから、東京 - 厚木間については他区間よりも割高に設定することを要求した。これに対して建設省は、1 kmあたり建設費が15億円以上であることを基準として、東京 - 横浜間のみに適用することを主張して両者は鋭く対立した。大蔵省は他にも、富士 - 焼津間についても要求したが、最終的に東京 - 横浜間のみ割高として[195]、1 kmあたり20パーセント増しとした[194]。一方のてい減率については、走行距離100 kmを超えると交通量が激減するというデータから、100 km以上の交通を対象として、1 kmあたり25パーセントの割引率を導入することになった[196]。これらは1969年(昭和44年)3月17日認可、同月31日より施行された。なお、施行以前は名神とほぼ同様の暫定料金で運用することとした[197]。
このように画一料率制が採用されたが、料金プランには全国プール制も候補に挙がっていた[198]。全国プール制とは、通行料金収入を今後全国的に建設される高速道路の建設管理費にあてる方式で、ゆえに通行料金と償還期限は全国一律となる。名神開通以前から日本道路公団は一般有料道路を多数建設し、それは個別採算性のために料金も各々異なれば償還期限も異なった[199]。これに倣い、名神、東名、中央道でも一般有料道路と同じ方式で出発したことが後年、高速道路に全国プール制を採用し、その後の相次ぐ通行料金の値上げに踏み切ったことが論議になった。とりわけ、高収益を上げる名神、東名の通過自治体や利用者からは不満の声が上がった。つまり、建設費の大部分を償還するほどの通行料金を支払っているにもかかわらず、その収入が不採算路線の穴埋めに利用されているという不満である[200]。しかし、全国プール制であればこそ、通行量の少ない地方の高速道路も高額な通行料金を支払わずに済み、全国一律の通行料金とサービスが提供可能であることを指して、のちの日本道路公団総裁の鈴木道雄は、最初から全国プール制であれば、これほどの論議を呼ばなかったと語っている[201]。しかし、名神、東名、中央道で採用された画一料率制は、3道路の料率を統一するという点で、やがて採用される全国プール制の先駆けとなる制度でもあった[191]。
建設費を抑えるために東名では様々な試みがされており、オーバーブリッジ(跨道橋)もその例外ではない。東名ではオーバーブリッジが284橋ある[202]。一橋につき、当時の費用で500万円、あるいは1,000万円を要する。多すぎるともとれるオーバーブリッジを整理統合すれば建設費用を抑えることができる。実際、利用頻度の少ない橋も存在するが、住民側の希望として、これまであった横断道路は一本たりとも失いたくないという希望があって、公団としては予算と地元の板挟みにあいながら、交渉を重ねたうえでの妥協の産物が284という橋の数となった[203]。
建設
東名は名神の経験の上に立って建設された。名神に対して施工延長は約2倍、事業費においては約3倍であるにもかかわらず名神より1年短い工期で完工したのは、機械施工における一層の効率化が図られた結果であるが、それ以外にも公団職員から請負業者に至るまで、元旦以外は休日を返上しての突貫工事を行い、特に造園業者は開通5日前から殆ど徹夜作業で仕事に臨んだことも工期短縮の一要因であった[193]。
東名の建設では、携わった者は延べ2,170万人で[204]、この数は土木建設のみならず、電気、通信、照明、植栽等の関連工事も含み、日本の主要な建設会社、メーカーのほとんどが工事に参加しているためである[204]。
名神ではそれまで日本で行われた道路工事と異なって、全く予想しなかった大工事となって、膨大な土の量を短期間で処理する必要に迫られたことから勢い建設機械も大型化した。この大型機械の使用がその後の道路建設のあり方を大きく変えることになり、それは東名においても継承された[181]。
東名の土工区間における難題は関東ローム層と軟弱地盤に代表される[205]。関東ローム層は東京都、神奈川県の通過地域に多い地層である。何十万年前からの古富士山と箱根火山による噴火の繰り返しと噴出物、その上に、富士山と愛鷹火山の噴火によって、さらなる噴出物が発生し、それが偏西風に乗って東へ運ばれ、降り積もって出来た火山灰の層である。この層は海進と海退、隆起と沈下を繰り返し、時には陸地、時には海底となりながらも、新たに運ばれてくる火山灰によってさらなる堆積を繰り返した。そこへ雨が降るなどして火山灰は何万年にも亘って水を含み続け、非常に含水比の高い地質となった[206]。土に含まれている水の量の割合を含水比と呼ぶが、その割合が高いほど工事は難航する。よって、関東ロームや軟弱地盤における工事は、陸地における土を相手にした工事でありながら、その実は水との戦いでもあった[207]。関東ローム層は東京 - 松田、沼津 - 富士間に連なり、この膨大な土を改良することなど不可能である[208]。盛土作業は、その上をダンプトラック、ブルドーザー、ロードローラーなどが往復し、これが柔らかいロームにおいては、それらの建設機械が土にめりこんで作業が困難となる。こうした建設機械の施工対策が上記区間における主だった工事内容であった[209]。また、工事の終わったロームは何年もかけて大きい力で押さえつけると、土粒子同士の結合が次第にほぐれ、空隙の水も抜けてやがて圧縮されていく。これによって盛土の表面が少しずつ沈下していくことは、東名の路面が陥没、変形の危険にさらされることである[210]。こうしたことから、盛土中に含まれる水を抜く必要があり、それもまた工事における対策の一つであった[211]。軟弱地盤は含水比1000パーセントという事例があり[212]、それは泥といっても過言ではなく、東名の建設地にはこうした軟弱地盤が約30 km分布している[211]。軟弱地盤上に道路が外圧として加わった場合、道路そのものが数年という時間をかけて沈下する[213]。よって、工事において計画より高く土を盛り付け、その重みで沈下を促進させ、開通前には沈下を終わらせるなどの対策が採られた[214]。
路線に占める橋梁の割合は約15パーセント(52.5 km)で、自動車走行上あまりよくない下路橋(通路が構造物の下にある橋)は採用せず、全て上路橋を採用した[215]。しかも、カーブに溶け込ませているために、走行中の自動車から見た場合、土工区間の走行とさして変わらない印象を受ける[166]。カーブを描く上路橋で特徴的なのが東名酒匂川橋で、橋桁にはトラスを使用し、支間中央部でトラスを折り曲げ、橋脚部でトラスの方向を変えることの組み合わせで曲線を形造っている。この2,600トンのトラスを迅速に吊上げて組上げることが、東名全線開通予定の1969年(昭和44年)5月に間に合うかどうかの分かれ目となった。なお、橋脚の基礎の掘削もスケジュール面で大変危うく、酒匂川の出水期(6月から9月)までに基礎の構築を終わらせる必要があったが、火山灰に阻まれて岩盤まで到達するのに予想以上の期間を要した[216]。橋脚の高さは65 mで、当時日本一の高さを誇ったが、将来、こうした高いコンクリート橋脚を建設する上で貴重な設計資料を提供するために、国内3例目となるロケットを使った橋脚の振動実験を行った。橋脚1基に推力5トンのロケットを横向きに固定した形で約1秒間、大音響をとどろかせながら噴射した[217]。
橋梁に対してトンネルの占める割合は2.5パーセント(8.8 km)で[218]、そのほとんどが山岳区間に設けられた。例外は厚木海軍飛行場の北辺に掘られた大和トンネルである[219]。この区間は元々は地上を通過する予定であった。しかし、この付近でジェット機が墜落し、これを重大視した防衛施設庁が東名のルート変更を求めてきた。公団は不可能との回答を行ったが、再度の要請により応じることにした。ただし、路線の移動は不可能であるため、路線縦断を航空管制の制限高さよりも低くすることで対応した。次いで、事故の型をいかに考えるかで、まず、軍用飛行機が直接東名に墜落する場合は対策のとりようがないため、二次的に発生する事故について対策することになった。すなわち、墜落または失速した軍用機が滑走して起こる事故対策である。方法としては、東名を切土にして、その上に蓋を取り付けて平地の状態に戻す方法が考案された。これが大和トンネルである。なお、基地周辺の盛土区間についても、こうした滑走から防護するために、路線の両側に堤防を築いた[220]。トンネル構造は付近の地盤支持力が低いことから軽量化が大前提となったことで、相応の構造が採用された[221]。
これ以外のトンネルは典型的な半円形である。鉄道トンネルでは必要のない照明や換気設備が必要であるため、断面は東海道新幹線の2.5倍、しかもそれを上下線に分離して二本掘る必要がある[222]。当時、往復四車線断面で掘ることは難しく、工費も小断面2本掘るよりも割高になるためである[219]。しかしながら、小断面とはいえ、地上区間に比べて二、三倍の費用であり、照明や自動車から排出される一酸化炭素を抜く換気設備を設けることによる維持費もかさむ。だが、用地買収を必要とせず、路線線形を滑らかに出来るメリットもあり[223]、トンネルの採用不採用については、それをよく吟味した上で決定した旨は、既に路線選定節で解説している。東名では11の山岳トンネル[注釈 11]が設けられ[224]、静岡市より東側が岩質が悪く、相当量の湧水があると予想され、西側が比較的良好な岩質であることで、東西でトンネルの掘削工法をそれぞれ異なるものとした[225]。つまり、東側(都夫良野トンネルから袖帥トンネルまでの7トンネル)に多い岩質の悪い所は、トンネル断面よりも小さい孔を先に掘り進め、地質を一々確認しながら通常断面に拡大していく工法を主として採用した。この場合、万が一、湧水にあっても、この小さな孔(先進導坑)を排水溝として使えるメリットがあるが、欠点としては、工期が長期化して工費も高くなる[226]。一方で西側(日本坂トンネルから宇利トンネルまでの4トンネル)は先進導坑を掘らず、いきなり大断面の掘削に着手する「上部半断面先進工法」を主として採用した。この方式は工期が短く、工費も安いことが特徴である[226]。こうした二つの異なる工法を一つのトンネルに用いて掘削したのが日本坂トンネルであった。
日本坂トンネルが貫通する山は、岩自体は堅硬であったが、新幹線工事記録で見られるように、案外水が多い山と予想された[227]。延長約2,000 mのこのトンネルは、東側と西側から分けて掘削された。東側が先進導坑を掘るもので、西側が先進導坑を掘らない上部半断面掘削方式である。同じ山の掘削にもかかわらず違いが出た理由は、それぞれの会社の手持ちの機械、安全施工、経済性などの考え方が一致しなかったためである[228]。湧水が予想されたにもかかわらず上部半断面掘削方式が採用されたのは、多少の破砕帯があっても岩は硬く、良好な山と判断されたからである[229]。
先進導坑であらかじめ水が抜かれている東側は特に問題もなく工事が進んだが、西側は上り線坑口から約670 m掘り進んだところで突如として驚異的な大湧水が噴き出した。前触れはあった。その前日、並行する下り線トンネルで毎分約6トンの湧水が発生し、これでは上り線も悪い地質に遭遇するであろうと考えられたからである。このため、支保工の間隔を縮めながら建て込んで掘削したが、無駄であった。前日の湧水を遙かに凌ぐ、毎分約180トン(秒換算3トン)の水が吹き出たことで、労務者達は一目散に逃げたことが幸いして、犠牲者は一人も出なかった。鋼製の支保工はなぎ倒され、十数トンという大重量のジャンボー(掘削機械)は10 mも押し流されて土砂に埋まった。世間のニュースにならなかった最大のニュースがこれであった[230]。結果的に湧水量は25日間で45万トンに達し[231]、トンネル史上最大と言われる丹那トンネルの毎分35トンを上回る大記録となった[232]。水が抜けた部分は、掘削地盤より21 mの高さまで大きく吹き抜ける大空洞ができあがった。落石対策をとりながら空洞をモルタルで埋め[231]、工事を再開、結果的に予定工期よりも二か月早く完成した[228]。
先進導坑は地盤の確認と水を抜くことが主な目的であるが、それとは違う目的で利用したのが吾妻山トンネルである。延長わずか360 m程度のこのトンネルは、掘削に2年を費やし、延長2,000 mで、大勇水を記録した日本坂トンネルとほぼ同様の工期であった[168]。短距離のトンネルにしてこれほどの工期を要したのは、岩質が極めて悪かったからである。先進導坑を掘ると、人間の頭が入るような隙間が随所にあって、この山にダイナマイトで発破をかけようものなら、山ごと崩れ落ちることは目に見えていた。そこで、先進導坑を掘って、ただちにコンクリートを注入して固めることで安全を確保した。よって、導坑というよりは、掘削する前に周りを固めるための手段であった。他にも、地山に10 mから20 mの長いパイプを場所によっては48本打ち込み、そこへセメントミルクを注入して、山とパイプを固めたにもかかわらず、地滑り計にて測定すると、山が一日に20 mm動いていることがわかった。ダイナマイトが使えないことから人の手だけで慎重に掘り進み、しかもこのトンネルは東名皆瀬川橋と連結しているため、トンネル入口の基礎工事とも絡んで、結果的に2年の工期を要することになった[233]。
静岡市内の建設では、工事も始まってから土中に埋没した未発見の遺跡らしきものに遭遇した。調査の結果、戦時下に発見されていた登呂遺跡の水田跡の一部と判明し[234]、これにより工事が停止したうえに手戻りが発生した。結果的に東名は遺跡を避けるべく一億円近い費用を余計にかけ、ルート変更および盛り土構造の一部を高架構造に変更した[235]。
開通
東名は東京IC - 小牧IC間346.7 kmを4次の部分開通に分けて全線開通に至った。1次が1968年(昭和43年)4月で、東京IC - 厚木IC間(35 km)、富士IC - 静岡IC間(40.3 km)、岡崎IC - 小牧IC間(53.3 km)の3区間である[236]。当該区間を優先的に開通させたのは、並行する国道1号の内でもっとも混雑の激しい地区だからである[237]。開通後、静岡 - 富士間(約60 km)の国道1号の混雑は、直近で2時間を要したものが、東名開通後は目に見えて減少し、従来の1時間に逆戻りした[238]。
続いて2次が1969年(昭和44年)2月の静岡IC - 岡崎IC間(131.6 km)、3次が同年3月の厚木IC - 大井松田IC間(22.9 km)、御殿場IC - 富士IC間(37.8 km)である[236]。最後となった4次の大井松田IC - 御殿場IC間(25.8 km)では、足柄SAで記念式典が行われた[239]。1969年(昭和44年)5月26日、式典会場には名神の建設以来、調査や技術指導に当たったワトキンス、ドルシュ、ソレデンガーの3名も出席し、ワトキンスは祝辞で「日本の高速道路は信じがたいほどよい」と言った[78]。この日を遡ること約13年前、調査のために来日したワトキンスは、そのレポートで「日本の道路は信じがたいほど悪い」と報告しており、その対局をなす祝辞であった[78]。式典後、担当者が3人を乗せて東名、名神の全線を走破した[240]。
東名は施行命令が下されてから僅か7年という短期間で全線開通に至った[241]。内務省土木局が東京 - 神戸間に的を絞った調査時点(1943年 - 1944年)から足かけ25 - 26年目のことであった[4]。約350 kmの長きに渡る距離を7年で完工できた背景には、名神建設時に比べて効率性が向上したこともあるが、環境・公害問題、文化財保護運動がまだ表立って叫ばれていない頃の計画であったことも一要因である。東名では地権者と自治体への対応で済まされたが、あとに続く道路では、周辺住民や環境保護団体への対応も加わり、圃場整備、河川事業、交差道路等について関係機関との協議、調整も複雑化したことから、工期は長期化することになった[242]。
開通により、東京 - 名古屋間の移動が従来の国道1号で約9時間半を要したものが、開通後は5時間弱と概ね半減した[243]。また、総工費3,425億円(工費2,302億円、用地等補填費943億円、その他180億円[244])は、1968年(昭和43年)の第1次開通から数えて23年目(1990年)に償還する計画とされ[245]、これは予定通り、1990年(平成2年)7月に完了した[246][247]。
東海道メガロポリスの形成
かつてワトキンス調査団はその報告書で、名神においてトラック輸送を活用した様々な経済効果を予測した[248]。しかし、名神が開通しても普通トラックの需要は予測を大きく下回り、主として乗用車主体の利用であって、ゆえに「閑古鳥鳴く観光路線」と皮肉られた[249]。ある評論家に至っては「経済発展につながらぬ高速道路という大名道路は、スピード気違いに遊び場を提供しているようなもので、名神高速道路を利用する貨物自動車は予想の2割も通行しておらず、もっぱら観光用である」と述べている[250]。調査団のレポートに期待した道路計画者の胸算用は全く裏切られ、「まぼろしの便益計算」であったと批判された[251]。加えて、高速道路の効果そのものに悲観論が唱えられたが、これは折からの東海道新幹線の好成績が、名神の不振とあまりに好対照であったことによった[252]。
昭和30年代はモータリゼーションの進展の時代と言われる。しかし、それは厳密には貨物自動車による貨物輸送のモータリゼーションであって、乗用車のそれではない。名神開通直前の日本の乗用車と貨物自動車の比率は1 : 3と少なく、乗用車と貨物車の比率が逆転するのは1971年(昭和46年)である[253]。名神はその貨物を当て込んだ高速道路であったが、利用が見込みを大幅に下回り、かえって当時少なかった乗用車の利用が目立つ結果となった。貨物利用が見込みを下回った原因の一つが料率が高額であったことによった。この問題は国会を巻き込んで議論され、普通貨物自動車の料率を11.5円から9.5円に引き下げることで決着を見て、1966年(昭和41年)4月から施行された[189]。これにより、トラック需要が増加傾向を示し、1967年(昭和42年)からは当初の予想交通量を上回り始め、ここに調査団の便益計算がいよいよ現実化してきた[254][255]。それでも普通トラックの需要はまだ予想を下回ったが、その理由の一つに、名神のみの開通ではいかにも中途半端で、小牧で東名と直結することではじめて物流の効果が発揮されると考えられた[252]。この流れを受けて東名が開通し、東京 - 名古屋 - 大阪を結ぶ新しい物流動脈が形成された。
東名の開通に先立って計画された全国総合開発計画は、太平洋ベルト地帯の過密緩和と地域格差の減少をうたい文句にしたが、蓋をあけてみれば、東京、名古屋、大阪への人口と産業の集中は止まず、低開発地域の開発も思うにまかせない状態であった。このときの分散政策の反省を含めて[260]、東海道メガロポリス構想が建築家の丹下健三によって提唱された[261][注釈 12]。
全国総合開発計画を受けて丹下が危惧したのは、首都圏、近畿圏、中京圏の三大都市群と、北海道、東北、北陸、中国、四国、九州などが個々の勢力圏の縄張り争いに固執して、一つの有機体であるべき日本が輪切りに分断されることであった[263]。およそ各自が連携しないこうした都市の姿を丹下は求心的、分散的であるとして、国土の高度の情報的連結を不可能にすると考えた[256]。勢力圏が競争する限り、こうした状況は改善されない[256]。むしろ日本は一つでよいという考えの下、丹下は1955年(昭和30年)から1960年(昭和35年)までの東海道地域の固定資本形成に着目した。それは、この五年間で資本形成と人口が東海道地域に地滑り的に流動していることを示すデータで、ゆえにこの地域を一つの有機体として捉え、東京、名古屋、大阪という三つの中心ではなくて、その地域一帯を一つの都市地域と考えるべきであるとした[264]。この一体的な巨帯都市を日本の中枢神経と見立て、そこから東北、北海道、瀬戸内、九州へと手足を伸ばしていく神経系統を想定したが[264]、この東海道における巨帯都市を丹下は「東海道メガロポリス」と名付けた[265]。
東海道メガロポリスが一つの都市であるのは、情報的つながりが圧倒的に強いためで、つながりを強固にするものが東海道新幹線、名神、東名高速道路である。この三つを合わせれば、東京 - 大阪間を一日で三十万人が流動する。それも、新幹線で3時間、東名、名神で9時間[注釈 13]で結ばれ、大量の人口がわずかこれだけの時間で流動することで、東海道メガロポリスはすでに一日行動圏に入った一つの都市地域であるとした[267]。こうした形態もやがて21世紀に入れば、さらなる交通ネットワークの整備拡充とコミュニケーションツール(携帯電話、テレビ電話等[268])の発展により、日本全体を一つの都市地域と考えるエクメノポリス型(分散型)に移行して、日本中のどこにいても必要かつ十分の情報が得られると丹下は想定したが、少なくとも二十世紀後半はその役割を、まず東海道メガロポリスが担うことが現実的であるとした[269]。
なお、丹下は東海道メガロポリスの構成地域を1都2府8県としたが[270]、以下で解説する地域は、東京、千葉、埼玉、神奈川、静岡、愛知、大阪、兵庫、岐阜、三重、滋賀、京都、奈良、和歌山を指す[271]。これらの1都2府11県の全国に占める面積はわずか2割に満たない。しかし、1967年(昭和42年)時点で、総人口が日本全体の約半分を占め、地方の過疎化を尻目に全国労働力の9割を飲み込み[272]、工業出荷額と商店販売額では約7割、全国銀行の貸出残高で8割[273]、自動車保有台数で5割以上、貨物の年間輸送量では、自動車で5割、鉄道では3割を占めるなど、日本経済の中枢であり、将来の日本経済発展の指導的立場を担う地域でもある[274][271]。そうした東海道メガロポリスの発展を伸長する意味で、東名には多くの期待が寄せられた[275]。
東名開通前から、東名が及ぼす効果はある程度予測されていた。東海道メガロポリスに占める人口と工業・商業生産高、自動車保有台数を分析すれば、おのずとそこを貫く幹線高速道路の効果が解るからである[274]。なお、東海道新幹線が成功した要因も、国鉄技術陣の技術力と並んで東海道メガロポリスの地勢が大きく影響している。日本一の経済圏である首都圏と第2位の関西圏、第3位の中京圏に割って入り、その中間には人口第10位の静岡県を挟む。車窓から見ても密集市街地が連続する光景は世界有数のもので、アメリカ大西洋岸の巨帯都市ボスウォッシュでさえ、当時の東海道ほど人口が稠密ではなかった[276]。
開通前から既に、東名が発揮する効果を見越して、沿道には工場の新設が立て続けに行われたが、これは従来、集中化の一途をたどってきた工業地帯が分散化の傾向を示すものであった。つまり、既成工業地区が過密になって、もはや拡張の余地がなく、公害等の問題も絡んで、大スペースを必要とする工場は地価の安い[4]、未開発の内陸部に展開する方向性を示すことになった[278]。また、敗戦後の日本における復興は、まず三大臨海工業地帯(京浜、阪神、中京)が先導し、その産業形態は、鉄鋼、石油精製、造船、肥料等の重化学工業であって、臨海部に縛られる業態であった。続く昭和40年代に入ると、産業も高度化して機械組立産業と、それに関連した金属加工業が台頭し、これは内陸部に立地展開可能な業態である。臨海から内陸へと国土の全面に渡って展開するこうした工業立地の変化を勢いづけたのが、東名・名神によって工業立地適正が高まった東海道メガロポリスであった[279]。
農業でも大変革が予想された。東名の高速輸送によって農地と東京、名古屋、大阪という大消費地の台所を直接結びつけることで、新しい傾向が期待された。実際、大消費地に供給する農作物の商業的農業への転換が開通後には目立って増えることになった[280]。また、農産物は鮮度が命であり、軟弱野菜や高級果実、切花や花卉、家畜の生体輸送等の鮮度低下率の大きいものほど、時間短縮効果と安定走行が約束できる東名の利用効果は高い[281]。これは高速道路の利用による時間節約の利益であり、鮮度を要求する品物では、早く届けられるほど市場で高い値が付いて目立った利益が期待できるほか、これまでは遠くて手が届かなかった有利な市場にまで売り込むことさえ可能となる[282]。しかし、特に大きな変革が予想されたのは物流であった。東名、名神直結による時間短縮効果によってトラックのワンマン運転が可能となり、大都市の中間地点にはトラックヤードが整備されたほか、幹線輸送と結びつけるために、都市近郊の厚木、小牧などには流通センターの整備が計画された[4]。こうした効果の具体例を以下に列挙する。
東名は開通当初から主にトラックの交通を受け持ち、企業立地に大きな変化をもたらすことになった。それまでは臨海部主体の工業立地であったが、沿線内陸部へと移る契機を与えた。それは、京浜工業地帯から厚木・相模原へ、駿河湾工業地帯から沼津・富士へ、中京工業地帯から小牧への立地展開である。これらの工業団地は東京など大都市への便を意識しており、東名の開通が与えた変化の一つである[4]。特に神奈川県の場合、工業は元来、横浜港を中心とした臨海工業地帯における重化学工業であった。ここは沿岸部に東海道本線、国道1号が走り、それに沿って細いベルト状に工業が密集していたが、もはや飽和状態であった。しかし、国道246号と小田急線に沿う内陸部は未開発地帯で、そこに東名がもう一本の太いベルトを作り上げた。そこには、相模原、厚木、海老名、座間があって、東名が着工された頃からこの地域には工場の新設が相次いだ[203]。そのうちの一つである厚木市の場合、元来は国道1号から遠いことで工業化が立ち後れて農業主体であったが、東名の整備によって一変した。インターチェンジ付近には工業団地が整備され、企業の立地が急速に進行した結果、製造業の出荷額は開通以来12年間に7倍以上の伸びを示し、就業人口も全国平均を上回る大幅な伸びを示した[284]。
こうした分散化は工場が内陸へと移動するだけにとどまらず、分業面でもその兆候を示した。元来、工業地帯内に研究、開発、生産工場、荷役がまとめて置かれていたが、大スペースを要する大量生産工場を同一敷地に置くことは得策ではない。大企業は将来の工場の拡張、福利厚生施設の拡充や公害防止等の対策によって広大なスペースを必要とするからである。さらに、大企業は激しい技術革新と消費者の好みの変化の波にさらされ、研究、開発部門の拡充が要請される。よって、従来の既成大工業地帯はそのことに特化し、量産化の目処が立った製品の生産ラインは地方の新工場に移す流れが顕著となった[285]。つまり、大企業を中心に大都市周辺と地方における機能分散が進むことで、両者をつなぐ流通はより太く、迅速にならなければならない。こうした合理的な機能の地理的分散を促進するうえで東名は力を発揮する[286]。
東名の名神直結によって、いよいよ高速道路の流通に対する影響が顕著となってきた。東海道は東名開通前からトラックによる長距離輸送を大々的に行ってきた。東名開通前の国道1号は、東京 - 大阪間の走行に約16時間を要し、ゆえに二人体制の運行であった。しかし、高速輸送を約束する東名の開通によって、それは9時間に短縮された。さらに東名は15トン大型トレーラーの安定走行が可能で[287]、それを見越してトラック業界は次々と大型トレーラーの導入に踏み切り[288]、併せて東名の主要インターチェンジ付近の土地を買い漁ってトラックターミナルを建設した[287]。トラック輸送は東名利用による高速化、トラックの大型化による大量の貨物の運搬によって、従来の国道1号ではなし得なかった、大量大型の方向へと突き進んだ[287]。トラック輸送が大量大型の方向へ向かわざるを得ないのは、運転手の賃金の上昇と絶対的人数の不足から来る輸送原価上昇を抑制するためである[289][287]。この条件下で今後要求されるのは、人間の節約である。そのために東名・名神の高速輸送による時間の節約により、二人体制を一人体制に移行させ、大型トレーラーによる大量輸送は、高い積載効率によって普通トラック数台分の貨物を一台に集約できることにより運転手の削減に寄与する[287][289]。また、高速運転によりトラックの回転率の向上につながり、輸送キロ当たりの固定費の減少をもたらす[290]。つまり、トラックが早く走ることによって、貨物1回あたりの輸送時間が減れば、浮いた分の時間を使ってさらに別の輸送を行うことができる(回転率の向上)。これによって、一回当たりの運行に発生する人件費、施設費、税金、保険料、一般管理費などの固定費が節減できる[282]。こうした大量・高速の大型トラックによる輸送は東名・名神が受け持ち、都市内と高速道路インターチェンジ付近までの輸送は普通トラックが受け持つという、トラックターミナルを中継点とした輸送の機能分化も現れてきた[291]。
今ひとつの高速化のメリットは、企業側の在庫の減少と、それに伴う金利負担の軽減をもたらすことである。輸送が迅速かつタイムリーに行われるならば、在庫を沢山抱えておく必要はなく、電話一本で持ってこさせることができる[282]。高速道路は迅速化と絡めて在庫削減を可能にしたが、それを有効活用したのがトヨタ自動車である。豊田市等の三河地域に完成車工場を構えるトヨタ自動車は、東名、名神開通によるトラック輸送革命を利用し、ジャストイン配送を実現した[5]。これにより、三河にある完成車工場からおよそ遠く離れた工場からでも部品の調達が可能となって広域的分業を成し遂げると共に、部品の流れは完成車組立ての流れと同期することで余分な在庫を持たないことから、全行程のトータルコストの切り下げをも実現した[292]。
農業で見ると、大消費地たる都市と農村との時間的距離が大幅に短縮されたことで、土地生産性の高い商業的農業への転換が進んだ。このうち、愛知県の東三河地域は1960年台までは交通や水利で恵まれず、主として甘薯や麦を半農半漁で営む地域であったが、豊川用水の完成と東名の開通とも相まって作柄の転換が進んだ。これは、東京、大阪などへの大消費地へのアクセスが確保され、これが市場拡大につながったことで、花卉に見る商業的農業を展開することが可能となったことによる。さらに、東名利用で東京と4時間で結ばれることにより、前日21時までの注文が入れば、翌朝までに商品を届けることが出来るなど、きめ細かい出荷調整が可能となった[293]。例えば渥美半島産の電照菊は、輸送のほぼ全てを豊川ICから東名を通して東京市場へ運ばれ、冠婚葬祭に利用されている。特に東名利用による時間短縮効果によって、収穫、選別、荷造りの行程に余裕が出ることで出荷量の拡大につながり、併せて新たな市場開拓をする余裕さえ生まれた[294]。同じ東三河地域に属する三河港も東名開通の恩恵を受けた。やはり、東名によるアクセスの良さと、首都圏と近畿圏の中間に位置し、周辺の産業集積なども評価されて外資系自動車メーカーの輸入基地が整備された。この結果、三河港は日本一の自動車輸入港となった[293]。
東名の開通によって、大都市へ運ばれる地方からの生鮮食品の数が増した[295]。首都圏人口に対して食料を供給する東京中央卸売市場は、そこへ輸送される貨物のほぼ全てが自動車で運ばれ、ことに高速道路の果たす役割は大きい。高速道路を乗り継いで西日本各地から運ばれる貨物は、最終的に東名利用で東京に至り、ゆえに東名が首都圏の食料を運ぶ大動脈となっている[296]。東京中央卸売市場に占める東名利用で運ばれてくる水産物のシェアは、開干あじが90 %、冷凍マグロが70 - 85 %、野菜類では、フキやワラビが季節によってはほぼ100 %となっており、観葉植物は、ポトスが90 %、アロエが83 %である[296]。
静岡県袋井市や菊川町の畜産飼育農家の場合、東名開通後に子豚の飼育頭数を増やして生産規模の拡大を図った。東名の利用によって袋井の家畜市場への輸送が楽になったほか、市場から子豚が東名を使って京浜、大阪方面へ運ばれており、東名の効果で取引が活発化して価格の安定化がもたらされた。なお、市場からの子豚の輸送は100パーセント東名を利用している。これは農産物に比べると、消費地と産出地との距離が長いために、高速道路の利用率が高くなっているためである[297]。
清水港は東名開通後に大きく発展した。マグロ流通は元来、築地岸壁にマグロ船をつけ、市場動向をにらみながら適当な量を水揚げする方法が採用されていた。それは、マグロ船のみマイナス65 ℃まで冷却可能で、倉庫や輸送トラックの冷却能力はマイナス30 ℃程度が限界で、長期保存が不可能であったためである。しかし、冷凍能力向上と東名開通により冷凍マグロの出荷体制を新たに構築したことで、清水港は冷凍マグロの重要拠点となった。そのシェアは6割以上で、日本一となっている[298]。これ以外にも清水港は、東名開通によって工業製品の輸出額が7倍の伸びを示した。それは清水港から遠く離れた浜松における内陸コンテナ基地(インランド・デポ)の影響である。浜松市は工業出荷額が静岡県内最大であるにもかかわらず、浜松近郊には輸出港がないため、その対策として東名開通にあわせて輸出貨物のコンテナ詰めと輸出手続きを行う内陸コンテナ基地を整備した。コンテナは東名を介して清水港まで輸送される[298]。なお、清水港に近接する焼津港の場合、東名開通前は水揚げしたカツオの出荷先は全て静岡県内であった。しかし、東名開通後は県内向けは減少し、2005年(平成17年)時点では、大都市向けが57パーセントを占めるまでになった[299]。
こうした効果もあって、東名の開通前後から東海道メガロポリスの形成は急速に進行した[249]。1973年(昭和48年)の東海道メガロポリスの製造付加価値額は、日本の生産量の56パーセントを占め、日本の生産の半分以上を受け持つまでになった[279]。しかし、高度経済成長も頂点を極めた昭和40年代後半に至り、この巨大な経済圏を東海道メガロポリスだけに詰め込むことは不可能となったことで、東北自動車道や関越自動車道などの整備により、東海道に集中していた工業は、やがて東北をはじめ全国に分散していくことになった[279]。この全国展開の先駆けとしての東海道メガロポリスの発展に、東名、名神は重要な役割を果たした[279]。
その後の東海道メガロポリスは、全国への産業分散を尻目にさらなる人口、立地事業所数の伸びを示した。神奈川、静岡、愛知の3県における東名のインターチェンジから30分圏内の人口増加率は著しく、東名開通以来、3県内に71か所の事業所が造られているが、その内の三分の一が1986年(昭和61年)以降に造られている。沿線の開発、発展を支える東名の役割はさらに増している[300]。
混雑緩和対策
三大経済圏を結び、工業・商業の密集地帯を結ぶ東名・名神の輸送量は暫時増加したが、やがて東名の容量の限界を超え、特に大都市圏や線形が厳しくトンネル区間が多い山間部では渋滞が散見され始めた[301]。これにより、高速道路の機能である高速性、定時性、安全性を図ることが困難となってきた。加えて休憩施設の混雑も著しく、平日夜間には大型車の駐車スペースが不足し、休日にはレジャー目的の小型車のスペースが不足するという事態に直面した[302]。休憩施設については、園地や緑地を駐車マスに切り替える工事で急場をしのいだが[302]、本線については渋滞箇所や事故多発地点など多角的に検討し、各インターチェンジ区間毎に改築の必要性と緊急性を精査した結果、大井松田IC - 御殿場IC間を選定し[302]、1982年(昭和57年)1月開催の第26回国土開発自動車道建設審議会にて整備計画の策定に至った[303]。
改築では往復4車線を6車線化するが、一般的な拡幅方法である4車線の両側に1車線ずつの拡幅が全区間では叶わなかった。特に東名酒匂川橋のような高い橋脚の橋と、都夫良野トンネルと吾妻川トンネルを拡幅することは困難であり、さらに国鉄御殿場線並行部では、拡幅しようにも住居地が崖下に密集することで、大井松田IC - 御殿場IC間25.3 kmのうち、両側拡幅はわずか5.1 kmで、それ以外の20.2 kmは別線で建設されることになった。この別線のうち、9.1 kmは既存の4車線の北側の崖を削って新たな3車線道路を並行して造り、残りは既存道路とは完全に離れたルートとされた[304]。増設線は事故減少を目的に平面曲線半径の改良が図られたが、並列区間では既存道路に沿う関係上、既存道路の線形と類似した線形を用いざるを得なかった[305]。増設線は地形上、北側に位置し、大井松田ICにおいて上り線に連結することから、必然的に増設線は上り線として使用する。よって、既存道路(上下4車線)は下り方向運用に反転し、増設線は上り方向3車線運用となった[306]。供用は1991年(平成3年)からである[307]。
東名の渋滞対策はこれだけにとどまらず、インターチェンジ料金所ブースの増設と流出ランプウェイの2車線化、一般道路との接続方法変更、新出口の新設[308]、本線では厚木IC - 大井松田IC間の6車線化[307]、静岡IC - 焼津IC間の日本坂トンネル部の線増など矢継ぎ早に対策が打たれた[309]。
このうち、横浜ICは特に渋滞が酷く、連絡する国道16号との合流に端を発した渋滞は、料金所の容量不足でさらに増幅し、それがランプウェイを遡って本線まで及ぶに至り、最終的に本線を通過する車両まで渋滞に巻き込まれた。開通前における当ICの予想された出入交通量46,000台(日換算)に対し[310]、渋滞が深刻化した1988年(昭和63年)時点では67,000台であった。当ICはその交通量の多さからダブルトランペットで計画され[311]、このため、国道16号との取り付けは立体交差であるが、ICの前後にある交差点(国道246号交差点、県道18号交差点)による信号待機の車列に東名からの流出交通が合流することで、ダブルトランペットの効果が消失していた。公団は料金所ブース増設と、ランプウェイの2車線化、付加車線設置により、それなりの効果をあげたが根本的解決には至らなかった[312]。この時点で公団は追加ICの必要を認め[312]、これはのちに横浜青葉IC設置へと至った[313]。この結果、国道246号の立体交差完成とも相まって、横浜IC、東名川崎ICの出口渋滞件数は大きく減少した。本線流出入もスムーズとなって、本線の平均速度が3パーセント向上した[314]。なお、横浜青葉ICの供用を前に、横浜市内に東名のインターチェンジが2か所になることを踏まえ、利用者への誘導を適切に図る必要から横浜ICは1997年(平成9年)4月1日をもって横浜町田ICに名称変更された[313]。
東名の運用開始後、首都圏の交通量の伸長が著しく、渋滞が御殿場付近まで達するに及んだ。そこで、厚木IC - 大井松田IC間の拡幅を行い、1995年(平成7年)までに往復6車線化された[307]。当該区間は、大井松田IC以西の区間と異なり、全区間上下線の両側に1車線ずつ付け足す方式を採用した[315]。
静岡県通過区間のうち、日本坂トンネル坑口を先頭とした交通集中による渋滞が、年間250回以上という高頻度で発生している状況を鑑みて路線増設を計画した[316]。対象区間は、静岡IC - 焼津IC間(11.8 km)で、この内の日本坂トンネルを含む4.5 kmについて、既設の本線(往復4車線)の海側に新たに片側3車線の本線を新設し、既設道路は下り線を上り線に反転した上で、片側4車線の上り専用として運用することにした。また、上り線の場合、日本坂PAから静岡ICまでを3車線(トンネル部4車線)、下り線はトンネル手前から焼津ICまでを3車線化した[317]。トンネル部の運用開始は1998年(平成10年)3月27日である[318]。
代替ネットワーク構築
当初予想された計画交通量を上回る急激な需要増から混雑が目立ってきたことで、1971年(昭和46年)4月には、第二東名高速道路の計画が立ち上がり、建設省が調査を開始した[320]。しかし、地形的な難易度が高いこともあって計画は停滞した[321]。
1980年代後半になると、東名の1日の平均利用台数は約33万台、1日の平均断面交通量は7万台弱となった[249]。これは、開通当初の平均断面交通量21,000台と比較して3倍強という増加量である[322]。また、日本の全道路貨物輸送量(トンキロベース〈輸送重量×輸送距離〉[72])の約12パーセント、全道路輸送旅客量の2パーセントを受け持ち[249]、全国高速道路の料金収入の22パーセントは東名からのもの、路線延長でいえば、全幹線道路(高速道路、一般国道、都道府県道)の総延長のわずか0.2パーセントに過ぎない道路が、これほどの物量を担うまでになった[249]。
路線改良によって一部の混雑は緩和されたとはいえ、東名全体の交通量は増加の一途を辿った。東名は東海道の工業、流通、農業などに好影響を与えたが、それは高速道路を使った高速性と時間短縮効果を前提にしたもので、渋滞がやがて恒常化するに及び、定時性というメリットが失われることから輸送時間の不規則化による非効率、輸送コスト増大が深刻化してきた[323]。加えて、1979年(昭和54年)7月に発生した日本坂トンネル火災事故や由比地区における高潮の影響で東名が通行止めとなった際は、経済活動に甚大な影響を与えた。特に日本坂トンネル火災事故による仮復旧までの約一週間、通行止になって生じた影響は、日本の物流が高速道路の存在を前提にしていることを如実に知らしめた[324]。滞ったトラック輸送は並行する国道1号に流れたが、概ね40 kmにのぼる大渋滞となって物流は停滞した。流通の停滞により、スーパーに食料品が届かず、品薄になって値上がりするなど、市民生活に大きな影響が現れ、工業面でも、部品が届かないことで工場生産が止まるなど、経済に深刻な影響を及ぼした[325]。見かねた警察庁が、静岡、神奈川、愛知の3県警察に渋滞解消を命じ、安全面で抵抗する公団の反対を押し切って、事故後一週間で仮復旧させるに至った。この日本坂の事故がいろいろな方面に影響を及ぼしたのは、それだけ日本経済に占める高速道路の比重が大きいからに他ならず、それは東名を軸に東海道メガロポリスの物流システムが構築されたものの、その軸が機能不全に陥った場合はシステムそのものがたちいかなくなることをこの事故は如実に示した[324]。
東海道の物流を背負って立つ高速道路が東名、名神の1本だけでは、非常時の通行止めにより、動脈が切れて経済を大混乱に陥れる[324]。よって、渋滞解消のための交通量の分散と、代替ネットワークの構築は、関係者の間では喫緊の課題として認識されたが、政府の反応は鈍く[326]、ようやく第二東名建設の端緒についたのは1987年(昭和62年)6月の第四次全国総合開発計画(四全総)の閣議決定であった。同年9月に国土開発幹線自動車道建設法が改正され、第二東名は正式に計画に盛り込まれた[163]。
第二東名に施行命令が下された直後の1995年(平成7年)、阪神・淡路大震災が発生し、阪神高速道路はじめ国道2号など幾多の交通が集中している所が大地震によって寸断され、物流が麻痺した。影響を受けた貨物総量は日換算117万トンで、その全てが兵庫のみで完結する訳ではない。それは、九州で水揚げされた水産物を大阪、東京へ輸送する途中のトラックや、中京圏から中国、九州地方へ輸送される自動車、あるいは電子機器輸送など、阪神地区を通過する貨物だけで1日22万トンに達し、その輸送に使われる道路が震災によって寸断されたことで、影響はかなりの広範囲に及んだ。これにより企業は輸送手段を失い、部材供給が滞ったことで、工場生産に多大な影響を与えた。トラックは迂回ルートを求めて日本海側の限られたルートや、海上輸送に殺到し、特に大阪や九州のフェリーターミナルでは長距離フェリーを求めてトラックが集中し、乗りきらないトラックの積み残しが長期間続いた[327]。この被害によって物流がライフラインそのものであることが改めて認識されるに及んで、各界からリダンダンシー論が急浮上した。これは「冗長性」「多重性」を意味し、危機管理に使われる言葉である。一本の道路に頼るよりも代替輸送ルートを整備し、非常事態に備えようとする動きがこの地震以降、強まることになった[328]。東名においても予測される東海地震等に備える意味もあって、第二東名の整備が急がれることになった[329]。
新東名(第二東名からの改称)が開通したのは2012年(平成24年)4月で、御殿場JCT - 三ヶ日JCT間約160 kmの区間で東名とのダブルネットワークとなったことで、同区間における東名の混雑は著しく減少した[330]。続く2016年(平成28年)2月の浜松いなさJCT - 豊田東JCT間の開通も、並行する東名の渋滞解消に大きく貢献した[331]。
年表
- 1951年(昭和26年) : 東京 - 神戸高速自動車道調査を再開[332]。
- 1952年(昭和27年)
- 1956年(昭和31年)5月19日 : ワトキンス調査団来日[333]。
- 1958年(昭和33年)3月19日 : 松永安左エ門の私設シンクタンク「産業計画会議」が東京 - 神戸間 高速道路の建設を政府に勧告[35]。
- 1960年(昭和35年)7月25日 : 東海道幹線自動車国道建設法施行[13]。
- 1962年(昭和37年)
- 1963年(昭和38年)
- 1964年(昭和39年)4月22日 : 世界銀行との間で日本道路公団第4次借款の調印(豊川 - 小牧間)50,000千USD, 金利:5.5%, 期間:25年(据置期間:5年)[187]。
- 1965年(昭和40年)
- 1966年(昭和41年)
- 1968年(昭和43年)4月25日 : 東京IC - 厚木IC間・富士IC - 静岡IC間・岡崎IC - 小牧IC間が開通し、小牧ICで名神と接続[338]。
- 1969年(昭和44年)
- 1971年(昭和46年)12月21日 : 首都高速3号渋谷線渋谷出入口 - 用賀出入口間開通により、首都高速道路と接続[340]。
- 1972年(昭和47年)
- 1974年(昭和49年)3月26日 : 浜松西IC開通[342]。
- 1977年(昭和52年): 足柄SA上り線に高速国道初の仮眠休憩所であるレストイン足柄がオープン[343]。
- 1979年(昭和54年)7月11日 : 日本坂トンネル火災事故発生[344]。
- 1981年(昭和56年)4月25日 : 秦野中井IC開通[345]。
- 1986年(昭和61年)
- 1988年(昭和63年)3月30日 : 裾野IC開通[347]。
- 1990年(平成2年)7月15日 : 世界銀行借款を返済終了[246][348]。
- 1991年(平成3年)
- 1993年(平成5年)
- 1994年(平成6年)12月15日 : 厚木IC - 伊勢原市、秦野中井IC - 大井松田IC間の6車線化完了[315]。
- 1995年(平成7年)4月28日 : 伊勢原市 - 秦野中井IC間の6車線化完了[355]。
- 1997年(平成9年)4月1日 : 横浜ICが「横浜町田IC」に名称変更[313]。
- 1998年(平成10年)
- 1999年(平成11年)4月4日 : 磐田IC開通[357]。
- 2001年(平成13年)10月19日 : 小牧ICで名古屋高速11号小牧線と接続[358]。
- 2003年(平成15年)
- 2004年(平成16年)
- 2007年(平成19年)
- 2009年(平成21年)
- 2010年(平成22年)2月27日 : 海老名JCT開通により、圏央道と接続。
- 2011年(平成23年)
- 2012年(平成24年)4月14日 : 新東名高速道路・新東名 清水連絡路・引佐連絡路と接続(御殿場JCT・清水JCT・三ヶ日JCT)。
- 2014年(平成26年)6月25日 : 上り線の海老名JCT - 海老名SA間の付加車線が延伸[362]。
- 2016年(平成28年)
- 2017年(平成29年)3月18日 : 三方原スマートIC供用開始[364]。三方原(みかたがはら)PAが「三方原(みかたはら)PA」に名称変更。
- 2018年(平成30年)3月24日 : 守山スマートIC供用開始[365]。
- 2019年(平成31年 / 令和元年)
- 2020年(令和2年)
- 2021年(令和3年)
路線状況
ルート分岐
下り線の大井松田インターチェンジ (IC) から足柄バスストップ (BS) 付近の間と、上り線の日本坂トンネル (TN) 入口付近と日本坂TN出口付近の間が左右2つのルートにわかれる。ほぼ並行して走っており、距離は左右ルートでさほど変わらない。
大井松田IC - 足柄BSは下り線がほぼ並行した左ルート2車線+右ルート2車線の計4車線、上り線は1ルート3車線となっている。下り線の鮎沢パーキングエリア (PA) は左ルートからしか入れない。右ルートは分岐手前で最右車線(第3車線)から1車線により分岐する形態となっている。また、大井松田ICから下り線に入る場合は右ルートには入れない。
なお、左右ルート分岐直前で「大貨等」の特定の種類の車両の通行区分が解除されているが分岐までの距離が短いため、大型貨物自動車等(重トレーラーを除く)は右ルートには入りにくい[注釈 14]。また、重トレーラー[注釈 15]は車両通行帯#牽引自動車の高速道路等の通行区分などにより原則第一通行帯通行のため、左ルートの全車線が渋滞で最低速度 (50 km/h) 以下、または通行止め等のような場合を除いては右ルートに入ることができない。
現在の下り線右ルートは以前上り線として使用されていたが、交通量の増加などで新たに現在の上り線をまったく別ルートで建設して転用した。途中、鮎沢PAは上り線と下り線左ルートのみに設置されており、下り線右ルートには上り線として使用されていた頃の鮎沢PAの跡地がみられる。
日本坂TN東側坑口付近 - 西側坑口付近は下り線が新築トンネルを利用した1ルート3車線、上り線が従来のトンネルを改築した左ルート2車線+右ルート2車線の計4車線となっている。 この区間の改築完成時には上り日本坂PAは左右ルート分岐付近にあり、PAからの合流車両は強制的に左ルートに入る構造になっていた。現在は日本坂PAが焼津側に移転新築したためにPAを利用してもどちらのルートにも入れるようになっている。また、トンネル東側合流部は左ルートを手前で1車線に車線絞り込みした上で右ルートに合流させる制御をしていたが、現在は手前での車線絞り込み制御を廃止し、右ルートと合流した先で左1車線を減少させる制御方法に改善された。
車線・最高速度
区間 | 車線 | 最高速度 | 設計速度 | 備考 | |||
---|---|---|---|---|---|---|---|
上下線 | 上り線 | 下り線 | 大型貨物等 三輪・牽引 |
左記を除く車両 | |||
東京IC - 横浜町田IC | 6 | 3 | 3 | 80 km/h (法定) |
100 km/h (法定) |
100 km/h | |
横浜町田IC - 大和TN | 120 km/h | ||||||
大和TN | 8 | 4 | 4 | ||||
大和TN - 綾瀬BS | 6 | 3 | 3 | ||||
綾瀬BS - 海老名JCT | 7 | 4 | 3 | ||||
海老名JCT - 秦野中井IC | 6 | 3 | 3 | ||||
秦野中井IC - 大井松田IC | 80 km/h (指定) |
80 km/h (指定) |
80 km/h | ||||
大井松田IC - 足柄SA | 7 | 3 | 2+2 | ※1 | |||
足柄SA - 御殿場IC | 6 | 3 | 3 | ||||
御殿場IC - 御殿場JCT | 80 km/h (法定) |
100 km/h (法定) |
100 km/h | ||||
御殿場JCT - 裾野IC | 5 | 3 | 2 | ※2 | |||
裾野IC - 蒲原TN | 4 | 2 | 2 | ||||
蒲原TN内 | 80 km/h (指定) |
80 km/h (指定) |
|||||
蒲原TN - 薩埵TN | 80 km/h (法定) |
100 km/h (法定) |
|||||
薩埵TN内 | 80 km/h (指定) |
80 km/h (指定) |
|||||
薩埵TN - 東名興津BS | 80 km/h (法定) |
100 km/h (法定) |
|||||
東名興津BS - 袖師TN内 | 80 km/h (指定) |
80 km/h (指定) |
|||||
袖師TN - 清水JCT | 80 km/h (法定) |
100 km/h (法定) |
|||||
清水JCT - 清水IC | 6 | 3 | 3 | ||||
清水IC - 静岡IC | 4 | 2 | 2 | ||||
静岡IC - 日本坂TN | 5 | 3 | 2 | ||||
日本坂TN内 | 7 | 2+2 | 3 | 80 km/h (指定) |
80 km/h (指定) |
||
日本坂TN - 日本坂PA | 6 | 3 | 3 | 80 km/h (法定) |
100 km/h (法定) |
||
日本坂PA - 焼津IC | 5 | 2 | 3 | ||||
焼津IC - 勝間田高架橋付近 | 4 | 2 | 2 | ||||
勝間田高架橋付近→牧之原SA 勝間田高架橋付近←牧之原SA |
下り線 | ||||||
80 km/h (指定) |
80 km/h (指定) |
80 km/h | 上り線 | ||||
牧之原SA - 相良牧之原IC | 80 km/h (法定) |
100 km/h (法定) |
100 km/h | ||||
相良牧之原IC→菊川IC 相良牧之原IC←菊川IC |
80 km/h (指定) |
80 km/h (指定) |
80 km/h | 下り線 | |||
80 km/h (法定) |
100 km/h (法定) |
100 km/h | 上り線 | ||||
菊川IC - 三ヶ日TN | |||||||
三ヶ日TN内 | 80 km/h (指定) |
80 km/h (指定) |
|||||
三ヶ日TN - 宇利TN | 80 km/h (法定) |
100 km/h (法定) |
|||||
宇利TN内 - 新城PA | 80 km/h (指定) |
80 km/h (指定) |
|||||
新城PA - 岡崎IC | 80 km/h (法定) |
100 km/h (法定) |
※3 | ||||
岡崎IC - 日進JCT | 120 km/h | ||||||
日進JCT - 名古屋IC | 6 | 3 | 3 | ||||
名古屋IC - 春日井lC | 4 | 2 | 2 | ||||
春日井IC - 小牧JCT | 6 | 3 | 3 | ||||
小牧JCT - 小牧IC | 4 | 2 | 2 |
- ※1:下り線の車線数は足柄BS - 足柄SA間にある登坂車線を含む。
- ※2:上り線の車線数は登坂車線を含む。
- ※3:下り線の音羽蒲郡IC手前から約4 kmほどの登坂車線あり。
中央自動車道と比べると平地部のルート中心で全体的に直線が多く、概ねの区間が100 km/h制限だが、一部の区間は80 km/hに規制されている。特に大井松田IC - 御殿場IC間は山間部のルートで急勾配や急カーブが連続している。また、大和トンネルを除く全てのトンネルで80 km/hに規制されている。
他の高速道路と同様、雨天・降雪・濃霧・台風などの荒天時、事故や工事などの場合は50–80 km/hの速度規制が行われる。
上記区間以外にも登坂車線、付加車線が設置されている区間がある。特に名古屋市近郊の丘陵地を通る比較的起伏の多い区間ではかなり距離のある付加車線が設置されている。
また、新東名高速道路 浜松いなさJCT - 豊田東JCT間の開通までの暫定的な渋滞対策として、2011年(平成23年)10月から上り線の豊田JCT - 音羽蒲郡IC間、下り線の美合PA - 豊田JCT間の4車線区間で暫定6車線化が行われていた[376][377]。この区間は路肩の幅員が0.75 m、1車線当たりの幅員が3.25 mと狭くなるため、最高速度は60 km/hに設定されていた(車線数が増える直前は緩衝地帯として80 km/hに設定)。2016年(平成28年)2月の新東名開通後に当該区間の渋滞が大幅に減少し、同年秋の東名集中工事で4車線に戻された[378]。
なお、足柄SA - 大井松田IC間の上り線は東名集中工事などの際は同区間を通行止にし、下り線右ルート(旧上り線)を上り線として使用する場合がある。この場合、上り線では鮎沢PAを使用できない。
道路幅員
道路幅員は3.0 m(路肩)+3.6 m(車線)×2(または3)+0.75 m(中央側帯)+3.0 m(中央分離帯)+0.75 m(中央側帯)+3.6 m(車線)×2(または3)+3.0 m(路肩)=24.9 m(または32.1 m)[379]であり、現在の道路構造令において車線や路肩など各部の幅員は0.25 m刻みとなっているが、東名の車線は3.6 mである。これは、当時の日本に高規格道路の明確な基準が無く、車線幅にアメリカで用いられる12フィートを採用したためといわれている[380]。
冬季の通行規制
東京IC - 沼津IC間では降雪時にチェーン規制が実施されることがあり、それ以西の区間ではチェーン規制はなく、降雪時は50 km/h規制→通行止という段階で規制措置がとられる。標高が高い大井松田IC - 沼津IC間や強い冬型気圧配置時に雪雲が流れ込む豊川IC以西では通行止になる場合がある。通行止区間では融雪剤散布などの作業が行われるが、雪が止んでも除雪設備の不足や夜間の凍結により通行止措置が長引く場合がある。
道路施設
サービスエリア・パーキングエリア
概ね50 km間隔でサービスエリアを設けた。50 km間隔としたのは、諸外国の実例、運転による疲労度の限界、車両性能、給油の需要関係等を考慮した結果である[382]。
東京起点で見ると、第1番目のサービスエリア(SA)を30 km地点においた。これは、大都市を出発して最初に必要とされるSAはほぼ30 km地点であろうという考えによっている。35 km地点に位置する厚木ICの東京寄りに置くことが利用効率も高いと判断され、海老名SAはここに置かれた。次いで海老名から50 km離れた場所として御殿場付近が選定され、観光的な出入りが多いことを考慮して御殿場ICの東京寄りに設置された。ここは南に箱根山塊を、西に富士山を望む格好の好適地である。これが足柄SAである。御殿場から50 km離れた地点は富士川町(現・富士市)から由比の区間で、海岸に近いか、トンネルに近いところは場所がよくないため、富士川に面して富士山が望める富士川町を選定した。これが富士川SAである。東京起点とは別に名古屋起点のSAが考慮され、東に向かって最初のSAを概ね20 km地点を選定したが、これが上郷SA(現・豊田上郷SA)である。付近には景観的に優れたところはないものの、地形的に設置が容易であることが選定の理由である。上郷から概ね50 km離れた地点としては、風光明媚な土地柄ということもあって文句なく浜名湖畔に決定され、本線の地形はSAを考慮して決定した。ここが浜名湖SAである。東京と名古屋の双方から決定されてきたSAだが、富士川SAと浜名湖SAの間隔が120 km開くことから、その中間地点に1か所SAを置いたが、これが牧之原SAである。当初は2か所を計画したが、風光明媚なところがないことから1か所に集約し、大茶園に囲まれて高原地帯に位置する牧之原が選ばれた[383]。
SA同士の間には概ね15 km間隔でパーキングエリア(PA)を置いた。PAは景観は考慮せず、工事の容易なところを選定したが、それでも優れた景観が望める場合はそれを考慮した。そのもっともたる例が由比PAで、多少無理をしてでも造成し、細長い駐車場を設けた[381]。
- 東名は全区間を通して交通量が多いために、海岸脇で用地がなく設置困難な由比PA下り線を除く、すべてのサービスエリア (SA)・パーキングエリア (PA) に売店があったが、赤塚PA下り線の商業施設はトイレ建て替え工事に伴い、2017年(平成29年)8月31日をもって閉店となった[384]。また、2019年(平成31年)4月12日に豊橋本線料金所跡地に設置された豊橋パーキングエリアにも売店は設置されていない。さらに2020年(令和2年)5月6日には由比PA上り線のフードコートとショッピングコーナーが閉店となった[385]。
- すべてのSAに24時間営業のガソリンスタンドが設置されているが、PAには設置されていない。
- 富士川SA・牧之原SA・豊田上郷SA下り線以外のSAにレストランが設置されている。
- すべてのSAに電気自動車用の急速充電器設備が設置されている(利用には事前登録が必要)。
主なトンネルと橋
- 東名多摩川橋(東京IC - 東京TB)
- 大和トンネル (横浜町田IC - 綾瀬スマートIC) : 280 m
- 相模川橋(海老名SA - 厚木IC)
- 川音川橋(大井松田IC - 鮎沢PA)
- 東名皆瀬川橋(大井松田IC - 鮎沢PA)
- 吾妻山トンネル(大井松田IC - 鮎沢PA) : 上り線298 m 下り線右ルート347 m 左ルート360 m
- 都夫良野トンネル(大井松田IC - 鮎沢PA) : 上り線1,715 m 下り線右ルート1,656 m 左ルート1,689 m
- 鳥手山トンネル(鮎沢PA - 大井松田IC 東京方面のみ): 842 m
- 太郎ヶ尾トンネル(鮎沢PA - 大井松田IC 東京方面のみ): 708 m
- 北畑トンネル(鮎沢PA - 大井松田IC 東京方面のみ): 328 m
- 桜平トンネル(足柄SA - 鮎沢PA 東京方面のみ): 482 m
- 高尾トンネル(足柄SA - 鮎沢PA 東京方面のみ): 569 m
- 所領トンネル(足柄SA - 鮎沢PA 東京方面のみ): 125 m
- 白旗トンネル(足柄SA - 鮎沢PA 東京方面のみ): 215 m
- 東名酒匂川橋(大井松田IC - 鮎沢PA)
- 東名足柄橋(鮎沢PA - 足柄SA 東京方面) : 370 m(1991年度土木学会田中賞受賞)
- 富士川橋(富士IC - 富士川SA) : 780 m
- 蒲原トンネル(富士川SA - 由比PA) : 上り線704 m 下り線714 m
- 薩埵トンネル(由比PA - 清水IC): 上り線463 m 下り線425 m
- 興津トンネル(由比PA - 清水IC) : 上り線505 m 下り線521 m
- 清見寺トンネル(由比PA - 清水IC) : 上り線780 m 下り線785 m
- 袖師トンネル(由比PA - 清水IC) : 上り線355 m 下り線366 m
- 安倍川橋(静岡IC - 日本坂PA)
- 日本坂トンネル(静岡IC - 日本坂PA) : 上り線右ルート2,371 m 左ルート2,378 m 下り線2,555 m
- 大井川橋(焼津IC - 吉田IC): 850 m
- 天竜川橋(遠州豊田PA - 浜松IC): 1,071 m
- 浜名湖橋(浜松西IC - 浜名湖SA) : 603 m
- 三ヶ日トンネル(三ヶ日IC - 新城PA) : 上り線461 m 下り線366 m
- 宇利トンネル(三ヶ日IC - 新城PA) : 上り線958 m 下り線913 m
- 矢作川橋(岡崎IC - 豊田JCT)
トンネルの数
区間名 | 上り線 | 下り線 |
---|---|---|
東京IC - 横浜町田IC | 0 | 0 |
横浜町田IC - 海老名SA | 1 | 1 |
海老名SA - 大井松田IC | 0 | 0 |
大井松田IC - 足柄SA | 9 | 2 |
足柄SA - 富士川SA/SIC | 0 | 0 |
富士川SA/SIC - 清水JCT | 5 | 5 |
清水JCT - 静岡IC | 0 | 0 |
静岡IC - 日本坂PA | 1 | 1 |
日本坂PA - 三ヶ日IC | 0 | 0 |
三ヶ日IC - 三ヶ日JCT | 1 | 1 |
三ヶ日JCT - 新城PA | 1 | 1 |
新城PA - 小牧IC | 0 | 0 |
合計 | 18 | 11 |
開通時には静岡IC - 焼津IC間に小坂トンネル(長さ270 m)が存在したが、同区間の改築工事に伴い日本坂トンネルに結合された。日本坂トンネル静岡側坑口からわずか60 mしか離れておらず、連続性を持たせた方が安全性を確保出来ると判断されたため、この部分にシェードが造られ1本のトンネルとなった。
大井松田IC - 御殿場IC間は上下線でかなり離れた所を通過するため、上下線のトンネル数も大幅に異なる。新規開設された上り線の方が7本も多くなっている。
景観処理
- 植栽
インターチェンジの修景はIC周辺の環境に配慮した。すなわち、森林、田園、将来は市街地化するのか、等の相違によって、芝生主体、あるいは樹木群を濃密にする、郷土樹木を植える、等の周辺環境との調和を目指した。予定された21か所のICごとに異なる主木を採用できればそれにこしたことはないが、いかんせん346 kmの路線ゆえ、気候風土にそれほどの相違もないことで、ICによっては重複も存在する。なお、ランプウェイから本線に合流する付近の右側は、ドライバーの注意力を妨げないために高い樹木の植栽を禁じた。ICのり面は芝生で被覆し、ランプウェイに沿っては、視線誘導と不安感の除去を目的に低木を密植した[387]。
中央分離帯に対向車のヘッドライトが与えるまぶしさを回避する目的で木を植えている。名神では木の間隔を4 mとしたが、その後の走行試験の結果、6 mにしても差し支えないことから、植栽の本数削減の意図もあって東名では6 m間隔とされた[388]。樹種は萌芽力が強く、下枝の上がりにくい中木、もしくは低木を採用した。なお、沿道の畑の農作物に発生する害虫が、中央分離帯の植物に宿る害虫と一致する場合は、それらの地域から離れた場所に植栽した。つまり、みかんや茶を栽培する地域では、その付近の中央分離帯の木は「さざんか」と「まさき」の植栽は避けて別の樹種を植えている[389]。これらの木はトンネル、橋梁を除いた約260 km区間に16種類、13万本を植栽した[389]。
これ以外では、路傍やサービスエリア、パーキングエリアにも植栽している。一般道路を走る車や交差する鉄道車両からのヘッドライトを遮蔽し、沿道の墓地、火葬場などの遮蔽、目障りな切土区間と盛土区間の境を隠す目的で植栽した。また、トンネルから出た車のドライバーが明るさに慣れていないことから、明るさをブロックするためのトンネル付近の植栽、学校や病院等静寂を必要とする区間では、枝葉が密な常緑樹を植栽した[390]。
- 施設
インターチェンジ料金所(トールゲート)は、名神でデザインされたものを[391]引き続き採用している[392]。現場打ちコンクリート柱に緊結するPC工法で、重量軽減のために肉抜きをおこなって、セルリアンブルーに着色した[391]。
本線の橋の形式は、地形条件、経済条件からのみで決定した。塗装色についても、技術的には耐候性のためであるが、景観面も考慮した。名神よりは明るい色を採用し、審美委員会の意見も取り入れたうえで次の四色が決定した。河川鋼橋は赤色、山間部鋼橋はうす黄茶色、市街地鋼高架橋は緑色、平地・田畑部鋼高架橋はうす黄色である[393]。
サービスエリアは当時を代表する建築家によってデザインされた。その後改変された建築物が少なくないが、以下は当初の状況を述べる。関わった建築家は次の通りである。柳英男(上郷SA)、芦原義信(浜名湖SA)、大高正人(牧之原SA)、清家清(富士川SA)、黒川紀章(足柄SA)、菊竹清訓(海老名SA)[394]。このうち、上郷SA(現・豊田上郷SA)と海老名SAは、東名本線をまたぐオーバーブリッジ型の施設が計画されていた[394]。当時、高速道路とは車が高速で行き来するだけの施設で、よってサービスエリアの機能も、人間の生理的要求を満たす最小時間で満足するものと定義されていた。そこへ建築家達は遊びの空間、憩いの空間、地元との交流空間を主張し、その後のハイウェイオアシス構想を先取りした。こうした先進的な構想も、当時の道路法、施行令に阻まれて実現せず、陽の目を見ることはなかった。これは、道路の権利、占用権に絡むもので、地上、地下数千尺に及び、道路敷地内に建造物を造ることは交通障害になるという理由から、一切許されていなかったためである[395]。こうした当時の建築物でも際立った特徴を有したのが上郷SAで、コマにも似た銀色の円錐状の施設が、傾斜したのり面に対して浮き上がっているような構造が採用された[396]。
走行中、目に飛び込んでくるオーバーブリッジ(跨道橋)は美観上の処理が施されている。東名のオーバーブリッジの数は当初290橋で計画され、その膨大な数を個別に設計することは出来ないので、2、3の標準的なタイプを作成し、これによって対応した[397]。一番の基本をPC斜材付きΠ型ラーメン橋とし、方丈ラーメン橋、V型ラーメン橋が状況に応じて派生している[398]。オーバーブリッジに共通するのは、出来るだけ広々とした感じを与え、見通しもよく、全体的にスレンダーな印象を付与していることである[397]。
道路照明灯
道路照明灯の設置区間は次の通り。
- 東京IC - 御殿場IC
- 裾野IC - 沼津IC
- 静岡IC - 焼津IC
- 相良牧之原IC - 菊川ICの一部、音羽蒲郡IC - 岡崎ICの一部などカーブが連続する区間
連続照明区間の設定基準は1日平均5万台の交通量であり、本来なら東京ICから小牧ICまでの全線に設置されるはずであるが、現状では東京IC - 御殿場IC間、静岡IC - 焼津IC間の(新東名開通やETC割引など後発的要素が発生する以前から)特に交通量の多い区間、または行楽渋滞が多発する裾野BS - 沼津IC間やその他カーブ連続区間など円滑交通の確保の上で特に必要とされる区間のみ設置されている。豊川IC - 小牧ICも京浜地区や日本坂トンネル区間に匹敵する交通量があるが、こちらには連続照明は設置されておらず、現段階で設置する予定もない。また、裾野IC - 沼津IC間は連続照明の設備はあるが日によっては点灯していない場合がある。
なお、1990年代初期まで連続照明区間は都市部である東京IC - 東名川崎ICと急勾配でカーブが多い山北BS - 足柄BS手前(現在の下り線右ルート・左ルートの合流地点)のみであった。1990年代の一部区間の新設および拡幅工事に伴い、上記の区間まで拡大された。
道路管理者
- NEXCO中日本 東京支社
- 横浜保全・サービスセンター : 東京IC - 厚木IC
- 小田原保全・サービスセンター:厚木IC - 大井松田IC
- 御殿場保全・サービスセンター : 大井松田IC - 沼津IC
- 富士保全・サービスセンター : 沼津IC - 清水IC
- 静岡保全・サービスセンター : 清水IC - 浜松IC
- 浜松保全・サービスセンター : 浜松IC - 豊川IC ※豊川IC含まず
- NEXCO中日本名古屋支社
- 豊田保全・サービスセンター : 豊川IC - 豊田IC ※豊川IC含む
- 名古屋保全・サービスセンター : 豊田IC - 春日井IC
- 羽島保全・サービスセンター : 春日井IC - 小牧IC
劣化対策
東名の利用交通は年々増加し、さらには大型車の積載量の増加で重量化が著しく、過積載車が後を絶たない状況にあっては、橋梁床板への負荷が顕著となってきた。既に1970年頃から補修、補強を実施し、舗装の修繕についても、全線開通の翌年から断続的に実施された[399]。
工事による通行規制は渋滞を発生させる一要因である。このため、曜日別、時間別、上下別の交通パターンを分析し、少しでも渋滞発生の少ない時間帯を厳選して工事を行うことになった結果として、夜間、日祭日工事の導入が図られた。そして、夜間工事を行ったとしても、激しい渋滞が予想される区間については集中工事方式を導入している。主として、春と秋に行い、約2週間にわたる1車線規制の中で、補修、維持作業を集中的に行って施行能率を高め、年間を通じて実施される工事件数を減らす取り組みである[400]。
ハイウェイラジオ
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- 東京(東京IC - 多摩川橋付近)
- 横浜青葉(東名川崎IC - 横浜青葉IC)
- 港北(横浜青葉IC - 横浜町田IC)
- 横浜(港北PA - 横浜町田IC)
- 海老名(横浜町田IC - 厚木IC)
- 厚木(厚木IC - 秦野中井IC)
- 伊勢原(厚木IC - 秦野中井IC)
- 秦野中井(厚木IC - 秦野中井IC)
- 中井(秦野中井IC - 大井松田IC)
- 大井松田(大井松田IC - 鮎沢PA)
- 都夫良野(大井松田IC - 鮎沢PA)
- 新鮎沢(大井松田IC - 足柄SA)
- 御殿場(足柄SA - 御殿場JCT)
- 駒門(駒門PA - 裾野IC)
- 裾野(裾野IC - 沼津IC)
- 沼津(裾野IC - 沼津IC)
- 愛鷹(沼津IC - 愛鷹PA)
- 富士東(愛鷹PA - 富士IC)
- 富士(富士IC - 富士川SA)
- 富士川(富士川SA - 蒲原TN)
- 由比(由比PA - 清水IC)
- 清水(由比PA - 清水IC)
- 日本平(清水IC - 日本平PA)
- 静岡(日本平PA - 静岡IC)
- 日本坂(静岡IC - 日本坂TN)
- 焼津東(日本坂TN - 焼津IC)
- 焼津(焼津IC - 吉田IC)
- 牧之原(吉田IC - 相良牧之原IC)
- 相良牧之原(相良牧之原IC - 菊川IC)
- 菊川(菊川IC - 掛川IC)
- 掛川(掛川IC - 袋井IC)
- 磐田(袋井IC - 遠州豊田PA)
- 浜松(遠州豊田PA - 浜松IC)
- 三方原(浜松IC - 三方原PA)
- 浜松西(三方原PA - 浜松西IC)
- 浜名湖東(浜松西IC - 浜名湖SA)
- 浜名湖西(浜名湖SA - 三ヶ日IC)
- 豊橋(宇利TN - 豊川IC)
- 豊川東(豊川IC - 赤塚PA)
- 豊川(赤塚PA - 音羽蒲郡IC)
- 岡崎東(音羽蒲郡IC - 岡崎IC)
- 岡崎(音羽蒲郡IC - 岡崎IC)
- 岡崎西(岡崎IC - 豊田JCT)
- 豊田(上郷SA - 豊田IC)
- 東名三好(豊田IC - 東名三好IC)
- 名古屋(東郷PA - 名古屋IC)
- 春日井(名古屋IC - 春日井IC)
- 小牧(小牧JCT - 小牧IC)
交通量
24時間交通量(台) 道路交通センサス
区間 | 平成17年(2005年)度 | 平成22年(2010年)度 | 平成27年(2015年)度 |
---|---|---|---|
調査当時の新東名 | 開通前 | 御殿場 - 三ヶ日間開通後 浜松いなさ - 豊田東開通前 | |
東京IC - 東名川崎IC | 112,746 | 114,690 | 107,563 |
東名川崎IC - 横浜青葉IC/JCT | 110,523 | 114,053 | 107,469 |
横浜青葉IC/JCT - 横浜町田IC | 106,762 | 113,763 | 109,326 |
横浜町田IC - 綾瀬SIC | 120,679 | 130,425 | 138,067 |
綾瀬SIC - 海老名JCT | |||
海老名JCT - 厚木IC | 128,920 | 145,623 | |
厚木IC - 伊勢原JCT | 84,398 | 90,752 | 100,628 |
伊勢原JCT - 秦野中井IC | |||
秦野中井IC - 足柄SASIC | 77,587 | 83,327 | 93,008 |
足柄SASIC - 大井松田IC | |||
大井松田IC - 御殿場IC | 68,473 | 74,541 | 85,753 |
御殿場IC - 御殿場JCT | 61,580 | 65,328 | 82,153 |
御殿場JCT - 駒門PASIC | 40,276 | ||
駒門PASIC - 裾野IC | |||
裾野IC - 沼津IC | 62,645 | 66,029 | 41,008 |
沼津IC - 愛鷹PASIC | 66,837 | 71,460 | 45,636 |
愛鷹PASIC - 富士IC | |||
富士IC - 富士川SASIC | 64,855 | 69,033 | 42,237 |
富士川SASIC - 清水JCT | 69,226 | 42,482 | |
清水JCT - 清水IC | 47,131 | ||
清水IC - 日本平久能山SIC | 69,756 | 70,134 | 44,970 |
日本平久能山SIC - 静岡IC | |||
静岡IC - 焼津IC | 78,763 | 79,155 | 52,121 |
焼津IC - 大井川焼津藤枝SIC | 73,330 | 75,136 | 49,658 |
大井川焼津藤枝SIC - 吉田IC | |||
吉田IC - 相良牧之原IC | 68,669 | 70,883 | 46,119 |
相良牧之原IC - 菊川IC | 68,733 | 71,861 | 47,536 |
菊川IC - 掛川IC | 67,816 | 71,357 | 46,879 |
掛川IC - 袋井IC | 68,207 | 71,559 | 46,256 |
袋井IC - 磐田IC | 72,480 | 77,141 | 47,276 |
磐田IC - 遠州豊田PASIC | 73,904 | 77,611 | 47,126 |
遠州豊田PASIC - 浜松IC | 77,523 | 47,332 | |
浜松IC - 三方原PASIC | 66,408 | 68,549 | 44,045 |
三方原PASIC - 浜松西IC | |||
浜松西IC - 舘山寺SIC | 64,996 | 66,992 | 43,203 |
舘山寺SIC - 三ヶ日IC | |||
三ヶ日IC - 三ヶ日JCT | 63,368 | 65,246 | 42,075 |
三ヶ日JCT - 豊川IC | 79,519 | ||
豊川IC - 音羽蒲郡IC | 76,625 | 77,353 | 90,891 |
音羽蒲郡IC - 岡崎IC | 87,764 | 89,338 | 105,880 |
岡崎IC - 豊田JCT | 95,937 | 101,090 | 119,167 |
豊田JCT - 豊田上郷SASIC | 69,634 | 56,526 | 57,322 |
豊田上郷SASIC - 豊田IC | |||
豊田IC - 東名三好IC | 81,510 | 69,309 | 67,794 |
東名三好IC - 日進JCT | 87,496 | 75,643 | 72,245 |
日進JCT - 名古屋IC | 88,535 | 77,848 | 77,615 |
名古屋IC - 守山PASIC | 66,019 | 54,972 | 57,105 |
守山PASIC - 春日井IC | |||
春日井IC - 小牧JCT | 69,295 | 56,883 | 57,621 |
小牧JCT - 小牧IC | 89,457 | 76,385 | 76,103 |
(出典:「平成22年度道路交通センサス」・「平成27年度全国道路・街路交通情勢調査」(国土交通省ホームページ)より一部データを抜粋して作成)
2002年度(平成14年度)
- 区間別日平均交通量(全区間平均) : 76,657台(前年度比99.5%)
区間別に見ると横浜町田ICから厚木ICまでが126,614台(前年度比98.9%)で最大である。
- 交通量
- 年間 : 1億5141万6468台(前年度比98.8%)
- 日平均 : 41万4840台
- 料金収入
- 年間 : 2588億5981万6000円(前年度比99.0%)
- 日平均 : 7億920万5000円
他路線と比べた東名の利用の特徴としては、東海道物流の大動脈を担っていることから、夜間でも走行台数があまり減らないことと、大型車の割合が高いことが挙げられる。全区間を通して大都市圏並の交通量があることも特徴となっているが、平成22年度調査では、新名神高速道路の亀山JCT - 草津JCT間が全面開通し、豊田JCT以東と名神・草津JCT以西の間での距離・所要時間が短縮されたため、平成17年度調査に比べ東京IC - 豊田JCT間の全区間で交通量が増加した一方、豊田JCT - 小牧IC間では12,000台程度(率にして15%程度)減少した。新東名御殿場JCT - 三ヶ日JCTが開通した2012年度(平成24年度)の調査では並行する東名の交通量が御殿場JCTを境にほぼ半減している。一方で、未開通区間を中心に横浜町田IC - 御殿場JCT間や、三ヶ日JCT - 豊田JCT間では交通量が増加し、同区間での渋滞が急増した。後者の区間では新東名延伸の2016年までの期間に限り、一部区間で暫定的に車線を増やす措置をとった。
また、高速道路の中では交通量が時間帯・曜日を問わず多く、車線数を増やしても渋滞が年中激しい上に路面等の損傷も早く、車線規制を伴う東名集中工事が、例年10月頃に2週間程の工期で行われている。この際は渋滞がいつも以上に激しくなり、最後尾では大型車が絡む追突死傷事故が後を絶たず、並行する一般道路(国道1号や国道246号)も迂回する車両で渋滞が激しくなる(そのため、NEXCO中日本では集中工事の期間中は中央道の料金を東名並みに調節し、中央道への迂回を促している)。このため、東名は都市高速を除くと「日本一事故の多い高速道路」[402]であり、上記の諸問題を解決するため、新東名の建設が進められている。
渋滞
小田原厚木道路や保土ヶ谷バイパスなど、利用の多い接続路線からの車が集中する横浜町田IC - 海老名JCT間は交通量が非常に多く、同区間にある大和トンネル付近・綾瀬BS付近を先頭とする渋滞が土曜・休日に頻発している。また、2009年(平成21年)3月28日から始まった「高速上限1,000円」の影響により、それまで大型連休時のみ渋滞発生地点となっていた沼津IC - 富士IC間の中里BS付近、富士IC - 清水JCT間の松岡BS付近、吉田IC付近をはじめとするほぼ全区間で週末に渋滞が発生するようになった。このほか、平日朝を中心に首都高速3号線上りの渋滞が東京ICを過ぎて東名上りへ延びてくることもある。
地理
通過する自治体
接続する高速道路
- 首都高速3号渋谷線(東京ICで直結)
- C3 東京外かく環状道路(東名JCTで接続 : 事業中)
- 川崎縦貫道路(II期)(宿河原JCTで接続 : 調査中)
- 首都高速神奈川7号横浜北西線(横浜青葉JCTで接続)
- 保土ヶ谷バイパス(横浜町田ICで接続)
- C4 首都圏中央連絡自動車道(海老名JCTで接続)
- E85 小田原厚木道路(厚木ICで接続)
- E1A 新東名高速道路(伊勢原JCTで接続)
- 厚木秦野道路(秦野中井ICで接続 : 計画中)
- E1A 新東名高速道路(御殿場JCTで接続)
- E70 伊豆縦貫自動車道(沼津ICで接続)
- 西富士道路(富士ICで接続)
- E52 新東名高速道路清水連絡路(清水JCTで接続)[注釈 17]
- E69 新東名高速道路引佐連絡路(三ヶ日JCTで接続)[注釈 17]
- 三遠伊勢連絡道路(三ヶ日JCTで接続 : 調査中)
- E1A 伊勢湾岸自動車道(豊田JCTで接続)
- 名古屋瀬戸道路(日進JCTで接続)
- C2 名古屋第二環状自動車道支線(名古屋ICで接続)
- E19 中央自動車道(小牧JCTで接続)
- 名古屋高速11号小牧線(小牧ICで接続)
- E1 名神高速道路(小牧ICで直結)
ギャラリー
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多摩川にかかる東名多摩川橋。東京IC - 東京TB
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厚木市付近、相模川にかかる相模川橋。横浜町田IC - 厚木IC
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下り線、厚木IC付近。背後は大山
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大井町付近。秦野中井IC - 大井松田IC
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下り線都夫良野トンネル付近。上の高架橋は上り線。大井松田IC - 御殿場IC
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山北町付近。大井松田IC - 御殿場ICにある半径300 mの急カーブ
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静岡県富士市からの富士山
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富士川サービスエリアから見た東名富士川橋と富士山
-
静岡市清水区薩埵峠から。海側が東名。山側は国道1号。
-
名古屋IC付近で名古屋市営地下鉄東山線と交差。
-
小牧市内。名古屋高速11号小牧線の下をくぐり、終点の小牧ICに到達する。
脚注
注釈
- ^ 距離測定:キョリ測(ベータ)
- ^ 1959年時点では「東名高速道路」という名前はなく、「東海道第二国道」が東海道自動車専用道路の通称であった(『朝日新聞』1959年8月22日朝刊、10面)。
- ^ 東京 - 小牧間約295 kmの中に、トンネル総数が209本、その延長は74 kmで、中央道の工費の約半分がトンネル費用である。橋の延長は45 kmで全工費の二割弱。すなわち、トンネルと橋だけで全工費の七割を占める(『朝日新聞』1960年4月3日朝刊、2面)。
- ^ オーエンはワトキンス調査団の一人であった(『朝日新聞』1960年5月10日朝刊、11面)。
- ^ 国土開発縦貫自動車道の路線リストは予定路線としてのそれではなかったことで、予定路線にするには別途の立法を必要とした[58]。
- ^ 「国において建設すべき自動車道の予定路線は、別表に掲げる中央自動車道のうち小牧市附近から吹田市までを別表のとおりとするほか、別に法律で定める」「政府はすみやかに前項の法律で定める国開道の予定路線に関する法律案を別表に定める路線を基準として作成し、これを国会に提出しなければならない」(国土開発縦貫自動車道建設法第3条第1項)と規定されている[59]。
- ^ 大蔵、通産、建設、運輸、農林、経済企画の各省庁の大臣で構成(『朝日新聞』1960年3月10日朝刊、1面)。
- ^ 第34回国会の会期は1959年(昭和34年)12月29日から1960年(昭和35年)7月15日まで。
- ^ 東海道幹線自動車国道建設法以外の議員立法(関越、東海北陸、九州横断、中国横断)は、予定路線を別の法律で定めることを法定している。早急に整備を行う必要のある東名(東海道幹線自動車国道建設法)が優先度において他の立法と異なる立ち位置にあったためである[63]。
- ^ 貨物輸送についてはこれを営業として行う場合は免許が必要である。特に東海道路線に対しては1957年(昭和32年)初頭、相次いで申請が行われ、翌年末までに30社を超す申請が提出された。この時点で全線9社、区間で60社が既に免許を得ており、そこへ30社が申請されたことで既存業者の権利擁護と申請者の要望で熾烈な競争が行われた。公聴会での激論の末、1959年(昭和34年)11月に至って10社の申請が許可された。それほどに東海道路線の輸送需要は多かった[70]。
- ^ 大和トンネルを含めれば東名のトンネル数は12[224]。
- ^ 丹下の言う東海道メガロポリス構想は、東海道付近を集中的に開発エリアとして帯状に開発し、そこから枝分かれした住宅地も密度を高くして人口を集約する。残りのエリアは自然環境や歴史遺産を保全するという構想であった[262]。
- ^ 丹下は5 - 6時間で結ぶとしている[266]。
- ^ 法律上は右分岐に向かうため予めその手前から最右車線に寄っていても問題はない。ただし通常時の最高速度は80 km/hである。
- ^ 重被牽引車を牽引中の場合。ライトトレーラーのうち車両総重量が750 kg以下(けん引免許が不要なパターン)は対象外(※ライトトレーラーが全てけん引免許不要と言うわけではない)。また通常時の最高速度は80 km/hである。
- ^ 都県境を通過するが、東京都のカントリーサインは設置されていない。
- ^ a b 連絡路を経由して新東名本線に接続
出典
- ^ 浅井建爾 2001, p. 62.
- ^ 高速道路ナンバリング一覧、国土交通省
- ^ 吉田喜市 1973, pp. 84–85.
- ^ a b c d e 高速道路五十年史編集委員会 2016, p. 52.
- ^ a b 武田文夫 1999, p. 11.
- ^ 浅井建爾 2015, p. 170.
- ^ 国土交通省道路局 道の相談室 - ウェイバックマシン(2009年12月9日アーカイブ分)
- ^ 朝日新聞1969年5月27日
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- 論文・レポート
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- 公益財団法人高速道路調査会(1966-4)「資料 日本道路公団の10年」『高速道路と自動車』第9巻第4号、公益財団法人高速道路調査会、1966年4月、76-80頁。
- 岩井主蔵「幹線自動車道のネットワーク化とトラック輸送システムの変革」『高速道路と自動車』第9巻第6号、公益財団法人高速道路調査会、1966年6月、45-52頁。
- 石井常雄「道路輸送の近代化とトラックターミナル」『高速道路と自動車』第9巻第11号、公益財団法人高速道路調査会、1966年11月、43-50頁。
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- 佐藤正義「東名高速道路開通の沿線の概況とその経済効果」『高速道路と自動車』第11巻第1号、公益財団法人高速道路調査会、1968年1月、31-36頁。
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- パンフレット
- 中日本高速道路株式会社『東名高速道路全線開通50周年のあゆみ the course of history』中日本高速道路株式会社、2019年4月。