「藤原直哉 (棋士)」の版間の差分
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その一方で[[順位戦]]を不得手とする傾向が見られ、プロ入りから28年間連続でC級2組に在籍し、第63期(2004年度)と第67期(2008年度)でいずれも2勝8敗に終わり降級点を喫した。成績次第では[[順位戦#フリークラス|フリークラス]]への降級が危惧される状況で臨んだ第68期(2009年度)では、同様の境遇にあった[[有吉道夫]]に勝利するなど、4勝6敗(44人中35位)で降級を回避した。第72期(2013年度)に6勝4敗の成績を挙げ、5年ぶりに降級点を消去した。 |
その一方で[[順位戦]]を不得手とする傾向が見られ、プロ入りから28年間連続でC級2組に在籍し、第63期(2004年度)と第67期(2008年度)でいずれも2勝8敗に終わり降級点を喫した。成績次第では[[順位戦#フリークラス|フリークラス]]への降級が危惧される状況で臨んだ第68期(2009年度)では、同様の境遇にあった[[有吉道夫]]に勝利するなど、4勝6敗(44人中35位)で降級を回避した。第72期(2013年度)に6勝4敗の成績を挙げ、5年ぶりに降級点を消去した。 |
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しかし翌期以降の順位戦では再び成績が振るわず、第74期(2015年度)でまたもや2勝8敗で降級点を喫し、フリークラス降級の危機に陥った。その状況で迎えた第75期(2016年度)でも苦戦が続き、2017年1月19日の8回戦において、降級点争いの競合相手である[[森 |
しかし翌期以降の順位戦では再び成績が振るわず、第74期(2015年度)でまたもや2勝8敗で降級点を喫し、フリークラス降級の危機に陥った。その状況で迎えた第75期(2016年度)でも苦戦が続き、2017年1月19日の8回戦において、降級点争いの競合相手である[[森雞二]]が勝った事により、藤原の当年度におけるの降級点取得(累積3個目)が確定。このことに伴い、第48期(1989年度)から28年間連続<ref>C級2組における降級点制度が現行のものになった第46期(1987年度)以降に四段に昇段した棋士の中では、C級2組に最も長く在籍した記録である。C級2組における降級点制度が廃止されていた時期も含めると、[[小阪昇]](30期)・[[木村嘉孝 (棋士)|木村嘉孝]](29期)に次ぎ、[[大島映二]]と並ぶ3位タイ。</ref>で順位戦C級2組に在籍した記録も途絶えた<ref>ちなみに当期はその後も白星に恵まれず、9回戦で[[佐藤紳哉]]に、最終10回戦で[[瀬川晶司]]に、それぞれ敗れて1勝9敗に終わった。</ref>。 |
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フリークラス初年度は一転して好調が続き、降級から10ヶ月が経過した2018年1月末現在で17勝9敗、同年3月末までに4敗する前に1勝を挙げることで、第77期(2018年度)以降のC級2組順位戦に復帰が可能となる見込みであったが、4連敗してしまい初年度の復帰はならなかった<ref>日本将棋連盟・携帯中継(2018年3月20日)「第44期棋王戦 予選 2回戦」コメント</ref> 。 |
フリークラス初年度は一転して好調が続き、降級から10ヶ月が経過した2018年1月末現在で17勝9敗、同年3月末までに4敗する前に1勝を挙げることで、第77期(2018年度)以降のC級2組順位戦に復帰が可能となる見込みであったが、4連敗してしまい初年度の復帰はならなかった<ref>日本将棋連盟・携帯中継(2018年3月20日)「第44期棋王戦 予選 2回戦」コメント</ref> 。 |
2020年7月16日 (木) 23:08時点における版
藤原直哉 七段 | |
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名前 | 藤原直哉 |
生年月日 | 1965年5月27日(59歳) |
プロ入り年月日 | 1989年4月1日(23歳) |
棋士番号 | 190 |
出身地 | 兵庫県神戸市 |
師匠 | 若松政和 |
段位 | 七段 |
棋士DB | 藤原直哉 |
2018年3月22日現在 |
藤原 直哉(ふじわら なおや、1965年5月27日 - )は、将棋棋士。若松政和門下。棋士番号は190。兵庫県神戸市出身。
棋歴
小学校3年の頃、父親から将棋を教わる[1]。若松門で奨励会に入ったのは中学2年生の秋であり、遅めのスタートであった。谷川浩司と井上慶太は兄弟子である。
奨励会棋戦の第11回「若駒戦」で優勝。決勝日(1989年6月5日)の前に、すでに四段昇段していた。
1988年度後期奨励会三段リーグで、史上1位タイの16勝2敗の成績を収め、1989年4月にプロ入り。高田尚平とともに、平成に入ってからの初の四段昇段者である。
第21回(1990年度)新人王戦でベスト4。
第4期(1991年度)竜王戦6組(1990 - 1991年)で、郷田真隆新四段らに勝ち決勝進出[2]。
第5期(1992年度)竜王戦では、丸山らに勝ち5組優勝[3]。
第47期(2006年度)王位戦で、リーグ入り。残留には至らなかったものの、当時の名人・森内俊之に勝利するなど、健闘した。
その一方で順位戦を不得手とする傾向が見られ、プロ入りから28年間連続でC級2組に在籍し、第63期(2004年度)と第67期(2008年度)でいずれも2勝8敗に終わり降級点を喫した。成績次第ではフリークラスへの降級が危惧される状況で臨んだ第68期(2009年度)では、同様の境遇にあった有吉道夫に勝利するなど、4勝6敗(44人中35位)で降級を回避した。第72期(2013年度)に6勝4敗の成績を挙げ、5年ぶりに降級点を消去した。
しかし翌期以降の順位戦では再び成績が振るわず、第74期(2015年度)でまたもや2勝8敗で降級点を喫し、フリークラス降級の危機に陥った。その状況で迎えた第75期(2016年度)でも苦戦が続き、2017年1月19日の8回戦において、降級点争いの競合相手である森雞二が勝った事により、藤原の当年度におけるの降級点取得(累積3個目)が確定。このことに伴い、第48期(1989年度)から28年間連続[4]で順位戦C級2組に在籍した記録も途絶えた[5]。
フリークラス初年度は一転して好調が続き、降級から10ヶ月が経過した2018年1月末現在で17勝9敗、同年3月末までに4敗する前に1勝を挙げることで、第77期(2018年度)以降のC級2組順位戦に復帰が可能となる見込みであったが、4連敗してしまい初年度の復帰はならなかった[6] 。
棋風
居飛車党で、矢倉と相掛かり系の将棋が多い。全軍躍動の手厚い攻めの棋風である。たまに、振り飛車も指す。
人物・エピソード
- 由来は不明だが、棋士間で「アダルト」のあだ名がある[7] 。
- 後に妻となる女性と九州で極秘デートをした帰り、新幹線のホームで兄弟子の谷川と遭遇した際には、「仕事です」とごまかそうとしたが、谷川に「それはない!」と言われた[8]という。
- 奨励会三段時代の1986年11月5日に、当時同じ三段だった村山聖と対局して敗れる。村山はこの勝利により四段昇段を決定させた。
連盟での委員会活動
- 将棋ソフト不正使用疑惑に絡む総会での3理事解任を受け、2017年3月30日、西尾明らと共に「電子機器の取り扱い、対局規定の委員会」の委員に選ばれた旨が、日本将棋連盟から発表された[9]。
昇段履歴
昇段規定は、将棋の段級 を参照。
- (1987年4月から三段リーグ制度)
主な成績
在籍クラス
竜王戦と順位戦のクラスは、将棋棋士の在籍クラス を参照。
脚注
- ^ 平成10年版「将棋年鑑」(日本将棋連盟)
- ^ 当期の新四段・丸山忠久に決勝で敗れ、最終戦績は準優勝。
- ^ 本戦では、当期新四段にして6組で優勝した深浦康市に初戦で敗れた。
- ^ C級2組における降級点制度が現行のものになった第46期(1987年度)以降に四段に昇段した棋士の中では、C級2組に最も長く在籍した記録である。C級2組における降級点制度が廃止されていた時期も含めると、小阪昇(30期)・木村嘉孝(29期)に次ぎ、大島映二と並ぶ3位タイ。
- ^ ちなみに当期はその後も白星に恵まれず、9回戦で佐藤紳哉に、最終10回戦で瀬川晶司に、それぞれ敗れて1勝9敗に終わった。
- ^ 日本将棋連盟・携帯中継(2018年3月20日)「第44期棋王戦 予選 2回戦」コメント
- ^ 「プロ棋士カラー名鑑 2018」(扶桑社)
- ^ 「将棋世界」誌2000年1月号付録
- ^ “対局規定委員会設置のお知らせ|将棋ニュース|日本将棋連盟”. 日本将棋連盟 (2017年3月30日). 2019年6月8日閲覧。
- ^ “藤原直哉六段が七段に昇段|将棋ニュース|日本将棋連盟”. 日本将棋連盟 (2013年6月20日). 2019年6月8日閲覧。