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** (婚族)大築壽天(すて) - 陸軍軍人[[大築尚志]]の六女(1874年-1937年)。1893年に結婚。[[北青山]]に約1000坪の本邸があり、隣に[[中島久万吉]]邸、向かいに[[川村景明]]邸があった。<ref name=takeuchi>『「家系図」と「お屋敷」で読み解く歴代総理大臣 昭和・平成篇』竹内正浩、実業之日本社, 2017/07/25、「田中義一」の章</ref> |
** (婚族)大築壽天(すて) - 陸軍軍人[[大築尚志]]の六女(1874年-1937年)。1893年に結婚。[[北青山]]に約1000坪の本邸があり、隣に[[中島久万吉]]邸、向かいに[[川村景明]]邸があった。<ref name=takeuchi>『「家系図」と「お屋敷」で読み解く歴代総理大臣 昭和・平成篇』竹内正浩、実業之日本社, 2017/07/25、「田中義一」の章</ref> |
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** (婚外)出口ふみ - [[群馬県]][[藤岡町]]の川魚屋「富士川」の娘(1898年 - ?) 。[[五番町]]の別宅に住み、一男四女をもうける<ref name=takeuchi/>。 |
** (婚外)出口ふみ - [[群馬県]][[藤岡町]]の川魚屋「富士川」の娘(1898年 - ?) 。[[五番町]]の別宅に住み、一男四女をもうける<ref name=takeuchi/>。 |
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*** [[田中龍夫]] - 長男。[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員、[[山口県知事]]、[[衆議院議員]]、[[第1次岸内閣]]の官房副長官、[[第2次佐藤内閣]]の[[総理府総務長官]]、[[福田赳夫内閣]]の[[通商産業大臣|通産相]]、[[鈴木善幸内閣]]の[[文部大臣 |
*** [[田中龍夫]] - 長男。[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員、[[山口県知事]]、[[衆議院議員]]、[[第1次岸内閣]]の官房副長官、[[第2次佐藤内閣]]の[[総理府総務長官]]、[[福田赳夫内閣]]の[[通商産業大臣|通産相]]、[[鈴木善幸内閣]]の[[文部大臣|文相]]などを歴任。 |
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*** 田中登米子 - 三女 |
*** 田中登米子 - 三女 |
2020年12月30日 (水) 08:36時点における版
田中 義一 たなか ぎいち | |
---|---|
生年月日 |
元治元年6月22日 (1864年7月25日) |
出生地 |
日本 長門国阿武郡萩 (現:山口県萩市) |
没年月日 | 1929年9月29日(65歳没) |
死没地 | 日本 東京府 |
出身校 | 陸軍大学校卒業 |
前職 | 軍事参議官 |
所属政党 | 立憲政友会 |
称号 |
陸軍大将 正二位 勲一等旭日桐花大綬章 功三級金鵄勲章 男爵 |
配偶者 | 田中壽天 |
子女 | 田中龍夫(長男) |
親族 |
小澤太郎(娘婿) 小澤克介(孫) |
サイン | |
内閣 | 田中義一内閣 |
在任期間 | 1927年4月20日 - 1929年7月2日 |
天皇 | 昭和天皇 |
第42代 外務大臣(首相兼任) | |
内閣 | 田中義一内閣 |
在任期間 | 1927年4月20日 - 1929年7月2日 |
初代 拓務大臣(首相兼任) | |
内閣 | 田中義一内閣 |
在任期間 | 1929年6月10日 - 1929年7月2日 |
第45代 内務大臣(首相兼任) | |
内閣 | 田中義一内閣 |
在任期間 | 1928年5月4日 - 1928年5月23日 |
第30代 陸軍大臣 | |
内閣 | 第2次山本内閣 |
在任期間 | 1923年9月2日 - 1924年1月7日 |
その他の職歴 | |
第26代 陸軍大臣 (1918年9月20日 - 1921年6月9日) | |
貴族院議員 (1926年1月29日 - 1929年9月29日) | |
第5代 立憲政友会総裁 (1925年 - 1929年) |
田中 義一(たなか ぎいち、1864年7月25日〈元治元年6月22日〉- 1929年〈昭和4年〉9月29日)は、日本の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。勲等は勲一等。功級は功三級。爵位は男爵。
陸軍大臣、貴族院議員、内閣総理大臣(第26代)、外務大臣(第42代)、内務大臣(第45代)、拓務大臣(初代)などを歴任した。
生涯
生い立ち
萩藩士・田中信祐、みよの三男として元治元年6月22日(1864年7月25日)に長門国阿武郡萩(現:山口県萩市)にうまれた。父は藩主の御六尺(駕籠かき)をつとめる軽輩者の下級武士だったが、武術にすぐれた人物だったという[要出典]。13歳で萩の乱に参加。若い頃は村役場の職員や小学校の教員を務めた後、20歳で陸軍教導団に入る。
軍人として
陸軍士官学校(旧8期)、陸軍大学校(8期)を経る。日清戦争に従軍、その後ロシアに留学した。ロシア留学時代は正教に入信し、日曜毎に知り合いのロシア人を誘って教会へ礼拝に行くなど徹底したロシア研究に専念した。
また、地元の連隊に入隊して内部からロシア軍を調査した。このため、日露戦争前は陸軍屈指のロシア通と自負していた。長州閥の後ろ盾もあったが、軍人としては極めて有能であった。しかし、同時期ロシアに留学していた海軍の広瀬武夫と一緒に酒を飲むと強硬な開戦論を叫ぶなど、一本気で短絡的な性格であった。
日露戦争では満州軍参謀として総参謀長児玉源太郎のスタッフを務めた。戦後の1906年(明治39年)に提出した『随感雑録』が山縣有朋に評価されて、当時陸軍中佐ながら帝国国防方針の草案を作成した[1]。
1915年(大正4年)、参謀次長。原内閣、第2次山本内閣で陸軍大臣を務め、この時にマスコミの論調を陸軍にとって有利なものにしようと考えた事から、陸軍省内に新聞班を創設した。
1918年(大正7年)、田中は原内閣で陸軍大臣になったあと、男爵に叙され陸軍大将に進級するなど慶事が続いた。その一方で、シベリア出兵での様々な意見の対立や前線のコルチャークら白軍の敗北、さらには尼港事件への対応、主導していた第二次満蒙独立運動など激務に追われていた。さらに追い打ちをかけたのは、西原借款問題などで原内閣が帝国議会で轟々たる非難を浴びたことからくる心労が重なったことである。
1921年(大正10年)、狭心症に倒れ、6月9日に辞任して大磯での静養生活を余儀なくされた。大臣を辞めてしばらくすると原敬暗殺事件が起こったこともあり、回復してからも軍事参議官の閑職に留まるなど大事をとっていた。
政党政治家へ
将来は元帥ともいわれたが政界への転身を図り、1925年(大正14年)、高橋是清の後の政友会総裁に就任した。治安警察法により現役軍人は政治結社に加入できないため陸軍は退役している。
1924年(大正13年)の第2次護憲運動の際に立憲政友会は分裂して第1党の地位を失った。総裁であった高橋是清は辞意を表明して後任選びが始まった。だが、最有力候補であった横田千之助は分裂を惹き起こした当事者ということで辞退し、やむなく党外から総裁を迎え入れる話となった。
当初、伊東巳代治と田健治郎の名前が挙がったが、両者ともかつて内紛で政友会を追われた経緯があり、これを辞退した。次に官僚出身ながら国民の人気がある後藤新平を迎えようとしたものの、後藤はかつて関東大震災後に自分が立案した帝都復興計画を政友会の反対で潰された経緯からこれも拒否、唯一就任に応じたのが田中であった。
田中は就任の際、300万円の政治資金を持参金としたが、陸軍機密費から出たものではないかと他党から追及されている(陸軍機密費横領問題)。また、在郷軍人会を票集めに利用したとする疑惑もあった[注釈 1]。真相は不明であるが、在郷軍人会の育ての親である田中の政友会総裁就任及び対立する憲政会(後に立憲民政党)の軍縮政策が在郷軍人の投票行動に影響したのは間違いなく、高橋前総裁時代に出されていた軍部大臣の文官化論が就任直後の田中による「鶴の一声」で否定されるなど、党の政策が軍備強化・対外強硬路線へと転換する。
折りしも田中の総裁就任直前に、唯一の潜在的競争者であった横田千之助が死去したことにより、田中を阻む人物が党内からいなくなったことも大きかった。田中の政友会招聘を最終的に決めたのは横田であったが、星亨・西園寺公望・原敬らの側近であった横田は板垣退助の自由党以来の自由主義と伊藤博文の立憲主義を併せ持つ政友会本流の継承者であり、第2次護憲運動と大正デモクラシー・軍縮路線の有力な担い手であったからである。1926年(大正15年)1月28日、田中は貴族院勅選議員となった[2]。
さらに、田中の誘いで政友会に入党した人物も、それまでの政友会とは異質な人々であった。鈴木喜三郎は国粋主義者として名高い平沼騏一郎(後の大審院長・枢密院議長・首相)が寵愛する司法官僚で自由主義を敵視していた人物であり、久原房之助は田中自身の出身母体である陸軍長州閥と結んでいた政商であった。やがて成立した田中内閣では、鈴木が内務大臣、同じく平沼系とされる弁護士の原嘉道が司法大臣に抜擢され、さらに鉄道大臣に小川平吉、外務政務次官に森恪(外相は田中の兼務)、内閣書記官長に鳩山一郎が任じられた。3人とも政友会の古参であるが、小川と森は国粋主義者として知られ、鳩山は鈴木の義弟で協力者であった。
2度の護憲運動や大正デモクラシーで活躍した政友会の古参幹部も閣僚には任じられたが、重要ポストからは外された。当時、青年政客として名を馳せていた肥田琢司に政治活動の協力を求め、第四代朝鮮総督の人選では肥田の推薦により山梨半造を任命した。
鈴木・原によって治安警察法が強化され、森・小川によって軍部と連携して中国への積極的な進出策が図られるなど、護憲運動などでかつて政友会が勝ち取った成果を否定する政策が採られた。もっとも、憲政会→民政党がリベラルな人々の支持を集めていく中で、これに代わる支持基盤をより保守的な人々に求めることで新たな支持層を開拓して、その受け皿になろうとした努力の現われとも考えることも可能である。こうした政策と第16回衆議院議員総選挙で鈴木が画策した選挙干渉によって、党勢は回復したものの、政友会はかつての自由主義政党とは離れた親軍的な保守政党に変質していくことになる。
田中の没後に起きた統帥権干犯問題における政友会と軍部の連携も、単に立憲民政党への対抗というよりも政友会の変質に伴う「親軍化・右傾化」現象の反映であった。その後も短期の犬養毅総裁を経て、鈴木喜三郎・久原房之助・中島知久平(久原と同じ軍需関連の政商)と、親軍派あるいは国粋主義派な総裁が同党の分裂・解党まで継続されることになる。
田中義一内閣
1927年(昭和2年)3月、第1次若槻内閣のもとで全国各地の銀行で取り付け騒ぎが起こった(昭和金融恐慌)。若槻内閣は同年4月17日に総辞職し、代わって立憲政友会総裁の田中が4月20日に組閣した。田中内閣には元総理や次の総理を狙う大物政治家、そして将来の総理や枢密院議長などが肩を寄せ合い、大物揃いの内閣となった。
- 内閣の主な顔ぶれ
- 外務大臣:田中義一(兼任)
- 内務大臣:鈴木喜三郎 → 後に政友会総裁
- 大蔵大臣:高橋是清 → 元政友会総裁・内閣総理大臣
- 陸軍大臣:白川義則
- 海軍大臣:岡田啓介 → 後に内閣総理大臣
- 司法大臣:原嘉道 → 後に枢密院議長
- 文部大臣:三土忠造 → 後に政友会正統派総裁代行委員のひとり
- 商工大臣:中橋徳五郎
- 逓信大臣:久原房之助 → 後に政友会正統派総裁
- 鉄道大臣:小川平吉
- 法制局長官:前田米蔵 → 後に翼賛政治会筆頭総務
- 内閣書記官長:鳩山一郎 → 後に自由党(政友会正統派の流れを汲む)総裁、民主党総裁、内閣総理大臣
蔵相に起用された高橋是清は全国でモラトリアム(支払猶予令)を実施し、金融恐慌を沈静化した。
積極外交
田中内閣は憲政会政権下で行われてきた幣原喜重郎らによる協調外交方針を転換し、積極外交に路線変更した。田中は外務大臣を兼任し、対中積極論者の森恪を外務政務次官に起用して、「お前が大臣になったつもりでやってくれ」と実務の全てをまかせていた。森は事実上の外相として辣腕を振るい、山東出兵や東方会議の開催、張作霖に対する圧迫などといった対中強硬外交が展開されるが、ある程度の協調が望ましいとする田中と、あくまでも積極的な外交をよしとする森は、やがて対立するようになる。そこに事務方の外務次官としてやってきた[注釈 2]のが、奉天総領事をつとめ、中国問題に詳しいと自負していた吉田茂であった。
普通選挙
1928年(昭和3年)2月に第1回普通選挙が行われ、社会主義的な活動が目だったことから、同年3月に全国の社会主義者、共産主義者を一斉に検挙した(三・一五事件)。この選挙後に、人事のもつれから辞意を表明した閣僚を昭和天皇に慰留させ、天皇を政局に利用したと批判され(水野文相優諚問題)、貴族院は異例の田中首相問責決議を可決した。
張作霖爆殺事件
同年に起きた張作霖爆殺事件に際して、国際的な信用を保つために容疑者を軍法会議によって厳罰に処すべきと主張し、その旨を天皇にも奏上したが、陸軍の強い反対に遭ったため果たせなかった。
このことを野党に批判され、立憲民政党の中野正剛は尼港事件の際に田中が「断じて臣節を全うす」と称して陸軍大臣の職を辞したことは国務大臣として責を負うた適例であったが、済南事件の責任を福田司令官に帰し、満洲事件を村岡司令官に帰したことは厚顔無恥であるとした[3]。この批判に対して田中は「この如き事に責任を負うたら総理大臣は何万居っても足らぬ」と豪語したところ[3]、中野は「政略出兵の責任を軍部に転嫁するような総理大臣がいたら日本帝国の国軍は何百万人居っても足らないこととなる」とさらに糾弾した[3]。
軍法会議によって容疑者を厳罰に処すべきと主張していたにもかかわらず、1929年(昭和4年)6月27日に田中は、関東軍は張作霖爆殺事件とは無関係であったと昭和天皇(以下「天皇」)に奏上したところ、天皇は「お前の最初に言ったことと違うじゃないか」と田中を直接詰問した。このあと奥に入った天皇は鈴木貫太郎侍従長に対して、「田中総理の言ふことはちつとも判らぬ。再びきくことは自分は厭だ」[4]との旨を述べたが、これを鈴木が田中に伝えてしまったところ、田中は涙を流して恐懼し、7月2日に内閣総辞職した。
総辞職後
狭心症の既往があった田中に、張作霖爆殺事件で天皇の不興を買ったことはやはり堪えた。退任後の田中は、あまり人前に出ることもなく塞ぎがちだったという。内閣総辞職から3ヵ月もたたない1929年(昭和4年)9月28日、田中は貴族院議員当選祝賀会に主賓として出席するが、見るからに元気がなかった。
そして翌29日午前6時、田中は急性の狭心症により死去した[注釈 3][5]。65歳没。田中の死により、幕末期より勢力を保ち続けた長州閥の流れは完全に途絶えることになった。
昭和天皇は、田中を叱責したことが内閣総辞職につながったばかりか、死に追いやる結果にもなったかもしれないということに責任を痛感し、以後は政府の方針に不満があっても口を挟まないことを決意した[注釈 4]。
エピソード
政治家としては厳しい評価の田中であるが、性格は気さくだった。そのことを示すエピソードがある。
- 田中が政友会総裁として遊説中、ある人物が田中に語りかけてきた。田中は「おう、ところで、親父さんは元気でやっとるかね」と言い、その人物は「はい、おかげさまで」と返した。その場を離れてしばらくして、田中の側近が「総裁とあの御人はどういう関係なのですか?」と尋ねると「いや、全く知らん奴だよ」と田中は答えた。唖然とする側近に向かって田中は「どんな人間だって父親はいるだろう。その父親の体調を気遣ったまでさ」と笑いながら言ったという。
- 田中内閣が発足したのち、内閣書記官長の鳩山一郎は、当時流行りはじめたゴルフに夢中になり、閣議を欠席するほどだった。他の閣僚が田中に苦言を呈したが、田中は「そうか、ゴルフちゅうもうんは、そげん面白いもんかのう」と言って、鳩山には何も注意しなかった。
- 対中国積極外交を主張する奉天総領事時代の吉田茂は、外務次官のポストを得ようとしたが、田中内閣に拒絶され、スウェーデン大使となった。吉田は首相官邸に行き、田中に長時間にわたり次官の自己推薦を行った。その間、田中はひどくつまらなそうに吉田の話を聞いていた。吉田は「これで次官は棒に振ってしまったが、せいせいした」とスウェーデンに発つ準備をしていた数日後、田中から電話があり「ところで吉田君、次官になってもらうよ、まさか異論はないだろうね」といわれ、吉田は次官就任を快諾した。
- タレントのタモリは自分の名前が田中義一から取られていることを明かしている[6]。
親族
- 田中信祐 - 萩藩士
- (婚族)みよ
- 田中義一 - 内閣総理大臣(1929年)
- (婚族)大築壽天(すて) - 陸軍軍人大築尚志の六女(1874年-1937年)。1893年に結婚。北青山に約1000坪の本邸があり、隣に中島久万吉邸、向かいに川村景明邸があった。[7]
- (婚外)出口ふみ - 群馬県藤岡町の川魚屋「富士川」の娘(1898年 - ?) 。五番町の別宅に住み、一男四女をもうける[7]。
栄典
- 位階
- 1886年(明治19年)11月27日 - 正八位[8]
- 1892年(明治25年)1月27日 - 従七位[8]
- 1895年(明治28年)3月14日 - 正七位[8]
- 1900年(明治33年)4月30日 - 従六位[8]
- 1904年(明治37年)10月24日 - 正六位[8]
- 1907年(明治40年)12月27日 - 従五位[8][9]
- 1911年(明治44年)2月10日 - 正五位[8]
- 1915年(大正4年)10月20日 - 従四位[8][10]
- 1918年(大正7年)10月10日 - 正四位[8][11]
- 1920年(大正9年)10月20日 - 従三位[8]
- 1924年(大正13年)2月15日 - 正三位[8][12]
- 1925年(大正14年)5月15日 - 従二位[13]
- 1929年(昭和4年)9月29日 - 正二位[14]
- 勲章等
- 1895年(明治28年)11月18日 - 明治二十七八年従軍記章[15]
- 1906年(明治35年)4月1日 - 功三級金鵄勲章[16]
- 1912年(大正元年)8月1日 - 韓国併合記念章[17]
- 1915年(大正4年)11月10日 - 大礼記念章[18]
- 1918年(大正7年)9月29日 - 勲一等瑞宝章[19]
- 1920年(大正9年)9月7日 - 男爵・旭日大綬章[20]
- 1921年(大正10年)7月1日 - 第一回国勢調査記念章[21]
- 1929年(昭和4年)9月29日 - 旭日桐花大綬章[22]・帝都復興記念章[23]
- 外国勲章佩用允許
- 1914年(大正3年)9月18日 - ブルガリア王国:神聖アレキサンダル第二等勲章[24]
- 1918年(大正7年)3月28日 - 支那共和国:二等文虎勲章[25]
- 1927年(昭和2年)10月5日 - ポーランド共和国:オドロゼニアポルスキー勲章グランクロア[26]
- 1929年(昭和4年)7月29日 - デンマーク王国:ダンネブロ勲章グランクロア[27]
- 1929年(昭和4年)9月28日 - イギリス帝国:聖マイケル・聖ジョージ勲章ナイトグランドクロス[28]
関連項目
- 田中上奏文
- 田中義一内閣
- オラガビール(寿屋がかつて発売したビール)
- 「オラが(俺が)」は田中の口ぐせで「おらが総理」と呼ばれた。
- 落語家の雷門福助は田中義一が陸軍大臣時代に運転手の助手を務めていた。
- 蜷川新
- 国民精神総動員中央連盟
- タモリ [29]。
脚注
注釈
- ^ 『田中義一伝記』などはこれを否定するが、古島一雄の回想録によれば、軍人出身の田中がどこから票を集めるのかと問い質したところ、「俺は在郷軍人300万を持っている」と応えたと記していること、また政友会総裁就任に伴う和歌山県での在郷軍人会副会長退任演説で政友会が主張していた両税委譲の必要性を説くなど、遠回しに政友会へ支援を求める発言も行っている。
- ^ 当初は前内閣が任じた出淵勝次次官が留任していた。
- ^ 田中が死亡したのが別宅であったことから、妾宅で腹上死したのではないかという憶測がある[要出典]。『田中義一伝記』によるとこの女性は、入籍はしていないが田中を長年支えてきた女性であるという。
- ^ 「この事件あつて以来、私は内閣の上奏する所のものは仮令自分が反対の意見を持つてゐても裁可を与へることに決心した」『昭和天皇独白録』(文藝春秋、1995年(平成7年))
出典
- ^ 岩波新書編集部編『日本の近現代史をどう見るか』2010年2月 67頁 (第3章「日清・日露戦争は日本の何を変えたのか」原田敬一) 岩波新書
- ^ 望月和彦「大正デモクラシー期における政界再編」2010年3月(『桃山法学 15』)
- ^ a b c 中野正剛『國民に訴ふ 中野正剛大演説集』平凡社、1929年4月5日、201頁。
- ^ 以上いずれも、原田熊雄著『西園寺公と政局 第一巻』岩波書店、1950年。
- ^ これとは別に、自殺(切腹)死説がある。
- ^ “タモリ、本名の由来に驚きの声「不思議なご縁」”. ザテレビジョン (2018年5月27日). 2018年6月30日閲覧。
- ^ a b c 『「家系図」と「お屋敷」で読み解く歴代総理大臣 昭和・平成篇』竹内正浩、実業之日本社, 2017/07/25、「田中義一」の章
- ^ a b c d e f g h i j k 「陸軍大将男爵田中義一特旨叙位ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A11113507600
- ^ 『官報』第7352号「叙任及辞令」1907年12月28日。
- ^ 『官報』第967号「叙任及辞令」1915年10月21日。
- ^ 『官報』第1858号「叙任及辞令」1918年10月11日。
- ^ 『官報』第3443号「叙任及辞令」1924年2月18日。
- ^ 『官報』第3858号「叙任及辞令」1925年7月3日。
- ^ 『官報』第828号「叙任及辞令」1929年10月1日。
- ^ 『官報』第3862号・付録「辞令」1896年5月16日。
- ^ 中野文庫 旧・金鵄勲章受章者一覧
- ^ 『官報』第205号・付録「辞令」1913年4月9日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『官報』第1850号「叙任及辞令」1918年10月2日。
- ^ 『官報』第2431号「叙任及辞令」1920年9月8日。
- ^ 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。
- ^ 『官報』第828号「叙任及辞令」1929年10月1日。
- ^ 『官報』第1499号・付録「辞令二」1931年12月28日。
- ^ 『官報』第644号「叙任及辞令」1914年9月22日。
- ^ 『官報』第1695号「叙任及辞令」1918年3月30日。
- ^ 『官報』第235号「叙任及辞令」1927年10月8日。
- ^ 『官報』第777号「叙任及辞令」1929年8月1日。
- ^ 『官報』第828号「叙任及辞令」1929年10月1日。
- ^ “タモリ、本名の由来に驚きの声「不思議なご縁」”. ザテレビジョン (2018年5月27日). 2018年6月30日閲覧。
参考文献
史料
- “総動員計画設定処務要綱案”. 田中義一内閣 (1929年6月18日). 2018年8月26日閲覧。
- “国民精神総動員実施要綱”. 第1次近衛内閣 (1937年8月24日). 2018年8月26日閲覧。
- “国民精神総動員強化方策”. 平沼内閣 (1939年2月9日). 2018年8月26日閲覧。
- 迪宮裕仁(1939年)『国民精神総動員委員会官制 御署名原本(昭和14年勅令第80号)』 - 国立公文書館デジタルアーカイブ
文献
- 田中義一伝記刊行会『田中義一伝記』(同会、1957年 - 1960年) 復刻:ゆまに書房(上下)、2006年
- 雨宮昭一『近代日本の戦争指導』(吉川弘文館、1997年) ISBN 4642036660
- 纐纈厚『田中義一―総力戦国家の先導者』(芙蓉書房出版、2009年6月) ISBN 978-4829504536
- 『寺内正毅宛田中義一書翰』(尚友ブックレット・尚友倶楽部史料調査室編、芙蓉書房出版、2018年)
外部リンク
公職 | ||
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先代 若槻禮次郎 |
内閣総理大臣 第26代:1927年4月20日 - 1929年7月2日 |
次代 濱口雄幸 |
先代 大島健一 山梨半造 |
陸軍大臣 第26代:1918年9月20日 - 1921年6月9日 第30代:1923年9月2日 - 1924年1月7日 |
次代 山梨半造 宇垣一成 |
先代 幣原喜重郎 |
外務大臣 第42代:1927年4月20日 - 1929年7月2日 |
次代 幣原喜重郎 |
先代 鈴木喜三郎 |
内務大臣 第45代:1928年5月4日 - 同年5月23日 |
次代 望月圭介 |
先代 創設 |
拓務大臣 初代:1929年6月10日 - 7月2日 |
次代 松田源治 |
党職 | ||
先代 高橋是清 |
立憲政友会総裁 第5代 : 1925年 - 1929年 |
次代 犬養毅 |
日本の爵位 | ||
先代 叙爵 |
男爵 田中(義一)家初代 1920年 - 1929年 |
次代 田中龍夫 |