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{{multiple image|perrow=1|total_width=270|caption_align=center|align=right|direction=horizontal|header=仏教美術|image1=Gandhara Buddha (tnm).jpeg|caption1=[[ガンダーラ]]地方、ギリシャ人仏教徒によって制作された仏像 [[1世紀]] [[東京国立博物館]]蔵}}


この項目では、仏教美術([[視覚芸術]]、[[応用美術]])について解説する。
'''仏教美術'''(ぶっきょうびじゅつ)とは、[[仏教]]に関係する[[美術]]である。[[仏教]]の影響を受ける[[芸術|芸術的習慣]]を[[釈迦|仏]]、[[菩薩]]および他のエンティティを描写技術の媒体をとおした歴史的神話的に著名な仏像これらすべての生活からの物語のシーンを[[曼荼羅|マンダラ]]および他のグラフィック教材で仏教の慣行に関連するものを物理的に表す、たとえば [[金剛杵|バジュラス]]、鐘、[[仏塔]]、仏教寺院の建築物など <ref>{{Cite web|title=What is Buddhist Art?|url=http://buddhistartnews.wordpress.com/what-is-buddhist-art/|publisher=Buddhist Art News|accessdate=2014-01-27}}</ref>が挙げられるが 仏教美術は、紀元前6世紀から5世紀にかけての[[釈迦|シッダールタゴータマ]]の歴史的生活の後に[[インド亜大陸]]で始まり、その後、アジアや世界に広がる他の文化との接触によって発展。


'''仏教美術'''(ぶっきょうびじゅつ)とは、[[仏教]]に基づいた[[美術|美術的実践]]であり、[[仏教哲学|仏教思想]]・信仰に基づいた礼拝対象、あるいはそれら活動のための造形美術の総称。これらの芸術には、[[仏陀]]や[[菩薩]]、実在・伝説上の[[仏の一覧|尊格]]や尊者、[[祖師]]、または彼らの生涯(仏伝図)や伝説を描いたもの、[[曼荼羅]]や修行のための図像、さらには修行のための場である、ストゥーパや塔門、寺院などの建築や、[[金剛杵]]や[[厨子]]、[[香合]]などの仏具が挙げられる<ref>{{Cite web|title=What is Buddhist Art?|url=http://buddhistartnews.wordpress.com/what-is-buddhist-art/|publisher=Buddhist Art News|accessdate=2014-01-27}}</ref>。
仏教の芸術は信者に続きダルマは新しいホスト国ごとに広がり、適応し進化。北へと開発された[[中央アジア]]と中[[東アジア]]仏教美術の北の枝を形成するために、そして東の限りに[[東南アジア]]仏教美術を形成し インドでは、仏教美術が繁栄し、[[ヒンドゥー教]]と[[ジャイナ教]]の芸術と共同開発され、それぞれが互いに影響を及ぼしている洞窟寺院のように複合体として一緒に構築されていく <ref name="blurton113">T. Richard Blurton (1994), ''Hindu Art'', Harvard University Press, {{ISBN2|978-0674391895}}, pp. 113–116, 160–162, 191–192</ref>。

仏教美術は、紀元前6世紀から5世紀にかけて、[[釈迦]]の足跡と生涯に引き続いて[[インド亜大陸]]で始まった。その後、他の文化との接触によって発展し、アジアやそのほかの世界に広がっていった。

仏教芸術は、信者と[[法 (仏教)|仏法]](ダルマ)が拡がるのと同様、仏教が伝来した先々で受け入れられ発展していた。インド北部から[[中央アジア]]を経由して北へと広まり、[[東アジア]]へと至って北伝仏教の美術が成立した一方、[[東南アジア]]では主に南伝仏教の美術が成立した。インドでは、仏教美術は[[ヒンドゥー教]]や[[ジャイナ教]]とともに洞窟寺院を建設した例に見られるように、芸術面でも相互に影響を及ぼしながら発展した<ref name="blurton113">T. Richard Blurton (1994), ''Hindu Art'', Harvard University Press, {{ISBN2|978-0674391895}}, pp. 113–116, 160–162, 191–192</ref>。


== 仏教美術の分野 ==
== 仏教美術の分野 ==
{{Portal 仏教}}


* [[仏教建築]]
* {{仮リンク|仏教建築|en|Buddhist architecture|label=}}
* [[仏教絵画]]
* [[仏教絵画]]
* [[仏像]]
* [[仏像]]
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== 歴史 ==
== 歴史 ==
[[ファイル:Footprints of the Buddha (2nd century, Yale University Art Gallery).jpg|サムネイル|[[仏足石]] [[クシャーナ朝]] 2世紀頃 [[コネチカット州]]、{{仮リンク|イェール大学美術館|en|Yale University Art Gallery}}蔵]]
=== 無仏像時代([[紀元前5世紀]] - [[紀元前1世紀|紀元前1世紀]]) ===
{{See also|[[:en:Aniconism in Buddhism|Aniconism in Buddhism]]|インド美術#古代初期}}


==== なぜ仏像は作られなかったのか? ====
=== 前氷期(5世紀– 1世紀BCE) ===
最初期の仏教においては、釈迦は人間の形で表されることはなかった(不表現、英:aniconism)。理由については諸説あるが、主なものしては以下のようなものが挙げられる<ref>{{Cite journal|author=[[田辺理]]|year=2016|title=見えない仏陀から見える仏陀へ ── 仏陀可視化と仏像の起源について ──|url=https://www.waseda.jp/flas/rilas/assets/uploads/2016/10/Rilas04_291-301_Tadashi-TANABE.pdf|journal=WASEDA RILAS JOURNAL|volume=4|page=295|ISSN=21878307}}</ref>。
{{See also|[[:en:Aniconism in Buddhism|Aniconism in Buddhism]]}}[[ファイル:Buddha-Footprint.jpeg|右|サムネイル| [[釈迦|仏]]の足跡。紀元前1世紀、[[ガンダーラ]]。]]
紀元前2世紀から1世紀にかけて、彫刻はより明確になり、仏の生活と教えのエピソードを表していく。これらは、通常は仏塔の装飾に関連して、奉納板または[[フリーズ (建築)|フリーズ]]形をとっておりインドには長い彫刻の伝統と豊かな図像の習得があるが仏は人間の形で表現されることはなく、[[仏教の象徴|仏教の象徴性]]によってのみ表現されるためこの時期は[[仏教におけるアニコニズム|異様]]だったかもしれない。


# 仏教以前に主流であった[[バラモン教]]が偶像を必要としなかったので<ref group="注釈">儀式と哲学が発達したバラモン教においては、火を通じて神々に供物を捧げることはあっても、偶像に対して崇拝を行うことはなかった。ゆえに、[[ヴェーダ時代]]の宗教建築や神像はほぼ遺されていない。なお、「バラモン教」という呼称はヨーロッパ人によって付けられたものである。</ref>、造像の発想自体が無かった<ref name="TBI">{{cite book|last1=Krishan|first1=Yuvraj|last2=Tadikonda|first2=Kalpana K.|title=The Buddha Image: Its Origin and Development|date=1996|publisher=Bharatiya Vidya Bhavan|isbn=978-81-215-0565-9|pages=ix-x|url=https://books.google.com/books?id=kDyJh--iaL0C&pg=PP13}}</ref>。
芸術家は仏を擬人化して描くことに消極的であり、そうすることを避けるために洗練された異様な象徴を開発(他の人物が登場する物語のシーンでも)するがこの傾向は[[Guntur地区のAmaravathi村|アマラバティ派]]の芸術においてインド南部で西暦2世紀まで続き(参照: [[マーラ|マーラの仏に対する攻撃]] )、仏の以前の擬人化された表現は木でできていて以来消滅したかもしれないと主張されてきた。しかし、関連する考古学的証拠は発見されてはいない。
# {{仮リンク|反偶像主義|en|aniconism}} - 釈迦入滅後数百年間は、「[[群盲象を評す|眼に見えるもの、手に触れるものは本質と異なる]]」という考えが主流であったので、釈迦を表現すること自体が忌避された。
# 涅槃に至った仏陀は超人的な存在と考えられたので、象徴的に表現せざるをえなかった<ref group="注釈">当時の仏教徒は、ブッダが悟りを開いたことで人間を超越した存在(不可視)になったと考えていたようである。</ref><ref name="Baku-25">[[#朴|朴(2016) p.25]]</ref>。
#[[三十二相八十種好]]に特徴を全て再現するのが困難、あるいは再現するとグロテスクなものになるため{{Refnest|group="注釈"|ただし、三十二相八十種好のうちのいくつかは[[ジャイナ教]]と共有されている<ref>{{Cite web|url=http://jodoshuzensho.jp/daijiten/index.php/%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%BA%8C%E7%9B%B8|title=三十二相 - 新纂浄土宗大辞典|accessdate=2021-03-06|publisher=[[浄土宗]]}}</ref>一方で、この様式が一揃いのものとして確立したのは4世紀から5世紀にかけてのことである<ref>{{Cite journal|author=[[金順子]]|year=2017|title=三十二相・八十種好と波羅蜜 ――『Karun・ āpun・ d・ arīka』を中心として――|journal=大正大学大学院研究論集|volume=41|page=103}}</ref>。}}。
当時、すでにインドでは彫刻の長い伝統と豊かな聖像美術が存在していたが、仏陀は人間の形で表現されることはなく、{{仮リンク|仏教のシンボル|en|Buddhist symbolism}}によってのみ描写されていた。仏陀の可視的な人体表現が忌避されたことで、暗示的な象徴表現はより一段と洗練されていった(説話のシーンにおいて他の人物は人間として描かれていたにも関わらずである)。インド南部で活動していたアマラーヴァティー派の芸術においては、この傾向は紀元2世紀まで続いた(下図参照)。


人間の姿で表された仏陀の初期の作例は、木で制作されたので朽ちて残らなかったとする説も唱えられている。しかしながら、それを裏付ける考古学的証拠は今のところ発見されていない。
インドの仏教美術の最も初期の作品は、紀元前1世紀にさかのぼるがブッダガヤの[[ブッダガヤの大菩提寺|マハーボディ寺院]]は、ビルマとインドネシアの同様の構造のモデルになる。[[シーギリヤ|シギリヤ]]のフレスコ画は、[[アジャンター石窟群|アジャンタ洞窟]]の絵画よりも古いと言われているという <ref>[http://www.frontline.in/archives.htm Buddhist Art] Frontline Magazine 13–26 May 1989</ref>。
[[ファイル:012_Sujata's_Offering_on_left,_Mara's_Attack_on_right_(33541908380).jpg|中央|サムネイル|660x660ピクセル|[[スジャータ]]の乳粥供養(左)と[[マーラ|降魔成道]](右) サーンチー第1塔北門欄楯 釈迦は左端に彫られている[[ゴータマ・ブッダの菩提樹|菩提樹]]によって暗示されている。]]


==== 仏像以前の仏教美術 ====
=== 象徴的なフェーズ(1世紀CE –現在) ===
{{Seealso|インド美術#宗教美術の用語}}
{{see also|w:Greco-Buddhist art|w:Mathura art|w:Amaravati Marbles}}中国の歴史文学ではハン・ウーディが仏を崇拝することについては他に言及はないが、壁画は仏像が紀元前2世紀にすでに存在していたことを示唆し、それらをインド・グリークスの時代に直接結び付けている。
[[初期仏教]]の時代には仏像がまだ作られなかった一方、建築や装飾美術においては、早い段階で後代の造像につながる様式が確立された。[[墓|円墳]]に起源をもつ'''[[ストゥーパ]]'''は、釈迦の墓であり、[[ダルマ (インド発祥の宗教)|ダルマ]]の象徴であり、[[涅槃]]へ達した釈迦そのものであり、したがって出家者・在家信者にとっては礼拝対象(チャイティヤ)であった<ref name="Yamada60">[[#山田|山田(1999) p.60]]</ref>。紀元前5世紀から4世紀頃、釈迦入滅後の北インドには、アレクサンドロス大王に率いられたギリシャ人勢力の侵入を発端として、[[マウリヤ朝]]のアショーカ王が覇を唱えた。インド統一を成し遂げたアショーカ王は仏教に傾倒し、自ら[[八大聖地]]を巡礼した。彼はこれらの聖地に新しく[[ストゥーパ]]や[[石柱]]を建立し、インドの、そして仏教彫刻そのものの始まりを作り上げた。また、釈迦の彫刻は作られなかったものの、ヤクシャ、[[ヤクシニー (夜叉)|ヤクシー]]といった[[夜叉]]・善神像はこの時代に既に制作されていた<ref>{{Cite journal|author=[[高田修]]|year=1962|title=マウリヤ時代の神像彫刻|url=http://id.nii.ac.jp/1440/00006854/|journal=美術研究|volume=219|page=130|language=ja|accessdate=2021-03-12}}</ref>。


紀元前2世紀、マウリヤ朝は[[シュンガ朝]]によって滅ぼされ、北インドはふたたび混乱に陥った。地域的な安定は1世紀にクシャーナ朝がこの地を統一するまで待たねばならなかったが、一方で、この混乱の時代にあっても仏教の波及と仏教建築(ストゥーパ)の発展は進んだ。また、彫刻の分野においても新しい動きが起こっていた。紀元前1世紀にかけて仏教彫刻の描写はより具象的になり、釈迦の人生と説法を描いた'''仏伝図'''や、釈迦の前世を描いた'''本生譚(ジャータカ)'''を象徴した作品が作られるようになる。[[奉納]]を目的として石板や[[フリーズ (建築)|フリーズ]]に彫られたこれらの図は、多くの場合ストゥーパの装飾の欄楯として用いられた。この頃の重要な作例としては'''[[サーンチー|サーンチー第1塔]]の[[:en:Sanchi#Satavahana period (1st century BCE – 1st century CE)|塔門浮彫]]'''([[サータヴァーハナ朝]])と'''{{仮リンク|バールフット|en|Barhut|label=バールフットの欄楯}}'''が挙げられる。
仏の擬人化された表現は、[[北インド|インド北部]]の1世紀の[[ビマラ]]のから現れ始めたが[[パキスタン]]、[[アマラヴァティ・マーブル|アマラバティ]]、インド中部北部の[[マトゥラー|マトゥラ]]地方の3つの主要な創造の中心地は、現在の[[カイバル・パクトゥンクワ州|北西フロンティア州]]の[[ガンダーラ]]と特定されている。


インドにおける仏教美術の最初期の作品は、紀元前1世紀にさかのぼる。[[ブッダガヤ]]の[[ブッダガヤの大菩提寺|マハーボディー寺院]]は、[[ビルマ]]と[[インドネシア]]で同様の構造の寺院が建造された。[[スリランカ]]、[[シーギリヤ|シギリヤ]]のフレスコ画は、制作年代において[[アジャンター石窟群|アジャンタ洞窟]]のものよりも遡るとされている <ref>[http://www.frontline.in/archives.htm Buddhist Art] Frontline Magazine 13–26 May 1989</ref>。<gallery mode="nolines">
ヘレニズム文化は、332年の[[アレクサンドロス3世|アレキサンダー大王]]の征服中にガンダーラに導入され [[マウリヤ朝|マウリヤ帝国]]の創設者である[[チャンドラグプタ (マウリヤ朝)|チャンドラグプタマウリヤ]] (西暦前321–298年)は、紀元前305–303年の[[セレウコス・マウリヤ戦争|セレウコス朝戦争]]中にマケドニアのサストラップを征服するがインド亜大陸で最大の帝国を形成したチャンドラプタの孫[[アショーカ王|アショカ]] (r。268–232 BCE)は [[カリンガ戦争]]の後に仏教徒に改宗。アショカは拡張主義イデオロギーを捨て、そしてアショカの[[アショーカ王碑文|令]]に記述されているように帝国全体に宗教と哲学を広めるために始動した。アショカは彼の領内のギリシャの影響を仏教へと変えたと主張しているという:
ファイル:Peace at Sanchi Stupa.jpg|[[サーンチーの塔]] [[紀元前2世紀|紀元前2世紀]]から[[紀元前1世紀|1世紀]]ごろ 建造から数世紀かけ段階的に増築が繰り返された。釈迦の遺骨([[仏舎利]])を安置する[[ストゥーパ]]の周囲四辺には塔門([[トーラナ]])が配されている。インドにおけるこれらトーラナには、仏生図や本生図などが描かれた。
ファイル:Sarnath capital.jpg|『[[アショーカの獅子柱頭]]』 [[アケメネス朝]]との交流に基づく、ペルシャ美術の影響が見られる。
ファイル:MaraAssault.jpg|『降魔成道』 2世紀 {{仮リンク|アマラヴァティ (グントゥール県)|en|Amaravati, Guntur|label=古都アマラヴァティ}}出土 [[ギメ東洋美術館]]蔵 瞑想中の仏陀を[[マーラ]]が襲う。このレリーフにおいては、不可視である仏陀が{{仮リンク|空の玉座|en|Hetoimasia}}で暗示されている。
ファイル:Bharhut Pasenadi Pillar - Dharmachakra.jpg|[[バールフット]]、[[プラセーナジット|プラセーナジット王]]と[[法輪]]のレリーフ
</gallery>


=== 仏像時代(紀元1世紀 – 現在) ===
{{quote|Here in the king's domain among the Greeks, the [[Kambojas]], the Nabhakas, the Nabhapamkits, the Bhojas, the Pitinikas, the Andhras and the Palidas, everywhere people are following Beloved-of-the-Gods' instructions in [[Dharma]]<ref>''[[Edicts of Ashoka|Rock Edict Nb13]]'' (S. Dhammika)</ref>}}
{{see also|w:Greco-Buddhist art|w:Mathura art|w:Amaravati Marbles|インド美術#古代中期}}
[[シュンガ朝|シュンガ]]帝国によるモーリシャス帝国の転覆後、[[グレコ・バクトリア王国|グレコ・バクトリア]] [[シュンガ朝|朝]]とその後の[[インド・グリーク朝|インド・ギリシャ]]王国がインド北西部に侵入し 彼らは亜大陸の他の地域へのグレコ仏教芸術スタイルの普及を促進。インド・ギリシャ王[[メナンドロス1世|メナンデル1世]]は、仏教の偉大な後援者として有名で、[[阿羅漢|アラハト]]の称号を獲得し <ref>"(In the Milindapanha) Menander is declared an arhat", McEvilley, p. 378.</ref> その間、[[プシャミトラ|プシュヤミトラ・シュンガ]]は仏教を迫害。[[プシャミトラ|モーリアン]]帝国の遺産をさらに消し去るためだと思われているが <ref>Simmons, Caleb; Sarao, K. T. S. (2010). "Pushyamitra Sunga, a Hindu ruler in the second century BCE, was a great persecutor of Buddhists". In Danver, Steven L. Popular Controversies in World History. ABC-CLIO. p. 89. {{ISBN2|978-1598840780}}</ref> これにより、マトゥラ東部の仏教美術が衰退した。
[[ファイル:Coin of Kanishka I.jpg|左|サムネイル|[[カニシカ王]]の[[金貨]] [[2世紀]] 裏面には仏陀の肖像と[[ギリシア語|ギリシャ語]]で"ΒΟΔΔΟ"(ボッド、すなわち[[仏陀]])と刻印されている。]]
2020年の段階で確認されている最古の仏陀の偶像表現は[[ガンダーラ|'''ガンダーラ地方''']]、現代の[[ジャラーラーバード]]近郊で1世紀に作られた{{仮リンク|ビマラン棺|en|Bimaran casket}}(後述、{{節リンク|仏教美術|アフガニスタン}})であるが、[[仏像]]が制作されたのもまたガンダーラ地方であった。厳密な年代特定は、作品に制作年代が記されていないことや、学術的な調査や現地政府による保護管理体制を経ずに発掘が行われた経緯から困難ではあるものの<ref name="Baku-33">[[#朴|朴(2016) p.33]]</ref>、[[イラン系民族|イラン系]]の王朝、[[クシャーナ朝]]の[[カニシカ1世|カニシカ王]](在位144年-171年頃)の治世には既に大量の仏像が制作されていたようである。[[カラチ博物館]]所蔵の『'''祇園布施図'''』は、正確な出土地が不明であることと、その様式からパルティア時代のガンダーラのものと判別できる点で、その典型的な例と言えよう<ref name="Yamada82">[[#山田|山田(1999) p.82]]</ref>。また、ガンダーラ地方とほぼ同時期に、[[北インド]]の'''[[マトゥラー]]'''と[[南インド|南東インド]]の'''[[アマラーヴァティー]]'''でも仏像の制作が始められた。[[ファイル:Fasting_Buddha_Sikri_Yusufzai_stupa,_Lahore_Museum.jpg|サムネイル|『仏陀苦行像』 [[カイバル・パクトゥンクワ州]]シクリ(Sikri)出土 {{仮リンク|ラホール博物館|en|Lahore Museum}}蔵<ref>{{Cite web|url=https://artsandculture.google.com/asset/_/QgGcgQazjovxxg|title=Fasting Siddhartha|accessdate=2021-04-18|publisher=[[Google]]}}</ref>]]
[[ヘレニズム|'''ヘレニズム''']]文化は、[[紀元前4世紀]]の[[アレクサンドロス3世|アレクサンドロス大王]]の征服によってガンダーラにもたらされた。 [[マウリヤ朝|マウリヤ帝国]]の建国者である[[チャンドラグプタ (マウリヤ朝)|チャンドラグプタ]](在位[[紀元前321年|紀元前321]]–[[紀元前298年|298年]])は、4世紀末の{{仮リンク|セレウコス・マウリヤ戦争|en|Seleucid–Mauryan war}}でインド北西部の[[マケドニア王国|マケドニア]]領([[サトラップ]])を征服した。そのチャンドラプタの孫である[[アショーカ王]](在位[[紀元前268年|紀元前268]]-[[紀元前232年|232年]])は[[インド亜大陸]]に覇を唱えたが、[[カリンガ戦争]]の後に仏教に深く帰依するようになった。以降対外拡張戦争に消極的となったアショーカは、法勅として石碑に刻ませた碑文に見られるようにマウリヤ帝国全体へ「法(ダルマ)の政治」の普及を目指しはじめた。アショーカ王は、法勅のなかでマウリヤ帝国領内のギリシャ人たちを仏教徒へと改宗させたと主張している:


{{quote|……同様にして、ここ王の領土において、〔すなわち〕 {{Underline|[[:en:Yona|ヨーナカ]]}}([[ギリシャ人]])、 [[カンボージャ]]、ナーバカ、ナーバパンティ、ボージャ、 ピティニカ、アンドラ、パーリンダにおいて、到る処で、〔人びとは〕天愛の[[法 (仏教)|法]]の教誡に従っている。<ref>''[[アショーカ王碑文|摩崖奉勅第13章]]'' ([[塚本啓祥]])</ref>|4=[[アショーカ王碑文]]|}}
ガンダーラン仏教の彫刻は人物や装飾品の形で[[インドの芸術に対するヘレニズムの影響|ヘレニズムの芸術的影響]]を示しており、数は以前にインドで知られているものよりもはるかに多くまたより自然で、新たなディテールには波状の髪、両肩を覆うカーテン、靴とサンダル、および[[アカンサス (装飾)|アカンサス]]の葉の装飾が含まれている。{{citation needed|date=April 2018}}
[[File:Inscribed_Seated_Buddha_Image_in_Abhaya_Mudra_-_Kushan_Period_-_Katra_Keshav_Dev_-_ACCN_A-1_-_Government_Museum_-_Mathura_2013-02-24_5972.JPG|リンク=https://en-two.iwiki.icu/wiki/File:Inscribed_Seated_Buddha_Image_in_Abhaya_Mudra_-_Kushan_Period_-_Katra_Keshav_Dev_-_ACCN_A-1_-_Government_Museum_-_Mathura_2013-02-24_5972.JPG|サムネイル|マトゥラー派仏Ku、[[クシャーナ朝|クシャン時代]]]]
マトゥラの芸術は、[[夜叉|ヤクサス]]などの神性の擬人化された表現によって例示されるインドの伝統に基づいている傾向があるが仏のその後の表現と比較してかなり古風なスタイルでマチュラン派は、薄い[[モスリン]]の左肩、手のひらの車輪、蓮華座を覆う服を付与した。{{citation needed|date=April 2018}}


==== ガンダーラ(クシャーナ朝以前) ====
MathuraとGandharaも互いに影響を与え 芸術的な花の咲く間2つの地域はどちらも帝国の首都である[[クシャーナ朝|Kushans]]の下で政治的に統一されており仏の擬人化された表現が本質的にマトゥラでの仏教美術の局所的進化の結果であるのか、それともギリシャ[[グレコ仏教|仏教]]の[[シンクレティズム|統合主義]]によるガンダーラのギリシャ文化の影響の結果であるのかは、依然として議論の問題である。[[ファイル:Bodhisattva_Padmapani,_cave_1,_Ajanta,_India.jpg|左|サムネイル| オーバー等身大フィギュア[[菩薩]] [[聖観音|Padmapani]]、洞窟1、[[アジャンター石窟群]]、5世紀]]この象徴的なアートは、現実的な理想主義によって最初から特徴づけられ、現実的な人間の特徴、プロポーション、態度、属性を、神に届く完璧さと静けさの感覚と組み合わさり、人間と神の両方としての仏のこの表現は、その後の仏教美術の図像的な規範となった。{{citation needed|date=April 2018}}
紀元前2世紀ごろにマウリヤ朝が[[シュンガ朝]]によって滅ぼされると、この混乱に乗じて、ヘレニズム国家であった[[グレコ・バクトリア王国]]やそれに続く[[インド・グリーク朝]]の諸王国が紀元前2世紀から1世紀にかけてインド北西部を支配する。 彼らの征服活動により、{{仮リンク|ギリシャ式仏教美術|en|Greco-Buddhist art}}がインド亜大陸の他の地域へと広まることとなった。前2世紀中頃のインド・グリーク朝の王、[[メナンドロス1世]](ミリンダ王)は、仏教の偉大な庇護者として知られ、のちには[[出家]]して[[阿羅漢]]果を得たという<ref>"(In the Milindapanha) Menander is declared an arhat", McEvilley, p. 378.</ref><ref group="注釈">阿羅漢果とは、[[四向四果]]という仏教における修行の8段階のひとつで、すべての煩悩を断じ終って[[涅槃]]に入り、もはや再び生死を繰返すことがなくなった位のこと。</ref>。


また、この時代、紀元前1世紀には、[[上座部]]から分裂し教勢を増しつつあった[[説一切有部]]が、「心に感じられる一切のものは実在する」という、仏陀の偶像表現を許容しうる主張を行っていた。しかしながら、実際に人間の姿をとった釈迦像が確認できるのは1世紀末のことである。
インドの初期の仏教絵画の残骸はほとんどないが、[[アジャンター石窟群|アジャンタ洞窟]]の後半の段階では、約480 CEまでの比較的短い期間に残された作品の大部分が残っており、これらは非常に洗練された作品であり、明らかによく発達した伝統で生産されており、おそらく宗教的な主題と同じくらい宮殿で世俗的な作品を描いているといえる。


紀元1世紀、北インドを統一した[[クシャーナ朝]]は、ガンダーラ地方の[[プルシャプラ]](現代の[[パキスタン]]、ペシャワール)を都と定め、[[仏典結集#第3回|第3回仏典結集]]を主催し、この頃すでに盛んになっていた[[大乗仏教]]・[[菩薩|菩薩信仰]]を保護した。
インドでは仏教美術がさらに数世紀にわたって発展し続けたがピンク色のマトゥラの[[砂岩]]彫刻は [[グプタ朝|グプタ]]時代(西暦4世紀から6世紀)に進化し、非常に高い技術の細かさのモデリングと繊細さを実現している。グプタ派の芸術は、アジアの他の地域広域に非常に高い影響力があり 西暦12世紀の終わりには、仏教が栄光を極め、インドのヒマラヤ地域でのみ保存されるようになっていくがこれらの地域はその場所に助けられてチベットや中国とより密接に接触していた。例えば[[ラダック]]の芸術と伝統はチベットと中国の影響の印をうけている。
[[File:Buddhist_Expansion.svg|リンク=https://en-two.iwiki.icu/wiki/File:Buddhist_Expansion.svg|右|サムネイル|240x240ピクセル|アジア全体での仏教の拡大。]]
仏教が西暦1世紀からインド国外に拡大するにつれて、そのオリジナルの芸術的パッケージは他の芸術的影響と混ざり合い、信仰を採用する国々の間で進歩的な差別化をもたらした。


初期のガンダーラの仏教美術には、その人体表現や装飾表現において{{仮リンク|インド美術に対するヘレニズムの影響|en|Hellenistic influence on Indian art|label=ヘレニズムがインド美術に及ぼした影響}}をうかがうことができる。これらの仏像は、それまでインドで作られていた像よりも遥かに大きく作られ、写実的な表現が試みられた。波打つ髪や[[コントラポスト]]、通肩<ref group="注釈">[[袈裟]]を両肩にのせる着衣法。</ref>、靴、[[サンダル]]、[[アカンサス (装飾)|アカンサス]]による装飾などは、ヘレニズム下のギリシャや[[古代オリエント]]由来のものである。
* 1世紀のCEから[[中央アジア]]、[[ネパール]]、[[チベット]]、[[ブータン]]、[[中華人民共和国|中国]]、[[朝鮮|韓国]]、[[日本]]、[[ベトナム]]を経由して'''北部ルート'''が確立され、[[大乗仏教|大乗]]仏教が普及
* '''南ルート'''、[[上座部仏教|上座部]]仏教の影響下は、を経て[[ミャンマー]]、[[スリランカ]]、[[タイ王国|タイ]]、[[カンボジア]]、および[[ラオス]]


2世紀頃までのガンダーラでは、信仰対象というよりも修行の励みとするため仏伝図や釈迦の独尊像が作られていた。ところが、3世紀に入りアヴァローキテーシュヴァラ([[観音菩薩|観音]])信仰やマイトレーヤ([[弥勒菩薩|弥勒]])が始まると、[[現世利益]]のため、崇拝の対象としての仏像が作られるようになる。[[File:Inscribed_Seated_Buddha_Image_in_Abhaya_Mudra_-_Kushan_Period_-_Katra_Keshav_Dev_-_ACCN_A-1_-_Government_Museum_-_Mathura_2013-02-24_5972.JPG|リンク=https://en-two.iwiki.icu/wiki/File:Inscribed_Seated_Buddha_Image_in_Abhaya_Mudra_-_Kushan_Period_-_Katra_Keshav_Dev_-_ACCN_A-1_-_Government_Museum_-_Mathura_2013-02-24_5972.JPG|サムネイル|{{仮リンク|マトゥラーの美術|en|Mathura art|label=マトゥラー様式}}の仏像 {{仮リンク|北クシャトラパ|en|Northern Satraps}}([[インド・スキタイ王国]]) 1世紀末頃<ref name="PDM122">{{cite journal|last1=Myer|first1=Prudence R.|date=1986|title=Bodhisattvas and Buddhas: Early Buddhist Images from Mathurā|journal=Artibus Asiae|volume=47|issue=2|pages=111–113|doi=10.2307/3249969|issn=0004-3648|jstor=3249969}}</ref>]]
== 北部仏教美術 ==
==== マトゥラー ====
中央アジア、中国、そして最終的には韓国と日本へ[[仏教のシルクロード伝播|の仏教]]の[[仏教のシルクロード伝播|シルクロード]]の伝承は、中国皇帝[[明帝 (漢)|明]] (58–75)によって西に送られた大使館の半伝説的な説明から1世紀に始まるがしかし恐らく多くの中央アジアの仏教修道士宣教師の努力で [[タリム盆地|タシャン盆地]]の中国領土への[[クシャーナ朝|クシャン帝国]]の拡大の結果として、大規模な接触は西暦2世紀に始まったといえる。[[支婁迦讖|ロカクセマ]]のような仏教経典の[[中国語]]への最初の宣教師と翻訳者は [[パルティア|パルティア人]]、[[クシャーナ朝|クシャン]]、[[ソグディアナ|ソグド人]]または[[トカラ語|クチェアン]] とされる。
紀元前から紀元後1世紀の'''[[マトゥラー]]'''は、宗教都市であると同時に、[[ガンジス川]]の支流[[ヤムナー川]]に面していたことから交易都市としても栄え、商業的に発展していた。紀元前2世紀には[[シュンガ朝]]の[[プシャミトラ|プシュヤミトラ]]の支配が及び、この間仏教は迫害された。おそらくはマウリヤ朝の影響を消し去ることが目的であったようだが <ref>Simmons, Caleb; Sarao, K. T. S. (2010). "Pushyamitra Sunga, a Hindu ruler in the second century BCE, was a great persecutor of Buddhists". In Danver, Steven L. Popular Controversies in World History. ABC-CLIO. p. 89. {{ISBN2|978-1598840780}}</ref>、 これによってマトゥラ東部の仏教美術は一度衰退した。1世紀後半、クシャーナ朝の支配がこの地へ及ぶと、マトゥラーは副都と定められ、多文化の交流する文化発信地の役割も果たすようになる。こういった状況のもとで、マトゥラーでは仏教美術がふたたび盛んになったのみならず、インド大陸の他地方にさきがけて最初期の仏像が制作された。北西インド、ガンダーラの影響を受けて造像が始まったという可能性も否定できないが、図像や造形、様式については[[ヘレニズム]]由来ではなく、同地における[[マウリヤ朝]]以来の他宗派の芸術([[夜叉|ヤクシャ像]]、[[ヤクシニー (夜叉)|ヤクシー像]][<nowiki/>[[バラモン教]]]・[[マハーヴィーラ|ジナ像]][<nowiki/>[[ジャイナ教]]])からの流れが色濃く、インド土着の表現がなされている<ref name="Baku-36">[[#朴|朴(2016) p.36]]</ref>。例として、頂髻相(頭頂部に巻き貝型の[[肉髻]])、口髭があまり付けられないことなどが挙げられる。その一方、形式上の共通点も見られないわけではない。[[白毫相]](白い毛房)、[[耳たぶ|耳朶]]の垂下、手足の千輻輪相、頭光(神聖さを表す光の円盤)(これらは[[三十二相八十種好]]で挙げられる仏陀の身体的特徴である)などは、いずれもクシャーナ朝の都であったガンダーラ、マトゥラー両都市で、これらの要素を意識しながら制作が行われていたようである<ref group="注釈">三十ニ相の内容は、経典によって差異が認められる。したがって、インド大陸各地方での造像の展開に伴って、段階的に整理されていったと考えられる。</ref>。[[ファイル:Bodhisattva_Padmapani,_cave_1,_Ajanta,_India.jpg|左|サムネイル| 『守門神(蓮華手菩薩)』[[アジャンター石窟群|アジャンター石窟]]第1窟 [[5世紀]] アジャンターの石窟に描かれた壁画は、総体としてはこのような尊像よりも、説話図や装飾画の方が割合としては大きい。]]<!-- この象徴的なアートは、現実的な理想主義によって最初から特徴づけられ、現実的な人間の特徴、プロポーション、態度、属性を、神に届く完璧さと静けさの感覚と組み合わさり、人間と神の両方としての仏のこの表現は、その後の仏教美術の図像的な規範となった。[要出典] -->
<!-- ==== アマラ―ヴァティー ====
==== グプタ ==== -->
==== 後期石窟寺院美術 ====
インドにおける初期仏教絵画の作例はほとんど遺されていない。だが、[[アジャンター石窟群|アジャンター石窟]]の後期の壁画は、480年頃までの比較的短い期間に残された作品群として、この時代の希少な仏教絵画の大部分を成している{{要出典|date=2021年3月}}。これら作品の極めて洗練された描写は、明らかによく発達した伝統に基づいている。また、宗教的な主題だけでなく、宮廷内の華やかな様子や王と王妃が交歓している官能的な場面は、アジャンター石窟そのものが持っていた世俗性と、[[バラモン教]]からの民衆化・世俗化が進展しつつあった[[ヒンドゥー教]]の美術と仏教美術の接近・融合を示唆している。


インドでは仏教美術がさらに数世紀にわたって発展し続けたがピンク色のマトゥラの[[砂岩]]彫刻は [[グプタ朝|グプタ]]時代(西暦4世紀から6世紀)に進化し、非常に高い技術の細かさのモデリングと繊細さを実現している。この時期には'''[[サールナート]]'''で白い砂岩が用いられた仏像が盛んに作られた一方、マトゥラーでも引き続き造像が続けられた。
[[シルクロード]]に沿った中央アジアの宣教活動には、現代の[[新疆ウイグル自治区]]タリム盆地で2世紀から11世紀までの[[セリンドアート|セリニアン美術]]の発展に見られる芸術的影響の流れが伴い、セリンインド[[グレコ・ブッディスト美術|美術]]はインド、ギリシャ、[[ローマ美術|ローマ]]の影響を組み合わせた、現在の[[パキスタン]] [[ガンダーラ]]地区の[[グレコ・ブッディスト美術|グレコ仏教美術]]に由来している。シルクロードグレコ仏教の芸術的影響は、建築モチーフ、仏像そして[[神 (神道)|日本の神々の厳選された]]表現にみれるので今日まで日本にまで及んでいることがわかる。


インドでは仏教美術はその後も数世紀にわたり発展し続けた。[[グプタ朝|グプタ]]時代([[4世紀]]から[[6世紀]])には、マトゥラーの[[砂岩|赤色砂岩]]彫刻はさらに進化し、仏教美術の造形は優美さと繊細さにおいて極致に達した。グプタ様式は、アジアのほとんどの地域に強い影響を及ぼした。12世紀末には、仏教は[[南アジア]]のなかでは[[ヒマラヤ山脈|ヒマラヤ地域]]でのみ栄えていた。が、これらの地域はその場所に助けられてチベットや中国とより密接に接触していた。例えば、[[ラダック]]の芸術と伝統はチベットと中国の影響を受けている。
北部ルートの芸術は伝統的な[[阿含経|アーガマ]]に加えて、新しい字の採用と仏教の理解の変化を特徴とする仏教の包括的な枝である[[大乗仏教|マハーヤナ]]仏教の発展によっても大きな影響を受け、大乗は伝統的な超えて[[部派仏教|初期の仏教]]の苦しみからの解放([[苦 (仏教)|duḥkha]]の理想的) [[阿羅漢|arhats]] と[[菩薩]]の道を強調しているが、マハーヤナ経は仏を超越的で無限の存在に昇格させて [[波羅蜜|六つの完全性]]、究極の知識( [[般若経|Prajñāpāramitā]] )、悟り、すべての衆生の解放に専念する[[般若経|般若]]パンテオンを特徴としている。したがって北部仏教芸術はさまざまな[[成仏|仏像]]、[[成仏]]像、および天体( [[天部|devas]] )といった多数の画と像を備え非常に豊かで統合的な仏教のパンテオンによって特徴付けられる傾向がある。


{{Clear}}
=== アフガニスタン ===<!-- Deleted image removed: [[File:GBA1(trimmed).jpg|thumb|upright|Statue from a Buddhist monastery, 700&nbsp;AD, Afghanistan]] -->

=== 密教の登場 ===
[[ファイル:Anonymous - Perfection of Wisdom in Eight Thousand Lines, Ashtasahasrika Prajnaparamita, Decorated Leaf - 1938.301.5 - Cleveland Museum of Art.tiff|中央|サムネイル|660x660ピクセル|[[八千頌般若経]] [[パーラ朝]]末期 [[1119年]] [[貝葉]] [[ヴィクラマシーラ大学]](超戒寺)で制作 [[クリーブランド美術館]]蔵]]
{{節スタブ|date=2021年3月}}
[[ファイル:Khasarpana Lokesvara.jpg|左|サムネイル|[[聖観音]](アヴァローキテーシュヴァラ)像 [[9世紀]] [[パーラ朝]] 北東インド、[[ビハール州]]・[[ナーランダ]]出土]]
6世紀、ヒンドゥー教を国教としたグプタ朝の北インド統一と<ref group="注釈">ただし、グプタ朝は仏教を積極的に弾圧したわけではない。</ref>、[[ローマ帝国の滅亡|ローマ帝国]]の混乱に端を発する東西交易の退潮が起こる。これによって、インドの仏教は庇護者・檀家層の両者からの援護を以前ほどは受けられなくなった。また、商業・交易の衰退は、バラモンと農村地帯に基盤を置くヒンドゥー教の影響力を相対的に増させることとなった<ref>{{Cite web|url=https://www.kosaiji.org/Buddhism/mikkyo.htm|title=密教|accessdate=2021-03-28|publisher=[[広済寺 (尼崎市)|広済寺]]|author=石伏叡齋}}</ref>。劣勢に立たされた仏教教団は、打開策として既存のヒンドゥー教や[[ベンガル地方]]で勃興しつつあった[[タントラ]]、その他の民間信仰といった、他宗の儀式や習俗を取り込んでいく。インドにおける密教美術は、7世紀から13世紀初頭まで続いた<ref>[[インドにおける仏教の衰退|インドにおける仏教の実質的な滅亡]]は、13世紀はじめ頃の[[ナーランダ大学]]と[[ヴィクラマシーラ大学]]の破壊とされる。インドにおける仏教の再興は、20世紀の[[アナガーリカ・ダルマパーラ|ダルマパーラ]]や[[ビームラーオ・アンベードカル|アンベードカル]]らの登場を待たねばならなかった。</ref>。


'''[[密教]]'''が体系化されていくにあたって、儀礼主義の復活([[護摩]])、シンボルの重視([[真言]]や[[曼荼羅]]、[[印契]])などが図られた。その中で、いわば密教美術と呼べるものとして登場したものが、儀式用の法具やマンダラであった。
[[アフガニスタン]] (旧[[バクトリア]] )の仏教美術は、7世紀にイスラムが広まるまで、数世紀にわたって存続。それは[[バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群|バーミヤン]]の[[バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群|仏]]によって例示され[[化粧しっくい|スタッコ]]、[[結晶片岩|片岩]]または[[粘土]]製その他の彫刻は、インドの[[グプタ朝|グプタ]]後のマニエリスムと[[ヘレニズム]]、あるいは[[グレコ・ローマン|グレコローマン]]の古典的な影響が非常に強く融合している。


当然ながら、仏教彫刻においても密教化は進んだ。世紀中頃に造営が始まった'''{{仮リンク|アウランガーバード石窟|en|Aurangabad Caves}}'''では、建築構造や女尊表現、官能的な身体表現といったアジャンター以前には見られなかった特徴が確認でき、ヒンドゥー美術の影響の大きさと密教美術の萌芽を見ることができる<ref name="Baku-44">[[#朴|朴(2016) p.44]]</ref>。これは、彫刻史的な視点においても変化を意味していた。動的な所作や豊かな肢体が表現されるようになったことは、すなわち、仏教彫刻古典的なグプタ朝美術からバロック的な中世インド美術への移行であった。
イスラムの支配は他の「 [[啓典の民|本]] 」の宗教に多少寛容であったが、「 [[偶像崇拝]] 」に依存する宗教として知覚された仏教にはほとんど寛容を示さなかった。その芸術形態もイスラム教の下で禁止されており、仏教美術は多くの攻撃を受け [[ターリバーン|タリバン]]政権による体系的な破壊で頂点に達しバーミヤンの仏像、[[ハッダ (アフガニスタン)|ハダ]]の彫刻、アフガニスタン博物館に残っている多くの遺物が破壊された。


11世紀末から始まった[[セーナ朝]]の時代は、インド亜大陸において仏教美術が盛んに作られた最後の期間であった。[[1203年]]に[[ゴール朝]]の軍勢によって[[ヴィクラマシーラ大学]]が破壊されると、同地における仏教の中心地を失った僧侶たちは他国へと移住・亡命し、インドにおける仏教美術もまた終焉を迎えた。<gallery>
1980年代以降の複数の紛争により、明らかにアーティファクトが見つかる可能性のある国際市場で期待され、考古学的遺跡の体系的な略奪が行われた。
ファイル:AURANGABAD47.jpeg|諸難救済の観音菩薩<ref name="Baku-45">[[#朴|朴(2016) p.45]]</ref> [[マハーラーシュトラ州]]アウランガーバード石窟第7窟 [[玄武岩]] 6世紀後半
ファイル:2 Vajrayana mother goddesses at Aurangabad Buddhist Caves.jpg|密教の女尊群 アウランガーバード石窟
ファイル:Crowned Buddha, Bihar, Pala Empire, 10th-11th century.jpg|銅冠釈迦像 [[パーラ朝|パーラ帝国]](10世紀から11世紀) [[ビハール州]] メトロポリタン美術館蔵
ファイル:043 Buddha Teaching, Nalanda (9218609395).jpg|説法釈迦像 [[ナーランダ大学]]出土 ビハール州{{仮リンク|パトナ博物館|en|Patna Museum}}蔵
ファイル:057 Tara, Nalanda (9221347438).jpg|[[多羅菩薩]]像 ナーランダ大学出土 ビハール州{{仮リンク|パトナ博物館|en|Patna Museum}}蔵
ファイル:Bangladeshi - Bodhisattva Avalokiteshvara - Walters 543006 - View A.jpg|聖観音像 9世紀 青銅 [[バングラデシュ]]出土 [[メリーランド州]][[ウォルターズ美術館]]蔵
</gallery>{{Clear}}


[[11世紀]]に始まるイスラーム王朝のインド侵入以降、北インドの密教含む仏教は大きく衰退するが、密教とそれに付随する密教美術はカンボジアや[[大スンダ列島]]、チベットといった、インドの周辺地域へと軸足を移していた。特にチベット由来の密教とその美術は、[[モンゴル系民族]]や中国へと数世紀に渡って多大な影響を残すこととなる。[[File:Buddhist_Expansion.svg|リンク=https://en-two.iwiki.icu/wiki/File:Buddhist_Expansion.svg|サムネイル|240x240ピクセル|アジア全体での仏教の拡大。黒の矢印は[[初期仏教]]の展開を示す。また、赤が大乗仏教の、緑が上座部仏教の、青が密教の伝来経路を示している。]]
=== 中央アジア ===
1世紀以降、仏教がインド国外へと広まっていくと、本来的な一連の仏教美術が他の芸術の要素と混ざり合い、仏教受容国間で仏教美術の発展的差異が生じさせていった。
{{See also|敦煌学|莫高窟|ホータン王国|シルクロード}}
[[File:SerindianGroup.jpg|リンク=https://en-two.iwiki.icu/wiki/File:SerindianGroup.jpg|左|サムネイル|セリンインド美術、6〜7 世紀のテラコッタ、Tumshuq(新in)。]]
[[中央アジア]]は長い間、中国、インド、[[イラン|ペルシャ]]の出会いの場の役割を果たし 紀元前2世紀に [[漢|元漢]]の西側への拡大により、アジアのヘレニズム文明、特に[[グレコ・バクトリア王国|グレコバクトリア王国]]との接触が増加。


* '''北伝仏教''':主に[[大乗仏教]]([[顕教]]と[[密教]]<ref group="注釈">7世紀から13世紀にかけて、インドでは新興のヒンドゥー教との対立のなかで[[密教]]が成立した。[[唐|唐代]]の中国へは、[[善無畏]]、[[金剛智]]らによって7世紀には伝わっていた。
その後仏教の北への拡大は中央アジアのオアシスに仏教徒のコミュニティと仏教の王国の形成さえもたらし、[[シルクロード]]の一部の都市はほぼ完全に仏教の仏塔と修道院で構成されており、その主な目的の1つは東西間の旅行者を歓迎し、サービスを提供することであったという。


9世紀、[[空海]]によって日本にも中国から中期密教が取り入れられるが、それ以降は積極的に密教を取り入れる動きはなくなった。
中央アジアの東部(特に[[東トルキスタン|中国のトルキスタン]] ( [[タリム盆地]]、[[新疆ウイグル自治区|新]] ))は、非常に豊かな[[セリンドアート|セリンドの芸術]] (多くの洞窟の[[洞窟壁画|壁画]]と[[レリーフ]]、キャンバス上の携帯用の絵画、彫刻、儀式のオブジェクト)ヘレニズム文化を明らかにし ガンダーラ様式を連想させる芸術作品、および[[カローシュティー文字|ガンダーリ]]文字[[カローシュティー文字|ハロシュティ]]の経典が見つかっている。しかし、これらの影響は活発な中国文化に急速に吸収され、その時点から中国特有の特色が強まっていく。


一方、[[吐蕃|チベット]]は、8世紀後半に仏教を国教とすると、インドから直接密教を取り入れ続けた。それゆえに、『[[無上瑜伽タントラ]]』が実践されるなど後期密教の特徴を強く残している。</ref>)が普及。[[中央アジア]]、[[ネパール]]、[[チベット]]、[[ブータン]]、[[スマトラ島]]、[[ジャワ島]]、[[中華人民共和国|中国]]、[[朝鮮|韓国]]、[[日本]]、[[ベトナム]]など
* '''南伝仏教''':主に[[上座部仏教]]が普及<ref group="注釈">ひとことに南伝仏教といっても、[[インド洋]]以東には上座部仏教と同時に大乗仏教も広まった。例えば、[[ボロブドゥール寺院遺跡群]]を建設した[[シャイレーンドラ朝|シャイレーンドラ王家]]は、大乗仏教を信奉していた。</ref>。[[南インド]]から[[ミャンマー]]、[[スリランカ]]、[[タイ王国|タイ]]、[[カンボジア]]、および[[ラオス]]
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=== 中国 ===
{{see also|中国美術|中国の歴史|中国の宗教|中国の仏教}}仏教は西暦1世紀ごろに中国に到着し、特に彫像の領域で、中国に新しいタイプの芸術をもたらした。この遠い宗教を受けて、強い中国の特徴は仏教芸術に組み込まれた。{{multiple image
<!-- Essential parameters -->|align=right|direction=horizontal|width=|height=<!-- Image 1 -->|image1=NorthernWeiMaitreya.JPG|caption1=A Chinese [[Northern Wei]] Buddha Maitreya, 443&nbsp;CE.|width1=132|height1=<!-- Image 2 -->|image2=Maitreia, Northern Wei dynasty, dated 512, Stone, Prague, NG Vp 3176, 151206.jpg|caption2=A seated [[Maitreya]] statue Northern Wei, 512&nbsp;CE.|width2=133|height2=<!-- Image 3 -->|image3=TangBodhisattva.JPG|caption3=Tang [[Bodhisattva]].|width3=140|height3=|header=Chinese Buddhist Art|header_align=center|header_background=|footer=|footer_align=<!-- left/right/center -->|footer_background=|background color=}}


==== 北王朝 ====
5世紀から6世紀にかけて、[[南北朝時代 (中国)|北王朝]]はかなり象徴的で抽象的な表現様式を模式的な線で発展させるが彼らのスタイルは荘厳であるとも言われており 肉体性の欠如およびアクセス可能で現実的な方法で悟りの純粋な理想を表現する元の仏教の目的からの距離は、徐々に仏教芸術の表現につながるより自然主義と現実主義への変化につながっていく。


== 北伝仏教美術 ==
仏教彫刻が保存されている場所:
{{seealso|大乗仏教#伝播}}
[[ファイル:Amitayus Buddha in His Paradise.jpg|左|サムネイル|260x260ピクセル|『阿弥陀仏極楽浄土図』[[18世紀]] [[チベット]] [[メトロポリタン美術館]]蔵]]
中央アジア、中国、そして最終的には朝鮮半島と日本にまで至る[[仏教のシルクロード伝播|仏教]]の[[シルクロード]]を介した伝播は、[[後漢]]の[[明帝 (漢)|明帝]] によって西方へと派遣された[[甘英]]ら使節たちが残した半伝説的な説明によって、紀元1世紀まで遡ることができる。しかしながら、より広範な伝播は2世紀ごろ、[[クシャーナ朝]](仏教の庇護者であった)の[[西域]]への拡大と、中央アジア出身の僧侶たちの漢訳活動と熱心な中原への布教とによって始まったといえる。[[支婁迦讖]]のような中国への最初期の仏教伝播を担った僧侶たちは、[[パルティア人]]、[[月氏]]、[[ソグド人]]または[[トハラ人]]とされる。


[[シルクロード]]に通じた仏教の布教活動には、芸術方面での影響を伴っていた。それらは、現代の[[新疆ウイグル自治区]]にあたる[[タリム盆地]]で2世紀から11世紀にかけて栄えた[[中央アジアの美術#東トルキスタン|東トルキスタン]]の美術に見ることができる。シルクロード美術は、多くの場合[[ガンダーラ|ガンダーラ地方]]で、インドやギリシャ、[[ローマ美術|ローマ]]の影響を受けつつ成立したギリシャ式仏教美術に起源をもつ。シルクロードのヘレニズム仏教美術の影響は遠くは今日の日本にまで及んでいる。それらは、建築の[[紋様]]([[宝相華文]]や[[連珠文]])や[[仏画]]、[[神道]]([[水天]]や[[鬼子母神]])に見ることができる。
* [[雲崗石窟]]、[[山西省]]
* [[龍門洞窟|龍門石窟]]、[[河南省]]
* [[甘粛省]] [[炳霊寺石窟]]


北伝仏教の美術は、'''[[大乗仏教]]'''の発展に強い影響を受けていた。この教派はより包括的であり、伝統的な[[阿含経]]に加えて新しい経典を採用し、仏教の理解自体を変化させていたことにその特徴があった。大乗仏教は、[[部派仏教|初期仏教]]が修行の到達点としていた[[阿羅漢]]<ref group="注釈">部派仏教(後代の[[上座部]])においては、阿羅漢とは[[仏陀]]以外の修行者の達しうる最高の境地であり、苦しみからの解放された状態であった。</ref>ではなく、そこからさらに[[菩薩]]の境地をめざすことを重要視していた。[[般若経]](大乗仏教の経典群)において、[[仏陀]]は超越的な存在へと押し上げられ、主軸は[[菩提]]、[[波羅蜜|六波羅蜜]]、知恵の完成(般若波羅蜜多、[[般若経|Prajñāpāramitā]])、悟り、衆生の苦しみからの救済に専念する[[菩薩]]たちに置かれた。それゆえ、北伝仏教芸術は、様々な[[成仏]]([[過去七仏]])や[[如来]]、菩薩や[[天部]]([[韋駄天]]や[[帝釈天]])に関する作品に見られるように、多種多様で混淆的である。また、大乗仏教が広まったそれぞれの土地において、土着の宗教や信仰と[[シンクレティズム|結びつくことで]]新たな信仰とそれに伴う芸術様式が生まれることも少なからずあった<ref group="注釈">例えば、インドの中期密教以降ではヒンドゥー教と、南北朝時代以降の中国では道教と、新羅以後の朝鮮半島では[[巫俗]]と、飛鳥時代以後の日本では[[神道]]・[[祟り神|怨霊信仰]]と結びついた。
==== 唐王朝 ====
[[File:Tejaprabhā_Buddha_and_the_Five_Planets_by_Chang_Huai-hsing.jpg|リンク=https://en-two.iwiki.icu/wiki/File:Tejaprabh%C4%81_Buddha_and_the_Five_Planets_by_Chang_Huai-hsing.jpg|右|サムネイル|897 CE]]
[[隋]]から移行した後 [[唐]]の仏像は著しく生き生きとした表現へと進化。外国の影響に対する王朝の開放性と、中国仏教の僧ksのインドへの多数の旅行によるインド文化とのやり取りのおかげで、唐王朝の仏教彫刻は、グプタ時代のインドの芸術に触発された、むしろ古典的な形をとっていくがその間唐の首都[[長安]] (今日の[[西安市|西安]] )は仏教の重要な中心地になり、そこから仏教が[[朝鮮|韓国]]に広がり [[遣唐使]]が日本に足場を築くことになっていった。


一方で、その受容の過程にも国によって差異があった。インドではヒンドゥー教への対抗上仏教側が積極的に神格を取り入れたが、朝鮮では仏教側が既存の巫俗信仰を容認する形で取り込んでいった。</ref>。
しかし中国では唐時代の終わり頃に外国の影響が否定的に認識されるようになり、845年、唐皇帝[[武宗 (唐)|ウズォン]]は、先住民の宗教である[[道教]]を支援するためにすべての「外国の」宗教(キリスト教の[[ネストリウス派|ネストリア主義]]、[[ゾロアスター教]]、[[仏教]]を含む)を禁止。彼は仏教の所有物を没収し、信仰を地下に強制した。その意味で彼は中国の宗教とその芸術の発展に影響を与えた。
[[File:Chinesischer_Maler_von_1238_001.jpg|リンク=https://en-two.iwiki.icu/wiki/File:Chinesischer_Maler_von_1238_001.jpg|左|サムネイル|オーバー等身大フィギュア[[菩薩]] Padmapani、洞窟1、アジャンター石窟群、5世紀]]
[[中国の禅|禅]]仏教は日本の[[禅]]の起源として数世紀にわたって、特にチャン[[宋 (王朝)|王朝]] (960–1279)の下で、チャン僧院が文化と学習の中心地であったときに繁栄し続けた。


===アフガニスタン(クシャーナ朝以後のガンダーラ)===
禅教修道士による初期の絵画は活気のあるモノクロの絵画を好む組み合わせ絵画特有の細心のリアリズムを避け、[[ゴンビ|ブラシワーク]]を通して啓発の影響を表現しようとする傾向がみえる <ref>Cotterell, A; ''The imperial capitals of China: an inside view of the celestial empire'', Random House 2008, {{ISBN2|978-1-84595-010-1}} p. 179</ref>。
{{See also|ガンダーラ#ガンダーラ美術|:en:Gandharan Buddhism}}


[[バクトリア]]地方(現在の[[アフガニスタン]])の仏教美術は、[[7世紀]]に[[アッバース朝#アッバース朝の最盛期|イスラーム勢力]]がこの地に拡大するまで数世紀にわたって存続した。また、この地では、[[1世紀|紀元1世紀]]頃に人の姿をした仏陀([[仏像]])が初めて制作された。また、それに続いて[[釈迦菩薩]]や[[弥勒菩薩]]などの菩薩像や、仏伝図<ref group="注釈">仏伝図とは、釈迦の生涯、つまり出生直前の出来事から[[涅槃]]までを描いたもの。</ref>を物語る、仏塔や寺院の内部を装飾するための[[レリーフ|浮彫]]が作られるようになる<ref name="Toyo-2-38">[[#前田|前田(2012) p.38]]</ref>。この時代の空気をうかがえる代表的な例としては、[[カニシカ王の舎利容器]]が挙げられる。
12世紀に[[朱熹]]下での[[宋明理学]]の台頭は、僧画家に対し多くの批判をもたらした。彼らが禅仏教で当時人気がなかった学校と関係していたので、彼らの描く絵は捨てられ無視された。一部の絵は禅僧を訪ねて日本に運ばれた後も生き残ったが、禅の絵の学校は次第に衰退していった <ref>Ortiz, Valérie Malenfer; ''Dreaming the southern song landscape: the power of illusion in Chinese painting'', Brill 1999, {{ISBN2|978-90-04-11011-3}} pp. 161–162</ref>。


[[3世紀]]前半、クシャーナ朝は[[ゾロアスター教]]を奉じる[[サーサーン朝]]によって滅ぼされた。しかし、ガンダーラ美術の命脈は途絶えなかったどころか、ペルシャや北インドの意匠を取り込みながら発展していったのである。[[バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群|バーミヤン]]では、[[4世紀]]から[[6世紀]]にかけて、2体の大仏をはじめとする多くの[[磨崖仏|石仏]]や、石窟壁画が作られた<ref group="注釈">建設当時、両大仏が建てられたのは交通の要衝であったが、こういった場所に摩崖のレリーフを彫るのはペルシャの伝統であった。また、壁画の色彩感覚や身体表現にササン朝美術の影響を見ることができる。</ref>。他にも、[[化粧しっくい|スタッコ]]、[[結晶片岩|片岩]]または[[粘土]]でも仏教美術が制作された。これらの作品は、インドの[[グプタ朝]]以降の[[マニエリスム|様式主義]]と[[ギリシャ美術]]、{{仮リンク|ヘレニズム美術|en|Hellenistic art|label=}}、ことによってはそれに引き続いた[[ローマ美術]]をも要素として取り入れながら、非常に強く融合させている。
==== 清王朝 ====
清王朝時代、満州皇帝はさまざまな政治的および個人的な理由で仏教の実践を支持し[[順治帝]]は禅仏教の信者であり、彼の後継者である[[康熙帝]]は[[チベット仏教]]を推進し、[[チベット仏教]]が人間の具現化であると主張 <ref>Weidner, Marsha Smith, and Patricia Ann Berger. Latter Days of the Law : Images of Chinese Buddhism, 850–1850. Lawrence, KS: Spencer Museum of Art, University of Kansas, 1994.</ref> しかし、仏教芸術の皇室の後援がこの時期に最高に達したのは、3番目の清の支配者である[[乾隆帝]]の支配下で 彼はチベット様式の膨大な数の宗教的作品を委託し、その多くは彼を様々な神聖な装いで描いている <ref>Berger 1994, p. 113</ref>。


イスラムの支配は、他の「[[啓典の民|啓典]]」の宗教にはいくぶんか寛容だったが、「[[偶像崇拝]]」に依っていると見做された仏教にはほとんど寛容さを示さなかった。したがって、その芸術形態もイスラム教の支配下においては禁止された。[[8世紀]]以降も、[[アッバース朝]]の支配やそれに伴う戦乱で多くの寺院や石仏が破壊された。近代以降も仏教美術はたびたび被害に遭い、体系的な破壊は[[ターリバーン|タリバン]]政権時代に頂点に達した。バーミヤンの仏像、[[ハッダ (アフガニスタン)|ハッダ]]の彫刻、{{仮リンク|アフガニスタン国立博物館|en|National Museum of Afghanistan|label=}}に残っている多くの遺物が破壊・流出させられた。
この期間に制作された芸術作品はチベットと中国の芸術的アプローチのユニークな融合によって特徴付けられ、図像的な細部への特徴的なチベットへの注視と中国風の装飾的な要素を組み合わせており 碑文は多くの場合、中国語、満州語、チベット語、モンゴル語、サンスクリット語で書かれているが、絵画は頻繁に鮮やかな色でレンダリングされていく <ref>Berger 1994, pp. 114–118</ref>。


[[1980年代]]以降、長く続いた[[アフガニスタン紛争]]による混乱は、仏教に関連する文化財の流出と、国際市場への転売を狙った組織的な遺跡への略奪を引き起こした。しかし、[[2000年代]]に入ってから、国外に流失した仏教美術の作品を含む多くの文化財がアフガニスタンへと返還された。日本からは、[[平山郁夫]]らの主導による返還事業が行われた<ref>{{Cite news|title=日本で保護の流出文化財をカブールでお披露目|date=2017-3-2|url=https://www.sankei.com/life/news/170302/lif1703020030-n1.html|newspaper=[[産経新聞]]|accessdate=2021-2-2}}</ref>。
さらに、[[乾隆帝]]は多くの大規模な建設プロジェクトを開始。1744年、彼は[[雍和宮|永和寺]]を北京の主要なチベット仏教の僧院として再献身し多くの貴重な宗教画、彫刻、織物、碑文を寺院に寄付 <ref>Berger 1994, p. 114</ref>。[[Xumi Fushou Temple]]とその中に収められた作品は [[乾隆帝|乾隆皇帝]]によって委託された別のプロジェクトで、乾隆の統治下で中国で生産された仏教美術を特徴づけるチベットと満州の芸術スタイルのユニークなブレンドを具体化した。


<gallery widths="180" mode="nolines">
1795年に[[乾隆帝|乾隆帝が]]退位した後、清宮でのチベット仏教の人気は低下。清皇帝によるチベット仏教の推進の背後にある動機は計算された政治的操作の行為であり満州、モンゴル、チベットのコミュニティを結びつける手段として解釈されてきたが、近年は奨学金による挑戦がなされている<ref>Berger, Patricia Ann. Empire of Emptiness : Buddhist Art and Political Authority In Qing China. Honolulu: University of Hawai'i Press, 2003.</ref>。
ファイル:BuddhistTriad.JPG|[[三尊形式|三尊像]] 大乗仏教初期の例。向かって左から、[[月氏]]の信者、[[弥勒菩薩]]、[[釈迦]]、[[観音菩薩]]、僧侶。 [[ガンダーラ]] [[2世紀]]ら[[3世紀]] 
[[File:Vairochana_the_Cosmic_Buddha_720p.webm|サムネイル|ヴァイロカナコスミックブッダ720]]
ファイル:Afghanistan, bodhisattva, valle di ghorband, monastero di fondukistan, VII sec.JPG|守護神像 粘土造 [[7世紀]]頃 [[アフガニスタン]]、フォンドキスタン出土 [[ギメ美術館]]蔵
[[File:Gathering_of_Buddhas_and_Bodhisattvas_720p.webm|サムネイル|Gathering of Buddhas and Bodhisattvas 720p]]
ファイル:GandharanAtlas.JPG|仏教彫刻を支えるギリシャの神、[[アトラース]] [[ハッダ (アフガニスタン)|ハッダ遺跡]] ギメ美術館蔵
ファイル:BimaranCasket2.JPG|[[:en:Bimaran Casket|ビマラン棺]](黄金の聖遺物容器)に刻まれた仏陀像 [[大英博物館]]蔵
ファイル:Gandharan sculpture - head of a bodhisattva front view (cropped).jpg|菩薩像頭部 4世紀 [[シンガポール]]、{{仮リンク|アジア文明博物館|en|Asia Civilisation Museum}}蔵
</gallery>


===[[トルキスタン]]([[中央アジア]])===
=== レガシー ===
{{See also|敦煌学|ホータン王国|シルクロード}}
中国での仏教の普及により、この国は世界で最も豊かな仏教コレクションがある国と化す。[[莫高窟]]の近く[[敦煌市|敦煌]]と[[甘粛省|甘粛]]省[[永靖県]][[炳霊寺石窟]]など洞窟、[[河南省|河南]]省[[洛陽市|洛陽]]近くの[[龍門洞窟|龍門石窟]]、[[山西省|山西]]省[[大同市|大同]]近くの[[雲崗石窟]]および[[重慶市|重慶]]市近く[[大足石刻]]は、仏教彫刻サイトとして最も重要かつ有名。[[唐|唐時代]]に8世紀に丘の中腹に彫られ、3つの川の合流を見下ろす[[楽山大仏]]は、今でも世界最大の石仏。
[[File:SerindianGroup.jpg|リンク=https://en-two.iwiki.icu/wiki/File:SerindianGroup.jpg|左|サムネイル|『シャンカチャルヤ・アヴァダーナ』[[ジャータカ]]、瞑想する[[仏陀]]に両脇に[[アプサラス]]が控える。仏陀の[[螺髪]]の上には鳥が巣を作っている<ref>{{Cite web|url=https://amis-musee-cernuschi.org/en/bouddha-la-legende-doree-3/|title=Buddha, the golden legend|accessdate=2021-02-05|publisher=[[セルヌスキ美術館]]|language=en|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210205081602/https://amis-musee-cernuschi.org/en/bouddha-la-legende-doree-3/|archivedate=2021-02-05|website=SOCIÉTÉ DES AMIS DU MUSÉE CERNUSCHI|date=2019-06-26}}</ref>。現在の[[新疆ウイグル自治区]][[トムシュク市]]出土 6~7世紀 [[ギメ美術館]]蔵。]]


[[中央アジア]]は長い間、[[ペルシャ]]、中国、インド、それぞれの文化が出会う三叉路であった。[[紀元前2世紀]]ごろ、[[前漢]]による[[西域]]への影響力の拡大は、[[中国文明]]へ西アジアの[[ヘレニズム]]国家、特に[[グレコ・バクトリア王国]]とのさらなる接触をもたらした。その後、仏教はガンダーラ地方からさらに北へと拡大し、トルキスタンまで到達した。交易路沿いの諸都市には少なくとも[[紀元前1世紀]]頃までには仏教が伝わっていた。しかし、この地における仏教美術が本格的に始まったのは、[[イラン系民族|イラン系]]の[[クシャーナ朝]]の王、[[カニシカ1世]]による支配と、ガンダーラ美術の隆盛を経てからであった。

これらの動きは、[[タクラマカン砂漠]]の周縁に栄えた[[オアシス都市|オアシス諸都市]]に、仏教徒のコミュニティ、さらには仏教王国の形成を促した。[[シルクロード]]の一部の都市は仏塔と寺院を完備していた。都市の住民達の狙いはおそらく、シルクロードの東西からの(仏教徒の)旅行者たちを歓迎し、彼らに必要なものを提供することであったと考えられる。

'''[[西トルキスタン]]'''([[パミール高原]]以西、現在の[[カザフスタン]]、[[キルギス]]、[[タジキスタン]]、[[トルクメニスタン]]、[[ウズベキスタン]])

6世紀、玄奘が[[ソグディアナ]]を訪れた際には、この地に住んでいた[[ソグド人]]は主に[[ゾロアスター教]]を信仰していた。しかし、のちに[[ソビエト連邦|ソ連]]によって行われた発掘調査で、この時代ではまだ仏像や仏具が製作されていたことが判明している<ref>{{Citation|title=中央アジアとその周辺の宗教文化 VI|year=2005|last=早田|first=啓子|url=https://swu.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=3964&item_no=1&page_id=30&block_id=97|magazine=學苑|volume=779|language=ja|NCID=AN00038441|access-date=2020-02-04}}</ref>。8世紀に入ると、[[アッバース朝]]による征服によってこの地の仏教美術は絶えた。

良質な石材に乏しかった中央アジアでは、[[粘土]]は仏像制作にとって欠かすことのできない素材であった<ref name="Toyo-2-32">[[#前田|前田(2012) p.32]]</ref>。

'''[[東トルキスタン]] '''(特に( [[タリム盆地]]、[[新疆ウイグル自治区]] ))

以降千年ほど、[[エフタル]]、[[西突厥]]、[[唐]]、[[東突厥]]、[[ウイグル]]と支配勢力は目まぐるしく移り変りはしたが、仏教美術は周囲の文化や宗派の影響を受けながらも'''西域様式'''(西域美術とも)を展開させていき、[[10世紀]]、[[カラハン朝]]の時代に、この地で多数派であったウイグル人がイスラム教へと改宗するまで続いた<ref name="Toyo-2-26">{{Cite book|和書|title=増補新装[カラー版]東洋美術史|publisher=[[美術出版社]]|year=2012|date=2012-03-30|pages=26-50|author=[[前田耕作]]ほか、編著|editor=[[椎名節]]、[[來嶋路子]]、[[川瀬亜美]]|edition=増補新装 初版|language=ja|isbn=9784568400830|ref=harv}}</ref>。

天山北道の西域様式は三段階に分けられる。グプタ様式とガンダーラ美術後期の様式が入り混じった第1様式、第1様式の各要素が融合しつつ成熟していった第2様式、漢民族の強い影響を受けた第3様式である<ref name="Toyo-2-45">[[#前田|前田(2012) p.45]]</ref>。<gallery mode="nolines">
ファイル:Ajina-Tepe Buddhist mural, Tajikistan, 7th-8th century CE.jpg|[[タジキスタン]]、[[アジナ・テパ遺跡]]の壁画 [[吐火羅|吐火羅王国]] 7世紀から8世紀
ファイル:D.VII.6 Front, Dandan Uiliq.jpg|『[[大自在天]]』 [[ホータン王国|ホータン]]、[[ダンダン・ウィリク]]出土 6世紀頃 [[大英博物館]]蔵 インドやペルシャからの影響が見て取ることができる。
ファイル:Kizil, man in armour, cave 14.jpg|[[キジル石窟]]、第14窟 鎧に身を包んだ騎手
ファイル:Druna the Brahmin with Relics of the Buddha, Cave 224, Kizil.jpg|キジル石窟、第224窟 [[仏舎利]]を抱える[[バラモン]]、ドーナ(独楼那、徒盧那) 第2様式では目鼻が中央に寄せて描かれることが多い。
ファイル:Bezeklik Caves - Praṇidhi scene No. 5, Temple No. 9.jpg|[[ベゼクリク千仏洞]]『誓願図』 9世紀  第3様式の例。人物の相貌や装束に唐の影響が強く表れている。
ファイル:Turpan-bezeklik-pinturas-d01.jpg|ベゼクリク千仏洞 第3様式では同形仏を繰り返し描くのが特徴。
</gallery>{{Clear}}

===中国===
{{節スタブ|date=2021年3月}}
[[ファイル:Vimalakirti debating Manjusri, Tang Dynasty.jpg|左|サムネイル|[[文殊菩薩]]と問答する[[維摩居士]] 8世紀 唐代 [[敦煌市|敦煌]]第103窟]]
{{see also|中国美術|中国の歴史|中国の宗教|中国の仏教}}[[1世紀]]、仏教は[[後漢|中国]]へと至り、この国の美術、とりわけ[[塑像]]の分野に新風を吹きこんだ。遥か遠方で成立した仏教を受け入れていくなかで、仏教美術は中国文化の審美眼と道徳を反映しながら変化していった<ref>{{Cite web|url=https://www.ctwm.org.tw/jp/art_1_arti.html?id=3|title=「秀骨清像」と「曹衣出水」について|accessdate=2021-02-05|publisher=[[中台世界博物館]]}}</ref>。

中国における仏教の受容において、[[漢訳#仏典の漢訳|漢訳仏典]]と[[教相判釈]]が大きな役割を果たした。漢訳によって、本来[[サンスクリット]]や[[パーリ語]]で記された経典が漢字文化圏へ普及した一方、その過程で[[偽経]]と呼ばれる、原典にはない経典<ref group="注釈">儒教の価値観を色濃く反映した『[[仏説父母恩重難報経]]』など。</ref>も成立した。また、教相判釈によって、伝来した多種多様な経典の解釈・体系化が行われた。結果、中国伝来以降の仏教では中国化と大乗仏教の主流化が進み、のちの仏教美術もそれらを反映したものになった。また、[[征服王朝]]である[[14世紀]]の元と[[17世紀]]以降の清の時代には特に、[[チベット仏教]]とその美術とも相互に影響を与え合うこととなった。

==== [[後漢]]・[[三国時代 (中国)|三国時代]]・[[晋 (王朝)|晋]] ====
中国における最初期の仏像{{Refnest|group="注釈"|[[重慶市]]で発見された、[[延光]]4年([[124年]])に制作された揺銭樹には仏の姿が確認できる<ref name="周克林2012">{{cite book|author=周克林|title=东汉六朝钱树研究|url=http://books.google.com/books?id=qhczBwAAQBAJ&pg=PT43|date=1 November 2012|publisher=巴蜀书社|isbn=978-7-5531-0155-2|pages=43–44}}</ref><ref>唐長壽. 《樂山麻浩、柿子灣崖墓佛像年代新探》. 東南文化. 1989年, (2期): 13</ref><ref name="N.Y.)Leidy2010">{{cite book|author1=Metropolitan Museum of Art (New York, N.Y.)|author2=Denise Patry Leidy|author3=Donna K. Strahan|title=Wisdom Embodied: Chinese Buddhist and Daoist Sculpture in the Metropolitan Museum of Art|url=http://books.google.com/books?id=GFa0uSleDNwC&pg=PA6|date=2010年|publisher=Metropolitan Museum of Art|isbn=978-1-58839-399-9|pages=6–7}}</ref>。}}や仏教彫刻<ref>{{Cite web|url=http://www.sdmuseum.com/show.aspx?page=2&&id=7403&cid=50|title=东汉时期佛教参与丧葬礼俗的图像证据|publisher=山东博物馆|deadurl=yes|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150713190632/http://www.sdmuseum.com/show.aspx?page=2&&id=7403&cid=50|archivedate=2015-07-13|accessdate=2021-02-07}}</ref><ref>{{Cite journal|editor=陈陆|date=2012-03-05|title=中国最早铜佛惊现丰都|url=http://www.xzbu.com/2/view-513466.htm|journal=中国三峡建设|issue=第3期}}</ref>は後漢まで遡ることができる。また、三国時代、[[魏 (三国)|魏]]の[[曹植]]は[[声明|梵唄]]を学んだようである。しかしながら、皇族や豪族層への本格的な普及は[[西晋]]に至るまで限定的であり、ゆえにこの時代に確認できる仏教美術は少ない。

{{multiple image
<!-- Essential parameters -->|align=right|direction=horizontal|width=|height=<!-- Image 1 -->|image1=NorthernWeiMaitreya.JPG|caption1=北魏、 [[太平真君]]4年([[443年]]) [[弥勒菩薩]]像|width1=132|height1=<!-- Image 2 -->|image2=Maitreia, Northern Wei dynasty, dated 512, Stone, Prague, NG Vp 3176, 151206.jpg|caption2=北魏、 永平5年、延昌元年([[512年]]) 弥勒菩薩坐像|width2=133|height2=<!-- Image 3 -->|image3=|width3=140|height3=|header_align=center|header_background=|footer=|footer_align=<!-- left/right/center -->|footer_background=|background color=}}

====[[南北朝時代 (中国)|魏晋南北朝時代]]====
{{See also|五胡十六国時代#宗教}}
'''[[五胡十六国時代]]'''には、西域と中原を結ぶ交易路として栄えていた[[河西回廊|河西]](現在の[[甘粛省]])で、[[敦煌市|敦煌]]の[[莫高窟]]をはじめとする石窟寺院が建設され始める。この時代の仏像の様式と造形には、交脚したポーズや右肩を露出する「偏袒右肩」と呼ばれるスタイルなど、インド的な要素が強く遺されている<ref name="Baku-232">[[#朴|朴(2016) p.232]]</ref>。[[5世紀]]に入ると、仏像は明確ではっきりとした輪郭線で表現されるようになる。造形も、こと如来像においては[[線対称|左右対称]]、厚手の衣装、より柔和な表情など中国風の表現が施されるようになっていく。

北魏による華北統一によって五胡十六国時代は終止符を打たれ、[[南北朝時代 (中国)|'''南北朝時代''']]と呼ばれる時代に移っていく。これ以降、異民族系の北朝と漢民族の南朝が、隋によって統一がなされるまでの160年近くに渡って対峙を続けた。これらの政治的・文化的対立を背景に、仏教美術もそれぞれの地域で異なった展開をしていった。

[[ファイル:Yungang11 2010.JPG|サムネイル|[[雲崗石窟]]第20窟の[[如来]]坐像(曇曜五窟のうちの一つ) [[北魏]] [[5世紀]]後半 [[涼州]]の僧侶曇曜が造営。この石窟に建てられた仏像は、北魏の歴代皇帝をモデルにしたと考えられている(「皇帝即如来」)。 |左]]

'''北魏'''は建国当初から仏教保護政策を行っていた。晋の滅亡後、長く続いていた戦乱と経済的・社会的混乱は、[[五胡]]と呼ばれた非[[漢族]]系の異民族による[[華北]]への流入によって既に決定的なものとなっていた。このような状況において、それまで支配的であった[[儒教]]に変わって急速に拡がったのが仏教であった。仏教への改宗者は五胡の支配層にも多く、また彼らも仏教を民衆教化のため、政治的・文化的な動機で利用した。以降、仏教が国教化した北朝では、仏教教団と支配層の結びつきが強まっていく。それらの状況を色濃く反映したものとして、'''[[雲崗石窟]]寺院の石仏'''が挙げられる<ref group="注釈">その一方で、同時期に作られたほかの仏像にはグプタ様式のもの、肌を見せた官能的な作りのもの、漢風のものがあるなど、様々な表現を見ることができる。</ref>。また、同時期の生活様式を映す仏像の様式として'''小金銅仏'''がある。小金銅仏とは、[[4世紀]]に多く作られた小型で金属製の仏像である。移動の多い騎馬民族や、戦乱と隣り合わせであった漢族にとっても持ち運びやすいことから重用された。[[File:Vairochana_the_Cosmic_Buddha_720p.webm|サムネイル|[[毘盧遮那仏]] - 石仏の表面には、仏生図と[[六道]]がレリーフとして刻まれている。[[北斉]](550年-577年) [[ワシントンD.C.]][[フリーア美術館]]]]政策としての石窟寺院の建立は、仏教彫刻の中国化を促した。前述した雲崗石窟寺院に作られた仏像は、漢民族の好みに合わせて肌の露出が抑えられた表現になっている。

[[6世紀]]、[[北周]]・[[北斉]]の両王朝の成立以降、仏像の様式にふたたび西方からの影響を受けたものが見られるようになる。伝来経路そのものは中央アジア経由か東南アジア経由か、あるいは複合的なものだったかは定かではないが、変化の直接的な原因は北魏皇統の断絶(すなわち「皇帝即如来」というイデオロギーの喪失)と[[鮮卑]]復古主義([[漢化政策]]の否定)だったようである<ref name="Baku-242">[[#朴|朴(2016) p.242]]</ref>。

一方、[[華南]]、特に沿岸部において仏教が東南アジア経由で広まりつつあった。'''[[東晋]]'''の[[法顕]]は、海路で師子国(現在の[[スリランカ]])に渡り、かの地で見た[[ジャータカ]](本生説話)を「変」と記録している(『[[仏国記]]』)。これをもって、中国における仏教説話画が始まったとされている。

この時代の仏教彫刻が遺されている代表的な遺跡は、以下のような場所が挙げられる:

*[[雲崗石窟]]、[[山西省]]
*[[龍門洞窟|龍門石窟]]、[[河南省]]
*[[炳霊寺石窟]]、[[甘粛省]]
{{Clear}}
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=== 韓国 ===
====隋唐====
{{See also|末法思想|華厳経}}[[File:Tejaprabhā_Buddha_and_the_Five_Planets_by_Chang_Huai-hsing.jpg|リンク=https://en-two.iwiki.icu/wiki/File:Tejaprabh%C4%81_Buddha_and_the_Five_Planets_by_Chang_Huai-hsing.jpg|サムネイル|『{{仮リンク|識盛光如来並五星図|zh|熾盛光佛並五星圖}}』 張淮興筆 晩唐、[[乾寧]]4年(897年) [[大英博物館]]蔵 [[莫高窟]]で発見。擬人化された5つの惑星が[[熾盛光仏頂]]を囲んでいる。]]'''[[隋]]'''はおよそ40年ほどで滅亡したものの、中国における仏教美術の発展に残した影響は大きかった。300年ぶりに中国全土を統一した文帝([[楊堅]])は、各地方に僧院と仏舎利塔を建てた。また、中国そのもの政治的統合によって、地域性を保っていた各地の仏像芸術も隋の首都であった[[大興城]](長安)を中心としながら徐々に融合をすすめていく<ref>{{Cite journal|author=八木春生|year=2010|title=中国隋初期仏教美術様式、形式という新概念の成立|url=https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=21436&item_no=1&page_id=13&block_id=83|journal=科学研究費補助金(基盤研究C)研究成果報書:2007-2009|volume=|page=|accessdate=2021-02-13}}</ref>。この時代から、仏像は銅製のものだけではなく、[[ビャクダン|白檀]]や[[青銅]]を用いたものが作られ始める。
{{see also|朝鮮の仏教|韓国の仏教|韓国の美術}}[[朝鮮|韓国]]の仏教美術は一般に他の仏教の影響と強く独創的な韓国文化との相互作用を反映しさらにステップの芸術、特にシベリアと[[スキチア|スキタイ]]の影響は [[新羅]] [[新羅の王冠|の王冠]]、ベルトのバックル、短剣、コンマの形をした[[ゴゴック|ゴゴク]]などの遺物や埋葬品の発掘に基づいた初期の韓国仏教芸術で明らかで <ref>{{Cite web|url=http://www.metmuseum.org/explore/Korea/koreaonline/crown.htm|title=Crown|publisher=The Metropolitan Museum of Art|website=Arts of Korea|accessdate=2007-01-09}}</ref><ref>Grayson (2002), p. 21.</ref> この土着の芸術のスタイルは、幾何学的で抽象的で characteristic "barbarian" 豊かに飾られていた。他からの影響も強かったが韓国の仏教美術は「飲酒、正しい調子の味、抽象感だけでなく、不思議なことに現代の味と一致する色の味」(Pierre Cambon、''Arts asiatiques-Guimet ''' ) などと比喩される。


隋の時代の伝統をふまえて経て、[[唐|'''唐代''']]の仏像はより生き生きとした表現がされるようになる。この頃の仏教彫刻は、グプタ時代のインド芸術に触発された、どちらかといえば古典風な様式を帯びている。それは、唐という国そのものがもっていた外来文化に対する開放性と、[[玄奘三蔵]]・[[義浄]]らの活動に代表されるインドとの往来によるものであった<ref name="Baku-248">[[#朴|朴(2016) p.248]]</ref>。結果、唐の首都[[長安]] (今日の[[西安市|西安]])は仏教の重要な中心地になり、そこから仏教は[[朝鮮]]、そして[[遣唐使]]を通じて日本へと拡がっていくことなった。
==== 韓国の三国期 ====
[[ファイル:ChinaTrip2005-110.jpg|左|サムネイル|大雁塔 唐、[[永徽]]3年(652年)建立 インドから帰還した[[玄奘三蔵|玄奘三蔵法師]]が、時の皇帝[[高宗 (唐)|高宗]]に申し出て建設された。[[北宋]]、[[明|明代]]、そして[[中華人民共和国]]時代に改装・修復が行われている。]]
[[File:Pensive_Bodhisattva_02.jpg|リンク=https://en-two.iwiki.icu/wiki/File:Pensive_Bodhisattva_02.jpg|右|サムネイル|[[:en:Gilt-bronze_Maitreya_in_Meditation_(National_Treasure_No._83)|Bangasayusang]], バンガサユサン、半座位瞑想的弥 おそらく7世紀初頭頃の新羅]]
しかしながら、晩唐の頃になると外来の宗教や文化は否定的に捉えられるようになった。[[845年]]、[[武宗 (唐)|武宗]]は、在来思想であった[[道教]]を支援するために[[唐代三夷教|すべての「外国の」宗教]](キリスト教の[[ネストリウス派|ネストリア主義]]、[[ゾロアスター教]]、[[マニ教]]、[[仏教]]を含む)を禁止する(「[[会昌の廃仏]]」)。この弾圧の結果、仏教教団は寺院や荘園を没収され、国家の擁護から離れて存続せざるを得なくなった<ref group="注釈">これらの宗教政策は、実際には経済政策の側面の方が大きく、寺院の破壊や僧侶の投獄・処刑を伴ったものではなかった。晩唐・五代十国の時代にあっては財政改善は喫緊の課題であり、「廃仏」も金属接収や課税が主な狙いであった。</ref>。そのため、中国における仏教はしばらく衰退するが、それは[[宋 (王朝)|宋]]時代において花開く、禅宗と浄土教のふたつの宗派が民衆へと根ざしていく発端ともなった。
[[三国時代 (朝鮮半島)|朝鮮三国のうち]]最初に仏教を公式に受け入れたのは372年の[[高句麗]]だが <ref name="graysonp252">Grayson (2002), p. 25.</ref> しかし、中国の記録と高句麗の壁画での仏教のモチーフの使用は、公式の日付よりも早く仏教が導入されたことを示しており <ref>Grayson (2002), p. 24.</ref> [[百済]]王国は384年に仏教を公式に認め <ref name="graysonp252" /> [[新羅]]王国は孤立しており、中国への海や陸地へのアクセスが容易ではなく、535年に仏教を公式に採用 <ref>{{Cite encyclopedia}}; {{Cite web|url=http://www.metmuseum.org/toah/ht/06/eak/ht06eak.htm|title=Korea, 500&ndash;1000 A.D.|publisher=The Metropolitan Museum of Art|website=Timeline of Arts History|accessdate=2007-01-09}}</ref> 仏教の導入は、職人が崇拝のイメージ、寺院の建築家、仏教の経典の文学者、そして韓国文明を変容させる必要性を刺激した。洗練された芸術スタイルが韓国王国への伝達で特に重要だったのは386年に中国の[[北魏]]王朝を設立した漢族以外のXianbei族Tuobaの芸術でこのスタイルは高句麗と百済の芸術に特に影響を与える。百済の職人は後にこのスタイルを南朝鮮の要素と独特の韓国の要素とともに日本に伝え 職人は特定の韓国仏教芸術スタイルを作成するためさまざまな地域のスタイルを取り入れて組み合わせる非常に選択的なものとなる。<ref>Grayson (2002), pp. 27 & 33.</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.metmuseum.org/toah/hd/kobs/hd_kobs.htm|title=Korean Buddhist Sculpture, 5th&ndash;9th Century|publisher=The Metropolitan Museum of Art|website=Timeline of Arts History|accessdate=2007-01-09}}</ref>
[[File:Seokguram_Buddha.JPG|リンク=https://en-two.iwiki.icu/wiki/File:Seokguram_Buddha.JPG|左|サムネイル|[[:en:Seokguram_Grotto|Seokguram Grotto]] 世界遺産であり、統一新羅時代にまでさかのぼります]]
高句麗の仏教美術は北からの原型と同様の活力と機動性を示したが百済王国は中国の[[南北朝時代 (中国)|南王朝]]とも密接に接触しており、この緊密な外交的接触は百済の彫刻を代表する穏やかで比例した彫刻に例証され[[百済の笑顔|百済笑顔]]は果てし無い笑顔で美術史家に知られていくが <ref name="metmuseum2">{{Cite web|url=http://www.metmuseum.org/toah/hd/kobs/hd_kobs.htm|title=Korean Buddhist Sculpture (5th–9th century) &#124; Thematic Essay &#124; Heilbrunn Timeline of Art History &#124; The Metropolitan Museum of Art|publisher=metmuseum.org|accessdate=2014-12-11}}</ref> 新羅王国はまた韓国人の双子であるミロク・ボサツが改宗の贈り物として日本に送られ、現在は日本の[[弥勒菩薩半跏思惟像|高龍寺]]に鎮座している半座の瞑想的な[[弥勒菩薩半跏思惟像|マイトレーヤ]]である[[弥勒菩薩半跏思惟像|バンガサユサン]]によって象徴される独特の仏教芸術の伝統を発展させた <ref name="kenyon2">{{Cite web|url=http://www2.kenyon.edu/Depts/Religion/Fac/Adler/Reln275/Jap-Kor-art.htm|title=Japanese Art and Its Korean Secret|publisher=www2.kenyon.edu|accessdate=2014-12-11}}</ref>。三国期間における仏教は以下のような大規模な寺院建設プロジェクト、刺激的な[[ミレクサ|Mireuksa]]百済王国の寺院や新羅の[[黄龍寺|Hwangnyongsa]]寺を生み出したが百済の建築家はその技術で有名であり、黄龍寺に巨大な9階建ての仏塔を建設し、[[飛鳥寺|法華寺]] (飛鳥寺)や[[法隆寺]]などの大和初期の仏教寺院を建てていく <ref name="google22">{{Cite book|title=Sir Banister Fletcher's a History of Architecture|last=Fletcher, B.|last2=Cruickshank, D.|date=1996|publisher=Architectural Press|isbn=978-0750622677|url=https://books.google.com/books?id=Gt1jTpXAThwC|page=716|accessdate=2014-12-12}}</ref>。6世紀の韓国仏教美術は中国とインドの文化的影響を示したが、その後は独特の土着の特徴を示し始め <ref>[http://www.metmuseum.org/toah/ht/06/eak/ht06eak.htm metmuseum.org]</ref> これらの土着の特徴は日本の初期仏教美術で見ることができ、一部の初期の日本の仏教彫刻は現在、特に百済、または大和日本に移住した韓国の職人から発祥したと考えられている。特に半着座のマイトレーヤの形態は、高柳寺と中宮寺のシッダールタ像によって証明されるように、日本に伝わる高度に発達した朝鮮様式に適合した。多くの歴史家は韓国を仏教の単なる伝達者として描写しているが、三国、特に百済は538年または552年に日本で仏教を導入し、形成する際の積極的なエージェントとして役立ったのである<ref name="google3">{{Cite book|title=Korea: A Religious History|last=Grayson, J.H.|date=2002|publisher=RoutledgeCurzon|isbn=978-0700716050|url=https://books.google.com/books?id=e1BzL2lwPqEC|page=33|accessdate=2014-12-11}}</ref>。


唐は歴代の王朝のなかでも最も仏教が盛んに信仰された時代の一つであり、かつ総じてみれば政治的にも概ね安定していたので、当時の作品も数多く遺されている。

初唐([[7世紀]])には、[[太宗]]の甥、[[李泰]]による[[龍門石窟]]の復興を皮切りに、北魏の滅亡以降衰微していた[[華北平原]]での石窟造営が盛んになる。[[武宗]]・[[武則天]]の時代には龍門石窟は最盛期を迎え、[[奉先寺]]の大仏が建立された。これらの仏像は、[[雲崗石窟]]のものに比べるとより繊細で写実的な人物表現がなされている。

盛唐から中唐([[8世紀]]ごろ)にかけて、石窟美術は[[安史の乱]]による混乱を経てその中心を華北から[[四川省|四川]]に移していく。[[:zh:皇泽寺摩崖造像|皇沢寺石窟]]や[[大足石刻]]は、[[玄宗]]皇帝時代の磨崖仏の白眉であると同時に、国際色と土俗性を兼ね揃えていく過程を窺える遺跡であるといえよう<ref name="Toyo-5-147">{{Cite book|和書|title=増補新装[カラー版]東洋美術史|publisher=[[美術出版社]]|year=2012|date=2012-03-30|pages=147-151|author=[[前田耕作]]ほか、編著|editor=[[椎名節]]、[[來嶋路子]]、[[川瀬亜美]]|edition=増補新装 初版|language=ja|isbn=9784568400830|ref=harv}}</ref>。

{{Clear}}<gallery widths="180" mode="nolines">
ファイル:驼山石窟第3窟1.JPG|如来坐像 駝山石窟第3窟 隋、[[開皇]]年間(581年-600年) [[山東省]][[青州 (山東省)|青州]] 
ファイル:Ancient Buddhist Grottoes at Longmen- Southern Binyang Cave Main Buddha.jpg|如来坐像 [[龍門石窟]]賓陽南洞正壁(西壁) 唐、[[貞観 (唐)|貞観]]15年([[641年]]) [[河南省]][[洛陽市]] 北魏の滅亡以降、龍門石窟は衰退したが、[[唐]]の[[太宗 (唐)|太宗]]の時代に再興した。賓陽南洞に作られた仏像は、隋や北周北斉のものに範をとったものであった。
ファイル:Longmen Grottoes lu-she-na Buddha.jpg|[[盧舎那仏]]坐像 龍門石窟奉先寺洞 唐、[[上元 (唐高宗)|上元]]年間([[675年]]) 立体感や人体観察に基づいた写実性が見られる。[[玄奘三蔵|玄奘]]や[[王玄策]]らによるインド文化流入も様式の確立へ影響を及ぼしたと考えられている。
ファイル:TangBodhisattva.jpg|菩薩半跏像 [[盛唐]]([[8世紀]]前半) [[東京国立博物館]]蔵 マッスが強調された胸や腹部、腕はある種の官能性を感じさせる。身体を傾け、左脚に寄って座す姿勢ながらも、全体としては落ち着いた印象を与えるこの作品は、唐時代の写実性の到達点と言えるだろう<ref name="Baku-251">[[#朴|朴(2016) p.251]]</ref>。
ファイル:China - Leshan 25 - Giant Buddha (135959732).jpg|[[楽山大仏]] 楽山凌雲寺 中唐、[[貞元 (唐)|貞元]]19年([[803年]]) [[四川省]][[楽山市]] 像高約59.98m 中唐から晩唐にかけては、中原に遺る石窟造像は少ないが四川には多い。中国最大のこの大仏は、当時としては珍しく国家事業ではなく民衆主導で建造された。
ファイル:Dunhuang217.jpg|[[観無量寿経]]壁画 敦煌莫高窟第217窟 初唐(西暦600年頃)
</gallery>{{Clear}}

==== 五代・宋 ====
{{See also|水墨画|禅#中国の禅の歴史}}[[ファイル:Dunhuang Mara Budda.jpg|サムネイル|『降魔図』。[[五代十国時代]]([[10世紀]])。[[甘粛省]][[敦煌市|敦煌]]出土。仏教壁画は当時の美的感覚ではなく、生活や軍事技術について知る資料ともなりうる。この作品では、仏陀の右上に描かれた[[マーラ]]が[[火槍]]と[[擲弾]]で攻め立てている。]]
先に述べた「会昌の廃仏」と'''[[五代十国時代]]'''の[[柴栄|顕徳]]年間に行われた仏教弾圧、また唐滅亡後の戦乱によってこの時代は仏教彫刻の衰退期と見做されることが多いが、実際には各地で名品と呼びうる作品が多く制作された<ref name="Toyo-5-163">[[#前田|前田(2012) p.163]]</ref>。特に華南は戦争による混乱も少なく、[[後蜀 (十国)|後蜀]]・[[南唐]]・[[呉越]]・[[閩]]のように仏教を保護する国も多かった<ref name="Baku-256">[[#朴|朴(2016) p.256]]</ref>。

[[宋 (王朝)|'''宋''']]の成立すると、初代皇帝[[趙匡胤]]『[[大蔵経]]』を成都で印刷させるなど仏教への支援が盛んにななり、そのなかでも発展が著しかったのが[[禅|禅宗]]と[[浄土教]]であった<ref group="注釈">禅宗は主に[[江南]]で、浄土教は主に華北に浸透していた。また、自立的な禅宗が都市民・士大夫層に人気だったのに対し、阿弥陀如来の救済を求める浄土教は地方民・庶民層に普及した。</ref>。また、この時代には[[文人]]である[[士大夫|士大夫層]]が武人に変わって政治の中心となるが、彼らは[[儒教]]を栄達のために修めていたものの、哲学・信仰の対象としては仏教、こと[[禅|'''禅宗''']]に帰依するものが多かった。このような状況から、'''[[禅林墨跡|墨跡]]'''・'''[[禅画]]・[[頂相]]'''といった、仏教美術の新たな流れが生まれていく。

中国禅を巡る芸術は、その担い手の多様性から、制作姿勢や美術の傾向にも異なった様式を生み出した。禅僧たちが修行や儀式のために頂相を制作した一方、[[在家]]・[[居士]]であった士大夫文人たちは(それが信仰心によるものであったにせよ)余技として禅故事を主題とした水墨画を描くことが多かった。さらに、南宋の[[梁楷]]のように、院体画家([[宮廷画家]])が仏画を描くこともあった。

禅僧たちの描いた禅画は、その教義ゆえに信仰の対象というよりも内面的な探求の手助けとするために描かれた。したがって、悟りの助けとなるならば画題に囚われずに描くようになり,絵の[[モチーフ|主題]]も、それまでの仏像や仏画が扱ったもの(菩薩や如来など)に留まらず、自然物や図形、[[神仙]]([[道教]])など多岐に渡るようになった。また、絵画表現においても新潮流が起こった。五代の道釈画家・石恪は、当時一般的であった細密な画風ではなく粗いタッチで仏画を描いたが、この画風は宋代の禅僧たちに受け継がれた。彼らは、[[モノクローム]]で活き活きとした筆致で悟りの衝撃を表現しようと試みた<ref>Cotterell, A; ''The imperial capitals of China: an inside view of the celestial empire'', Random House 2008, {{ISBN|978-1-84595-010-1}} p. 179</ref><ref group="注釈">これら禅画における様式の確立には、[[書道]]からの影響を無視することはできない。士夫画の提唱者にして詩人・居士であった[[蘇軾]]は、なにより[[宋の四大家|書の大家]]でもあった。</ref>。

他方、石窟造営も盛んに行われた。宋の前半期、'''北宋'''のおける時代の造像の傾向としては、異民族との最前線であった北辺線地域(現在の[[河北省]]・[[山西省]]・[[陝西省]])で造営が盛んであった。制作された彫刻も、外敵の排除と現世・来世の安寧を祈願したものが多い。北方から侵攻してきた[[金(王朝)|金]]によって、南遷した宋王朝が[[南宋]]として成立した後も造像は続き、大足の石窟群に多くの仏像が遺された。人体表現においては北宋時代のものを概ね踏襲しながらも、顔つきはやや面長で肉付きが増し、体型も流麗さを残しながらもボリュームを湛えている点で以前のものと異なっている<ref name="Baku-261">[[#朴|朴(2016) p.261]]</ref>。

[[12世紀]]、南宋の[[朱熹]]が主動した[[宋明理学]]の台頭によって、禅僧の画家は多くの批判に晒された。くわえて、後代の中国では[[文人画]]が尊ばれ、仏教絵画や院体画は相対的に低く見られるようになる。結果として、禅画の作品の一部は「[[水墨画]]」として鎌倉時代の日本に渡ったが、南宋以降の中国では次第に衰退していく<ref>Ortiz, Valérie Malenfer; ''Dreaming the southern song landscape: the power of illusion in Chinese painting'', Brill 1999, {{ISBN2|978-90-04-11011-3}} pp. 161–162</ref>。<gallery mode="nolines">
ファイル:Buddhist donors, early Northern Sung dynasty.jpg|莫高窟第17窟(蔵経洞) 布施者 [[983年]](宋[[太平興国|太平興国八年]]) [[ギメ東洋美術館]]蔵 莫高窟内部の壁画には、制作を依頼した人物の関係者が描かれる例が見られる。
ファイル:Chinesischer Maler von 1238 001.jpg|[[無準師範]]像。[[南宋]]、[[嘉熙]]2年([[1238年]]) [[京都]][[東福寺]]蔵 [[院体画]]の影響を受けている。禅僧の画家は、「簡筆画」と呼ばれるシンプルかつダイナミックな描き方を人物画に取り込む過程で重要な役割を果たした。
ファイル:Liang Kai-Shakyamuni Emerging from the Mountains.jpg|『出山[[釈迦]]図』 南宋時代([[13世紀]]) [[梁楷]]筆 悟りを得られず山を出る釈迦が、精細で写実的な筆致で描かれている<ref>{{Cite web|url=https://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=dtl&colid=TA617|title=出山釈迦図(しゅっさんしゃかず)|accessdate=2021-02-19|publisher=[[東京国立博物館]]}}</ref>。
ファイル:Huineng Cut Bamboo.jpg|『六祖截竹図』 梁楷筆 [[南宗]]の祖、[[慧能]]を描いた作品。左の『出山釈迦図』と異なり、「減筆体」というシンプルかつダイナミックな筆法で描かれている<ref>{{Cite web|url=https://munekuni-siankeow.jimdofree.com/sumi-e-workshop/chinese-brush-painting/|title=Chinese Brush Painting 中国人物画の巨匠たち|accessdate=2021-02-19|publisher=宗國仙嬌}}</ref>。
ファイル:Guanyin, Monkeys, and Crane.jpg|『[[観音菩薩|観音]]猿鶴図』 [[牧谿]]筆 [[京都]][[大徳寺]]蔵 南宋(13世紀) 牧谿は無準師範の弟子であった。
ファイル:Dazu rock carvings golden hands buddha.JPG|[[千手観音|千手觀音]]像 {{仮リンク|宝頂山摩崖石刻|zh|宝顶山摩崖造像}}([[重慶市]]、[[大足石刻|大足石窟]]の一つ) 宝頂山の石窟は[[南宋]]の密教僧、趙智鳳によって拓かれ、七十年ほどかけて完成した。漢伝密教の美術であるとともに、禅宗・儒教の思想も表現されている。<ref name="大足宝頂山"></ref>
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==== 遼・西夏・金 ====
{{Seealso|西夏学}}
唐の衰退後、影響下にあった周辺民族は自立し、中国の諸王朝と対立しながら漢族とは異なった独自の文化を形成した。その一方で、遼や西夏、さらには遼から独立した金といった、宋と対立関係にあった王国は、唐代に広まった仏教を信仰していた。

[[916年]]に成立した'''[[遼]]'''([[契丹|契丹族]])は、契丹文化と漢文化を同時に保持した二元体制を敷いていたが、12世紀初めに滅亡するまで仏教に対する信仰は篤かった。遼代の仏像美術は、唐の造像文化と華厳と密教をはじめとする[[五台山 (中国)|五台山]]信仰の影響に彩られており、特に初期においては北宋とは異なった仏教文化が栄えた。11世紀、[[澶淵の盟]]が成ると、徐々に北宋の影響も受けるようになる。遼の仏像は一般的に、唐代に見られる、落ち着いた胴体に対して動きのあるプロポーションというスタイルを受け継いでいる。しかしながら、身体的には平坦な印象を与え、時代を下るにつれて脱力した柔らかい様式になっていった<ref name="Baku-265">[[#朴|朴(2016) p.265]]</ref>。

'''[[西夏]]'''([[タングート|タングート族]])は、初期には中国からの仏教吸収に努めたが、後期にはチベット仏教の力が強まった<ref>{{Cite book|last=Atwood|first=Christopher Pratt|url=https://books.google.com/books?id=I9dzQgAACAAJ|title=Encyclopedia of Mongolia and the Mongol Empire|publisher=Facts On File|year=2004|isbn=978-0-8160-4671-3|pages=590}}</ref>。また、西夏が河西回廊を掌握して以降は、莫高窟に代わって{{仮リンク|榆林窟|en|Yulin Caves}}で造営が盛んになる。壁画には、宋代からの山水画の要素や、明代に成立した『[[西遊記]]』の原型となったとされる、三蔵法師が[[猴]]([[孫悟空]])や馬を従えているモティーフを見ることができる<ref name="Baku-286">[[#朴|朴(2016) p.286]]</ref>。

[[金 (王朝)|'''金''']]は、遼に反旗を翻した[[女真族]]によって建国され、宋と結んでこれを滅ぼした。金の仏教美術は、基本的には北宋・遼の文化を継承したものだった。ただ、洪福寺([[山西省]][[定襄県]])や祟福寺(山西省[[朔州市]])の例にみられるように、元・明・清を経て今に遺る仏教寺院の基盤となった寺院も多い<ref name="Baku-266">[[#朴|朴(2016) p.266]]</ref>。また、遼との違いとして、金は道教や儒教に対し容認的であったので[[三教]]に由来する美術品が同じ工房で制作されることもあり、それゆえに元代以降の仏教美術([[天部]]など)と道教美術双方に影響を残した。<gallery mode="nolines">
ファイル:Liao Dynasty Avalokitesvara Statue Clear.jpeg|[[観音菩薩|水月観音]]<ref group="注釈">水月観音とは、法華経で説かれている観音菩薩の33の姿のうちの一つ、辟支仏身に対応するもの。</ref>像 水月観音の作例は宋から元にかけて多い。遼代後期(11世紀-12世紀) [[木造]] [[カンザスシティ (ミズーリ州)|カンザスシティ]]、[[ネルソン・アトキンス美術館]]蔵
ファイル:Luohan monk earthernware with Sancai decoration Liao or Jin Period from a cave hear Yizhou Hebei Province China Penn Museum.jpg|[[阿羅漢]]坐像 [[唐三彩]] 遼から金(10世紀-13世紀)<ref>{{Cite web|url=https://www.penn.museum/collections/object/151869|title=STATUE - C66A|accessdate=2021-02-22|publisher=[[ペン博物館]]|language=en}}</ref> 河北省、[[易県]]で出土 [[ペンシルベニア大学考古学人類学博物館|ペン博物館]]蔵
ファイル:Kin Dynasty (1115-1234) fresco in Ch'ung-fu Temple, Shuo-chou 7.jpg|[[崇福寺 (朔州市)|崇福寺]]の[[フレスコ]]  [[金 (王朝)|金代]]([[1115年]]-1234年) 山西省、[[朔州市]]
ファイル:Cernuschi Museum 20060812 115.jpg|観音菩薩像 金代 木造 [[パリ]]、{{仮リンク|セルヌスキ美術館|en|Musée Cernuschi|fr|Musée Cernuschi}}蔵
ファイル:Mahasthamaprapta cropped.jpg|『勢至菩薩』 西夏、13世紀 [[エルミタージュ美術館]]蔵
ファイル:Yulin Cave 10 ceiling w winged horse (Western Xia).jpg|『天馬像』 榆林窟第10窟 西夏、元代と清代に修復<ref>{{Cite web|title=What is Buddhist Art?|url=http://buddhistartnews.wordpress.com/what-is-buddhist-art/|publisher=Buddhist Art News|accessdate=2014-01-27}}</ref><ref>{{cite journal|author=Dai Matsui|year=2008|title=Revising the Uigur Inscriptions of the Yulin Caves|url=https://hirosaki-u.academia.edu/DaiMatsui/Papers/1436663/Revising_the_Uigur_Inscriptions_of_the_Yulin_Caves|journal=Studies on the Inner Asian Languages|volume=23|pages=17–33|publisher=[[Osaka University]]|issn=1341-5670}}</ref>。
ファイル:Yulin Cave 3 w wall Manjusri (Western Xia).jpg|『文殊菩薩騎獅像』 楡林窟第3窟 西夏
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==== 元・明・清 ====
[[ファイル:Mandala of Yamantaka-Vajrabhairava.jpg|サムネイル|『[[大威徳明王]]曼荼羅』。元、[[天暦 (元)|天暦]](1328年-1330年)年間。[[メトロポリタン美術館]]像。]]
[[13世紀]]初頭、[[モンゴル高原]]を制しこの地の諸部族をまとめ上げた[[モンゴル帝国|モンゴル部]]は、金を滅ぼし中国華北を征服。国号を[[元|'''元''']]とし、南宋を平らげここに中国全土を統一した。これにより、中国においてチベット仏教系の美術が制作されるようになった。特筆すべきは、[[中国本土]]においてチベット仏教の尊格の'''金銅仏'''が作られるようになったことである。この流れは、続く明や清でも続いた。『元代画塑記』(『経世大典』の一部)は、ネパールの仏工阿尼哥(アルニカ)とその弟子の劉元が数多くの仏像制作に携わっていたと言及しており、特に劉元は梵像(チベット系仏像)と道教美術の制作にも携わっていたとしている<ref name="Baku-268">[[#朴|朴(2016) p.268]]</ref>。このことから、この時代の工房では、漢像と梵像の両形式の制作だけではなく、宗教を超えて道教とも相互に直に影響を与えあう関係にあったことがうかがえる。

[[14世紀]]、'''[[明]]'''が[[漢族]]の[[朱元璋]]はよって興され、元はモンゴル高原へと放逐された。明初期においては、チベット仏教への弾圧が行われたが、のちには仏教保護政策に転換し、チベット仏教と中国仏教の交流も進んだ。この時代の石造美術に名品は少ないが、塑造や銅造といった粘塑素材を扱ったものには優れたものが見られる。現存する遺構は以下のものが挙げられる:

* [[大慧寺]]
* [[双林寺 (山西省)|双林寺]]
* [[五台山 (中国)|五台山]]殊像寺「騎獅文殊菩薩像」
* [[広勝寺]]

また、この時代以降に現存する作例として、乾漆造、鉄造がある。[[ファイル:The Qianlong Emperor in Buddhist Dress.jpg|サムネイル|『乾隆帝僧形図』。清、[[乾隆]]23年([[1758年]])頃。北京、[[紫禁城#故宮博物院|故宮博物院]]蔵。]]
[[16世紀]]末、明から自立した[[満州]](現在の[[中国東北部]])の[[女真|女真族]]国家、[[後金]]は、国号を'''[[清]]'''と改め17世紀にかけて中国統治を完成させた。歴代の皇帝たちは、政治的および個人的な動機で仏教を保護した{{Refnest|group="注釈"|清初期の康煕帝は知識人に対する抑圧は積極的に行ったが、仏教・道教に対しては放任主義的に臨んだ。『清朝野史大観』には、康煕帝が「復興できないほどに衰退してしまい、二氏は今では哀れなものである。時代遅れになってしまったものを邪魔物として取り除く 必要もなく、絵や詩の題材として残っている」と詠んだと記されている<ref name = "道教と仙学">{{Cite web|url=http://www2s.biglobe.ne.jp/~xianxue/DandX/DandX2-7.htm|title=道教と仙学 第2章 7、明・清の道教の衰退と世俗化|accessdate=2021-02-19|publisher=神坂風次郎}}</ref>}}。[[順治帝]]は禅に傾倒したものの、彼の後継者である[[康熙帝]]は父祖からの信仰であった[[チベット仏教]]を推進し、[[文殊皇帝]]を自称した <ref>Weidner, Marsha Smith, and Patricia Ann Berger. Latter Days of the Law : Images of Chinese Buddhism, 850–1850. Lawrence, KS: Spencer Museum of Art, University of Kansas, 1994.</ref>。しかし、仏教に対する清朝の後援が最高潮に達したのは[[乾隆帝]]の治世でのことだった。彼は膨大な数のチベット様式の宗教的作品を制作させ、その多くは彼を僧形で描いている <ref>Berger 1994, p. 113</ref>。さらに、乾隆帝は造営者でもあった。[[1744年]]、彼は自身の生家でもあった[[雍和宮]](北京)をチベット仏教の僧院として改装させ、仏画、仏像、織物、石碑を寄進した <ref>Berger 1994, p. 114</ref>。また、[[Xumi Fushou Temple|須弥福寿之廟]]([[承徳市]])とその中に収められた品々は、乾隆帝によって成されたチベット仏教様式の中国における受容のひとつの完成形といえる。

1795年に乾隆帝が退位したのち、宮廷でのチベット仏教の隆盛は陰りを見せる。過去の研究では、清の歴代皇帝によるチベット仏教保護策の背後にあった動機は、主に内政的なものであり、満州、[[モンゴルの歴史#清朝統治時代|モンゴル]]、チベットとの結びつきを強化する手段に過ぎなかったと解釈されてきたが、近年の研究ではこの考え方は批判的に検討されている<ref>Berger, Patricia Ann. Empire of Emptiness : Buddhist Art and Political Authority In Qing China. Honolulu: University of Hawai'i Press, 2003.</ref>。

清代に制作された仏教美術の特徴は、チベット様式と中国様式の特異な融合である。[[図像]]や構図つおてはチベット的なアプローチが取られる一方、装飾的な要素(雲や装束)は中国風となっている。 また、碑文は多くの場合、[[中国語]]、[[満州語]]、[[チベット語]]、[[モンゴル語]]、[[サンスクリット語]]など多言語で併記されている。絵画は鮮やかで刺激的な色彩で描かれていることが多い <ref>Berger 1994, pp. 114–118</ref>。

{{Clear}}<gallery mode="nolines">
ファイル:Buddha of Medicine Bhaishajyaguru (Yaoshi fo) - Google Art Project.jpg|[[薬師如来|薬師佛]] [[広勝寺|広勝下寺]]壁画 [[1319年]]頃([[元 (王朝)|元代]]) [[メトロポリタン美術館]]所蔵
ファイル:Cundi Ming Dynasty Gold.png|准胝観音像 明代
ファイル:墮胎產亡嚴寒大暑孤魂眾.jpg|『[[堕胎|墮胎]]產亡嚴寒大暑孤魂眾』水陸画の一幅 明代 水陸画とは[[三教]]の価値観を反映した宗教画で、仏教・道教の諸神の力によって[[餓鬼|餓鬼道]]に堕ちた人々を救済することを目的とした[[施餓鬼|水陸法会]]に用いられた<ref>{{Cite web|url=https://www.sohu.com/a/312344058_120139955?spm=smpc.author.fd-d.8.1615123532887SXHclI4|title=明清水陆画鉴赏(一)|accessdate=2021-03-07|author=云墨樘|language=zh}}</ref><ref>{{Cite journal|author=[[伊藤信博]]|year=2009|title=植物の擬人化の系譜|url=http://hdl.handle.net/2237/14064|journal=言語文化論集|volume=31|page=24|publisher=[[名古屋大学]]|accessdate=2021-03-06}}</ref>。
ファイル:China, Qing dynasty - Portrait of Buddhist Monks of Obaku Sect - 2003.352 - Cleveland Museum of Art.tif|[[黄檗宗]]頂相 [[17世紀]](清代) [[クリーブランド美術館]]<ref>{{cite web|title=Portrait of Buddhist Monks of Obaku Sect|url=https://clevelandart.org/art/2003.352|year=1600s|access-date=07 March 2021|publisher=Cleveland Museum of Art}}</ref>蔵 最上段の僧侶は[[隠元隆琦]]であると判明しているが、全ての僧侶が同定されているわけではない。
ファイル:Buddhist Arhat by Jin Tingbiao.jpg|『羅漢図』 金廷標画 清代([[18世紀]])
</gallery>[[File:Gathering_of_Buddhas_and_Bodhisattvas_720p.webm|サムネイル|"Gathering of Buddhas and Bodhisattvas" [[河北省]][[邯鄲市]]響堂山石窟出土 [[フリーア美術館|フーリア美術館]]蔵[[1920年]]に、日本の僧侶[[常盤大定|常磐大定]]と考古学者の[[関野貞]]によって同地の調査が行われたが、すでに遺跡の一部は盗掘の被害に遭っていた<ref>{{Cite web|url=https://asia.si.edu/object/F1921.1/|title=Gathering of Buddhas and Bodhisattvas|accessdate=2021-02-19|publisher=[[スミソニアン博物館]]}}</ref>。発掘調査の様子は『支那文化史蹟 三』に詳しい。|左]]
==== 発掘と研究 ====
中国での仏教の普及により、この国は世界で最も豊かな仏教コレクションを有している。[[莫高窟]]の近く[[敦煌市|敦煌]]と[[甘粛省|甘粛]]省[[永靖県]][[炳霊寺石窟]]、[[河南省|河南]]省[[洛陽市|洛陽]]近くの[[龍門洞窟|龍門石窟]]、[[山西省|山西]]省[[大同市]]の[[雲崗石窟]]、および[[重慶市|重慶]]市にほど近い[[大足石刻]]は、現在でもよく保存されている。[[唐|唐時代]]に8世紀に丘の中腹に彫られ、3つの川の合流を見下ろす[[楽山大仏]]は、現存する石仏としては世界最大規模を誇っている。

20世紀の始め、清朝末期には「[[敦煌文献]]」の発見を契機に'''[[敦煌学]]'''が始まり、仏教経典、仏像、中国仏教美術史の近代的な研究がヨーロッパ諸国、中国、日本によって始められた。

[[1996年]]には、山東省[[青州市]]、龍興寺址の窖蔵([[穴蔵]])から、合計で400体以上に上る石仏が発見された。また、2003年には同省[[済南市]]、開元寺址から80体余りの仏像が発見され、龍興寺出土の石仏群との比較・照合が行われた。龍興寺で発見されたこれらの仏像は、大きさや題材も様々であったが<ref>{{Cite news|title=端正な表情が魅力 穴蔵から見つかった精巧な仏像たち 中国・山東省|date=2019-12-10|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3258277?pno=5&pid=3258277005|agency=[[新華社通信]]|accessdate=2021-04-19}}</ref>、埋蔵に至った過程までの経緯から損傷が激しいものが大半であった<ref>{{Cite journal|author=[[小澤正人]]|year=2007|title=山東青州龍興寺窖蔵出土北斉如来立像考 (地域研究, <特集>中国における地域文化研究及び言語研究)|url=http://id.nii.ac.jp/1109/00003990/|journal=成城文藝|issue=198|page=139|accessdate=2021-04-19|ISSN=02865718}}</ref>。だが、{{仮リンク|青州市博物館|zh|青州市博物馆}}によって復元作業が行われたことで、制作時期の数世紀以上の幅があったことが判明した。紀年銘によれば、古いものでは[[永安 (北魏)|永安]]2年([[529年]]・[[北魏]]時代)、新しいものでは[[天聖]]4年([[1026年]]・[[北宋]]時代)に制作されたことが分かっている。また、これらの仏像が埋蔵されたのは[[12世紀]]初期(北宋末期)以降であると推定されている。龍興寺出土の石仏群、特に北斉時代のものは、当時の中国における肉体表現に対する試行錯誤と、[[東南アジア]]・[[南インド]]に由来する、[[海のシルクロード]]伝来の仏像美術・ヒンドゥー教美術の影響をうかがうことができる<ref name="Toyo-8-232">[[#前田|前田(2012) p.232]]</ref><ref>{{Cite journal|author=[[小澤正人]]|year=2007|title=山東青州龍興寺窖蔵出土北斉如来立像考 (地域研究, <特集>中国における地域文化研究及び言語研究)|url=http://id.nii.ac.jp/1109/00003990/|journal=成城文藝|issue=198|page=115|accessdate=2021-04-19|ISSN=02865718}}</ref>。{{Clear}}

=== 朝鮮 ===
{{see also|朝鮮の仏教|大韓民国の宗教|韓国の美術|:en:Korean Buddhist sculpture}}[[朝鮮]]における仏教美術は一般として、他国の仏教からの影響と朝鮮独自の文化の交流を反映している。くわえて、[[ツングース系民族|シベリア]]や[[スキタイ]]などの[[ユーラシア・ステップ|草原文化]]の美術様式の初期の韓国仏教芸術への影響は、[[新羅]]の{{仮リンク|新羅の王冠|en|Crown of Silla|label=王冠}}や角帯(ベルト)のバックル、短剣、{{仮リンク|ゴゴク|en|Gogok}}([[勾玉]]の一種)などの工芸品や埋葬品の発掘によって明らかにされている <ref>{{Cite web|url=http://www.metmuseum.org/explore/Korea/koreaonline/crown.htm|title=Crown|publisher=The Metropolitan Museum of Art|website=Arts of Korea|accessdate=2007-01-09}}</ref><ref>Grayson (2002), p. 21.</ref>。 この土着的な美術様式は、幾何学的かつ抽象的で、 海洋文化や騎馬民族文化、[[シャーマニズム]]の伝統で豊かに彩られている。周辺諸国からの影響も強かったが、朝鮮仏教美術は「落ち着いて、抑制が効き、抽象的ではあるが不思議なほど現代的なセンスに合致している」(Pierre Cambon、''Arts asiatiques-Guimet ''' )などと評されている。[[ファイル:Pensive Bodhisattva 02.jpg|サムネイル|『{{仮リンク|金銅弥勒菩薩半跏像|en|Gilt-bronze Maitreya in Meditation (National Treasure No. 83)}}』[[弥勒菩薩半跏思惟像]]の代表的な作例。[[大韓民国指定国宝]]第83号 7世紀頃 新羅 [[ソウル特別市]]、[[国立中央博物館]]蔵。]]

==== 朝鮮三国時代 ====
{{See also|仏教公伝}}
3世紀から4世紀頃にかけて、[[朝鮮半島]]各地に散らばっていた多種多様な部族連合が、徐々に国としてまとまりを見せ始める。朝鮮半島北部から[[中国東北部|東北三省]]の一部まで版図を拡げた'''[[高句麗]]'''、南部から西南にかけての'''[[百済]]'''、東南部の[[洛東江]]下流の[[伽耶|伽倻諸国]]、そして東南・{{仮リンク|慶州盆地|en|Gyeongju Basin}}の(のちに朝鮮を統一する)'''[[新羅]]'''が成り、抗争を繰り広げる、いわゆる[[三国時代 (朝鮮半島)|朝鮮三国時代]]が始まった。

[[372年]]、これらの国のうち[[高句麗]]が最初に仏教を受容する <ref name="graysonp252">Grayson (2002), p. 25.</ref>。 しかし、中国側の記録と高句麗の壁画に描かれた仏教的なモチーフで確認できるように、この年代よりも早い時期に仏教が伝わっていたようである <ref>Grayson (2002), p. 24.</ref>。 384年、続いて[[百済]]に仏教が伝わる <ref name="graysonp252" />。[[535年]]<ref group="注釈">528年とも。</ref>、両国に100年以上遅れて[[新羅]]王国が仏教を受容する <ref>{{Cite encyclopedia}}; {{Cite web|url=http://www.metmuseum.org/toah/ht/06/eak/ht06eak.htm|title=Korea, 500&ndash;1000 A.D.|publisher=The Metropolitan Museum of Art|website=Timeline of Arts History|accessdate=2007-01-09}}</ref><ref group="注釈">新羅は立地上、中国大陸への海路・陸路を確立できなかったためであった。5世紀初頭には高句麗の僧侶を通じこの新しい教えの存在を認知していたようである。</ref>。高句麗と百済では中原から公的に伝来したのに対し、新羅への伝道は民衆への浸透が先行し、おそらく布教に対して迫害が行われていたようである<ref name="Yamada 127">[[#山田|山田(1999) p.127]]</ref>。

仏教の導入は、職人には崇敬のための図像制作を、建築家には寺院の建築を、学者には経典を渇望させ、そして朝鮮の文明を一変せしめた。これら朝鮮の諸王国に洗練された美術様式を伝えたのは「[[夷狄]]」であった[[拓跋部|拓跋氏]]の[[北魏]]様式であった<ref group="注釈">[[386年]]、[[鮮卑|鮮卑族]]の一派であった拓跋氏は、華北に[[北魏]]を建てた。</ref>。北魏、それに続く[[北斉]]の仏教美術は、これら三国に大きな影響を与えた。百済は後に、[[南朝 (中国)|中国南朝]]と高句麗、そして百済特有の美意識とともに作り上げられた仏像美術を日本に伝えることとなる<ref name="Toyo-5-147" />。

6世紀後半以降、百済では石仏の造立がいち早く始まった<ref name="Baku-320">[[#朴|朴(2016) p.320]]</ref>。[[印相]]・持物・装束といったディテールには北魏様式を保っているものの、造形的な印象は、外見的には静謐さがありながらも芯が強い溌剌としているという、百済仏らしさがより顕著になっている。

新羅では、6世紀には高句麗の影響によって金銅仏の制作が、7世紀ごろにはおそらく百済の影響によって石仏や磨崖仏の制作が始まる<ref name="Baku-321">[[#朴|朴(2016) p.321]]</ref>。この時代の新羅石仏美術は、百済のものに比して体躯の表現にまだ稚拙さがうかがえるものの、重厚さという点ですでに独立した美術様式を芽生えさせていた。朝鮮の仏師たちは、各々の様式を作り上げるために優れた審美眼を発揮し、さまざまな他地域のスタイルを取り入れ融合させた<ref>Grayson (2002), pp. 27 & 33.</ref><ref>{{Cite web|url=http://www.metmuseum.org/toah/hd/kobs/hd_kobs.htm|title=Korean Buddhist Sculpture, 5th&ndash;9th Century|publisher=The Metropolitan Museum of Art|website=Timeline of Arts History|accessdate=2007-01-09}}</ref>。

高句麗はおもに、華北由来の仏教の影響下にあった<ref>{{Cite journal|author=[[門田誠一]]|year=2013|title=高句麗千仏信仰の系譜 : 延嘉七年造像銘の検討|journal=歴史学部論集|volume=3|page=71}}</ref>。仏教美術においては、まず五胡十六国時代の古式金銅仏の様式が取り入れられた。7世紀に入ると、北朝の仏教美術と連動するかたちで発展した。2021年現在確認されている朝鮮最古の仏像、'''「[[539年|延嘉七年]]」銘金銅仏立像'''もこの時代に制作された<ref>{{Cite web|url=https://www.museum.go.kr/site/jpn/relic/represent/view?relicId=1955|title=国立中央博物館|accessdate=2021-03-08|publisher=[[国立中央博物館]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210308100624/https://www.museum.go.kr/site/jpn/relic/represent/view?relicId=1955|archivedate=2021-03-08|language=ja}}</ref>。高句麗の仏像は主に金銅と塑造で、厚い通肩の法衣や火炎紋の光背、微かな笑みが特徴である。

===== 百済の微笑と半跏思惟菩薩像 =====

このように、6世紀の朝鮮仏教美術は中国とインドの文化的影響を示したが、それ以降は独特の土着的な特徴を見せるようになった <ref>[http://www.metmuseum.org/toah/ht/06/eak/ht06eak.htm metmuseum.org]</ref>。 北朝の影響が強い高句麗の仏像に比べ、[[梁 (南朝)|梁]]などの南朝とも密接に交流していた百済の仏像は、美術史家には'''{{仮リンク|百済の微笑|en|Baekje Smile}}'''と呼ばれている、神秘的で穏やかな[[アルカイク・スマイル|アルカイックスマイル]]を浮かべているものが少なくない<ref name="metmuseum2">{{Cite web|url=http://www.metmuseum.org/toah/hd/kobs/hd_kobs.htm|title=Korean Buddhist Sculpture (5th–9th century) &#124; Thematic Essay &#124; Heilbrunn Timeline of Art History &#124; The Metropolitan Museum of Art|publisher=metmuseum.org|accessdate=2014-12-11}}</ref>。 また、新羅では6世紀後半から7世紀後半にかけて'''[[半跏思惟像|半跏思惟菩薩像]]'''が盛んに作られた<ref>{{Cite book|和書|title=東洋美術史|date=2016-4-1|publisher=株式会社精興社|pages=320|author=[[朴享國]]}}</ref>。これは、中国のものからは独立した形式であった。この様式は、日本の[[広隆寺]]伝来の[[弥勒菩薩半跏思惟像#広隆寺の宝冠弥勒|宝冠菩薩]]にみられるように、奈良時代の日本の仏像様式に大きな影響を与えた<ref name="kenyon2">{{Cite web|url=http://www2.kenyon.edu/Depts/Religion/Fac/Adler/Reln275/Jap-Kor-art.htm|title=Japanese Art and Its Korean Secret|publisher=www2.kenyon.edu|accessdate=2014-12-11}}</ref><ref>{{Cite web|url=http://sjc.kr/square/nanseng_new/square2_shot11.jsp?sub_sep_idx=2|title=二つの像|accessdate=2021-03-09|publisher=SJC(ソウルジャパンクラブ)|language=ja}}</ref><ref group="注釈">なお、宝冠菩薩の制作地については、百済説、新羅説、日本説、渡来人制作説があり、用材に[[アカマツ]]と[[クスノキ]]が使われていたことから、結論は出ていない。</ref>。これらの朝鮮の文化に根ざした様式は、日本の初期仏教美術にも見ることができるのは、仏教が伝来して間もない、飛鳥時代の仏像制作に(主に百済出身の)[[渡来人]]が携わっていたからであると考えられている<ref name="Baku-325">[[#朴|朴(2016) p.325]]</ref>。上述の半跏思惟像などは、その典型例であろう。多くの歴史家は朝鮮を仏教の単なる伝達者として描写しているが、これら三国、特に百済は、538年または552年に仏教が日本へと受容されるうえで主体的な役割を果たしたのである<ref name="google3">{{Cite book|title=Korea: A Religious History|last=Grayson, J.H.|date=2002|publisher=RoutledgeCurzon|isbn=978-0700716050|url=https://books.google.com/books?id=e1BzL2lwPqEC|page=33|accessdate=2014-12-11}}</ref>。

また、三国時代の朝鮮では寺院の建設も活発に行われた。百済の[[益山市|益山]]には{{仮リンク|彌勒寺 (益山市)|en|Mireuksa|label=彌勒寺}}が、新羅の[[慶州市|慶州]]には[[皇龍寺]]が建てられた。百済の建築家はその卓越した技術で後世に知られ、上述の皇龍寺の巨大な九重の仏塔や、[[奈良]]の[[飛鳥寺|法華寺]] (飛鳥寺)や[[法隆寺]]などの建設を行った <ref name="google22">{{Cite book|title=Sir Banister Fletcher's a History of Architecture|last=Fletcher, B.|last2=Cruickshank, D.|date=1996|publisher=Architectural Press|isbn=978-0750622677|url=https://books.google.com/books?id=Gt1jTpXAThwC|page=716|accessdate=2014-12-12}}</ref>。[[File:Seokguram_Buddha.JPG|リンク=https://en-two.iwiki.icu/wiki/File:Seokguram_Buddha.JPG|サムネイル|阿閦如来座像 [[石窟庵]] [[恵恭王]]の時代、[[大暦]]9年([[775年]])完成 [[1909年]]に偶然再発見された。現在、[[韓国の国宝|大韓民国国宝]]第24号されているほか、[[世界遺産の一覧 (アジア)|世界遺産]]にも登録されている。]]
==== 統一新羅 ====
==== 統一新羅 ====
7世紀後半、新羅が百済、高句麗を併呑し、唐の勢力を朝鮮半島から排除することに成功、[[統一新羅]]時代が始まった。統一新羅初期の仏教美術は、新羅の様式と百済の様式が融合したものであった。8世紀には、'''慶州[[石窟庵]]の本尊如来坐像'''に見られるように、人体像の把握が進み、身体の量感や肢体の伸びやかさが巧みに表現された、石仏の名品が多く作られた。また、朝鮮半島の統一後、唐との外交関係が好転し冊封体制に復帰したことで、国際色の色濃い唐の仏教美術の影響も大きく受けることとなった。
[[File:Goryeo_Pagoda.jpg|リンク=https://en-two.iwiki.icu/wiki/File:Goryeo_Pagoda.jpg|サムネイル|213x213ピクセル|[[高麗|高麗時代]]の慶清寺塔は、韓国国立博物館の 1階にある]]
[[統一新羅]]時代、[[東アジア]]は特に安定しており中国と韓国はともに統一政府を享受、初期の統一新羅芸術は新羅スタイルと百済スタイルを組み合わせたもので 韓国の仏教芸術は正統派の仏像をモチーフにした新しい人気の仏教モチーフが示すように、新しい[[唐|唐時代]]スタイルにも影響を受けた。唐中国は東アジア、中央アジア、南アジアの交差道路であったためこの時代の仏教美術はいわゆる国際スタイルを示し、国の支援による仏教美術はこの期間に栄えた。その代表的なものは[[石窟庵]]である。


また、統一新羅の時代には、数は少ないながらも密教美術の作例を確認することができ、[[金剛界大日如来]]や[[十一面観音]]、[[千手観音]]、[[明王]]といった尊格の仏像が作られた<ref name="Baku-328">[[#朴|朴(2016) p.328]]</ref>。
==== 高麗王朝 ====
新羅統一の崩壊と918年の[[高麗]]時代の確立は韓国仏教芸術の新しい時代を示し 高麗の王たちは、仏教と仏教美術、特に仏教絵画と金と銀のインクで書かれた経典を惜しみなく後援 [http://www.metmuseum.org/toah/ht/07/eak/ht07eak.htm]。この期間の最高の成果は2度行われた約80,000個の[[高麗八萬大蔵経|トリピタカコリアナ]]の木版画の彫刻。



==== 朝鮮 ====
9世紀後半、[[中央集権|中央集権政的]]な体制が崩壊し、地方分権化と貴族層・[[花郎]]の台頭が進んだ。こういった社会制度の変化に応じるように、鉄造の金銅仏が作られるようになった。<gallery mode="nolines">
[[李氏朝鮮|朝鮮王朝]]は1406年から仏教を積極的に抑制し、仏教寺院と美術品の生産量はその後減少したが、1549年から仏教美術は引き続き生産されていく [https://books.google.com/books?vid=ISBN0300051670&id=wMK-Ba0-RG4C&pg=PA335&lpg=PA335&dq=korean+buddhist+art&sig=_kCe2AGEUno0itMIz1VXdKH5KOI]。
ファイル:Seosan Buddha Triad Carved on the Rock.JPG|瑞山龍賢里(ソサン・ヨンヒョンリ)磨崖[[三尊形式|如来三尊]]像 [[7世紀]]初頭(百済後期)<ref>{{Cite book|和書|title=東洋美術史|date=2016-4-1|publisher=株式会社精興社|pages=320|author=[[朴享國]]}}</ref> [[忠清南道]]、[[瑞山市]]
ファイル:JulienpaulA.jpg|銅造如来及両脇侍立像 百済 6世紀-7世紀 [[東京国立博物館]]蔵([[法隆寺献納宝物]])
ファイル:Standing Bodhisattva. Goguryeo. Seoul National University Museum.jpg|仏陀立像 高句麗 [[ソウル大学校#美術館|ソウル大学校美術館]]蔵
ファイル:Pensive BodhisattavaThree Kingdoms 7th century MET.jpg|思惟菩薩像 金銅仏 [[三国時代 (朝鮮半島)|三国時代]](7世紀中頃) メトロポリタン美術館蔵<ref>{{Cite web|url=https://www.metmuseum.org/art/collection/search/65397?searchField=All&amp;sortBy=Relevance&amp;ft=Bodhisattva&amp;offset=0&amp;rpp=20&amp;pos=5|title=Pensive bodhisattva|accessdate=2021-03-09|publisher=[[メトロポリタン美術館]]|language=en}}</ref>
ファイル:Maitreya Koryuji.JPG|弥勒菩薩半跏思惟像「宝冠弥勒」 木造 [[広隆寺]]蔵
ファイル:군위 아미타여래삼존 석굴.jpg|軍威石窟[[阿弥陀三尊|三尊仏]] [[大韓民国指定国宝]] 大韓民国[[慶尚南道]] [[花崗岩]]製 統一新羅時代(7世紀頃) 1962年発見。[[脇侍]]の屈曲した姿勢に、隋から初唐の様式の影響がうかがえる<ref>{{Cite Kotobank|軍威石窟三尊仏|[[ブリタニカ国際大百科事典]] 小項目事典|accessdate=2021-04-03}}</ref>。
</gallery>[[ファイル:Pressapochista4.jpg|サムネイル|『[[咸和 (渤海)|咸和]]四年銘仏龕』([[834年]])時期としては渤海後期様式に属する。[[倉敷市]][[大原美術館]]蔵?<ref>{{Cite web|url=https://www.ohara.or.jp/201001/jp/C/C4f2.html|title=作品紹介 コレクションリスト 東洋の美術|accessdate=2021-02-26|publisher=[[大原美術館]]|language=ja}}</ref>|左]]
==== 渤海 ====

7世紀、高句麗の遺民や[[靺鞨|靺鞨人]]によって[[渤海 (国)|渤海]]が建てられる。この国は、現在の沿海州、黒龍江省、および北朝鮮にあたる地域まで国土を拡げ、唐をして「海東の盛国」と呼ばしめた。新羅と友好関係を結んだ8世紀の末からは、唐・新羅の文化を取り込み、現代にまで伝わる仏教美術を遺した。渤海では多宗派が受け入れられていたが、そのなかでもとりわけ五台山の教え、特に華厳密教が盛んであったようである<ref name="Baku-345">[[#朴|朴(2016) p.345]]</ref>。しかしながら、被支配層にどれだけ仏教が浸透していたかは明らかではない。

仏教美術に関する主な出土品は五京に限られており、特に[[上京龍泉府]]と[[中京顕徳府]]、[[東京龍原府]]に偏っている。また、仏像の様式も対新羅外交の変化の結果、高句麗文化のまだ色濃い前期と唐・新羅の様式を取り込んだ後期に分けられる。


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==== 高麗 ====
統一新羅が混乱の末に衰亡し、[[936年]]に'''[[高麗]]'''が朝鮮統一を果たす。初代国王の[[太祖 (高麗王)|太祖]]が公布した「訓要十条」に見られるように、仏教は高麗王室によって厚く保護された。こういった状況を背景に、仏教美術も活発に行われた。

[[高麗仏画|'''高麗仏画''']]は、来世と現世の救済を願う浄土信仰を奉ずる貴族層や豪族たちの求めに応じて発展した。また、[[華厳経|華厳]]思想に基づいた、蒙古撃退と国家安泰を願う「五百羅漢図」のような作品もみられる。

また、宗教的営為としての[[写経]]が流行した。統一新羅のころには写経はすでに行われていたが、これらの時代には、写経は修行・研究のためだけでなく、行為そのものが功徳を積む手段であると考えられるようになった<ref>{{Cite journal|author=権熹耕|year=2016|title=高麗写経—様式的特徴と思想的背景—|url=http://id.nii.ac.jp/1219/00000541/|journal=人間文化研究所年報|volume=27|page=284|accessdate=2021-03-16}}</ref>。これら写経のうち、豪奢な作りのものは'''[[装飾経]]'''と呼ばれ、紺紙に金泥・銀泥で描いたものが多く遺されている。 また、[[木版印刷]]でも写経は行われた。[[モンゴルの高麗侵攻|モンゴルの朝鮮侵入]]を機に[[13世紀]]に彫刻された'''[[高麗八萬大蔵経]]'''は、その刻字の美しさから美術工芸品としての価値も名高い。

仏像美術おいては、俗に「'''弥勒仏'''」と呼ばれる巨大な石仏が各地に作られた。菩薩立像は、その大きさ(10メートル以上)から顔の造形や衣紋の衣装は適度な[[デフォルメ]]が施されており、また、屋外に安置されることが多く頭部に宝蓋を頂いているのが一般的である。これらの石仏は[[風水|風水思想]]や[[巫俗|土俗信仰]]とも結びついたものだった。高麗時代末期には、モンゴルの侵攻によって仏像彫刻は大幅に衰退する。特筆すべきものとしては、元代仏像の流れをくむ密教系の金銅仏が挙げられる。<gallery mode="nolines">
ファイル:Goryeo-Kshitigarbha (Chijang)-late.14c.jpg|[[地蔵菩薩]]図 高麗末期([[14世紀]]末) [[メトロポリタン美術館]]蔵
ファイル:Goryeo Seopum.jpg|観経曼荼羅図 絹本 高麗末期(14世紀) [[福井県]][[西福寺 (敦賀市)|西福寺]]蔵<ref>{{Cite web|url=http://www.saifukuji.jp/profile3.html|title=書画・工芸品|accessdate=2021-03-16|publisher=[[西福寺 (敦賀市)]]}}</ref> 李氏朝鮮の時代に仏教弾圧政策が行われ、結果として多くの文化財が国外へと流出した<ref name="uegaki">[http://jfn.josuikai.net/josuikai/21f/55/kami/kami.htm 朝鮮半島から見た日本] 帝塚山学院大学教授 [[上垣外憲一]] 2004年2月10日、社団法人如水会。</ref>。
ファイル:Korea-Goryeo-Suweol.Gwaneumdo-Guimet.jpg|水月観音図 13世紀から14世紀 [[ギメ東洋美術館]]蔵
ファイル:Goryeo-Illustrated manuscript of the Lotus Sutra c.1340.jpg|『[[妙法蓮華経]]』第二巻 装飾経 高麗後期([[1340年代]]頃) メトロポリタン美術館蔵
ファイル:Goryeo-Avatamsaka Sutra.vo.12-mid.14c.Leeum.Museum.jpg|『[[華厳経|大方広仏華厳経]]』第十二巻 装飾経 高麗後期(14世紀中頃) [[湖巌美術館]]蔵
ファイル:Goryeo Pagoda.jpg|敬天寺十層石塔 高麗時代 [[国立中央博物館]]蔵
ファイル:The great stone Buddha at Eunjin.jpg|菩薩立像(右) 石造 高麗時代([[968年]]頃) [[忠清南道]][[論山市]]灌燭寺 [[韓国]]最大の石仏。[[1906年]]撮影。
</gallery>

==== 李氏朝鮮 ====
[[李氏朝鮮]]時代は仏教にとって暗黒期であった。最初期こそ仏教が保護されたものの、堕落した教団への反発と儒教の国教化を背景に、[[1406年]]、[[太宗 (朝鮮王)|太宗]]の時代に徹底的な排仏政策が推し進められた。これによって、朝鮮の仏教教団と寺院、美術は大きな衰亡をみた。しかしながら、[[1549年]]、[[文定王后]]のもとで仏教が保護されるようになると、仏教美術は再び大々的に作られるようになった。

朝鮮時代の仏像美術に特筆すべき名品は高麗時代のものと比較すると少ないが、その一方で仏像制作に用いられる材料や図像は多様化した。朝鮮時代初期にはすでに、それ以前には用いられなかった木造や塑造による作例が見られ、17世紀にはこれらが主流となった<ref name="Baku-362">[[#朴|朴(2016) p.362]]</ref>。

仏教絵画においては、画題、素材、そして鑑賞方法にも多様化が見られた。当時描かれたものには、発願のための彩色絹本、寺院内部に描かれた堂内壁画、経典の紙本、さらに屋外での大人数による礼拝に用いられた掛仏幀(あるいは掛仏)、[[施餓鬼|施食会]]に用いられた甘露幀といったジャンルが挙げられる<ref name="Baku-358">[[#朴|朴(2016) p.358]]</ref>。特に、掛仏幀と甘露幀は、貴族や僧侶のためというよりも衆向けに作られ、李氏朝鮮後期、17世紀以降に作例が多く見られるようになった<ref>{{Cite journal|author=[[野村伸一]]|year=2003|title=朝鮮時代の仏画にみる女性生活像|url=https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN10032394-20030331-0063|journal=慶應義塾大学日吉紀要. 言語・文化・コミュニケーション|volume=30|page=63|language=ja|accessdate=2021-04-17}}</ref>。<gallery>
ファイル:Dalmado.jpg|[[達磨]]図 {{仮リンク|金明國|en|Gim Myeong-guk}}筆 [[仁祖]]時代 [[1636年]]~1637年、あるいは[[1643年]]
ファイル:Pressapochista16.jpg|青谷寺霊山会掛仏幀 [[大韓民国指定国宝]]302号 慶尚南道[[晋州市 (慶尚南道)|晋州市]]{{仮リンク|青谷寺大雄殿 (晋州市)|ko|진주 청곡사 대웅전|label=青谷寺}} 麻布着色 1772年 青谷寺文化博物館蔵
ファイル:Jeseokcheon (Indra), Beomcheon (Brahma), and Witaecheon (Skanda) with Guardians and Attendants.jpg|護法神図 [[高宗 (朝鮮)|高宗]]28年([[1891年]]) [[ロサンゼルス・カウンティ美術館]]蔵 [[帝釈天]]、[[梵天]]、[[韋駄天]]の他、護法神や侍従が描かれている。
</gallery>{{Clear}}


=== 日本 ===
=== 日本 ===
{{see also|日本の仏教|日本美術|日本美術史|日本の仏教美術}}
{{see also|日本の仏教|日本美術|日本美術史|:en:Japanese Buddhist architecture|:en:Buddhist art in Japan}}
[[ファイル:Taishakuten Śakra, Tō-ji.jpg|左|サムネイル|[[帝釈天]]半跏像 [[平安時代]]前期、[[承和 (日本)|承和]]6年([[839年]]) 京都市、[[東寺]]講堂 帝釈天とは、インドの神[[インドラ]]に由来する、仏法及び仏教徒を護る神、護法善神の一柱。頭部は後補<ref>{{Cite web|url=http://www.touji-ennichi.com/info/taishktn.htm|title=東寺観光案内・講堂立体曼荼羅/帝釈天|accessdate=2021-04-03|publisher=東寺出店運営委員会|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201022224720/http://www.touji-ennichi.com/info/taishktn.htm|archivedate=2020-10-22}}</ref>。]]
[[File:ASURA_detail_Kohfukuji.JPG|リンク=https://en-two.iwiki.icu/wiki/File:ASURA_detail_Kohfukuji.JPG|左|サムネイル|179x179ピクセル|[[阿修羅|阿修羅像]] [[興福寺]]、奈良(734)]]
日本とインドの間で直接的な文化相互交流は行われなかったものの<ref group="注釈">なお、[[752年]]に行われた[[東大寺盧舎那仏像]]の[[開眼法要]]に参加した[[菩提僊那]]が近代以前に渡来した数少ないインド僧の一人として挙げられるように、全くインドとの交流が無かったわけではなかった。</ref>、[[中国]]、[[朝鮮]]、[[林邑]]([[ベトナムの歴史|ベトナム]])、中央アジアを介して仏法とそれに付随する習俗・芸術・政治システムの受容が図られた<ref>{{Cite book|title=Indian Influence on the Art of Japan|last=Sampa Biswas|publisher=Northern Book Centre|year=2010|isbn=978-8172112691|url=https://books.google.com/books?id=fLjcMfMGP10C&printsec=frontcover&dq=Buddhist+art+of+Japan&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwisg5jQrPrVAhWKMo8KHXxoBpEQ6AEIJjAA#v=onepage&q=Buddhist%20art%20of%20Japan&f=false}}</ref>。[[シルクロード]]の終着点に位置する日本は、仏教がインドで衰微し、中央アジアと中国で抑圧された時代にあっても、仏教のさまざまな側面を保持することができていた。日本の仏教美術の創造性は[[奈良時代]]、[[平安時代]]、そして[[鎌倉時代]]と、[[8世紀]]から[[13世紀]]にかけて特に豊かであった。仏教と同時に流入した[[ヒンドゥー教]]の要素や、在地の[[神道]]の影響も受けながら融合・発展した。
仏教が導入される前は[[日本]]は10500年頃からの土着の新石器時代の[[縄文時代|縄文]]の抽象的な線状の装飾芸術から、さまざまな文化的(および芸術的)影響がありBCE300から[[弥生時代]]と古墳時代の芸術、[[埴輪]]芸術などの発展がみられた。
[[ファイル:Horyuji Monastery Sakya Trinity of Kondo (178).jpg|サムネイル|[[法隆寺金堂釈迦三尊像]] 銘[[推古天皇|推古]]31年([[623年]]) [[鞍作止利]]作 北魏様式の流れを汲む。造像した鞍作止利は[[司馬達等]]の孫で、渡来系であった。]]


==== 飛鳥時代 ====
日本は韓国、中国、中央アジア、そして最終的にはインドを通じて仏教を受けたため、インドと日本の間の文化交流は直接的ではなかったが日本人は6世紀に伝道僧が旅行したときに数多くの経典や芸術作品とともに仏教を発見し仏教の思想と美学の採用によるインド薬局文明と日本の文化的接触は次の世紀の国家文化秩序の発展に貢献 <ref>{{Cite book|title=Indian Influence on the Art of Japan|last=Sampa Biswas|publisher=Northern Book Centre|year=2010|isbn=978-8172112691|url=https://books.google.com/books?id=fLjcMfMGP10C&printsec=frontcover&dq=Buddhist+art+of+Japan&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwisg5jQrPrVAhWKMo8KHXxoBpEQ6AEIJjAA#v=onepage&q=Buddhist%20art%20of%20Japan&f=false}}</ref>。仏教は次世紀に国家によって採用されていく。日本は地理的に[[シルクロード]]終わりにあるため、仏教がインドで消滅し中央アジアと中国で抑圧された当時にあっても多くの側面を保持することができていた。
{{Seealso|白鳳文化}}
[[File:Bodhidarma.jpg|リンク=https://en-two.iwiki.icu/wiki/File:Bodhidarma.jpg|サムネイル|278x278ピクセル|[[達磨]]の書道「禅は人間の心を直接指し、あなたの自然を見て仏になります」、[[白隠慧鶴|白隠絵鶴]](1686〜1769)]]
仏教伝来以前の[[日本]]では、[[紀元前11千年紀以前|紀元前14,000年頃]]から[[紀元前10世紀]]まで続いた[[縄文時代]]に発達した[[縄文土器]]の装飾美術や、それに続く[[弥生時代]]([[3世紀]]頃まで)・[[古墳時代]]([[7世紀]]まで)の[[埴輪]]や青銅器が[[日本列島]]内外の影響を受けながら発達していた。
711年から、[[パゴダ|五重塔]]、法隆寺金堂、[[興福寺]]など[[奈良市|奈良]]の首都に数多くの寺院や修道院が建てらたが多くの場合政府の支援の下無数の絵画と彫刻が制作されインド、ヘレニズム、中国、韓国の芸術的影響が、リアリズムと優雅さを特徴とするオリジナルのスタイルに融合。日本の仏教美術の創造性は[[奈良時代|奈良]]、[[平安時代|平安]]、[[鎌倉時代|鎌倉]]時代と8世紀から13世紀にかけて特に豊かであり非常に豊かな芸術を開発したが[[ヒンドゥー教|ヒンドゥー]]と[[神道]]の影響も組み合わせていく。こうしたアートシーンは非常に多様で、創造的で大胆である。
[[File:Seitaka_Doji_by_Unkei_(Koyasan_Reihōkan).jpg|リンク=https://en-two.iwiki.icu/wiki/File:Seitaka_Doji_by_Unkei_(Koyasan_Reih%C5%8Dkan).jpg|左|サムネイル|244x244ピクセル|''童子''清隆 by [[運慶]]、[[鎌倉時代]]、1197、[[金剛寺]]]]
12、13世紀からさらに発展したのは[[禅]]の芸術であり、中国から帰国した[[道元]]と[[明菴栄西|栄西]]らが信仰を導入した後に[[室町時代]]黄金時代に直面。禅アートは主にオリジナルの絵画( [[水墨画|墨絵]]など)と詩(特に[[俳句]] )によって特徴付けられ、印象的で装飾のない「非二元的」表現を通して世界の真の本質を表現しようと努めていく。「現時点」での啓発の探求は、[[茶道|茶の湯]]茶道や[[華道|生け花の生け花]]芸術など、他の重要な派生芸術の開発にもつながり、この進化はほとんどすべての人間の活動をまず最初に何よりも戦闘技術( [[格闘技|武道]] )に関連する活動において、これらを強い精神的および美的内容を持つ芸術と見なして極限まで進行していった。


[[538年]]に、百済からの使者によって大和朝廷に対して仏教が紹介される([[仏教公伝]])。実際にはそれ以前からすでに渡来人やヤマト政権内部の人々にも檀家は存在したようだが、584年に[[善信尼]]らによって日本初の尼寺が建てられたことで、日本でも寺院建築の歴史が始まった。また、[[594年]]に即位した[[推古天皇]]のもとで[[四天王寺]]、[[飛鳥寺]]が建てられるなど、仏教化が推し進められた。その結果、花開いたのが'''[[飛鳥文化]]'''である。
仏教は今でも日本で非常に活発であり、現在約80,000の仏教寺院が保存されているが それらの多くは木材で、定期的に修復されている。


日本国内で仏像制作が始められたのも飛鳥時代である。[[敏達天皇|敏達]]六年([[566年]])には、百済から渡来した仏師によって日本の見習い仏師への伝授が始められた<ref>{{Cite journal|author=[[大橋一章]]|year=2007|title=救世観音像の原所在とその後の安置場所|url=http://hdl.handle.net/2065/27649|journal=早稲田大学大学院文学研究科紀要|volume=52|page=109|accessdate=2021-03-20|ISSN=1341-7533}}</ref>。『[[日本書紀]]』は、百済の使者によって初めて日本にもたらされた仏の美しさを「相貌端厳(みかおきらきらし)」と伝えている<ref>{{Cite journal|editor=高橋伸幸|date=2010-5-10|journal=[[一個人]] 特別編集 仏像入門 永久保存版|publisher=[[KKベストセラーズ]]}}</ref>。この仏像は金銅仏であったが、'''[[法隆寺]]の[[法隆寺金堂釈迦三尊像|釈迦三尊像]]'''や'''飛鳥寺の釈迦如来像'''といった飛鳥時代を代表する仏像もまた金銅仏が多かった。また、'''[[法隆寺夢殿]]の[[救世観世音菩薩|救世観音像]]'''や[[百済観音|'''百済観音''']]といった、金色に塗られた木造仏も作られた。さらに、塑造や乾漆造の仏像も、未だで主流たりえなかったものの、この時代ではすでに少数の作例が見られる。飛鳥時代の仏像の特徴としては、奥行きが浅く、[[左右対称]]であることが挙げられる。これは、正面から鑑賞することを前提としていたためであった。

さらに、塑造や乾漆造の仏像も、未だ主流たりえなかったものの、この時代ではすでに少数の作例が見られる。<gallery>
ファイル:GUZE Kannon Horyuji.JPG|[[救世観世音菩薩|救世観音]]立像 国宝 飛鳥時代前期(7世紀) 木造 日本に現存する最古の仏像。[[聖徳太子]]の肖像とも(太子信仰)。金箔が施され、金銅仏のように見える<ref>{{Cite journal|author=[[大橋一章]]|year=2007|title=救世観音像の原所在とその後の安置場所|url=http://hdl.handle.net/2065/27649|journal=早稲田大学大学院文学研究科紀要|volume=52|page=107|accessdate=2021-03-20|ISSN=1341-7533}}</ref>。
</gallery>[[File:ASURA_detail_Kohfukuji.JPG|リンク=https://en-two.iwiki.icu/wiki/File:ASURA_detail_Kohfukuji.JPG|左|サムネイル|[[阿修羅|興福寺阿修羅像]] 奈良時代、[[天平]]6年([[734年]]) [[興福寺]]]]
==== 奈良時代 ====
{{節スタブ|date=2021年3月}}
奈良時代には、朝廷によって唐由来の政治制度、[[律令体制]]の整備が進められ、僧侶も官僚組織へと取り込まれていった([[官僧]])。

[[710年]]に[[藤原京]]から[[平城京]]への遷都が行われると、法隆寺の[[法隆寺#西院伽藍|五重塔]]や金堂、[[興福寺]]などに代表される、数多くの寺院や僧院が建てられた。奈良時代は、国家が仏教絵画や仏像の主たる後援者であった。しかしながら、[[遁世僧]]であった[[行基]]の活躍によって[[東大寺盧舎那仏像|'''東大寺盧舎那仏像''']]が官民の協力をもって建立されたように、仏教とその芸術が徐々に庶民層へ浸透していった最初の時代でもあった。[[ヘレニズム]]、インド、中国、朝鮮の芸術的影響を受けながら、リアリズムと優美さを特徴とする美術様式が確立されていった。



{{Clear}}<gallery mode="nolines">
ファイル:20100716 Nara Todaiji Daibutsu 2292.jpg|東大寺盧舎那仏像 [[天平勝宝]]4年([[752年]])に開眼供養が行われた。「奈良の大仏」とも。度重なる戦災と補修により、建造初期から残っている箇所はわずかである。
ファイル:Jianzhen (Tōshōdai-ji, 3).jpg|[[鑑真|鑑真和上]]坐像 奈良市、東大寺蔵 日本最古の肖像彫刻<ref>{{Cite web|url=https://www.toshodaiji.jp/about_mieidoh.html|title=御影堂|伽藍と名宝|唐招提寺|accessdate=2021-03-20|publisher=[[唐招提寺]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20201101045852/https://www.toshodaiji.jp/about_mieidoh.html|archivedate=2020-11-01}}</ref>。鑑真の弟子であった[[忍基]]の指揮で制作された。
ファイル:Vajirapani Shukongoshin Todaiji2.JPG|[[執金剛神]]像 塑像  東大寺、[[法華堂]] [[天平|天平時代]]、[[8世紀]] 右手指修理前の写真 [[1952年]]撮影
</gallery>

==== 平安時代 ====
{{Seealso|浄土教#平安時代末期}}[[ファイル:Heikenoukyou.jpg|サムネイル|『[[平家納経]]』[[平安時代]]後期、[[長寛]]2年([[1164年]])。[[平清盛]]一門が[[厳島神社]]に奉納した[[装飾経]]の群。当時の工芸技術の結晶であり、日本における[[法華経]]の受容例であり、[[大和絵]]の史料でもある。]]平安初期には、唐から日本に[[真言密教]]をもたらした'''[[空海]]'''が、[[曼荼羅]]美術、[[法具]]、[[空海#書家として|書道]]の発展に野においても多大な貢献をした。また、平安時代を通じて[[神仏習合]]が進んだことで、[[熊野信仰]]、[[御霊信仰]]、[[山岳仏教]]([[修験道]])が展開し、これらの信仰に関連する仏像、絵画が作られた。

[[11世紀]]に入ると、[[摂関政治]]が陰りを見せ武士が台頭しつつあったことから[[末法思想]]が流行し、浄土信仰が広まった。この新たな教えは貴族層にも受け入れられ、終末が訪れるとされた[[永承]]7年([[1052年]])には、ときの[[関白]]、[[藤原頼通]]によって京都、[[宇治市|宇治]]に[[平等院|'''平等院鳳凰堂''']]が建てられる。

浄土教の影響は、当然絵画美術や書道にもおよんだ。[[来迎図|'''来迎図''']]や[[法華経]]を書写した'''[[装飾経]]'''が、大寺社や極楽往生を願う貴族によって盛んに制作された。これらの芸術品は鎌倉時代以降も継続して作られた。また、平安時代の終わりには、初期の[[縁起絵巻]]かつ[[絵巻物]]の名品である『[[信貴山縁起|'''信貴山縁起''']]』が完成した。

平安時代末期には仏像美術に新が起きた。特筆すべきは[[定朝様|定朝ら]]による天平時代へのルネサンスと、[[奈良仏師]]による写実性とマッスの追求である。11世紀の[[定朝]]は、[[平安貴族]]の好みと一致した柔和で優美な仏像を制作し、国風文化形成の一端を担った。一方で、奈良仏師は、定朝の成果を受け継ぎながらも、生気に満ちた躍動的な作風を追求した。

技術的な側面としては、定朝によって[[寄木造]]の技法が完成された。これによって、木造でもより大きな仏像を制作可能となり、[[丈六像|丈六仏]]と呼ばれる3メートル程度の高さの仏像が数多く作られた。[[12世紀]]の末頃、平安末期から鎌倉時代初期に活躍した[[慶派]]の[[運慶]]は、高さ{{convert|8.4|m|ft}}の'''[[東大寺南大門]][[金剛力士]]像'''を寄木造によって完成させた<ref>{{Cite web|url=https://www2.nhk.or.jp/school/movie/clip.cgi?das_id=D0005403035_00000|title=東大寺南大門 金剛力士像|accessdate=2021-03-19|publisher=[[NHK]]}}</ref>。


国風文化<gallery>
ファイル:大日如来2, Vairocana, Heian period.jpg|木造[[大日如来]]坐像 重要文化財 木造、漆箔 [[11世紀]]から[[12世紀]] [[東京国立博物館]]蔵 寄木造り。身体造形や凹凸の穏やかな衣文に平安時代後期の仏像の特徴が見られる<ref>{{Cite web|url=https://emuseum.nich.go.jp/detail?langId=ja&webView=&content_base_id=100424&content_part_id=0&content_pict_id=0|title=e國寶 - 大日如来坐像|accessdate=2021-04-04|publisher=[[国立文化財機構]]}}</ref>。
ファイル:Extermination of Evil Tenkeisei.jpg|紙本著色[[辟邪絵]]「天刑星」 [[12世紀]] 天啓星が、疫病神の[[牛頭天王]]をはじめとする疫鬼を食べている。現在は5点の掛軸となっているが、[[戦後70年千の証言スペシャル|戦後]]に切断される以前は一巻の[[絵巻物]]であった。
ファイル:Phoenix Hall.jpg|[[平等院]]、鳳凰堂と[[浄土式庭園]] [[国宝]] [[永承]]7年([[1052年]])創建 京都府[[宇治市]] 関白[[藤原道長]]の別荘だった宇治殿を、[[末法の世]]への危機感から、長男の藤原頼通が寺院に改めた。[[2012年]]から2年に渡り大規模な修復が行われた。
</gallery>[[File:Seitaka_Doji_by_Unkei_(Koyasan_Reihōkan).jpg|リンク=https://en-two.iwiki.icu/wiki/File:Seitaka_Doji_by_Unkei_(Koyasan_Reih%C5%8Dkan).jpg|左|サムネイル|''[[制多迦童子|制多迦童子像]] ''[[運慶]]作 [[建久]]年(1197年)[[鎌倉時代]]、[[金剛寺]]]]
==== 中世(鎌倉時代・室町時代) ====
民衆層にも仏教が広まるとともに、平安時代末に萌芽をみせていた新仏教([[鎌倉仏教]])が隆盛する。一方、新仏教の拡大に直面した[[南都六宗]]や[[真言宗]]、[[天台宗]]といった、旧仏教の側でも内部からの改革が進められた。また、政治の実権が[[東国]]を拠点とする[[武家政権]]に移ったことで、これ以後は仏教美術のパトロンの地位も[[幕府]]や[[武家|武家層]]へと比重が移っていく。[[鎌倉幕府]]は全般として、[[顕密体制]]と呼ばれる、[[南都六宗]]と[[平安二宗]]を重んじる方針をとった<ref>{{Cite journal|author=[[平雅行]]|year=2019|title=鎌倉幕府の東国仏教政策|url=http://doi.org/10.20558/00001317|journal=京都学園大学総合研究所所報|volume=20|page=60 - 69|ISSN=1347-4200}}</ref>。[[北条時宗]]の代前後においては禅宗が積極的に保護されたが、[[元寇]]を経て顕密は再び隆盛した<ref group="注釈">元軍の撃退に[[加持祈祷]]が影響が与えたと考えられたことと、禅を重んじていた南宋が滅亡したことが、情勢に変化をもたらした。</ref>。以降、顕密と禅律は並行して保護され、つづく[[室町幕府]]もこの路線を継承した。

[[12世紀]]から[[13世紀]]にかけて、「[[禅]]」が仏教美術の主役となる。続く[[14世紀]]の[[室町時代]]には、[[南宋]]で[[印可]]を受けた[[栄西]]と[[道元]]の功績によって、禅美術は黄金期を迎える。禅の美術は、'''[[水墨画]]'''、'''[[枯山水]]'''のような視覚芸術と、五山文学や[[連歌]]、[[俳句]]に代表される[[文学]]の2つに大別される。禅美術の実践者たちは、印象主義的で虚飾を排した「非二元的」表現を通じ、世界の本質を表そうと努めた。「いま、この瞬間」の悟りへの探求は、仏教と共に日本へと伝わった[[茶道]]や[[華道]]や同時代に成立した[[能楽]]など、他の派生的な芸術の発展にもつながった。このような禅芸術の展開は、主に[[武道]]をして人間の一挙手一投足を精神的・美的な要素を持つ芸術と見いださせるに至った。また、宋の美術と同様に頂相も制作された。

さて、禅美術が作られたのは禅寺においてであったが、こと室町時代においては、禅寺は中国文化の受け入れ窓口としても機能していた。僧侶たちを通じて宋・元・明由来の禅・世俗美術の受容がおこなわれ、上述の水墨画、枯山水、茶道、華道といった、いわゆる日本文化の代表的な部分が形成された。例えば、京都の[[相国寺]]からは、[[如拙]]、[[周文]]、[[雪舟|'''雪舟''']]といった[[画僧]]が輩出されている。また、禅寺は禅僧、公家、武士が交流するサロンとしての役割を果たし、結果として寺院に付属する[[書院造|書院]]や庭園美術が発達した。この分野では、[[臨済宗]]の僧侶、'''[[夢窓疎石]]'''が多大な役割を果たしている。

一方、偶像を必要としない禅宗の始めとした新仏教の流行によって室町時代の仏像美は鎌倉以前の様式を踏襲したものとなった。しかし、前述の頂相の一分野としての肖像彫刻は多数つくられた<ref>{{Cite web|url=https://kanagawabunnkaken.web.fc2.com/index.files/kihon/jidai/muromachi.html|title=時代の特徴 8. 室町時代|accessdate=2021-03-21|publisher=日々是古仏愛好|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210320152617/https://kanagawabunnkaken.web.fc2.com/index.files/kihon/jidai/muromachi.html|archivedate=2021-03-21}}</ref>。

禅宗や浄土宗といった新たな流れに圧されていた旧仏教の側でも、対抗的に教団の立て直しが行われた。南北朝期の動乱を乗り越え、室町時代を通じ政治的な独立を果たした[[高野山]]は、鎌倉時代から室町時代にかけて制作された密教美術・仏具の名品を現在でも数多く遺している。また、鎌倉時代から南北朝時代に活躍した[[真言律宗]]の僧侶、[[叡尊]]・[[文観]]も密教美術・仏画制作に携わり、こと文観の作品はこの時代の仏教絵画としては数多く現存している。

平安時代から引き続いて、鎌倉時代には仏の[[功徳]]や高僧の人生などを描いた縁起絵巻が数多く作られた。[[観音菩薩|観世音菩薩]]の功徳を説く『[[石山寺縁起絵巻|'''石山寺縁起絵巻''']]』や、新羅の僧、[[義湘]]を題材にした『'''[[華厳宗祖師絵伝]]'''』、[[良忍]]上人の事績と[[念仏]]の功徳を説く『[[融通念仏縁起絵巻|'''融通念仏縁起絵巻''']]』などが挙げられる。

<gallery mode="nolines">
ファイル:Ippen Biography 3.jpg|『[[一遍聖絵]]』第7巻 四条釈迦堂 国宝 [[円伊]]筆 [[正安]]元年([[1299年]]) 宋画と[[大和絵]]が融合した[[絵巻物|絵巻]]作品。[[一遍]]の遷化後ほどなくして取材・制作された経緯から、資料的価値も高い。
ファイル:AMIDA-Chionin.jpg|『[[阿弥陀]]二十五菩薩[[来迎図]]』通称「早来迎」<ref>{{Cite web|url=chion-in.or.jp/highlight/treasure.php|title=知恩院の宝物|accessdate=2021-04-03|publisher=[[知恩院]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210227045449/https://www.chion-in.or.jp/highlight/treasure.php|archivedate=2021-02-27}}</ref> 国宝 京都市[[知恩院]] 初期浄土宗美術の代表作。[[九品]]と呼ばれる、[[極楽浄土]]に[[往生]]する9つのランクの中でも最高の階位が上品上生である。本図は、往生者の佇まいや遠景に描かれた宝楼閣から、上品上生図を意図した作品と考えられている<ref>{{Cite web|url=https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/butsuga/item06.html|title=阿弥陀二十五菩薩来迎図(あみだにじゅうごぼさつらいごうず) (早来迎〈はやらいごう〉)|accessdate=2021-04-03|publisher=[[京都国立博物館]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20210403074932/https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/butsuga/item06.html|archivedate=2021-04-03}}</ref>。
ファイル:Fudō Myōō.jpg|絹本著色五大尊像([[不動明王]]) 国宝 絹本著色 鎌倉時代 京都市[[醍醐寺]]
ファイル:Aizen Mandala (Nezu Museum).jpg|[[愛染明王|愛染]]曼荼羅図 絹本著色 鎌倉時代前期([[13世紀]]頃)<ref>{{Cite web|url=https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/209836|title=[[文化遺産オンライン]]|accessdate=2021-04-03|publisher=[[文化庁]]}}</ref> [[根津美術館]]蔵
ファイル:Andō Ene (Nara National Museum).jpg|[[安東円恵]]像 [[元徳]]2年([[1330年]]) [[重要文化財]] [[奈良国立博物館]]蔵 [[武将]]であり、のちに出家して臨済宗の僧となった安東円恵の頂相。
ファイル:Detail of Japanese Kasuga Mandala, Nambokucho period, ink colors and gold on silk.jpg|春日宮曼荼羅(一部) [[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]  春日宮(現在の[[春日大社]])とは、[[神仏習合]]の神である春日権現を祀る神社で、[[興福寺]]の影響に置かれていた。南面する春日社本殿に四所明神(一殿から四殿)と若宮の[[本地仏]]が描かれている。背景は[[春日山 (奈良県)|春日山]]。
ファイル:Hyônen zu by Josetsu.jpg|『[[瓢鮎図]]』(部分) 国宝 [[如拙]]筆 [[応永]]年間、[[1415年]]以前か 禅の修行者に与えられる問題、[[公案]]を題材とした絵。南宋[[南画|南宗画]]の強い影響が随所に見ることができる作品。
</gallery>

==== 江戸時代 ====
[[江戸時代]]を通じ、幕府によって仏教の諸宗派が保護されたことで、仏教は実質的な国教としての地位を得た<ref name="Matsuo171">[[#松尾|松尾(1990) p.171]]</ref>。教義や宗論の発展は停滞したものの、仏教美術は、こと江戸時代初期においては幕府・皇室・諸藩の援助の受けて盛んに作られた。戦国時代以来の文化的復興期にあたる[[元禄文化|元禄期]]には、後述する黄檗宗による黄檗建築や、霊廟建築が発達した。彫刻の分野においては[[円空]]、元慶らが活躍した。さらに、江戸期には庶民層へも仏教説話が受容されたことで、これらの物語を下敷きとした[[葛飾北斎]]の『[[東海道五十三次]]』<ref group="注釈">『東海道五十三次』の53という名数は、『[[華厳経]]』の末尾の一経、『[[入法界品]]』に登場する[[善財童子]]が得る[[善知識]]の数に由来するとする説がある。</ref>といった浮世絵や、[[閻魔|閻魔信仰]]を背景とした[[地獄絵]]が制作された。さらに、[[勧進]]によって大衆からの仏塔や寺社の建設費が賄われることが増えた。他方、これらの寄付を募るために[[能]]や[[人形浄瑠璃]]、[[落語]]、[[講談]]といった[[劇]]や[[口承文芸]]が催されたことで、仏教美術は江戸の町人文化へと浸透していった<ref name="Matsuo173">[[#松尾|松尾(1990) p.173]]</ref>。

[[17世紀]]、中国での[[明清交替|明末清初]]の混乱に伴い、[[隠元隆琦]]、[[逸然性融]]ら渡来僧によって中国の仏教美術と・[[長江デルタ|江南地方]]の文化が[[江戸時代]]の日本にもたらされる。彼らが紹介した、[[黄檗美術]]や[[唐絵]]、[[日本の書流#唐様|唐様]](書体)といった仏教美術の新しい表現技術は、仏画・造像に留まらず江戸文化そのものの形成に大きな影響を残した。<gallery mode="nolines">
ファイル:Portrait of Ingen Ryūki by Kita Genki.jpg|『[[隠元隆琦|隠元和尚]]』像 [[喜多元規]]筆 [[1671年]] [[萬福寺|万福寺]]蔵
ファイル:Enku Buddha Tokyo.JPG|如来立像 [[円空]]作 檜 [[東京国立博物館]]蔵 17世紀に活躍した仏師、円空は、蝦夷から奈良に至るまで[[行脚]]し、生涯に約12万体にのぼる[[木彫刻|木彫]]の仏像を遺した。これらの仏像は一般に「[[円空仏]]」と呼ばれる。
ファイル:Bodhidarma.jpg|『[[達磨]]図』 [[白隠慧鶴|白隠絵鶴]]筆。 「直指人心(じきしにんしん)、見性成佛(けんしょうじょうぶつ)」─「自身の本性・[[仏心]]を凝視し、[[覚者]]になり切って真実の人間となる<ref>{{Cite web|url=http://www.rinnou.net/cont_04/zengo/060501.html|title=禅語「直指人心 見性成仏」|accessdate=2021-03-31|publisher=臨黄ネット([[臨済宗]]、[[黄檗宗]])|website=臨黄ネット|date=2006-05-01}}</ref><ref>{{Cite book|和書|title=白馬芦花に入る―禅語に学ぶ生き方|publisher=柏樹社|pages=274|author=[[細川景一]]|date=1987-7-1}}</ref>」
ファイル:Sengai 3.jpg|「○△□」 [[仙厓義梵]]筆 [[出光美術館]]蔵 臨済宗の僧、仙厓義梵は11歳で[[出家]]したが、絵筆を取ったのは40代に入ってからだった。描いた禅画の主題は仏から動植物、抽象的なものにまで及んだ。この作品は宇宙を表すとされ、解釈には諸説ある<ref>{{Cite web|url=http://idemitsu-museum.or.jp/collection/sengai/sengai/03.php|title=◯△□|accessdate=2021-03-31|publisher=[[出光美術館]]}}</ref>。
ファイル:The Three Laughers of Tiger Ravine, Soga Shohaku - Indianapolis Museum of Art - DSC00768.JPG|『虎渓三笑図』 [[18世紀]]中頃 [[曾我蕭白]]筆
ファイル:Kiyomizu-dera - Main Hall 2.JPG|[[清水寺]]本堂 [[寛永]]10年([[1633年]])再建 [[国宝]] 建物の前半部分は山の斜面に切り出すように建てられており([[懸造]])、支柱はケヤキを用いている。釘を一切使わずに建設された。
ファイル:Zuiryuji Temple 2010-08-29 02.jpg|[[瑞龍寺 (高岡市)|瑞龍寺]]、[[仏殿]] 国宝 万治2年(1659年)竣工 瑞龍寺は、[[富山県]][[高岡市]]の[[曹洞宗]]の仏教寺院。禅宗様建築の典型例。
</gallery>
[[ファイル:Hôgai Hibo.jpg|サムネイル|絹本著色悲母観音像 [[重要文化財]] [[狩野芳崖]]筆 [[明治]]21年([[1888年]]) [[東京芸術大学]]蔵 日本最初の重要文化財として登録された。]]

==== 明治時代以降 ====
[[明治維新]]後、1868年に成立した新政府のもとで行われた[[廃仏毀釈]]政策によって、数多くの仏教文化財が破壊、ないしはアメリカなどの国外流出の憂き目にあった。その一方で、ヨーロッパ諸国ならびに中国やインドとの交流・渡航が可能になったことで、ほかの美術同様、仏教建築や仏像美術の分野でも、外来の要素を取り入れながら試行錯誤が図られた。建築の分野においては、伊東忠太が設計した'''[[築地本願寺]]'''は、外観に古代インドの要素を取り入れる一方で、内装においては和洋折衷が図られた<ref>{{Cite web|url=https://www.pref.yamagata.jp/documents/4922/05_tokyonoyamagata2019010.pdf|title=伊東忠太氏 設計による建築物
(築地本願寺・湯島聖堂・靖国神社)|accessdate=2021-03-28|publisher=[[山形県]]|year=2019}}</ref>。また、[[第二次世界大戦]]以降から[[21世紀]]の終わりにかけて、'''[[巨大仏]]'''と呼ばれる、高さ{{Convert|40|m|ft}}以上の仏像が国内各地に建立された。

日本では今日においても仏教が盛んである。2018年現在、日本国内には約80,000の仏教寺院が存在しており、それらの多くは[[木造]]で、定期な修復がなされている。<gallery>
ファイル:Tsukiji Honganji 200902.jpg|[[築地本願寺#本堂|築地本願寺本堂]] 東京都[[中央区 (東京都)|中央区]] [[伊東忠太]]設計
ファイル:Ushiku Daibutsu.jpg|牛久阿弥陀大佛(通称:[[牛久大仏]]) 茨城県[[牛久市]] [[平成]]5年([[1993年]]) 高さ{{Convert|120.0|m|ft}}
</gallery>{{Clear}}[[ファイル:Yama_tibet.jpg|左|サムネイル| [[閻魔]]図 [[ゲルク派]] [[18世紀]]前半 [[チベット]] 中央に大きく描かれる閻魔の上方に描かれた[[ラマ (チベット)|ラマ]]は、向かって左が[[パンチェン・ラマ]]、右が[[アティーシャ]]と推定されている<ref>{{Cite web|url=https://www.metmuseum.org/art/collection/search/37807|title=Yamantaka, Destroyer of the God of Death|accessdate=2021-04-14|publisher=メトロポリタン美術館}}</ref>。]]
=== チベットとブータン ===
=== チベットとブータン ===
{{See also|ブータンの文化|チベット仏教|チベットの歴史}}{{節スタブ|date=2021年4月}}
{{See also|ブータンの文化|チベット仏教|チベットの歴史}}[[密教|タントラ仏教]]は、5世紀または6世紀頃に東インドでの動きとして始まり タントラ仏教の実践の多くは、[[ヴェーダの宗教|ブラフマニズム]] ( [[マントラ]]、[[ヨーガ|ヨガ]]、または犠牲の捧げ物の燃焼)に由来。タントリズムは、8世紀から[[チベット]]の仏教の支配的な形になりアジアの地理的中心性により、チベット仏教美術はインド、[[ネパール]]、グレコ仏教、中国美術の影響を受けた。[[ファイル:Yama_tibet.jpg|左|サムネイル| ヤマ 18世紀、チベット]]チベット仏教芸術の最も特徴的な作品の1つは[[曼荼羅|マンダラ]]、正方形を囲む円で作られた「神殿」の図でその目的は瞑想を通して仏教の信者が注意を集中し仏のイメージ中心への道をたどることを支援することで 芸術的には仏教の[[グプタ朝|グプタ]]芸術とヒンドゥー教の芸術はチベット芸術の2つの最も強いインスピレーションである傾向がある。
前述の通り、東インドでは5世紀から6世紀にかけて初期の[[密教]](タントラ仏教とも)が成立した。密教の儀式の多くは、当時競合関係にあった[[ヴェーダの宗教|ブラフマニズム]]の流れ(マントラ[真言]、[[ヨーガ|ヨガ]][瑜伽]、ホーマ[<nowiki/>[[護摩]]])を汲んでいる。[[8世紀]]以降、[[吐蕃]]最盛期の王、[[ティソン・デツェン]]の治世下において仏教が国教化され、8世紀末の'''[[サムイェー寺の宗論]]'''によって、インド系の仏教である密教が中国系仏教を退け、[[チベット]]における主要な教えとなった。地理的にアジアの中心に位置していたことにより、チベット仏教美術はインド、[[ネパール]]、ガンダーラ、そして中国の美術の影響を受けた。


チベット仏教美術の最も特徴的なもの一つが[[マンダラ|'''マンダラ''']]である。マンダラとは、正方形を囲む円から成る「諸尊諸仏の寺院」を描いた図であり、修行者がこれを用いる目的は、[[観想]]によって、中心に描かれている仏への道を辿ることである。芸術的な側面としては、グプタ仏教美術とヒンドゥー美術から大きな影響を受けている。
10世紀から11世紀にかけて、北インドの[[ヒマーチャル・プラデーシュ州]]の[[タボ寺|タボ修道院]] (当時は西チベット王国の一部)は、インドとチベットの文化交流、特に仏教美術と哲学の仲介者として重要な役割を果たしていた。タボのチベット仏教芸術の顕著な例は、その絶妙なフレスコ画 <ref>{{Cite book|title=Tabo: a lamp for the kingdom : early Indo Tibetan Buddhist art in the western Himalaya, Archeologia, arte primitiva e orientale|last=Deborah E. Klimburg-Salter|last2=Christian Luczanits|publisher=Skira|year=1997|url=https://books.google.com/books?id=-zLqAAAAMAAJ&q=Tibetan+buddhist+art&dq=Tibetan+buddhist+art&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwjM3OCm1_vVAhUVSo8KHTjrCpwQ6AEIRTAG}}</ref>
[[ファイル:Avalokiteshvara, the Bodhisattva of Compassion, Guge kingdom, 1000-1050 AD, Ngari, west Tibet, brass alloy, copper & tin inlay, colored wax, traces of gilding, and pigment - Freer Gallery of Art - DSC04534.jpg|サムネイル|アヴァローキテーシュヴァラ([[観音菩薩]])像 [[11世紀]]前半 西チベット、[[グゲ王国]](現在の[[ガリ地区]]) [[フリーア美術館]]蔵]]
[[841年]]にティツク・デツェン王が暗殺され、後を継いだ[[ラン・ダルマ]]王もほどなくして暗殺されたことで、吐蕃は内戦状態に陥り、主たる後援者を失った仏教もまた衰えた。しかし、チベット高原西部まで逃れた吐蕃の王族の一部が建国した[[グゲ王国]]によって、仏教はふたたび息を吹き返した。グゲ王国は{{仮リンク|リンチェン・サンポ|en|Rinchen Zangpo}}ら留学僧を(当時仏教先進国であった)[[カシミール地方]]へと積極的に派遣し、教学ならびに同地の建築、美術を吸収させた<ref name="Toyo-3-84">[[#前田|前田(2012) p.84]]</ref>。以降、西チベットでは、カシミール地方の影響がみられる「リンチェンサンポ様式」と呼ばれる仏教美術が栄えた<ref name="Baku-87">[[#朴|朴(2016) p.87]]</ref>。

10世紀から11世紀にかけて、北インドの[[ヒマーチャル・プラデーシュ州]]の{{仮リンク|タボ僧院|en|Tabo Monastery}} (当時の西チベット王国の一部)は、インドとチベットの文化交流、特に仏教美術と哲学の分野において、仲介者として重要な役割を担っていた。タボにおける特筆すべきチベット仏教芸術には、同寺院に描かれたフレスコ画が挙げられる<ref>{{Cite book|title=Tabo: a lamp for the kingdom : early Indo Tibetan Buddhist art in the western Himalaya, Archeologia, arte primitiva e orientale|last=Deborah E. Klimburg-Salter|last2=Christian Luczanits|publisher=Skira|year=1997|url=https://books.google.com/books?id=-zLqAAAAMAAJ&q=Tibetan+buddhist+art&dq=Tibetan+buddhist+art&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwjM3OCm1_vVAhUVSo8KHTjrCpwQ6AEIRTAG}}</ref>。

13世紀には、チベットはユーラシア大陸全体を席巻したモンゴル帝国と国境を接する。これをうけ、外交官として西涼まで赴いたチベット仏教[[サキャ派]]の僧、[[サキャ・パンディタ]]がモンゴルの貴族たちに布教を行った。さらに、その甥にあたる[[パクパ]]は元朝初代皇帝[[クビライ]]と親交が篤かったことにより、帝師として[[大都]]に招聘された。結果として、中国においても大都を中心にチベット・ネパール由来の仏教美術と仏教建築が大いに発展した。

14世紀に入ると、[[ゲルク派]]の祖、[[ツォンカパ]]がチベット仏教を改革。17世紀の[[ダライ・ラマ]]政権樹立への礎を築いた。15世紀には、チベット仏教美術の主たる流派の2つ、メンリ派とキェンツェ派が成立する。メンリ派側はダライ・ラマの[[宮廷画家|宮廷絵師]]としての地位を得てチベット仏教美術の主流派を形成した一方、圧されたキェンツェ派側はしだいにメンリ派に吸収された<ref name="Baku-89">[[#朴|朴(2016) p.89]]</ref>。これらの学派では、各尊格ごとに異なった身体比率、様相、着衣、姿態が定められ、厳密なアイコノメトリーが定義された<ref name="Baku-90">[[#朴|朴(2016) p.90]]</ref>。
[[ファイル:Yamantaka statue from Tibet, 19th century, gilt bronze, Honolulu Museum of Art.JPG|左|サムネイル|[[ヤマーンタカ]](大威徳明王)像 19世紀 金銅仏 [[ホノルル美術館]]]]
15世紀から16世紀にかけ、カギュ派内部の一派であった[[カギュ派|カルマ派]]が、[[カルマパ]]と呼ばれる[[化身ラマ|転生ラマ]]制度をチベット史最初に導入した。カルマパは代々仏教美術を愛好・保護し、カルマ・ガルディ派と呼ばれる画工集団を重用した。17世紀、{{仮リンク|カルマパ10世|en|Chöying Dorje, 10th Karmapa|label=カルマパ10世チューイン・ドルジェ}}が[[ダライ・ラマ5世]]との政争に破れ、チベット東部での漂泊生活を強いられる。その過程で、彼と彼に随行した画工達は中国絵画の要素を吸収し、18世紀に至りカルマ派が東チベットに定着したのちも、カルマ・ガルディ派の絵画様式はこれを下敷きとして発展を続けた<ref name="Baku-90"></ref>。

[[20世紀]]はチベット仏教美術にとって試練の世紀であったと同時に、海外への大々的な伝播が起こった時代でもあった<ref name="Baku-92">[[#朴|朴(2016) p.92]]</ref>。1959年の[[チベット動乱]]によって、[[ダライ・ラマ14世]]を始めとする各宗派の指導者や仏教美術の担い手であった画工・仏師が国外へと流出した。また、1970年代の[[文化大革命]]では、多数の文化財や[[タンガ]]、仏像が破壊された。しかしながら、これらのできごとの結果としてヨーロッパやアメリカ大陸においてチベット仏教が広まったほか、欧米やインド、ネパールに逃れた芸術家たちが亡命先で移民2世や現地の画家など後進の育成に尽力することなった。さらに、中国領内においても、寺院の復旧や研究調査も21世紀に至るまで続いており、チベット人作家による新しいチベット仏教美術の様式が展開されている。

{{Clear}}<gallery>
ファイル:Bodhisattva, wall painting in the Dukhang, Tabo monastery, Spiti. ca. 1st half of the 11 century, possibly 1040s..jpg|[[菩薩]]像 伽藍内部の壁画 11世紀前半([[1040年代]]?) タボ僧院 インド、[[ヒマーチャル・プラデーシュ州]]
ファイル:Tibetan, Central Tibet, Tsang (Ngor Monastery), Sakya order - Four Mandalas of the Vajravali Series - Google Art Project.jpg|仏典Vajravali四曼荼羅 ンゴル僧院([[サキャ派]]) [[1429年]]から[[1456年]]頃 中央チベット、[[ツァン|ツァン地方]] [[キンベル美術館]]蔵 この僧院を開いたンゴルチェン・クンガ・サンポの依頼によって制作された。左上に{{仮リンク|パンチャラクシャー|en|Pañcarakṣā}}(五護[[陀羅尼]])が、右上に[[ヴァスダーラー]](持世菩薩)が、右下には[[尊勝仏頂|ヴィキラノーシュニーシャ]](尊勝仏頂)が、左下のマンダラ右上隅にはバガヴァティマハーヴィディヤー([[多羅菩薩]])が描かれている<ref>{{Cite web|url=https://www.kimbellart.org/collection/ap-200001|title=Four Mandalas of the Vajravali Series, c. 1429–56 {{!}} Kimbell Art Museum|accessdate=2021-04-13|publisher=[[キンベル美術館]]}}</ref>。
ファイル:15th-century paintings from Tibet, Central Tibetan - Mahakala, Protector of the Tent - Google Art Project (cropped).jpg|[[大黒天]]([[マハーカーラ]])図 [[15世紀]]前半 中央チベット [[フィラデルフィア美術館]]蔵
ファイル:Guge-householder-yasa.jpg|[[耶舎]]出家図 {{仮リンク|トリン・ゴンパ|en|Tholing Monastery}}(托林寺)、迦薩殿内部 グゲ王国時代([[15世紀]]) チベット自治区[[ガリ地区]]
ファイル:Dakini Tibet Guimet 21107.jpg|[[荼枳尼天]]像 金銅仏 [[18世紀]]
ファイル:KagyuRefugeTree.jpg|[[カギュ派]]の{{仮リンク|集会樹|en|Refuge Tree}}<ref>{{Cite journal|author=[[森雅秀]]|date=1998-12-20|title=集会樹の造型と儀礼|url=https://doi.org/10.4259/ibk.47.317|journal=印度學佛教學研究|volume=47|issue=1|pages=317-311}}</ref> [[20世紀]] ウィキコモンズのページでは、対応する[[ラマ (チベット)|ラマ]]・尊格についての説明を閲覧できる。
ファイル:Bhutanese painted thanka of Milarepa (1052-1135), Late 19th-early 20th Century, Dhodeydrag Gonpa, Thimphu, Bhutan.jpg|[[ミラレパ]]図 [[19世紀]]から[[20世紀]]初頭 [[ブータン]] ミラレパは、チベットの代表的な仏教実践者で、[[カギュ派]]の宗祖。
ファイル:Samye32.JPG|[[サムイェー寺]]のチョルテン([[仏塔]]の一種) [[チベット自治区]][[山南市]]
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=== ベトナム ===
=== ベトナム ===
[[ファイル:National_Museum_Vietnamese_History_35_(cropped).jpg|サムネイル| 蓮から立ち上がった少年仏。深紅色と金色の材、Trần-HVietnam王、ベトナム、1415世紀]]の影響力は、北部の支配的だった[[ベトナム]]第一と第九世紀の間(トンキン)、および[[儒教]]と大乗仏教が普及。全体として、ベトナムの芸術は中国の仏教芸術の影響を強く受けている。
ベトナムの文化・芸術は、中国文化圏に属した北部と、インド文化圏に属した中部・南部で異なった展開を見せた。[[ファイル:National_Museum_Vietnamese_History_35_(cropped).jpg|サムネイル| 蓮から立ち上が少年仏 像 [[陳]] [[14世紀]]から[[15世紀]] {{仮リンク|ベトナム立歴史博物館|en|National Museum of Vietnamese History}}蔵]][[ベトナム]]北部[[トンキン]]は1世紀から9世紀のあいだ中国の文化的・政治的の強い影響下に置かれていた。また、それ以降の時代にあっても、中国由来の[[儒教]]と大乗仏教が普及した。全体として、ベトナムの仏教芸術の展開は中国の仏教芸術の影響によところが大きい

[[李朝 (ベトナム)|李朝]]から[[陳朝]]にかけて([[11世紀]]から[[13世紀]]頃)、仏教はなかば国教として保護されていた。陳朝初期の歴代の皇帝は、[[臨済宗|臨済禅]]の流れをくむ竹林派を奉じていたが、陳朝後半になるとこれにチベット仏教と[[道教]]が混淆されていった。陳朝の時代を通じ、各地にチュア([[パーリ語|巴語]]:ストゥーパから)とトゥ([[中国語]]:寺から)と呼ばれる仏教寺院が建立された<ref name="Baku-154">[[#朴|朴(2016) p.154]]</ref>。[[14世紀]]には、この時期に成立した[[明]]からの影響で儒教が重んじられるようになる。以後、仏教の影響力は相対的に小さいものとなるが、[[ベトナム戦争]]を経て[[ベトナム|現代]]に至るまで、仏教は同国の人々に信仰され続けている。


南部では [[チャンパ王国|チャンパ]]王国繁栄後に北部からベトナム人が追い越される)。[[チャンパ王国|チャンパ]]は近隣の[[カンボジア]]じように強くインド化された芸術をその彫像の多くは豊かな身体装飾よって特徴付けた。チャンパ王国の首都は1471年にベトナムによって併合され1720年代に完全に崩壊したが、[[チャム族|チャムの人々]]は少数派だが[[東南アジア]]全体豊富に分布
一方ベトナム南部では[[チャンパ王国|チャンパ]]が2世紀から19世紀(北部の[[阮朝|大南阮朝]]によって滅ぼされるまでに栄えた。[[チャンパ王国|チャンパ]]は近隣の[[カンボジア]]同様、インド的な美様式彫像における豊かな身体表現その特徴がある。また、初期の仏教美術においては、クメール美術かも大きな影響を受けた。チャンパ王国は[[1471年]][[黎朝]]によって首都を占領され、[[1720年代]]完全に崩壊した。しかしな少数民族となったものの[[チャム族]]は現代においてもベトナムを含む[[東南アジア]]に広く居住している<gallery>
ファイル:Amitabha of Phat Tich pagoda (reproduction), Bac Ninh province, 1057 AD DSC04838.JPG|[[阿弥陀如来|阿弥陀仏]]像 佛跡(ファット・チック)寺 [[バクニン省]] [[龍瑞太平]]4年([[1057年]])ハノイ、{{仮リンク|ベトナム国立歴史博物館|en|National Museum of Vietnamese History}}蔵
ファイル:Buddha entering Nirvana, view 1, Bac Ninh province, 17th century AD, lacquered wood - Vietnam National Museum of Fine Arts - Hanoi, Vietnam - DSC04973.JPG|[[涅槃仏]] バクニン省 [[莫朝]]?([[17世紀]])
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== 南仏教美術 ==
== 南仏教美術 ==
[[ファイル:CambodianBuddha.JPG|サムネイル| カンボジアの仏、14世紀]]
[[ファイル:CambodianBuddha.JPG|サムネイル| カンボジアの仏、14世紀]]
[[ファイル:Buddha_Mendut.jpg|左|サムネイル| Dhyani仏像[[大日如来]]、[[聖観音|観音菩薩]]、及び執金剛神内側Mendutの寺院。]]南仏教としても知られる正統派の仏教はスリランカ、ミャンマー(ビルマ)、タイ、ラオス、カンボジアでまだ実践され 西暦1世紀、シルクロードの貿易は、ローマ人が非常に裕福になり、アジアの贅沢品に対する需要が高まっていたように、[[ローマ帝国|ローマ]]の未敵の敵である[[中東]]の[[パルティア]]帝国の台頭によって制限される傾向があり この需要により [[地中海]]と中国の間の海のつながりが復活しインドが選択の仲介者となる。その時から貿易接続、商業的解決さらには政治的介入を通じてインドは[[東南アジア]]諸国に強く影響を与え始め 貿易ルートはインドを[[ミャンマー|ビルマ]]南部、[[タイ王国|シャム]]中部および南部、[[カンボジア]]南部および[[ベトナム]]南部と結び付け、多くの都市化された沿岸集落がそこに設立された。
[[ファイル:Buddha_Mendut.jpg|左|サムネイル| Dhyani仏像[[大日如来]]、[[聖観音|観音菩薩]]、及び執金剛神内側Mendutの寺院。]]南仏教としても知られる正統派の仏教はスリランカ、ミャンマー(ビルマ)、タイ、ラオス、カンボジアでまだ実践され 西暦1世紀、シルクロードの貿易は、ローマ人が非常に裕福になり、アジアの贅沢品に対する需要が高まっていたように、[[ローマ帝国|ローマ]]の未敵の敵である[[中東]]の[[パルティア]]帝国の台頭によって制限される傾向があり この需要により [[地中海]]と中国の間の海のつながりが復活しインドが選択の仲介者となる。その時から貿易接続、商業的解決さらには政治的介入を通じてインドは[[東南アジア]]諸国に強く影響を与え始め 貿易ルートはインドを[[ミャンマー|ビルマ]]南部、[[タイ王国|シャム]]中部および南部、[[カンボジア]]南部および[[ベトナム]]南部と結び付け、多くの都市化された沿岸集落がそこに設立された。
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=== スリランカ ===
=== スリランカ ===
[[ファイル:Sri_lanka_aukana_buddha_statue.jpg|左|サムネイル| スリランカの仏像。]]
[[ファイル:Sri_lanka_aukana_buddha_statue.jpg|左|サムネイル| スリランカの仏像。]]伝承によると仏教はティラの指導の下インドの宣教師によって紀元前3世紀にスリランカに導入された[[マヒンダ]]で、これはMauryanの皇帝の息子[[アショーカ王|アショカ]]によるとする。仏教が拡大する前スリランカの先住民は迷信に満ちたアニミスティックな世界に生きていたが 仏教の様々な信仰の同化と回心はゆっくりとしたプロセスで浸透、これは農村人口の間で足場を築くために仏教は様々な種類の霊や他の超自然的な信念を同化する必要があったことからで {{要出典|date=March 2017}} 最も早い修道院の複合体は [[アヌラーダプラ|Devānampiyatissa]]によって設立され、Mahinda Theraに提示された[[デーワー・ナンピヤティッサ|Anurādhapura]]の[[マハーヴィハーラ|Mahāvihāra]]で [[アバヤギリ・ダーガバ|マハーヴィハーラ]]は正統派のテラヴァダー教義の中心となり、その最高の位置は、西暦前89年ごろに[[アヌラーダプラのヴァラガンバ|ヴァシャガーマー]]によって[[アヌラーダプラのヴァラガンバ|アバハギリ]] [[アバヤギリ・ダーガバ|ヴィハーラ]]が設立されるまで不変のままであった。
スリランカ島はインド亜大陸から南東数十キロ離れた海上に位置する。[[パーリ語]]で書かれた[[叙事詩]]『[[マハーワンサ]]』によれば、[[紀元前543年]]([[入滅|釈迦入滅の年]])に、この地へと初代国王[[ウィジャヤ]]が渡ってきたことが始まりとされるが、史実においては更に遡るとされる。また、[[原史時代]]にあたる[[紀元前10世紀]]から紀元前5世紀には、すでに[[南インド]]と技術や文化を相互に影響を与えあっていたようである<ref>{{cite web|url=https://frontline.thehindu.com/other/article30208096.ece|title=Reading the past in a more inclusive way – Interview with Dr. Sudharshan Seneviratne|work=Frontline (2006)|accessdate=2021-04-20|language=en}}</ref>。

伝承によると、[[紀元前3世紀]]、[[マウリヤ朝]]の王、[[アショーカ王|アショーカ]]の長男、長老[[マヒンダ]]と、彼に率いられたインド僧たちがスリランカへと渡り、この地で仏教を広めたとされる。主に[[アニミズム]]を奉じていたスリランカの人々への布教の過程はゆっくりとしたものであったものの、ときの王、{{仮リンク|デーワー・ナンピヤティッサ|en|Devanampiya Tissa}}は深く仏教に帰依したことで、王都[[アヌラーダプラ]]からほど近い{{仮リンク|ミヒンタレー|en|Mihintale}}にスリランカ最初の精舎が開かれた<ref name="Toyo-3-78">[[#前田|前田(2012) p.78]]</ref>。また、アヌラーダプラにも僧院[[マハーヴィハーラ]](大寺)が築かれ、以後スリランカにおける[[上座部仏教]]の中心地となり、[[紀元前89年]]に{{仮リンク|ワッタガーマニー・アバヤ|en|Valagamba of Anuradhapura|label=ワッタガーマニー・アバヤ王}}によって{{仮リンク|アバヤギリ・ヴィハーラ|en|Abhayagiri vihāra}}(無畏山寺)が建立されるまでの間、その地位を維持し続けた。


AbhayagiriVihāraは改革されたMahāyāna教義の座になるが MahāvihāraとAbhayagiriの僧侶の間の競争はさらに分割しての基盤に[[ジェータワナ・ラーマヤ|Jetavanarama]] Mahāvihāra近くでつながっていく。シンハラ仏教の主な特徴は ''アヌラーダプラ''の3つの主要な僧院の複合体にちなんで名付けられた3つの主要なグループまたは''nikāyas''に分割されたことでありマハーヴィハーラー、アバハギリ、ジェタヴァナーラーマーなどこれらは懲戒規則''(ビナヤ)''と教義上の紛争からの逸脱結果で スリランカの他のすべての修道院3つのうちの1つに教会の忠誠を負っていった。スリランカでは石で作られ青銅合金で鋳造された仏像の彫刻が有名である <ref>von Schroeder, Ulrich. 1990. ''Buddhist Sculptures of Sri Lanka''. First comprehensive monograph on the stylistic and iconographic development of the Buddhist sculptures of Sri Lanka. 752 pages with 1620 illustrations (20 colour and 1445 half-tone illustrations; 144 drawings and 5 maps. (Hong Kong: Visual Dharma Publications, Ltd.). von Schroeder, Ulrich. 1992. ''The Golden Age of Sculpture in Sri Lanka – Masterpieces of Buddhist and Hindu Bronzes from Museums in Sri Lanka'', [catalogue of the exhibition held at the Arthur M. Sackler Gallery, Washington, D.C., 1 November 1992 – 26 September 1993]. (Hong Kong: Visual Dharma Publications, Ltd.).</ref>。
AbhayagiriVihāraは改革されたMahāyāna教義の座になるが MahāvihāraとAbhayagiriの僧侶の間の競争はさらに分割しての基盤に[[ジェータワナ・ラーマヤ|Jetavanarama]] Mahāvihāra近くでつながっていく。シンハラ仏教の主な特徴は ''アヌラーダプラ''の3つの主要な僧院の複合体にちなんで名付けられた3つの主要なグループまたは''nikāyas''に分割されたことでありマハーヴィハーラー、アバハギリ、ジェタヴァナーラーマーなどこれらは懲戒規則''(ビナヤ)''と教義上の紛争からの逸脱結果で スリランカの他のすべての修道院3つのうちの1つに教会の忠誠を負っていった。スリランカでは石で作られ青銅合金で鋳造された仏像の彫刻が有名である <ref>von Schroeder, Ulrich. 1990. ''Buddhist Sculptures of Sri Lanka''. First comprehensive monograph on the stylistic and iconographic development of the Buddhist sculptures of Sri Lanka. 752 pages with 1620 illustrations (20 colour and 1445 half-tone illustrations; 144 drawings and 5 maps. (Hong Kong: Visual Dharma Publications, Ltd.). von Schroeder, Ulrich. 1992. ''The Golden Age of Sculpture in Sri Lanka – Masterpieces of Buddhist and Hindu Bronzes from Museums in Sri Lanka'', [catalogue of the exhibition held at the Arthur M. Sackler Gallery, Washington, D.C., 1 November 1992 – 26 September 1993]. (Hong Kong: Visual Dharma Publications, Ltd.).</ref>。
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英国では、仏教組織のネットワークは、すべての芸術にわたって仏教の実践者を特定することに関心を持っています。2005年、英国全体の仏教芸術祭「花の蓮」をコーディネートしました。<ref>a poster advertising one of the events is archived here – http://www.nbo.org.uk/whats%20on/poster.pdf {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20050824213345/http://www.nbo.org.uk/whats%20on/poster.pdf#|date=24 August 2005}}</ref> 2009年、2日間の芸術会議「ブッダマインド、クリエイティブマインド」の開催を支援しました。<ref name="blogspot">{{Cite web|url=http://fwbo-news.blogspot.com/2009/07/report-from-buddha-mind-creative-mind.html|title=Triratna Buddhist Community News: Report from ‘Buddha Mind – Creative Mind?' conference|author=Lokabandhu|publisher=fwbo-news.blogspot.com|accessdate=2014-12-11}}</ref> 後者の結果として、仏教芸術家の協会が結成されました。<ref name="ning">{{Cite web|url=http://dharmaarts.ning.com/|title=Dharma Arts Network – Launched at Buddha Mind – Creative Mind ?|publisher=dharmaarts.ning.com|accessdate=2014-12-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20101010000408/http://dharmaarts.ning.com/#|archivedate=10 October 2010}}</ref>
英国では、仏教組織のネットワークは、すべての芸術にわたって仏教の実践者を特定することに関心を持っています。2005年、英国全体の仏教芸術祭「花の蓮」をコーディネートしました。<ref>a poster advertising one of the events is archived here – http://www.nbo.org.uk/whats%20on/poster.pdf {{Webarchive|url=https://web.archive.org/web/20050824213345/http://www.nbo.org.uk/whats%20on/poster.pdf#|date=24 August 2005}}</ref> 2009年、2日間の芸術会議「ブッダマインド、クリエイティブマインド」の開催を支援しました。<ref name="blogspot">{{Cite web|url=http://fwbo-news.blogspot.com/2009/07/report-from-buddha-mind-creative-mind.html|title=Triratna Buddhist Community News: Report from ‘Buddha Mind – Creative Mind?' conference|author=Lokabandhu|publisher=fwbo-news.blogspot.com|accessdate=2014-12-11}}</ref> 後者の結果として、仏教芸術家の協会が結成されました。<ref name="ning">{{Cite web|url=http://dharmaarts.ning.com/|title=Dharma Arts Network – Launched at Buddha Mind – Creative Mind ?|publisher=dharmaarts.ning.com|accessdate=2014-12-11|archiveurl=https://web.archive.org/web/20101010000408/http://dharmaarts.ning.com/#|archivedate=10 October 2010}}</ref>

== モチーフ、テーマ、画題 ==
{{Seealso|:en:Buddhist symbolism}}{{節スタブ|date=2021年4月}}
=== モチーフ ===
仏教美術には、自然物や人型のモチーフが用いられた一方、武器や道具もモチーフとして用いられた。これらの象徴は、本来の使用方法から離れ、[[煩悩]]を打ち消す力や衆生への伝道の比喩として扱われていく。例えば、前述のとおり、初期仏教の美術において仏陀は人間ではなく[[法輪]]の形で表現された。ここにおいて、法輪は、仏陀や僧侶が仏法を説く様子、あるいは仏陀自身、または彼の伝道そのものの象徴であった。<gallery>
ファイル:Tilia Tepe gold token. Kabub Museum.jpg|ティリア・テペ 金貨 紀元前後 [[カブール美術館]]蔵
ファイル:Dharma wheel, Japan, Kamakura period, 1200s AD, bronze - Tokyo National Museum - Tokyo, Japan - DSC09326.jpg|法輪 [[12世紀]]([[鎌倉時代]]) [[東京国立博物館]]蔵
ファイル:China, Ming dynasty - Mandala Base - 1987.58 - Cleveland Museum of Art.tif|立体曼荼羅に用いられた[[七宝]]の皿 [[14世紀]]([[明]]) [[クリーブランド美術館]]蔵
</gallery>また、密教においては[[三昧耶形]]と呼ばれるシンボルによって、それぞれの仏や天が表される。曼荼羅では、これらの仏は対応する象徴物のみで表現されることがある。

=== 画題 ===
仏画

仏伝図

[[曼荼羅]]

[[六道絵]]

[[変相図]]

[[九相図]]<!-- 仏教美術の受容史 -->


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
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* [[仏教音楽]]
* [[仏教音楽]]
* 仏教の象徴
* 仏教の象徴
* [[仏像|ブッダルパ]]
* [[仏像]]
* [[大仏]]
* [[大仏]]
* [[ボロブドゥール遺跡|ボロブドゥール]]
* [[ボロブドゥール遺跡|ボロブドゥール]]
* [[東洋美術史]]
* [[東洋美術史]]
* シュッサン・シャカ


== 注 ==
== 注 ==
{{脚注ヘルプ}}

=== 注釈 ===
{{Reflist|group="注釈"}}
{{Reflist|group="注釈"}}


=== 参考文献 ===
== 出典 ==
'''書籍'''
*von Schroeder, Ulrich. (1990). ''Buddhist Sculptures of Sri Lanka''. (752 p.; 1620 illustrations). Hong Kong: Visual Dharma Publications, Ltd. {{ISBN|962-7049-05-0}}
*von Schroeder, Ulrich. (1992). ''The Golden Age of Sculpture in Sri Lanka - Masterpieces of Buddhist and Hindu Bronzes from Museums in Sri Lanka'', [catalogue of the exhibition held at the Arthur M. Sackler Gallery, Washington, D. C., 1 November 1992 – 26 September 1993]. Hong Kong: Visual Dharma Publications, Ltd. {{ISBN|962-7049-06-9}}


{{脚注ヘルプ}}
=== 出典 ===
{{Reflist|30em|refs=

<ref name="大足宝頂山">{{Cite journal
{{Reflist|2}}
| url = https://core.ac.uk/download/pdf/290124564.pdf
<!-- 以下は、翻訳元の段階で、本文中でグループ化されていなかった書籍情報です。 -->
| title = 大足宝頂山石刻の思想史的考察 父母恩重経変図と大方便仏報窓経変図をめぐって
* {{Cite book|title=Korea: A Religious History|first=James Huntley|last=Grayson|isbn=0-7007-1605-X|publisher=Routledge|year=2002|location=UK}}
| journal = 国際仏教学大学院大学研究紀要
* {{Cite book|last=Gibson|first=Agnes C. (Tr. from the 'Handbook' of Prof. Albert Grunwedel)|others=Revised and Enlarged by Jas. Burgess|title=Buddhist Art in India|url=https://archive.org/stream/buddhistartinind00gruoft#page/n5/mode/2up|year=1901|publisher=Bernard Quaritc|location=London}}
| volume = 2
| author = [[鎌田茂雄]]
| year = 1999
| accessdate = 2021-02-22 }}</ref>
<ref name = "道教と仙学">{{Cite web
|url=http://www2s.biglobe.ne.jp/~xianxue/DandX/DandX2-7.htm
|title=道教と仙学 第2章 7、明・清の道教の衰退と世俗化
|accessdate=2021-02-19
|publisher = 神坂風次郎}}</ref>
}}


=== 関連文献 ===
== 参考文献 ==
*{{cite book|title=Along the ancient silk routes: Central Asian art from the West Berlin State Museums|url=http://libmma.contentdm.oclc.org/cdm/compoundobject/collection/p15324coll10/id/33392/rec/2|location=New York|publisher=The Metropolitan Museum of Art|year=1982|isbn=978-0870993008}}
*{{cite book|title=Along the ancient silk routes: Central Asian art from the West Berlin State Museums|url=http://libmma.contentdm.oclc.org/cdm/compoundobject/collection/p15324coll10/id/33392/rec/2|location=New York|publisher=The Metropolitan Museum of Art|year=1982|isbn=978-0870993008}}
* {{cite book|title=Arts of Korea|url=http://libmma.contentdm.oclc.org/cdm/compoundobject/collection/p15324coll10/id/46962/rec/1|location=New York|publisher=The Metropolitan Museum of Art|year=1998|isbn=0870998501}}
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257行目: 624行目:
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* {{Cite book|和書|title=増補新装[カラー版]東洋美術史|publisher=[[美術出版社]]|year=2012|date=2012-03-30|pages=26-50|author=[[前田耕作]]ほか、編著|editor=[[椎名節]]、[[來嶋路子]]、[[川瀬亜美]]|edition=増補新装 初版|language=ja|isbn=9784568400830|ref=harv}}
* {{Cite book|和書|title=仏教入門|publisher=岩波書店|year=2020|date=2020-7-6|pages=44-48|author=[[松尾剛次]]|edition=第24刷|languege=ja|isbn=4005003222|ref=harv}}
* {{Cite web|url=https://www.narahaku.go.jp/archives/kiyo/01/kiyo-01-05.html|title=〔講演録〕中国の金銅仏-三世紀から六世紀まで-|accessdate=2021-02-05|publisher=[[奈良国立博物館]]}}
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* {{Cite book|和書|title=ガンダーラの美術|date= 1999-09-15|publisher=里文出版|edition=初版|author=山田樹人|ISBN=4898061060}}
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* {{Cite web|url=http://qsshc.mond.jp/cpaint/china5.html|title=中国絵画の流れ 中国絵画史ノート 04 唐時代2 山水の変、中唐の溌墨画家たち、水墨画の発生|accessdate=2021-03-06|author=荒井雄三}}
* {{Cite web|url=https://froggy.smbcnikko.co.jp/8323/|title=日興フロッギー 第7回 応仁の乱が転機? ピークへ至るまでの日本美術の流れ|accessdate=2021-03-30|publisher=[[SMBC日興証券|SMBC日興証券株式会社]]|author=[[山内宏泰]]、Noritake|date=2018-03-05}}
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== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
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* [https://web.archive.org/web/20100130185156/http://www.pem.org/library/collections/offen [[ピーボディ・エセックス博物館]]フィリップス図書館のハーバート・オッフェン研究コレクション] {{en icon}}
* [https://web.archive.org/web/20100130185156/http://www.pem.org/library/collections/offen [[ピーボディ・エセックス博物館]]フィリップス図書館のハーバート・オッフェン研究コレクション] {{en icon}}
* [http://srilankaclassicart.com 先史時代からのスリランカの古典芸術について] {{en icon}}
* [http://srilankaclassicart.com 先史時代からのスリランカの古典芸術について] {{en icon}}
* [https://www.narahaku.go.jp/collection/ 奈良国立博物館収蔵品データベース] - 日本語
* [https://artsandculture.google.com/story/HwUBzXY2ACYDrw ”Cosmic Buddha” Google Arts & Culture(「宇宙仏[毘盧遮那仏]」) - 英語(日訳付)フーリア美術館によって制作された、石仏のレーリフについての解説。

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2021年4月29日 (木) 18:59時点における版

仏教美術
ガンダーラ地方、ギリシャ人仏教徒によって制作された仏像 1世紀 東京国立博物館

この項目では、仏教美術(視覚芸術応用美術)について解説する。

仏教美術(ぶっきょうびじゅつ)とは、仏教に基づいた美術的実践であり、仏教思想・信仰に基づいた礼拝対象、あるいはそれら活動のための造形美術の総称。これらの芸術には、仏陀菩薩、実在・伝説上の尊格や尊者、祖師、または彼らの生涯(仏伝図)や伝説を描いたもの、曼荼羅や修行のための図像、さらには修行のための場である、ストゥーパや塔門、寺院などの建築や、金剛杵厨子香合などの仏具が挙げられる[1]

仏教美術は、紀元前6世紀から5世紀にかけて、釈迦の足跡と生涯に引き続いてインド亜大陸で始まった。その後、他の文化との接触によって発展し、アジアやそのほかの世界に広がっていった。

仏教芸術は、信者と仏法(ダルマ)が拡がるのと同様、仏教が伝来した先々で受け入れられ発展していた。インド北部から中央アジアを経由して北へと広まり、東アジアへと至って北伝仏教の美術が成立した一方、東南アジアでは主に南伝仏教の美術が成立した。インドでは、仏教美術はヒンドゥー教ジャイナ教とともに洞窟寺院を建設した例に見られるように、芸術面でも相互に影響を及ぼしながら発展した[2]

仏教美術の分野

歴史

仏足石 クシャーナ朝 2世紀頃 コネチカット州イェール大学美術館英語版

無仏像時代(紀元前5世紀 - 紀元前1世紀

なぜ仏像は作られなかったのか?

最初期の仏教においては、釈迦は人間の形で表されることはなかった(不表現、英:aniconism)。理由については諸説あるが、主なものしては以下のようなものが挙げられる[3]

  1. 仏教以前に主流であったバラモン教が偶像を必要としなかったので[注釈 1]、造像の発想自体が無かった[4]
  2. 反偶像主義英語版 - 釈迦入滅後数百年間は、「眼に見えるもの、手に触れるものは本質と異なる」という考えが主流であったので、釈迦を表現すること自体が忌避された。
  3. 涅槃に至った仏陀は超人的な存在と考えられたので、象徴的に表現せざるをえなかった[注釈 2][5]
  4. 三十二相八十種好に特徴を全て再現するのが困難、あるいは再現するとグロテスクなものになるため[注釈 3]

当時、すでにインドでは彫刻の長い伝統と豊かな聖像美術が存在していたが、仏陀は人間の形で表現されることはなく、仏教のシンボル英語版によってのみ描写されていた。仏陀の可視的な人体表現が忌避されたことで、暗示的な象徴表現はより一段と洗練されていった(説話のシーンにおいて他の人物は人間として描かれていたにも関わらずである)。インド南部で活動していたアマラーヴァティー派の芸術においては、この傾向は紀元2世紀まで続いた(下図参照)。

人間の姿で表された仏陀の初期の作例は、木で制作されたので朽ちて残らなかったとする説も唱えられている。しかしながら、それを裏付ける考古学的証拠は今のところ発見されていない。

スジャータの乳粥供養(左)と降魔成道(右) サーンチー第1塔北門欄楯 釈迦は左端に彫られている菩提樹によって暗示されている。

仏像以前の仏教美術

初期仏教の時代には仏像がまだ作られなかった一方、建築や装飾美術においては、早い段階で後代の造像につながる様式が確立された。円墳に起源をもつストゥーパは、釈迦の墓であり、ダルマの象徴であり、涅槃へ達した釈迦そのものであり、したがって出家者・在家信者にとっては礼拝対象(チャイティヤ)であった[8]。紀元前5世紀から4世紀頃、釈迦入滅後の北インドには、アレクサンドロス大王に率いられたギリシャ人勢力の侵入を発端として、マウリヤ朝のアショーカ王が覇を唱えた。インド統一を成し遂げたアショーカ王は仏教に傾倒し、自ら八大聖地を巡礼した。彼はこれらの聖地に新しくストゥーパ石柱を建立し、インドの、そして仏教彫刻そのものの始まりを作り上げた。また、釈迦の彫刻は作られなかったものの、ヤクシャ、ヤクシーといった夜叉・善神像はこの時代に既に制作されていた[9]

紀元前2世紀、マウリヤ朝はシュンガ朝によって滅ぼされ、北インドはふたたび混乱に陥った。地域的な安定は1世紀にクシャーナ朝がこの地を統一するまで待たねばならなかったが、一方で、この混乱の時代にあっても仏教の波及と仏教建築(ストゥーパ)の発展は進んだ。また、彫刻の分野においても新しい動きが起こっていた。紀元前1世紀にかけて仏教彫刻の描写はより具象的になり、釈迦の人生と説法を描いた仏伝図や、釈迦の前世を描いた本生譚(ジャータカ)を象徴した作品が作られるようになる。奉納を目的として石板やフリーズに彫られたこれらの図は、多くの場合ストゥーパの装飾の欄楯として用いられた。この頃の重要な作例としてはサーンチー第1塔塔門浮彫サータヴァーハナ朝)とバールフットの欄楯が挙げられる。

インドにおける仏教美術の最初期の作品は、紀元前1世紀にさかのぼる。ブッダガヤマハーボディー寺院は、ビルマインドネシアで同様の構造の寺院が建造された。スリランカシギリヤのフレスコ画は、制作年代においてアジャンタ洞窟のものよりも遡るとされている [10]

仏像時代(紀元1世紀 – 現在)

カニシカ王金貨 2世紀 裏面には仏陀の肖像とギリシャ語で"ΒΟΔΔΟ"(ボッド、すなわち仏陀)と刻印されている。

2020年の段階で確認されている最古の仏陀の偶像表現はガンダーラ地方、現代のジャラーラーバード近郊で1世紀に作られたビマラン棺英語版(後述、仏教美術 § アフガニスタン)であるが、仏像が制作されたのもまたガンダーラ地方であった。厳密な年代特定は、作品に制作年代が記されていないことや、学術的な調査や現地政府による保護管理体制を経ずに発掘が行われた経緯から困難ではあるものの[11]イラン系の王朝、クシャーナ朝カニシカ王(在位144年-171年頃)の治世には既に大量の仏像が制作されていたようである。カラチ博物館所蔵の『祇園布施図』は、正確な出土地が不明であることと、その様式からパルティア時代のガンダーラのものと判別できる点で、その典型的な例と言えよう[12]。また、ガンダーラ地方とほぼ同時期に、北インドマトゥラー南東インドアマラーヴァティーでも仏像の制作が始められた。

『仏陀苦行像』 カイバル・パクトゥンクワ州シクリ(Sikri)出土 ラホール博物館英語版[13]

ヘレニズム文化は、紀元前4世紀アレクサンドロス大王の征服によってガンダーラにもたらされた。 マウリヤ帝国の建国者であるチャンドラグプタ(在位紀元前321298年)は、4世紀末のセレウコス・マウリヤ戦争英語版でインド北西部のマケドニア領(サトラップ)を征服した。そのチャンドラプタの孫であるアショーカ王(在位紀元前268-232年)はインド亜大陸に覇を唱えたが、カリンガ戦争の後に仏教に深く帰依するようになった。以降対外拡張戦争に消極的となったアショーカは、法勅として石碑に刻ませた碑文に見られるようにマウリヤ帝国全体へ「法(ダルマ)の政治」の普及を目指しはじめた。アショーカ王は、法勅のなかでマウリヤ帝国領内のギリシャ人たちを仏教徒へと改宗させたと主張している:

……同様にして、ここ王の領土において、〔すなわち〕 ヨーナカギリシャ人)、 カンボージャ、ナーバカ、ナーバパンティ、ボージャ、 ピティニカ、アンドラ、パーリンダにおいて、到る処で、〔人びとは〕天愛のの教誡に従っている。[14]

ガンダーラ(クシャーナ朝以前)

紀元前2世紀ごろにマウリヤ朝がシュンガ朝によって滅ぼされると、この混乱に乗じて、ヘレニズム国家であったグレコ・バクトリア王国やそれに続くインド・グリーク朝の諸王国が紀元前2世紀から1世紀にかけてインド北西部を支配する。 彼らの征服活動により、ギリシャ式仏教美術英語版がインド亜大陸の他の地域へと広まることとなった。前2世紀中頃のインド・グリーク朝の王、メナンドロス1世(ミリンダ王)は、仏教の偉大な庇護者として知られ、のちには出家して阿羅漢果を得たという[15][注釈 4]

また、この時代、紀元前1世紀には、上座部から分裂し教勢を増しつつあった説一切有部が、「心に感じられる一切のものは実在する」という、仏陀の偶像表現を許容しうる主張を行っていた。しかしながら、実際に人間の姿をとった釈迦像が確認できるのは1世紀末のことである。

紀元1世紀、北インドを統一したクシャーナ朝は、ガンダーラ地方のプルシャプラ(現代のパキスタン、ペシャワール)を都と定め、第3回仏典結集を主催し、この頃すでに盛んになっていた大乗仏教菩薩信仰を保護した。

初期のガンダーラの仏教美術には、その人体表現や装飾表現においてヘレニズムがインド美術に及ぼした影響英語版をうかがうことができる。これらの仏像は、それまでインドで作られていた像よりも遥かに大きく作られ、写実的な表現が試みられた。波打つ髪やコントラポスト、通肩[注釈 5]、靴、サンダルアカンサスによる装飾などは、ヘレニズム下のギリシャや古代オリエント由来のものである。

2世紀頃までのガンダーラでは、信仰対象というよりも修行の励みとするため仏伝図や釈迦の独尊像が作られていた。ところが、3世紀に入りアヴァローキテーシュヴァラ(観音)信仰やマイトレーヤ(弥勒)が始まると、現世利益のため、崇拝の対象としての仏像が作られるようになる。

マトゥラー様式英語版の仏像 北クシャトラパ英語版インド・スキタイ王国) 1世紀末頃[16]

マトゥラー

紀元前から紀元後1世紀のマトゥラーは、宗教都市であると同時に、ガンジス川の支流ヤムナー川に面していたことから交易都市としても栄え、商業的に発展していた。紀元前2世紀にはシュンガ朝プシュヤミトラの支配が及び、この間仏教は迫害された。おそらくはマウリヤ朝の影響を消し去ることが目的であったようだが [17]、 これによってマトゥラ東部の仏教美術は一度衰退した。1世紀後半、クシャーナ朝の支配がこの地へ及ぶと、マトゥラーは副都と定められ、多文化の交流する文化発信地の役割も果たすようになる。こういった状況のもとで、マトゥラーでは仏教美術がふたたび盛んになったのみならず、インド大陸の他地方にさきがけて最初期の仏像が制作された。北西インド、ガンダーラの影響を受けて造像が始まったという可能性も否定できないが、図像や造形、様式についてはヘレニズム由来ではなく、同地におけるマウリヤ朝以来の他宗派の芸術(ヤクシャ像ヤクシー像[バラモン教]・ジナ像[ジャイナ教])からの流れが色濃く、インド土着の表現がなされている[18]。例として、頂髻相(頭頂部に巻き貝型の肉髻)、口髭があまり付けられないことなどが挙げられる。その一方、形式上の共通点も見られないわけではない。白毫相(白い毛房)、耳朶の垂下、手足の千輻輪相、頭光(神聖さを表す光の円盤)(これらは三十二相八十種好で挙げられる仏陀の身体的特徴である)などは、いずれもクシャーナ朝の都であったガンダーラ、マトゥラー両都市で、これらの要素を意識しながら制作が行われていたようである[注釈 6]

『守門神(蓮華手菩薩)』アジャンター石窟第1窟 5世紀 アジャンターの石窟に描かれた壁画は、総体としてはこのような尊像よりも、説話図や装飾画の方が割合としては大きい。

後期石窟寺院美術

インドにおける初期仏教絵画の作例はほとんど遺されていない。だが、アジャンター石窟の後期の壁画は、480年頃までの比較的短い期間に残された作品群として、この時代の希少な仏教絵画の大部分を成している[要出典]。これら作品の極めて洗練された描写は、明らかによく発達した伝統に基づいている。また、宗教的な主題だけでなく、宮廷内の華やかな様子や王と王妃が交歓している官能的な場面は、アジャンター石窟そのものが持っていた世俗性と、バラモン教からの民衆化・世俗化が進展しつつあったヒンドゥー教の美術と仏教美術の接近・融合を示唆している。

インドでは仏教美術がさらに数世紀にわたって発展し続けたがピンク色のマトゥラの砂岩彫刻は グプタ時代(西暦4世紀から6世紀)に進化し、非常に高い技術の細かさのモデリングと繊細さを実現している。この時期にはサールナートで白い砂岩が用いられた仏像が盛んに作られた一方、マトゥラーでも引き続き造像が続けられた。

インドでは仏教美術はその後も数世紀にわたり発展し続けた。グプタ時代(4世紀から6世紀)には、マトゥラーの赤色砂岩彫刻はさらに進化し、仏教美術の造形は優美さと繊細さにおいて極致に達した。グプタ様式は、アジアのほとんどの地域に強い影響を及ぼした。12世紀末には、仏教は南アジアのなかではヒマラヤ地域でのみ栄えていた。が、これらの地域はその場所に助けられてチベットや中国とより密接に接触していた。例えば、ラダックの芸術と伝統はチベットと中国の影響を受けている。

密教の登場

八千頌般若経 パーラ朝末期 1119年 貝葉 ヴィクラマシーラ大学(超戒寺)で制作 クリーブランド美術館
聖観音(アヴァローキテーシュヴァラ)像 9世紀 パーラ朝 北東インド、ビハール州ナーランダ出土

6世紀、ヒンドゥー教を国教としたグプタ朝の北インド統一と[注釈 7]ローマ帝国の混乱に端を発する東西交易の退潮が起こる。これによって、インドの仏教は庇護者・檀家層の両者からの援護を以前ほどは受けられなくなった。また、商業・交易の衰退は、バラモンと農村地帯に基盤を置くヒンドゥー教の影響力を相対的に増させることとなった[19]。劣勢に立たされた仏教教団は、打開策として既存のヒンドゥー教やベンガル地方で勃興しつつあったタントラ、その他の民間信仰といった、他宗の儀式や習俗を取り込んでいく。インドにおける密教美術は、7世紀から13世紀初頭まで続いた[20]

密教が体系化されていくにあたって、儀礼主義の復活(護摩)、シンボルの重視(真言曼荼羅印契)などが図られた。その中で、いわば密教美術と呼べるものとして登場したものが、儀式用の法具やマンダラであった。

当然ながら、仏教彫刻においても密教化は進んだ。世紀中頃に造営が始まったアウランガーバード石窟英語版では、建築構造や女尊表現、官能的な身体表現といったアジャンター以前には見られなかった特徴が確認でき、ヒンドゥー美術の影響の大きさと密教美術の萌芽を見ることができる[21]。これは、彫刻史的な視点においても変化を意味していた。動的な所作や豊かな肢体が表現されるようになったことは、すなわち、仏教彫刻古典的なグプタ朝美術からバロック的な中世インド美術への移行であった。

11世紀末から始まったセーナ朝の時代は、インド亜大陸において仏教美術が盛んに作られた最後の期間であった。1203年ゴール朝の軍勢によってヴィクラマシーラ大学が破壊されると、同地における仏教の中心地を失った僧侶たちは他国へと移住・亡命し、インドにおける仏教美術もまた終焉を迎えた。

11世紀に始まるイスラーム王朝のインド侵入以降、北インドの密教含む仏教は大きく衰退するが、密教とそれに付随する密教美術はカンボジアや大スンダ列島、チベットといった、インドの周辺地域へと軸足を移していた。特にチベット由来の密教とその美術は、モンゴル系民族や中国へと数世紀に渡って多大な影響を残すこととなる。

アジア全体での仏教の拡大。黒の矢印は初期仏教の展開を示す。また、赤が大乗仏教の、緑が上座部仏教の、青が密教の伝来経路を示している。

1世紀以降、仏教がインド国外へと広まっていくと、本来的な一連の仏教美術が他の芸術の要素と混ざり合い、仏教受容国間で仏教美術の発展的差異が生じさせていった。


北伝仏教美術

『阿弥陀仏極楽浄土図』18世紀 チベット メトロポリタン美術館

中央アジア、中国、そして最終的には朝鮮半島と日本にまで至る仏教シルクロードを介した伝播は、後漢明帝 によって西方へと派遣された甘英ら使節たちが残した半伝説的な説明によって、紀元1世紀まで遡ることができる。しかしながら、より広範な伝播は2世紀ごろ、クシャーナ朝(仏教の庇護者であった)の西域への拡大と、中央アジア出身の僧侶たちの漢訳活動と熱心な中原への布教とによって始まったといえる。支婁迦讖のような中国への最初期の仏教伝播を担った僧侶たちは、パルティア人月氏ソグド人またはトハラ人とされる。

シルクロードに通じた仏教の布教活動には、芸術方面での影響を伴っていた。それらは、現代の新疆ウイグル自治区にあたるタリム盆地で2世紀から11世紀にかけて栄えた東トルキスタンの美術に見ることができる。シルクロード美術は、多くの場合ガンダーラ地方で、インドやギリシャ、ローマの影響を受けつつ成立したギリシャ式仏教美術に起源をもつ。シルクロードのヘレニズム仏教美術の影響は遠くは今日の日本にまで及んでいる。それらは、建築の紋様宝相華文連珠文)や仏画神道水天鬼子母神)に見ることができる。

北伝仏教の美術は、大乗仏教の発展に強い影響を受けていた。この教派はより包括的であり、伝統的な阿含経に加えて新しい経典を採用し、仏教の理解自体を変化させていたことにその特徴があった。大乗仏教は、初期仏教が修行の到達点としていた阿羅漢[注釈 10]ではなく、そこからさらに菩薩の境地をめざすことを重要視していた。般若経(大乗仏教の経典群)において、仏陀は超越的な存在へと押し上げられ、主軸は菩提六波羅蜜、知恵の完成(般若波羅蜜多、Prajñāpāramitā)、悟り、衆生の苦しみからの救済に専念する菩薩たちに置かれた。それゆえ、北伝仏教芸術は、様々な成仏(過去七仏)や如来、菩薩や天部(韋駄天帝釈天)に関する作品に見られるように、多種多様で混淆的である。また、大乗仏教が広まったそれぞれの土地において、土着の宗教や信仰と結びつくことで新たな信仰とそれに伴う芸術様式が生まれることも少なからずあった[注釈 11]

アフガニスタン(クシャーナ朝以後のガンダーラ)

バクトリア地方(現在のアフガニスタン)の仏教美術は、7世紀イスラーム勢力がこの地に拡大するまで数世紀にわたって存続した。また、この地では、紀元1世紀頃に人の姿をした仏陀(仏像)が初めて制作された。また、それに続いて釈迦菩薩弥勒菩薩などの菩薩像や、仏伝図[注釈 12]を物語る、仏塔や寺院の内部を装飾するための浮彫が作られるようになる[23]。この時代の空気をうかがえる代表的な例としては、カニシカ王の舎利容器が挙げられる。

3世紀前半、クシャーナ朝はゾロアスター教を奉じるサーサーン朝によって滅ぼされた。しかし、ガンダーラ美術の命脈は途絶えなかったどころか、ペルシャや北インドの意匠を取り込みながら発展していったのである。バーミヤンでは、4世紀から6世紀にかけて、2体の大仏をはじめとする多くの石仏や、石窟壁画が作られた[注釈 13]。他にも、スタッコ片岩または粘土でも仏教美術が制作された。これらの作品は、インドのグプタ朝以降の様式主義ギリシャ美術ヘレニズム美術英語版、ことによってはそれに引き続いたローマ美術をも要素として取り入れながら、非常に強く融合させている。

イスラムの支配は、他の「啓典」の宗教にはいくぶんか寛容だったが、「偶像崇拝」に依っていると見做された仏教にはほとんど寛容さを示さなかった。したがって、その芸術形態もイスラム教の支配下においては禁止された。8世紀以降も、アッバース朝の支配やそれに伴う戦乱で多くの寺院や石仏が破壊された。近代以降も仏教美術はたびたび被害に遭い、体系的な破壊はタリバン政権時代に頂点に達した。バーミヤンの仏像、ハッダの彫刻、アフガニスタン国立博物館英語版に残っている多くの遺物が破壊・流出させられた。

1980年代以降、長く続いたアフガニスタン紛争による混乱は、仏教に関連する文化財の流出と、国際市場への転売を狙った組織的な遺跡への略奪を引き起こした。しかし、2000年代に入ってから、国外に流失した仏教美術の作品を含む多くの文化財がアフガニスタンへと返還された。日本からは、平山郁夫らの主導による返還事業が行われた[24]

『シャンカチャルヤ・アヴァダーナ』ジャータカ、瞑想する仏陀に両脇にアプサラスが控える。仏陀の螺髪の上には鳥が巣を作っている[25]。現在の新疆ウイグル自治区トムシュク市出土 6~7世紀 ギメ美術館蔵。

中央アジアは長い間、ペルシャ、中国、インド、それぞれの文化が出会う三叉路であった。紀元前2世紀ごろ、前漢による西域への影響力の拡大は、中国文明へ西アジアのヘレニズム国家、特にグレコ・バクトリア王国とのさらなる接触をもたらした。その後、仏教はガンダーラ地方からさらに北へと拡大し、トルキスタンまで到達した。交易路沿いの諸都市には少なくとも紀元前1世紀頃までには仏教が伝わっていた。しかし、この地における仏教美術が本格的に始まったのは、イラン系クシャーナ朝の王、カニシカ1世による支配と、ガンダーラ美術の隆盛を経てからであった。

これらの動きは、タクラマカン砂漠の周縁に栄えたオアシス諸都市に、仏教徒のコミュニティ、さらには仏教王国の形成を促した。シルクロードの一部の都市は仏塔と寺院を完備していた。都市の住民達の狙いはおそらく、シルクロードの東西からの(仏教徒の)旅行者たちを歓迎し、彼らに必要なものを提供することであったと考えられる。

西トルキスタンパミール高原以西、現在のカザフスタンキルギスタジキスタントルクメニスタンウズベキスタン

6世紀、玄奘がソグディアナを訪れた際には、この地に住んでいたソグド人は主にゾロアスター教を信仰していた。しかし、のちにソ連によって行われた発掘調査で、この時代ではまだ仏像や仏具が製作されていたことが判明している[26]。8世紀に入ると、アッバース朝による征服によってこの地の仏教美術は絶えた。

良質な石材に乏しかった中央アジアでは、粘土は仏像制作にとって欠かすことのできない素材であった[27]

東トルキスタン (特に( タリム盆地新疆ウイグル自治区 ))

以降千年ほど、エフタル西突厥東突厥ウイグルと支配勢力は目まぐるしく移り変りはしたが、仏教美術は周囲の文化や宗派の影響を受けながらも西域様式(西域美術とも)を展開させていき、10世紀カラハン朝の時代に、この地で多数派であったウイグル人がイスラム教へと改宗するまで続いた[28]

天山北道の西域様式は三段階に分けられる。グプタ様式とガンダーラ美術後期の様式が入り混じった第1様式、第1様式の各要素が融合しつつ成熟していった第2様式、漢民族の強い影響を受けた第3様式である[29]

中国

文殊菩薩と問答する維摩居士 8世紀 唐代 敦煌第103窟

1世紀、仏教は中国へと至り、この国の美術、とりわけ塑像の分野に新風を吹きこんだ。遥か遠方で成立した仏教を受け入れていくなかで、仏教美術は中国文化の審美眼と道徳を反映しながら変化していった[30]

中国における仏教の受容において、漢訳仏典教相判釈が大きな役割を果たした。漢訳によって、本来サンスクリットパーリ語で記された経典が漢字文化圏へ普及した一方、その過程で偽経と呼ばれる、原典にはない経典[注釈 14]も成立した。また、教相判釈によって、伝来した多種多様な経典の解釈・体系化が行われた。結果、中国伝来以降の仏教では中国化と大乗仏教の主流化が進み、のちの仏教美術もそれらを反映したものになった。また、征服王朝である14世紀の元と17世紀以降の清の時代には特に、チベット仏教とその美術とも相互に影響を与え合うこととなった。

中国における最初期の仏像[注釈 15]や仏教彫刻[34][35]は後漢まで遡ることができる。また、三国時代、曹植梵唄を学んだようである。しかしながら、皇族や豪族層への本格的な普及は西晋に至るまで限定的であり、ゆえにこの時代に確認できる仏教美術は少ない。

北魏、 太平真君4年(443年) 弥勒菩薩
北魏、 永平5年、延昌元年(512年) 弥勒菩薩坐像

五胡十六国時代には、西域と中原を結ぶ交易路として栄えていた河西(現在の甘粛省)で、敦煌莫高窟をはじめとする石窟寺院が建設され始める。この時代の仏像の様式と造形には、交脚したポーズや右肩を露出する「偏袒右肩」と呼ばれるスタイルなど、インド的な要素が強く遺されている[36]5世紀に入ると、仏像は明確ではっきりとした輪郭線で表現されるようになる。造形も、こと如来像においては左右対称、厚手の衣装、より柔和な表情など中国風の表現が施されるようになっていく。

北魏による華北統一によって五胡十六国時代は終止符を打たれ、南北朝時代と呼ばれる時代に移っていく。これ以降、異民族系の北朝と漢民族の南朝が、隋によって統一がなされるまでの160年近くに渡って対峙を続けた。これらの政治的・文化的対立を背景に、仏教美術もそれぞれの地域で異なった展開をしていった。

雲崗石窟第20窟の如来坐像(曇曜五窟のうちの一つ) 北魏 5世紀後半 涼州の僧侶曇曜が造営。この石窟に建てられた仏像は、北魏の歴代皇帝をモデルにしたと考えられている(「皇帝即如来」)。 

北魏は建国当初から仏教保護政策を行っていた。晋の滅亡後、長く続いていた戦乱と経済的・社会的混乱は、五胡と呼ばれた非漢族系の異民族による華北への流入によって既に決定的なものとなっていた。このような状況において、それまで支配的であった儒教に変わって急速に拡がったのが仏教であった。仏教への改宗者は五胡の支配層にも多く、また彼らも仏教を民衆教化のため、政治的・文化的な動機で利用した。以降、仏教が国教化した北朝では、仏教教団と支配層の結びつきが強まっていく。それらの状況を色濃く反映したものとして、雲崗石窟寺院の石仏が挙げられる[注釈 16]。また、同時期の生活様式を映す仏像の様式として小金銅仏がある。小金銅仏とは、4世紀に多く作られた小型で金属製の仏像である。移動の多い騎馬民族や、戦乱と隣り合わせであった漢族にとっても持ち運びやすいことから重用された。

毘盧遮那仏 - 石仏の表面には、仏生図と六道がレリーフとして刻まれている。北斉(550年-577年) ワシントンD.C.フリーア美術館

政策としての石窟寺院の建立は、仏教彫刻の中国化を促した。前述した雲崗石窟寺院に作られた仏像は、漢民族の好みに合わせて肌の露出が抑えられた表現になっている。

6世紀北周北斉の両王朝の成立以降、仏像の様式にふたたび西方からの影響を受けたものが見られるようになる。伝来経路そのものは中央アジア経由か東南アジア経由か、あるいは複合的なものだったかは定かではないが、変化の直接的な原因は北魏皇統の断絶(すなわち「皇帝即如来」というイデオロギーの喪失)と鮮卑復古主義(漢化政策の否定)だったようである[37]

一方、華南、特に沿岸部において仏教が東南アジア経由で広まりつつあった。東晋法顕は、海路で師子国(現在のスリランカ)に渡り、かの地で見たジャータカ(本生説話)を「変」と記録している(『仏国記』)。これをもって、中国における仏教説話画が始まったとされている。

この時代の仏教彫刻が遺されている代表的な遺跡は、以下のような場所が挙げられる:

隋唐

識盛光如来並五星図中国語版』 張淮興筆 晩唐、乾寧4年(897年) 大英博物館蔵 莫高窟で発見。擬人化された5つの惑星が熾盛光仏頂を囲んでいる。

はおよそ40年ほどで滅亡したものの、中国における仏教美術の発展に残した影響は大きかった。300年ぶりに中国全土を統一した文帝(楊堅)は、各地方に僧院と仏舎利塔を建てた。また、中国そのもの政治的統合によって、地域性を保っていた各地の仏像芸術も隋の首都であった大興城(長安)を中心としながら徐々に融合をすすめていく[38]。この時代から、仏像は銅製のものだけではなく、白檀青銅を用いたものが作られ始める。

隋の時代の伝統をふまえて経て、唐代の仏像はより生き生きとした表現がされるようになる。この頃の仏教彫刻は、グプタ時代のインド芸術に触発された、どちらかといえば古典風な様式を帯びている。それは、唐という国そのものがもっていた外来文化に対する開放性と、玄奘三蔵義浄らの活動に代表されるインドとの往来によるものであった[39]。結果、唐の首都長安 (今日の西安)は仏教の重要な中心地になり、そこから仏教は朝鮮、そして遣唐使を通じて日本へと拡がっていくことなった。

大雁塔 唐、永徽3年(652年)建立 インドから帰還した玄奘三蔵法師が、時の皇帝高宗に申し出て建設された。北宋明代、そして中華人民共和国時代に改装・修復が行われている。

しかしながら、晩唐の頃になると外来の宗教や文化は否定的に捉えられるようになった。845年武宗は、在来思想であった道教を支援するためにすべての「外国の」宗教(キリスト教のネストリア主義ゾロアスター教マニ教仏教を含む)を禁止する(「会昌の廃仏」)。この弾圧の結果、仏教教団は寺院や荘園を没収され、国家の擁護から離れて存続せざるを得なくなった[注釈 17]。そのため、中国における仏教はしばらく衰退するが、それは時代において花開く、禅宗と浄土教のふたつの宗派が民衆へと根ざしていく発端ともなった。

唐は歴代の王朝のなかでも最も仏教が盛んに信仰された時代の一つであり、かつ総じてみれば政治的にも概ね安定していたので、当時の作品も数多く遺されている。

初唐(7世紀)には、太宗の甥、李泰による龍門石窟の復興を皮切りに、北魏の滅亡以降衰微していた華北平原での石窟造営が盛んになる。武宗武則天の時代には龍門石窟は最盛期を迎え、奉先寺の大仏が建立された。これらの仏像は、雲崗石窟のものに比べるとより繊細で写実的な人物表現がなされている。

盛唐から中唐(8世紀ごろ)にかけて、石窟美術は安史の乱による混乱を経てその中心を華北から四川に移していく。皇沢寺石窟大足石刻は、玄宗皇帝時代の磨崖仏の白眉であると同時に、国際色と土俗性を兼ね揃えていく過程を窺える遺跡であるといえよう[40]

五代・宋

『降魔図』。五代十国時代10世紀)。甘粛省敦煌出土。仏教壁画は当時の美的感覚ではなく、生活や軍事技術について知る資料ともなりうる。この作品では、仏陀の右上に描かれたマーラ火槍擲弾で攻め立てている。

先に述べた「会昌の廃仏」と五代十国時代顕徳年間に行われた仏教弾圧、また唐滅亡後の戦乱によってこの時代は仏教彫刻の衰退期と見做されることが多いが、実際には各地で名品と呼びうる作品が多く制作された[42]。特に華南は戦争による混乱も少なく、後蜀南唐呉越のように仏教を保護する国も多かった[43]

の成立すると、初代皇帝趙匡胤大蔵経』を成都で印刷させるなど仏教への支援が盛んにななり、そのなかでも発展が著しかったのが禅宗浄土教であった[注釈 18]。また、この時代には文人である士大夫層が武人に変わって政治の中心となるが、彼らは儒教を栄達のために修めていたものの、哲学・信仰の対象としては仏教、こと禅宗に帰依するものが多かった。このような状況から、墨跡禅画頂相といった、仏教美術の新たな流れが生まれていく。

中国禅を巡る芸術は、その担い手の多様性から、制作姿勢や美術の傾向にも異なった様式を生み出した。禅僧たちが修行や儀式のために頂相を制作した一方、在家居士であった士大夫文人たちは(それが信仰心によるものであったにせよ)余技として禅故事を主題とした水墨画を描くことが多かった。さらに、南宋の梁楷のように、院体画家(宮廷画家)が仏画を描くこともあった。

禅僧たちの描いた禅画は、その教義ゆえに信仰の対象というよりも内面的な探求の手助けとするために描かれた。したがって、悟りの助けとなるならば画題に囚われずに描くようになり,絵の主題も、それまでの仏像や仏画が扱ったもの(菩薩や如来など)に留まらず、自然物や図形、神仙道教)など多岐に渡るようになった。また、絵画表現においても新潮流が起こった。五代の道釈画家・石恪は、当時一般的であった細密な画風ではなく粗いタッチで仏画を描いたが、この画風は宋代の禅僧たちに受け継がれた。彼らは、モノクロームで活き活きとした筆致で悟りの衝撃を表現しようと試みた[44][注釈 19]

他方、石窟造営も盛んに行われた。宋の前半期、北宋のおける時代の造像の傾向としては、異民族との最前線であった北辺線地域(現在の河北省山西省陝西省)で造営が盛んであった。制作された彫刻も、外敵の排除と現世・来世の安寧を祈願したものが多い。北方から侵攻してきたによって、南遷した宋王朝が南宋として成立した後も造像は続き、大足の石窟群に多くの仏像が遺された。人体表現においては北宋時代のものを概ね踏襲しながらも、顔つきはやや面長で肉付きが増し、体型も流麗さを残しながらもボリュームを湛えている点で以前のものと異なっている[45]

12世紀、南宋の朱熹が主動した宋明理学の台頭によって、禅僧の画家は多くの批判に晒された。くわえて、後代の中国では文人画が尊ばれ、仏教絵画や院体画は相対的に低く見られるようになる。結果として、禅画の作品の一部は「水墨画」として鎌倉時代の日本に渡ったが、南宋以降の中国では次第に衰退していく[46]

遼・西夏・金

唐の衰退後、影響下にあった周辺民族は自立し、中国の諸王朝と対立しながら漢族とは異なった独自の文化を形成した。その一方で、遼や西夏、さらには遼から独立した金といった、宋と対立関係にあった王国は、唐代に広まった仏教を信仰していた。

916年に成立した契丹族)は、契丹文化と漢文化を同時に保持した二元体制を敷いていたが、12世紀初めに滅亡するまで仏教に対する信仰は篤かった。遼代の仏像美術は、唐の造像文化と華厳と密教をはじめとする五台山信仰の影響に彩られており、特に初期においては北宋とは異なった仏教文化が栄えた。11世紀、澶淵の盟が成ると、徐々に北宋の影響も受けるようになる。遼の仏像は一般的に、唐代に見られる、落ち着いた胴体に対して動きのあるプロポーションというスタイルを受け継いでいる。しかしながら、身体的には平坦な印象を与え、時代を下るにつれて脱力した柔らかい様式になっていった[50]

西夏タングート族)は、初期には中国からの仏教吸収に努めたが、後期にはチベット仏教の力が強まった[51]。また、西夏が河西回廊を掌握して以降は、莫高窟に代わって榆林窟英語版で造営が盛んになる。壁画には、宋代からの山水画の要素や、明代に成立した『西遊記』の原型となったとされる、三蔵法師が孫悟空)や馬を従えているモティーフを見ることができる[52]

は、遼に反旗を翻した女真族によって建国され、宋と結んでこれを滅ぼした。金の仏教美術は、基本的には北宋・遼の文化を継承したものだった。ただ、洪福寺(山西省定襄県)や祟福寺(山西省朔州市)の例にみられるように、元・明・清を経て今に遺る仏教寺院の基盤となった寺院も多い[53]。また、遼との違いとして、金は道教や儒教に対し容認的であったので三教に由来する美術品が同じ工房で制作されることもあり、それゆえに元代以降の仏教美術(天部など)と道教美術双方に影響を残した。


元・明・清

大威徳明王曼荼羅』。元、天暦(1328年-1330年)年間。メトロポリタン美術館像。

13世紀初頭、モンゴル高原を制しこの地の諸部族をまとめ上げたモンゴル部は、金を滅ぼし中国華北を征服。国号をとし、南宋を平らげここに中国全土を統一した。これにより、中国においてチベット仏教系の美術が制作されるようになった。特筆すべきは、中国本土においてチベット仏教の尊格の金銅仏が作られるようになったことである。この流れは、続く明や清でも続いた。『元代画塑記』(『経世大典』の一部)は、ネパールの仏工阿尼哥(アルニカ)とその弟子の劉元が数多くの仏像制作に携わっていたと言及しており、特に劉元は梵像(チベット系仏像)と道教美術の制作にも携わっていたとしている[57]。このことから、この時代の工房では、漢像と梵像の両形式の制作だけではなく、宗教を超えて道教とも相互に直に影響を与えあう関係にあったことがうかがえる。

14世紀漢族朱元璋はよって興され、元はモンゴル高原へと放逐された。明初期においては、チベット仏教への弾圧が行われたが、のちには仏教保護政策に転換し、チベット仏教と中国仏教の交流も進んだ。この時代の石造美術に名品は少ないが、塑造や銅造といった粘塑素材を扱ったものには優れたものが見られる。現存する遺構は以下のものが挙げられる:

また、この時代以降に現存する作例として、乾漆造、鉄造がある。

『乾隆帝僧形図』。清、乾隆23年(1758年)頃。北京、故宮博物院蔵。

16世紀末、明から自立した満州(現在の中国東北部)の女真族国家、後金は、国号をと改め17世紀にかけて中国統治を完成させた。歴代の皇帝たちは、政治的および個人的な動機で仏教を保護した[注釈 21]順治帝は禅に傾倒したものの、彼の後継者である康熙帝は父祖からの信仰であったチベット仏教を推進し、文殊皇帝を自称した [59]。しかし、仏教に対する清朝の後援が最高潮に達したのは乾隆帝の治世でのことだった。彼は膨大な数のチベット様式の宗教的作品を制作させ、その多くは彼を僧形で描いている [60]。さらに、乾隆帝は造営者でもあった。1744年、彼は自身の生家でもあった雍和宮(北京)をチベット仏教の僧院として改装させ、仏画、仏像、織物、石碑を寄進した [61]。また、須弥福寿之廟承徳市)とその中に収められた品々は、乾隆帝によって成されたチベット仏教様式の中国における受容のひとつの完成形といえる。

1795年に乾隆帝が退位したのち、宮廷でのチベット仏教の隆盛は陰りを見せる。過去の研究では、清の歴代皇帝によるチベット仏教保護策の背後にあった動機は、主に内政的なものであり、満州、モンゴル、チベットとの結びつきを強化する手段に過ぎなかったと解釈されてきたが、近年の研究ではこの考え方は批判的に検討されている[62]

清代に制作された仏教美術の特徴は、チベット様式と中国様式の特異な融合である。図像や構図つおてはチベット的なアプローチが取られる一方、装飾的な要素(雲や装束)は中国風となっている。 また、碑文は多くの場合、中国語満州語チベット語モンゴル語サンスクリット語など多言語で併記されている。絵画は鮮やかで刺激的な色彩で描かれていることが多い [63]

"Gathering of Buddhas and Bodhisattvas" 河北省邯鄲市響堂山石窟出土 フーリア美術館1920年に、日本の僧侶常磐大定と考古学者の関野貞によって同地の調査が行われたが、すでに遺跡の一部は盗掘の被害に遭っていた[67]。発掘調査の様子は『支那文化史蹟 三』に詳しい。

発掘と研究

中国での仏教の普及により、この国は世界で最も豊かな仏教コレクションを有している。莫高窟の近く敦煌甘粛永靖県炳霊寺石窟河南洛陽近くの龍門石窟山西大同市雲崗石窟、および重慶市にほど近い大足石刻は、現在でもよく保存されている。唐時代に8世紀に丘の中腹に彫られ、3つの川の合流を見下ろす楽山大仏は、現存する石仏としては世界最大規模を誇っている。

20世紀の始め、清朝末期には「敦煌文献」の発見を契機に敦煌学が始まり、仏教経典、仏像、中国仏教美術史の近代的な研究がヨーロッパ諸国、中国、日本によって始められた。

1996年には、山東省青州市、龍興寺址の窖蔵(穴蔵)から、合計で400体以上に上る石仏が発見された。また、2003年には同省済南市、開元寺址から80体余りの仏像が発見され、龍興寺出土の石仏群との比較・照合が行われた。龍興寺で発見されたこれらの仏像は、大きさや題材も様々であったが[68]、埋蔵に至った過程までの経緯から損傷が激しいものが大半であった[69]。だが、青州市博物館中国語版によって復元作業が行われたことで、制作時期の数世紀以上の幅があったことが判明した。紀年銘によれば、古いものでは永安2年(529年北魏時代)、新しいものでは天聖4年(1026年北宋時代)に制作されたことが分かっている。また、これらの仏像が埋蔵されたのは12世紀初期(北宋末期)以降であると推定されている。龍興寺出土の石仏群、特に北斉時代のものは、当時の中国における肉体表現に対する試行錯誤と、東南アジア南インドに由来する、海のシルクロード伝来の仏像美術・ヒンドゥー教美術の影響をうかがうことができる[70][71]

朝鮮

朝鮮における仏教美術は一般として、他国の仏教からの影響と朝鮮独自の文化の交流を反映している。くわえて、シベリアスキタイなどの草原文化の美術様式の初期の韓国仏教芸術への影響は、新羅王冠英語版や角帯(ベルト)のバックル、短剣、ゴゴク英語版勾玉の一種)などの工芸品や埋葬品の発掘によって明らかにされている [72][73]。 この土着的な美術様式は、幾何学的かつ抽象的で、 海洋文化や騎馬民族文化、シャーマニズムの伝統で豊かに彩られている。周辺諸国からの影響も強かったが、朝鮮仏教美術は「落ち着いて、抑制が効き、抽象的ではあるが不思議なほど現代的なセンスに合致している」(Pierre Cambon、Arts asiatiques-Guimet ' )などと評されている。

金銅弥勒菩薩半跏像英語版弥勒菩薩半跏思惟像の代表的な作例。大韓民国指定国宝第83号 7世紀頃 新羅 ソウル特別市国立中央博物館蔵。

朝鮮三国時代

3世紀から4世紀頃にかけて、朝鮮半島各地に散らばっていた多種多様な部族連合が、徐々に国としてまとまりを見せ始める。朝鮮半島北部から東北三省の一部まで版図を拡げた高句麗、南部から西南にかけての百済、東南部の洛東江下流の伽倻諸国、そして東南・慶州盆地英語版の(のちに朝鮮を統一する)新羅が成り、抗争を繰り広げる、いわゆる朝鮮三国時代が始まった。

372年、これらの国のうち高句麗が最初に仏教を受容する [74]。 しかし、中国側の記録と高句麗の壁画に描かれた仏教的なモチーフで確認できるように、この年代よりも早い時期に仏教が伝わっていたようである [75]。 384年、続いて百済に仏教が伝わる [74]535年[注釈 22]、両国に100年以上遅れて新羅王国が仏教を受容する [76][注釈 23]。高句麗と百済では中原から公的に伝来したのに対し、新羅への伝道は民衆への浸透が先行し、おそらく布教に対して迫害が行われていたようである[77]

仏教の導入は、職人には崇敬のための図像制作を、建築家には寺院の建築を、学者には経典を渇望させ、そして朝鮮の文明を一変せしめた。これら朝鮮の諸王国に洗練された美術様式を伝えたのは「夷狄」であった拓跋氏北魏様式であった[注釈 24]。北魏、それに続く北斉の仏教美術は、これら三国に大きな影響を与えた。百済は後に、中国南朝と高句麗、そして百済特有の美意識とともに作り上げられた仏像美術を日本に伝えることとなる[40]

6世紀後半以降、百済では石仏の造立がいち早く始まった[78]印相・持物・装束といったディテールには北魏様式を保っているものの、造形的な印象は、外見的には静謐さがありながらも芯が強い溌剌としているという、百済仏らしさがより顕著になっている。

新羅では、6世紀には高句麗の影響によって金銅仏の制作が、7世紀ごろにはおそらく百済の影響によって石仏や磨崖仏の制作が始まる[79]。この時代の新羅石仏美術は、百済のものに比して体躯の表現にまだ稚拙さがうかがえるものの、重厚さという点ですでに独立した美術様式を芽生えさせていた。朝鮮の仏師たちは、各々の様式を作り上げるために優れた審美眼を発揮し、さまざまな他地域のスタイルを取り入れ融合させた[80][81]

高句麗はおもに、華北由来の仏教の影響下にあった[82]。仏教美術においては、まず五胡十六国時代の古式金銅仏の様式が取り入れられた。7世紀に入ると、北朝の仏教美術と連動するかたちで発展した。2021年現在確認されている朝鮮最古の仏像、延嘉七年」銘金銅仏立像もこの時代に制作された[83]。高句麗の仏像は主に金銅と塑造で、厚い通肩の法衣や火炎紋の光背、微かな笑みが特徴である。

百済の微笑と半跏思惟菩薩像

このように、6世紀の朝鮮仏教美術は中国とインドの文化的影響を示したが、それ以降は独特の土着的な特徴を見せるようになった [84]。 北朝の影響が強い高句麗の仏像に比べ、などの南朝とも密接に交流していた百済の仏像は、美術史家には百済の微笑英語版と呼ばれている、神秘的で穏やかなアルカイックスマイルを浮かべているものが少なくない[85]。 また、新羅では6世紀後半から7世紀後半にかけて半跏思惟菩薩像が盛んに作られた[86]。これは、中国のものからは独立した形式であった。この様式は、日本の広隆寺伝来の宝冠菩薩にみられるように、奈良時代の日本の仏像様式に大きな影響を与えた[87][88][注釈 25]。これらの朝鮮の文化に根ざした様式は、日本の初期仏教美術にも見ることができるのは、仏教が伝来して間もない、飛鳥時代の仏像制作に(主に百済出身の)渡来人が携わっていたからであると考えられている[89]。上述の半跏思惟像などは、その典型例であろう。多くの歴史家は朝鮮を仏教の単なる伝達者として描写しているが、これら三国、特に百済は、538年または552年に仏教が日本へと受容されるうえで主体的な役割を果たしたのである[90]

また、三国時代の朝鮮では寺院の建設も活発に行われた。百済の益山には彌勒寺英語版が、新羅の慶州には皇龍寺が建てられた。百済の建築家はその卓越した技術で後世に知られ、上述の皇龍寺の巨大な九重の仏塔や、奈良法華寺 (飛鳥寺)や法隆寺などの建設を行った [91]

阿閦如来座像 石窟庵 恵恭王の時代、大暦9年(775年)完成 1909年に偶然再発見された。現在、大韓民国国宝第24号されているほか、世界遺産にも登録されている。

統一新羅

7世紀後半、新羅が百済、高句麗を併呑し、唐の勢力を朝鮮半島から排除することに成功、統一新羅時代が始まった。統一新羅初期の仏教美術は、新羅の様式と百済の様式が融合したものであった。8世紀には、慶州石窟庵の本尊如来坐像に見られるように、人体像の把握が進み、身体の量感や肢体の伸びやかさが巧みに表現された、石仏の名品が多く作られた。また、朝鮮半島の統一後、唐との外交関係が好転し冊封体制に復帰したことで、国際色の色濃い唐の仏教美術の影響も大きく受けることとなった。

また、統一新羅の時代には、数は少ないながらも密教美術の作例を確認することができ、金剛界大日如来十一面観音千手観音明王といった尊格の仏像が作られた[92]


9世紀後半、中央集権政的な体制が崩壊し、地方分権化と貴族層・花郎の台頭が進んだ。こういった社会制度の変化に応じるように、鉄造の金銅仏が作られるようになった。

咸和四年銘仏龕』(834年)時期としては渤海後期様式に属する。倉敷市大原美術館蔵?[96]

渤海

7世紀、高句麗の遺民や靺鞨人によって渤海が建てられる。この国は、現在の沿海州、黒龍江省、および北朝鮮にあたる地域まで国土を拡げ、唐をして「海東の盛国」と呼ばしめた。新羅と友好関係を結んだ8世紀の末からは、唐・新羅の文化を取り込み、現代にまで伝わる仏教美術を遺した。渤海では多宗派が受け入れられていたが、そのなかでもとりわけ五台山の教え、特に華厳密教が盛んであったようである[97]。しかしながら、被支配層にどれだけ仏教が浸透していたかは明らかではない。

仏教美術に関する主な出土品は五京に限られており、特に上京龍泉府中京顕徳府東京龍原府に偏っている。また、仏像の様式も対新羅外交の変化の結果、高句麗文化のまだ色濃い前期と唐・新羅の様式を取り込んだ後期に分けられる。

高麗

統一新羅が混乱の末に衰亡し、936年高麗が朝鮮統一を果たす。初代国王の太祖が公布した「訓要十条」に見られるように、仏教は高麗王室によって厚く保護された。こういった状況を背景に、仏教美術も活発に行われた。

高麗仏画は、来世と現世の救済を願う浄土信仰を奉ずる貴族層や豪族たちの求めに応じて発展した。また、華厳思想に基づいた、蒙古撃退と国家安泰を願う「五百羅漢図」のような作品もみられる。

また、宗教的営為としての写経が流行した。統一新羅のころには写経はすでに行われていたが、これらの時代には、写経は修行・研究のためだけでなく、行為そのものが功徳を積む手段であると考えられるようになった[98]。これら写経のうち、豪奢な作りのものは装飾経と呼ばれ、紺紙に金泥・銀泥で描いたものが多く遺されている。 また、木版印刷でも写経は行われた。モンゴルの朝鮮侵入を機に13世紀に彫刻された高麗八萬大蔵経は、その刻字の美しさから美術工芸品としての価値も名高い。

仏像美術おいては、俗に「弥勒仏」と呼ばれる巨大な石仏が各地に作られた。菩薩立像は、その大きさ(10メートル以上)から顔の造形や衣紋の衣装は適度なデフォルメが施されており、また、屋外に安置されることが多く頭部に宝蓋を頂いているのが一般的である。これらの石仏は風水思想土俗信仰とも結びついたものだった。高麗時代末期には、モンゴルの侵攻によって仏像彫刻は大幅に衰退する。特筆すべきものとしては、元代仏像の流れをくむ密教系の金銅仏が挙げられる。

李氏朝鮮

李氏朝鮮時代は仏教にとって暗黒期であった。最初期こそ仏教が保護されたものの、堕落した教団への反発と儒教の国教化を背景に、1406年太宗の時代に徹底的な排仏政策が推し進められた。これによって、朝鮮の仏教教団と寺院、美術は大きな衰亡をみた。しかしながら、1549年文定王后のもとで仏教が保護されるようになると、仏教美術は再び大々的に作られるようになった。

朝鮮時代の仏像美術に特筆すべき名品は高麗時代のものと比較すると少ないが、その一方で仏像制作に用いられる材料や図像は多様化した。朝鮮時代初期にはすでに、それ以前には用いられなかった木造や塑造による作例が見られ、17世紀にはこれらが主流となった[101]

仏教絵画においては、画題、素材、そして鑑賞方法にも多様化が見られた。当時描かれたものには、発願のための彩色絹本、寺院内部に描かれた堂内壁画、経典の紙本、さらに屋外での大人数による礼拝に用いられた掛仏幀(あるいは掛仏)、施食会に用いられた甘露幀といったジャンルが挙げられる[102]。特に、掛仏幀と甘露幀は、貴族や僧侶のためというよりも衆向けに作られ、李氏朝鮮後期、17世紀以降に作例が多く見られるようになった[103]

日本

帝釈天半跏像 平安時代前期、承和6年(839年) 京都市、東寺講堂 帝釈天とは、インドの神インドラに由来する、仏法及び仏教徒を護る神、護法善神の一柱。頭部は後補[104]

日本とインドの間で直接的な文化相互交流は行われなかったものの[注釈 26]中国朝鮮林邑ベトナム)、中央アジアを介して仏法とそれに付随する習俗・芸術・政治システムの受容が図られた[105]シルクロードの終着点に位置する日本は、仏教がインドで衰微し、中央アジアと中国で抑圧された時代にあっても、仏教のさまざまな側面を保持することができていた。日本の仏教美術の創造性は奈良時代平安時代、そして鎌倉時代と、8世紀から13世紀にかけて特に豊かであった。仏教と同時に流入したヒンドゥー教の要素や、在地の神道の影響も受けながら融合・発展した。

法隆寺金堂釈迦三尊像 銘推古31年(623年) 鞍作止利作 北魏様式の流れを汲む。造像した鞍作止利は司馬達等の孫で、渡来系であった。

飛鳥時代

仏教伝来以前の日本では、紀元前14,000年頃から紀元前10世紀まで続いた縄文時代に発達した縄文土器の装飾美術や、それに続く弥生時代3世紀頃まで)・古墳時代7世紀まで)の埴輪や青銅器が日本列島内外の影響を受けながら発達していた。

538年に、百済からの使者によって大和朝廷に対して仏教が紹介される(仏教公伝)。実際にはそれ以前からすでに渡来人やヤマト政権内部の人々にも檀家は存在したようだが、584年に善信尼らによって日本初の尼寺が建てられたことで、日本でも寺院建築の歴史が始まった。また、594年に即位した推古天皇のもとで四天王寺飛鳥寺が建てられるなど、仏教化が推し進められた。その結果、花開いたのが飛鳥文化である。

日本国内で仏像制作が始められたのも飛鳥時代である。敏達六年(566年)には、百済から渡来した仏師によって日本の見習い仏師への伝授が始められた[106]。『日本書紀』は、百済の使者によって初めて日本にもたらされた仏の美しさを「相貌端厳(みかおきらきらし)」と伝えている[107]。この仏像は金銅仏であったが、法隆寺釈迦三尊像飛鳥寺の釈迦如来像といった飛鳥時代を代表する仏像もまた金銅仏が多かった。また、法隆寺夢殿救世観音像百済観音といった、金色に塗られた木造仏も作られた。さらに、塑造や乾漆造の仏像も、未だで主流たりえなかったものの、この時代ではすでに少数の作例が見られる。飛鳥時代の仏像の特徴としては、奥行きが浅く、左右対称であることが挙げられる。これは、正面から鑑賞することを前提としていたためであった。

さらに、塑造や乾漆造の仏像も、未だ主流たりえなかったものの、この時代ではすでに少数の作例が見られる。

興福寺阿修羅像 奈良時代、天平6年(734年) 興福寺

奈良時代

奈良時代には、朝廷によって唐由来の政治制度、律令体制の整備が進められ、僧侶も官僚組織へと取り込まれていった(官僧)。

710年藤原京から平城京への遷都が行われると、法隆寺の五重塔や金堂、興福寺などに代表される、数多くの寺院や僧院が建てられた。奈良時代は、国家が仏教絵画や仏像の主たる後援者であった。しかしながら、遁世僧であった行基の活躍によって東大寺盧舎那仏像が官民の協力をもって建立されたように、仏教とその芸術が徐々に庶民層へ浸透していった最初の時代でもあった。ヘレニズム、インド、中国、朝鮮の芸術的影響を受けながら、リアリズムと優美さを特徴とする美術様式が確立されていった。


平安時代

平家納経平安時代後期、長寛2年(1164年)。平清盛一門が厳島神社に奉納した装飾経の群。当時の工芸技術の結晶であり、日本における法華経の受容例であり、大和絵の史料でもある。

平安初期には、唐から日本に真言密教をもたらした空海が、曼荼羅美術、法具書道の発展に野においても多大な貢献をした。また、平安時代を通じて神仏習合が進んだことで、熊野信仰御霊信仰山岳仏教修験道)が展開し、これらの信仰に関連する仏像、絵画が作られた。

11世紀に入ると、摂関政治が陰りを見せ武士が台頭しつつあったことから末法思想が流行し、浄土信仰が広まった。この新たな教えは貴族層にも受け入れられ、終末が訪れるとされた永承7年(1052年)には、ときの関白藤原頼通によって京都、宇治平等院鳳凰堂が建てられる。

浄土教の影響は、当然絵画美術や書道にもおよんだ。来迎図法華経を書写した装飾経が、大寺社や極楽往生を願う貴族によって盛んに制作された。これらの芸術品は鎌倉時代以降も継続して作られた。また、平安時代の終わりには、初期の縁起絵巻かつ絵巻物の名品である『信貴山縁起』が完成した。

平安時代末期には仏像美術に新が起きた。特筆すべきは定朝らによる天平時代へのルネサンスと、奈良仏師による写実性とマッスの追求である。11世紀の定朝は、平安貴族の好みと一致した柔和で優美な仏像を制作し、国風文化形成の一端を担った。一方で、奈良仏師は、定朝の成果を受け継ぎながらも、生気に満ちた躍動的な作風を追求した。

技術的な側面としては、定朝によって寄木造の技法が完成された。これによって、木造でもより大きな仏像を制作可能となり、丈六仏と呼ばれる3メートル程度の高さの仏像が数多く作られた。12世紀の末頃、平安末期から鎌倉時代初期に活躍した慶派運慶は、高さ8.4メートル (28 ft)の東大寺南大門金剛力士を寄木造によって完成させた[110]


国風文化

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制多迦童子像 運慶作 建久年(1197年)鎌倉時代金剛寺

中世(鎌倉時代・室町時代)

民衆層にも仏教が広まるとともに、平安時代末に萌芽をみせていた新仏教(鎌倉仏教)が隆盛する。一方、新仏教の拡大に直面した南都六宗真言宗天台宗といった、旧仏教の側でも内部からの改革が進められた。また、政治の実権が東国を拠点とする武家政権に移ったことで、これ以後は仏教美術のパトロンの地位も幕府武家層へと比重が移っていく。鎌倉幕府は全般として、顕密体制と呼ばれる、南都六宗平安二宗を重んじる方針をとった[112]北条時宗の代前後においては禅宗が積極的に保護されたが、元寇を経て顕密は再び隆盛した[注釈 27]。以降、顕密と禅律は並行して保護され、つづく室町幕府もこの路線を継承した。

12世紀から13世紀にかけて、「」が仏教美術の主役となる。続く14世紀室町時代には、南宋印可を受けた栄西道元の功績によって、禅美術は黄金期を迎える。禅の美術は、水墨画枯山水のような視覚芸術と、五山文学や連歌俳句に代表される文学の2つに大別される。禅美術の実践者たちは、印象主義的で虚飾を排した「非二元的」表現を通じ、世界の本質を表そうと努めた。「いま、この瞬間」の悟りへの探求は、仏教と共に日本へと伝わった茶道華道や同時代に成立した能楽など、他の派生的な芸術の発展にもつながった。このような禅芸術の展開は、主に武道をして人間の一挙手一投足を精神的・美的な要素を持つ芸術と見いださせるに至った。また、宋の美術と同様に頂相も制作された。

さて、禅美術が作られたのは禅寺においてであったが、こと室町時代においては、禅寺は中国文化の受け入れ窓口としても機能していた。僧侶たちを通じて宋・元・明由来の禅・世俗美術の受容がおこなわれ、上述の水墨画、枯山水、茶道、華道といった、いわゆる日本文化の代表的な部分が形成された。例えば、京都の相国寺からは、如拙周文雪舟といった画僧が輩出されている。また、禅寺は禅僧、公家、武士が交流するサロンとしての役割を果たし、結果として寺院に付属する書院や庭園美術が発達した。この分野では、臨済宗の僧侶、夢窓疎石が多大な役割を果たしている。

一方、偶像を必要としない禅宗の始めとした新仏教の流行によって室町時代の仏像美は鎌倉以前の様式を踏襲したものとなった。しかし、前述の頂相の一分野としての肖像彫刻は多数つくられた[113]

禅宗や浄土宗といった新たな流れに圧されていた旧仏教の側でも、対抗的に教団の立て直しが行われた。南北朝期の動乱を乗り越え、室町時代を通じ政治的な独立を果たした高野山は、鎌倉時代から室町時代にかけて制作された密教美術・仏具の名品を現在でも数多く遺している。また、鎌倉時代から南北朝時代に活躍した真言律宗の僧侶、叡尊文観も密教美術・仏画制作に携わり、こと文観の作品はこの時代の仏教絵画としては数多く現存している。

平安時代から引き続いて、鎌倉時代には仏の功徳や高僧の人生などを描いた縁起絵巻が数多く作られた。観世音菩薩の功徳を説く『石山寺縁起絵巻』や、新羅の僧、義湘を題材にした『華厳宗祖師絵伝』、良忍上人の事績と念仏の功徳を説く『融通念仏縁起絵巻』などが挙げられる。

江戸時代

江戸時代を通じ、幕府によって仏教の諸宗派が保護されたことで、仏教は実質的な国教としての地位を得た[117]。教義や宗論の発展は停滞したものの、仏教美術は、こと江戸時代初期においては幕府・皇室・諸藩の援助の受けて盛んに作られた。戦国時代以来の文化的復興期にあたる元禄期には、後述する黄檗宗による黄檗建築や、霊廟建築が発達した。彫刻の分野においては円空、元慶らが活躍した。さらに、江戸期には庶民層へも仏教説話が受容されたことで、これらの物語を下敷きとした葛飾北斎の『東海道五十三次[注釈 28]といった浮世絵や、閻魔信仰を背景とした地獄絵が制作された。さらに、勧進によって大衆からの仏塔や寺社の建設費が賄われることが増えた。他方、これらの寄付を募るために人形浄瑠璃落語講談といった口承文芸が催されたことで、仏教美術は江戸の町人文化へと浸透していった[118]

17世紀、中国での明末清初の混乱に伴い、隠元隆琦逸然性融ら渡来僧によって中国の仏教美術と・江南地方の文化が江戸時代の日本にもたらされる。彼らが紹介した、黄檗美術唐絵唐様(書体)といった仏教美術の新しい表現技術は、仏画・造像に留まらず江戸文化そのものの形成に大きな影響を残した。

絹本著色悲母観音像 重要文化財 狩野芳崖筆 明治21年(1888年) 東京芸術大学蔵 日本最初の重要文化財として登録された。

明治時代以降

明治維新後、1868年に成立した新政府のもとで行われた廃仏毀釈政策によって、数多くの仏教文化財が破壊、ないしはアメリカなどの国外流出の憂き目にあった。その一方で、ヨーロッパ諸国ならびに中国やインドとの交流・渡航が可能になったことで、ほかの美術同様、仏教建築や仏像美術の分野でも、外来の要素を取り入れながら試行錯誤が図られた。建築の分野においては、伊東忠太が設計した築地本願寺は、外観に古代インドの要素を取り入れる一方で、内装においては和洋折衷が図られた[122]。また、第二次世界大戦以降から21世紀の終わりにかけて、巨大仏と呼ばれる、高さ40メートル (130 ft)以上の仏像が国内各地に建立された。

日本では今日においても仏教が盛んである。2018年現在、日本国内には約80,000の仏教寺院が存在しており、それらの多くは木造で、定期な修復がなされている。

閻魔図 ゲルク派 18世紀前半 チベット 中央に大きく描かれる閻魔の上方に描かれたラマは、向かって左がパンチェン・ラマ、右がアティーシャと推定されている[123]

チベットとブータン

前述の通り、東インドでは5世紀から6世紀にかけて初期の密教(タントラ仏教とも)が成立した。密教の儀式の多くは、当時競合関係にあったブラフマニズムの流れ(マントラ[真言]、ヨガ[瑜伽]、ホーマ[護摩])を汲んでいる。8世紀以降、吐蕃最盛期の王、ティソン・デツェンの治世下において仏教が国教化され、8世紀末のサムイェー寺の宗論によって、インド系の仏教である密教が中国系仏教を退け、チベットにおける主要な教えとなった。地理的にアジアの中心に位置していたことにより、チベット仏教美術はインド、ネパール、ガンダーラ、そして中国の美術の影響を受けた。

チベット仏教美術の最も特徴的なもの一つがマンダラである。マンダラとは、正方形を囲む円から成る「諸尊諸仏の寺院」を描いた図であり、修行者がこれを用いる目的は、観想によって、中心に描かれている仏への道を辿ることである。芸術的な側面としては、グプタ仏教美術とヒンドゥー美術から大きな影響を受けている。

アヴァローキテーシュヴァラ(観音菩薩)像 11世紀前半 西チベット、グゲ王国(現在のガリ地区) フリーア美術館

841年にティツク・デツェン王が暗殺され、後を継いだラン・ダルマ王もほどなくして暗殺されたことで、吐蕃は内戦状態に陥り、主たる後援者を失った仏教もまた衰えた。しかし、チベット高原西部まで逃れた吐蕃の王族の一部が建国したグゲ王国によって、仏教はふたたび息を吹き返した。グゲ王国はリンチェン・サンポ英語版ら留学僧を(当時仏教先進国であった)カシミール地方へと積極的に派遣し、教学ならびに同地の建築、美術を吸収させた[124]。以降、西チベットでは、カシミール地方の影響がみられる「リンチェンサンポ様式」と呼ばれる仏教美術が栄えた[125]

10世紀から11世紀にかけて、北インドのヒマーチャル・プラデーシュ州タボ僧院英語版 (当時の西チベット王国の一部)は、インドとチベットの文化交流、特に仏教美術と哲学の分野において、仲介者として重要な役割を担っていた。タボにおける特筆すべきチベット仏教芸術には、同寺院に描かれたフレスコ画が挙げられる[126]

13世紀には、チベットはユーラシア大陸全体を席巻したモンゴル帝国と国境を接する。これをうけ、外交官として西涼まで赴いたチベット仏教サキャ派の僧、サキャ・パンディタがモンゴルの貴族たちに布教を行った。さらに、その甥にあたるパクパは元朝初代皇帝クビライと親交が篤かったことにより、帝師として大都に招聘された。結果として、中国においても大都を中心にチベット・ネパール由来の仏教美術と仏教建築が大いに発展した。

14世紀に入ると、ゲルク派の祖、ツォンカパがチベット仏教を改革。17世紀のダライ・ラマ政権樹立への礎を築いた。15世紀には、チベット仏教美術の主たる流派の2つ、メンリ派とキェンツェ派が成立する。メンリ派側はダライ・ラマの宮廷絵師としての地位を得てチベット仏教美術の主流派を形成した一方、圧されたキェンツェ派側はしだいにメンリ派に吸収された[127]。これらの学派では、各尊格ごとに異なった身体比率、様相、着衣、姿態が定められ、厳密なアイコノメトリーが定義された[128]

ヤマーンタカ(大威徳明王)像 19世紀 金銅仏 ホノルル美術館

15世紀から16世紀にかけ、カギュ派内部の一派であったカルマ派が、カルマパと呼ばれる転生ラマ制度をチベット史最初に導入した。カルマパは代々仏教美術を愛好・保護し、カルマ・ガルディ派と呼ばれる画工集団を重用した。17世紀、カルマパ10世チューイン・ドルジェ英語版ダライ・ラマ5世との政争に破れ、チベット東部での漂泊生活を強いられる。その過程で、彼と彼に随行した画工達は中国絵画の要素を吸収し、18世紀に至りカルマ派が東チベットに定着したのちも、カルマ・ガルディ派の絵画様式はこれを下敷きとして発展を続けた[128]

20世紀はチベット仏教美術にとって試練の世紀であったと同時に、海外への大々的な伝播が起こった時代でもあった[129]。1959年のチベット動乱によって、ダライ・ラマ14世を始めとする各宗派の指導者や仏教美術の担い手であった画工・仏師が国外へと流出した。また、1970年代の文化大革命では、多数の文化財やタンガ、仏像が破壊された。しかしながら、これらのできごとの結果としてヨーロッパやアメリカ大陸においてチベット仏教が広まったほか、欧米やインド、ネパールに逃れた芸術家たちが亡命先で移民2世や現地の画家など後進の育成に尽力することなった。さらに、中国領内においても、寺院の復旧や研究調査も21世紀に至るまで続いており、チベット人作家による新しいチベット仏教美術の様式が展開されている。

ベトナム

ベトナムの文化・芸術は、中国文化圏に属した北部と、インド文化圏に属した中部・南部で異なった展開を見せた。

蓮から立ち上がる少年仏 木像 陳朝 14世紀から15世紀 ベトナム国立歴史博物館英語版

ベトナム北部(トンキン)は1世紀から9世紀のあいだ、中国の文化的・政治的の強い影響下に置かれていた。また、それ以降の時代にあっても、中国由来の儒教と大乗仏教が普及した。全体として、ベトナムの仏教芸術の展開は中国の仏教芸術の影響によるところが大きい。

李朝から陳朝にかけて(11世紀から13世紀頃)、仏教はなかば国教として保護されていた。陳朝初期の歴代の皇帝は、臨済禅の流れをくむ竹林派を奉じていたが、陳朝後半になるとこれにチベット仏教と道教が混淆されていった。陳朝の時代を通じ、各地にチュア(巴語:ストゥーパから)とトゥ(中国語:寺から)と呼ばれる仏教寺院が建立された[132]14世紀には、この時期に成立したからの影響で儒教が重んじられるようになる。以後、仏教の影響力は相対的に小さいものとなるが、ベトナム戦争を経て現代に至るまで、仏教は同国の人々に信仰され続けている。

一方ベトナム南部では、チャンパが2世紀から19世紀(北部の大南阮朝によって滅ぼされるまで)に栄えた。チャンパは近隣のカンボジア同様、インド的な美術様式をもち、彫像における豊かな身体表現にその特徴がある。また、初期の仏教美術においては、クメール美術からも大きな影響を受けた。チャンパ王国は1471年黎朝によって首都を占領され、1720年代には完全に崩壊した。しかしながら、少数民族となったもののチャム族は現代においてもベトナムを含む東南アジアに広く居住している。

南伝仏教美術

カンボジアの仏、14世紀
Dhyani仏像大日如来観音菩薩、及び執金剛神内側Mendutの寺院。

南仏教としても知られる正統派の仏教はスリランカ、ミャンマー(ビルマ)、タイ、ラオス、カンボジアでまだ実践され 西暦1世紀、シルクロードの貿易は、ローマ人が非常に裕福になり、アジアの贅沢品に対する需要が高まっていたように、ローマの未敵の敵である中東パルティア帝国の台頭によって制限される傾向があり この需要により 地中海と中国の間の海のつながりが復活しインドが選択の仲介者となる。その時から貿易接続、商業的解決さらには政治的介入を通じてインドは東南アジア諸国に強く影響を与え始め 貿易ルートはインドをビルマ南部、シャム中部および南部、カンボジア南部およびベトナム南部と結び付け、多くの都市化された沿岸集落がそこに設立された。

したがって千年以上にわたりインドの影響は地域のさまざまな国に一定レベルの文化的統一をもたらし パーリサンスクリット語の言語とインドのスクリプトは、一緒になって大乗上座部仏教、バラモン教ヒンドゥー教、直接の接触からとのような神聖なテキストやインドの文学を透過し、ラーマーヤナマハーバーラタ などの拡大はこれらの国々で仏教美術が発展するための芸術的背景を提供しその後、独自の特徴を発展させた。

1世紀から8世紀にかけて、いくつかの王国がこの地域の影響を競い合い(特にカンボジアのフナン、そしてビルマのモン王国)主にインドのグプタスタイルに由来するさまざまな芸術的特徴をもたらし ヒンズー教の影響が広がり仏教の画像、奉納の碑文、サンスクリット語の碑文がこの地域全体に見られる。8世紀から12世紀にかけて パラ王朝の後援の下仏教とヒンドゥー教の芸術と思想が共同開発されますます相互に絡み合うが [133] しかし、インドのイスラム教徒の侵略と修道院の解任によりリチャード・ブラトンは「仏教はインドの主要な勢力として崩壊した」と述べている[133]

8世紀から9世紀までに、シャイレーンドラ朝仏教芸術はインドネシアの中央ジャワメダンマタラム王国で発展し栄え この期間は、カラサンマンジュスリグラメンドゥットボロブドゥールの石メンドゥットなど、数多くの絶妙なモニュメントが建設されたため、ジャワの仏教美術の復興記念するものとなり その伝統は13世紀の東ジャワのシンガサリ仏教芸術まで続いた。

9世紀から13世紀にかけて東南アジアには非常に強力な帝国があり仏教の建築と芸術の創造において非常に活発になる。シュリーヴィジャヤ王国南に帝国とクメール帝国など競って北へ、どちらも大乗仏教の信奉者だったが、彼らの芸術は豊富な菩薩 大乗パンテオン表現で パーリカノンの上座仏教はスリランカから13世紀頃に地域に導入され、新しく設立されたタイ王国スコータイで採用がみられるが 当時の上座部仏教では修道院は通常町の信徒が指導を受ける中心的な場所であり、僧らによって紛争を仲裁されて発展した寺院の複合体建設は東南アジアの芸術的表現において特に重要な役割を果たした。

14世紀以降イスラム教が東南アジアの海域に広がり マレーシアインドネシア南フィリピンに至るまでのほとんどの島々を圧倒したが 大陸地域では上座部仏教はビルマ、ラオス、カンボジアに拡大し続けた。

スリランカ

スリランカの仏像。

スリランカ島はインド亜大陸から南東数十キロ離れた海上に位置する。パーリ語で書かれた叙事詩マハーワンサ』によれば、紀元前543年釈迦入滅の年)に、この地へと初代国王ウィジャヤが渡ってきたことが始まりとされるが、史実においては更に遡るとされる。また、原史時代にあたる紀元前10世紀から紀元前5世紀には、すでに南インドと技術や文化を相互に影響を与えあっていたようである[134]

伝承によると、紀元前3世紀マウリヤ朝の王、アショーカの長男、長老マヒンダと、彼に率いられたインド僧たちがスリランカへと渡り、この地で仏教を広めたとされる。主にアニミズムを奉じていたスリランカの人々への布教の過程はゆっくりとしたものであったものの、ときの王、デーワー・ナンピヤティッサ英語版は深く仏教に帰依したことで、王都アヌラーダプラからほど近いミヒンタレー英語版にスリランカ最初の精舎が開かれた[135]。また、アヌラーダプラにも僧院マハーヴィハーラ(大寺)が築かれ、以後スリランカにおける上座部仏教の中心地となり、紀元前89年ワッタガーマニー・アバヤ王英語版によってアバヤギリ・ヴィハーラ英語版(無畏山寺)が建立されるまでの間、その地位を維持し続けた。

AbhayagiriVihāraは改革されたMahāyāna教義の座になるが MahāvihāraとAbhayagiriの僧侶の間の競争はさらに分割しての基盤にJetavanarama Mahāvihāra近くでつながっていく。シンハラ仏教の主な特徴は アヌラーダプラの3つの主要な僧院の複合体にちなんで名付けられた3つの主要なグループまたはnikāyasに分割されたことでありマハーヴィハーラー、アバハギリ、ジェタヴァナーラーマーなどこれらは懲戒規則(ビナヤ)と教義上の紛争からの逸脱結果で スリランカの他のすべての修道院3つのうちの1つに教会の忠誠を負っていった。スリランカでは石で作られ青銅合金で鋳造された仏像の彫刻が有名である [136]

ミャンマー

インドの隣国であるミャンマー (ビルマ)は、当然インド領土の東部の影響を強く受けて ビルマ南部のは約200仏教に変換されたと言われており インドの王の改宗下BCEアショカ時代の分裂前、大乗小乗仏教 が成る。

18世紀のビルマの水彩画における仏の生活のシーン

ミャンマー中部のベイクタノなど1世紀から5世紀にかけての初期の仏教寺院があり モンスの仏教芸術は、特にインドのグプタとグプタ後期の芸術の影響を受け、5世紀から8世紀にかけてのモン帝国の拡大に伴い、そのマニエリスム様式は東南アジアに広く広まった。

後に11世紀から13世紀にかけて首都のバガンに数千の仏教寺院が建てられ約2,000の寺院がまだ立っているが 当時の宝石のような美しい仏像が残っている。1287年にモンゴル人によって都市が押収されたにもかかわらず、なんとか創造は続いていったのである。

[137]

14世紀から16世紀までのAva時代には仏像のAva(Innwa)スタイルが人気となり このスタイルでは、仏には大きな突出した耳、上向きに曲がった誇張された眉毛、半分閉じた目、細い唇、および通常は肩甲骨ムードラに描かれた髪の毛が上部に向けられている。18世紀末のコンバウン王朝の間に仏像のマンダレースタイルが出現したがこのスタイルは今日でも人気があり [138] Innwaスタイルからの著しい逸脱があって仏の顔ははるかに自然で肉厚で、自然に斜めになった眉毛、わずかに斜めの目、より太い唇、上部に丸い髪のバンが特徴で このスタイルの仏像は横たわっているか、立っているか、座っているかがわかり [139] マンダレースタイルの仏は、流れるようなドレープのローブを着ている。
仏像のもう1つの一般的なスタイルはミャンマーの高地に住むシャン族のシャンスタイルで このスタイルでは仏は角のある特徴、大きくて尖った鼻、タイのスタイルと同様に結ばれた髪の束、小さな細い口で描かれている。[140]

マンダレー様式の仏像

カンボジア

カンボジアフン王国の中心であり、3世紀から6世紀にかけてビルマとマレーシアの南端まで拡大しその影響は本質的に政治的なものであり、文化的影響のほとんどはインドから直接もたらされたようである。 その後、9世紀から13世紀にかけて、大乗仏教とヒンドゥー教のクメール帝国が東南アジア半島の広大な部分を支配し、その影響はこの地域の仏教美術の発展において最も重要で クメールの下でカンボジアと近隣のタイとラオスに900以上の寺院が建てられた。クメール仏教美術の王室の愛顧はアンコールトムドヴァラス (ゲート)とプラサートタワーバイヨンロケシュヴァラの笑顔で飾られた、アンコール・トムの城壁都市を建てた仏教の王ジャヤヴァルマン7世の後援により新たな高みに達したが [141] アンコールはこの開発の中心であり、仏教寺院の複合体と都市組織が約1をサポートでき  百万人の都市居住者がいて カンボジアの仏教彫刻の多くはアンコールに保存されている。しかし、組織的な略奪は、全国の多くのサイトに大きな影響を及ぼしました。多くの場合クメール芸術はその備の特徴と細い線にもかかわらず、神聖に輝く表現を通して強烈な精神性を表現することができているといわれる。

12世紀のカンボジアロケスバラBo

タイ

タイの仏教芸術はタイの前の文化であるDvaravatiとSrivijayaから、タイの最初の首都である13世紀のスコータイまでタイ王国のアユタヤとラッタナコシンまで数千年以上の期間を網羅している。[142]

プラ・アチャナ・ワット・シー・チュムスコータイ県タイ

1世紀から7世紀にかけて タイの仏教美術はインドの商人との直接的な接触とモン王国の拡大に最初に影響を受けグプタの伝統からインスピレーションを受けたヒンドゥー教と仏教美術の創造につながる。9世紀以降、タイ芸術のさまざまな学校は大乗信仰の両方で北のカンボジアクメール芸術と南のスリヴィジャヤ芸術の影響を強く受け その間に仏教美術は大乗の複数の作品とパンテオン菩薩など表現に明確な主題をもつ特徴があるされているが 13世紀からは 上座部仏教は同時期にスリランカから導入された民族のタイの王国スコータイが設立され [143] 新しい信仰はタイ仏教の非常に様式化されたイメージに影響を与えられた。

アユタヤ時代(14世紀から18世紀)に仏像はよりスタイリッシュな様式で、豪華な衣服と宝石で飾られた装飾品で表されるようになり 以降多くのタイの彫刻や寺院は金メッキされる傾向があり、時にはインレイで豊かになる。

トンブリラタナコシン王国のその後の期間はタイ仏教美術のさらなる発展を見たが [144] 18世紀までに バンコクサイアム王国の王室の中心地として設立され その後タイの統治者は仏教の尊厳を示し、その権威を示すために、堂々とした仏教のモニュメントで都市を満たした。その中にはエメラルドブッダを主催する有名なワットプラケオがあるが バンコクの他の仏教寺院は ワット・アルンワットポーなどからの有名なイメージと菩提 仏塔風の塔を持つ。

インドネシア

他の東南アジアと同様に インドネシアは西暦1世紀からインドの影響を最も強く受けていたようで 西インドネシアのスマトラ島ジャワ島は、海の力で東南アジア半島周辺の大部分を支配するようになったスリ・ヴィジャヤ8〜13世紀)の帝国の所在地であり スリランカビジャヤン帝国は支配者シャイレーンドラ朝の下に大乗仏教とVajrayanaを採用。シャイイレンドラは熱心な寺院建築家であり、ジャワの仏教の献身的な後援者で [145] スリ・ヴィジャヤは東南アジア半島への拡大中に大乗仏教美術を広めた。大乗の数多くの仏像菩薩この時期からは非常に強力な洗練と高度な技術によって特徴付けられ、そして各地域で発見されていく。ジャワで最も古い仏教の碑文の1つである778年のカラサンの碑文には、女神タラ寺院の建設について言及されている [145]

ロータスの玉座にある東ジャワのシンハサリのプラニャパーラミターの像。
ボロブドゥールの仏。

非常に豊かで洗練された建築遺物はジャワとスマトラにあるが 最も壮大なのは ボロブドゥール寺院(780-850年頃に建てられた世界最大の仏教建造物)で、サイレンドラスによって建てられた [146] この寺院は仏教の宇宙の概念、着座仏の505枚の画像を数えるマンダラおよび仏像を含む独特の鐘形の仏塔をモデルにしており ボロブドゥールには仏教の聖典をナレーションしたレリーフの長いシリーズも飾られている [147]。インドネシアで最も古い仏教建造物はおそらく西ジャワのカラワンにあるバトゥジャヤの仏塔で、4世紀頃とされ この寺院は、漆喰で覆われたレンガの仏塔である。しかしインドネシアの仏教美術は、ジャワ島のサイレンドラ王朝時代に黄金時代に達した。浅浮き彫りや彫像菩薩タラ緊那羅で見つかったKalasan セウサリおよびPlaosanの寺らは穏やかな表現と非常に優雅である一方Mendutのボロブドゥール近くの寺院は大日如来観音菩薩及び執金剛神 など巨大な彫像を収容する。 スマトラ島でスリ・ヴィジャヤはおそらくムアラ・タクスの神殿とムアロ・ジャンビを建てたとされるが、ジャワの古典仏教美術の最も美しい例は シンハサリ王国からの超越的な知恵の女神であるプラナパラミタ (国立博物館ジャカルタのコレクション)の穏やかで繊細な像で [148] インドネシアの仏教スリ・ヴィジャヤ帝国はインドのチョーラの支配者との対立により衰退し、その後マジャパヒト帝国が続いた。

現代仏教美術

本「仏と仏教の福音」(1916年)のイラスト。

多くの現代アーティストが仏教のテーマを利用しています。注目すべき例は、ビデオインスタレーションのBill Viola[149]彫刻のJohn Connell[150]、マルチメディアの "Time is Memory"のAllan Grahamです。[151]

英国では、仏教組織のネットワークは、すべての芸術にわたって仏教の実践者を特定することに関心を持っています。2005年、英国全体の仏教芸術祭「花の蓮」をコーディネートしました。[152] 2009年、2日間の芸術会議「ブッダマインド、クリエイティブマインド」の開催を支援しました。[153] 後者の結果として、仏教芸術家の協会が結成されました。[154]

モチーフ、テーマ、画題

モチーフ

仏教美術には、自然物や人型のモチーフが用いられた一方、武器や道具もモチーフとして用いられた。これらの象徴は、本来の使用方法から離れ、煩悩を打ち消す力や衆生への伝道の比喩として扱われていく。例えば、前述のとおり、初期仏教の美術において仏陀は人間ではなく法輪の形で表現された。ここにおいて、法輪は、仏陀や僧侶が仏法を説く様子、あるいは仏陀自身、または彼の伝道そのものの象徴であった。

また、密教においては三昧耶形と呼ばれるシンボルによって、それぞれの仏や天が表される。曼荼羅では、これらの仏は対応する象徴物のみで表現されることがある。

画題

仏画

仏伝図

曼荼羅

六道絵

変相図

九相図

関連項目

注釈

  1. ^ 儀式と哲学が発達したバラモン教においては、火を通じて神々に供物を捧げることはあっても、偶像に対して崇拝を行うことはなかった。ゆえに、ヴェーダ時代の宗教建築や神像はほぼ遺されていない。なお、「バラモン教」という呼称はヨーロッパ人によって付けられたものである。
  2. ^ 当時の仏教徒は、ブッダが悟りを開いたことで人間を超越した存在(不可視)になったと考えていたようである。
  3. ^ ただし、三十二相八十種好のうちのいくつかはジャイナ教と共有されている[6]一方で、この様式が一揃いのものとして確立したのは4世紀から5世紀にかけてのことである[7]
  4. ^ 阿羅漢果とは、四向四果という仏教における修行の8段階のひとつで、すべての煩悩を断じ終って涅槃に入り、もはや再び生死を繰返すことがなくなった位のこと。
  5. ^ 袈裟を両肩にのせる着衣法。
  6. ^ 三十ニ相の内容は、経典によって差異が認められる。したがって、インド大陸各地方での造像の展開に伴って、段階的に整理されていったと考えられる。
  7. ^ ただし、グプタ朝は仏教を積極的に弾圧したわけではない。
  8. ^ 7世紀から13世紀にかけて、インドでは新興のヒンドゥー教との対立のなかで密教が成立した。唐代の中国へは、善無畏金剛智らによって7世紀には伝わっていた。 9世紀、空海によって日本にも中国から中期密教が取り入れられるが、それ以降は積極的に密教を取り入れる動きはなくなった。 一方、チベットは、8世紀後半に仏教を国教とすると、インドから直接密教を取り入れ続けた。それゆえに、『無上瑜伽タントラ』が実践されるなど後期密教の特徴を強く残している。
  9. ^ ひとことに南伝仏教といっても、インド洋以東には上座部仏教と同時に大乗仏教も広まった。例えば、ボロブドゥール寺院遺跡群を建設したシャイレーンドラ王家は、大乗仏教を信奉していた。
  10. ^ 部派仏教(後代の上座部)においては、阿羅漢とは仏陀以外の修行者の達しうる最高の境地であり、苦しみからの解放された状態であった。
  11. ^ 例えば、インドの中期密教以降ではヒンドゥー教と、南北朝時代以降の中国では道教と、新羅以後の朝鮮半島では巫俗と、飛鳥時代以後の日本では神道怨霊信仰と結びついた。 一方で、その受容の過程にも国によって差異があった。インドではヒンドゥー教への対抗上仏教側が積極的に神格を取り入れたが、朝鮮では仏教側が既存の巫俗信仰を容認する形で取り込んでいった。
  12. ^ 仏伝図とは、釈迦の生涯、つまり出生直前の出来事から涅槃までを描いたもの。
  13. ^ 建設当時、両大仏が建てられたのは交通の要衝であったが、こういった場所に摩崖のレリーフを彫るのはペルシャの伝統であった。また、壁画の色彩感覚や身体表現にササン朝美術の影響を見ることができる。
  14. ^ 儒教の価値観を色濃く反映した『仏説父母恩重難報経』など。
  15. ^ 重慶市で発見された、延光4年(124年)に制作された揺銭樹には仏の姿が確認できる[31][32][33]
  16. ^ その一方で、同時期に作られたほかの仏像にはグプタ様式のもの、肌を見せた官能的な作りのもの、漢風のものがあるなど、様々な表現を見ることができる。
  17. ^ これらの宗教政策は、実際には経済政策の側面の方が大きく、寺院の破壊や僧侶の投獄・処刑を伴ったものではなかった。晩唐・五代十国の時代にあっては財政改善は喫緊の課題であり、「廃仏」も金属接収や課税が主な狙いであった。
  18. ^ 禅宗は主に江南で、浄土教は主に華北に浸透していた。また、自立的な禅宗が都市民・士大夫層に人気だったのに対し、阿弥陀如来の救済を求める浄土教は地方民・庶民層に普及した。
  19. ^ これら禅画における様式の確立には、書道からの影響を無視することはできない。士夫画の提唱者にして詩人・居士であった蘇軾は、なにより書の大家でもあった。
  20. ^ 水月観音とは、法華経で説かれている観音菩薩の33の姿のうちの一つ、辟支仏身に対応するもの。
  21. ^ 清初期の康煕帝は知識人に対する抑圧は積極的に行ったが、仏教・道教に対しては放任主義的に臨んだ。『清朝野史大観』には、康煕帝が「復興できないほどに衰退してしまい、二氏は今では哀れなものである。時代遅れになってしまったものを邪魔物として取り除く 必要もなく、絵や詩の題材として残っている」と詠んだと記されている[58]
  22. ^ 528年とも。
  23. ^ 新羅は立地上、中国大陸への海路・陸路を確立できなかったためであった。5世紀初頭には高句麗の僧侶を通じこの新しい教えの存在を認知していたようである。
  24. ^ 386年鮮卑族の一派であった拓跋氏は、華北に北魏を建てた。
  25. ^ なお、宝冠菩薩の制作地については、百済説、新羅説、日本説、渡来人制作説があり、用材にアカマツクスノキが使われていたことから、結論は出ていない。
  26. ^ なお、752年に行われた東大寺盧舎那仏像開眼法要に参加した菩提僊那が近代以前に渡来した数少ないインド僧の一人として挙げられるように、全くインドとの交流が無かったわけではなかった。
  27. ^ 元軍の撃退に加持祈祷が影響が与えたと考えられたことと、禅を重んじていた南宋が滅亡したことが、情勢に変化をもたらした。
  28. ^ 『東海道五十三次』の53という名数は、『華厳経』の末尾の一経、『入法界品』に登場する善財童子が得る善知識の数に由来するとする説がある。

出典

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外部リンク