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「日本製鉄釜石シーウェイブス」の版間の差分

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2020年7月24日 (金) 08:07時点における版

日本製鉄釜石シーウェイブス
原語表記 釜石シーウェイブスRFC
クラブカラー  
 
愛称 シーウェイブス
創設年 2001年
グラウンド 釜石市球技場(松倉グラウンド)
監督 桜庭吉彦
所属リーグ トップチャレンジリーグ
ファースト
ジャージ
セカンド
ジャージ
公式サイト
http://www.kamaishi-seawaves.com/
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秩父宮ラグビー場の非公式黙認マスコット『なかぴー』『なかりん』(2016年9月25日撮影)

釜石シーウェイブスRFC(かまいしシーウェイブスラグビーフットボールクラブ、アルファベット表記:Kamaishi Seawaves R.F.C.)は、岩手県釜石市に拠点を置くラグビークラブ。2019-2020シーズンはジャパンラグビートップチャレンジリーグに所属する。

概要

1959年に設立された富士製鐵(現・日本製鉄釜石製鐵所の実業団チームを起源とする。実業団時代の1978年から84年にかけて日本選手権7連覇という偉業を達成し、その強さから「北の鉄人」と呼ばれ、日本ラグビー史に一時代を築いたチームでもある。獲得した全国タイトルは、歴代第2位の計26回(日本選手権8回・全国社会人大会9回・国体9回)を誇る[1]。また、7人制でもYC&AC JAPAN SEVENS優勝1回を誇るなどの戦績を残し、釜石を「ラグビーの町」と広く認識させるに至った。

2001年の関東社会人リーグ1部への降格に前後してクラブチーム化。以後はトップイーストリーグトップチャレンジリーグを主戦場としながらトップリーグ参入を目指している。愛称である「シーウェイブス」は、『力強く押し寄せる海の波』を意味する。

本拠地スタジアムは釜石市球技場(松倉グラウンド)[2]。他にも釜石鵜住居復興スタジアムや定期的に北上総合運動公園陸上競技場盛岡南公園球技場でトップイースト公式戦を行われている。

「非公式黙認マスコットキャラクター」は「なかぴー」「なかりん[3]

チームスローガン

  • 2014年度:「原点回帰
  • 2015・2016年度:「チェンジ・ザ・ヒストリー
  • 2017年度:「JUST DO IT

歴史

富士鉄釜石→新日鉄釜石時代

1959年、富士製鐵釜石製鐵所の実業団チームである「富士鉄釜石ラグビー部」として結成。1962年、全国社会人大会に初めて出場したが、1回戦で大阪府警察に敗れた。1969年、全国社会人大会準決勝でトヨタ自工に3年連続で敗れたものの日本選手権初出場を果たした[4]。日本選手権では綿井永寿が率いた日本体育大学に敗れた。

1970年新日本製鐵への社名変更に伴い、チーム名も「新日鉄釜石ラグビー部」に変更。同年度にリコーと同点ながら全国社会人大会初優勝を果たし、また抽選により日本選手権出場も果たしたが、日本選手権では日比野弘が率いた早稲田大学に敗れた。

1976年、全国社会人大会決勝でトヨタ自工を破り、6年ぶり2回目の優勝を果たすと日本選手権でも大東和美が率いた早稲田大学を破り、初優勝を果たした。そして1978年から1984年まで主将の松尾雄治[5]を筆頭に洞口孝治千田美智仁森重隆[6]小林日出夫らの主力を擁して、全国社会人大会及び日本選手権にて当時最多の7連覇を達成した(当時中継したNHKには映像が一つも保存されていなかったが、2013年に土門正夫アナウンサーが84・85年分を、そして千田美智仁が79年から83年分を提供したため、日本選手権決勝は映像が全て揃うこととなった[7])。ちなみに1981年には釜石市でニュージーランドのクラブチームであるポンソンビーと国際試合が行われて、ポンソンビーが19対13で勝利した。[8]

そして8連覇を狙った1985年は、全国社会人大会準決勝で神戸製鋼に敗れた。1986年は全国社会人大会決勝に進出したが、トヨタ自動車に敗れた。1987年は全国社会人大会予選で秋田市役所に敗れたため、全国社会人大会に出場できなかった。翌年の1988年より東日本社会人リーグに参加し、同年度には東芝府中に次ぐ準優勝を果たした。

しかし1992年を最後に全国社会人大会への出場が途切れ、1993年から1999年まで7年連続で入れ替え戦に回るも、全て勝利して残留を果たしたが、2001年に新設された東日本社会人チャレンジリーグにて最終戦で三菱重工相模原に1点差で敗れたことで3位に終わり[9]、東日本社会人リーグから関東社会人リーグ1部へ降格した。加えて新日本製鐵のスポーツ事業運営の見直しを図る観点から2001年を最後に新日鉄釜石ラグビー部としては一旦幕を下ろした。

釜石シーウェイブス時代

2001年、本拠地の釜石市に密着したクラブチームに生まれ変わり、チーム名称を「釜石シーウェイブスRFC」と改めて4月25日に再始動し、監督は前年まで新日鉄釜石ラグビー部の監督を務めた高橋善幸が就任した。なお同年の関東社会人リーグ1部は、5勝2敗でAグループ4位に終わった。なおシーズン終了後桜庭吉彦は一度現役を引退した。

2002年ヘッドコーチに元日本代表の桜庭吉彦が就任し、ニュージーランド出身で外国人として初めて日本代表主将を務め引退後東芝府中のヘッドコーチを務めていたアンドリュー・マコーミックを選手として招聘[10]。同年の関東社会人リーグ1部Bグループで7勝負けなし[11]トップイースト10へ昇格した。なお2002年度で最後の大会となった全国社会人大会には代表決定戦でNECに敗れたため、出場することが出来なかった。

2003年、トップイースト10初年度ではリーグ戦3位に入り、イーストプレーオフにて三菱重工相模原を破ったことでトップリーグへの昇格を争うトップチャレンジ2[12]と日本選手権出場(前身の新日鉄釜石ラグビー部時代以来となる19年ぶり)を果たした。ちなみに日本選手権では3回戦で春口廣が率いる関東学院大学に敗れた。

2004年、マコーミックは再び現役を引退し、チームのテクニカルコーチに就任した。開幕から3連勝するが、その後1勝しか挙げることが出来ずに、5位に終わる。

2005年、ヘッドコーチである桜庭吉彦が現役復帰を果たしたが、チームの成績は8位に終わる。シーズン終了後桜庭吉彦は再び現役を引退した。

2006年、ヘッドコーチにチームのOBである池村章宏が就任してオールブラックスピタ・アラティニが加入し、津嶋俊一がチームの主将に就任したが、5勝5敗の6位に終わる。

2007年、岩手県ラグビーフットボール協会と提携して「イーハトーブリーグ」を設立。釜石シーウェイブスはBチームが参加した。なお7人制日本代表石川安彦らが加入し、篠原洋介がチームの主将に就任したが、順位は前年と同じ6位に終わった。

2008年、石川安彦らは退団したものの、元東芝の佐々木天晃や元三洋電機馬渕勝らが加入し、ピタ・アラティニがチームの主将に就任した。なおチームは7勝を挙げて5年ぶりにリーグ戦を勝ち越したが、勝点の関係により3年連続の6位に終わる。

2009年、元ワールド長田剛スコット・ファーディーらが加入し、チームは開幕戦で勝利するがその後3連敗して5位で終わる。

2010年、元コカ・コーラのニールソン武蓮伝らが加入し、チームは開幕から6連勝を果たすが、その後連敗して4位で終える。

2011年東北地方太平洋沖地震に際して、拠点を置く岩手県釜石市が壊滅的被害を受ける。一時チーム関係者全員の安否不明の状態が続いたが、後に選手とその家族全員の無事が確認された。チームとしての活動を一時休止。ボランティア活動などの復興支援に積極的に取り組んだ[13]5月3日に練習を再開[14]5月4日に「スクラム釜石」という復興・チーム再建支援組織を松尾雄治石山次郎らが中心となって旗揚げした[15]。また同年にはトップイーストリーグが2部制となり釜石シーウェイブスは1部に所属し、ヘッドコーチにはホッダー・ポールが就任し、佐伯悠がチームの主将に就任し、元日本代表の吉田尚史が加入する。チームは前年と同じく4位で終わった。

2012年、スコット・ファーディーや馬渕勝らは退団したものの、元日本代表の伊藤剛臣らが加入。チームはリーグ戦で最高位タイとなる3位で終える。また三浦健博が引退したことで新日鉄釜石ラグビー部時代からの在籍者がいなくなった。

2013年、元主将のピタ・アラティニや吉田尚史らは退団したものの、トンガ代表ジョシュア・アフ香港代表調建造や7人制ニュージーランド代表のジェームス・カマナらが加入。チームは前年と同じくリーグ戦で最高位タイとなる3位で終える。

2014年、ヘッドコーチにチームのOBである三浦健博が就任し、須田康夫がチームの主将に就任して調建造やニールソン武蓮伝らは退団したものの、日本代表のヘイデン・ホップグッドオーストラリア代表サム・ノートンナイトらが加入。また同年4月にはホップグッドが日本代表に選出され、2001年にクラブチームになって以降、釜石の選手が初めて日本代表に選ばれた。トップイーストリーグでリーグ戦2位に入り、11年ぶりにジャパンラグビートップリーグへの昇格を争うトップチャレンジ2に出場し、大阪府警察、中国電力を相手に2勝0敗でグループ1位で終え、初めてトップチャレンジ1への出場を決めた。トップチャレンジ1では九州電力Honda Heatに敗れたが、同じトップイーストリーグの宿敵三菱重工相模原に勝利する[16]も1勝2敗で4位で終え、クボタとのトップリーグ入替戦に回ったが、敗れてトップリーグ昇格はならなかった。

2015年、ジョシュア・アフやホップグッドやノートンナイトらは退団したものの、日本代表の北川勇次松原裕司が加入。チームは開幕から史上初となる8連勝を果たしたが、最終戦で三菱重工相模原に敗れてリーグ戦2年連続2位に入り、トップチャレンジ2への出場が決まった。トップチャレンジ2では中部電力に勝利したが、九州電力に敗れて1勝1敗でグループ2位で終わり、トップチャレンジ1への出場はならなかった。

2016年、セイララ・マプスアや千布亮輔らは退団したものの、韓国代表許雄7人制日本代表中野裕太らが加入。7勝2敗で3位に入り、トップチャレンジへの進出はならなかったが、来シーズンから創設されるトップチャレンジリーグの参入マッチへの出場が決まった。なおトップチャレンジリーグ参入マッチでは大阪府警察、マツダブルーズーマーズに2連勝して1位となり、ジャパンラグビートップチャレンジリーグへの昇格が決定した。

2017年、ヘッドコーチに小村淳が就任し、松原裕司やジェームス・カマナらが退団したものの、韓国代表の權正赫らが加入。トップチャレンジリーグは1stステージでは2勝4敗1分で5位にとなり、2ndステージは下位リーグとなるBグループに入った。そしてBグループでは1勝2敗で3位に終わり、リーグ戦7位となり3地域チャレンジの2位チームとの入れ替え戦に回ったが、大阪府警察を破ってトップチャレンジリーグ残留を果たした。

2018年、監督にGM兼任で桜庭吉彦が就任し、チームの主将に小野航大が就任。ホラニ龍シオアペラトゥーマオリ・オールブラックスコディ・レイら総勢20名加入。一方で伊藤剛臣が引退して主将の須田康夫や許雄ら総勢19名が退団した。トップチャレンジリーグは1stステージ最終節でホーム釜石鵜住居復興スタジアムで昇格チームの栗田工業ウォーターガッシュに勝てば上位グループとなるAグループに入れる試合で12-40と完敗を喫し2勝5敗で2年連続5位となりBグループ入り、Bグループでは1勝2敗で3位に終わり、2年連続リーグ戦7位となり3地域チャレンジの2位との入れ替え戦に回ったが、中部電力ラグビー部を破ってトップチャレンジリーグ残留を果たした。

タイトル

  • 日本選手権
    • 優勝(8回):1976年度、1978年度-1984年度
  • 全国社会人大会
    • 優勝(9回):1970年、1976年、1978年-1984年度
  • 国体[17]
    • 優勝(9回):1965年度、1967年度-1968年度、1971年度-1973年度、1977年度、1979年度、1982年度

計26回(歴代第2位、歴代最多は八幡製鉄の計27回)

主な成績

新日鉄釜石ラグビー部時代

  • 全国社会人大会
    • 1962年、初出場、1回戦敗退 6-19 大阪府警察
    • 1963年、1回戦敗退 9-11 伊丹部隊
    • 1964年、2回戦敗退 9-17 近鉄
    • 1965年、2回戦敗退 8-8[18] 京都市役所
    • 1966年、準決勝敗退 0-20 近鉄
    • 1967年、準決勝敗退 5-11 トヨタ自工
    • 1968年、準決勝敗退 8-19 トヨタ自工
    • 1969年、準決勝敗退 3-21 トヨタ自工 [19]
    • 1970年、優勝 6-6 リコー[20]
    • 1971年、2回戦敗退 20-28 三菱自工京都
    • 1972年、準決勝敗退 7-21 三菱自工京都
    • 1973年、準決勝敗退 13-31 近鉄
    • 1974年、準決勝敗退 14-14[21] 近鉄
    • 1975年、2回戦敗退 14-19 三菱自工京都
    • 1976年、優勝 27-3 トヨタ自工
    • 1977年、準決勝敗退 14-16 トヨタ自工
    • 1978年、優勝 15-3 三菱自工京都
    • 1979年、優勝 27-13 東京三洋
    • 1980年、優勝 31-15 東京三洋
    • 1981年、優勝 19-0 トヨタ自工
    • 1982年、優勝 16-0 トヨタ自工
    • 1983年、優勝 31-0 東芝府中
    • 1984年、優勝 22-0 神戸製鋼
    • 1985年、準決勝敗退 9-12 神戸製鋼
    • 1986年、準優勝 6-19 トヨタ自工
    • 1988年、2回戦敗退 19-43 トヨタ自工
    • 1989年、2回戦敗退 25-49 トヨタ自工
    • 1990年、1回戦敗退 9-16 トヨタ自工
    • 1991年、2回戦敗退 7-46 三洋電機
    • 1992年、2回戦敗退 16-44 東芝府中
  • 日本選手権
    • 1969年、準優勝 13-29 日本体育大学秩父宮
    • 1970年、準優勝 16-30 早稲田大学(秩父宮)
    • 1976年、優勝 27-12 早稲田大学(国立競技場
    • 1978年、優勝 24-0 日本体育大学(国立競技場)
    • 1979年、優勝 32-6 明治大学(国立競技場)
    • 1980年、優勝 10-3 同志社大学(国立競技場)
    • 1981年、優勝 30-14 明治大学(国立競技場)
    • 1982年、優勝 21-8 同志社大学(国立競技場)
    • 1983年、優勝 35-10 同志社大学(国立競技場)
    • 1984年、優勝 31-17 同志社大学(国立競技場)
    • 2003年、3回戦敗退、13-14 関東学院大学(秩父宮)

東日本社会人リーグでの成績

シーズン 所属 順位 勝敗 監督 主将 備考
1988-1989 東日本社会人リーグ 2位 5勝2敗 金子敦行 長山時盛 全国社会人ラグビーフットボール大会に出場
1989-1990 東日本社会人リーグ 3位 4勝2敗1分 金子敦行 長山時盛 全国社会人ラグビーフットボール大会に出場
1990-1991 東日本社会人リーグ 6位 3勝4敗 金子敦行 浦野健介 全国社会人ラグビーフットボール大会に出場
1991-1992 東日本社会人リーグ 4位 4勝3敗 金子敦行 浦野健介 全国社会人ラグビーフットボール大会に出場
1992-1993 東日本社会人リーグ 7位 1勝6敗 浦野健介 高橋善幸 全国社会人ラグビーフットボール大会に出場[22]
1993-1994 東日本社会人リーグ 7位 1勝6敗 浦野健介 高橋善幸 入替戦 40-31NTT東北熊谷
東日本社会人リーグ残留
1994-1995 東日本社会人リーグ 7位 1勝6敗 小林一郎 桜庭吉彦 入替戦 15-13秋田市役所(秩父宮)
東日本社会人リーグ残留
1995-1996 東日本社会人リーグ 8位 0勝7敗 小林一郎 桜庭吉彦 入替戦 23-19秋田市役所(熊谷)
東日本社会人リーグ残留
1996-1997 東日本社会人リーグ 8位 0勝7敗 小林一郎 阿部佳知己 入替戦 66-21秋田市役所(駒沢
東日本社会人リーグ残留
1997-1998 東日本社会人リーグ 7位 1勝6敗 高橋善幸 ダニー・カレオパ 入替戦 34-13セコム江戸川
東日本社会人リーグ残留
全国社会人大会代表決定戦 10-22クボタ(東京ガス大森グラウンド)
1998-1999 東日本社会人リーグ 8位 0勝7敗 高橋善幸 眞野篤司 入替戦 15-9明治生命(駒沢)
東日本社会人リーグ残留
1999-2000 東日本社会人リーグ 7位 1勝6敗 高橋善幸 青山敦司 入替戦 30-12日本IBM(江戸川)
東日本社会人リーグ残留
2000-2001 東日本社会人リーグ 8位 0勝7敗 高橋善幸 青山敦司 東日本社会人チャレンジリーグ 3位
関東社会人リーグ1部へ降格

釜石シーウェイブス時代

シーズン 所属 順位 勝敗 ヘッドコーチ[23] 主将 備考
2001-2002 関東社会人リーグ1部グループA 4位 5勝2敗 高橋善幸 池村章宏 チャレンジリーグ出場決定戦 17-22清水建設ブルーシャークス(NTT仙台総合運動場)
2002-2003 関東社会人リーグ1部グループB 1位 7勝0敗 桜庭吉彦 池村章宏 トップイースト10へ参入
全国社会人大会代表決定戦 26-78NEC(秩父宮)
2003-2004 トップイースト10 3位 6勝3敗 桜庭吉彦 池村章宏 トップイーストプレーオフ 31-27三菱重工相模原(秩父宮)
トップチャレンジ2出場(3チーム中2位)
日本選手権出場
2004-2005 トップイースト10 5位 4勝4敗1分 桜庭吉彦 池村章宏
2005-2006 トップイースト10 8位 2勝6敗1分 桜庭吉彦 池村章宏
2006-2007 トップイースト11 6位 5勝5敗 池村章宏 津嶋俊一
2007-2008 トップイースト11 6位 4勝6敗 池村章宏 篠原洋介 イーハトーブリーグが設立。
2008-2009 トップイースト11 6位 7勝3敗 池村章宏 ピタ・アラティニ
2009-2010 トップイーストリーグ 5位 6勝4敗1分 池村章宏 ピタ・アラティニ
2010-2011 トップイーストリーグ 4位 7勝4敗 池村章宏 ピタ・アラティニ
2011-2012 トップイーストリーグ1部 4位 6勝3敗 ホッダー・ポール 佐伯悠
2012-2013 トップイーストリーグ1部 3位 6勝3敗 ホッダー・ポール 佐伯悠
2013-2014 トップイーストリーグ1部 3位 7勝2敗 ホッダー・ポール 佐伯悠
2014-2015 トップイーストリーグ1部 2位 7勝2敗 三浦健博 須田康夫 トップチャレンジ2出場(3チーム中1位)
トップチャレンジ1出場(4チーム中4位)
トップリーグ入替戦 5-34クボタ(熊谷)
トップイーストリーグ残留
2015-2016 トップイーストリーグ1部 2位 8勝1敗 三浦健博 須田康夫 トップチャレンジ2出場(3チーム中2位)
2016-2017 トップイーストリーグ1部 3位 7勝2敗 三浦健博 須田康夫 トップチャレンジリーグ参入マッチ出場(3チーム中1位)
トップチャレンジリーグへ参入
2017-2018 トップチャレンジリーグ 7位 2勝4敗1分(1st)
1勝2敗(2nd)
小村淳 須田康夫 入替戦 55-19大阪府警察(東京ガス)
トップチャレンジリーグ残留
2018-2019 トップチャレンジリーグ 7位 2勝5敗(1st)

1勝2敗(2nd)

桜庭吉彦 小野航大 入替戦 41-7 中部電力ラグビー部(釜石復興)

トップチャレンジリーグ残留

2019年度陣容

[24] 太字は今年からの新加入選手

2020年度新加入予定選手

在籍した選手

新日鉄釜石ラグビー部時代在籍

※は釜石シーウェイブス時代にも選手として在籍した選手。太字は元日本代表選手。

釜石シーウェイブス時代在籍

太字ラグビーユニオンの代表に選出されたことのある選手

スポンサー

以下は、公式サイトにて確認されるスポンサーの一覧である

メディア

テレビ・ラジオ
新聞

書籍

日本製鉄のスポーツチーム

現在活動するスポーツチーム
かつて活動していたスポーツチーム

関連項目

脚注

  1. ^ 日本製鉄八幡の計27回が歴代最多である。
  2. ^ グラウンド案内 - 公式ホームページ
  3. ^ 【なかぴー&なかりん】~がんばれ釜石シーウェイブス!~ (釜石SWファン交流会@代々木)
  4. ^ 日本選手権初出場に至った経緯は第7回日本選手権の辞退を参照。
  5. ^ 1982年から1984年は監督を兼任した。
  6. ^ 1981年に監督を兼任した。
  7. ^ No.230 ラグビー伝説の新日鉄釜石 7連覇の軌跡を発掘!、NHK番組発掘プロジェクト、2019年4月19日、同年4月22日閲覧
  8. ^ ラグビーの奥深さ まちの復興にきっと役立つ
  9. ^ 東日本社会人チャレンジリーグ - 関東ラグビーフットボール協会
  10. ^ マコーミックら新戦力7人発表 岩手日報 2002年4月1日
  11. ^ 関l社会人1部Bグループ - 関東ラグビーフットボール協会
  12. ^ なおこの時はコカ・コーラに勝利したが、豊田自動織機に敗れ、1勝1敗で2位で終わり、入れ替え戦に進出できなかった。
  13. ^ “北の鉄人”被災地で奮闘「力仕事は任せろ」 スポーツニッポン 2011年3月16日
  14. ^ 活動自粛の釜石シーウェイブス、練習再開 ラグビー asahi.com 2011年5月4日
  15. ^ 松尾雄治氏ら「スクラム釜石」設立 サンケイスポーツ 2011年5月5日
  16. ^ 三菱重工相模原に勝利したのは2008年9月以来、約6年4ヶ月ぶりである。
  17. ^ 1974年まで一般男子の部、1975年から1977年は成年男子(一般)の部、それ以降は成年男子の部
  18. ^ 抽選で京都市役所が勝ち抜いた
  19. ^ 優勝の近鉄、準優勝のトヨタ自工、3位の三菱自工京都が日本選手権出場を辞退したため同じく3位の新日鉄釜石が出場した。
  20. ^ リコーと共に同点優勝だったが抽選で日本選手権には新日鉄釜石が出場した
  21. ^ 抽選で近鉄が勝ち抜いた
  22. ^ 7位だったが東北優先条項で出場。そのため6位のサントリーが入れ替え戦に出場した。HISTORY OF SUNGOLIATH
  23. ^ 2001-2002シーズンと2018-2019シーズンは監督
  24. ^ 選手プロフィール - 公式ホームページ

外部リンク