「伊藤忠治」の版間の差分
Smokillers (会話 | 投稿記録) 編集の要約なし |
m Bot作業依頼: 文部大臣の改名に伴うリンク修正依頼 - log |
||
107行目: | 107行目: | ||
==== 津市立三重短期大学法経科2部時代 ==== |
==== 津市立三重短期大学法経科2部時代 ==== |
||
* 公立(津市立)中学校卒業後に勤務した印刷工場の社長に、真面目に昼間の時間帯に勤務する事を条件に、「夜間の高校(定時制)に通学させて下さい」とお願いして津実業高校の定時制高校生になる。さらに、向学心を持ち津市立三重短期大学法経科([[法経学科]])2部([[夜間学部]])に進学した。 |
* 公立(津市立)中学校卒業後に勤務した印刷工場の社長に、真面目に昼間の時間帯に勤務する事を条件に、「夜間の高校(定時制)に通学させて下さい」とお願いして津実業高校の定時制高校生になる。さらに、向学心を持ち津市立三重短期大学法経科([[法経学科]])2部([[夜間学部]])に進学した。 |
||
* 三重短期大学法経科2部では、[[学生運動]]や以下の政治活動が盛んだった。模擬[[国会]]で([[内閣総理大臣]]・[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]・[[大蔵大臣]]・[[法務大臣]]・[[ |
* 三重短期大学法経科2部では、[[学生運動]]や以下の政治活動が盛んだった。模擬[[国会]]で([[内閣総理大臣]]・[[外務大臣 (日本)|外務大臣]]・[[大蔵大臣]]・[[法務大臣]]・[[文部大臣]]・[[通産大臣]]・[[労働大臣]]・[[厚生大臣]]・[[国務大臣]][[保安庁長官]]による)[[内閣制度]]や[[議会]]の開設をする議会ごっこ授業が盛んだった。[[津市]]内の国政と地方の公明選挙運動が盛んだった。三重短期大学の大学新聞など政治運動が盛んだった。 |
||
* 津市立三重短期大学法経学科夜間学部の学生は、以下の出身者が多かった。 |
* 津市立三重短期大学法経学科夜間学部の学生は、以下の出身者が多かった。 |
||
#津市内に勤務する三重県の職員である公務員及び三重県内の市町村に勤務する[[公務員]]出身者 |
#津市内に勤務する三重県の職員である公務員及び三重県内の市町村に勤務する[[公務員]]出身者 |
2020年12月30日 (水) 09:02時点における版
この記事の出典は、Wikipedia:信頼できる情報源に合致していないおそれがあります。 |
伊藤忠治 いとう ちゅうじ | |
---|---|
生年月日 | 1934年5月2日 |
出生地 | 三重県津市 |
没年月日 | 2013年5月19日(79歳没) |
死没地 | 三重県津市 |
出身校 | 津実業高等学校(現三重県立みえ夢学園高等学校)⇒津市立三重短期大学法経科(2部)夜間学部 |
前職 | 日本電信電話公社勤務 |
現職 | 民主党三重県連顧問⇒中央選挙管理会委員長 |
所属政党 | 日本社会党⇒民主党 |
選挙区 |
旧三重1区 比例東海ブロック |
当選回数 | 6回 |
在任期間 | 1983年 - 2005年 |
伊藤 忠治(いとう ちゅうじ、1934年(昭和9年)5月2日 - 2013年(平成25年)5月19日)は、日本の政治家。元衆議院議員(6期)。中央選挙管理会委員長。出身の全電通労組(全国電気通信労働組合)を支持母体としている労組出身の郵政族議員。電電公社民営化後は、NTT労組を中心とする通信系労組である情報労連(情報産業労働組合連合会)を支持母体としていた。
年譜
- 三重県津市北丸之内出身。1934年(昭和9年)に三重県津市の自営業者(家具製造業)の家庭に生まれた。しかし父は事業に失敗して、伊藤家は貧困家庭となり働かざるをえなくなる。
- 15歳で地元の中学を卒業後、印刷会社に就職した。自身で働いて稼いだ学費で高校に通学する事として、1950年(昭和25年)に津市高等学校(三重県立津商業高等学校の前身)の夜学(定時制課程)を受験した。その後の三重県立津実業高等学校(三重県立みえ夢学園高等学校の前身)定時制普通科に入学をした。津実業高等学校の第2学年の途中に鈴鹿市白子にあった職業学校である鈴鹿電気通信学園(電気通信省が設立した企業内学校)にも通い、1952年(昭和27年)日本電信電話公社に入社した。1955年(昭和30年)に三重県立津実業高等学校を卒業をする。さらに、公務員として社会科学の分野である政治学・経済学・法律学の知識と学歴をつける必要性から、1957年(昭和32年度)に津市立三重短期大学法経科2部(法経学科夜間学部5期生)として卒業する。
- 1972年 (昭和47年)に全電通中央本部の執行委員となる。
- 1978年 (昭和53年)に全電通の三重県支部の委員長となる。
- 三重県労働協議会副議長や三重県公務員労働協議会事務局長を務める。[1]
- 1983年 (昭和58年)に急死した田口一男の後継として、日本社会党員となっていた49歳の時に、日本社会党から(中選挙区制)旧三重1区選出で衆議院議員に初当選をする。以後連続3回当選をする。
- 1983年(昭和58年)の第37回衆議院議員総選挙で1期目の当選をする。
- 1986年(昭和61年)の第38回衆議院議員総選挙(社会民主連合の推薦候補)で2期目の当選をする。
- 1990年(平成2年)第39回衆議院議員総選挙(社会民主連合の推薦候補)で3期目の当選をする。その内2回がトップ当選であり、日本社会党副書記長を務めた。
- 日本社会党の企画調査局長に就任する。
- 日本社会党三重県連合本部の委員長に就任する。
- 三重県社会文化協会の理事長となる。
- 田辺誠委員長から日本社会党の中央執行委員会の改革委員に起用される。
- 1993年(平成5年)の第40回衆議院議員総選挙(社会民主連合の推薦候補)で落選をする。
- リベラル勢力の結集を目指して、「民主党三重」を旗揚げする。1997年(平成9年)に四日市市中部地区の近鉄四日市駅付近のホテルで民主党三重の設立パーティーを実施した。
- 1996年(平成8年)に日本社会党から民主党結成に加わり、第41回衆議院議員総選挙で三重2区から立候補して、新人中川正春に敗れるが、比例復活(東海ブロック名簿3位の滑り込み当選)で国政復帰する。2000年(平成12年)の第42回衆議院議員総選挙では新進党から、同じ民主党となった中川正春との調整で東海比例区単独上位(東海ブロック名簿2位)で当選する。2003年(平成15年)の第43回衆議院議員総選挙では自由党と民主党との合併協議で比例単独立候補はすべて不採用になり、 三重4区に国替え、東海比例名簿で上位(東海ブロック名簿1位)当選する。中選挙区制では(トップ当選2回・滑り込み当選1回・落選1回)であったが、小選挙区制度から立候補をした以下の選挙区の衆議院議員総選挙では落選した。
- 三重2区(鈴鹿市・亀山市・四日市市南部から立候補した第41回衆議院議員総選挙)では選挙区で落選した。それと三重4区でも落選した。
- 三重4区(松阪市・久居市・一志郡から立候補した第43回衆議院議員総選挙)では選挙区で落選した。
- 三重2区と三重4区の小選挙区で1勝もする事もなく比例東海ブロックからの当選のみとなった。
- 2005年(平成17年)8月に三重4区を三重県議会議員であった森本哲生を後継に指名して、衆議院議員を引退した。
- 民主党の以下の要職を務めた。
- 民主党の国会対策筆頭副委員長
- 民主党の倫理委員長
- 民主党の副幹事長
- 衆議院懲罰委員会の委員長に就任していた。
- 2004年(平成16年)3月10日に民主党両院議員総会で両院議員総会長に指名される。
- 日本社会党と民主党(三重県内)の支持者から「忠(ちゅう)さん」の愛称で親しまれていた。
- 2003年(平成15年)に三重4区から立候補した時は、自治労三重県本部の推薦があった。三重4区の世論調査(伊勢新聞など)では、女性の支持率が低い反面、男性の支持率が高く、労組(日本電信電話公社と民営化後のNTTを中心とする全電通労組)を支持基盤として、勤労者層の支持者が多かった。典型的な社会党議員の得票傾向で中選挙区制選挙に強く、小選挙区制選挙で弱い。比例代表選挙では労働組合の組織票が見込まれるため比例名簿の上位で優遇されていた。
- 2005年(平成17年)8月に衆議院議員を引退した後、民主党三重県連合の顧問となった。
- 2010年(平成22年)には、中央選挙管理会委員長に選出された。
- 2013年(平成25年)5月19日、食道癌のため津市の病院で死去[2]。79歳没。
政策
- 現在は閉鎖されているが衆議院議員時代に伊藤忠治の個人公式ホームページを開設していたが、その中で円の価値をドルと同じ価値にする1ドル=1円の新しい通貨に切り替える、デノミネーション政策を提唱していた。デノミ推進議員連盟に所属をしていた。
日本社会党議員としての革新政策
- 新人議員時代(当初)は田口一男議員の後継者として労組出身である事から(マルクス思想)社会主義政策をとる社会党左派に所属する議員であったが、平成時代になり赤松広隆や山花貞夫グループの一員として社会党右派に所属して民主党結成に加わった。政策の基本理念は以下である。
郵政族として執筆した著書
- 旧全電通労組出身で郵政族である、著作にNTT(エヌ・ティ・ティ出版)出版が発行している本で書名は「通信ビッグバン」である。出版された出版年月日は1998年(平成10年)2月であり、販売定価は1575円である。
夜間教育について
- 国会では高等学校の定時制と大学2部関連の法案の審議に取り組んだ。三重県内の定時制高校の卒業式には祝電を送っていた。
選択的夫婦別姓制度
受動喫煙問題
その他
人物
エピソード
学生時代
津市立三重短期大学法経科2部時代
- 公立(津市立)中学校卒業後に勤務した印刷工場の社長に、真面目に昼間の時間帯に勤務する事を条件に、「夜間の高校(定時制)に通学させて下さい」とお願いして津実業高校の定時制高校生になる。さらに、向学心を持ち津市立三重短期大学法経科(法経学科)2部(夜間学部)に進学した。
- 三重短期大学法経科2部では、学生運動や以下の政治活動が盛んだった。模擬国会で(内閣総理大臣・外務大臣・大蔵大臣・法務大臣・文部大臣・通産大臣・労働大臣・厚生大臣・国務大臣保安庁長官による)内閣制度や議会の開設をする議会ごっこ授業が盛んだった。津市内の国政と地方の公明選挙運動が盛んだった。三重短期大学の大学新聞など政治運動が盛んだった。
- 津市立三重短期大学法経学科夜間学部の学生は、以下の出身者が多かった。
- 津市内に勤務する三重県の職員である公務員及び三重県内の市町村に勤務する公務員出身者
- 高等学校を卒業した後に勤労学生として民間企業に就職して労働者になった苦学生
- 学生の出身分類は、以下の出身者が多かった。
- 三重短期大学は昭和時代戦後期の55年体制下の政治的な階層と経済的な階層は、(日本社会党系列で社会党左派と、日本社会党から分党した社会党右派の民社党系列(現在の民主党系列)の革新階層の学校だった。
- 当時の三重短期大学の学生の政治思想と経済思想は、左翼的な思想と、憲法改正に反対する伊藤忠治ら護憲主義思想を持っていた三重短期大学法経学科夜間部の学生は、社会党左派を支持していて、マルクス経済学を専攻するマルクス主義者であった。右翼的な思想と憲法改正に賛成する改憲思想を持っていた三重短期大学法経学科夜間学部の学生は、社会党右派と分党した民社党を支持していて、ケインズ経済学を専攻する民主社会主義者であった。
三重県立津実業高等学校(定時制)時代
- 敗戦の傷跡がまだ癒えていない1950年(昭和25年)に津実業高校の5期生として入学した。津実業高校の校舎の窓ガラスなどの基本設備がきちんと整備されていなかった。真冬の授業に耐えるために窓枠に新聞紙を貼って寒風を防いだ事を国会議員時代になるまで記憶していた。高校時代に職場で丸1日働いてから学校へ自転車で駆けつけるのが一日の生活で、学生食堂へすっ飛んでいてコッペパンやアンパンをほおばりながら脱脂粉乳で作った温かいミルクを流し飲んで空腹を満たすのが楽しみだった。勉強の方が意外と真面目で、卒業すれば新たな職業を探そうと考えていた事情があり学習意欲があった。[7]
- 一流大学を中心に大部分が大卒となっている高学歴な国会議員の中で、全日制(昼間)の高校出身ではない、数少ない定時制高校出身の国会議員であった。
日本社会党時代
1983年(昭和58年)12月18日の初当選をした第37回衆議院議員総選挙では、候補者であり自分の名前「伊藤忠治」を覚えてもらうのから取り組み、全電通労組の組織力と15歳から働いてきた真面目な勤労者のイメージが好感を呼び十万票(108062票)の大台にのせてトップ当選する。総務委員会に所属した。
1986年(昭和61年)7月6日の衆参ダブル選挙は社会党に逆風が吹いていたが、同時に民社党の中井洽にも逆風が吹き、伊藤忠治が最下位(5位)で90204票を獲得して滑り込み当選、中井洽が落選する。1990年(平成2年)2月18日の総選挙は消費税を争点に、消費税解散で第39回衆議院議員総選挙が行われて、土井たか子委員長のもと社会党ブームで風が吹き119582票を獲得してトップ当選する強さだった。
1992年(平成4年)のPKO法案の決議に護憲を掲げた日本社会党が「戦争に繋がる」と反対した際に、日本社会党の執行部は、対抗措置として日本社会党所属の衆議院議員全員で伊藤忠治は他の議員と共に「議員辞職願」を提出した。
1993年(平成5年)に日本社会党の書記長人事があり、党内改革派として日本社会党の再建を期待されていた伊藤忠治は副書記長から格上げされる形で書記長候補となるが、党内に政治改革を主張する伊藤忠治の書記長就任に反対する議員がいて、この時1993年(平成5年)の55年体制最後となる日本社会党の書記長人事は混乱して書記長就任が断念された。結局山花貞夫委員長は赤松広隆を書記長に抜擢する。1993年(平成5年)5月に大前研一が結成した平成維新の会の研究会をまず井上一成議員・川島實議員に呼びかけて、その後平成維新の会の勉強会を日本社会党内に呼びかけて参加議員20名を得る。1993年(平成5年)6月には、日本社会党の政策集団として平成フォーラムを結成して伊藤忠治が代表者に就任する。
引退時の記者会見で1993年(平成5年)の落選時、トップ当選2回の実績から、伊藤忠治は大丈夫とマスコミに当確を言われて、安心しきっていたことを振り返っている。日本社会党の特に伊藤忠治の出身組織である全電通労組の組織力の強さを脅威と考えていて、労働組合は社会主義を支援する組織であると警戒して、中曽根康弘首相は新自由主義政策で国鉄からJRグループへの国鉄分割民営化、日本専売公社のJTへの民営化、日本電信電話公社のNTTへの民営化を行って弱体化させようとした。伊藤忠治を中心に3公社民営化に反対したが、結果労組は弱体化して1986年(昭和61年)の第38回衆議院議員総選挙で社会党は敗北したが、伊藤忠治は当選。
1993年(平成5年)7月18日の日本社会党が大敗した選挙では、津市内にあるNTT三重体育館の婦人バレーボール大会(NTT主催)に出席して、「日本政治のベルリンの壁が壊れた。今、政治が変わらなければ世界の笑いものになる」と主婦たち約300人に訴えた。落選の危機感から政治改革派の議員としてアピールする作戦にして、衆議院選挙のキャッチフレーズを「改革する男」とした。自身の日本社会党労組は稼動せず無党派層の支持票が岡田克也に票を奪われ、88317票の6位で落選をした。
当選後から大衆政治家として庶民に日の当たる政治を実行している。好物はうどん(特に地元三重県の伊勢うどん)で三重県内のおいしい店に詳しく庶民らしい大衆政治家である。
中選挙区の三重1区は日本社会党が社会党左派・社会党右派の両派が統一されてからずっと議席を守ってきた安全圏であった。1993年(平成5年)東京都議会議員選挙の日本社会党敗北の直後の第40回衆議院議員総選挙でも逆風が吹いている事は実感していたが、最低でも滑り込み当選ができると思っていた。その後の引退会見で、日本新党の推薦候補となったのが中井洽だった。日本新党と民社党との関係を強調して無党派層の支持をえた中井洽が頑張っていた。自分は安心していたので最後の議席争いに負けてしまったと振り返っている。1993年(平成5年)に実施された第40回衆議院議員総選挙の日本社会党候補の中では東海地方で唯一の落選者となり、日本社会党の副書記長に就任していた日本社会党の幹部で党内改革派として活躍していた伊藤忠治の落選は日本社会党が大敗した事の典型な結果であった。
落選後 民主党時代
1995年(平成7年)の三重県知事選挙では、自由民主党と日本社会党が推す候補の尾崎彪夫ではなくて(新進党・新党さきがけ・公明党)推薦候補の北川正恭を支持した。この事が日本社会党内に伊藤忠治への反発を生み、日本社会党執行部と対立した事で自ら三重県本部委員長を当然辞職して、日本社会党が党公認候補の申請決定を白紙撤回する事態を招く。厳重注意処分となったが日本社会党執行部と対立した事から日本社会党を離党した。
民主リベラル勢力の結集を目指して、日本社会党を離党して民主党結成に加わり、伊藤忠治は新党の上げ潮ブームを期待して、「民主党三重」を旗揚げする。三重2区の候補者から東海比例区の単独候補となり、当時の菅直人(民主党代表)同じ三重県出身の岡田克也(民主党幹事長と民主党三重県連合)から打診され三重4区の鞍替え候補者となり、東海比例区で名簿が第1位で優遇されて当選する。三重2区から旧民主党から立候補時、古巣の社民党とその連立相手である新党さきがけと自民党の推薦をもらい支援をうけたが、自由民主党支援者から「あんたはずっと敵だったから鬼みたいに恐ろしい顔だと思っていたがそうでもないね」と言われた。
後継者の指名と選定は三重短期大学法経科2部の後輩である森本哲生三重県議会議員(松阪市・飯南郡選出)とその後津市長となった、松田直久三重県議会議員(一志郡選出)を協議させた後、森本哲生三重県議を自身の後継者に指名した。伊藤忠治は総選挙対策長として、森本哲生を「哲ちゃんの山を築かせて下さい、哲ちゃんの花を咲かせてください」と応援して、民主党はこの時の衆議院議員選挙で大敗したが、日本共産党の候補樹立断念と三重短期大学同窓会の応援もあり自身の後継者である衆議院議員候補の比例東海ブロックでの復活当選を成功させた。
三重4区は久居市と一志郡以外縁もゆかりもない選挙区であった。相手候補田村憲久の地盤が強くて民主党支援者に聞いても「小選挙区で勝つのは無理だろう」「ならどの選挙区なら勝てるのか」と聞いてもいい答えが返らなかった。田村憲久は「伊藤さんはベテランの議員で気がぬけない」とコメントをした。民主党の岡田克也代表は郵政族で官公労組出身の伊藤忠治に配慮して郵政民営化法案に賛成しにくかった。郵政解散前に自民党の野田聖子など郵政民営化反対派は伊藤忠治など民主党郵政族との連携を模索した。最後の議員活動は小泉内閣の郵政民営化反対討論であった。
2005年(平成17年)に津市のセンターパレスで『伊藤忠治先生感謝の会』が開催された。横路孝弘・赤松広隆・野呂昭彦・中井洽・中川正春・森本哲生衆議院議員と高橋千秋・芝博一参議院議員と連合三重の千田会長など三重県内を中心に日本全国の政界・経済界・労働界の主要人物が集合した。民主党が導入した70歳定年制で70歳の定年を機に次の衆議院議員選挙に出馬しない意思があった。1993年(平成5年)に第40回衆議院議員総選挙で落選していて、1993年(平成5年)から~1996年(平成8年)の期間に与党であった日本社会党の議員として非自民・非共産連立政権の細川内閣・羽田内閣と自社さ連立政権の村山内閣に参加せず与党経験が一度もない野党一筋であったことを誇りにしていた。
自身が公表した伝記の一種である(津実業高等学校の50周年記念誌に記述された夜間部の学生時代のエピソード)の細かい情報と国会議員になった(政治家時代のエピソード)の政治情報などでは伊藤忠治に関係する文献は多いが、子供時代の(戦時中のエピソード)と日本電信電話公社の(公務員・サラリーマン時代のエピソード)の情報や文献は少ないので伊藤忠治についての年譜では子供時代と公務員時代の細かい生活が不明であり、この時期の人生については本人による公表はされていない。学生時代の就職と政治家当選が転機となり、伊藤忠治の人生は(第一期の子供時代・第三期の公務員時代・第五期政界の引退後)は平凡だが、(第二期の学生時代・第四期の政治家時代)は激動の時期だった。1993年(平成5年)の第40回衆議院議員総選挙の落選がなければ、自社さ連立政権と非自民・非共産連立政権など与党時代の郵政大臣などの閣僚や日本社会党の幹部になっていた可能性が強かった。
マスコミの記事
父が事業に失敗した事で貧困家庭となり、少年時代に昼間の学校に進学する事を断念して夜間学校に通いながら仕事をしてきた事と、発生障害のどもり(吃音)を克服したことなど田中角栄と伊藤忠治の経歴には共通点が多く、新聞記者たちの関心が高かった。「金の卵」として(夜間学校)定時制高校と津市立三重短期大学法経学科の夜間学部に通学した勤労学生であった事が、政治家として新聞記者などマスコミから関心や興味があった。日本社会党議員で田中角栄の人生に似ている政治家であり日本社会党の田中角栄とも云われる政治家である。田中角栄のように一生懸命努力した政治家で、勉強や仕事で若い時期に苦労をした人物が政治家になった。
政治信条
政治家になったきっかけ
- 経済的不公平をなくす正義感からで、自身が家庭の経済的な理由で昼間の高校(高等学校)と大学(短期大学)ではなく、夜間の高校(高等学校)と大学(短期大学)で働きながら学んだ労働者で苦学生や勤労学生であった事から、経済的不平等をなくさなくてはならない、経済的弱者、それによる教育が受けられない、弱いものの味方のため、政治家になった事をモットーとする、庶民政治家である。三重県の国会議員で田口一男→伊藤忠治→森本哲生の政治家系図は非世襲議員で非大学卒の庶民派の議員である。急死した同じ三重県労組の先輩田口一男議員の無念を晴らすため日本社会党の後継者になる事を決意した。
青年時代の人間性と人間関係
- 伊藤家は裕福な実業家だったが、戦後の混乱で伊藤忠治の父親が事業に失敗した。その事で自営業者(中小実業家)から貧しい労働者階級として働きながら夜間学校に通わざるを得なかった経済的階級転落を経験している。菅直人とは伊藤忠治が日本社会党時代、菅直人が社会民主連合時代からの親しいおいこらの仲である。落選中に社会民主党三重県連の代表に就任して、三重県では日本社会党当選者で最後の国会議員となった。アメリカ合衆国に憧れる、アメリカ音楽をする若者。女性に持てようとする女性にやさしいアメリカ人的な若者だった。
思想
支持層
- 日本教職員組合や日本国憲法改正に反対する護憲思想を持つ左翼思想者が支持者であった。
- 電電公社に勤務する公務員の全電通労組(全国電気通信労働組合)が支持母体で民営化後がNTTなど通信系の労働組合で組織する情報労連(情報産業労働組合連合会)を中心とする労働組合員が支持者である。労働者階級である勤労者を中心に、貧乏人に味方する政治家「伊藤忠治」として社会主義者の支持があった。左翼的思想より貧困に反対する社会主義者であり、郵政省や総務省関係の問題を専門とする郵政族であり、国営企業の問題に詳しい政治家であった。
社会主義思想を持った理由
- 三重短大入学の頃(20歳頃)日本社会党に入党した。若者として社会主義思想を持ったのは、中学生の頃家業の家具製造が傾き、昼間の学校に行きたかった、もっと勉強がしたかった、進学がしたい人間や勉強がしたい人間がなぜできないのか、両親も昼夜働いているのに、一向に貧乏である、なぜなのか。貧困問題を政治の力で解決するのは日本社会党と労組である。自身が貧困家庭で働きながら学費を稼ぎ、夜間(定時制)高校と公立短期大学の夜間部で学んだ苦学生である事から、真面目に勉強せずに働かなかったり、非行行為をする現在の定時制の高校生を否定している。母校の津実業高校が総合学科のみえ夢学園高等学校に新しく変わるのは認めるが、本来は不登校児やカルチャースクール(文化学校・趣味学校)ではなくて労働者の学校であると文集で述べている。学費が日本一安い公立の津市立三重短期大学夜間部の出身であることから、現在の高い学費を払いながら勉強しない私立大学の学生を批判している。平和憲法や人権や北朝鮮問題や国旗国歌法などの左翼政策は形式的には賛成したが左翼思想より社会主義を第一とする、強い社会主義思想の持ち主である。野党であった民主党で郵政問題に詳しい族議員であった。郵政族として野党の民主党内で、日本郵政公社労働組合の組織内候補である衆議院議員・参議院議員を中心に「公社を発展させる民主党議員の会」2004年(平成16年)9月6日設立の会長に伊藤忠治が就任して議員数91名)が結成されて、小泉内閣が提出した郵政民営化法案潰しに呼応した。
参考
選挙における支持層
- 三重4区で伊藤忠治は51168票を獲得して比例復活をした。伊勢新聞や大手新聞が地元三重県版の選挙特集として、三重4区で実施した世論調査によると、男性は高支持率の反面、女性は低支持率であった。男性だけでは田村憲久と互角の五分の勝負をしていたが、女性は田村憲久が約8割(比率では80%)伊藤忠治約2割(比率では20%)と4倍近くの支持率の差をつけられた。働いている勤労者層(労働組合員である労働者)の男性は伊藤忠治の支持層に、働いていない専業主婦や高齢者女性は田村憲久の支持層が多かった。有権者の約3割(比率では30%)の勤労者層が支持層なので中選挙区制に強いが小選挙区制では勝利できない。学歴の価値は、戦後期の昭和一桁世代の高校進学率は約半分(50%)2分の1で中学校の学級編成で高校進学組と就職組に分けられて、今では低学歴と思われる定時制高校も現在の大学と同じレベル(中流の学歴価値)であった。大学と短期大学の高等教育の進学率は約1割で比率では10%(全体の10分の1)であり、短期大学卒業の学歴(津市立三重短期大学)は、当時の昭和20年代の戦後期ではエリートだった。
- 三重2区で伊藤忠治は55516票を獲得して比例復活をした。三重2区での中川正春との勝敗の鍵は創価学会(合併して新進党となり、坂口力を支持していた旧公明党)の組織票だった。対立候補の中川正春には、以下の政党の支持層が支持した。
- 旧三重1区の中選挙区制時代に鈴鹿市を地盤としていた北川正恭の後継者としての票
- 旧民社党所属の中井洽の(全日本労働総同盟などの社会党右派と民社党系列の同盟労組票)
- 旧新生党出身の岡田克也を支持するジャスコ系の保守票
- 以上の政党の支持層が中川正春候補を支援した。
- 一方、伊藤忠治を支持したのは、以下の政党の支持層である。
- それぞれ(中川正春候補と伊藤忠治候補)の支持層となった。
- 旧三重1区の中選挙区時代の坂口力を支持する創価学会の組織票が、新人候補の中川正春を支持した事で勝利した。1996年(平成8年)の三重2区の投票率は伊藤忠治は津市の出身者で、中川正春は松阪市出身者であり、選挙区である地元三重2区(鈴鹿市)以外のよそ者であった事と、自民党が候補者を見送った事で自由民主党支持者の投票率が下がり、三重県内の5つの選挙区で一番低い投票率を記録した。
学歴の価値
- 津市は、四日市市が三重県で一番の工業都市を目指して、四日市コンビナートを誘致するなど高度経済成長をする政策をとったのとは異なり、「文部都市の津市」「教育都市の津市」「文化都市の津市」を目指す文教政策として、前身が津市立として設置された津実業高等学校(現在の三重県立みえ夢学園高等学校)と、津市立の公立短大として設置された三重短期大学法経学科(夜間学部)を勤労者対象に創設した。
英国視察
- 伊藤忠治は、国会議員として1999年(平成11年)5月2日(伊藤忠治議員の65歳の誕生日)から1999年(平成11年)5月6日までの4日間でイギリスに行き英国議会を視察をした。自由民主党の2名(大島理森団長と熊代昭彦)と民主党2名(伊藤忠治副団長と島聡)と公明党・改革クラブの東順治と自由党の井上喜一と日本共産党の東中光雄と社会民主党の深田肇の8名の国会議員団で実質3日の短い期間で「政府委員制度廃止・副大臣制度導入」の参考とするため「衆議院英国副大臣制及び議会制度実情調査議員団」8名の1人に指名されて、生き生きと過熱した討論のブレア(英国首相)とヘイグ(野党の保守党の党首)のディベートに感銘した。
戦後政治史の人物として
- バブル期の中曽根康弘首相と平成時代(21世紀の2000年代)に小泉純一郎首相が新自由主義政策を推進した。自由民主党政権での新自由主義者が行った行政改革の公共部門である公社の民営化に反対した社会主義者としての歴史的意義がある。伊藤忠治が2005年(平成17年にの政界を引退した事で民主党は有力な郵政族を失い郵政民営化に反対する主力議員が消えた。戦後の金の卵と呼ばれた中卒・高卒労働者や、夜間学校である定時制高校や夜間大学である2部に学ぶ勤労者学生の人生と昭和時代戦前期生まれ世代(昭和一桁世代と焼け跡世代)の庶民層が歩んだ人生を送りその代表的な人物として政治家になった人物である。日本社会党所属の労組出身者を代表する人物である。
参考文献
- 「日本政治史に残る三重県選出国会議員」(著者)廣新二。出版年は1985年(昭和60年)三重県選出日本社会党議員の「伊藤忠治」の項目。
- (日本社会党時代の記述)伊勢新聞掲載の1983年(昭和58年)の第37回衆議院議員総選挙の記事。
- (日本社会党時代の記述) 伊勢新聞掲載の1990年(平成2年)の第39回衆議院議員総選挙の記事。
- (日本社会党時代の記述)伊勢新聞掲載の1993年(平成5年)の第40回衆議院議員総選挙の記事。
- (落選後民主党時代の記述)伊勢新聞掲載の1996年(平成8年)の第41回衆議院議員総選挙の記事。
- (落選後民主党時代の記述)伊勢新聞掲載の2000年(平成12年)の第42回衆議院議員総選挙の記事。
- (落選後民主党時代の記述)伊勢新聞掲載の2003年(平成15年)の第43回衆議院議員総選挙における候補者の紹介記事。
関連項目
- 三重短期大学の人物一覧(伊藤忠治の出身公立短大)
- 吃音症(伊藤忠治は、少年時代にドモと呼ばれた発声障害だった)
- 三重県立みえ夢学園高等学校(前身である津実業高等学校を卒業した)
- 昭和一桁世代(この世代の代表的人物である)
- 情報産業労働組合連合会(伊藤忠治を支持する出身労組)
- 郵政省(伊藤忠治は代表的な郵政族であった)
- 田口一男(三重県第1区選出の日本社会党左派の先輩国会議員)
- 中井徳次郎(三重県第1区選出の日本社会党右派の先輩国会議員)
- 小林正美(三重県第1区選出の日本社会党の先輩国会議員)
- 小林ちづ(三重県第1区選出の日本社会党の先輩女性国会議員)
脚注
- ^ 「日本政治史に残る三重県選出国会議員」の309ページの記述。(著者)廣新二。出版年は1985年(昭和60年)三重県選出日本社会党議員の「伊藤忠治」の項目。
- ^ 伊藤忠治氏死去(元民主党衆院議員) 時事ドットコム 2013年5月20日
- ^ 第126回国会 衆議院 法務委員会 11号
- ^ a b “衆議院議員選挙031109の当選者の回答”. 「子どもに無煙環境を」推進協議会 (2003年11月10日). 2020年11月10日閲覧。
- ^ 国会議員署名これまでと今後の展望 - 空港はいらない静岡県民の会(2009年3月7日時点のアーカイブ)
- ^ 『伊勢年鑑2013年発行』平成25年度版の政治家紹介記事の797頁
- ^ 三重県立津実業高等学校(現在の三重県立みえ夢学園高等学校)50周年記念誌の「ともしび」68ページ
- ^ 平成9年の津実業高校記念式典での本人談では、高校時代に職場で丸1日働いてから学校へ自転車で駆けつけるのが一日の生活で、学生食堂へすっ飛んでいてコッペパンやアンパンをほおばりながら脱脂粉乳で作った温かいミルクを流し飲んで空腹を満たすのが楽しみだった。発声障害のひどいドモ(吃音)だった。た行のタ・チ・ツ・テ・トから始まる言葉はドモって発言できなかったと語っている。
- ^ 津実業高校2年生の3学期のときに、鈴鹿電気通信学園の募集をしていて、親友にその事を尋ねたら今日が締切で、消印が1日違っても受け付けてくれるかもしれないと思い投函したら受付が許可されて、20倍以上の競争率でまさか合格するわけないと思ったが合格して、学園では通信業務の訓練が10ヵ月あり、卒業後は津電報局に配属された。