コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「エリザベス・テイラー」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
from en:Elizabeth Taylor 23:03, 5 November 2013‎ (UTC), en:Elizabeth Taylor filmography 12:40, 3 December 2013 (UTC)
タグ: サイズの大幅な増減
21行目: 21行目:
| 職業 = [[俳優|女優]]
| 職業 = [[俳優|女優]]
| ジャンル = [[映画]]、[[テレビドラマ]]
| ジャンル = [[映画]]、[[テレビドラマ]]
| 活動期間 = 1942年 - 2011
| 活動期間 = 1942年 - 2003
| 活動内容 = 1942年:映画デビュー
| 活動内容 = 1942年:映画デビュー
| 配偶者 = コンラッド・ヒルトン Jr.<br />(1950年 - 1951年)<br />マイケル・ワイルディング<br />(1952年 - 1957年)<br />マイケル・トッド<br />(1957年 - 1958年)<br />[[エディ・フィッシャー]]<br />(1959年 - 1964年)<br />[[リチャード・バートン]]<br />(1964年 - 1974年、1975年 - 1976年)<br />[[ジョン・ウォーナー]]<br />(1976年 - 1982年)<br />ラリー・フォーテンスキー<br />(1991年 - 1996年)
| 配偶者 = コンラッド・ヒルトン Jr.<br />(1950年 - 1951年)<br />マイケル・ワイルディング<br />(1952年 - 1957年)<br />マイケル・トッド<br />(1957年 - 1958年)<br />[[エディ・フィッシャー]]<br />(1959年 - 1964年)<br />[[リチャード・バートン]]<br />(1964年 - 1974年、1975年 - 1976年)<br />[[ジョン・ウォーナー]]<br />(1976年 - 1982年)<br />ラリー・フォーテンスキー<br />(1991年 - 1996年)
| 家族 = マイケル・ハワード・ワイルディング(長男)<br />クリストファー・エドワード・ワイルディング(次男)<br />エリザベス・フランシス・トッド(長女)<br />マリア・バートン(養女)
| 家族 = マイケル・ハワード・ワイルディング(長男)<br />クリストファー・エドワード・ワイルディング(次男)<br />エリザベス・フランシス・トッド(長女)<br />マリア・バートン(養女)
| 公式サイト =
| 公式サイト =
| 主な作品 = '''映画'''<br />『緑園の天使』<br />『若草物語』<br />『陽のあたる場所』<br />『ジャイアンツ』<br />『熱いトタン屋根の猫』<br />『バタフィールド8』<br />『クレオパトラ』<br />『バージニア・ウルフなんかこわくない』
| 主な作品 = '''映画'''<br />『緑園の天使』<br />『若草物語』<br />『陽のあたる場所』<br />『ジャイアンツ』<br />『熱いトタン屋根の猫』<br />『バタフィールド8』<br />『クレオパトラ』<br />『バージニア・ウルフなんかこわくない』
| アカデミー賞 = '''[[アカデミー主演女優賞|主演女優賞]]'''<br />1960年『バタフィールド8』<br />1966年『バージニア・ウルフなんかこわくない』<br />'''[[ジーン・ハーショルト友愛賞]]'''<br />1992年
| アカデミー賞 = '''[[アカデミー主演女優賞|主演女優賞]]'''<br />1960年『バタフィールド8』<br />1966年『バージニア・ウルフなんかこわくない』<br />'''[[ジーン・ハーショルト友愛賞]]'''<br />1992年
| AFI賞 =
| AFI賞 =
| 英国アカデミー賞 = '''[[英国アカデミー賞 主演女優賞|主演女優賞]]'''<br />1966年『バージニア・ウルフなんかこわくない』
| 英国アカデミー賞 = '''[[英国アカデミー賞 主演女優賞|主演女優賞]]'''<br />1966年『バージニア・ウルフなんかこわくない』
45行目: 45行目:
| 備考 =
| 備考 =
}}
}}
'''エリザベス・テイラー'''('''Dame Elizabeth Taylor, [[大英帝国勲章|DBE]]'''本名: Elizabeth Rosemond Taylor, [[1932年]][[2月27日]] - [[2011年]][[3月23日]]<ref>{{Cite news|date=2011-03-24|newspaper=MTVJAPAN|language=日本語|url=http://www.mtvjapan.com/news/cinema/18924|title=エリザベス・テイラー、79歳で死去|accessdate=2011-03-24}}</ref>)は、[[イギリス]]出身の[[俳優|女優]]。愛称の「リズ (Liz)有名だったが人はこれってしてなかった。
'''エリザベス・テイラー'''({{lang|en-short|Dame Elizabeth Rosemond Taylor}}, [[大英帝国勲章|DBE]]、[[1932年]][[2月27日]] - [[2011年]][[3月23日]]<ref>{{Cite news|date=2011-03-24|newspaper=MTVJAPAN|language=日本語|url=http://www.mtvjapan.com/news/cinema/18924|title=エリザベス・テイラー、79歳で死去|accessdate=2011-03-24}}</ref>)は、[[イギリス]]出身の[[俳優|女優]]。少女時代から[[メトロ・ゴールドウィン・メイヤー]] (MGM) 子役として映画出演しており後に「ハリウッド黄金時代」([[:en:Classical Hollywood cinema|en:Hollywood's Golden Age]]) 代表する大女優の一人となた。世界的にもっとも有名な女優の一人であり、優れた演技力、美貌、豪奢な私生活、そしいスミレ色の[[虹彩|瞳]]で知られていた。


<!-- 全体のリード文ですので「概要」などで単純に節分けしないでください -->
== 来歴 ==
『[[緑園の天使]]』(1944年)が最初に成功したテイラーの映画出演作品となった。その後、『[[花嫁の父]]』(1950年)、『[[陽のあたる場所 (映画)|陽のあたる場所]]』(1951年)、『[[ジャイアンツ (映画)|ジャイアンツ]]』(1956年)、『[[熱いトタン屋根の猫 (映画)|熱いトタン屋根の猫]]』(1958年)、『[[去年の夏 突然に]]』(1959年)などに出演している。1960年の『[[バターフィールド8]]』で[[アカデミー主演女優賞]]を受賞し、『[[クレオパトラ (1963年の映画)|クレオパトラ]]』(1963年)では主題役を演じ、この作品で共演した[[リチャード・バートン]]と結婚した。バートンとの共演作は『[[バージニア・ウルフなんかこわくない]]』(1966年)など11本におよび、テイラーはこの『バージニア・ウルフなんかこわくない』で2度目のアカデミー主演女優賞を受賞している。1970年代半ばからテイラーの映画出演は減っていき、ときおりテレビや舞台に出演するようになった。
=== 生い立ち ===
[[ロンドン]]のハムステッド地区にて、英国在住だったアメリカ人の両親のもとに生まれる。目の[[虹彩]]の色が非常にまれなバイオレットであるといわれている。父親は[[美術商]]、母親は元舞台女優(結婚時に引退)。7歳のとき、戦渦を避けるため一家でアメリカへ移住する。コラムニストのヘッダ・ホッパーの目にとまったのが縁で、12歳で映画デビューする。


テイラーの私生活は、8度の結婚と生命に関わる闘病生活で知られている。また、1980年代半ばから[[後天性免疫不全症候群|エイズ]]撲滅運動を支持し、1985年に米国エイズ研究財団 ([[:en:amfAR, The Foundation for AIDS Research]]) の創設メンバーの一人となり、1993年にはエリザベス・テイラー・エイズ基金を創設した。大統領メダル ([[:en:Presidential Citizens Medal]])、[[レジオンドヌール勲章]]、[[ジーン・ハーショルト友愛賞]]、AFI生涯功労賞 ([[:en:AFI Life Achievement Award]]) を受賞し、[[アメリカン・フィルム・インスティチュート|AFI]]が選定した[[映画スターベスト100]]の女優部門では第7位にランクされている。テイラーは長い闘病生活の末、2011年3月に[[心不全|鬱血性心不全]]のために79歳で死去した。
=== キャリア ===
1942年に『''There's One Born Every Minute''』の端役で映画デビュー。ユニヴァーサル映画との契約はこの作品のみであったが、『名犬ラッシー 家路』で代役を探していたMGMと7年契約を結ぶ。以後、『緑園の天使』『若草物語』などで[[シャーリー・テンプル]]の次の世代の少女スターとして活躍した。


{{TOC limit|limit=2}}
1950年代は『花嫁の父』『陽のあたる場所』などで大人の役に移行し、『黒騎士』『雨の朝巴里に死す』などで、美人スター女優の地位を確立。『ジャイアンツ』では老け役にも挑戦し、それにつづく『[[愛情の花咲く樹 (映画)|愛情の花咲く樹]]』『[[熱いトタン屋根の猫 (映画)|熱いトタン屋根の猫]]』『[[去年の夏 突然に]]』では連続して[[アカデミー主演女優賞]]候補となり、アメリカを代表する女優となる。1960年公開の『バタフィールド8』で初の[[アカデミー主演女優賞]]を受賞した。その後、MGMを離れてフリーとなる。古代エジプトの女王を演じた『クレオパトラ』は史上初の100万ドルの出演料で話題になった。この作品で出会ったリチャード・バートンとは『予期せぬ出来事』『いそしぎ』などで共演がつづき、1966年公開の『[[バージニア・ウルフなんかこわくない]]』では、2度目の[[アカデミー主演女優賞]]を受賞している。バートンとはその後も『じゃじゃ馬ならし』『危険な旅路』『夕なぎ』などでもコンビを組んだ。
== 幼少期 ==
テイラーは1932年2月27日に二人兄妹の妹として、ロンドン北西部の[[ハムステッド・ガーデン・サバーブ]]にあるウィルウッド通り8番の両親の家で生まれ、エリザベス・ロズモンド・テイラー ({{lang|en|Elizabeth Rosemond Taylor}}) と名付けられた<ref>[http://www.dailymail.co.uk/news/article-1278863/Richard-Kay-17-May-2010.html "Watch out, boys&nbsp;...  Liz Taylor's coming home"]. Associated Newspapers Ltd. ''Daily Mail'' Online. May 17, 2010. Retrieved March 24, 2011.</ref><ref>[http://www.thisislondon.co.uk/lifestyle/article-23935057-liz-taylor---the-hampstead-girl-who-seduced-the-world.do "Elizabeth Taylor – the Hampstead girl who seduced the world"] ''London Evening Standard''. March 24, 2011. Retrieved March 24, 2011.</ref><ref>[http://www.times-series.co.uk/news/topstories/8927698.Dame_Elizabeth_Taylor_dies_aged_79/ "Hampstead Garden Suburb born Dame Elizabeth Taylor dies aged 79]". ''Times of London''. March 24, 2011. Retrieved March 24, 2011.</ref>。父親はフランシス・レン・テイラー ([[:en:Francis Lenn Taylor]])(1897年 - 1968年)、母親はサラ・サザーン ([[:en:Sara Sothern]]) (1895年 - 1994年)で、両親ともに[[カンザス州]]アーカンザスシティ出身のアメリカ人だった。テイラーの兄ハワード・テイラーは1929年生まれである<ref name=taraborrelli2006>{{cite book | url = http://books.google.com/books?id=ScE8F_pMuAAC | title = Elizabeth | last = Taraborrelli | first = J. Randy | publisher=Grand Central Publishing | year = 2006 | accessdate =March 24, 2011 | isbn = 978-0-446-53254-9 }}</ref>。父フランシスは画商で、母サラは舞台女優をしていたが、[[ニューヨーク]]でフランシスと結婚した1926年に芸能活動から引退している。


テイラー家の親しい友人だったヴィクター・カサレ ([[:en:Victor Cazalet]]) は、一家に大きな影響を与えた人物で、エリザベスの名付け親となった。[[ウィンストン・チャーチル]]の親友でもあったカサレは裕福な国会議員で、有力な縁故を持つ独身男性だった。カサレは美術と観劇を深く愛した人物で、テイラー一家にイングランドに永住することを強く勧めた。また、[[クリスチャン・サイエンス]]の信者で在家の説教師を務めており、テイラー家とのつながりには宗教的な側面もあった。エリザベスがひどい小児性伝染感染症に罹患し、数週間寝込んだときにエリザベスは「お母さん、ヴィクターを呼んでくれないかしら。一緒にここにいてくれるように頼んで」と懇願している<ref name=Walker/>{{rp|page=14}}。
1980年以降は[[ブロードウェイ]]の舞台や、テレビドラマにも出演。映画への出演は『クリスタル殺人事件』や『トスカニーニ 愛と情熱の日々』などがある。また、「パッション」や「ホワイト・ダイヤモンズ」という名の香水を発売。無類の宝石好きでも知られ、ジュエリーのデザインを手がけるビジネスにも進出している。


伝記作家のアレクサンダー・ウォーカー ([[:en:Alexander Walker (critic)|en:Alexander Walker]]) は、エリザベスが27歳のときにユダヤ教に改宗しその生涯を通じて[[イスラエル]]を支持していたのは、幼少期の体験が原因ではないかとしている。ウォーカーは、カサレがユダヤ人の祖国建設の積極的な推進者だったことと、エリザベスの母サラがさまざまな慈善活動に参加しており、その活動のなかに[[シオニズム]]資金団体への支援があったことを指摘している。サラはエリザベスがカサレから受けた影響について次のように振り返っている。
=== 多彩な結婚歴 ===
{{quotation|ヴィクター(カサレ)は、ベッドに座ってエリザベスを抱きかかえながら神様のことを語って聞かせていました。エリザベスの瞳は彼の顔を食い入るように見つめ、彼の話すあらゆる言葉に聞き入り、信じ、そして理解していったのです<ref name=Walker/>{{rp|page=14}}。}}
8度の結婚と7回の離婚を経験し、私生活でも話題に事欠かなかった。最初の結婚相手は[[コンラッド・ヒルトン・ジュニア]]([[ヒルトン姉妹]]の祖父の兄にあたる)。2度目は俳優[[マイケル・ワイルディング]]。3度目はプロデューサーの[[マイク・トッド]]と結婚・死別。4度目は歌手[[エディ・フィッシャー]]。『[[クレオパトラ (1963年の映画)|クレオパトラ]]』で共演した[[リチャード・バートン]]とは[[1974年]]の離婚を挟んで2度結婚生活を送った。その後は、政治家[[ジョン・ウォーナー]]、工事現場作業員[[ラリー・フォーテンスキー]]と結婚・離婚。晩年は独身で、4人の子供と9人の孫がいる。
テイラーは出生国イギリスと両親の出身国アメリカとの二重国籍を持っていた。1965年10月にパリのアメリカ大使館でアメリカ国籍放棄の手続きを行ったが、証明書の「合衆国へのあらゆる義務と忠誠を放棄する」という一文には抹消線が引かれていた。このため[[アメリカ合衆国国務省]]は、書類が改ざんされているためテイラーの国籍放棄を認めないという見解を公式に公表している。テイラーは翌年の1966年に、改めて正式なアメリカ国籍放棄の証明書にサインした<ref>{{cite news|url=http://news.google.com/newspapers?id=s2ocAAAAIBAJ&sjid=YU8EAAAAIBAJ&pg=7364,5810172|first=Richard|last=Boyce|title=Liz Taylor Renounces U.S. Citizenship|date=1967-04-14|accessdate=2012-07-03}}</ref>。しかしながら1977年にテイラーは、当時の夫だった政治家[[ジョン・ウォーナー]]の上院議員選挙運動の際にアメリカ国籍取得を申請している<ref>{{cite news|url=http://news.google.com/newspapers?id=awxPAAAAIBAJ&sjid=cgIEAAAAIBAJ&pg=6365,5024920|title=Liz Taylor Applies To Be U.S. Citizen|work=Toledo Blade|date=1978-02-19|accessdate=2012-07-03}}</ref><ref>{{cite news|url=http://news.google.com/newspapers?id=HxNdAAAAIBAJ&sjid=dloNAAAAIBAJ&pg=5264,3479319|first=Earl|last=Wilson|title=Will Liz Taylor be our First Lady?|date=1977-06-15|accessdate=2012-07-03}}</ref>。


[[第二次世界大戦]]が勃発する直前に、両親は戦火を避けてイギリスからアメリカへと戻ることを決めた。母サラと二人の子供が一足先にニューヨークへ到着したのは1939年4月のことで<ref>S.S. ''Manhattan'', April 27, 1939, sheet 25. Ancestry.com. ''New York Passenger Lists, 1820–1957'' [database on-line]. Provo, Utah, US: Ancestry.com Operations Inc, 2006.</ref>、ロンドンで仕事の後始末に追われていた父ウォルターがアメリカへ帰国したのは11月になってからだった<ref>S.S. ''President Roosevelt'', November 1, 1939, sheet 209. ''New York Passenger Lists, 1820–1957'' [database on-line]. Provo, Utah, U.S.: Ancestry.com Operations Inc, 2006.</ref>。一家はカリフォルニア州ロサンゼルスに落ち着き、父ウォルターはイギリスから持ち込んだ多くの絵画を展示するアート・ギャラリーを建てた。そしてすぐにこのギャラリーは現代ヨーロッパ絵画を好む多くの著名なハリウッド関係者たちの間で評判になり、伝記作家ウォーカーはギャラリーが「テイラーを金銭と名声に満ちた(ハリウッドの)世界へと誘う、多くの扉を開いていくことになった」としている<ref name=Walker>{{cite book | author=Walker, Alexander | title = Elizabeth: the life of Elizabeth Taylor | publisher=G. Weidenfeld | location = London | year = 1990 | isbn = 978-0-8021-1335-1 }}</ref>{{rp|page=27}}。
=== 晩年 ===
晩年は皮膚がん・[[脳腫瘍]]を患うなど病気がちで、重病説、寝たきり生活説など様々な憶測が飛び交った時期があった。しかし2006年5月、アメリカの[[CNN]]のインタビュー番組『[[ラリー・キング・ライブ]]』にテイラー本人が登場。自身の健在ぶりを示すと共に近年の活動を語り、それらの噂をきっぱりと否定した。


== 女優としてのキャリア ==
[[1980年代]]以降[[後天性免疫不全症候群|エイズ]]撲滅を目指す慈善活動でも知られる。[[1992年]]、ロンドンのウェンブリースタジアムで開催された[[フレディ・マーキュリー追悼コンサート]]では、エイズ予防の啓発のためのスピーチを行っている。[[2007年]]12月、朗読劇「LOVE LETTERS」を舞台で一夜だけ演じ、その収益をHIV基金の支援にあてた。
=== 子役 ===
[[1987年]]には[[レジオンドヌール勲章]]を、[[2000年]]には英国王室より「[[ナイト#ナイトとその配偶者の敬称|デイム]]」の称号を受ける。[[マイケル・ジャクソン]]とは友人であり、非常に親しかった。[[2009年]]6月のマイケル死去の際には代理人を通して「悲しみにうちひしがれコメントできない」とその胸中を語った<ref>{{cite news|url=http://jp.reuters.com/article/entertainmentNews/idJPJAPAN-38739620090626|title=情報BOX:M・ジャクソンさんの訃報に悲しみの声|publisher=[[ロイター]]|date=2009年6月26日|accessdate=2012-09-21}}</ref>。2009年9月3日、マイケルの近親者による葬儀に参列した。2009年10月には[[僧帽弁閉鎖不全]]の治療のために、経皮的僧帽弁修復術を受けている<ref>[http://www.theheart.org/article/1011211.do Elizabeth Taylor tweets about experimental MitraClip procedure], Heart Wire, October 7, 2009</ref>。
テイラーの母サラは、ロサンゼルスに居を構えて間もなく、ハリウッド関係者が「つねに未来のスターを探している」ことに気づいた。サラは友人をはじめ見ず知らずの人々からも、当時撮影中だった映画『[[風と共に去りぬ (映画)|風と共に去りぬ]]』の主役[[スカーレット・オハラ]]の子供ボニー・ブルー役のスクリーン・テストを、テイラーに受けさせるように勧められた。しかしながらサラは、テイラーには映画の子役は向いていないとしてこれらの誘いを断った。また、テイラー一家が世界大戦終結後にはイングランドへ戻るつもりでいたことも背景にあった<ref name=Walker/>{{rp|page=28}}。


[[File:Elizabeth Taylor - child.JPG|thumb|left|200px|1940年ごろに撮影されたテイラー。]]
2011年3月23日、6週間前から[[心不全#総論|うっ血性心不全]]のため入院していたロサンゼルス市内の病院で死去。79歳没<ref>{{cite news|url=http://www.47news.jp/CN/201103/CN2011032301001170.htmltitle=エリザベス・テーラーさん死去 ハリウッド代表する女優|publisher=47NEWS(よんななニュース|date=2011/03/23|accessdate=2012/09/20}}</ref><ref>{{Cite news|url=http://today.msnbc.msn.com/id/12517000/ns/today-entertainment/|title=Screen legend Elizabeth Taylor dies at 79 |work=TODAY.com|newspaper=[[MSNBC]]|date=2011-03-23|accessdate=2011-03-23|language=英語}}</ref><ref>{{Cite news|url=http://woman.infoseek.co.jp/news/celebrity/story.html?q=cinematodayw_N0031227|title=エリザベス・テイラーさん、79歳で死去 8回の結婚と2度のアカデミー賞の大女優 エイズの活動家も|newspaper=楽天woman|date=2011-03-24|accessdate=2011-03-24|language=日本語}}</ref>。
あるとき、ハリウッドの芸能コラムニストのヘッダ・ホッパー ([[:en:Hedda Hopper]]) が、映画製作会社[[ユニバーサル・ピクチャーズ]]の役員で大株主だったジョン・チーヴァー・カウディンの婚約者アンドレア・べレンスとテイラーを引き合わせた。ベレンスはサラに、テイラーをカウディンに会わせれば、間違いなくカウディンはテイラーの驚くほどの美貌に魅せられるだろうと請合った<ref name="bayard20060903">{{cite news | url=http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/08/31/AR2006083101166.html | title=Violet Eyes To Die For | accessdate=April 1, 2011 | author=Bayard, Louis | date=September 3, 2006|work=Washington Post}}</ref>。別の映画製作会社[[メトロ・ゴールドウィン・メイヤー]] (MGM) もテイラーに関心を示しており、MGMの社長[[ルイス・B・メイヤー]]自らが自社のプロデューサーに「彼女(テイラー)と契約しろ。さっさとするんだ。何をぼやぼやしている」と催促したといわれている。そしてテイラーを巡ってユニバーサル・ピクチャーズとMGMの争奪戦となった。MGMも自分たちと同じくテイラーに興味を持っていることを知ったカウディンは、ニューヨークからユニバーサル・ピクチャーズへ「彼女と契約するんだ。これは命令だ。スクリーンテストも省いていい」という電話をかけている。そしてユニバーサル・ピクチャーズはテイラーと7年間の契約を結んだ<ref name=Walker/>{{rp|page=31}}。


テイラーが初めて映画作品に出演したのは『[[:en:There's One Born Every Minute|There's One Born Every Minute]]』(1942年)で、結局この作品がテイラーが出演した唯一のユニバーサル・ピクチャーズ製作映画となった<ref>Heymann, David C. ''Liz: An Intimate Biography of Elizabeth Taylor'', Birch Lane Press (1995), p. 33</ref>。
== その他 ==
[[グラフィックデザイナー]]の[[横尾忠則]]は、高校2年生だった[[1953年]]に本人にファンレターを送り、手紙と共にサイン入りの[[ブロマイド]]と、横尾自身が切手コレクターだったことで、世界中から寄せられたファンレターの切手を同封して送ってもらったことがある<ref>[http://twitter.com/#!/tadanoriyokoo/status/50739804396199936 /横尾自身がTwitterにてエリザベス・テイラーの訃報に触れて、語った際のつぶやき]。</ref>。


『There's One Born Every Minute』公開後、一年足らずでユニバーサル・ピクチャーズはテイラーとの契約を解消した。契約が解消された理由は不明だが、カウディンが期待するほどの成果をテイラーが挙げられなかったのではないかとする説がある。伝記作家ウォーカーは「ユニバーサル・ピクチャーズに歓迎されていない」とテイラーが直感的に思ったのだとしている。たとえば、配役担当ディレクターが、スクリーン・テストを終えたテイラーについて「この子には何もないよ」と漏らしたことをテイラーは知っていた。テイラーに出会う人々を驚かせた<ref name="mccarthy20110323">{{cite news | url=http://www.hollywoodreporter.com/news/thr-chief-film-critic-todd-170552 | title=THR Chief Film Critic Todd McCarthy Remembers Elizabeth Taylor | accessdate=March 27, 2011 | author=McCarthy, Todd | date=March 23, 2011 | publisher=The Hollywood Reporter}}</ref>すみれ色にも見える深い青色の美しい瞳と先天的な二重まつげ{{r|taraborrelli2006}}<ref name="palmer20110325">{{cite web | url=http://www.slate.com/blogs/blogs/browbeat/archive/2011/03/25/elizabeth-taylor-beautiful-mutant.aspx | title=Elizabeth Taylor: Beautiful Mutant | accessdate=March 26, 2011 | author=Palmer, Roxanne | date=March 25, 2005 | work=Slate}}</ref>は,このディレクターにとって印象的には感じられず<ref name=Harpers>''Harper's Bazaar'', Nov. 1979</ref>{{r|palmer20110325}}、「彼女(テイラー)の目はあまりに大人びすぎている。子供の顔じゃない」と言ったとされている<ref name=Walker/>{{rp|page=32}}。ウォーカーも「外見に関する限りはそう的外れな意見でもない」としている。
[[1957年]]11月22日に当時の夫だったマイク・トッドと来日(午後5時45分、[[東京国際空港]]着)。11月24日には[[京都市|京都]]を訪れ、映画『[[黒船 (曖昧さ回避)|黒船]]』の撮影で来日していた[[ジョン・ウェイン]]と会っている。11月25日、東京に戻り、離日。このとき以降も来日している。
{{quotation|
確かにエリザベスの容姿にはちょっと変なところが「あった」。年齢のわりには大人びており、実年齢よりも年上だと考える人々も多かっただろう。すでに母親と同じような集中力をみせていた。後にこのことは(テイラーの)大きな財産となっている。当時の人々は、[[シャーリー・テンプル]]の清純な愛らしさや、[[ジュディ・ガーランド]]の飾り気のない子供らしさに比べれば、テイラーが劣っていると思ったのだろう<ref name=Walker/>{{rp|page=32}}。
}}
[[File:Taylor, Elizabeth 10.jpg|thumb|1944年に撮影されたテイラー。]]<!--age unknown-->
テイラーは幼少時代をすごしたイングランドでは「大人びて」いると言われていたと振り返っており、それは自身が「率直でひどく遠慮がなかった」からだとしている<ref name=Rolling>[http://www.rollingstone.com/culture/news/elizabeth-taylor-the-lost-interview-20110329?print=true "Elizabeth Taylor: The Lost Interview"], ''Rolling Stone'' magazine, April 14, 2011 (never published interview from 1987)</ref>。さらに生まれたばかりの娘にも、自分とよく似た特徴がみられることにも触れている。
{{quotation|
まだ一歳にもならない娘がじっと他の人を見つめると、その人は落ち着きをなくし逃げ出したくなるのです。娘の熱のこもった視線に耐えられずに、ついには部屋を出て行ってしいます<ref name=Rolling/>。
}}
MGMのプロデューサーであるサム・マルクス ([[:en:Sam Marx]]) の火災警備員も務めていたテイラーの父ウォルターは、MGMが[[名犬ラッシー]]の映画に出演するイギリス人子役を探していることを知った。テイラーはこの映画への出演を決め、1943年からの長期契約をMGMと結んだ{{r|ap20110324}}。テイラーがMGMとの契約を決めた理由は「オーディションに行ったときに、MGMの関係者がみんな親切だったから」とテイラーは振り返っている<ref name=Walker/>{{rp|page=32}}。MGMの製作責任者ベニー・タウを、テイラーはその後数年にわたって全面的に信頼していた。「彼(タウ)は 細やかな気遣いが出来る人物で、その身振りからも彼女(テイラー)が愛されているということがわかった」とウォーカーは語っている<ref name=Walker/>{{rp|page=32}}。タウは当時のテイラーのことを「小さな黒髪の美人で、風変わりで美しい目がみなの注目を集めていた。妙に元気な子供だったよ」と評している<ref name=Walker/>{{rp|page=34}}。さらに、当時のMGMは「魅力的な製作会社」だとみなされており、「天国よりも多くのスターを抱えている」と自負していた。しかしながらテイラーの母サラは、テイラーには女優としての「天賦の才能」があると信じていたが、MGMとの契約書にサインするのをためらっていた。ウォーカーはテイラーがMGMとの契約を結ぶに至った理由を次のように述べている。
{{quotation|(テイラーの母サラは)確かな証を欲しがっていた。……サラは、以前自分が出演した『The Fool』の台本を持ち出し、自分は主役の台詞を読み、テイラーには過去にサラが演じた娘役の台詞を読ませた。このときサラは涙を禁じえなかったことを認めている。『私の娘は完璧に役を演じきったのです。私が演じた子供時代の役も成人してからの役も。彼女(テイラー)は私が過去に演じた全ての世代の役をこなしました』<ref name=Walker/>{{rp|pages=38–39}}。
}}

=== 少女スター ===
[[File:Elizabeth Taylor-1945.JPG|thumb|right|1945年に撮影されたテイラーの宣材写真。]]
MGMはテイラーを『名犬ラッシー 家路 ([[:en:Lassie Come Home]])』(1943年)に、その後終生の友情を結ぶことになる子役[[ロディ・マクドウォール]]と共演させた。後年マクドウォールはテイラーの美貌について「大きなスクリーンに映し出されるために生まれたこの少女以外の誰が二重まつげをしているだろう」と回想している{{r|taraborrelli2006}}。『名犬ラッシー 家路』でのテイラーとマクドウォールの演技はどちらも好評を博し、MGMは定時昇給を確約した週給100ドルの条件でテイラーと7年間の出演契約を結んだ。MGMとの契約下で初めて与えられたのは外部出演作品であり、[[20世紀フォックス]]が製作する『[[ジェーン・エア (1943年の映画)|ジェーン・エア]]』(1943年)のヘレン・バーン役だった。翌1944年にはイギリスで撮影された『[[ドーヴァーの白い崖]]』で、テイラーは再びマクドウォールと共演している。

粘り強く交渉して射止めた『[[緑園の天使]]』のヴェルヴェット・ブラウン役で、12歳のテイラーは子役スターとなった。テイラーの役は、愛する馬を調教して[[グランドナショナル]]で優勝することを夢見る少女だった。若き[[ミッキー・ルーニー]]やイギリスの新人女優[[アンジェラ・ランズベリー]]らが共演し、1944年12月に公開されたこの作品は大成功を収めた。後年になってテイラーは『緑園の天使』のことを、今までで「もっとも興奮した映画』と呼んでいるが<ref name="Gussow2">{{cite news | url=http://www.nytimes.com/2011/03/24/movies/elizabeth-taylor-obituary.html | title = Elizabeth Taylor, 1932–2011: A Lustrous Pinnacle of Hollywood Glamour | accessdate =March 23, 2011 | last = Gussow | first = Mel | date = March 23, 2011 |work=The New York Times }}</ref>、映画撮影中に落馬事故で痛めた背中は、後に様々な悪影響をテイラーにおよぼすこととなった{{r|ap20110324}}。

観客も批評家も「一目でエリザベス・テイラーに魅入られた」。ウォーカーは『緑園の天使』が大ヒットした理由として次のように記している。
{{quotation|その大きな成功はひとえにヒロインにある。その思い込みの強い性格で、叶わないことなど存在しないと信じる人々の強い憧れを体現してみせた。……言い方を変えれば人生観を描いた作品として、時代を超える名作という評価を確立したのである<ref name=Walker/>{{rp|page=41}}。
}}
『緑園の天使』の興行収益は400万ドル以上を記録し、MGMはテイラーと更なる延長出演契約を結んだ。『緑園の天使』の成功により、テイラーは同じく動物映画である『ラッシーの勇気 ([[:en:Courage of Lassie]])』(1946年)に出演している。この映画もヒットし、テイラーのギャラは週給750ドルまであがった。この後も[[ワーナー・ブラザーズ]]に貸し出されて出演した『ライフ・ウィズ・ファーザー ([[:en:Life with Father (film)|en:Life With Father]])』(1947年)を始め、『シンシア』(1947年)、『スイングの少女 ([[:en:A Date with Judy (film)|en:A Date with Judy]])』(1948年)、『[[奥様武勇伝]]』(1948年)と全ての出演作がヒットしている。テイラーは確実にヒットを飛ばす子役女優として高く評価され、撮影でNGを出さずに一度のテイクで決めてしまうところから「ワンショット・リズ」と呼ばれるようになった。そして南北戦争時代の一家を描いた古典的名作『[[若草物語 (1949年の映画)|若草物語]]』(1949年)のエイミー・マーチ役が、テイラーの最後の少女役となった。

当時のMGMはスタジオ内に教室を設置しており、子役たちに学校教育を施していた。しかしながらテイラーは、スターとして扱われない普通の子役たちから疎外されるようになり、この教室に嫌気がさすようになっていった。テイラーは子役として映画に出演する前が、子供時代でもっとも幸福な時期だったと振り返っている。
{{quotation|
私の人生で、数少ない本当に幸せだった時期のひとつに、女優を始める前の子供時代があります。同級生とゲームをし、お人形遊びやごっこ遊びに夢中になったものです。……『緑園の天使』に出演して有名になったのは私が12歳のときです。今でも私は普通の生活が送りたかったと思うときがあります。でも多分そのころから私は風変わりな変人だという目で見られるようになっていったのでしょう。<br />
私は学校が嫌いでした。少なくともあれは学校ではありませんでした。私は子供たちと一緒にすごすこと自体は大好きでした。でも教師が舞台セットにいる私の耳をつかんで引き摺り下ろし、教室に叩き込もうとするのです。私はよく激高しました。そのころ16歳だった私と真面目に接してくれる級友もいなかったのです。15分もしたら教室を抜け出して、ロバート・テイラーの妻役として情熱的なラブシーンを演じたものです<ref name=Life64/>。
}}

=== 成人女性役への転身 ===
[[File:Father of the bride 1950 promo.jpg|thumb|[[スペンサー・トレイシー]]と共演した『[[花嫁の父]]』の宣材写真。1950年。]]
10歳代のころのテイラーは、映画出演に嫌気が差していた。ステージママとなった母親サラは、テイラーが即興で泣けるようになるまで容赦なく稽古を続けさせ、撮影中のテイラーを監視し続けては、発声やミスを指摘した。撮影所で同年代の人間と出会うことはほとんどなく、貧弱な教育しか受ける機会を与えられなかったため、テイラーは簡単な算数であっても指を使わないと計算できなかった。16歳のときにテイラーは、両親に普通の子供に戻りたいから女優をやめると告げたことがある。母親のサラはテイラーには感謝の心がないと諭し「貴方には責任があるのよ、エリザベス。私たち一家にだけではなく、この国、さらには全世界に対してのね」と言って聞かせている<ref name="taraborrelli20110329">{{cite news | url=http://www.dailymail.co.uk/femail/article-1370903/Elizabeth-Taylors-brutal-mother-Sara-forced-cue.html | title=The brutal mother who forced Liz Taylor to cry on cue&nbsp;... and drove her into the arms of a wife-beater | work=Daily Mail | date=March 29, 2011 | accessdate=April 21, 2011 | author=Taraborrelli, J. Randy | location=London}}</ref>。

1948年10月にテイラーは『[[:en:Conspirator (1949 film)|Conspirator]]』の撮影のために、客船[[クイーン・メリー (客船)|クイーン・メリー]]でイギリスへ向かった。他の子役と違って、テイラーは成人女性役への転身に苦労することはなかった{{r|Gussow2}}。『Conspirator』が公開される1949年以前に、雑誌『[[タイム (雑誌)|タイム]]』がテイラーのことを「非常に高価な宝石、サファイアのような本物のスター」と呼んで、[[モンゴメリー・クリフト]]、[[カーク・ダグラス]]、[[エヴァ・ガードナー]]らと並ぶ、次代のハリウッド・スターだと紹介している<ref name="time19490822">{{cite news | url=http://www.time.com/time/printout/0,8816,800624,00.html | title=Elizabeth Taylor: Star Rising | accessdate=March 23, 2011 | date=August 22, 1949 | work=TIME }}</ref>。成長してもテイラーは小柄で華奢な体格のままで、ウェストサイズは19インチしかなかった{{r|taraborrelli20110329}}。

『Conspirator』の興行成績は悪かったが、当時38歳の[[ロバート・テイラー]]演じる共産主義のスパイと、そのことを知らずに結婚してしまうという、メリンダ・グレイトン役を演じた。当時16歳だったテイラーが演じたこの21歳の女性の役は、テイラー初の成人女性役として評論家から高い評価を得た。新たに週給2,000ドルとなったテイラーが出演した映画が人気俳優[[ヴァン・ジョンソン]]と共演した『[[:en:The Big Hangover|The Big Hangover]]』(1950年)だったが、この作品は興行成績も批評家からの評価もよくなかった。また、この映画では成長したテイラーの性的魅力を描写しようとしていたが、その面でも成功したとはいえない作品だった<ref>{{cite web|title=Review: The Big Hangover (1950)|url=http://www.boozemovies.com/2007/08/big-hangover-1950.html|work=Boozemovies.com|date=5 August 2007|accessdate=5 October 2012}}</ref>。

テイラーが成人女性を演じた映画で、最初に興行的にヒットしたのがコメディ映画の『[[花嫁の父]]』(1950年)である。テイラーは[[スペンサー・トレイシー]]が演じるスタンリー・T・バンクスの娘ケイ・バンクス役で、ほかには[[ジョーン・ベネット]]らが共演していた<ref name="Taylor Profile"/>。『花嫁の父』の続編として製作されたコメディ映画『可愛い配当 ([[:en:Father's Little Dividend]])』(1951年)でテイラーは再びスペンサー・トレイシーと共演した。トレイシーはこの映画について「退屈、退屈極まりない」と評している<ref>Heymann, p.106</ref>。『可愛い配当』の興行成績は非常によく、二作続けてコメディ映画でヒットを飛ばしたテイラーだったが、次作の『[[陽のあたる場所 (映画)|陽のあたる場所]]』が、以降のテイラーの女優としてのキャリアを方向付けることとなる<ref name="Taylor Profile"/>。

[[File:Taylor-Clift-A Place in the Sun.jpg|thumb|left|[[モンゴメリー・クリフト]]と共演した『[[陽のあたる場所 (映画)|陽のあたる場所]]』。1951年。]]
1949年の終わりにテイラーは、[[ジョージ・スティーヴンス]]監督作品『陽のあたる場所』の撮影に入った。この作品が公開されたのは1951年で、テイラーは資産家令嬢のアンジェラ・ヴィッカース役を演じた。共演したのはジョージ・イーストマン役の[[モンゴメリー・クリフト]]と、イーストマンの恋人で妊娠しながらも工場で働く貧しいアリス・トリップ役の[[シェリー・ウィンタース]]だった{{r|Gussow2}}。『陽のあたる場所』はセオドア・ドライサーの小説『アメリカの悲劇』を原作としており、「[[アメリカン・ドリーム]]」への批判とその悪影響をテーマにしていた<ref name=Kelley/>。

当時のテイラーはまだ17歳であり、『陽のあたる場所』にこめられた心理的な影響力やテーマ性を理解できてはいなかったが、この作品はテイラーの女優としてのキャリアに極めて重要なものとなった。伝記作家キティ・ケリーは、監督のスティーヴンスがテイラーのことを若く美しいスターだと認識しており、そのことによって「(クリフト演じる)ジョージ・イーストマンが、彼女(テイラー演じるアンジェラ・ヴィッカース)と陽のあたる場所を手に入れるためなら何でもすると思いつめた理由を、観客たちにはっきりと理解させる」効果があったとしている<ref name=Kelley>Kelley, Kitty. ''Elizabeth Taylor, the Last Star'', Simon and Schuster (1981) pp. 34–41</ref>。ケリーは『陽のあたる場所』の撮影現場の見学を許された芸能コラムニストのヘッダ・ホッパーが「『緑園の天使』に出演していた少女が、カメラの前でモンゴメリー・クリフトを誘惑しているシーンを食い入るように見つめていた」と書いている。さらに、このシーンの撮影後にホッパーがテイラーのところへ行って「エリザベス、あんなふうに男を誘惑する手管をいったいいつ覚えたの」と尋ねていたとしている<ref name=Kelley/>。批評家たちは『陽のあたる場所』を傑作と評価し、映画史に50年以上残る作品だとして高く称賛した。『[[ニューヨーク・タイムズ|ニューヨーク・タイムズ紙]]』のA・H・ワイラーは「裕福で美しいアンジェラを演じたエリザベスの演技は、彼女のキャリア中で最高だった」と書いた。また、『ボックスオフィス誌 ([[:en:Boxoffice (magazine)|en:Boxoffice]])』はその劇評で「ミス・テイラーは[[アカデミー賞]]に値する」と断言している。

[[File:Elizabeth Taylor-1954.JPG|thumb|『[[雨の朝巴里に死す]]』のテイラー。1954年。]]
1950年ごろから、テイラーは自身に振られる配役に対して徐々に不満を持つようになっていった。テイラーが望んでいたのは『[[裸足の伯爵夫人]]』でエヴァ・ガードナーが演じたマリア・バルガスや『明日泣く ([[:en:I'll Cry Tomorrow]])』で[[スーザン・ヘイワード]]が演じたリリアン・ロスのような役柄だった。しかしながらMGMは、テイラーが[[カメオ出演]]した『[[:en:Callaway Went Thataway|Callaway Went Thataway]]』(1951年)や、『[[:en:Love Is Better Than Ever|Love Is Better Than Ever]]』(1952年)、『[[黒騎士 (1952年の映画)|黒騎士]]』(1952年)、『[[:en:The Girl Who Had Everything|en:The Girl Who Had Everything]]』のような、どちらかというと愚かしく、記憶に残らないような映画への出演しか認めなかった<ref name="Taylor Profile"/><ref>{{cite web|title=The Girl Who Had Everything|url=http://www.tcm.com/tcmdb/title/174/The-Girl-Who-Had-Everything/|work=Turner Classic Movies|accessdate=5 October 2012}}</ref>。

1954年に出演した『ラプソディ ([[:en:Rhapsody (1954 film)|en:Rhapsody]])』も、テイラーにしてみれば飽き飽きするような恋愛映画で、不満が残る役どころだった。テイラーが演じたルイーズ・デュラン役は、[[ヴィットリオ・ガスマン]]演じる気難しいヴァイオリニストと、ジョン・エリクソン演じる真面目な若きピアニストの間で揺れ動く裕福で美しい娘という役どころだった。『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙』は「全編が美しさに満ちた作品で、ミス・テイラーはあらゆる角度から輝いている。……台詞は高尚で出演陣も優れた容姿ではあるが、いかんせん内容に乏しい」と評している<ref>Heymann, p. 128</ref>。

『ラプソディ』、『[[巨象の道]]』と同じく1954年に公開された『騎士ブランメル ([[:en:Beau Brummell (film)|en:Beau Brummell]])』で、テイラーは凝った衣装に身を包むレディ・パトリシアを演じた。しかしながらこの魅惑的な美女役は、[[スチュワート・グレンジャー]]が演じる主役ボー・ブランメルに恋愛風味を加えるだけの美しい添え物に過ぎなかった。『The Big Hangover』で共演したヴァン・ジョンソンと再びコンビを組んだ『[[雨の朝巴里に死す]]』(1954年)でテイラーが演じた役はそれまでの作品に比べるといくぶんましな役どころだった。テイラーが演じた役であるヘレン・エルスワース・ウィリスは、アメリカの小説家[[F・スコット・フィッツジェラルド]]の妻[[ゼルダ・セイヤー]]をモデルにしている。当時のテイラーは1952年に結婚したマイケル・ワイルディングの二人目の子供を妊娠していたが、この作品の撮影に4カ月間を費やした。『雨の朝巴里に死す』の興行成績は悪くなかったが、テイラーはより存在感がある役を切望していた<ref name="Taylor Profile">{{cite web|title=Elizabeth Taylor Profile|url=http://www.tcm.com/this-month/article/334152%7C0/Elizabeth-Taylor-8-23.html|work=Turner Classic Movies|accessdate=5 October 2012}}</ref>

=== 1955年から1979年 ===
[[File:Taylor - Hudson - Giant.jpg|thumb|[[ロック・ハドソン]]と共演した『[[ジャイアンツ (映画)|ジャイアンツ]]』。1956年。]]
ジョージ・スティーヴンス監督作品で、[[ロック・ハドソン]]、[[ジェームズ・ディーン]]と共演した大作『[[ジャイアンツ (映画)|ジャイアンツ]]』(1956年)で、テイラーはハドソン演じる富豪ジョーダンの妻レズリーという、シリアスで存在感のある役どころを得た。そしてテイラーは、モンゴメリー・クリフトと共演した『[[愛情の花咲く樹 (映画)|愛情の花咲く樹]]』(1957年)で演じたスザンナ・ドレイク役で、初めて[[アカデミー主演女優賞]]にノミネートされた<ref name=Parish329>Parish, p. 329</ref>。以降テイラーは、[[ポール・ニューマン]]と共演した『[[熱いトタン屋根の猫 (映画)|熱いトタン屋根の猫]]』(1958年)<ref>Parish, p. 330</ref>、モンゴメリー・クリフト、[[キャサリン・ヘプバーン]]、[[マーセデス・マッケンブリッジ]]と共演した『[[去年の夏 突然に]]』(1959年)<ref name=Parish331>Parish, p. 331</ref>、『[[バターフィールド8]]』(1960年)と4年連続でアカデミー主演女優賞にノミネートされ、最後の『バターフィールド8』でアカデミー主演女優賞を獲得した<ref name=Parish333>Parish, p. 333</ref>。『バターフィールド8』は当時テイラーの夫だった[[エディ・フィッシャー]]と共演した作品で{{r|Gussow2}}、テイラーに自身のことを18年間にわたる「MGMの家財」と言わしめた、MGMとの契約における最後の作品となった{{r|woo20110324}}。

[[File:1963 Cleopatra trailer screenshot (13).jpg|thumb|300px|left|『[[クレオパトラ (1963年の映画)|クレオパトラ]]』(1963年)で主役を演じるテイラー。宣伝フィルムからのスクリーンショット。]]
『去年の夏 突然に』の大ヒットによって、テイラーは興行成績上位10位に入る俳優となり、その後も10年にわたってほぼ毎年上位10位にランクインした{{r|woo20110324}}。1960年にテイラーは、[[20世紀フォックス]]と100万ドルで『[[クレオパトラ (1963年の映画)|クレオパトラ]]』(1963年)の出演契約を結び、当時最高額の出演料を得る女優となった<ref name=Parish331 />。最終的にはテイラーはこのクレオパトラ役で700万ドルを手にしている{{r|woo20110324}}。テイラーはこの『クレオパトラ』の撮影中に、共演者でマーク・アントニー役の[[リチャード・バートン]]と恋愛関係になった。両者ともに結婚していた不倫関係であり、タブロイド紙に大きく取り上げるスキャンダルとなってしまった<ref>Parrish, pp. 335–336</ref>。

テイラーに二度目のアカデミー主演女優賞をもたらしたのは、当時の夫だったリチャード・バートンと共演した『[[ヴァージニア・ウルフなんかこわくない]]』(1966年)のマーサ役だった<ref name=Parish344>Parish, p. 344</ref>。この映画はテイラーにとってもバートンにとっても大きな転機となった作品で、ウォーカーは「二人のキャリアのなかで、もっともやりがいがある作品であり、もっとも手ごわかった作品」だと評している。テイラーはこの作品を「本物の演技」を試すいい機会だととらえ、さらに、自身の憧れの女優[[ヴィヴィアン・リー]]が演じてきた「悲劇のヒロイン」と張り合うチャンスだと考えた。しかしながらテイラーは、自身の実年齢より20歳以上年長のマーサ役を演じるには自身の外見が若すぎることを気にかけていた。テイラーは役の年齢相応に見せかけるために白髪を足すなど、肉体的にも声質的にもマーサに近づけようとした。意図的に体重を増やし、過度に濃いマスカラ以外はほとんど化粧をせず、薄汚れたバッグを持つという出で立ちで役作りを行った<ref name=Walker/>{{rp|pages=281–282}}。

テイラーとその5番目、6番目の夫リチャード・バートンとは、『[[予期せぬ出来事]]』(1963年)、『[[いそしぎ (映画)|いそしぎ]]』(1965年)、『[[じゃじゃ馬ならし (1967年の映画)|じゃじゃ馬ならし]]』(1967年)など、10年間で6本の映画で共演している。1967年までに二人の共演作品は200万ドル以上の興行成績をあげた。<!-- When Taylor and Burton considered not working for three months, the possibility caused alarm in Hollywood as "nearly half of the U.S. film industry's income" came from movies starring one or both of them. -->『じゃじゃ馬ならし』に続いて『ファウスト悪のたのしみ ([[:en:Doctor Faustus (1967 film)|en:Doctor Faustus]])』(1967年)、『危険な旅路 ([[:en:The Comedians (1967 film)|en:The Comedians]])』(1967年)、『夕なぎ ([[:en:Boom! (1968 film)|en:Boom!]])』で、テイラーとバートンは共演しているが、いずれも興行成績は振るわなかった<ref name="kashner201007">{{cite journal | url=http://www.vanityfair.com/hollywood/features/2010/07/elizabeth-taylor-201007?currentPage=all | title=A Love Too Big To Last | accessdate=March 24, 2011 | author=Kashner, Sam; Schoenberger, Nancy | month=July |year=2010 | journal=[[Vanity Fair (magazine)|Vanity Fair]] }}</ref>。

テイラーは[[ジョン・ヒューストン]]監督作品『[[禁じられた情事の森]]』(1967年)で[[マーロン・ブランド]]と共演し<ref>マーロン・ブランドはモンゴメリー・クリフトの代役だった。クリフトは映画撮影開始前に死去している。Parish, p. 343</ref>、翌年には[[ミア・ファロー]]と『秘密の儀式 ([[:en:Secret Ceremony|en:Secret Ceremony]])』(1968年)で共演した。1960年代の終わりにはテイラーの集客力は落ちていき、出演作の興行成績は大幅に下がってしまった。[[ウォーレン・ベイティ]]と共演した1970年の『この愛にすべてを ([[:en:The Only Game in Town (film)|en:The Only Game in Town]])』も興行的には失敗作となっている<ref>Parish, p. 350</ref>。

加齢とともに「か細く柔軟性のない声{{r|woo20110324}}」しか出なくなったテイラーだったが{{r|woo20110324}}、1970年代も多くの映画作品に出演するスターであり続けた。[[マイケル・ケイン]]と共演した『ある愛のすべて ([[:en:Zee and Co.|en:X, Y and Zee]])』(1972年)、[[ヘンリー・フォンダ]]と共演した『[[別離 (1974年の映画)|別離]]』(1973年)、[[ジェーン・フォンダ]]、エヴァ・ガードナーと共演した『青い鳥 ([[:en:The Blue Bird (1976 film)|en:The Blue Bird]])』(1976年)、夫リチャード・バートンと共演した『リトル・ナイト・ミュージック ([[:en:A Little Night Music|en:A Little Night Music]])』(1977年)などに出演し、1973年にはテレビ映画の『離婚・男の場合 離婚・女の場合 ([[:en:Divorce His, Divorce Hers|en:Divorce His, Divorce Hers]])』にも出演している。

=== 1980年から2003年 ===
[[File:BobHopeElizabethTaylorUSOMay1986.jpg|thumb|USOショウに出演したテイラー。左の男性は[[ボブ・ホープ]]。1986年。]]
テイラーは1980年に[[アガサ・クリスティ]]のミステリ小説『鏡は横にひび割れて』を原作とした映画『[[クリスタル殺人事件]]』に出演した。1985年には、実在の芸能ゴシップコラムニストのヘッダ・ホッパーとルエラ・パーソンズをモデルとしたテレビ映画『[[:en:Malice in Wonderland (1985 film)|Malice in Wonderland]]』で、ルエラ・パーソンズを演じている<ref name="Elizabeth"/>。1987年に[[トム・スケリット]]、ジョージ・ハミルトンとの共演でテレビの西部劇『ポーカー・アリス ([[:en:Poker Alice (1987 film)|Poker Alice]])』に出演し、1989年にはテレビのミニドラマシリーズ『[[南北戦争物語 愛と自由への大地]]』に出演した<ref name="Elizabeth">{{cite web|title=Elizabeth Taylor Biography|url=http://www.thebiographychannel.co.uk/biographies/elizabeth-taylor.html|work=The Biography Channel|accessdate=5 October 2012}}</ref>。そしてテイラーの最後の劇場映画作品となったのは1994年の『[[フリントストーン/モダン石器時代]]』だった<ref>{{cite news|title=Elizabeth Taylor to play Flintstone mother-in-law|url=http://www.deseretnews.com/article/290489/ELIZABETH-TAYLOR-TO-PLAY-FLINTSTONE-MOTHER-IN-LAW.html?pg=all|accessdate=5 October 2012|newspaper=Deseretnews.com|date=16 May 1993}}</ref>。

[[File:Elizabeth Taylor36.JPG|thumb||left|ドーヴィル・アメリカ映画祭でのテイラー。1985年。]]
テイラーは1996年2月にテレビの[[シチュエーション・コメディ|シットコム]]番組『ナニー ([[:en:The Nanny|en:The Nanny]])』に本人役で出演した。このとき出演者の[[フラン・ドレシャー]]に、テイラーがこれまでに結婚した相手の全ての姓をつなげて「エリザベス・テイラー=ヒルトン=ワイルディング=トッド=フィッシャー=バートン=バートン=ウォーナー=フォーテンスキー」と呼びかけられている。2001年にはテレビ映画『だって女優ですもの! ([[:en:These Old Broads|en:These Old Broads]])』に出演した。テイラーは多くのテレビシリーズ作品に出演しており、ソープオペラの『[[ジェネラル・ホスピタル]]』、『[[オール・マイ・チルドレン]]』<ref>{{cite news|title=All My Children's Superstar Alumni|url=http://www.people.com/people/gallery/0,,20485076_20942514,00.html|accessdate=6 October 2012|newspaper=[[People (magazine)|People]]}}</ref>などのほか、アニメシリーズ『[[ザ・シンプソンズ]]』の登場人物マギー・シンプソンに一度だけ「ダディ」という台詞をあてたことがある<ref>{{cite news|last=Snierson|first=Dan|title=Elizabeth Taylor: 'Simpsons' exec producer Al Jean remembers the film legend's one-word turn as baby Maggie|url=http://insidetv.ew.com/2011/03/24/elizabeth-taylor-simpsons-al-jean/|accessdate=6 October 2012|newspaper=Entertainment Weekly|date=24 March 2011}}</ref>。

テイラーは映像作品だけではなく舞台作品にも出演したことがあり、1982年に劇作家[[リリアン・ヘルマン]]原作の『子狐たち ([[:en:The Little Foxes]])』で、ブロードウェイとイースト・エンドにデビューした。1983年には[[ノエル・カワード]]の戯曲『プライヴェート・ライヴズ ([[:en:Private Lives|en:Private Lives]])』で、前夫のリチャード・バートンと共演している<ref>{{cite news|last=Brenner|first=Marie|title=The Liz and Dick Show|url=http://nymag.com/arts/theater/features/50176/|accessdate=6 October 2012|newspaper=New York Magazine|date=9 May 1983}}</ref>。[[オクスフォード大学]]に生徒主体で建てられた小劇場バートン・テイラー・スタジオ ([[:en:Burton Taylor Studio]])は、テイラーとバートンにちなんで名付けられている。これは、オックスフォード大学演劇部の舞台に、バートンがドクトル・ファウスト役で客演したことを記念したものである<ref>{{cite news|title=Private Lives|url=http://www.dameelizabethtaylor.com/private_lives.html|accessdate=6 October 2012}}</ref>。<!-- Taylor played the ghostly, wordless [[Helen of Troy]], who is entreated by Faustus to "make [him] immortal with a kiss".<ref>{{cite book|title=Life Magazine|page=79|url=http://books.google.com/books?id=LUwEAAAAMBAJ&pg=PA78&lpg=PA78&dq=immortal+with+a+kiss+elizabeth+taylor&source=bl&ots=_npL0WB_nf&sig=E1O_sZ4WmHQnLcfH0ID4uVvXN98&hl=en&sa=X&ei=E3dvUIToB83p0QG6uIDwAw&ved=0CDYQ6AEwAQ#v=onepage&q=immortal%20with%20a%20kiss%20elizabeth%20taylor&f=false}}</ref> -->

1980年代初めに、テイラーはロサンゼルス西部の高級住宅街ベル・エア ([[:en:Bel Air, Los Angeles]]) に邸宅を購入し、その後の生涯をここで過ごした。テイラーの持ち家はほかに、パーム・スプリング、ロンドン、ハワイにもあった。

=== 2003年から2011年===
テイラーは第75回アカデミー賞式典に招待されたが、2003年3月に[[イラク戦争]]反対の立場からこの招待を辞退した<ref>{{cite web|author=David Badash |url=http://thenewcivilrightsmovement.com/elizabeth-taylor-gay-icon-hivaids-activist-dies-at-79/media/2011/03/23/18211 |title=Elizabeth Taylor, Gay Icon, HIV/AIDS Activist, Dies At 79 |publisher=The New Civil Rights Movement |accessdate=March 24, 2011}}</ref>。テイラーは当時のアメリカ大統領[[ジョージ・W・ブッシュ]]を公然と非難しており、イラク大統領[[サッダーム・フセイン]]のイラク国外へ退去を要求するアメリカの強硬姿勢が[[第三次世界大戦]]の引き金になるのではないかと危惧していた<ref>{{cite web|url=http://www.contactmusic.com/new/xmlfeed.nsf/story/dame-liz-slams-bush-over-saddam-ultimatum- |title=Elizabeth Taylor – Dame Liz Slams Bush Over Saddam Ultimatum – Contactmusic News |publisher=Contactmusic.com |accessdate=March 24, 2011}}</ref>。

2007年12月1日にテイラーは、ジェームズ・アール・ジョーンズとの共演で、A・R・ガーニー ([[:en:A. R. Gurney]]) 原作の舞台朗読劇『LOVE LETTERS ([[:en:Love Letters (play)|en:Love Letters]])』に出演した。この舞台はテイラーのエイズ基金の創設資金として、100万ドルを集めることを目的として上演されたものである。入場チケットは2,500ドルで500人以上の観客が集まった。この舞台の上演は[[2007年-2008年全米脚本家組合ストライキ|全米脚本家組合ストライキ]]とほぼ同時期の出来事で、各地の演劇関連施設が閉鎖、あるいは[[ピケット|ピケライン]]が張られていた。そこでテイラーは全米脚本家組合に「一夜だけの免除」を求めた。全米脚本家組合はこのテイラーからの依頼を聞き入れ、この劇場にピケラインは張られることなく舞台は無事に上演された<ref name="CNNStrikeArticle">{{cite news
| agency=Associated Press
| url=http://www.cnn.com/2007/SHOWBIZ/12/02/elizabeth.taylor.ap/index.html
| title=Striking writers give Elizabeth Taylor a pass
| publisher=CNN
| date=December 2, 2007
| accessdate =December 2, 2007
|archiveurl = http://web.archive.org/web/20071203112813/http://www.cnn.com/2007/SHOWBIZ/12/02/elizabeth.taylor.ap/index.html|archivedate=December 3, 2007}}</ref>

2009年に死去した[[マイケル・ジャクソン]]とテイラーは友人であり、非常に親しかった。2009年6月のマイケル死去の際には代理人を通して「悲しみにうちひしがれコメントできない」とその胸中を語った<ref>{{cite news|url=http://jp.reuters.com/article/entertainmentNews/idJPJAPAN-38739620090626|title=情報BOX:M・ジャクソンさんの訃報に悲しみの声|publisher=[[ロイター]]|date=2009年6月26日|accessdate=2012-09-21}}</ref>。

== 私生活 ==
=== 結婚、恋愛、子供 ===
[[File:Liz Taylor, Liza Todd and Mike Todd by Toni Frissell, 1957.jpg|thumb|マイク・トッド、テイラー夫妻と娘リザ。1957年]]
テイラーは7人の相手と8回結婚した。結婚離婚を繰り返す理由を聞かれたテイラーは「分からない。私にもさっぱり分からないの」と応えている{{r|Gussow2}}。また、別の機会には「私は両親から、誰かを本当に好きになったのなら結婚しなさいと教えられたのよ。多分私は古風な女なんでしょうね」と話したこともある{{r|ap20110324}}。

テイラーは以下の男性たちと結婚した。
* コンラッド・ヒルトン・ジュニア ([[:en:Conrad Hilton, Jr.]]) (ホテル王[[コンラッド・ヒルトン]]の息子。1950年5月6日 - 1951年1月29日)
:: テイラーはこのホテル王の若き相続者を愛していると信じていたが、実際には母親のもとから逃げ出したかっただけだった。ヒルトンの「ギャンブル癖、飲酒癖、粗暴な振る舞い{{r|woo20110324}}」はテイラーとテイラーの両親を怯えさせ、エリザベスの流産の原因となった。二人の結婚はわずか9カ月で終わった{{r|Gussow2}}{{r|taraborrelli20110329}}。

* マイケル・ワイルディング ([[:en:Michael Wilding (actor)|en:Michael Wilding]]) (イギリス人俳優。1952年2月21日 - 1957年1月26日)
::「紳士」ワイルディングはテイラーよりも20歳年長で、ヒルトンと離婚したばかりで傷心のテイラーを慰撫した。ワイルディングと離婚した後にテイラーは「たぶん私は彼に辛い体験をさせてしまったのでしょう。少しばかり私が彼を尻に敷いていたところがあり、彼にしてみれば落ち着いた暮らしではなかったのかも知れません」と語っている{{r|taraborrelli20110329}}。

* マイク・トッド ([[:en:Mike Todd]]) (アメリカ人舞台、映画プロデューサー。1957年2月2日 - 1958年3月22日)
:: テイラーにとって、トッドとの結婚が離婚ではなく唯一の死別となった。二人の結婚生活は穏やかとはいえないものだったが、後年テイラーはトッドのことを、[[リチャード・バートン]]そして宝石とともに、生涯でももっとも深く愛した三つのうちの一つだと語っている<ref name="frankel20110325">{{cite news | url=http://www.independent.co.uk/arts-entertainment/films/features/elizabeth-taylor-a-life-less-ordinary-2252366.html | title='Fun when the sun shines' | accessdate=April 1, 2011 | author=Frankel, Susannah | date=March 25, 2011 |work=The Independent |location=UK }}</ref>{{r|Gussow2}}。

* [[エディ・フィッシャー]](アメリカ人歌手。1959年5月12日 - 1964年3月6日)
:: フィッシャーはテイラーの前夫トッドの親友で、トッドの死後にはテイラーを慰める関柄だった。二人は関係を持つようになっていったが、当時のフィッシャーには妻[[デビー・レイノルズ]]がいたために、大きなスキャンダルとなった{{r|Gussow2}}<ref name=Mann>{{cite book | title=How to be a movie star: Elizabeth Taylor in Hollywood | author=Mann, William J. | year=2009 | publisher=Houghton Mifflin Harcourt | url=http://books.google.com/books?id=-8Lh_2ZP-qoC | isbn=0-547-13464-9}}</ref>{{rp|page=226}}。しかしながら最終的にはレイノルズはテイラーを許し、テイラーが『バターフィールド8』でアカデミー主演女優賞にノミネートされたときにはテイラーに投票しており、さらに後年の『だって女優ですもの!』では共演を果たしている<ref name="ap20110324">{{cite news | url=http://www.salon.com/wires/allwires/2011/03/24/D9M5H14G0_us_obit_taylor/ | title=Quintessential star Elizabeth Taylor dies at 79 | accessdate=March 30, 2011 | author=Coyle, Jake | date=March 24, 2011 | agency=Associated Press}}</ref>。

[[File:Taylor-Burton-Sandpiper.jpg|thumb|right|1965年の『いそしぎ』で夫婦共演したテイラーとバートン。]]
* [[リチャード・バートン]](アメリカ人俳優。1964年3月15日 - 1974年6月26日)
:: 両者共に結婚していたテイラーとバートンの不倫は、ヴァチカン教皇庁からも「みだらがましい浮浪」だと非難された{{r|woo20110324}}。テイラーとバートンは10年間の結婚中も離婚後もマスコミから大きな注目を集めていた。これは一般大衆が「(バートンが)世界一有名な俳優で、その世代のなかで最もすばらしい俳優だと信じていた」ことによる。テイラーは女優としてのキャリアよりも二人の結婚生活を重視し、映画の配役が回ってこないように体重を増やすことさえ厭わなかった{{r|Gussow2}}。
* [[リチャード・バートン]](1975年10月10日 - 1976年7月29日)
:: 1974年にテイラーと離婚したバートンはその6カ月後に「いつ爆発するかもしれないのに、二本のダイナマイトをぶつけ合わせ続けるなんて出来ないよ」と語っている{{r|woo20110324}}。しかしながら二人は離婚後一年もしないうちに再婚し、そして一年も経たずに離婚した。
* [[ジョン・ウォーナー]](アメリカ人政治家。1976年12月4日 - 1982年11月7日)
:: テイラーと結婚していたときと同様に、テイラーはウォーナーとの結婚生活においても自身が、ヴァージニア州から選出された[[共和党 (アメリカ)|共和党]]の[[アメリカ合衆国上院|上院議員]]の妻という立場でしか見られていないと感じていた<ref>{{cite news|url = http://www2.timesdispatch.com/news/2011/mar/23/elizabeth-taylor-at-republican-womens-club-im-93558/ |title = Elizabeth Taylor at Republican Women's Club, 1978 |newspaper=Richmond Times-Dispatch|date = March 23, 2011|accessdate =March 26, 2011}}</ref><ref>{{cite news|url = http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/05/15/AR2007051501221.html |first = Megan |last = Rosenfeld |title = Miller, Warner meet in Lynchburg in bid for fundamentalist vote |date = October 23, 1978|newspaper=The Washington Post|accessdate =March 26, 2011}}</ref><ref>{{cite news|url = http://politicalticker.blogs.cnn.com/2011/03/23/elizabeth-taylor-was-an-icon-in-washington/?hpt=Sbin |first = Laura |last = Klairmont |title = Elizabeth Taylor was an icon in Washington|date = March 23, 2011|accessdate =March 26, 2011 |work=CNN}}</ref>。[[ワシントンD.C.]]での暮らしに馴染めずに落ち込んでいったテイラーは{{r|tanabe20110324}}、病院ベティ・フォード・センター ([[:en:Betty Ford Center]]) に入院している{{r|Gussow2}}。
* ラリー・フォーテンスキー ([[:en:Larry Fortensky]]) (アメリカ人[[土工|土木作業員]]。1991年10月6日 - 1996年10月31日)
:: ジョン・ウォーナーと結婚していたときとは別の時期に、ベティ・フォード・センターに入院中のテイラーはこの病院でフォーテンスキーと出会い、[[マイケル・ジャクソン]]の邸宅であるネバーランド・ランチ ([[:en:Neverland Ranch]]) で結婚した{{r|Gussow2}}。

テイラーは結婚以外にも多彩な恋愛遍歴を持っている。最初の夫であるヒルトンと結婚する前に、[[ハイズマン賞]]の受賞経験がある[[アメリカン・フットボール]]選手グレン・デイヴィス ([[:en:Glenn Davis (American football)|en:Glenn Davis]]) と婚約していた。デイヴィスは婚約が解消されるまで、テイラーの母サラが二人の婚約をテイラーの宣伝活動に利用していたことを知らなかった{{r|taraborrelli20110329}}。また、デイヴィスのほかにも、駐ブラジル大使ウィリアム・D・パウリー ([[:en:William D. Pawley]]) の子息と婚約していたこともある{{r|time19490822}}。億万長者で映画プロデューサーの[[ハワード・ヒューズ]]は、テイラーの両親にテイラーとの結婚を応援してくれるのであれば、テイラーのための映画スタジオ創設に資金協力することを申し出た。母サラはこの申し出に応じたが、テイラーがヒューズとの結婚を拒否している{{r|taraborrelli20110329}}。テイラーとヒルトンとの離婚後に、ヒューズは突然ヘリコプターで姿を見せテイラーにダイアモンドを贈って結婚を申し込んだこともあった<ref name="woo20110323">{{cite news | url=http://latimesblogs.latimes.com/afterword/2011/03/elizabeth-taylors-obit-outtakes-from-a-12-year-work-in-progress.html | title=Elizabeth Taylor's obituary: outtakes from a 12-year work in progress | accessdate=April 1, 2011 | author=Woo, Elaine | date=March 23, 2011 |work=Los Angeles Times}}</ref>。ほかにもテイラーは、人気歌手[[フランク・シナトラ]]、外交官[[ヘンリー・キッシンジャー]]、億万長者[[マルコム・フォーブス]]と浮名を流したことがある{{r|woo20110324}}。2007年には、当時付き合っていたジェイソン・ウィンタースと9回目の結婚をするのではないかという噂を否定したが<ref>{{cite web|url=http://breakingnews.iol.ie/entertainment/story.asp?j=233161442&p=z33y6zy48 |title=Taylor 'not planning ninth wedding'|publisher=Ireland On-Line |date=June 21, 2010 |accessdate=March 24, 2011}}</ref>、ウィンタースのことを「今まで出会ったなかで最高の男性の一人」と語っている<ref>{{cite news| url=http://www.variety.com/article/VR1117971903.html |author=Liz Smith |title=Elizabeth Taylor has a new man |work=Variety |date=September 12, 2007|accessdate=April 12, 2010}}</ref>。

テイラーにはマイケル・ワイルディングとの間に、マイケル・ハワード(1953年1月6日生)とクリストファー・エドワード(1955年2月27日生)の二人の息子がいる。また、マイケル・トッドとの間には娘エリザベス・フランシス(1957年8月6日)がいる。エディ・フィッシャーと結婚していたときに、マリア(1961年8月1日)というドイツ出身の当時2歳の女児を養女にしようとしたことがあるが、1964年にフィッシャーと離婚したために、この養子縁組の話はなくなった<ref>{{cite news | url=http://abcnews.go.com/Entertainment/elizabeth-taylors-unseen-role-mother/story?id=13223481 | title=Elizabeth Taylor's Unseen Role: Mother | accessdate=April 20, 2011 | author=Sheila Marikar | date=March 28, 2011 | publisher=ABC News}}</ref>。後にリチャード・バートンが、エリザベス・フランシスとマリアを養女にしている<ref>{{cite news | url=http://www.tampabay.com/news/humaninterest/qampa-an-update-on-elizabeth-taylors-four-children/1064792 | title=Q&A: An update on Elizabeth Taylor's four children | accessdate=April 20, 2011 | date=January 12, 2010 | publisher=St. Petersburg Times}}</ref>。

1971年にテイラーは39歳で祖母となった。テイラーが死去する2011年時点で、マリアも含めて4人の子供たちは存命で、テイラーの孫が10人、曾孫が4人いた<ref name=abc-death1 />。

=== 宗教観と自意識 ===
1959年に当時27歳のテイラーは、9カ月にわたる熟慮の末に[[クリスチャン・サイエンス]]から[[ユダヤ教]]に改宗し<ref name="Forward">{{cite web| url=http://www.forward.com/articles/136447/|title=A Jew by Choice: Elizabeth Taylor, 1932–2011| last=Ivry|first=Benjamin|date=March 23, 2011|work=The Forward |accessdate=March 25, 2011}}</ref>、エリシェバ・ラケル ({{lang|en|Elisheba Rachel}}) というヘブライ名を名乗った。テイラーはこの改宗について、長い間考えてきたことであってそれまでの結婚生活とは無関係だと主張している。マイケル・トッドと死別したテイラーは「形だけの宗教に絶望を感じた」と語り、カトリックもクリスチャン・サイエンスも多くの「生と死に関する疑問」に答えてくれることはなかったと説明している<ref name=taraborrelli2006/>{{rp|page=175}}。

伝記作家ランディ・タラボレッリは、9カ月にわたってユダヤ教の根本原理を研究したテイラーが「真実への直接的な回答があると感じた」と指摘している<ref name=taraborrelli2006/>{{rp|page=176}}。ユダヤ教の会堂である[[シナゴーグ]]へとテイラーが行くことはほとんどなかったが、「私は神がつねにそばにいてくださると考えている一人です。礼拝のために建てられた場所に足を運ぶ必要性を感じません」と語っている<ref name=taraborrelli2006/>{{rp|page=176}}。テイラーのユダヤ教への改宗祭式のときには両親が立会い、テイラーの改宗を全面的に支持した。この祭式でテイラーは『[[旧約聖書]]』の『[[ルツ記]]』からの一節を読み上げている。
{{quotation|
……わたしはあなたの行かれる所へ行き、またあなたの宿られる所に宿ります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です『ルツ記』(1:16)<ref name=taraborrelli2006/>{{rp|page=176}}。
}}
テイラーはユダヤ教の[[神秘主義思想]]である[[カバラ]]にも傾倒し、ロサンゼルスのカバラ・センター ([[:en:Kabbalah Centre]]) に参加している<ref name="convert">{{cite news|url=http://religion.blogs.cnn.com/2011/03/24/making-sense-of-elizabeth-taylors-jewish-conversion|title=Exploring Elizabeth Taylor's Jewish conversion |last=Ravitz|first=Jessica|date=March 24, 2011|publisher=CNN|accessdate=March 25, 2011}}</ref>。また、テイラーは55歳のときに応じたインタビューで、役に合わせて外見を変えることを強いられるなど、子役時代に撮影現場で要求されたさまざまな事柄に押しつぶされないために、どのように心の中での折り合いをつけていたのかを語っている。
{{quotation|
神は自己に反する行動や、一時的な流行を追うことを戒めています。しかしながら私はそのようなことをして来ました。当時の私は外見を変えたりするのは、馬鹿げていると思っていました。私のもじゃもじゃの眉毛や黒髪も、何らかの理由で神が与えてくださったものだという父の言葉に同意していたのです。おそらく私は自意識が強かったのでしょう。そんな子供でした。うまく説明できませんが自意識を持つことは当然だと思っていました。肉体とは全く無関係な内なる心があることにはっきりと気付いていたのですから<ref name=Rolling/>。
}}
さらにテイラーは、大人になってから自身の「心の在りよう」を理解し始めたと語っている。
{{quotation|
ある程度の年齢になると心が外見に表れます。神は一定の法則でよく似た外見を複数の人々に分け与えています。しかしながら40歳くらいになると、それぞれの内面が外見を象っていくようになるのです。……人生には様々なことが起こります。外科医も手術用メスも、どうすることもできません。生まれながらの性格にもよりますし、それまでの生き方あるいは神のみ業が今のあなたの外見を作ったといえましょう<ref name=Rolling/>。
}}

=== 女優としての才能と結婚観 ===
1964年に、当時32歳だったテイラーは自身の女優キャリアについて「映画に出演している有名な「エリザベス・テイラー」は、私にとって何ら深い意味はありません。単にうわべだけの商品だと言えます」と語っている。さらに自身の演技力に関しても「技能といえるような大したものではありません。私が生まれ持った素養であり、集中力という能力に恵まれていただけです」としている。このとき以前にテイラーが演じた役柄は美しさと性的魅力を表に出したものだったが、それは実際の自分よりもはるかに誇張された似ても似つかないものであり「私はセックス・クイーンでもセックス・シンボルでもありません。そんなものになりたいと思ったことはないのです。私の夫がそのように思ってくれれば、それはとても嬉しいことでしょうけれども」と不満を漏らしている。また、テイラーは男性の性的魅力についても、同じようなことを語っている<ref name=Life64/>。
{{quotation
|私が思う男性の性的魅力は、自分では意識していないであろう天与の暖かい心持ちでしょう。リチャード(・バートン)はとても性的魅力にあふれた男性です。誰でも一目でわかる、ある種の野生的な本質を持っています。それは髪をとかす仕草や、着ている服によるものではありません。彼は自身が持つ肉体的な魅力を意識してはいないけれど、すべてがその言動に表れているのです<ref name="Life64">{{cite news | url=http://books.google.com/books?id=kFEEAAAAMBAJ&lpg=PP1&ots=xZJGAWxygn&pg=PA74#v=snippet&f=false | title='I refuse to cure my public image' | work=Life | date=1964-12-18 | accessdate=August 6, 2012 | author=Meryman, Richard}}</ref>。
}}

テイラーはこのような魅力を持つバートンを5番目の夫に選んだ。飛行機事故で死別した三番目の夫であるマイケル・トッドを除いて、テイラーは自身の「幼少期に受けた厳格なしつけや信条」に照らし合わせて、若かりしころの恋愛相手や結婚相手を振り返っている。
{{quotation
|私は本当の恋愛というものを分かっていなかったのでしょう。昔の私は好きだと思った相手と結婚することが当たり前だと思っていたのです。恋心だけに終わらせるのではなく、結婚しなければいけないと信じていました。……私が最初に離婚したのは18歳のときで、結婚生活はわずか9カ月しか続きませんでした。あまりに世慣れていなかった私はほんとうに打ちのめされました。これが私の最初の離婚となったのです<ref name=Life64/>。
}}

テイラーはリチャード・バートンが自身の子供たちとの間に築いた強い絆を信じ、バートンとの結婚を望んだ。バートンは「絶対的な家長であり、家族はみんな彼を尊敬していました」。後にテイラーは、バートンと初めて出会ったときからどのように恋愛関係に発展していったのかを回想している。
{{quotation
|私が初めてリチャードと出会ったのは雑然とした『クレオパトラ』の撮影現場で、彼は監督の[[ジョーゼフ・L・マンキーウィッツ]]をはじめ、その場の皆と挨拶を交わしていました。それからそっと私のそばへ寄ってきて「とても美しい女性だと言われたことはあるかい」と言ったのです。私は心の中で「ああ神様」と言いました。すばらしい恋人、すばらしい才人、知性溢れるウェールズ人が目の前に現れたのです。信じられないくらいに価値観を共有できる男性でした。このことを控え室にいる女性陣に告げて回りたいと思ったくらいです<ref name=Life64/>。
}}

=== 宝飾品と 小売店===
[[File:Elizabeth Taylor 2.jpg|thumb|1981年に撮影されたテイラー。]]
テイラーは宝石を愛し、その死後に残された宝石コレクションの価値はおよそ1億5千万ドルと鑑定された{{r|frankel20110325}}<ref name="cbsnews20110326">{{cite news | url=http://www.cbsnews.com/stories/2011/03/26/earlyshow/saturday/main20047484.shtml | title=Elizabeth Taylor's fortune may approach $1B | accessdate=April 1, 2011 | date=March 26, 2011 | publisher=CBS News}}</ref>。コレクションにはリチャード・バートンがテイラーに贈った33.19カラットのクルップ・ダイアモンド ([[:en:Krupp Diamond]]) や、69.42カラットの[[テーラー・バートン|テイラー=バートン・ダイアモンド]]など、非常に有名な宝石が含まれている。テイラーはその他にも、イングランド女王[[メアリー1世 (イングランド女王)|メアリー1世]]が所有していたことで知られる、ラ・ペレグリーナと呼ばれる50カラットの真珠も所有していた。この真珠は、バートンがサザビーのオークションで3万7千ドルで落札し、1969年の[[バレンタインデー]]にテイラーに贈ったものである<ref>{{cite web| url=http://www.divasthesite.com/Acting_Divas/Trivia/Trivia_Elizabeth_Taylor.htm|title=Elizabeth Taylor|publisher=Divasthesite.com|archiveurl=http://replay.waybackmachine.org/20100103092117/http://divasthesite.com/Acting_Divas/Trivia/Trivia_Elizabeth_Taylor.htm|archivedate=January 3, 2010|accessdate=2013/11/11}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.npg.org.uk/live/search/portrait.asp?search=ss&sText=queen+mary+i&LinkID=mp02995&rNo=2&role=sit|title=NPG 4861; Queen Mary I|publisher=Npg.org.uk|accessdate=April 12, 2010}}</ref>。

映画スターだった時期のテイラーはファッション・アイコンだった。テイラーの衣服の購入には、MGMの衣装デザイナーだった[[イデス・ヘッド]]や[[ヘレン・ローズ]]が、テイラーの顔、胸、腰に合うデザインのものを選ぶように助言していた。また、テイラーはファッション・デザイナーのヴァレンチノ・ガラヴァーニ ([[:en:Valentino Garavani]]) や、ロイ・ハルストン ([[:en:Halston]]) の知名度を上げることにも貢献しており<ref name="cosgrave20110324">{{cite news | url=http://www.vogue.co.uk/news/daily/110323-elizabeth-taylors-style-and-fashio.aspx | title=End Of An Era | accessdate=March 27, 2011 | author=Cosgrave, Bronwyn | date=March 24, 2011 | publisher=Vogue UK}}</ref>、1980年代に製薬会社の[[シェリング・プラウ]]が開発したスミレ色の[[コンタクトレンズ|カラーコンタクトレンズ]]は、テイラーの瞳をイメージしたものだった<ref name="schiro19870418">{{cite news | url=http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9B0DE1DA173DF93BA25757C0A961948260 | title=LENSES TO CHANGE EYE COLOR | accessdate=March 27, 2011 | author=Schiro, Anne-Marie | date=April 18, 1987 |work=The New York Times}}</ref>。

== 社会活動 ==
=== HIV/エイズ ===
生涯を通じてテイラーは一貫して人道活動に献身し、豊富な資金援助も行っていた。[[ヒト免疫不全ウイルス|HIV]]とエイズ関連の基金を創設し、総額2億7千万ドル以上の収益をあげたチャリティを主催している。テイラーはエイズに関する知見がほとんどなかった時代から、積極的に支援活動を行った最初期の著名人の一人であり、1984年にエイズ基金を創設してエイズプロジェクト・ロサンゼルス ([[:en:AIDS Project Los Angeles]]) に貢献した{{r|woo20110324}}<ref name="etaf">[http://elizabethtayloraidsfoundation.org/ Elizabeth Taylor AIDS Foundation-ETAF website; "A History of Giving" timeline]; Retrieved 03-24-2011.</ref>。

1985年にテイラーは、マイケル・ゴットリーブ ([[:en:Michael S. Gottlieb]]) とマティルド・クリム ([[:en:Mathilde Krim]]) とともに、米国エイズ研究財団 ([[:en:amfAR, The Foundation for AIDS Research]]) の共同創設メンバーとなっている<ref name="etaf"/>。この1985年は、テイラーの長年の旧友で共演経験もある[[ロック・ハドソン]]がエイズを発症したことが公表され、そして死去した年でもあった。テイラーは1993年にエリザベス・テイラー・エイズ基金を創設し、HIVキャリアやエイズ患者への緊急支援体制を整えた<ref name="etaf"/>。2006年には診察台とX線撮影装置を備えた、全長11メートルの介護車両を購入し、エリザベス・テイラー・エイズ基金と[[メイシーズ]]の名前で、ニューオーリンズに寄付した<ref>{{cite news| url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/entertainment/4746044.stm| title= Aids unit donated by Liz Taylor |publisher=BBC News | date=February 24, 2006}}</ref><ref name="neworaids">[http://www.noaidstaskforce.com/legendary-actress-elizabeth-taylor’s-legacy-and-generosity-lives-on-in-new-orleans "Legendary Actress Elizabeth Taylor's Legacy and Generosity Lives on in New Orleans"]. NO/AIDS Task Force. Retrieved March 24, 2011.</ref>。この2006年は、前年にニューオーリンズを含むアメリカ南東部に多大な被害をもたらした[[ハリケーン・カトリーナ]]の爪あとが残っている時期であり、テイラーはニューオーリンズの非営利エイズ対策委員会にも50万ドルを寄付している。この寄付はテイラーの74歳の誕生日にあわせて行われ、ニューオーリンズ周辺のエイズ対策委員会が今までどおりに対エイズ患者救済活動を続けられるようにという願いがこめられたものだった<ref name="neworaids"/><ref>{{cite news|url=http://aids.ezinemark.com/elizabeth-taylor-elton-john-rebecca-wang-bob-geldof-battle-aids-3224cd63933.html| title=Elizabeth Taylor, Elton John, Rebecca Wang & Bob Geldof Battle Aids |publisher=EzineMark.com | date= April 4, 2011}}</ref>。

テイラーは対HIV/エイズ患者に対する人道活動で、1992年にアカデミー賞の[[ジーン・ハーショルト友愛賞]]を受賞した。テイラーが死去したときに、これらの人道活動について前アメリカ大統領の[[ビル・クリントン]]が「エリザベスの遺志は、いつまでも世界中の人々の心に素晴らしいものとして生き続けるだろう。彼女はそれだけの業績を残し、たゆむことのない努力を続けたのだ」とコメントしている<ref>[http://www.bbc.co.uk/news/entertainment-arts-12846499 "Great legend' Elizabeth Taylor remembered"]. ''BBC News''. March 24, 2011. Retrieved March 24, 2011.</ref>。

=== ユダヤ教徒として ===
ユダヤ教に改宗した後のテイラーは、その生涯を通じてユダヤ教義の普及に尽力した<ref>[http://www.forward.com/articles/136447/ A Jew by Choice: Elizabeth Taylor, 1932–2011]</ref>。1959年には、テイラーが多額のイスラエル国債 ([[:en:State of Israel Bonds]]) を購入したことから、アラブ諸国でテイラーの映画がボイコットされている{{r|burstein20110325}}。また1962年には、『クレオパトラ』の最終ロケ地となった[[エジプト]]への入国を拒否された。このときエジプト政府は、テイラーがユダヤ教信者で「イスラエルの大義を支持している」ためにエジプトへの入国を禁じたという声明を出している。しかしながら『クレオパトラ』はエジプトの大衆に受け入れられ、テイラーのエジプト入国禁止措置も1964年に解除された<ref name=jta20110323 />。

1974年に、テイラーとバートンは二度目となる結婚式をイスラエルで挙げることを望んだが、バートンがユダヤ教徒ではなかったためにこの希望は叶えられなかった<ref name=jta20110323>[http://blogs.jta.org/telegraph/article/2011/03/23/3086532/in-the-jta-archive-remembering-liz-taylor "JTA Archive"], March 23, 2011</ref>。テイラーはユダヤ民族基金 ([[:en:Jewish National Fund]]) のようなユダヤ教組織に資金援助をしていた。イスラエルへの移住を希望するソ連のユダヤ教徒たちを支持し、1967年に勃発した[[第三次中東戦争]]でイスラエルを激しく非難し、[[シオニズム]]が人種差別主義だとする1975年の国連総会決議3379号 ([[:en:United Nations General Assembly Resolution 3379]]) に賛成したソ連に対する抗議として、ソ連訪問を取りやめたこともあった。

1976年の[[エンテベ空港奇襲作戦|エンテベ空港ハイジャック事件]]では、人質となったユダヤ人100人以上の身代わりになることを申し入れたこともある<ref name="burstein20110325">{{cite news | url=http://www.washingtonpost.com/opinions/elizabeth-taylor-and-israel-a-lasting-love/2011/03/24/AFbnZZYB_story.html | title=Elizabeth Taylor and Israel, a lasting love | accessdate=March 26, 2011 | author=Burstein, Nathan | date=March 25, 2011 |work=Washington Post}}</ref>。そしてイスラエル軍によって人質のほとんどが無事に解放された後の1977年1月に、テイラーは[[カーク・ダグラス]]ともに『エンテベの勝利』というテレビ特別番組に出演した。この番組でテイラーは「この事件を見過ごすことはできませんでした。私はイスラエルに強い親近感を抱いており、エンテベの救出作戦が成功することを心のそこから堅く信じていました」と語っている<ref>[http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/archive/1/1d/20130415012915%21Taylor_and_Kirk_Douglas_-_1976.jpg Photo commentary to film]</ref>。

== 病と死 ==
[[File:Elizabeth Taylor Walk of Fame.jpg|thumb|left|テイラーが死去した際に献花された[[ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム]]に設置されたテイラーのスター・プレート。]]
テイラーはその生涯の多くの時期を健康問題に悩まされていた<ref>{{cite web| url=http://news.yahoo.com/s/ac/20110212/en_ac/7841228_elizabeth_taylor_death_fears_return_after_hospitalization |title=Elizabeth Taylor Death Fears Return After Hospitalization|publisher=Yahoo! News|accessdate=March 23, 2011}}{{dead link|date=December 2013}}</ref>。ヒルトンとの離婚を初めとして、私生活で問題が起きたときにはつねに深刻な病苦に襲われる暮らしを送っていた{{r|taraborrelli20110329}}。テイラーは70回以上の入院経験があり<ref name="woo20110324">{{cite news | url=http://www.latimes.com/news/obituaries/la-me-elizabeth-taylorlong-20110324,0,3017190,full.story | title=Elizabeth Taylor dies at 79; legendary actress | accessdate=April 1, 2011 | author=Woo, Elaine | date=March 24, 2011 |work=Los Angeles Times}}</ref>、20回以上の大手術を受けている{{r|ap20110324}}。テイラーが危篤だという間違った報道が幾度となく新聞の一面に掲載されたが{{r|Gussow2}}、テイラー自身は危篤状態に陥ったのは4度だけだったと主張している{{r|woo20110324}}。

身長5フィート4インチ(約162センチ)のテイラーは1980年代に大幅な体重の増減を繰り返し、軽いときには119ポンド(約54キログラム)から重いときには180ポンド(約82キロ)に及んでいる{{r|kleiman19860523}}<ref name="tanabe20110324">{{cite news | url=http://www.politico.com/click/stories/1103/elizabeth_taylors_washington_life.html | title=ELIZABETH TAYLOR'S WASHINGTON LIFE | accessdate=April 3, 2011 | author=Tanabe, Karin | date=March 24, 2011 | publisher=Politico}}</ref>。50歳代半ばまで喫煙しており<ref name=kleiman19860523>{{cite news|last=Kleiman |first=Dena |url=http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?sec=health&res=9A0DE1D8173AF930A15756C0A960948260 |title=Elizabeth Taylor – Diet Tips On How To Become A Size 6 |work=The New York Times |date=May 23, 1986 |accessdate=March 24, 2011}}</ref>、1975年10月にX線検査を受けたときには肺に影が見つかって肺がんではないかと診断されたが、のちに病巣ではなかったことが判明している<ref>{{cite news|url=http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/stories/october/10/newsid_4089000/4089030.stm |title=1975: Liz Taylor and Richard Burton remarry |publisher=BBC News |date=October 10, 1980|accessdate=March 24, 2011}}</ref>。テイラーは五度にわたって背中を痛めたことがあり、人工股関節置換手術 ([[:en:hip replacement]]) と子宮摘出手術 ([[:en:hysterectomy]]) を受け、[[赤痢]]や静脈炎 ([[:en:Phlebitis]])、食道穿孔の罹病経験もあるほか、1997年には良性だが脳腫瘍摘出手術を受けている{{r|woo20110324}}{{r|ap20110324}}。[[肺炎]]の発作で生死をさまよったことが二度あり、1961年の発作時には緊急の[[気管切開]]で一命を取りとめた。1983年には、35年間にわたって[[睡眠薬]]と[[鎮痛剤]]を常用して、中毒症状となっていることを告白している{{r|ap20110324}}。1983年12月から1984年1月にかけての6週間と<ref>[http://www.abilitymagazine.com/taylor_story.html Elizabeth Taylor Interview]. ''ABILITY Magazine''.</ref>、1988年秋から1989年初頭にかけて、、アルコール依存症と処方薬乱用の治療のためにベティ・フォード・センターに入院したこともあった<ref>{{cite web|url=http://www.allsands.com/entertainment/people/elizabethtaylor_xgi_gn.htm |title=Elizabeth Taylor Biography |publisher=Allsands.com |accessdate=March 25, 2011}}</ref>。

2006年5月30日に、テイラーは自身の重病説を否定するためにテレビの生番組『[[ラリー・キング・ライブ]]』に出演し、[[アルツハイマー型認知症]]に苦しんだ瀕死の状態にあるという噂を一蹴した<ref>{{cite news|url=http://transcripts.cnn.com/TRANSCRIPTS/0605/30/lkl.01.html|title=CNN Larry King Live: Interview With Elizabeth Taylor |publisher=Cable News Network |date=May 30, 2006|accessdate=April 12, 2010}}</ref>。しかしながら最晩年のテイラーは隠遁生活を好み、病気や個人的な理由で約束を違えることも多かった。車椅子を使用するようになり、その理由を尋ねられたテイラーは[[骨粗鬆症]]であることと、生まれながらに[[脊椎側湾症]]を患っていることを理由に挙げている<ref>{{cite news|author=CBC Arts|url=http://www.cbc.ca/arts/story/2006/05/31/taylor-elizabeth-larryking.html|title=Elizabeth Taylor dismisses reports of illness on 'Larry King Live'|publisher=Canadian Broadcasting Corporation |date=May 31, 2006|accessdate=April 12, 2010}}{{dead link|date=March 2011}}</ref>。

テイラーの外見上の特徴でもある二重まつげは一種の突然変異によるものだが、同じような突然変異がその後の心臓疾患にも影響を与えた可能性がある{{r|palmer20110325}}。テイラーは2004年11月に[[心不全|鬱血性心不全]]と診断され、身体全体、とくに足首と脚に十分な血液を循環させるには心臓が弱まりすぎていると告げられた。2009年には心臓外科手術を受け、弱っていた心臓弁を交換している<ref name=abc-death2>{{cite web|title=Elizabeth Taylor dies aged 79|url=http://www.abc.net.au/news/stories/2011/03/24/3172059.htm|work=ABC News Australia|publisher=Australian Broadcasting Corporation|accessdate=March 23, 2011|date=March 23, 2011}}</ref>。2011年2月に新たな心疾患の兆候が現れ、ロサンゼルスのシダーズ=シナイ医療センター ([[:en:Cedars-Sinai Medical Center]]) に入院したが<ref>{{cite news|last=Weber |first=Christopher |url=http://www.dailynews.com/news/ci_17376205 |title=Elizabeth Taylor remains hospitalized for heart failure |work=LA Daily News | agency=Associated Press |date=February 13, 2011 |accessdate=March 23, 2011}}</ref>、4人の子供たちに看取られながら2011年3月23日に79歳で病院内で息を引き取った<ref name=abc-death1>{{cite web|url=http://abcnews.go.com/Entertainment/hollywood-icon-elizabeth-taylor-dies-79/story?id=12894882 | author=Sheila Marikar |title=Hollywood Icon Elizabeth Taylor Dies at 79 |publisher=ABC News |date=March 23, 2011 |accessdate=March 23, 2011}}</ref><ref name=abc-death2/>。

テイラーは死去した翌日に、[[ラビ]]であるジェリー・カトラーが主催するユダヤ教式葬礼 ([[:en:bereavement in Judaism]]) のもと、カリフォルニア州[[グレンデール (カリフォルニア州)|グレンデール]]のフォレスト・ローン・メモリアル・パークに埋葬された。テイラーの遺体は壮大な霊廟に収められているが、一般人の立ち入りは禁止されている<ref>Ewen MacAskill. [http://www.guardian.co.uk/film/2011/mar/25/elizabeth-taylor-funeral-la-celebrity "Elizabeth Taylor's funeral takes place in LA's celebrity cemetery"]. ''The Guardian''. Washington. March 25, 2011</ref>。テイラーの葬式は予定時間よりも15分遅れて開始された。これはテイラーの要望によるもので、「彼女(テイラー)は自身の葬式でさえも遅れることを望んだのです」と代理人がマスコミに語っている<ref>{{cite web|url= http://www.accesshollywood.com/updated-elizabeth-taylor-laid-to-rest-near-michael-jackson-at-forest-lawn-cemetary-in-glendale_article_45681|title=UPDATED: Elizabeth Taylor Laid To Rest In Glendale|work=accesshollywood.com|date= March 25, 2011|accessdate=March 25, 2011|publisher=NBC Universal}}</ref>。

== 評価 ==
[[File:Elizabeth Taylor portrait.jpg|thumb|right|1960年代に撮影されたテイラー。]]
テイラーは「最高の映画スター」と呼ばれている<ref name=Mann/>{{rp|page=2}}。MGMの映画に出演して大衆から注目されたテイラーは、すぐに12歳で子役スターとなり、その後も成功した映画に出演し続けて、その作品の多くは現在でも「傑作」だと考えられている。映画界で名声を得てハリウッドの[[アイコン|象徴]]となったテイラーは、ハリウッドの名声を高めることに貢献し「スターに昇り詰めた典型例」といわれるようになった<ref name=Mann/>{{rp|page=3}}。

女性社会学者の[[カミール・パーリア]]はテイラーを「映画史上最高の女優」と評している。さらにパーリアは、テイラーが自身の出演作に次のような効果をもたらしたとしている。

{{Quotation|
彼女(テイラー)の表情とカメラの間には、刺激的で官能的な、帯電して震えているかのような空気があった。それは超感覚的で異教じみた出来事だった<ref name=Mann/>{{rp|page=4}}。
}}

テイラーは1960年代の[[性の革命|性革命]]にも大きな役割を果たした。『[[PLAYBOY]]』にほぼ全裸のグラビアを掲載した最初の有名人の一人であり、映画で脱衣シーンを見せた最初の映画女優の一人でもあった<ref name=Mann/>{{rp|page=5}}。1951年の映画『[[陽のあたる場所 (映画)|陽のあたる場所]]』に出演したときのテイラーは17歳だったが、その成熟振りはハリウッドのコラムニストであるヘッダ・ホッパーに衝撃を与え、ホッパーはテイラーの早熟な官能性について一文をものしたほどである。映画史家の[[アンドリュー・サリス]]は、テイラーがモンゴメリー・クリフトと演じたラブシーンについて「チョコレートサンデーを貪っているかのような、あまりに激しい性愛演技に驚愕した」と語っている<ref name=Mann/>{{rp|page=6}}。

映画を離れたテイラーの素顔は「らしくないスター」だったとテイラーの伝記作家ウィリアム・マンが指摘している。著述家[[グロリア・スタイネム]]も「うぬぼれを持たない映画の女王。自分の言動を律する達人で、共演するほかの女優と揉め事を起こすことはない」としている<ref name=Mann/>{{rp|page=7}}。1966年の映画でテイラーが主演した『[[ヴァージニア・ウルフなんかこわくない]]』の監督[[マイク・ニコルズ]]は、今まで一緒に仕事をした俳優のなかでテイラーが「もっとも庶民的な心を持っていた」と語ったことがある。テイラーは撮影現場の電気技師や単なるスタッフに対しても「チャリティ会場で[[ロスチャイルド家]]の一員と出会ったときと同様の接し方をしていた」<ref name=Mann/>{{rp|page=6}}。映画監督[[ジョージ・キューカー]]は、テイラーが「まれにみる美徳である飾らない優しい心」の持ち主だったと語っている<ref name=Mann/>{{rp|page=7}}。

テイラーと二度結婚し、11本の作品で共演した俳優[[リチャード・バートン]]は、テイラーの女優としての才能に大きな敬意を払っている。バートンは「彼女(テイラー)は今まででもっとも過小評価されている映画女優の一人だと思うけれど、私は彼女が史上稀に見るすばらしい人だということを知っている。誰も彼女の足元にも及ばないよ」と語っている<ref>Richard Burton interviewed on ''The Dick Cavett Show'', August 1980</ref>。

== 受賞と栄勲 ==
[[File:Butterfield8 movieposter.jpg|thumb|200px|初のアカデミー主演女優賞を受賞した『バターフィールド8』のポスター。]]
{{Main|:en:List of awards and nominations received by Elizabeth Taylor}}
テイラーは1960年の『バターフィールド8』と1966年の『ヴァージニア・ウルフなんかこわくない』でアカデミー主演女優賞を2度受賞している。1992年にはエイズ撲滅に対する活動で[[ジーン・ハーショルト友愛賞|アカデミー賞ジーン・ハーショルト友愛賞]]も受賞した。また、1997年には[[映画俳優組合|全米映画俳優組合]]の[[全米映画俳優組合賞生涯功労賞|生涯功労賞]]も受賞している{{r|sag}}。テイラーはこの授賞式に出席することができなかったため、俳優[[グレゴリー・ペック]]がテイラーからのメッセージを代読した。このメッセージには、エイズ流行の根絶活動がテイラーの人生の重要な部分を占めることになったことと、エリザベス・テイラー・エイズ基金に対する全米映画俳優組合の貢献を感謝する言葉が綴られていた<ref name=sag />。

テイラーは1987年にフランスの[[レジオンドヌール勲章]]を授与され{{r|ap20110324}}、2000年にイギリスの[[大英帝国勲章]]のデイム・コマンダー (DBE) を受章した<ref>[http://www.life.com/image/83448721 Liz Taylor: Her Life in Pictures. Dame Elizabeth Taylor Receives Dame Commander of the Order of the British Empire. Life. 2011.] Retrieved March 23, 2011.</ref>。2001年には人道活動、とくにエイズに関する研究、国際的な関心の喚起、蔓延に関する取り組みなどに対して200万ドル以上の資金を集めることに貢献したとして、アメリカの大統領メダル ([[:en:Presidential Citizens Medal]]) が授与された<ref name=sag>[http://www.sag.org/sag-remembers-life-and-legacy-elizabeth-taylor SAG Remembers the Life and Legacy of Elizabeth Taylor. [[Screen Actors Guild]] March 23, 2001.] Retrieved March 26, 2011.</ref>。また、2007年にはカリフォルニア州が制定したカリフォルニア州殿堂博物館 ([[:en:California Hall of Fame]]) の一員に選ばれている<ref>[http://www.californiamuseum.org/Exhibits/Hall-of-Fame/inductees.html Taylor inducted into California Hall of Fame], California Museum. Retrieved 2007.</ref>。

1994年には、カリフォルニア州の[[パームスプリングス (カリフォルニア州)|パームスプリングス]]の ウォーク・オブ・スターズ ([[:en: Palm Springs Walk of Stars|Walk of Stars]]) にテイラーのスタープレートが設置されている<ref>[http://www.palmspringswalkofstars.com/web-storage/Stars/Stars%20dedicated%20by%20date.pdf Palm Springs Walk of Stars by date dedicated]</ref>。
{{-}}
<!-- 【訳出せず】==Books==
Taylor was the subject of at least 53 books as of 2006;<ref name="bayard20060903">{{cite news | url=http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/08/31/AR2006083101166.html | title=Violet Eyes To Die For | accessdate=April 1, 2011 | author=Bayard, Louis | date=September 3, 2006|work=Washington Post}}</ref> [[Kitty Kelley]] wrote an unauthorized biography of the actress in 1981, which Taylor denounced. She never wrote a comprehensive autobiography due to her desire for privacy, but did publish several books besides ''My Love Affair with Jewelry''. Taylor's first, ''Nibbles and Me'' (1946), discussed the child star's "adventures with her pet chipmunk". Reviewers criticized another, ''Elizabeth Taylor'' (1964), for being uninteresting and lacking in new information. She received a $750,000 [[advance payment]] for ''Elizabeth Takes Off: On Weight Gain, Weight Loss, Self-Image and Self-Esteem'' (1988).<ref name="sharp20110325">{{cite news | url=http://www.independent.co.uk/arts-entertainment/books/news/just-days-after-her-death-battle-begins-over-liz-taylor-memoirs-2252462.html | title=Just days after her death, battle begins over Liz Taylor memoirs | accessdate=April 1, 2011 | author=Sharp, Rob | date=March 25, 2011 |work=The Independent |location=UK }}</ref> -->
== 出演作品 ==
テイラーは1942年から2003年までに数多くの映像作品に出演している<ref>[http://www.imdb.com/name/nm0000072/ Elizabeth Taylor on IMDb]</ref>。また、下記に挙げた作品のほかにもドキュメンタリーやインタビューで映像として残っている作品もある。


{| class="wikitable"
== 主な出演作品 ==
{| class="wikitable"
|-
|-
!公開年!!邦題<br />原題!!役名!!備考
! style="width:50px;" |公開年
! 邦題<br />原題
! 役名
! 備考
|-
|-
| 1943 || 名犬ラッシー 家路<br />''[[:en:Lassie Come Home|Lassie Come Home]]'' || プリシラ ||
|-
|-
| 1942年
|rowspan="2"|1944 || [[ジェーン・エア (1944年の映画)|ジェーン・エア]]<br />''Jane Eyre'' || ヘレン・バーンズ || クレジットなし
| ''[[:en:There's One Born Every Minute|There's One Born Every Minute]]''
| グロリア・トゥワイン
|
|-
|-
| 1943年
| [[ドーヴァーの白い崖]]<br />''The White Cliffs of Dover'' || ベッツィー || クレジットなし
| 『名犬ラッシー 家路』<br />''[[:en:Lassie Come Home|Lassie Come Home]]''
| プリシラ
|
|-
|-
| 1944年
| 1945 || [[緑園の天使]] <br />''National Velvet'' || ヴェルベット・ブラウン ||
| 『ジェーン・エア (1943年の映画)|ジェーン・エア』<br />''[[:en:Jane Eyre (1943 film)|Jane Eyre]]''
| ヘレン・バーンズ
| クレジットなし
|-
|-
| 1944年
| 1946 || 名犬ラッシー/ラッシーの勇気<br />''Courage of Lassie'' || キャサリン・エレノア・メリック ||
| 『[[ドーヴァーの白い崖]]』<br />''[[:en:The White Cliffs of Dover (1944 film)|The White Cliffs of Dover]]''
| ベッツィ
| クレジットなし
|-
|-
| 1944年
|1947|| ライフ・ウィズ・ファーザー<br />''Life with Father'' || メアリー・スキナー ||
| 『緑園の天使』<br />''[[:en:National Velvet (film)|National Velvet]]''
| ヴェルベット・ブラウン
|
|-
|-
| 1946年
|rowspan="2"|1948 || [[スイングの少女]] <br />''[[:en:A Date with Judy (film)|A Date with Judy ]]'' || キャロル・プリングル ||
| 『ラッシーの勇気』<br />''[[:en:Courage of Lassie|Courage of Lassie]]''
| キャサリン・エリノア・マーリック
|
|-
|-
| 1947年
| [[奥様武勇伝]]<br />''Julia Misbehaves'' || スーザン・パケット ||
| 『ライフ・ウィズ・ファーザー』<br />''[[:en:Life with Father (film)|Life with Father]]''
| メアリー・スキナー
|
|-
|-
| 1947年
| 1949 || [[若草物語 (1949年の映画)|若草物語]]<br />''Little Women'' || エイミー・マーチ ||
| 『シンシア』<br />''[[:en:Cynthia|Cynthia]]''
| シンシア・ビショップ
|
|-
|-
| 1948年
| 1950 || [[花嫁の父]]<br />''Father of the Bride'' || ケイ・バンクス ||
| 『スイングの少女』<br />''[[:en:A Date with Judy (film)|A Date with Judy]]''
| キャロル・プリングル
|
|-
|-
| 1948年
|rowspan="3"|1951 || [[可愛い配当]]<br />''[[:en:Father's Little Dividend|Father's Little Dividend]]'' || ケイ・ダンスタン ||
| 『[[奥様武勇伝]]』<br />''[[:en:Julia Misbehaves|Julia Misbehaves]]''
| スーザン・パケット
|
|-
|-
| 1949年
| [[陽のあたる場所 (映画)|陽のあたる場所]] <br />''A Place in the Sun'' || アンジェラ・ヴィッカーズ ||
| [[若草物語 (1949年の映画)|若草物語]]』<br />''[[:en:Little Women (1949 film)|Little Women]]''
| エイミー・マーチ
|
|-
|-
| 1949年
| [[クォ・ヴァディス]]<br />''Quo Vadis'' || アリーナ内の囚人 || クレジットなし
| ''[[:en:Conspirator (1949 film)|Conspirator]]''
| メリンダ・グレイトン
|
|-
|-
| 1950年
| 1952 || [[黒騎士 (1952年の映画)|黒騎士]] <br />''Ivanhoe'' || レベッカ ||
|''[[:en:The Big Hangover|The Big Hangover]]''
| メアリー・ベルニー
|
|-
|-
| 1950年
|rowspan="4"|1954 || [[ラプソディー (映画)|ラプソディー]] <br />''[[:en:Rhapsody (1954 film)|Rhapsody]]'' || ルイーズ ||
| 『[[花嫁の父]]』<br />''[[:en:Father of the Bride (1950 film)|Father of the Bride]]''
| ケイ・バンクス
|
|-
|-
| 1951年
| [[巨象の道]] <br />''Elephant Walk'' || ルース ||
| 『可愛い配当』<br />''[[:en:Father's Little Dividend|Father's Little Dividend]]''
| ケイ・ダンスタン
|
|-
|-
| 1951年
| 騎士ブランメル<br />''Beau Brummell'' || パトリシア・ブランメル ||
| 『[[陽のあたる場所 (映画)|陽のあたる場所]]』<br />''[[:en:A Place in the Sun (film)|A Place in the Sun]]''
| アンジェラ・ヴィッカーズ
|
|-
|-
| 1951年
| [[雨の朝巴里に死す]]<br />''The Last Time I Saw Paris'' || ヘレン ||
| 『[[クォ・ヴァディス (映画)|クォ・ヴァディス]]<br />''[[:en:Quo Vadis (1951 film)|Quo Vadis]]''
| アリーナ内の囚人
| クレジットなし
|-
|-
| 1952年
| 1956 || [[ジャイアンツ (映画)|ジャイアンツ]] <br />''Giant'' || レズリー・ベネディクト ||
| ''[[:en:Love Is Better Than Ever|Love Is Better Than Ever]]''
| アナスタシア・"ステイシー"・マカボイ
|
|-
|-
| 1952年
| 1957 || [[愛情の花咲く樹 (映画)|愛情の花咲く樹]] <br />''Raintree County'' || スザンナ・ドレイク ||
| 『[[黒騎士 (1952年の映画)|黒騎士]]』<br />''[[:en:Ivanhoe (1952 film)|Ivanhoe]]''
| レベッカ
|
|-
|-
| 1953年
| 1958 || [[熱いトタン屋根の猫 (映画)|熱いトタン屋根の猫]] <br />''Cat on a Hot Tin Roof'' || マギー ||
| ''[[:en:The Girl Who Had Everything|The Girl Who Had Everything]]''
| ジーン・ラティマー
|
|-
|-
| 1954年
| 1959 || [[去年の夏 突然に]]<br />''Suddenly, Last Summer'' || キャサリン・ホリー || [[ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門)]] 受賞
| 『ラプソディー』<br />''[[:en:Rhapsody (1954 film)|Rhapsody]]''
| ルイーズ・デュラン
|
|-
|-
| 1954年
|rowspan="2"|1960 || スペインの休日<br />''Scent of Mystery'' || サリー || クレジットなし
| 『[[巨象の道]]』<br />''[[:en:Elephant Walk|Elephant Walk]]''
| ルース・ウィリー
|
|-
|-
| 1954年
| [[バターフィールド8]]<br />''BUtterfield 8'' || グロリア || [[アカデミー主演女優賞]] 受賞
| 『騎士ブランメル』<br />''[[:en:Beau Brummell (film)|Beau Brummell]]''
| レディ・パトリシア・ブランメル
|
|-
|-
| 1954年
|rowspan="2"|1963 || [[クレオパトラ (1963年の映画)|クレオパトラ]] <br />''Cleopatra'' || [[クレオパトラ]] ||
| 『[[雨の朝巴里に死す]]』<br />''[[:en:The Last Time I Saw Paris|The Last Time I Saw Paris]]''
| ヘレン・エルズワース/ウィリス
|
|-
|-
| 1956年
| [[予期せぬ出来事]] <br />''The V.I.P.s'' || フランシス・アンドロス ||
| 『[[ジャイアンツ (映画)|ジャイアンツ]]』<br />''[[:en:Giant (1956 film)|Giant]]''
| レズリー・リントン・ベネディクト
|
|-
|-
| 1957年
| 1965 || [[いそしぎ (映画)|いそしぎ]] <br />''The Sandpiper'' || ローラ・レイノルズ ||
| 『[[愛情の花咲く樹 (映画)|愛情の花咲く樹]]』<br />''[[:en:Raintree County (film)|Raintree County]]''
| スザンナ・ドレイク
| ローレル賞 ([[:en:Laurel Award]]) ドラマ部門女優賞<br />[[アカデミー主演女優賞|アカデミー賞 主演女優賞]]ノミネート
|-
|-
| 1958年
| 1966 || [[バージニア・ウルフなんかこわくない]] <br />''Who's Afraid of Virginia Woolf?'' || マーサ || [[アカデミー主演女優賞]] 受賞<br />[[英国アカデミー賞 主演女優賞]] 受賞
| 『[[熱いトタン屋根の猫 (映画)|熱いトタン屋根の猫]]』<br />''[[:en:Cat on a Hot Tin Roof (film)|Cat on a Hot Tin Roof]]''
| マギー・ザ・キャット
| ローレル賞ドラマ部門女優賞<br />アカデミー主演女優賞ノミネート<br />[[英国アカデミー賞 主演女優賞]]ノミネート
|-
|-
| 1959年
|rowspan="3"|1967 || [[じゃじゃ馬ならし (1967年の映画)|じゃじゃ馬ならし]]<br />''The Taming of the Shrew'' || カタリーナ ||
| 『[[去年の夏 突然に]]』<br />''[[:en:Suddenly, Last Summer (film)|Suddenly, Last Summer]]''
| キャサリン・ホリー
| [[バンビ賞]] 国際女優賞<br />[[ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞]] 最優秀金牌賞<br />[[ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門)]]<br />ローレル賞 ドラマ部門女優賞<br />アカデミー賞 主演女優賞ノミネート
|-
|-
| 1960年
| ファウスト悪のたのしみ<br />'' Doctor Faustus'' || [[ヘレネー]] ||
| 『スペインの休日』<br />''[[:en:Scent of Mystery|Scent of Mystery]]''
| レアル・サリー
| クレジットなし
|-
|-
| 1960年
| [[禁じられた情事の森]] <br />''Reflections in a Golden Eye'' || レオノラ ||
| 『[[バターフィールド8]]』<br />''[[:en:BUtterfield 8|BUtterfield 8]]''
| グロリア・ワンドラス
| アカデミー賞 主演女優賞<br />ローレル賞 ドラマ部門女優賞第2位<br />ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門) ノミネート<br />バンビ賞 国際女優賞ノミネート
|-
|-
| 1963年
|rowspan="2"|1968 || [[夕なぎ (1968年の映画)|夕なぎ]] <br />''Boom!'' || フローラ・ゴーフォース(シシー) ||
| 『[[クレオパトラ (1963年の映画)|クレオパトラ]]』<br />''[[:en:Cleopatra (1963 film)|Cleopatra]]''
| クレオパトラ
|
|-
|-
| 1963年
| [[秘密の儀式]] <br />''[[:en:Secret Ceremony|Secret Ceremony]]'' || レノラ ||
| 『[[予期せぬ出来事]]』<br />''[[:en:The V.I.P.s|The V.I.P.s]]''
| フランシス・アンドロス
|
|-
|-
| 1965年
|1970|| この愛にすべてを<br />'' The Only Game in Town'' || フラン・ウォーカー ||
| 『[[いそしぎ (映画)|いそしぎ]]』<br />''[[:en:The Sandpiper|The Sandpiper]]''
| ローラ・レイノルズ
|
|-
|-
| 1966年
|1972|| ある愛のすべて<br />'' X,Y, and Zee'' || ジー・ブラックリー ||
| 『[[ヴァージニア・ウルフなんかこわくない]]』<br />''[[:en:Who's Afraid of Virginia Woolf? (film)|Who's Afraid of Virginia Woolf?]]''
| マーサ
| アカデミー賞 主演女優賞<br />英国アカデミー賞 主演女優賞<br />バンビ賞 国際女優賞<br />[[カンザスシティ映画批評家協会|カンザスシティ映画批評家協会賞]] 主演女優賞<br />ローレル賞 ドラマ部門女優賞<br />[[ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 女優賞]]<br />[[ニューヨーク映画批評家協会賞 主演女優賞]]<br />ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門) ノミネート
|-
|-
| 1967年
|rowspan="2"|1973|| 離婚・男の場合 離婚・女の場合<br />''Divorce His, Divorce Hers'' || ジェーン・レイノルズ || テレビ映画
| 『[[じゃじゃ馬ならし (1967年の映画)|じゃじゃ馬ならし]]』<br />''[[:en:The Taming of the Shrew (1967 film)|The Taming of the Shrew|]]''
| カタリーナ
| テイラーは製作にも携わっているがクレジットはされていない<br/>ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞 最優秀外国女優賞<br />英国アカデミー賞 主演女優賞ノミネート
|-
|-
| 1967年
| 夜をみつめて<br />''Night Watch'' || エレン ||
| 『ファウスト悪のたのしみ』<br />''[[:en:Doctor Faustus (1967 film)|Doctor Faustus]]''
| トロイアのヘレネー
|
|-
|-
| 1967年
|rowspan="3"|1974 || [[別離 (1974年の映画)|別離]] <br />''Ash Wednesday'' || バーバラ・ソーヤー ||
| 『[[禁じられた情事の森]]』<br />''[[:en:Reflections in a Golden Eye (film)|Reflections in a Golden Eye]]''
| レオノーラ・ペンダートン
|
|-
|-
| 1967年
| サイコティック<br />''Identikit'' || リセ ||
| 『危険な旅路』<br />''[[:en:The Comedians (1967 film)|The Comedians]]''
| マーサ・ピネダ
|
|-
|-
| 1967年
| [[ザッツ・エンターテインメント|ザッツ・エンタテインメント]]<br />''That's Entertainment!'' || 本人役 ||
| ''[[:en:The Comedians in Africa|The Comedians in Africa]]''
| 本人役
| ドキュメンタリー
|-
|-
| 1968年
|rowspan="2"|1976 || [[青い鳥 (1976年の映画)|青い鳥]] <br />''[[:en:The Blue Bird (1976 film)|The Blue Bird]]'' || ||
| 『[[夕なぎ (1968年の映画)|夕なぎ]]』<br />''[[:en:Boom! (1968 film)|Boom!]]''
| フローラ・"シッシー"・ゴフォース
|
|-
|-
| 1968年
| エンテベの勝利<br />''Victory at Entebbe'' || エドラ || テレビ映画
| 『秘密の儀式』<br />''[[:en:Secret Ceremony|Secret Ceremony]]''
| レノーラ
|
|-
|-
| 1969年
|1977|| リトル・ナイト・ミュージック<br />''A Little Night Music'' || デジレ ||
| 『[[1000日のアン]]』<br />''[[:en:Anne of the Thousand Days|Anne of the Thousand Days]]''
| 宮廷婦人の一人
| クレジットなし
|-
|-
| 1970年
|1978|| リターン・エンゲージメント/愛の旅路<br />''Return Engagement '' || エミリー || テレビ映画
| 『この愛にすべてを』<br />''[[:en:The Only Game in Town (film)|The Only Game in Town]]''
| フラン・ウォーカー
|
|-
|-
| 1970年
|1979|| 大統領の堕ちた日<br />''Winter Kills'' || ローラ ||
| ''[[:en:Here's Lucy|Here's Lucy]]''
| 本人役
| テレビシリーズ、一話のみ
|-
|-
| 1972年
| 1980 || [[クリスタル殺人事件]] <br /> ''The Mirror Crack'd'' || マリナ ||
| 『ある愛のすべて』<br />''[[:en:Zee and Co.|X,Y, and Zee]]''
| ジー・ブレイクリー
|
|-
|-
| 1972年
|1983|| ロンリー・ウーマン<br />''Between Friends'' || デボラ || テレビ映画
| ''[[:en:Under Milk Wood (film)|Under Milk Wood]]''
| ロージー・プロバート
|
|-
|-
| 1972年
| 1985 || [[南北戦争物語 愛と自由への大地]] <br />''North and South'' || マダム・コンティ || テレビ・ミニシリーズ
| ''[[:en:Hammersmith Is Out|Hammersmith Is Out]]''
| ジミー・ジーン・ジャクソン
|[[ベルリン国際映画祭]] [[銀熊賞 (女優賞)|銀熊女優賞]]<ref name="berlinale 1972">{{cite web |url=http://www.berlinale.de/en/archiv/jahresarchive/1972/03_preistr_ger_1972/03_Preistraeger_1972.html |title=Berlinale 1972: Prize Winners |accessdate=2010-03-16 |work=berlinale.de}}</ref>
|-
|-
| 1973年
|1986|| アクトレス/ある女優の栄光と挫折<br />''There Must Be a Pony'' || || テレビ映画
| 『離婚・男の場合 離婚・女の場合』<br />''[[:en:Divorce His, Divorce Hers|Divorce His, Divorce Hers]]''
| ジェーン・レイノルズ
| テレビ映画
|-
|-
| 1973年
| 1988 || [[トスカニーニ 愛と情熱の日々]]<br />''Young Toscanini'' || ナディナ ||
| 『夜をみつめて』<br />''[[:en:Night Watch (1973 film)|Night Watch]]''
| エレン・ウィーラー
|
|-
|-
| 1973年
| 1992 || [[シンプソンズ]] <br /> ''The Simpsons'' || マギー・シンプソンズ || アニメ、声の出演
| 『[[別離 (1974年の映画)|別離]]』<br />''[[:en:Ash Wednesday (1973 film)|Ash Wednesday]]''
| バーバラ・ソーヤー
| ゴールデン・グローブ賞 主演女優賞ノミネート
|-
|-
| 1974年
| 1994 || [[フリントストーン/モダン石器時代]] <br /> ''The Flintstones'' || パール ||
| 『サイコティック』<br />''[[:en:Identikit (film)|Identikit]]''
| リセ
|
|-
|-
| 1974年
|2001|| だって女優ですもの!<br />''These Old Broads'' || ||
| 『[[ザッツ・エンターテインメント]]』<br />''[[:en:That's Entertainment!|That's Entertainment!]]''
| 本人役
|
|-
| 1976年
| 『青い鳥』<br />''[[:en:The Blue Bird (1976 film)|The Blue Bird]]''
| 光の精/母親/魔女/母性愛
|
|-
| 1976年
| 『エンテベの勝利』<br />''[[:en:Victory at Entebbe|Victory at Entebbe]]''
| エドラ・ヴィロンフスキー
| テレビ映画
|-
| 1977年
| 『リトル・ナイト・ミュージック』<br />''[[:en:A Little Night Music (film)|A Little Night Music]]''
| デジレ・アルムフェルト
|
|-
| 1978年
| 『[[ホールマーク・ホール・オブ・フェイム]]』<br />''[[:en:Hallmark Hall of Fame#Season 28 (1978-1979)|Hallmark Hall of Fame]]''
| エミリー・ルーミス
| シーズン28のエピソード『''Return Engagement''』
|-
| 1979年
| 『大統領の堕ちた日』<br />''[[:en:Winter Kills (film)|Winter Kills]]''
| ローラ・コマンテ
| クレジットなし
|-
| 1980年
| 『[[クリスタル殺人事件]]』<br />''[[:en:The Mirror Crack'd|The Mirror Crack'd]]''
| マリーナ・ラッド
|
|-
| 1981年
| 『[[ジェネラル・ホスピタル]]』<br />''[[:en:General Hospital|General Hospital]]''
| ヘレナ・カッサディーヌ #1
| テレビシリーズ
|-
| 1983年
| ''[[:en:Between Friends (1983 film)|Between Friends]]''
| デボラ・シャピロ
| テレビ映画
|-
| 1984年
| 『ホテル』<br />''[[:en:Hotel (TV series)|Hotel]]''
| キャサリン・コール
| テレビシリーズ、一話のみ
|-
| 1984年
| 『[[オール・マイ・チルドレン]]』<br />''[[:en:All My Children|All My Children]]''
| 大邸宅の管理委員
| テレビシリーズ
|-
| 1985年
| ''[[:en:Malice in Wonderland (1985 film)|Malice in Wonderland]]''
| ルーエラ・パーソンズ
| テレビ映画
|-
| 1985年
| 『[[南北戦争物語 愛と自由への大地]]』<br />''[[:en:North and South (TV miniseries)|North and South]]''
| マダム・コンティ
| テレビミニシリーズ
|-
| 1987年
| 『ポーカー・アリス』<br />''[[:en:Poker Alice (1987 film)|Poker Alice]]''
| ポーカー・アリス・モフィット
| テレビシリーズ
|-
| 1988年
| 『トスカニーニ 愛と情熱の日々』<br />''[[:en:Young Toscanini|Young Toscanini]]''
| ナディナ・ブリチョッフ
|
|-
| 1989年
| 『青春の甘き小鳥』<br />''[[:en:Sweet Bird of Youth|Sweet Bird of Youth]]''
| アレクサンドラ・デル・ラーゴ
| テレビシリーズ
|-
| 1992年
| 『[[シンプソンズ]]』<br />''[[:en:The Simpsons|The Simpsons]]''
| マギー・シンプソン
| テレビアニメ、声の出演
|-
| 1992年
| 『[[キャプテン・プラネット]]』<br />''[[:en:Captain Planet and the Planeteers|Captain Planet and the Planeteers]]''
| ミセズ・アンドリュース
| テレビ・アニメ、声の出演
|-
| 1993年
| 『シンプソンズ』<br />''The Simpsons''
| 本人役
| テレビアニメ、声の出演
|-
| 1994年
| 『[[フリントストーン/モダン石器時代]]』<br />''[[:en:The Flintstones (film)|The Flintstones]]''
| パール・スラフープル
|
|-
| 1996年
| 『[[TVキャスター マーフィー・ブラウン]]』<br />''[[:en:Murphy Brown|Murphy Brown]]''
| 本人役
| テレビシリーズ、一話のみ
|-
| 1996年
| ''[[:en:The Nanny|The Nanny]]''
| 本人役
| テレビシリーズ、一話のみ
|-
| 2000年
| ''[[:en:God, the Devil and Bob|God, the Devil and Bob]]''
| サラ
| テレビアニメ、声の出演
|-
| 2001年
| 『だって女優ですもの!』<br />''[[:en:These Old Broads|These Old Broads]]''
| ベリル・メイソン
| テレビ映画
|-
|-
|}
|}


<!-- 【訳出せず】== その他の出演作品 ==
== 主な受賞 ==
Other appearances have included: ''[[Elizabeth Taylor in London]]'' in 1963, ''Around the World of Mike Todd'' in 1968, plus interviews with [[David Frost]], [[Barbara Walters]], [[Phil Donahue]] and [[Larry King]], various profiles of Michael Jackson, ''[[The Freddie Mercury Tribute Concert]]'' and ''Elizabeth Taylor: England's Other Elizabeth'' in 2000.
*[[アカデミー賞]]
**1960年 [[アカデミー主演女優賞|主演女優賞]]『[[バターフィールド8]]』
**1966年 主演女優賞『[[バージニア・ウルフなんかこわくない]]』
**1992年 [[ジーン・ハーショルト友愛賞]]
*[[ゴールデングローブ賞]]
**1956年 特別賞『CONSISTENT PERFORMANCE』
**1959年 [[ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門)|主演女優賞(ドラマ部門)]]『[[去年の夏 突然に]]』
**1973年 世界でもっとも好かれた女優
**1984年 セシル・B・デミル賞
*[[英国アカデミー賞]]
**1966年 [[英国アカデミー賞 主演女優賞|主演女優賞]]『[[バージニア・ウルフなんかこわくない]]』
**1998年 アカデミー友愛賞


Her ''General Hospital'' cameo appearance coincided with the wedding of [[Luke and Laura Spencer|Luke and Laura]]. She did the voice of [[Maggie Simpson]] in ''[[Lisa's First Word]]'', and also appeared as herself in the episode ''[[Krusty Gets Kancelled]]''.
-->
== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{Reflist|30em}}

{{Reflist|}}
== 参考文献 ==
{{refbegin}}
* {{cite book | last1 = Parish | first1 = James Robert | last2 = Mank | first2 = Gregory W. | last3 = Stanke | first3 = Don E. | title = The Hollywood beauties | year = 1978 | publisher=Arlington House Publishers | location = England | isbn = 0-87000-412-3 | page = 329}}
* {{cite web | url = http://www.harpersbazaar.com/fashion/fashion-articles/michael-kors-talks-to-elizabeth-taylor | title = Michael Kors talks to Dame Elizabeth Taylor | date = March 23, 2011 | accessdate=2013/11/11 | work=Harper's Bazaar }}
*{{cite book|last=Heyman|first=David|title=Liz: An Intimate Biography of Elizabeth Taylor (updated with a new chapter) |year=2011|publisher=Atria Books|isbn=1-4391-9188-3}}
* {{cite book | author=Spoto, Donald | title = A passion for life: the biography of Elizabeth Taylor | publisher=HarperCollins | location = London | year = 1995 | isbn = 0-06-017657-1 }}
{{refend}}

== 関連文献 ==
* {{cite book | last = Bozzacchi | first = Gianni | year = 2002 | title = Elizabeth Taylor: the queen and I | url = http://books.google.com/?id=DOntMi39cukC&printsec=frontcover#v=onepage&q&f=false| publisher=University of Wisconsin Press | isbn = 978-0-299-17930-4 }}
* {{cite news | last = Canby | first = Vincent | title = Film View; Elizabeth Taylor – Her Life Is The Stuff Of Movies |work=The New York Times | page = 1 | date = May 4, 1986 | url = http://www.nytimes.com/1986/05/04/movies/film-view-elizabeth-taylor-her-life-is-the-stuff-of-movies.html }}
* [http://www.stanford.edu/~ichriss/ Chrissochoidis, Ilias] (2013). ''The'' Cleopatra ''Files: Selected Documents from the [http://www.stanford.edu/~ichriss/Skouras.htm Spyros P. Skouras] Archive''. Stanford: Brave World. ISBN 978-0-615-82919-7.


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{Commons|Elizabeth Taylor}}
{{commons|Elizabeth Taylor}}
{{Wikiquote}}
* {{imdb name|id=0000072|name=Elizabeth Taylor}}
* {{allcinema name|37994}}
* {{allcinema name|37994}}
* {{Twitter|DameElizabeth|Elizabeth Taylor (DameElizabeth)}}
* {{Twitter|DameElizabeth|Elizabeth Taylor (DameElizabeth)}}
* {{IBDB name|21815}}
* {{IMDb name|72}}
* {{Screenonline name|id=472186}}
* video: [http://www.cbsnews.com/8301-504803_162-20046200-10391709.html?tag=cbsnewsMainColumnArea.1 ''60 Minutes'' interview] (1970), 10 minutes
* video: [http://www.youtube.com/watch?v=5GSOUusJHOM "Elizabeth Taylor Accepts the AFI Life Achievement Award in 1993"], 3 {{frac|1|2}} min.
* [http://www.elizabethtayloraidsfoundation.org/ Elizabeth Taylor AIDS Foundation (ETAF)]
* [http://www.life.com/gallery/52391/elizabeth-taylor-unpublished-pics#index/0 Elizabeth Taylor: Unpublished Pics] – slideshow by ''Life'' magazine


{{アカデミー賞主演女優賞 1941-1960}}
{{アカデミー賞主演女優賞 1941-1960}}

2013年12月25日 (水) 15:54時点における版

エリザベス・テイラー
Elizabeth Taylor
Elizabeth Taylor
本名 Elizabeth Rosemond Taylor
生年月日 (1932-02-27) 1932年2月27日
没年月日 (2011-03-23) 2011年3月23日(79歳没)
出生地 イギリスの旗 イギリスロンドン
死没地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ロサンゼルス
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
イギリスの旗 イギリス
職業 女優
ジャンル 映画テレビドラマ
活動期間 1942年 - 2003年
活動内容 1942年:映画デビュー
配偶者 コンラッド・ヒルトン Jr.
(1950年 - 1951年)
マイケル・ワイルディング
(1952年 - 1957年)
マイケル・トッド
(1957年 - 1958年)
エディ・フィッシャー
(1959年 - 1964年)
リチャード・バートン
(1964年 - 1974年、1975年 - 1976年)
ジョン・ウォーナー
(1976年 - 1982年)
ラリー・フォーテンスキー
(1991年 - 1996年)
著名な家族 マイケル・ハワード・ワイルディング(長男)
クリストファー・エドワード・ワイルディング(次男)
エリザベス・フランシス・トッド(長女)
マリア・バートン(養女)
主な作品
映画
『緑園の天使』
『若草物語』
『陽のあたる場所』
『ジャイアンツ』
『熱いトタン屋根の猫』
『バターフィールド8』
『クレオパトラ』
『バージニア・ウルフなんかこわくない』
受賞
アカデミー賞
主演女優賞
1960年『バターフィールド8』
1966年『バージニア・ウルフなんかこわくない』
ジーン・ハーショルト友愛賞
1992年
英国アカデミー賞
主演女優賞
1966年『バージニア・ウルフなんかこわくない』
ゴールデングローブ賞
主演女優賞(ドラマ部門)
1959年『去年の夏 突然に』
1984年
セシル・B・デミル賞
その他の賞
ベルリン国際映画祭女優賞
1972年『Hammersmith Is Out』
テンプレートを表示

エリザベス・テイラーDame Elizabeth Rosemond Taylor, DBE1932年2月27日 - 2011年3月23日[1])は、イギリス出身の女優。少女時代からメトロ・ゴールドウィン・メイヤー (MGM) で子役として映画出演しており、成人後には「ハリウッド黄金時代」(en:Hollywood's Golden Age) を代表する大女優の一人となった。世界的にもっとも有名な女優の一人であり、優れた演技力、美貌、豪奢な私生活、そして珍しいスミレ色ので知られていた。

緑園の天使』(1944年)が最初に成功したテイラーの映画出演作品となった。その後、『花嫁の父』(1950年)、『陽のあたる場所』(1951年)、『ジャイアンツ』(1956年)、『熱いトタン屋根の猫』(1958年)、『去年の夏 突然に』(1959年)などに出演している。1960年の『バターフィールド8』でアカデミー主演女優賞を受賞し、『クレオパトラ』(1963年)では主題役を演じ、この作品で共演したリチャード・バートンと結婚した。バートンとの共演作は『バージニア・ウルフなんかこわくない』(1966年)など11本におよび、テイラーはこの『バージニア・ウルフなんかこわくない』で2度目のアカデミー主演女優賞を受賞している。1970年代半ばからテイラーの映画出演は減っていき、ときおりテレビや舞台に出演するようになった。

テイラーの私生活は、8度の結婚と生命に関わる闘病生活で知られている。また、1980年代半ばからエイズ撲滅運動を支持し、1985年に米国エイズ研究財団 (en:amfAR, The Foundation for AIDS Research) の創設メンバーの一人となり、1993年にはエリザベス・テイラー・エイズ基金を創設した。大統領メダル (en:Presidential Citizens Medal)、レジオンドヌール勲章ジーン・ハーショルト友愛賞、AFI生涯功労賞 (en:AFI Life Achievement Award) を受賞し、AFIが選定した映画スターベスト100の女優部門では第7位にランクされている。テイラーは長い闘病生活の末、2011年3月に鬱血性心不全のために79歳で死去した。

幼少期

テイラーは1932年2月27日に二人兄妹の妹として、ロンドン北西部のハムステッド・ガーデン・サバーブにあるウィルウッド通り8番の両親の家で生まれ、エリザベス・ロズモンド・テイラー (Elizabeth Rosemond Taylor) と名付けられた[2][3][4]。父親はフランシス・レン・テイラー (en:Francis Lenn Taylor)(1897年 - 1968年)、母親はサラ・サザーン (en:Sara Sothern) (1895年 - 1994年)で、両親ともにカンザス州アーカンザスシティ出身のアメリカ人だった。テイラーの兄ハワード・テイラーは1929年生まれである[5]。父フランシスは画商で、母サラは舞台女優をしていたが、ニューヨークでフランシスと結婚した1926年に芸能活動から引退している。

テイラー家の親しい友人だったヴィクター・カサレ (en:Victor Cazalet) は、一家に大きな影響を与えた人物で、エリザベスの名付け親となった。ウィンストン・チャーチルの親友でもあったカサレは裕福な国会議員で、有力な縁故を持つ独身男性だった。カサレは美術と観劇を深く愛した人物で、テイラー一家にイングランドに永住することを強く勧めた。また、クリスチャン・サイエンスの信者で在家の説教師を務めており、テイラー家とのつながりには宗教的な側面もあった。エリザベスがひどい小児性伝染感染症に罹患し、数週間寝込んだときにエリザベスは「お母さん、ヴィクターを呼んでくれないかしら。一緒にここにいてくれるように頼んで」と懇願している[6](p14)

伝記作家のアレクサンダー・ウォーカー (en:Alexander Walker) は、エリザベスが27歳のときにユダヤ教に改宗しその生涯を通じてイスラエルを支持していたのは、幼少期の体験が原因ではないかとしている。ウォーカーは、カサレがユダヤ人の祖国建設の積極的な推進者だったことと、エリザベスの母サラがさまざまな慈善活動に参加しており、その活動のなかにシオニズム資金団体への支援があったことを指摘している。サラはエリザベスがカサレから受けた影響について次のように振り返っている。

ヴィクター(カサレ)は、ベッドに座ってエリザベスを抱きかかえながら神様のことを語って聞かせていました。エリザベスの瞳は彼の顔を食い入るように見つめ、彼の話すあらゆる言葉に聞き入り、信じ、そして理解していったのです[6](p14)

テイラーは出生国イギリスと両親の出身国アメリカとの二重国籍を持っていた。1965年10月にパリのアメリカ大使館でアメリカ国籍放棄の手続きを行ったが、証明書の「合衆国へのあらゆる義務と忠誠を放棄する」という一文には抹消線が引かれていた。このためアメリカ合衆国国務省は、書類が改ざんされているためテイラーの国籍放棄を認めないという見解を公式に公表している。テイラーは翌年の1966年に、改めて正式なアメリカ国籍放棄の証明書にサインした[7]。しかしながら1977年にテイラーは、当時の夫だった政治家ジョン・ウォーナーの上院議員選挙運動の際にアメリカ国籍取得を申請している[8][9]

第二次世界大戦が勃発する直前に、両親は戦火を避けてイギリスからアメリカへと戻ることを決めた。母サラと二人の子供が一足先にニューヨークへ到着したのは1939年4月のことで[10]、ロンドンで仕事の後始末に追われていた父ウォルターがアメリカへ帰国したのは11月になってからだった[11]。一家はカリフォルニア州ロサンゼルスに落ち着き、父ウォルターはイギリスから持ち込んだ多くの絵画を展示するアート・ギャラリーを建てた。そしてすぐにこのギャラリーは現代ヨーロッパ絵画を好む多くの著名なハリウッド関係者たちの間で評判になり、伝記作家ウォーカーはギャラリーが「テイラーを金銭と名声に満ちた(ハリウッドの)世界へと誘う、多くの扉を開いていくことになった」としている[6](p27)

女優としてのキャリア

子役

テイラーの母サラは、ロサンゼルスに居を構えて間もなく、ハリウッド関係者が「つねに未来のスターを探している」ことに気づいた。サラは友人をはじめ見ず知らずの人々からも、当時撮影中だった映画『風と共に去りぬ』の主役スカーレット・オハラの子供ボニー・ブルー役のスクリーン・テストを、テイラーに受けさせるように勧められた。しかしながらサラは、テイラーには映画の子役は向いていないとしてこれらの誘いを断った。また、テイラー一家が世界大戦終結後にはイングランドへ戻るつもりでいたことも背景にあった[6](p28)

1940年ごろに撮影されたテイラー。

あるとき、ハリウッドの芸能コラムニストのヘッダ・ホッパー (en:Hedda Hopper) が、映画製作会社ユニバーサル・ピクチャーズの役員で大株主だったジョン・チーヴァー・カウディンの婚約者アンドレア・べレンスとテイラーを引き合わせた。ベレンスはサラに、テイラーをカウディンに会わせれば、間違いなくカウディンはテイラーの驚くほどの美貌に魅せられるだろうと請合った[12]。別の映画製作会社メトロ・ゴールドウィン・メイヤー (MGM) もテイラーに関心を示しており、MGMの社長ルイス・B・メイヤー自らが自社のプロデューサーに「彼女(テイラー)と契約しろ。さっさとするんだ。何をぼやぼやしている」と催促したといわれている。そしてテイラーを巡ってユニバーサル・ピクチャーズとMGMの争奪戦となった。MGMも自分たちと同じくテイラーに興味を持っていることを知ったカウディンは、ニューヨークからユニバーサル・ピクチャーズへ「彼女と契約するんだ。これは命令だ。スクリーンテストも省いていい」という電話をかけている。そしてユニバーサル・ピクチャーズはテイラーと7年間の契約を結んだ[6](p31)

テイラーが初めて映画作品に出演したのは『There's One Born Every Minute』(1942年)で、結局この作品がテイラーが出演した唯一のユニバーサル・ピクチャーズ製作映画となった[13]

『There's One Born Every Minute』公開後、一年足らずでユニバーサル・ピクチャーズはテイラーとの契約を解消した。契約が解消された理由は不明だが、カウディンが期待するほどの成果をテイラーが挙げられなかったのではないかとする説がある。伝記作家ウォーカーは「ユニバーサル・ピクチャーズに歓迎されていない」とテイラーが直感的に思ったのだとしている。たとえば、配役担当ディレクターが、スクリーン・テストを終えたテイラーについて「この子には何もないよ」と漏らしたことをテイラーは知っていた。テイラーに出会う人々を驚かせた[14]すみれ色にも見える深い青色の美しい瞳と先天的な二重まつげ[5][15]は,このディレクターにとって印象的には感じられず[16][15]、「彼女(テイラー)の目はあまりに大人びすぎている。子供の顔じゃない」と言ったとされている[6](p32)。ウォーカーも「外見に関する限りはそう的外れな意見でもない」としている。

確かにエリザベスの容姿にはちょっと変なところが「あった」。年齢のわりには大人びており、実年齢よりも年上だと考える人々も多かっただろう。すでに母親と同じような集中力をみせていた。後にこのことは(テイラーの)大きな財産となっている。当時の人々は、シャーリー・テンプルの清純な愛らしさや、ジュディ・ガーランドの飾り気のない子供らしさに比べれば、テイラーが劣っていると思ったのだろう[6](p32)

1944年に撮影されたテイラー。

テイラーは幼少時代をすごしたイングランドでは「大人びて」いると言われていたと振り返っており、それは自身が「率直でひどく遠慮がなかった」からだとしている[17]。さらに生まれたばかりの娘にも、自分とよく似た特徴がみられることにも触れている。

まだ一歳にもならない娘がじっと他の人を見つめると、その人は落ち着きをなくし逃げ出したくなるのです。娘の熱のこもった視線に耐えられずに、ついには部屋を出て行ってしいます[17]

MGMのプロデューサーであるサム・マルクス (en:Sam Marx) の火災警備員も務めていたテイラーの父ウォルターは、MGMが名犬ラッシーの映画に出演するイギリス人子役を探していることを知った。テイラーはこの映画への出演を決め、1943年からの長期契約をMGMと結んだ[18]。テイラーがMGMとの契約を決めた理由は「オーディションに行ったときに、MGMの関係者がみんな親切だったから」とテイラーは振り返っている[6](p32)。MGMの製作責任者ベニー・タウを、テイラーはその後数年にわたって全面的に信頼していた。「彼(タウ)は 細やかな気遣いが出来る人物で、その身振りからも彼女(テイラー)が愛されているということがわかった」とウォーカーは語っている[6](p32)。タウは当時のテイラーのことを「小さな黒髪の美人で、風変わりで美しい目がみなの注目を集めていた。妙に元気な子供だったよ」と評している[6](p34)。さらに、当時のMGMは「魅力的な製作会社」だとみなされており、「天国よりも多くのスターを抱えている」と自負していた。しかしながらテイラーの母サラは、テイラーには女優としての「天賦の才能」があると信じていたが、MGMとの契約書にサインするのをためらっていた。ウォーカーはテイラーがMGMとの契約を結ぶに至った理由を次のように述べている。

(テイラーの母サラは)確かな証を欲しがっていた。……サラは、以前自分が出演した『The Fool』の台本を持ち出し、自分は主役の台詞を読み、テイラーには過去にサラが演じた娘役の台詞を読ませた。このときサラは涙を禁じえなかったことを認めている。『私の娘は完璧に役を演じきったのです。私が演じた子供時代の役も成人してからの役も。彼女(テイラー)は私が過去に演じた全ての世代の役をこなしました』[6](pp38–39)

少女スター

1945年に撮影されたテイラーの宣材写真。

MGMはテイラーを『名犬ラッシー 家路 (en:Lassie Come Home)』(1943年)に、その後終生の友情を結ぶことになる子役ロディ・マクドウォールと共演させた。後年マクドウォールはテイラーの美貌について「大きなスクリーンに映し出されるために生まれたこの少女以外の誰が二重まつげをしているだろう」と回想している[5]。『名犬ラッシー 家路』でのテイラーとマクドウォールの演技はどちらも好評を博し、MGMは定時昇給を確約した週給100ドルの条件でテイラーと7年間の出演契約を結んだ。MGMとの契約下で初めて与えられたのは外部出演作品であり、20世紀フォックスが製作する『ジェーン・エア』(1943年)のヘレン・バーン役だった。翌1944年にはイギリスで撮影された『ドーヴァーの白い崖』で、テイラーは再びマクドウォールと共演している。

粘り強く交渉して射止めた『緑園の天使』のヴェルヴェット・ブラウン役で、12歳のテイラーは子役スターとなった。テイラーの役は、愛する馬を調教してグランドナショナルで優勝することを夢見る少女だった。若きミッキー・ルーニーやイギリスの新人女優アンジェラ・ランズベリーらが共演し、1944年12月に公開されたこの作品は大成功を収めた。後年になってテイラーは『緑園の天使』のことを、今までで「もっとも興奮した映画』と呼んでいるが[19]、映画撮影中に落馬事故で痛めた背中は、後に様々な悪影響をテイラーにおよぼすこととなった[18]

観客も批評家も「一目でエリザベス・テイラーに魅入られた」。ウォーカーは『緑園の天使』が大ヒットした理由として次のように記している。

その大きな成功はひとえにヒロインにある。その思い込みの強い性格で、叶わないことなど存在しないと信じる人々の強い憧れを体現してみせた。……言い方を変えれば人生観を描いた作品として、時代を超える名作という評価を確立したのである[6](p41)

『緑園の天使』の興行収益は400万ドル以上を記録し、MGMはテイラーと更なる延長出演契約を結んだ。『緑園の天使』の成功により、テイラーは同じく動物映画である『ラッシーの勇気 (en:Courage of Lassie)』(1946年)に出演している。この映画もヒットし、テイラーのギャラは週給750ドルまであがった。この後もワーナー・ブラザーズに貸し出されて出演した『ライフ・ウィズ・ファーザー (en:Life With Father)』(1947年)を始め、『シンシア』(1947年)、『スイングの少女 (en:A Date with Judy)』(1948年)、『奥様武勇伝』(1948年)と全ての出演作がヒットしている。テイラーは確実にヒットを飛ばす子役女優として高く評価され、撮影でNGを出さずに一度のテイクで決めてしまうところから「ワンショット・リズ」と呼ばれるようになった。そして南北戦争時代の一家を描いた古典的名作『若草物語』(1949年)のエイミー・マーチ役が、テイラーの最後の少女役となった。

当時のMGMはスタジオ内に教室を設置しており、子役たちに学校教育を施していた。しかしながらテイラーは、スターとして扱われない普通の子役たちから疎外されるようになり、この教室に嫌気がさすようになっていった。テイラーは子役として映画に出演する前が、子供時代でもっとも幸福な時期だったと振り返っている。

私の人生で、数少ない本当に幸せだった時期のひとつに、女優を始める前の子供時代があります。同級生とゲームをし、お人形遊びやごっこ遊びに夢中になったものです。……『緑園の天使』に出演して有名になったのは私が12歳のときです。今でも私は普通の生活が送りたかったと思うときがあります。でも多分そのころから私は風変わりな変人だという目で見られるようになっていったのでしょう。
私は学校が嫌いでした。少なくともあれは学校ではありませんでした。私は子供たちと一緒にすごすこと自体は大好きでした。でも教師が舞台セットにいる私の耳をつかんで引き摺り下ろし、教室に叩き込もうとするのです。私はよく激高しました。そのころ16歳だった私と真面目に接してくれる級友もいなかったのです。15分もしたら教室を抜け出して、ロバート・テイラーの妻役として情熱的なラブシーンを演じたものです[20]

成人女性役への転身

スペンサー・トレイシーと共演した『花嫁の父』の宣材写真。1950年。

10歳代のころのテイラーは、映画出演に嫌気が差していた。ステージママとなった母親サラは、テイラーが即興で泣けるようになるまで容赦なく稽古を続けさせ、撮影中のテイラーを監視し続けては、発声やミスを指摘した。撮影所で同年代の人間と出会うことはほとんどなく、貧弱な教育しか受ける機会を与えられなかったため、テイラーは簡単な算数であっても指を使わないと計算できなかった。16歳のときにテイラーは、両親に普通の子供に戻りたいから女優をやめると告げたことがある。母親のサラはテイラーには感謝の心がないと諭し「貴方には責任があるのよ、エリザベス。私たち一家にだけではなく、この国、さらには全世界に対してのね」と言って聞かせている[21]

1948年10月にテイラーは『Conspirator』の撮影のために、客船クイーン・メリーでイギリスへ向かった。他の子役と違って、テイラーは成人女性役への転身に苦労することはなかった[19]。『Conspirator』が公開される1949年以前に、雑誌『タイム』がテイラーのことを「非常に高価な宝石、サファイアのような本物のスター」と呼んで、モンゴメリー・クリフトカーク・ダグラスエヴァ・ガードナーらと並ぶ、次代のハリウッド・スターだと紹介している[22]。成長してもテイラーは小柄で華奢な体格のままで、ウェストサイズは19インチしかなかった[21]

『Conspirator』の興行成績は悪かったが、当時38歳のロバート・テイラー演じる共産主義のスパイと、そのことを知らずに結婚してしまうという、メリンダ・グレイトン役を演じた。当時16歳だったテイラーが演じたこの21歳の女性の役は、テイラー初の成人女性役として評論家から高い評価を得た。新たに週給2,000ドルとなったテイラーが出演した映画が人気俳優ヴァン・ジョンソンと共演した『The Big Hangover』(1950年)だったが、この作品は興行成績も批評家からの評価もよくなかった。また、この映画では成長したテイラーの性的魅力を描写しようとしていたが、その面でも成功したとはいえない作品だった[23]

テイラーが成人女性を演じた映画で、最初に興行的にヒットしたのがコメディ映画の『花嫁の父』(1950年)である。テイラーはスペンサー・トレイシーが演じるスタンリー・T・バンクスの娘ケイ・バンクス役で、ほかにはジョーン・ベネットらが共演していた[24]。『花嫁の父』の続編として製作されたコメディ映画『可愛い配当 (en:Father's Little Dividend)』(1951年)でテイラーは再びスペンサー・トレイシーと共演した。トレイシーはこの映画について「退屈、退屈極まりない」と評している[25]。『可愛い配当』の興行成績は非常によく、二作続けてコメディ映画でヒットを飛ばしたテイラーだったが、次作の『陽のあたる場所』が、以降のテイラーの女優としてのキャリアを方向付けることとなる[24]

ファイル:Taylor-Clift-A Place in the Sun.jpg
モンゴメリー・クリフトと共演した『陽のあたる場所』。1951年。

1949年の終わりにテイラーは、ジョージ・スティーヴンス監督作品『陽のあたる場所』の撮影に入った。この作品が公開されたのは1951年で、テイラーは資産家令嬢のアンジェラ・ヴィッカース役を演じた。共演したのはジョージ・イーストマン役のモンゴメリー・クリフトと、イーストマンの恋人で妊娠しながらも工場で働く貧しいアリス・トリップ役のシェリー・ウィンタースだった[19]。『陽のあたる場所』はセオドア・ドライサーの小説『アメリカの悲劇』を原作としており、「アメリカン・ドリーム」への批判とその悪影響をテーマにしていた[26]

当時のテイラーはまだ17歳であり、『陽のあたる場所』にこめられた心理的な影響力やテーマ性を理解できてはいなかったが、この作品はテイラーの女優としてのキャリアに極めて重要なものとなった。伝記作家キティ・ケリーは、監督のスティーヴンスがテイラーのことを若く美しいスターだと認識しており、そのことによって「(クリフト演じる)ジョージ・イーストマンが、彼女(テイラー演じるアンジェラ・ヴィッカース)と陽のあたる場所を手に入れるためなら何でもすると思いつめた理由を、観客たちにはっきりと理解させる」効果があったとしている[26]。ケリーは『陽のあたる場所』の撮影現場の見学を許された芸能コラムニストのヘッダ・ホッパーが「『緑園の天使』に出演していた少女が、カメラの前でモンゴメリー・クリフトを誘惑しているシーンを食い入るように見つめていた」と書いている。さらに、このシーンの撮影後にホッパーがテイラーのところへ行って「エリザベス、あんなふうに男を誘惑する手管をいったいいつ覚えたの」と尋ねていたとしている[26]。批評家たちは『陽のあたる場所』を傑作と評価し、映画史に50年以上残る作品だとして高く称賛した。『ニューヨーク・タイムズ紙』のA・H・ワイラーは「裕福で美しいアンジェラを演じたエリザベスの演技は、彼女のキャリア中で最高だった」と書いた。また、『ボックスオフィス誌 (en:Boxoffice)』はその劇評で「ミス・テイラーはアカデミー賞に値する」と断言している。

雨の朝巴里に死す』のテイラー。1954年。

1950年ごろから、テイラーは自身に振られる配役に対して徐々に不満を持つようになっていった。テイラーが望んでいたのは『裸足の伯爵夫人』でエヴァ・ガードナーが演じたマリア・バルガスや『明日泣く (en:I'll Cry Tomorrow)』でスーザン・ヘイワードが演じたリリアン・ロスのような役柄だった。しかしながらMGMは、テイラーがカメオ出演した『Callaway Went Thataway』(1951年)や、『Love Is Better Than Ever』(1952年)、『黒騎士』(1952年)、『en:The Girl Who Had Everything』のような、どちらかというと愚かしく、記憶に残らないような映画への出演しか認めなかった[24][27]

1954年に出演した『ラプソディ (en:Rhapsody)』も、テイラーにしてみれば飽き飽きするような恋愛映画で、不満が残る役どころだった。テイラーが演じたルイーズ・デュラン役は、ヴィットリオ・ガスマン演じる気難しいヴァイオリニストと、ジョン・エリクソン演じる真面目な若きピアニストの間で揺れ動く裕福で美しい娘という役どころだった。『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙』は「全編が美しさに満ちた作品で、ミス・テイラーはあらゆる角度から輝いている。……台詞は高尚で出演陣も優れた容姿ではあるが、いかんせん内容に乏しい」と評している[28]

『ラプソディ』、『巨象の道』と同じく1954年に公開された『騎士ブランメル (en:Beau Brummell)』で、テイラーは凝った衣装に身を包むレディ・パトリシアを演じた。しかしながらこの魅惑的な美女役は、スチュワート・グレンジャーが演じる主役ボー・ブランメルに恋愛風味を加えるだけの美しい添え物に過ぎなかった。『The Big Hangover』で共演したヴァン・ジョンソンと再びコンビを組んだ『雨の朝巴里に死す』(1954年)でテイラーが演じた役はそれまでの作品に比べるといくぶんましな役どころだった。テイラーが演じた役であるヘレン・エルスワース・ウィリスは、アメリカの小説家F・スコット・フィッツジェラルドの妻ゼルダ・セイヤーをモデルにしている。当時のテイラーは1952年に結婚したマイケル・ワイルディングの二人目の子供を妊娠していたが、この作品の撮影に4カ月間を費やした。『雨の朝巴里に死す』の興行成績は悪くなかったが、テイラーはより存在感がある役を切望していた[24]

1955年から1979年

ロック・ハドソンと共演した『ジャイアンツ』。1956年。

ジョージ・スティーヴンス監督作品で、ロック・ハドソンジェームズ・ディーンと共演した大作『ジャイアンツ』(1956年)で、テイラーはハドソン演じる富豪ジョーダンの妻レズリーという、シリアスで存在感のある役どころを得た。そしてテイラーは、モンゴメリー・クリフトと共演した『愛情の花咲く樹』(1957年)で演じたスザンナ・ドレイク役で、初めてアカデミー主演女優賞にノミネートされた[29]。以降テイラーは、ポール・ニューマンと共演した『熱いトタン屋根の猫』(1958年)[30]、モンゴメリー・クリフト、キャサリン・ヘプバーンマーセデス・マッケンブリッジと共演した『去年の夏 突然に』(1959年)[31]、『バターフィールド8』(1960年)と4年連続でアカデミー主演女優賞にノミネートされ、最後の『バターフィールド8』でアカデミー主演女優賞を獲得した[32]。『バターフィールド8』は当時テイラーの夫だったエディ・フィッシャーと共演した作品で[19]、テイラーに自身のことを18年間にわたる「MGMの家財」と言わしめた、MGMとの契約における最後の作品となった[33]

クレオパトラ』(1963年)で主役を演じるテイラー。宣伝フィルムからのスクリーンショット。

『去年の夏 突然に』の大ヒットによって、テイラーは興行成績上位10位に入る俳優となり、その後も10年にわたってほぼ毎年上位10位にランクインした[33]。1960年にテイラーは、20世紀フォックスと100万ドルで『クレオパトラ』(1963年)の出演契約を結び、当時最高額の出演料を得る女優となった[31]。最終的にはテイラーはこのクレオパトラ役で700万ドルを手にしている[33]。テイラーはこの『クレオパトラ』の撮影中に、共演者でマーク・アントニー役のリチャード・バートンと恋愛関係になった。両者ともに結婚していた不倫関係であり、タブロイド紙に大きく取り上げるスキャンダルとなってしまった[34]

テイラーに二度目のアカデミー主演女優賞をもたらしたのは、当時の夫だったリチャード・バートンと共演した『ヴァージニア・ウルフなんかこわくない』(1966年)のマーサ役だった[35]。この映画はテイラーにとってもバートンにとっても大きな転機となった作品で、ウォーカーは「二人のキャリアのなかで、もっともやりがいがある作品であり、もっとも手ごわかった作品」だと評している。テイラーはこの作品を「本物の演技」を試すいい機会だととらえ、さらに、自身の憧れの女優ヴィヴィアン・リーが演じてきた「悲劇のヒロイン」と張り合うチャンスだと考えた。しかしながらテイラーは、自身の実年齢より20歳以上年長のマーサ役を演じるには自身の外見が若すぎることを気にかけていた。テイラーは役の年齢相応に見せかけるために白髪を足すなど、肉体的にも声質的にもマーサに近づけようとした。意図的に体重を増やし、過度に濃いマスカラ以外はほとんど化粧をせず、薄汚れたバッグを持つという出で立ちで役作りを行った[6](pp281–282)

テイラーとその5番目、6番目の夫リチャード・バートンとは、『予期せぬ出来事』(1963年)、『いそしぎ』(1965年)、『じゃじゃ馬ならし』(1967年)など、10年間で6本の映画で共演している。1967年までに二人の共演作品は200万ドル以上の興行成績をあげた。『じゃじゃ馬ならし』に続いて『ファウスト悪のたのしみ (en:Doctor Faustus)』(1967年)、『危険な旅路 (en:The Comedians)』(1967年)、『夕なぎ (en:Boom!)』で、テイラーとバートンは共演しているが、いずれも興行成績は振るわなかった[36]

テイラーはジョン・ヒューストン監督作品『禁じられた情事の森』(1967年)でマーロン・ブランドと共演し[37]、翌年にはミア・ファローと『秘密の儀式 (en:Secret Ceremony)』(1968年)で共演した。1960年代の終わりにはテイラーの集客力は落ちていき、出演作の興行成績は大幅に下がってしまった。ウォーレン・ベイティと共演した1970年の『この愛にすべてを (en:The Only Game in Town)』も興行的には失敗作となっている[38]

加齢とともに「か細く柔軟性のない声[33]」しか出なくなったテイラーだったが[33]、1970年代も多くの映画作品に出演するスターであり続けた。マイケル・ケインと共演した『ある愛のすべて (en:X, Y and Zee)』(1972年)、ヘンリー・フォンダと共演した『別離』(1973年)、ジェーン・フォンダ、エヴァ・ガードナーと共演した『青い鳥 (en:The Blue Bird)』(1976年)、夫リチャード・バートンと共演した『リトル・ナイト・ミュージック (en:A Little Night Music)』(1977年)などに出演し、1973年にはテレビ映画の『離婚・男の場合 離婚・女の場合 (en:Divorce His, Divorce Hers)』にも出演している。

1980年から2003年

USOショウに出演したテイラー。左の男性はボブ・ホープ。1986年。

テイラーは1980年にアガサ・クリスティのミステリ小説『鏡は横にひび割れて』を原作とした映画『クリスタル殺人事件』に出演した。1985年には、実在の芸能ゴシップコラムニストのヘッダ・ホッパーとルエラ・パーソンズをモデルとしたテレビ映画『Malice in Wonderland』で、ルエラ・パーソンズを演じている[39]。1987年にトム・スケリット、ジョージ・ハミルトンとの共演でテレビの西部劇『ポーカー・アリス (Poker Alice)』に出演し、1989年にはテレビのミニドラマシリーズ『南北戦争物語 愛と自由への大地』に出演した[39]。そしてテイラーの最後の劇場映画作品となったのは1994年の『フリントストーン/モダン石器時代』だった[40]

ドーヴィル・アメリカ映画祭でのテイラー。1985年。

テイラーは1996年2月にテレビのシットコム番組『ナニー (en:The Nanny)』に本人役で出演した。このとき出演者のフラン・ドレシャーに、テイラーがこれまでに結婚した相手の全ての姓をつなげて「エリザベス・テイラー=ヒルトン=ワイルディング=トッド=フィッシャー=バートン=バートン=ウォーナー=フォーテンスキー」と呼びかけられている。2001年にはテレビ映画『だって女優ですもの! (en:These Old Broads)』に出演した。テイラーは多くのテレビシリーズ作品に出演しており、ソープオペラの『ジェネラル・ホスピタル』、『オール・マイ・チルドレン[41]などのほか、アニメシリーズ『ザ・シンプソンズ』の登場人物マギー・シンプソンに一度だけ「ダディ」という台詞をあてたことがある[42]

テイラーは映像作品だけではなく舞台作品にも出演したことがあり、1982年に劇作家リリアン・ヘルマン原作の『子狐たち (en:The Little Foxes)』で、ブロードウェイとイースト・エンドにデビューした。1983年にはノエル・カワードの戯曲『プライヴェート・ライヴズ (en:Private Lives)』で、前夫のリチャード・バートンと共演している[43]オクスフォード大学に生徒主体で建てられた小劇場バートン・テイラー・スタジオ (en:Burton Taylor Studio)は、テイラーとバートンにちなんで名付けられている。これは、オックスフォード大学演劇部の舞台に、バートンがドクトル・ファウスト役で客演したことを記念したものである[44]

1980年代初めに、テイラーはロサンゼルス西部の高級住宅街ベル・エア (en:Bel Air, Los Angeles) に邸宅を購入し、その後の生涯をここで過ごした。テイラーの持ち家はほかに、パーム・スプリング、ロンドン、ハワイにもあった。

2003年から2011年

テイラーは第75回アカデミー賞式典に招待されたが、2003年3月にイラク戦争反対の立場からこの招待を辞退した[45]。テイラーは当時のアメリカ大統領ジョージ・W・ブッシュを公然と非難しており、イラク大統領サッダーム・フセインのイラク国外へ退去を要求するアメリカの強硬姿勢が第三次世界大戦の引き金になるのではないかと危惧していた[46]

2007年12月1日にテイラーは、ジェームズ・アール・ジョーンズとの共演で、A・R・ガーニー (en:A. R. Gurney) 原作の舞台朗読劇『LOVE LETTERS (en:Love Letters)』に出演した。この舞台はテイラーのエイズ基金の創設資金として、100万ドルを集めることを目的として上演されたものである。入場チケットは2,500ドルで500人以上の観客が集まった。この舞台の上演は全米脚本家組合ストライキとほぼ同時期の出来事で、各地の演劇関連施設が閉鎖、あるいはピケラインが張られていた。そこでテイラーは全米脚本家組合に「一夜だけの免除」を求めた。全米脚本家組合はこのテイラーからの依頼を聞き入れ、この劇場にピケラインは張られることなく舞台は無事に上演された[47]

2009年に死去したマイケル・ジャクソンとテイラーは友人であり、非常に親しかった。2009年6月のマイケル死去の際には代理人を通して「悲しみにうちひしがれコメントできない」とその胸中を語った[48]

私生活

結婚、恋愛、子供

マイク・トッド、テイラー夫妻と娘リザ。1957年

テイラーは7人の相手と8回結婚した。結婚離婚を繰り返す理由を聞かれたテイラーは「分からない。私にもさっぱり分からないの」と応えている[19]。また、別の機会には「私は両親から、誰かを本当に好きになったのなら結婚しなさいと教えられたのよ。多分私は古風な女なんでしょうね」と話したこともある[18]

テイラーは以下の男性たちと結婚した。

テイラーはこのホテル王の若き相続者を愛していると信じていたが、実際には母親のもとから逃げ出したかっただけだった。ヒルトンの「ギャンブル癖、飲酒癖、粗暴な振る舞い[33]」はテイラーとテイラーの両親を怯えさせ、エリザベスの流産の原因となった。二人の結婚はわずか9カ月で終わった[19][21]
  • マイケル・ワイルディング (en:Michael Wilding) (イギリス人俳優。1952年2月21日 - 1957年1月26日)
「紳士」ワイルディングはテイラーよりも20歳年長で、ヒルトンと離婚したばかりで傷心のテイラーを慰撫した。ワイルディングと離婚した後にテイラーは「たぶん私は彼に辛い体験をさせてしまったのでしょう。少しばかり私が彼を尻に敷いていたところがあり、彼にしてみれば落ち着いた暮らしではなかったのかも知れません」と語っている[21]
  • マイク・トッド (en:Mike Todd) (アメリカ人舞台、映画プロデューサー。1957年2月2日 - 1958年3月22日)
テイラーにとって、トッドとの結婚が離婚ではなく唯一の死別となった。二人の結婚生活は穏やかとはいえないものだったが、後年テイラーはトッドのことを、リチャード・バートンそして宝石とともに、生涯でももっとも深く愛した三つのうちの一つだと語っている[49][19]
フィッシャーはテイラーの前夫トッドの親友で、トッドの死後にはテイラーを慰める関柄だった。二人は関係を持つようになっていったが、当時のフィッシャーには妻デビー・レイノルズがいたために、大きなスキャンダルとなった[19][50](p226)。しかしながら最終的にはレイノルズはテイラーを許し、テイラーが『バターフィールド8』でアカデミー主演女優賞にノミネートされたときにはテイラーに投票しており、さらに後年の『だって女優ですもの!』では共演を果たしている[18]
1965年の『いそしぎ』で夫婦共演したテイラーとバートン。
両者共に結婚していたテイラーとバートンの不倫は、ヴァチカン教皇庁からも「みだらがましい浮浪」だと非難された[33]。テイラーとバートンは10年間の結婚中も離婚後もマスコミから大きな注目を集めていた。これは一般大衆が「(バートンが)世界一有名な俳優で、その世代のなかで最もすばらしい俳優だと信じていた」ことによる。テイラーは女優としてのキャリアよりも二人の結婚生活を重視し、映画の配役が回ってこないように体重を増やすことさえ厭わなかった[19]
1974年にテイラーと離婚したバートンはその6カ月後に「いつ爆発するかもしれないのに、二本のダイナマイトをぶつけ合わせ続けるなんて出来ないよ」と語っている[33]。しかしながら二人は離婚後一年もしないうちに再婚し、そして一年も経たずに離婚した。
テイラーと結婚していたときと同様に、テイラーはウォーナーとの結婚生活においても自身が、ヴァージニア州から選出された共和党上院議員の妻という立場でしか見られていないと感じていた[51][52][53]ワシントンD.C.での暮らしに馴染めずに落ち込んでいったテイラーは[54]、病院ベティ・フォード・センター (en:Betty Ford Center) に入院している[19]
ジョン・ウォーナーと結婚していたときとは別の時期に、ベティ・フォード・センターに入院中のテイラーはこの病院でフォーテンスキーと出会い、マイケル・ジャクソンの邸宅であるネバーランド・ランチ (en:Neverland Ranch) で結婚した[19]

テイラーは結婚以外にも多彩な恋愛遍歴を持っている。最初の夫であるヒルトンと結婚する前に、ハイズマン賞の受賞経験があるアメリカン・フットボール選手グレン・デイヴィス (en:Glenn Davis) と婚約していた。デイヴィスは婚約が解消されるまで、テイラーの母サラが二人の婚約をテイラーの宣伝活動に利用していたことを知らなかった[21]。また、デイヴィスのほかにも、駐ブラジル大使ウィリアム・D・パウリー (en:William D. Pawley) の子息と婚約していたこともある[22]。億万長者で映画プロデューサーのハワード・ヒューズは、テイラーの両親にテイラーとの結婚を応援してくれるのであれば、テイラーのための映画スタジオ創設に資金協力することを申し出た。母サラはこの申し出に応じたが、テイラーがヒューズとの結婚を拒否している[21]。テイラーとヒルトンとの離婚後に、ヒューズは突然ヘリコプターで姿を見せテイラーにダイアモンドを贈って結婚を申し込んだこともあった[55]。ほかにもテイラーは、人気歌手フランク・シナトラ、外交官ヘンリー・キッシンジャー、億万長者マルコム・フォーブスと浮名を流したことがある[33]。2007年には、当時付き合っていたジェイソン・ウィンタースと9回目の結婚をするのではないかという噂を否定したが[56]、ウィンタースのことを「今まで出会ったなかで最高の男性の一人」と語っている[57]

テイラーにはマイケル・ワイルディングとの間に、マイケル・ハワード(1953年1月6日生)とクリストファー・エドワード(1955年2月27日生)の二人の息子がいる。また、マイケル・トッドとの間には娘エリザベス・フランシス(1957年8月6日)がいる。エディ・フィッシャーと結婚していたときに、マリア(1961年8月1日)というドイツ出身の当時2歳の女児を養女にしようとしたことがあるが、1964年にフィッシャーと離婚したために、この養子縁組の話はなくなった[58]。後にリチャード・バートンが、エリザベス・フランシスとマリアを養女にしている[59]

1971年にテイラーは39歳で祖母となった。テイラーが死去する2011年時点で、マリアも含めて4人の子供たちは存命で、テイラーの孫が10人、曾孫が4人いた[60]

宗教観と自意識

1959年に当時27歳のテイラーは、9カ月にわたる熟慮の末にクリスチャン・サイエンスからユダヤ教に改宗し[61]、エリシェバ・ラケル (Elisheba Rachel) というヘブライ名を名乗った。テイラーはこの改宗について、長い間考えてきたことであってそれまでの結婚生活とは無関係だと主張している。マイケル・トッドと死別したテイラーは「形だけの宗教に絶望を感じた」と語り、カトリックもクリスチャン・サイエンスも多くの「生と死に関する疑問」に答えてくれることはなかったと説明している[5](p175)

伝記作家ランディ・タラボレッリは、9カ月にわたってユダヤ教の根本原理を研究したテイラーが「真実への直接的な回答があると感じた」と指摘している[5](p176)。ユダヤ教の会堂であるシナゴーグへとテイラーが行くことはほとんどなかったが、「私は神がつねにそばにいてくださると考えている一人です。礼拝のために建てられた場所に足を運ぶ必要性を感じません」と語っている[5](p176)。テイラーのユダヤ教への改宗祭式のときには両親が立会い、テイラーの改宗を全面的に支持した。この祭式でテイラーは『旧約聖書』の『ルツ記』からの一節を読み上げている。

……わたしはあなたの行かれる所へ行き、またあなたの宿られる所に宿ります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神です『ルツ記』(1:16)[5](p176)

テイラーはユダヤ教の神秘主義思想であるカバラにも傾倒し、ロサンゼルスのカバラ・センター (en:Kabbalah Centre) に参加している[62]。また、テイラーは55歳のときに応じたインタビューで、役に合わせて外見を変えることを強いられるなど、子役時代に撮影現場で要求されたさまざまな事柄に押しつぶされないために、どのように心の中での折り合いをつけていたのかを語っている。

神は自己に反する行動や、一時的な流行を追うことを戒めています。しかしながら私はそのようなことをして来ました。当時の私は外見を変えたりするのは、馬鹿げていると思っていました。私のもじゃもじゃの眉毛や黒髪も、何らかの理由で神が与えてくださったものだという父の言葉に同意していたのです。おそらく私は自意識が強かったのでしょう。そんな子供でした。うまく説明できませんが自意識を持つことは当然だと思っていました。肉体とは全く無関係な内なる心があることにはっきりと気付いていたのですから[17]

さらにテイラーは、大人になってから自身の「心の在りよう」を理解し始めたと語っている。

ある程度の年齢になると心が外見に表れます。神は一定の法則でよく似た外見を複数の人々に分け与えています。しかしながら40歳くらいになると、それぞれの内面が外見を象っていくようになるのです。……人生には様々なことが起こります。外科医も手術用メスも、どうすることもできません。生まれながらの性格にもよりますし、それまでの生き方あるいは神のみ業が今のあなたの外見を作ったといえましょう[17]

女優としての才能と結婚観

1964年に、当時32歳だったテイラーは自身の女優キャリアについて「映画に出演している有名な「エリザベス・テイラー」は、私にとって何ら深い意味はありません。単にうわべだけの商品だと言えます」と語っている。さらに自身の演技力に関しても「技能といえるような大したものではありません。私が生まれ持った素養であり、集中力という能力に恵まれていただけです」としている。このとき以前にテイラーが演じた役柄は美しさと性的魅力を表に出したものだったが、それは実際の自分よりもはるかに誇張された似ても似つかないものであり「私はセックス・クイーンでもセックス・シンボルでもありません。そんなものになりたいと思ったことはないのです。私の夫がそのように思ってくれれば、それはとても嬉しいことでしょうけれども」と不満を漏らしている。また、テイラーは男性の性的魅力についても、同じようなことを語っている[20]

私が思う男性の性的魅力は、自分では意識していないであろう天与の暖かい心持ちでしょう。リチャード(・バートン)はとても性的魅力にあふれた男性です。誰でも一目でわかる、ある種の野生的な本質を持っています。それは髪をとかす仕草や、着ている服によるものではありません。彼は自身が持つ肉体的な魅力を意識してはいないけれど、すべてがその言動に表れているのです[20]

テイラーはこのような魅力を持つバートンを5番目の夫に選んだ。飛行機事故で死別した三番目の夫であるマイケル・トッドを除いて、テイラーは自身の「幼少期に受けた厳格なしつけや信条」に照らし合わせて、若かりしころの恋愛相手や結婚相手を振り返っている。

私は本当の恋愛というものを分かっていなかったのでしょう。昔の私は好きだと思った相手と結婚することが当たり前だと思っていたのです。恋心だけに終わらせるのではなく、結婚しなければいけないと信じていました。……私が最初に離婚したのは18歳のときで、結婚生活はわずか9カ月しか続きませんでした。あまりに世慣れていなかった私はほんとうに打ちのめされました。これが私の最初の離婚となったのです[20]

テイラーはリチャード・バートンが自身の子供たちとの間に築いた強い絆を信じ、バートンとの結婚を望んだ。バートンは「絶対的な家長であり、家族はみんな彼を尊敬していました」。後にテイラーは、バートンと初めて出会ったときからどのように恋愛関係に発展していったのかを回想している。

私が初めてリチャードと出会ったのは雑然とした『クレオパトラ』の撮影現場で、彼は監督のジョーゼフ・L・マンキーウィッツをはじめ、その場の皆と挨拶を交わしていました。それからそっと私のそばへ寄ってきて「とても美しい女性だと言われたことはあるかい」と言ったのです。私は心の中で「ああ神様」と言いました。すばらしい恋人、すばらしい才人、知性溢れるウェールズ人が目の前に現れたのです。信じられないくらいに価値観を共有できる男性でした。このことを控え室にいる女性陣に告げて回りたいと思ったくらいです[20]

宝飾品と 小売店

1981年に撮影されたテイラー。

テイラーは宝石を愛し、その死後に残された宝石コレクションの価値はおよそ1億5千万ドルと鑑定された[49][63]。コレクションにはリチャード・バートンがテイラーに贈った33.19カラットのクルップ・ダイアモンド (en:Krupp Diamond) や、69.42カラットのテイラー=バートン・ダイアモンドなど、非常に有名な宝石が含まれている。テイラーはその他にも、イングランド女王メアリー1世が所有していたことで知られる、ラ・ペレグリーナと呼ばれる50カラットの真珠も所有していた。この真珠は、バートンがサザビーのオークションで3万7千ドルで落札し、1969年のバレンタインデーにテイラーに贈ったものである[64][65]

映画スターだった時期のテイラーはファッション・アイコンだった。テイラーの衣服の購入には、MGMの衣装デザイナーだったイデス・ヘッドヘレン・ローズが、テイラーの顔、胸、腰に合うデザインのものを選ぶように助言していた。また、テイラーはファッション・デザイナーのヴァレンチノ・ガラヴァーニ (en:Valentino Garavani) や、ロイ・ハルストン (en:Halston) の知名度を上げることにも貢献しており[66]、1980年代に製薬会社のシェリング・プラウが開発したスミレ色のカラーコンタクトレンズは、テイラーの瞳をイメージしたものだった[67]

社会活動

HIV/エイズ

生涯を通じてテイラーは一貫して人道活動に献身し、豊富な資金援助も行っていた。HIVとエイズ関連の基金を創設し、総額2億7千万ドル以上の収益をあげたチャリティを主催している。テイラーはエイズに関する知見がほとんどなかった時代から、積極的に支援活動を行った最初期の著名人の一人であり、1984年にエイズ基金を創設してエイズプロジェクト・ロサンゼルス (en:AIDS Project Los Angeles) に貢献した[33][68]

1985年にテイラーは、マイケル・ゴットリーブ (en:Michael S. Gottlieb) とマティルド・クリム (en:Mathilde Krim) とともに、米国エイズ研究財団 (en:amfAR, The Foundation for AIDS Research) の共同創設メンバーとなっている[68]。この1985年は、テイラーの長年の旧友で共演経験もあるロック・ハドソンがエイズを発症したことが公表され、そして死去した年でもあった。テイラーは1993年にエリザベス・テイラー・エイズ基金を創設し、HIVキャリアやエイズ患者への緊急支援体制を整えた[68]。2006年には診察台とX線撮影装置を備えた、全長11メートルの介護車両を購入し、エリザベス・テイラー・エイズ基金とメイシーズの名前で、ニューオーリンズに寄付した[69][70]。この2006年は、前年にニューオーリンズを含むアメリカ南東部に多大な被害をもたらしたハリケーン・カトリーナの爪あとが残っている時期であり、テイラーはニューオーリンズの非営利エイズ対策委員会にも50万ドルを寄付している。この寄付はテイラーの74歳の誕生日にあわせて行われ、ニューオーリンズ周辺のエイズ対策委員会が今までどおりに対エイズ患者救済活動を続けられるようにという願いがこめられたものだった[70][71]

テイラーは対HIV/エイズ患者に対する人道活動で、1992年にアカデミー賞のジーン・ハーショルト友愛賞を受賞した。テイラーが死去したときに、これらの人道活動について前アメリカ大統領のビル・クリントンが「エリザベスの遺志は、いつまでも世界中の人々の心に素晴らしいものとして生き続けるだろう。彼女はそれだけの業績を残し、たゆむことのない努力を続けたのだ」とコメントしている[72]

ユダヤ教徒として

ユダヤ教に改宗した後のテイラーは、その生涯を通じてユダヤ教義の普及に尽力した[73]。1959年には、テイラーが多額のイスラエル国債 (en:State of Israel Bonds) を購入したことから、アラブ諸国でテイラーの映画がボイコットされている[74]。また1962年には、『クレオパトラ』の最終ロケ地となったエジプトへの入国を拒否された。このときエジプト政府は、テイラーがユダヤ教信者で「イスラエルの大義を支持している」ためにエジプトへの入国を禁じたという声明を出している。しかしながら『クレオパトラ』はエジプトの大衆に受け入れられ、テイラーのエジプト入国禁止措置も1964年に解除された[75]

1974年に、テイラーとバートンは二度目となる結婚式をイスラエルで挙げることを望んだが、バートンがユダヤ教徒ではなかったためにこの希望は叶えられなかった[75]。テイラーはユダヤ民族基金 (en:Jewish National Fund) のようなユダヤ教組織に資金援助をしていた。イスラエルへの移住を希望するソ連のユダヤ教徒たちを支持し、1967年に勃発した第三次中東戦争でイスラエルを激しく非難し、シオニズムが人種差別主義だとする1975年の国連総会決議3379号 (en:United Nations General Assembly Resolution 3379) に賛成したソ連に対する抗議として、ソ連訪問を取りやめたこともあった。

1976年のエンテベ空港ハイジャック事件では、人質となったユダヤ人100人以上の身代わりになることを申し入れたこともある[74]。そしてイスラエル軍によって人質のほとんどが無事に解放された後の1977年1月に、テイラーはカーク・ダグラスともに『エンテベの勝利』というテレビ特別番組に出演した。この番組でテイラーは「この事件を見過ごすことはできませんでした。私はイスラエルに強い親近感を抱いており、エンテベの救出作戦が成功することを心のそこから堅く信じていました」と語っている[76]

病と死

テイラーが死去した際に献花されたハリウッド・ウォーク・オブ・フェームに設置されたテイラーのスター・プレート。

テイラーはその生涯の多くの時期を健康問題に悩まされていた[77]。ヒルトンとの離婚を初めとして、私生活で問題が起きたときにはつねに深刻な病苦に襲われる暮らしを送っていた[21]。テイラーは70回以上の入院経験があり[33]、20回以上の大手術を受けている[18]。テイラーが危篤だという間違った報道が幾度となく新聞の一面に掲載されたが[19]、テイラー自身は危篤状態に陥ったのは4度だけだったと主張している[33]

身長5フィート4インチ(約162センチ)のテイラーは1980年代に大幅な体重の増減を繰り返し、軽いときには119ポンド(約54キログラム)から重いときには180ポンド(約82キロ)に及んでいる[78][54]。50歳代半ばまで喫煙しており[78]、1975年10月にX線検査を受けたときには肺に影が見つかって肺がんではないかと診断されたが、のちに病巣ではなかったことが判明している[79]。テイラーは五度にわたって背中を痛めたことがあり、人工股関節置換手術 (en:hip replacement) と子宮摘出手術 (en:hysterectomy) を受け、赤痢や静脈炎 (en:Phlebitis)、食道穿孔の罹病経験もあるほか、1997年には良性だが脳腫瘍摘出手術を受けている[33][18]肺炎の発作で生死をさまよったことが二度あり、1961年の発作時には緊急の気管切開で一命を取りとめた。1983年には、35年間にわたって睡眠薬鎮痛剤を常用して、中毒症状となっていることを告白している[18]。1983年12月から1984年1月にかけての6週間と[80]、1988年秋から1989年初頭にかけて、、アルコール依存症と処方薬乱用の治療のためにベティ・フォード・センターに入院したこともあった[81]

2006年5月30日に、テイラーは自身の重病説を否定するためにテレビの生番組『ラリー・キング・ライブ』に出演し、アルツハイマー型認知症に苦しんだ瀕死の状態にあるという噂を一蹴した[82]。しかしながら最晩年のテイラーは隠遁生活を好み、病気や個人的な理由で約束を違えることも多かった。車椅子を使用するようになり、その理由を尋ねられたテイラーは骨粗鬆症であることと、生まれながらに脊椎側湾症を患っていることを理由に挙げている[83]

テイラーの外見上の特徴でもある二重まつげは一種の突然変異によるものだが、同じような突然変異がその後の心臓疾患にも影響を与えた可能性がある[15]。テイラーは2004年11月に鬱血性心不全と診断され、身体全体、とくに足首と脚に十分な血液を循環させるには心臓が弱まりすぎていると告げられた。2009年には心臓外科手術を受け、弱っていた心臓弁を交換している[84]。2011年2月に新たな心疾患の兆候が現れ、ロサンゼルスのシダーズ=シナイ医療センター (en:Cedars-Sinai Medical Center) に入院したが[85]、4人の子供たちに看取られながら2011年3月23日に79歳で病院内で息を引き取った[60][84]

テイラーは死去した翌日に、ラビであるジェリー・カトラーが主催するユダヤ教式葬礼 (en:bereavement in Judaism) のもと、カリフォルニア州グレンデールのフォレスト・ローン・メモリアル・パークに埋葬された。テイラーの遺体は壮大な霊廟に収められているが、一般人の立ち入りは禁止されている[86]。テイラーの葬式は予定時間よりも15分遅れて開始された。これはテイラーの要望によるもので、「彼女(テイラー)は自身の葬式でさえも遅れることを望んだのです」と代理人がマスコミに語っている[87]

評価

ファイル:Elizabeth Taylor portrait.jpg
1960年代に撮影されたテイラー。

テイラーは「最高の映画スター」と呼ばれている[50](p2)。MGMの映画に出演して大衆から注目されたテイラーは、すぐに12歳で子役スターとなり、その後も成功した映画に出演し続けて、その作品の多くは現在でも「傑作」だと考えられている。映画界で名声を得てハリウッドの象徴となったテイラーは、ハリウッドの名声を高めることに貢献し「スターに昇り詰めた典型例」といわれるようになった[50](p3)

女性社会学者のカミール・パーリアはテイラーを「映画史上最高の女優」と評している。さらにパーリアは、テイラーが自身の出演作に次のような効果をもたらしたとしている。

彼女(テイラー)の表情とカメラの間には、刺激的で官能的な、帯電して震えているかのような空気があった。それは超感覚的で異教じみた出来事だった[50](p4)

テイラーは1960年代の性革命にも大きな役割を果たした。『PLAYBOY』にほぼ全裸のグラビアを掲載した最初の有名人の一人であり、映画で脱衣シーンを見せた最初の映画女優の一人でもあった[50](p5)。1951年の映画『陽のあたる場所』に出演したときのテイラーは17歳だったが、その成熟振りはハリウッドのコラムニストであるヘッダ・ホッパーに衝撃を与え、ホッパーはテイラーの早熟な官能性について一文をものしたほどである。映画史家のアンドリュー・サリスは、テイラーがモンゴメリー・クリフトと演じたラブシーンについて「チョコレートサンデーを貪っているかのような、あまりに激しい性愛演技に驚愕した」と語っている[50](p6)

映画を離れたテイラーの素顔は「らしくないスター」だったとテイラーの伝記作家ウィリアム・マンが指摘している。著述家グロリア・スタイネムも「うぬぼれを持たない映画の女王。自分の言動を律する達人で、共演するほかの女優と揉め事を起こすことはない」としている[50](p7)。1966年の映画でテイラーが主演した『ヴァージニア・ウルフなんかこわくない』の監督マイク・ニコルズは、今まで一緒に仕事をした俳優のなかでテイラーが「もっとも庶民的な心を持っていた」と語ったことがある。テイラーは撮影現場の電気技師や単なるスタッフに対しても「チャリティ会場でロスチャイルド家の一員と出会ったときと同様の接し方をしていた」[50](p6)。映画監督ジョージ・キューカーは、テイラーが「まれにみる美徳である飾らない優しい心」の持ち主だったと語っている[50](p7)

テイラーと二度結婚し、11本の作品で共演した俳優リチャード・バートンは、テイラーの女優としての才能に大きな敬意を払っている。バートンは「彼女(テイラー)は今まででもっとも過小評価されている映画女優の一人だと思うけれど、私は彼女が史上稀に見るすばらしい人だということを知っている。誰も彼女の足元にも及ばないよ」と語っている[88]

受賞と栄勲

初のアカデミー主演女優賞を受賞した『バターフィールド8』のポスター。

テイラーは1960年の『バターフィールド8』と1966年の『ヴァージニア・ウルフなんかこわくない』でアカデミー主演女優賞を2度受賞している。1992年にはエイズ撲滅に対する活動でアカデミー賞ジーン・ハーショルト友愛賞も受賞した。また、1997年には全米映画俳優組合生涯功労賞も受賞している[89]。テイラーはこの授賞式に出席することができなかったため、俳優グレゴリー・ペックがテイラーからのメッセージを代読した。このメッセージには、エイズ流行の根絶活動がテイラーの人生の重要な部分を占めることになったことと、エリザベス・テイラー・エイズ基金に対する全米映画俳優組合の貢献を感謝する言葉が綴られていた[89]

テイラーは1987年にフランスのレジオンドヌール勲章を授与され[18]、2000年にイギリスの大英帝国勲章のデイム・コマンダー (DBE) を受章した[90]。2001年には人道活動、とくにエイズに関する研究、国際的な関心の喚起、蔓延に関する取り組みなどに対して200万ドル以上の資金を集めることに貢献したとして、アメリカの大統領メダル (en:Presidential Citizens Medal) が授与された[89]。また、2007年にはカリフォルニア州が制定したカリフォルニア州殿堂博物館 (en:California Hall of Fame) の一員に選ばれている[91]

1994年には、カリフォルニア州のパームスプリングスの ウォーク・オブ・スターズ (Walk of Stars) にテイラーのスタープレートが設置されている[92]

出演作品

テイラーは1942年から2003年までに数多くの映像作品に出演している[93]。また、下記に挙げた作品のほかにもドキュメンタリーやインタビューで映像として残っている作品もある。

公開年 邦題
原題
役名 備考
1942年 There's One Born Every Minute グロリア・トゥワイン
1943年 『名犬ラッシー 家路』
Lassie Come Home
プリシラ
1944年 ジェーン・エア』
Jane Eyre
ヘレン・バーンズ クレジットなし
1944年 ドーヴァーの白い崖
The White Cliffs of Dover
ベッツィ クレジットなし
1944年 『緑園の天使』
National Velvet
ヴェルベット・ブラウン
1946年 『ラッシーの勇気』
Courage of Lassie
キャサリン・エリノア・マーリック
1947年 『ライフ・ウィズ・ファーザー』
Life with Father
メアリー・スキナー
1947年 『シンシア』
Cynthia
シンシア・ビショップ
1948年 『スイングの少女』
A Date with Judy
キャロル・プリングル
1948年 奥様武勇伝
Julia Misbehaves
スーザン・パケット
1949年 若草物語
Little Women
エイミー・マーチ
1949年 Conspirator メリンダ・グレイトン
1950年 The Big Hangover メアリー・ベルニー
1950年 花嫁の父
Father of the Bride
ケイ・バンクス
1951年 『可愛い配当』
Father's Little Dividend
ケイ・ダンスタン
1951年 陽のあたる場所
A Place in the Sun
アンジェラ・ヴィッカーズ
1951年 クォ・ヴァディス
Quo Vadis
アリーナ内の囚人 クレジットなし
1952年 Love Is Better Than Ever アナスタシア・"ステイシー"・マカボイ
1952年 黒騎士
Ivanhoe
レベッカ
1953年 The Girl Who Had Everything ジーン・ラティマー
1954年 『ラプソディー』
Rhapsody
ルイーズ・デュラン
1954年 巨象の道
Elephant Walk
ルース・ウィリー
1954年 『騎士ブランメル』
Beau Brummell
レディ・パトリシア・ブランメル
1954年 雨の朝巴里に死す
The Last Time I Saw Paris
ヘレン・エルズワース/ウィリス
1956年 ジャイアンツ
Giant
レズリー・リントン・ベネディクト
1957年 愛情の花咲く樹
Raintree County
スザンナ・ドレイク ローレル賞 (en:Laurel Award) ドラマ部門女優賞
アカデミー賞 主演女優賞ノミネート
1958年 熱いトタン屋根の猫
Cat on a Hot Tin Roof
マギー・ザ・キャット ローレル賞ドラマ部門女優賞
アカデミー主演女優賞ノミネート
英国アカデミー賞 主演女優賞ノミネート
1959年 去年の夏 突然に
Suddenly, Last Summer
キャサリン・ホリー バンビ賞 国際女優賞
ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞 最優秀金牌賞
ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門)
ローレル賞 ドラマ部門女優賞
アカデミー賞 主演女優賞ノミネート
1960年 『スペインの休日』
Scent of Mystery
レアル・サリー クレジットなし
1960年 バターフィールド8
BUtterfield 8
グロリア・ワンドラス アカデミー賞 主演女優賞
ローレル賞 ドラマ部門女優賞第2位
ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門) ノミネート
バンビ賞 国際女優賞ノミネート
1963年 クレオパトラ
Cleopatra
クレオパトラ
1963年 予期せぬ出来事
The V.I.P.s
フランシス・アンドロス
1965年 いそしぎ
The Sandpiper
ローラ・レイノルズ
1966年 ヴァージニア・ウルフなんかこわくない
Who's Afraid of Virginia Woolf?
マーサ アカデミー賞 主演女優賞
英国アカデミー賞 主演女優賞
バンビ賞 国際女優賞
カンザスシティ映画批評家協会賞 主演女優賞
ローレル賞 ドラマ部門女優賞
ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 女優賞
ニューヨーク映画批評家協会賞 主演女優賞
ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門) ノミネート
1967年 じゃじゃ馬ならし
The Taming of the Shrew|
カタリーナ テイラーは製作にも携わっているがクレジットはされていない
ダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞 最優秀外国女優賞
英国アカデミー賞 主演女優賞ノミネート
1967年 『ファウスト悪のたのしみ』
Doctor Faustus
トロイアのヘレネー
1967年 禁じられた情事の森
Reflections in a Golden Eye
レオノーラ・ペンダートン
1967年 『危険な旅路』
The Comedians
マーサ・ピネダ
1967年 The Comedians in Africa 本人役 ドキュメンタリー
1968年 夕なぎ
Boom!
フローラ・"シッシー"・ゴフォース
1968年 『秘密の儀式』
Secret Ceremony
レノーラ
1969年 1000日のアン
Anne of the Thousand Days
宮廷婦人の一人 クレジットなし
1970年 『この愛にすべてを』
The Only Game in Town
フラン・ウォーカー
1970年 Here's Lucy 本人役 テレビシリーズ、一話のみ
1972年 『ある愛のすべて』
X,Y, and Zee
ジー・ブレイクリー
1972年 Under Milk Wood ロージー・プロバート
1972年 Hammersmith Is Out ジミー・ジーン・ジャクソン ベルリン国際映画祭 銀熊女優賞[94]
1973年 『離婚・男の場合 離婚・女の場合』
Divorce His, Divorce Hers
ジェーン・レイノルズ テレビ映画
1973年 『夜をみつめて』
Night Watch
エレン・ウィーラー
1973年 別離
Ash Wednesday
バーバラ・ソーヤー ゴールデン・グローブ賞 主演女優賞ノミネート
1974年 『サイコティック』
Identikit
リセ
1974年 ザッツ・エンターテインメント
That's Entertainment!
本人役
1976年 『青い鳥』
The Blue Bird
光の精/母親/魔女/母性愛
1976年 『エンテベの勝利』
Victory at Entebbe
エドラ・ヴィロンフスキー テレビ映画
1977年 『リトル・ナイト・ミュージック』
A Little Night Music
デジレ・アルムフェルト
1978年 ホールマーク・ホール・オブ・フェイム
Hallmark Hall of Fame
エミリー・ルーミス シーズン28のエピソード『Return Engagement
1979年 『大統領の堕ちた日』
Winter Kills
ローラ・コマンテ クレジットなし
1980年 クリスタル殺人事件
The Mirror Crack'd
マリーナ・ラッド
1981年 ジェネラル・ホスピタル
General Hospital
ヘレナ・カッサディーヌ #1 テレビシリーズ
1983年 Between Friends デボラ・シャピロ テレビ映画
1984年 『ホテル』
Hotel
キャサリン・コール テレビシリーズ、一話のみ
1984年 オール・マイ・チルドレン
All My Children
大邸宅の管理委員 テレビシリーズ
1985年 Malice in Wonderland ルーエラ・パーソンズ テレビ映画
1985年 南北戦争物語 愛と自由への大地
North and South
マダム・コンティ テレビミニシリーズ
1987年 『ポーカー・アリス』
Poker Alice
ポーカー・アリス・モフィット テレビシリーズ
1988年 『トスカニーニ 愛と情熱の日々』
Young Toscanini
ナディナ・ブリチョッフ
1989年 『青春の甘き小鳥』
Sweet Bird of Youth
アレクサンドラ・デル・ラーゴ テレビシリーズ
1992年 シンプソンズ
The Simpsons
マギー・シンプソン テレビアニメ、声の出演
1992年 キャプテン・プラネット
Captain Planet and the Planeteers
ミセズ・アンドリュース テレビ・アニメ、声の出演
1993年 『シンプソンズ』
The Simpsons
本人役 テレビアニメ、声の出演
1994年 フリントストーン/モダン石器時代
The Flintstones
パール・スラフープル
1996年 TVキャスター マーフィー・ブラウン
Murphy Brown
本人役 テレビシリーズ、一話のみ
1996年 The Nanny 本人役 テレビシリーズ、一話のみ
2000年 God, the Devil and Bob サラ テレビアニメ、声の出演
2001年 『だって女優ですもの!』
These Old Broads
ベリル・メイソン テレビ映画

脚注

  1. ^ “エリザベス・テイラー、79歳で死去” (日本語). MTVJAPAN. (2011年3月24日). http://www.mtvjapan.com/news/cinema/18924 2011年3月24日閲覧。 
  2. ^ "Watch out, boys ...  Liz Taylor's coming home". Associated Newspapers Ltd. Daily Mail Online. May 17, 2010. Retrieved March 24, 2011.
  3. ^ "Elizabeth Taylor – the Hampstead girl who seduced the world" London Evening Standard. March 24, 2011. Retrieved March 24, 2011.
  4. ^ "Hampstead Garden Suburb born Dame Elizabeth Taylor dies aged 79". Times of London. March 24, 2011. Retrieved March 24, 2011.
  5. ^ a b c d e f g Taraborrelli, J. Randy (2006). Elizabeth. Grand Central Publishing. ISBN 978-0-446-53254-9. http://books.google.com/books?id=ScE8F_pMuAAC March 24, 2011閲覧。 
  6. ^ a b c d e f g h i j k l m Walker, Alexander (1990). Elizabeth: the life of Elizabeth Taylor. London: G. Weidenfeld. ISBN 978-0-8021-1335-1 
  7. ^ Boyce, Richard (1967年4月14日). “Liz Taylor Renounces U.S. Citizenship”. http://news.google.com/newspapers?id=s2ocAAAAIBAJ&sjid=YU8EAAAAIBAJ&pg=7364,5810172 2012年7月3日閲覧。 
  8. ^ “Liz Taylor Applies To Be U.S. Citizen”. Toledo Blade. (1978年2月19日). http://news.google.com/newspapers?id=awxPAAAAIBAJ&sjid=cgIEAAAAIBAJ&pg=6365,5024920 2012年7月3日閲覧。 
  9. ^ Wilson, Earl (1977年6月15日). “Will Liz Taylor be our First Lady?”. http://news.google.com/newspapers?id=HxNdAAAAIBAJ&sjid=dloNAAAAIBAJ&pg=5264,3479319 2012年7月3日閲覧。 
  10. ^ S.S. Manhattan, April 27, 1939, sheet 25. Ancestry.com. New York Passenger Lists, 1820–1957 [database on-line]. Provo, Utah, US: Ancestry.com Operations Inc, 2006.
  11. ^ S.S. President Roosevelt, November 1, 1939, sheet 209. New York Passenger Lists, 1820–1957 [database on-line]. Provo, Utah, U.S.: Ancestry.com Operations Inc, 2006.
  12. ^ Bayard, Louis (September 3, 2006). “Violet Eyes To Die For”. Washington Post. http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2006/08/31/AR2006083101166.html April 1, 2011閲覧。 
  13. ^ Heymann, David C. Liz: An Intimate Biography of Elizabeth Taylor, Birch Lane Press (1995), p. 33
  14. ^ McCarthy, Todd (March 23, 2011). “THR Chief Film Critic Todd McCarthy Remembers Elizabeth Taylor”. The Hollywood Reporter. http://www.hollywoodreporter.com/news/thr-chief-film-critic-todd-170552 March 27, 2011閲覧。 
  15. ^ a b c Palmer, Roxanne (March 25, 2005). “Elizabeth Taylor: Beautiful Mutant”. Slate. March 26, 2011閲覧。
  16. ^ Harper's Bazaar, Nov. 1979
  17. ^ a b c d "Elizabeth Taylor: The Lost Interview", Rolling Stone magazine, April 14, 2011 (never published interview from 1987)
  18. ^ a b c d e f g h Coyle, Jake (March 24, 2011). “Quintessential star Elizabeth Taylor dies at 79”. Associated Press. http://www.salon.com/wires/allwires/2011/03/24/D9M5H14G0_us_obit_taylor/ March 30, 2011閲覧。 
  19. ^ a b c d e f g h i j k l Gussow, Mel (March 23, 2011). “Elizabeth Taylor, 1932–2011: A Lustrous Pinnacle of Hollywood Glamour”. The New York Times. http://www.nytimes.com/2011/03/24/movies/elizabeth-taylor-obituary.html March 23, 2011閲覧。 
  20. ^ a b c d e Meryman, Richard (1964年12月18日). “'I refuse to cure my public image'”. Life. http://books.google.com/books?id=kFEEAAAAMBAJ&lpg=PP1&ots=xZJGAWxygn&pg=PA74#v=snippet&f=false August 6, 2012閲覧。 
  21. ^ a b c d e f g Taraborrelli, J. Randy (March 29, 2011). “The brutal mother who forced Liz Taylor to cry on cue ... and drove her into the arms of a wife-beater”. Daily Mail (London). http://www.dailymail.co.uk/femail/article-1370903/Elizabeth-Taylors-brutal-mother-Sara-forced-cue.html April 21, 2011閲覧。 
  22. ^ a b “Elizabeth Taylor: Star Rising”. TIME. (August 22, 1949). http://www.time.com/time/printout/0,8816,800624,00.html March 23, 2011閲覧。 
  23. ^ Review: The Big Hangover (1950)”. Boozemovies.com (5 August 2007). 5 October 2012閲覧。
  24. ^ a b c d Elizabeth Taylor Profile”. Turner Classic Movies. 5 October 2012閲覧。
  25. ^ Heymann, p.106
  26. ^ a b c Kelley, Kitty. Elizabeth Taylor, the Last Star, Simon and Schuster (1981) pp. 34–41
  27. ^ The Girl Who Had Everything”. Turner Classic Movies. 5 October 2012閲覧。
  28. ^ Heymann, p. 128
  29. ^ Parish, p. 329
  30. ^ Parish, p. 330
  31. ^ a b Parish, p. 331
  32. ^ Parish, p. 333
  33. ^ a b c d e f g h i j k l m Woo, Elaine (March 24, 2011). “Elizabeth Taylor dies at 79; legendary actress”. Los Angeles Times. http://www.latimes.com/news/obituaries/la-me-elizabeth-taylorlong-20110324,0,3017190,full.story April 1, 2011閲覧。 
  34. ^ Parrish, pp. 335–336
  35. ^ Parish, p. 344
  36. ^ Kashner, Sam; Schoenberger, Nancy (July 2010). “A Love Too Big To Last”. Vanity Fair. http://www.vanityfair.com/hollywood/features/2010/07/elizabeth-taylor-201007?currentPage=all March 24, 2011閲覧。. 
  37. ^ マーロン・ブランドはモンゴメリー・クリフトの代役だった。クリフトは映画撮影開始前に死去している。Parish, p. 343
  38. ^ Parish, p. 350
  39. ^ a b Elizabeth Taylor Biography”. The Biography Channel. 5 October 2012閲覧。
  40. ^ “Elizabeth Taylor to play Flintstone mother-in-law”. Deseretnews.com. (16 May 1993). http://www.deseretnews.com/article/290489/ELIZABETH-TAYLOR-TO-PLAY-FLINTSTONE-MOTHER-IN-LAW.html?pg=all 5 October 2012閲覧。 
  41. ^ “All My Children's Superstar Alumni”. People. http://www.people.com/people/gallery/0,,20485076_20942514,00.html 6 October 2012閲覧。 
  42. ^ Snierson, Dan (24 March 2011). “Elizabeth Taylor: 'Simpsons' exec producer Al Jean remembers the film legend's one-word turn as baby Maggie”. Entertainment Weekly. http://insidetv.ew.com/2011/03/24/elizabeth-taylor-simpsons-al-jean/ 6 October 2012閲覧。 
  43. ^ Brenner, Marie (9 May 1983). “The Liz and Dick Show”. New York Magazine. http://nymag.com/arts/theater/features/50176/ 6 October 2012閲覧。 
  44. ^ “Private Lives”. http://www.dameelizabethtaylor.com/private_lives.html 6 October 2012閲覧。 
  45. ^ David Badash. “Elizabeth Taylor, Gay Icon, HIV/AIDS Activist, Dies At 79”. The New Civil Rights Movement. March 24, 2011閲覧。
  46. ^ Elizabeth Taylor – Dame Liz Slams Bush Over Saddam Ultimatum – Contactmusic News”. Contactmusic.com. March 24, 2011閲覧。
  47. ^ “Striking writers give Elizabeth Taylor a pass”. Associated Press. CNN. (December 2, 2007). オリジナルのDecember 3, 2007時点におけるアーカイブ。. http://web.archive.org/web/20071203112813/http://www.cnn.com/2007/SHOWBIZ/12/02/elizabeth.taylor.ap/index.html December 2, 2007閲覧。 
  48. ^ “情報BOX:M・ジャクソンさんの訃報に悲しみの声”. ロイター. (2009年6月26日). http://jp.reuters.com/article/entertainmentNews/idJPJAPAN-38739620090626 2012年9月21日閲覧。 
  49. ^ a b Frankel, Susannah (March 25, 2011). “'Fun when the sun shines'”. The Independent (UK). http://www.independent.co.uk/arts-entertainment/films/features/elizabeth-taylor-a-life-less-ordinary-2252366.html April 1, 2011閲覧。 
  50. ^ a b c d e f g h i Mann, William J. (2009). How to be a movie star: Elizabeth Taylor in Hollywood. Houghton Mifflin Harcourt. ISBN 0-547-13464-9. http://books.google.com/books?id=-8Lh_2ZP-qoC 
  51. ^ “Elizabeth Taylor at Republican Women's Club, 1978”. Richmond Times-Dispatch. (March 23, 2011). http://www2.timesdispatch.com/news/2011/mar/23/elizabeth-taylor-at-republican-womens-club-im-93558/ March 26, 2011閲覧。 
  52. ^ Rosenfeld, Megan (October 23, 1978). “Miller, Warner meet in Lynchburg in bid for fundamentalist vote”. The Washington Post. http://www.washingtonpost.com/wp-dyn/content/article/2007/05/15/AR2007051501221.html March 26, 2011閲覧。 
  53. ^ Klairmont, Laura (March 23, 2011). “Elizabeth Taylor was an icon in Washington”. CNN. http://politicalticker.blogs.cnn.com/2011/03/23/elizabeth-taylor-was-an-icon-in-washington/?hpt=Sbin March 26, 2011閲覧。 
  54. ^ a b Tanabe, Karin (March 24, 2011). “ELIZABETH TAYLOR'S WASHINGTON LIFE”. Politico. http://www.politico.com/click/stories/1103/elizabeth_taylors_washington_life.html April 3, 2011閲覧。 
  55. ^ Woo, Elaine (March 23, 2011). “Elizabeth Taylor's obituary: outtakes from a 12-year work in progress”. Los Angeles Times. http://latimesblogs.latimes.com/afterword/2011/03/elizabeth-taylors-obit-outtakes-from-a-12-year-work-in-progress.html April 1, 2011閲覧。 
  56. ^ Taylor 'not planning ninth wedding'”. Ireland On-Line (June 21, 2010). March 24, 2011閲覧。
  57. ^ Liz Smith (September 12, 2007). “Elizabeth Taylor has a new man”. Variety. http://www.variety.com/article/VR1117971903.html April 12, 2010閲覧。 
  58. ^ Sheila Marikar (March 28, 2011). “Elizabeth Taylor's Unseen Role: Mother”. ABC News. http://abcnews.go.com/Entertainment/elizabeth-taylors-unseen-role-mother/story?id=13223481 April 20, 2011閲覧。 
  59. ^ “Q&A: An update on Elizabeth Taylor's four children”. St. Petersburg Times. (January 12, 2010). http://www.tampabay.com/news/humaninterest/qampa-an-update-on-elizabeth-taylors-four-children/1064792 April 20, 2011閲覧。 
  60. ^ a b Sheila Marikar (March 23, 2011). “Hollywood Icon Elizabeth Taylor Dies at 79”. ABC News. March 23, 2011閲覧。
  61. ^ Ivry, Benjamin (March 23, 2011). “A Jew by Choice: Elizabeth Taylor, 1932–2011”. The Forward. March 25, 2011閲覧。
  62. ^ Ravitz, Jessica (March 24, 2011). “Exploring Elizabeth Taylor's Jewish conversion”. CNN. http://religion.blogs.cnn.com/2011/03/24/making-sense-of-elizabeth-taylors-jewish-conversion March 25, 2011閲覧。 
  63. ^ “Elizabeth Taylor's fortune may approach $1B”. CBS News. (March 26, 2011). http://www.cbsnews.com/stories/2011/03/26/earlyshow/saturday/main20047484.shtml April 1, 2011閲覧。 
  64. ^ Elizabeth Taylor”. Divasthesite.com. January 3, 2010時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年11月11日閲覧。
  65. ^ NPG 4861; Queen Mary I”. Npg.org.uk. April 12, 2010閲覧。
  66. ^ Cosgrave, Bronwyn (March 24, 2011). “End Of An Era”. Vogue UK. http://www.vogue.co.uk/news/daily/110323-elizabeth-taylors-style-and-fashio.aspx March 27, 2011閲覧。 
  67. ^ Schiro, Anne-Marie (April 18, 1987). “LENSES TO CHANGE EYE COLOR”. The New York Times. http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?res=9B0DE1DA173DF93BA25757C0A961948260 March 27, 2011閲覧。 
  68. ^ a b c Elizabeth Taylor AIDS Foundation-ETAF website; "A History of Giving" timeline; Retrieved 03-24-2011.
  69. ^ “Aids unit donated by Liz Taylor”. BBC News. (February 24, 2006). http://news.bbc.co.uk/2/hi/entertainment/4746044.stm 
  70. ^ a b "Legendary Actress Elizabeth Taylor's Legacy and Generosity Lives on in New Orleans". NO/AIDS Task Force. Retrieved March 24, 2011.
  71. ^ “Elizabeth Taylor, Elton John, Rebecca Wang & Bob Geldof Battle Aids”. EzineMark.com. (April 4, 2011). http://aids.ezinemark.com/elizabeth-taylor-elton-john-rebecca-wang-bob-geldof-battle-aids-3224cd63933.html 
  72. ^ "Great legend' Elizabeth Taylor remembered". BBC News. March 24, 2011. Retrieved March 24, 2011.
  73. ^ A Jew by Choice: Elizabeth Taylor, 1932–2011
  74. ^ a b Burstein, Nathan (March 25, 2011). “Elizabeth Taylor and Israel, a lasting love”. Washington Post. http://www.washingtonpost.com/opinions/elizabeth-taylor-and-israel-a-lasting-love/2011/03/24/AFbnZZYB_story.html March 26, 2011閲覧。 
  75. ^ a b "JTA Archive", March 23, 2011
  76. ^ Photo commentary to film
  77. ^ Elizabeth Taylor Death Fears Return After Hospitalization”. Yahoo! News. March 23, 2011閲覧。[リンク切れ]
  78. ^ a b Kleiman, Dena (May 23, 1986). “Elizabeth Taylor – Diet Tips On How To Become A Size 6”. The New York Times. http://query.nytimes.com/gst/fullpage.html?sec=health&res=9A0DE1D8173AF930A15756C0A960948260 March 24, 2011閲覧。 
  79. ^ “1975: Liz Taylor and Richard Burton remarry”. BBC News. (October 10, 1980). http://news.bbc.co.uk/onthisday/hi/dates/stories/october/10/newsid_4089000/4089030.stm March 24, 2011閲覧。 
  80. ^ Elizabeth Taylor Interview. ABILITY Magazine.
  81. ^ Elizabeth Taylor Biography”. Allsands.com. March 25, 2011閲覧。
  82. ^ “CNN Larry King Live: Interview With Elizabeth Taylor”. Cable News Network. (May 30, 2006). http://transcripts.cnn.com/TRANSCRIPTS/0605/30/lkl.01.html April 12, 2010閲覧。 
  83. ^ CBC Arts (May 31, 2006). “Elizabeth Taylor dismisses reports of illness on 'Larry King Live'”. Canadian Broadcasting Corporation. http://www.cbc.ca/arts/story/2006/05/31/taylor-elizabeth-larryking.html April 12, 2010閲覧。 [リンク切れ]
  84. ^ a b Elizabeth Taylor dies aged 79”. ABC News Australia. Australian Broadcasting Corporation (March 23, 2011). March 23, 2011閲覧。
  85. ^ Weber, Christopher (February 13, 2011). “Elizabeth Taylor remains hospitalized for heart failure”. LA Daily News. Associated Press. http://www.dailynews.com/news/ci_17376205 March 23, 2011閲覧。 
  86. ^ Ewen MacAskill. "Elizabeth Taylor's funeral takes place in LA's celebrity cemetery". The Guardian. Washington. March 25, 2011
  87. ^ UPDATED: Elizabeth Taylor Laid To Rest In Glendale”. accesshollywood.com. NBC Universal (March 25, 2011). March 25, 2011閲覧。
  88. ^ Richard Burton interviewed on The Dick Cavett Show, August 1980
  89. ^ a b c SAG Remembers the Life and Legacy of Elizabeth Taylor. Screen Actors Guild March 23, 2001. Retrieved March 26, 2011.
  90. ^ Liz Taylor: Her Life in Pictures. Dame Elizabeth Taylor Receives Dame Commander of the Order of the British Empire. Life. 2011. Retrieved March 23, 2011.
  91. ^ Taylor inducted into California Hall of Fame, California Museum. Retrieved 2007.
  92. ^ Palm Springs Walk of Stars by date dedicated
  93. ^ Elizabeth Taylor on IMDb
  94. ^ Berlinale 1972: Prize Winners”. berlinale.de. 2010年3月16日閲覧。

参考文献

  • Parish, James Robert; Mank, Gregory W.; Stanke, Don E. (1978). The Hollywood beauties. England: Arlington House Publishers. p. 329. ISBN 0-87000-412-3 
  • Michael Kors talks to Dame Elizabeth Taylor”. Harper's Bazaar (March 23, 2011). 2013年11月11日閲覧。
  • Heyman, David (2011). Liz: An Intimate Biography of Elizabeth Taylor (updated with a new chapter). Atria Books. ISBN 1-4391-9188-3 
  • Spoto, Donald (1995). A passion for life: the biography of Elizabeth Taylor. London: HarperCollins. ISBN 0-06-017657-1 

関連文献

外部リンク