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[[隋]]初には、亳州は2郡5県を管轄した。[[605年]]([[大業]]元年)、[[ショウ州 (中国)|譙州]]が廃止され、亳州はその管轄県を統合して、7県を管轄した。[[607年]](大業3年)、郡制施行に伴い、亳州は[[譙郡]]と改称され、下部に6県を管轄した<ref>『[[隋書]]』地理志中</ref>。隋代の行政区分に関しては下表を参照。 |
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2020年8月20日 (木) 00:27時点における版
亳州(はくしゅう)は、中国にかつて存在した州。南北朝時代から民国初年にかけて、現在の安徽省亳州市一帯に設置された。
魏晋南北朝時代
507年(正始4年)、北魏が設置した南兗州を前身とする。579年(大象元年)、北周により亳州と改称された。
隋代
隋初には、亳州は2郡5県を管轄した。605年(大業元年)、譙州が廃止され、亳州はその管轄県を統合して、7県を管轄した。607年(大業3年)、郡制施行に伴い、亳州は譙郡と改称され、下部に6県を管轄した[1]。隋代の行政区分に関しては下表を参照。
隋代の行政区画変遷 | |||||
---|---|---|---|---|---|
区分 | 開皇元年 | 区分 | 大業3年 | ||
州 | 亳州 | 譙州 | 郡 | 譙郡 | |
郡 | 陳留郡 | 譙郡 | 蒙郡 | 県 | 譙県 城父県 山桑県 臨渙県 穀陽県 酇県 |
県 | 小黄県 浚儀県 |
渦陽県 臨渙県 白撣県 竜山県 |
蒙県 |
唐代
621年(武徳4年)、唐が王世充を平定すると、譙郡は亳州と改められた。742年(天宝元年)、亳州は譙郡と改称された。758年(乾元元年)、譙郡は亳州と改称された。亳州は河南道に属し、譙・酇・城父・鹿邑・真源・臨渙・永城・蒙城の8県を管轄した[2]。
宋代
1014年(大中祥符7年)、亳州に集慶軍節度が置かれた。北宋の亳州は淮南東路に属し、譙・城父・酇・永城・衛真・鹿邑・蒙城の7県を管轄した[3]。
金のとき、亳州は南京路に属し、譙・鹿邑・衛真・城父・酇・永城の6県を管轄した[4]。
元代
元のとき、亳州は帰徳府に属し、譙・酇・鹿邑・城父・衛真・穀熟の6県を管轄した[5]。
明代以降
明の洪武初年、亳州は県に降格され、帰徳州に属した。1373年(洪武6年)、亳県は潁州に転属した。1496年(弘治9年)、亳県は再び州に昇格し、亳州が立てられた。明の亳州は鳳陽府に属した[6]。
1724年(雍正2年)、清により亳州は鳳陽府から独立し、安徽省の直隷州となった。1735年(雍正13年)、亳州は潁州府の属州に降格した。亳州は渦陽・太和・蒙城の3県を管轄した[7]。
1913年、中華民国により亳州は廃止され、亳県と改められた。