「東濃鉄道モハ110形電車」の版間の差分
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{{Pathnav|西武モハ550形電車|frame=1}} |
{{Pathnav|[[西武モハ550形電車|西武モハ151形電車]]|frame=1}} |
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{{鉄道車両 |
{{鉄道車両 |
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|車両名= 東濃鉄道モハ110形電車 |
|車両名= 東濃鉄道モハ110形電車<div style="font-size:80%;">名鉄3790系電車<br/>総武流山電鉄モハ1002・クハ55</div> |
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|社色=# |
|社色=#401520 |
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|画像= 総武流山電鉄・流山駅・モハ1002(1986年)(s25-4).jpg |
|画像= 総武流山電鉄・流山駅・モハ1002(1986年)(s25-4).jpg |
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|画像説明= 総武流山電鉄モハ1002<br />(元東濃モハ |
|画像説明= 総武流山電鉄モハ1000形1002<br />(元東濃モハ110形111) |
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|pxl = 280px |
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|編成両数= |
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|起動加速度= |
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|編成両数= 2両編成 |
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|営業最高速度= |
|営業最高速度= |
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|設計最高速度= |
|設計最高速度= |
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|減速度(通常)= |
|減速度(通常)= |
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|減速度(非常)= |
|減速度(非常)= |
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|車両定員=112人(座席48人) |
|車両定員= 112人(座席48人) |
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|編成定員= |
|編成定員= |
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|全長= 17,100 |
|全長= 17,100 [[ミリメートル|mm]] |
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|全幅= 2,715 |
|全幅= 2,715 mm |
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|全高= 4,040 |
|全高= 4,040 mm |
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|車体 |
|車体材質= 全鋼製 |
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|車両重量= 34.0 [[トン|t]] |
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|車体幅= |
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|軌間= 1,067 mm([[狭軌]]) |
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|車体高= |
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|電気方式= [[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]]([[架空電車線方式]]) |
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|車両重量= 34.0t |
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|主電動機= [[直巻整流子電動機|直流直巻電動機]] WH-556-J6 |
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|編成重量= |
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|主電動機出力= 75 [[ワット (単位)|kW]] |
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|軌間=1,067([[狭軌]]) |
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|搭載数= 4基 / 両 |
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|電気方式=[[直流電化|直流]]1,500[[ボルト (単位)|V]]([[架空電車線方式]]) |
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|歯車比= 3.94 (71:18) |
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|モーター出力=75[[キロワット|kW]] |
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|定格速度= 40.23 [[キロメートル毎時|km/h]] |
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|主電動機=[[直巻整流子電動機]]WH-556-J6<ref name="motor">端子電圧750V時定格出力75[[キロワット|kW]]/定格回転数985[[rpm (単位)|rpm]]</ref> |
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|駆動装置= [[吊り掛け駆動方式|吊り掛け駆動]] |
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|編成出力= |
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|制御装置= [[主制御器#電空単位スイッチ式|電空単位スイッチ式]]間接非自動制御 |
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|歯車比=18:71 (3.94) |
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|台車= [[ボールドウィンA形台車#住友金属工業|KS-31L]] |
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|駆動装置=[[吊り掛け駆動方式|吊り掛け駆動]] |
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|制 |
|制動方式= AMM[[自動空気ブレーキ]] |
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|台車= 住友KS-31L |
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|ブレーキ方式= AMM[[自動空気ブレーキ|自動空気制動]] |
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|保安装置= |
|保安装置= |
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|製造メーカー= [[川崎造船所]] |
|製造メーカー= [[川崎造船所]] |
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|備考= 数値はモハ111・112<br />(東濃鉄道在籍当時) |
|備考= 数値はモハ111・モハ112<br />(東濃鉄道在籍当時)<ref name="RML72_p46" /> |
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'''東濃鉄道モハ110形電車'''(とうのうてつどうモハ110がたでんしゃ)は、 |
'''東濃鉄道モハ110形電車'''(とうのうてつどうモハ110がたでんしゃ)は、[[東濃鉄道]]が同社[[東濃鉄道駄知線|駄知線]]にて運用する目的で導入した[[電車]]([[動力車|制御電動車]])である。 |
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編成を組成する[[制御車]]'''クハ210形'''ともども、[[西武鉄道]]より同社[[西武モハ550形電車|モハ151形・クハ1151形]]を譲り受けたもので、[[1964年]]([[昭和]]39年)と[[1966年]](昭和41年)の2度にわたって、モハ110形111・112およびクハ210形211・212の計4両が導入され、2両編成2本を組成し運用された。 |
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本項では本形式と編成された制御車'''クハ210形電車'''についても記述する。 |
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[[1974年]](昭和49年)10月の駄知線[[廃線|全線廃止]]後は、総武流山電鉄(現・[[流鉄]])と[[名古屋鉄道]](名鉄)へ各1編成ずつ譲渡され、総武流山鉄道譲渡車両は'''モハ1000形'''・'''クハ50形'''、名鉄譲渡車両は'''3790系'''の形式がそれぞれ付与された。譲渡先においては、前者は[[1988年]](昭和63年)まで、後者は[[1985年]](昭和60年)まで、それぞれ運用された。 |
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== 概要 == |
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駄知線の輸送力増強目的で、[[1964年]]([[昭和]]39年)4月に西武モハ155<ref name="kigou">モハ155・クモハ152ともに運転台を有する制御電動車であるにも関わらず両者で車種記号が異なるのは、西武鉄道において1964年(昭和39年)1月31日付で車種記号の改訂が実施され、従来「モハ」記号が付されていた制御電動車を「クモハ」記号へ改めたことによる。同改訂施行以前の[[1963年]](昭和38年)12月に除籍されたモハ155は当然その対象外であった。</ref>-クハ1156、[[1966年]](昭和41年)10月に同クモハ152<ref name="kigou" />-クハ1151の計2編成4両を譲り受け、'''モハ110形-クハ210形'''として導入したものである。なお、導入に際しての各種改造は[[西武所沢車両工場]]において施工された。 |
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以下、本項ではモハ110形およびクハ210形の両形式について、東濃鉄道在籍当時から譲渡先における動向まで詳述する。 |
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西武モハ151形<ref name="kigou" />・クハ1151形は西武鉄道(初代)が[[1927年]](昭和2年)から翌[[1928年]](昭和3年)にかけて新製したモハ550形・クハ600形電車を出自とし、昭和初期に[[川崎造船所]](現・[[川崎重工業車両カンパニー|川崎重工業]])が各地の私鉄向けに新製した全鋼製車両、いわゆる「川造形」の一形式であった。 |
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== 導入経緯 == |
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[[1974年]](昭和49年)の駄知線廃止後は総武流山電鉄(現・[[流鉄]])および[[名古屋鉄道]](名鉄)へ各1編成ずつ再譲渡された。'''モハ1000形・クハ50形電車'''となった前者は[[1988年]](昭和63年)、'''3790系電車'''となった後者は[[1985年]](昭和60年)までそれぞれ在籍した。 |
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開通当初は[[非電化|非電化路線]]であった駄知線は[[1948年]](昭和23年)7月に[[直流電化|直流]]1,500 [[ボルト (単位)|V]]規格にて[[鉄道の電化|電化]]され、同時に本数増発と所要時分の大幅な短縮が実現した<ref name="RML72_p22-23" />。電化完成による利便性向上に伴って輸送人員は年々増加し、[[1960年代]]には一日平均の輸送人員が10,000人を突破した<ref name="RML72_p22-23" />。 |
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そのため、従来保有した電車([[東濃鉄道モハ100形電車|モハ100形・クハ200形]])のみでは輸送力不足が懸念されたことから、東濃鉄道は車両増備による駄知線の輸送力増強を計画<ref name="RML72_p15-18" />、同時期に西武鉄道にて余剰となったモハ151形・クハ1151形を譲り受け導入した<ref name="RP231_p34" />。西武モハ151形・クハ1151形は、現・西武鉄道の前身事業者の一つである旧・西武鉄道が、同社路線の電化開業に際して[[1927年]](昭和2年)から翌[[1928年]](昭和3年)にかけて導入した車両群で<ref name="RP231_p64" />、昭和初期に[[川崎造船所]](現・[[川崎重工業車両カンパニー|川崎重工業]])が日本国内の私鉄各社に納入した、深い屋根と広い腰板部を特徴とする全鋼製車体の電車、いわゆる「川崎造船形(川造形)」の一形式に数えられる車両である<ref name="Titech-guide4_p154-155" />。 |
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== 仕様 == |
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=== 車体 === |
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1964年(昭和39年)4月にモハ155-クハ1156、1966年(昭和41年)10月にクモハ152{{Refnest|group="*"|西武鉄道にて1964年(昭和39年)1月に実施された車両記号改訂に伴って、従来「モハ」の記号が付された制御電動車各形式は「クモハ」と記号が改められた<ref name="RP230_p72" />。そのため、車両記号改訂以前の[[1963年]](昭和38年)12月に除籍されたモハ155と、車両記号改訂後に除籍されたクモハ152では、同一形式・車種ながら記号が異なる<ref name="RP231_p64" />。}}-クハ1151の計2編成4両が西武鉄道より譲渡され<ref name="RP231_p64" />、前者はモハ110形111-クハ210形211(以下「111編成」)、後者はモハ110形112-クハ210形212(以下「112編成」)の形式・記号番号をそれぞれ付与された<ref name="RP231_p64" />。導入に際しては、[[西武所沢車両工場]]において車体各部の補修のほか<ref name="RP418_p128-129" />、各部の仕様を東濃鉄道仕様に合わせる改造が施工され、特に制御電動車モハ110形は[[集電装置#パンタグラフ|パンタグラフ]]を従来の先頭寄りから連結面へ移設の上、パンタグラフ搭載部周辺の屋根を低屋根仕様に改造された<ref name="RP231_p34" />。これは駄知線[[下石駅|下石]] - [[東駄知駅|東駄知]]間に存在する駄知山トンネルの狭小な[[車両限界]]に合致させるため施工されたものである<ref name="RML72_p49" />。また、111編成と112編成では細部の仕様が異なり、後に入線した112編成は側窓サッシが[[サッシ#アルミサッシ|アルミサッシ]]仕様であるなど、各部が相対的に近代化されている<ref name="RP231_p34" />。 |
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== 車体 == |
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| 1=総武流山電鉄・流山駅・モハ1002・連結面(1986年)(s25-2).jpg |
| 1= 総武流山電鉄・流山駅・モハ1002・連結面(1986年)(s25-2).jpg |
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| 2= パンタグラフ搭載部の様子。低屋根化改造により、パンタグラフ周辺のみ屋根部形状が扁平となっている。(総武流山電鉄モハ1002) |
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| 2=総武流山電鉄モハ1002<br />(低屋根部分の様子・流山駅) |
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全長 |
全長17,100 [[ミリメートル|mm]]・全幅2,715 mmの全鋼製車体を備える<ref name="RML72_p46" />。頑丈な魚腹式台枠の上に組み立てられた、深い屋根と腰板部を広く取った車体という、「川造形」特有の重厚な外観を特徴とする<ref name="Titech-guide4_p156-157" />。ただし、前述の通り東濃鉄道への導入に際しては車体の改修工事が施工されたため<ref name="RP418_p128-129" />、外板の張替え補修に伴って原形では車体各部に存在したリベットが幕板部と屋根部の接合部分を除いて全面的に除去され<ref name="RML31_p11" />、また窓部上下の補強帯([[ウィンドウ・シル/ヘッダー|ウィンドウシル・ヘッダー]])がリベットを有した段付形状から溶接による平板形状に改められている<ref name="RML31_p11" />。さらに、112編成は「川造形」の特徴の一つである前面および客用扉直上の屋根部に設置される半円形状の水切りを撤去し、車体全周にわたって雨樋を新設している<ref name="RML72_p49" />。 |
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制御電動車モハ110形・制御車クハ210形とも一方の妻面にのみ運転台を備える片運転台仕様で<ref name="RML72_p49" />、西武鉄道在籍当時は両運転台仕様であったモハ112(西武クモハ152)<ref name="RP231_p64" />も導入に際して片運転台化改造が施工され、連結面側の妻面には貫通路および貫通幌を備える<ref name="RML72_p50" />。運転台側妻面は非貫通構造とし、3枚の前面窓を備えるが<ref name="RML72_p50" />、111編成が西武鉄道在籍当時と同じくサッシ窓型の1枚窓を3枚配置するのに対して<ref name="RP714_p91" />、112編成は3枚の前面窓全てをHゴムによる固定支持とした点が異なる<ref name="RML72_p49" />。 |
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また、本形式の車体高は3,736mmと比較的大きく、そのままの状態で[[集電装置|パンタグラフ]]を搭載すると駄知線[[下石駅|下石]] - [[東駄知駅|東駄知]]間に存在する駄知山トンネル内における車両限界に抵触することから、パンタグラフを原形の運転台寄りから連結面寄りへ移設した上で取り付け部分を低屋根化する改造を施工した。同改造に伴って低屋根部の高さは3,492mmとなり、限界抵触を回避している。 |
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側面には片側3箇所設けられた1,000 mm幅の片開客用扉のほか、380 mm幅の乗務員扉と700 mm幅の二段上昇式の側窓を備える<ref name="Titech-guide4_p156-157" /><ref name="RML72_p50" />。[[構体 (鉄道車両)#側面窓配置|側面窓配置]]はモハ110形・クハ210形とも d D 6 D 6 D 1(d:乗務員扉、D:客用扉、各数値は側窓の枚数)で<ref name="RML72_p50" />、西武鉄道在籍当時と変化はないが、東濃鉄道への導入に際しては西武鉄道在籍当時に設置された各客用扉下部の張り出し形のステップが撤去されている<ref name="RML31_p11" /><ref name="RP714_p91" />。また、111編成は木製サッシ仕様で、戸袋窓形状がサッシ窓型であるのに対して<ref name="RP714_p91" />、112編成は導入時の改修に際して窓サッシがアルミサッシ化され、戸袋窓は前面窓と同じくHゴムによる固定支持に改められている<ref name="RP231_p34" />。 |
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新製当初は電動車・制御車とも両運転台仕様であったが、西武在籍当時に幾度かの改造を経て片運転台仕様で統一され、晩年に再び両運転台仕様となったクモハ151(東濃モハ112)も譲渡に際して片運転台化された。連結面には貫通路と貫通幌が完備されており、本形式は東濃鉄道初の固定編成であった。運転台は中央に配置され、客室との仕切りはH型ポールによる簡易なものとされている。客用扉は1,000mm幅の片開扉を片側3箇所備え、窓配置はdD6D6D1(d:乗務員扉、D:客用扉、各数値は側窓の個数)で、いずれも西武在籍当時と変化はない。なお、モハ111-クハ211は全ての窓サッシが原形の鉄製サッシで統一されているが、モハ112-クハ212は譲渡に際して前面窓ならびに戸袋窓をHゴムによる固定支持に改め、開閉可能窓についてはアルミサッシ化された。車内照明は西武在籍当時の改修によって[[蛍光灯]]式となっており、座席は[[鉄道車両の座席#ロングシート(縦座席)|ロングシート]]仕様である。 |
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<br style="clear:both" /> |
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屋根部には原形と同じく[[ベンチレーター#吸い出し式|お碗形ベンチレーター]]を屋根上左右に2列配置で搭載する<ref name="RML72_p50" />。また、モハ110形については前述の通りパンタグラフの連結面への移設および低屋根化改造が施工され<ref name="RP231_p34" />、パンタグラフ取り付け部の屋根高は3,492 mmと原形 (3,736 mm) より244 mm低屋根化されている<ref name="RP231_p34" />。 |
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=== 主要機器 === |
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主要機器については西武在籍当時の仕様のまま変化はない。 |
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車内座席は[[鉄道車両の座席#ロングシート(縦座席)|ロングシート]]仕様で、各客用扉間に計4箇所、定員48人分の座席が設けられている<ref name="RML72_p50" />。運転台は妻面中央部に設けられ、運転台を含む乗務員空間と客室空間は中央部分が仕切り壁によって、仕切り壁の左右はHポールによってそれぞれ区分されている<ref name="RML72_p50" />。 |
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主電動機は[[ウェスティングハウス・エレクトリック]] (WH) 社製WH-556-J6<ref name="motor" />を1両当たり4基搭載する。駆動方式は[[吊り掛け駆動方式|吊り掛け式]]、歯車比は18:71 (3.94) である。 |
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== 主要機器 == |
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制御器は電磁単位スイッチ式手動加速制御(HL制御)器を搭載する。[[東濃鉄道モハ100形電車|モハ100形]]と同じく間接非自動制御仕様であるが、本形式が搭載するWH社の系譜に属するHL制御器と、モハ100形が搭載する[[ゼネラル・エレクトリック]] (GE) 社の系譜に属する[[東芝]]MK制御器では制御シーケンスが異なることから、両者の混結は不可能であった。 |
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主要機器については、西武鉄道在籍当時と同じく[[ウェスティングハウス・エレクトリック]] (WH) 製の機器を多く採用する<ref name="RP231_p64" />。 |
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制御装置は[[主制御器#電空単位スイッチ式|電空単位スイッチ式]][[主制御器#手動進段|間接非自動加速制御]](HL制御)仕様のウェスティングハウス・エレクトリックHL-272-G6を搭載する<ref name="YPH8_p113" />。主電動機はウェスティングハウス・エレクトリックWH-556-J6[[直巻整流子電動機|直流直巻電動機]](端子電圧750 [[ボルト (単位)|V]]時定格出力75 [[ワット|kW]]、同定格回転数985 [[rpm (単位)|rpm]]<ref name="RP771_p174-175" />)を、[[歯車比]]3.94 (71:18) にて1両あたり4基搭載する<ref name="RML72_p46" />。 |
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台車はモハ110形がKS-31L、クハ210形がKS-30Lで、いずれも住友製鋼所(現・[[住友金属工業]])製の鋳鋼組立型[[鉄道車両の台車#イコライザー式|釣り合い梁式台車]]である。両台車は基礎制動装置の様式が異なり、電動車用台車である前者が両抱き(クラスプ)式であるのに対して制御車・付随車用台車である後者は片押し(シングル)式であるという機構上の相違点を有する<ref>本来KS-30Lも電動車用台車として設計され、西武モハ550形として落成した当初は電動車である同形式に装備されていたものである。その後台車設計技術の進化に伴ってクラスプ式基礎制動装置が普及すると、車体重量の重い電動車にシングル式基礎制動装置を有する台車を装備することは、高速鉄道においては中高速域からの制動力確保の観点から不適切と判断されるようになった。モハ550形もその例外とはならず、[[1930年]](昭和10年)に同形式の制御車であったクハ600形との間で台車交換を実施し、クハ600形のKS-31Lとモハ550形のKS-30Lを相互に振り替えている。</ref>。[[軸受]]構造は両台車とも[[すべり軸受|平軸受]](プレーンベアリング)式である。 |
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台車はモハ110形が住友製鋼所(後の[[住友金属工業]])[[ボールドウィンA形台車#住友金属工業|KS-31L]]、クハ210形が同KS-30Lを装着する<ref name="RML72_p46" />。いずれも鋳鋼組立型の台車枠を備える[[鉄道車両の台車#イコライザー式|釣り合い梁式台車]]である<ref name="RML72_p50" />。固定軸間距離2,135 mm・車輪径860 mmの基本設計は両台車で共通するものの<ref name="RML72_p46" />、基礎制動装置が電動車用台車であるKS-31Lが両抱き(クラスプ)式であるのに対して、制御車・付随車用台車であるKS-30Lは片押し(シングル)式と異なる<ref name="RP231_p64" />。 |
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制動装置はウェスティングハウス・エアーブレーキ (WABCO) 社開発のM三動弁による元空気溜管式AMM / ACM[[自動空気ブレーキ|自動空気制動]]である。同制動装置によって床下に搭載された制動筒(ブレーキシリンダー)を動作させ、床下に設置された制動引棒(ブレーキロッド)を介して前後台車の制動を行うブレーキワークが採用されている。 |
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制動装置は動作弁に[[ウェスティングハウス・エア・ブレーキ]] (WABCO) 開発のM三動弁を用いる元空気溜管式[[自動空気ブレーキ]]仕様で<ref name="RML72_p46" />、モハ110形の制動装置はAMM、クハ210形の制動装置はACMとそれぞれ呼称された<ref name="YPH8_p113" />。 |
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== 導入後の変遷 == |
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駄知線は[[1965年]](昭和40年)に輸送人員数のピークを迎えたが、その前年から導入された本形式は駄知線に在籍する車両の中で最も収容力を有する大型車として重用された。導入後は大きな改造を受けることなく運用され、[[1972年]](昭和47年)7月13日の[[昭和47年7月豪雨]]による駄知線全線運休以降は他形式同様に休車となった。 |
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集電装置は、主要機器と同じく西武鉄道在籍当時からのPS13A国鉄制式[[戦時設計]]型[[集電装置#菱形|菱形パンタグラフ]]を、モハ110形に1両あたり1基搭載する<ref name="YPH8_p113" />。 |
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連結器は、西武鉄道在籍当時は前面・連結面とも柴田式[[連結器#密着連結器|密着連結器]]仕様であったが、東濃鉄道への導入に際して前面の連結器のみ[[連結器#並形自動連結器|並形自動連結器]]に交換した<ref name="RML72_p49" />。この際、密着連結器当時の胴受はそのまま流用し、並形自動連結器用の取付座を胴受下部に新設して並形自動連結器を装着している<ref name="RML31_p11" />。 |
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== 運用 == |
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=== 導入から駄知線廃止まで === |
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駄知線は本形式の導入翌年、[[1965年]](昭和40年)度に一日平均輸送人員が過去最高の12,878人を記録した<ref name="RML72_p15-18" />。そのような状況下、本形式は東濃鉄道唯一の2両固定編成を組成する、最も収容力の高い大型車として重用された<ref name="RML72_p49" />。もっとも、同時期には[[モータリゼーション]]の影響が顕著となり、同年をピークに駄知線の輸送人員は年々減少の一途を辿った<ref name="RML72_p15-18" />。 |
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その後、駄知線は[[1972年]](昭和47年)7月13日の[[昭和47年7月豪雨]]にて[[土岐市駅|土岐津]] - [[神明口駅|神明口]]間の[[庄内川|土岐川]]に架かる土岐川橋梁が流失、全線で運行休止となった<ref name="RML72_p15-18" />。以降、本形式も駄知線所属の他形式同様に休車となった<ref name="RML72_p44" />。 |
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{{Main|東濃鉄道駄知線#水害による路線廃止}} |
{{Main|東濃鉄道駄知線#水害による路線廃止}} |
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約2年間の営業休止期間を経て |
約2年間の営業休止期間を経て復旧は断念され、1974年(昭和49年)10月21日付で駄知線は全線廃止となった<ref name="RML72_p15-18" />。運行再開を見越して保管されていた本形式を始めとする駄知線所属の全車両も、同日付で[[廃車 (鉄道)|除籍]]された<ref name="RML72_p15-18" />。 |
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廃線後1年余を経過した[[1975年]](昭和50年)に、111編成が総武流山電鉄へ、112編成が名古屋鉄道(名鉄)へそれぞれ譲渡された<ref name="YPH8_p113" /><ref name="Ryutetsu-BP_Mc1002" /><ref name="Ryutetsu-BP_Tc55" />。当時の東濃鉄道は[[名鉄グループ|名鉄傘下のグループ企業]]となっており<ref name="RP370_p102" />、東濃鉄道からの車両の引き受け要請を受諾する形で、当時としては極めて異例となる、中小私鉄から大手私鉄である名鉄への譲渡が決定したという経緯を有する<ref name="RML72_p49" />。 |
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また、両社への譲渡に際しては、111編成・112編成とも[[名古屋鉄道鳴海工場|名鉄鳴海工場]]にて各種改造が施工されている<ref name="RML72_p49" />。 |
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== 譲渡後の動向 == |
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廃線から1年余を経過した[[1975年]](昭和50年)に、モハ111-クハ211が総武流山電鉄へ、モハ112-クハ212が名鉄へそれぞれ譲渡された。両社への譲渡に際しては[[名古屋鉄道鳴海工場|名鉄鳴海工場]]において各種改造が実施されている。以下、譲渡先における動向を記す。 |
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=== 総武流山電鉄 === |
=== 総武流山電鉄譲渡車両(モハ1002・クハ55) === |
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| 1=総武流山電鉄・クハ55(1978年)(s11-24).jpg |
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| 2=総武流山電鉄クハ55<br />(元東濃クハ211) |
| 2=総武流山電鉄クハ55<br />(元東濃クハ211) |
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{{See also|流山電気鉄道クハ50形電車}} |
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総武流山電鉄では老朽化が著しい[[流鉄流山線#モハ100形|モハ100形]]の代替を目的として<ref>当時モハ100形については車体修繕ならびに中間付随車化が計画されており、本形式の導入は改造入場に伴う車両不足を回避する目的も兼ねていた。しかし結局そのような改造は実施されず、モハ100形は[[1979年]](昭和54年)に全車廃車となった。</ref>モハ111-クハ211を譲り受け、'''モハ1000形'''1002・'''クハ50形'''55として導入した。[[鉄道の車両番号|車両番号]](車番)が不揃いなのは従来車の続番に編入されたことによるものである。 |
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当時の総武流山電鉄は、同社路線の電化開業に際して導入した[[流鉄流山線#モハ100形|モハ100形]]の車体修繕工事および中間付随車化改造を計画しており<ref name="RP312_p67-68" />、同形式の改造入場時における代替車両確保などを目的として<ref name="RP312_p66-67" />、1975年(昭和50年)8月に東濃111編成を譲り受けた<ref name="Ryutetsu-BP_Mc1002" /><ref name="Ryutetsu-BP_Tc55" />。 |
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導入に際しては、モハ111の制御装置を国鉄制式機種であるCS5[[主制御器#電空カム軸接触器式|電空カム軸式]][[主制御器#自動進段|間接自動制御器]]に換装したほか<ref name="RP418_p128-129" />、運転台位置の左側への移設・乗務員扉の拡幅(500 mm幅)・運転台仕切り壁の新設による全室運転室構造化・前照灯の[[シールドビーム]]2灯化・前面窓および戸袋窓のHゴム固定支持化・側窓のアルミサッシ化などが施工された<ref name="RP418_p128-129" /><ref name="Ryutetsu-BP_Mc1002" /><ref name="Ryutetsu-BP_Tc55" />。車体塗装は総武流山電鉄標準塗装のオレンジ地に腰板上部へ白帯を配したものに改められた<ref name="RP312_p67-68" />。 |
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導入に際しては制御器を国鉄制式の電空カム軸式CS5へ換装し、その他側窓のアルミサッシ化、前面窓ならびに戸袋窓のHゴム固定化、前照灯のシールドビーム2灯化、標識灯の埋込型化等が施工されている。 |
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形式および記号番号は、モハ111が'''モハ1000形'''1002、クハ211が'''クハ50形'''55とそれぞれ改められた<ref name="Ryutetsu-BP_Mc1002" /><ref name="Ryutetsu-BP_Tc55" />。車番末尾が2両で異なるのは、2両とも既存形式に編入され、その続番が付与されたことによるものである<ref name="RP312_p66-67" />。 |
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導入後は東濃鉄道在籍当時と同じくモハ1002-クハ55の組み合わせで固定編成として運用されたが、[[総武流山電鉄1200形電車|1200形]](元西武[[西武501系電車|501系電車]])の導入に伴って[[1981年]](昭和56年)6月8日付でクハ55が、[[1987年]](昭和62年)に1300形(元西武[[西武551系電車|551系電車]])「あかぎ」が導入されたことに伴って、翌[[1988年]](昭和63年)1月8日付でモハ1002がそれぞれ[[廃車 (鉄道)|廃車]]となった。 |
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導入後は東濃鉄道在籍当時と同じくモハ1002-クハ55の2両による編成を組成したが、[[総武流山電鉄1200形電車|1200形]](元[[西武501系電車|西武501系]])の導入に伴って<ref name="RP560_p228-229" />、[[1981年]](昭和56年)6月8日付でクハ55が除籍された<ref name="RP-AS29_p10" />。編成相手を失ったモハ1002は、クハ55と同日付で除籍されたモハ1000形1001の同形制御車であったクハ50形52(いずれも元[[武蔵野鉄道デハ320形電車|西武クハ1211形]])と新たに編成を組成した<ref name="RP560_p228-229" />。 |
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{{Main|流山電気鉄道クハ50形電車}} |
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その後、[[1987年]](昭和62年)に1300形「あかぎ」(元[[西武551系電車|西武551系]])が導入されたことに伴って<ref name="RP560_p228-229" />、モハ1002・クハ52とも翌[[1988年]](昭和63年)1月8日付で除籍された<ref name="RP-AS29_p10" />。 |
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=== 名古屋鉄道 === |
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第1次[[オイルショック]]を契機とした輸送量急増に直面し、車両事情が逼迫していた名鉄では、東濃鉄道からの本形式の引き受け要請を受諾する形でモハ112-クハ212を譲り受け、1975年(昭和50年)6月より運用を開始した。大手私鉄が地方私鉄より車両を譲り受けた例は戦後混乱期等において多少の前例があったものの、1970年代当時においては非常に特異な出来事であった<ref>名鉄は同時期に[[東京急行電鉄]](東急)より同社[[東急3700系電車|3700系電車]]を大量に購入しているが、大手私鉄間におけるまとまった両数の車両譲渡もまた非常に特殊な例であった。当時の名鉄における車両事情がいかに逼迫していたかを示すものである。</ref>。なお、譲渡に際して名鉄側は各種設備が相対的に近代化されていたモハ112-クハ212を希望し、導入に至ったという経緯を有する<ref>『RM LIBRARY72 東濃鉄道』p.49において、筆者は「(名鉄側は)アルミサッシ化されていた'''第1編成'''(モハ111-クハ211)の譲渡を希望したが、流山の要求が優先された」と述べているが、実際にはアルミサッシ化されていた'''第2編成'''(モハ112-クハ212)が名鉄側の希望通り譲渡されている。</ref>。 |
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=== 名古屋鉄道譲渡車両(3790系) === |
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前述のように本形式はHL制御車であり、名鉄における架線電圧1,500V区間用HL車各形式が3700番台に集約されていたことから、'''3790系(モ3790形-ク2790形)'''の形式称号が付与された。また、導入に際しては名鉄標準塗装であるスカーレット一色塗りへの塗装変更、ならびに前照灯のシールドビーム2灯化といった小改造が実施されたのみで、その他は主要機器の仕様を含めて東濃鉄道在籍当時より変化はない。 |
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[[オイルショック|第一次オイルショック]]を契機とした輸送量急増に直面し、車両事情が逼迫していた名鉄は<ref name="RP771_p126-129" />、前述の通り東濃鉄道からの引き受け要請を受諾する形で、1975年(昭和50年)5月に東濃112編成を譲り受けた<ref name="YPH8_p113" />。なお、名鉄は車両引き受け要請受諾に際して、各部仕様が相対的に近代化されていた112編成の譲渡を希望し、導入に至った<ref name="RML72_p49" />{{Refnest|group="*"|鉄道研究家の[[清水武 (鉄道研究家)|清水武]]は、自著『RM LIBRARY72 東濃鉄道』にて「(名鉄側は)アルミサッシ化されていた'''第1編成'''(111編成、モハ111-クハ211)の譲渡を希望したが、流山の要求が優先された」と述べているが<ref name="RML72_p49" />、実際にはアルミサッシ化されていた'''第2編成'''(112編成、モハ112-クハ212)が名鉄側の希望通り譲渡されている<ref name="Titech-guide4_p154-155" /><ref name="YPH8_p113" /><ref name="RP370_p102" />。}}。 |
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同時期の名鉄は、東濃112編成のほか、3880系(元[[東急3700系電車|東急3700系]])および[[名鉄モ870形電車|モ870形]](元[[札幌市交通局A830形電車|札幌市電A830形]])といった他事業者からの譲渡車両を多数導入し<ref name="RP473_p198" />、喫緊の課題であった輸送事情の改善を図った<ref name="JTBC-R131_p75" />。 |
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導入後は同社[[名鉄築港線|築港線]]の専用車両として、編成の中間にAL車<ref>名鉄における間接自動制御車を指す用語。</ref>である[[名鉄3800系電車|3800系]]の制御車ク2800形2815を組み込み<ref>AL車とHL車との相違点は制御方式ならびに運転台の[[マスター・コントローラー|主幹制御器]](マスコン)であることから、制動装置ならびに各種引き通し線の仕様が合致した場合に限り、付随車代用として編成中間へ組み込むことは可能であった。</ref>、モ3791(Mc)-ク2815(Tc)-ク2791(Tc)からなる3両編成で運用された。なお、他のHL車各系列([[名鉄3700系電車 (2代)|3700・3730・3770・3780系]])とは制御器・主電動機・制動装置は同一であったものの、歯車比<ref>3700系列の歯車比は22:67 (3.05) と、本形式のそれよりも高速寄りの設定となっていた。</ref>ならびにMT比の相違により加速特性が両者で異なることから併結運用は行われなかった。 |
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導入に際しては、[[自動列車停止装置]]([[M式ATS]])の新設のほか、車体塗装を[[名鉄スカーレット|スカーレット]]1色塗装に変更するなど小規模な仕様変更が施されたのみで<ref name="RP370_p102" />、総武流山電鉄へ譲渡された111編成のような運転台位置変更・乗務員扉の拡幅などは施工されていない<ref name="Titech-guide4_p156-157" />。名鉄におけるスカーレット1色塗装は、従来[[名鉄7000系電車|7000系「パノラマカー」]]の専用塗装であったが、前述した3880系導入を契機として名鉄が保有する鉄軌道車両の標準塗装と定められたため<ref name="RML130_p33" />、それを踏襲したものである<ref name="RP370_p92" />。主要機器については東濃鉄道在籍当時と変化はなく、間接非自動制御(HL制御)仕様のまま存置された<ref name="YPH8_p113" />。そのため、名鉄における新形式は、名鉄の架線電圧1,500 V路線区にて運用される既存の[[名古屋鉄道の車両形式#「AL車」という用語について|HL車]]各形式と同じく3700番台に区分され<ref name="RP370_p100-101" />{{Refnest|group="*"|ただし、名鉄保有のHL車各形式とは主電動機は同一ながら歯車比の相違に起因して走行特性が異なり、東濃モハ112(名鉄モ3791)が歯車比3.94 (71:18) ・全界磁時定格速度40.23 km/hであるのに対して<ref name="RML72_p50" />、名鉄保有のHL車各形式は歯車比3.045 (67:22) ・全界磁時定格速度48.0 km/hである<ref name="JTBC-R131_p90-91" />。}}、モハ112は'''モ3790形'''3791、クハ212は'''ク2790形'''2791とそれぞれ形式・記号番号を改め、'''3790系'''と総称された<ref name="RP370_p102" />。車体の車番標記は、他の譲渡車両各形式と同じく名鉄仕様の切り出し文字によるボールド体の[[ローマン体|ローマン書体]]に改められた<ref name="Titech-guide4_p156-157" />。 |
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本系列は終始築港線で運用された後、老朽化により1985年(昭和60年)3月28日付で廃車となり、解体処分された。 |
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3790系は同社[[名鉄築港線|築港線]]の専用車両として導入され<ref name="Titech-guide4_p154-155" />、従来築港線専用編成として運用されていた[[名鉄3800系電車|3800系]]ク2815(2代)-モ3816-ク2818の編成に代わって1975年(昭和50年)8月より運用を開始した<ref name="JTBC-R131_p77" />。運用開始に際しては、前述したク2815(2代)をモ3791とク2791の間に中間[[付随車]]代用として組み込み、3両編成を組成した<ref name="JTBC-R131_p77" />。また、残るモ3816-ク2818は制御装置の進段制限(力行制御の[[電気車の速度制御#直並列組合せ制御|直列段]]固定<ref name="JTBC-R131_p70-71" />)など築港線専用仕様を解除して幹線系統へ再転属し、幹線系統の運用車両増加に用いられた<ref name="JTBC-R131_p70-71" />。 |
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導入後は前照灯のシールドビーム2灯化が施工された程度で大きな改造を施工されることなく<ref name="RP370_p102" />、終始築港線にて運用されたのち<ref name="RP473_p198" />、1985年(昭和60年)3月28日付で除籍された<ref name="PRC11_p179" />。 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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=== 注釈 === |
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{{reflist}} |
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{{Reflist|group="*"}} |
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=== 出典 === |
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{{Reflist|2|refs= |
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<ref name="Titech-guide4_p154-155">[[#Titech-guide4|『私鉄電車ガイドブック4 相鉄・横浜市・名鉄・名古屋市』 pp.154 - 155]]</ref> |
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<ref name="Titech-guide4_p156-157">[[#Titech-guide4|『私鉄電車ガイドブック4 相鉄・横浜市・名鉄・名古屋市』 pp.156 - 157]]</ref> |
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<ref name="YPH8_p113">[[#YPH8|『ヤマケイ私鉄ハンドブック8 名鉄』 p.113]]</ref> |
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<ref name="PRC11_p179">[[#PRC11|『私鉄の車両11 名古屋鉄道』 p.179]]</ref> |
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<ref name="RML31_p11">[[#RML31|『RM LIBRARY31 所沢車輌工場ものがたり(下)』 p.11]]</ref> |
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<ref name="RML72_p15-18">[[#RML72|『RM LIBRARY72 東濃鉄道』 pp.15 - 18]]</ref> |
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<ref name="RML72_p22-23">[[#RML72|『RM LIBRARY72 東濃鉄道』 pp.22 - 23]]</ref> |
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<ref name="RML72_p44">[[#RML72|『RM LIBRARY72 東濃鉄道』 p.44]]</ref> |
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<ref name="RML72_p46">[[#RML72|『RM LIBRARY72 東濃鉄道』 p.46]]</ref> |
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<ref name="RML72_p49">[[#RML72|『RM LIBRARY72 東濃鉄道』 p.49]]</ref> |
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<ref name="RML72_p50">[[#RML72|『RM LIBRARY72 東濃鉄道』 p.50]]</ref> |
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<ref name="RML130_p33">[[#RML130|『RM LIBRARY130 名鉄岐阜線の電車 -美濃電の終焉(下)』 p.33]]</ref> |
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<ref name="JTBC-R131_p70-71">[[#JTBC-R131|『名鉄電車 昭和ノスタルジー』 pp.70 - 71]]</ref> |
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<ref name="JTBC-R131_p75">[[#JTBC-R131|『名鉄電車 昭和ノスタルジー』 p.75]]</ref> |
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<ref name="JTBC-R131_p77">[[#JTBC-R131|『名鉄電車 昭和ノスタルジー』 p.77]]</ref> |
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<ref name="JTBC-R131_p90-91">[[#JTBC-R131|『名鉄電車 昭和ノスタルジー』 pp.90 - 91]]</ref> |
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<ref name="RP230_p72">[[#RP230_p67-73|「私鉄車両めぐり(80) 西武鉄道 1」 (1969) p.72]]</ref> |
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<ref name="RP231_p34">[[#RP231_p34-36|「全国で働らく元西武鉄道の車両(下)」 (1969) p.34]]</ref> |
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<ref name="RP231_p64">[[#RP231_p60-67|「私鉄車両めぐり(80) 西武鉄道 2」 (1969) p.64]]</ref> |
|||
<ref name="RP312_p66-67">[[#RP312_p65-68|「学鉄連研究シリーズ(7) 総武流山電鉄」 (1975) pp.66 - 67]]</ref> |
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<ref name="RP312_p67-68">[[#RP312_p65-68|「学鉄連研究シリーズ(7) 総武流山電鉄」 (1975) pp.67 - 68]]</ref> |
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<ref name="RP370_p92">[[#RP370_p92-106|「私鉄車両めぐり(115) 名古屋鉄道」 (1979) p.92]]</ref> |
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<ref name="RP370_p100-101">[[#RP370_p92-106|「私鉄車両めぐり(115) 名古屋鉄道」 (1979) pp.100 - 101]]</ref> |
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<ref name="RP370_p102">[[#RP370_p92-106|「私鉄車両めぐり(115) 名古屋鉄道」 (1979) p.102]]</ref> |
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<ref name="RP418_p128-129">[[#RP418_p128-130|「関東地方のローカル私鉄 現況8 総武流山電鉄」 (1983) pp.128 - 129]]</ref> |
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<ref name="RP473_p198">[[#RP473_p185-198|「私鉄車両めぐり(133) 名古屋鉄道」 (1986) p.198]]</ref> |
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<ref name="RP560_p228-229">[[#RP560_p217-236|「他社へ譲渡された西武鉄道の車両」 (1992) pp.228 - 229]]</ref> |
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<ref name="RP714_p91">[[#RP714_p90-95|「地方私鉄に転じた西武の社形鋼製車」 (2002) p.91]]</ref> |
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<ref name="RP771_p126-129">[[#RP771_p124-131|「名古屋鉄道の輸送・運転業務に携わって」 (2006) pp.126 - 129]]</ref> |
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<ref name="RP771_p174-175">[[#RP771_p174-180|「琴電へ譲渡された名鉄3700系」 (2006) pp.174 - 175]]</ref> |
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<ref name="RP-AS29_p10">[[#RP-AS29_p6-12|「“その後”の関東のローカル私鉄」 (2014) p.10]]</ref> |
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<ref name="Ryutetsu-BP_Mc1002">[[#Ryutetsu-BP|『車両竣功図表 記号番号モハ1002』]]</ref> |
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<ref name="Ryutetsu-BP_Tc55">[[#Ryutetsu-BP|『車両竣功図表 記号番号クハ55』]]</ref> |
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== 参考資料 == |
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=== 書籍 === |
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* {{Anchor|Titech-guide4|[[東京工業大学]]鉄道研究部 『私鉄電車ガイドブック4 相鉄・横浜市・名鉄・名古屋市』 [[誠文堂新光社]] 1978年11月}} |
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* {{Anchor|YPH8|[[吉川文夫]]・[[広田尚敬|廣田尚敬]] 『ヤマケイ私鉄ハンドブック8 名鉄』 [[山と渓谷#山と渓谷社|山と渓谷社]] 1982年12月 ISBN 4-635-06120-5}} |
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* {{Anchor|PRC11|白井良和 『私鉄の車両11 名古屋鉄道』 保育社 1985年12月 ISBN 4-586-53211-4}} |
|||
* {{Anchor|RML31|西尾恵介 『RM LIBRARY31 所沢車輌工場ものがたり(下)』 [[ネコ・パブリッシング]] 2002年2月 ISBN 4-87366-266-4}} |
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* {{Anchor|RML72|清水武 『RM LIBRARY72 東濃鉄道』 ネコ・パブリッシング 2005年8月 ISBN 4-7770-5108-0}} |
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* {{Anchor|RML130|清水武 『RM LIBRARY130 名鉄岐阜線の電車 -美濃電の終焉(下)』 ネコ・パブリッシング 2010年6月 ISBN 4-7770-5287-7}} |
|||
* {{Anchor|JTBC-R131|[[徳田耕一]] 『名鉄電車 昭和ノスタルジー』 [[JTBパブリッシング]] 2013年5月 ISBN 4-533-09166-0}} |
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=== 雑誌記事 === |
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* 『[[鉄道ピクトリアル]]』 [[電気車研究会|鉄道図書刊行会]] |
* 『[[鉄道ピクトリアル]]』 [[電気車研究会|鉄道図書刊行会]] |
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** {{Anchor|RP230_p67-73|今城光英・加藤新一・酒井英夫 「私鉄車両めぐり(80) 西武鉄道 1」 1969年11月号(通巻230号) pp.67 - 73}} |
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** [[ |
** {{Anchor|RP231_p34-36|[[吉川文夫]] 「全国で働らく<!--原表記ママ-->元西武鉄道の車両(下)」 1969年12月号(通巻231号) pp.34 - 36}} |
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** 藤 |
** {{Anchor|RP231_p60-67|加藤新一・今城光英・酒井英夫 「私鉄車両めぐり(80) 西武鉄道 2」 1969年12月号(通巻231号) pp.60 - 67}} |
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** |
** {{Anchor|RP312_p65-68|[[立教大学]]鉄道研究会 「学鉄連研究シリーズ(7) 総武流山電鉄」 1975年11月号(通巻312号) pp.65 - 68}} |
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** 「 |
** {{Anchor|RP370_p92-106|藤野政明・渡辺英彦 「私鉄車両めぐり(115) 名古屋鉄道」 1979年12月臨時増刊号(通巻370号) pp.92 - 106}} |
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** {{Anchor|RP418_p128-130|宮田敦彦・関健一 「関東地方のローカル私鉄 現況8 総武流山電鉄」 1983年6月臨時増刊号(通巻418号) pp.128 - 130}} |
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* 清水武 『RM LIBRARY72 東濃鉄道』 [[ネコ・パブリッシング]] ISBN 4-7770-5108-0 |
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** {{Anchor|RP473_p185-198|吉田文人 「私鉄車両めぐり(133) 名古屋鉄道」 1986年12月臨時増刊号(通巻473号) pp.185 - 198}} |
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* [[吉川文夫]]・[[広田尚敬]] 『ヤマケイ私鉄ハンドブック8 名鉄』 [[山と渓谷|山と溪谷社]] ISBN 4635061205 |
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** {{Anchor|RP560_p217-236|小松丘・大山俊行・高橋健一 「他社へ譲渡された西武鉄道の車両」 1992年5月臨時増刊号(通巻560号) pp.217 - 236}} |
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** {{Anchor|RP714_p90-95|田尻弘行 「地方私鉄に転じた西武の社形鋼製車」 2002年4月臨時増刊号(通巻714号) pp.90 - 95}} |
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** {{Anchor|RP771_p124-131|清水武 「名古屋鉄道の輸送・運転業務に携わって」 2006年1月臨時増刊号(通巻771号) pp.124 - 131}} |
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** {{Anchor|RP771_p174-180|真鍋裕司 「琴電へ譲渡された名鉄3700系」 2006年1月臨時増刊号(通巻771号) pp.174 - 180}} |
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** {{Anchor|RP-AS29_p6-12|服部朗宏 「“その後”の関東のローカル私鉄」 2014年12月号別冊『アーカイブスセレクション29 私鉄車両めぐり 関東(I)』 pp.6 - 12}} |
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=== その他 === |
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* {{Anchor|Ryutetsu-BP|流鉄株式会社 『車両形式図 1949 - 2010』}} |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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{{東濃鉄道の車両}} |
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{{名古屋鉄道の車両}} |
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|1-1=他社から譲り受けた鉄道車両 |
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|1-2=名古屋鉄道の電車 |
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[[Category:東濃鉄道|車110]] |
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[[Category:他社から譲り受けた鉄道車両]] |
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2015年3月29日 (日) 13:35時点における版
東濃鉄道モハ110形電車 名鉄3790系電車 総武流山電鉄モハ1002・クハ55 | |
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総武流山電鉄モハ1000形1002 (元東濃モハ110形111) | |
基本情報 | |
製造所 | 川崎造船所 |
主要諸元 | |
編成 | 2両編成 |
軌間 | 1,067 mm(狭軌) |
電気方式 | 直流1,500 V(架空電車線方式) |
車両定員 | 112人(座席48人) |
車両重量 | 34.0 t |
全長 | 17,100 mm |
全幅 | 2,715 mm |
全高 | 4,040 mm |
車体 | 全鋼製 |
台車 | KS-31L |
主電動機 | 直流直巻電動機 WH-556-J6 |
主電動機出力 | 75 kW |
搭載数 | 4基 / 両 |
駆動方式 | 吊り掛け駆動 |
歯車比 | 3.94 (71:18) |
定格速度 | 40.23 km/h |
制御装置 | 電空単位スイッチ式間接非自動制御 |
制動装置 | AMM自動空気ブレーキ |
備考 |
数値はモハ111・モハ112 (東濃鉄道在籍当時)[1] |
東濃鉄道モハ110形電車(とうのうてつどうモハ110がたでんしゃ)は、東濃鉄道が同社駄知線にて運用する目的で導入した電車(制御電動車)である。
編成を組成する制御車クハ210形ともども、西武鉄道より同社モハ151形・クハ1151形を譲り受けたもので、1964年(昭和39年)と1966年(昭和41年)の2度にわたって、モハ110形111・112およびクハ210形211・212の計4両が導入され、2両編成2本を組成し運用された。
1974年(昭和49年)10月の駄知線全線廃止後は、総武流山電鉄(現・流鉄)と名古屋鉄道(名鉄)へ各1編成ずつ譲渡され、総武流山鉄道譲渡車両はモハ1000形・クハ50形、名鉄譲渡車両は3790系の形式がそれぞれ付与された。譲渡先においては、前者は1988年(昭和63年)まで、後者は1985年(昭和60年)まで、それぞれ運用された。
以下、本項ではモハ110形およびクハ210形の両形式について、東濃鉄道在籍当時から譲渡先における動向まで詳述する。
導入経緯
開通当初は非電化路線であった駄知線は1948年(昭和23年)7月に直流1,500 V規格にて電化され、同時に本数増発と所要時分の大幅な短縮が実現した[2]。電化完成による利便性向上に伴って輸送人員は年々増加し、1960年代には一日平均の輸送人員が10,000人を突破した[2]。
そのため、従来保有した電車(モハ100形・クハ200形)のみでは輸送力不足が懸念されたことから、東濃鉄道は車両増備による駄知線の輸送力増強を計画[3]、同時期に西武鉄道にて余剰となったモハ151形・クハ1151形を譲り受け導入した[4]。西武モハ151形・クハ1151形は、現・西武鉄道の前身事業者の一つである旧・西武鉄道が、同社路線の電化開業に際して1927年(昭和2年)から翌1928年(昭和3年)にかけて導入した車両群で[5]、昭和初期に川崎造船所(現・川崎重工業)が日本国内の私鉄各社に納入した、深い屋根と広い腰板部を特徴とする全鋼製車体の電車、いわゆる「川崎造船形(川造形)」の一形式に数えられる車両である[6]。
1964年(昭和39年)4月にモハ155-クハ1156、1966年(昭和41年)10月にクモハ152[* 1]-クハ1151の計2編成4両が西武鉄道より譲渡され[5]、前者はモハ110形111-クハ210形211(以下「111編成」)、後者はモハ110形112-クハ210形212(以下「112編成」)の形式・記号番号をそれぞれ付与された[5]。導入に際しては、西武所沢車両工場において車体各部の補修のほか[8]、各部の仕様を東濃鉄道仕様に合わせる改造が施工され、特に制御電動車モハ110形はパンタグラフを従来の先頭寄りから連結面へ移設の上、パンタグラフ搭載部周辺の屋根を低屋根仕様に改造された[4]。これは駄知線下石 - 東駄知間に存在する駄知山トンネルの狭小な車両限界に合致させるため施工されたものである[9]。また、111編成と112編成では細部の仕様が異なり、後に入線した112編成は側窓サッシがアルミサッシ仕様であるなど、各部が相対的に近代化されている[4]。
車体
全長17,100 mm・全幅2,715 mmの全鋼製車体を備える[1]。頑丈な魚腹式台枠の上に組み立てられた、深い屋根と腰板部を広く取った車体という、「川造形」特有の重厚な外観を特徴とする[10]。ただし、前述の通り東濃鉄道への導入に際しては車体の改修工事が施工されたため[8]、外板の張替え補修に伴って原形では車体各部に存在したリベットが幕板部と屋根部の接合部分を除いて全面的に除去され[11]、また窓部上下の補強帯(ウィンドウシル・ヘッダー)がリベットを有した段付形状から溶接による平板形状に改められている[11]。さらに、112編成は「川造形」の特徴の一つである前面および客用扉直上の屋根部に設置される半円形状の水切りを撤去し、車体全周にわたって雨樋を新設している[9]。
制御電動車モハ110形・制御車クハ210形とも一方の妻面にのみ運転台を備える片運転台仕様で[9]、西武鉄道在籍当時は両運転台仕様であったモハ112(西武クモハ152)[5]も導入に際して片運転台化改造が施工され、連結面側の妻面には貫通路および貫通幌を備える[12]。運転台側妻面は非貫通構造とし、3枚の前面窓を備えるが[12]、111編成が西武鉄道在籍当時と同じくサッシ窓型の1枚窓を3枚配置するのに対して[13]、112編成は3枚の前面窓全てをHゴムによる固定支持とした点が異なる[9]。
側面には片側3箇所設けられた1,000 mm幅の片開客用扉のほか、380 mm幅の乗務員扉と700 mm幅の二段上昇式の側窓を備える[10][12]。側面窓配置はモハ110形・クハ210形とも d D 6 D 6 D 1(d:乗務員扉、D:客用扉、各数値は側窓の枚数)で[12]、西武鉄道在籍当時と変化はないが、東濃鉄道への導入に際しては西武鉄道在籍当時に設置された各客用扉下部の張り出し形のステップが撤去されている[11][13]。また、111編成は木製サッシ仕様で、戸袋窓形状がサッシ窓型であるのに対して[13]、112編成は導入時の改修に際して窓サッシがアルミサッシ化され、戸袋窓は前面窓と同じくHゴムによる固定支持に改められている[4]。
屋根部には原形と同じくお碗形ベンチレーターを屋根上左右に2列配置で搭載する[12]。また、モハ110形については前述の通りパンタグラフの連結面への移設および低屋根化改造が施工され[4]、パンタグラフ取り付け部の屋根高は3,492 mmと原形 (3,736 mm) より244 mm低屋根化されている[4]。
車内座席はロングシート仕様で、各客用扉間に計4箇所、定員48人分の座席が設けられている[12]。運転台は妻面中央部に設けられ、運転台を含む乗務員空間と客室空間は中央部分が仕切り壁によって、仕切り壁の左右はHポールによってそれぞれ区分されている[12]。
主要機器
主要機器については、西武鉄道在籍当時と同じくウェスティングハウス・エレクトリック (WH) 製の機器を多く採用する[5]。
制御装置は電空単位スイッチ式間接非自動加速制御(HL制御)仕様のウェスティングハウス・エレクトリックHL-272-G6を搭載する[14]。主電動機はウェスティングハウス・エレクトリックWH-556-J6直流直巻電動機(端子電圧750 V時定格出力75 kW、同定格回転数985 rpm[15])を、歯車比3.94 (71:18) にて1両あたり4基搭載する[1]。
台車はモハ110形が住友製鋼所(後の住友金属工業)KS-31L、クハ210形が同KS-30Lを装着する[1]。いずれも鋳鋼組立型の台車枠を備える釣り合い梁式台車である[12]。固定軸間距離2,135 mm・車輪径860 mmの基本設計は両台車で共通するものの[1]、基礎制動装置が電動車用台車であるKS-31Lが両抱き(クラスプ)式であるのに対して、制御車・付随車用台車であるKS-30Lは片押し(シングル)式と異なる[5]。
制動装置は動作弁にウェスティングハウス・エア・ブレーキ (WABCO) 開発のM三動弁を用いる元空気溜管式自動空気ブレーキ仕様で[1]、モハ110形の制動装置はAMM、クハ210形の制動装置はACMとそれぞれ呼称された[14]。
集電装置は、主要機器と同じく西武鉄道在籍当時からのPS13A国鉄制式戦時設計型菱形パンタグラフを、モハ110形に1両あたり1基搭載する[14]。
連結器は、西武鉄道在籍当時は前面・連結面とも柴田式密着連結器仕様であったが、東濃鉄道への導入に際して前面の連結器のみ並形自動連結器に交換した[9]。この際、密着連結器当時の胴受はそのまま流用し、並形自動連結器用の取付座を胴受下部に新設して並形自動連結器を装着している[11]。
運用
導入から駄知線廃止まで
駄知線は本形式の導入翌年、1965年(昭和40年)度に一日平均輸送人員が過去最高の12,878人を記録した[3]。そのような状況下、本形式は東濃鉄道唯一の2両固定編成を組成する、最も収容力の高い大型車として重用された[9]。もっとも、同時期にはモータリゼーションの影響が顕著となり、同年をピークに駄知線の輸送人員は年々減少の一途を辿った[3]。
その後、駄知線は1972年(昭和47年)7月13日の昭和47年7月豪雨にて土岐津 - 神明口間の土岐川に架かる土岐川橋梁が流失、全線で運行休止となった[3]。以降、本形式も駄知線所属の他形式同様に休車となった[16]。
約2年間の営業休止期間を経て復旧は断念され、1974年(昭和49年)10月21日付で駄知線は全線廃止となった[3]。運行再開を見越して保管されていた本形式を始めとする駄知線所属の全車両も、同日付で除籍された[3]。
廃線後1年余を経過した1975年(昭和50年)に、111編成が総武流山電鉄へ、112編成が名古屋鉄道(名鉄)へそれぞれ譲渡された[14][17][18]。当時の東濃鉄道は名鉄傘下のグループ企業となっており[19]、東濃鉄道からの車両の引き受け要請を受諾する形で、当時としては極めて異例となる、中小私鉄から大手私鉄である名鉄への譲渡が決定したという経緯を有する[9]。
また、両社への譲渡に際しては、111編成・112編成とも名鉄鳴海工場にて各種改造が施工されている[9]。
総武流山電鉄譲渡車両(モハ1002・クハ55)
当時の総武流山電鉄は、同社路線の電化開業に際して導入したモハ100形の車体修繕工事および中間付随車化改造を計画しており[20]、同形式の改造入場時における代替車両確保などを目的として[21]、1975年(昭和50年)8月に東濃111編成を譲り受けた[17][18]。
導入に際しては、モハ111の制御装置を国鉄制式機種であるCS5電空カム軸式間接自動制御器に換装したほか[8]、運転台位置の左側への移設・乗務員扉の拡幅(500 mm幅)・運転台仕切り壁の新設による全室運転室構造化・前照灯のシールドビーム2灯化・前面窓および戸袋窓のHゴム固定支持化・側窓のアルミサッシ化などが施工された[8][17][18]。車体塗装は総武流山電鉄標準塗装のオレンジ地に腰板上部へ白帯を配したものに改められた[20]。
形式および記号番号は、モハ111がモハ1000形1002、クハ211がクハ50形55とそれぞれ改められた[17][18]。車番末尾が2両で異なるのは、2両とも既存形式に編入され、その続番が付与されたことによるものである[21]。
導入後は東濃鉄道在籍当時と同じくモハ1002-クハ55の2両による編成を組成したが、1200形(元西武501系)の導入に伴って[22]、1981年(昭和56年)6月8日付でクハ55が除籍された[23]。編成相手を失ったモハ1002は、クハ55と同日付で除籍されたモハ1000形1001の同形制御車であったクハ50形52(いずれも元西武クハ1211形)と新たに編成を組成した[22]。
その後、1987年(昭和62年)に1300形「あかぎ」(元西武551系)が導入されたことに伴って[22]、モハ1002・クハ52とも翌1988年(昭和63年)1月8日付で除籍された[23]。
名古屋鉄道譲渡車両(3790系)
第一次オイルショックを契機とした輸送量急増に直面し、車両事情が逼迫していた名鉄は[24]、前述の通り東濃鉄道からの引き受け要請を受諾する形で、1975年(昭和50年)5月に東濃112編成を譲り受けた[14]。なお、名鉄は車両引き受け要請受諾に際して、各部仕様が相対的に近代化されていた112編成の譲渡を希望し、導入に至った[9][* 2]。
同時期の名鉄は、東濃112編成のほか、3880系(元東急3700系)およびモ870形(元札幌市電A830形)といった他事業者からの譲渡車両を多数導入し[25]、喫緊の課題であった輸送事情の改善を図った[26]。
導入に際しては、自動列車停止装置(M式ATS)の新設のほか、車体塗装をスカーレット1色塗装に変更するなど小規模な仕様変更が施されたのみで[19]、総武流山電鉄へ譲渡された111編成のような運転台位置変更・乗務員扉の拡幅などは施工されていない[10]。名鉄におけるスカーレット1色塗装は、従来7000系「パノラマカー」の専用塗装であったが、前述した3880系導入を契機として名鉄が保有する鉄軌道車両の標準塗装と定められたため[27]、それを踏襲したものである[28]。主要機器については東濃鉄道在籍当時と変化はなく、間接非自動制御(HL制御)仕様のまま存置された[14]。そのため、名鉄における新形式は、名鉄の架線電圧1,500 V路線区にて運用される既存のHL車各形式と同じく3700番台に区分され[29][* 3]、モハ112はモ3790形3791、クハ212はク2790形2791とそれぞれ形式・記号番号を改め、3790系と総称された[19]。車体の車番標記は、他の譲渡車両各形式と同じく名鉄仕様の切り出し文字によるボールド体のローマン書体に改められた[10]。
3790系は同社築港線の専用車両として導入され[6]、従来築港線専用編成として運用されていた3800系ク2815(2代)-モ3816-ク2818の編成に代わって1975年(昭和50年)8月より運用を開始した[31]。運用開始に際しては、前述したク2815(2代)をモ3791とク2791の間に中間付随車代用として組み込み、3両編成を組成した[31]。また、残るモ3816-ク2818は制御装置の進段制限(力行制御の直列段固定[32])など築港線専用仕様を解除して幹線系統へ再転属し、幹線系統の運用車両増加に用いられた[32]。
導入後は前照灯のシールドビーム2灯化が施工された程度で大きな改造を施工されることなく[19]、終始築港線にて運用されたのち[25]、1985年(昭和60年)3月28日付で除籍された[33]。
脚注
注釈
- ^ 西武鉄道にて1964年(昭和39年)1月に実施された車両記号改訂に伴って、従来「モハ」の記号が付された制御電動車各形式は「クモハ」と記号が改められた[7]。そのため、車両記号改訂以前の1963年(昭和38年)12月に除籍されたモハ155と、車両記号改訂後に除籍されたクモハ152では、同一形式・車種ながら記号が異なる[5]。
- ^ 鉄道研究家の清水武は、自著『RM LIBRARY72 東濃鉄道』にて「(名鉄側は)アルミサッシ化されていた第1編成(111編成、モハ111-クハ211)の譲渡を希望したが、流山の要求が優先された」と述べているが[9]、実際にはアルミサッシ化されていた第2編成(112編成、モハ112-クハ212)が名鉄側の希望通り譲渡されている[6][14][19]。
- ^ ただし、名鉄保有のHL車各形式とは主電動機は同一ながら歯車比の相違に起因して走行特性が異なり、東濃モハ112(名鉄モ3791)が歯車比3.94 (71:18) ・全界磁時定格速度40.23 km/hであるのに対して[12]、名鉄保有のHL車各形式は歯車比3.045 (67:22) ・全界磁時定格速度48.0 km/hである[30]。
出典
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- ^ a b 『RM LIBRARY72 東濃鉄道』 pp.22 - 23
- ^ a b c d e f 『RM LIBRARY72 東濃鉄道』 pp.15 - 18
- ^ a b c d e f 「全国で働らく元西武鉄道の車両(下)」 (1969) p.34
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- ^ a b c 『私鉄電車ガイドブック4 相鉄・横浜市・名鉄・名古屋市』 pp.154 - 155
- ^ 「私鉄車両めぐり(80) 西武鉄道 1」 (1969) p.72
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- ^ a b c d 『車両竣功図表 記号番号モハ1002』
- ^ a b c d 『車両竣功図表 記号番号クハ55』
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- ^ a b 『名鉄電車 昭和ノスタルジー』 p.77
- ^ a b 『名鉄電車 昭和ノスタルジー』 pp.70 - 71
- ^ 『私鉄の車両11 名古屋鉄道』 p.179
参考資料
書籍
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- 吉川文夫・廣田尚敬 『ヤマケイ私鉄ハンドブック8 名鉄』 山と渓谷社 1982年12月 ISBN 4-635-06120-5
- 白井良和 『私鉄の車両11 名古屋鉄道』 保育社 1985年12月 ISBN 4-586-53211-4
- 西尾恵介 『RM LIBRARY31 所沢車輌工場ものがたり(下)』 ネコ・パブリッシング 2002年2月 ISBN 4-87366-266-4
- 清水武 『RM LIBRARY72 東濃鉄道』 ネコ・パブリッシング 2005年8月 ISBN 4-7770-5108-0
- 清水武 『RM LIBRARY130 名鉄岐阜線の電車 -美濃電の終焉(下)』 ネコ・パブリッシング 2010年6月 ISBN 4-7770-5287-7
- 徳田耕一 『名鉄電車 昭和ノスタルジー』 JTBパブリッシング 2013年5月 ISBN 4-533-09166-0
雑誌記事
- 『鉄道ピクトリアル』 鉄道図書刊行会
- 今城光英・加藤新一・酒井英夫 「私鉄車両めぐり(80) 西武鉄道 1」 1969年11月号(通巻230号) pp.67 - 73
- 吉川文夫 「全国で働らく元西武鉄道の車両(下)」 1969年12月号(通巻231号) pp.34 - 36
- 加藤新一・今城光英・酒井英夫 「私鉄車両めぐり(80) 西武鉄道 2」 1969年12月号(通巻231号) pp.60 - 67
- 立教大学鉄道研究会 「学鉄連研究シリーズ(7) 総武流山電鉄」 1975年11月号(通巻312号) pp.65 - 68
- 藤野政明・渡辺英彦 「私鉄車両めぐり(115) 名古屋鉄道」 1979年12月臨時増刊号(通巻370号) pp.92 - 106
- 宮田敦彦・関健一 「関東地方のローカル私鉄 現況8 総武流山電鉄」 1983年6月臨時増刊号(通巻418号) pp.128 - 130
- 吉田文人 「私鉄車両めぐり(133) 名古屋鉄道」 1986年12月臨時増刊号(通巻473号) pp.185 - 198
- 小松丘・大山俊行・高橋健一 「他社へ譲渡された西武鉄道の車両」 1992年5月臨時増刊号(通巻560号) pp.217 - 236
- 田尻弘行 「地方私鉄に転じた西武の社形鋼製車」 2002年4月臨時増刊号(通巻714号) pp.90 - 95
- 清水武 「名古屋鉄道の輸送・運転業務に携わって」 2006年1月臨時増刊号(通巻771号) pp.124 - 131
- 真鍋裕司 「琴電へ譲渡された名鉄3700系」 2006年1月臨時増刊号(通巻771号) pp.174 - 180
- 服部朗宏 「“その後”の関東のローカル私鉄」 2014年12月号別冊『アーカイブスセレクション29 私鉄車両めぐり 関東(I)』 pp.6 - 12
その他
- 流鉄株式会社 『車両形式図 1949 - 2010』