「日本学術会議」の版間の差分
Assemblykinematics (会話 | 投稿記録) 「概要」節を導入部に組み入れ、少し修正。内部リンクや出典、参考文献の整備、写真掲載位置の調整。→選出方法とその変遷: コ・オプテーション方式について加筆。→特記事項: ESDの演説を追記。 タグ: コメントアウト |
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{{告知|提案|コメントアウト部の記述の転記|ノート:日本学術会議の任命拒否#記事「日本学術会議」からの記述の移設について}} |
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|下部組織1 = 内部組織 |
|下部組織1 = 内部組織 |
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|下部組織概要1 = 第一部、第二部、第三部、事務局{{R|日本学術会議とは}} |
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|所在地 = {{color|red|〒}}106-8555<br/>[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[六本木]]7丁目22番34号 |
|所在地 = {{color|red|〒}}106-8555<br/>[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[六本木]]7丁目22番34号{{R|SCJ2020}} |
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|定員 = 会員210人、連携会員約2,000人 |
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|年間予算 = 10億4,896万円<ref name="予算">{{PDFlink|[https://www.bb.mof.go.jp/server/2020/dlpdf/DL202011001.pdf 令和2年度一般会計予算]}} 財務省</ref> |
|年間予算 = 10億4,896万円<ref name="予算">{{PDFlink|[https://www.bb.mof.go.jp/server/2020/dlpdf/DL202011001.pdf 令和2年度一般会計予算]}} 財務省</ref> |
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|会計年度 = 2020 |
|会計年度 = 2020 |
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|その他 = [[日本学術会議協力学術研究団体]] |
|その他 = [[日本学術会議協力学術研究団体]] |
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'''日本学術会議'''(にほんがくじゅつかいぎ、 |
'''日本学術会議'''(にほんがくじゅつかいぎ、{{lang-en-short|Science Council of Japan }}、略称:'''SCJ''')は[[日本]]の[[国立アカデミー]]で、[[内閣府]]の[[特別の機関]]の一つ(2020年現在)。日本の[[科学者]]の内外の対する代表機関であり、科学の向上発達を図り、[[行政]]、[[産業]]及び国民生活に[[科学]]を反映浸透させることを目的とする(日本学術会議法 第2条{{R|日本学術会議法}})。国単位で加盟する国際学術機関の組織構成員({{en|NMO - National Member Organization}})でもあり、それらの国際分担金も担う{{R|大島1974|高野1996}}。<!--[[アジア学術会議]]を推進し、その事務局は日本学術会議に置かれている{{R|黒川2004|土居2007|SCA}}。 |
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== 概要 == |
== 概要 ==--> |
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[[内閣総理大臣]]が所轄し、その経費は国の予算で負担されるが、活動は政府から独立して行われる(日本学術会議法 第1条・第3条{{R|日本学術会議法}})。 |
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[[学術研究会議]]を前身とし、[[#設立前史|学術体制刷新委員会]]の議論を経て[[1949年]]に発足{{R|科学の社会史}}{{Sfn|土居|2010}}{{Sfn|学術の動向|2006}}。研究者による直接選挙を実施し、当時は「学者の国会」と呼ばれた{{R|鴨下2005}}{{Efn|「研究者・科学者の国会」{{Sfn|池上|2005|p=410}}や「科学者の国会」{{R|廣田2002|武部2003}}とも呼ばれる。}}。政府への勧告で多くのセンターや研究所の設立を実現し{{Sfn|高岩|2017|p=591}}{{R|武部2003}}、原子力研究3原則を提言{{R|武部2003}}。[[南極特別委員会]]で南極探検にも貢献した{{Sfn|郷|1999}}{{R|梶2004}}。しかし[[科学技術庁]]や[[科学技術会議]]の設立に伴い政府への影響力は低下していき{{Sfn|高岩|2017}}{{Sfn|郷|2003}}、「政策提言機関として十分力を発揮したのは、1970年代まで」と言われている{{Sfn|永山・栗原|2009|p=149}}。 |
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優れた研究・業績がある科学者のうちから任命される、210人の会員と約2000人の連携会員により構成される。いずれも任期は6年で、3年毎に約半数が任命替えされる。会員は再任できない(補欠の会員は1回再任可能)が、連携会員は2回まで再任できる。会員は内閣総理大臣から任命され、連携会員は[[日本学術会議会長]]から任命される(日本学術会議法 第7条・第15条・第17条{{R|日本学術会議法}}、日本学術会議法施行令 第1条{{R|日本学術会議法施行令}}、日本学術会議会則 第12条{{R|日本学術会議会則}})。 |
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紛糾の末[[1983年]]に法改正がなされ、会員選抜は[[日本学術会議協力学術研究団体|登録学術協力団体]]による推薦に基づく[[内閣総理大臣]]の任命に変わる{{R|塚田1999}}{{Sfn|戒能|2001}}。さらに日本学術会議不要論も叫ばれる中{{Sfn|大瀧|2001}}{{Sfn|戒能|2001|p=28}}{{Efn|文献によっては、「日本学術会議無用論」と書かれている{{Sfn|大瀧|2001}}。}}、[[中央省庁等改革基本法]]に端を発する改革過程の末、2004年の法改正で2005年から組織改編。会員は{{仮リンク|コ・オプテーション|en|Co-optation}}方式になり、組織も7部構成から3部構成になって縦割りの打破が図られた。政策への提言なども[[総合科学技術会議]]と棲み分けられ{{Sfn|郷|1999}}{{Sfn|江沢|2002}}{{Sfn|郷|2003}}、一般向け[[サイエンスカフェ]]も活動に加わった{{Sfn|永山・栗原|2009|p=149}}。 |
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会員の任命から次の任命までの3年間が日本学術会議の活動の一単位となっており、会長・副会長の任期も同じ3年間(再任可)である。ただし任期中に役員の交代が行われる場合もしばしばある。基本的には3年間の活動単位が一期となっており、現在は第24期(2017年(平成29年)10月 - 2020年9月)。 |
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一方で[[国際学術会議]]など40を超える国際学術団体に日本を代表して加盟しており{{Sfn|学術の動向|1996|p=26}}{{Sfn|大瀧|2001}}{{R|土居2007}}{{Sfn|永山・栗原|2009|pp=148-149}}、各団体の国際分担金も日本学術会議予算で賄われている{{R|大島1974|山内2017}}{{Sfn|永山・栗原|2009|pp=148-149}}。[[国際科学会議]](ICSU)(現在の[[国際学術会議]])では14万ドルを支出し世界3位の地位を占め{{R|大橋2000}}{{Sfn|大瀧|2001}}、日本から[[吉川弘之]]会長、[[黒田玲子]]副会長を輩出した{{R|吉川2009}}{{Sfn|土居|2010}}。また、日本学術会議は[[アジア学術会議]]をリードし、事務局、事務局長を担っている{{R|黒川2004|土居2007|SCA}}。 |
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== 沿革 == |
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*[[1948年]](昭和23年)7月10日 - 日本学術会議法公布 |
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*[[1949年]](昭和24年)1月20日 - [[内閣総理大臣]]の所轄の下、日本学術会議が設立(前身である[[学術研究会議]]は廃止され、[[日本学士院]]は日本学術会議の中に置かれる) |
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*1949年(昭和24年)6月1日 - [[総理府]]の設置に伴い、総理府の機関となる |
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*[[1956年]](昭和31年)4月1日 - 日本学士院が日本学術会議から独立(日本学士院のみ[[文部大臣 (日本)|文部大臣]]の所轄に移る) |
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*[[1984年]](昭和59年)5月30日 - 会員選出方法を公選制から学会推薦制へ変更 |
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*[[2001年]](平成13年)1月6日 - [[中央省庁再編]]に伴い、[[総務大臣]]の所轄となり、[[総務省]]の[[特別の機関]]となる |
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*[[2005年]](平成17年)4月1日 - 再び内閣総理大臣の所轄となり、[[内閣府]]の特別の機関となる |
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*2005年(平成17年)10月1日 - 会員選出方法を日本学術会議が自ら選考する方法へ変更し、7部制から3部制への改組、連携会員の新設などの組織改革を行う |
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== 理念 == |
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[[内閣総理大臣]]が所轄し、その経費は国の予算で負担されるが、活動は政府から独立して行われる{{R|水野2018}}(日本学術会議法 第1章の第1条・第3条{{R|日本学術会議法}})。「科学に関する重要事項を審議し、その実現を図ること」「科学に関する研究の連絡を図り、その能率を向上させること」を職務としている{{R|水野2018}}(同法 第2章の第3条{{R|日本学術会議法}})。 |
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=== 目的 === |
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本会議の設立目的は、日本を代表する科学技術機関として、研究者間の国際連携を行う主体となるほか、情報発信や情報収集を行ったり、科学者の意見などを政策に反映させることを目的とする。この目的の下で、学術会議と各団体との間で緊密な協力関係を持つために、「[[日本学術会議協力学術研究団体|協力学術研究団体]]」を認定し、情報提供や後援などを実施している(平成17年から)。 |
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[[1949年]](昭和24年)に制定された日本学術会議法の前文には、「日本学術会議は、科学が文化国家の基礎であるという確信に立って、科学者の総意の下に、わが国の平和的復興、人類社会の福祉に貢献し、世界の学会と提携して学術の進歩に寄与することを使命とし、ここに設立される。」と記されている{{Sfn|永山・栗原|2009}}{{R|日本学術会議法|日本科学史学会2020}}。同年1月20日の第1回総会において、[[吉田茂]]首相の代理として挨拶を担当した[[殖田俊吉]]は、「その使命の達成のためには、そのときどきの政治的、行政的便宜というようなことの掣肘を受けることのないように、高度の自主性が与えられており、ここに本会議の重要な特色がある」と述べている{{R|学者の森a}}。 |
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=== 使命 === |
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* 科学に関する重要事項を審議して、その実現を図ること。 |
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* 科学に関する研究の連絡を図り、その能率化を実現すること。 |
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また、同月22日の総会の終わりには、「日本学術会議の発足にあたって科学者としての決意表明」という声明が採択され、そこでは「われわれは、これまでわが国の科学者がとりきたった態度について強く反省し、今後は、科学が文化国家ないし平和国家の基礎であるという確信の下に、わが国の平和的復興と人類の福祉増進のために貢献せんことを誓うものである」と謳われている{{R|河村2016|学者の森a}}{{Efn|草案は[[我妻栄]]の依頼により[[末川博]]が書いたものであり、総会には[[羽仁五郎]]の発議として提案された{{R|学者の森a}}。}}。 |
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== 役割 == |
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# 政策提言、科学に関する審議 |
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# 科学者コミュニティーの連携 |
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# 科学に関する国際交流 |
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# 社会とのコミュニケーション |
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なお、[[1980年]](昭和55年)には「科学者憲章について」の声明を{{Sfn|学術の動向|1999|p=7}}、 [[2008年]](平成20年)には「日本学術会議憲章」を採択している{{Sfn|永山・栗原|2009}}。 |
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== 政策評価結果 == |
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[[行政機関が行う政策の評価に関する法律]](政策評価法)に従い、日本学術会議の活動の事後評価は、日本学術会議事務局が自らおこなっている。 |
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== 構成員や選出方法 == |
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[[2008年]](平成20年)度の事後評価<ref>日本学術会議事務局 (2009年8月).“[https://www8.cao.go.jp/hyouka/h20hyouka/h20jigo/shingi_honbun.pdf 平成20年度内閣府本政策評価書(事後評価)要旨]”. [[内閣府]]. 2019年12月21日閲覧。</ref>のなかで「専門的かつ信頼性のある見解の提示・助言等を通じた政府・関係機関との連携」は達成できたとしている。しかし、この評価の設定は「各期(3年間)の提言等の発出状況や委員会の例年の審議の状況を勘案して目標値を設定した」とのみ記述され、この事前・事後の具体的な数値は記載されていない。 |
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[[ファイル:General Assembly of the Science Council of Japan 20160414.jpg|thumb|200px|日本学術会議の第171回総会([[2016年]][[4月14日]]、日本学術会議講堂にて)<ref>“[https://www.cao.go.jp/minister/1510_a_shimajiri/photo/2016-046.html 第171回日本学術会議総会への出席]”. ''写真で見る動き''. [[内閣府]]. 2020年10月23日閲覧。</ref><ref>“[http://www.scj.go.jp/ja/member/iinkai/sokai/giji171.pdf 平成28年4月14日~16日 於・日本学術会議講堂 第171回総会速記録]”. ''総会''. 日本学術会議. 2020年10月24日閲覧。</ref>。約84万の日本の科学者を代表する、210名の会員が集う<ref>“[https://www.cao.go.jp/about/pmf/pmf_33_kai.html 日本学術会議]”. ''組織・業務の概要2014''. 内閣府. 2020年10月24日閲覧。</ref>{{R|水野2018}}。]] |
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{{See also|日本学術会議会員|日本学術会議会長|日本学術会議協力学術研究団体|#改革の歴史}} |
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=== 構成員の種別と任期 === |
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2004年の法改正後、日本学術会議は210名の会員と約2000名の連携会員で構成されている{{Sfn|学術の動向|2005}}{{Sfn|活動の手引き|2017|pp=5-6}}{{R|経団連2015}}。会員は[[特別職]]、連携会員は[[一般職]]の[[国家公務員]](非常勤)となる{{R|質疑応答集2019}}<ref>“[https://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=322AC0000000120 国家公務員法第二条3十二の二]”. ''[[e-Gov]]''. 2020年10月24日閲覧。</ref>。設立当初、会員は研究者による直接選挙で選ばれていたが、その後1984年からは各分野の学協会推薦方式に変更になり、さらに2005年からは現会員が次の会員を選ぶ{{仮リンク|コ・オプテーション|en|Co-optation}}方式になっている{{Sfn|70周年記念|2019|p=6}}{{R|海部2019}}(''「[[#選出方法とその変遷]]」節や「[[#改革の歴史]]」節も参照'')。 |
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会員と連携会員のいずれも任期は6年で、3年毎に約半数が任命替えされる。会員は再任できない(補欠の会員は1回再任可能)が、連携会員は2回まで再任できる{{Sfn|70周年記念|2019|p=6}}{{Sfn|活動の手引き|2017|pp=5-6}}。会員は内閣総理大臣から任命され、連携会員は[[日本学術会議会長]]から任命される(日本学術会議法 第7条・第15条・第17条{{R|日本学術会議法}}、日本学術会議法施行令 第1条{{R|日本学術会議法施行令}}、日本学術会議会則 第12条{{R|日本学術会議会則}})。 |
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[[2008年]](平成20年)度の日本学術会議の「政府・社会等に対する提言等」には3億8100万円の予算があてられているが、[[2008年]](平成20年)度に日本学術会議が出した提言等の本数は69本であり、1本あたり平均して552万円かかっている計算となる。 |
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また、会員や連携会員とは別に「日本学術会議アドバイザー」(第21期設置)や「日本学術会議外国人アドバイザー」(第23期設置)が設けられている{{Sfn|活動の手引き|2017|p=8}}。さらに「[[#栄誉会員|栄誉会員]]」が認定されるとともに{{R|栄誉会員}}{{Sfn|活動の手引き|2017|p=7}}、事務局には約50名のスタッフ(2008年時点)がいる{{R|経団連2015}}。 |
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== 組織 == |
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(20期 - {{Efn|部と委員会の構成については、時々再編がある。現在の構成は20期からのもので、19期までは異なっていた。}}) |
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なお、2005年の組織改編までは連携会員は存在せず、研究連絡委員会の委員という肩書で[[日本学術会議協力学術研究団体|登録学術研究団体]]から選出されており{{Sfn|70周年記念|2019|p=6}}{{R|武居1997}}、1997年の時点で2370名であった{{R|武居1997}}。会員選出方法の詳細は次節「[[#選出方法とその変遷]]」を、選出方法改革の経緯については「[[#改革の歴史]]」節を参照。 |
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* 総会(原則として4月と10月の年2回開催。210名の会員で構成。) |
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* 役員(会長と副会長3名。) |
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会員の任命から次の任命までの3年間が日本学術会議の活動の一単位となっており、会長・副会長の任期も同じ3年間(再任可)である。ただし任期中に役員の交代が行われる場合もしばしばある。基本的には3年間の活動単位が一期となっており、現在は第25期([[2020年]]([[令和]]2年)10月 - [[2023年]]9月){{R|歴代会長|塚田1999}}{{Sfn|会員の手引き|2017|pp=5-6}}。なお、会員選出方法が変わった第12期は1年半延長され{{Sfn|戒能|2001|p=28}}{{R|塚田1999|歴代会長}}、第19期は1年短縮されている{{Sfn|戒能|2006|p=55}}{{R|歴代会長}}。 |
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* 幹事会(毎月開催。日本学術会議の運営について審議。会長、副会長、各部の部長、副部長、幹事で構成。) |
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* 3つの部(第一部(人文・社会科学)、第二部(生命科学)、第三部(理学・工学)。会員はいずれかの部に属する。) |
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=== 選出方法とその変遷 === |
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* 4つの機能別委員会(選考委員会、科学者委員会、科学と社会委員会、国際委員会。) |
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; 創設後から1984年改訂前までの投票方式(会員) |
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: 当初、会員選出は自由立候補制によって研究者が登録し選挙を行う方式であった{{R|亀山1951|海部2019}}{{Sfn|70周年記念|2019|p=6}}。自由立候補制で、部、専門、地方別に登録した研究者が有権者として直接投票を行った{{Sfn|70周年記念|2019|p=6}}{{Sfn|大瀧|2001}}{{R|海部2019}}。全国区、地方区(6地方)で210名が選出され、任期は3年で全員が改選となったが、再任回数に制限はなかった{{Sfn|70周年記念|2019|p=6}}{{R|海部2019|科学の社会史}}。有権者数は第1期で4万3999名、1983年12月時点で24万12名であった{{Sfn|小沼|2017|p=15}}。 |
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: 第1期、第2期の選挙を経験した日本学術会議会長の[[亀山直人]]によると、「教室や研究所で強制的にある人に指示して投票させたとか、白紙を集めたとか、A群とB群とが互に連絡して投票を交換したとか種々の醜聞がある」ことを紹介し、「これらの風聞にはどうしても若干の根拠がある」と指摘していた{{R|亀山1951}}。当時は選挙規則が不十分で、金銭を伴う選挙活動すら違法ではなく、第3期の後に選挙規則が見直された{{R|兼重1959}}。第4期で会長を務めた[[兼重寛九郎]]によると、第4期の選挙では改善の効果が見受けられたという{{R|兼重1959}}。 |
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; 1984年から2005年改訂前までの学会推薦方式(会員) |
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: 導入は1985年の7月の第13期から{{Sfn|70周年記念|2019|p=6}}。会員を推薦したい学会はまず「[[日本学術会議協力学術研究団体|登録学術研究団体]]」に認められておく必要があった。日本学術会議には学術領域ごとに研究連絡委員会があるため、学会はどの学術領域に会員候補者・推薦人を出すか決めておくことになる。次に学会は「会員候補者」を日本学術会議会員推薦管理会に届け出て、会員資格を有することの「認定」を受ける。さらに各学会が届け出た推薦人が、学術領域ごとに会員資格を有すると認定された候補者の中から「会員候補」を選出する。なお、推薦人は各学会の構成員である必要がある。選出された会員候補は日本学術会議から[[内閣総理大臣]]に推薦され、任命を受ける{{R|日本学術会議だより1987}}。 |
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: 第17期では協力学会登録時の虚偽が見過ごされたことがあり、第18期では登録情報を会員に公開するよう改善が図られた{{R|長岡2000}}。また、学協会はその分野の研究連絡委員会に登録されるが、その学協会がその委員会に適切かどうかという問題も生じていた{{R|長岡2000}}。なお、3年に一度の会員推薦の際にはその分の予算が増額され、例えば1994年度には約8000万円の経費が上積みされていた{{R|日本学術会議だより1994}}。 |
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; 2005年以降のコ・オプテーション方式による選出方法(会員・連携会員) |
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: 2005年の第20期から導入されたもので{{Sfn|70周年記念|2019|p=6}}、現役の会員・連携会員が各々ふさわしいと考えられる「優れた研究又は業績がある」科学者から、会員候補者と連携会員候補者を合わせて5名まで、うち会員候補者は2名以内推薦する{{R|質疑応答集2019}}。この際、優先順位をつけることはできず、人数は5名より少なくてもよく、連携候補者だけの場合でも構わない{{R|質疑応答集2019}}。そこから選考委員会・分科会による選考が行われる{{R|質疑応答集2019}}。なお、会員の定年は70歳であるため、少なくとも1期は務められる年齢であることが推薦時に望まれている{{R|質疑応答集2019}}。 |
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: この方式を検討した際の会長である[[吉川弘之]]は、「自分の身近な人は推薦しない」「学術的業績が最も優れている人を推薦する」「自分の分野にだけこだわり続ける人は推薦しない」などのルールと、何段階かの選考で派閥化などの弊害は取り除けると考えたという{{Sfn|永山|2020}}。また、2014年1月当時の[[大西隆]]会長は、資質がある後継者を選ぶことに適していても既に会員となっている者と思想や意見が異なる集団から選ぶことに適していないと内部分析を行い、「他制度より優位性を持つか否かは、現会員・連携会員による推薦及び選考が適切に行われることに掛かっている」と記している{{R|会長2014}}。 |
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=== 歴代会長・副会長 === |
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{{See also|日本学術会議会長|#改革の歴史}} |
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発足時の第1期は[[亀山直人]]を会長(第1-2期)とし、人文社会部門の副会長は[[我妻栄]]、自然科学部門は副会長を[[仁科芳雄]]が務めた{{R|歴代会長}}。我妻は日本学術会議法の起草を手掛けたといわれ{{R|時代の証言}}、仁科は初めて日本学術会議を代表して欧米に赴いた{{R|竹内1990|ボーア1990|山崎2016}}。その後、[[茅誠司]](第3-4期途中)、[[和達清夫]](第5期)、[[朝永振一郎]](第6-7期)、[[江上不二夫]](第8期)らが会長を務めていく{{R|歴代会長}}。第6-7期(1963年1月-1969年1月)に会長を務めた朝永は{{R|歴代会長}}、会長在任中{{R|歴代会長}}の[[1965年]]に[[ノーベル物理学賞]]を受賞{{R|ノーベル1965}}。受賞後に政府から記念事業を打診され、朝永が「自分ではなく学界のために」と答えた結果、日本学術会議の会館が建設されている{{R|大塚1979}}。 |
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第11期から第12期途中にかけて[[伏見康治]]が会長を務めるが、法改正の騒動に伴い第12期は[[久保亮五]]、塚田裕三と会長が変わった(ただし、第12期は1年半延長){{Sfn|江沢|2002}}{{R|塚田1999|歴代会長}}。その後、[[近藤次郎]](第13-15期)、[[伊藤正男 (生理学者)|伊藤正男]](第16期)、[[吉川弘之]](第17-18期)が会長を務めていく{{R|歴代会長}}。第17-18期に会長を務めた吉川は、[[国際科学会議]](ICSU)の会長も務めるとともに、行政改革に合わせた日本学術会議の改革に尽力する。日本学術会議の役割の[[パラダイムシフト]]を求めた吉川の考えは「吉川理論」とも言われ、批判を集めながらも改革をリードした{{Sfn|戒能|2001}}{{Sfn|郷|2003}}{{Sfn|戒能|2006}}。吉川の尽力により、[[総合科学技術会議]]における議論では日本学術会議側の意見がかなり尊重されたという{{Sfn|戒能|2006}}。 |
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第18期で副会長を務めた[[黒川清]]が第19期会長を務め{{R|第18期役員|第19期役員}}、組織再編が行われた第20期も途中まで会長を務めた{{R|歴代会長}}。黒川は臨床医師経験者として初めて会長に就任し、吉川の改革を継承して2005年の組織改革を推進した{{R|鴨下2005}}。「第三次科学技術基本計画」の草稿を託された[[伊東乾 (作曲家)|伊東乾]]は「責任は俺がとるから」という黒川を「器量の人」と呼び{{R|伊東2020}}、[[鴨下重彦]]は「どちらかというと芸術家肌」と評した{{R|鴨下2005}}。在米経験が長くメールも英語で返すという黒川は、[[アジア学術会議]]を軌道に乗せ{{R|鴨下2005}}、日本カナダ女性研究者交流事業も発足させた{{R|黒川2006|室伏2006}}。 |
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第20期の残りから第21期の途中までは[[金澤一郎]]が会長を務める{{R|歴代会長}}。第21期の残りは[[広渡清吾]]が務め、その後は[[大西隆]](第22-23期)、[[山極寿一]](第24期)と続く{{R|歴代会長}}。この間、2010年から「学術の大型研究計画に関するマスタープラン」が始まっており{{R|大西2014|花輪2013|岡2015}}{{Sfn|野尻|2018}}、マスタープラン2010、2011、2014、2017、2020と続いている{{R|花輪2013|中本2018|河北2020}}。また、2020年9月に『未来からの問い ― 日本学術会議100年を構想する ―』を発行した{{R|未来からの問い}}。2020年10月からの第25期は[[梶田隆章]]が会長を務めている{{R|歴代会長}}。 |
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=== 栄誉会員 === |
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日本学術会議会則の第35条「学術会議は、国内外における卓越した研究又は業績がある科学者その他の学術の発展に著しい貢献をしたと認められる科学者に対し、日本学術会議栄誉会員(以下「栄誉会員」という。)の称号を授与することができる」に基づき「栄誉会員」が設定されており{{R|会則35条}}、[[ノーベル賞]]クラスの卓越した研究業績や、日本学術会議の活動や日本の科学コミュニティーの国際発展などに顕著な貢献をした者が選出される{{R|栄誉会員}}。 |
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2020年10月現在までに[[赤﨑勇]]、[[江崎玲於奈]]、[[小林誠 (物理学者)|小林誠]]、[[小柴昌俊]]、[[南部陽一郎]]、[[益川敏英]]、[[根岸英一]]、[[鈴木章]]、[[利根川進]]、[[李遠哲]]に加え、[[吉川弘之]]([[国際科学会議]](ICSU)会長、日本学術会議第17-18期会長、同連携会員、[[日本学士院]]会員を歴任{{R|吉川2009|学士院2014}})が認定されている{{R|栄誉会員}}{{Sfn|活動の手引き|2017|p=7}}。 |
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== 組織構成 == |
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=== 第19期までの組織 === |
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<!-- 組織構成を表す図が望まれます。--> |
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会長1名に対し、副会長は人文社会系と自然科学系の2名を設けていた{{R|第17期役員|歴代会長}}。第一部から第七部までの7つの部会があり、会員210名はいずれかに所属した{{Sfn|山下|1993}}。各部に部長、副部長、幹事2名の役員が置かれており{{R|第17期役員}}、{{Sfn|70周年記念|2019|p=6}}各部の専門分野は以下の通り{{Sfn|山下|1993}}{{Sfn|大瀧|2001}}。 |
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* 人文・社会科学部門 - 第一部([[文学]]、[[哲学]]、[[教育学]]・[[心理学]]・[[社会学]]、[[歴史学|史学]])、第二部([[法学|法律学]]、[[政治学]])、第三部([[経済学]]、[[商学]]・[[経営学]]) |
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* 自然科学部門 - 第四部([[理学]])、第五部([[工学]])、第六部([[農学]])、第七部([[医学]]、[[歯学]]、[[薬学]]) |
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第一部から第七部を、単に「文、法、経、理、工、農、医」と記載することもある{{Sfn|70周年記念|2019|p=6}}。なお、第七部では第18期で看護学研究連絡委員会を設けたものの、看護学の研究者は会員になれなかった(組織改革による第20期以降はなれるようになった){{R|鴨下2005}}。 |
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また、運営審議会、常置委員会、特別委員会、研究連絡委員会が設けられ{{R|伊藤1996}}、運営審議会には附置委員会として「広報」「財務」「勧告等」「国際会議」「二国間交流」などの委員会が置かれていた{{R|第17期役員|第18期役員|第19期役員}}。第18期以降は「アジア学術会議」の委員会が設置されていた{{R|第18期役員|第19期役員}}。単期の委員会として第17期では「50年史編集準備委員会」が{{R|第17期役員}}、第18期では「ノーベル賞100周年委員会」などが{{R|第18期役員}}、第19期では「持続可能な社会に向けた新しい科学や技術国際実行委員会」や「日本学術会議改革推進委員会」が置かれていた{{R|第19期役員}}。なお、会員以外に「委員」が設けられていた{{Sfn|70周年記念|2019|p=6}}。 |
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=== 第20期以降の組織 === |
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<!-- 組織構成を表す図が望まれます。--> |
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2004年の法改正に伴い、2005年10月に、副会長職が研究分野別の2人制から活動分野別の3人制に改められるなど組織が再編された{{Sfn|池上|2005}}{{R|歴代会長}}。2020年現在の組織を以下に示す{{R|日本学術会議とは}}。 |
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* 総会 - 原則として4月と10月の年2回{{R|総会}}、3日間の日程で開催{{R|日本学術会議とは|総会}}(臨時総会も開催可{{R|総会}})。210名の会員で構成でされる日本学術会議の最高議決機関{{R|日本学術会議とは|総会}}。 |
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* 役員 - 会長と副会長3名(副会長は組織運営担当、政府との関係等担当、国際活動担当の3名) |
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* 幹事会 - 毎月開催。日本学術会議の運営について審議。会長、副会長、各部の部長、副部長、幹事で構成。 |
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* 3つの部 - 第一部(人文・社会科学)、第二部(生命科学)、第三部(理学・工学)。会員はいずれかの部に属する。 |
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* 4つの機能別委員会 - 選考委員会、科学者委員会、科学と社会委員会、国際委員会。 |
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* 30の学術分野別委員会 |
* 30の学術分野別委員会 |
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* 臨時の課題別委員会 |
* 臨時の課題別委員会 |
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* 事務局 - 50名の常勤職員がいる{{R|経団連2015}}。 |
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* 事務局 |
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== |
== 国際活動 == |
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=== 国際学術機関の構成員 === |
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日本学術会議は多くの国際学術機関で組織構成員({{en|NMO}} - {{en|National Member Organization}}{{R|大島1974}}、{{en|NAO}} - {{en|National Adhering Organization}}{{R|山内2017}})を務めており{{R|藤井1977|大島1974|水野2018|山内2017}}、例えば |
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* [[国際科学会議]](ICSU){{R|ICSU2000}} - ただし、国際科学会議は2018年に[[国際社会科学協議会]](ISSC){{R|花木2017}}と統合し、[[国際学術会議]]となっている{{R|ISU}}。 |
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* {{仮リンク|インターアカデミー・パートナーシップ|en|InterAcademy Partnership}}(IAP){{R|花木2017}} - 1993年設立の旧IAPや、IAC、IAMPが統合されて2016年に設立{{R|花木2017}}。 |
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* {{仮リンク|世界工学団体連盟|en|World Federation of Engineering Organizations}}(WFEO){{R|WECC|高野1997}} |
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があげられる。また、日本学術会議の委員会(分科会)で加盟するものとして |
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* [[国際純正・応用化学連合]]({{en|IUPAC}}) - IUPAC分科会{{R|山内2017}}(旧 化学研究連絡委員会<ref>「[https://doi.org/10.20710/dojo.34.3_95 学術会議だより]」『日本土壌肥料学雑誌』第34巻第3号、1963年、95-96頁。</ref>) |
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* [[国際純粋・応用物理学連合]]({{en|IUPAP}}) - IUPAP分科会{{Sfn|野尻|2018}} |
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* {{仮リンク|国際農業工学会|en|International Commission of Agricultural and Biosystems Engineering}}(CIGR) - CIGR分科会{{R|真木2015}} |
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* {{仮リンク|国際自動制御連盟|en|International Federation of Automatic Control}}(IFAC) - IFAC分科会{{R|淺間2018}}(旧 自動制御研究連絡委員会{{R|高野1997}}) |
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などがある。前述のICSUなども含めて、日本学術会議は1996年には47団体、2000年には50団体、国際学術機関の構成員となっていた{{Sfn|学術の動向|1996|p=26}}{{Sfn|大瀧|2001}}。委員会・分科会が国内関連学会の連携を取り持って学術講演会を催すケースもある{{R|藤井1977|大島1974|水野2018}}。 |
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これらの分担金(membership fee)は日本学術会議の予算(国家予算)で賄なわれており{{R|大島1974|高野1996}}、例えば1995年度(平成7年度)には総額6950万5000円が「国際分担金」として予算計上され{{R|日本学術会議だより1995}}、2000年の時点でICSUには14万[[ドル]]、IUPACには8万ドルの分担金を支払っていた{{Sfn|大瀧|2001}}。国際学術機関によっては加盟金を払えなくなる国もある中{{R|高野1996}}、前述のICSU(国際科学会議)の各国分担金では日本は2000年時点で第3位の加盟金を支払っていた{{R|大橋2000}}。なお、日本学術会議が分担金は既存の学会が占めてしまい、新しい提案が通らないケースがあると言われている{{R|Jc-IFToMM}}{{Efn|国際的な非営利の組織は複数あるが{{R|小野1997}}、例えば[[情報処理国際連合]](IFIP)は[[情報処理学会]]が、{{仮リンク|国際計測連合|en|International Measurement Confederation}}(IMEKO)は[[計測自動制御学会]]が{{R|小野1997}}、{{仮リンク|IFToMM|en|International Federation for the Promotion of Mechanism and Machine Science}}は日本IFToMM会議が{{R|Jc-IFToMM}}日本を代表する会員になっていた。なお、このうち国際計測連合は2011年に日本学術会議がNMOになったものの{{R|飯塚2013}}、2020年時点での「加入国際学術団体」リストには掲載されていない{{R|加入国際学術団体}}。}}。 |
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=== 第20期 === |
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=== 共同主催国際会議 === |
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[[2005年]](平成17年)10月1日 - [[2008年]](平成20年)9月30日 |
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[[ファイル:Emperor Akihito and Empress Michiko cropped Emperor Akihito and Empress Michiko 20070604.jpg|thumb|200px|[[日本物理学会]]・日本学術会議・[[国際純粋・応用物理学連合]]が主催する原子核物理学国際会議開会式にて挨拶する[[明仁|明仁天皇]](中央)(2007年6月4日)]] |
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[[ファイル:Emperor Akihito Motohisa Furukawa and Seigo Hirowatari cropped Emperor Akihito Motohisa Furukawa and Seigo Hirowatari 20110910.jpg|thumb|200px|日本微生物学連盟・日本学術会議が主催する[[国際微生物学連合|国際微生物学連合会議]]レセプションに行幸する[[明仁|明仁天皇]](左)と出迎える[[日本学術会議会長]][[広渡清吾]](右)(2011年9月10日)]] |
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国内で開催される各分野の学術に関する国際会議のうち、国際学術機関の総会など、特に重要と認められる国際会議について、学術研究団体と共同で開催することで、支援・協力を行っている。これらの共同主催国際会議は閣議口頭了解に基づき開催されており、[[皇室]]の構成員の臨席もある<ref>“[http://www.scj.go.jp/ja/int/kaisai/kyodo.html 共同主催国際会議について]”. ''国際活動''. 日本学術会議. 2020年10月11日閲覧。</ref>。日本学術会議としての初めての主催は、[[国際純粋・応用物理学連合]](IUPAP)に関連して1953年9月に[[京都大学]]で開催された「国際理論物理学会議」であった{{R|池本1953|小谷1977|小林1977}}{{Efn|「国際理論物理学会議」は「理論物理学国際会議」ともいわれ、[[京都大学]]、[[日本物理学会]]との共催で、京都大学の[[湯川記念館]]などが会場になった{{R|小谷1977|小林1977}}。}}。 |
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国際理論物理学会議は開催にあたっては[[ユネスコ]]や[[フォード財団]]からも援助を受け{{R|小谷1954|小谷1977}}、[[ロックフェラー財団]]からの支援にあたっては[[アメリカ国立科学財団]](NSF)の{{仮リンク|H・C・ケリー|en|Harry C. Kelly (physicist)}}次長の尽力があった{{R|小谷1954}}。開催は招待制ながら会場外で非公式の会が多く開催され{{R|小谷1954}}、海外からの参加者には[[リチャード・P・ファインマン]]もいた{{R|池本1953}}。一般からの寄付金には小学生からのものもあり、当時のマスコミも大きな関心を寄せた{{R|小林1977}}。開催後しばらくは、国外でも「Kyoto Conference」として知られたという{{R|小林1977}}。 |
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{| class="wikitable" style="width:40%" |
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|- |
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! style="width:25%" | 会長 |
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| style="width:75%" | [[黒川清]](臨床医学){{fontsize|small|〈2006年9月まで〉}}<br/>[[金澤一郎]](臨床医学){{fontsize|small|〈2006年10月から〉}} |
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|} |
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[[永宮正治]]は「日本学術会議が国際会議を共同主催する意義は、開催を機に専門の中だけに閉じない総合的な科学分野への広がりの道を開く点にもある」{{R|永宮2007}}と指摘しており、日本学術会議が[[日本物理学会]]やIUPAPと共同主催した「原子核物理学国際会議」(2007年開催)や、日本微生物学連盟と共同主催した[[国際微生物学連合|国際微生物学連合会議]](2011年開催)では、一般市民を対象とする公開講座を催したり、関連分野から多様な講演者を招聘したりするなどの取り組みがなされた{{R|永宮2007|冨田2012|山本2012}}。 |
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{| class="wikitable" style="width:100%" |
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|- |
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! style="width:10%" | |
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! style="width:30%" | 組織運営等担当 |
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! style="width:30%" | 政府との関係等担当 |
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! style="width:30%" | 国際活動担当 |
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|- |
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! 副会長 |
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| [[浅島誠]](基礎生物学) |
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| [[大垣眞一郎]](土木工学・建築学){{fontsize|small|〈2006年10月まで〉}}<br/>[[鈴村興太郎]](経済学){{fontsize|small|〈2006年10月から〉}} |
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| [[石倉洋子]](経営学){{fontsize|small|〈2006年10月まで〉}}<br/>[[土居範久]](情報学){{fontsize|small|〈2006年10月から〉}} |
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|} |
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2007年の「原子核物理学国際会議」の開会式において、[[明仁|明仁天皇]]は[[湯川秀樹]]や[[仁科芳雄]]らのエピソードを交えつつ[[核兵器]]の悲劇に触れたうえで、[[原子核物理学]]が平和と幸福に資することを願うと挨拶した{{R|永宮2007}}。この[[おことば]]は内外の研究者らの琴線に触れ、国内外で多くの反響を呼んだ{{R|永宮2007}}{{Efn|組織委員会委員長の永宮正治によれば「このご挨拶は、英訳も電光表示され、内外の参加者の多くが深く感激し、会議終了まで会場のあちこちで感激や感想が語られた」{{R|永宮2007}}とされる。さらに、永宮は「参加者を最も印象づけ、また、参加者に最も感動を与えたのは、天皇皇后のご臨席と天皇陛下の開会式における[[スピーチ]]であった」{{R|永宮2007}}と述懐しており「両陛下のご臨席は、その後、海外でも大きな話題になり、内外の参加者より感激のメッセージが届いている。また、このご臨席は、日本学術会議の方々の大きな支えによって初めて可能となった」{{R|永宮2007}}と指摘している。}}。 |
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{| class="wikitable" style="width:100%" |
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また、2011年の「国際微生物連合会議」では明仁天皇が記念式典と記念懇談会に出席し、国内外の著名人が集まった{{R|冨田2012|小田嶋2012|山本2012}}。これについて、同会議の国内組織委員長を務めた[[冨田房男]]は、微生物学分野を日本が重視していることを示すものであったと述懐している{{R|冨田2012}}。しかし、会場は厳戒態勢が敷かれることになった{{R|小田嶋2012}}{{Efn|「[[国際微生物学連合|国際微生物学連合会議]]」自体は約4800名の参加者を集めたが、記念式典は約700名、記念懇談会(レセプション)は約130名しか参加できなかった{{R|冨田2012|小田嶋2012}}。}}。 |
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|- |
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! style="width:10%" | |
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! style="width:30%" | 第一部(人文・社会科学) |
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! style="width:30%" | 第二部(生命科学) |
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! style="width:30%" | 第三部(理学・工学) |
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|- |
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! 部長 |
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| [[広渡清吾]](法学) |
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| [[金澤一郎]](臨床医学){{fontsize|small|〈2006年10月まで〉}}<br/>[[唐木英明]](農学){{fontsize|small|〈2006年10月から〉}} |
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| [[海部宣男]](物理学) |
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|- |
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! 副部長 |
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| [[佐藤学 (教育学者)|佐藤学]](心理学・教育学) |
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| [[唐木英明]](農学){{fontsize|small|〈2006年10月まで〉}}<br/>[[北島政樹]](臨床医学){{fontsize|small|〈2006年10月から〉}} |
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| [[土居範久]](情報学){{fontsize|small|〈2006年10月まで〉}}<br/>[[小林敏雄]](機械工学){{fontsize|small|〈2006年10月から〉}} |
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|- |
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! rowspan="2" | 幹事 |
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| [[江原由美子]](社会学) |
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| [[廣橋説雄]](基礎医学){{fontsize|small|〈2006年10月まで〉}}<br/>[[山本雅]](基礎生物学){{fontsize|small|〈2006年10月から〉}} |
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| [[河野長]](地球惑星科学) |
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|- |
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| [[鈴村興太郎]](経済学){{fontsize|small|〈2006年10月まで〉}}<br/>[[小林良彰]](政治学){{fontsize|small|〈2006年10月から〉}} |
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| [[鷲谷いづみ]](応用生物学) |
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| [[小林敏雄]](機械工学){{fontsize|small|〈2006年10月まで〉}}<br/>[[大垣眞一郎]](土木工学・建築学){{fontsize|small|〈2006年10月から〉}} |
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|} |
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=== |
=== 代表派遣事業 === |
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「世界の学会との連携、国際的な学術動向の把握、研究の連絡、情報・資料の収集・交換など」を目的とした事業。派遣されるのは日本学術会議会員に加え、以前は研究連絡委員会委員も対象であった<ref>「[https://doi.org/10.5363/tits.1.6_66 諸外国学術事業]」『学術の動向』第1巻第6号、1996年、66-68頁。</ref>。1950年4月「学術関係国際会議への代表派遣に関する内規」が制定され、1964年には「国際会議代表派遣要領」として改訂されている{{Sfn|土居|2010|p=27}}。国際学術機関の国際会議などに参加しており{{R|高野1996}}、1993年の時点では年間約70名を派遣していたという{{Sfn|山下|1993|p=144}}。なお、初めて日本学術会議の代表として渡欧したのは第1期副会長を務めた[[仁科芳雄]]{{R|歴代会長}}で、[[1949年]]9月の[[国際学術連合会議]](ICSU、後の国際科学会議、[[国際学術会議]])に出席した{{R|竹内1990|ボーア1990}}。 |
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=== 二国間学術交流 === |
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[[2008年]](平成20年)10月1日 - [[2011年]](平成23年)9月30日 |
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[[ファイル:Takashi Onishi Sheila Hipel Keith Hipel and Takehiro Inohara cropped Takashi Onishi Sheila Hipel Keith Hipel and Takehiro Inohara 20140225.jpg|thumb|200px|[[カナダ王立協会]]科学アカデミー[[会長]]キース・ヒッペル(前列右から2人目)らの表敬を受ける[[日本学術会議会長]][[大西隆]](前列左端)([[2014年]][[2月25日]]、日本学術会議庁舎にて)]] |
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1983年から始まったもので、日本学術会議会員による代表団を派遣している。当初は年に2か国で、1983年度は[[アメリカ]]、[[マレーシア]]、1984年度は[[スウェーデン]]、[[タイ王国]]、1985年度は[[フランス]]、[[大韓民国]]と展開していった。1985年には7名の代表団を送っており、科学技術政策や教育、学術研究の問題点について調査、議論していた{{R|ファルマシア1987}}。 |
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2009年に{{仮リンク|バングラデシュ科学アカデミー|en|Bangladesh Academy of Sciences}}と、2012年に{{仮リンク|ブルガリア科学アカデミー|en|Bulgarian Academy of Sciences}}と、2013年に[[イスラエル科学・人文アカデミー]]と、2014年に韓国行政研究院・{{仮リンク|韓国科学技術アカデミー|en|Korean Academy of Science and Technology}}と、2015年に{{仮リンク|中国科学技術協会|en|China Association for Science and Technology}}との協定・協力覚書実施していった{{R|二国間交流}}。2020年現在は各国の[[国立アカデミー|アカデミー]]と公開シンポジウムやワークショップも開催している{{R|二国間交流}}。 |
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{| class="wikitable" style="width:40%" |
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! style="width:25%" | 会長 |
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| style="width:75%" | [[金澤一郎]](臨床医学){{fontsize|small|〈2011年6月まで〉}}<br/>[[広渡清吾]](法学){{fontsize|small|〈2011年7月から〉}} |
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|} |
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特に[[カナダ]]とは2005年から「日本・カナダ女性研究者交流事業」を開始している{{R|黒川2006}}。これは2004年当時の会長・[[黒川清]]が、2004年の日本とカナダの外交開始75周年を記念する事業を[[カナダ大使館]]から打診されたことが契機に始まった{{R|黒川2006|室伏2006}}。女性研究者の交流事業が中心になったのはカナダの女性進出が進んでおり日本は遅れていたためで{{R|黒川2006}}、[[お茶の水大学]]に実働が要請され、[[室伏きみ子]]{{Efn|日本学術会議の会員(第19期第4部幹事){{R|第19期役員}}、連携会員{{R|室伏2006}}を歴任。}}が推進した{{R|黒川2006|室伏2006}}。2010-2012年度は体制見直しのため休止されたものの、日本学術振興会と[[カナダ王立協会]]の共同主催で継続されている<ref>日本学術会議事務局「[http://www.scj.go.jp/ja/int/canada/pdf/bosyuu_2017.pdf 平成29年度日本カナダ女性研究者交流派遣者募集要項]」日本学術会議、2017年6月9日、2020年10月7日閲覧。</ref><ref>福田公子「[https://doi.org/10.5363/tits.12.9_40 平成18年度日本・カナダ女性研究者交流事業報告書]」『学術の動向』第12巻第9号、2007年、40-47頁。</ref><ref>新堀真希「[https://doi.org/10.5363/tits.15.10_75 日本・カナダ女性研究者交流事業参加レポート2「いつか宇宙で会いましょう!」 ~"Universal Universe"の時代に向かって~]」『学術の動向』第15巻第10号、2010年、75-81頁。</ref>。 |
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! style="width:10%" | |
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! style="width:30%" | 組織運営等担当 |
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! style="width:30%" | 政府との関係等担当 |
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! style="width:30%" | 国際活動担当 |
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! 副会長 |
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| [[大垣眞一郎]](土木工学・建築学) |
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| [[鈴村興太郎]](経済学){{fontsize|small|〈2011年4月まで〉}}<br/>[[広渡清吾]](法学){{fontsize|small|〈2011年4月 - 7月〉}}<br/>[[秋山弘子]](心理学・教育学){{fontsize|small|〈2011年7月から〉}} |
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| [[唐木英明]](農学) |
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|} |
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=== その他の国際活動 === |
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{| class="wikitable" style="width:100%" |
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==== ソ連・中国学術視察団 ==== |
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[[仁科芳雄]]は[[1950年]]の3月に日本学術会議代表として渡米。仁科は「国をこえて科学者が協調して軍事研究を拒否すること」を志向し、米ソの科学者を日本が橋渡しすることを願っていた。仁科は滞米時に[[ソビエト連邦]](ソ連)の研究者との接点を探ったが、当時はなす術がなかった{{R|竹内1990|山崎2016}}(仁科は翌[[1951年]]1月に死去{{R|小沼2004}}{{Efn|仁科の死後、学術行政における仁科の責務は弟子である[[朝永振一郎]]が引き継いだ{{R|小沼2004}}。}})。その後、日本学術会議は1952年に「ソビエト連邦および中華人民共和国と学術交流の途を開くことについて」という要望を政府に提出{{R|高木1996}}。1955年の5月7日から6月25日にかけて、第4期会長を務めた[[茅誠司]]を代表とする学術視察団がソ連と[[中華人民共和国]]を訪問{{Sfn|70周年記念|2019|p=7}}{{R|伴野1989|高木1996}}。同年秋には中国科学院から、院長の郭沫若を代表とする科学視察団が来日した{{R|高木1996}}。翌1956年には学術視察団の報告書が発行されている({{Harvnb|日本学術会議|1956}})。 |
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! style="width:10%" | |
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! style="width:30%" | 第一部(人文・社会科学) |
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! style="width:30%" | 第二部(生命科学) |
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! style="width:30%" | 第三部(理学・工学) |
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|- |
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! 部長 |
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| [[広渡清吾]](法学){{fontsize|small|〈2011年4月まで〉}}<br/>[[小林良彰]](政治学){{fontsize|small|〈2011年4月から〉}} |
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| [[浅島誠]](基礎生物学) |
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| [[岩澤康裕]](化学) |
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|- |
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! 副部長 |
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| [[小林良彰]](政治学){{fontsize|small|〈2011年4月まで〉}}<br/>[[木村茂光]](史学){{fontsize|small|〈2011年4月から〉}} |
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| [[北島政樹]](臨床医学) |
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| [[後藤俊夫 (工学者)|後藤俊夫]](総合工学) |
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|- |
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! rowspan="2" | 幹事 |
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| [[木村茂光]](史学){{fontsize|small|〈2011年4月まで〉}}<br/>[[酒井啓子]](政治学){{fontsize|small|〈2011年4月から〉}} |
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| [[山本正幸]](基礎生物学) |
|||
| [[池田駿介 (土木工学者)|池田駿介]](土木工学・建築学) |
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|- |
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| [[山本真鳥]](地域研究){{fontsize|small|〈2011年4月まで〉}}<br/>[[白田佳子]](経営学){{fontsize|small|〈2011年4月から〉}} |
|||
| [[鷲谷いづみ]](応用生物学) |
|||
| [[海部宣男]](物理学){{fontsize|small|〈2010年4月まで〉}}<br/>[[永宮正治]](物理学){{fontsize|small|〈2010年4月から〉}} |
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|} |
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==== Gサイエンス学術会議==== |
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=== 第22期 === |
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[[ファイル:Ichiro Kanazawa and Yasuo Fukuda cropped Ichiro Kanazawa and Yasuo Fukuda 20080610 1.jpg|thumb|200px|[[第34回主要国首脳会議|北海道洞爺湖サミット]]に向け、[[内閣総理大臣]][[福田康夫]](右)に「G8サミットに向けた共同声明」を手渡す[[日本学術会議会長]][[金澤一郎]](左)([[2008年]][[6月10日]])<ref>“[https://warp.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/11236451/www.kantei.go.jp/jp/hukudaphoto/2008/06/10kyoudou.html 「G8サミットに向けた共同声明」手交 平成20年6月10日]”. ''総理の動き''. [[首相官邸]]. [http://www.kantei.go.jp/jp/hukudaphoto/2008/06/10kyoudou.html オリジナル]の2019年1月7日時点のアーカイブ. 2020年10月22日閲覧。</ref>]] |
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[[先進国首脳会議|G7・G8サミット]]に合わせて、サミットに参加する国と関連国のアカデミーと共同で、Gサイエンス学術会議を開催している。G8時代は[[ロシア]]も参加しており、2008年における関連国は[[ブラジル]]、[[中華人民共和国]]、[[インド]]、[[メキシコ]]、[[南アフリカ共和国]]であった。まとめられた共同声明は、会長から[[内閣総理大臣]]に手渡されている<ref>“[http://www.scj.go.jp/ja/int/g8/past.html Gサイエンス学術会議共同声明]”. ''国際活動''. 日本学術会議. 2020年10月22日閲覧。</ref>。2016年の会議では「将来の科学者育成」も取り上げられ、2019年には日本学術会議の[[#若手アカデミー|若手アカデミー]]から2名がGサイエンス学術会議に出席している{{R|北村2016}}。 |
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==== アジア学術会議 ==== |
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[[2011年]](平成23年)10月1日 - [[2014年]](平成26年)9月30日 |
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{{See also|アジア学術会議}} |
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1993年から1999年まで、日本がホストとして[[アジア]]の10か国{{Efn|[[インド]]、[[インドネシア]]、[[シンガポール]]、[[タイ]]、[[大韓民国]]、[[中華人民共和国]]、[[日本]]、[[フィリピン]]、[[ベトナム]]、[[マレーシア]]の10か国{{R|JSME1995}}。}}から科学者の代表を集めたアジア学術会議「The Asian Conference on Scientific Cooperation(ACSC)」というフォーラムを開催していた{{R|西島1997|土居2007}}。フォーラム開催には日本学術会議の予算から約2000万円を使用しており、将来的には各国で分担金を持ち寄る形式に移行することが課題になっていた{{R|西島1997}}{{Efn|1995年度には約11億円の日本学術会議予算のうち2220万5000円が計上されていた{{R|日本学術会議だより1995}}。}}。 |
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2001年には[[アジア学術会議]]「The Scicence Council of Asia(SCA)」となり{{R|土居2007}}、開催場所も[[バンコク]](2001年)、[[クアラルンプール]](2002年)、[[バリ島|バリ]](2003年)、[[ソウル特別市|ソウル]](2004年)と持ち回りになった{{R|黒川2004}}。参加国は2004年に[[モンゴル]]が加わり{{R|土居2007}}、2015年には16か国<ref>「[https://doi.org/10.5363/tits.20.7_7 第15回アジア学術会議を開催]」『学術の動向』第20巻第7号、2015年、7頁。</ref>、2020年現在は18か国が参加している{{R|SCA}}。なお、2014年には[[中華民国|台湾]]の[[中央研究院]](アカデミア・シニカ)も正式加盟した{{R|SCA}}。アジア学術会議は日本学術会議に事務局が置かれており{{R|SCA}}、当初は日本学術会議会長が事務局長を兼任していた{{R|土居2007}}。なお、会長は会議の開催国から出すことになっている{{R|土居2007}}。 |
|||
{| class="wikitable" style="width:40%" |
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|- |
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! style="width:25%" | 会長 |
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| style="width:75%" | [[大西隆]](土木工学・建築学) |
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|} |
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==== IGBP計画 ==== |
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{| class="wikitable" style="width:100%" |
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[[ファイル:Isamu Kayane Keizo Obuchi and Hiroyuki Yoshikawa cropped Isamu Kayane Keizo Obuchi and Hiroyuki Yoshikawa 19990412.jpg|thumb|200px|[[内閣総理大臣]][[小渕恵三]](中央)に勧告を手渡す[[日本学術会議会長]][[吉川弘之]](右)と日本学術会議IGBP専門委員会[[委員長]]榧根勇(左)([[1999年]][[4月12日]])]] |
|||
[[1986年]]、[[国際科学会議]](ICSU)が「[[地球圏・生物圏国際協同研究計画]]」(International Geosphere-Biosphere Programme、IGBP計画)を制定する{{R|勧告1999}}。 |
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日本学術会議は日本もこれに参加するため、1990年4月に「地球圏-生物圏国際協同研究計画(IGBP)の実施について」を政府へ勧告し{{R|勧告1999|土屋1994}}、[[文部省]]はこれを受けて 「大学等における地球圏―生物圏国際協同研究計画(IGBP)の推進について」を建議した{{R|半田1996}}。IGBP計画は「地球の変化を、地球圏と生物圏の相互作用に重点をおいて解明することをめざした研究計画」であり{{R|吉野1991}}、2000年以降も延長されることになったため、日本学術会議は1999年4月に「地球圏-生物圏国際協同研究計画(IGBP)の促進について」を勧告している{{R|勧告1999|IGBP1999}}。 |
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=== 予算規模 === |
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1993 - 1995年度における内訳は以下の通りで{{R|日本学術会議だより1994|日本学術会議だより1995}}、2020年の時点でも国際関係の活動として総額2億円を計上している{{R|産経20201005}}。なお、上述のように「[[アジア学術会議]]」は1993年から1999年まではフォーラムとして日本学術会議により開催されていた{{R|土居2007}}。また、2000年の時点では国際会議に対して年間8件を対象とし、1件あたり500万円から1000万円を援助していたという{{Sfn|大瀧|2001}}{{Efn|1953年(昭和28年)には1件、1954年はなし。1955-1966年は年に1~3件、1967-1976年は年に3~5件、1977-1989年は毎年4件、1990-1995年は毎年6件と変遷している{{Sfn|学術の動向|1996|p=40}}。}}。 |
|||
{|class="wikitable" style="margin:0 auto;font-size:small" |
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! |
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!1993年度 |
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!1994年度 |
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!1995年度 |
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|- |
|- |
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!総額(国際学術交流関係費) |
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! style="width:10%" | |
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|2億2,125万4千円 |
|||
! style="width:30%" | 組織運営等担当 |
|||
|2億2,664万6千円 |
|||
! style="width:30%" | 政府との関係等担当 |
|||
|2億{{0|0,}}875万{{0|0千}}円 |
|||
! style="width:30%" | 国際活動担当 |
|||
|- |
|||
! 副会長 |
|||
| [[武市正人]](情報学){{fontsize|small|〈2013年4月まで〉}}<br/>[[小林良彰]](政治学){{fontsize|small|〈2013年4月から〉}} |
|||
| [[小林良彰]](政治学){{fontsize|small|〈2013年4月まで〉}}<br/>[[家泰弘]](物理学){{fontsize|small|〈2013年4月から〉}} |
|||
| [[春日文子]](健康・生活科学) |
|||
|} |
|||
{| class="wikitable" style="width:100%" |
|||
|- |
|- |
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!style="text-align:left"|[[#国際学術機関の構成員|国際分担金]] |
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! style="width:10%" | |
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|{{0|0億}}7,472万2千円 |
|||
! style="width:30%" | 第一部(人文・社会科学) |
|||
|{{0|0億}}6,745万{{0|0千}}円 |
|||
! style="width:30%" | 第二部(生命科学) |
|||
|{{0|0億}}6,952万5千円 |
|||
! style="width:30%" | 第三部(理学・工学) |
|||
|- |
|- |
||
!style="text-align:left"|[[#共同主催国際会議|国際会議国内開催]] |
|||
! 部長 |
|||
|{{0|0億}}7,354万3千円 |
|||
| [[佐藤学 (教育学者)|佐藤学]](心理学・教育学) |
|||
|{{0|0億}}8,617万2千円 |
|||
| [[山本正幸]](基礎生物学) |
|||
|{{0|0億}}6,621万1千円 |
|||
| [[家泰弘]](物理学){{fontsize|small|〈2013年4月まで〉}}<br/>[[荒川泰彦]](総合工学){{fontsize|small|〈2013年4月から〉}} |
|||
|- |
|- |
||
!style="text-align:left"|[[#代表派遣事業|代表派遣]] |
|||
! 副部長 |
|||
|{{0|0億}}4,400万6千円 |
|||
| [[大沢真理]](経済学) |
|||
|{{0|0億}}4,400万6千円 |
|||
| [[生源寺眞一]](農学) |
|||
|{{0|0億}}4,400万6千円 |
|||
| [[荒川泰彦]](総合工学){{fontsize|small|〈2013年4月まで〉}}<br/>[[巽和行]](化学){{fontsize|small|〈2013年4月から〉}} |
|||
|- |
|- |
||
!style="text-align:left"|[[#二国間学術交流|二国間交流]] |
|||
! rowspan="2" | 幹事 |
|||
|{{0|0億}}{{0|0,}}682万3千円 |
|||
| [[後藤弘子]](法学){{fontsize|small|〈2014年4月まで〉}}<br/>[[井野瀬久美惠]](史学){{fontsize|small|〈2014年4月から〉}} |
|||
|{{0|0億}}{{0|0,}}682万3千円 |
|||
| [[須田年生]](基礎医学) |
|||
|{{0|0億}}{{0|0,}}682万3千円 |
|||
| [[巽和行]](化学){{fontsize|small|〈2013年4月まで〉}}<br/>[[相原博昭]](物理学){{fontsize|small|〈2013年4月から〉}} |
|||
|- |
|- |
||
!style="text-align:left"|[[#アジア学術会議|アジア学術会議の開催]] |
|||
| [[丸井浩]](哲学){{fontsize|small|〈2014年4月まで〉}}<br/>[[杉田敦 (政治学者)|杉田敦]](政治学){{fontsize|small|〈2014年4月から〉}} |
|||
|{{0|0億}}2,216万{{0|0千}}円 |
|||
| [[長野哲雄]](薬学) |
|||
|{{0|0億}}2,219万5千円 |
|||
| [[土井美和子]](情報学) |
|||
|{{0|0億}}2,220万5千円 |
|||
|} |
|} |
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== 政府への影響の隆盛と停滞 == |
|||
=== 第23期 === |
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=== 勧告・答申・提言などの違い === |
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[[ファイル:Takashi Onishi Shinzo Abe and Shunichi Yamaguchi cropped Takashi Onishi Shinzo Abe and Shunichi Yamaguchi 20150507.jpg|thumb|200px|[[内閣総理大臣]][[安倍晋三]](中央)と[[内閣府特命担当大臣(科学技術政策担当)]][[山口俊一]](右)に声明を手渡す[[日本学術会議会長]][[大西隆]](左)(2015年5月7日)]] |
|||
日本学術会議は政府に対する勧告や答申、外部に対して見解、声明、談話などの公表を行っており{{Sfn|学術の動向|1996|p=25}}、 |
|||
* 勧告 - 「科学的な事柄について、政府に対して実現を強く勧めるもの」 |
|||
* 要望 - 「科学的な事柄について、政府及び関係機関等に実現を望む意思表示をするもの」 |
|||
* 声明 - 「科学的な事柄について、その目的を遂行するために特に必要と考える事項について、意思等を発表するもの」 |
|||
* 答申 - 「専門科学者の検討を要する事柄についての政府からの問いかけに対する回答」 |
|||
* 提言 - 「科学的な事柄について、部、委員会又は分科会が実現を望む意見等を発表するもの」 |
|||
* 会長談話 - 「緊急な課題等について、日本学術会議会長から発する談話」 |
|||
といった違いがある{{R|提言・報告等}}。なお、外部への提案書には[[英語]]版や[[中国語]]版を出す場合がある<ref>“[https://www.keguanjp.com/kgjp_keji/kgjp_kangzai/pt20171102095236.html 专访日本学术会议分科会委员长和田章:大城市的地震预防对策刻不容缓]”. ''客观日本''. (2017年11月2日) 2020年10月18日閲覧。</ref><ref>日本學術會議 農學委員會 農業經濟學分科會 (2011年6月20日). “[http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-21-t125-1e3.pdf| 圍繞糧食・農業・環境問題強化東北亞合作]”. 日本学術会議. 2020年10月18日閲覧。</ref><ref>日本学术会议 农学委员会 农业经济学分科会 (2011年6月20日). |
|||
“[http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-21-t125-1e2.pdf 围绕粮食・农业・环境问题强化东北亚合作]”. 日本学術会議. 2020年10月18日閲覧。</ref><ref>日本学术会议 土木工程与建筑学委员会 大城市应对大地震防灾减灾分委会 (2017年8月23日). “[http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-23-t249-1-cn.pdf 走向不会发生大震灾的城市]”. 日本学術会議. 2020年10月18日閲覧。</ref>。 |
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=== 実績と推移、他機関の影響 === |
|||
[[2014年]](平成26年)10月1日 - [[2017年]](平成29年)9月30日 |
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[[ファイル:Ichiro Kanazawa and Tetsuzo Fuyushiba cropped Ichiro Kanazawa and Tetsuzo Fuyushiba 20070530.jpg|thumb|200px|[[国土交通大臣]][[冬柴鐵三]](右)に答申を手渡す[[日本学術会議会長]][[金澤一郎]](左)([[2007年]][[5月30日]])]] |
|||
日本学術会議は政府への勧告により、[[東京大学]][[東京大学原子核研究所|附置原子核研究所]]など多くの[[共同利用・共同研究拠点|共同利用研究所]]の設立を実現させた{{Sfn|高岩|2017|p=591}}{{R|兼重1959|武部2003}}。また、1954年には「原子力研究と利用に関し公開、民主、自主の原則を要求する声明」([[原子力]]研究3原則)を提言{{Sfn|郷|1999}}{{Sfn|学術の動向|1996|p=24}}{{R|小沼2002|大西2015}}{{Efn|name="3原則"}}。1955年には、1957年に南極学術探検隊を派遣する会長談を公表し、政府にも提言{{R|梶2004|友次2013}}。設営や派遣員の人選などを日本学術会議「[[南極特別委員会]]」で推進した{{R|梶2004}}。 |
|||
当初は日本学術会議と政府の間を科学技術行政協議会(STAC)が取り持ち、提言を行政に反映させていた{{Sfn|高岩|2017}}{{Efn|会長を務めた[[伏見康治]]によると、科学技術行政協議会に出席する委員を日本学術会議から推薦し、政府がその人物を委員として発令することになっていた{{R|時代の証言}}。しかし、[[羽仁五郎]]と山田勝三郎については政府は発令を出さず、欠員を生じながら協議会が開催されていたという{{R|時代の証言}}。}}。しかし[[科学技術庁]]ができてSTACが同庁の科学技術審議会と衣替えし、さらに[[科学技術会議]]が発足していくと、「学術会議の提言等を実施に移す専用のルートが実質的になくなり担当する省庁の判断に任せられることとなった」と言われている{{Sfn|高岩|2017}}。また、2005年の改革では[[総合科学技術会議]]と提言する内容に重複がないように棲み分けが図られた{{Sfn|郷|2003}}。 |
|||
{| class="wikitable" style="width:40%" |
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|- |
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! style="width:25%" | 会長 |
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| style="width:75%" | [[大西隆]](土木工学・建築学) |
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|} |
|||
第1期から第16期までの実績を以下の表に示す{{Sfn|学術の動向|1996|p=25}}。ただし、会長談話は第14期から、対外報告は第13期から始まったものである{{Sfn|学術の動向|1996|p=25}}。 |
|||
{| class="wikitable" style="width:100%" |
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{|class="wikitable" style="margin:0 auto;font-size:small" |
|||
|- |
|- |
||
! |
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! style="width:10%" | |
|||
!政府勧告 |
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! style="width:30%" | 組織運営等担当 |
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! |
!政府への要望 |
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!公表された見解、声明 |
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! style="width:30%" | 国際活動担当 |
|||
!会長談話 |
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|- |
|||
!対外報告 |
|||
! 副会長 |
|||
| [[向井千秋]](総合工学、臨床医学) |
|||
| [[井野瀬久美惠]](史学) |
|||
| [[花木啓祐]](環境学、土木工学・建築学) |
|||
|} |
|||
{| class="wikitable" style="width:100%" |
|||
|- |
|- |
||
!style="text-align:left"|第1-12期(1949-1985年){{R|歴代会長}} |
|||
! style="width:10%" | |
|||
|style="text-align:right"|平均20件<br>(通算240件) |
|||
|style="text-align:right"|平均28.4件<br>(通算341件) |
|||
|style="text-align:right"|平均7.5件<br>(通算90件) |
|||
|{{sdash}} |
|||
|{{sdash}} |
|||
|- |
|- |
||
!style="text-align:left"|第13期(1985-1988年){{R|歴代会長}} |
|||
! 部長 |
|||
|style="text-align:right"|5件 |
|||
| [[小森田秋夫]](法学、地域研究){{fontsize|small|〈2016年9月まで〉}}<br/>[[杉田敦 (政治学者)|杉田敦]](政治学){{fontsize|small|〈2016年10月から〉}} |
|||
|style="text-align:right"|3件 |
|||
| [[長野哲雄]](薬学) |
|||
|style="text-align:right"|2件 |
|||
| [[相原博昭]](物理学) |
|||
|{{sdash}} |
|||
|style="text-align:right"|16件 |
|||
|- |
|- |
||
!style="text-align:left"|第14期(1988-1991年){{R|歴代会長}} |
|||
! 副部長 |
|||
|style="text-align:right"|5件 |
|||
| [[杉田敦 (政治学者)|杉田敦]](政治学){{fontsize|small|〈2016年10月まで〉}}<br/>[[三成美保]](法学、史学){{fontsize|small|〈2016年10月から〉}} |
|||
|style="text-align:right"|1件 |
|||
| [[大政謙次]](農学、環境学) |
|||
|style="text-align:right"|1件 |
|||
| [[土井美和子]](情報学、電気電子工学) |
|||
|style="text-align:right"|3件 |
|||
|style="text-align:right"|16件 |
|||
|- |
|- |
||
!style="text-align:left"|第15期(1991-1994年){{R|歴代会長}} |
|||
! rowspan="2" | 幹事 |
|||
|style="text-align:right"|1件 |
|||
| [[小松久男]](地域研究、史学) |
|||
|style="text-align:right"|4件 |
|||
| [[石川冬木]](基礎生物学、基礎医学) |
|||
|style="text-align:right"|2件 |
|||
| [[大野英男]](総合工学、電気電子工学) |
|||
|style="text-align:right"|7件 |
|||
|style="text-align:right"|61件 |
|||
|- |
|- |
||
!style="text-align:left"|第16期(1994-1997年){{R|歴代会長}} |
|||
| [[恒吉僚子]](心理学・教育学){{fontsize|small|〈2016年10月まで〉}}<br/>[[藤原聖子 (宗教学者)|藤原聖子]](哲学){{fontsize|small|〈2016年10月から〉}} |
|||
|style="text-align:right"|1件 |
|||
| [[福田裕穂]](基礎生物学) |
|||
|style="text-align:right"|1件 |
|||
| [[川合眞紀]](化学) |
|||
|style="text-align:right"|0件 |
|||
|style="text-align:right"|2件 |
|||
|style="text-align:right"|12件 |
|||
|} |
|} |
||
[[ファイル:Ichiro Kanazawa and Sanae Yamamoto cropped Ichiro Kanazawa and Sanae Yamamoto 20070125.jpg|thumb|200px|[[特命担当大臣|内閣府特命担当大臣(イノベーション担当)]][[高市早苗|山本早苗]](右)に報告を手渡す[[日本学術会議会長]][[金澤一郎]](左)([[2007年]][[1月25日]])]] |
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2020年10月には、2010年8月を最後に勧告が行われていないことが問題視された{{R|読売20201009}}。なお、上記表に「提言」は含まれない。日本学術会議における「提言」とは、「科学的な事柄について、部、委員会又は分科会が実現を望む意見等を発表するもの」を指し{{R|提言・報告等}}、2008年以降「提言」は321件行われている{{R|buzzfeed20201009}}。ただし、提言については政府の担当者にメールで送るだけという批判もある{{R|読売20201015}}。なお「勧告」は政府がそれを受けると必ず何らかの対処をする必要があり{{Sfn|大瀧|2001}}、日本学術会議会長経験者の[[大西隆]]は2020年の取材で、一方的で「強い性格を帯びる」勧告は昔より使われなくなったと答えている{{R|四国20201010}}。 |
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また、政府から受けた諮問に対して答申を返しており、その内訳は第1期22件、第2期15件、第3期13件、第4期9件、第5期7件という実績であった{{Sfn|学術の動向|1996|p=25}}。ちなみに日本学術会議が第5期であった1960年(昭和35年)に、科学技術会議が第1号の政府答申を行っている{{R|佐々木1961}}。2005年の改革では総合科学技術会議と棲み分けられ{{Sfn|郷|2003}}、総合科学技術会議と日本学術会議は「車の両輪」と言われるようになったが{{Sfn|郷|2003|p=342}}{{Sfn|生駒|2006|p=49}}{{R|篠田2004}}、[[東京大学]][[名誉教授]]の[[生駒俊明]]は「現実にはそうなっていない」と懸念していた{{Sfn|生駒|2006|p=49}}。2007年以降は政府からの諮問がなくなり、2020年10月現在まで答申は出ていない。しかし、2007年以降も政府や官庁から「審議依頼」を受けた上で審議し、報告をまとめているケースが2020年10月現在10件ある{{R|NHK20201007|buzzfeed20201009}}。 |
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=== 第24期 === |
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なお、[[1962年]]3月7日には、当時[[通商産業大臣]]であった[[愛知揆一]]が当時上野にあった日本学術会議を訪問。「学者たちが研究費に困っていると聞いて、じかに話を聞こう」と愛知自ら赴いたもので、[[朝永振一郎]]、[[湯川秀樹]]、[[坂田昌一]]、[[後藤以紀]]、[[茅誠司]]らの声に耳を傾けた。朝永は加速器などの機械の問題や基礎研究の概念の変化について解説し、湯川は境界領域の研究の重要性とそれへの研究費・財政制度の未対応を、坂田は国際協力を進める上での問題点を訴えた。また、後藤は「“特別研究費”もさることながら、“経常研究費”の割合を増やさないと創造的な研究はできない。自由な研究が、学問発展のもと」と訴え、茅も講座研究費を戦前なみにすべきと要望した<ref>[[藤岡信勝]](代表著者)『学者の森 上』毎日新聞社、1963年(1966年第8刷)、114-116頁。</ref>。 |
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[[2017年]](平成29年)10月1日 - [[2020年]]9月30日 |
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=== 研究所設立勧告 === |
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1955年には日本学術会議の勧告で[[東京大学]]に[[東京大学原子核研究所|附置原子核研究所]]が設立される{{Sfn|高岩|2017|p=591}}。さらに[[東京大学定量生命科学研究所|東京大学応用微生物研究所]]、[[東京大学物性研究所]]、[[大阪大学蛋白質研究所]]など多くの共同利用研究所の設立を勧告により実現させた{{R|兼重1959|武部2003}}。なお1953年に[[京都大学基礎物理学研究所]]が設立されているが、これは京都大学と日本学術会議が[[湯川秀樹]]の[[ノーベル物理学賞]]受賞の記念事業として設置させた、湯川記念館が前進である{{R|五十嵐2006|小長谷2017}}。 |
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! style="width:25%" | 会長 |
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| style="width:75%" | [[山極寿一]](総合生物学、地域研究) |
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|} |
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一方、実験地学研究所(のちに固体地球科学研究所)構想は難航した{{R|渡辺1963|渡辺1969|床次1971}}。[[1963年]]、実験地学研究所設立問題をめぐってシンポジウムが開催される{{R|渡辺1963}}。その後1965年(昭和40年)の第44回総会で「固体地球科学研究所」として採択され、12月に政府に勧告される{{R|渡辺1969}}。その後[[名古屋大学]]の附置研究所となること、[[豊川市]]に用地を確保するなど具体化して[[概算要求]]を重ねていったが、計画はなかなか認められなかった{{R|床次1971}}。 |
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|- |
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! style="width:10%" | |
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! style="width:30%" | 組織運営等担当 |
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! style="width:30%" | 政府との関係等担当 |
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! style="width:30%" | 国際活動担当 |
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|- |
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! 副会長 |
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| [[三成美保]](法学、史学) |
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| [[渡辺美代子]](総合工学、電気電子工学) |
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| [[武内和彦]](環境学) |
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|} |
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[[立命館大学]]教授の大瀧仁志は2001年の[[電気化学会]]の会誌に、「勧告された研究所を全部設立させると、当時の国家総予算を上回る経費が必要」になるような「到底良識のある『学者の国会』と呼ばれるには相応しくない、無節操な政策」が提案されたとし、「政府当局の顰蹙をかったことは事実のようである」と記しており{{Sfn|大瀧|2001}}、[[文部省]]の原現吉はいつの間にか消えてしまった研究所案も多かったと指摘している{{R|原1982}}。 |
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{| class="wikitable" style="width:100%" |
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=== 科研費に関する権限 === |
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かつて日本学術会議(以下、学術会議)は研究費に関する諮問に対して答申をする役割があり、「[[科学研究費助成事業|科学研究費]](科研費)」や「科学試験研究費」の予算配分を決めていた{{Sfn|高岩|2017|p=591}}。また、2005年の改革前まで[[日本学術振興会]]に対して科研費の審査員も推薦していた{{Sfn|宮嶌|2003}}{{Sfn|生駒|2006}}。 |
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[[文部省]]で1967年に学術審議会が新設され、1968年度からの審査方法や審査委員の選出方法を変更した際、学術会議は文部省と対立{{Sfn|高岩|2017|p=591}}{{R|阪下1968|原1982}}。文部省は「学術会議が定数よりも多い候補者を推薦し、文部省がその中から選んで任命する」案で、学術会議側は「(学術会議が推薦した候補者を)文部省は選別しないでそのまま任命する」案を要求したが、学術会議はその年の委員推薦を事実上拒否した{{Sfn|高岩|2017|p=591}}{{R|阪下1968}}(''詳細は節「[[#科研費審査委員の推薦拒否]]」を参照'')。 |
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1969年の科研費配分では試験的な計算式が導入されたといい、第1部と第7部の分科が細分化されていることに伴う審査員のアンバランスを是正するため、研究費委員会はアンケートを取った末に「科学研究費配分にかかる分科・細目・配分委員数に関する試案」を制定した{{R|ファルマシア1969}}。2000年からは学協会を通じて学術会議は審査員の推薦をするようになり{{Sfn|大瀧|2001}}、2005年の改革で学術会議は推薦権を失った{{Sfn|生駒|2006}}。 |
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=== 科研費審査委員の推薦拒否 === |
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[[文部省]]で1967年に学術審議会(当時は[[茅誠司]]が会長)が新設された頃、1968年度から科研費の審査方法や審査委員の選出方法を変更することになっていた{{R|原1982}}。審査委員の選出方法について学術会議は文部省と対立{{Sfn|高岩|2017|p=591}}{{R|阪下1968|原1982}}。文部省は「学術会議が定数よりも多い候補者を推薦し、文部省がその中から選んで任命する」案を提示したが、学術会議側は「(学術会議が推薦した候補者を)文部省は選別しないでそのまま任命する」修正案を要求した{{Sfn|高岩|2017|p=591}}{{R|阪下1968}}。学術審議会の茅会長は仲裁のため学術会議側の案に近い茅提案を出すが、学術会議は応じなかった{{R|原1982}}。 |
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当該年度から科研費が大幅に増額されたため(前年度の約41億円から約50億円へ増額)、文部省側にはその審査を急ぎたい事情があったが{{R|原1982}}、学術会議は「新方式は学術会議のフィロソフィにかかわる重大な変更であり、十分な検討を要する以上、本年度の審査委員推薦には応じられない」と回答した{{Sfn|高岩|2017|p=591}}{{R|阪下1968}}。当初、学術会議の研究費委員会は新方式に好意的であったため、文部省側で科研費特別委員会主査として折衝していた元[[東京大学物性研究所]] 所長の武藤俊之助{{Efn|当時は[[日本大学]]教授<ref>“[https://kotobank.jp/word/武藤%20俊之助-1656444 武藤 俊之助(読み)ムトウ トシノスケ]”. ''[[コトバンク]]''. 2020年10月20日閲覧。</ref>。}}は、「あれは背信行為」と後々まで語っていた{{R|原1982}}。 |
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なお、学術会議側には「学問研究の官僚統制、個々の研究者の政治支配を可能にする、と疑われても仕方のない改訂」という認識があった{{R|阪下1968}}。一方で、文部省の原現吉は1982年の著書で、学術会議では茅提案を受け入れる意見が大勢であったが少数意見がそれを覆したことを指摘し、学術会議の一部の勢力は問題を大きくして文部省に責任を負わせ、科研費の審査権限を文部省から取り上げようとする謀略を持っていたのではないかと推測している{{R|原1982}}。 |
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1968年4月には、学術会議会員と学協会代表が懇談する「科学研究費補助金に関する懇談会」を開催し、会長の[[朝永振一郎]]が状況を説明{{R|阪下1968}}。そこでも学術会議側の対応が支持された{{R|阪下1968}}。結果的に学術会議は同年度の委員推薦を「事実上拒否した形」になり{{Sfn|高岩|2017|p=591}}、文部省側が審査委員の選定にあたることになった{{R|阪下1968|原1982}}。実質的には学術審議会と各種学協会が選定を担ったが、協力を拒否した学協会もあった{{R|原1982}}。また、後に科研費が採択されても新方式に反対だからと科研費を辞退した研究者の事例も3件あったという{{R|原1982}}。 |
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なお、本件は各種新聞でも大きく報道され、全体的に旧方式に関しては否定的な論調であった{{R|原1982}}。学術会議と文部省の対立については、「学問の自由を侵される」という見解を載せる新聞もある一方で、1968年3月29日付の『[[朝日新聞]]』の社説は、学術会議は自己反省や謙虚さに欠け「国民大衆を忘れ」ていると指摘し、会員の老害化により「一般研究者からも次第に遊離されつつある」とし、学術会議は国民の関心も失いつつあるという批判を掲載していた{{R|原1982}}。 |
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== 連携・コミュニケーション == |
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=== 地区活動・地方学術会議 === |
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研究者による直接選挙だった時代には地方区の枠があり、そのため選挙制度が改訂される第12期までは「地方区会議」が設置されていた{{R|北村1997}}。その後「地区会議」に衣替えし、地域と日本学術会議を結ぶ窓口として機能する{{R|北村1997}}。特に近畿地区は第15期に「学術文化懇談会」を設け、近畿地区会議と近畿の府県をつなぐ役割を果たした{{R|北村1997}}。また、2018年から「地方学術会議」が開催されるようになり、その第1回目は[[京都]]で「日本学術会議in京都」として開催されている{{R|伊藤2019}}。 |
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=== 若手アカデミー === |
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[[File:Global_Young_Academy_at_the_Leopoldina_in_Halle,_Germany.jpg|thumb|right|200px|{{仮リンク|グローバル・ヤング・アカデミー|en|Global Young Academy}}(GYA)創立10周年記念総会(2019年、[[ドイツ]]の[[国立科学アカデミー・レオポルディーナ]]で開催){{R|新福2020}}。第1回総会には、日本学術会議の若手アカデミー委員会メンバーが参加している{{R|竹村2011|新福2020}}。]] |
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[[2000年]]に[[ドイツ]]で{{仮リンク|若手アカデミー (ドイツ)|de|Junge Akademie}}が発足しており{{R|中村2010}}、日本学術会議でも2009年6月に「若手アカデミー委員会」が活動を開始する{{R|竹村2011}}。さらに翌2010年には実働部隊として「若手アカデミー活動検討分科会」も設置され、同年に開催された{{仮リンク|グローバル・ヤング・アカデミー|en|Global Young Academy}}(GYA)に代表を送り込む{{R|竹村2011}}。なお、GYAは2019年時点で83の国から200名の若手研究者が集まって構成され、5年任期で約40名が毎年改選される{{R|新福2020}}。日本は設立時には4名の会員を送り込み、その後も執行委員会委員や個別活動のリーダーを排出した{{R|竹村2011}}。 |
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[[東日本大震災]]後の2011年3月下旬に開催された第1回GYA総会では、駒井章治が「被災若手科学者支援プロジェクト」を提案した{{R|竹村2011}}。同年、若手アカデミー委員会は各学協会に連携を呼びかけ、2014年4月の時点で85団体が参加している{{R|白石2015}}。第23期には常設の組織として「若手アカデミー」(Young Academy of Japan、略称YAJ)<ref>新福洋子「[https://doi.org/10.5363/tits.25.4_3 表紙の画]」『学術の動向』第25巻第4号、2020年、3頁。</ref>{{R|岸村2020}}が設置され{{R|若手アカデミー}}、「若手科学者ネットワーク分科会」や「若手による学術の未来検討分科会」「国際分科会」などが活動している{{R|竹村2016}}。 |
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2016年には第1回若手科学者サミットを開催{{R|竹村2016}}。若手アカデミー世界大会にも代表を送り込み、2013年から始まったアジア若手科学者会議は日本が主催している{{R|北村2016}}{{Efn|アジア若手科学者会議では「持続可能な環境へ向けて明確なインパクトをもたらすこと-若手科学者たちのレンズを通して主要課題や可能な解決策を考える-」という宣言が採択されている{{R|北村2016}}。}}。2019年には日本学術会議の若手アカデミーから2名が[[#Gサイエンス学術会議|Gサイエンス学術会議]]の会合に参加{{R|新福2020}}。[[科学技術と人類の未来に関する国際フォーラム]](STSフォーラム)にも代表者が出席し、{{仮リンク|世界科学フォーラム|en|World Science Forum}}や筑波会議では独自のセッションを企画している{{R|安田2020|岸村2020}}。 |
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日本学術会議の委員会では45歳以下を若手としているが{{R|北村2016}}、関連各学協会の若手研究者組織では年齢基準はまちまちで、50歳代の幹事がいる場合もある{{R|竹村2016}}。他の国ではシニアのアカデミーと若手アカデミーが独立した組織になっていたり、シニアと若手で構成員の条件が違っており、多くの国では40歳以下を若手としている{{R|北村2016}}。また、ドイツの若手アカデミーでは選出時点で学位取得後7年以内という条件がある{{R|中村2010}}。 |
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== 刊行物・広報 == |
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=== 月刊誌・ニュース === |
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日本学術会議は創立当初から毎月、会員に対して |
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*『日本学術会議月報』第1巻第1号、1951年1月 - 第5巻第6号、1955年6月、{{Ncid|AN00410327}}。 |
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*『JSCニュース』{{R|利谷1996}} |
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*『日本学術ニュース』第1巻第1号、1957年3月 - 第4巻第3号、1960年3月、{{Ncid|AN00410316}} |
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*『日本学術会議月報』第1巻第1号、1960年4月 - 第37巻第3号、1996年3月、{{Ncid|AN00343434}} |
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といった会報を配布していた。これらは日本学術会議事務局、および同広報委員会によるもので、日本学術会議の予算で賄われていた{{R|利谷1996}}。また、1951年の時点で発行していた月報、総会記録、運営審議会記録は、学会や各種研究機関を通して周知し、会員外にも年額500円で販売していた{{R|亀山1951}}。 |
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なお、日本学術会議が総会100回を迎えた1986年から、各種学会の機関紙に日本学術会議広報委員会文責の「日本学術会議だより」を掲載するようになる{{R|ファルマシア1986}}。ただし、会報として日本学術会議だよりの抜粋を記すだけの学会もあり<ref>「[https://doi.org/10.20633/tochiseido.28.3_73 会報 日本学術会議第100回総会について]」『土地制度史学』第28巻第3号、1985年、76頁。</ref>、1995年時点では[[日本学術協力財団]]の文責になっている{{R|人工知能1996}}。また、これとは別に日本学術会議会員が所属学会誌に「日本学術会議だより」{{R|宮崎2008}}や「学術会議だより」{{Sfn|郷|1999}}{{Sfn|野尻|2018}}として記事を記すこともある。 |
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外部への広報を強化するため、月報は1996年(平成8年)に |
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*『学術の動向』{{Ncid|AN10527590}} |
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としてリニューアルされた。これは[[日本学術協力財団]]から発行されており、購読者から購読料を取る形式に変更になっている{{R|利谷1996}}。[[2009年]](平成21年)12月21日には、[[J-STAGE]]での公開も始まった<ref>[[日本学術協力財団]] 編集・発行. “[https://www.jstage.jst.go.jp/browse/tits/1/1/_contents/-char/ja 学術の動向 1巻,1号]”. ''[[J-STAGE]]''. [[科学技術振興機構]]. 2020年10月13日閲覧。</ref>。 |
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=== 書籍・年史 === |
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日本学術会議の編集により |
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* 日本學術會議編『學問・思想の自由のために』[[北隆館]]、1950年4月、{{Ncid|BN09576021}}{{Efn|共著者 - [[亀山直人]]、[[羽仁五郎]]、[[大内兵衛]]、[[坂田昌一]]、[[末川博]]、[[我妻栄]]<ref>{{Ncid|BN09576021}}</ref>。}}。 |
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* 日本学術会議編『全国研究機関総覧 昭和34年版』[[日本学術振興会]]発行、[[丸善]]発売、1959年12月、{{Ncid|BA37064401}}。 |
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が出版されており、さらに日本学術会議の講演会を基にして[[日本学術協力財団]]から |
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* 〈日学双書〉{{Ncid|BN00933403}}。 |
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* 〈日本学術叢書〉{{Ncid|BA74102984}}。 |
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といったシリーズが刊行されている{{R|人工知能1996|日本学術協力財団2015}}。 |
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なお、 |
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* 日本学術会議 編『日本学術会議25年史』日本学術会議、1974年3月、{{Ncid|BN03405773}}。 |
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** 日本学術会議25年史普及版編集委員会編『日本学術会議25年史』学術資料頒布会、1977年7月、{{Ncid|BA31737157}}、{{Ncid|BA73333212}}。 |
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* 日本学術会議 編『日本学術会議50年史』日本学術会議、1999年3月、{{Ncid|BA41012707}}。 |
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** 日本学術会議 編『日本学術会議50年史』日本学術協力財団、1999年3月、{{Ncid|BA48014937}}。 |
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といった25年史、50年史に加え<ref>{{Ncid|BN03405773}}、{{Ncid|BA31737157}}、{{Ncid|BA73333212}}、{{Ncid|BA41012707}}、{{Ncid|BA48014937}}。</ref>、途中で |
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* 日本学術会議編『日本学術会議続十年史 ー 第10期~第12期(1975-1985)ー』日本学術会議、1985年11月、{{Ncid|BN00675556}}。 |
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が編纂されている<ref>{{Ncid|BN00675556}}。</ref>。 |
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また、2020年9月には |
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*「未来からの問い」検討委員会、内閣府日本学術会議事務局 編『未来からの問い ― 日本学術会議100年を構想する ―』日経印刷、2020年9月、{{ISBN2|9784865792348}}。 |
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が出版されており、これは日本学術会議のホームページでも閲覧できる(''「[[#外部リンク]]」節を参照'')。 |
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=== 資料・報告書 === |
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日本学術会議は[[学術研究会議]]の時代から引き続き、 |
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*『Japanese journal of mathematics : transactions and abstracts(日本数學輯報 原著及抄録)』1925-1974年、{{Ncid|AA00690968}}。 |
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*『Japanese journal of botany : transactions and abstracts(日本植物學輯報 原著及抄録)』1922-1975年、{{Ncid|AA00690833}}。 |
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*『Japanese journal of zoology : transactions and abstracts(日本動物學輯報 原著及抄録)』1922-1974年、{{Ncid|AA00249591}}。 |
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*『Japanese journal of geology and geography : transactions and abstracts(日本地質學地理學輯報 原著及抄録)』1922-1975年、{{Ncid|AA00239587}}。 |
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を編纂しており、その後も |
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*『Report of ionosphere research in Japan』1950-1958年、{{Ncid|AA00809958}}。 |
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*『日本農学進歩年報』1954-1980年、{{Ncid|BN01598891}}、{{Ncid|AN00196103}}。 |
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*『農学進歩年報』1981-1986年、{{Ncid|AN00314174}}、 |
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や『現行医学研究題目集』({{Ncid|AN00077046}})、『Recent trends of geographical study in Japan』(1980年Reprint、{{Ncid|BA38050796}})といったものを編集していた。また、[[日本植物学会]]とは[[カール・ツンベルク]]に関する『ツュンベリー研究資料』(1953年3月、{{Ncid|BN02655695}})を共同編纂していた。 |
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なお、日本学術会議からは、 |
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* 日本学術会議[[福井地震]]調査研究特別委員会編『昭和23年福井地震調査研究速報』日本学術会議福井地震調査研究特別委員会、1949年、{{Ncid|BN0211919X}}。 |
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* {{Wikicite|ref={{Sfnref|日本学術会議|1956}} |reference=日本学術会議編『ソ連・中国学術視察報告』日本学術振興会、1956年、{{Ncid|BN09673265}}。}} |
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* 日本学術会議原子爆彈災害調査報告書刊行委員会編『原子爆彈災害調査報告集(第1分冊、第2分冊)』日本学術振興会、1953年、{{Ncid|BN06150464}}。 |
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* 日本学術会議編『原子力シンポジウム報文集』原子力シンポジウム報文集刊行委員会、1957年、{{Ncid|BN07492598}}。 |
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という調査報告が発行された。また、日本学術会議の編集で、大蔵省印刷局により |
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*『基礎科学白書』1959-1962年、{{Ncid|AN10122216}}。 |
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*『科学者生活白書』1959年10月、{{Ncid|BN06798402}}。 |
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*『全国研究機関総覧』1964-1974年、{{Ncid|BN04119055}}、{{Ncid|AN10251412}}(当初は日本学術振興会発行<ref>{{Ncid|AN10251412}}</ref>)。 |
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*『全国学協会総覧』1966-1981年、{{Ncid|AN10153129}}。 |
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*『国際学術団体要覧』1965年版、1971年版、{{Ncid|BN02962945}}。 |
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*『1970年代以降の科学・技術について』1972年、{{Ncid|BN04923263}}。 |
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も発行されている。 |
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== 運営費 == |
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日本学術会議の運営費は、全額国庫負担である{{Sfn|岸|2004}}{{R|望月2020}}。「[[行政機関が行う政策の評価に関する法律]]」(政策評価法)に従い、日本学術会議の活動の事後評価は、日本学術会議事務局自らがおこなっている<ref name="評価200908">日本学術会議事務局 (2009年8月).“[https://www8.cao.go.jp/hyouka/h20hyouka/h20jigo/shingi_honbun.pdf 平成20年度内閣府本政策評価書(事後評価)要旨]”. [[内閣府]]. 2019年12月21日閲覧。</ref>。 |
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=== 予算とその内訳 === |
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日本学術会議の予算規模は約10億円であり{{R|経団連2015}}、イギリスの[[王立協会]]やアメリカの3アカデミーと比較して、収入源の違いはあるものの大幅に少ない{{Sfn|NHK|2020a}}{{Sfn|NHK|2020b}}。1993 - 1995年度における内訳は以下の通り{{R|日本学術会議だより1994|日本学術会議だより1995}}。1994年度の予算が多いのは、会員推薦時期によりその分の経費が計上されたためである{{R|日本学術会議だより1994}}。 |
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{| class="wikitable" style="margin:0 auto;font-size:small" |
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! |
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!1993年度 |
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!1994年度 |
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!1995年度 |
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!style="text-align:left"|総額(日本学術会議の運営に必要な経費) |
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! style="width:10%" | |
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|10億9,582万7千円 |
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! style="width:30%" | 第一部(人文・社会科学) |
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|12億{{0|0,}}128万7千円 |
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! style="width:30%" | 第二部(生命科学) |
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|11億2,339万4千円 |
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! style="width:30%" | 第三部(理学・工学) |
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!style="text-align:left"|審議関係費 |
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! 部長 |
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|{{0}}2億6,552万5千円 |
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| [[佐藤岩夫]](法学) |
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|{{0}}2億7,253万4千円 |
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| [[石川冬木]](基礎生物学、基礎医学) |
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|{{0}}2億9,282万{{0|0千}}円 |
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| [[大野英男]](総合工学、電気電子工学) |
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! 国際学術交流関係費(''[[#国際活動]]も参照'') |
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! 副部長 |
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|{{0}}2億2,125万4千円 |
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| [[藤原聖子 (宗教学者)|藤原聖子]](哲学) |
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|{{0}}2億2,664万6千円 |
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| [[平井みどり]](薬学) |
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|{{0}}2億{{0|0,}}875万{{0|0千}}円 |
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| [[徳田英幸]](情報学) |
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!style="text-align:left"|会員推薦関係費(''[[#会員など]]も参照'') |
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! rowspan="2" | 幹事 |
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|{{0|00}}{{0|億}}1957万4千円 |
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| [[橋本伸也]](史学、地域研究) |
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|{{0}}1億{{0|0,00}}5万5千円 |
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| [[武田洋幸]](基礎生物学) |
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|{{0|00}}{{0|億}}2,000万{{0|0千}}円 |
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| [[高橋桂子 (地球物理学者)|高橋桂子]](地球惑星科学、環境学) |
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!style="text-align:left"|一般事務処理費 |
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| [[町村敬志]](社会学) |
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|{{0}}5億8,947万4千円 |
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| [[丹下健]](農学、環境学) |
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|{{0}}6億{{0|0,}}205万2千円 |
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| [[米田雅子]](土木工学・建築学) |
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|{{0}}6億{{0|0,}}182万4千円{{Efn|1995年度においては「その他の事務費等」という名目で、備考欄に「一般事務処理費等」と記されている{{R|日本学術会議だより1995}}。}} |
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|} |
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2020年10月の[[内閣官房長官]]による発表では、総額は約10億5000万円、「人件費などを含む政府・社会などに対する提言」で2億5000万円、「各国アカデミーとの国際的な活動」で2億円、「科学の役割についての普及・啓発」と「科学者間のネットワーク構築」でそれぞれ1000万円、「事務局人件費・事務費など」で5億5000万円と発表された{{R|産経20201005}}。 |
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なお、2020年度予算で会員手当は、交通費宿泊費を別として会員が総額7500万円、連携会員が総額1億300万円であった{{Sfn|梅野ほか|2020}}。会議の出席に対して日当は出るものの、「手当や旅費支払いの一時凍結や受領辞退」を事務局から会員に依頼する状況であると報道されている{{Sfn|梅野ほか|2020}}。また、事務局の常勤職員50人の人件費として約3億9000万円がかかっていたという{{R|NHK20201010}}。 |
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=== 諸外国との比較 === |
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[[全米科学アカデミー]]は1997年の時点で約210億円の運営費に対して8割が連邦政府との行政レビューや答申の契約による公的資金であり、[[英国王立協会]]は2013年4月からの1年で約97億円の収入のうち約65億円が公的資金であった{{R|望月2020}}。これに関してNPO法人 ファクトチェック・イニシアティブの立岩陽一郎理事は、アメリカの法人寄付における「大幅な」減税措置や、「使途が義務付けられない多額の寄付を受け運営できる仕組みがある」ことを指摘している{{R|望月2020}}。 |
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なお、第19期副会長の[[岸輝雄]]([[東京大学]][[名誉教授]]、[[物質・材料研究機構]]理事長)は2004年の『学術の動向』で、欧米は3割から8割しか公費援助でないことを指摘しながらも、「アカデミーが、独立性・中立性・公正性を保つには、他の機関からの資金供与をなるべく排除しなければならない」という視点を示し、日本が全額国庫負担であることに対して「社会的・文化的背景を鑑みれば仕方のない部分が多い」という見解を示していた{{Sfn|岸|2004|pp=26-27}}。 |
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== 歴史(概略) == |
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=== 組織の沿革 === |
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[[ファイル:Japan_Imperial_Academy.JPG|thumb|200px|1949年から1970年の間、日本学術会議は旧[[帝国学士院]]の建物にあった。移転後は[[日本学士院]]が引き続き使用していた{{R|科学の社会史}}。]] |
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* [[1948年]](昭和23年)7月<!--10日--> - 日本学術会議法公布{{Sfn|活動の手引き|2017|p=1}}{{Sfn|70周年記念|2019|p=10}} |
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* [[1949年]](昭和24年)1月<!--20日--> - [[内閣総理大臣]]の所轄の下、日本学術会議が設立(前身の[[学術研究会議]]は廃止され、[[日本学士院]]は日本学術会議の中に置かれる。){{Sfn|活動の手引き|2017|p=1}}{{Sfn|70周年記念|2019|p=10}} |
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* 1949年(昭和24年)6月<!--1日--> - [[総理府]]の設置に伴い、総理府の機関となる{{R|村上2020}}(なお、同年総理府には科学技術行政協議会が設置された{{R|科学の社会史}}。) |
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* [[1956年]](昭和31年)4月<!--1日--> - 日本学士院が日本学術会議から独立(日本学士院のみ[[文部大臣 (日本)|文部大臣]]の所轄に移る){{Sfn|活動の手引き|2017|p=1}}{{Efn|1956年(昭和31年)3月としている文献もある{{Sfn|70周年記念|2019|p=10}}。}} |
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* [[1970年]](昭和45年)7月 - 日本学士院庁舎(上野公園内)から移転{{Sfn|活動の手引き|2017|p=1}}{{Sfn|70周年記念|2019|p=5,10}} |
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* [[1984年]](昭和59年)5月<!--30日--> - 会員選出方法を公選制から学会推薦制へ変更{{Sfn|活動の手引き|2017|p=1}}{{Sfn|70周年記念|2019|p=10}} |
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* [[2001年]]([[平成]]13年)1月<!--6日--> - [[中央省庁再編]]に伴い、[[総務大臣]]の所轄となり、[[総務省]]の[[特別の機関]]となる{{Sfn|活動の手引き|2017|p=1}}{{Sfn|70周年記念|2019|p=10}} |
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* [[2005年]](平成17年)4月<!--1日--> - 再び内閣総理大臣の所轄となり、[[内閣府]]の特別の機関となる{{Sfn|活動の手引き|2017|p=1}}{{Sfn|70周年記念|2019|p=10}} |
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* 2005年(平成17年)10月<!--1日--> - 会員選出方法を日本学術会議が自ら選考する方法へ変更し{{Sfn|活動の手引き|2017|p=1}}、7部制から3部制への改組、連携会員の新設などの組織改革を行う{{Sfn|70周年記念|2019|p=10}} |
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=== 特記事項 === |
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<!--* [[1949年]](昭和24年)10月6日 - 研究機関の人事は政治的理由により左右されてはならないと決議した<ref>毎日新聞</ref>{{要出典|date=2020年10月}}。 |
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* [[1950年]](昭和25年) - 4月28日、第3回総会において「戦争を目的とする科学の研究には絶対従わない決意の表明」を採択{{Sfn|小沼|2017|p=13}}{{Efn|声明案として提案された際は、「戦争を助長し、戦争に協力すると思われる研究には、今後絶対に従わない決意」というタイトルであった{{Sfn|小沼|2017|p=13}}。}} |
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* [[1952年]](昭和27年) - 10月24日、第13回総会で[[破壊活動防止法|破防法]]反対声明を可決<ref>[[石田雄]]「[https://doi.org/10.7218/nenpouseijigaku1953.4.0_141 年表]」『年報政治学』第4巻、1953年、183頁。</ref>。 |
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* [[1954年]](昭和29年) - 4月、<!--第17回総会-->「原子力研究と利用に関し公開、民主、自主の原則を要求する声明」([[原子力]]研究3原則)を提言し{{Sfn|郷|1999}}{{Sfn|学術の動向|1996|p=24}}{{R|小沼2002|大西2015}}{{Efn|name="3原則"|「原子力研究3原則」は、「原子力3原則」{{Sfn|郷|1999}}や「原子力平和利用3原則」{{R|小沼2002|大西2015}}とも呼ばれる。原子力研究3原則の提言には[[向坊隆]]や[[藤岡由夫]]が貢献したという{{R|小沼2002|大塚1976}}。}}、[[原子力基本法]]に反映される{{Sfn|学術の動向|1999|p=6}}。5月<!--10日-->、放射線影響特別委員会を設置<ref>『科学』1954年8月号。</ref>。 |
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* 1955年(昭和30年) - 4月26日-4月28日、第19回総会、[[濃縮ウラン]]受入問題を論議{{要出典|date=2020年10月}}<ref>朝日年鑑</ref>。 |
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* [[1955年]](昭和30年) - 5月7日-6月25日、[[#ソ連・中国学術視察団|ソ連・中国学術視察団]]派遣{{Sfn|70周年記念|2019|p=7}}<ref>『科学』1955年6月号。</ref>{{R|伴野1989}}(報告書は翌年発行 {{Harvnb|日本学術会議|1956}})。9月26日、[[国際地球観測年]]の一環として1957年(昭和32年)に南極学術探検隊を派遣することについて会長談を公表、同月29日に政府へ提言{{R|梶2004|友次2013}}。11月には探検隊派遣が閣議決定され、設営や派遣員の人選などを日本学術会議「[[南極特別委員会]]」で推進することとなる{{R|梶2004}}{{Efn|本件の南極探検にあたり、[[朝日新聞社]]が企画、資金支援、写真電送などで大きな役割を果たした{{R|梶2004|友次2013|近藤2013}}。}}。 |
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* [[1957年]](昭和32年) - 3月25日[[イギリス]]の、4月26日米ソの科学者にアピールを送付し、全世界の科学者に原水爆禁止を訴えた<ref>日本学術会議『勧告声明集』2集、{{Ncid|BN01551311}}</ref>。 |
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* [[1958年]](昭和33年) - 4月18日、科学技術会議設置法案に反対を決議{{要出典|date=2020年10月}}<ref>朝日新聞</ref>。8月14日米国が[[核実験]]を続けるならIGVの[[赤道]]海流調査に協力しないことを決定、米国に抗議した{{要出典|date=2020年10月}}<ref>朝日新聞</ref>。 |
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<!--* [[1959年]](昭和34年) - 3月23日基礎科学振興シンポジウムを開催{{要出典|date=2020年10月}}<ref>朝日新聞</ref>。4月21日長期計画調査委員会は「基礎科学白書」第1集を発表し、研究費の不足・設備の老朽化を訴える{{要出典|date=2020年10月}}<ref>朝日新聞</ref>。10月22日「科学者の生活白書」を発表、科学者の低収入と研究の悪条件を強調{{要出典|date=2020年10月}}<ref>朝日新聞</ref>。 |
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<!--* [[1960年]](昭和35年) - 1月18日原子力開発長期計画についての第1回シンポジウム{{要出典|date=2020年10月}}<ref>朝日新聞</ref>。3月11日宇宙空間研究連絡委員会は宇宙空間シンポジウムをひらき、ロケット研究偏重を批判した{{要出典|date=2020年10月}}<ref>朝日新聞</ref>。10月4日10年後を目標とする科学技術振興方策を答申{{要出典|date=2020年10月}}<ref>朝日新聞</ref>。 |
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* [[1961年]](昭和36年) - 1月<!--28日-->に「人文・社会科学振興のためのシンポジウム」が開催され、5月の総会で「人文・社会科学の振興に関する勧告」を発表{{R|細谷1965}}。<!--10月27日、科学協力に関する日米委員会をめぐり審議が紛糾、流会{{要出典|date=2020年10月}}<ref>朝日新聞</ref>。--> |
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* [[1962年]](昭和37年) - 4月の総会で「科学研究基本法の制定について」が決議され、5月に政府へ提言される{{R|地学雑誌1963}}{{Efn|前年の1961年(昭和36年)4月の総会で「基礎科学振興5原則」が確認されていた<ref name="地学雑誌1963">「[https://doi.org/10.5026/jgeography.72.46 日本学術会議における長期研究計画の検討]」『地学雑誌』第72巻第1号、1963年、46頁。</ref><ref>小林(毎日新聞科学部)「[https://doi.org/10.20665/kagakukyouiku.10.1_83 学術会議の動き]」『化学教育』第10巻第1号、1962年、83頁。</ref>。}} |
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* [[1964年]](昭和39年)10月30日 - 第42回総会で米原子力潜水艦の安全性を確認した原子力委員会の8月26日の綜合見解は自主性と科学性を欠くとの意見が出て論議沸騰{{要出典|date=2020年10月}}<ref>朝日新聞</ref>。 |
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<!--* [[1966年]](昭和41年) - 4月27日学問・思想の自由委員会は建国記念日問題シンポジウムを開催{{要出典|date=2020年10月}}。10月19日[[建国記念の日|建国記念日]]を2月11日にするのは不適当と報告し、総会はこれを承認した{{要出典|date=2020年10月}}<ref>紀元節問題 青木書店</ref>。 |
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* [[1967年]](昭和42年) - 「軍事目的のための科学研究を行なわない声明」を採択{{Sfn|小沼|2017|p=14}}。 |
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* [[1976年]](昭和51年) - 5月の総会で科学研究基本法の成立を求める勧告を決議<ref>[[小野周]]「[https://doi.org/10.11316/butsuri1946.31.8.673_2 日本学術会議第70回総会報告 (第10期第4回)]」『日本物理学会誌』第31巻第8号、1976年、673-674頁。</ref><ref>日本学術会議広報委員会「[https://doi.org/10.11408/jjsidre1965.44.7_489 日本学術会議第70回総会 ― 第10期第4回 ―]」『農業土木学会誌』第44巻第7号、1976年、489頁。</ref>。 |
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* [[1980年]](昭和55年) - 「科学者憲章について」の声明を採択{{Sfn|学術の動向|1999|p=7}} |
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* [[1990年]](平成2年) - 「[[地球圏・生物圏国際協同研究計画|地球圏-生物圏国際協同研究計画]](IGBP)の実施について」を勧告{{R|土屋1994}} |
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* [[1999年]](平成11年) - 「地球圏-生物圏国際協同研究計画(IGBP)の促進について」を勧告{{R|IGBP1999}} |
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* [[2002年]](平成14年) - 日本が[[持続可能な開発のための教育]](ESD)を提唱した[[持続可能な開発に関する世界首脳会議]](環境・開発サミット、開催地は[[南アフリカ共和国]])<ref>Ko Nomura and Osamu Abe (2009). “[https://doi.org/10.1080/13504620903056355 The Education for Sustainable Development Movement in Japan: A Political Perspective]”. ''Environmental Education Research'' '''15''' (4): 483–496.</ref>{{Sfn|永山|2020}}において、[[吉川弘之]]会長が応援演説{{Sfn|永山|2020}}。 |
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* [[2006年]](平成18年) - 12月、[[法務大臣]]と[[厚生労働大臣]]から審議依頼を受け、「生殖補助医療の在り方検討委員会」を設置。2008年4月に[[代理母出産|代理出産]]は法律で原則禁止が望ましいとする報告書を返した<ref>小門穂「[https://doi.org/10.24646/jnlsts.17.0_93 女性の身体の資源化に抗う 代理出産をめぐる日仏の動向]」『科学技術社会論研究』第17巻、2019年、93-103頁。</ref><ref>林かおり「[https://doi.org/10.20593/jabedit.18.1_126 生殖補助医療法をめぐる議論の歴史とその意義 : 「死後生殖」、「代理懐胎」、「子どもの出自を知る権利」をめぐる内外の状況]」『生命倫理』第18巻第1号、2008年、126-133頁。</ref><ref>柳原良江「[https://doi.org/10.20593/jabedit.21.1_12 代理出産における倫理的問題のありか : その歴史と展開の分析から]」『生命倫理』第21巻第1号、2011年、12-21頁。</ref>。 |
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* [[2008年]](平成20年) - 「日本学術会議憲章」を発表{{Sfn|永山・栗原|2009}}。 |
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* [[2010年]](平成23年) - [[ホメオパシー]]は科学的根拠が否定されており、医療従事者は使うべきではないとする会長談話を発表<ref>岡崎明子、長野剛 (2010年8月25日). “[http://www.asahi.com/special/playback/TKY201008240373.html ホメオパシーは「荒唐無稽」 学術会議が全面否定談話]”. ''朝日新聞デジタル''. 2020年10月29日閲覧。</ref> |
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* [[2013年]](平成25年) - [[特定秘密の保護に関する法律|特定秘密保護法]]に抗議する声明を出す<ref>“[https://www.tokyo-np.co.jp/article/60366 国論二分する政策に学術界から批判受け人事に関与始める?<学術会議任命拒否>]”. ''東京新聞 TOKYO Web''. (2020年10月8日) 2020年10月8日閲覧。</ref>{{出典無効|date=2020年10月}}。 |
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* [[2014年]](平成26年) - 7月に[[内閣府]]の[[内閣府特命担当大臣(科学技術政策担当)|科学技術担当大臣]]のもとで「日本学術会議の新たな展望を考える有識者会議」が設置され、翌2015年7月に報告書がまとまる{{R|共同20201008}}(''詳細は節「[[#2005年改革の宿題]]」を参照'')。会員105名の推薦時に政府が理由説明を要望。最終選考に残った12名を加えた117名の名簿を提出し、当初とは異なる105名が任命された{{R|朝日2014}}。 |
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* [[2015年]](平成27年) - 同年に[[防衛省]]が制定した「安全保障技術研究推進制度」について日本学術会議は防衛省や[[文部科学省]]と議論し、「安全保障と学術に関する検討委員会」を設置{{Sfn|小沼|2017}}。 |
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* [[2016年]](平成28年) - 補充人事で官邸から事前説明を求められ、日本学術会議は優先順位を付けて候補を提示。しかし官邸から難色を示されため、日本学術会議は補充を断念した{{R|時事20201009b}}。これに伴い、翌2017年の会員推薦でも事前説明を実施している{{R|時事20201009b}}。 |
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* [[2017年]](平成29年) - 3月24日、2015年に防衛省が制定した「安全保障技術研究推進制度」に対処するため、1950年と1967年の声明を継承するという文言を含む「軍事的安全保障研究に関する声明」を発表{{R|日本科学史学会2020|安全保障研究|朝日20201001|読売20201015}}{{Efn|日本学術会議の声明の影響で、[[防衛省]]の「安全保障技術研究推進制度」への応募が2015年度の58件から、2018年度18件、2020年度9件と減少したと報じられた{{R|読売20201015}}。2019年には[[日本天文学会]]の学会誌『天文月報』で議論を呼び{{R|戸谷2019|海部2019}}、2020年10月の日本学術会議見直し論議でも本声明が注目された{{R|四国20201014|読売20201015}}。}}。<!--[[共謀罪]]法案に反対する声明を出す。--> |
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* [[2019年]](令和元年) - 9月、『未来からの問い ― 日本学術会議100年を構想する ―』を発行{{R|未来からの問い}}。 |
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* [[2020年]](令和2年) - 10月1日、新会員の任命が行われたが、学術会議が推薦した105人のうち6人が除外された。2004年に組織内部からの推薦を受けて会員に任命される制度となって以降、除外される措置は初{{R|朝日20201002}}(''詳細は節「[[#会員任命問題と見直し]]」や記事「[[日本学術会議の任命拒否]]」を参照'')。 |
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=== 科学研究基本法に対して === |
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=== 原子力に対して === |
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=== 戦争・軍事研究に対して === |
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== 改革の歴史 == |
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=== 設立前史 === |
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[[第二次世界大戦]]後の1946年3月、[[学術研究会議]]の部長会が[[帝国学士院]]、学術研究会議、[[日本学術振興会]]の3団体の再編を建議する{{Sfn|高岩|2017|p=589}}。これにより[[文部省]]は「改組準備委員会」を組織し、3団体の再編を検討していく{{Sfn|学術の動向|1996|p=24}}{{Sfn|高岩|2017|p=589}}。一方でアメリカの物理学者で[[連合国軍最高司令官総司令部]](GHQ)経済科学局科学技術課次長の{{仮リンク|H・C・ケリー|en|Harry C. Kelly (physicist)}}[[博士]]{{R|科学の社会史|時代の証言}}は[[堀内寿郎]]に接触し、[[田宮博]]、[[茅誠司]]、[[嵯峨根遼吉]]らを加えて同年6月に「科学渉外連絡会(Japanese Association for Scientific Liaison:SL)を組織していた{{R|科学の社会史}}。科学渉外連絡会のメンバーは最終的に55名となり、顧問には[[亀山直人]]や[[仁科芳雄]]が名を連ねた{{R|科学の社会史}}。 |
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同年9月28日、ケリーが3団体(学士院、学術研究会議、日本学術振興会)、[[文部省]]、科学渉外連絡会の代表を招き、学術体制刷新に対する具体案をそれぞれ提出するように指示する{{R|科学の社会史}}。同年10月には3団体は新学士院の構想を具体化していき、科学渉外連絡会は同年11月21日に「科学技術新体制案」を公表する{{R|科学の社会史}}。同年11月27日に再度ケリーが各団体の代表を集め、3団体の活動は学界の一部の動きであるため、今後は科学渉外連絡会が主導するよう要請。12月23日には改組準備委員会は自ら解散した{{R|科学の社会史}}。その後、文部省科学教育局長が世話役となって「学術研究体制世話人会」が組織され{{Sfn|高岩|2017|p=589}}{{R|科学の社会史}}、世話人会の人数は最終的に44名となる{{R|科学の社会史}}{{Efn|衆院本会議の「科学技術振興に関する決議」に基づき内閣の下に設置される予定だった委員会がGHQの反対で作られなかったため、その予算が用いられた{{R|科学の社会史}}。}}。 |
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1947年7月、ケリーの要請によりアメリカの[[米国科学アカデミー]]から学術諮問団が来日し、1か月の視察をもとにGHQに「日本における科学と技術の再組織」という報告書を勧告する{{R|科学の社会史}}。同年8月には「学術体制刷新委員会」が組織される{{Sfn|高岩|2017|p=589}}。108人の委員は「法文理経理工医」7部門15名ずつ、総合部門3名という構成で{{Sfn|高岩|2017|p=589}}{{Sfn|学術の動向|1996|p=24}}、委員長は[[兼重寛九郎]]が務めた{{R|科学の社会史}}{{Efn|学術研究刷新委員会の委員選出に当たり、関連学協会から選定人を推薦し、その選出人が委員を選挙で選ぶという方式が取られた{{Sfn|高岩|2017|p=590}}。なお、総合部門では[[民主主義科学者協会]]といった民主化団体から代表が選出されたと言われている{{Sfn|高岩|2017|p=590}}。}}。日本側には主にケリーを介して諮問団の報告が伝えられ、改革方針に影響を与えた{{R|科学の社会史}}。刷新委員会の議論では学士院に権限を持たさないことは一致していたが、[[民主主義科学者協会]](民科)の案、人文科学有志案、科学渉外連絡会(SL)の案が対立した{{R|科学の社会史}}。刷新委員会は1948年4月に審議結果を政府に報告{{Sfn|高岩|2017|p=589}}{{Sfn|学術の動向|1996|p=24}}。日本学術会議法要綱と科学技術行政協議会要綱はほぼそのまま法律化された{{R|科学の社会史}}。 |
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世話人会、刷新委員会ともに科学渉外連絡会のメンバーが中心となり、当時40歳台であった田宮、茅、嵯峨根が活動の中核を担っていた{{R|科学の社会史}}。研究者の直接選挙による会員推薦方式は茅と嵯峨根が強く主張しており、2人は刷新委員会に設けられた政府・占領軍と折衝する渉外委員会4名の中にも加わっていた{{R|科学の社会史}}。科学渉外連絡会が現役研究者を中心としていたのに対し、学士院は世間一般からも「養老院化、権威の空洞化、無力、秘密主義、独善」と厳しい批判を浴び、改革により権力を失って栄誉機関に留まることとなった{{R|科学の社会史}}。なお、諮問団の勧告では民主的に選出される諮問機関は非政府組織とし、諮問機関の審議を行政に移すための行政委員会を政府に設けよとなっていた{{R|科学の社会史}}。 |
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=== 1983年の法改正 === |
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1981年5月、[[総理府]] 総務長官の[[中山太郎]]が日本学術会議の「公選制に疑義あり」と発言する{{Sfn|江沢|2002|p=670}}。同年10月の同会議総会において、当時の同会議会長の[[伏見康治]]は、「学術会議の性格を変えてはならない」「会員の選挙制を守る」と語り、「研究連絡委員会の役割の重要性」を強調した{{Sfn|江沢|2002|p=670}}。当時副会長であった[[岡倉古志郎]]を委員長とする改革委員会を中心に「各部定員30名のうち20名を選挙で選び、残り10名を推薦制にする」という「改革要綱」がまとめられ、1982年10月の総会で決議{{Sfn|戒能|2001|p=27}}{{Sfn|江沢|2002|p=670}}。 |
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「政府との交渉に入るにあたって三役の陣容一新が必要」として会長の伏見と副会長の岡倉、[[塚田裕三]]は辞任し、第12期途中で会長は[[久保亮五]]に交代{{Sfn|江沢|2002|p=670}}。久保新会長は首相に「改革要綱」を提出するが、総理府総務長官からは「改革についての総務長官試案」を示される{{Sfn|江沢|2002|p=670}}。1983年2月の総会、4月の臨時総会も経て久保会長は「改革要綱」に基づく折衝を続けるが、同年4月に「日本学術会議法の一部を改正する法律案」を閣議決定。その内容は登録された科学者団体を基礎とする研究連絡委員会ごとの推薦制というものであった{{Sfn|江沢|2002|pp=670-671}}。これを受けた5月の総会で「職務遂行は困難」として久保は会長を辞任。塚田裕三が会長を引き継ぐことになる{{Sfn|江沢|2002|p=671}}{{R|塚田1999}}。 |
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当時の[[中曽根康弘]]首相は、国会で「学会やらあるいは学術集団からの推薦に基づいて行われるので、政府が行うのは形式的任命にすぎません。したがって、実態は各学会なり学術集団が推薦権を握っているようなもので、政府の行為は形式的行為であるとお考えくだされば」と形式的任命であると答弁していた<ref>[https://www.chunichi.co.jp/article/130652 夕歩道][[中日新聞 ]] 2020年10月2日</ref><ref name="1983年国会">“[https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201008/k10012653471000.html 日本学術会議 昭和58年の政府答弁「形だけの任命をしていく」]”. ''NHKニュース''. [[日本放送協会]]. 2020年10月10日閲覧。“[https://www.buzzfeed.com/jp/kotahatachi/gakujutukaigi 菅首相の任命拒否に「違法性」?学術会議の推薦、過去答弁との矛盾。解釈変更はあったのか]”. ''BUZZFEED''. 2020年10月11日閲覧。”[https://kokkai.ndl.go.jp/minutes/api/v1/detailPDF/img/110015077X00219831124 第100回参議院文教委員会第2号昭和58年11月24日国会会議録]”. 2020年10月11日閲覧。</ref>{{Efn|政府は国会答弁で「総理大臣の任命で会員の任命を左右するという事は考えておりません」「任命制を置いておりますが、これが実質的なものだというふうに私どもは理解しておりません」「その推薦制もちゃんと歯どめをつけて、ただ形だけの推薦制であって、学会の方から推薦をしていただいた者は拒否はしない、そのとおりの形だけの任命をしていく」「政府が干渉したり中傷したり、そういうものではない」と政府答弁を行っている{{R|1983年国会}}。}}。11月の国会で改正法案は可決され、塚田会長は遺憾の意を示す声明を発表。塚田と副会長は「けじめをつけるため」に辞任したが、再任されている{{Sfn|江沢|2002|p=671}}。 |
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このように、第12期は一貫して政府の法改正に反対の立場を取った{{Sfn|戒能|2001|p=28}}。1980年初頭の頃から「{{仮リンク|コ・オプテーション|en|Co-optation}}方式は政府の宿願であった」とも言われている{{Sfn|江沢|2002|p=670}}。日本学術会議の側でも、公選制では複合領域・学際領域の研究者や重要な国際学術団体を担っている学会の代表者が選出されにくいことから、3分の2は公選で残り3分の1をコ・オプテーション方式とする提案があった{{Sfn|戒能|2001|pp=27-28}}。なお、この法改正で研究委員会が法制的に確立し、定員が拡充された{{R|久保1985}}。また、研究連絡委員会、分科会、専門委員会における専門分野の枠組みも再編されている{{R|久保1985}}。 |
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=== 2004年の法改正 === |
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政府の行政改革([[中央省庁等改革基本法]])を契機に、日本学術会議も改革が求められるようになる{{Sfn|郷|2003}}。1997年の第17期初頭、会長の[[吉川弘之]]は「日本学術会議はかつてのような大型陳情団体ではない」と宣言し{{Sfn|大瀧|2001}}、ほぼ一人で内部討議のための改革提言を書き上げる{{Sfn|戒能|2001|p=29}}。吉川は私的諮問委員会 「未来構想懇談会」を設け、日本学術会議としての改革基本構想を議論していき、1999年の連合部会で案を示すが議論は紛糾する{{Sfn|郷|2003}}。第18期に入ると「日本学術会議の在り方に関する委員会」を設置し、吉川は『学術の動向』に論文を発表。さらに委員会は中間まとめを2002年4月の総会で報告し、これが改革の「学術会議案」になっていく{{Sfn|郷|2003}}(最終報告書は2003年2月{{Sfn|岸|2004|p=23}})。 |
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また、[[中央省庁等改革基本法]]の第十七条の九には「日本学術会議については、総務省に置くものとするが、総合科学技術会議において、その在り方を検討すること」と定められており<ref>“[https://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=410AC0000000103 中央省庁等改革基本法]”. ''[[e-Gov法令検索]]''. 2020年10月11日閲覧。</ref>、[[総合科学技術会議]]は2001年5月に「日本学術会議の在り方に関する専門調査会」を設置{{Sfn|戒能|2001|p=28}}{{Sfn|郷|2003|p=341}}{{Sfn|岸|2004|p=23}}。2003年2月に最終報告が出され{{Sfn|郷|2003|p=341}}{{R|総合科学技術会議2003a}}{{R|総合科学技術会議2003b}}、同年7月に「日本学術会議の改革の具体化について」がまとめられた{{Sfn|岸|2004|p=23}}。これには学術会議案がかなり反映されたという{{R|篠田2004}}。 |
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2004年に法改正がなされ、会員は{{仮リンク|コ・オプテーション|en|Co-optation}}方式で選出されることになった{{Sfn|戒能|2006}}。所管の[[総務省]]が[[内閣法制局]]に提出した法案審査資料には、推薦方式変更にあたって「日本学術会議から推薦された会員の候補者につき、内閣総理大臣が任命を拒否することは想定されていない」と書かれていた{{R|毎日20201026|NHK20201027}}。改正により組織も7部構成から3部構成になり、縦割りの打破を図られた。政策への提言なども[[総合科学技術会議]]との棲み分けが図られた{{Sfn|郷|1999}}{{Sfn|江沢|2002}}{{Sfn|郷|2003}}。また、この改革で日本学術会議は[[科学研究費助成事業|科研費]]の審査委員推薦権を失い{{Sfn|生駒|2016}}、「登録学術研究団体」は「[[日本学術会議協力学術研究団体]]」に変わった{{Sfn|永山・栗原|2009|p=149}}。 |
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改革案がまとまりつつある2003年、[[日本原子力研究所]]の郷信広は、「政府の一組織である日本学術会議は、ほかの政府組織の所掌事項に関しては発言してはならない」と制約を受けているように捉えられることを懸念し、「その結果、日本学術会議には国際学術交流を除けば、抽象的な機能のみが残ることなった」と指摘した{{Sfn|郷|2003|p=343}}。法改正に伴い2005年に改選・組織再編がなされたが、改正前の第19期だけは1年短縮された2年任期になった{{Sfn|戒能|2006|p=55}}。第19期は40代の会員は0名で平均年齢が63.5歳だったものが、第20期では40代会員14名(最年少会員44歳)、平均年齢58.8歳と若返りとなった。しかし国立大学偏重(公立・私立大学会員の減少)、選出地域の偏り(中四国の会員は1名)という特徴も見受けられた{{Sfn|戒能|2006|p=56}}。 |
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=== 2005年改革の宿題 === |
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2004年に改正された法律には付帯決議があり、今後10年で日本学術会議の見直しを図るとされていた{{Sfn|戒能|2006|p=55}}{{R|共同20201008}}。第19期副会長であった[[戒能通厚]]は、第20期が始まった後の2006年1月の『学術の動向』において「10年後見直しと言ういわば時限的な法という理解がある」と指摘し、「今回の法改正が、日本学術会議自身の意思によって行われたものと言い難いから、日本学術会議は早急に自らの改革に取り組むようにとの激励とみていいのでは」という認識を示した{{Sfn|戒能|2006|p=55}}。 |
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また、戒能は今回の会員の選考基準の公表を求めるとともに{{Sfn|戒能|2006|p=56-57}}、新しい組織では個々の領域だけでなく横断型・俯瞰型の課題が重要になることから、会員に対して「その主な役割は、それぞれの専門分野に限定されない領域横断・俯瞰型の知見の発揮と、調整およびマネージメントにあろうから、これらのミッションをこなす能力がないと、なかなかに大変」と指摘した{{Sfn|戒能|2006|p=59}}。 |
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2014年7月、「日本学術会議の新たな展望を考える有識者会議」が内閣府の[[内閣府特命担当大臣(科学技術政策担当)|科学技術担当大臣]]の下に設置され、翌2015年3月に報告書「日本学術会議の今後の展望について」がまとめられた{{R|共同20201008|有識者会議}}。活動面では「緊急課題や新たな課題への機動的対処等の改革の趣旨・目的は実現されてきており、活動面においては着実に成果が上がっている」と評価され、組織面でも「一部には改革で意図された成果が表れている」とされたものの、「改革の趣旨を尊重しつつ、運用面での工夫を重ねていくこと」が期待された{{R|有識者会議報告書2015概要}}。 |
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この報告書に提示された改善策には、会員について「求める人材像や選考プロセスのオープン化」が求められ{{R|有識者会議報告書2015概要}}、「自らの専門分野の枠にとらわれない俯瞰的な視点をもって向き合うことのできる人材が望ましい」という提言がなされた{{R|共同20201008}}。また、コミュニケーションについては「[[#若手アカデミー|若手アカデミー]]」活動や地域活動の推進などが盛り込まれていた{{R|有識者会議報告書2015概要}}(''「[[#連携・コミュニケーション]]」節も参照'')。 |
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また、[[慶應義塾大学]][[名誉教授]]の[[小沼通二]]は2017年の『学術の動向』において、研究者の直接選挙から学協会推薦、コ・オプテーション方式と変遷していく中で、一般研究者の関心が薄くなっている問題を指摘{{Sfn|小沼|2017|pp=14-15}}。特に企業研究者などは日本学術会議を自分達の代表と考えていないこと、「日本学術会議の「独立した」発言を嫌がる人たちがいるのだから、学術研究者や社会、特にメディアとの交流を強化しないと学術会議の将来は危うい。」などの懸念を持っていた{{Sfn|小沼|2017|p=15}}。 |
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=== 会員任命問題と見直し === |
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{{See also|日本学術会議の任命拒否|菅義偉内閣#学術会議推薦拒否問題}} |
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2020年(令和2年)10月1日、日本学術会議が推薦した新会員候補105人の内、6人が任命権者である[[菅義偉]]首相によって理由が明かされないまま任命を拒否され{{R|朝日20201008a}}、日本学術会議の独立性や学問の自由が損なわれるとの批判が巻き起こる{{R|毎日20201003}}{{Efn|2020年10月1日付で会長になった[[梶田隆章]]は翌2日、説明と6人の任命を求める要望書を同会議に提案し、同月3日に同会議は内閣府に送付している{{R|東京20201003}}。}}。その後、2016年の補充人事で官邸が難色を示して補充を断念したこと、2017年の会員推薦時には事前説明を実施していたこと、6名に難色を示したのは[[杉田和博]]官房副長官であったことも明らかになる{{R|時事20201009b|朝日20201013}}。 |
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同月5日、菅義偉首相は記者会見を行い、(1)学術会議は政府機関であり会員は公務員、(2)(当時の[[中曽根康弘]]首相が拒否権はないと答弁した)1983年当時は学会推薦であったが、現在は個々の会員が推薦する形に変わっており会員が自分の後任を指名する事が可能、(3)学術会議は従来よりそのあり方について議論されており、総合的、俯瞰的な活動が求められているといった点から任命について法に基づき判断する必要がある、と釈明{{R|菅2020}}<!--一旦YouTube出典を補填。新聞記事への差し替えが望ましい。-->{{Efn|また政府は「1983年の法改正以来一貫した考え方として成り立っているもの」推薦されたものを任命拒否することはあり得るという日本学術会議法について明瞭に書かれた法解釈文書はない<ref>“[https://www.news24.jp/articles/2020/10/08/04737120.html 政府が法解釈変更?野党追及 学術会議問題」]”. ''日テレNEWS24''. (2020年10月8日) 2020年10月11日閲覧。</ref>、一方時の首相が学術会議の推薦に従う義務はないとの見解を記した2018年の文書を内閣府は公表し、加藤勝信官房長官も「解釈が変わらないので直ちに公表する必要はなかったと当時判断した」と説明した<ref>“[https://www.jiji.com/jc/article?k=2020100600477&g=pol 首相に一定の監督権 学術会議の解釈変更せず ― 内閣府が18年見解公表]”. ''時事ドットコムニュース''. 時事通信. 2020年10月11日閲覧。</ref>。[[内閣府副大臣]]の[[三ツ林裕巳]]も学術会議の推薦に首相が従わないことは可能とした上で、「会員が任命制になったときからこの考え方が前提だ。解釈変更を行ったものではない」と述べている<ref>“[https://www.jiji.com/jc/article?k=2020100700155&g=pol 三ツ林内閣府副大臣、法解釈変更を否定 学術会議の任命拒否で―衆院委]”. ''時事ドットコムニュース''. 時事通信. (2020年10月7日). 2020年10月11日閲覧。</ref>。}}。 |
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90以上の学会が共同声明を出し{{R|朝日20201008b|物理学会2020}}、大学や市民団体も抗議声明を出した{{R|朝日20201008b}}。また、[[サイエンス]]や[[ネイチャー]]などの世界的学術雑誌も批判を行ったり批判を取り上げたりしており<ref>深海 (2020年10月8日). “[https://buzzap.jp/news/20201008-science-council-of-japan-overseas/ 日本学術会議の任命拒否問題を世界最高の学術誌「サイエンス」「ネイチャー」が批判、海外の一流紙からも「非情な黒幕」「学問の自由への攻撃」など問題視する声]”. ''BUZZAP!''. 2020年10月15日閲覧。</ref>、野党第一党である[[立憲民主党 (日本 2020-)|立憲民主党]]の[[枝野幸男]]代表なども「明確な違法行為」と非難した<ref>吉川真布 (2020年10月4日). “[https://www.asahi.com/articles/ASNB46HXGNB4UTFK00B.html 日本学術会議の任命除外、枝野氏「明確な違法行為」]”. ''朝日新聞デジタル''. [[朝日新聞]]. 2020年10月15日閲覧。</ref>。一方で政府機関であるのだから総理大臣が拒否するのは当たり前、ただ理由の説明は必要([[橋下徹]])といった意見{{R|橋下2020}}、そもそも年間10億円の税金が投入される学術会議に存在意義はあるのか、独立性を重要視するのであれば[[非政府組織]](NGO)で良いのではないか、といった意見{{R|渡瀬2020}}が出た{{Efn|[[東京大学大学院情報学環]][[准教授]]の[[伊東乾 (作曲家)|伊東乾]]は会員が提言をまとめる能力を疑問視し、「政府に政策答申する、米国で考えるなら[[ランド研究所|ランドコーポレーション]]のような仕事のプロはいない」と分析。さらに「即効性のある政策マン、戦略マンとしての仕事ができるか」と問題提起し<ref>伊東乾 (2020年10月6日). “[https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/62372?page=4 日本学術会議、いっそ改組されたら? (4) お達者クラブが国に政策答申できるか]”. ''JBpress''. 2020年10月17日閲覧。</ref>、20代30代の若い世代を任用して「本当に役立つ政策提言ができる人間が集まる組織に全面改組」するべきという考えを示した<ref>伊東乾 (2020年10月6日). “[https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/62372?page=8 日本学術会議、いっそ改組されたら? (8)]”. ''JBpress''. 2020年10月17日閲覧。</ref>。}}{{Efn|2020年10月7日、[[自由民主党]]の[[下村博文]]・[[政務調査会長]]は政府へ提言し、日本学術会議の在り方自体を検討・議論し直す考えを示す{{R|NHK20201007}}。さらに[[内閣府特命担当大臣(行政刷新担当)|行革担当相]]も連携することが明らかになり、事務職員50人の人件費3億9千万円が多過ぎるとの指摘があると報道された{{R|読売20201009|NHK20201010}}。}}。 |
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[[自由民主党]]は[[塩谷立]]を座長とする「学術会議の在り方を検討するプロジェクトチーム」を組織し、同年10月14日に初会合を開催。同年11月中に秋の行政刷新レビューで予算(国費負担)や組織形態(民営化やNGOも一案)を検証し、12月上旬に自民党が日本学術会議の在り方について提言をまとめ、同月下旬の次年度予算編成に行政刷新レビューの結果を反映される方針を示した{{R|四国20201015}}。10月16日に梶田会長は菅義偉首相を訪問し、任命拒否の理由説明と6名の任命を求める要望書を直接提出。さらに日本学術会議の在り方について、梶田会長と[[井上信治]][[内閣府特命担当大臣(科学技術政策担当)|科学技術担当大臣]]が中心となって今後の協議を進めることが確認された{{R|四国20201017}}。 |
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なお同年10月28日の国会答弁において、菅義偉首相は民間出身者や若手が少ないこと、出身や所属大学に偏りがあり多様性を考慮したと弁解した{{R|四国20201029}}。しかし[[大西隆]]元会長は、2005年当時に比べて東京大学出身者は3割近くから17%程度へ、関東の大学在籍者の割合は63%から5割程度に減少しており、会員の偏在には改善がみられると反論している{{R|NHK20201028}}。なお、女性会員は第19期で13名だったものが第20期で42名の約20%となっており{{Sfn|戒能|2006|p=56}}、第25期の時点では約38%にまで達している{{R|日テレ20201029}}。また、同月30日の国会答弁において首相は、[[帝国大学|旧帝大]]所属が45%を占め、産業界は3%、50歳未満の若手は3%に過ぎないと指摘した{{R|四国20201031}}。 |
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== 日本学術会議に関する批評・論争 == |
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=== 会員や会議の性質について === |
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科学史家・科学哲学者で日本学術会議元会員の[[村上陽一郎]]によれば、学術会議は十期以上連続して会員を務めたF氏を中心にある政党に完全に支配された状態が続き、これを改革するために1984年に会員選出の方法が変更されたという{{R|村上2020}}。[[屋山太郎]]と[[池田信夫]]によれば上述のF氏とは[[福島要一]]で、ある政党とは[[日本共産党]]のことで、1950年と1967年の「軍事目的のための科学研究を行わない声明」や1963年の「原子力潜水艦の日本港湾寄港問題に関する声明」は共産党の方針と一致しており、福島は共産党系学者の組織的支援の下、36年に渡って会員を続けてきたという<ref>[[屋山太郎]]「論壇」『静岡新聞』2020年10月7日。</ref><ref>[[池田信夫]] (2020年10月9日). “[http://agora-web.jp/archives/2048446.html 学術会議は共産党の活動拠点だった?]”. ''[[アゴラ (ブログ)|アゴラ 言論プラットフォーム]]''. 株式会社アゴラ研究所. 2020年10月11日閲覧。</ref>。 |
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[[東京教育大学]]・[[筑波大学]]の学長であった[[三輪知雄]]教授は1970年の著書の中で、「大学自治と称するカーテンによって閉鎖された特殊社会であり、そこを職場とする教師たちにはお坊ちゃん的な甘さがあり、独りよがりの色合いが濃く、またおしなべて反権力的である」「このような環境は進歩的左翼の育つ絶好の場であって、学術会議はおもにこのようなところから送り出された人たちから成り立っている」と述べた<ref>時事問題研究所 編『赤い巨塔「学者の国会」日本学術会議の内幕』時事問題研究所、1970年、{{Ncid|BN09415066}}。</ref>。 |
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自由選挙が政権に批判的な会員を生むとみなされたこともあり{{R|海部2019}}、1984年に各分野の学会会員の選挙で会員を決める方式に変わり、2005年から{{仮リンク|コ・オプテーション|en|Co-optation}}方式が採用された(''選出方法の詳細は、節「[[#会員など|会員など]]」を参照''){{R|海部2019}}{{Sfn|70周年記念|2019|p=6}}。天文学者の海部宣男は学術会議に対する圧力が続いて選出方法が変遷した経緯を「科学者の民主的な活動をつぶそうという政権との長いせめぎあいの中で学術会議が次第に追い込まれてきた歴史」と指摘した{{R|海部2019}}。 |
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また、天文学者の[[戸谷友則]]は、[[2019年]]1月発行の日本天文学会の天文月報にて組織会員の選出方法や研究者らの多様な意見を認めず権威をもって一つの画一的な声明を押し付けていることなどから単なる権威圧力団体になっていると批判し「非民主的で閉鎖的な組織が、日本の学術界で最高の権威を持ってしまっていて、ひとたび声明を出せば大学や学会を萎縮させ、研究者の自由が容易に奪われてしまう。これは大変深刻な問題」と主張した{{R|戸谷2019}}。 |
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=== 軍事研究に対する声明 === |
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日本学術会議は1950年に「戦争を目的とする科学の研究は絶対にこれを行わない」旨の声明を、また1967年には同じ文言を含む「軍事目的のための科学研究を行わない声明」を出し、さらに2017年に上記2つの声明を継承する旨を含んだ「軍事的安全保障研究に関する声明」{{R|安全保障研究}}を出していた{{R|朝日20201001|読売20201015|ニッポン放送20201012}}。2017年に改めてこの様な声明が出された背景には[[北海道大学]]の[[名誉教授]]である[[杉山滋郎]]によると、直接のきっかけは、防衛装備庁が2015年度から開始した研究費の提供制度「安全保障技術研究推進制度」に対応を迫られたことにあるという{{R|杉山2020}}。杉山によると、この制度を「問題が多い」と学術会議が判断したのは、憲法23条で保障された「学問の自由」が侵される可能性が高い、より具体的には「研究の自主性・自律性、研究成果の公開性」が制約される畏れが大きいからと言う{{R|杉山2020}}。 |
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また、[[国立大学協会]]会長の[[永田恭介]]は[[2020年]]3月26日の記者会見で、GPSの過去の例、ウイルスに対するワクチン研究が生物化学兵器に転用される可能性を例に「デュアルユースは(線引きが)難しい」「自衛のためにする研究は、省庁がどこであれ正しいと思う」と日本学術会議が大学や研究者に事実上研究を禁止することに批判的な見解を述べた{{R|読売20200514}}。同年10月13日、[[内閣府特命担当大臣(科学技術政策担当)]]の[[井上信治]]は日本学術会議の意思を尊重すると述べながらも、戦後70年を踏まえた時代の変化に対応することを求め、「デュアルユースはどの分野でもあり得る」と強調した{{R|四国20201014}}。 |
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== 日本学術会議に関する誤報 == |
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上記の[[#会員任命問題と見直し|2020年10月の会員任命拒否問題]]に伴い、日本学術会議に関する誤解も噴出した{{R|依光2020|ハフポスト20201006|野口20201006}}。[[東京大学]][[名誉教授]]の[[板垣雄三]]は、日本学術会議が「政府の諮問機関」と報道されることに対し、政府へ提言を行うだけではなく、日本を代表して各国の[[科学アカデミー]]と国際交流に取り組み、国内学会の連携、研究者や学際領域のあり方についての調査も行っていると指摘した{{R|依光2020}}(節「[[#国際活動]]」なども参照'')。 |
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また、[[フジテレビ]]の[[平井文夫]]・上席解説委員が同年10月5日の同局の番組で、日本学術会議会員を務めた後は[[日本学士院]]の会員になって年金250万円をもらえると語り、翌日にフジテレビが番組で訂正・謝罪するという問題が起こった{{Sfn|大野ほか|2020}}{{R|ハフポスト20201006|野口20201006}}。日本学術会議会員を務めたから日本学士院の会員にもなれるということは全くなく{{R|ハフポスト20201006|野口20201006}}、日本学士院も取材で否定した{{R|野口20201006}}。また、日本学術会会員としての年金はなく、「手当や旅費支払いの一時凍結や受領辞退」を事務局から会員に依頼する状況と報道された{{Sfn|梅野ほか|2020}} |
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2007年以降「答申」が出ておらず、日本学術会議の活動が見えないといった[[下村博文]]の上述の指摘に対し、元日本学術会議会長の[[広渡清吾]]は「政府が諮問してくれなければ答申を返すことはできない」と反論した{{R|時事20201009}}。また、法律に基づく政府への「勧告」については、2020年10月時点で10年以上行われていないと問題視された{{R|読売20201009b}}。しかし元日本学術会議会長の[[大西隆]]は、一方的で「強い性格を帯びる」勧告は昔より使われなくなっていること、代わりに対外報告や提言が大幅に増えていることを指摘している{{R|四国20201010}}(''節「[[#勧告・答申・提言などの違い]]」や節「[[#実績と推移、他機関の影響]]」説も参照'')。 |
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=== 軍事研究に関する誤情報 === |
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前節に記した[[北海道大学]]の「安全保障技術研究推進制度」の途中辞退に対し、[[国家基本問題研究所]]の理事で北海道大学[[名誉教授]]である[[奈良林直]]は、国家基本問題研究所の記事の中で、学術会議の幹部が「北大総長室に押しかけ、ついに2018年に研究を辞退させた」と記述した{{R|奈良2020old|buzzfeed20201013}}。しかしその後、学術会議の幹部が北大の総長室に押しかけた事実はなかったことが判明し、奈良林は「学術会議からの事実上の圧力で、北大はついに2018年に研究を辞退した」という記述に訂正した{{R|奈良2020|buzzfeed20201013}}。 |
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[[自由民主党 (日本)|自民党]]の[[甘利明]]は2020年8月、自身のブログで、「日本学術会議は防衛省予算を使った研究開発には参加を禁じていますが、中国の「外国人研究者ヘッドハンティングプラン」である「[[千人計画]]」には積極的に協力しています」と記述した<ref>[[甘利明]] (2020年8月6日). “[https://web.archive.org/web/20201002191615/https://amari-akira.com/01_parliament/2020/410.html 国会リポート 第410号]”. ''甘利明 Official Web''. 2020年10月2日時点の[https://amari-akira.com/01_parliament/2020/410.html オリジナル]よりアーカイブ。2020年10月13日閲覧。</ref>。この甘利の記述もあり、その後インターネット上では「日本学術会議が中国の千人計画に関わっている」という情報が拡散した{{R|buzzfeed20201012|朝日20201014}}。しかし、日本学術会議は、中国の軍事研究への協力について「そのような事業、計画などはありません」としてこれを否定。「千人計画」についても「学術会議として、計画に協力したり、交流したりするようなことはしておりません」と否定した{{R|buzzfeed20201009b}}{{Efn|日本学術会議と中国との関係に関して、日本学術会議は中国科学技術協会とのあいだに2015年に「協力覚書」を結んでおり、学術会議との協定では、会議やセミナーなどを通じた情報交換や、研究者間の交流、共同ワークショップやセミナーの開催などの取り組みを進めていくことなどの取り決めを交わしている{{R|二国間交流}}。しかし、学術会議事務局は、「実際の事業は覚書が結ばれて以降、行われていないのが実態」であり、そもそも予算面の問題から国際的な研究プロジェクトなどを実施することは中国以外の国ともできていない、と述べており、軍事研究や千人計画以前に、学術会議として他国との間で「研究(計画)に協力」しているという事実はないという{{R|buzzfeed20201009b}}。[[2020年]][[10月15日]]の野党合同ヒアリングに出席した日本学術会議の[[大西隆]]元会長は、先述の覚書についての指摘を受け、存在を認めるものの、「向こうの求めに応じて結んだ。覚書に基づく活動実績はない」と、覚書に基づく活動実績はないと語った<ref>“[https://www.sankei.com/politics/news/201016/plt2010160001-n1.html 「悪質なデマ」学術会議批判に大西元会長が反論 野党ヒアリングに出席]”. ''産経ニュース''. (2020年10月16日) 2020年10月16日閲覧。</ref><ref>“[https://news.livedoor.com/article/detail/19061768/ 日本学術会議、中国「千人計画」への協力を否定「悪質なデマ」]”. ''ライブドアニュース''. (2020年10月15日) 2020年10月17日閲覧。</ref>。}}。 |
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[[フジテレビ]]の番組内でブログの件について「真意」を問われた甘利は、「千人計画」に参加している日本人の研究者が複数いるとしながらも、「学術会議のメンバーかどうかは私確認していませんけど」などと回答{{R|buzzfeed20201012}}。のちに甘利は、「「千人計画」には積極的に協力しています」という記述を「「千人計画」には間接的に協力しているように映ります」という表現に書き換えた{{R|buzzfeed20201012|朝日20201014}}。この書き換えに関して甘利は、事実誤認との指摘を踏まえて、「私にはそう見えた」と説明している<ref>“[https://www.jiji.com/jc/article?k=2020101400896&g=pol 学術会議でメルマガ修正 甘利氏]”. ''時事通信''. (2020年10月14日). 2020年10月14日閲覧。</ref><ref>“[https://news.tv-asahi.co.jp/news_politics/articles/000195606.html 甘利氏「そう見えた」 学術会議巡るブログで釈明]”. ''[[テレビ朝日]]''. (2020年10月14日). 2020年10月14日閲覧。</ref>。 |
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== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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=== 注釈 === |
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=== 出典 === |
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{{Reflist|refs= |
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<ref name="日本学術会議法">{{Cite web|url= https://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=323AC0000000121 |title=日本学術会議法(昭和二十三年法律第百二十一号) |quote=2005年10月1日施行 |date=2004年4月14日(平成一六年四月一四日法律第二九号) |accessdate=2019-12-21}}</ref> |
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<ref name="日本学術会議法施行令">{{Cite web|url= https://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=417CO0000000299 |title=日本学術会議法施行令(平成十七年政令第二百九十九号) |quote=2005年10月1日施行 |date= |accessdate=2019-12-21}}</ref> |
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<ref name="buzzfeed20201012">籏智広太 (2020年10月12日). “[https://www.buzzfeed.com/jp/kotahatachi/thousand-talents-plan-2 学術会議が「中国の千人計画に積極的に協力」とした自民・甘利議員、ブログをひっそり修正]”. ''BuzzFeed Japan''. 2020年10月14日閲覧。</ref> |
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<ref name="buzzfeed20201013">千葉雄登、籏智広太 (2020年10月13日). “[https://www.buzzfeed.com/jp/yutochiba/gakujutukaigi-fact-check-3 日本学術会議幹部が「北大総長室に押しかけ研究を辞退させた」は誤り。記事は訂正、しかし誤情報が拡散]”. ''BuzzFeed Japan''. 2020年10月14日閲覧。</ref> |
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<ref name="朝日20201014">赤田康和、貞国聖子 (2020年10月14日). “[https://digital.asahi.com/articles/ASNBG6HLXNBGUTIL047.html 「学術会議は千人計画に協力」甘利氏修正 誤り指摘受け]”. ''朝日新聞''. 2020年10月14日閲覧。</ref> |
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<ref name="時事20201009">“[https://www.jiji.com/jc/article?k=2020100900959&g=pol 「答申ないのは諮問ないから」学術会議元会長、自民の批判に反論]”. ''時事通信''. (2020年10月9日) 2020年10月10日閲覧。</ref> |
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<ref name="ハフポスト20201006">ハフポスト日本版編集部 (2020年10月6日).“[https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5f7bcec1c5b61229a055ff86 「学術会議で働いたら学士院へ行き、年金250万円もらえる」は誤り。学士院「全くない」と強調]”. ''HUFFPOST''. 2020年10月7日閲覧。</ref> |
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<ref name="読売20201009b">“[https://www.yomiuri.co.jp/politics/20201009-OYT1T50093/ 【独自】学術会議を行革対象に…政府への勧告10年なく、組織・運営の見直し検討]”. ''読売新聞''. (2020年10月9日) 2020年10月10日閲覧。</ref> |
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== 参考文献 == |
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本節に掲載しているものは、出典として使用された「Reference」としての文献。著者名の50音順に記している。 |
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* [[日本学術会議協力学術研究団体]] |
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* [[日本の学会一覧]] |
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=== 研究者による文献 === |
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* [[日本学士院]] |
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* {{Wikicite|ref={{Sfnref|池上|2005}} |reference=池上甲一「[https://doi.org/10.7310/arfe1965.40.410 日本学術会議の改革と農業経済学界の対応方向]」『農林業問題研究』第40巻第4号、2005年、410-417頁。}} |
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* [[科学アカデミー]] |
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* {{Wikicite|ref={{Sfnref|生駒|2006}} |reference=生駒俊明「[https://doi.org/10.5363/tits.11.2_46 新生日本学術会議への期待と不安]」『学術の動向』第11巻第2号、2006年、46-50頁。}} |
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* [[日本の行政機関]] |
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* {{Wikicite|ref={{Sfnref|江沢|2002}} |reference=[[江沢洋]]「[https://doi.org/10.11316/butsuri1946.57.9.669 学術会議の改革]」『日本物理学会誌』第57巻第9号、2002年、669-672頁。}} |
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* {{Wikicite|ref={{Sfnref|大瀧|2001}} |reference=大瀧仁志「[https://doi.org/10.5796/electrochemistry.69.564 電気化学会と日本学術会議]」『Electrochemistry』第69巻第7号、2001年、564-566頁。}} |
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* {{Wikicite|ref={{Sfnref|戒能|2001}} |reference=[[戒能通厚]]「[https://doi.org/10.5363/tits.6.27 日本学術会議の将来方向を見る視点]」『学術の動向』第6巻第11号、2001年、27-31頁。}} |
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* {{Wikicite|ref={{Sfnref|戒能|2006}} |reference=戒能通厚「[https://doi.org/10.5363/tits.11.52 日本学術会議 ― その独立性とは何か ―]」『学術の動向』第11巻第1号、2006年、52-59頁。}} |
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* {{Wikicite|ref={{Sfnref|岸|2004}} |reference=[[岸輝雄]]「[https://doi.org/10.5363/tits.9.22 国際的に見た科学アカデミーの在り方]」『学術の動向』第9巻第1号、2004年、22-31頁。}} |
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* {{Wikicite|ref={{Sfnref|郷|1999}} |reference=郷信広「[https://doi.org/10.11316/butsuri1946.54.9.743 日本学術会議の改革へ向けた動き]」『日本物理学会誌』第54巻第9号、1999年、743-745頁。}} |
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* {{Wikicite|ref={{Sfnref|郷|2003}} |reference=郷信広「[https://doi.org/10.5940/jcrsj.45.341 学術会議の改革]」『日本結晶学会誌』第45巻第5号、2003年、341-343頁。}} |
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* {{Wikicite|ref={{Sfnref|小沼|2017}} |reference=[[小沼通二]]「[https://doi.org/10.5363/tits.22.7_10 初期の日本学術会議と軍事研究問題]」『学術の動向』第22巻第7号、2017年、10-17頁。}} |
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* {{Wikicite|ref={{Sfnref|庄司|1998}} |reference=庄司邦昭「[https://doi.org/10.18949/jinnavi.136.0_48 日本学術会議の活動状況について]」『日本航海学会誌 NAVIGATION』第136巻、1998年、48-52頁。}} |
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* {{Wikicite|ref={{Sfnref|高岩|2017}} |reference=高岩義信「[https://doi.org/10.11316/butsuri.72.8_588 『研究の民主化』とは何だったのか]」『日本物理学会誌』第72巻第8号、2017年、588-592頁。}} |
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* {{Wikicite|ref={{Sfnref|土居|2010}} |reference=土居範久「[https://doi.org/10.5363/tits.15.1_25 日本学術会議の国際学術交流]」『学術の動向』第15巻第1号、2010年、25-32頁。}} |
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* {{Wikicite|ref={{Sfnref|永山・栗原|2009}} |reference=永山國昭、栗原和枝「[https://doi.org/10.2142/biophys.49.147 日本学術会議とは何か?]」『生物物理』第49巻第3号、2009年、147-150頁。}} |
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* {{Wikicite|ref={{Sfnref|野尻|2018}} |reference=野尻美保子「[https://doi.org/10.11316/butsuri.73.11_795 学術会議の最近の動向および物理学委員会の活動報告]」『日本物理学会誌』第73巻第11号、2018年、795-797頁。}} |
|||
* {{Wikicite|ref={{Sfnref|宮嶌|2003}} |reference=宮嶌和男「[https://doi.org/10.11316/butsuri1946.58.7.539 日本学術振興会における科研費の審査等について]」『日本物理学会誌』第58巻第7号、2003年、539-540頁。}} |
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* {{Wikicite|ref={{Sfnref|山下|1993}} |reference=山下律也「[https://doi.org/10.11357/jsam1937.55.3_143 日本学術会議・農業機械学研究連絡委員会の活動]」『農業機械学会誌』第55巻第3号、1993年、143-146頁。}} |
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=== 日本学術会議関係 === |
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* {{Wikicite|ref={{Sfnref|学術の動向|1996}} |reference=「[https://doi.org/10.5363/tits.1.9_22 日本学術会議の役割 ― 変貌する社会の中で ―]」『学術の動向』第1巻第9号、1996年、22-42頁。}} |
|||
* {{Wikicite|ref={{Sfnref|学術の動向|1999}} |reference=「[https://doi.org/10.5363/tits.4.10_5 日本学術会議創立50周年 日本学術会議活動の沿革]」『学術の動向』第4巻第10号、1999年、5-9頁。}} |
|||
* {{Wikicite|ref={{Sfnref|学術の動向|2005}} |reference=「[https://doi.org/10.5363/tits.10.11_12 日本学術会議第20期始動]」『学術の動向』第10巻第11号、2005年、12-29頁。}} |
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* {{Wikicite|ref={{Sfnref|活動の手引き|2017}} |reference=日本学術会議『[http://www.scj.go.jp/ja/scj/tebiki-1.pdf 日本学術会議における活動の手引き ― 第24期会員及び連携会員の皆様へ ―]』日本学術会議、2017年9月、2020年10月6日閲覧。}} |
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* {{Wikicite|ref={{Sfnref|70周年記念|2019}} |reference=日本学術会議事務局『[http://www.scj.go.jp/ja/scj/print/pdf/p70kinen.pdf 日本学術会議創立70周年記念展示 日本学術会議の設立と組織の変遷 ― 地下書庫アーカイブズの世界 ―]』日本学術会議、2019年10月、2020年10月6日閲覧。}} |
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=== 報道資料 === |
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* {{Wikicite|ref={{Sfnref|NHK|2020a}} |reference=“[https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201009/k10012656551000.html 科学誌「ネイチャー」 日本学術会議の任命見送り 社説に掲載]”. ''NHK NEWS WEB''. (2020年10月9日) 2020年10月12日閲覧。}} |
|||
* {{Wikicite|ref={{Sfnref|NHK|2020b}} |reference=“[https://www3.nhk.or.jp/news/html/20201012/k10012660331000.html?utm_int=word_contents_list-items_001&word_result=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%AD%A6%E8%A1%93%E4%BC%9A%E8%AD%B0 欧米の学術機関は政府から独立 日本との違いは]”. ''NHK NEWS WEB''. (2020年10月12日) 2020年10月12日閲覧。}} |
|||
* {{Wikicite|ref={{Sfnref|梅野ほか|2020}} |reference=梅野光春、望月衣塑子 (2020年10月10日). “[https://www.tokyo-np.co.jp/article/60927 学術会議の実態は?固定給、年金なし…自腹出張も]”. ''[[東京新聞]]''. 2020年10月13日閲覧。}} |
|||
* {{Wikicite|ref={{Sfnref|永山|2020}} |reference=永山悦子 (2020年10月30日). “[https://mainichi.jp/articles/20201029/k00/00m/010/160000c #排除する政治~学術会議問題を考える「独立性が揺らぐ事態 任命拒否はありえない」吉川弘之・元学術会議会長]”. ''[[毎日新聞]]''. 2020年10月31日閲覧。}} |
|||
<!--* {{Wikicite|ref={{Sfnref|大野ほか|2020}} |reference=大野択生、宮田裕介 赤田康和、杉浦幹治 (2020年10月9日). “[https://www.asahi.com/articles/ASNB96DFZNB9UTIL04N.html 増幅する「学者への反発」 フジ解説委員や議員ら誤情報]”. ''[[朝日新聞]]''. 2020年10月12日閲覧。}}--> |
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== 関連文献 == |
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本節に掲載しているものは、「Further Reading」としての文献。時系列順に記す。 |
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* [[藤田信勝]](著者代表)『学者の森 上』『学者の森 下』[[毎日新聞社]]、1963年、{{Ncid|BN04999094}}。 |
|||
* 時事問題研究所 編『赤い巨塔「学者の国会」日本学術会議の内幕』時事問題研究所、1970年、{{Ncid|BN09415066}}。 |
|||
* [[坂田昌一]]『科学者と社会』[[岩波書店]]〈論集〉、1972年、{{Ncid|BN0106341X}}。 |
|||
* 原現吉『科学研究費 ― その成り立ちと変遷 ―』科学新聞社、1982年11月、{{ISBN2|4905577055}}、増補改訂版、1989年9月、{{ISBN2|4905577055}}。 |
|||
* [[広重徹|廣重徹]]『科学の社会史 ― 近代日本の科学体制 ―』[[中央公論社]]〈自然選書〉、1973年、{{ISBN2|4120005283}} |
|||
** 廣重徹『科学の社会史 下 経済成長と科学』岩波書店〈[[岩波現代文庫]] 学術94〉、2003年2月、{{ISBN2|4006000944}}。 |
|||
* [[福島要一]]『「学者の森」の四十年 ― 日本学術会議とともに ―』[[日本評論社]]、上巻、1986年10月、{{ISBN2|4535576238}}、下巻、1988年1月、{{ISBN2|4535576971}}。 |
|||
* [[伏見康治]]『時代の証言 ― 原子科学者の昭和史 ―』[[同文書院]]、1989年、{{ISBN2|4810340333}}。 |
|||
* 日本学術会議第七部『日本学術会議第七部のあゆみ ― 第七部会員の思いでと提言 ―』日本医歯薬アカデミー、2006年6月、{{Ncid|BA78230421}}。 |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
||
* [http://www.scj.go.jp/ 日本学術会議] |
* [http://www.scj.go.jp/ 日本学術会議] |
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**[http://www.scj.go.jp/ja/ |
** [http://www.scj.go.jp/ja/area/index.html 地区会議の活動] |
||
** [http://www.scj.go.jp/ja/int/link_kanyu.html 加入国際団体] |
|||
** [http://www.scj.go.jp/ja/group/dantai/index.html 日本学術会議協力学術研究団体] |
|||
* {{Twitter|scj_info|日本学術会議広報}} |
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(関連資料) |
|||
* [http://www.scj.go.jp/ja/info/index.html 提言・報告等] - 日本学術会議(各種文書や報告書を閲覧可。) |
|||
* [https://www.jstage.jst.go.jp/browse/tits/-char/ja 学術の動向] - [[J-STAGE]](電子ジャーナルを閲覧可。) |
|||
* [https://www8.cao.go.jp/cstp/tyousakai/gakujutsu/gmain.html 日本学術会議の在り方に関する専門調査会] - [[総合科学技術会議]](配布資料や議事録を閲覧可。) |
|||
* [https://www8.cao.go.jp/scj/index.html 日本学術会議の新たな展望を考える有識者会議] - [[内閣府]](配布資料や報告書を閲覧可。) |
|||
* [http://www.scj.go.jp/ja/member/iinkai/tenbou2020/miraitoi.html 未来からの問い―日本学術会議100年を構想する] - 日本学術会議(全文を閲覧可。特設HPには[http://www.scj.go.jp/ja/member/iinkai/tenbou2020/mirai-top.html 概要説明]や[http://www.scj.go.jp/ja/member/iinkai/tenbou2020/after-corona.html 対談動画]もある。) |
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(関連法規) |
|||
* {{Egov law|323AC0000000121|日本学術会議法}} |
* {{Egov law|323AC0000000121|日本学術会議法}} |
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* {{Egov law|417R00000003003|日本学術会議会則}} |
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(関連動画) |
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* [[日本記者クラブ|jnpc]] (2011年11月11日). {{YouTube|Ih_BhVBCgpM|大西隆 日本学術会議会長 2011.11.10}} |
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* [[日本テレビ放送網|【公式】日テレNEWS]] (2020年10月5日). {{YouTube|coQtL2Z7_Ao|【ノーカット】「日本学術会議」“任命見送り”説明は? 菅首相 内閣記者会のインタビューに応じる}} |
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* THE PAGE(ザ・ページ) (2020年10月29日). {{YouTube|1FHcwiYzzcQ|日本学術会議、任命拒否は「青天のへきれき」梶田会長ら会見(2020年10月29日)}} |
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* しばてつの学び場 (2020年10月8日). {{YouTube|eanUl-ut1Ds|ニュースで報道されない日本学術会議の実績の数々!レジ袋有料化以外にもいろいろやってるよ}} |
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2020年10月31日 (土) 06:26時点における版
ノート:日本学術会議の任命拒否#記事「日本学術会議」からの記述の移設についてに、このページに関する提案があります。 提案の要約:コメントアウト部の記述の転記 |
日本学術会議 にほんがくじゅつかいぎ Science Council of Japan | |
---|---|
役職 | |
会長 | 梶田隆章[1] |
副会長 | 望月眞弓、菱田公一、高村ゆかり[1] |
組織 | |
上部組織 | 内閣府 |
内部組織 | 第一部、第二部、第三部、事務局[2] |
概要 | |
所在地 |
〒106-8555 東京都港区六本木7丁目22番34号[1] 北緯35度39分55.2秒 東経139度43分30.5秒 / 北緯35.665333度 東経139.725139度 |
定員 | 会員210人、連携会員約2,000人 |
年間予算 | 10億4,896万円[3](2020年度) |
設置 | 1949年(昭和24年)1月 |
前身 | 学術研究会議(1920年(大正9年)) |
ウェブサイト | |
日本学術会議 | |
日本学術会議協力学術研究団体 |
日本学術会議(にほんがくじゅつかいぎ、英: Science Council of Japan 、略称:SCJ)は日本の国立アカデミーで、内閣府の特別の機関の一つ(2020年現在)。日本の科学者の内外の対する代表機関であり、科学の向上発達を図り、行政、産業及び国民生活に科学を反映浸透させることを目的とする(日本学術会議法 第2条[4])。国単位で加盟する国際学術機関の組織構成員(NMO - National Member Organization)でもあり、それらの国際分担金も担う[5][6]。
学術研究会議を前身とし、学術体制刷新委員会の議論を経て1949年に発足[7][8][9]。研究者による直接選挙を実施し、当時は「学者の国会」と呼ばれた[10][注釈 1]。政府への勧告で多くのセンターや研究所の設立を実現し[14][13]、原子力研究3原則を提言[13]。南極特別委員会で南極探検にも貢献した[15][16]。しかし科学技術庁や科学技術会議の設立に伴い政府への影響力は低下していき[17][18]、「政策提言機関として十分力を発揮したのは、1970年代まで」と言われている[19]。
紛糾の末1983年に法改正がなされ、会員選抜は登録学術協力団体による推薦に基づく内閣総理大臣の任命に変わる[20][21]。さらに日本学術会議不要論も叫ばれる中[22][23][注釈 2]、中央省庁等改革基本法に端を発する改革過程の末、2004年の法改正で2005年から組織改編。会員はコ・オプテーション方式になり、組織も7部構成から3部構成になって縦割りの打破が図られた。政策への提言なども総合科学技術会議と棲み分けられ[15][24][18]、一般向けサイエンスカフェも活動に加わった[19]。
一方で国際学術会議など40を超える国際学術団体に日本を代表して加盟しており[25][22][26][27]、各団体の国際分担金も日本学術会議予算で賄われている[5][28][27]。国際科学会議(ICSU)(現在の国際学術会議)では14万ドルを支出し世界3位の地位を占め[29][22]、日本から吉川弘之会長、黒田玲子副会長を輩出した[30][8]。また、日本学術会議はアジア学術会議をリードし、事務局、事務局長を担っている[31][26][32]。
理念
内閣総理大臣が所轄し、その経費は国の予算で負担されるが、活動は政府から独立して行われる[33](日本学術会議法 第1章の第1条・第3条[4])。「科学に関する重要事項を審議し、その実現を図ること」「科学に関する研究の連絡を図り、その能率を向上させること」を職務としている[33](同法 第2章の第3条[4])。
1949年(昭和24年)に制定された日本学術会議法の前文には、「日本学術会議は、科学が文化国家の基礎であるという確信に立って、科学者の総意の下に、わが国の平和的復興、人類社会の福祉に貢献し、世界の学会と提携して学術の進歩に寄与することを使命とし、ここに設立される。」と記されている[34][4][35]。同年1月20日の第1回総会において、吉田茂首相の代理として挨拶を担当した殖田俊吉は、「その使命の達成のためには、そのときどきの政治的、行政的便宜というようなことの掣肘を受けることのないように、高度の自主性が与えられており、ここに本会議の重要な特色がある」と述べている[36]。
また、同月22日の総会の終わりには、「日本学術会議の発足にあたって科学者としての決意表明」という声明が採択され、そこでは「われわれは、これまでわが国の科学者がとりきたった態度について強く反省し、今後は、科学が文化国家ないし平和国家の基礎であるという確信の下に、わが国の平和的復興と人類の福祉増進のために貢献せんことを誓うものである」と謳われている[37][36][注釈 3]。
なお、1980年(昭和55年)には「科学者憲章について」の声明を[38]、 2008年(平成20年)には「日本学術会議憲章」を採択している[34]。
構成員や選出方法
構成員の種別と任期
2004年の法改正後、日本学術会議は210名の会員と約2000名の連携会員で構成されている[42][43][44]。会員は特別職、連携会員は一般職の国家公務員(非常勤)となる[45][46]。設立当初、会員は研究者による直接選挙で選ばれていたが、その後1984年からは各分野の学協会推薦方式に変更になり、さらに2005年からは現会員が次の会員を選ぶコ・オプテーション方式になっている[47][48](「#選出方法とその変遷」節や「#改革の歴史」節も参照)。
会員と連携会員のいずれも任期は6年で、3年毎に約半数が任命替えされる。会員は再任できない(補欠の会員は1回再任可能)が、連携会員は2回まで再任できる[47][43]。会員は内閣総理大臣から任命され、連携会員は日本学術会議会長から任命される(日本学術会議法 第7条・第15条・第17条[4]、日本学術会議法施行令 第1条[49]、日本学術会議会則 第12条[50])。
また、会員や連携会員とは別に「日本学術会議アドバイザー」(第21期設置)や「日本学術会議外国人アドバイザー」(第23期設置)が設けられている[51]。さらに「栄誉会員」が認定されるとともに[52][53]、事務局には約50名のスタッフ(2008年時点)がいる[44]。
なお、2005年の組織改編までは連携会員は存在せず、研究連絡委員会の委員という肩書で登録学術研究団体から選出されており[47][54]、1997年の時点で2370名であった[54]。会員選出方法の詳細は次節「#選出方法とその変遷」を、選出方法改革の経緯については「#改革の歴史」節を参照。
会員の任命から次の任命までの3年間が日本学術会議の活動の一単位となっており、会長・副会長の任期も同じ3年間(再任可)である。ただし任期中に役員の交代が行われる場合もしばしばある。基本的には3年間の活動単位が一期となっており、現在は第25期(2020年(令和2年)10月 - 2023年9月)[55][20][56]。なお、会員選出方法が変わった第12期は1年半延長され[23][20][55]、第19期は1年短縮されている[57][55]。
選出方法とその変遷
- 創設後から1984年改訂前までの投票方式(会員)
- 当初、会員選出は自由立候補制によって研究者が登録し選挙を行う方式であった[58][48][47]。自由立候補制で、部、専門、地方別に登録した研究者が有権者として直接投票を行った[47][22][48]。全国区、地方区(6地方)で210名が選出され、任期は3年で全員が改選となったが、再任回数に制限はなかった[47][48][7]。有権者数は第1期で4万3999名、1983年12月時点で24万12名であった[59]。
- 第1期、第2期の選挙を経験した日本学術会議会長の亀山直人によると、「教室や研究所で強制的にある人に指示して投票させたとか、白紙を集めたとか、A群とB群とが互に連絡して投票を交換したとか種々の醜聞がある」ことを紹介し、「これらの風聞にはどうしても若干の根拠がある」と指摘していた[58]。当時は選挙規則が不十分で、金銭を伴う選挙活動すら違法ではなく、第3期の後に選挙規則が見直された[60]。第4期で会長を務めた兼重寛九郎によると、第4期の選挙では改善の効果が見受けられたという[60]。
- 1984年から2005年改訂前までの学会推薦方式(会員)
- 導入は1985年の7月の第13期から[47]。会員を推薦したい学会はまず「登録学術研究団体」に認められておく必要があった。日本学術会議には学術領域ごとに研究連絡委員会があるため、学会はどの学術領域に会員候補者・推薦人を出すか決めておくことになる。次に学会は「会員候補者」を日本学術会議会員推薦管理会に届け出て、会員資格を有することの「認定」を受ける。さらに各学会が届け出た推薦人が、学術領域ごとに会員資格を有すると認定された候補者の中から「会員候補」を選出する。なお、推薦人は各学会の構成員である必要がある。選出された会員候補は日本学術会議から内閣総理大臣に推薦され、任命を受ける[61]。
- 第17期では協力学会登録時の虚偽が見過ごされたことがあり、第18期では登録情報を会員に公開するよう改善が図られた[62]。また、学協会はその分野の研究連絡委員会に登録されるが、その学協会がその委員会に適切かどうかという問題も生じていた[62]。なお、3年に一度の会員推薦の際にはその分の予算が増額され、例えば1994年度には約8000万円の経費が上積みされていた[63]。
- 2005年以降のコ・オプテーション方式による選出方法(会員・連携会員)
- 2005年の第20期から導入されたもので[47]、現役の会員・連携会員が各々ふさわしいと考えられる「優れた研究又は業績がある」科学者から、会員候補者と連携会員候補者を合わせて5名まで、うち会員候補者は2名以内推薦する[45]。この際、優先順位をつけることはできず、人数は5名より少なくてもよく、連携候補者だけの場合でも構わない[45]。そこから選考委員会・分科会による選考が行われる[45]。なお、会員の定年は70歳であるため、少なくとも1期は務められる年齢であることが推薦時に望まれている[45]。
- この方式を検討した際の会長である吉川弘之は、「自分の身近な人は推薦しない」「学術的業績が最も優れている人を推薦する」「自分の分野にだけこだわり続ける人は推薦しない」などのルールと、何段階かの選考で派閥化などの弊害は取り除けると考えたという[64]。また、2014年1月当時の大西隆会長は、資質がある後継者を選ぶことに適していても既に会員となっている者と思想や意見が異なる集団から選ぶことに適していないと内部分析を行い、「他制度より優位性を持つか否かは、現会員・連携会員による推薦及び選考が適切に行われることに掛かっている」と記している[65]。
歴代会長・副会長
発足時の第1期は亀山直人を会長(第1-2期)とし、人文社会部門の副会長は我妻栄、自然科学部門は副会長を仁科芳雄が務めた[55]。我妻は日本学術会議法の起草を手掛けたといわれ[66]、仁科は初めて日本学術会議を代表して欧米に赴いた[67][68][69]。その後、茅誠司(第3-4期途中)、和達清夫(第5期)、朝永振一郎(第6-7期)、江上不二夫(第8期)らが会長を務めていく[55]。第6-7期(1963年1月-1969年1月)に会長を務めた朝永は[55]、会長在任中[55]の1965年にノーベル物理学賞を受賞[70]。受賞後に政府から記念事業を打診され、朝永が「自分ではなく学界のために」と答えた結果、日本学術会議の会館が建設されている[71]。
第11期から第12期途中にかけて伏見康治が会長を務めるが、法改正の騒動に伴い第12期は久保亮五、塚田裕三と会長が変わった(ただし、第12期は1年半延長)[24][20][55]。その後、近藤次郎(第13-15期)、伊藤正男(第16期)、吉川弘之(第17-18期)が会長を務めていく[55]。第17-18期に会長を務めた吉川は、国際科学会議(ICSU)の会長も務めるとともに、行政改革に合わせた日本学術会議の改革に尽力する。日本学術会議の役割のパラダイムシフトを求めた吉川の考えは「吉川理論」とも言われ、批判を集めながらも改革をリードした[21][18][72]。吉川の尽力により、総合科学技術会議における議論では日本学術会議側の意見がかなり尊重されたという[72]。
第18期で副会長を務めた黒川清が第19期会長を務め[73][74]、組織再編が行われた第20期も途中まで会長を務めた[55]。黒川は臨床医師経験者として初めて会長に就任し、吉川の改革を継承して2005年の組織改革を推進した[10]。「第三次科学技術基本計画」の草稿を託された伊東乾は「責任は俺がとるから」という黒川を「器量の人」と呼び[75]、鴨下重彦は「どちらかというと芸術家肌」と評した[10]。在米経験が長くメールも英語で返すという黒川は、アジア学術会議を軌道に乗せ[10]、日本カナダ女性研究者交流事業も発足させた[76][77]。
第20期の残りから第21期の途中までは金澤一郎が会長を務める[55]。第21期の残りは広渡清吾が務め、その後は大西隆(第22-23期)、山極寿一(第24期)と続く[55]。この間、2010年から「学術の大型研究計画に関するマスタープラン」が始まっており[78][79][80][81]、マスタープラン2010、2011、2014、2017、2020と続いている[79][82][83]。また、2020年9月に『未来からの問い ― 日本学術会議100年を構想する ―』を発行した[84]。2020年10月からの第25期は梶田隆章が会長を務めている[55]。
栄誉会員
日本学術会議会則の第35条「学術会議は、国内外における卓越した研究又は業績がある科学者その他の学術の発展に著しい貢献をしたと認められる科学者に対し、日本学術会議栄誉会員(以下「栄誉会員」という。)の称号を授与することができる」に基づき「栄誉会員」が設定されており[85]、ノーベル賞クラスの卓越した研究業績や、日本学術会議の活動や日本の科学コミュニティーの国際発展などに顕著な貢献をした者が選出される[52]。
2020年10月現在までに赤﨑勇、江崎玲於奈、小林誠、小柴昌俊、南部陽一郎、益川敏英、根岸英一、鈴木章、利根川進、李遠哲に加え、吉川弘之(国際科学会議(ICSU)会長、日本学術会議第17-18期会長、同連携会員、日本学士院会員を歴任[30][86])が認定されている[52][53]。
組織構成
第19期までの組織
会長1名に対し、副会長は人文社会系と自然科学系の2名を設けていた[87][55]。第一部から第七部までの7つの部会があり、会員210名はいずれかに所属した[88]。各部に部長、副部長、幹事2名の役員が置かれており[87]、[47]各部の専門分野は以下の通り[88][22]。
- 人文・社会科学部門 - 第一部(文学、哲学、教育学・心理学・社会学、史学)、第二部(法律学、政治学)、第三部(経済学、商学・経営学)
- 自然科学部門 - 第四部(理学)、第五部(工学)、第六部(農学)、第七部(医学、歯学、薬学)
第一部から第七部を、単に「文、法、経、理、工、農、医」と記載することもある[47]。なお、第七部では第18期で看護学研究連絡委員会を設けたものの、看護学の研究者は会員になれなかった(組織改革による第20期以降はなれるようになった)[10]。
また、運営審議会、常置委員会、特別委員会、研究連絡委員会が設けられ[89]、運営審議会には附置委員会として「広報」「財務」「勧告等」「国際会議」「二国間交流」などの委員会が置かれていた[87][73][74]。第18期以降は「アジア学術会議」の委員会が設置されていた[73][74]。単期の委員会として第17期では「50年史編集準備委員会」が[87]、第18期では「ノーベル賞100周年委員会」などが[73]、第19期では「持続可能な社会に向けた新しい科学や技術国際実行委員会」や「日本学術会議改革推進委員会」が置かれていた[74]。なお、会員以外に「委員」が設けられていた[47]。
第20期以降の組織
2004年の法改正に伴い、2005年10月に、副会長職が研究分野別の2人制から活動分野別の3人制に改められるなど組織が再編された[90][55]。2020年現在の組織を以下に示す[2]。
- 総会 - 原則として4月と10月の年2回[91]、3日間の日程で開催[2][91](臨時総会も開催可[91])。210名の会員で構成でされる日本学術会議の最高議決機関[2][91]。
- 役員 - 会長と副会長3名(副会長は組織運営担当、政府との関係等担当、国際活動担当の3名)
- 幹事会 - 毎月開催。日本学術会議の運営について審議。会長、副会長、各部の部長、副部長、幹事で構成。
- 3つの部 - 第一部(人文・社会科学)、第二部(生命科学)、第三部(理学・工学)。会員はいずれかの部に属する。
- 4つの機能別委員会 - 選考委員会、科学者委員会、科学と社会委員会、国際委員会。
- 30の学術分野別委員会
- 臨時の課題別委員会
- 事務局 - 50名の常勤職員がいる[44]。
国際活動
国際学術機関の構成員
日本学術会議は多くの国際学術機関で組織構成員(NMO - National Member Organization[5]、NAO - National Adhering Organization[28])を務めており[92][5][33][28]、例えば
- 国際科学会議(ICSU)[93] - ただし、国際科学会議は2018年に国際社会科学協議会(ISSC)[94]と統合し、国際学術会議となっている[95]。
- インターアカデミー・パートナーシップ(IAP)[94] - 1993年設立の旧IAPや、IAC、IAMPが統合されて2016年に設立[94]。
- 世界工学団体連盟(WFEO)[96][97]
があげられる。また、日本学術会議の委員会(分科会)で加盟するものとして
- 国際純正・応用化学連合(IUPAC) - IUPAC分科会[28](旧 化学研究連絡委員会[98])
- 国際純粋・応用物理学連合(IUPAP) - IUPAP分科会[81]
- 国際農業工学会(CIGR) - CIGR分科会[99]
- 国際自動制御連盟(IFAC) - IFAC分科会[100](旧 自動制御研究連絡委員会[97])
などがある。前述のICSUなども含めて、日本学術会議は1996年には47団体、2000年には50団体、国際学術機関の構成員となっていた[25][22]。委員会・分科会が国内関連学会の連携を取り持って学術講演会を催すケースもある[92][5][33]。
これらの分担金(membership fee)は日本学術会議の予算(国家予算)で賄なわれており[5][6]、例えば1995年度(平成7年度)には総額6950万5000円が「国際分担金」として予算計上され[101]、2000年の時点でICSUには14万ドル、IUPACには8万ドルの分担金を支払っていた[22]。国際学術機関によっては加盟金を払えなくなる国もある中[6]、前述のICSU(国際科学会議)の各国分担金では日本は2000年時点で第3位の加盟金を支払っていた[29]。なお、日本学術会議が分担金は既存の学会が占めてしまい、新しい提案が通らないケースがあると言われている[102][注釈 4]。
共同主催国際会議
国内で開催される各分野の学術に関する国際会議のうち、国際学術機関の総会など、特に重要と認められる国際会議について、学術研究団体と共同で開催することで、支援・協力を行っている。これらの共同主催国際会議は閣議口頭了解に基づき開催されており、皇室の構成員の臨席もある[106]。日本学術会議としての初めての主催は、国際純粋・応用物理学連合(IUPAP)に関連して1953年9月に京都大学で開催された「国際理論物理学会議」であった[107][108][109][注釈 5]。
国際理論物理学会議は開催にあたってはユネスコやフォード財団からも援助を受け[110][108]、ロックフェラー財団からの支援にあたってはアメリカ国立科学財団(NSF)のH・C・ケリー次長の尽力があった[110]。開催は招待制ながら会場外で非公式の会が多く開催され[110]、海外からの参加者にはリチャード・P・ファインマンもいた[107]。一般からの寄付金には小学生からのものもあり、当時のマスコミも大きな関心を寄せた[109]。開催後しばらくは、国外でも「Kyoto Conference」として知られたという[109]。
永宮正治は「日本学術会議が国際会議を共同主催する意義は、開催を機に専門の中だけに閉じない総合的な科学分野への広がりの道を開く点にもある」[111]と指摘しており、日本学術会議が日本物理学会やIUPAPと共同主催した「原子核物理学国際会議」(2007年開催)や、日本微生物学連盟と共同主催した国際微生物学連合会議(2011年開催)では、一般市民を対象とする公開講座を催したり、関連分野から多様な講演者を招聘したりするなどの取り組みがなされた[111][112][113]。
2007年の「原子核物理学国際会議」の開会式において、明仁天皇は湯川秀樹や仁科芳雄らのエピソードを交えつつ核兵器の悲劇に触れたうえで、原子核物理学が平和と幸福に資することを願うと挨拶した[111]。このおことばは内外の研究者らの琴線に触れ、国内外で多くの反響を呼んだ[111][注釈 6]。 また、2011年の「国際微生物連合会議」では明仁天皇が記念式典と記念懇談会に出席し、国内外の著名人が集まった[112][114][113]。これについて、同会議の国内組織委員長を務めた冨田房男は、微生物学分野を日本が重視していることを示すものであったと述懐している[112]。しかし、会場は厳戒態勢が敷かれることになった[114][注釈 7]。
代表派遣事業
「世界の学会との連携、国際的な学術動向の把握、研究の連絡、情報・資料の収集・交換など」を目的とした事業。派遣されるのは日本学術会議会員に加え、以前は研究連絡委員会委員も対象であった[115]。1950年4月「学術関係国際会議への代表派遣に関する内規」が制定され、1964年には「国際会議代表派遣要領」として改訂されている[116]。国際学術機関の国際会議などに参加しており[6]、1993年の時点では年間約70名を派遣していたという[117]。なお、初めて日本学術会議の代表として渡欧したのは第1期副会長を務めた仁科芳雄[55]で、1949年9月の国際学術連合会議(ICSU、後の国際科学会議、国際学術会議)に出席した[67][68]。
二国間学術交流
1983年から始まったもので、日本学術会議会員による代表団を派遣している。当初は年に2か国で、1983年度はアメリカ、マレーシア、1984年度はスウェーデン、タイ王国、1985年度はフランス、大韓民国と展開していった。1985年には7名の代表団を送っており、科学技術政策や教育、学術研究の問題点について調査、議論していた[118]。
2009年にバングラデシュ科学アカデミーと、2012年にブルガリア科学アカデミーと、2013年にイスラエル科学・人文アカデミーと、2014年に韓国行政研究院・韓国科学技術アカデミーと、2015年に中国科学技術協会との協定・協力覚書実施していった[119]。2020年現在は各国のアカデミーと公開シンポジウムやワークショップも開催している[119]。
特にカナダとは2005年から「日本・カナダ女性研究者交流事業」を開始している[76]。これは2004年当時の会長・黒川清が、2004年の日本とカナダの外交開始75周年を記念する事業をカナダ大使館から打診されたことが契機に始まった[76][77]。女性研究者の交流事業が中心になったのはカナダの女性進出が進んでおり日本は遅れていたためで[76]、お茶の水大学に実働が要請され、室伏きみ子[注釈 8]が推進した[76][77]。2010-2012年度は体制見直しのため休止されたものの、日本学術振興会とカナダ王立協会の共同主催で継続されている[120][121][122]。
その他の国際活動
ソ連・中国学術視察団
仁科芳雄は1950年の3月に日本学術会議代表として渡米。仁科は「国をこえて科学者が協調して軍事研究を拒否すること」を志向し、米ソの科学者を日本が橋渡しすることを願っていた。仁科は滞米時にソビエト連邦(ソ連)の研究者との接点を探ったが、当時はなす術がなかった[67][69](仁科は翌1951年1月に死去[123][注釈 9])。その後、日本学術会議は1952年に「ソビエト連邦および中華人民共和国と学術交流の途を開くことについて」という要望を政府に提出[124]。1955年の5月7日から6月25日にかけて、第4期会長を務めた茅誠司を代表とする学術視察団がソ連と中華人民共和国を訪問[125][126][124]。同年秋には中国科学院から、院長の郭沫若を代表とする科学視察団が来日した[124]。翌1956年には学術視察団の報告書が発行されている(日本学術会議 1956)。
Gサイエンス学術会議
G7・G8サミットに合わせて、サミットに参加する国と関連国のアカデミーと共同で、Gサイエンス学術会議を開催している。G8時代はロシアも参加しており、2008年における関連国はブラジル、中華人民共和国、インド、メキシコ、南アフリカ共和国であった。まとめられた共同声明は、会長から内閣総理大臣に手渡されている[128]。2016年の会議では「将来の科学者育成」も取り上げられ、2019年には日本学術会議の若手アカデミーから2名がGサイエンス学術会議に出席している[129]。
アジア学術会議
1993年から1999年まで、日本がホストとしてアジアの10か国[注釈 10]から科学者の代表を集めたアジア学術会議「The Asian Conference on Scientific Cooperation(ACSC)」というフォーラムを開催していた[131][26]。フォーラム開催には日本学術会議の予算から約2000万円を使用しており、将来的には各国で分担金を持ち寄る形式に移行することが課題になっていた[131][注釈 11]。
2001年にはアジア学術会議「The Scicence Council of Asia(SCA)」となり[26]、開催場所もバンコク(2001年)、クアラルンプール(2002年)、バリ(2003年)、ソウル(2004年)と持ち回りになった[31]。参加国は2004年にモンゴルが加わり[26]、2015年には16か国[132]、2020年現在は18か国が参加している[32]。なお、2014年には台湾の中央研究院(アカデミア・シニカ)も正式加盟した[32]。アジア学術会議は日本学術会議に事務局が置かれており[32]、当初は日本学術会議会長が事務局長を兼任していた[26]。なお、会長は会議の開催国から出すことになっている[26]。
IGBP計画
1986年、国際科学会議(ICSU)が「地球圏・生物圏国際協同研究計画」(International Geosphere-Biosphere Programme、IGBP計画)を制定する[133]。 日本学術会議は日本もこれに参加するため、1990年4月に「地球圏-生物圏国際協同研究計画(IGBP)の実施について」を政府へ勧告し[133][134]、文部省はこれを受けて 「大学等における地球圏―生物圏国際協同研究計画(IGBP)の推進について」を建議した[135]。IGBP計画は「地球の変化を、地球圏と生物圏の相互作用に重点をおいて解明することをめざした研究計画」であり[136]、2000年以降も延長されることになったため、日本学術会議は1999年4月に「地球圏-生物圏国際協同研究計画(IGBP)の促進について」を勧告している[133][137]。
予算規模
1993 - 1995年度における内訳は以下の通りで[63][101]、2020年の時点でも国際関係の活動として総額2億円を計上している[138]。なお、上述のように「アジア学術会議」は1993年から1999年まではフォーラムとして日本学術会議により開催されていた[26]。また、2000年の時点では国際会議に対して年間8件を対象とし、1件あたり500万円から1000万円を援助していたという[22][注釈 12]。
1993年度 | 1994年度 | 1995年度 | |
---|---|---|---|
総額(国際学術交流関係費) | 2億2,125万4千円 | 2億2,664万6千円 | 2億 | 875万 円
国際分担金 | 7,472万2千円 | 6,745万 円 | 6,952万5千円 |
国際会議国内開催 | 7,354万3千円 | 8,617万2千円 | 6,621万1千円 |
代表派遣 | 4,400万6千円 | 4,400万6千円 | 4,400万6千円 |
二国間交流 | 682万3千円 | 682万3千円 | 682万3千円 |
アジア学術会議の開催 | 2,216万 円 | 2,219万5千円 | 2,220万5千円 |
政府への影響の隆盛と停滞
勧告・答申・提言などの違い
日本学術会議は政府に対する勧告や答申、外部に対して見解、声明、談話などの公表を行っており[140]、
- 勧告 - 「科学的な事柄について、政府に対して実現を強く勧めるもの」
- 要望 - 「科学的な事柄について、政府及び関係機関等に実現を望む意思表示をするもの」
- 声明 - 「科学的な事柄について、その目的を遂行するために特に必要と考える事項について、意思等を発表するもの」
- 答申 - 「専門科学者の検討を要する事柄についての政府からの問いかけに対する回答」
- 提言 - 「科学的な事柄について、部、委員会又は分科会が実現を望む意見等を発表するもの」
- 会長談話 - 「緊急な課題等について、日本学術会議会長から発する談話」
といった違いがある[141]。なお、外部への提案書には英語版や中国語版を出す場合がある[142][143][144][145]。
実績と推移、他機関の影響
日本学術会議は政府への勧告により、東京大学附置原子核研究所など多くの共同利用研究所の設立を実現させた[14][60][13]。また、1954年には「原子力研究と利用に関し公開、民主、自主の原則を要求する声明」(原子力研究3原則)を提言[15][146][147][148][注釈 13]。1955年には、1957年に南極学術探検隊を派遣する会長談を公表し、政府にも提言[16][149]。設営や派遣員の人選などを日本学術会議「南極特別委員会」で推進した[16]。
当初は日本学術会議と政府の間を科学技術行政協議会(STAC)が取り持ち、提言を行政に反映させていた[17][注釈 14]。しかし科学技術庁ができてSTACが同庁の科学技術審議会と衣替えし、さらに科学技術会議が発足していくと、「学術会議の提言等を実施に移す専用のルートが実質的になくなり担当する省庁の判断に任せられることとなった」と言われている[17]。また、2005年の改革では総合科学技術会議と提言する内容に重複がないように棲み分けが図られた[18]。
第1期から第16期までの実績を以下の表に示す[140]。ただし、会長談話は第14期から、対外報告は第13期から始まったものである[140]。
政府勧告 | 政府への要望 | 公表された見解、声明 | 会長談話 | 対外報告 | |
---|---|---|---|---|---|
第1-12期(1949-1985年)[55] | 平均20件 (通算240件) |
平均28.4件 (通算341件) |
平均7.5件 (通算90件) |
— | — |
第13期(1985-1988年)[55] | 5件 | 3件 | 2件 | — | 16件 |
第14期(1988-1991年)[55] | 5件 | 1件 | 1件 | 3件 | 16件 |
第15期(1991-1994年)[55] | 1件 | 4件 | 2件 | 7件 | 61件 |
第16期(1994-1997年)[55] | 1件 | 1件 | 0件 | 2件 | 12件 |
2020年10月には、2010年8月を最後に勧告が行われていないことが問題視された[150]。なお、上記表に「提言」は含まれない。日本学術会議における「提言」とは、「科学的な事柄について、部、委員会又は分科会が実現を望む意見等を発表するもの」を指し[141]、2008年以降「提言」は321件行われている[151]。ただし、提言については政府の担当者にメールで送るだけという批判もある[152]。なお「勧告」は政府がそれを受けると必ず何らかの対処をする必要があり[22]、日本学術会議会長経験者の大西隆は2020年の取材で、一方的で「強い性格を帯びる」勧告は昔より使われなくなったと答えている[153]。
また、政府から受けた諮問に対して答申を返しており、その内訳は第1期22件、第2期15件、第3期13件、第4期9件、第5期7件という実績であった[140]。ちなみに日本学術会議が第5期であった1960年(昭和35年)に、科学技術会議が第1号の政府答申を行っている[154]。2005年の改革では総合科学技術会議と棲み分けられ[18]、総合科学技術会議と日本学術会議は「車の両輪」と言われるようになったが[155][156][157]、東京大学名誉教授の生駒俊明は「現実にはそうなっていない」と懸念していた[156]。2007年以降は政府からの諮問がなくなり、2020年10月現在まで答申は出ていない。しかし、2007年以降も政府や官庁から「審議依頼」を受けた上で審議し、報告をまとめているケースが2020年10月現在10件ある[158][151]。
なお、1962年3月7日には、当時通商産業大臣であった愛知揆一が当時上野にあった日本学術会議を訪問。「学者たちが研究費に困っていると聞いて、じかに話を聞こう」と愛知自ら赴いたもので、朝永振一郎、湯川秀樹、坂田昌一、後藤以紀、茅誠司らの声に耳を傾けた。朝永は加速器などの機械の問題や基礎研究の概念の変化について解説し、湯川は境界領域の研究の重要性とそれへの研究費・財政制度の未対応を、坂田は国際協力を進める上での問題点を訴えた。また、後藤は「“特別研究費”もさることながら、“経常研究費”の割合を増やさないと創造的な研究はできない。自由な研究が、学問発展のもと」と訴え、茅も講座研究費を戦前なみにすべきと要望した[159]。
研究所設立勧告
1955年には日本学術会議の勧告で東京大学に附置原子核研究所が設立される[14]。さらに東京大学応用微生物研究所、東京大学物性研究所、大阪大学蛋白質研究所など多くの共同利用研究所の設立を勧告により実現させた[60][13]。なお1953年に京都大学基礎物理学研究所が設立されているが、これは京都大学と日本学術会議が湯川秀樹のノーベル物理学賞受賞の記念事業として設置させた、湯川記念館が前進である[160][161]。
一方、実験地学研究所(のちに固体地球科学研究所)構想は難航した[162][163][164]。1963年、実験地学研究所設立問題をめぐってシンポジウムが開催される[162]。その後1965年(昭和40年)の第44回総会で「固体地球科学研究所」として採択され、12月に政府に勧告される[163]。その後名古屋大学の附置研究所となること、豊川市に用地を確保するなど具体化して概算要求を重ねていったが、計画はなかなか認められなかった[164]。
立命館大学教授の大瀧仁志は2001年の電気化学会の会誌に、「勧告された研究所を全部設立させると、当時の国家総予算を上回る経費が必要」になるような「到底良識のある『学者の国会』と呼ばれるには相応しくない、無節操な政策」が提案されたとし、「政府当局の顰蹙をかったことは事実のようである」と記しており[22]、文部省の原現吉はいつの間にか消えてしまった研究所案も多かったと指摘している[165]。
科研費に関する権限
かつて日本学術会議(以下、学術会議)は研究費に関する諮問に対して答申をする役割があり、「科学研究費(科研費)」や「科学試験研究費」の予算配分を決めていた[14]。また、2005年の改革前まで日本学術振興会に対して科研費の審査員も推薦していた[166][167]。
文部省で1967年に学術審議会が新設され、1968年度からの審査方法や審査委員の選出方法を変更した際、学術会議は文部省と対立[14][168][165]。文部省は「学術会議が定数よりも多い候補者を推薦し、文部省がその中から選んで任命する」案で、学術会議側は「(学術会議が推薦した候補者を)文部省は選別しないでそのまま任命する」案を要求したが、学術会議はその年の委員推薦を事実上拒否した[14][168](詳細は節「#科研費審査委員の推薦拒否」を参照)。
1969年の科研費配分では試験的な計算式が導入されたといい、第1部と第7部の分科が細分化されていることに伴う審査員のアンバランスを是正するため、研究費委員会はアンケートを取った末に「科学研究費配分にかかる分科・細目・配分委員数に関する試案」を制定した[169]。2000年からは学協会を通じて学術会議は審査員の推薦をするようになり[22]、2005年の改革で学術会議は推薦権を失った[167]。
科研費審査委員の推薦拒否
文部省で1967年に学術審議会(当時は茅誠司が会長)が新設された頃、1968年度から科研費の審査方法や審査委員の選出方法を変更することになっていた[165]。審査委員の選出方法について学術会議は文部省と対立[14][168][165]。文部省は「学術会議が定数よりも多い候補者を推薦し、文部省がその中から選んで任命する」案を提示したが、学術会議側は「(学術会議が推薦した候補者を)文部省は選別しないでそのまま任命する」修正案を要求した[14][168]。学術審議会の茅会長は仲裁のため学術会議側の案に近い茅提案を出すが、学術会議は応じなかった[165]。
当該年度から科研費が大幅に増額されたため(前年度の約41億円から約50億円へ増額)、文部省側にはその審査を急ぎたい事情があったが[165]、学術会議は「新方式は学術会議のフィロソフィにかかわる重大な変更であり、十分な検討を要する以上、本年度の審査委員推薦には応じられない」と回答した[14][168]。当初、学術会議の研究費委員会は新方式に好意的であったため、文部省側で科研費特別委員会主査として折衝していた元東京大学物性研究所 所長の武藤俊之助[注釈 15]は、「あれは背信行為」と後々まで語っていた[165]。
なお、学術会議側には「学問研究の官僚統制、個々の研究者の政治支配を可能にする、と疑われても仕方のない改訂」という認識があった[168]。一方で、文部省の原現吉は1982年の著書で、学術会議では茅提案を受け入れる意見が大勢であったが少数意見がそれを覆したことを指摘し、学術会議の一部の勢力は問題を大きくして文部省に責任を負わせ、科研費の審査権限を文部省から取り上げようとする謀略を持っていたのではないかと推測している[165]。
1968年4月には、学術会議会員と学協会代表が懇談する「科学研究費補助金に関する懇談会」を開催し、会長の朝永振一郎が状況を説明[168]。そこでも学術会議側の対応が支持された[168]。結果的に学術会議は同年度の委員推薦を「事実上拒否した形」になり[14]、文部省側が審査委員の選定にあたることになった[168][165]。実質的には学術審議会と各種学協会が選定を担ったが、協力を拒否した学協会もあった[165]。また、後に科研費が採択されても新方式に反対だからと科研費を辞退した研究者の事例も3件あったという[165]。
なお、本件は各種新聞でも大きく報道され、全体的に旧方式に関しては否定的な論調であった[165]。学術会議と文部省の対立については、「学問の自由を侵される」という見解を載せる新聞もある一方で、1968年3月29日付の『朝日新聞』の社説は、学術会議は自己反省や謙虚さに欠け「国民大衆を忘れ」ていると指摘し、会員の老害化により「一般研究者からも次第に遊離されつつある」とし、学術会議は国民の関心も失いつつあるという批判を掲載していた[165]。
連携・コミュニケーション
地区活動・地方学術会議
研究者による直接選挙だった時代には地方区の枠があり、そのため選挙制度が改訂される第12期までは「地方区会議」が設置されていた[171]。その後「地区会議」に衣替えし、地域と日本学術会議を結ぶ窓口として機能する[171]。特に近畿地区は第15期に「学術文化懇談会」を設け、近畿地区会議と近畿の府県をつなぐ役割を果たした[171]。また、2018年から「地方学術会議」が開催されるようになり、その第1回目は京都で「日本学術会議in京都」として開催されている[172]。
若手アカデミー
2000年にドイツで若手アカデミー (ドイツ)が発足しており[175]、日本学術会議でも2009年6月に「若手アカデミー委員会」が活動を開始する[174]。さらに翌2010年には実働部隊として「若手アカデミー活動検討分科会」も設置され、同年に開催されたグローバル・ヤング・アカデミー(GYA)に代表を送り込む[174]。なお、GYAは2019年時点で83の国から200名の若手研究者が集まって構成され、5年任期で約40名が毎年改選される[173]。日本は設立時には4名の会員を送り込み、その後も執行委員会委員や個別活動のリーダーを排出した[174]。
東日本大震災後の2011年3月下旬に開催された第1回GYA総会では、駒井章治が「被災若手科学者支援プロジェクト」を提案した[174]。同年、若手アカデミー委員会は各学協会に連携を呼びかけ、2014年4月の時点で85団体が参加している[176]。第23期には常設の組織として「若手アカデミー」(Young Academy of Japan、略称YAJ)[177][178]が設置され[179]、「若手科学者ネットワーク分科会」や「若手による学術の未来検討分科会」「国際分科会」などが活動している[180]。
2016年には第1回若手科学者サミットを開催[180]。若手アカデミー世界大会にも代表を送り込み、2013年から始まったアジア若手科学者会議は日本が主催している[129][注釈 16]。2019年には日本学術会議の若手アカデミーから2名がGサイエンス学術会議の会合に参加[173]。科学技術と人類の未来に関する国際フォーラム(STSフォーラム)にも代表者が出席し、世界科学フォーラムや筑波会議では独自のセッションを企画している[181][178]。
日本学術会議の委員会では45歳以下を若手としているが[129]、関連各学協会の若手研究者組織では年齢基準はまちまちで、50歳代の幹事がいる場合もある[180]。他の国ではシニアのアカデミーと若手アカデミーが独立した組織になっていたり、シニアと若手で構成員の条件が違っており、多くの国では40歳以下を若手としている[129]。また、ドイツの若手アカデミーでは選出時点で学位取得後7年以内という条件がある[175]。
刊行物・広報
月刊誌・ニュース
日本学術会議は創立当初から毎月、会員に対して
- 『日本学術会議月報』第1巻第1号、1951年1月 - 第5巻第6号、1955年6月、NCID AN00410327。
- 『JSCニュース』[182]
- 『日本学術ニュース』第1巻第1号、1957年3月 - 第4巻第3号、1960年3月、NCID AN00410316
- 『日本学術会議月報』第1巻第1号、1960年4月 - 第37巻第3号、1996年3月、NCID AN00343434
といった会報を配布していた。これらは日本学術会議事務局、および同広報委員会によるもので、日本学術会議の予算で賄われていた[182]。また、1951年の時点で発行していた月報、総会記録、運営審議会記録は、学会や各種研究機関を通して周知し、会員外にも年額500円で販売していた[58]。
なお、日本学術会議が総会100回を迎えた1986年から、各種学会の機関紙に日本学術会議広報委員会文責の「日本学術会議だより」を掲載するようになる[183]。ただし、会報として日本学術会議だよりの抜粋を記すだけの学会もあり[184]、1995年時点では日本学術協力財団の文責になっている[185]。また、これとは別に日本学術会議会員が所属学会誌に「日本学術会議だより」[186]や「学術会議だより」[15][81]として記事を記すこともある。
外部への広報を強化するため、月報は1996年(平成8年)に
- 『学術の動向』NCID AN10527590
としてリニューアルされた。これは日本学術協力財団から発行されており、購読者から購読料を取る形式に変更になっている[182]。2009年(平成21年)12月21日には、J-STAGEでの公開も始まった[187]。
書籍・年史
日本学術会議の編集により
- 日本學術會議編『學問・思想の自由のために』北隆館、1950年4月、NCID BN09576021[注釈 17]。
- 日本学術会議編『全国研究機関総覧 昭和34年版』日本学術振興会発行、丸善発売、1959年12月、NCID BA37064401。
が出版されており、さらに日本学術会議の講演会を基にして日本学術協力財団から
- 〈日学双書〉NCID BN00933403。
- 〈日本学術叢書〉NCID BA74102984。
なお、
- 日本学術会議 編『日本学術会議25年史』日本学術会議、1974年3月、NCID BN03405773。
- 日本学術会議25年史普及版編集委員会編『日本学術会議25年史』学術資料頒布会、1977年7月、NCID BA31737157、NCID BA73333212。
- 日本学術会議 編『日本学術会議50年史』日本学術会議、1999年3月、NCID BA41012707。
- 日本学術会議 編『日本学術会議50年史』日本学術協力財団、1999年3月、NCID BA48014937。
といった25年史、50年史に加え[190]、途中で
- 日本学術会議編『日本学術会議続十年史 ー 第10期~第12期(1975-1985)ー』日本学術会議、1985年11月、NCID BN00675556。
が編纂されている[191]。
また、2020年9月には
- 「未来からの問い」検討委員会、内閣府日本学術会議事務局 編『未来からの問い ― 日本学術会議100年を構想する ―』日経印刷、2020年9月、ISBN 9784865792348。
が出版されており、これは日本学術会議のホームページでも閲覧できる(「#外部リンク」節を参照)。
資料・報告書
日本学術会議は学術研究会議の時代から引き続き、
- 『Japanese journal of mathematics : transactions and abstracts(日本数學輯報 原著及抄録)』1925-1974年、NCID AA00690968。
- 『Japanese journal of botany : transactions and abstracts(日本植物學輯報 原著及抄録)』1922-1975年、NCID AA00690833。
- 『Japanese journal of zoology : transactions and abstracts(日本動物學輯報 原著及抄録)』1922-1974年、NCID AA00249591。
- 『Japanese journal of geology and geography : transactions and abstracts(日本地質學地理學輯報 原著及抄録)』1922-1975年、NCID AA00239587。
を編纂しており、その後も
- 『Report of ionosphere research in Japan』1950-1958年、NCID AA00809958。
- 『日本農学進歩年報』1954-1980年、NCID BN01598891、NCID AN00196103。
- 『農学進歩年報』1981-1986年、NCID AN00314174、
や『現行医学研究題目集』(NCID AN00077046)、『Recent trends of geographical study in Japan』(1980年Reprint、NCID BA38050796)といったものを編集していた。また、日本植物学会とはカール・ツンベルクに関する『ツュンベリー研究資料』(1953年3月、NCID BN02655695)を共同編纂していた。
なお、日本学術会議からは、
- 日本学術会議福井地震調査研究特別委員会編『昭和23年福井地震調査研究速報』日本学術会議福井地震調査研究特別委員会、1949年、NCID BN0211919X。
- 日本学術会議編『ソ連・中国学術視察報告』日本学術振興会、1956年、NCID BN09673265。
- 日本学術会議原子爆彈災害調査報告書刊行委員会編『原子爆彈災害調査報告集(第1分冊、第2分冊)』日本学術振興会、1953年、NCID BN06150464。
- 日本学術会議編『原子力シンポジウム報文集』原子力シンポジウム報文集刊行委員会、1957年、NCID BN07492598。
という調査報告が発行された。また、日本学術会議の編集で、大蔵省印刷局により
- 『基礎科学白書』1959-1962年、NCID AN10122216。
- 『科学者生活白書』1959年10月、NCID BN06798402。
- 『全国研究機関総覧』1964-1974年、NCID BN04119055、NCID AN10251412(当初は日本学術振興会発行[192])。
- 『全国学協会総覧』1966-1981年、NCID AN10153129。
- 『国際学術団体要覧』1965年版、1971年版、NCID BN02962945。
- 『1970年代以降の科学・技術について』1972年、NCID BN04923263。
も発行されている。
運営費
日本学術会議の運営費は、全額国庫負担である[193][194]。「行政機関が行う政策の評価に関する法律」(政策評価法)に従い、日本学術会議の活動の事後評価は、日本学術会議事務局自らがおこなっている[195]。
予算とその内訳
日本学術会議の予算規模は約10億円であり[44]、イギリスの王立協会やアメリカの3アカデミーと比較して、収入源の違いはあるものの大幅に少ない[196][197]。1993 - 1995年度における内訳は以下の通り[63][101]。1994年度の予算が多いのは、会員推薦時期によりその分の経費が計上されたためである[63]。
1993年度 | 1994年度 | 1995年度 | |
---|---|---|---|
総額(日本学術会議の運営に必要な経費) | 10億9,582万7千円 | 12億 | 128万7千円11億2,339万4千円 |
審議関係費 | 2億6,552万5千円 | 2億7,253万4千円 | 2億9,282万 円 |
国際学術交流関係費(#国際活動も参照) | 2億2,125万4千円 | 2億2,664万6千円 | 2億 875万 円 |
会員推薦関係費(#会員なども参照) | 1957万4千円 | 1億 5万5千円 | 2,000万 円 |
一般事務処理費 | 5億8,947万4千円 | 6億 205万2千円 | [注釈 18] | 6億 182万4千円
2020年10月の内閣官房長官による発表では、総額は約10億5000万円、「人件費などを含む政府・社会などに対する提言」で2億5000万円、「各国アカデミーとの国際的な活動」で2億円、「科学の役割についての普及・啓発」と「科学者間のネットワーク構築」でそれぞれ1000万円、「事務局人件費・事務費など」で5億5000万円と発表された[138]。
なお、2020年度予算で会員手当は、交通費宿泊費を別として会員が総額7500万円、連携会員が総額1億300万円であった[198]。会議の出席に対して日当は出るものの、「手当や旅費支払いの一時凍結や受領辞退」を事務局から会員に依頼する状況であると報道されている[198]。また、事務局の常勤職員50人の人件費として約3億9000万円がかかっていたという[199]。
諸外国との比較
全米科学アカデミーは1997年の時点で約210億円の運営費に対して8割が連邦政府との行政レビューや答申の契約による公的資金であり、英国王立協会は2013年4月からの1年で約97億円の収入のうち約65億円が公的資金であった[194]。これに関してNPO法人 ファクトチェック・イニシアティブの立岩陽一郎理事は、アメリカの法人寄付における「大幅な」減税措置や、「使途が義務付けられない多額の寄付を受け運営できる仕組みがある」ことを指摘している[194]。
なお、第19期副会長の岸輝雄(東京大学名誉教授、物質・材料研究機構理事長)は2004年の『学術の動向』で、欧米は3割から8割しか公費援助でないことを指摘しながらも、「アカデミーが、独立性・中立性・公正性を保つには、他の機関からの資金供与をなるべく排除しなければならない」という視点を示し、日本が全額国庫負担であることに対して「社会的・文化的背景を鑑みれば仕方のない部分が多い」という見解を示していた[200]。
歴史(概略)
組織の沿革
- 1948年(昭和23年)7月 - 日本学術会議法公布[201][202]
- 1949年(昭和24年)1月 - 内閣総理大臣の所轄の下、日本学術会議が設立(前身の学術研究会議は廃止され、日本学士院は日本学術会議の中に置かれる。)[201][202]
- 1949年(昭和24年)6月 - 総理府の設置に伴い、総理府の機関となる[203](なお、同年総理府には科学技術行政協議会が設置された[7]。)
- 1956年(昭和31年)4月 - 日本学士院が日本学術会議から独立(日本学士院のみ文部大臣の所轄に移る)[201][注釈 19]
- 1970年(昭和45年)7月 - 日本学士院庁舎(上野公園内)から移転[201][204]
- 1984年(昭和59年)5月 - 会員選出方法を公選制から学会推薦制へ変更[201][202]
- 2001年(平成13年)1月 - 中央省庁再編に伴い、総務大臣の所轄となり、総務省の特別の機関となる[201][202]
- 2005年(平成17年)4月 - 再び内閣総理大臣の所轄となり、内閣府の特別の機関となる[201][202]
- 2005年(平成17年)10月 - 会員選出方法を日本学術会議が自ら選考する方法へ変更し[201]、7部制から3部制への改組、連携会員の新設などの組織改革を行う[202]
特記事項
- 1954年(昭和29年) - 4月、「原子力研究と利用に関し公開、民主、自主の原則を要求する声明」(原子力研究3原則)を提言し[15][146][147][148][注釈 13]、原子力基本法に反映される[208]。5月、放射線影響特別委員会を設置[209]。
- 1955年(昭和30年) - 5月7日-6月25日、ソ連・中国学術視察団派遣[125][210][126](報告書は翌年発行 日本学術会議 1956)。9月26日、国際地球観測年の一環として1957年(昭和32年)に南極学術探検隊を派遣することについて会長談を公表、同月29日に政府へ提言[16][149]。11月には探検隊派遣が閣議決定され、設営や派遣員の人選などを日本学術会議「南極特別委員会」で推進することとなる[16][注釈 21]。
- 1957年(昭和32年) - 3月25日イギリスの、4月26日米ソの科学者にアピールを送付し、全世界の科学者に原水爆禁止を訴えた[212]。
- 1961年(昭和36年) - 1月に「人文・社会科学振興のためのシンポジウム」が開催され、5月の総会で「人文・社会科学の振興に関する勧告」を発表[213]。
- 1962年(昭和37年) - 4月の総会で「科学研究基本法の制定について」が決議され、5月に政府へ提言される[214][注釈 22]
- 1967年(昭和42年) - 「軍事目的のための科学研究を行なわない声明」を採択[216]。
- 1980年(昭和55年) - 「科学者憲章について」の声明を採択[38]
- 1990年(平成2年) - 「地球圏-生物圏国際協同研究計画(IGBP)の実施について」を勧告[134]
- 1999年(平成11年) - 「地球圏-生物圏国際協同研究計画(IGBP)の促進について」を勧告[137]
- 2002年(平成14年) - 日本が持続可能な開発のための教育(ESD)を提唱した持続可能な開発に関する世界首脳会議(環境・開発サミット、開催地は南アフリカ共和国)[219][64]において、吉川弘之会長が応援演説[64]。
- 2006年(平成18年) - 12月、法務大臣と厚生労働大臣から審議依頼を受け、「生殖補助医療の在り方検討委員会」を設置。2008年4月に代理出産は法律で原則禁止が望ましいとする報告書を返した[220][221][222]。
- 2008年(平成20年) - 「日本学術会議憲章」を発表[34]。
- 2010年(平成23年) - ホメオパシーは科学的根拠が否定されており、医療従事者は使うべきではないとする会長談話を発表[223]
- 2014年(平成26年) - 7月に内閣府の科学技術担当大臣のもとで「日本学術会議の新たな展望を考える有識者会議」が設置され、翌2015年7月に報告書がまとまる[224](詳細は節「#2005年改革の宿題」を参照)。会員105名の推薦時に政府が理由説明を要望。最終選考に残った12名を加えた117名の名簿を提出し、当初とは異なる105名が任命された[225]。
- 2016年(平成28年) - 補充人事で官邸から事前説明を求められ、日本学術会議は優先順位を付けて候補を提示。しかし官邸から難色を示されため、日本学術会議は補充を断念した[227]。これに伴い、翌2017年の会員推薦でも事前説明を実施している[227]。
- 2017年(平成29年) - 3月24日、2015年に防衛省が制定した「安全保障技術研究推進制度」に対処するため、1950年と1967年の声明を継承するという文言を含む「軍事的安全保障研究に関する声明」を発表[35][228][229][152][注釈 23]。
- 2019年(令和元年) - 9月、『未来からの問い ― 日本学術会議100年を構想する ―』を発行[84]。
- 2020年(令和2年) - 10月1日、新会員の任命が行われたが、学術会議が推薦した105人のうち6人が除外された。2004年に組織内部からの推薦を受けて会員に任命される制度となって以降、除外される措置は初[232](詳細は節「#会員任命問題と見直し」や記事「日本学術会議の任命拒否」を参照)。
改革の歴史
設立前史
第二次世界大戦後の1946年3月、学術研究会議の部長会が帝国学士院、学術研究会議、日本学術振興会の3団体の再編を建議する[233]。これにより文部省は「改組準備委員会」を組織し、3団体の再編を検討していく[146][233]。一方でアメリカの物理学者で連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)経済科学局科学技術課次長のH・C・ケリー博士[7][66]は堀内寿郎に接触し、田宮博、茅誠司、嵯峨根遼吉らを加えて同年6月に「科学渉外連絡会(Japanese Association for Scientific Liaison:SL)を組織していた[7]。科学渉外連絡会のメンバーは最終的に55名となり、顧問には亀山直人や仁科芳雄が名を連ねた[7]。
同年9月28日、ケリーが3団体(学士院、学術研究会議、日本学術振興会)、文部省、科学渉外連絡会の代表を招き、学術体制刷新に対する具体案をそれぞれ提出するように指示する[7]。同年10月には3団体は新学士院の構想を具体化していき、科学渉外連絡会は同年11月21日に「科学技術新体制案」を公表する[7]。同年11月27日に再度ケリーが各団体の代表を集め、3団体の活動は学界の一部の動きであるため、今後は科学渉外連絡会が主導するよう要請。12月23日には改組準備委員会は自ら解散した[7]。その後、文部省科学教育局長が世話役となって「学術研究体制世話人会」が組織され[233][7]、世話人会の人数は最終的に44名となる[7][注釈 24]。
1947年7月、ケリーの要請によりアメリカの米国科学アカデミーから学術諮問団が来日し、1か月の視察をもとにGHQに「日本における科学と技術の再組織」という報告書を勧告する[7]。同年8月には「学術体制刷新委員会」が組織される[233]。108人の委員は「法文理経理工医」7部門15名ずつ、総合部門3名という構成で[233][146]、委員長は兼重寛九郎が務めた[7][注釈 25]。日本側には主にケリーを介して諮問団の報告が伝えられ、改革方針に影響を与えた[7]。刷新委員会の議論では学士院に権限を持たさないことは一致していたが、民主主義科学者協会(民科)の案、人文科学有志案、科学渉外連絡会(SL)の案が対立した[7]。刷新委員会は1948年4月に審議結果を政府に報告[233][146]。日本学術会議法要綱と科学技術行政協議会要綱はほぼそのまま法律化された[7]。
世話人会、刷新委員会ともに科学渉外連絡会のメンバーが中心となり、当時40歳台であった田宮、茅、嵯峨根が活動の中核を担っていた[7]。研究者の直接選挙による会員推薦方式は茅と嵯峨根が強く主張しており、2人は刷新委員会に設けられた政府・占領軍と折衝する渉外委員会4名の中にも加わっていた[7]。科学渉外連絡会が現役研究者を中心としていたのに対し、学士院は世間一般からも「養老院化、権威の空洞化、無力、秘密主義、独善」と厳しい批判を浴び、改革により権力を失って栄誉機関に留まることとなった[7]。なお、諮問団の勧告では民主的に選出される諮問機関は非政府組織とし、諮問機関の審議を行政に移すための行政委員会を政府に設けよとなっていた[7]。
1983年の法改正
1981年5月、総理府 総務長官の中山太郎が日本学術会議の「公選制に疑義あり」と発言する[235]。同年10月の同会議総会において、当時の同会議会長の伏見康治は、「学術会議の性格を変えてはならない」「会員の選挙制を守る」と語り、「研究連絡委員会の役割の重要性」を強調した[235]。当時副会長であった岡倉古志郎を委員長とする改革委員会を中心に「各部定員30名のうち20名を選挙で選び、残り10名を推薦制にする」という「改革要綱」がまとめられ、1982年10月の総会で決議[236][235]。
「政府との交渉に入るにあたって三役の陣容一新が必要」として会長の伏見と副会長の岡倉、塚田裕三は辞任し、第12期途中で会長は久保亮五に交代[235]。久保新会長は首相に「改革要綱」を提出するが、総理府総務長官からは「改革についての総務長官試案」を示される[235]。1983年2月の総会、4月の臨時総会も経て久保会長は「改革要綱」に基づく折衝を続けるが、同年4月に「日本学術会議法の一部を改正する法律案」を閣議決定。その内容は登録された科学者団体を基礎とする研究連絡委員会ごとの推薦制というものであった[237]。これを受けた5月の総会で「職務遂行は困難」として久保は会長を辞任。塚田裕三が会長を引き継ぐことになる[238][20]。
当時の中曽根康弘首相は、国会で「学会やらあるいは学術集団からの推薦に基づいて行われるので、政府が行うのは形式的任命にすぎません。したがって、実態は各学会なり学術集団が推薦権を握っているようなもので、政府の行為は形式的行為であるとお考えくだされば」と形式的任命であると答弁していた[239][240][注釈 26]。11月の国会で改正法案は可決され、塚田会長は遺憾の意を示す声明を発表。塚田と副会長は「けじめをつけるため」に辞任したが、再任されている[238]。
このように、第12期は一貫して政府の法改正に反対の立場を取った[23]。1980年初頭の頃から「コ・オプテーション方式は政府の宿願であった」とも言われている[235]。日本学術会議の側でも、公選制では複合領域・学際領域の研究者や重要な国際学術団体を担っている学会の代表者が選出されにくいことから、3分の2は公選で残り3分の1をコ・オプテーション方式とする提案があった[241]。なお、この法改正で研究委員会が法制的に確立し、定員が拡充された[242]。また、研究連絡委員会、分科会、専門委員会における専門分野の枠組みも再編されている[242]。
2004年の法改正
政府の行政改革(中央省庁等改革基本法)を契機に、日本学術会議も改革が求められるようになる[18]。1997年の第17期初頭、会長の吉川弘之は「日本学術会議はかつてのような大型陳情団体ではない」と宣言し[22]、ほぼ一人で内部討議のための改革提言を書き上げる[243]。吉川は私的諮問委員会 「未来構想懇談会」を設け、日本学術会議としての改革基本構想を議論していき、1999年の連合部会で案を示すが議論は紛糾する[18]。第18期に入ると「日本学術会議の在り方に関する委員会」を設置し、吉川は『学術の動向』に論文を発表。さらに委員会は中間まとめを2002年4月の総会で報告し、これが改革の「学術会議案」になっていく[18](最終報告書は2003年2月[244])。
また、中央省庁等改革基本法の第十七条の九には「日本学術会議については、総務省に置くものとするが、総合科学技術会議において、その在り方を検討すること」と定められており[245]、総合科学技術会議は2001年5月に「日本学術会議の在り方に関する専門調査会」を設置[23][246][244]。2003年2月に最終報告が出され[246][247][248]、同年7月に「日本学術会議の改革の具体化について」がまとめられた[244]。これには学術会議案がかなり反映されたという[157]。
2004年に法改正がなされ、会員はコ・オプテーション方式で選出されることになった[72]。所管の総務省が内閣法制局に提出した法案審査資料には、推薦方式変更にあたって「日本学術会議から推薦された会員の候補者につき、内閣総理大臣が任命を拒否することは想定されていない」と書かれていた[249][250]。改正により組織も7部構成から3部構成になり、縦割りの打破を図られた。政策への提言なども総合科学技術会議との棲み分けが図られた[15][24][18]。また、この改革で日本学術会議は科研費の審査委員推薦権を失い[251]、「登録学術研究団体」は「日本学術会議協力学術研究団体」に変わった[19]。
改革案がまとまりつつある2003年、日本原子力研究所の郷信広は、「政府の一組織である日本学術会議は、ほかの政府組織の所掌事項に関しては発言してはならない」と制約を受けているように捉えられることを懸念し、「その結果、日本学術会議には国際学術交流を除けば、抽象的な機能のみが残ることなった」と指摘した[252]。法改正に伴い2005年に改選・組織再編がなされたが、改正前の第19期だけは1年短縮された2年任期になった[57]。第19期は40代の会員は0名で平均年齢が63.5歳だったものが、第20期では40代会員14名(最年少会員44歳)、平均年齢58.8歳と若返りとなった。しかし国立大学偏重(公立・私立大学会員の減少)、選出地域の偏り(中四国の会員は1名)という特徴も見受けられた[253]。
2005年改革の宿題
2004年に改正された法律には付帯決議があり、今後10年で日本学術会議の見直しを図るとされていた[57][224]。第19期副会長であった戒能通厚は、第20期が始まった後の2006年1月の『学術の動向』において「10年後見直しと言ういわば時限的な法という理解がある」と指摘し、「今回の法改正が、日本学術会議自身の意思によって行われたものと言い難いから、日本学術会議は早急に自らの改革に取り組むようにとの激励とみていいのでは」という認識を示した[57]。
また、戒能は今回の会員の選考基準の公表を求めるとともに[254]、新しい組織では個々の領域だけでなく横断型・俯瞰型の課題が重要になることから、会員に対して「その主な役割は、それぞれの専門分野に限定されない領域横断・俯瞰型の知見の発揮と、調整およびマネージメントにあろうから、これらのミッションをこなす能力がないと、なかなかに大変」と指摘した[255]。
2014年7月、「日本学術会議の新たな展望を考える有識者会議」が内閣府の科学技術担当大臣の下に設置され、翌2015年3月に報告書「日本学術会議の今後の展望について」がまとめられた[224][256]。活動面では「緊急課題や新たな課題への機動的対処等の改革の趣旨・目的は実現されてきており、活動面においては着実に成果が上がっている」と評価され、組織面でも「一部には改革で意図された成果が表れている」とされたものの、「改革の趣旨を尊重しつつ、運用面での工夫を重ねていくこと」が期待された[257]。
この報告書に提示された改善策には、会員について「求める人材像や選考プロセスのオープン化」が求められ[257]、「自らの専門分野の枠にとらわれない俯瞰的な視点をもって向き合うことのできる人材が望ましい」という提言がなされた[224]。また、コミュニケーションについては「若手アカデミー」活動や地域活動の推進などが盛り込まれていた[257](「#連携・コミュニケーション」節も参照)。
また、慶應義塾大学名誉教授の小沼通二は2017年の『学術の動向』において、研究者の直接選挙から学協会推薦、コ・オプテーション方式と変遷していく中で、一般研究者の関心が薄くなっている問題を指摘[258]。特に企業研究者などは日本学術会議を自分達の代表と考えていないこと、「日本学術会議の「独立した」発言を嫌がる人たちがいるのだから、学術研究者や社会、特にメディアとの交流を強化しないと学術会議の将来は危うい。」などの懸念を持っていた[59]。
会員任命問題と見直し
2020年(令和2年)10月1日、日本学術会議が推薦した新会員候補105人の内、6人が任命権者である菅義偉首相によって理由が明かされないまま任命を拒否され[259]、日本学術会議の独立性や学問の自由が損なわれるとの批判が巻き起こる[260][注釈 27]。その後、2016年の補充人事で官邸が難色を示して補充を断念したこと、2017年の会員推薦時には事前説明を実施していたこと、6名に難色を示したのは杉田和博官房副長官であったことも明らかになる[227][262]。
同月5日、菅義偉首相は記者会見を行い、(1)学術会議は政府機関であり会員は公務員、(2)(当時の中曽根康弘首相が拒否権はないと答弁した)1983年当時は学会推薦であったが、現在は個々の会員が推薦する形に変わっており会員が自分の後任を指名する事が可能、(3)学術会議は従来よりそのあり方について議論されており、総合的、俯瞰的な活動が求められているといった点から任命について法に基づき判断する必要がある、と釈明[263][注釈 28]。
90以上の学会が共同声明を出し[267][268]、大学や市民団体も抗議声明を出した[267]。また、サイエンスやネイチャーなどの世界的学術雑誌も批判を行ったり批判を取り上げたりしており[269]、野党第一党である立憲民主党の枝野幸男代表なども「明確な違法行為」と非難した[270]。一方で政府機関であるのだから総理大臣が拒否するのは当たり前、ただ理由の説明は必要(橋下徹)といった意見[271]、そもそも年間10億円の税金が投入される学術会議に存在意義はあるのか、独立性を重要視するのであれば非政府組織(NGO)で良いのではないか、といった意見[272]が出た[注釈 29][注釈 30]。
自由民主党は塩谷立を座長とする「学術会議の在り方を検討するプロジェクトチーム」を組織し、同年10月14日に初会合を開催。同年11月中に秋の行政刷新レビューで予算(国費負担)や組織形態(民営化やNGOも一案)を検証し、12月上旬に自民党が日本学術会議の在り方について提言をまとめ、同月下旬の次年度予算編成に行政刷新レビューの結果を反映される方針を示した[275]。10月16日に梶田会長は菅義偉首相を訪問し、任命拒否の理由説明と6名の任命を求める要望書を直接提出。さらに日本学術会議の在り方について、梶田会長と井上信治科学技術担当大臣が中心となって今後の協議を進めることが確認された[276]。
なお同年10月28日の国会答弁において、菅義偉首相は民間出身者や若手が少ないこと、出身や所属大学に偏りがあり多様性を考慮したと弁解した[277]。しかし大西隆元会長は、2005年当時に比べて東京大学出身者は3割近くから17%程度へ、関東の大学在籍者の割合は63%から5割程度に減少しており、会員の偏在には改善がみられると反論している[278]。なお、女性会員は第19期で13名だったものが第20期で42名の約20%となっており[253]、第25期の時点では約38%にまで達している[279]。また、同月30日の国会答弁において首相は、旧帝大所属が45%を占め、産業界は3%、50歳未満の若手は3%に過ぎないと指摘した[280]。
脚注
注釈
- ^ 「研究者・科学者の国会」[11]や「科学者の国会」[12][13]とも呼ばれる。
- ^ 文献によっては、「日本学術会議無用論」と書かれている[22]。
- ^ 草案は我妻栄の依頼により末川博が書いたものであり、総会には羽仁五郎の発議として提案された[36]。
- ^ 国際的な非営利の組織は複数あるが[103]、例えば情報処理国際連合(IFIP)は情報処理学会が、国際計測連合(IMEKO)は計測自動制御学会が[103]、IFToMMは日本IFToMM会議が[102]日本を代表する会員になっていた。なお、このうち国際計測連合は2011年に日本学術会議がNMOになったものの[104]、2020年時点での「加入国際学術団体」リストには掲載されていない[105]。
- ^ 「国際理論物理学会議」は「理論物理学国際会議」ともいわれ、京都大学、日本物理学会との共催で、京都大学の湯川記念館などが会場になった[108][109]。
- ^ 組織委員会委員長の永宮正治によれば「このご挨拶は、英訳も電光表示され、内外の参加者の多くが深く感激し、会議終了まで会場のあちこちで感激や感想が語られた」[111]とされる。さらに、永宮は「参加者を最も印象づけ、また、参加者に最も感動を与えたのは、天皇皇后のご臨席と天皇陛下の開会式におけるスピーチであった」[111]と述懐しており「両陛下のご臨席は、その後、海外でも大きな話題になり、内外の参加者より感激のメッセージが届いている。また、このご臨席は、日本学術会議の方々の大きな支えによって初めて可能となった」[111]と指摘している。
- ^ 「国際微生物学連合会議」自体は約4800名の参加者を集めたが、記念式典は約700名、記念懇談会(レセプション)は約130名しか参加できなかった[112][114]。
- ^ 日本学術会議の会員(第19期第4部幹事)[74]、連携会員[77]を歴任。
- ^ 仁科の死後、学術行政における仁科の責務は弟子である朝永振一郎が引き継いだ[123]。
- ^ インド、インドネシア、シンガポール、タイ、大韓民国、中華人民共和国、日本、フィリピン、ベトナム、マレーシアの10か国[130]。
- ^ 1995年度には約11億円の日本学術会議予算のうち2220万5000円が計上されていた[101]。
- ^ 1953年(昭和28年)には1件、1954年はなし。1955-1966年は年に1~3件、1967-1976年は年に3~5件、1977-1989年は毎年4件、1990-1995年は毎年6件と変遷している[139]。
- ^ a b 「原子力研究3原則」は、「原子力3原則」[15]や「原子力平和利用3原則」[147][148]とも呼ばれる。原子力研究3原則の提言には向坊隆や藤岡由夫が貢献したという[147][207]。
- ^ 会長を務めた伏見康治によると、科学技術行政協議会に出席する委員を日本学術会議から推薦し、政府がその人物を委員として発令することになっていた[66]。しかし、羽仁五郎と山田勝三郎については政府は発令を出さず、欠員を生じながら協議会が開催されていたという[66]。
- ^ 当時は日本大学教授[170]。
- ^ アジア若手科学者会議では「持続可能な環境へ向けて明確なインパクトをもたらすこと-若手科学者たちのレンズを通して主要課題や可能な解決策を考える-」という宣言が採択されている[129]。
- ^ 共著者 - 亀山直人、羽仁五郎、大内兵衛、坂田昌一、末川博、我妻栄[188]。
- ^ 1995年度においては「その他の事務費等」という名目で、備考欄に「一般事務処理費等」と記されている[101]。
- ^ 1956年(昭和31年)3月としている文献もある[202]。
- ^ 声明案として提案された際は、「戦争を助長し、戦争に協力すると思われる研究には、今後絶対に従わない決意」というタイトルであった[205]。
- ^ 本件の南極探検にあたり、朝日新聞社が企画、資金支援、写真電送などで大きな役割を果たした[16][149][211]。
- ^ 前年の1961年(昭和36年)4月の総会で「基礎科学振興5原則」が確認されていた[214][215]。
- ^ 日本学術会議の声明の影響で、防衛省の「安全保障技術研究推進制度」への応募が2015年度の58件から、2018年度18件、2020年度9件と減少したと報じられた[152]。2019年には日本天文学会の学会誌『天文月報』で議論を呼び[230][48]、2020年10月の日本学術会議見直し論議でも本声明が注目された[231][152]。
- ^ 衆院本会議の「科学技術振興に関する決議」に基づき内閣の下に設置される予定だった委員会がGHQの反対で作られなかったため、その予算が用いられた[7]。
- ^ 学術研究刷新委員会の委員選出に当たり、関連学協会から選定人を推薦し、その選出人が委員を選挙で選ぶという方式が取られた[234]。なお、総合部門では民主主義科学者協会といった民主化団体から代表が選出されたと言われている[234]。
- ^ 政府は国会答弁で「総理大臣の任命で会員の任命を左右するという事は考えておりません」「任命制を置いておりますが、これが実質的なものだというふうに私どもは理解しておりません」「その推薦制もちゃんと歯どめをつけて、ただ形だけの推薦制であって、学会の方から推薦をしていただいた者は拒否はしない、そのとおりの形だけの任命をしていく」「政府が干渉したり中傷したり、そういうものではない」と政府答弁を行っている[240]。
- ^ 2020年10月1日付で会長になった梶田隆章は翌2日、説明と6人の任命を求める要望書を同会議に提案し、同月3日に同会議は内閣府に送付している[261]。
- ^ また政府は「1983年の法改正以来一貫した考え方として成り立っているもの」推薦されたものを任命拒否することはあり得るという日本学術会議法について明瞭に書かれた法解釈文書はない[264]、一方時の首相が学術会議の推薦に従う義務はないとの見解を記した2018年の文書を内閣府は公表し、加藤勝信官房長官も「解釈が変わらないので直ちに公表する必要はなかったと当時判断した」と説明した[265]。内閣府副大臣の三ツ林裕巳も学術会議の推薦に首相が従わないことは可能とした上で、「会員が任命制になったときからこの考え方が前提だ。解釈変更を行ったものではない」と述べている[266]。
- ^ 東京大学大学院情報学環准教授の伊東乾は会員が提言をまとめる能力を疑問視し、「政府に政策答申する、米国で考えるならランドコーポレーションのような仕事のプロはいない」と分析。さらに「即効性のある政策マン、戦略マンとしての仕事ができるか」と問題提起し[273]、20代30代の若い世代を任用して「本当に役立つ政策提言ができる人間が集まる組織に全面改組」するべきという考えを示した[274]。
- ^ 2020年10月7日、自由民主党の下村博文・政務調査会長は政府へ提言し、日本学術会議の在り方自体を検討・議論し直す考えを示す[158]。さらに行革担当相も連携することが明らかになり、事務職員50人の人件費3億9千万円が多過ぎるとの指摘があると報道された[150][199]。
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参考文献
本節に掲載しているものは、出典として使用された「Reference」としての文献。著者名の50音順に記している。
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- 江沢洋「学術会議の改革」『日本物理学会誌』第57巻第9号、2002年、669-672頁。
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関連文献
本節に掲載しているものは、「Further Reading」としての文献。時系列順に記す。
- 藤田信勝(著者代表)『学者の森 上』『学者の森 下』毎日新聞社、1963年、NCID BN04999094。
- 時事問題研究所 編『赤い巨塔「学者の国会」日本学術会議の内幕』時事問題研究所、1970年、NCID BN09415066。
- 坂田昌一『科学者と社会』岩波書店〈論集〉、1972年、NCID BN0106341X。
- 原現吉『科学研究費 ― その成り立ちと変遷 ―』科学新聞社、1982年11月、ISBN 4905577055、増補改訂版、1989年9月、ISBN 4905577055。
- 廣重徹『科学の社会史 ― 近代日本の科学体制 ―』中央公論社〈自然選書〉、1973年、ISBN 4120005283
- 廣重徹『科学の社会史 下 経済成長と科学』岩波書店〈岩波現代文庫 学術94〉、2003年2月、ISBN 4006000944。
- 福島要一『「学者の森」の四十年 ― 日本学術会議とともに ―』日本評論社、上巻、1986年10月、ISBN 4535576238、下巻、1988年1月、ISBN 4535576971。
- 伏見康治『時代の証言 ― 原子科学者の昭和史 ―』同文書院、1989年、ISBN 4810340333。
- 日本学術会議第七部『日本学術会議第七部のあゆみ ― 第七部会員の思いでと提言 ―』日本医歯薬アカデミー、2006年6月、NCID BA78230421。
外部リンク
- 日本学術会議
- 日本学術会議広報 (@scj_info) - X(旧Twitter)
(関連資料)
- 提言・報告等 - 日本学術会議(各種文書や報告書を閲覧可。)
- 学術の動向 - J-STAGE(電子ジャーナルを閲覧可。)
- 日本学術会議の在り方に関する専門調査会 - 総合科学技術会議(配布資料や議事録を閲覧可。)
- 日本学術会議の新たな展望を考える有識者会議 - 内閣府(配布資料や報告書を閲覧可。)
- 未来からの問い―日本学術会議100年を構想する - 日本学術会議(全文を閲覧可。特設HPには概要説明や対談動画もある。)
(関連法規)
(関連動画)
- jnpc (2011年11月11日). 大西隆 日本学術会議会長 2011.11.10 - YouTube
- 【公式】日テレNEWS (2020年10月5日). 【ノーカット】「日本学術会議」“任命見送り”説明は? 菅首相 内閣記者会のインタビューに応じる - YouTube
- THE PAGE(ザ・ページ) (2020年10月29日). 日本学術会議、任命拒否は「青天のへきれき」梶田会長ら会見(2020年10月29日) - YouTube
- しばてつの学び場 (2020年10月8日). ニュースで報道されない日本学術会議の実績の数々!レジ袋有料化以外にもいろいろやってるよ - YouTube