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「青州 (山東省)」の版間の差分

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2020年9月6日 (日) 04:49時点における版

青州(せいしゅう)は、中国にかつて存在した

先秦時代

上古の中国の九州の一つに数えられている。具体的な区域については、『尚書』では「海岱」すなわち泰山から黄海までの区域とし、『周礼』では「正東」すなわち中原から真東側にあたる地域であるとする。なお、『尚書』は州名の由来について東方は五行の木に属し、木は青色に対応するためであると説明している。

漢代

紀元前106年元封5年)、武帝が全国を13州に分割し各州に刺史を設置した際、おおむね現在の山東省にあたる地域を青州刺史部とし、平原千乗済南斉郡北海東莱菑川膠東高密の9郡を管轄した。

前漢滅亡後の混乱期には赤眉軍の根拠地となったが、光武帝に破られた。後漢に入って臨朐を州治とした。後漢末期、青州は黄巾賊が大流行しており、青州の黄巾賊が中国北部を大いに荒らし、兗州に攻め込み192年に兗州刺史劉岱を殺したが、兗州刺史となった曹操に黄巾賊の兵30万人、非戦闘員100万人が降伏している。曹操は、その中から精鋭を選んで自軍に編入し、「青州兵」と名付けた。その後、袁紹の子の袁譚田楷孔融との争いに勝利し、青州を支配したが、曹操に敗れて青州を奪われた。その後も青州は賊の巣窟となり治安が悪かったが、曹操の部将の臧覇孫観夏侯淵呂虔牽招らが賊を討伐し、青州刺史となった王淩が優れた政治を行い、ようやく治安が回復した。

魏晋南北朝時代

永嘉以後の動乱の中で、青州は後趙前燕前秦南燕などと目まぐるしく支配者を変えることになった。劉裕の北伐により東晋が青州を占領すると、東晋は既に現在の淮安市周辺に僑州として青州を置いていたため、本来の青州を「北青州」とし、僑州を「南青州」とした。北魏が青州を占領した後も、この区分を襲い、青州と南青州を併置した。東晋の安帝期に州治を東陽城に移した。北斉天保7年(556年)に州治を南陽城に移した。南朝宋文帝期に冀州(のちの斉州)、470年皇興4年)に光州に分割されるなど細分化が進んだ。

隋代

初には、青州は3郡8県を管轄した。607年大業3年)には郡制施行に伴い青州は北海郡と改称され、下部に10県を管轄した。隋朝の行政区分に関しては下図を参照。

隋朝の行政区画変遷
区分 開皇元年 区分 大業3年
青州 北海郡
斉郡 北海郡 楽安郡 益都県 臨朐県 寿光県
北海県 下密県 都昌県
営丘県 千乗県 博昌県
臨淄県
益都県 昌国県
広饒県
下密県 都昌県 千乗県 楽安県
高陽県

唐〜宋代

北宋でも青州(北海郡)は郡レベルの地方行政区分として存続した。山東の要地として重視され、唐代には青州総管府が設置された。唐末には軍閥の王師範が割拠したが、後梁に滅ぼされた。宋代には京東東路の路治となった。

金〜清代

金朝が青州を占領すると、1138年天眷元年)に青州を益都府と改称した。金末には軍閥の李璮が割拠したが、モンゴル帝国に滅ぼされた。明朝が成立すると地方行政組織は再編され、1376年洪武9年)に再び青州府と改称された。

中華民国

中華民国が成立すると1913年民国2年)に青州府を再び益都県と改名された。1940年華北政務委員会により青州道と改名された。1945年に再び益都県と改名された。1986年に県級市に昇格し青州市となった。

関連項目