帰順州
帰順州(歸順州、きじゅんしゅう)は、中国にかつて存在した州。
契丹羈縻州の帰順州
[編集]本節では、唐代に現在の北京市順義区にあたる地域に設置された帰順州について述べる。
648年(貞観22年)、唐が契丹の別帥の析紇便部を帰順させて、弾汗州を置いた。716年(開元4年)、弾汗州が帰順州と改められた。742年(天宝元年)、帰順州は帰化郡と改称された。758年(乾元元年)、帰化郡は帰順州の称にもどされた。帰順州は河北道に属し、懐柔県1県を管轄した[1][2]。唐末に帰順州は順州と改められた[3]。
党項羈縻州の帰順州
[編集]本節では、唐代に党項羈縻州として設置された帰順州について述べる。762年(宝応元年)、この地が党項から唐に帰順したことから立てられた。この帰順州は静辺州都督府に属した[2]。
広西の帰順州
[編集]本節では、唐代から民国初年にかけて、現在の広西チワン族自治区靖西市一帯に設置された帰順州について述べる。
もとは帰淳州といい、元和初年に帰順州と改められた。帰順州は邕州都督府に属し[2]、唐末に廃止された。
1363年(至正23年)、元により帰順州が再び設置された。帰順州は鎮安路に属した。
明の洪武初年、帰順州は廃止され、帰順洞に降格された。1496年(弘治9年)、帰順州が再び置かれ、鎮安府に属した。嘉靖初年、帰順州は広西等処承宣布政使司に直属した[4]。帰順州は岑氏が土官として代々これを統治した[5]。1525年(嘉靖4年)、帰順州は思恩府に属した。
1729年(雍正7年)、清の改土帰流により帰順州は鎮安府に転属した。1886年(光緒12年)、帰順州は広西省の直隷州となった。帰順州は鎮辺県と下雷土州の1県1土州を管轄した[6]。
1913年、中華民国により帰順府は廃止され、靖西県と改められた。