「アポロ11号」の版間の差分
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{{Infobox |
{{Infobox spaceflight |
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| name = アポロ11号 |
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|insignia=Apollo 11 insignia.png |
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| image = Aldrin Apollo 11 original.jpg |
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|stats_ref=<ref name="Orloff">{{Citation|url=http://history.nasa.gov/SP-4029/Apollo_00g_Table_of_Contents.htm |title=''Apollo'' by the Numbers: A Statistical Reference (SP-4029) |author=Richard W. Orloff |publisher=NASA}}</ref> |
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| image_caption = [[月面]]上で[[船外活動]]中にポーズを取る[[バズ・オルドリン]]。ヘルメットのバイザーには、この写真を撮影した[[ニール・アームストロング]]の姿が反射して映り込んでいる。 |
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|crew_size=3名 |
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| insignia = Apollo_11_insignia.png |
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|command_module=CM-107<br />コールサイン ''Columbia''<br />質量 30,320 kg |
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| insignia_alt = 周囲を青色と金色で縁取った円の内側に、地球を背景にして月の上で翼を広げながらオリーブの枝を掴んでいるワシを表した徽章。 |
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|service_module=SM-107 |
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| insignia_caption = ミッション徽章 |
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|lunar_module=LM-5<br />コールサイン ''Eagle''<br />質量 16,448 kg |
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| mission_type = 有人月面着陸 |
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|booster=[[サターンV]] SA-506 |
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| operator = [[アメリカ航空宇宙局|NASA]] |
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|launch_pad={{USA}}[[フロリダ州]]<br />{{nowrap|[[ケネディ宇宙センター]]}}<br />[[ケネディ宇宙センター第39発射施設|LC 39A]] |
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| COSPAR_ID = {{Unbulleted list |
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|launch_date=1969年7月16日<br />13:32:00 [[世界協定時|UTC]] |
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|CSM: 1969-059A |
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|lunar_landing=1969年7月20日<br />20:17:40 UTC<br />[[静かの海]]<br />{{Coord|0|40|26.69|N|23|28|22.69|E|globe:moon_type:landmark}}<br />([[国際天文学連合|IAU]] Mean Earth Polar Axis [[座標|coordinate system]]に基づく) |
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|LM: 1969-059C |
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|lunar_eva_duration=2 h 36 m 40 s |
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}} |
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|lunar_surface_time=21 h 31 m 20 s |
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| SATCAT = {{Unbulleted list |
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|lunar_sample_mass=21.55 kg (47.5 lb) |
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|CSM: 4039 |
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|lunar_orbits=30 |
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|LM: 4041 |
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|time_lunar_orbits=59 h 30 m 25.79 s |
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}} |
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|landing=1969年7月24日<br />16:50:35 UTC<br />北太平洋<br />{{Coord|13|19|N|169|9|W|type:event|name=アポロ11号着水地}} |
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|mission_duration |
| mission_duration = 8日と3時間18分35秒 |
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| spacecraft = {{Unbulleted list |
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|crew_photo=Apollo 11.jpg |
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|[[アポロ司令・機械船|Apollo CSM]]-107 |
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|crew_caption=左から: [[ニール・アームストロング|アームストロング]]、[[マイケル・コリンズ (宇宙飛行士)|コリンズ]]、[[エドウィン・オルドリン|オルドリン]] |
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|[[アポロ月着陸船|Apollo LM]]-5 |
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|previous_mission=[[File:Apollo-10-LOGO.png|35px]] [[アポロ10号]] |
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}} |
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|next_mission=[[アポロ12号]] |
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| manufacturer = {{Unbulleted list |
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|CSM: [[ロックウェル・インターナショナル|North American Rockwell]] |
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|LM: [[グラマン|Grumman]] |
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}} |
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| launch_mass = {{convert|100756|lb|kg}} |
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| landing_mass = {{convert|10873|lb|kg}} |
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| launch_date = {{start date|1969|7|16|13|32|0|Z}} |
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| launch_rocket = [[サターンV]] SA-506 |
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| launch_site = [[ケネディ宇宙センター]] [[ケネディ宇宙センター第39発射施設|LC-39A]] |
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| landing_date = {{end date|1969|7|24|16|50|35|Z}} |
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| landing_site = 北太平洋<br/>{{Coord|13|19|N|169|9|W|type:event|name=アポロ11号着水地点}} |
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| recovery_by = [[ホーネット (CV-12)|USS Hornet]] |
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| orbit_epoch = 1969年7月19日21:44 UTC<ref name="orbit">{{cite web |url=http://airandspace.si.edu/explore-and-learn/topics/apollo/as11/a11sum.htm |title=Apollo 11 Mission Summary |publisher=Smithsonian National Air and Space Museum |work=The Apollo Program |accessdate=September 7, 2013 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130829082429/http://airandspace.si.edu/explore-and-learn/topics/apollo/as11/a11sum.htm |archivedate=August 29, 2013 |df=mdy}}</ref> |
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| orbit_reference = [[月周回軌道]] |
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| orbit_periapsis = {{convert|54.5|nmi|km|order=flip|sp=us}}<ref name="orbit"/> |
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| orbit_apoapsis = {{convert|66.1|nmi|km|order=flip|sp=us}}<ref name="orbit"/> |
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| orbit_inclination = 1.25度<ref name="orbit"/> |
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| orbit_period = 2時間<ref name="orbit"/> |
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| apsis = selene |
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| interplanetary = |
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{{Infobox spaceflight/IP |
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|type = orbiter |
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|object = 月 |
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|component = [[アポロ司令・機械船|司令・機械船]] |
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|orbits = 30周 |
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|arrival_date = 1969年7月19日17:21:50 UTC{{sfn|Orloff|2000|p=106}} |
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|departure_date = 1969年7月22日04:55:42 UTC{{sfn|Orloff|2000|p=109}} |
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}} |
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{{Infobox spaceflight/IP |
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|type = lander |
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|object = 月 |
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|component = [[アポロ月着陸船|月着陸船]] |
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|arrival_date = 1969年7月20日20:18:04 UTC<ref name="ALSJ 1" /> |
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|departure_date = 1969年7月21日17:54 UTC |
|||
|location = [[静かの海]]<br/>{{Lunar coords and quad cat|0.67408|N|23.47297|E}}<ref>{{cite web |url=https://nssdc.gsfc.nasa.gov/planetary/lunar/lunar_sites.html |title=Apollo Landing Site Coordinates |publisher=US National Space Science Data Center |first=David R. |last=Williams |date=December 11, 2003 |accessdate=September 7, 2013}}</ref> |
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|sample_mass = {{convert|47.51|lb|kg|order=flip}} |
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|surface_EVAs = 1回 |
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|surface_EVA_time = 2時間31分40秒 |
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}} |
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| docking = |
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{{Infobox spaceflight/Dock |
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| docking_target = 月着陸船 |
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| docking_type = dock |
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| docking_date = 1969年7月16日16:56:03 UTC{{sfn|Orloff|2000|p=106}} |
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| undocking_date = 1969年7月20日17:44:00 UTC{{sfn|Orloff|2000|p=107}} |
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| time_docked = |
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}} |
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{{Infobox spaceflight/Dock |
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| docking_target = 月着陸船上昇段 |
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| docking_type = dock |
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| docking_date = 1969年7月21日21:35:00 UTC{{sfn|Orloff|2000|p=109}} |
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| undocking_date = 1969年7月21日23:41:31 UTC{{sfn|Orloff|2000|p=109}} |
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| time_docked = |
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}} |
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| crew_size = 3名 |
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| crew_members = {{Unbulleted list |
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|[[ニール・アームストロング]] |
|||
|[[マイケル・コリンズ (宇宙飛行士)|マイケル・コリンズ]] |
|||
|[[バズ・オルドリン]] |
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}} |
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| crew_callsign = {{Unbulleted list |
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|CSM: ''Columbia'' |
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|LM: ''Eagle'' |
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|月面上: ''[[静かの基地|Tranquility Base]]'' |
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}} |
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| crew_photo = apollo_11.jpg |
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| crew_photo_caption = 左から:[[ニール・アームストロング|アームストロング]]、[[マイケル・コリンズ (宇宙飛行士)|コリンズ]]、[[バズ・オルドリン|オルドリン]] |
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| crew_photo_alt = 宇宙服を着用したままヘルメットを脱いで、大きな月の写真の前に座る3名の宇宙飛行士。 |
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| previous_mission = [[アポロ10号]] |
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| next_mission = [[アポロ12号]] |
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| programme = [[アポロ計画]] |
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}} |
}} |
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'''アポロ11号'''(アポロ11ごう、{{lang-en-short|Apollo 11}})は、史上初めて[[ヒト|人類]]による[[月面着陸]]に成功した[[アポロ宇宙船]]、およびその[[アポロ計画の一覧|ミッション]]の名称。 |
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== 概略 == |
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'''アポロ11号'''は[[アメリカ合衆国]]の[[アポロ計画]]において、歴史上初めて[[ヒト|人類]]を[[月|月面]]に到達させた[[宇宙飛行]]である。 |
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アポロ11号は2人の人間を世界で最初に[[月]]に[[月面着陸|着陸]]させた[[有人宇宙飛行|宇宙飛行]]であった。[[ニール・アームストロング]]船長と[[バズ・オルドリン]]月着陸船操縦士の2名のアメリカ人が、1969年7月20日20時17分(UTC=[[協定世界時]])に[[アポロ月着陸船]]「イーグル」号を月に着陸させた。アームストロングは7月21日の2時56分15秒(UTC)に月面に降り立った最初の人物となり、その19分後にオルドリンがアームストロングに続いた。2人は約2時間15分をともに船外で過ごし、47.5ポンド(21.5キログラム)の月物質を地球に持ち帰るために採取した。2人が月面にいる間、[[マイケル・コリンズ (宇宙飛行士)|マイケル・コリンズ]]司令船操縦士はひとり月周回軌道上で[[アポロ司令・機械船|司令船]]「コロンビア」号を飛行させた。アームストロングとオルドリンは21時間半を月面で過ごしたあと、月周回軌道上で再び「コロンビア」に合流した。 |
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アポロ11号は、7月16日13時32分(UTC){{sfn|毎日新聞社|1969|p=10}}に[[フロリダ州]][[メリット島]]にある[[ケネディ宇宙センター]]から[[サターンV]]型ロケットで打ち上げられ、NASAの[[アポロ計画]]の5番目の有人ミッションとなった。[[アポロ宇宙船]]は次の3つの部分(モジュール)から構成される。3人の宇宙飛行士が乗り込める船室を備え、唯一地球に帰還する部分である[[アポロ司令・機械船#司令船|司令船]](CM)と、推進力、電力、酸素、水を供給して司令船を支援する[[アポロ司令・機械船#司令船|機械船]](SM)、そして月に着陸するための下降段と、月を離陸して再び月周回軌道まで宇宙飛行士を送り届けるための上昇段の二段式になっている[[アポロ月着陸船|月着陸船]](LM)である{{sfn|Brooks|Grimwood|Swenson|1979|pp=72–77}}。 |
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== 概要 == |
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{{For2|アポロ宇宙船の技術的詳細|アポロ宇宙船}} |
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アポロ計画ではこれが5度目の[[有人宇宙飛行]]で、[[アポロ8号]]と[[アポロ10号]]に続く3度目の月飛行となった。搭乗員すべてがいずれも過去に宇宙飛行の経験を持っているのは、[[宇宙開発]]史上これが2度目のことだった。 |
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アポロ11号はサターンVの第三段の推力で[[月遷移軌道|月に向かう軌道]]に乗り、宇宙船をサターンVから切り離したあと、およそ3日間かけて旅し、[[月周回軌道|月軌道]]に入った。アームストロングとオルドリンは月着陸船「イーグル」に移乗し、[[静かの海]]に軟着陸した。2人は「イーグル」の上昇段を使用して月面を離陸し、司令船「コロンビア」で待つコリンズと再び合流した。「イーグル」を投棄したあと、宇宙飛行士たちは司令船を地球へ帰還する軌道に乗せる操作を行い、エンジンを噴射して月軌道を離脱した。3人は8日間以上の宇宙飛行を終えて、7月24日に地球に帰還し、太平洋に[[着水]]{{enlink|splashdown}}した。 |
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[[ニール・アームストロング]]船長、[[バズ・オルドリン]][[アポロ月着陸船|月着陸船]]操縦士、[[マイケル・コリンズ (宇宙飛行士)|マイケル・コリンズ]][[アポロ司令・機械船#司令船|司令船]]操縦士の3宇宙飛行士を乗せた[[サターンV 型ロケット]]は、[[1969年]][[7月16日]][[ケネディ宇宙センター第39発射施設]]から打ち上げられ、およそ3日半後に月周回軌道に到達。[[7月20日]]司令船「コロンビア」から分離された月着陸船「イーグル」は下段ロケットの噴射で減速しながら月面「静かの海」に軟着陸、アームストロングとオルドリンが、人類として初めて月面に降り立った。コリンズは「コロンビア」に残って周回軌道上に留り、月面を離脱後の「イーグル」上段との再[[宇宙機のドッキングおよび係留|ドッキング]]に備える傍ら、月面の写真撮影を行った。 |
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アームストロングが月面に最初の一歩を踏み下ろす場面は、テレビジョン放送を通じて全世界に向けて生中継された。日本でもテレビ中継は注目を集め、月面作業の中継時の平均視聴率は82%に達した(ビデオリサーチ調べ)<ref>青鉛筆『朝日新聞』昭和44年(1969年)11月26日朝刊、12版、15面</ref>。アームストロングはこの出来事について「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」と述べた<ref name="ALSJ 4" />。アポロ11号は実質的に[[宇宙開発競争]]を終わらせ、1961年に故[[ジョン・F・ケネディ]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]が掲げた「この60年代が終わるまでに人間を月に着陸させ、安全に地球に帰還させる」<!-- 1961年5月25日の[[一般教書演説|上下両院合同会議における演説]]でケネディ大統領が表明した[[施政方針演説|施政方針]] -->という国家目標を見事に達成した<ref>{{Cite news |url=http://archives.cnn.com/2001/TECH/space/05/25/kennedy.moon/ |title=Man on the Moon: Kennedy speech ignited the dream |publisher=CNN |last=Stenger |first=Richard |date=May 25, 2001 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20100606035837/http://archives.cnn.com/2001/TECH/space/05/25/kennedy.moon/ |archivedate=June 6, 2010|access-date=December 30, 2018}}</ref>。 |
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この飛行でアメリカ合衆国は、亡き[[ジョン・F・ケネディ|ケネディ大統領]]が1961年5月25日の[[一般教書演説|上下両院合同会議における演説]]で表明した「1960年代の終わりまでに人類を月面に到達させかつ安全に地球に帰還させる」という[[施政方針演説|施政方針]]<!-- ← 公約ではありません-->に応えるかたちでこれを見事に実現させたのである<!--([[1963年]][[11月22日]]に没したケネディは、この公約実現に立ち会えていない)--><!--自明蛇足-->。 |
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== 背景 == |
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{{quotation|…… 私は、この60年代の終わりまでに人間を月に着陸させ、安全に地球に帰還させるという<br />その目標を達成することに、我が国民が取り組むべきだと確信しています。<br />{{smaller|''{{en|… I believe that this nation should commit itself to achieving the goal, before this decade is out, <br />of landing a man on the Moon and returning him safely to the Earth.}}''}}}}<!--この場合の commit は「取り組む」で、その主語は nation「国民」、ケネディはそうあるべきだと believe「確信している」のであって、彼自身がそれを行うと約束しているのではありません--> |
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1950年代後半から1960年代前半にかけて、アメリカ合衆国(米国)は地政学的な競争相手の[[ソビエト連邦]](ソ連)と[[冷戦]]の最中にあった{{sfn|Logsdon|1976|p=134}}。1957年10月4日、ソ連は世界初の[[人工衛星]]となる[[スプートニク1号]]を打ち上げた。この出し抜けの打ち上げ成功でソ連は世界中を驚かせ、人々の不安を煽り、想像力をかき立てた。ソ連には大陸間の距離を越えて核兵器を打ち込める能力があることを証明して見せ、米国の主張する軍事・経済・技術的優位を試したのである{{sfn|Logsdon|1976|pp=13–15}}。これにより、突如として[[スプートニク・ショック]]が起こり、[[宇宙開発競争]]の端緒が開かれた{{sfn|Brooks|Grimwood|Swenson|1979|p=1}}。 |
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ソ連によるスプートニクの挑戦に対して、米国の[[ドワイト・D・アイゼンハワー]]大統領は[[アメリカ航空宇宙局|国家航空宇宙局]](NASA)を創設し、人を[[地球周回軌道]]に乗せることを目指す{{sfn|Swenson|Grimwood|Alexander|1966|p=134}}[[マーキュリー計画]]に着手した{{sfn|Swenson|Grimwood|Alexander|1966|pp=101–106}}。しかし、1961年4月12日にソ連の[[宇宙飛行士|コスモノート]](宇宙飛行士)、[[ユーリイ・ガガーリン]]が世界で最初に宇宙を飛行し、初めて軌道上で地球を周回した人物となった{{sfn|Swenson|Grimwood|Alexander|1966|pp=332–333}}ことにより、スプートニク・ショックで傷ついたアメリカ人の自尊心に追い打ちをかける形となった{{sfn|Swenson|Grimwood|Alexander|1966|p=342}}。ソ連に遅れることおよそ1か月、1961年5月5日に[[アラン・シェパード]]が約15分間の[[弾道飛行]]の旅を成し遂げ、初めて宇宙を飛行したアメリカ人となった。シェパードは大西洋から回収されたあと、アイゼンハワーの後任の[[ジョン・F・ケネディ]]大統領から祝いの電話を受けた{{sfn|Logsdon|1976|p=121}}。 |
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== 搭乗員 == |
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<small>※ ( )内は、この飛行も含めた宇宙飛行回数</small> |
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ケネディは、他国に優越せんとすることは合衆国の国民的関心の中にあって、米国の国力に対する認識は少なくとも現実(の国力)と同程度に重要であると信じていた。それゆえに、宇宙探査の分野においてソ連が(米国よりも)先進的であることは耐えがたいことであった。ケネディは、合衆国は競争しなければならないと固く決心し、勝機を最大化する試練を探し求めた{{sfn|Logsdon|1976|p=134}}。 |
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=== 主搭乗員 === |
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* ニール・アルデン・アームストロング (Neil Alden Armstrong) :船長 (2) |
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* マイケル・コリンズ (Michael Collins) :司令船操縦士 (2) |
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* エドウィン・E・オルドリンJr. (Edwin E. Aldrin, Jr.) :月着陸船操縦士 (2) |
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当時、ソ連は米国よりも優れた[[ブースター|ブースターロケット]]を有していたため、ケネディは米国がソ連と対等の立場で競争を始められるよう、既存世代のロケットの最大出力を超える試練を要求した。たとえそれが軍事上、経済上、科学上の理由で妥当なものとして認められなかったとしても、壮大な見世物であった。ケネディは自身の顧問と専門家に相談した結果、そのような事業計画を選択した{{sfn|Logsdon|1976|pp=112–117}}。1961年5月25日、ケネディは "Urgent National Needs" (至急の国家的要請)に関して[[アメリカ合衆国議会|合衆国議会]]で次のように演説した。 |
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コリンズはアポロ8号の司令船操縦士に指名されていたが、外科手術で搭乗中止になったため、ジェームズ・ラベルと交替で司令船操縦士になった。 |
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{{quote|私は、この[[1960年代|60年代]]が終わるまでに人間を月に着陸させ、安全に地球に帰還させるという目標を達成することに我が国民が真剣に取り組むべきであると信ずるものであります。これ以上人類に強い印象を与える宇宙事業計画はこの時代にただのひとつも存在せず、それが長期に及ぶ宇宙の探査のために重要であることもまたとないことでしょう。そして、完遂するためにこれほど困難をともない、費用のかかるプロジェクトもそうないことでしょう。我々はしかるべき月宇宙船の開発を加速するつもりです。我々は、これまでに開発されたいずれのものよりもはるかに大型で、それらの代わりとなる液体および固体の燃料ブースターを一定の優れた成果が得られるまで開発するつもりです。我々は、その他のエンジン開発および無人探査、我が国民が決して見落とすことのないことには、この大胆な宇宙飛行を最初に行う者が生還すること、そのひとつの目的のために特に重要である探査に充てる追加的な基金を提案します。しかし、本当の意味で、ただ一人の人間が月に行くのではありません。我々がこの判断を肯定すれば、全国民が月に行ったも同然です。と申しますのも、彼を月に送り込むには我々皆が働かなければならないからです。<ref>{{cite web |url=https://www.nasa.gov/vision/space/features/jfk_speech_text.html |title=Excerpt: 'Special Message to the Congress on Urgent National Needs' |publisher=NASA |access-date=September 16, 2018|date=May 25, 1961 }}</ref>|第35代アメリカ合衆国大統領 ジョン・F・ケネディ|1961年5月25日、上下両院合同会議における演説より|}} |
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人間を月に着陸させるための取り組みには、すでに[[アポロ計画]](Project Apollo)という名前がつけられていた{{sfn|Brooks|Grimwood|Swenson|1979|p=15}}。[[直接上昇]]方式と[[地球軌道ランデブー]]の両方にかかわる[[月軌道ランデブー]]は、早期にあったきわめて重大な決定事項であった。宇宙空間における[[ランデブー (宇宙開発)|ランデブー]]とは、2機の宇宙船が宇宙空間を航行して落ち合う[[軌道マヌーバ|軌道操縦]]のことである。1962年7月11日、NASA長官のジェームズ・ウェッブは月軌道ランデブー方式を用いることに決定したと発表した。その結果、はるかに小さいロケット<ref>{{cite web|url=https://www.nasa.gov/centers/langley/news/factsheets/Rendezvous.html|title=The Rendezvous That Was Almost Missed: Lunar Orbit Rendezvous and the Apollo Program|date=December 1992|access-date=December 26, 2018|publisher=NASA|work=NASA Langley Research Center Office of Public Affairs}}</ref>{{sfn|Swenson|Grimwood|Alexander|1966|pp=85–86}}と3つのモジュールから成る[[アポロ宇宙船]]とでアポロ計画は進められることになった。この方法を選択したことは、アポロ宇宙船が(当時開発中だった)[[サターンV]]型ロケットで打ち上げられるであろうことを意味した{{sfn|Brooks|Grimwood|Swenson|1979|pp=48–49}}。 |
|||
アポロ計画に要求される技術および技巧は[[ジェミニ計画]]で開発されたものである{{sfn|Brooks|Grimwood|Swenson|1979|pp=181–182, 205–208}}。アポロ計画は、1967年1月27日に[[アポロ1号]]が火災事故に遭い、3名の宇宙飛行士が亡くなったことと、それに関する調査のため、不意に中断された{{sfn|Brooks|Grimwood|Swenson|1979|pp=214–218}}。1968年10月に[[アポロ7号]]が地球周回軌道上で司令船の評価を行い{{sfn|Brooks|Grimwood|Swenson|1979|pp=265–272}}、同年12月に[[アポロ8号]]がそれを月周回軌道上で試験した{{sfn|Brooks|Grimwood|Swenson|1979|pp=274–284}}。1969年3月に[[アポロ9号]]が地球軌道上で月着陸船の調子を試し{{sfn|Brooks|Grimwood|Swenson|1979|pp=292–300}}、同年5月に[[アポロ10号]]が月軌道上で予行演習を実施した。こうして1969年7月までに、アポロ11号が月面に到達する最終段階までに必要な準備がすべて整った{{sfn|Brooks|Grimwood|Swenson|1979|pp=303–312}}。 |
|||
ソ連は米国と宇宙開発競争を繰り広げたが、米国のサターンVに匹敵する[[N-1]]ロケットの開発の度重なる失敗によって初期の優位は失われていた<ref>{{cite web |url=http://ocw.mit.edu/courses/science-technology-and-society/sts-471j-engineering-apollo-the-moon-project-as-a-complex-system-spring-2007/readings/soviet_mand_lunr.pdf |title=The Soviet Manned Lunar Program |last=Lindroos |first=Marcus |work=MIT OpenCourseWare |publisher=[[Massachusetts Institute of Technology]] |format=PDF |accessdate=October 4, 2011}}</ref>。それでもソ連は米国に打ち勝とうとして[[無人探査機]]を飛ばし、月物質を地球に持ち帰ること([[サンプルリターン]])を試みた。アポロ11号の打ち上げの3日前にあたる7月13日、ソ連は[[ルナ15号]]を打ち上げ、アポロ11号よりも先に月軌道に到達させた。しかし、月面へ降下する間に探査機が機能不全に陥り、[[危難の海]]に激突した。そのときの衝撃はアポロ11号が月面に設置した地震計に詳細に記録された{{sfn|シェパード|スレイトン|1994|p=347}}。アームストロングとオルドリンが月面を離陸して地球への帰路につくおよそ2時間前のことであった。イングランドにある[[ジョドレルバンク天文台|ナフィールド電波天文学研究所]]の電波望遠鏡が月へ降下中のルナ15号から伝送された信号を記録しており、それらはアポロ11号の40周年記念にあたる2009年7月に公表された<ref>{{cite news |title=Recording tracks Russia's Moon gatecrash attempt |first=Jonathan |last=Brown |url=https://www.independent.co.uk/news/science/recording-tracks-russias-moon-gatecrash-attempt-1730851.html |work=[[The Independent]] |location=London |date=July 3, 2009 |accessdate=January 10, 2011}}</ref>。 |
|||
== 人員 == |
|||
=== 正規搭乗員 === |
|||
{{Spaceflight crew |
|||
|terminology = 宇宙飛行士 |
|||
|position1 = 船長 |
|||
|crew1_up = [[ニール・アームストロング|ニール・A・アームストロング]] |
|||
|flights1_up = 最後にして2 |
|||
|position2 = 司令船操縦士 |
|||
|crew2_up = [[マイケル・コリンズ (宇宙飛行士)|マイケル・コリンズ]] |
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|flights2_up = 最後にして2 |
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|position3 = 月着陸船操縦士 |
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|crew3_up = [[バズ・オルドリン|エドウィン・E・オルドリンJr.]] |
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|flights3_up = 最後にして2 |
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}} |
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当初は、船長に[[ニール・アームストロング]]を、司令船操縦士(CMP)に[[ジム・ラヴェル]]を、月着陸船操縦士(LMP)に[[バズ・オルドリン]]を、それぞれアポロ9号の予備搭乗員として割り当てることが1967年11月20日に公式に発表された{{sfn|Brooks|Grimwood|Swenson|1979|p=374}}。ラヴェルとオルドリンは以前、[[ジェミニ12号]]の搭乗員として一緒に飛行したことがあった。月着陸船(LM)の設計と製造に遅れが生じたため、アポロ8号とアポロ9号は正規搭乗員および予備搭乗員が交代させられ、アームストロング船長以下の搭乗員はアポロ8号の予備搭乗員になった。通常の搭乗員ローテーション計画に基づけば、アームストロングは当時アポロ11号の船長になるものと予想されていた{{sfn|Hansen|2005|pp=312–313}}。 |
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ところが、うち1人が変更されることになった。アポロ8号に正規搭乗員として乗り組む予定だった[[マイケル・コリンズ (宇宙飛行士)|マイケル・コリンズ]]が両脚に故障を抱え始めたためである{{sfn|アームストロング|コリンズ|オルドリンJr.|1973|p=52}}。医師からは[[椎間板ヘルニア|5番目と6番目の椎骨間の骨の成長]]に問題があると診断され、外科手術を要するほどの容態であった{{sfn|Collins|2001|pp=288–289}}。そのため、ラヴェルがコリンズに代わってアポロ8号の搭乗員になり、コリンズは故障から回復すると司令船操縦士としてアームストロング船長以下の搭乗員に加わった。その間、[[フレッド・ヘイズ]]が月着陸船操縦士として、オルドリンが司令船操縦士として、それぞれアポロ8号の予備搭乗員を務めた{{sfn|Cunningham|2010|p=109}}。搭乗員全員が先に宇宙飛行を経験したことのあるベテラン飛行士で編成されたのは、アメリカの宇宙開発史上、[[アポロ10号]]に次いで{{sfn|Orloff|2000|p=72}}これが2度目のことだった{{sfn|Orloff|2000|p=90}}。以後、全員がベテラン飛行士で編成される3度目の機会は1988年の[[STS-26]]まで訪れることはなかった{{sfn|Orloff|2000|p=90}}。 |
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一部では、オルドリンはともに働くことに難があると思われていたため、飛行乗組員の運用責任者だった[[ドナルド・スレイトン|スレイトン]]はアームストロングにオルドリンをラヴェルと交代させる選択肢を用意した。アームストロングはオルドリンと働くことに何も問題を抱えていなかったが、与えられた選択肢について日が暮れるまで熟考した。アームストロングが考えたところでは、ラヴェルは船長として彼独自のミッションを指揮してもらうのが当然であるとの結論に至った(結局、ラヴェルは[[アポロ13号]]の船長を務めた){{sfn|Hansen|2005|pp=338–339}}。 |
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アポロ11号の正規搭乗員は、[[アポロ12号]]の搭乗員に特徴的にみられたような、親密で積極的な仲間意識を持っていなかった。代わりに、気立てのいい仕事上の関係を築いた。とりわけアームストロングは周知のごとくよそよそしかったが、コリンズも自身を孤独が好きだと思っており、もっと個人的な関係を創出しようとしてきたオルドリンをはねつけていたことを告白した{{sfn|Collins|2001|pp=434–435}}。オルドリンとコリンズはアポロ11号の乗組員について「親しげなよそ者たち("amiable strangers"){{sfn|ハンセン|2007|p=68}}」だったと記している{{sfn|Hansen|2005|p=359}}。ただし、アームストロングはこの人物評価に同意せず、「私が接した乗組員は皆一緒にとてもよく働いた」と述べた{{sfn|Hansen|2005|p=359}}。 |
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=== 予備搭乗員 === |
=== 予備搭乗員 === |
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{{Spaceflight crew |
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* [[ジム・ラヴェル|ジェームズ・A・ラベルJr.]] (James A. Lovell, Jr.) :船長 |
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|terminology = 宇宙飛行士 |
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* ウィリアム・A・アンダース (William A. Anders) :司令船操縦士 |
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|position1 = 船長 |
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* フレッド・W・ヘイスJr. (Fred W. Haise, Jr.) :月着陸船操縦士 |
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|crew1_up = [[ジム・ラヴェル|ジェームズ・A・ラヴェルJr.]] |
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|position2 = 司令船操縦士 |
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|crew2_up = [[ウィリアム・アンダース|ウィリアム・A・アンダース]] |
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|position3 = 月着陸船操縦士 |
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|crew3_up = [[フレッド・ヘイズ|フレッド・W・ヘイズJr.]] |
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}} |
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予備搭乗員の構成は、ラヴェルが船長、アンダースが司令船操縦士、ヘイズが月着陸船操縦士だった。このうち、アンダースとラヴェルはアポロ8号で一緒に飛行したことがあった{{sfn|Orloff|2000|p=90}}。ところが、1969年前半にアンダースは同年8月に実施される{{仮リンク|国家宇宙会議|en|National Space Council|label=国家航空宇宙会議}}との仕事を引き受け、その日をもって宇宙飛行士を引退することを発表した。その時点で、万が一アポロ11号が予定されていた7月の打ち上げより遅れてアンダースを任用できなくなった場合に備えて、[[ケン・マッティングリー]]を地上支援員から異動させ、予備の司令船操縦士としてアンダースと並行して訓練を受けさせることにした。ラヴェル、ヘイズ、マッティングリーの3名は、のちに[[アポロ13号]]の正規搭乗員として配属されることになった{{sfn|Slayton|Cassutt|1994|p=237}}。 |
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=== 地上支援員 === |
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マーキュリー計画とジェミニ計画の頃は、各ミッションに正規搭乗員と予備搭乗員の2つの枠があったが、アポロ計画では地上支援員(support crew)として知られる3つ目の枠が追加された。地上支援員は飛行計画、チェックリスト、ミッションごとのグランドルール(行動規範)を維持し、何かしらの変更があったときにそれを正規搭乗員および予備搭乗員に確実に知らせる任務を担っていた。また、正規搭乗員と予備搭乗員がシミュレータ内に訓練に来たときに練習して習得することに集中できるよう、特に緊急事態用の手順も開発した{{sfn|Brooks|Grimwood|Swenson|1979|p=261}}。アポロ11号では、[[ケン・マッティングリー]]、[[ロナルド・エヴァンス]]、[[ウイリアム・ポーグ|ビル・ポーグ]]が地上支援員を構成していた{{sfn|Brooks|Grimwood|Swenson|1979|p=375}}。 |
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=== |
=== 宇宙船通信担当官 === |
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[[File:Duke, Lovell and Haise at the Apollo 11 Capcom, Johnson Space Center, Houston, Texas - 19690720.jpg|thumb|飛行中のアポロ11号と交信するCAPCOMの[[チャールズ・デューク]]と[[ジム・ラヴェル|ジェームズ・ラヴェル]]、[[フレッド・ヘイズ]]]] |
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* チャールズ・モス・デュークJr. (Charles Moss Duke, Jr.) :[[宇宙船通信担当官]] (Capsule Communicator, CAPCOM) |
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[[宇宙船通信担当官]](Capsule communicators、CAPCOM)は、テキサス州ヒューストンにある{{仮リンク|クリストファー・C・クラフト・ジュニア・ミッションコントロールセンター|en|Christopher C. Kraft Jr. Mission Control Center|label=ミッション管制センター}}の宇宙飛行士で、搭乗員と直接交信する唯一の人物であった{{sfn|Kranz|2000|p=27}}。アポロ11号では、[[チャールズ・デューク]]、[[ロナルド・エヴァンス]]、[[ブルース・マッカンドレス2世]]、[[ジム・ラヴェル|ジェームズ・ラヴェル]]、[[ウィリアム・アンダース]]、[[ケン・マッティングリー]]、[[フレッド・ヘイズ]]、{{仮リンク|ドン・リンド|en|Don L. Lind|label=ドン・L・リンド}}、[[オーウェン・ギャリオット|オーウェン・K・ギャリオット]]、[[ハリソン・シュミット]]がCAPCOMを務めた{{sfn|Brooks|Grimwood|Swenson|1979|p=375}}。 |
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* ロナルド・エヴァンス (Ronald Evans) :CAPCOM |
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* オーウェン・K・ギャリオット (Owen K. Garriott) :CAPCOM |
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* ドン・L・リンド (Don L. Lind) :CAPCOM |
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* ケン・マッティングリー (Ken Mattingly) :CAPCOM |
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* [[ブルース・マッカンドレス2世]] (Bruce McCandless II) :CAPCOM |
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* ハリソン・シュミット (Harrison Schmitt) :CAPCOM |
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* ビル・ポーグ (Bill Pogue) |
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* [[ジャック・スワイガート]] (Jack Swigert) |
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=== 飛行主任 === |
=== 飛行主任 === |
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以下の4名の飛行主任(flight directors)が交替勤務でこのミッションを支えた{{sfn|Orloff|2000|p=272}}{{sfn|Kranz|2000|pp=230, 236, 273, 320}}。 |
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* クリフ・チャールズワース (Cliff Charlesworth) :発射および船外活動担当 |
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* {{仮リンク|クリフォード・チャールズワース|en|Clifford E. Charlesworth|label=クリフォード・E・チャールズワース}}(緑チーム) - 打ち上げおよび[[船外活動]](EVA)担当 |
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* グリン・ルーネイ (Glynn Lunney) :月面離陸担当 |
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* {{仮リンク|ジェラルド・グリフィン|en|Gerald D. Griffin|label=ジェラルド・D・グリフィン}}(金チーム) |
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* ジーン・クランツ ([[:en:Gene Kranz|Gene Kranz]]) :月面着陸担当 |
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* [[ジーン・クランツ]](白チーム) - 月面着陸担当 |
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* {{仮リンク|グリン・ルーネイ|en|Glynn Lunney}}(黒チーム) - 月面離陸担当 |
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== 準備 == |
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=== 徽章 === |
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着陸船は、アメリカの[[国鳥]]である[[ハクトウワシ]]を計画の[[徽章]](右上参照)として使用することが決定された後、「イーグル (Eagle)」と命名された。また司令船の「コロンビア (Columbia)」はアメリカ自体を象徴する伝統的な女性名で、[[ジュール・ヴェルヌ]]の小説「[[月世界旅行]]」に登場する、宇宙船発射用の大型[[大砲]]「コロンビアード」にもちなんでいる。[[アメリカ航空宇宙局]]は計画段階では、司令船を「スノー・コーン(かき氷)」、着陸船を「ヘイスタック(干し草)」という暗号名で呼んでいたが、[[報道機関|マスコミ]]に公表する際に変更された。 |
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[[File:Apollo_11_insignia.png|thumb|アポロ11号の徽章]] |
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アポロ11号の{{仮リンク|ミッションパッチ|en|Mission patch|label=ミッション徽章}}はコリンズが「アメリカ合衆国による平和的な月面着陸」を象徴することを願ってデザインした。ラヴェルの提案で、コリンズはアメリカ合衆国の[[国鳥]]である[[ハクトウワシ]]を象徴に選んだ。シミュレータ・インストラクターのトム・ウィルソンは、彼らの平和的な任務を表す[[オリーブの枝]]を配置してはどうかと提案した。そこで、くちばしに平和の象徴であるオリーブの枝をくわえたワシが描かれた{{sfn|アームストロング|コリンズ|オルドリンJr.|1973|p=128}}。また、コリンズは遠くに地球を望みつつ月を背景に加えた。この図案の中の日光は差してくる方向が正しくなく、地球の影は左ではなくもっと下の方に描かれるべきだった。アームストロング、オルドリン、コリンズは、ワシと月を自然のままの色で彩り、円周を青色と金色で縁取ることに決めた。アームストロングが "eleven" 表記では非英語話者に理解されにくいのではないかと懸念したので、 "Apollo 11" とアラビア数字表記になった{{sfn|Collins|2001|pp=332–334}}。また、アポロ11号の搭乗員たちは自分たちの名前を徽章に記載しないことに決め<ref group="注">徽章内には宇宙飛行士名を入れるのが以前からの通例となっており、これはその後のアポロや[[スカイラブ計画]]、[[スペースシャトル計画]]などでも行われているため、今回は異例の措置となった。</ref>、徽章は「月面着陸に向けて働いた“みんな”を代表する」ものとなった{{sfn|Collins|2001|p=332}}。 |
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[[ジョンソン宇宙センター|有人宇宙船センター]]のイラストレーターが図案を作品に仕上げ、それからNASAの役人たちに承認を求めるために送付された{{sfn|Collins|2001|pp=332–334}}。ところが、その図案は却下された。有人宇宙船センター長の{{仮リンク|ロバート・R・ギルルース|en|Robert R. Gilruth|label=ボブ・ギルルース}}は、このワシの鉤爪が「あまりに好戦的すぎる」と感じたのであった{{sfn|アームストロング|コリンズ|オルドリンJr.|1973|p=128}}{{sfn|Collins|2001|p=333}}。いくらかの議論があったあと、オリーブの枝をくちばしから足の爪に移すことで巧みに爪を隠すことにした{{sfn|Collins|2001|p=333}}。1971年に[[1ドル硬貨 (アメリカ合衆国)#アイゼンハワー・ダラー(1971年〜1978年)|アイゼンハワーの1ドル硬貨]]が発行されたときには、硬貨の裏面にこの図案のワシが使用された<ref>{{cite web |url=http://coinsite.com/CoinSite-PF/pparticles/$1eisen.asp |title=1971–78 Dollar Eisenhower |work=CoinSite |publisher=ROKO Design Group, Inc. |date=1994 |accessdate=July 20, 2009}}</ref>。アポロ11号のミッションから10年後にあたる1979年に発行された小さな[[1ドル硬貨 (アメリカ合衆国)#アンソニー・ダラー(1979年〜1981年、1999年)|アンソニーの1ドル硬貨]]にも、この徽章の図案が使用された<ref>{{cite web |title=Susan B. Anthony Dollar – 1979–1999 |url=http://www.usmint.gov/historianscorner/?action=coinDetail&id=347 |publisher=United States Mint |accessdate=August 12, 2014 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140811123227/https://www.usmint.gov/historianscorner/?action=coinDetail&id=347 |archivedate=August 11, 2014}}</ref>。 |
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== 計画の焦点 == |
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=== 発射と月面着陸 === |
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[[ファイル:Apollo 11 Saturn V lifting off on July 16, 1969.jpg|thumb|right|発射台から離れる[[サターンV 型ロケット]]。1969年[[7月16日]]]] |
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[[ファイル:Apollo 11 launch.jpg|thumb|right|発射から1分後、[[マッハ数|マッハ]]1に近づき[[プラントル・グロワート・シンギュラリティ|ヴェイパー・コーン(圧縮雲)]]を発生させるサターンV]] |
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[[ファイル:Engineers Working apollo 11.png|thumb|right|管制センターの担当官たち]] |
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1969年[[7月16日]]13:32UTC(現地時間午前9時32分)、サターンV 型ロケットは[[ケネディ宇宙センター]]から発射された。 |
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=== コールサイン === |
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「当日は、発射場近くの[[高速道路]]や海岸には無数の人が群れ、数百万の人々が[[テレビ]]でこの光景を目撃しようとしていた」 |
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アポロ10号の搭乗員が自分たちの搭乗するアポロ宇宙船を「[[チャーリー・ブラウン (ピーナッツ)|チャーリー・ブラウン]]''(Charlie Brown)''」および「[[スヌーピー]]''(Snoopy)''」と名付けたこと{{sfn|アームストロング|コリンズ|オルドリンJr.|1973|pp=232-233}}があって、広報担当の{{仮リンク|ジュリアン・シアー|en|Julian Scheer}}は、当時[[ジョンソン宇宙センター|有人宇宙船センター]]でアポロ計画室の室長を務めていた{{仮リンク|ジョージ・ロウ|en|George Low|label=ジョージ・M・ロウ}}に、アポロ11号の搭乗員が自分たちのアポロ宇宙船を命名する際はもう少し真面目な名前をつけるようにしてはもらえないだろうかと提案した。NASAの計画の初期段階において、アポロ11号の司令船は「スノーコーン''(Snowcone)''」(「かき氷」の意)、同じく月着陸船は「ヘイスタック''(Haystack)''」(「干し草積み」の意)という名で呼ばれており、内外の伝達で使用されていた{{sfn|Marshall Space Flight Center|1969|p=8}}。 |
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アポロ11号の月着陸船はミッション徽章で中心的な役割を演じたモチーフにちなんで「イーグル''(Eagle)''」(「[[鷲|ワシ]]」の意)と命名された。シアーの提案で、司令船は「コロンビア''(Columbia)''」と命名された。その由来は[[ジュール・ヴェルヌ]]の1865年発表の小説『[[月世界旅行|地球から月へ]]』に登場する、(アポロ同様フロリダから)宇宙船を発射するための巨大な大砲「[[コロンビヤード砲#小説におけるコロンビヤード砲|コロンビアード]]」で、アメリカ合衆国を象徴的に擬人化した伝統的な女性名「[[コロンビア (古名)|コロンビア]]」にもちなんでいる{{sfn|Collins|2001|pp=334–335}}{{sfn|Brooks|Grimwood|Swenson|1979|p=331}}。また、コリンズは1976年に出版した自著の中で、「コロンビア」は[[クリストファー・コロンブス]]に関連していたと述べている{{sfn|Collins|1994|p=116}}。 |
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と、NASAの主任広報官だったジャック・キングはコメントしている。[[リチャード・ニクソン|ニクソン大統領]]も、[[ホワイトハウス]]の執務室で発射の瞬間を見ていた。サターンV は12分後には軌道に乗り、地球を一周半した後、第三段[[S-IVB]] [[ロケット]]を再点火して月へと向かった。30分後、[[アポロ司令・機械船|司令・機械船]]がS-IVB から切り離され、月着陸船とドッキングした。 |
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=== 記念品 === |
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[[7月19日]]、11号は月の裏側で[[アポロ司令・機械船#機械船|機械船]]の[[ロケットエンジン]]に点火し、[[月周回軌道]]に乗った。軌道を13周した時、乗組員は[[静かの海]]サビーヌD[[クレーター]]の南西20キロの上空で、まさにこれから彼らが着陸しようとしている地点を目視することができた。ここが着陸地点に選ばれたのは、無人[[探査機]][[レインジャー計画|レインジャー]]8号・[[サーベイヤー計画|サーベイヤー]]5号による調査や、月周回衛星からの写真撮影によって、比較的平坦で着陸や[[船外活動]]を行なうのに支障がないと判断されたからであった。 |
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[[File:Apollo 11 Flown Silver Robbins Medallion (SN-416).jpg|thumb|アポロ11号と共に宇宙を飛行した銀の{{仮リンク|NASAのジェミニ・アポロ宇宙飛行記念メダル|en|NASA space-flown Gemini and Apollo medallions|label=ロビンス・メダル}}]] |
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[[ファイル:Apollo 11 Lunar Module Eagle in landing configuration in lunar orbit from the Command and Service Module Columbia.jpg|thumb|left|分離直後、司令船コロンビアから撮影された着陸船イーグル]] |
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アポロ11号の宇宙飛行士は、個人趣向キット(Personal Preference Kits、PPK:ミッションに持っていきたい個人的に意義深い記念の品々)を入れた小さな袋を所持していた<ref>{{cite web |url=https://airandspace.si.edu/collection-objects/kit-pilots-personal-preference-apollo-11 |title=Kit, Pilot's Personal Preference, Apollo 11 |publisher=National Air and Space Museum |access-date=October 11, 2018 }}</ref>。重さにして0.5ポンド(0.23キログラム)の5つの個人的な記念品(PPK){{efn2|うち3つ(宇宙飛行士1人につき1つ)が打ち上げ前に「コロンビア」に、2つが「イーグル」に積み込まれた。}}がアポロ11号に持ち込まれた<ref>{{cite web |url=http://spaceflownartifacts.com/flown_ppks.html |publisher=Space flown collectible artifacts |title=Personal Preference Kits (PPKs) |access-date=December 24, 2018 }}</ref>。 |
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1969年7月20日、着陸船イーグルは司令船コロンビアから切り離された。イーグルは機体をゆっくりと回転させ、コロンビアにひとり残ったコリンズは、離れていくイーグルが損傷を負っていないかを目視にて確認した。 |
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ニール・アームストロングが月着陸船に持ち込んだのは、[[ライト兄弟]]が初めて空を飛んだ1903年の[[ライトフライヤー号]]の左のプロペラから取った木片と、その翼から取った布切れ{{sfn|Hansen|2005|p=527}}{{sfn|アームストロング|コリンズ|オルドリンJr.|1973|p=127}}、そして当初[[ドナルド・スレイトン|ディーク・スレイトン]]がアポロ1号の搭乗員の配偶者たちからもらった、ダイヤモンドが散りばめられた{{仮リンク|合衆国宇宙飛行士バッジ|en|United States Astronaut Badge|label=宇宙飛行士の階級章}}だった。この階級章はアポロ1号で飛行し、ミッション後にスレイトンに与えられるはずだったが、発射台での悲惨な火災事故とあとに続いた葬儀を受けて、配偶者たちがスレイトンに渡したもので、アームストロングはそれを持ってアポロ11号に乗船した{{sfn|Slayton|Cassutt|1994|pp=191–192}}。 |
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エンジンに点火し、降下を開始してしばらくたってから、アームストロングとオルドリンは月面上の目標地点を通り過ぎるのが4秒ほど早すぎることに気づいた。これはすなわち、予定着陸地点を数[[マイル]]ほど行きすぎてしまうことを意味していた。その時、着陸船の航法[[コンピューター]]が警報を発した。地上の[[シミュレーター]]で数え切れないほど訓練を積んできた両飛行士にも、この警報が何を意味するのか理解できなかったが、[[テキサス州]][[ヒューストン]]の管制センターにいたコンピューター技師は、航法主任にこのまま降下を続けても何ら問題はないことを報告し、それはただちに飛行士たちにも伝えられた。 |
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=== 着陸候補地の選定 === |
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だがその時アームストロングが窓の外を見ると、そこには直径100mほどもあるクレーターが待ちかまえていた。内部には乗用車ほどもある岩がいくつも転がっていて、その中に降りれば着陸船が転倒してしまうことは明らかであった。アームストロングは操縦を半手動に切り替え(一般的には全手動に切り替えたと思われているが、事実ではない)、傍らでオルドリンが[[高度]]と[[速度]]を読み上げ続けた。7月20日20:17 (UTC)、イーグルは月面に着陸したが、そのとき[[燃料]]は残り25秒と表示されていた。この着陸にいたるまでのアームストロングの心拍数は150を超えており、彼らが着陸失敗の恐怖と緊張の中にいたことを窺わせている<ref>ナショナル ジオグラフィック プレミアムセレクションDVD 70. ナショナル ジオグラフィックのさらなる挑戦 より</ref>。 |
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[[File:Lunar site selection globe.jpg|thumb|right|アポロ11号が着陸できる見込みのある地点を示した月面図。地点2が選ばれた。]] |
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NASAのアポロ着陸候補地選定委員会(Apollo Site Selection Board、ASSB)は1968年2月8日、5つの有力な着陸候補地を発表した。それらは[[ルナ・オービター計画]]の5機の無人探査機が撮影した月面の高解像度写真、ならびに[[サーベイヤー計画]]で得られた月の表面の状態に関する情報に基づき、2年間かけて行われた価値ある調査の結果であった<ref name="Site Selection">{{cite web |url=https://www.nasa.gov/feature/50-years-ago-lunar-landing-sites-selected |title=50 Years Ago: Lunar Landing Sites Selected |publisher=NASA |access-date=September 22, 2018|date=February 8, 2018 }}</ref>。地上に設置されたどんなに優れた望遠鏡でも、アポロ計画に要求される解像度で月面の特徴を解像することはできなかった{{sfn|Cortright|1975|p=79}}。宇宙船が消費する推進剤の量を最小限に抑えることが要求されたため、着陸地点は月の赤道に近い場所でなければならなかった。さらに、機動的な飛行を最小限度に留めるために障害物のない開けた場所であることが求められ、着陸用レーダーのタスクを簡素化するために平坦であることが同時に求められた。科学的な価値は考慮に入れられなかった{{sfn|Harland|1999|p=19}}。 |
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地球上で撮影された写真から有望そうに思えた領域は、そのほとんどがまったく許容できない場所であることがわかった。当初の要件はクレーターのない緩やかな場所だったが、そのような場所はひとつも見つからなかった{{sfn|Cortright|1975|pp=98–99}}。結局、5つの地点が候補地として検討された。地点1と地点2は[[静かの海]]に、地点3は[[中央の入江]]に、地点4と地点5は[[嵐の大洋]]にあった<ref name="Site Selection" />。最終候補地の選定は以下の7つの基準に基づいて行われた<ref name="Site Selection" />。 |
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先ほどの警報は、コンピューターが[[オーバーフロー]]を起こしたことを知らせるものであった。着陸の際、司令船との[[ランデブー (宇宙開発)|ランデブー]]用の[[レーダー]]は必要がなくなるが、万が一着陸を中止して緊急脱出する事態に備えて、スイッチがオンになっていた。そのためコンピューターには、高度測定用レーダーからのものとランデブー用レーダーからのものの2種類のデータが入ってきてしまい、演算処理が追いつかなくなったのである。地上の[[シミュレーション]]では、このような事態は想定していなかった。これはコンピューターではなく人間の側のミスだったが、訓練された飛行士たちによって大きな問題に発展することはくい止められた。また燃料はあとわずかしか残っていないと表示されていたが、これは月の[[重力]]が地球の6分の1しかないため、タンク内で燃料が予想以上に攪拌され、実際よりも少なく表示されたものであった。このため次回以降のミッションでは、タンクの中に燃料の動揺を抑える抑流板が設置された。 |
|||
* 比較的にクレーターの少ない、滑らかな場所であること。 |
|||
月面から最初の言葉を発したのは(技術的な専門用語だったが)オルドリンだった。降下している間、彼はずっと操縦を担当するアームストロングの横で航法データを読み上げていた。接地した瞬間に彼が言った言葉は、「接触灯点灯。オーケー、エンジンストップ。ACA([[操縦桿|Attitude Controller Assembly]])解放。」で、アームストロングが「ACA解放了解。」と確認し、再びオルドリンが「モードコントロールオート。降下用エンジン指令すべて停止。エンジンアーム、オフ。413イン。」と発声した。その次にアームストロングが、有名な次の言葉を放ったのである。 |
|||
* 進入路について、広い丘、高い崖または深いクレーターが原因となって、着陸用レーダーを混乱させ、計器の数値を読み誤らせるおそれのないこと。 |
|||
* 最小限の量の推進剤で到達可能であること。 |
|||
* 打ち上げ時の秒読みの遅れを許容できること。 |
|||
* 自由帰還軌道(月に向かう進路上で問題が発生したとしても、エンジンの噴射を一切することなく、そのまま月の周囲に沿って惰性飛行して安全に地球に帰還する軌道)を取れること。 |
|||
* 着陸進入時に良好な視界を保てること。つまり、太陽が常に月着陸船の後方7度から20度の間の方向にあること。 |
|||
* 着陸する領域において一般斜面が2度未満の傾斜であること。 |
|||
このうち太陽の角度に関する要件は特に制限的で、これによって打ち上げ日は1か月につき1日にまで制限されることとなった<ref name="Site Selection" />。宇宙飛行士が体験することになる温度の極値を制限するため、夜明けの直後に着陸することになった{{sfn|Collins|1994|p=7}}。ASSBは地点2を着陸予定地点に選出し、地点3と地点5は打ち上げ日が遅れた場合の予備の地点に選ばれた。1969年5月、アポロ10号の月着陸船は地点2から15キロ以内を飛行し、地点2は着陸予定地として容認できると報告した{{sfn|Cappellari|1972|p=976}}<ref>{{cite web|url=https://airandspace.si.edu/explore-and-learn/topics/apollo/apollo-program/orbital-missions/apollo10-facts.cfm|title=Apollo 10|publisher=National Air and Space Museum|access-date=December 26, 2018}}</ref>。 |
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「ヒューストン、こちら[[静かの海|静かの海基地]]。イーグルは舞い降りた (Houston, Tranquility Base here. The Eagle has landed.)」 |
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=== 最初の一歩の決定 === |
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アームストロングが宇宙船の名称を不意に「イーグル」から「静かの海基地」に変更したために、管制センターは一瞬混乱した。通信担当官が直ちに着陸を確認し、関係者は最も困難な作業である着陸操作が無事に行なわれたことで、ほっと一安心した。 |
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アポロ11号の搭乗員が発表されたあとの最初の記者会見で、記者から尋ねられた最初の質問が「あなた方の中で最初に月面に足を踏み出すのはどなたでしょうか?」であった{{sfn|Chaikin|1994|p=148}}{{sfn|Hansen|2005|p=360}}。スレイトンは記者に「それはまだ決まっていない」と答え、アームストロングは「個々人の願望に基づいて決めることはない」と付け加えた{{sfn|Chaikin|1994|p=148}}。 |
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退出チェックリストの初期の版のひとつでは、月着陸船操縦士は司令船操縦士よりも先に船を降りることになっており、以前のミッションで行われてきたことと一致していた{{sfn|Collins|2001|p=347}}。船長は一度も宇宙遊泳をしないことになっていた{{sfn|Aldrin|Abraham|2016|pp=57–58}}。記者たちは1969年の前半、最初に月面を歩行するのはオルドリンになりそうだと書いたが、{{仮リンク|ジョージ・ミラー (NASA)|en|George Mueller (NASA)|label=ジョージ・ミラー}}副長官は記者に彼(船長)もまた最初(の1人)になるだろうと伝えた。当のオルドリンは、文民であるという理由でアームストロングが最初に月面を踏むだろうと聞いて激怒した。オルドリンはほかの月着陸船操縦士らに自分こそが最初の1人になるべきだと説得を試みたが、ロビー活動のようなものだと感づいた彼らは皮肉っぽく応じた。部局間の対立を止めようとして、スレイトンはオルドリンにアームストロングが船長なのだから最初の一人は彼になるだろうと伝えた。1969年4月14日の記者会見で、その決定が発表された{{sfn|Hansen|2005|pp=363–365}}。 |
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船外活動の準備を開始する直前、突然オルドリンが、 |
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オルドリンは何十年間も、この最終決定は大方、月着陸船のハッチの位置で決まったものだと信じていた。なぜならば、宇宙飛行士は宇宙服を着ており宇宙船の中はとても狭いため、宇宙船からうまく脱出することは難しかったからである。搭乗員の受けた模擬演習ではオルドリンが最初に宇宙船を出ていたのだが、オルドリンは脱出を試みる際に演習設備を壊してしまった。この出来事は、ミッション計画立案者が決断を下すのに十分な事由であった。オルドリンとアームストロングは春の終わりごろまでこの決定に関して知らされずにいた{{sfn|Chaikin|1994|p=149}}。スレイトンは、「彼が同意すれば、君に最初に宇宙船を降りてもらう計画だ」とアームストロングに伝え、アームストロングは「ええ、それがいい方法です」と答えた{{sfn|Chaikin|1994|p=150}}。 |
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「こちらは月着陸船パイロットです。この機会を借りて、私はこの放送を聞いている人々に対し、誰であろうと、またどこにいようと、しばらくの間手を止めて、この数時間に起こったできごとについて熟慮し、それぞれの方法で感謝をしてほしいと願います」 |
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メディアは、船長の特権を利用して最初に宇宙船を降りる役を射止めたとしてアームストロングを非難した{{sfn|Schefter|1999|p=281}}。{{仮リンク|クリストファー・C・クラフト・ジュニア|en|Christopher C. Kraft Jr.|label=クリス・クラフト}}が2001年に出した自叙伝の中で明かしたところでは、ギルルース、スレイトン、ロウおよびクラフトの四者間で協議を行い、オルドリンが最初に月面を歩くことにはならないことを確認したという。彼らは、最初に月面を歩く人物は[[チャールズ・リンドバーグ]]のように冷静沈着な人物であるべきだと主張した。そして、飛行計画を変更する決定が下され、船長であるアームストロングが最初に宇宙船から月面に降り立つこととなった{{sfn|Hansen|2005|pp=371–372}}。 |
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と言った。そのあと彼は、1人で[[聖餐式]]を行った。当時NASAは、[[アポロ8号]]の飛行士たちが月を周回している時に聖書の[[創世記]]の一節を朗読したことに関して、マダリン・マーレイ・オーヘイル<ref>[[無神論]]者の権利団体である「アメリカン・アテイスト(American Atheists)」の代表者で創設者である。マダリン・マレー・オヘアとも</ref>(Madalyn Murray O'Hair)から「宇宙飛行士は、宇宙にいる間は[[宗教]]的活動を控えるべきだ」と訴えられていた。そのためオルドリンは、月で聖餐式を行うという自分のこの計画を妻に対しても事前に打ち明けず、また地球に帰還してから何年も公にすることはなかった。彼はテキサス州{{仮リンク|ウェブスター (テキサス州)|en|Webster, Texas|label=ウェブスター}}にある[[教会 (キリスト教)|教会]]の古参の信者で、聖餐用具は同教会のディーン・ウッドラフ[[牧師]]が準備していた。この事実は、オルドリン自身の著書「月からの帰還」の中で初めて明らかにされた。後に同教会は、この時に用いられた杯を彼から受け取り、毎年7月20日に最も近い日曜日を「月の晩餐の日」として記念するようになった。 |
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=== 発射準備 === |
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[[File:Apollo 11 Saturn V SN SA506 (69-HC-620).jpg|thumb|left|[[スペースシャトル組立棟|ロケット組立棟]]から[[ケネディ宇宙センター第39発射施設|第39発射施設]]へと搬出される、宇宙船アポロ11号を搭載したサターンV型ロケット SA-506]] |
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[[ファイル:Apollo 11 first step.jpg|thumb|right|着陸船に搭載された低速度走査テレビがとらえた、はしごを下るアームストロングの姿]] |
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月着陸船LM-5の上昇段は1969年1月8日に[[ケネディ宇宙センター]]に到着し、その4日後には下降段が、1月23日には司令・機械船CM-107がそれぞれ到着した<ref name="Mission Overview">{{cite web |title=Apollo 11 Mission Overview |publisher=NASA |url=https://www.nasa.gov/mission_pages/apollo/missions/apollo11.html |first= Sarah |last=Loff |access-date=September 22, 2018|date=April 17, 2015 }}</ref>。LM-5とアポロ10号のLM-4との間にはいくつかの違いがあった。LM-5には月面で船外活動中に宇宙飛行士との通信を円滑に行うためのVHF無線アンテナ、軽量化された上昇用エンジン、熱防護が強化された着陸装置、{{仮リンク|アポロ月面実験パッケージ|en|Apollo Lunar Surface Experiments Package|label=初期アポロ科学実験パッケージ}}(Early Apollo Scientific Experiments Package、EASEP)として知られる科学実験装置一式が備えられていた。司令船の構成で唯一変更されたのは、前面ハッチからいくつか断熱材が取り除かれた点であった{{sfn|Benson|Faherty|1978|p=472}}<ref>{{cite web |url=https://airandspace.si.edu/exhibitions/apollo-to-the-moon/online/science/scientific-experiments.cfm |title=Scientific Experiments |publisher=National Air and Space Museum |access-date=September 22, 2018}}</ref>。司令船と機械船は1月29日に連結され、4月14日に[[ニール・アームストロング・オペレーション・アンド・チェックアウト・ビルディング|O&Cビルディング]]から[[スペースシャトル組立棟|ロケット組立棟]]に移された<ref name="Mission Overview" />。 |
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飛行士たちは、まず最初に60度の視界がある着陸船の三角窓から外の様子を観察し、[[星条旗]]と科学観測機器を設置するのに適当な場所を探した。船外活動の準備は、予定よりも2時間も余計にかかってしまった。ジョン・ヤング飛行士によると、着陸船のハッチは開発の途中でサイズを小さく変更されていたのだが、[[宇宙服]]の背面に備わる生命維持装置には何の変更もなかった。そのためアームストロングは船外に這い出るのに大変な苦労を要し、飛行士の[[心拍数]]はハッチを出入りする際に最高値にはね上がったという。 |
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サターンV AS-506の第三段[[S-IVB]]は1月18日に到着し、続いて第二段[[S-II]]が2月6日に、第一段[[S-IC]]が2月20日に、{{仮リンク|サターンV飛行制御装置|en|Saturn V instrument unit}}が2月27日に到着した。まだアポロ10号が月へ向かっている最中であった5月20日の1230<!-- これは[[軍事時間]]の表記法であり、誤記ではありません。 -->(12時30分)、組み上がった重さ{{convert|5443|t|adj=on}}のサターンV型ロケットが[[クローラー・トランスポーター]]の上に載せられ、[[ケネディ宇宙センター第39発射施設|第39発射場]]の39A発射台に向けてロケット組立棟を出発した。カウントダウンのテストは6月26日に開始され、7月2日に終了した。7月15日の夜、発射施設が投光照明に照らされ、クローラー・トランスポーターが{{仮リンク|整備構造物|en|Service structure|label=移動式整備塔}}を駐機場まで運んで戻した<ref name="Mission Overview" />。発射当日の早朝には、第二段S-IIと第三段S-IVBの各燃料タンクが[[液体水素]]で満たされた{{sfn|Benson|Faherty|1978|p=474}}。燃料の注入は発射の3時間前までに完了した{{sfn|Benson|Faherty|1978|p=475}}。発射運用はATOLLと呼ばれるプログラミング言語で書かれた43のプログラムで一部が自動化されていた{{sfn|Benson|Faherty|1978|pp=355–356}}。 |
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アームストロングが足下を確認しながら9段のはしごを下っている間、[[マイクロフォン]]は彼の息づかいをはっきりととらえていた。脚の横に設置されている撮影機器のDの形をしたリングを引くと、[[低速度走査テレビジョン]]の[[カメラ]]が始動し、はしごを下りるアームストロングの姿が映し出された。しかしこの映像は[[NTSC|テレビ中継の規格]]には適合しなかったため、本放送では画質が劣る従来型のカメラで撮影された映像が表示されていた。信号はアメリカのゴールドストーン基地が受信していたが、[[オーストラリア]]の中継基地が受信していたもののほうがより鮮明だった。数分後、中継基地はより感度が良好な、オーストラリアの[[パークス天文台]]の[[電波望遠鏡]]に移行された。 |
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搭乗員は0400(4時00分)すぎにスレイトンに起こされ、シャワーを浴び、髭を剃り、スレイトンおよび予備搭乗員と一緒にNASAの宇宙飛行前の伝統的な朝食となっている[[ステーキ・アンド・エッグ|ステーキと卵料理]]を食べた。そして、宇宙服を着用し、純酸素の呼吸を始めた。0630(6時30分)に搭乗員は第39発射施設に向かった{{sfn|Collins|2001|pp=355–357}}。発射時刻の約3時間10分前にヘイズは「コロンビア」の船内に入り、6時54分に技術者とともにアームストロングが左の乗組員用の寝椅子<!-- the left hand couch -->につくのを手助けした。5分後にコリンズが加わり、自分の所定の位置である右の乗組員用の寝椅子<!-- the right hand couch -->についた。最後にオルドリンが乗船し、中央の寝椅子<!-- the center couch -->についた{{sfn|Benson|Faherty|1978|p=475}}。ヘイズは発射の約2時間10分前に宇宙船から降りた<ref>{{cite web |url=https://history.nasa.gov/afj/ap11fj/01launch.html |title=Apollo 11 Flight Journal – Day 1, Part 1: Launch |publisher=NASA |access-date=October 11, 2018 }}</ref>。飛行士の搭乗を手伝ったクルー(クローズアウトクルー)がハッチを密閉すると、船室はパージ(圧縮空気を排気)され、与圧された。クローズアウトクルーは発射の約1時間前に発射施設を離れた。発射の3分20秒前からはカウントダウンが自動化された{{sfn|Benson|Faherty|1978|p=475}}。450人以上の人員が[[発射管制センター|発射管制室]]内の制御盤の前に陣取っていた{{sfn|Benson|Faherty|1978|p=474}}。 |
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様々な技術的困難を乗り越え、月面からの史上初の船外活動をとらえた映像は、世界中に配信された。地球上ではこの瞬間、少なくとも6,000万人以上の人々がテレビでこの場面を見ていたと言われている。しかしながら低速度走査テレビで撮影した高画質の映像は長らく行方不明になっており、[[2009年]]にNASAが紛失したことを確認した。マザーテープは70年代から80年代の間に再利用されて上書きされてしまったものと見られている。アームストロングは着陸船の脚の上に降り立ち、月面の状態を「明るく、ほとんど粉のように見える (''fine and almost like a powder'')」と報告した後、着陸からおよそ6時間半後の1969年[[7月21日]]02:56 UTC(日本時間7月21日 午前11時56分<!-- NHK番組に107.. 108.. 109.. の実況がある。時刻に関する訂正が必要だろうか。-->、米東部夏時間7月20日午後10時56分)、月面に歴史的な第一歩を記し、有名な次の言葉を発した。 |
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== ミッション == |
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'''「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である''' (''That's one small step for [a] man, one giant leap for mankind.'')'''」''' |
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=== 発射と月軌道までの飛行 === |
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{{Listen|pos=left|filename=Frase de Neil Armstrong.ogg|title=「That's one small step for (a) man, one giant leap for mankind.<br />(これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である。)」|description=|format=[[Ogg]]}} |
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[[File:Apollo 11 Saturn V lifting off on July 16, 1969.jpg|thumb|right|1969年7月16日午前9時32分(米国東部夏時間)、ニール・アームストロング、マイケル・コリンズ、バズ・オルドリンの3名の宇宙飛行士を乗せたアポロ11号を搭載して、ケネディ宇宙センターの39A発射台から飛び立つサターンV]] |
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[[ファイル:Apollo 11 Landing - first steps on the moon.ogv|thumb|月面に第一歩を記すニール・アームストロング]] |
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推定で100万人の観衆が発射場の近辺の幹線道路や海岸からアポロ11号の打ち上げを見ていた{{sfn|アームストロング|コリンズ|オルドリンJr.|1973|p=55}}。観衆の中には、[[アメリカ陸軍参謀総長]]の[[ウィリアム・ウェストモーランド]]大将、4名の[[アメリカ合衆国大統領顧問団|閣僚]]、19名の{{仮リンク|州知事 (アメリカ合衆国)|en|Governor (United States)|label=州知事}}、40名の{{仮リンク|アメリカ合衆国における市長職|en|Mayoralty in the United States|label=市長}}、60名の[[大使]]、200名の合衆国議会議員などのお偉方もいた。[[スピロ・アグニュー]][[アメリカ合衆国副大統領|副大統領]]は[[リンドン・ジョンソン]]前大統領および[[レディ・バード・ジョンソン]]同夫人とともに打ち上げの様子を眺めた{{sfn|Benson|Faherty|1978|p=474}}{{sfn|Bilstein|1980|pp=369–370}}。現地には約3,500人の報道関係者が集まった{{sfn|Brooks|Grimwood|Swenson|1979|p=338}}。そのうちのおよそ3分の2はアメリカ国内から、残りはその他の55の国々から来ていた。打ち上げは33か国でテレビ中継され、アメリカ国内だけでも視聴者は推定で2,500万人に上った。さらに世界中で数百万の人々がラジオ放送を聴いていた{{sfn|Benson|Faherty|1978|p=474}}{{sfn|Bilstein|1980|pp=369–370}}。[[リチャード・ニクソン]]大統領は、NASAの連絡担当官だったアポロ宇宙飛行士の[[フランク・ボーマン]]とともに、[[ホワイトハウス]]の執務室から打ち上げの様子を見守った<ref>{{cite web |title=President Richard Nixon's Daily Diary |url=https://www.nixonlibrary.gov/sites/default/files/virtuallibrary/documents/PDD/1969/013%20July%2016-31%201969.pdf |publisher=Richard Nixon Presidential Library |accessdate=September 3, 2018 |page=2 |date=July 16, 1969}}</ref>。 |
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'''【右の動画中のアームストロングの発言内容】''' |
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1969年7月16日13:32:00 UTC(午前9時32分00秒 [[東部夏時間|EDT]])、[[サターンV]] AS-506はアポロ11号を搭載して、[[ケネディ宇宙センター]]の[[ケネディ宇宙センター第39発射施設|39A発射台]]から発射された{{sfn|毎日新聞社|1969|p=10}}<ref>{{cite web |url=https://www.nasa.gov/mission_pages/apollo/missions/apollo11.html |title=Apollo 11 Mission Overview |publisher=NASA|date=April 17, 2015 |accessdate=February 17, 2019 }}</ref>。発射の12分後には、高度98.9海里(183.2キロ)から100.4海里(185.9キロ)の辺りで、地球を周回する軌道に入った。地球を一周半したあと、第三段エンジンS-IVBを点火{{sfn|毎日新聞社|1969|p=15}}、16:22:13(UTC)に[[月遷移軌道|月遷移軌道投入]]<!-- 参考:{{sfn|アームストロング|コリンズ|オルドリンJr.|1973|pp=47, 109}}には「月軌道突入噴射」とある。 -->(Trans-lunar injection、TLI)し、宇宙船は月へと向かう軌道に乗せられた。それから約30分後、左側の操縦席についたコリンズ司令船操縦士の操作で、{{仮リンク|トランスポジション、ドッキング、エクストラクション|en|Transposition, docking, and extraction}}と呼ばれる一連の動作を実行した。すなわち、使い切った第三段ロケットS-IVBから司令・機械船(CSM)を切り離し{{sfn|毎日新聞社|1969|p=16}}、船の向きを反転させて、第三段に取りつけられた状態の月着陸船(LM)と[[宇宙機のドッキングおよび係留|ドッキング]]し、ロケットから着陸船を取り出した{{sfn|アームストロング|コリンズ|オルドリンJr.|1973|pp=104-105}}。その後、合体した宇宙船は月に向かう針路をとる一方、他方の第三段は月を通過する弾道を描くように飛行した{{sfn|Orloff|2000|p=106}}{{sfn|Collins|2001|pp=374–375}}。これは第三段ロケットがアポロ宇宙船や地球や月に衝突するのを回避するために取られた措置であった。月の周りを通過することで生じた[[スイングバイ|スリングショット効果]]により、第三段S-IVBは[[太陽周回軌道]]に入った{{sfn|Marshall Space Flight Center|1969|p=7}}。 |
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''I'm, ah... at the foot of the ladder. The LM footpads are only, ah... ah... depressed in the surface about, ah.... 1 or 2 inches, although the surface appears to be, ah... very, very fine grained, as you get close to it. It's almost like a powder. (The) ground mass, ah... is very fine.'' |
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7月19日17:21:50(UTC)にアポロ11号は月の裏側を通過して[[アポロ司令・機械船#機械船|機械船]]の推進エンジンを点火し、[[月周回軌道]]に入った{{sfn|Orloff|2000|p=106}}。続いて、月を30周するうち、飛行士たちは{{仮リンク|コリンズ (クレーター)|en|Collins (crater)|label=サビンD}}クレーターから南西に約12マイル(19キロ)の辺りに位置する[[静かの海]]南部の着陸地点の過ぎゆく景色を目にした。この着陸地点はある程度あらかじめ選定されていたのだが、それは無人探査機[[レインジャー8号]]と[[サーベイヤー5号]]による先行調査や、月周回衛星[[ルナ・オービター計画|ルナ・オービター]]が撮影した月面写真により、その比較的平坦で滑らかな地形が着陸や[[船外活動]](EVA)を行うのに大きな支障はないだろうと判断されたためであった<ref>{{cite web |url=http://www.hq.nasa.gov/alsj/a11/A11_PressKit.pdf |title=Apollo 11 Lunar Landing Mission |date=July 6, 1969 |publisher=NASA |location=Washington, D.C. |type=Press kit |format=PDF |id=Release No: 69-83K |accessdate=June 13, 2013}}</ref>。着陸予定地点はサーベイヤー5号の着陸地点から南東に25キロほど、レインジャー8号の衝突地点から68キロの辺りにあった{{sfn|Manned Spacecraft Center|1969|p=130}}。 |
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'''いま着陸船の脚の上に立っている。脚は月面に1インチか2インチほど沈んでいるが、月の表面は近づいて見るとかなり…、かなりなめらかだ。ほとんど粉のように見える。月面ははっきりと見えている。''' |
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=== 月への降下 === |
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''I'm going to step off the LM now.'' |
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[[File:Apollo 11 CSM photographed from Lunar Module (AS11-37-5445).jpg|thumb|left|着陸船「イーグル」から撮影された月周回軌道上の司令船「コロンビア」]] |
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7月20日12:52:00(UTC)にアームストロングとオルドリンは着陸船「イーグル」に乗り込み、月への降下に向けた最終準備に取りかかった{{sfn|Orloff|2000|p=106}}。17:44:00に「イーグル」は司令船「コロンビア」から切り離された。「コロンビア」に1人残ったコリンズは、機体をゆっくりと爪先回転(ピルエット)させる着陸船「イーグル」に損傷がないこと、ならびに着陸装置が正常に展開されたことを確認した{{sfn|Manned Spacecraft Center|1969|p=9}}{{sfn|Collins|Aldrin|1975|p=209}}。アームストロングは "The ''Eagle'' has wings!" (「イーグル」には翼がある!)と叫んだ{{sfn|Collins|Aldrin|1975|p=209}}。 |
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降下を開始してしばらくすると、アームストロングとオルドリンは月面上の目標地点を通り過ぎるのが2、3秒早いことに気づき、射程領域(ダウンレンジ)がやや長いようだと地上に報告した{{sfn|チェイキン|1999|p=283}}。つまり、このままでは着陸目標よりも西に数マイル先の地点に着陸してしまうことを示していた。「イーグル」はあまりにも速く飛びすぎていたのである。その原因は高い{{仮リンク|質量集中 (天文学)|en|Mass concentration (astronomy)|label=質量集中}}にあって宇宙船の軌道が変化したのではないかと考えられた。飛行主任のジーン・クランツは、ドッキングトンネル内の余分な空気圧が原因ではないかと推論した。あるいは、機体の損傷チェック時に行われた「イーグル」の爪先回転飛行が原因となった可能性も考えられた{{sfn|Mindell|2008|pp=220–221}}{{sfn|Manned Spacecraft Center|1969|p=82}}。 |
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'''これより着陸船から足を踏み降ろす。''' |
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降下のためのエンジン噴射に入る5分前、月面から高度6,000フィート(1,800メートル)で{{sfn|シェパード|スレイトン|1994|p=26}}、[[アポロ誘導コンピュータ|着陸船の航法・誘導コンピュータ]](LM guidance computer、LGC)が予期しない警報 "1201" と "1202" を幾度か発し{{sfn|ビゾニー|2009|pp=45-46}}{{sfn|シェパード|スレイトン|1994|pp=26, 29}}、飛行士の注意を逸らせた。そのとき、ミッション管制センター内にいたコンピュータ技師の{{仮リンク|ジャック・ガーマン|en|Jack Garman}}は、誘導官(Guidance Officer)の{{仮リンク|スティーブ・ベイルズ|en|Steve Bales}}にそのまま降下を続けても安全であることを告げ、飛行士たちにも中継して伝えられた{{sfn|チェイキン|1999|pp=286–287}}。これらの警報は "executive overflows" (実行オーバーフロー)を示しており、誘導コンピュータが過負荷状態にあって{{sfn|シェパード|スレイトン|1994|pp=26–27}}要求されたすべてのタスクの処理をリアルタイムで完了できず、そのうちのいくつかを遅延させなければならない状態にあることを意味していた{{sfn|Collins|Aldrin|1975|pp=210–212}}{{sfn|Hamilton|Hackler|2008|pp=34–43}}。[[マサチューセッツ工科大学]][[チャールズ・スターク・ドレイパー研究所]]でアポロ飛行コンピュータのプログラミング責任者(Director of Apollo Flight Computer Programming)を務めた[[マーガレット・ハミルトン (科学者)|マーガレット・ハミルトン]]は、当時を思い出して次のように語った。 |
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''That's one small step for (a) man, one giant leap for mankind.'' |
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[[File:Apollo 11 Lunar Module Eagle in landing configuration in lunar orbit from the Command and Service Module Columbia.jpg|thumb|right|「コロンビア」から撮影された[[月周回軌道]]上の「イーグル」]] |
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{{quote|アポロ11号のその問題に関してコンピュータを責めることは、火災を発見して消防に通報する人を責めるようなものです。実際、コンピュータはエラー状態を認識する以上のことをするようにプログラムされていました。ソフトウェアには回復プログラム一式が組み込まれていたのです。ソフトウェアの動作としては、この場合、優先度の低いタスクを除外して、より重要なものを再構築することでした。コンピュータは、もう少しのところで(着陸の)中止を強制したというよりも、むしろ中止を阻止したといえます。もしもコンピュータがこの問題を認識できずに回復動作をとらなかったら、アポロ11号の月への着陸が上手くいったかどうか、疑わしいと思います。<ref>{{cite magazine |last=Hamilton |first=Margaret H. |authorlink=マーガレット・ハミルトン (科学者) |date=March 1, 1971 |p=13 |title=Computer Got Loaded |journal=Datamation |type=Letter |issn=0011-6963}}</ref>}} |
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ミッション中には、司令船とのランデブー用のレーダーのスイッチが誤った位置にあり、月着陸船のコンピュータにランデブー用レーダーと着陸用レーダーの両方から送られてきたデータを同時に処理させようとしたことが原因だと診断された{{sfn|Manned Spacecraft Center|1969|pp=190–192}}<ref>{{cite web |url=http://www.hq.nasa.gov/alsj/a11/a11.1201-fm.html |title=Apollo 11: 25 Years Later |last=Martin |first=Fred H. |date=July 1994 |work=Apollo 11 Lunar Surface Journal |publisher=NASA |accessdate=June 13, 2013}}</ref>。ソフトウェア技師のドン・アイルズは、2005年の誘導制御会議(Guidance and Control Conference)で発表した論文の中で、この問題は以前[[アポロ5号]]で最初の無人月着陸船をテストしている最中に見られたハードウェア設計上の欠陥に原因があると結論づけた。(緊急時着陸中止という万が一の事態に備えて)ランデブー用レーダーをオンにしておくことはコンピュータとは関係ないはずだったが、無作為なハードウェアの電源の入れ方次第では、ランデブーレーダーシステムの2つの部品の間に生じる電気的位相の不整合により、コンピュータに対して固定型アンテナが2つのポジションの間を前後に[[ディザリング]]するように見えることがある。ランデブー用レーダーがインボランタリカウンタを更新すると、余分な疑似[[サイクルスチール]]により、コンピュータは警告を発する<ref>{{cite web |url=http://klabs.org/history/apollo_11_alarms/eyles_2004/eyles_2004.htm |title=Tales from the Lunar Module Guidance Computer |last=Eyles |first=Don |date=February 6, 2004 |work=27th annual Guidance and Control Conference |publisher={{仮リンク|アメリカ宇宙航行学会|en|American Astronautical Society|label=American Astronautical Society}} |location=Breckenridge, Colorado |accessdate=June 13, 2013}}</ref>。 |
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'''これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である。''' |
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=== 着陸 === |
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[[File:Apollo 11 Landing Site & West Crater.png|thumb|アポロ11号の着陸地点(左)とウエスト・クレーター(右)の相対的位置]] |
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アームストロングが再び窓の外に目をやると、コンピュータがはじき出した着陸目標が直径300フィート(91メートル)ほどもあるクレーター{{efn2|後に{{仮リンク|ウエスト (月のクレーター)|en|West (lunar crater)|label=ウエスト}}と命名された。}}のすぐ北と東の巨岩がいくつも転がっている領域にあるのが見えたため、アームストロングは操縦を半自動<!-- {{sfn|毎日新聞社|1969|p=102}}など、書籍によっては「手動」とあるが、それは正確ではない。 -->に切り替えた{{sfn|Chaikin|1994|p=196}}{{sfn|Mindell|2008|pp=195–197}}。アームストロングはその岩石原の手前に着陸すればそこから地質試料を採取しに行けるかもしれないと考えたが、宇宙船の水平方向速度が速すぎたためできなかった{{sfn|チェイキン|1999|pp=288–289}}。降下している間、オルドリンはずっと、着陸船の操縦で多忙なアームストロングに航法データを読み上げ続けた{{sfn|シェパード|スレイトン|1994|p=31, 32}}。月面からの高度107フィート(33メートル)まで降下したとき、アームストロングは推進剤の供給が徐々に減少してきていることを知り、最初の着陸候補地点に着陸することに決めた{{sfn|Chaikin|1994|p=197}}。 |
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アームストロングは開けた月面の一画を見つけ、機動的に宇宙船をそちらへ向かわせた。だんだんと近づいて行くと、高度250フィート(76メートル)のところで、その新しく決めた着陸地点にクレーターがあることを発見した。アームストロングはクレーターを視界にはっきりととらえながら、別の一画の平地を見つけた。高度100フィート(30メートル)まで来て、推進剤の量は残りわずか90秒分まで減っていた。さらに、着陸船のエンジンによって巻き上げられた月の砂塵が、宇宙船の動きを決定するアームストロングの判断力を鈍らせた。もうもうと立ち込める砂塵の中から突き出たいくつもの大きな岩に焦点を絞ることで、アームストロングは降下中の宇宙船の速度を判断することができた{{sfn|Chaikin|1994|pp=198–199}}。 |
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アームストロングはまた、重力が地球の6分の1しかない月面は歩き回るには何の困難もなく、むしろ訓練よりもよほど楽であると報告した。 |
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[[ファイル:Aldrin Apollo 11 original.jpg|thumb|right|アームストロングが撮影したオルドリン。ヘルメットにはアームストロング自身の姿が映っている。]] |
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11号の飛行は、ケネディ元[[大統領]]の「1960年代の終わりまでに人間を月面に到達させよ」という最高指令の実現であるのみならず、様々な技術への挑戦という側面も持っていた。アームストロングは後の飛行の参考になるよう、いろいろな角度から着陸船の写真を撮影し、そのあと細長い棒で砂サンプルをかき集めてバッグに詰め、右腿のポケットに押し込んだ。さらに着陸船の脚から[[テレビカメラ]]を取り出して月面を[[パノラマ]]撮影した後、それを12m離れた場所で[[三脚]]の上にセットした。カメラの[[ケーブル]]には巻きつけられていたときの丸みが残っていたため、引き伸ばすのにはやや苦労した。 |
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[[ファイル:As11-40-5886.jpg|thumb|right|着陸船の傍らで作業するアームストロング]] |
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アームストロングから遅れること15分、オルドリンも月面に降り立ち、月の様子を「荘厳かつ荒涼とした風景」と表現した。両足で踏み切る「[[カンガルー]]・ジャンプ」など様々な歩行法を試みると、背中に負っている生命維持装置のために上体が後ろに反る傾向はあるものの、バランスを取るには何の問題もなく、慣れてくるとむしろ大股で歩いたほうがよいことが分かった。ただし移動する際は、常に六、七歩先のことを予想する必要があった。また月面の明るい部分はきわめて滑りやすく、[[太陽]]が照っている所から着陸船の影に入ったときには、宇宙服の中の温度には全く変化はなかったが、[[ヘルメット]]の内部には明白な温度差が感じられたと報告した。 |
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[[ファイル:Apollo 11 bootprint.jpg|thumb|right|月面の状態を調査するためにつけられたオルドリンの足跡]] |
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飛行士たちが月面に星条旗を立てている最中、とつぜん緊急連絡が入ってきた。ニクソン大統領からのものだった。「かつてホワイトハウスからかけられた中で、最も歴史的なもの」と後にニクソン自身が語っているこの電話の中で、彼ははじめ、用意していた長いスピーチを読み上げようとしていた。だが、ホワイトハウスとの連絡担当官を務めていたNASAのフランク・ボーマンは、飛行士たちのスケジュールはぎっしりと詰まっていることを説明し、電話を早めに切り上げるよう説得した。 |
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着陸の直前、「イーグル」の脚部から吊り下がっていた、長さ67インチ(170センチ)の探針のうちの少なくとも1本が月面に接地したことを示すライトが点灯した。それを知ったオルドリンは「着地灯、点灯!」と声に出して確認した{{sfn|シェパード|スレイトン|1994|p=36}}。技師たちは、着陸時にエンジンを噴射させたまま月面に接近しすぎると排気ガスの圧力(背圧)でエンジンが吹き飛ぶかもしれないと危惧していたため、アームストロングはただちにエンジンを切ることになっていたが、忘れてしまった{{sfn|チェイキン|1999|p=293}}。3秒後に「イーグル」が着陸し、アームストロングはエンジンを切った{{sfn|Chaikin|1994|p=199}}。オルドリンは即座に「OK、エンジン停止。ACA解放」と言葉を発し、それを受けてアームストロングは「ACA解放了解。自動」と復唱した。続けてオルドリンは「モード制御、両方とも自動。下降段エンジンの指令重複、オフ。エンジンアーム、オフ。413に接続」と確認した{{sfn|Mindell|2008|p=226}}。 |
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その後飛行士たちは、[[地震計]]や[[レーザー]]反射鏡などが搭載された科学実験装置を展開した。さらにアームストロングが写真撮影のために着陸船から120m離れたイースト・クレーターのへりまでロープを伸ばしている間、オルドリンは[[スコップ]]や伸張式の鋏を使って土壌サンプルや[[岩石]]を採集した。この間管制センターは、アームストロングの[[代謝]]率がやや高めだったので、少しペースを落とすように伝えていた。彼は時間内に任務をやり遂げようとして、あまりにも急ピッチに仕事をこなしていた。飛行士たちの[[呼吸]]や心拍数は予想されていた値よりは低かったが、管制センターは大事を取って予定を15分延長することを許可した。しかしながら月面活動の時間が予想外に長引いたため、サンプル採集活動は予定されていた34分間を途中で切り上げなければならなかった。 |
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[[File:AP11 FINAL APPROACH.ogv|thumb|left|1969年7月20日、月面に着陸。]] |
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ACAとは、[[姿勢制御装置]](attitude control assembly)のことで、具体的には月着陸船の操縦桿のことである。その出力は着陸船の誘導コンピュータ(LGC)に伝えられ、[[姿勢制御システム]](reaction control system、RCS)にエンジン噴射の命令を出す。「解放」とは、中央のポジションから動かされていた操縦桿が(車の方向指示器のように)バネの力で元の中央のポジションに戻されたことを意味する。LGCのアドレス413は、月着陸船が着陸したことを示す変数を含んでいた<ref name="ALSJ 1"/>。 |
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「イーグル」は7月20日、日曜日の20:17:40(UTC)に25秒分の燃料を残して着陸した<ref name="ALSJ 1" />。アポロ11号は後継のミッションよりも残りの燃料が少ない状態で着陸し、飛行士たちは早い段階から燃料残量警告表示に直面することになった。これはのちに、燃料タンク内で推進剤が想定以上に大きく揺れ動き([[スロッシング]])、燃料計の値が実際よりも少なく表示されていた結果であることが分かった。そのため、次回以降のミッションでは、これを抑える抑流板がタンク内に追加設置されることになった<ref name="ALSJ 1" />。 |
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=== 月面からの離陸と地球への帰還 === |
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[[ファイル:Land on the Moon 7 21 1969-repair.jpg|thumb|1969年7月21日の[[ワシントン・ポスト]]。見出しは「イーグルは着陸した」「二人の男が月面を歩いた」]] |
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予定されていた月面活動をすべて消化すると、まずオルドリンが先に着陸船に入った。採集した岩石やフィルムなどを収めた箱は重量が22kgに達し、「月面[[コンベア]]」と呼ばれる装置で引っぱり上げたが、船内に入れるのには若干苦労した。それからアームストロングははしごの3段目まで一気にジャンプして飛び乗り、自分も船内に入った。宇宙服の生命維持装置、月面靴、カメラなどの必要がなくなった機材を放り捨てると、ハッチを閉め船内を与圧し、2人はようやく月面での初めての睡眠についた。 |
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アームストロングは、オルドリンが「エンジンアームはオフ」と言って、着陸後のチェックリストをつける作業が一通り完了したのを確認して、CAPCOMのチャールズ・デュークに "Houston, Tranquility Base here. The ''Eagle'' has landed." (「ヒューストン、こちら[[静かの基地]]<!-- 注:《静かの海》基地{{sfn|毎日新聞社|1969|pp=108}}{{sfn|チェイキン|1999|p=293}}ではない。 -->。鷲は舞い降りた」){{sfn|ビゾニー|2009|p=51}}と言葉を発した。アームストロングがコールサインを「イーグル」から予行演習にはなかった「静かの基地(Tranquility Base)」に変更したことで、着陸を完遂して成功したことが強調されて聴取者たちに伝えられた<ref>{{cite AV media |type=TV production |title=Failure is Not an Option |publisher=The History Channel |date=August 24, 2003 |oclc=54435670}}</ref>。それを聞いたデュークは、ミッション管制センターにいた人たちの安堵の気持ちを表し、 "Roger, Twan— Tranquility, we copy you on the ground. You got a bunch of guys about to turn blue. We're breathing again. Thanks a lot." (「了解、トゥワン……トゥランキリティ(「静か」の意)。月面にいる君たちの声、よく聞こえるよ。君らのおかげでたくさんの奴らが真っ青になりそうだった。ため息をついている。どうもありがとう」)と、一瞬言い淀みながらも応答した<ref name="ALSJ 1">{{cite web |url=http://www.hq.nasa.gov/alsj/a11/a11.landing.html |title=The First Lunar Landing |date=1995 |editor-last= Jones |editor-first=Eric M. |work=Apollo 11 Lunar Surface Journal |publisher=NASA |accessdate=June 13, 2013}}</ref><ref>{{cite web |url=http://www.bbc.co.uk/archive/moonlandings/7630.shtml?all=2&id=7630 |title=James May speaks to Charles Duke |date=2009 |publisher=BBC Archives |accessdate=June 7, 2009}}</ref>。 |
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オルドリンは船内で作業しているとき、誤って上昇用エンジンを起動させる[[ブレーカー]]のスイッチを壊してしまった。幸いにも[[ボールペン]]の先でスイッチを入れることができたが、もしエンジンに点火できなければ、彼らは永久に月面に取り残されることになっていたところであった。 |
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[[File:A New Look at the Apollo 11 Landing Site.ogv|thumb|[[ルナー・リコネサンス・オービター|LRO]]から撮影された写真とステレオ画像数値標高モデルを用いて三次元画像化されたアポロ11号の着陸地点]] |
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7時間の睡眠の後、2人はヒューストンからの目覚ましによって起こされ、離陸の準備を始めるよう指示された。2時間半後の17:54 (UTC)、月面から21.5kgのサンプルを持ち帰ったイーグルは上昇段のエンジンに点火し、離陸を開始した。司令船コロンビアとのドッキングにも成功して、軌道上で彼らを待っていたコリンズ飛行士と無事再会を果たした。 |
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着陸から2時間半後、船外活動の準備を始める前に、オルドリンは次のように地球に無線連絡した。 |
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[[ファイル:Apollo11Plaque.jpg|right|thumb|着陸船イーグルの脚に貼られた、飛行を記念するプレート。[[風化#宇宙風化|宇宙風化]]は地球での風化に比べ極めて弱いため永らく月面に残ると考えられている]] |
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{{quote|こちらは月着陸船操縦士です。この機会を借りて、私はこの放送を聞いている人々に対し、誰であろうと、またどこにいようと、しばらくの間手を止めて、この数時間に起こったできごとについて熟慮し、それぞれの方法で感謝をしてほしいと願います。<ref>{{cite web |url=http://www.hq.nasa.gov/alsj/a11/a11.postland.html |title=Post-landing Activities |date=1995 |editor-last=Jones |editor-first=Eric M. |work=Apollo 11 Lunar Surface Journal |publisher=NASA |accessdate=June 13, 2013}}</ref>{{sfn|毎日新聞社|1969|p=112}}}} |
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そのあと彼は、私的に[[聖餐式]]を行った{{sfn|アームストロング|コリンズ|オルドリンJr.|1973|pp=284-285}}。この当時NASAは、[[アポロ8号での創世記の朗読|アポロ8号の宇宙飛行士が月を周回中に聖書の創世記の一節を朗読したこと]]に反対していた無神論者の{{仮リンク|マダリン・マレー・オヘア|en|Madalyn Murray O'Hair}}と係争中で、オヘアはNASAに対し、宇宙飛行士は宇宙にいる間は宗教的活動を放送することを控えるべきだと要求していた。それゆえ、オルドリンは月で聖餐式を行うことに直接言及することを差し控える選択をした。オルドリンはテキサス州{{仮リンク|ウェブスター (テキサス州)|en|Webster, Texas|label=ウェブスター}}にある[[長老派教会]]の長老で、聖餐用具は同教会の牧師であるディーン・ウッドラフが用意していた。ウェブスターの長老派教会は、このとき月で使用された聖餐杯を所有しており、毎年7月20日にもっとも近い日曜日を「月の晩餐の日」として記念行事を行っている{{sfn|Chaikin|1994|pp=204, 623}}。 |
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この時点で、アームストロングとオルドリンの2人が無事に月面を離陸しコリンズのいる司令船に戻ってこられたのだが、当時のNASAは司令船で月を周回することまでは成功していたが、月面からの離陸に関しては初の試みであり、2人を月から帰還させることについては完全に保証することができない状況であった。そのため、ニクソン大統領は2人が帰還できなくなった場合の「追悼の言葉」を事前に準備しており、これは後の[[1999年]]に[[アメリカ国立公文書記録管理局]]で発見され公開発表された<ref>Los Angeles Times, July 7, 1999 より</ref><ref>http://news.bbc.co.uk/2/hi/science/nature/390634.stm A silent death. Retrieved July 20, 2009.</ref><ref>{{Cite news| url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/science/nature/390933.stm | work=BBC News | title=Full text: Nixon's unused Apollo speech | date=July 10, 1999 | accessdate=March 30, 2010}}</ref>。 |
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この任務のスケジュールでは、宇宙飛行士は5時間の睡眠時間で着陸のあとに続く作業を行うことが求められていたが、眠れないだろうと思った2人は早くに船外活動の準備を始めることを選択した{{sfn|Manned Spacecraft Center|1969|pp=21–22}}。 |
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2時間半の月面活動で、飛行士たちは地震計や、地球と月との距離を測定するためのレーザー反射板など、様々な観測装置を月面に設置した。科学機器の他には、星条旗や、飛行を記念したプレートなども残してきた。記念プレートは着陸船の正面の脚に貼られていて、地球の東半球と西半球、3人の飛行士とニクソンの署名、そして「西暦1969年7月、[[惑星]]地球から来た人間が月面に初めて足を踏み降ろしたことをここに記念する。我々はすべての人類の平和のために来た」という声明が書かれていた。また彼らが月面に残してきた箱の中には、平和のシンボルである[[金]]の[[月桂冠]]と、飛行士3人が火災事故で犠牲になった[[アポロ1号]]の徽章、そして[[ドワイト・D・アイゼンハワー|アイゼンハワー]]、ケネディ、[[リンドン・ジョンソン|ジョンソン]]、ニクソンなどの歴代大統領や、世界73か国のリーダーたちの親善のメッセージを録音した[[シリコン]]製の[[レコード]]などが収められていた。このレコードの中では、[[アメリカ合衆国議会]]の代表者や、NASAの設立に尽力した上下両院の4つの委員会のメンバー、歴代[[NASA長官]]の名前なども読み上げられていた。[[1989年]]に出版された「月から帰ってきた男」という本の中で、オルドリンはこの箱の中には[[ソビエト連邦]]の[[宇宙飛行士]][[ユーリ・ガガーリン]]や[[ウラジミール・コマロフ]]を記念したメダルも入っていたと明かした。またNASAの宇宙飛行士訓練担当官ディーク・スレイトンは「月を狙う」という本の中で、アームストロングに[[ダイヤモンド]]の入った特製の飛行士の階級章を月面に置いてくるよう託していたと述べている。 |
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=== 月面での活動 === |
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離陸の際、上昇段の窓から月面を撮影した映像は、着陸船から8mほど離れたところに立てられた星条旗が、ロケット噴射で激しくはためく場面をとらえていた。オルドリンは、 |
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[[File:As11-40-5886.jpg|thumb|left|オルドリンが撮影したアームストロングの写真。月面滞在中はほとんどアームストロングがカメラを持っていたので、月面上の彼自身の姿が写ったものとしては、数少ない写真の一つ。]] |
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船外活動の準備は20日23:43に始まった{{sfn|Orloff|2000|p=107}}。準備は2時間で済むはずのところ、3時間半と想定よりも長くかかった<ref name="ALSJ 3" />。地球上での訓練中には、必要とされるものはすべて前もってきちんと並べられていたが、月では、チェックリスト、食料の入った小包、用具のほかにも多くのものが船室内にあった{{sfn|Manned Spacecraft Center|1969|p=22}}。アームストロングとオルドリンの外に出る準備が整うと、「イーグル」は減圧された{{sfn|Cortright|1975|p=215}}。02:39:33にハッチが開いた{{sfn|Orloff|2000|p=107}}。初め、アームストロングは{{仮リンク|主生命維持システム|en|Primary Life Support System|label=船外活動用の生命維持装置}}(PLSS)を身に着けたままハッチを通り抜けようとする際にいくぶん苦労を要した<ref name="ALSJ 3">{{cite web |url=http://www.hq.nasa.gov/alsj/a11/a11.summary.html |title=First Steps |date=1995 |editor1-last=Jones |editor1-first=Eric M. |editor2-last=Glover |editor2-first=Ken |work=Apollo 11 Lunar Surface Journal |publisher=NASA |accessdate=September 23, 2006}}</ref>。アポロ宇宙飛行士たちの心拍数は月着陸船のハッチを出入りするときに最高値を記録することがよくあった{{sfn|Waligora|Horrigan|1975|pp=115–120}}。02:51にアームストロングは月面へと降り始めた。胸の位置にある遠隔操作ユニット(RCU)のせいで、アームストロングは自分の足元が見えなかった。9段のはしごを降りながら、アームストロングはDの字型のリングを引いて、「イーグル」の側面に折り畳まれていたモジュール装置格納アセンブリ(Modular Equipment Stowage Assembly、MESA:器具収納部)を展開してテレビカメラを起動した<ref name="ALSJ 4">{{cite web |url=http://www.hq.nasa.gov/alsj/a11/a11.step.html |title=One Small Step |date=1995 |editor-last=Jones |editor-first=Eric M. |work=Apollo 11 Lunar Surface Journal |publisher=NASA |accessdate=June 13, 2013}}</ref><ref>{{cite news |title=Neil Armstrong, first man to step on the Moon, dies at 82 |first=Paul |last=Duggan |url=https://www.washingtonpost.com/national/health-science/neil-armstrong-first-man-to-step-on-the-moon-dies-at-82/2012/08/25/7091c8bc-412d-11e0-a16f-4c3fe0fd37f0_story.html |newspaper=[[The Washington Post]] |date=August 25, 2012 |accessdate=May 25, 2013}}</ref>。 |
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アポロ11号では、放送用のテレビジョン規格と互換性のない[[低速度走査テレビジョン]]が使用されたため、一度特殊なモニタに映像を表示させておき、そのモニタの映像を従来型のテレビカメラで撮影することで本放送されたが、その画質は著しく低減されることとなった<ref name="Blunder 5">{{cite news |title=One giant blunder for mankind: how NASA lost Moon pictures |last=Macey |first=Richard |url=http://www.smh.com.au/news/national/one-giant-blunder-for-mankind-how-nasa-lost-moon-pictures/2006/08/04/1154198328978.html |newspaper=[[The Sydney Morning Herald]] |location=Sydney |date=August 5, 2006 |accessdate=June 13, 2013}}</ref>。テレビジョン信号はアメリカの[[ゴールドストーン深宇宙通信施設|ゴールドストーン]]で受信されていたが、オーストラリアの[[キャンベラ]]近郊にある{{仮リンク|ハニーサックル・クリーク追跡基地|en|Honeysuckle Creek Tracking Station}}が受信した信号のほうが[[Hi-Fi|忠実度が高く]]て鮮明だった。数分後、通信の中継基地は、より感度が良好なオーストラリアの[[パークス天文台|パークス電波望遠鏡]]に切り替えられた{{sfn|Sarkissian|2001|p=287}}。幾多の技術的困難と天候不順があったにもかかわらず、史上初の月面での船外活動をとらえた、ぼんやりとした白黒の映像が地球上で受信され、世界中の少なくとも6億人の人々に向けて放送された{{sfn|Sarkissian|2001|p=287}}。この放送形式のビデオの複製物は保存されており、広く入手することが可能だが、{{仮リンク|アポロ11号の紛失したテープ|en|Apollo 11 missing tapes|label=低速度走査テレビカメラで撮影されて月から伝送された元の高画質の録画映像}}は、NASAの日常業務で磁気テープを再利用しているうちに誤って破損されてしまったようである<ref name="Blunder 5" />。 |
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「上昇を始めた時、私はコンピューターの操作に集中し、ニールは高度計を注視していたが、旗が吹き飛ばされるのははっきりと見ることができた」 |
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[[File:Apollo 11 plaque closeup on Moon.jpg|right|thumb|「イーグル」のはしごに残された、月面着陸を記念する銘板]] |
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と報告した。このため以後の飛行では、星条旗は着陸船から30m以上離れた場所に立てられることになった。 |
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{{Listen|pos=right|filename=Frase de Neil Armstrong.ogg|title=これは…小さな一歩だが…<br/>That's one small step ...|description=|format=[[Ogg]]}} |
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アームストロングは、はしごにかけたまま、月着陸船の下降段につけられていた(西半球と東半球の)2つの地球の図と銘刻、および3名の飛行士とニクソン大統領の署名が描かれた{{仮リンク|月の記念銘板|en|Lunar plaque|label=記念銘板}}を除幕した。記念銘板には次の文章が刻印されていた。 |
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{{quote|Here men from the planet Earth first set foot upon the Moon, July 1969 A.D. We came in peace for all mankind.<ref name="ALSJ 4" />(西暦一九六九年七月、惑星地球より来たる人類、ここ月面に降り立つ。我ら全人類の平和のために来たれり。{{sfn|ハンセン|2007|p=298}})}} |
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月の表面の塵について「とてもきめの細かい」「ほとんど粉のよう」と説明したあと<ref name="ALSJ 4" />、着陸から6時間半が経とうとしていた02:56:15にアームストロングは「イーグル」の脚を支えている皿の上に降り立ち、次のように宣言した。 |
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司令船とのランデブーとドッキングに成功した後、イーグルは1969年7月21日23:41 (UTC)、月周回軌道上に投棄された。[[アポロ12号]]の飛行の直前には、イーグルはいまだ軌道上にとどまっていることが確認されたが、NASAの報告ではその後次第に軌道が低下し、月面のどこかに落下したのだろうと述べられている。 |
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{{quote|'''これは人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な跳躍だ。'''{{sfn|ハンセン|2007|p=284}}<br/>''That's one small step for [a] man, one giant leap for mankind.''{{sfn|Orloff|2000|p=108}}<ref>{{cite web |url=http://www.nasa.gov/audience/forstudents/5-8/features/F_Apollo_35th_Anniversary.html |title=Apollo Moon Landing – 35th Anniversary |date=July 15, 2004 |editor-last=Canright |editor-first=Shelley |work=NASA Education |publisher=NASA |accessdate=June 13, 2013}}</ref>}} |
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{{see also|ニール・アームストロング#月面への第一歩}} |
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[[7月23日]]、帰還前の最後の夜に、3人の飛行士はテレビのインタビューに答えた。始めにコリンズが、 |
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アームストロングは "That's one small step for a man" (「一人の男にとっては小さな一歩」)と言うつもりでいたが、通信音声では "a" という単語は聞き取りにくかったこともあって、当初、単語 "a" は生放送を視聴していた人の大多数には伝わっていなかった。のちにこの名文句について尋ねられたとき、アームストロングは "for a man" と言ったと思っていたと述べており、後年発行されたこの句の活字版には、角括弧付きで "a" が含められていた。ある解釈では、 "a" は欠落していたと主張され、彼は訛りによって "for a" の2単語を連続して不明瞭に発音したのだと説明されている。別の解釈では、パークス天文台付近の嵐をその一因とし、地球につないだ映像と音声の断続的性質で "a" の欠落を説明している。より最近のテープ音声のデジタル解析では、 "a" は発言されたかもしれないが、空電{{efn2|空電とは、雷などの大気中の放電によって生じる電磁波で、ラジオなどの受信機の雑音の原因となる。}}のせいでよく聞き取れなかったことが明らかになったと主張されている<ref>{{snopes | link = http://www.snopes.com/quotes/onesmall.asp | title = One Small Step}}</ref><ref>{{Cite news |title=Armstrong 'got Moon quote right' |url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/americas/5398560.stm |date=October 2, 2006 |publisher=[[BBC News]] |location=London |accessdate=June 13, 2013}}</ref><ref>{{cite news |title=Armstrong's 'poetic' slip on Moon |first=Pallab |last=Ghosh |url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/science/nature/8081817.stm |date=June 3, 2009 |publisher=BBC News |location=London |accessdate=June 13, 2013}}</ref>。 |
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月面に足を踏み入れてからおよそ7分後、アームストロングは細長い棒で土壌サンプルを採取して試料袋に詰め、袋を畳み、右腿のポケットに押し込んだ。これは、万が一緊急時に飛行士たちが船外活動を断念して着陸船に戻らなければならなくなった場合でも、多少なりとも月の土壌を地球に持ち帰れるよう保証するための作戦行動(緊急採集{{sfn|毎日新聞社|1969|pp=132-133}})だった<ref>{{cite web |url=https://curator.jsc.nasa.gov/lunar/lsc/10010.pdf |title=Lunar Sample Compendium: Contingency Soil (10010) |last=Meyer |first=Charles |date=2009 |work=Astromaterials Research & Exploration Science |publisher=NASA |format=PDF |accessdate=June 13, 2013}}</ref>。土壌サンプルの採取が完了して12分後{{sfn|Orloff|2000|p=108}}、アームストロングはMESAからテレビカメラを取り外し、月面のパノラマ映像を撮影してから、三脚の上にカメラを載せた<ref name="ALSJ 3" />。テレビカメラのケーブルには一部に巻きつけられていたときの癖が残っていたため、船外活動中はずっと、それが螺旋状に曲がりくねったところに足を引っかけてつまづくおそれがあった。さらに、[[ハッセルブラッド]]製カメラを手に持ったり、アームストロングの宇宙服({{仮リンク|アポロ/スカイラブ A7L|en|Apollo/Skylab A7L}})にかけたりして、月面の写真撮影が遂行された{{sfn|Manned Spacecraft Center|1969|p=23}}。追ってオルドリンがアームストロングに続いて月面に降り立ち、月面の風景について、簡潔な言い方で "magnificent desolation" (荘厳なる荒涼)と表現した<ref name="ALSJ 4" />。 |
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「我々を打ち上げたサターンV 型ロケットはきわめて複雑な機械だが、すべての部品は完璧に機能してくれた。我々はこの機械が何の問題もなく働いてくれるという信頼を常に持っていた。この飛行は、数え切れない人々の血と汗と涙によって可能になった。今あなたが目にしている私たち3人は、何千、何万もの人間によって支えられているのだ。そして私は、そのすべての人々に言いたい。『ありがとう』と」 |
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アームストロングは、地球の6分の1しかない[[月の重力場|月の重力]]の中を移動するのは「ひょっとしたら地上での模擬訓練よりもよほど簡単かもしれない……歩き回るのにまったく何の問題もない」と述べた<ref name="ALSJ 4"/>。そこにオルドリンも加わって、両足で踏み切るカンガルー跳びなど、さまざまな歩き方を試した。すると、背中に生命維持装置を背負っているために上体が後ろに反る傾向はあるものの、バランスを取るには大した問題もなく、慣れてくると、むしろ大股で歩くのがよいことが分かった。ただし、移動する際は常に6、7歩先のことを予想して歩く必要があったり、粒の細かい土の部分はかなり滑りやすかったりしたので、注意を要した。また、太陽の照っているところから「イーグル」の影に入ったときには、宇宙服の中の温度はまったく変化がなかったが、ヘルメットの内部は日光で温められていたため、影に入ると冷たく感じられたとオルドリンは報告した<ref name="ALSJ 4"/>。MESAは安定した作業環境を提供することができず、また「イーグル」の影に隠れていたため、作業はいくぶん遅れることになった。2人が作業しているうちに月面を歩いたことで、灰色の砂埃が巻き上げられ、宇宙服の外皮を汚してしまった{{sfn|Manned Spacecraft Center|1969|p=23}}。 |
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と述べ、オルドリンは、 |
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[[File:Buzz salutes the U.S. Flag.jpg|thumb|left|月面に立てた星条旗に敬礼するオルドリン]] |
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「人間3人を月に送るという偉業は、政府や企業のみならず、国家や、あるいはそれ以上のものによって成し遂げられた。これは、人間の未知なる物への好奇心を象徴しているのだと思う。私は数日前のあの月面でのできごとを思い出すとき、[[賛美歌]]の一節が心に浮かんでくる。『天に思いを巡らすと、月や星の運行は、主によって導かれているものであるとしか思えない』。これは人が常に心にとどめておくべきことなのではないだろうか」 |
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2人は[[アメリカ合衆国の国旗]]を含む{{仮リンク|ルナ・フラッグ・アセンブリ|en|Lunar Flag Assembly|label=一組の旗}}を月面上のテレビカメラにはっきりと写るところに立てた。オルドリンはこのときを思い出して「私が月面でしなければならなかったすべての仕事のうち、もっとも順調に運びたかったことは国旗の掲揚でした」と語った<ref name="theattic">{{cite web |title=A Flag on the Moon |url=https://www.theattic.space/home-page-blogs/2018/9/27/4j6861bez3j568c31rzj7lynevmtpt |website=The Attic |accessdate=October 1, 2018}}</ref>。ところが、繰り出し式の伸縮する棒<!-- 伸縮する三脚の脚のような感じのもの -->が月面に刺す際に縮んでしまうことに悪戦苦闘し、旗竿は固い月の表面に2インチ(5センチ)ほどしか押しつけられなかった。オルドリンはテレビの視聴者の目の前で旗が倒れてしまいやしないかと心配しながらも、旗に向かってウエストポイント([[陸軍士官学校 (アメリカ合衆国)|陸軍士官学校]])式の敬礼を行った<ref name="theattic" />。そして、オルドリンが星条旗とアームストロングを被写体にした写真を撮るはずだった次の瞬間に、電話無線伝送を通じてリチャード・ニクソン大統領が飛行士たちに話しかけてきた。のちにニクソンはこの交信を「かつてホワイトハウスからかけられた中でももっとも歴史的な通話」と呼んだ<ref>{{cite web |url=https://www.archives.gov/exhibits/american_originals/apollo11.html |title=Exhibit: Apollo 11 and Nixon |date=March 1996 |work=American Originals |publisher=[[National Archives and Records Administration]] |location=Washington, D.C. |accessdate=April 13, 2008}}</ref>。ニクソンは当初、通話中に読み上げる長い演説文を用意していたが、当時NASAの連絡担当官でホワイトハウスにいたフランク・ボーマンは通話を手短に済ませるよう大統領を説得した{{sfn|Borman|Serling|1988|pp=237–238}}。 |
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{{quote|'''ニクソン:''' やあ、ニール、バズ。私はホワイトハウスの執務室から電話で君たちに話しかけています。そして、これはきっとこれまでにかけられた中でもっとも歴史的な通話になることでしょう。君たちの成し遂げたことがどれほど私たち皆の誇りに思うことか、言葉では言い表せないほどです。すべてのアメリカ人にとって、今日は生涯でもっとも誇るべき日となることでしょう。そして、世界中の人々もアメリカ国民とともに、これが何と素晴らしい偉業であることかを認めるだろうと私は確信しています。君たちが成し遂げたことで、天空は人間世界の一部となりました。そして、君たちが静かの海から私たちに呼びかけてくれたことで、私たちは地球に平和と静寂をもたらす努力をさらに強くしなくてはならないと奮い立たされます。全人類史の中でかけがえのないこの一瞬に、この地球上のすべての人々は真に一体となります。ひとつには、君たちが成し遂げたことに対する誇り、そしてひとつには、君たちが無事地球に帰還するようにとの祈りであります。 |
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'''アームストロング:''' ありがとうございます、大統領閣下。合衆国のみならず、平和を愛するすべての国の人々、そして興味や好奇心、未来への展望を持つ人々を代表して、私たちがここにいることは誠に光栄かつ名誉なことです。今日ここにいられることを光栄に存じます。<ref>{{cite web |url=https://www.presidency.ucsb.edu/documents/telephone-conversation-with-the-apollo-11-astronauts-the-moon |title=Richard Nixon: Telephone Conversation With the Apollo 11 Astronauts on the Moon |publisher=UC Santa Barbara |work=The American Presidency Project |access-date=October 26, 2018}}</ref>|||}} |
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と続け、最後にアームストロングが、 |
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[[File:Buzz Aldrin's bootprint on the Moon, AS11-40-5877 (21472308758).jpg|thumb|right|月の[[レゴリス]]の特性を調べる実験の一環で付けられたオルドリンの靴跡]] |
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「この飛行が実現したのは、まず第一に歴史において幾多の業績を残した科学史の偉大な先人たち、次にこれを成し遂げたいという意志を示したアメリカ国民、そしてそれを履行した政府と議会、さらに宇宙船や、[[サターンロケット]]、司令船コロンビア、着陸船イーグル、船外活動装置、月面における小さな宇宙船とも言うべき宇宙服などを作り上げた政府機関や企業など、多くの人々のおかげである。我々は、この宇宙船を設計し、試験し、完成させるために心血を注いだすべてのアメリカ人に心から感謝の意を捧げたい。そしてまたこの放送を聞いているすべての人々に、神の祝福があらんことを。以上、アポロ11号より」 |
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二人の飛行士は、[[月震]]を観測する受動型地震計実験装置(PSEP)と[[月レーザー測距実験]]用の[[リトロリフレクター|再帰反射器]](LRRR)を含む、[[アポロ月面実験パッケージ|初期アポロ科学実験パッケージ]](EASEP)を展開した<ref name="EASEP Deployment and Closeout" />。その際、オルドリンが2本の{{仮リンク|コアサンプル|en|Core sample}}を集めている間に、アームストロングは着陸船から196フィート(60メートル)歩いて、{{仮リンク|リトルウェスト (月のクレーター)|en|Little West (lunar crater)|label=リトル・ウェスト・クレーター}}の周縁部でスナップ写真を撮った。アームストロングは[[岩石ハンマー]]を使用してコアサンプル採取用のチューブを打った。アポロ11号でハンマーが使われたのはこのときだけだったが、6インチ(15センチ)よりも深く貫通させることはできなかった。2人はスコップや伸張式の鋏を使って岩石試料を採集した。月面での活動の多くは想定よりも長引いたため、2人は割り当てられていた34分間の活動時間の中ごろで、採集した試料について文書に記載する手を止めなくてはならなかった。荷崩れしないように、オルドリンは採集した岩石を入れた箱に6キログラム(13ポンド)の土をシャベルですくって入れた{{sfn|Harland|1999|pp=28–29}}。採集された地質試料には[[玄武岩]]と[[角礫岩]]の2種類の岩石が含まれていたことがわかった<ref>{{cite web|url=https://www.lpi.usra.edu/lunar/missions/apollo/apollo_11/samples/|title=Lunar Sample Overview|publisher=Lunar and Planetary Institute|access-date=December 28, 2018}}</ref>。また、採集した岩石試料からは、新種の鉱物として[[アーマルコライト]]、[[トランキリティアイト]]、{{仮リンク|パイロクスフェロアイト|en|Pyroxferroite}}の3種が発見された。このうち、アーマルコライト(Armalcolite)はアームストロング(Arm)、オルドリン(al)、コリンズ(col)の3名の宇宙飛行士の名にちなんでいる。これらの鉱物はすべて、のちに地球上でも見つかっている<ref>{{cite web |url=https://www.sciencedaily.com/releases/2012/01/120115223636.htm |title=Moon-walk mineral discovered in Western Australia |publisher=ScienceDaily |author=University of Western Australia |date=January 17, 2012 |access-date=September 24, 2018}}</ref>。 |
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ミッション管制センターは暗号的な言葉を使用して、アームストロングに代謝率が高めであることを警告し、作業のペースを落とすように伝えた。彼は時間切れになるまで月面を素早く移動しては次から次へと任務をこなしていた。月面を歩行している間は、2人の飛行士の代謝率はおおむね予想されていた値よりも低かったため、管制センターは両飛行士に15分間の活動延長を許可した<ref name="EASEP Deployment and Closeout">{{cite web |url=http://www.hq.nasa.gov/alsj/a11/a11.clsout.html |title=EASEP Deployment and Closeout |editor-last=Jones |editor-first=Eric M. |date=1995 |work=Apollo 11 Lunar Surface Journal |publisher=NASA |accessdate=June 13, 2013}}</ref>{{sfn|毎日新聞社|1969|p=144}}。2010年のインタビューで、アームストロングは、当時NASAが最初の月面歩行の時間と距離に制限をかけていたことを明かした。その理由は、月面で作業する間に飛行士たちの発する熱を下げるために、背中に備えられた生命維持装置がどの程度の量の冷却水を消費するかについて、経験に基づく裏付けが取れていなかったことによるものだった<ref>{{cite web |url=http://www.space.com/10469-neil-armstrong-explains-famous-apollo-11-moonwalk.html |title=Neil Armstrong Explains His Famous Apollo 11 Moonwalk |date=December 10, 2010 |work=space.com |publisher=TechMediaNetwork, Inc. |location=New York |accessdate=May 25, 2013}}</ref>。 |
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と結んだ。 |
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=== 月からの上昇 === |
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[[7月24日]]、コロンビアは[[ウェーク島]]から2,660km東方、ジョンストン[[環礁]]から380km南方、[[航空母艦]][[ホーネット (CV-12)|ホーネット]] (USS Hornet) から離れることわずか24kmの、西経169度9分、北緯13度19分の[[太平洋]]上に無事帰還した<ref>このとき[[日本航空]]の国際線旅客機の運行乗務員が、[[ミッドウェー諸島]]付近にて大気圏内を2000km/hで落下中のアポロ11号を目撃した。撮影に夢中で客室への放送は忘れたという。</ref>。飛行士たちは着水からおよそ1時間後に[[ヘリコプター]]によって回収され、ただちに月面から[[病原菌]]や[[ウイルス]]を持ってきていないかを検査するために特別な病棟に隔離された。ニクソン大統領は、彼らを祝福するために全く個人的に空母を訪れた。 |
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予定されていた船外活動をすべて消化すると、まずオルドリンが先に「イーグル」に戻った。採集した岩石や撮影したフィルムなどを収めた箱は重量が21.55キログラム(47.5ポンド)に上り、月装備運搬装置(Lunar Equipment Conveyor、LEC)と呼ばれるフラットケーブル滑車装置で引っぱり上げたが、ハッチから船内に入れるのには若干苦労した。この方法は効率的でないことが証明されたため、後継のミッションでは機材や試料は手で持って船に荷揚げするようになった<ref name="ALSJ 3" />。アームストロングは宇宙服の袖のポケットに入っている記念品の袋を月面に残すのを忘れないようにとオルドリンに念を押し、オルドリンは月面に袋を放り投げた{{sfn|ハンセン|2007|p=321}}。それから、アームストロングははしごの3段目まで一気にジャンプして飛び乗り、はしごを上って船内に入った。船内の生命維持システムに移ったあと、月周回軌道まで帰るための「イーグル」上昇段の明かりをつけ、宇宙服の船外活動用生命維持装置、月面靴、空のハッセルブラッド製カメラなど、不要になった機材を放り捨てて、21日05:01にハッチを閉め、船内を与圧し、2人はようやく月面で初めての睡眠についた<ref name="ALSJ 6">{{cite web |url=http://www.hq.nasa.gov/alsj/a11/a11.posteva.html |title=Trying to Rest |editor-last=Jones |editor-first=Eric M. |date=1995 |work=Apollo 11 Lunar Surface Journal |publisher=NASA |accessdate=June 13, 2013}}</ref>。 |
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[[ファイル:President Nixon welcomes the Apollo 11 astronauts aboard the U.S.S. Hornet.jpg|thumb|right|隔離病棟に収容される飛行士たちと、彼らを祝福するニクソン大統領]] |
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[[8月13日]]、3週間にわたる検査により異常がないことが確認されると、3人はようやく隔離から解放され、[[ニューヨーク]]、[[シカゴ]]、[[ロサンゼルス]]で(同じ日に)盛大な[[パレード]]で歓迎された。数週間後には[[メキシコシティ]]を訪れ、そこでも祝福を受けた。 |
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[[File:Aldrin Looks Back at Tranquility Base - GPN-2000-001102.jpg|thumb|受動型地震計実験装置(写真中央)の隣に立つオルドリン(同左)と「イーグル」(同右奥)]] |
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ロサンゼルスでパレードがあった日の夜には、連邦議員、44州の[[知事]]、[[合衆国最高裁判所]]長官、並びに83か国の[[大使]]らの主宰による歓迎の晩餐会が開かれ、ニクソン大統領および[[スピロ・アグニュー]][[アメリカ合衆国副大統領|副大統領]]からアメリカ最高勲章である[[大統領自由勲章]] (Presidential Medal of Freedom) が授与された。そしてこの晩餐会は、この後45日間にわたって続く「偉大な飛躍 (Giant Leap) ツアー」の始まりに過ぎなかった。彼らにはこれから25か国を歴訪し、各国の[[君主]]・[[元首]]・[[首脳]]を表敬訪問することが予定されていたのである。 |
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ニクソン大統領のスピーチライターだった[[ウィリアム・サファイア]]は、最悪の事態として、万一アポロ11号の宇宙飛行士たちが月で遭難した場合を想定して、大統領がテレビ演説で読み上げる''In Event of Moon Disaster'' (月で災難の場合)と題した追悼文を用意していた<ref>{{cite web |url=http://www.thesmokinggun.com/documents/crime/white-house-lost-space-scenarios |title=White House 'Lost In Space' Scenarios |date=August 8, 2005 |work=The Smoking Gun |location=New York |accessdate=May 25, 2013}} Scanned copy of the "In Event of Moon Disaster" memo.</ref>。その不測の事態に対応するための計画は、セイファイアからニクソンの[[アメリカ合衆国大統領首席補佐官|大統領首席補佐官]]だった[[ハリー・ロビンス・ハルデマン|H・R・ハルデマン]]に渡されたメモが発端だった。そのメモには、もしアポロ11号が不慮の事態に見舞われ、ニクソン政権がそれに対する反応を求められるかもしれなかった状況を想定して、セイファイアが作成した追悼の言葉の原案が示されていた<ref>{{cite news |title=The Story of a Tragedy That Was Not to Be |first=Jim |last=Mann |url=http://articles.latimes.com/1999/jul/07/news/mn-53678 |work=[[Los Angeles Times]] |date=July 7, 1999 |accessdate=May 25, 2013}}</ref><ref name="safire">{{cite news |title=Essay; Disaster Never Came |first=William |last=Safire |url=https://www.nytimes.com/1999/07/12/opinion/essay-disaster-never-came.html |work=[[The New York Times]] |date=July 12, 1999 |accessdate=May 25, 2013}}</ref>。その計画によれば、ミッション管制センターが月着陸船との「交信を絶つ」と、聖職者が[[海葬]]になぞらえた公的儀式で「彼らの魂を深い淵の底に委ねる」手はずだった。用意された原稿の最後の一行では、[[ルパート・ブルック]]が第一次世界大戦期に詠んだ詩『{{仮リンク|兵士 (詩)|en|The Soldier (poem)|label=兵士}}』にそれとなく言及している<ref name="safire"/>。 |
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オルドリンは船内で作業しているとき、月面から離陸するために使用する上昇用エンジンを作動させる[[遮断器|回路ブレーカー]]のスイッチを誤って壊してしまった。このことで、船のエンジンの点火が妨げられ、彼らは月面に取り残されてしまう懸念があった。幸いにも、フェルトペンの先でスイッチを作動させることができたが、もしもそれがうまくいかなければ、上昇用エンジンを点火するために着陸船の電気回路は構成し直されていたかもしれなかった<ref name="ALSJ 6" />。 |
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世界の多くの国は、史上初の月面着陸を記念して[[切手]]や[[メダル]]を発行した。また[[北ベトナム]]のいくつかの[[捕虜収容所]]には、11号の飛行から数か月後にそれらの切手を貼った手紙が届けられ、アメリカが人間を月に着陸させたことがそれとなく知らされた。 |
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21時間半以上を月面で過ごした2人は、科学観測機器のほか、1967年1月に訓練中の火災事故で犠牲になった3名の飛行士([[ロジャー・チャフィー]]、[[ガス・グリソム]]、[[エドワード・ホワイト]])を追悼して[[アポロ1号]]のミッションパッチを、また古くから平和の象徴とされてきたオリーブの枝を模した金のレプリカの入った記念袋を、そして地球からのメッセージを収めたシリコンディスクを月面に残してきた。ディスクには、アメリカのアイゼンハワー、ケネディ、ジョンソン、ニクソンの歴代大統領からの{{仮リンク|アポロ11号の親善メッセージ|en|Apollo 11 goodwill messages|label=親善声明文}}や世界73か国の指導者たちから寄せられたメッセージが収録されていたほか、アメリカ合衆国議会の代表者たち、NASAの設立に尽力した上下両院の4つの委員会のメンバー、および[[NASA長官|NASAの歴代長官]]の名前の一覧も記録されていた<ref>{{cite press release |title=Apollo 11 Goodwill Messages |date=July 13, 1969 |publisher=NASA |location=Washington, D.C. |url=https://www.nasa.gov/wp-content/uploads/2024/05/apollo-11-goodwill-messages.pdf |format=PDF |id=Release No: 69-83F |accessdate=June 14, 2013}}</ref>。 |
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[[ミズーリ州]][[セントルイス]]で開催された第27回世界[[SF大会]]では、「かつて(SF小説の中で)行なわれた月面着陸の中で、最もすばらしかったもの」として、SF雑誌のパイオニア、[[ヒューゴー・ガーンズバック]] (Hugo Gernsback) にちなんだ[[ヒューゴー賞|特別ヒューゴー賞]]が贈られた。 |
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[[File:Apollo 11 photo map.svg|thumb|right|着陸地点と写真の撮影場所を示した地図]] |
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[[9月16日]]には、3人は連邦合同議会の開催前にスピーチを行ない、月面に持って行った2枚の星条旗のうちの1枚を[[アメリカ合衆国上院|上院]]に、もう1枚を[[アメリカ合衆国下院|下院]]に渡した。 |
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およそ7時間の睡眠ののち、アームストロングとオルドリンはヒューストンからの目覚ましによって起こされ、帰還飛行の準備を始めるよう指示された。2時間半後の21日17:54:00(UTC)に2人は「イーグル」の上昇段エンジンを点火して月を離陸し、コリンズが搭乗している月周回軌道上の司令船「コロンビア」を目指した{{sfn|Orloff|2000|p=108}}。月面離陸時に「イーグル」の上昇段から撮影された映像には、月面に残された下降段から25フィート(8メートル)ほど離れた場所に立てられた星条旗が、上昇段エンジンの噴射で激しくはためく様子がとらえられていた。オルドリンはちょうど旗がぐらついて倒れるのを目撃し、「上昇を始めたとき、私はコンピュータの操作に集中し、ニールは[[姿勢指示器]]を注視していたが、私は旗が倒れるのを長い間見ていられた」と報告した{{sfn|Collins|Aldrin|1975|p=219}}。そのため、以後のアポロミッションでは、上昇段エンジンの噴射で吹き飛ばされることのないように、星条旗は着陸船から離れた位置に立てられることになった<ref>{{cite news |newspaper=The Daily Telegraph |url=https://www.telegraph.co.uk/news/science/space/9439047/American-flags-still-standing-on-the-Moon-say-scientists.html |date=June 30, 2012 |title=American flags still standing on the Moon, say scientists |access-date=September 24, 2018}}</ref>。 |
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=== 月軌道上の「コロンビア」 === |
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[[ファイル:Apollo11Smithonian.JPG|right|thumb|国立航空宇宙博物館に展示されているアポロ11号司令船]] |
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単独で月を周回する飛行を続けていた間、コリンズはまったく寂しさを感じることはなかった。「[[アダム]]以来、そのような孤独を知る者はいない」といわれているが{{sfn|Collins|2001|p=402}}、コリンズはそれを使命の一部だと強く感じていた。コリンズは自叙伝の中で、「この冒険は3人の男で構成されたものであり、3番手の私も、ほかの2人のいずれかと同様になくてはならないものなのだと思う」と記している{{sfn|Collins|2001|p=402}}。月を周回する「コロンビア」が月の裏側を飛行して、地球との無線連絡ができない48分間の間にコリンズが感じたのは、不安でも孤独でもなく、むしろ「意識、予感、満足、自信、歓喜に近い感覚」であったと綴っている{{sfn|Collins|2001|p=402}}。 |
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11号の司令船は、2009年現在[[ワシントンD.C.]]の[[国立航空宇宙博物館]]の中央展示ホールに、[[スピリット・オブ・セントルイス]]、[[ベルX-1]]、[[ノース・アメリカン]][[X-15 (航空機)|X-15]]、[[マーキュリー計画|マーキュリー宇宙船]][[マーキュリー・アトラス6号|フレンドシップ7]]、[[ジェミニ4号]]など、アメリカの航空史を開拓してきた機体とともに展示されている。隔離病棟、[[救命胴衣]]、[[天球儀]]などは[[ヴァージニア州]]の博物館に展示されている。 |
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コリンズの最初の任務のひとつに、月面上の月着陸船の位置を特定することがあった。どこを探せばよいかの見当をつけるために、ミッション管制センターはコリンズに月着陸船は目標地点から4マイル(6.4キロ)ほど離れた辺りに着陸したようだと無線で伝えた。コリンズは着陸地点と思しき辺りの上空を通過するたびに月着陸船を見つけようとしたが、不可能だった。初めて月の裏側を飛んだとき、コリンズは[[燃料電池]]によって生成された余分な水を捨てたり、アームストロングとオルドリンの帰りを迎えるために船室を整理整頓するなど、船内の環境整備活動を行った{{sfn|Collins|2001|pp=401–407}}。 |
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== 計画の表象 == |
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アポロ11号の徽章として最もよく知られているのは、コリンズがデザインしたものであろう(ページ先頭参照)。最初彼は「アメリカ合衆国による平和的な月面着陸」を象徴させるために、地球と月を背景に、[[オリーブ]]の枝を嘴(くちばし)にくわえた鷲を表象にしたが、戦闘的に見えるのではないかという意見が出たため、結局オリーブの枝は嘴から足の爪に移された。また「アポロXI」のような[[ローマ数字]]による表記は一部の国の人々には分かりづらいだろうという意見も出たため、計画名は「アポロ11」と[[アラビア数字]]で表記することに決定された。また飛行士たちは、「計画の徽章は月面着陸のために働いたすべての人々のものである」として、自らの名前を記入することは控えた<ref>徽章内には宇宙飛行士名を入れるのが以前からの通例となっており、これはその後のアポロや[[スカイラブ計画|スカイラブ]]・[[スペースシャトル計画|スペースシャトル]]計画等でも行われているため異例の措置となった。</ref>。前述のように着陸船は徽章に合わせてイーグルと命名され、数年後にアイゼンハワーの1[[ドル]]硬貨が再発行されたときには、コインの裏側にこの図案が起用された。[[1979年]]、11号の飛行から10周年を記念して発行されたスーザン・B・アンソニー1ドル硬貨でも、この徽章が使用された。 |
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3周目の周回で月の裏側に入る直前に、ミッション管制センターはコリンズに冷却液の温度に問題があると知らせた。冷却しすぎるようなことがあれば、「コロンビア」の部品が凍結してしまうかもしれなかった。ミッション管制センターは、手動制御に切り替えたうえで、環境制御システム故障時の手順17(Environmental Control System Malfunction Procedure 17)を実施するよう、コリンズに助言した。ところが、コリンズはその代わりとして、問題を引き起こしているシステムのスイッチを自動から手動に入れて、また自動に戻し、冷却剤の温度を注視しながらも、日課となっていた通常の管理保全作業を続行した。「コロンビア」が再び月の表側に出たときには、問題は解決したと報告することができた。それから次の2、3周は、月の裏側で過ごす時間が「ほっとする」("relaxing")時間だったとコリンズは記している。アームストロングとオルドリンがすべての船外活動を終えてからは、コリンズは来たるべきランデブーに備えて睡眠休憩をとることができた。「コロンビア」が「イーグル」を迎え入れる飛行計画に応じて、コリンズは一定の不測の事態に備えて「コロンビア」を「イーグル」のところまで降下させられるような準備ができていた{{sfn|Collins|2001|pp=406–408, 410}}。 |
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== LROから撮影されたアポロ11号の着陸地点 == |
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月周回衛星[[LRO]]によってアポロ11号の着陸地点が撮影され、月着陸船や、月面に設置した機器等が撮影され、[[2012年]]3月に公開された[http://lroc.sese.asu.edu/news/index.php?/archives/531-A-Stark-Beauty-All-Its-Own.html#extended 写真はこちら]。 |
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=== 帰還 === |
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[[File:Apollo 11 lunar module.jpg|thumb|right|司令船「コロンビア」に接近してくる「イーグル」の上昇段]] |
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7月21日21:24(UTC)に「イーグル」は「コロンビア」とランデブーし、21:35に2機はドッキングした。「イーグル」の上昇段は23:41に月周回軌道に投棄された{{sfn|Orloff|2000|p=109}}。[[アポロ12号]]の飛行の直前には、「イーグル」は依然として軌道上に留まっているようであることが確認されたが、のちに出されたNASAの報告書には、「イーグル」は軌道が次第に減衰した結果、月面の「不確かな場所」("uncertain location")に衝突したのだろうと記されている<ref>{{cite web |url=http://nssdc.gsfc.nasa.gov/planetary/lunar/apollo_tables.html |title=Apollo Tables |last=Williams |first=David R. |work=[[National Space Science Data Center]] |publisher=NASA |accessdate=September 23, 2006 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20061001125211/http://nssdc.gsfc.nasa.gov/planetary/lunar/apollo_tables.html |archivedate=October 1, 2006}}</ref>。 |
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7月22日04:56(UTC)にアポロ11号は機械船の推進エンジンを2分半噴射して{{sfn|ハンセン|2007|p=362}}月周回軌道を離れ{{sfn|毎日新聞社|1969|p=160}}、同日05:30(UTC)に月の裏側で地球帰還軌道に乗り ({{仮リンク|地球帰還軌道投入|en|Trans-Earth injection|label=TEI}}){{sfn|毎日新聞社|1969|p=173}}、地球への帰路に就いた。 |
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== 脚注 == |
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{{Reflist}} |
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7月23日、着水前の最後の夜に、3名の宇宙飛行士はテレビ放送で次のようにコメントした{{sfn|アームストロング|コリンズ|オルドリンJr.|1973|pp=385-387}}。最初にコリンズが、 |
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{{quote|……我々を軌道に乗せたサターンV型ロケットは信じられないほど複雑な機械ですが、すべての部品は完璧に動作してくれました……我々は常に、この装置が正しく作動してくれることを確信していました。これはすべて、多くの人々が流した血と汗と涙によってのみ、可能になったことです……今皆様が目にしているのは私たち3人だけですが、水面下では何千、何万もの人たちによって支えられているのです。そして私は、それらすべての人々に申し上げたいです。「心からありがとう」と。{{sfn|Collins|Aldrin|1975|p=222}}}} |
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と述べ{{sfn|ハンセン|2007|pp=365-366}}、続いてオルドリンが、 |
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{{quote|この飛行は、月に送られる使命を帯びた3人の男の奮闘以上に、政府と企業のチームの努力にとどまらず、さらには一国のすべての国民の努力さえも超えて、非常に大勢の方々のご尽力によって成し遂げられました。これは、未知なるものを探求する全人類の飽くなき好奇心を象徴しているのだと、私たちは感じています……個人的には、ここ数日のあの月での出来事を回想するとき、聖歌の一節が心に浮かんで参ります。《私はあなたの指の業なる天を見、あなたが設けられた月と星とを見て思います。人は何者なので、これを御心にとめられるのですか》{{sfn|Collins|Aldrin|1975|p=222}}<ref>{{Bibleverse|Psalm|8:3–4|KJV}}</ref>}} |
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と加え{{sfn|ハンセン|2007|p=367}}、最後にアームストロングが、 |
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{{quote|この飛行に対して責任を担ってきたのは、まず第一に、この取り組みに先立つ科学の歴史とそれを築き上げてきた偉人たち、次いで、自らの意思を通じてこれを成し遂げたいという願いを表明したアメリカ国民、そして、国民の意思に従い、それを履行した四代にわたる政権と連邦議会、さらに、我々の宇宙船やサターンロケット、司令船「コロンビア」、月着陸船「イーグル」、そして月面における小さな宇宙船とも言うべき宇宙服と生命維持装置、{{仮リンク|船外活動ユニット|en|Extravehicular Mobility Unit}}などを作り上げた政府機関や企業のチームなどです。我々は、この宇宙船を設計し、建造し、試験し、飛行させるために心血を注ぎ、持てる限りの能力を発揮してくれたすべてのアメリカ人に対し、特別の感謝を捧げたく存じます。我々は今夜、それらの方々に対して特別の感謝の言葉を申し上げるとともに、今夜この放送を見聞きしている人々に神の祝福があらんことを祈ります。アポロ11号より、おやすみなさい。{{sfn|Collins|Aldrin|1975|p=222}} }} |
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と締めくくった{{sfn|ハンセン|2007|p=368}}。 |
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地球への帰還に際して、グアムの追跡基地で装置の軸受が故障したことで、もしかすると地球帰還時の連絡に関して最後の一部分の受信が妨げられていた可能性があった。定期的な修復作業では与えられた時間内に作業を終えるのは不可能だったが、基地の主任だったチャールズ・フォースには10歳になる息子グレッグがいて、軸受箱の中にその小さな手を入れてグリスを塗ってもらって急場をしのいだ。お手柄のグレッグはのちにアームストロングから感謝された<ref>{{cite news |title=The 10-year-old who helped Apollo 11, 40 years later |last=Rodriguez |first=Rachel |url=https://edition.cnn.com/2009/TECH/space/07/20/apollo11.irpt/index.html |work=CNN |date=July 20, 2009 |accessdate=January 10, 2011}}</ref>。 |
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=== 着水と検疫 === |
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[[File:Splashdown 3.jpg|thumb|洋上に浮かぶコロンビア号と飛行士たちの下船を助ける海軍のダイバーら]] |
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6月5日、{{仮リンク|カール・J・セイバーリック|en|Carl J. Seiberlich}}大佐指揮下の[[航空母艦]][[ホーネット (CV-12)|ホーネット]]が、5月26日にアポロ10号を回収した姉妹艦の[[ヘリコプター揚陸艦]][[プリンストン (CV-37)|プリンストン]]に代わって、アポロ11号の主回収船(primary recovery ship、PRS)に選ばれた。当時、ホーネットは母港であるカリフォルニア州[[ロングビーチ (カリフォルニア州)|ロングビーチ]]にあった。7月5日に[[真珠湾]]に到着したホーネットは、アポロ宇宙船の回収任務を専門とする[[第4ヘリコプター海上戦闘飛行隊 (アメリカ海軍)|HS-4]]の[[SH-3 シーキング]]数機、{{仮リンク|水中爆破班|en|Underwater Demolition Team}}アポロ特派部隊(UDT Detachment Apollo)の専門ダイバーたち、NASAの回収班35人およびメディア関係者約120人を乗船させた。空間を確保するため、ホーネットの艦載機の多くはロングビーチに残してきていた。訓練用の{{仮リンク|ボイラープレート (宇宙船)|en|Boilerplate (spaceflight)|label=ボイラープレート}}(ダミーの宇宙船)を含む、特殊な回収用機材も積み込まれた{{sfn|Carmichael|2010|pp=38–43, 71–72}}。 |
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7月12日、アポロ11号がまだ発射台にあったころにホーネットは中部太平洋の回収海域({{Coord|10|36|N|172|24|E|display=inline}}付近<ref>{{cite web |url=https://history.nasa.gov/alsj/a11/A11_PressKit.pdf |title=Press Kit – Apollo 11 Lunar Landing Mission |publisher=NASA |p=57 |date=July 6, 1969 |access-date=October 11, 2018 }}</ref>)に向けて真珠湾を出港した{{sfn|Carmichael|2010|p=85}}。ニクソン大統領、ボーマン連絡担当官、{{仮リンク|ウィリアム・P・ロジャース|en|William P. Rogers}}[[アメリカ合衆国国務長官|国務長官]]、[[ヘンリー・キッシンジャー]][[国家安全保障問題担当大統領補佐官|国家安全保障担当補佐官]]からなる大統領一行は、[[エアフォースワン]]で[[ジョンストン島|ジョンストン環礁]]まで飛び、そこで[[指揮艦]][[サイパン (空母)|アーリントン]]艦上の[[マリーンワン]]に乗り込んだ。大統領一行は艦上で一夜を過ごしたあと、数時間の式典のためにマリーンワンでホーネットまで飛んだ。ホーネット艦上に到着すると、大統領一行は、ホーネットの艦上輸送機で[[パゴパゴ (アメリカ領サモア)|パゴパゴ]]から飛来していた[[アメリカインド太平洋軍|アメリカ太平洋軍]]最高司令官の[[ジョン・S・マケイン・ジュニア]]大将と[[NASA長官]]の{{仮リンク|トマス・O・ペイン|en|Thomas O. Paine}}からあいさつを受けた{{sfn|Carmichael|2010|pp=107–108, 145–146}}。 |
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当時、気象衛星はまだ一般的なものではなかったが、アメリカ空軍のハンク・ブランドリ大尉は最高機密である偵察衛星の画像にアクセスすることができた{{sfn|ハンセン|2007|pp=368-369}}。その衛星画像から暴風雨前線がアポロ宇宙船の回収海域に向かっていることが分かった。視界不良はこのミッションにとって深刻な脅威であった。もしヘリコプターが「コロンビア」の位置を特定できなければ、宇宙船と搭乗員、および月の石などの貴重な貨物が失われてしまうおそれがあった。ブランドリは、要保全許可{{efn2|機密情報の取扱許可}}(required security clearance)を有していた真珠湾の[[合同台風警報センター|艦隊気象センター]]の司令官、海軍のウィラード・S・ヒューストン・ジュニア大将に警報を発した。彼らの勧告に基づき、太平洋・有人宇宙船回収部隊(Manned Spaceflight Recovery Forces, Pacific)の司令官、{{仮リンク|ドナルド・C・デイヴィス|en|Donald C. Davis}}少将はNASAに回収海域を変更するよう忠告した{{sfn|ハンセン|2007|p=369}}。これにより、新たな回収海域が指定され{{sfn|Carmichael|2010|pp=136–137, 144–145}}、元の回収海域から北東に215海里(398キロメートル)の辺りで回収されることになった<ref name="ALSJ Re-entry" />。 |
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回収海域の変更は飛行計画にも影響を及ぼした。異なるシーケンスのコンピュータ・プログラムが使用されていたが、その1つは以前に試用されたことがなかった。従来の入力では、P64の次にP67が続いていたが、スキップアウトされた部分の再入力は、P65を用いて一旦終了したうえで、P66でスキップ部分を入力する方法が採られていた。この場合、それらは再入力部を展開していたが、実際にはスキップアウトしていなかったため、P66は呼び出されず、代わりにP65が直接P67を導いた。搭乗員も、P67を入力した場合、フルリフト(頭が下になる)姿勢にならないとの警告を受けていた<ref name="ALSJ Re-entry">{{cite web |url=https://history.nasa.gov/afj/ap11fj/26day9-reentry.html |work=Apollo 11 Flight Journal |title=Day 9: Re-entry and Splashdown |publisher=NASA |editor-first1=W. David |editor-last1=Woods |editor-first2=Kenneth D. |editor-last2=MacTaggart |editor-first3=Frank |editor-last3=O'Brien |access-date=September 27, 2018}}</ref>。飛行士たちは最初のプログラムの指令で{{convert2|6.5|g0}}の加速度を受け、2番目のプログラムで{{convert2|6.0|g0}}の加速度を体感させられることとなった{{sfn| Manned Spacecraft Center|1969|p=28}}。 |
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7月24日の夜明け前、ホーネットから4機のシーキング・ヘリコプターと3機の艦上早期警戒機[[E-1 (航空機)|E-1]]が発進した。うち2機のE-1は "air boss"(空中指揮機)に指定され、3機目は通信中継機として行動した。2機のシーキングはダイバーたちと回収用機材を輸送した。3機目は写真撮影機材を、4機目は除染を担当するスイマーと航空医官を、それぞれ輸送した{{sfn|Manned Spacecraft Center|1969|pp=169–170}}。16:44(UTC、現地時間05:44)に「コロンビア」の{{仮リンク|減速用パラシュート|en|Drogue parachute}}が開いたのをヘリコプターが確認した。7分後に「コロンビア」は船体を力強く水面に叩きつけられ、[[ウェーク島]]の東方2,660キロ(1,440海里)、ジョンストン環礁の南方380キロ(210海里)、ホーネットからの距離わずか24キロ(13海里)の地点({{Coord|13|19|N|169|9|W|display=inline}}{{sfn| Manned Spacecraft Center|1969|p=170}})に着水した<!-- 無出典の記述(現在、出典元を探しています!ご存じの方は出典の追加にご協力願います):このとき、[[日本航空]]の国際線旅客機の運行乗務員が、[[ミッドウェー諸島]]付近にて大気圏内を2000km/hで落下中のアポロ11号を目撃した。撮影に夢中で、客室への放送は忘れたという。 -->{{sfn|Orloff|2000|p=109}}<ref name="ALSJ Re-entry" />。[[着水]]{{enlink|splashdown}}時に「コロンビア」は上下逆さまに落下したが、飛行士たちが作動させた浮力袋によって10分以内に立て直された{{sfn| Manned Spacecraft Center|1969|pp=164–167}}。上空でホバリングする海軍のヘリコプターから下りてきたダイバーが、船が漂流することのないように「コロンビア」に[[海錨]]を取りつけた{{sfn|Carmichael|2010|pp=184–185}}。別のダイバーらは船を安定させるために「コロンビア」に浮揚環管を取りつけ、宇宙飛行士たちを下船させるためのボートを船の横につけた{{sfn|Carmichael|2010|pp=186–188}}。 |
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[[File:President Nixon welcomes the Apollo 11 astronauts aboard the U.S.S. Hornet.jpg|thumb|left|地球に帰還した後、[[検疫]]のために隔離施設に収容されるアポロ11号の搭乗員と、彼らを訪問するニクソン大統領]] |
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ダイバーらは宇宙飛行士たちに生物隔離服(biological isolation garment、BIG)を渡し、救命ボートに乗るのを補助した。月面から[[病原体]]を持ち帰る可能性はごくわずかだと考えられたが、NASAは念のため回収現場で予防措置をとった。宇宙飛行士たちは[[次亜塩素酸ナトリウム]]製剤を使用して身体を擦り拭かれ、「コロンビア」は船体に付着しているかもしれない月の塵を[[ポビドンヨード|ベタダイン]]を使って拭き取られた。宇宙飛行士たちはウインチで引き揚げられ、回収ヘリコプターに乗せられた。ホーネット艦上の隔離施設に到着するまでの間、宇宙飛行士たちは生物隔離服を着用させられた。除染物質を積んだボートは故意に沈められた{{sfn| Manned Spacecraft Center|1969|pp=164–167}}。 |
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ヘリコプターは17:53(UTC)にホーネット艦上に着地したあと、そのままエレベーターで格納庫へと下ろされ、そこで宇宙飛行士たちは{{仮リンク|移動式隔離施設|en|Mobile Quarantine Facility}}(Mobile Quarantine Facility、MQF)まで30フィート(9.1メートル)歩いて施設内に入り、地球ベースで21日分の[[検疫]]期間が開始されることになった{{sfn|Carmichael|2010|pp=199–200}}。この措置は、後続のアポロ12号と[[アポロ14号]]の2つのミッションでも実施されたが、のちに月に生命が存在しないことが証明されると、検疫措置は取りやめになった<ref>{{cite web |url=http://airandspace.si.edu/exhibitions/apollo-to-the-moon/online/a11.jh.3.html |archive-url=https://archive.is/20130815101507/http://airandspace.si.edu/exhibitions/apollo-to-the-moon/online/a11.jh.3.html |dead-url=yes |archive-date=August 15, 2013 |title=After Splashdown |date=July 1999 |work=Apollo to the Moon |publisher=National Air and Space Museum |location=Washington, D.C. |accessdate=August 15, 2013}}</ref>。ニクソン大統領は地球に帰還した宇宙飛行士たちを歓迎し、「君たちが成し遂げたことのおかげで、世界はこれまでになく一層親密になった」と伝えた<ref>{{cite web |url=https://www.presidency.ucsb.edu/documents/remarks-apollo-11-astronauts-aboard-the-uss-hornet-following-completion-their-lunar |access-date=November 19, 2018 |title=Remarks to Apollo 11 Astronauts Aboard the U.S.S. Hornet Following Completion of Their Lunar Mission |work=The American Presidency Project |publisher=UC Santa Barbara|date=July 24, 1969}}</ref>。 |
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ニクソンが出発したあと、ホーネットは重量5米トン(4.5トン)の「コロンビア」に近づいて舷側に寄せ、艦のクレーンを使って船を引き揚げ、{{仮リンク|ドリー (トレーラー)|en|Dolly (trailer)|label=台車}}に載せてMQFの隣まで運び込んだ。そして、「コロンビア」は伸縮可能なトンネルでMQFと接続され、月試料、フィルム、データテープおよびその他の積み荷が取り出された。ホーネットが真珠湾に帰港すると、そこでMQFは[[C-141 (航空機)|C-141]]に載せられて有人宇宙船センターまで空輸された。7月28日10:00(UTC)に宇宙飛行士たちは[[月試料研究所|月試料受入研究所]](Lunar Receiving Laboratory)に到着した。一方、「コロンビア」は不活性化のために[[フォード島]]に運ばれ、火工品類が安全に処理された。その後、[[ヒッカム空軍基地]]に運ばれ、そこから[[C-133 (航空機)|C-133]]でヒューストンに空輸されて7月30日に月試料受入研究所に到着した{{sfn| Manned Spacecraft Center|1969|pp=166, 171–173}}。 |
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7月16日にNASAが発布した一連の規定<ref>Extra-Terrestrial Exposure, 34 [[連邦官報|Fed. Reg.]] 11975 (July 16, 1969), ''codified at'' [[連邦航空規定|14 C.F.R.]] pt. [https://books.google.com/books?id=7rU5AAAAIAAJ&pg=PA94 1200]</ref>、{{仮リンク|地球外暴露法|en|Extra-Terrestrial Exposure Law}}に従い、検疫試験計画が成文化され、宇宙飛行士たちの検疫が続けられた。しかし、3週間の隔離(まず最初にアポロ宇宙船内で、次にホーネット艦上のMQF内で、最後に有人宇宙船センターの月試料受入研究所内で)を経て、宇宙飛行士たちに完全健康証明書が与えられた<ref>{{cite web |url=http://www.nasaexplores.com/extras/apollo11/hirasaki.html |archive-url=https://archive.is/20060319184027/http://www.nasaexplores.com/extras/apollo11/hirasaki.html |dead-url=yes |archive-date=March 19, 2006 |title=A Front Row Seat For History |date=July 15, 2004 |work=NASAexplores |publisher=NASA |accessdate=June 14, 2013}}</ref>。1969年8月10日にアトランタで、逆汚染に関する庁間委員会(Interagency Committee on Back Contamination)の会合が開かれ、宇宙飛行士たち、飛行士の検疫に従事した者たち(NASAの医官{{仮リンク|ウィリアム・カーペンティア|en|William Carpentier}}とMQFプロジェクト技師{{仮リンク|ジョン・ヒラサキ|en|John Hirasaki}}){{sfn|Carmichael|2010|p=118}}、およびコロンビア号自体の隔離がようやく解かれた。宇宙船から取り外せる備品は、月試料が研究用に公開されるまでの間、隔離されたままだった{{sfn|Ertel|Newkirk|Brooks|1978|p=312}}。 |
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=== 祝賀 === |
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[[File:Apollo 11 ticker tape parade 1.jpg|thumb|ニューヨーク市での祝賀パレードの様子]] |
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8月13日、ニューヨークとシカゴで、推計600万人の見物客を脇に見ながら、紙吹雪の舞う中、名誉ある盛大な祝賀パレードが挙行され、3人は歓迎と祝福を受けた<ref name="LADinner">{{cite web |title=Richard Nixon: Remarks at a Dinner in Los Angeles Honoring the Apollo 11 Astronauts |url=https://www.presidency.ucsb.edu/documents/remarks-dinner-los-angeles-honoring-the-apollo-11-astronauts |website=The American Presidency Project |accessdate=October 24, 2017 |date=August 13, 1969}}</ref><ref>{{cite news|url=https://www.newspapers.com/clip/27531303/the_evening_sun/|title=President Offers Toast to 'Three Brave Men'|newspaper=The Evening Sun|date=August 14, 1969|page=1|location=Baltimore, Maryland|via=Newspapers.com|agency=Associated Press}}</ref>。同日の晩にはロサンゼルスの{{仮リンク|センチュリー・プラザ・ホテル|en|The Century Plaza Hotel}}で、合衆国議会議員、44州の知事、[[アメリカ合衆国最高裁判所長官|合衆国最高裁判所長官]]、83か国の大使らが出席して、今回の飛行を記念する公式晩餐会{{enlink|state dinner}}が開かれた<ref name=LADinner/>。その席上で、ニクソン大統領とアグニュー副大統領から各宇宙飛行士の栄誉を称えて[[大統領自由勲章]]が授与された<ref name="LADinner" /><ref>{{cite news|url=https://www.newspapers.com/clip/27531557/the_honolulu_advertiser/|title=Astronauts Awed by the Acclaim|newspaper=The Honolulu Advertiser|location=Honolulu, Hawaii|page=1|date=August 14, 1969|last1=Smith|first1=Merriman|agency=UPI|via=Newspapers.com}}</ref>。 |
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1969年9月16日、3人の飛行士は[[アメリカ合衆国議会合同会議|合衆国議会上下両院合同会議]]の開会前にスピーチし、月面に持って行った2枚の星条旗のうちの片方を[[アメリカ合衆国下院|下院]]に、もう片方を[[アメリカ合衆国上院|上院]]に贈呈した<ref>{{cite web |url=http://history.house.gov/HistoricalHighlight/Detail/35693 |title=The Apollo 11 Crew Members Appear Before a Joint Meeting of Congress|access-date=March 3, 2018 |publisher=United States House of Representatives}}</ref>。アポロ11号によって月に持ち込まれた[[アメリカ領サモアの旗]]は、アメリカ領サモアの首都[[パゴパゴ (アメリカ領サモア)|パゴパゴ]]にある{{仮リンク|ジーン・P・ヘイドン博物館|en|Jean P. Haydon Museum}}に展示されている<ref>{{cite web |url=http://www.fodors.com/world/australia-and-the-pacific/american-samoa/things-to-do/sights/reviews/jean-p-haydon-museum-584573 |title=Jean P. Haydon Museum |publisher=Fodor's Travel |accessdate=March 5, 2018}}</ref>。 |
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この祝賀行事は38日間に及ぶ世界周遊の旅の始まりであった。この旅行中に3人の宇宙飛行士は22か国を歴訪{{refnest|group=注|旅程《ワシントンD.C./米国(9月29日)–メキシコシティ/メキシコ(9月29日-30日)–ボゴタ/コロンビア(9月30日-10月1日)–ブラジリア/ブラジル(10月1日)–ブエノスアイレス/アルゼンチン(10月1日-2日)–リオデジャネイロ/ブラジル(10月2日-4日)–ラス・パルマス/カナリア諸島(10月4日-6日)–マドリード/スペイン(10月6日-8日)–パリ/フランス(10月8日-9日)–アムステルダム/オランダ(10月9日)–ブリュッセル/ベルギー(10月9日-10日)–オスロ/ノルウェー(10月10日-12日)–ケルンとボンとベルリン/西ドイツ(10月12日-14日)–ロンドン/英国(10月14日-15日)–ローマ/イタリア(10月15日-18日)–ベオグラード/ユーゴスラビア(10月18日-20日)–アンカラ/トルコ(10月20日-22日)–キンシャサ/ザイール(10月22日-24日)–テヘラン/イラン(10月24日-26日)–ボンベイ/インド(10月26日-27日)–ダッカ/東パキスタン(10月27日-28日)–バンコク/タイ(10月28日-31日)–パース/オーストラリア(10月31日)–シドニー/オーストラリア(10月31日-11月2日)–アガナ/グアム(11月2日-3日)–ソウル/韓国(11月3日-4日)–東京/日本(11月4日-5日)–アラスカ州アンカレッジ・エルメンドルフ空軍基地/米国(11月5日)…(それから間隔を空けて)…オタワとモントリオール/カナダ(12月2日-3日)》<ref>{{cite web|url=https://history.nasa.gov/SP-4223/ch10.htm|title=SP-4223 "Before This Decade Is Out..." Chapter 10 Geneva B. BARNES (1933- )|work=NASA History Office|date=August 5, 2004|accessdate=February 11, 2019}}</ref>}}し、多くの国々の指導者たちを表敬訪問した<ref name="Apollo 11 Crew Starts World Tour">{{cite news|url=https://www.newspapers.com/clip/27494178/the_logan_daily_news/|title=Apollo 11 Crew Starts World Tour|agency=Associated Press|date=September 29, 1969|page=1|location=Logan, Ohio|newspaper=Logan Daily News|via=Newspapers.com}}</ref>。旅は9月29日から11月5日まで続いた<ref name="Apollo 11 Crew Starts World Tour"/><ref>{{cite news|url=https://www.newspapers.com/clip/27529119/the_los_angeles_times/|title=Japan's Sato Gives Medals to Apollo Crew|newspaper=Los Angeles Times|date=November 5, 1969|page=20|location=Los Angeles, California|via=Newspapers.com}}</ref><ref>{{cite news|url=https://www.newspapers.com/clip/27529322/the_sydney_morning_herald/|title=Australia Welcomes Apollo 11 Heroes|date=November 1, 1969|newspaper=The Sydney Morning Herald|location=Sydney, New South Wales|page=1|via=Newspapers.com}}</ref>。多くの国では、人類史上初の[[月面着陸]]の栄誉を称える雑誌の特集が組まれたり、アポロ11号の記念切手や記念硬貨が発行されたりした<ref>{{cite web |url=http://www.lunarhall.org/missions/apollo/11.html |title=Lunar Missions: Apollo 11 |date=2008 |website=Lunar Hall of Fame |archiveurl=https://web.archive.org/web/20081024222503/http://www.lunarhall.org/missions/apollo/11.html |archivedate=October 24, 2008 |deadurl=yes |accessdate=June 9, 2014}}</ref>。 |
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== 遺産 == |
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=== 文化的意義 === |
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人間が月面を歩き、安全に地球に帰還したことで、その8年前に設定されたケネディの目標は達成された。アポロ11号が着陸したとき、ミッション管制センターではケネディの演説が画面に映し出され、"TASK ACCOMPLISHED, July 1969"(「1969年7月、任務達成」)の文字が表示された<ref name=Launius />。アポロ11号の成功によってアメリカ合衆国がほかの国々よりも技術的に優位にあることが証明された<ref name=Launius>{{cite web|url=https://www.hq.nasa.gov/office/pao/History/Apollomon/Apollo.html|title=Project Apollo: A Retrospective Analysis|last1=Launius|first1=Roger D.|access-date=January 2, 2019}}</ref>。アポロ11号の成功をもって、アメリカは宇宙開発競争に勝利したのである{{sfn|Chaikin|2007|page=57}}{{sfn|Schefter|1999|p=288}}。 |
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それにともなって、英語には新しいフレーズが浸透した。アポロ11号にかけて "If they can send a man to the Moon, why can't they..." (「もしも彼らが人を月に送ることができるなら、なぜ彼らは...できないのか」転じて「人類に人を月に送り込む英知があるのなら、どんな問題だって解決できるさ」の意)という文句がよく使われる言い習わしとなった<ref>{{cite news |newspaper=Washington Post |title=We Put a Man on the Moon, So Why Can’t We...? |first=David |last=Beard |first2=Nick |last2=Kirkpatrick |date=July 17, 2014 |url=https://www.washingtonpost.com/news/post-nation/wp/2014/07/17/we-put-a-man-on-the-moon-so-why-cant-we/?noredirect=on&utm_term=.5d9dc2d89089 |access-date=January 4, 2018 }}</ref>。アームストロングが月面で発した名言も、数え切れないほど多くのパロディを派生させた{{sfn|Chaikin|2007|page=57}}。 |
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任務を達成したことが盛大に祝われた一方で、公民権を剥奪されたアメリカの人々はこれをアメリカの格差の象徴と見ていた。それはアポロ11号の打ち上げ前日にケネディ宇宙センターの外側で抗議する人たちがいたことに裏付けられた{{sfn|Schefter|1999|p=283}}。ただし、だからといって彼らがそのことに畏敬の念を抱いていないわけではなかった。抗議の行進を主導した{{仮リンク|ラルフ・アバナシー|en|Ralph Abernathy}}はアポロ11号のあまりに壮観な打ち上げに魅了され、抗議活動で何を言おうとしていたかを忘れてしまった{{sfn|Brooks|Grimwood|Swenson|1979|p=338}}。アポロ計画に費やす金があるなら、どうしてそれを地球上の人間の世話をするために使わないのかと思った市民らは、人種的および金銭的な不平等に不満を募らせた。[[ギル・スコット・ヘロン]]による "Whitey on the Moon" (「白んぼは月に行く」{{efn2|「白んぼ」とは黒人が白人を指して呼ぶ蔑称(差別用語)。}}の意)と題された詩は、宇宙開発競争で際立たせられた{{仮リンク|アメリカ合衆国における人種的不平等|en|Racial inequality in the United States}}を物語っている{{sfn|Chaikin|2007|p=57}}<ref>{{cite web|url=https://www.theatlantic.com/technology/archive/2011/05/gil-scott-herons-poem-whitey-on-the-moon/239622/|title=Gil Scott-Heron's Poem, 'Whitey on the Moon'|last1=Madrigal|first1=Alexis C.|date=May 28, 2011|access-date=January 3, 2019|publisher=The Atlantic}}</ref><ref name=whitey>{{cite web|url=https://www.huffingtonpost.com/matthis-chiroux/whitey-on-the-moon-again_b_1188220.html|title=Whitey on the Moon, Again?|date=March 11, 2012|last1=Chiroux|first1=Matthis|publisher=Huffington Post|access-date=January 3, 2019}}</ref>。この詩の歌い出しは次のようなものであった。 |
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{{col-float}} |
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{{Poemquote|A rat done bit my sister Nell. |
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(with Whitey on the moon) |
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Her face and arms began to swell. |
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(and Whitey’s on the moon) |
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I can’t pay no doctor bill. |
|||
(but Whitey’s on the moon) |
|||
Ten years from now I’ll be paying still. |
|||
(while Whitey’s on the moon)<ref name=whitey />}} |
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{{col-float-break}} |
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{{Poemquote|鼠が姉/妹ネルに噛み付いた |
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(白んぼは月に行くというのに) |
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彼女の顔と両腕が腫れ始めた |
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(それでも白んぼは月に行く) |
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俺らは医療費なんて払えない |
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(だけど白んぼは月に行く) |
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十年後も支払ってるだろうさ |
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(白んぼが月に行く間に)}} |
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{{col-float-end}} |
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世界の人口の20パーセントの人々が、人類が初めて月面を歩く瞬間を見ていたと言われている。アポロ11号は世界中の関心を集めたが、後続のアポロ・ミッションは国民の関心をつかむことはなかった<ref name=Launius />。このことは複雑さの変化で説明できそうである。人間を月に着陸させることは理解しやすい目標であったのに対し、月質学(月の地質学)は平均的な人にとってあまりにも抽象的すぎたのであった。また、ケネディの掲げた人類を月に着陸させる目標がすでに達成されてしまったこともその一因となった{{sfn|Chaikin|2007|p=58}}。目的が明確に定義されていたことはアポロ計画がその目標を達成する助けとなったが、目標が達成されたあととなっては、月飛行ミッションを継続する正当な理由を説明することが難しくなった<ref>{{cite journal|url=https://www.hq.nasa.gov/office/pao/History/SP-4214/ch14-7.html|title=Where No Man Has Gone Before: A History of Apollo Lunar Exploration Missions|journal=NASA Special Publication|volume=494|pages=420|last1=Compton|first1=William David|bibcode=1989NASSP.494..420C|year=1989}}</ref><ref>{{cite web|url=https://www.history.com/topics/space-exploration/apollo-11|title=Apollo 11|publisher=History|date=August 23, 2018|access-date=January 3, 2019}}</ref>。 |
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ほとんどのアメリカ人が宇宙探査で国家的目標を達成したことに誇りを持っていたころ、1960年代後半に一度だけ実施された[[ギャラップ (企業)|ギャラップ調査]](世論調査)では、アメリカ人の大多数が宇宙開発を「あまりしない」よりも「もっとする」ことを支持していたことが示された。しかし、1973年になるころには、59パーセントの人々が宇宙探査にかける費用を削減すべきだと回答するまでになった。米国とソ連が[[デタント]]の時代に入ると、宇宙開発競争は終わりを迎え、冷戦の緊張も緩和されていった。このころはちょうど[[インフレーション]]が始まった時期でもあり、支出を削減するよう政府に圧力がかけられた。宇宙計画が経費節減から救われたのは、それが何か偉大なことを成し遂げた数少ない政府の事業のひとつだったためである。抜本的に削減すれば、[[アメリカ合衆国行政管理予算局|行政管理予算局]]の副局長だった[[キャスパー・ワインバーガー]]に「我々にとっての絶好の時期が遅れている」とのメッセージを送ることになるかもしれないとして警戒された{{sfn|McCurdy|1997|pp=106–107}}。 |
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アポロ11号ミッションのあと、ソ連の当局者らは人間を月に着陸させるのは危険で不必要なことだったと発言した。当時ソ連は無人探査機を使って月の試料を回収しようとしていた。ただし、ソ連は公には月着陸競争の存在を否定しており、そのような試みがなかったことを示していた{{sfn|Chaikin|1994|p=631}}。ソ連の科学者[[ムスチスラフ・ケルディシュ]]は1969年7月に「我々は大規模な衛星システムの開発にすべてを注力しているところだ」と語った。月に人間を送り込もうとしていたが、技術的困難のために実現しなかったとソ連が明らかにしたのは1989年のことだった<ref>{{cite news|url=https://www.nytimes.com/1989/12/18/us/russians-finally-admit-they-lost-race-to-moon.html|title=Russians Finally Admit They Lost Race to Moon|last1=Wilford|first1=John Noble|date=December 18, 1989|newspaper=The New York Times}}</ref>。ソ連の一般の人々の反応は複雑なものであった。ソ連政府が(アポロ11号の)月面着陸に関する情報の公開を制限したことも人々の反応に影響を及ぼした。ソ連の民衆の一部はアポロの月面着陸に何ら関心を示さず、別の一部にはそのことに怒りを覚える者もいた<ref>{{cite web|url=https://www.scientificamerican.com/article/apollo-moon-khrushchev/|title=The Moon Landing through Soviet Eyes: A Q&A with Sergei Khrushchev, son of former premier Nikita Khrushchev|publisher=Scientific American|date=July 16, 2009|access-date=January 7, 2019|last1=Das|first1=Saswato R.}}</ref>。 |
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=== 宇宙船 === |
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[[File:Apollo 11 Columbia.png|thumb|left|[[国立航空宇宙博物館]]の Milestones of Flight 展示ホールに展示されたコロンビア号]][[File:Apollo 11 Mobile Quarantine Facility at the Steven F Udvar-Hazy Center in 2009.jpg|thumb|right|[[スティーブン・F・ウドバー=ハジー・センター]]に展示されているアポロ11号の移動式隔離施設(2009年)]] |
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[[ファイル:Recovered_F-1_Engine_parts_.jpg|サムネイル|ミュージアム・オブ・フライトで展示されているF-1エンジン。]] |
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地球に帰還した司令船「コロンビア」はアメリカの49州の州都と首都[[ワシントンD.C.|コロンビア特別区]]およびアラスカ州[[アンカレッジ]]で巡回展示された<ref>{{cite web |title=The Last Time the Command Module ''Columbia'' Toured |date=February 25, 2017 |first=Allan |last=Needell |url=https://airandspace.si.edu/stories/editorial/last-time-command-module-columbia-toured |publisher=National Air and Space Museum |access-date=November 9, 2018 }}</ref>。その後、1971年に[[スミソニアン協会]]に移管され、ワシントンD.C.にある[[国立航空宇宙博物館]](National Air and Space Museum、NASM)で展示された<ref>{{cite web |url=https://airandspace.si.edu/collection-objects/command-module-apollo-11 |title=Apollo 11 Command Module Columbia |access-date=November 9, 2018|publisher=National Air and Space Museum}}</ref>。「コロンビア」が展示された場所は同博物館のジェファーソン・ドライブ入口正面にある中央のMilestones of Flight展示ホールで、メインホールにはほかに、[[ライトフライヤー号]]、[[スピリットオブセントルイス号]]、[[X-1 (航空機)|ベルX-1]]、[[X-15 (航空機)|ノースアメリカンX-15]]、[[マーキュリー計画|マーキュリー宇宙船]]・[[マーキュリー・アトラス6号|フレンドシップ7号]]など、アメリカの航空宇宙史を開拓してきた機体が展示されている<ref>{{cite web |url=https://airandspace.si.edu/about/history/museum-dc |title=Museum in DC |publisher=National Air and Space Museum |access-date=September 25, 2018|date=May 3, 2016 }}</ref>。 |
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2017年に「コロンビア」はバージニア州シャンティリーにある{{仮リンク|スティーブン・F・ウドバー=ハジー・センター|en|Steven F. Udvar-Hazy Center}}のメアリー・ベイカー・エンゲン修復用格納庫(NASM Mary Baker Engen Restoration Hangar)に移され、アポロ11号の月面着陸50周年を記念して4都市で開催される''Destination Moon: The Apollo 11 Mission''(目的地・月:アポロ11号の使命)と題した巡回展に向けて準備が進められた。この巡回展は、2017年10月14日から2018年3月18日まで[[スペースセンター・ヒューストン]]にて、2018年4月14日から同年9月3日まで{{仮リンク|セントルイス科学センター|en|Saint Louis Science Center}}にて、2018年9月29日から2019年2月18日まで[[ピッツバーグ]]の{{仮リンク|ハインツ歴史センター|en|Heinz History Center}}にて、2019年3月16日から同年9月2日まで[[シアトル]]の{{仮リンク|航空博物館|en|Museum of Flight}}にて、それぞれ開催される<ref>{{cite web |title=Apollo 11 Command Module Columbia |url=https://airandspace.si.edu/collection-objects/command-module-apollo-11 |publisher=National Air and Space Museum |accessdate=August 27, 2017|date=March 21, 2016 }}</ref><ref>{{cite magazine |url=http://www.airspacemag.com/daily-planet/apollo-11-artifacts-go-tour-180962247/#vdLWIR4Sfofhv24g.99 |title=Apollo 11 Moonship To Go On Tour |first=Rebecca |last=Maksel |magazine=Air and Space Magazine |date=February 22, 2017 |accessdate=August 27, 2017}}</ref>。 |
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アームストロングとオルドリンの宇宙服は40年間、同博物館内のApollo to the Moonコーナーに展示されていた<ref>{{cite web |url=https://airandspace.si.edu/exhibitions/apollo-moon |title=Apollo to the Moon |publisher=National Air and Space Museum |access-date=September 25, 2018|date=March 20, 2003 }}</ref> が、2018年12月3日をもって同展示コーナーは永久に閉鎖され、それに代わる新しい展示コーナーが2022年にオープンする予定である。アームストロングの宇宙服は2019年7月にアポロ11号が50周年を迎えるのに合わせて特別展示されることが企画されている<ref>{{cite web |url=http://www.collectspace.com/news/news-113018a-nasm-apollo-moon-closure.html |title='Apollo to the Moon' no more: Air and Space Museum closes gallery |publisher=collectSPACE |access-date=December 16, 2018 }}</ref>。隔離施設、浮揚環管、転覆した船体の立て直しに用いられた浮力球は、バージニア州シャンティリーの[[ワシントン・ダレス国際空港]]に近いスミソニアン協会のスティーブン・F・ウドバー=ハジー・センターの別館にあり、月着陸船の試験機とともに展示されている<ref>{{cite web |url=https://airandspace.si.edu/collection-objects/mobile-quarantine-facility |title=Mobile Quarantine Facility |publisher=National Air and Space Museum |access-date=September 30, 2018|date=March 20, 2016 }}</ref><ref>{{cite web |url=https://airandspace.si.edu/collection-objects/flotation-collar-apollo-11 |title=Apollo 11 Flotation Collar |publisher=National Air and Space Museum |access-date=September 30, 2018|date=March 20, 2016 }}</ref><ref>{{cite web |url=https://airandspace.si.edu/newsroom/press-releases/national-air-and-space-museum-moves-apollo-artifact-future-home |title=National Air and Space Museum Moves Apollo Artifact to Future Home |publisher=National Air and Space Museum |access-date=September 25, 2018|date=September 15, 2015 }}</ref>。 |
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月着陸船「イーグル」の下降段は月面に残されたままである。2009年、[[ルナー・リコネサンス・オービター]](Lunar Reconnaissance Orbiter、LRO)が、歴代のアポロ宇宙船の着陸地点を、月着陸船の下降段、科学観測機器、宇宙飛行士の足跡などを見分けられるほど十分に高い解像度で、初めて画像化することに成功した<ref>{{cite web |url=https://www.nasa.gov/mission_pages/LRO/multimedia/lroimages/apollosites.html |title=LRO Sees Apollo Landing Sites |publisher=NASA |access-date=September 25, 2018|date=July 17, 2009 }}</ref>。上昇段の遺物は、投棄されて月に衝突したあと、月の表面の不明な場所にあると推定されている。場所が不確かである理由は、「イーグル」上昇段は投棄されたあとに追跡されていなかったこと、そして月の重力場が十分に一様ではないために、少々時間を置いたあとでは宇宙船の軌道が予測不可能になってしまうことによる<ref>{{cite web |url=https://airandspace.si.edu/explore-and-learn/topics/apollo/apollo-program/spacecraft/location/lm.cfm?dom=pscau |title=Location of Apollo Lunar Modules |publisher=National Air and Space Museum |access-date=September 24, 2018}}</ref>。 |
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2012年3月、[[Amazon.com|Amazon]]の創業者[[ジェフ・ベゾス]]から資金提供を受けた専門家チームによって、アポロ11号を宇宙へと打ち上げたサターンVの[[S-IC]]段から[[F-1ロケットエンジン|F-1エンジン]]の場所が突き止められ、実際に先進的な走査型超音波探知機を用いて大西洋の海底で5基のエンジンが発見された<ref>{{cite news |title=Amazon boss Jeff Bezos 'finds Apollo 11 Moon engines' |url=https://www.bbc.co.uk/news/world-us-canada-17544565 |work=BBC News |location=London |date=March 28, 2012 |accessdate=June 14, 2013}}</ref>。そして、5基のうち2基の部品が引き揚げられた。2013年7月、そのうちの1基のエンジンの錆びついた表面の下にシリアルナンバーが記載されているのを管理人が発見し、NASAはそれがアポロ11号の打ち上げで使われたものであることを確認した<ref>{{cite news |url=https://www.washingtonpost.com/news/innovations/wp/2013/07/19/bezos-expeditions-retrieves-and-identifies-apollo-11-engine-5-nasa-confirms-identity/ |title=Bezos Expeditions retrieves and identifies Apollo 11 engine #5, NASA confirms identity |last=Kolawole |first=Emi |date=July 19, 2013 |accessdate=February 13, 2017|work=The Washington Post}}</ref><ref>{{cite news|url=https://www.newspapers.com/clip/26447397/albuquerque_journal/|title=Apollo 11 engine find confirmed|newspaper=Albuquerque Journal|date=July 21, 2013|page=5|via=Newspapers.com|location=Albuquerque, New Mexico}}</ref>。エンジンは修復された後、シアトルの{{仮リンク|ミュージアム・オブ・フライト|en|Museum of Flight}}に寄贈され一般公開されている。 |
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アポロ11号の月遷移投入に能力を発揮したサターンVの第三段[[S-IVB]]は、地球の公転軌道に近い、太陽周回軌道上に留まっている<ref>{{cite web |url=https://nssdc.gsfc.nasa.gov/nmc/spacecraftDisplay.do?id=1969-059B |title=Apollo 11 SIVB NSSDCA/COSPAR ID: 1969-059B |archive-url=https://web.archive.org/web/20170219055609/https://nssdc.gsfc.nasa.gov/nmc/spacecraftDisplay.do?id=1969-059B |archive-date=February 19, 2017 |publisher=NASA|access-date=December 30, 2018}}</ref>。 |
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=== 月の石 === |
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アポロの月の石のおもな保管場所は、テキサス州[[ヒューストン]]のジョンソン宇宙センター内の{{仮リンク|月試料実験室施設|en|Lunar Sample Laboratory Facility}}にある。安全に保管するために、ニューメキシコ州[[ラスクルーセス]]近郊の{{仮リンク|ホワイトサンズ試験施設|en|White Sands Test Facility}}にも、より小規模なコレクションが収蔵されている。月の石のほとんどは湿気ないように窒素の中に保存されている。取り扱う際は直接手で触れないように、特殊な用具が使われる。世界中の100以上の研究実験室がこの試料に関する研究を実施しており、毎年およそ500点の試料が用意され、研究者に発送されている<ref>{{cite web |url=https://curator.jsc.nasa.gov/lunar/lun-fac.cfm |title=Lunar Sample Laboratory Facility |publisher=NASA |access-date=September 25, 2018}}</ref><ref>{{cite news |url=https://world.wng.org/2016/09/the_mystery_of_the_missing_moon_rocks |title=The mystery of the missing Moon rocks |publisher=World |first=Kristen |last=Flavin |date=September 10, 2016 |access-date=September 25, 2018}}</ref>。 |
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1969年11月にニクソンは、135か国とアメリカ合衆国の50州および属領、ならびに国際連合に贈呈する{{仮リンク|アポロ11号月試料展示品|en|Apollo 11 lunar sample display}}を約250点作るよう、NASAに依頼した。各展示品にはアポロ11号が持ち帰った月の塵が含まれていた。米粒程度の大きさの粒子は月の土の4つの小片で、重さは約50ミリグラムあり、[[50セント硬貨 (アメリカ合衆国)|アメリカ合衆国の50セント硬貨]]と同じくらいの大きさの透明なアクリル製のバッジに覆われていた。このアクリル製のバッジによって月の塵の粒子は拡大されて見えるようになっている。アポロ11号の月試料展示品は1970年にニクソンより親善の品として贈呈された<ref>{{cite web |url=http://www.collectspace.com/resources/moonrocks_apollo11.html |title=Where today are the Apollo 11 goodwill lunar sample displays? |first1=Robert |last1=Pearlman |authorlink=Robert Pearlman |publisher=collectSPACE |accessdate=November 2, 2012}}</ref><ref>''Earth'' magazine, March 2011, pp. 42–51</ref>。 |
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受動的地震実験(Passive Seismic Experiment、PSE)の実験装置は、1969年8月25日に地上局からの指令アップリンクが使えなくなるまで運用された。ダウンリンクは1969年12月14日に途絶えた{{sfn|Bates|Lauderdale|Kernaghan|1979|pp=2-3, 4-32}}。2018年時点で、[[月レーザー測距実験]](Lunar Laser Ranging experiment)は運用が続けられている<ref>{{cite news |url=https://www.palmbeachpost.com/news/report-humans-have-left-500-000-pounds-trash-the-moon/8UcB7ECGVXSLyMWrdhqk1L/ |title=Report: Humans have left 500,000 pounds of 'trash' on the Moon |newspaper=Palm Beach Post |date=March 5, 2018 |first=Chelsea |last=Todaro |access-date=September 27, 2018}}</ref>。 |
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=== 40周年記念行事 === |
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[[File:Apollo 11 Command Module in Hangar.jpg|thumb|left|メアリー・ベイカー・エンゲン修復用格納庫で修理中の「コロンビア」]] |
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2009年7月15日に[[ライフ (雑誌)|Life.com]]は、同誌の写真家だった{{仮リンク|ラルフ・モース|en|Ralph Morse}}がアポロ11号の打ち上げに先立って撮影した宇宙飛行士の未公表写真をウェブ上の写真ギャラリーで公開した<ref>{{cite news |url=http://life.time.com/history/photos-up-close-with-apollo-11/#1 |title=LIFE: Up Close With Apollo 11 |work=[[ライフ (雑誌)|Life]] |accessdate=June 14, 2013 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130521161407/https://life.time.com/history/photos-up-close-with-apollo-11/ |archivedate=May 21, 2013}}</ref>。2009年7月16日から24日まで、NASAはアポロ11号ミッションで流れた本物の音声を40年前の月飛行の実時間に合わせてストリーミング配信した<ref>{{cite web |url=http://www.nasa.gov/mission_pages/apollo/40th/apollo11_audio.html |title=Apollo 11 Onboard Audio |work=Apollo 40th Anniversary |publisher=NASA |accessdate=June 14, 2013|date=July 26, 2013 }}</ref>。さらに、当時のビデオフィルムの復元作業が進められており、重要な場面を集めた予告編が公開されている<ref>{{cite web |url=http://www.nasa.gov/multimedia/hd/apollo11_hdpage.html |title=Apollo 11 Partial Restoration HD Videos (Downloads) |editor-last=Garner |editor-first=Robert |publisher=NASA |accessdate=June 14, 2013|date=March 16, 2015 }}</ref>。2010年7月、アポロ11号が月へ降下して着陸するまでの間に宇宙から地球に伝送されたミッション管制センターの音声録音とフィルム映像が再同調され、初めて公開された<ref>{{Cite news |title=Sound restored to mission control film shot during Apollo 11 Moon landing |first=Christopher |last=Riley |url=https://www.theguardian.com/science/blog/2010/jul/20/sound-apollo-11-moon-landing |work=[[The Guardian]] |location=London |date=July 20, 2010 |accessdate=July 11, 2013}}</ref>。{{仮リンク|ジョン・F・ケネディ大統領図書館・博物館|en|John F. Kennedy Presidential Library and Museum}}は、アポロ11号が打ち上げられてから月に着陸するまでの交信記録を再放送する[[Adobe Flash]]ウェブサイトを立ち上げた<ref>{{cite web |url=http://wechoosethemoon.org/|archive-url=https://web.archive.org/web/20090617230719/http://wechoosethemoon.org/|dead-url=yes|archive-date=June 17, 2009 |title=We Choose the Moon |publisher=[[ジョン・F・ケネディ大統領図書館・博物館|John F. Kennedy Presidential Library and Museum]] |accessdate=July 19, 2009}}</ref>。 |
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2009年7月20日、アポロ11号の搭乗員だったアームストロング、オルドリン、コリンズの3名は、ホワイトハウスで[[バラク・オバマ]]大統領と面会した<ref>{{cite web |url=http://www.nasa.gov/multimedia/imagegallery/image_feature_1422.html |title=Apollo 11 Crew Meets With President Obama |date=July 20, 2009 |work=Image of the Day Gallery |publisher=NASA |accessdate=June 9, 2014}}</ref>。オバマは「私たちが話しているように、向こうで空を見上げる別世代の子どもたちが、次なるアームストロング、コリンズ、オルドリンになろうとすることを期待しています」と述べ、「彼らが(月への)旅路につきたいとき、彼らのためにNASAがそこを目指していることを確実にしておきたい」と加えた<ref>{{cite news |url=https://www.nytimes.com/2009/07/21/science/space/21obama.html |work=The New York Times |first=Jeff |last=Zeleny |title=Obama Hails Apollo Crew From a Lens of Childhood |date=July 21, 2009}}</ref>。2009年8月7日、合衆国議会の法令により、アメリカで文民に贈られる最高位の賞である[[議会名誉黄金勲章|議会黄金勲章]]がこの3名の宇宙飛行士に授与された。この法案は、フロリダ州選出の上院議員[[ビル・ネルソン]]と、同じくフロリダ州選出の下院議員{{仮リンク|アラン・グレイソン|en|Alan Grayson}}に支持されたものだった<ref>{{cite web |url=http://www.opencongress.org/bill/111-s951/text |title=Text of S.951 as Engrossed in Senate: New Frontier Congressional Gold Medal Act – U.S. Congress – OpenCongress |publisher=OpenCongress.org |accessdate=June 14, 2013 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121103063854/https://www.opencongress.org/bill/111-s951/text |archivedate=November 3, 2012}}</ref><ref>{{cite web |url=http://www.opencongress.org/bill/111-h2245/text |title=Text of H.R.2245 as Enrolled Bill: New Frontier Congressional Gold Medal Act – U.S. Congress – OpenCongress |publisher=OpenCongress.org |accessdate=June 14, 2013 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20121103064013/https://www.opencongress.org/bill/111-h2245/text |archivedate=November 3, 2012}}</ref>。 |
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イギリスの科学者グループは、40周年記念行事の一環として行われたインタビューで、月面着陸の意義に反応して次のように答えた。 |
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{{quote|(月面着陸は)危険を冒しながらも、技術的に素晴らしい方法で実行されました……今日のリスク回避的世界{{sfn|ビゾニー|2009|loc=§4 リスクの要素}}にあっては、あれは想像もつかないことだったように思います……アポロ計画は今までに人類が達成した中でもっとも偉大な技術的業績だと言ってよいでしょう……アポロ以後、アームストロング、オルドリンと彼らの後に続いたほかの10名の宇宙飛行士たちが生み出したような興奮に近いものがありません<ref>{{Cite news |title=Moon landings: British scientists salute space heroes |url=https://www.telegraph.co.uk/science/space/5848707/Moon-landings-British-scientists-salute-space-heroes.html |work=[[The Daily Telegraph]] |location=London |date=July 17, 2009 |accessdate=June 14, 2013 |deadurl=yes |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130308224145/https://www.telegraph.co.uk/science/space/5848707/Moon-landings-British-scientists-salute-space-heroes.html |archivedate=March 8, 2013 |df=mdy}}</ref>。|||}} |
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=== 50周年記念行事 === |
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{{see also|{{仮リンク|アポロ11号50周年記念硬貨|en|Apollo 11 Fiftieth Anniversary commemorative coins}}}} |
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2015年6月10日、アメリカ合衆国の{{仮リンク|ビル・ポージー|en|Bill Posey}}議員(共和党・フロリダ州選出)は、[[アメリカ合衆国下院|合衆国議会下院]]の第114会期にて、[[アメリカ合衆国造幣局|合衆国造幣局]]に対し、アポロ11号ミッションの50周年を記念して、金、銀および被覆金属を使用した記念硬貨をデザインして発行するよう指示する決議案(H.R. 2726)を提出した。2019年1月24日、合衆国造幣局は公式ウェブサイト上で記念硬貨を一般に公開した<ref>{{USPL|114|282}}</ref><ref>{{Cite web|url=https://www.usmint.gov/learn/coin-and-medal-programs/commemorative-coins/apollo-11-50th-anniversary|title=Apollo 11 50th Anniversary Commemorative Coin Program|website=United States Mint|access-date=February 1, 2019}}</ref>。 |
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=== その他 === |
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[[ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム]]にはアポロ11号の宇宙飛行士のための丸い星が、ハリウッド・バイン(交差点)の四方にある。これはアポロ宇宙船の月面着陸が「テレビ放送業界に貢献」したという意味からである{{要出典|date=2024年6月}}。 |
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== 陰謀論 == |
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{{main|アポロ計画陰謀論}} |
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アポロ11号の月面着陸は人類史にとって輝かしい成果を残したが、その一方で、これがねつ造であったとする主張がある。この[[陰謀論]]を信じる者は世界中に数多く存在しており、ねつ造であったと実証を試みるウェブサイトも数多くある。彼らが唱える主張は以下の通りである{{efn2|下記に記す主張はアポロ計画陰謀論のごく一部であり、下記以外にも無数にある。詳しくは当該記事を参照。}}。 |
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*アポロ11号の月面着陸は嘘であり、その様子とされる映像や[[写真]]は、[[ハリウッド]]の[[スタジオ]]で撮影された。 |
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*[[NASA]]にはアポロのような途方もない計画を成功させる技術的ノウハウはなかった。 |
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*[[宇宙飛行士]]だったら[[宇宙線]]で焼かれて死んでいるはずなので、月面に着陸していたとしてもそれは人間ではなかった。 |
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*月面着陸には[[宇宙人]]が関与しており、宇宙飛行士らが発見した[[月]]の[[文明]]と共に隠ぺいされた。 |
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*月面での活動の様子とされる写真やビデオ映像におかしな点がいくつもある。 |
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これらの主張は、[[科学者]]によって[[反証]]されており、誤りであることが明らかになっている<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3234496|title=月面着陸はうそ? アポロ11号を取り巻く陰謀論|date=2019-07-12|publisher=AFP通信|accessdate=2020-05-04}}</ref>。 |
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== 注釈 == |
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{{Notelist2}} |
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== 出典 == |
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{{Reflist|30em}} |
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{{Include-NASA}} |
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== 参考文献 == |
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=== 洋書 === |
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{{refbegin|30em}} |
|||
* {{cite book2 |df=ja |last1=Aldrin|first1=Buzz|author-link=バズ・オルドリン|last2=Abraham|first2=Ken|publisher=National Geographic|isbn=978-1-4262-1649-7|title=No Dream is Too High: Life Lessons from a Man who Walked on the Moon|location=Washington D.C.|year=2016|oclc=1023166907}} |
|||
* {{cite report |df=ja |last=Bates |first=James R. |last2=Lauderdale |first2=W. W. |last3=Kernaghan |first3=Harold |title=ALSEP Termination Report |date=April 1979 |publisher=NASA |location=Washington, DC |id=1036 |url=https://nssdc.gsfc.nasa.gov/misc/documents/b32116.pdf |format=PDF}} |
|||
* {{cite book2 |df=ja |last=Benson |first=Charles D. |last2=Faherty |first2=William B. |title=Moonport: A History of Apollo Launch Facilities and Operations |date=1978 |id=SP-4204 |publisher=NASA |location=Washington, DC |url=https://ntrs.nasa.gov/archive/nasa/casi.ntrs.nasa.gov/19790003956.pdf |format=PDF}} |
|||
* {{cite book2 |df=ja |last=Bilstein |first=Roger E. |title=Stages to Saturn: A Technological History of the Apollo/Saturn Launch Vehicle |year=1980 |publisher=NASA |id=SP-4206 |series=NASA History Series |url=https://ntrs.nasa.gov/archive/nasa/casi.ntrs.nasa.gov/19970009949.pdf |format=PDF}} |
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* {{cite book2 |df=ja |last1=Borman |first1=Frank |author-link=フランク・ボーマン |last2=Serling |first2=Robert J. |title=Countdown: An Autobiography |date=1988 |publisher=Silver Arrow |location=New York |isbn=978-0-688-07929-1 |oclc=937625026}} |
|||
* {{cite book2 |df=ja |last1=Brooks |first1=Courtney G. |last2=Grimwood |first2=James M. |last3=Swenson |first3=Loyd S. Jr. |title=Chariots for Apollo: A History of Manned Lunar Spacecraft |url=https://www.nasa.gov/wp-content/uploads/2023/03/sp-4205.pdf |accessdate=July 20, 2010 |series=NASA History Series |date=1979 |publisher=Scientific and Technical Information Branch, NASA |location=Washington, D.C. |isbn=978-0-486-46756-6 |oclc=4664449 |lccn=79001042 |id=SP-4205}} |
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* {{cite journal2 |df=ja |last=Cappellari |first=J.O. Jr. |title=Where on the Moon? An Apollo Systems Engineering Problem |journal=Bell System Technical Journal |volume=51 |issue=5 |pages=955–1126 |date=May–June 1972 |issn=0005-8580 |doi=10.1002/j.1538-7305.1972.tb02642.x |oclc=17779623}} |
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* {{cite book2 |df=ja |last1=Carmichael |first1=Scott W. |title=Moon Men Return: USS ''Hornet'' and the Recovery of the Apollo 11 Astronauts |date=2010 |publisher=Naval Institute Press |location=Annapolis, Maryland |isbn=978-1-59114-110-5 |oclc=562772897}} |
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* {{cite book2 |df=ja |last=Chaikin |first=Andrew |title=A Man on the Moon: The Triumphant Story Of The Apollo Space Program |date=1994 |publisher=Penguin Group |location=New York |isbn=978-0-14-027201-7 |oclc=890357362}} |
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* {{cite book2 |df=ja |last1=Chaikin |first1=Andrew |contribution=Live from the Moon: The Societal Impact of Apollo |url=https://www.nasa.gov/wp-content/uploads/2023/03/sp-4801.pdf |format=PDF |title=Societal Impact of Spaceflight |editor-first1=Steven J. |editor-last1=Dick |editor-first2=Roger D. |editor-last2=Launius |publisher=NASA |location=Washington, D.C. |year=2007 |id=SP-4801 |oclc=175218028}} |
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* {{cite book2 |df=ja |last1=Collins |first1=Michael |authorlink1=マイケル・コリンズ (宇宙飛行士) |last2=Aldrin |first2=Edwin E. Jr. |authorlink2=バズ・オルドリン |editor-last=Cortright |editor-first=Edgar M |contribution=The Eagle Has landed |pp=203–224 |title=Apollo Expeditions to the Moon |url=https://www.hq.nasa.gov/pao/History/SP-350/cover.html |accessdate=June 13, 2013 |date=1975 |publisher=NASA |location=Washington, D.C. |oclc=1623434 |id=SP-350}} |
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* {{cite book |last=Collins |first=Michael |authorlink=マイケル・コリンズ (宇宙飛行士) |origyear=1974 |date=2001 |title=Carrying the Fire: An Astronaut's Journeys |publisher=Cooper Square Press |location=New York |isbn=978-0-8154-1028-7 |lccn=2001017080 |oclc=45755963 |ref=harv}} |
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* {{cite book2 |df=ja |last=Collins|first=Michael |authorlink=マイケル・コリンズ (宇宙飛行士) |origyear=1976 |date=1994 |title=Flying to the Moon: An Astronauts Story |publisher=Square Fish |isbn=9780374423568 |location=New York |oclc=29388756}} |
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* {{cite book2 |df=ja |last=Cortright |first=Edgar M |editor-last=Cortright |editor-first=Edgar M |title=Apollo Expeditions to the Moon |contribution=Scouting the Moon |pp=79–102 |url=https://www.hq.nasa.gov/pao/History/SP-350/cover.html |accessdate=June 13, 2013 |date=1975 |publisher=NASA |location=Washington, D.C. |oclc=1623434 |id=SP-350}} |
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* {{cite book2 |df=ja |last=Cunningham |first=Walter |author-link=ウォルター・カニンガム |year=2010 |isbn=978-1-876963-24-8 |title=The All-American Boys|orig-year=1977 |publisher=ipicturebooks |oclc=713908039}} |
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* {{cite web2 |df=ja |last1=Ertel |first1=Ivan D. |last2=Newkirk |first2=Roland W. |last3=Brooks |first3=Courtney G. |title=The Apollo Spacecraft – A Chronology. Vol. IV. Part 3 (1969 3rd quarter) |url=https://www.nasa.gov/wp-content/uploads/2023/03/sp-4009vol4.pdf |id=SP-4009 |location=Washington, D.C. |publisher=NASA |accessdate=2017-10-24 |year=1978}} |
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* {{cite journal2 |df=ja |last1=Hamilton |first1=Margaret H. |author-link=マーガレット・ハミルトン (科学者) |last2=Hackler |first2=William R. |date=December 2008 |title=Universal Systems Language: Lessons Learned from Apollo |volume=41 |issue=12 |pages=34–43 |journal=Computer |issn=0018-9162 |doi=10.1109/MC.2008.541}} |
|||
* {{cite book2 |df=ja |last=Hansen |first=James R. |title=First Man: The Life of Neil A. Armstrong |date=2005 |publisher=Simon & Schuster |location=New York |isbn=978-0-7432-5631-5 |lccn=2005049992 |oclc=937302502}} |
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* {{cite book2 |df=ja |last=Harland |first=David |title=Exploring the Moon: The Apollo Expeditions |location=London ; New York |publisher=Springer |date=1999 |isbn=978-1-85233-099-6 |oclc=982158259}} |
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* {{cite book2 |df=ja |last=Kranz |first=Gene |title=Failure Is Not An Option |year=2000 |publisher=Simon & Schuster |location=New York |isbn=978-0-7432-0079-0 |oclc=829406416}} |
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* {{cite book2 |df=ja |last=Logsdon |first=John M. |title=The Decision to Go to the Moon: Project Apollo and the National Interest |location=Chicago |publisher=University of Chicago Press |year=1976 |oclc=849992795}} |
|||
* {{cite book |df=ja |author=Manned Spacecraft Center |title=Apollo 11 Mission Report |url=https://www.hq.nasa.gov/alsj/a11/a11MIssionReport_1971015566.pdf |format=PDF |accessdate=July 10, 2013 |date=November 1969 |work=[[ジョンソン宇宙センター|Manned Spacecraft Center]], Mission Evaluation Team |publisher=NASA |location=Houston, Texas |oclc=10970862 |id=SP-238 |ref=harv}} |
|||
* {{cite book2 |df=ja |author=Marshall Space Flight Center |author-link=マーシャル宇宙飛行センター |title=Technical Information Summary, Apollo-11 (AS-506) Apollo Saturn V Space Vehicle |date=June 1969 |publisher=NASA |location=Huntsville, Alabama |id=Document ID: 19700011707; Accession Number: 70N21012; Report Number: NASA-TM-X-62812; S&E-ASTR-S-101-69 |url=https://ntrs.nasa.gov/archive/nasa/casi.ntrs.nasa.gov/19700011707.pdf |format=PDF |accessdate=June 12, 2013}} |
|||
* {{cite book |last=McCurdy |first=Howard E. |title=Space and the American Imagination |location=Washington, D.C. |publisher=Smithsonian Institution Press |year=1997 |isbn=978-1-56098-764-2 |oclc=36186250 |ref=harv }} |
|||
* {{cite book2 |df=ja |last=Mindell |first=David A. |title=Digital Apollo: Human and Machine in Spaceflight |date=2008 |publisher=MIT Press |location=Cambridge, Massachusetts |isbn=978-0-262-13497-2 |lccn=2007032255 |oclc=751829782}} |
|||
* {{cite book2 |df=ja |last=Orloff |first=Richard W. |title=Apollo by the Numbers: A Statistical Reference |url=https://www.nasa.gov/wp-content/uploads/2023/04/sp-4029.pdf |accessdate=2013-06-12 |series=NASA History Series |year=2000 |publisher=NASA History Division, Office of Policy and Plans |location=Washington, D.C. |isbn=978-0-16-050631-4 |lccn=00061677 |id=SP-2000-4029 |oclc=829406439}} |
|||
* {{cite journal2 |df=ja |last=Sarkissian |first=John M. |title=On Eagle's Wings: The Parkes Observatory's Support of the Apollo 11 Mission |date=2001 |journal=Publications of the Astronomical Society of Australia |volume=18 |issue=3 |pages=287–310 |doi=10.1071/AS01038 |accessdate=May 24, 2013 |url=http://www.parkes.atnf.csiro.au/news_events/apollo11/tv_broadcasts.html |bibcode=2001PASA...18..287S |doi-access=free}} |
|||
* {{cite book2 |df=ja |last1=Schefter|first1=James|title=The Race: The Uncensored Story of How America Beat Russia to the Moon|isbn=978-0-385-49253-9|date=July 1999|publisher=Doubleday|location=New York}} |
|||
* {{cite book2 |df=ja |last1=Slayton |first1=Donald K. "Deke" |authorlink1=ドナルド・スレイトン |last2=Cassutt |first2=Michael |title=Deke! U.S. Manned Space: From Mercury to the Shuttle |date=1994 |publisher=Forge |location=New York |isbn=978-0-312-85503-1 |oclc=29845663 |lccn=94002463}} |
|||
* {{cite book2 |df=ja |last1=Swenson |first1=Loyd S. Jr. |first2=James M. |last2=Grimwood |first3=Charles C. |last3=Alexander |title=This New Ocean: A History of Project Mercury |url=http://www.hq.nasa.gov/office/pao/History/SP-4201/cover.htm |accessdate=June 28, 2007 |series=The NASA History Series |year=1966 |publisher=National Aeronautics and Space Administration |location=Washington, DC |oclc=569889 |id=SP-4201}} |
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* {{cite book2 |df=ja |last1=Waligora |first1=J.M. |last2=Horrigan |first2=D.J. |editor-last1=Johnston |editor-first1=Richard S. |editor-last2=Dietlein |editor-first2=Lawrence F. |editor-last3=Berry |editor-first3=Charles A. |title=Biomedical Results of Apollo |url=https://history.nasa.gov/SP-368/sp368.htm |accessdate=February 14, 2017 |date=1975 |publisher=NASA |location=Washington, D.C. |id=SP-368 |contribution=Chapter 4: Metabolism and Heat Dissipation During Apollo EVA Periods}} |
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{{refend}} |
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=== 和書 === |
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* {{cite book |和書 |editor=[[毎日新聞社]] |date=1969-08-05 |title=人類が月を歩いた アポロ11号の全記録 |publisher=毎日新聞社 |id={{全国書誌番号|69001968}} |ref={{SfnRef|毎日新聞社|1969}} }}<!-- 内容は主にアポロ11号(宇宙船)とヒューストン(管制室)の交信記録。 --> |
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* {{cite book |和書 |last1=アームストロング |first1=ニール |last2=コリンズ |first2=マイケル |last3=オルドリンJr. |
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|first3=エドウィン・E |authorlink1=ニール・アームストロング |authorlink2=マイケル・コリンズ (宇宙飛行士) |authorlink3=バズ・オルドリン |others=[[日下実男]](訳)、[[アーサー・C・クラーク]](解説) |date=1973-09-30 |title=アポロ11号全記録 大いなる一歩 |publisher=[[早川書房]] |id={{全国書誌番号|69003532}} |ref=harv }}<!-- 出来事の背景・歴史の解説から飛行士の生い立ち、家族など、関係者の動向・反応まで事細かに記述されている。 --> |
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* {{cite book |和書 |last1=シェパード |first1=アラン |authorlink1=アラン・シェパード |last2=スレイトン |first2=ディーク |authorlink2=ドナルド・スレイトン |others=[[菊谷匡祐]](訳) |year=1994 |title=ムーン・ショット 月をめざした男たち |publisher=[[集英社]] |isbn=4-08-773198-7 |ref=harv }} |
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* {{cite book |和書 |last1=チェイキン |first1=アンドルー |others=[[亀井よし子]](訳) |year=1999 |title=人類、月に立つ〈上〉 |publisher=[[日本放送出版協会]] |isbn=4-14-080444-0 |ref=harv }} |
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* {{cite book |和書 |last=ハンセン |first=ジェイムズ・R |others=[[日暮雅通]]・[[水谷淳 (翻訳家)|水谷淳]](訳) |year=2007 |title=ファーストマン ニール・アームストロングの人生〈下〉 |publisher=[[SBクリエイティブ|SoftBank Creative]] |isbn=978-4-7973-3667-2 |ref=harv }}<!-- 元NASA歴史学者のハンセン氏によるニール・アームストロングの伝記の下巻。歴史家の書だけあって、巻末には豊富な典拠が記載されている。 --> |
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* {{cite book |和書 |last=ビゾニー |first=ピアーズ |others=[[日暮雅通]](訳) |year=2009 |title=アポロ11号 月面着陸から現代へ |publisher=[[河出書房新社]] |isbn=978-4-309-25228-5 |ref=harv }} |
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== 外部リンク == |
== 外部リンク == |
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{{commonscat}} |
{{commonscat}} |
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{{ウィキポータルリンク|宇宙開発}} |
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* [http://www.apollomaniacs.com/apollo/ Apollo Maniacs(アポロ・マニアックス)] |
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* {{en icon}}[https://www.nasa.gov/mission_pages/apollo/apollo-11.html Apollo 11] - NASAホームページ上のミッション紹介。 |
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* [http://life.time.com/history/apollo-11-to-the-moon-and-back-life-covers-the-1969-lunar-landing/?iid=lb-gal-viewagn#1 'TO THE MOON AND BACK': LIFE COVERS THE APOLLO 11 MISSION] - LIFE magazine Special Edition, August 11, 1969. - ''LIFE.TIME.com''([[ライフ (雑誌)|ライフ]]画像アーカイブ) |
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* {{en icon}}[https://history.nasa.gov/afj/ap11fj/index.html The Apollo 11 Flight Journal] - 「生きた文書」として更新が続けられている、NASA本部の歴史課が公開している詳細な飛行記録。 |
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* {{en icon}}[https://history.nasa.gov/alsj/ The Apollo Lunar Surface Journal] - 上に同じく歴史課が公開している、アポロ11号を含むアポロ有人月面活動の記録。 |
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* [https://amview.japan.usembassy.gov/account-of-apollo-11-lunar-landing-mission/ アポロ11号月面着陸ミッションの記録] - アメリカン・ビュー(駐日アメリカ大使館公式マガジン) |
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* [https://amview.japan.usembassy.gov/50th-anniversary-of-the-first-moon-landing/ 人類初「月面着陸」から50年] - アメリカン・ビュー(駐日アメリカ大使館公式マガジン) |
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* {{Wayback|url=http://spaceinfo.jaxa.jp/ja/apollo_11.html |title=アポロ11号 |date=20081007190431}} - JAXA宇宙情報センターの項目 |
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* [https://www.apollomaniacs.com/apollo/ Apollo Maniacs(アポロ マニアックス)] - アポロに関する情報が豊富な個人ウェブサイト |
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* {{en icon}}[https://apolloinrealtime.org/11/ Apollo 11 in Real-time] - 月面着陸50周年を記念してアポロ11号のミッションをリアルタイムで体験できるウェブサイト |
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* {{NHK放送史|D0009043968_00000|特別番組 月に立つ宇宙飛行士}} |
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* {{NHK放送史|D0009030090_00000|アポロ11号 月面着陸}} |
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{{アポロ計画}} |
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{{月探査機}} |
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2024年12月22日 (日) 19:13時点における最新版
任務種別 | 有人月面着陸 |
---|---|
運用者 | NASA |
COSPAR ID |
|
SATCAT № |
|
任務期間 | 8日と3時間18分35秒 |
特性 | |
宇宙機 |
|
製造者 |
|
打ち上げ時重量 | 100,756ポンド (45,702 kg) |
着陸時重量 | 10,873ポンド (4,932 kg) |
乗員 | |
乗員数 | 3名 |
乗員 | |
コールサイン |
|
任務開始 | |
打ち上げ日 | 1969年7月16日13:32:00 (UTC) |
ロケット | サターンV SA-506 |
打上げ場所 | ケネディ宇宙センター LC-39A |
任務終了 | |
回収担当 | USS Hornet |
着陸日 | 1969年7月24日16時50分35秒 (UTC) |
着陸地点 | 北太平洋 北緯13度19分 西経169度9分 / 北緯13.317度 西経169.150度 |
軌道特性 | |
参照座標 | 月周回軌道 |
近点高度 | 100.9 kilometers (54.5 nmi)[1] |
遠点高度 | 122.4 kilometers (66.1 nmi)[1] |
傾斜角 | 1.25度[1] |
軌道周期 | 2時間[1] |
元期 | 1969年7月19日21:44 UTC[1] |
月オービター | |
宇宙船搭載構成物 | 司令・機械船 |
軌道投入 | 1969年7月19日17:21:50 UTC[2] |
軌道脱出 | 1969年7月22日04:55:42 UTC[3] |
軌道周回数 | 30周 |
月着陸船 | |
宇宙船搭載構成物 | 月着陸船 |
着陸 | 1969年7月20日20:18:04 UTC[4] |
帰還 | 1969年7月21日17:54 UTC |
着陸地点 |
静かの海 北緯0度40分27秒 東経23度28分23秒 / 北緯0.67408度 東経23.47297度[5] |
標本採集量 | 21.55キログラム (47.51 lb) |
船外活動回数 | 1回 |
船外活動時間 | 2時間31分40秒 |
月着陸船のドッキング(捕捉) | |
ドッキング(捕捉)日 | 1969年7月16日16:56:03 UTC[2] |
分離日 | 1969年7月20日17:44:00 UTC[6] |
月着陸船上昇段のドッキング(捕捉) | |
ドッキング(捕捉)日 | 1969年7月21日21:35:00 UTC[3] |
分離日 | 1969年7月21日23:41:31 UTC[3] |
ミッション徽章 左から:アームストロング、コリンズ、オルドリン |
アポロ11号(アポロ11ごう、英: Apollo 11)は、史上初めて人類による月面着陸に成功したアポロ宇宙船、およびそのミッションの名称。
概略
[編集]アポロ11号は2人の人間を世界で最初に月に着陸させた宇宙飛行であった。ニール・アームストロング船長とバズ・オルドリン月着陸船操縦士の2名のアメリカ人が、1969年7月20日20時17分(UTC=協定世界時)にアポロ月着陸船「イーグル」号を月に着陸させた。アームストロングは7月21日の2時56分15秒(UTC)に月面に降り立った最初の人物となり、その19分後にオルドリンがアームストロングに続いた。2人は約2時間15分をともに船外で過ごし、47.5ポンド(21.5キログラム)の月物質を地球に持ち帰るために採取した。2人が月面にいる間、マイケル・コリンズ司令船操縦士はひとり月周回軌道上で司令船「コロンビア」号を飛行させた。アームストロングとオルドリンは21時間半を月面で過ごしたあと、月周回軌道上で再び「コロンビア」に合流した。
アポロ11号は、7月16日13時32分(UTC)[7]にフロリダ州メリット島にあるケネディ宇宙センターからサターンV型ロケットで打ち上げられ、NASAのアポロ計画の5番目の有人ミッションとなった。アポロ宇宙船は次の3つの部分(モジュール)から構成される。3人の宇宙飛行士が乗り込める船室を備え、唯一地球に帰還する部分である司令船(CM)と、推進力、電力、酸素、水を供給して司令船を支援する機械船(SM)、そして月に着陸するための下降段と、月を離陸して再び月周回軌道まで宇宙飛行士を送り届けるための上昇段の二段式になっている月着陸船(LM)である[8]。
アポロ11号はサターンVの第三段の推力で月に向かう軌道に乗り、宇宙船をサターンVから切り離したあと、およそ3日間かけて旅し、月軌道に入った。アームストロングとオルドリンは月着陸船「イーグル」に移乗し、静かの海に軟着陸した。2人は「イーグル」の上昇段を使用して月面を離陸し、司令船「コロンビア」で待つコリンズと再び合流した。「イーグル」を投棄したあと、宇宙飛行士たちは司令船を地球へ帰還する軌道に乗せる操作を行い、エンジンを噴射して月軌道を離脱した。3人は8日間以上の宇宙飛行を終えて、7月24日に地球に帰還し、太平洋に着水 (splashdown) した。
アームストロングが月面に最初の一歩を踏み下ろす場面は、テレビジョン放送を通じて全世界に向けて生中継された。日本でもテレビ中継は注目を集め、月面作業の中継時の平均視聴率は82%に達した(ビデオリサーチ調べ)[9]。アームストロングはこの出来事について「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」と述べた[10]。アポロ11号は実質的に宇宙開発競争を終わらせ、1961年に故ジョン・F・ケネディ大統領が掲げた「この60年代が終わるまでに人間を月に着陸させ、安全に地球に帰還させる」という国家目標を見事に達成した[11]。
背景
[編集]1950年代後半から1960年代前半にかけて、アメリカ合衆国(米国)は地政学的な競争相手のソビエト連邦(ソ連)と冷戦の最中にあった[12]。1957年10月4日、ソ連は世界初の人工衛星となるスプートニク1号を打ち上げた。この出し抜けの打ち上げ成功でソ連は世界中を驚かせ、人々の不安を煽り、想像力をかき立てた。ソ連には大陸間の距離を越えて核兵器を打ち込める能力があることを証明して見せ、米国の主張する軍事・経済・技術的優位を試したのである[13]。これにより、突如としてスプートニク・ショックが起こり、宇宙開発競争の端緒が開かれた[14]。
ソ連によるスプートニクの挑戦に対して、米国のドワイト・D・アイゼンハワー大統領は国家航空宇宙局(NASA)を創設し、人を地球周回軌道に乗せることを目指す[15]マーキュリー計画に着手した[16]。しかし、1961年4月12日にソ連のコスモノート(宇宙飛行士)、ユーリイ・ガガーリンが世界で最初に宇宙を飛行し、初めて軌道上で地球を周回した人物となった[17]ことにより、スプートニク・ショックで傷ついたアメリカ人の自尊心に追い打ちをかける形となった[18]。ソ連に遅れることおよそ1か月、1961年5月5日にアラン・シェパードが約15分間の弾道飛行の旅を成し遂げ、初めて宇宙を飛行したアメリカ人となった。シェパードは大西洋から回収されたあと、アイゼンハワーの後任のジョン・F・ケネディ大統領から祝いの電話を受けた[19]。
ケネディは、他国に優越せんとすることは合衆国の国民的関心の中にあって、米国の国力に対する認識は少なくとも現実(の国力)と同程度に重要であると信じていた。それゆえに、宇宙探査の分野においてソ連が(米国よりも)先進的であることは耐えがたいことであった。ケネディは、合衆国は競争しなければならないと固く決心し、勝機を最大化する試練を探し求めた[12]。
当時、ソ連は米国よりも優れたブースターロケットを有していたため、ケネディは米国がソ連と対等の立場で競争を始められるよう、既存世代のロケットの最大出力を超える試練を要求した。たとえそれが軍事上、経済上、科学上の理由で妥当なものとして認められなかったとしても、壮大な見世物であった。ケネディは自身の顧問と専門家に相談した結果、そのような事業計画を選択した[20]。1961年5月25日、ケネディは "Urgent National Needs" (至急の国家的要請)に関して合衆国議会で次のように演説した。
私は、この60年代が終わるまでに人間を月に着陸させ、安全に地球に帰還させるという目標を達成することに我が国民が真剣に取り組むべきであると信ずるものであります。これ以上人類に強い印象を与える宇宙事業計画はこの時代にただのひとつも存在せず、それが長期に及ぶ宇宙の探査のために重要であることもまたとないことでしょう。そして、完遂するためにこれほど困難をともない、費用のかかるプロジェクトもそうないことでしょう。我々はしかるべき月宇宙船の開発を加速するつもりです。我々は、これまでに開発されたいずれのものよりもはるかに大型で、それらの代わりとなる液体および固体の燃料ブースターを一定の優れた成果が得られるまで開発するつもりです。我々は、その他のエンジン開発および無人探査、我が国民が決して見落とすことのないことには、この大胆な宇宙飛行を最初に行う者が生還すること、そのひとつの目的のために特に重要である探査に充てる追加的な基金を提案します。しかし、本当の意味で、ただ一人の人間が月に行くのではありません。我々がこの判断を肯定すれば、全国民が月に行ったも同然です。と申しますのも、彼を月に送り込むには我々皆が働かなければならないからです。[21]—第35代アメリカ合衆国大統領 ジョン・F・ケネディ、1961年5月25日、上下両院合同会議における演説より
人間を月に着陸させるための取り組みには、すでにアポロ計画(Project Apollo)という名前がつけられていた[22]。直接上昇方式と地球軌道ランデブーの両方にかかわる月軌道ランデブーは、早期にあったきわめて重大な決定事項であった。宇宙空間におけるランデブーとは、2機の宇宙船が宇宙空間を航行して落ち合う軌道操縦のことである。1962年7月11日、NASA長官のジェームズ・ウェッブは月軌道ランデブー方式を用いることに決定したと発表した。その結果、はるかに小さいロケット[23][24]と3つのモジュールから成るアポロ宇宙船とでアポロ計画は進められることになった。この方法を選択したことは、アポロ宇宙船が(当時開発中だった)サターンV型ロケットで打ち上げられるであろうことを意味した[25]。
アポロ計画に要求される技術および技巧はジェミニ計画で開発されたものである[26]。アポロ計画は、1967年1月27日にアポロ1号が火災事故に遭い、3名の宇宙飛行士が亡くなったことと、それに関する調査のため、不意に中断された[27]。1968年10月にアポロ7号が地球周回軌道上で司令船の評価を行い[28]、同年12月にアポロ8号がそれを月周回軌道上で試験した[29]。1969年3月にアポロ9号が地球軌道上で月着陸船の調子を試し[30]、同年5月にアポロ10号が月軌道上で予行演習を実施した。こうして1969年7月までに、アポロ11号が月面に到達する最終段階までに必要な準備がすべて整った[31]。
ソ連は米国と宇宙開発競争を繰り広げたが、米国のサターンVに匹敵するN-1ロケットの開発の度重なる失敗によって初期の優位は失われていた[32]。それでもソ連は米国に打ち勝とうとして無人探査機を飛ばし、月物質を地球に持ち帰ること(サンプルリターン)を試みた。アポロ11号の打ち上げの3日前にあたる7月13日、ソ連はルナ15号を打ち上げ、アポロ11号よりも先に月軌道に到達させた。しかし、月面へ降下する間に探査機が機能不全に陥り、危難の海に激突した。そのときの衝撃はアポロ11号が月面に設置した地震計に詳細に記録された[33]。アームストロングとオルドリンが月面を離陸して地球への帰路につくおよそ2時間前のことであった。イングランドにあるナフィールド電波天文学研究所の電波望遠鏡が月へ降下中のルナ15号から伝送された信号を記録しており、それらはアポロ11号の40周年記念にあたる2009年7月に公表された[34]。
人員
[編集]正規搭乗員
[編集]地位 | 宇宙飛行士 | |
---|---|---|
船長 | ニール・A・アームストロング 最後にして2回目の宇宙飛行 | |
司令船操縦士 | マイケル・コリンズ 最後にして2回目の宇宙飛行 | |
月着陸船操縦士 | エドウィン・E・オルドリンJr. 最後にして2回目の宇宙飛行 |
当初は、船長にニール・アームストロングを、司令船操縦士(CMP)にジム・ラヴェルを、月着陸船操縦士(LMP)にバズ・オルドリンを、それぞれアポロ9号の予備搭乗員として割り当てることが1967年11月20日に公式に発表された[35]。ラヴェルとオルドリンは以前、ジェミニ12号の搭乗員として一緒に飛行したことがあった。月着陸船(LM)の設計と製造に遅れが生じたため、アポロ8号とアポロ9号は正規搭乗員および予備搭乗員が交代させられ、アームストロング船長以下の搭乗員はアポロ8号の予備搭乗員になった。通常の搭乗員ローテーション計画に基づけば、アームストロングは当時アポロ11号の船長になるものと予想されていた[36]。
ところが、うち1人が変更されることになった。アポロ8号に正規搭乗員として乗り組む予定だったマイケル・コリンズが両脚に故障を抱え始めたためである[37]。医師からは5番目と6番目の椎骨間の骨の成長に問題があると診断され、外科手術を要するほどの容態であった[38]。そのため、ラヴェルがコリンズに代わってアポロ8号の搭乗員になり、コリンズは故障から回復すると司令船操縦士としてアームストロング船長以下の搭乗員に加わった。その間、フレッド・ヘイズが月着陸船操縦士として、オルドリンが司令船操縦士として、それぞれアポロ8号の予備搭乗員を務めた[39]。搭乗員全員が先に宇宙飛行を経験したことのあるベテラン飛行士で編成されたのは、アメリカの宇宙開発史上、アポロ10号に次いで[40]これが2度目のことだった[41]。以後、全員がベテラン飛行士で編成される3度目の機会は1988年のSTS-26まで訪れることはなかった[41]。
一部では、オルドリンはともに働くことに難があると思われていたため、飛行乗組員の運用責任者だったスレイトンはアームストロングにオルドリンをラヴェルと交代させる選択肢を用意した。アームストロングはオルドリンと働くことに何も問題を抱えていなかったが、与えられた選択肢について日が暮れるまで熟考した。アームストロングが考えたところでは、ラヴェルは船長として彼独自のミッションを指揮してもらうのが当然であるとの結論に至った(結局、ラヴェルはアポロ13号の船長を務めた)[42]。
アポロ11号の正規搭乗員は、アポロ12号の搭乗員に特徴的にみられたような、親密で積極的な仲間意識を持っていなかった。代わりに、気立てのいい仕事上の関係を築いた。とりわけアームストロングは周知のごとくよそよそしかったが、コリンズも自身を孤独が好きだと思っており、もっと個人的な関係を創出しようとしてきたオルドリンをはねつけていたことを告白した[43]。オルドリンとコリンズはアポロ11号の乗組員について「親しげなよそ者たち("amiable strangers")[44]」だったと記している[45]。ただし、アームストロングはこの人物評価に同意せず、「私が接した乗組員は皆一緒にとてもよく働いた」と述べた[45]。
予備搭乗員
[編集]地位 | 宇宙飛行士 | |
---|---|---|
船長 | ジェームズ・A・ラヴェルJr. | |
司令船操縦士 | ウィリアム・A・アンダース | |
月着陸船操縦士 | フレッド・W・ヘイズJr. |
予備搭乗員の構成は、ラヴェルが船長、アンダースが司令船操縦士、ヘイズが月着陸船操縦士だった。このうち、アンダースとラヴェルはアポロ8号で一緒に飛行したことがあった[41]。ところが、1969年前半にアンダースは同年8月に実施される国家航空宇宙会議との仕事を引き受け、その日をもって宇宙飛行士を引退することを発表した。その時点で、万が一アポロ11号が予定されていた7月の打ち上げより遅れてアンダースを任用できなくなった場合に備えて、ケン・マッティングリーを地上支援員から異動させ、予備の司令船操縦士としてアンダースと並行して訓練を受けさせることにした。ラヴェル、ヘイズ、マッティングリーの3名は、のちにアポロ13号の正規搭乗員として配属されることになった[46]。
地上支援員
[編集]マーキュリー計画とジェミニ計画の頃は、各ミッションに正規搭乗員と予備搭乗員の2つの枠があったが、アポロ計画では地上支援員(support crew)として知られる3つ目の枠が追加された。地上支援員は飛行計画、チェックリスト、ミッションごとのグランドルール(行動規範)を維持し、何かしらの変更があったときにそれを正規搭乗員および予備搭乗員に確実に知らせる任務を担っていた。また、正規搭乗員と予備搭乗員がシミュレータ内に訓練に来たときに練習して習得することに集中できるよう、特に緊急事態用の手順も開発した[47]。アポロ11号では、ケン・マッティングリー、ロナルド・エヴァンス、ビル・ポーグが地上支援員を構成していた[48]。
宇宙船通信担当官
[編集]宇宙船通信担当官(Capsule communicators、CAPCOM)は、テキサス州ヒューストンにあるミッション管制センターの宇宙飛行士で、搭乗員と直接交信する唯一の人物であった[49]。アポロ11号では、チャールズ・デューク、ロナルド・エヴァンス、ブルース・マッカンドレス2世、ジェームズ・ラヴェル、ウィリアム・アンダース、ケン・マッティングリー、フレッド・ヘイズ、ドン・L・リンド、オーウェン・K・ギャリオット、ハリソン・シュミットがCAPCOMを務めた[48]。
飛行主任
[編集]以下の4名の飛行主任(flight directors)が交替勤務でこのミッションを支えた[50][51]。
- クリフォード・E・チャールズワース(緑チーム) - 打ち上げおよび船外活動(EVA)担当
- ジェラルド・D・グリフィン(金チーム)
- ジーン・クランツ(白チーム) - 月面着陸担当
- グリン・ルーネイ(黒チーム) - 月面離陸担当
準備
[編集]徽章
[編集]アポロ11号のミッション徽章はコリンズが「アメリカ合衆国による平和的な月面着陸」を象徴することを願ってデザインした。ラヴェルの提案で、コリンズはアメリカ合衆国の国鳥であるハクトウワシを象徴に選んだ。シミュレータ・インストラクターのトム・ウィルソンは、彼らの平和的な任務を表すオリーブの枝を配置してはどうかと提案した。そこで、くちばしに平和の象徴であるオリーブの枝をくわえたワシが描かれた[52]。また、コリンズは遠くに地球を望みつつ月を背景に加えた。この図案の中の日光は差してくる方向が正しくなく、地球の影は左ではなくもっと下の方に描かれるべきだった。アームストロング、オルドリン、コリンズは、ワシと月を自然のままの色で彩り、円周を青色と金色で縁取ることに決めた。アームストロングが "eleven" 表記では非英語話者に理解されにくいのではないかと懸念したので、 "Apollo 11" とアラビア数字表記になった[53]。また、アポロ11号の搭乗員たちは自分たちの名前を徽章に記載しないことに決め[注 1]、徽章は「月面着陸に向けて働いた“みんな”を代表する」ものとなった[54]。
有人宇宙船センターのイラストレーターが図案を作品に仕上げ、それからNASAの役人たちに承認を求めるために送付された[53]。ところが、その図案は却下された。有人宇宙船センター長のボブ・ギルルースは、このワシの鉤爪が「あまりに好戦的すぎる」と感じたのであった[52][55]。いくらかの議論があったあと、オリーブの枝をくちばしから足の爪に移すことで巧みに爪を隠すことにした[55]。1971年にアイゼンハワーの1ドル硬貨が発行されたときには、硬貨の裏面にこの図案のワシが使用された[56]。アポロ11号のミッションから10年後にあたる1979年に発行された小さなアンソニーの1ドル硬貨にも、この徽章の図案が使用された[57]。
コールサイン
[編集]アポロ10号の搭乗員が自分たちの搭乗するアポロ宇宙船を「チャーリー・ブラウン(Charlie Brown)」および「スヌーピー(Snoopy)」と名付けたこと[58]があって、広報担当のジュリアン・シアーは、当時有人宇宙船センターでアポロ計画室の室長を務めていたジョージ・M・ロウに、アポロ11号の搭乗員が自分たちのアポロ宇宙船を命名する際はもう少し真面目な名前をつけるようにしてはもらえないだろうかと提案した。NASAの計画の初期段階において、アポロ11号の司令船は「スノーコーン(Snowcone)」(「かき氷」の意)、同じく月着陸船は「ヘイスタック(Haystack)」(「干し草積み」の意)という名で呼ばれており、内外の伝達で使用されていた[59]。
アポロ11号の月着陸船はミッション徽章で中心的な役割を演じたモチーフにちなんで「イーグル(Eagle)」(「ワシ」の意)と命名された。シアーの提案で、司令船は「コロンビア(Columbia)」と命名された。その由来はジュール・ヴェルヌの1865年発表の小説『地球から月へ』に登場する、(アポロ同様フロリダから)宇宙船を発射するための巨大な大砲「コロンビアード」で、アメリカ合衆国を象徴的に擬人化した伝統的な女性名「コロンビア」にもちなんでいる[60][61]。また、コリンズは1976年に出版した自著の中で、「コロンビア」はクリストファー・コロンブスに関連していたと述べている[62]。
記念品
[編集]アポロ11号の宇宙飛行士は、個人趣向キット(Personal Preference Kits、PPK:ミッションに持っていきたい個人的に意義深い記念の品々)を入れた小さな袋を所持していた[63]。重さにして0.5ポンド(0.23キログラム)の5つの個人的な記念品(PPK)[注 2]がアポロ11号に持ち込まれた[64]。
ニール・アームストロングが月着陸船に持ち込んだのは、ライト兄弟が初めて空を飛んだ1903年のライトフライヤー号の左のプロペラから取った木片と、その翼から取った布切れ[65][66]、そして当初ディーク・スレイトンがアポロ1号の搭乗員の配偶者たちからもらった、ダイヤモンドが散りばめられた宇宙飛行士の階級章だった。この階級章はアポロ1号で飛行し、ミッション後にスレイトンに与えられるはずだったが、発射台での悲惨な火災事故とあとに続いた葬儀を受けて、配偶者たちがスレイトンに渡したもので、アームストロングはそれを持ってアポロ11号に乗船した[67]。
着陸候補地の選定
[編集]NASAのアポロ着陸候補地選定委員会(Apollo Site Selection Board、ASSB)は1968年2月8日、5つの有力な着陸候補地を発表した。それらはルナ・オービター計画の5機の無人探査機が撮影した月面の高解像度写真、ならびにサーベイヤー計画で得られた月の表面の状態に関する情報に基づき、2年間かけて行われた価値ある調査の結果であった[68]。地上に設置されたどんなに優れた望遠鏡でも、アポロ計画に要求される解像度で月面の特徴を解像することはできなかった[69]。宇宙船が消費する推進剤の量を最小限に抑えることが要求されたため、着陸地点は月の赤道に近い場所でなければならなかった。さらに、機動的な飛行を最小限度に留めるために障害物のない開けた場所であることが求められ、着陸用レーダーのタスクを簡素化するために平坦であることが同時に求められた。科学的な価値は考慮に入れられなかった[70]。
地球上で撮影された写真から有望そうに思えた領域は、そのほとんどがまったく許容できない場所であることがわかった。当初の要件はクレーターのない緩やかな場所だったが、そのような場所はひとつも見つからなかった[71]。結局、5つの地点が候補地として検討された。地点1と地点2は静かの海に、地点3は中央の入江に、地点4と地点5は嵐の大洋にあった[68]。最終候補地の選定は以下の7つの基準に基づいて行われた[68]。
- 比較的にクレーターの少ない、滑らかな場所であること。
- 進入路について、広い丘、高い崖または深いクレーターが原因となって、着陸用レーダーを混乱させ、計器の数値を読み誤らせるおそれのないこと。
- 最小限の量の推進剤で到達可能であること。
- 打ち上げ時の秒読みの遅れを許容できること。
- 自由帰還軌道(月に向かう進路上で問題が発生したとしても、エンジンの噴射を一切することなく、そのまま月の周囲に沿って惰性飛行して安全に地球に帰還する軌道)を取れること。
- 着陸進入時に良好な視界を保てること。つまり、太陽が常に月着陸船の後方7度から20度の間の方向にあること。
- 着陸する領域において一般斜面が2度未満の傾斜であること。
このうち太陽の角度に関する要件は特に制限的で、これによって打ち上げ日は1か月につき1日にまで制限されることとなった[68]。宇宙飛行士が体験することになる温度の極値を制限するため、夜明けの直後に着陸することになった[72]。ASSBは地点2を着陸予定地点に選出し、地点3と地点5は打ち上げ日が遅れた場合の予備の地点に選ばれた。1969年5月、アポロ10号の月着陸船は地点2から15キロ以内を飛行し、地点2は着陸予定地として容認できると報告した[73][74]。
最初の一歩の決定
[編集]アポロ11号の搭乗員が発表されたあとの最初の記者会見で、記者から尋ねられた最初の質問が「あなた方の中で最初に月面に足を踏み出すのはどなたでしょうか?」であった[75][76]。スレイトンは記者に「それはまだ決まっていない」と答え、アームストロングは「個々人の願望に基づいて決めることはない」と付け加えた[75]。
退出チェックリストの初期の版のひとつでは、月着陸船操縦士は司令船操縦士よりも先に船を降りることになっており、以前のミッションで行われてきたことと一致していた[77]。船長は一度も宇宙遊泳をしないことになっていた[78]。記者たちは1969年の前半、最初に月面を歩行するのはオルドリンになりそうだと書いたが、ジョージ・ミラー副長官は記者に彼(船長)もまた最初(の1人)になるだろうと伝えた。当のオルドリンは、文民であるという理由でアームストロングが最初に月面を踏むだろうと聞いて激怒した。オルドリンはほかの月着陸船操縦士らに自分こそが最初の1人になるべきだと説得を試みたが、ロビー活動のようなものだと感づいた彼らは皮肉っぽく応じた。部局間の対立を止めようとして、スレイトンはオルドリンにアームストロングが船長なのだから最初の一人は彼になるだろうと伝えた。1969年4月14日の記者会見で、その決定が発表された[79]。
オルドリンは何十年間も、この最終決定は大方、月着陸船のハッチの位置で決まったものだと信じていた。なぜならば、宇宙飛行士は宇宙服を着ており宇宙船の中はとても狭いため、宇宙船からうまく脱出することは難しかったからである。搭乗員の受けた模擬演習ではオルドリンが最初に宇宙船を出ていたのだが、オルドリンは脱出を試みる際に演習設備を壊してしまった。この出来事は、ミッション計画立案者が決断を下すのに十分な事由であった。オルドリンとアームストロングは春の終わりごろまでこの決定に関して知らされずにいた[80]。スレイトンは、「彼が同意すれば、君に最初に宇宙船を降りてもらう計画だ」とアームストロングに伝え、アームストロングは「ええ、それがいい方法です」と答えた[81]。
メディアは、船長の特権を利用して最初に宇宙船を降りる役を射止めたとしてアームストロングを非難した[82]。クリス・クラフトが2001年に出した自叙伝の中で明かしたところでは、ギルルース、スレイトン、ロウおよびクラフトの四者間で協議を行い、オルドリンが最初に月面を歩くことにはならないことを確認したという。彼らは、最初に月面を歩く人物はチャールズ・リンドバーグのように冷静沈着な人物であるべきだと主張した。そして、飛行計画を変更する決定が下され、船長であるアームストロングが最初に宇宙船から月面に降り立つこととなった[83]。
発射準備
[編集]月着陸船LM-5の上昇段は1969年1月8日にケネディ宇宙センターに到着し、その4日後には下降段が、1月23日には司令・機械船CM-107がそれぞれ到着した[84]。LM-5とアポロ10号のLM-4との間にはいくつかの違いがあった。LM-5には月面で船外活動中に宇宙飛行士との通信を円滑に行うためのVHF無線アンテナ、軽量化された上昇用エンジン、熱防護が強化された着陸装置、初期アポロ科学実験パッケージ(Early Apollo Scientific Experiments Package、EASEP)として知られる科学実験装置一式が備えられていた。司令船の構成で唯一変更されたのは、前面ハッチからいくつか断熱材が取り除かれた点であった[85][86]。司令船と機械船は1月29日に連結され、4月14日にO&Cビルディングからロケット組立棟に移された[84]。
サターンV AS-506の第三段S-IVBは1月18日に到着し、続いて第二段S-IIが2月6日に、第一段S-ICが2月20日に、サターンV飛行制御装置が2月27日に到着した。まだアポロ10号が月へ向かっている最中であった5月20日の1230(12時30分)、組み上がった重さ5,443-メトリックトン (5,357-ロングトン; 6,000-ショートトン)のサターンV型ロケットがクローラー・トランスポーターの上に載せられ、第39発射場の39A発射台に向けてロケット組立棟を出発した。カウントダウンのテストは6月26日に開始され、7月2日に終了した。7月15日の夜、発射施設が投光照明に照らされ、クローラー・トランスポーターが移動式整備塔を駐機場まで運んで戻した[84]。発射当日の早朝には、第二段S-IIと第三段S-IVBの各燃料タンクが液体水素で満たされた[87]。燃料の注入は発射の3時間前までに完了した[88]。発射運用はATOLLと呼ばれるプログラミング言語で書かれた43のプログラムで一部が自動化されていた[89]。
搭乗員は0400(4時00分)すぎにスレイトンに起こされ、シャワーを浴び、髭を剃り、スレイトンおよび予備搭乗員と一緒にNASAの宇宙飛行前の伝統的な朝食となっているステーキと卵料理を食べた。そして、宇宙服を着用し、純酸素の呼吸を始めた。0630(6時30分)に搭乗員は第39発射施設に向かった[90]。発射時刻の約3時間10分前にヘイズは「コロンビア」の船内に入り、6時54分に技術者とともにアームストロングが左の乗組員用の寝椅子につくのを手助けした。5分後にコリンズが加わり、自分の所定の位置である右の乗組員用の寝椅子についた。最後にオルドリンが乗船し、中央の寝椅子についた[88]。ヘイズは発射の約2時間10分前に宇宙船から降りた[91]。飛行士の搭乗を手伝ったクルー(クローズアウトクルー)がハッチを密閉すると、船室はパージ(圧縮空気を排気)され、与圧された。クローズアウトクルーは発射の約1時間前に発射施設を離れた。発射の3分20秒前からはカウントダウンが自動化された[88]。450人以上の人員が発射管制室内の制御盤の前に陣取っていた[87]。
ミッション
[編集]発射と月軌道までの飛行
[編集]推定で100万人の観衆が発射場の近辺の幹線道路や海岸からアポロ11号の打ち上げを見ていた[92]。観衆の中には、アメリカ陸軍参謀総長のウィリアム・ウェストモーランド大将、4名の閣僚、19名の州知事、40名の市長、60名の大使、200名の合衆国議会議員などのお偉方もいた。スピロ・アグニュー副大統領はリンドン・ジョンソン前大統領およびレディ・バード・ジョンソン同夫人とともに打ち上げの様子を眺めた[87][93]。現地には約3,500人の報道関係者が集まった[94]。そのうちのおよそ3分の2はアメリカ国内から、残りはその他の55の国々から来ていた。打ち上げは33か国でテレビ中継され、アメリカ国内だけでも視聴者は推定で2,500万人に上った。さらに世界中で数百万の人々がラジオ放送を聴いていた[87][93]。リチャード・ニクソン大統領は、NASAの連絡担当官だったアポロ宇宙飛行士のフランク・ボーマンとともに、ホワイトハウスの執務室から打ち上げの様子を見守った[95]。
1969年7月16日13:32:00 UTC(午前9時32分00秒 EDT)、サターンV AS-506はアポロ11号を搭載して、ケネディ宇宙センターの39A発射台から発射された[7][96]。発射の12分後には、高度98.9海里(183.2キロ)から100.4海里(185.9キロ)の辺りで、地球を周回する軌道に入った。地球を一周半したあと、第三段エンジンS-IVBを点火[97]、16:22:13(UTC)に月遷移軌道投入(Trans-lunar injection、TLI)し、宇宙船は月へと向かう軌道に乗せられた。それから約30分後、左側の操縦席についたコリンズ司令船操縦士の操作で、トランスポジション、ドッキング、エクストラクションと呼ばれる一連の動作を実行した。すなわち、使い切った第三段ロケットS-IVBから司令・機械船(CSM)を切り離し[98]、船の向きを反転させて、第三段に取りつけられた状態の月着陸船(LM)とドッキングし、ロケットから着陸船を取り出した[99]。その後、合体した宇宙船は月に向かう針路をとる一方、他方の第三段は月を通過する弾道を描くように飛行した[2][100]。これは第三段ロケットがアポロ宇宙船や地球や月に衝突するのを回避するために取られた措置であった。月の周りを通過することで生じたスリングショット効果により、第三段S-IVBは太陽周回軌道に入った[101]。
7月19日17:21:50(UTC)にアポロ11号は月の裏側を通過して機械船の推進エンジンを点火し、月周回軌道に入った[2]。続いて、月を30周するうち、飛行士たちはサビンDクレーターから南西に約12マイル(19キロ)の辺りに位置する静かの海南部の着陸地点の過ぎゆく景色を目にした。この着陸地点はある程度あらかじめ選定されていたのだが、それは無人探査機レインジャー8号とサーベイヤー5号による先行調査や、月周回衛星ルナ・オービターが撮影した月面写真により、その比較的平坦で滑らかな地形が着陸や船外活動(EVA)を行うのに大きな支障はないだろうと判断されたためであった[102]。着陸予定地点はサーベイヤー5号の着陸地点から南東に25キロほど、レインジャー8号の衝突地点から68キロの辺りにあった[103]。
月への降下
[編集]7月20日12:52:00(UTC)にアームストロングとオルドリンは着陸船「イーグル」に乗り込み、月への降下に向けた最終準備に取りかかった[2]。17:44:00に「イーグル」は司令船「コロンビア」から切り離された。「コロンビア」に1人残ったコリンズは、機体をゆっくりと爪先回転(ピルエット)させる着陸船「イーグル」に損傷がないこと、ならびに着陸装置が正常に展開されたことを確認した[104][105]。アームストロングは "The Eagle has wings!" (「イーグル」には翼がある!)と叫んだ[105]。
降下を開始してしばらくすると、アームストロングとオルドリンは月面上の目標地点を通り過ぎるのが2、3秒早いことに気づき、射程領域(ダウンレンジ)がやや長いようだと地上に報告した[106]。つまり、このままでは着陸目標よりも西に数マイル先の地点に着陸してしまうことを示していた。「イーグル」はあまりにも速く飛びすぎていたのである。その原因は高い質量集中にあって宇宙船の軌道が変化したのではないかと考えられた。飛行主任のジーン・クランツは、ドッキングトンネル内の余分な空気圧が原因ではないかと推論した。あるいは、機体の損傷チェック時に行われた「イーグル」の爪先回転飛行が原因となった可能性も考えられた[107][108]。
降下のためのエンジン噴射に入る5分前、月面から高度6,000フィート(1,800メートル)で[109]、着陸船の航法・誘導コンピュータ(LM guidance computer、LGC)が予期しない警報 "1201" と "1202" を幾度か発し[110][111]、飛行士の注意を逸らせた。そのとき、ミッション管制センター内にいたコンピュータ技師のジャック・ガーマンは、誘導官(Guidance Officer)のスティーブ・ベイルズにそのまま降下を続けても安全であることを告げ、飛行士たちにも中継して伝えられた[112]。これらの警報は "executive overflows" (実行オーバーフロー)を示しており、誘導コンピュータが過負荷状態にあって[113]要求されたすべてのタスクの処理をリアルタイムで完了できず、そのうちのいくつかを遅延させなければならない状態にあることを意味していた[114][115]。マサチューセッツ工科大学チャールズ・スターク・ドレイパー研究所でアポロ飛行コンピュータのプログラミング責任者(Director of Apollo Flight Computer Programming)を務めたマーガレット・ハミルトンは、当時を思い出して次のように語った。
アポロ11号のその問題に関してコンピュータを責めることは、火災を発見して消防に通報する人を責めるようなものです。実際、コンピュータはエラー状態を認識する以上のことをするようにプログラムされていました。ソフトウェアには回復プログラム一式が組み込まれていたのです。ソフトウェアの動作としては、この場合、優先度の低いタスクを除外して、より重要なものを再構築することでした。コンピュータは、もう少しのところで(着陸の)中止を強制したというよりも、むしろ中止を阻止したといえます。もしもコンピュータがこの問題を認識できずに回復動作をとらなかったら、アポロ11号の月への着陸が上手くいったかどうか、疑わしいと思います。[116]
ミッション中には、司令船とのランデブー用のレーダーのスイッチが誤った位置にあり、月着陸船のコンピュータにランデブー用レーダーと着陸用レーダーの両方から送られてきたデータを同時に処理させようとしたことが原因だと診断された[117][118]。ソフトウェア技師のドン・アイルズは、2005年の誘導制御会議(Guidance and Control Conference)で発表した論文の中で、この問題は以前アポロ5号で最初の無人月着陸船をテストしている最中に見られたハードウェア設計上の欠陥に原因があると結論づけた。(緊急時着陸中止という万が一の事態に備えて)ランデブー用レーダーをオンにしておくことはコンピュータとは関係ないはずだったが、無作為なハードウェアの電源の入れ方次第では、ランデブーレーダーシステムの2つの部品の間に生じる電気的位相の不整合により、コンピュータに対して固定型アンテナが2つのポジションの間を前後にディザリングするように見えることがある。ランデブー用レーダーがインボランタリカウンタを更新すると、余分な疑似サイクルスチールにより、コンピュータは警告を発する[119]。
着陸
[編集]アームストロングが再び窓の外に目をやると、コンピュータがはじき出した着陸目標が直径300フィート(91メートル)ほどもあるクレーター[注 3]のすぐ北と東の巨岩がいくつも転がっている領域にあるのが見えたため、アームストロングは操縦を半自動に切り替えた[120][121]。アームストロングはその岩石原の手前に着陸すればそこから地質試料を採取しに行けるかもしれないと考えたが、宇宙船の水平方向速度が速すぎたためできなかった[122]。降下している間、オルドリンはずっと、着陸船の操縦で多忙なアームストロングに航法データを読み上げ続けた[123]。月面からの高度107フィート(33メートル)まで降下したとき、アームストロングは推進剤の供給が徐々に減少してきていることを知り、最初の着陸候補地点に着陸することに決めた[124]。
アームストロングは開けた月面の一画を見つけ、機動的に宇宙船をそちらへ向かわせた。だんだんと近づいて行くと、高度250フィート(76メートル)のところで、その新しく決めた着陸地点にクレーターがあることを発見した。アームストロングはクレーターを視界にはっきりととらえながら、別の一画の平地を見つけた。高度100フィート(30メートル)まで来て、推進剤の量は残りわずか90秒分まで減っていた。さらに、着陸船のエンジンによって巻き上げられた月の砂塵が、宇宙船の動きを決定するアームストロングの判断力を鈍らせた。もうもうと立ち込める砂塵の中から突き出たいくつもの大きな岩に焦点を絞ることで、アームストロングは降下中の宇宙船の速度を判断することができた[125]。
着陸の直前、「イーグル」の脚部から吊り下がっていた、長さ67インチ(170センチ)の探針のうちの少なくとも1本が月面に接地したことを示すライトが点灯した。それを知ったオルドリンは「着地灯、点灯!」と声に出して確認した[126]。技師たちは、着陸時にエンジンを噴射させたまま月面に接近しすぎると排気ガスの圧力(背圧)でエンジンが吹き飛ぶかもしれないと危惧していたため、アームストロングはただちにエンジンを切ることになっていたが、忘れてしまった[127]。3秒後に「イーグル」が着陸し、アームストロングはエンジンを切った[128]。オルドリンは即座に「OK、エンジン停止。ACA解放」と言葉を発し、それを受けてアームストロングは「ACA解放了解。自動」と復唱した。続けてオルドリンは「モード制御、両方とも自動。下降段エンジンの指令重複、オフ。エンジンアーム、オフ。413に接続」と確認した[129]。
ACAとは、姿勢制御装置(attitude control assembly)のことで、具体的には月着陸船の操縦桿のことである。その出力は着陸船の誘導コンピュータ(LGC)に伝えられ、姿勢制御システム(reaction control system、RCS)にエンジン噴射の命令を出す。「解放」とは、中央のポジションから動かされていた操縦桿が(車の方向指示器のように)バネの力で元の中央のポジションに戻されたことを意味する。LGCのアドレス413は、月着陸船が着陸したことを示す変数を含んでいた[4]。
「イーグル」は7月20日、日曜日の20:17:40(UTC)に25秒分の燃料を残して着陸した[4]。アポロ11号は後継のミッションよりも残りの燃料が少ない状態で着陸し、飛行士たちは早い段階から燃料残量警告表示に直面することになった。これはのちに、燃料タンク内で推進剤が想定以上に大きく揺れ動き(スロッシング)、燃料計の値が実際よりも少なく表示されていた結果であることが分かった。そのため、次回以降のミッションでは、これを抑える抑流板がタンク内に追加設置されることになった[4]。
アームストロングは、オルドリンが「エンジンアームはオフ」と言って、着陸後のチェックリストをつける作業が一通り完了したのを確認して、CAPCOMのチャールズ・デュークに "Houston, Tranquility Base here. The Eagle has landed." (「ヒューストン、こちら静かの基地。鷲は舞い降りた」)[130]と言葉を発した。アームストロングがコールサインを「イーグル」から予行演習にはなかった「静かの基地(Tranquility Base)」に変更したことで、着陸を完遂して成功したことが強調されて聴取者たちに伝えられた[131]。それを聞いたデュークは、ミッション管制センターにいた人たちの安堵の気持ちを表し、 "Roger, Twan— Tranquility, we copy you on the ground. You got a bunch of guys about to turn blue. We're breathing again. Thanks a lot." (「了解、トゥワン……トゥランキリティ(「静か」の意)。月面にいる君たちの声、よく聞こえるよ。君らのおかげでたくさんの奴らが真っ青になりそうだった。ため息をついている。どうもありがとう」)と、一瞬言い淀みながらも応答した[4][132]。
着陸から2時間半後、船外活動の準備を始める前に、オルドリンは次のように地球に無線連絡した。
そのあと彼は、私的に聖餐式を行った[135]。この当時NASAは、アポロ8号の宇宙飛行士が月を周回中に聖書の創世記の一節を朗読したことに反対していた無神論者のマダリン・マレー・オヘアと係争中で、オヘアはNASAに対し、宇宙飛行士は宇宙にいる間は宗教的活動を放送することを控えるべきだと要求していた。それゆえ、オルドリンは月で聖餐式を行うことに直接言及することを差し控える選択をした。オルドリンはテキサス州ウェブスターにある長老派教会の長老で、聖餐用具は同教会の牧師であるディーン・ウッドラフが用意していた。ウェブスターの長老派教会は、このとき月で使用された聖餐杯を所有しており、毎年7月20日にもっとも近い日曜日を「月の晩餐の日」として記念行事を行っている[136]。
この任務のスケジュールでは、宇宙飛行士は5時間の睡眠時間で着陸のあとに続く作業を行うことが求められていたが、眠れないだろうと思った2人は早くに船外活動の準備を始めることを選択した[137]。
月面での活動
[編集]船外活動の準備は20日23:43に始まった[6]。準備は2時間で済むはずのところ、3時間半と想定よりも長くかかった[138]。地球上での訓練中には、必要とされるものはすべて前もってきちんと並べられていたが、月では、チェックリスト、食料の入った小包、用具のほかにも多くのものが船室内にあった[139]。アームストロングとオルドリンの外に出る準備が整うと、「イーグル」は減圧された[140]。02:39:33にハッチが開いた[6]。初め、アームストロングは船外活動用の生命維持装置(PLSS)を身に着けたままハッチを通り抜けようとする際にいくぶん苦労を要した[138]。アポロ宇宙飛行士たちの心拍数は月着陸船のハッチを出入りするときに最高値を記録することがよくあった[141]。02:51にアームストロングは月面へと降り始めた。胸の位置にある遠隔操作ユニット(RCU)のせいで、アームストロングは自分の足元が見えなかった。9段のはしごを降りながら、アームストロングはDの字型のリングを引いて、「イーグル」の側面に折り畳まれていたモジュール装置格納アセンブリ(Modular Equipment Stowage Assembly、MESA:器具収納部)を展開してテレビカメラを起動した[10][142]。
アポロ11号では、放送用のテレビジョン規格と互換性のない低速度走査テレビジョンが使用されたため、一度特殊なモニタに映像を表示させておき、そのモニタの映像を従来型のテレビカメラで撮影することで本放送されたが、その画質は著しく低減されることとなった[143]。テレビジョン信号はアメリカのゴールドストーンで受信されていたが、オーストラリアのキャンベラ近郊にあるハニーサックル・クリーク追跡基地が受信した信号のほうが忠実度が高くて鮮明だった。数分後、通信の中継基地は、より感度が良好なオーストラリアのパークス電波望遠鏡に切り替えられた[144]。幾多の技術的困難と天候不順があったにもかかわらず、史上初の月面での船外活動をとらえた、ぼんやりとした白黒の映像が地球上で受信され、世界中の少なくとも6億人の人々に向けて放送された[144]。この放送形式のビデオの複製物は保存されており、広く入手することが可能だが、低速度走査テレビカメラで撮影されて月から伝送された元の高画質の録画映像は、NASAの日常業務で磁気テープを再利用しているうちに誤って破損されてしまったようである[143]。
アームストロングは、はしごにかけたまま、月着陸船の下降段につけられていた(西半球と東半球の)2つの地球の図と銘刻、および3名の飛行士とニクソン大統領の署名が描かれた記念銘板を除幕した。記念銘板には次の文章が刻印されていた。
月の表面の塵について「とてもきめの細かい」「ほとんど粉のよう」と説明したあと[10]、着陸から6時間半が経とうとしていた02:56:15にアームストロングは「イーグル」の脚を支えている皿の上に降り立ち、次のように宣言した。
アームストロングは "That's one small step for a man" (「一人の男にとっては小さな一歩」)と言うつもりでいたが、通信音声では "a" という単語は聞き取りにくかったこともあって、当初、単語 "a" は生放送を視聴していた人の大多数には伝わっていなかった。のちにこの名文句について尋ねられたとき、アームストロングは "for a man" と言ったと思っていたと述べており、後年発行されたこの句の活字版には、角括弧付きで "a" が含められていた。ある解釈では、 "a" は欠落していたと主張され、彼は訛りによって "for a" の2単語を連続して不明瞭に発音したのだと説明されている。別の解釈では、パークス天文台付近の嵐をその一因とし、地球につないだ映像と音声の断続的性質で "a" の欠落を説明している。より最近のテープ音声のデジタル解析では、 "a" は発言されたかもしれないが、空電[注 4]のせいでよく聞き取れなかったことが明らかになったと主張されている[149][150][151]。
月面に足を踏み入れてからおよそ7分後、アームストロングは細長い棒で土壌サンプルを採取して試料袋に詰め、袋を畳み、右腿のポケットに押し込んだ。これは、万が一緊急時に飛行士たちが船外活動を断念して着陸船に戻らなければならなくなった場合でも、多少なりとも月の土壌を地球に持ち帰れるよう保証するための作戦行動(緊急採集[152])だった[153]。土壌サンプルの採取が完了して12分後[147]、アームストロングはMESAからテレビカメラを取り外し、月面のパノラマ映像を撮影してから、三脚の上にカメラを載せた[138]。テレビカメラのケーブルには一部に巻きつけられていたときの癖が残っていたため、船外活動中はずっと、それが螺旋状に曲がりくねったところに足を引っかけてつまづくおそれがあった。さらに、ハッセルブラッド製カメラを手に持ったり、アームストロングの宇宙服(アポロ/スカイラブ A7L)にかけたりして、月面の写真撮影が遂行された[154]。追ってオルドリンがアームストロングに続いて月面に降り立ち、月面の風景について、簡潔な言い方で "magnificent desolation" (荘厳なる荒涼)と表現した[10]。
アームストロングは、地球の6分の1しかない月の重力の中を移動するのは「ひょっとしたら地上での模擬訓練よりもよほど簡単かもしれない……歩き回るのにまったく何の問題もない」と述べた[10]。そこにオルドリンも加わって、両足で踏み切るカンガルー跳びなど、さまざまな歩き方を試した。すると、背中に生命維持装置を背負っているために上体が後ろに反る傾向はあるものの、バランスを取るには大した問題もなく、慣れてくると、むしろ大股で歩くのがよいことが分かった。ただし、移動する際は常に6、7歩先のことを予想して歩く必要があったり、粒の細かい土の部分はかなり滑りやすかったりしたので、注意を要した。また、太陽の照っているところから「イーグル」の影に入ったときには、宇宙服の中の温度はまったく変化がなかったが、ヘルメットの内部は日光で温められていたため、影に入ると冷たく感じられたとオルドリンは報告した[10]。MESAは安定した作業環境を提供することができず、また「イーグル」の影に隠れていたため、作業はいくぶん遅れることになった。2人が作業しているうちに月面を歩いたことで、灰色の砂埃が巻き上げられ、宇宙服の外皮を汚してしまった[154]。
2人はアメリカ合衆国の国旗を含む一組の旗を月面上のテレビカメラにはっきりと写るところに立てた。オルドリンはこのときを思い出して「私が月面でしなければならなかったすべての仕事のうち、もっとも順調に運びたかったことは国旗の掲揚でした」と語った[155]。ところが、繰り出し式の伸縮する棒が月面に刺す際に縮んでしまうことに悪戦苦闘し、旗竿は固い月の表面に2インチ(5センチ)ほどしか押しつけられなかった。オルドリンはテレビの視聴者の目の前で旗が倒れてしまいやしないかと心配しながらも、旗に向かってウエストポイント(陸軍士官学校)式の敬礼を行った[155]。そして、オルドリンが星条旗とアームストロングを被写体にした写真を撮るはずだった次の瞬間に、電話無線伝送を通じてリチャード・ニクソン大統領が飛行士たちに話しかけてきた。のちにニクソンはこの交信を「かつてホワイトハウスからかけられた中でももっとも歴史的な通話」と呼んだ[156]。ニクソンは当初、通話中に読み上げる長い演説文を用意していたが、当時NASAの連絡担当官でホワイトハウスにいたフランク・ボーマンは通話を手短に済ませるよう大統領を説得した[157]。
ニクソン: やあ、ニール、バズ。私はホワイトハウスの執務室から電話で君たちに話しかけています。そして、これはきっとこれまでにかけられた中でもっとも歴史的な通話になることでしょう。君たちの成し遂げたことがどれほど私たち皆の誇りに思うことか、言葉では言い表せないほどです。すべてのアメリカ人にとって、今日は生涯でもっとも誇るべき日となることでしょう。そして、世界中の人々もアメリカ国民とともに、これが何と素晴らしい偉業であることかを認めるだろうと私は確信しています。君たちが成し遂げたことで、天空は人間世界の一部となりました。そして、君たちが静かの海から私たちに呼びかけてくれたことで、私たちは地球に平和と静寂をもたらす努力をさらに強くしなくてはならないと奮い立たされます。全人類史の中でかけがえのないこの一瞬に、この地球上のすべての人々は真に一体となります。ひとつには、君たちが成し遂げたことに対する誇り、そしてひとつには、君たちが無事地球に帰還するようにとの祈りであります。 アームストロング: ありがとうございます、大統領閣下。合衆国のみならず、平和を愛するすべての国の人々、そして興味や好奇心、未来への展望を持つ人々を代表して、私たちがここにいることは誠に光栄かつ名誉なことです。今日ここにいられることを光栄に存じます。[158]
二人の飛行士は、月震を観測する受動型地震計実験装置(PSEP)と月レーザー測距実験用の再帰反射器(LRRR)を含む、初期アポロ科学実験パッケージ(EASEP)を展開した[159]。その際、オルドリンが2本のコアサンプルを集めている間に、アームストロングは着陸船から196フィート(60メートル)歩いて、リトル・ウェスト・クレーターの周縁部でスナップ写真を撮った。アームストロングは岩石ハンマーを使用してコアサンプル採取用のチューブを打った。アポロ11号でハンマーが使われたのはこのときだけだったが、6インチ(15センチ)よりも深く貫通させることはできなかった。2人はスコップや伸張式の鋏を使って岩石試料を採集した。月面での活動の多くは想定よりも長引いたため、2人は割り当てられていた34分間の活動時間の中ごろで、採集した試料について文書に記載する手を止めなくてはならなかった。荷崩れしないように、オルドリンは採集した岩石を入れた箱に6キログラム(13ポンド)の土をシャベルですくって入れた[160]。採集された地質試料には玄武岩と角礫岩の2種類の岩石が含まれていたことがわかった[161]。また、採集した岩石試料からは、新種の鉱物としてアーマルコライト、トランキリティアイト、パイロクスフェロアイトの3種が発見された。このうち、アーマルコライト(Armalcolite)はアームストロング(Arm)、オルドリン(al)、コリンズ(col)の3名の宇宙飛行士の名にちなんでいる。これらの鉱物はすべて、のちに地球上でも見つかっている[162]。
ミッション管制センターは暗号的な言葉を使用して、アームストロングに代謝率が高めであることを警告し、作業のペースを落とすように伝えた。彼は時間切れになるまで月面を素早く移動しては次から次へと任務をこなしていた。月面を歩行している間は、2人の飛行士の代謝率はおおむね予想されていた値よりも低かったため、管制センターは両飛行士に15分間の活動延長を許可した[159][163]。2010年のインタビューで、アームストロングは、当時NASAが最初の月面歩行の時間と距離に制限をかけていたことを明かした。その理由は、月面で作業する間に飛行士たちの発する熱を下げるために、背中に備えられた生命維持装置がどの程度の量の冷却水を消費するかについて、経験に基づく裏付けが取れていなかったことによるものだった[164]。
月からの上昇
[編集]予定されていた船外活動をすべて消化すると、まずオルドリンが先に「イーグル」に戻った。採集した岩石や撮影したフィルムなどを収めた箱は重量が21.55キログラム(47.5ポンド)に上り、月装備運搬装置(Lunar Equipment Conveyor、LEC)と呼ばれるフラットケーブル滑車装置で引っぱり上げたが、ハッチから船内に入れるのには若干苦労した。この方法は効率的でないことが証明されたため、後継のミッションでは機材や試料は手で持って船に荷揚げするようになった[138]。アームストロングは宇宙服の袖のポケットに入っている記念品の袋を月面に残すのを忘れないようにとオルドリンに念を押し、オルドリンは月面に袋を放り投げた[165]。それから、アームストロングははしごの3段目まで一気にジャンプして飛び乗り、はしごを上って船内に入った。船内の生命維持システムに移ったあと、月周回軌道まで帰るための「イーグル」上昇段の明かりをつけ、宇宙服の船外活動用生命維持装置、月面靴、空のハッセルブラッド製カメラなど、不要になった機材を放り捨てて、21日05:01にハッチを閉め、船内を与圧し、2人はようやく月面で初めての睡眠についた[166]。
ニクソン大統領のスピーチライターだったウィリアム・サファイアは、最悪の事態として、万一アポロ11号の宇宙飛行士たちが月で遭難した場合を想定して、大統領がテレビ演説で読み上げるIn Event of Moon Disaster (月で災難の場合)と題した追悼文を用意していた[167]。その不測の事態に対応するための計画は、セイファイアからニクソンの大統領首席補佐官だったH・R・ハルデマンに渡されたメモが発端だった。そのメモには、もしアポロ11号が不慮の事態に見舞われ、ニクソン政権がそれに対する反応を求められるかもしれなかった状況を想定して、セイファイアが作成した追悼の言葉の原案が示されていた[168][169]。その計画によれば、ミッション管制センターが月着陸船との「交信を絶つ」と、聖職者が海葬になぞらえた公的儀式で「彼らの魂を深い淵の底に委ねる」手はずだった。用意された原稿の最後の一行では、ルパート・ブルックが第一次世界大戦期に詠んだ詩『兵士』にそれとなく言及している[169]。
オルドリンは船内で作業しているとき、月面から離陸するために使用する上昇用エンジンを作動させる回路ブレーカーのスイッチを誤って壊してしまった。このことで、船のエンジンの点火が妨げられ、彼らは月面に取り残されてしまう懸念があった。幸いにも、フェルトペンの先でスイッチを作動させることができたが、もしもそれがうまくいかなければ、上昇用エンジンを点火するために着陸船の電気回路は構成し直されていたかもしれなかった[166]。
21時間半以上を月面で過ごした2人は、科学観測機器のほか、1967年1月に訓練中の火災事故で犠牲になった3名の飛行士(ロジャー・チャフィー、ガス・グリソム、エドワード・ホワイト)を追悼してアポロ1号のミッションパッチを、また古くから平和の象徴とされてきたオリーブの枝を模した金のレプリカの入った記念袋を、そして地球からのメッセージを収めたシリコンディスクを月面に残してきた。ディスクには、アメリカのアイゼンハワー、ケネディ、ジョンソン、ニクソンの歴代大統領からの親善声明文や世界73か国の指導者たちから寄せられたメッセージが収録されていたほか、アメリカ合衆国議会の代表者たち、NASAの設立に尽力した上下両院の4つの委員会のメンバー、およびNASAの歴代長官の名前の一覧も記録されていた[170]。
およそ7時間の睡眠ののち、アームストロングとオルドリンはヒューストンからの目覚ましによって起こされ、帰還飛行の準備を始めるよう指示された。2時間半後の21日17:54:00(UTC)に2人は「イーグル」の上昇段エンジンを点火して月を離陸し、コリンズが搭乗している月周回軌道上の司令船「コロンビア」を目指した[147]。月面離陸時に「イーグル」の上昇段から撮影された映像には、月面に残された下降段から25フィート(8メートル)ほど離れた場所に立てられた星条旗が、上昇段エンジンの噴射で激しくはためく様子がとらえられていた。オルドリンはちょうど旗がぐらついて倒れるのを目撃し、「上昇を始めたとき、私はコンピュータの操作に集中し、ニールは姿勢指示器を注視していたが、私は旗が倒れるのを長い間見ていられた」と報告した[171]。そのため、以後のアポロミッションでは、上昇段エンジンの噴射で吹き飛ばされることのないように、星条旗は着陸船から離れた位置に立てられることになった[172]。
月軌道上の「コロンビア」
[編集]単独で月を周回する飛行を続けていた間、コリンズはまったく寂しさを感じることはなかった。「アダム以来、そのような孤独を知る者はいない」といわれているが[173]、コリンズはそれを使命の一部だと強く感じていた。コリンズは自叙伝の中で、「この冒険は3人の男で構成されたものであり、3番手の私も、ほかの2人のいずれかと同様になくてはならないものなのだと思う」と記している[173]。月を周回する「コロンビア」が月の裏側を飛行して、地球との無線連絡ができない48分間の間にコリンズが感じたのは、不安でも孤独でもなく、むしろ「意識、予感、満足、自信、歓喜に近い感覚」であったと綴っている[173]。
コリンズの最初の任務のひとつに、月面上の月着陸船の位置を特定することがあった。どこを探せばよいかの見当をつけるために、ミッション管制センターはコリンズに月着陸船は目標地点から4マイル(6.4キロ)ほど離れた辺りに着陸したようだと無線で伝えた。コリンズは着陸地点と思しき辺りの上空を通過するたびに月着陸船を見つけようとしたが、不可能だった。初めて月の裏側を飛んだとき、コリンズは燃料電池によって生成された余分な水を捨てたり、アームストロングとオルドリンの帰りを迎えるために船室を整理整頓するなど、船内の環境整備活動を行った[174]。
3周目の周回で月の裏側に入る直前に、ミッション管制センターはコリンズに冷却液の温度に問題があると知らせた。冷却しすぎるようなことがあれば、「コロンビア」の部品が凍結してしまうかもしれなかった。ミッション管制センターは、手動制御に切り替えたうえで、環境制御システム故障時の手順17(Environmental Control System Malfunction Procedure 17)を実施するよう、コリンズに助言した。ところが、コリンズはその代わりとして、問題を引き起こしているシステムのスイッチを自動から手動に入れて、また自動に戻し、冷却剤の温度を注視しながらも、日課となっていた通常の管理保全作業を続行した。「コロンビア」が再び月の表側に出たときには、問題は解決したと報告することができた。それから次の2、3周は、月の裏側で過ごす時間が「ほっとする」("relaxing")時間だったとコリンズは記している。アームストロングとオルドリンがすべての船外活動を終えてからは、コリンズは来たるべきランデブーに備えて睡眠休憩をとることができた。「コロンビア」が「イーグル」を迎え入れる飛行計画に応じて、コリンズは一定の不測の事態に備えて「コロンビア」を「イーグル」のところまで降下させられるような準備ができていた[175]。
帰還
[編集]7月21日21:24(UTC)に「イーグル」は「コロンビア」とランデブーし、21:35に2機はドッキングした。「イーグル」の上昇段は23:41に月周回軌道に投棄された[3]。アポロ12号の飛行の直前には、「イーグル」は依然として軌道上に留まっているようであることが確認されたが、のちに出されたNASAの報告書には、「イーグル」は軌道が次第に減衰した結果、月面の「不確かな場所」("uncertain location")に衝突したのだろうと記されている[176]。
7月22日04:56(UTC)にアポロ11号は機械船の推進エンジンを2分半噴射して[177]月周回軌道を離れ[178]、同日05:30(UTC)に月の裏側で地球帰還軌道に乗り (TEI)[179]、地球への帰路に就いた。
7月23日、着水前の最後の夜に、3名の宇宙飛行士はテレビ放送で次のようにコメントした[180]。最初にコリンズが、
……我々を軌道に乗せたサターンV型ロケットは信じられないほど複雑な機械ですが、すべての部品は完璧に動作してくれました……我々は常に、この装置が正しく作動してくれることを確信していました。これはすべて、多くの人々が流した血と汗と涙によってのみ、可能になったことです……今皆様が目にしているのは私たち3人だけですが、水面下では何千、何万もの人たちによって支えられているのです。そして私は、それらすべての人々に申し上げたいです。「心からありがとう」と。[181]
と述べ[182]、続いてオルドリンが、
と加え[184]、最後にアームストロングが、
この飛行に対して責任を担ってきたのは、まず第一に、この取り組みに先立つ科学の歴史とそれを築き上げてきた偉人たち、次いで、自らの意思を通じてこれを成し遂げたいという願いを表明したアメリカ国民、そして、国民の意思に従い、それを履行した四代にわたる政権と連邦議会、さらに、我々の宇宙船やサターンロケット、司令船「コロンビア」、月着陸船「イーグル」、そして月面における小さな宇宙船とも言うべき宇宙服と生命維持装置、船外活動ユニットなどを作り上げた政府機関や企業のチームなどです。我々は、この宇宙船を設計し、建造し、試験し、飛行させるために心血を注ぎ、持てる限りの能力を発揮してくれたすべてのアメリカ人に対し、特別の感謝を捧げたく存じます。我々は今夜、それらの方々に対して特別の感謝の言葉を申し上げるとともに、今夜この放送を見聞きしている人々に神の祝福があらんことを祈ります。アポロ11号より、おやすみなさい。[181]
と締めくくった[185]。
地球への帰還に際して、グアムの追跡基地で装置の軸受が故障したことで、もしかすると地球帰還時の連絡に関して最後の一部分の受信が妨げられていた可能性があった。定期的な修復作業では与えられた時間内に作業を終えるのは不可能だったが、基地の主任だったチャールズ・フォースには10歳になる息子グレッグがいて、軸受箱の中にその小さな手を入れてグリスを塗ってもらって急場をしのいだ。お手柄のグレッグはのちにアームストロングから感謝された[186]。
着水と検疫
[編集]6月5日、カール・J・セイバーリック大佐指揮下の航空母艦ホーネットが、5月26日にアポロ10号を回収した姉妹艦のヘリコプター揚陸艦プリンストンに代わって、アポロ11号の主回収船(primary recovery ship、PRS)に選ばれた。当時、ホーネットは母港であるカリフォルニア州ロングビーチにあった。7月5日に真珠湾に到着したホーネットは、アポロ宇宙船の回収任務を専門とするHS-4のSH-3 シーキング数機、水中爆破班アポロ特派部隊(UDT Detachment Apollo)の専門ダイバーたち、NASAの回収班35人およびメディア関係者約120人を乗船させた。空間を確保するため、ホーネットの艦載機の多くはロングビーチに残してきていた。訓練用のボイラープレート(ダミーの宇宙船)を含む、特殊な回収用機材も積み込まれた[187]。
7月12日、アポロ11号がまだ発射台にあったころにホーネットは中部太平洋の回収海域(北緯10度36分 東経172度24分 / 北緯10.600度 東経172.400度付近[188])に向けて真珠湾を出港した[189]。ニクソン大統領、ボーマン連絡担当官、ウィリアム・P・ロジャース国務長官、ヘンリー・キッシンジャー国家安全保障担当補佐官からなる大統領一行は、エアフォースワンでジョンストン環礁まで飛び、そこで指揮艦アーリントン艦上のマリーンワンに乗り込んだ。大統領一行は艦上で一夜を過ごしたあと、数時間の式典のためにマリーンワンでホーネットまで飛んだ。ホーネット艦上に到着すると、大統領一行は、ホーネットの艦上輸送機でパゴパゴから飛来していたアメリカ太平洋軍最高司令官のジョン・S・マケイン・ジュニア大将とNASA長官のトマス・O・ペインからあいさつを受けた[190]。
当時、気象衛星はまだ一般的なものではなかったが、アメリカ空軍のハンク・ブランドリ大尉は最高機密である偵察衛星の画像にアクセスすることができた[191]。その衛星画像から暴風雨前線がアポロ宇宙船の回収海域に向かっていることが分かった。視界不良はこのミッションにとって深刻な脅威であった。もしヘリコプターが「コロンビア」の位置を特定できなければ、宇宙船と搭乗員、および月の石などの貴重な貨物が失われてしまうおそれがあった。ブランドリは、要保全許可[注 5](required security clearance)を有していた真珠湾の艦隊気象センターの司令官、海軍のウィラード・S・ヒューストン・ジュニア大将に警報を発した。彼らの勧告に基づき、太平洋・有人宇宙船回収部隊(Manned Spaceflight Recovery Forces, Pacific)の司令官、ドナルド・C・デイヴィス少将はNASAに回収海域を変更するよう忠告した[192]。これにより、新たな回収海域が指定され[193]、元の回収海域から北東に215海里(398キロメートル)の辺りで回収されることになった[194]。
回収海域の変更は飛行計画にも影響を及ぼした。異なるシーケンスのコンピュータ・プログラムが使用されていたが、その1つは以前に試用されたことがなかった。従来の入力では、P64の次にP67が続いていたが、スキップアウトされた部分の再入力は、P65を用いて一旦終了したうえで、P66でスキップ部分を入力する方法が採られていた。この場合、それらは再入力部を展開していたが、実際にはスキップアウトしていなかったため、P66は呼び出されず、代わりにP65が直接P67を導いた。搭乗員も、P67を入力した場合、フルリフト(頭が下になる)姿勢にならないとの警告を受けていた[194]。飛行士たちは最初のプログラムの指令で6.5標準重力加速度 (64 m/s2)の加速度を受け、2番目のプログラムで6.0標準重力加速度 (59 m/s2)の加速度を体感させられることとなった[195]。
7月24日の夜明け前、ホーネットから4機のシーキング・ヘリコプターと3機の艦上早期警戒機E-1が発進した。うち2機のE-1は "air boss"(空中指揮機)に指定され、3機目は通信中継機として行動した。2機のシーキングはダイバーたちと回収用機材を輸送した。3機目は写真撮影機材を、4機目は除染を担当するスイマーと航空医官を、それぞれ輸送した[196]。16:44(UTC、現地時間05:44)に「コロンビア」の減速用パラシュートが開いたのをヘリコプターが確認した。7分後に「コロンビア」は船体を力強く水面に叩きつけられ、ウェーク島の東方2,660キロ(1,440海里)、ジョンストン環礁の南方380キロ(210海里)、ホーネットからの距離わずか24キロ(13海里)の地点(北緯13度19分 西経169度9分 / 北緯13.317度 西経169.150度[197])に着水した[3][194]。着水 (splashdown) 時に「コロンビア」は上下逆さまに落下したが、飛行士たちが作動させた浮力袋によって10分以内に立て直された[198]。上空でホバリングする海軍のヘリコプターから下りてきたダイバーが、船が漂流することのないように「コロンビア」に海錨を取りつけた[199]。別のダイバーらは船を安定させるために「コロンビア」に浮揚環管を取りつけ、宇宙飛行士たちを下船させるためのボートを船の横につけた[200]。
ダイバーらは宇宙飛行士たちに生物隔離服(biological isolation garment、BIG)を渡し、救命ボートに乗るのを補助した。月面から病原体を持ち帰る可能性はごくわずかだと考えられたが、NASAは念のため回収現場で予防措置をとった。宇宙飛行士たちは次亜塩素酸ナトリウム製剤を使用して身体を擦り拭かれ、「コロンビア」は船体に付着しているかもしれない月の塵をベタダインを使って拭き取られた。宇宙飛行士たちはウインチで引き揚げられ、回収ヘリコプターに乗せられた。ホーネット艦上の隔離施設に到着するまでの間、宇宙飛行士たちは生物隔離服を着用させられた。除染物質を積んだボートは故意に沈められた[198]。
ヘリコプターは17:53(UTC)にホーネット艦上に着地したあと、そのままエレベーターで格納庫へと下ろされ、そこで宇宙飛行士たちは移動式隔離施設(Mobile Quarantine Facility、MQF)まで30フィート(9.1メートル)歩いて施設内に入り、地球ベースで21日分の検疫期間が開始されることになった[201]。この措置は、後続のアポロ12号とアポロ14号の2つのミッションでも実施されたが、のちに月に生命が存在しないことが証明されると、検疫措置は取りやめになった[202]。ニクソン大統領は地球に帰還した宇宙飛行士たちを歓迎し、「君たちが成し遂げたことのおかげで、世界はこれまでになく一層親密になった」と伝えた[203]。
ニクソンが出発したあと、ホーネットは重量5米トン(4.5トン)の「コロンビア」に近づいて舷側に寄せ、艦のクレーンを使って船を引き揚げ、台車に載せてMQFの隣まで運び込んだ。そして、「コロンビア」は伸縮可能なトンネルでMQFと接続され、月試料、フィルム、データテープおよびその他の積み荷が取り出された。ホーネットが真珠湾に帰港すると、そこでMQFはC-141に載せられて有人宇宙船センターまで空輸された。7月28日10:00(UTC)に宇宙飛行士たちは月試料受入研究所(Lunar Receiving Laboratory)に到着した。一方、「コロンビア」は不活性化のためにフォード島に運ばれ、火工品類が安全に処理された。その後、ヒッカム空軍基地に運ばれ、そこからC-133でヒューストンに空輸されて7月30日に月試料受入研究所に到着した[204]。
7月16日にNASAが発布した一連の規定[205]、地球外暴露法に従い、検疫試験計画が成文化され、宇宙飛行士たちの検疫が続けられた。しかし、3週間の隔離(まず最初にアポロ宇宙船内で、次にホーネット艦上のMQF内で、最後に有人宇宙船センターの月試料受入研究所内で)を経て、宇宙飛行士たちに完全健康証明書が与えられた[206]。1969年8月10日にアトランタで、逆汚染に関する庁間委員会(Interagency Committee on Back Contamination)の会合が開かれ、宇宙飛行士たち、飛行士の検疫に従事した者たち(NASAの医官ウィリアム・カーペンティアとMQFプロジェクト技師ジョン・ヒラサキ)[207]、およびコロンビア号自体の隔離がようやく解かれた。宇宙船から取り外せる備品は、月試料が研究用に公開されるまでの間、隔離されたままだった[208]。
祝賀
[編集]8月13日、ニューヨークとシカゴで、推計600万人の見物客を脇に見ながら、紙吹雪の舞う中、名誉ある盛大な祝賀パレードが挙行され、3人は歓迎と祝福を受けた[209][210]。同日の晩にはロサンゼルスのセンチュリー・プラザ・ホテルで、合衆国議会議員、44州の知事、合衆国最高裁判所長官、83か国の大使らが出席して、今回の飛行を記念する公式晩餐会 (state dinner) が開かれた[209]。その席上で、ニクソン大統領とアグニュー副大統領から各宇宙飛行士の栄誉を称えて大統領自由勲章が授与された[209][211]。
1969年9月16日、3人の飛行士は合衆国議会上下両院合同会議の開会前にスピーチし、月面に持って行った2枚の星条旗のうちの片方を下院に、もう片方を上院に贈呈した[212]。アポロ11号によって月に持ち込まれたアメリカ領サモアの旗は、アメリカ領サモアの首都パゴパゴにあるジーン・P・ヘイドン博物館に展示されている[213]。
この祝賀行事は38日間に及ぶ世界周遊の旅の始まりであった。この旅行中に3人の宇宙飛行士は22か国を歴訪[注 6]し、多くの国々の指導者たちを表敬訪問した[215]。旅は9月29日から11月5日まで続いた[215][216][217]。多くの国では、人類史上初の月面着陸の栄誉を称える雑誌の特集が組まれたり、アポロ11号の記念切手や記念硬貨が発行されたりした[218]。
遺産
[編集]文化的意義
[編集]人間が月面を歩き、安全に地球に帰還したことで、その8年前に設定されたケネディの目標は達成された。アポロ11号が着陸したとき、ミッション管制センターではケネディの演説が画面に映し出され、"TASK ACCOMPLISHED, July 1969"(「1969年7月、任務達成」)の文字が表示された[219]。アポロ11号の成功によってアメリカ合衆国がほかの国々よりも技術的に優位にあることが証明された[219]。アポロ11号の成功をもって、アメリカは宇宙開発競争に勝利したのである[220][221]。
それにともなって、英語には新しいフレーズが浸透した。アポロ11号にかけて "If they can send a man to the Moon, why can't they..." (「もしも彼らが人を月に送ることができるなら、なぜ彼らは...できないのか」転じて「人類に人を月に送り込む英知があるのなら、どんな問題だって解決できるさ」の意)という文句がよく使われる言い習わしとなった[222]。アームストロングが月面で発した名言も、数え切れないほど多くのパロディを派生させた[220]。
任務を達成したことが盛大に祝われた一方で、公民権を剥奪されたアメリカの人々はこれをアメリカの格差の象徴と見ていた。それはアポロ11号の打ち上げ前日にケネディ宇宙センターの外側で抗議する人たちがいたことに裏付けられた[223]。ただし、だからといって彼らがそのことに畏敬の念を抱いていないわけではなかった。抗議の行進を主導したラルフ・アバナシーはアポロ11号のあまりに壮観な打ち上げに魅了され、抗議活動で何を言おうとしていたかを忘れてしまった[94]。アポロ計画に費やす金があるなら、どうしてそれを地球上の人間の世話をするために使わないのかと思った市民らは、人種的および金銭的な不平等に不満を募らせた。ギル・スコット・ヘロンによる "Whitey on the Moon" (「白んぼは月に行く」[注 7]の意)と題された詩は、宇宙開発競争で際立たせられたアメリカ合衆国における人種的不平等を物語っている[220][224][225]。この詩の歌い出しは次のようなものであった。
A rat done bit my sister Nell.
(with Whitey on the moon)
Her face and arms began to swell.
(and Whitey’s on the moon)
I can’t pay no doctor bill.
(but Whitey’s on the moon)
Ten years from now I’ll be paying still.
(while Whitey’s on the moon)[225]
鼠が姉/妹ネルに噛み付いた
(白んぼは月に行くというのに)
彼女の顔と両腕が腫れ始めた
(それでも白んぼは月に行く)
俺らは医療費なんて払えない
(だけど白んぼは月に行く)
十年後も支払ってるだろうさ
(白んぼが月に行く間に)
世界の人口の20パーセントの人々が、人類が初めて月面を歩く瞬間を見ていたと言われている。アポロ11号は世界中の関心を集めたが、後続のアポロ・ミッションは国民の関心をつかむことはなかった[219]。このことは複雑さの変化で説明できそうである。人間を月に着陸させることは理解しやすい目標であったのに対し、月質学(月の地質学)は平均的な人にとってあまりにも抽象的すぎたのであった。また、ケネディの掲げた人類を月に着陸させる目標がすでに達成されてしまったこともその一因となった[226]。目的が明確に定義されていたことはアポロ計画がその目標を達成する助けとなったが、目標が達成されたあととなっては、月飛行ミッションを継続する正当な理由を説明することが難しくなった[227][228]。
ほとんどのアメリカ人が宇宙探査で国家的目標を達成したことに誇りを持っていたころ、1960年代後半に一度だけ実施されたギャラップ調査(世論調査)では、アメリカ人の大多数が宇宙開発を「あまりしない」よりも「もっとする」ことを支持していたことが示された。しかし、1973年になるころには、59パーセントの人々が宇宙探査にかける費用を削減すべきだと回答するまでになった。米国とソ連がデタントの時代に入ると、宇宙開発競争は終わりを迎え、冷戦の緊張も緩和されていった。このころはちょうどインフレーションが始まった時期でもあり、支出を削減するよう政府に圧力がかけられた。宇宙計画が経費節減から救われたのは、それが何か偉大なことを成し遂げた数少ない政府の事業のひとつだったためである。抜本的に削減すれば、行政管理予算局の副局長だったキャスパー・ワインバーガーに「我々にとっての絶好の時期が遅れている」とのメッセージを送ることになるかもしれないとして警戒された[229]。
アポロ11号ミッションのあと、ソ連の当局者らは人間を月に着陸させるのは危険で不必要なことだったと発言した。当時ソ連は無人探査機を使って月の試料を回収しようとしていた。ただし、ソ連は公には月着陸競争の存在を否定しており、そのような試みがなかったことを示していた[230]。ソ連の科学者ムスチスラフ・ケルディシュは1969年7月に「我々は大規模な衛星システムの開発にすべてを注力しているところだ」と語った。月に人間を送り込もうとしていたが、技術的困難のために実現しなかったとソ連が明らかにしたのは1989年のことだった[231]。ソ連の一般の人々の反応は複雑なものであった。ソ連政府が(アポロ11号の)月面着陸に関する情報の公開を制限したことも人々の反応に影響を及ぼした。ソ連の民衆の一部はアポロの月面着陸に何ら関心を示さず、別の一部にはそのことに怒りを覚える者もいた[232]。
宇宙船
[編集]地球に帰還した司令船「コロンビア」はアメリカの49州の州都と首都コロンビア特別区およびアラスカ州アンカレッジで巡回展示された[233]。その後、1971年にスミソニアン協会に移管され、ワシントンD.C.にある国立航空宇宙博物館(National Air and Space Museum、NASM)で展示された[234]。「コロンビア」が展示された場所は同博物館のジェファーソン・ドライブ入口正面にある中央のMilestones of Flight展示ホールで、メインホールにはほかに、ライトフライヤー号、スピリットオブセントルイス号、ベルX-1、ノースアメリカンX-15、マーキュリー宇宙船・フレンドシップ7号など、アメリカの航空宇宙史を開拓してきた機体が展示されている[235]。
2017年に「コロンビア」はバージニア州シャンティリーにあるスティーブン・F・ウドバー=ハジー・センターのメアリー・ベイカー・エンゲン修復用格納庫(NASM Mary Baker Engen Restoration Hangar)に移され、アポロ11号の月面着陸50周年を記念して4都市で開催されるDestination Moon: The Apollo 11 Mission(目的地・月:アポロ11号の使命)と題した巡回展に向けて準備が進められた。この巡回展は、2017年10月14日から2018年3月18日までスペースセンター・ヒューストンにて、2018年4月14日から同年9月3日までセントルイス科学センターにて、2018年9月29日から2019年2月18日までピッツバーグのハインツ歴史センターにて、2019年3月16日から同年9月2日までシアトルの航空博物館にて、それぞれ開催される[236][237]。
アームストロングとオルドリンの宇宙服は40年間、同博物館内のApollo to the Moonコーナーに展示されていた[238] が、2018年12月3日をもって同展示コーナーは永久に閉鎖され、それに代わる新しい展示コーナーが2022年にオープンする予定である。アームストロングの宇宙服は2019年7月にアポロ11号が50周年を迎えるのに合わせて特別展示されることが企画されている[239]。隔離施設、浮揚環管、転覆した船体の立て直しに用いられた浮力球は、バージニア州シャンティリーのワシントン・ダレス国際空港に近いスミソニアン協会のスティーブン・F・ウドバー=ハジー・センターの別館にあり、月着陸船の試験機とともに展示されている[240][241][242]。
月着陸船「イーグル」の下降段は月面に残されたままである。2009年、ルナー・リコネサンス・オービター(Lunar Reconnaissance Orbiter、LRO)が、歴代のアポロ宇宙船の着陸地点を、月着陸船の下降段、科学観測機器、宇宙飛行士の足跡などを見分けられるほど十分に高い解像度で、初めて画像化することに成功した[243]。上昇段の遺物は、投棄されて月に衝突したあと、月の表面の不明な場所にあると推定されている。場所が不確かである理由は、「イーグル」上昇段は投棄されたあとに追跡されていなかったこと、そして月の重力場が十分に一様ではないために、少々時間を置いたあとでは宇宙船の軌道が予測不可能になってしまうことによる[244]。
2012年3月、Amazonの創業者ジェフ・ベゾスから資金提供を受けた専門家チームによって、アポロ11号を宇宙へと打ち上げたサターンVのS-IC段からF-1エンジンの場所が突き止められ、実際に先進的な走査型超音波探知機を用いて大西洋の海底で5基のエンジンが発見された[245]。そして、5基のうち2基の部品が引き揚げられた。2013年7月、そのうちの1基のエンジンの錆びついた表面の下にシリアルナンバーが記載されているのを管理人が発見し、NASAはそれがアポロ11号の打ち上げで使われたものであることを確認した[246][247]。エンジンは修復された後、シアトルのミュージアム・オブ・フライトに寄贈され一般公開されている。
アポロ11号の月遷移投入に能力を発揮したサターンVの第三段S-IVBは、地球の公転軌道に近い、太陽周回軌道上に留まっている[248]。
月の石
[編集]アポロの月の石のおもな保管場所は、テキサス州ヒューストンのジョンソン宇宙センター内の月試料実験室施設にある。安全に保管するために、ニューメキシコ州ラスクルーセス近郊のホワイトサンズ試験施設にも、より小規模なコレクションが収蔵されている。月の石のほとんどは湿気ないように窒素の中に保存されている。取り扱う際は直接手で触れないように、特殊な用具が使われる。世界中の100以上の研究実験室がこの試料に関する研究を実施しており、毎年およそ500点の試料が用意され、研究者に発送されている[249][250]。
1969年11月にニクソンは、135か国とアメリカ合衆国の50州および属領、ならびに国際連合に贈呈するアポロ11号月試料展示品を約250点作るよう、NASAに依頼した。各展示品にはアポロ11号が持ち帰った月の塵が含まれていた。米粒程度の大きさの粒子は月の土の4つの小片で、重さは約50ミリグラムあり、アメリカ合衆国の50セント硬貨と同じくらいの大きさの透明なアクリル製のバッジに覆われていた。このアクリル製のバッジによって月の塵の粒子は拡大されて見えるようになっている。アポロ11号の月試料展示品は1970年にニクソンより親善の品として贈呈された[251][252]。
受動的地震実験(Passive Seismic Experiment、PSE)の実験装置は、1969年8月25日に地上局からの指令アップリンクが使えなくなるまで運用された。ダウンリンクは1969年12月14日に途絶えた[253]。2018年時点で、月レーザー測距実験(Lunar Laser Ranging experiment)は運用が続けられている[254]。
40周年記念行事
[編集]2009年7月15日にLife.comは、同誌の写真家だったラルフ・モースがアポロ11号の打ち上げに先立って撮影した宇宙飛行士の未公表写真をウェブ上の写真ギャラリーで公開した[255]。2009年7月16日から24日まで、NASAはアポロ11号ミッションで流れた本物の音声を40年前の月飛行の実時間に合わせてストリーミング配信した[256]。さらに、当時のビデオフィルムの復元作業が進められており、重要な場面を集めた予告編が公開されている[257]。2010年7月、アポロ11号が月へ降下して着陸するまでの間に宇宙から地球に伝送されたミッション管制センターの音声録音とフィルム映像が再同調され、初めて公開された[258]。ジョン・F・ケネディ大統領図書館・博物館は、アポロ11号が打ち上げられてから月に着陸するまでの交信記録を再放送するAdobe Flashウェブサイトを立ち上げた[259]。
2009年7月20日、アポロ11号の搭乗員だったアームストロング、オルドリン、コリンズの3名は、ホワイトハウスでバラク・オバマ大統領と面会した[260]。オバマは「私たちが話しているように、向こうで空を見上げる別世代の子どもたちが、次なるアームストロング、コリンズ、オルドリンになろうとすることを期待しています」と述べ、「彼らが(月への)旅路につきたいとき、彼らのためにNASAがそこを目指していることを確実にしておきたい」と加えた[261]。2009年8月7日、合衆国議会の法令により、アメリカで文民に贈られる最高位の賞である議会黄金勲章がこの3名の宇宙飛行士に授与された。この法案は、フロリダ州選出の上院議員ビル・ネルソンと、同じくフロリダ州選出の下院議員アラン・グレイソンに支持されたものだった[262][263]。
イギリスの科学者グループは、40周年記念行事の一環として行われたインタビューで、月面着陸の意義に反応して次のように答えた。
50周年記念行事
[編集]2015年6月10日、アメリカ合衆国のビル・ポージー議員(共和党・フロリダ州選出)は、合衆国議会下院の第114会期にて、合衆国造幣局に対し、アポロ11号ミッションの50周年を記念して、金、銀および被覆金属を使用した記念硬貨をデザインして発行するよう指示する決議案(H.R. 2726)を提出した。2019年1月24日、合衆国造幣局は公式ウェブサイト上で記念硬貨を一般に公開した[266][267]。
その他
[編集]ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームにはアポロ11号の宇宙飛行士のための丸い星が、ハリウッド・バイン(交差点)の四方にある。これはアポロ宇宙船の月面着陸が「テレビ放送業界に貢献」したという意味からである[要出典]。
陰謀論
[編集]アポロ11号の月面着陸は人類史にとって輝かしい成果を残したが、その一方で、これがねつ造であったとする主張がある。この陰謀論を信じる者は世界中に数多く存在しており、ねつ造であったと実証を試みるウェブサイトも数多くある。彼らが唱える主張は以下の通りである[注 8]。
- アポロ11号の月面着陸は嘘であり、その様子とされる映像や写真は、ハリウッドのスタジオで撮影された。
- NASAにはアポロのような途方もない計画を成功させる技術的ノウハウはなかった。
- 宇宙飛行士だったら宇宙線で焼かれて死んでいるはずなので、月面に着陸していたとしてもそれは人間ではなかった。
- 月面着陸には宇宙人が関与しており、宇宙飛行士らが発見した月の文明と共に隠ぺいされた。
- 月面での活動の様子とされる写真やビデオ映像におかしな点がいくつもある。
これらの主張は、科学者によって反証されており、誤りであることが明らかになっている[268]。
注釈
[編集]- ^ 徽章内には宇宙飛行士名を入れるのが以前からの通例となっており、これはその後のアポロやスカイラブ計画、スペースシャトル計画などでも行われているため、今回は異例の措置となった。
- ^ うち3つ(宇宙飛行士1人につき1つ)が打ち上げ前に「コロンビア」に、2つが「イーグル」に積み込まれた。
- ^ 後にウエストと命名された。
- ^ 空電とは、雷などの大気中の放電によって生じる電磁波で、ラジオなどの受信機の雑音の原因となる。
- ^ 機密情報の取扱許可
- ^ 旅程《ワシントンD.C./米国(9月29日)–メキシコシティ/メキシコ(9月29日-30日)–ボゴタ/コロンビア(9月30日-10月1日)–ブラジリア/ブラジル(10月1日)–ブエノスアイレス/アルゼンチン(10月1日-2日)–リオデジャネイロ/ブラジル(10月2日-4日)–ラス・パルマス/カナリア諸島(10月4日-6日)–マドリード/スペイン(10月6日-8日)–パリ/フランス(10月8日-9日)–アムステルダム/オランダ(10月9日)–ブリュッセル/ベルギー(10月9日-10日)–オスロ/ノルウェー(10月10日-12日)–ケルンとボンとベルリン/西ドイツ(10月12日-14日)–ロンドン/英国(10月14日-15日)–ローマ/イタリア(10月15日-18日)–ベオグラード/ユーゴスラビア(10月18日-20日)–アンカラ/トルコ(10月20日-22日)–キンシャサ/ザイール(10月22日-24日)–テヘラン/イラン(10月24日-26日)–ボンベイ/インド(10月26日-27日)–ダッカ/東パキスタン(10月27日-28日)–バンコク/タイ(10月28日-31日)–パース/オーストラリア(10月31日)–シドニー/オーストラリア(10月31日-11月2日)–アガナ/グアム(11月2日-3日)–ソウル/韓国(11月3日-4日)–東京/日本(11月4日-5日)–アラスカ州アンカレッジ・エルメンドルフ空軍基地/米国(11月5日)…(それから間隔を空けて)…オタワとモントリオール/カナダ(12月2日-3日)》[214]
- ^ 「白んぼ」とは黒人が白人を指して呼ぶ蔑称(差別用語)。
- ^ 下記に記す主張はアポロ計画陰謀論のごく一部であり、下記以外にも無数にある。詳しくは当該記事を参照。
出典
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和書
[編集]- 毎日新聞社 編『人類が月を歩いた アポロ11号の全記録』毎日新聞社、1969年8月5日。全国書誌番号:69001968。
- アームストロング, ニール、コリンズ, マイケル、オルドリンJr., エドウィン・E『アポロ11号全記録 大いなる一歩』日下実男(訳)、アーサー・C・クラーク(解説)、早川書房、1973年9月30日。全国書誌番号:69003532。
- シェパード, アラン、スレイトン, ディーク『ムーン・ショット 月をめざした男たち』菊谷匡祐(訳)、集英社、1994年。ISBN 4-08-773198-7。
- チェイキン, アンドルー『人類、月に立つ〈上〉』亀井よし子(訳)、日本放送出版協会、1999年。ISBN 4-14-080444-0。
- ハンセン, ジェイムズ・R『ファーストマン ニール・アームストロングの人生〈下〉』日暮雅通・水谷淳(訳)、SoftBank Creative、2007年。ISBN 978-4-7973-3667-2。
- ビゾニー, ピアーズ『アポロ11号 月面着陸から現代へ』日暮雅通(訳)、河出書房新社、2009年。ISBN 978-4-309-25228-5。
外部リンク
[編集]- Apollo 11 - NASAホームページ上のミッション紹介。
- The Apollo 11 Flight Journal - 「生きた文書」として更新が続けられている、NASA本部の歴史課が公開している詳細な飛行記録。
- The Apollo Lunar Surface Journal - 上に同じく歴史課が公開している、アポロ11号を含むアポロ有人月面活動の記録。
- アポロ11号月面着陸ミッションの記録 - アメリカン・ビュー(駐日アメリカ大使館公式マガジン)
- 人類初「月面着陸」から50年 - アメリカン・ビュー(駐日アメリカ大使館公式マガジン)
- アポロ11号 - ウェイバックマシン(2008年10月7日アーカイブ分) - JAXA宇宙情報センターの項目
- Apollo Maniacs(アポロ マニアックス) - アポロに関する情報が豊富な個人ウェブサイト
- Apollo 11 in Real-time - 月面着陸50周年を記念してアポロ11号のミッションをリアルタイムで体験できるウェブサイト
- 特別番組 月に立つ宇宙飛行士 - NHK放送史
- アポロ11号 月面着陸 - NHK放送史