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日比野弘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

日比野 弘(ひびの ひろし、1934年11月20日 - 2021年11月14日)は、東京都出身の元ラグビー選手で、指導者。元ラグビー日本代表監督。早稲田大学人間科学部名誉教授。

略歴

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銀座の陶磁器商「陶雅堂」の長男として生まれるが戦中に練馬へ疎開[1]。中学生の頃はタイガースファンの叔父の影響で野球少年だった。

都立大泉高校から早稲田大学へ進みラグビー部に入部。1年時からレギュラーを獲得し、日本代表・全早大のウイングとして活躍。

卒業後は東横百貨店に勤めたのちに家業を継ぎ4代目社長に、その傍ら母校の早稲田大学ラグビー蹴球部ラグビー日本代表のコーチや監督として活躍[2]

1979年に陶雅堂をたたみ[2]、のち早稲田大学体育局に移る。日本ラグビーフットボール協会では理事、副会長を務め、町井徹郎前会長逝去後は会長代行、ラグビーワールドカップ2011日本招致委員会委員長。長くラグビー中継の解説も務めた。

2021年11月14日、呼吸不全のため自宅で死去[3][4]。86歳没。同年12月20日付けで叙従五位[5][6]

学歴

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職歴

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栄典

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著作

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参考文献

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脚注

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出典

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  1. ^ 「新人国記'85 東京都(78) ボールにかけた心」『朝日新聞』1985年11月22日、夕刊、1面。「早大ラグビー部監督日比野弘(五〇)は、銀座にあった陶磁器商「陶雅堂」の長男。戦災で練馬区へ越し、中学時代にラグビーの壮快さを知る。」
  2. ^ a b 「[二都物語]銀座・新宿 <15> ラグビー人生 早大黄金時代のかげで」『読売新聞』1984年1月26日、朝刊、19面。「早大卒業後、四年間の百貨店勤務を経て家業に就き、四十三年、秀吉さんから四代目社長の座を譲られた。」
  3. ^ 日比野弘さんが死去 元ラグビー日本代表監督”. 産経ニュース. 産経新聞社 (2021年11月15日). 2021年11月15日閲覧。
  4. ^ 日比野弘さん死去 86歳 早大ラグビー部元監督、大学日本一3度”. 毎日新聞. 毎日新聞社 (2021年11月15日). 2021年11月15日閲覧。
  5. ^ 『官報』第640号7頁 令和3年12月20日号 "叙位・叙勲". インターネット版官報. 国立印刷局. 2021年12月20日. p. 7. 2021年12月28日時点のオリジナル (PDF)よりアーカイブ。2021年12月28日閲覧○叙位 日比野 弘 従五位に叙する(各通)
  6. ^ "◆故日比野弘氏に従五位". 岐阜新聞Web. 岐阜新聞社. 2021年12月11日. 2021年12月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年12月28日閲覧
  7. ^ a b c 資料室”. 早稲田大学ラグビー蹴球部. 2013年11月27日閲覧。
  8. ^ 日本ラグビーフットボール史”. adeac.jp. 2024年2月7日閲覧。