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同社による第1回配給作品は、『[[キュリー夫人 (映画)|キューリー夫人]]』(監督[[マーヴィン・ルロイ]]、製作[[メトロ・ゴールドウィン・メイヤー]]、1943年)<ref name="kine_curie" />と『[[春の序曲]]』(監督[[フランク・ボーゼイギ]]、製作[[ユニバーサル・ピクチャーズ|ユニヴァーサル映画]]、1943年製作)<ref name="kine_haru">{{Kinejun title|7174|春の序曲}}, 2014年2月25日閲覧。</ref>で、いずれも同年2月28日に[[日本劇場]](現在の[[TOHOシネマズ日劇]])、[[日比谷映画|日比谷映画劇場]](現在跡地に[[TOHOシネマズシャンテ]])等で公開された<ref name="キネ56_93" /><ref name="kine_curie" /><ref name="kine_haru" />。ただしこれは戦後公開された最初のアメリカ映画ではなく、前年末の12月6日、戦前に輸入していた『{{仮リンク|ユーコンの叫び|en|Call of the Yukon}}』(監督{{仮リンク|B・リーヴズ・イースン|en|B. Reeves Eason}}、製作[[リパブリック・ピクチャーズ|リパブリック映画]]、1938年)を[[日本映画貿易]](代表・岸浩)が公開したのが最初であった<ref>[[樺山紘一|樺山]]ほか[1998], p.447.</ref><ref>[[半藤一利|半藤]][2007], p.64.</ref><ref name="kine_Yukon">{{Kinejun title|9236|ユーコンの叫び}}、2014年2月25日閲覧。「未公開」は誤り(樺山ほか[1998], p.447., 半藤[2007], p.64.)。</ref>。
同社による第1回配給作品は、『[[キュリー夫人 (映画)|キューリー夫人]]』(監督[[マーヴィン・ルロイ]]、製作[[メトロ・ゴールドウィン・メイヤー]]、1943年)<ref name="kine_curie" />と『[[春の序曲]]』(監督[[フランク・ボーゼイギ]]、製作[[ユニバーサル・ピクチャーズ|ユニヴァーサル映画]]、1943年製作)<ref name="kine_haru">{{Kinejun title|7174|春の序曲}}, 2014年2月25日閲覧。</ref>で、いずれも同年2月28日に[[日本劇場]](現在の[[TOHOシネマズ日劇]])、[[日比谷映画|日比谷映画劇場]](現在跡地に[[TOHOシネマズシャンテ]])等で公開された<ref name="キネ56_93" /><ref name="kine_curie" /><ref name="kine_haru" />。ただしこれは戦後公開された最初のアメリカ映画ではなく、前年末の12月6日、戦前に輸入していた『{{仮リンク|ユーコンの叫び|en|Call of the Yukon}}』(監督{{仮リンク|B・リーヴズ・イースン|en|B. Reeves Eason}}、製作[[リパブリック・ピクチャーズ|リパブリック映画]]、1938年)を[[日本映画貿易]](代表・岸浩)が公開したのが最初であった<ref>[[樺山紘一|樺山]]ほか[1998], p.447.</ref><ref>[[半藤一利|半藤]][2007], p.64.</ref><ref name="kine_Yukon">{{Kinejun title|9236|ユーコンの叫び}}、2014年2月25日閲覧。「未公開」は誤り(樺山ほか[1998], p.447., 半藤[2007], p.64.)。</ref>。


同年、アメリカ映画九社が[[アメリカ映画協会 (業界団体)|アメリカ映画輸出協会]](MPEA)を設立、同国からの映画の輸出は同協会が一元管理することになり、これを機にベルゲルは数か月で退任し、二代目社長に映画輸出協会から派遣されたチャールズ・メイヤーが就任している<ref name="田中80_274" /><ref name="谷川02_460">[[谷川建司|谷川]][2002], p.460.</ref>。ベルゲルはユニヴァーサル映画極東地域代表に就任した<ref name="谷川02_460" />。同社の目的は「アメリカ映画九社作品の日本配給」ということになったが、9社とは、メトロ・ゴールドウィン・メイヤー、[[ワーナー・ブラザース]]、[[パラマウント映画]]、ユニヴァーサル映画、[[RKO|RKOラジオ映画]]、[[コロンビア映画]]、[[20世紀フォックス|廿世紀フォックス]]、[[ユナイテッド・アーティスツ|ユナイテッド・アーティスツ映画]]、リパブリック映画を指す<ref name="田中80_274" />。同年9月、同社は、日本の既成映画資本である[[東宝]]および[[松竹]]に対し、両者の直営館のすべてにおいて同社の配給するアメリカ映画を公開すべく交渉を開始する<ref name="田中80_274" /><ref name="浜野08_276" />。この交渉は決裂したが、旧[[映画法]]による[[大映]]の設立以来、製作部門を失っていた[[日活]]との交渉は成立、翌1947年(昭和22年)5月からは、日活の29館の直営館のすべてにおいて、同社の配給するアメリカ映画を上映を開始した<ref name="田中80_274" />。当時の統計によれば、同年10月には、戦後復興した日本全土の映画館は1,903館が存在したが、そのうち529館の興行系統が「セントラル系」となっていた<ref name="田中80_274" />。
同年、アメリカ映画九社が[[アメリカ映画協会 (業界団体)|アメリカ映画輸出協会]](MPEA)を設立、同国からの映画の輸出は同協会が一元管理することになり、これを機にベルゲルは数か月で退任し、二代目社長に映画輸出協会から派遣されたチャールズ・メイヤーが就任している<ref name="田中80_274" /><ref name="谷川02_460">[[谷川建司|谷川]][2002], p.460.</ref>。ベルゲルはユニヴァーサル映画極東地域代表に就任した<ref name="谷川02_460" />。同社の目的は「アメリカ映画九社作品の日本配給」ということになったが、9社とは、メトロ・ゴールドウィン・メイヤー、[[ワーナー・ブラザース]]、[[パラマウント映画]]、ユニヴァーサル映画、[[RKO|RKOラジオ映画]]、[[コロンビア ピクチャーズ]]、[[20世紀フォックス|廿世紀フォックス]]、[[ユナイテッド・アーティスツ|ユナイテッド・アーティスツ映画]]、リパブリック映画を指す<ref name="田中80_274" />。同年9月、同社は、日本の既成映画資本である[[東宝]]および[[松竹]]に対し、両者の直営館のすべてにおいて同社の配給するアメリカ映画を公開すべく交渉を開始する<ref name="田中80_274" /><ref name="浜野08_276" />。この交渉は決裂したが、旧[[映画法]]による[[大映]]の設立以来、製作部門を失っていた[[日活]]との交渉は成立、翌1947年(昭和22年)5月からは、日活の29館の直営館のすべてにおいて、同社の配給するアメリカ映画を上映を開始した<ref name="田中80_274" />。当時の統計によれば、同年10月には、戦後復興した日本全土の映画館は1,903館が存在したが、そのうち529館の興行系統が「セントラル系」となっていた<ref name="田中80_274" />。


「セントラル系」の興行系統にある多くの独立系の映画館が、地名を冠して「セントラル劇場」と名乗った<ref name="浜野08_276" /><ref name="谷川02_347">谷川[2002], p.347.</ref>。東京セントラル劇場(のちの[[五反田日活劇場]])、千日前セントラル会館(のちの[[千日前セントラル]])、あるいは地方においても松本セントラル劇場(のちの[[大手 (松本市)#松本東宝セントラル|松本東宝セントラル]])、高田セントラルシネマ(現在の[[高田世界館]])、[[岸和田東宝セントラル劇場|岸和田セントラル劇場]]等、数多くあった<ref name="浜野08_276" /><ref name="谷川02_347" /><ref name="年鑑51_328">年鑑[1951], p.328-432.</ref>。当時、「セントラル」の語は、イコール「[[アメリカ合衆国の映画|アメリカ映画]]」「[[ハリウッド映画]]」を連想させる語として受け入れられた<ref name="浜野08_276" />。地方の独立系映画館が「セントラル系」になった背景には、東宝がヨーロッパ映画の上映チェーンを組織化したこと、松竹も同様にアメリカ映画から撤退したことが挙げられる<ref name="谷川02_347" />。
「セントラル系」の興行系統にある多くの独立系の映画館が、地名を冠して「セントラル劇場」と名乗った<ref name="浜野08_276" /><ref name="谷川02_347">谷川[2002], p.347.</ref>。東京セントラル劇場(のちの[[五反田日活劇場]])、千日前セントラル会館(のちの[[千日前セントラル]])、あるいは地方においても松本セントラル劇場(のちの[[大手 (松本市)#松本東宝セントラル|松本東宝セントラル]])、高田セントラルシネマ(現在の[[高田世界館]])、[[岸和田東宝セントラル劇場|岸和田セントラル劇場]]等、数多くあった<ref name="浜野08_276" /><ref name="谷川02_347" /><ref name="年鑑51_328">年鑑[1951], p.328-432.</ref>。当時、「セントラル」の語は、イコール「[[アメリカ合衆国の映画|アメリカ映画]]」「[[ハリウッド映画]]」を連想させる語として受け入れられた<ref name="浜野08_276" />。地方の独立系映画館が「セントラル系」になった背景には、東宝がヨーロッパ映画の上映チェーンを組織化したこと、松竹も同様にアメリカ映画から撤退したことが挙げられる<ref name="谷川02_347" />。
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* 『{{仮リンク|迷へる天使|en|Lost Angel (film)}}』 : 監督{{仮リンク|ロイ・ローランド|en|Roy Rowland (film director)}}、製作メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(1943年)、同年4月18日公開
* 『{{仮リンク|迷へる天使|en|Lost Angel (film)}}』 : 監督{{仮リンク|ロイ・ローランド|en|Roy Rowland (film director)}}、製作メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(1943年)、同年4月18日公開
* 『[[エイブ・リンカーン (映画)|エイブ・リンカン]]』 : 監督[[ジョン・クロムウェル (俳優)|ジョン・クロムウェル]]、製作[[RKO|RKOラジオ映画]](1940年)、同年4月18日公開 - 同年度キネマ旬報ベストテン第4位<ref name="kine_エイブ" />
* 『[[エイブ・リンカーン (映画)|エイブ・リンカン]]』 : 監督[[ジョン・クロムウェル (俳優)|ジョン・クロムウェル]]、製作[[RKO|RKOラジオ映画]](1940年)、同年4月18日公開 - 同年度キネマ旬報ベストテン第4位<ref name="kine_エイブ" />
* 『{{仮リンク|此の蟲十万弗|en|Once Upon a Time (1944 film)}}』 : 監督[[アレクサンダー・ホール]]、製作[[コロンビア映画]](1944年)、同年5月2日公開
* 『{{仮リンク|此の蟲十万弗|en|Once Upon a Time (1944 film)}}』 : 監督[[アレクサンダー・ホール]]、製作[[コロンビア ピクチャーズ]](1944年)、同年5月2日公開
* 『{{仮リンク|王國の鍵|en|The Keys of the Kingdom (film)}}』 : 監督{{仮リンク|ジョン・M・スタール|en|John M. Stahl}}、製作[[20世紀フォックス|廿世紀フォックス]](1944年)、同年5月2日公開
* 『{{仮リンク|王國の鍵|en|The Keys of the Kingdom (film)}}』 : 監督{{仮リンク|ジョン・M・スタール|en|John M. Stahl}}、製作[[20世紀フォックス|廿世紀フォックス]](1944年)、同年5月2日公開
* 『[[拳銃の町]]』 : 監督{{仮リンク|エドウィン・L・マリン|en|Edwin L. Marin}}、製作RKOラジオ映画(1944年)、同年5月2日公開
* 『[[拳銃の町]]』 : 監督{{仮リンク|エドウィン・L・マリン|en|Edwin L. Marin}}、製作RKOラジオ映画(1944年)、同年5月2日公開

2021年8月18日 (水) 00:01時点における版

セントラル映画社
Central Motion Picture Exchange
市場情報 消滅
略称 CMPE、セントラル
本社所在地 日本の旗 日本
東京都港区芝田村町2丁目15番地 兼坂ビル
設立 1946年2月1日
業種 サービス業
事業内容 アメリカ映画九社作品の日本配給
代表者 代表 チャールズ・メイヤー
支店舗数 4支社
関係する人物 マイケル・ベルゲル
淀川長治
高瀬鎮夫
妻鳥循雄
高梨義顕
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セントラル映画社(セントラルえいがしゃ、英語: Central Motion Picture Exchange)は、かつて存在した連合国軍占領下の日本映画配給会社である[1][2][3][4][5]。1946年(昭和21年)2月1日、連合国軍最高司令官総司令部の外郭団体として設立され、同月28日から日本国内でのアメリカ映画のリリースを開始する[1][4]。1951年(昭和26年)12月27日、解体された[2]。日本では「セントラル映画社」のほか、セントラル・モーション・ピクチュア・エクスチェンジ(あるいは・エキスチェンジ[1]セントラル・フィルム・エキスチェンジ[6]と表記されることもあり、略称は英語: CMPE[1][4]、あるいはセントラル[2][7][8]

沿革

データ

大阪支社が入居した大阪朝日ビル(2012年撮影)。
  • 札幌支社
    • 所在地 : 北海道札幌市北2条西3丁目
      • 現在の同道同市中央区北2条西3丁目
    • 支社長 : ピエール・コレアール

概要

1946年(昭和21年)6月13日に同社が公開した『カサブランカ』(監督マイケル・カーティス、1942年)のハンフリー・ボガート
1947年(昭和22年)6月24日に同社が公開した『いちごブロンド』(監督ラオール・ウォルシュ、1941年)のジェームズ・キャグニー
1951年(昭和26年)3月13日に同社が公開した『花の合唱 (コーラス)英語版』(監督フランク・ボーゼイギ、1942年)。
同年5月11日に同社が公開した『初恋合戦』(監督ジョージ・B・サイツ英語版、1938年)のジュディ・ガーランド
同年10月28日に同社が公開した『サンセット大通り』(監督ビリー・ワイルダー、1950年)のグロリア・スワンソンウィリアム・ホールデン

1941年(昭和16年)12月8日、第二次世界大戦において日米開戦太平洋戦争の開始をもって、アメリカ映画各社の日本支社が一斉閉鎖・解散、アメリカ映画の日本での商業上映は終了した[9]。1945年(昭和20年)8月15日、同戦争が終了し、同年9月2日から日本は連合国の占領下に入った。同年10月2日には連合国軍最高司令官総司令部、いわゆるGHQが設置され、その幕僚部に民間情報教育局(CIE)が置かれ、映画は同局の管轄下に置かれた。同年11月には、アメリカ合衆国国務省が派遣したマイケル・ベルゲルがアメリカから招かれ、ベルゲルはGHQ、国務省および同陸軍省と協議して1946年(昭和21年)1月にセントラル映画社の東京事務所を東京都港区芝田村町2丁目15番地の兼坂ビル(現在の同都同区新橋2丁目5番5号、新橋2丁目MITビル)に設置した[3][10]。ベルゲルを初代社長として同年2月1日に正式に設立された[1][3][4][10]

同社による第1回配給作品は、『キューリー夫人』(監督マーヴィン・ルロイ、製作メトロ・ゴールドウィン・メイヤー、1943年)[6]と『春の序曲』(監督フランク・ボーゼイギ、製作ユニヴァーサル映画、1943年製作)[11]で、いずれも同年2月28日に日本劇場(現在のTOHOシネマズ日劇)、日比谷映画劇場(現在跡地にTOHOシネマズシャンテ)等で公開された[3][6][11]。ただしこれは戦後公開された最初のアメリカ映画ではなく、前年末の12月6日、戦前に輸入していた『ユーコンの叫び英語版』(監督B・リーヴズ・イースン英語版、製作リパブリック映画、1938年)を日本映画貿易(代表・岸浩)が公開したのが最初であった[12][13][14]

同年、アメリカ映画九社がアメリカ映画輸出協会(MPEA)を設立、同国からの映画の輸出は同協会が一元管理することになり、これを機にベルゲルは数か月で退任し、二代目社長に映画輸出協会から派遣されたチャールズ・メイヤーが就任している[10][15]。ベルゲルはユニヴァーサル映画極東地域代表に就任した[15]。同社の目的は「アメリカ映画九社作品の日本配給」ということになったが、9社とは、メトロ・ゴールドウィン・メイヤー、ワーナー・ブラザースパラマウント映画、ユニヴァーサル映画、RKOラジオ映画コロンビア ピクチャーズ廿世紀フォックスユナイテッド・アーティスツ映画、リパブリック映画を指す[10]。同年9月、同社は、日本の既成映画資本である東宝および松竹に対し、両者の直営館のすべてにおいて同社の配給するアメリカ映画を公開すべく交渉を開始する[10][8]。この交渉は決裂したが、旧映画法による大映の設立以来、製作部門を失っていた日活との交渉は成立、翌1947年(昭和22年)5月からは、日活の29館の直営館のすべてにおいて、同社の配給するアメリカ映画を上映を開始した[10]。当時の統計によれば、同年10月には、戦後復興した日本全土の映画館は1,903館が存在したが、そのうち529館の興行系統が「セントラル系」となっていた[10]

「セントラル系」の興行系統にある多くの独立系の映画館が、地名を冠して「セントラル劇場」と名乗った[8][16]。東京セントラル劇場(のちの五反田日活劇場)、千日前セントラル会館(のちの千日前セントラル)、あるいは地方においても松本セントラル劇場(のちの松本東宝セントラル)、高田セントラルシネマ(現在の高田世界館)、岸和田セントラル劇場等、数多くあった[8][16][17]。当時、「セントラル」の語は、イコール「アメリカ映画」「ハリウッド映画」を連想させる語として受け入れられた[8]。地方の独立系映画館が「セントラル系」になった背景には、東宝がヨーロッパ映画の上映チェーンを組織化したこと、松竹も同様にアメリカ映画から撤退したことが挙げられる[16]

メイヤー体制において、同社本社には、経理部長に妻鳥循雄、宣伝部長に伊勢壽雄、製作部長に高瀬鎮夫、文化部長に高梨義顕が採用されている[1]。妻鳥循雄はのちにパラマウント映画日本支社長(日本法人パラマウント映画副社長)になった人物[18]、伊勢壽雄は戦前のパラマウント映画日本支社で宣伝部長を務め、セントラル設立時には宣伝課長、のちに妻鳥支社長のもとで再設立されたパラマウント映画でふたたび宣伝部長を務め、「映画宣伝マンクラブ」を結成して会長になった人物[19][20]、高瀬鎮夫は同社でも字幕製作を行っていたがのちに清水俊二秘田余四郎らとならぶ字幕翻訳家の第一人者となった人物、高梨義顕はのちに映配取締役を務めた人物である[18]。1947年までの時期には、同社レクチャー部にのちの映画評論家淀川長治が在籍した[21]

1951年(昭和26年)12月27日には解体された[2](同月31日とも[4])。最後に公開されたのは、同年同月18日公開の『十三号桟橋英語版』(監督ロバート・スティーヴンソン、製作RKOラジオ映画、1949年)であった[22]。以降のアメリカ映画は、各社が配給することになった。同年12月27日に公開されたアメリカ映画、『ダラス』(監督スチュアート・ヘイスラー、1950年)[23]、『リオ・グランデの砦』(監督ジョン・フォード、1950年)[24]、『二世部隊』(監督ロバート・ピロッシュ英語版、1951年)[25]、『腰抜け千両役者英語版』(監督ジョージ・マーシャル英語版、1950年)[26]、『アリババと四十人の盗賊英語版』(監督アーサー・ルービン英語版、1944年)[27]は、それぞれ、ワーナー・ブラザース映画、リパブリック映画(共同配給NCC)、メトロ・ゴールドウィン・メイヤー、パラマウント映画、ユニヴァーサル映画の各社の日本法人が直接配給した[23][24][25][26][27]

セントラル映画社東京本社の去ったのちの兼坂ビルには、コロンビア映画日本支社、リパブリック映画日本支社、ユナイテッド・アーティスツ映画日本支社、日本RKOラジオ映画が入居した[2][9]。同社の大阪支社長を務めたフランシスコ・ロドリゲスはコロンビア映画日本支社長に、経理部長を務めた妻鳥循雄はパラマウント映画日本支社長、宣伝部長を務めた伊勢壽雄はパラマウント映画日本支社宣伝部長に、それぞれ就任した[2][9][20]

評価

1941年12月以降、終戦まで公開されなかったアメリカ映画を時代を遡って新作とともにランダムに公開した、という功績とともに、1937年(昭和12年)以降1940年代前半にかけて製作されたものと、その10年後に製作されたものが日本の市場を同時に出回るという事態を招いた。1946年度の第20回から再開した「キネマ旬報ベストテン」の外国映画部門には、第1位から第5位までを独占するに至ったが、第5位の『南部の人』は前年製作の新作であったが[28]、第4位の『エイブ・リンカン』は1940年の作品であった[29]

その後「キネマ旬報ベストテン」の外国映画部門には、1947年度の第21回には9本を送り込んだが、1948年度の第22回にはわずか2本、1949年度の第23回には4本、1950年度の第24回には2本であった[21]。このため同社は、映画評論家はヨーロッパ映画に評価が偏重しアメリカ映画をたたいている、として試写を見せないという対抗策をとったりもした[21]。とくに第24回ベストテンの結果が発表された1951年の初めには、雑誌掲載用のスチル写真提供を停止する強硬措置をとっている[21]。同社は、一貫して、記者に対しても興行主に対しても強硬な姿勢であったため、同社の解体が決定したときには、日本の映画記者たちは快哉を叫んだという[21]

おもなフィルモグラフィ

同社が配給した映画作品のうちのおもなものの一覧である。日本での公開日順。製作社名の末尾の年号は製作年。

1946年

1947年

1948年

1949年

  • 淑女の求愛英語版』 : 監督ミッチェル・ライゼン、製作コロンビア映画(1942年)、同年1月11日公開
  • 拳銃街道英語版』 : 監督レイ・エンライト、製作RKOラジオ映画(1947年)、同年1月11日公開
  • 女性No.1』 : 監督ジョージ・スティーヴンス、製作メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(1942年)、同年1月25日公開
  • 卵と私』 : 監督チェスター・アースキン英語版、製作ユニヴァーサル映画(1947年)、同年1月25日公開
  • 愛の調べ』 : 監督クラレンス・ブラウン、製作メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(1947年)、同年2月1日公開
  • アラスカ珍道中』 : 監督ハル・ウォーカー、製作パラマウント映画(1946年)、同年2月17日公開
  • 大地は怒る英語版』 : 監督ヴィクター・サヴィル、製作メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(1947年)、同年2月21日公開
  • 盗まれた青春英語版』 : 監督カーティス・バーンハート、製作ワーナー・ブラザース映画(1946年)、同年3月1日公開
  • ジェキル博士とハイド氏』 : 監督ヴィクター・フレミング、製作メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(1941年)、同年3月20日公開
  • 哀愁』 : 監督マーヴィン・ルロイ、製作メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(1940年)、同年3月22日公開
  • 打撃王』 : 監督サム・ウッド、製作サミュエル・ゴールドウィン・カンパニー=RKOラジオ映画(1942年)、同年3月22日公開
  • 西部魂』 : 監督フリッツ・ラング、製作廿世紀フォックス(1941年)、同年3月22日公開
  • 幽霊と未亡人』 : 監督ジョーゼフ・L・マンキーウィッツ、製作廿世紀フォックス(1947年)、同年4月26日公開
  • ママの想い出英語版』 : 監督ジョージ・スティーヴンス、製作RKOラジオ映画(1948年)、同年4月26日公開 - 同年度キネマ旬報ベストテン第3位
  • 影なき男の影』 : 監督W・S・ヴァン・ダイク、製作メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(1941年)、同年5月3日公開
  • 女の顔』 : 監督ジョージ・キューカー、製作メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(1941年)、同年5月10日公開
  • ミニヴァー夫人』 : 監督ウィリアム・ワイラー、製作メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(1942年)、同年5月10日公開
  • ドリアン・グレイの肖像英語版』 : 監督アルバート・リューイン英語版、製作メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(1945年)、同年5月24日公開
  • 黄金』 : 監督ジョン・ヒューストン、製作ワーナー・ブラザース映画(1948年)、同年5月24日公開 - 同年度キネマ旬報ベストテン第8位
  • 南米珍道中』 : 監督ノーマン・Z・マクロード英語版、製作パラマウント映画(1947年)、同年5月31日公開
  • 恋愛十字路英語版』 : 監督グレゴリー・ラ・カヴァ、製作ユニヴァーサル映画(1941年)、同年6月14日公開
  • 子鹿物語』 : 監督クラレンス・ブラウン、製作メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(1946年)、同年6月14日公開 - 同年度キネマ旬報ベストテン第9位
  • 大草原』 : 監督エリア・カザン、製作メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(1947年)、同年6月14日公開
  • 独身者と女学生英語版』 : 監督アーヴィング・ライス英語版、製作RKOラジオ映画(1947年)、同年6月14日公開
  • 秘めたる心』 : 監督ロバート・Z・レナード、製作メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(1946年)、同年6月21日公開
  • 楽聖ショパン』 :監督チャールズ・ヴィダー、製作コロンビア映画(1944年)、同年7月12日公開
  • ドーヴァーの白い崖』 : 監督クラレンス・ブラウン、製作メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(1944年)、同年8月16日公開
  • ギルダ』 : 監督チャールズ・ヴィダー、製作コロンビア映画(1946年)、同年8月23日公開
  • ブラジル』 : 監督ジョセフ・サントリー英語版、製作リパブリック映画(1944年)、同年9月6日公開
  • 扉の陰の秘密』 : 監督フリッツ・ラング、製作ユニヴァーサル映画(1948年)、同年9月6日公開
  • 宿なしハックの冒険英語版』 : 監督リチャード・ソープ、製作メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(1939年)、同年9月13日公開
  • モホークの太鼓』 : 監督ジョン・フォード、製作廿世紀フォックス(1939年)、同年9月20日公開
  • ユーモレスク』 : 監督ジーン・ネグレスコ、製作ワーナー・ブラザース映画(1946年)、同年10月18日公開
  • 汚名』 : 監督アルフレッド・ヒッチコック、製作RKOラジオ映画(1946年)、同年11月1日公開
  • 美しき被告英語版』 : 監督ウィリアム・ディターレ、製作パラマウント映画(1949年)、同年11月1日公開
  • ニノチカ』 : 監督エルンスト・ルビッチ、製作メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(1939年)、同年11月8日公開
  • 妖花』 : 監督テイ・ガーネット、製作ユニヴァーサル映画(1940年)、同年11月22日公開
  • 奥様武勇伝』 : 監督ジャック・コンウェイ、製作メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(1948年)、同年11月29日公開
  • 夜は千の眼を持つ英語版』 : 監督ジョン・ファロー、製作パラマウント映画(1948年)、同年12月4日公開
  • 花嫁の季節英語版』 : 監督ブレティン・ウィンダスト英語版、製作ワーナー・ブラザース映画(1948年)、同年12月13日公開
  • 若草物語』 : 監督マーヴィン・ルロイ、製作メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(1949年)、同年12月27日公開

1950年

1951年

  • 裏街』 : 監督ロバート・スティーヴンソン、製作ユニヴァーサル映画(1941年)、同年1月10日公開
  • マルタの鷹』 : 監督ジョン・ヒューストン、製作ワーナー・ブラザース映画(1941年)、同年1月10日公開
  • バッタ君町に行く』 : 監督デイヴ・フライシャー、製作フライシャー・スタジオ=パラマウント映画(1941年)、同年1月24日公開
  • 花嫁売ります英語版』 : 監督ウィリアム・D・ラッセル英語版、製作RKOラジオ映画(1949年)、同年2月8日公開
  • 風車の秘密英語版』 : 監督リチャード・ソープ、製作メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(1945年)、同年2月14日公開
  • 一ダースなら安くなる』 : 監督ウォルター・ラング、製作廿世紀フォックス(1950年)、同年2月16日公開
  • 科学者ベル英語版』 : 監督アーヴィング・カミングス、製作廿世紀フォックス(1939年)、同年2月20日公開
  • 奥様は魔女』 : 監督ルネ・クレール、製作パラマウント映画(1942年)、同年3月6日公開
  • 若草の頃』 : 監督ヴィンセント・ミネリ、製作メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(1944年)、同年3月6日公開
  • 特ダネ女史英語版』 : 監督エドワード・バゼル、製作コロンビア映画(1950年)、同年3月6日公開
  • 花の合唱 (コーラス)英語版』 : 監督フランク・ボーゼイギ、製作メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(1942年)、同年3月13日公開
  • 大編隊英語版』 : 監督フランク・ボーゼイギ、製作メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(1940年)、同年3月20日公開
  • ネヴァダ男英語版』 : 監督エドワード・キリードイツ語版、製作RKOラジオ映画(1944年)、同年4月3日公開
  • サハラ戦車隊』 : 監督ゾルタン・コルダ英語版、製作コロンビア映画(1943年)、同年4月10日公開
  • 幻の女』 : 監督ロバート・シオドマク、製作ユニヴァーサル映画(1944年)、同年4月17日公開
  • 囁きの木陰英語版』 : 監督ミッチェル・ライゼン、製作パラマウント映画(1940年)、同年4月24日公開
  • 北西への道』 : 監督キング・ヴィダー、製作メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(1940年)、同年5月8日公開
  • 初恋合戦』 : 監督ジョージ・B・サイツ英語版、製作メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(1938年)、同年5月11日公開
  • 地獄への道』 : 監督ヘンリー・キング、製作廿世紀フォックス(1939年)、同年5月29日公開
  • スイングの少女』 : 監督リチャード・ソープ、製作メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(1948年)、同年5月29日公開
  • 懐しのスワニー英語版』 : 監督シドニー・ランフィールド、製作廿世紀フォックス(1939年)、同年6月12日公開
  • 踊る海賊』 : 監督ヴィンセント・ミネリ、製作メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(1948年)、同年6月19日公開
  • 緑園の天使』 : 監督クラレンス・ブラウン、製作メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(1944年)、同年7月19日公開
  • 情熱の狂想曲』 : 監督マイケル・カーティス、製作ワーナー・ブラザース映画(1950年)、同年7月24日公開
  • 大雷雨』 : 監督ラオール・ウォルシュ、製作ワーナー・ブラザース映画(1941年)、同年8月7日公開
  • 踊る大紐育』 : 監督スタンリー・ドーネン/ジーン・ケリー、製作メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(1949年)、同年8月24日公開
  • ガラスの動物園英語版』 : 監督アーヴィング・ラパー、製作ワーナー・ブラザース映画(1950年)、同年9月11日公開
  • イヴの総て』 : 監督ジョゼフ・L・マンキーウィッツ、製作廿世紀フォックス(1950年)、同年9月16日公開 - 同年度キネマ旬報ベストテン第1位
  • 折れた矢』 : 監督デルマー・デイヴィス、製作廿世紀フォックス(1950年)、同年9月21日公開
  • ロッキーの春風』 : 監督アーヴィング・カミングス、製作廿世紀フォックス(1942年)、同年10月2日公開
  • アニーよ銃をとれ』 : 監督ジョージ・シドニー、製作メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(1950年)、同年10月5日公開
  • デュバリイは貴婦人英語版』 : 監督ロイ・デル・ルース英語版、製作製作メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(1943年)、同年10月9日公開
  • 無法者の群』 : 監督マイケル・カーティス、製作ワーナー・ブラザース映画(1939年)、同年10月19日公開
  • 男性都市英語版』 : 監督ルイス・セイラー英語版、製作ユニヴァーサル映画(1942年)、同年10月23日公開
  • サンセット大通り』 : 監督ビリー・ワイルダー、製作パラマウント映画(1950年)、同年10月28日公開 - 同年度キネマ旬報ベストテン第2位
  • 黄色いリボン』 : 監督ジョン・フォード、製作RKOラジオ映画(1949年)、同年11月2日公開
  • 今宵よ永遠に英語版』 : 監督ヴィクター・サヴィル、製作コロンビア映画(1945年)、同年11月20日公開
  • 塵に咲く花』 : 監督マーヴィン・ルロイ、製作メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(1941年)、同年11月30日公開
  • 十三号桟橋英語版』 : 監督ロバート・スティーヴンソン、製作RKOラジオ映画(1949年)、同年12月18日公開

セントラル劇場

同社は映画館の経営を行わなかったが、同社の興行系統「セントラル系」にある、日本全国の独立系映画館が地名を冠して「セントラル劇場」と名乗ることを許した[8][16]。下記は、1951年に発行された『映画年鑑 1951』の「映画館総覧」の章に掲載された映画館のうち、興行系統が「セントラル系」であるかアメリカ映画を上映した「セントラル劇場」の一覧である(1950年10月時点全39館、所在地は当時のもの)[17]

脚注

注釈

  1. ^ 茨城県の映画館「消えた映画館の記憶」を参照した[30][31]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i 年鑑[1951], p.214.
  2. ^ a b c d e f g 年鑑[1953], p.127.
  3. ^ a b c d e f キネ[1956], p.93.
  4. ^ a b c d e f 直営洋画劇場上映作品 1934–1954東宝、2014年2月25日閲覧。
  5. ^ いちごブロンド - KINENOTE、2014年2月25日閲覧。
  6. ^ a b c キューリー夫人 - KINENOTE、2014年2月25日閲覧。
  7. ^ マルタの鷹(1941) - KINENOTE、2014年2月25日閲覧。
  8. ^ a b c d e f 浜野[2008], p.276.
  9. ^ a b c 電通[1956], p.744-750.
  10. ^ a b c d e f g 田中[1980], p.274-283.
  11. ^ a b 春の序曲 - KINENOTE, 2014年2月25日閲覧。
  12. ^ 樺山ほか[1998], p.447.
  13. ^ 半藤[2007], p.64.
  14. ^ ユーコンの叫び - KINENOTE、2014年2月25日閲覧。「未公開」は誤り(樺山ほか[1998], p.447., 半藤[2007], p.64.)。
  15. ^ a b 谷川[2002], p.460.
  16. ^ a b c d 谷川[2002], p.347.
  17. ^ a b 年鑑[1951], p.328-432.
  18. ^ a b 年鑑[1963], p.165-168.
  19. ^ 年鑑[1959], p.312.
  20. ^ a b 谷川[2002], p.363.
  21. ^ a b c d e 浜野[2008], p.282.
  22. ^ 十三号桟橋 - KINENOTE、2014年2月25日閲覧。
  23. ^ a b ダラス - allcinema、2014年2月25日閲覧。
  24. ^ a b リオ・グランデの砦 - allcinema、2014年2月25日閲覧。
  25. ^ a b 二世部隊 - allcinema、2014年2月25日閲覧。
  26. ^ a b 腰抜け千両役者 - allcinema、2014年2月25日閲覧。
  27. ^ a b アリババと四十人の盗賊 - allcinema、2014年2月25日閲覧。
  28. ^ a b 南部の人 - KINENOTE、2014年2月27日閲覧。
  29. ^ a b エイブ・リンカン - KINENOTE、2014年2月27日閲覧。
  30. ^ 「水戸東映シネマ、10日閉館 老舗映画館また姿消す シネコン進出、共存難しく」『茨城新聞』2006年2月8日
  31. ^ 「水戸東映シネマ 46年の歴史に幕 跡地利用で街の活性化」『毎日新聞』2006年2月12日

参考文献

関連項目

外部リンク

画像外部リンク
兼坂ビル
1990年撮影
福岡日活ビル (左)
1955年撮影の絵葉書