「ミシェル・プラティニ」の版間の差分
m ロボットによる 変更: kk:Мишел Платини |
m →外部リンク: + テンプレート |
||
(5人の利用者による、間の10版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
{{サッカー選手 |
{{サッカー選手 |
||
|名前=ミシェル・プラティニ |
|名前=ミシェル・プラティニ |
||
|画像=Michel Platini |
|画像=Michel Platini 2010.jpg |
||
|画像サイズ= |
|画像サイズ=230px |
||
|本名=ミシェル・フランソワ・プラティニ<br />Michel François Platini |
|本名=ミシェル・フランソワ・プラティニ<br />Michel François Platini |
||
|愛称=将軍 |
|愛称=将軍 |
||
19行目: | 19行目: | ||
|背番号= |
|背番号= |
||
|利き足=右足 |
|利き足=右足 |
||
|クラブ={{flagicon|FRA|size= |
|クラブ={{flagicon|FRA|size=20px}}[[ASナンシー]]<br />{{flagicon|FRA|size=20px}}[[ASサンテティエンヌ|サンテティエンヌ]]<br />{{flagicon|ITA|size=20px}}[[ユヴェントスFC|ユヴェントス]] |
||
|年=1972-1979<br />1979-1982<br />1982-1987 |
|年=1972-1979<br />1979-1982<br />1982-1987 |
||
|出場(得点)= |
|出場(得点)=175 (98)<br />107 (58)<br />147 (68)<!--国内リーグ戦に限る--> |
||
|クラブ成績更新日= |
|クラブ成績更新日= |
||
|代表国={{flagicon|FRA|size=20px}}[[サッカーフランス代表|フランス]]五輪代表<br />{{flagicon|FRA|size=20px}}[[サッカーフランス代表|フランス]]U-21代表<br />{{flagicon|FRA|size=20px}}[[サッカーフランス代表|フランス]] |
|||
|代表国={{FRAf}} |
|||
|代表年=1976-1987 |
|代表年=1975-1976<br />1975-1976<br />1976-1987 |
||
|代表出場(得点)= |
|代表出場(得点)=7 (4)<br />3 (0)<br />72 (41) |
||
|代表成績更新日= |
|代表成績更新日= |
||
|監督年=1988-1992 |
|監督年=1988-1992 |
||
|監督チーム={{flagicon|FRA|size= |
|監督チーム={{flagicon|FRA|size=20px}}[[サッカーフランス代表|フランス代表]] |
||
}} |
}} |
||
'''ミシェル・プラティニ'''(Michel |
'''ミシェル・プラティニ'''(Michel Platini, [[1955年]][[6月21日]] - )は[[フランス]]出身の元[[サッカー|サッカー選手]]、元サッカー指導者。[[欧州サッカー連盟]](UEFA)会長、[[国際サッカー連盟]](FIFA)副会長、[[フランスサッカー連盟]](FFF)副会長。 |
||
[[1980年代]]を代表するサッカー選手の一人<ref name="国吉">国吉好弘『サッカーマルチ大辞典 改討版』 |
[[サッカーフランス代表]]のエースとして[[1984年]]の[[UEFA欧州選手権1984|UEFA欧州選手権]]において同国に初の国際タイトルをもたらした[[1980年代]]を代表するサッカー選手の一人<ref name="国吉">国吉好弘『サッカーマルチ大辞典 改討版』[[ベースボール・マガジン社]]、2006年、397頁</ref>であり、[[1950年代]]の[[レイモン・コパ]]や[[1990年代]]の[[ジネディーヌ・ジダン]]と共にフランスサッカー史に名を残す選手である<ref name="国吉"/>。愛称「'''Le Roi'''」は直訳すれば「'''王'''」だが、日本では「'''[[ナポレオン・ボナパルト|将軍]]'''」と意訳されることが慣例化している。 |
||
== |
== 生い立ち == |
||
プラティニは[[1955年]] [[6月21日]]にドイツの国境に近い[[ロレーヌ地域圏|ロレーヌ地方]][[ムルト=エ=モゼル県|ムルト・エ・モゼル県]]の[[ジェフ]]という貧しい製鋼の町にイタリア系移民の家庭の子として生まれる<ref name="ウィリアムズ150">[[#ウィリアムズ 2007|ウィリアムズ 2007]]、150頁</ref>。プラティニ家は、もともとは、イタリアの[[ピエモンテ州]]と[[ロンバルディア州]]の州境となっている[[ノヴァーラ]]山の中腹にある町、[[アグラーテ・コントゥルビア]]の出身だった<ref name="ウィリアムズ150"/>が、祖父のフランチェスコ(左官工)が、職を求めてロレーヌに移民した<ref name="ウィリアムズ150"/>。プラティニ家は名字からイタリア的アクセント(プラティーニ)は取り払われ最後の“I”にアクセントが付けられるプラティニに変わっていった。 |
|||
=== 少年時代 === |
|||
プラティニは[[1955年]] [[6月21日]]にドイツの国境に近い[[ロレーヌ地域圏|ロレーヌ地方]][[ムルト=エ=モゼル県|ムルト・エ・モゼル県]]の[[ジェフ]]という貧しい製鋼の町にイタリア系移民の家庭の子として生まれる。プラティニ家は、もともとは、イタリアの[[ピエモンテ州]]と[[ロンバルディア州]]の州境となっている[[ノヴァーラ]]山の中腹にある町、[[アグラーテ・コントゥルビア]]の出身だったが、祖父のフランチェスコ(左官工)が、職を求めてロレーヌに移民した。プラティニ家は名字からイタリア的アクセント(プラティーニ)は取り払われ最後の“I”にアクセントが付けられるプラティニに変わっていった。数学教師の傍ら、ASジェフという地元のクラブのサッカー選手でもあった父、アルドの影響でサッカーを始めると、父の教えもあって早くからサッカー選手としての才能を示し始めた。1969年に行われたクープ・ガンバルデッラ(Coupe Gambardella)というユース大会でリーグアンの[[FCメス]]のスカウトの目を引き練習に参加、契約寸前まで話が進んだが、心肺能力テストの結果不合格となった。 |
|||
数学教師であり、ASジェフという地元のクラブのサッカー選手でもあった父、アルド・プラティニの影響でサッカーを始める<ref name="ウィリアムズ150"/>と、父の教えもあって早くからサッカー選手としての才能を示し始めた。[[1969年]]に行われたクープ・ガンバルデッラ(Coupe Gambardella)というユース大会での活躍がリーグアンの[[FCメス]]のスカウトの目を引き練習に参加することになった。契約寸前まで話が進んだが、心肺能力テストの結果は担当医師の要求を満たすことが出来るものではなく、呼吸器系と心臓に問題があるとして不合格となった<ref name="ウィリアムズ151">[[#ウィリアムズ 2007|ウィリアムズ 2007]]、151頁</ref><ref>[[#リベイロ、レモス 2008|リベイロ、レモス 2008]]、118頁</ref>。[[1972年]]6月22日に17歳で[[ASナンシー]]と練習生契約を結ぶことになった。 |
|||
===クラブ=== |
|||
====ASナンシー==== |
|||
[[1972年]]6月22日に17歳の若さで[[ASナンシー]]と練習生契約を結び、1973年5月3日の[[ニーム]]戦でトップチームデビューを果たした(試合は3-1でナンシーの勝利)。ASナンシーは1部と2部の間を行き来する弱小クラブであり、翌1973-74シーズンにはリーグ戦17位となり2部リーグへの降格を余儀なくされた。この時期にプラティニは代名詞となるFKを極め、1974-75シーズンに自身17得点をあげる活躍をみせ、1部昇格に貢献。1年で2部から昇格して迎えた1975-76シーズンには、自身が20得点を挙げてクラブを7位にまで押し上げた。 |
|||
== クラブ経歴 == |
|||
1977-78シーズンには[[クープ・ドゥ・フランス]]で決勝に進出。[[OGCニース]]との決勝戦では唯一となる得点を決め優勝に導き、[[ヴァレリー・ジスカール・デスタン]]大統領(当時)から優勝カップを受領した。プラティニは小さな町のクラブを牽引し、クラブの歴史上で最も大きな成功をもたらした。 |
|||
=== ASナンシー=== |
|||
[[1973年]][[5月3日]]の1972-73シーズンの[[リーグ・アン|ディヴィジョン・アン]]、[[ニーム・オリンピック]]戦でトップチームデビューを果たし(試合は3-1でナンシーの勝利)、[[5月12日]]の[[オリンピック・リヨン]]戦で初得点を記録した。同シーズンには6位という成績を残したASナンシーだが、クラブは1部と2部の間を行き来する弱小チームであり、翌1973-74シーズンにはリーグ戦17位となり2部リーグへ降格した。この時期にプラティニは代名詞となるFKを極め<ref name="大住191">[[#大住 2004|大住 2004]]、191頁</ref>、1974-75シーズンに自身17得点をあげる活躍をみせ、1部昇格に貢献。1年で2部から昇格して迎えた1975-76シーズンには、自身が20得点を挙げてクラブを7位にまで押し上げた。1977-78シーズンには[[クープ・ドゥ・フランス]]で決勝に進出。[[OGCニース]]との決勝戦では唯一となる得点を決め優勝に導き、[[ヴァレリー・ジスカール・デスタン]]大統領(当時)から優勝カップを受領した。 |
|||
===ASサンテティエンヌ=== |
|||
[[1979年]]に[[ASサンテティエンヌ]]に移籍。サンテティエンヌは1970年代から1980年代初頭のフランス国内において顕著な強さを誇り、国際舞台においても1974-75シーズンの[[UEFAチャンピオンズリーグ|UEFAチャンピオンズカップ]]でベスト4進出、翌1975-76シーズンには準優勝の結果を残すなど活躍を続けていた。プラティニは移籍2年目の1980-81シーズンに自身初となるリーグ優勝を果たしたが、リーグタイトルはこの一つのみに終わった。国際試合においては1979-80シーズンの[[UEFAカップ]]で準々決勝進出を果たしたものの[[ドイツ]]の[[ボルシア・メンヒェングラ |
[[1979年]]に[[ASサンテティエンヌ]]に移籍。サンテティエンヌは1970年代から1980年代初頭のフランス国内において顕著な強さを誇り、国際舞台においても1974-75シーズンの[[UEFAチャンピオンズリーグ|UEFAチャンピオンズカップ]]でベスト4進出、翌1975-76シーズンには準優勝の結果を残すなど活躍を続けていた。プラティニは移籍2年目の1980-81シーズンに自身初となるリーグ優勝を果たしたが、リーグタイトルはこの一つのみに終わった。国際試合においては1979-80シーズンの[[UEFAヨーロッパリーグ|UEFAカップ]]で準々決勝進出を果たしたものの[[ドイツ]]の[[ボルシア・メンヒェングラートバッハ]]に敗退。1981-82シーズンのUEFAチャンピオンズカップでは予備予選で[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]の[[ベルリナーFCディナモ|ディナモ・ベルリン]]に敗退するなど多くの結果を残すことは出来なかった。サンテティエンヌとの契約満了を前に[[イタリア]]の[[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル・ミラノ]]や[[イングランド]]の[[アーセナルFC]]と交渉を進めていたが<ref>[[#ウィリアムズ 2007|ウィリアムズ 2007]]、155頁</ref>、最終的にイタリアの[[ユヴェントスFC|ユヴェントス]]に移籍することになった。なお、この移籍はフランス人選手としてはレイモン・コパが[[1956年]]に[[スペイン]]の[[レアル・マドリード]]と契約したとき以来となる大型移籍だった<ref>[[#ウィリアムズ 2007|ウィリアムズ 2007]]、156頁</ref>。 |
||
===ユヴェントス=== |
|||
[[1982年]]にイタリアの名門[[ユヴェントス]]に移籍。ユヴェントスは、ワールドカップ・スペイン大会で優勝したイタリア代表の[[ガエターノ・シレア]]、[[アントニオ・カブリーニ]]、[[マルコ・タルデッリ]]や、[[サッカーポーランド代表|ポーランド代表]]の[[ズビグニェフ・ボニエク]]らを擁する強豪クラブ。これらの実力者揃いのクラブの中で早くも中心選手となり1983-84、1985-86シーズンの2度の[[スクデット]]に導く。またそれまではFKとボールテクニックに秀でた攻撃的MFに過ぎなかったが点取り屋としての能力にも開眼、現在で言うセカンドストライカー的な動きを身に付け、3年連続セリエA得点王にも輝く(147試合で68ゴールを記録)。 |
|||
また1983-84シーズンには[[UEFAカップウィナーズカップ]]、1984-85には[[ヘイゼルの悲劇]]を乗り越え[[UEFAチャンピオンズカップ]]、そして[[インターコンチネンタルカップ (サッカー)|トヨタカップ]]と3度の国際的タイトルを獲得した。 |
|||
[[1982年]]にイタリアのユヴェントスに移籍。ユヴェントスは、ワールドカップ・スペイン大会で優勝した[[サッカーイタリア代表|イタリア代表]]の[[ガエターノ・シレア]]、[[アントニオ・カブリーニ]]、[[マルコ・タルデッリ]]、同大会得点王の[[パオロ・ロッシ]]らを擁する強豪であり、同大会で3位入賞した[[サッカーポーランド代表|ポーランド代表]]の[[ズビグニェフ・ボニエク]]もプラティニと同じシーズンに加わるなど実力者揃いのクラブだったが、その中で早くも中心選手となっていった。 |
|||
====ヘイゼルの悲劇==== |
|||
[[1985年]]5月18日に[[ベルギー]]・[[ブリュッセル]]の[[ボードゥアン国王競技場|エゼル競技場]]で行われた[[UEFAチャンピオンズリーグ|UEFAチャンピオンズカップ]]決勝はイングランドの強豪[[リヴァプールFC]]との対戦となった。この試合で自ら決勝ゴールとなるPKを叩き込みクラブ初の優勝を果たした。しかし試合直前にスタジアム内で起こったサポーター同士による暴動は、死者39名重軽傷者600名を出す大惨事([[ヘイゼルの悲劇]])となり、後に事件の概要を知らされたプラティニは強いショックを受け、後の引退の引き金となった。 |
|||
1982-83シーズン早々にヘルニアを患い出遅れたが、[[UEFAチャンピオンズカップ 1982-83]]決勝では[[西ドイツ]]の[[ハンブルガーSV]]に敗れ準優勝。国内リーグでは[[ASローマ]]に次いで2位となり優勝は逃したが、自身は16得点を上げ得点王となった。翌1983-84シーズンには20得点を上げ2年連続で得点王となると共にユヴェントスの21回目のスクデット獲得と、[[UEFAカップウィナーズカップ]]優勝に貢献。1984-85シーズンのリーグ戦では5位となり優勝を逃したが、自身は18得点を上げて3年連続得点王を受賞した。[[UEFAチャンピオンズカップ 1984-85]]では決勝に進出しイングランドの[[リヴァプールFC]]との対戦となった。 |
|||
====トヨタカップ==== |
|||
同年12月8日、ヨーロッパ代表として[[インターコンチネンタルカップ (サッカー)|トヨタカップ]]に出場し、アルゼンチンの[[アルヘンティノス・ジュニアーズ]]と対戦。試合を終始リードしたプラティニは、後半コーナーキックのチャンスにおいて、胸トラップから右足アウトサイドのキックフェイントでボールを浮かせ3人のDFのマークを外し、そのまま反転して左足でボレーシュートを放ちゴールネットに突き刺した。プラティニは最高のパフォーマンスを見せたとの確信からガッツポーズを繰り返し、チームメイトも彼に駆け寄り祝福したが、線審はオフサイドフラッグを掲げていたため[[オフサイド (サッカー)|オフサイド]]と判定され、幻のゴールとなった<ref>[http://www.yomiuri.co.jp/sports/cwc/2008/feature/cw_fe20081007_01.htm プラティニ、幻のゴール]、YOMIURI ONLINE、2008年10月7日</ref>。 |
|||
==== ヘイゼルの悲劇 ==== |
|||
この時、実況を担当していた日本テレビの[[舛方勝宏]]アナウンサーが発した'''「プラティニゴール!スーパーゴール!ビューティフルゴール!」'''の名台詞や、オフサイドと判定された直後に芝生の上で寝そべり、頬杖をついて判定に抗議する姿は強い印象を残した。試合は2-2の同点のまま[[PK戦]]までもつれこんだが、最後のキッカーとして登場したプラティニが確実にシュートを決め、ユヴェントスをヨーロッパ勢としては初のトヨタカップ優勝に導いた。また、プラティニはこの大会のMVPに選ばれている。近年、フランスの日刊紙リベラシオンに掲載された作家の[[マルグリット・デュラス]]との対談において'''「(幻のゴールは)生涯で最も美しいゴールであった」'''、'''「自分の選手としてのピークは、1985年の12月(この試合が開催された年月)」'''と述べている。 |
|||
{{main|:ヘイゼルの悲劇}} |
|||
[[1985年]][[5月29日]]に[[ベルギー]]・[[ブリュッセル]]の[[ボードゥアン国王競技場|エゼル競技場]]で行われた決勝戦は、直前にスタジアム内でサポーター同士による暴動が発生し、死者39名重軽傷者600名を出す惨事となった。試合は予定を過ぎた1時間後に執り行われ、56分にボニエクが倒されて獲得したPKを自ら決め、クラブに初のチャンピオンズカップ優勝をもたらしたが、プラティニ自身は「人生最悪の試合<ref name="田村34">[[#田村 2010|田村 2010]]、34頁</ref>」「この試合の後、罪悪感に悩まされるようになり人生は変わってしまった<ref name="田村34"/>」と発言している。 |
|||
=== |
==== トヨタカップ ==== |
||
同年[[12月8日]]、[[日本]]の[[国立霞ヶ丘陸上競技場|国立霞ヶ丘競技場]]で行われた[[インターコンチネンタルカップ (サッカー)|トヨタカップ]]にヨーロッパ代表として出場し[[アルゼンチン]]の[[アルヘンティノス・ジュニアーズ]]と対戦。試合はアルヘンティノスが先行する展開だったが、63分に獲得したPKを自ら決め1-1の同点とし、再びリードを許した後の82分には相手守備陣の裏をかくループパスを[[ミカエル・ラウドルップ]]に供給し2-2の同点に追いついた。延長戦でも決着はつかず[[PK戦]]までもつれこんだが、ユヴェントスの5番目のキッカーとして登場したプラティニが確実にシュートを決め4-2で勝利。ユヴェントスをヨーロッパ勢としては初のトヨタカップ優勝に導くと共に、この大会のMVPに選ばれた<ref>{{cite news | url=http://www.fifa.com/classicfootball/clubs/matchreport/newsid=512136.html | title=Toyota Cup 1985| publisher=FIFA.com |author=|date=|accessdate=2010-11-03}}</ref>。 |
|||
====1970年代==== |
|||
フランス代表としては、[[1976年]][[3月27日]]に[[サッカーチェコスロバキア代表|チェコスロバキア]]戦で代表デビューを果たした。この試合でFKから直接ゴールを決めて代表初得点、この試合限りで引退が決まっていた[[アンリ・ミシェル]]の花道を飾った。同年にはフランス五輪代表として[[カナダ]]で開催された[[モントリオールオリンピック]]に参加。準々決勝まで進出したが、この大会を制した東ドイツの前に敗れ去った。 |
|||
またプラティニはこの試合で「トヨタカップ史上で最も美しいシュート<ref name="牛木"/>」と評される見せ場を作った<ref name="ウィリアムズ146">[[#ウィリアムズ 2007|ウィリアムズ 2007]]、148頁</ref>。68分のコーナーキックのチャンスにおいて、胸トラップから右足アウトサイドのキックフェイントでボールを浮かせ3人のDFのマークを外し、そのまま反転して左足でボレーシュートを放ちゴールネットに突き刺した。プラティニは最高のパフォーマンスを見せたとの確信からガッツポーズを見せチームメイトも彼に駆け寄り祝福したが、線審はオフサイドフラッグを掲げていたため[[オフサイド (サッカー)|オフサイド]]と判定され、幻のゴールとなった<ref name="牛木">{{cite news | url=http://www.yomiuri.co.jp/sports/cwc/2008/feature/cw_fe20081007_01.htm | title=プラティニ、幻のゴール| publisher=YOMIURI ONLINE |author=牛木素吉郎|date=2008-10-07|accessdate=2010-11-03}}</ref>。オフサイドと判定された直後に芝生の上で寝そべり、頬杖をついて判定に抗議する姿は強い印象を残した<ref name="ウィリアムズ146"/><ref>[[#西部 2010|西部 2010]]、126頁</ref>。後にプラティニは、フランスの日刊紙リベラシオンに掲載された作家の[[マルグリット・デュラス]]との対談において当時を振り返り、 |
|||
1978年2月8日、敵地の[[ナポリ]]で行われた[[サッカーイタリア代表|イタリア]]との親善試合<ref>[http://www.fff.fr/cgi-bin/historique/hist_detail.pl?nomatch=378 FFF : Equipe de France de Football]</ref>において、名手[[ディノ・ゾフ]]を相手に2本のフリーキックを決めると(試合は2-2で引分け)ヨーロッパ全土にその名が知れ渡るようになった。[[1978年]]には[[1978 FIFAワールドカップ|ワールドカップ・アルゼンチン大会]]に出場、結果的に1次リーグで敗退したが[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン]]やイタリアと接戦を演じ、プラティニは次代のスター候補として高い評価を受けた<ref>[http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=2036 ミシェル・プラティニ(2)1970年代後半、フランス代表の中心選手に]- 賀川サッカーライブラリー </ref>。 |
|||
{{Quotation|私の選手としてのピークは、1985年の12月だった。|ミシェル・プラティニ}}と述べている<ref>[[#ウィリアムズ 2007|ウィリアムズ 2007]]、141頁</ref>。 |
|||
その後、[[UEFAチャンピオンズカップ 1985-86]]では準々決勝で[[ベルント・シュスター]]を擁する[[FCバルセロナ]]に敗退。1985-86シーズンのリーグ戦では4年連続得点王のタイトルは逃したものの、ASローマや[[SSCナポリ]]を退け22回目のスクデット獲得に導いた。またフランス代表での活躍(後述)もあり1983年から3年連続で[[バロンドール]](欧州年間最優秀選手)に選ばれるなど絶頂期にあった。一方で1985年末の[[クリスマス]]頃に痛めた左足踵の炎症の状態が回復せず<ref name="田村34"/><ref name="大住237">[[#大住 2004|大住 2004]]、237頁</ref>、痛みを庇いながらプレーを続けていたためにフォームが崩れ<ref name="大住237"/>、シーズンが終了するころには疲労はピークに達していた<ref name="大住237"/>。 |
|||
====ワールドカップ・スペイン大会==== |
|||
プラティニは1980年からは代表チームのキャプテンを務め、名実共に中心選手となっていった。しかし1981年のワールドカップ・スペイン大会予選では1974、78年大会の準優勝時のメンバー[[ルート・クロル]]、[[ヨハン・ニースケンス]]らが残る[[サッカーオランダ代表|オランダ]]と同じ組に入る厳しい組み合わせとなり、最後まで縺れ込んだが、同年11月18日、ホームのパルク・デ・プランスで行われた直接対決では、プラティニのFKなどで2-0でオランダを下し予選を突破に導いた。 |
|||
== 代表経歴 == |
|||
翌年の本大会ではプラティニを中心に[[アラン・ジレス]]、[[ジャン・ティガナ]]、[[ベルナール・ジャンジニ]]らのテクニシャン達を中盤に揃えたポゼッションサッカーで大会を席巻。守備には難があったものの準決勝にまで駒を進め、準決勝で[[サッカードイツ代表|西ドイツ]]と歴史上に残る死闘を演じ3-3からPK戦で4-5で敗れた<ref>[http://www.fff.fr/cgi-bin/historique/hist_detail.pl?nomatch=419 FFF : Equipe de France de Football]</ref><ref>[http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=2037 ミシェル・プラティニ(3)魅力的なチームのドラマティックな敗戦]- 賀川サッカーライブラリー </ref>。3位決定戦で[[サッカーポーランド代表|ポーランド]]に敗れ4位となったものの、20代中盤と選手として円熟期を迎えたプラティニを中心としたサッカーは、同じく、この大会を席巻した[[ジーコ]]の[[サッカーブラジル代表|ブラジル]]と共に高い評価を得た<ref>[http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=168 82年スペインW杯 最も魅力的だったフランス]- 賀川サッカーライブラリー </ref>。 |
|||
=== 1970年代 === |
|||
フランス代表としては、[[1976年]][[3月27日]]に行われた[[サッカーチェコスロバキア代表|チェコスロバキア]]との親善試合で代表デビュー。この試合の71分にFKから直接ゴールを決めて代表初得点<ref name="田村32">[[#田村 2010|田村 2010]]、32頁</ref>。同年にはフランス五輪代表として[[カナダ]]で開催された[[モントリオールオリンピックにおけるサッカー競技|モントリオールオリンピック]]に参加。準々決勝まで進出したが、この大会を制した[[サッカー東ドイツ代表|東ドイツ]]の前に敗れた。 |
|||
[[1978 FIFAワールドカップ|ワールドカップアルゼンチン大会]]予選は4大会連続出場の[[サッカーブルガリア代表|ブルガリア]]と同じ組となったが、監督の[[ミシェル・イダルゴ]]の下で若返りを図る代表チームは[[アンリ・ミシェル]]と[[マリユス・トレゾール]]という2人のベテランとプラティニ世代の若い選手を軸<ref>[[#大住 2004|大住 2004]]、191-192頁</ref>に強化を進めていった。[[1977年]][[11月16日]]、パリで行われた予選最終戦のブルガリア戦。敗れるか引き分ければワールドカップ出場を逃す苦しい状況だったが、18分に自らロングシュートを決める活躍もあり3-1でブルガリアを下し12年ぶりの本大会出場を果たした。 |
|||
====欧州選手権フランス大会==== |
|||
プラティニを語る上で最も外す事が出来ないのは[[1984年]]の欧州選手権である<ref>[http://jp.uefa.com/news/kind=4/newsid=672398.html 1984年大会: ミシェル・プラティニ] - UEFA.com</ref>。地元開催でサポーターの期待を一身に集めたチームは初戦に難敵[[サッカーデンマーク代表|デンマーク]]を1-0で下し、[[サッカーベルギー代表|ベルギー]]を5-0、[[サッカーユーゴスラビア代表|ユーゴスラビア]]を3-2で下し1位でグループリーグを突破、準決勝の[[サッカーポルトガル代表|ポルトガル]]戦は苦しい展開だったが延長戦の末、プラティニの逆転ゴールで3-2で退け<ref>[http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=1048 マルセイユでフランスの驚くべき力を見たのだ]- 賀川サッカーライブラリー </ref>、[[パルク・デ・プランス]]競技場で行われた決勝の[[サッカースペイン代表|スペイン]]戦は2-0で下し、初の欧州チャンピオンに輝いた<ref>[http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=169 自国開催の84年欧州選手権で優勝]- 賀川サッカーライブラリー </ref>。 |
|||
[[1978年]][[2月8日]]、敵地の[[ナポリ]]で行われた[[サッカーイタリア代表|イタリア]]との親善試合において、GKの[[ディノ・ゾフ]]を相手に2本のフリーキックを決めると(試合は2-2で引分け)ヨーロッパ全土にその名が知れ渡るようになった<ref>[[#ウィリアムズ 2007|ウィリアムズ 2007]]、152頁</ref>。 |
|||
プラティニはベルギー戦とユーゴスラビア戦<ref>[http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=1046 サンテチエンヌの整然とした組織に日仏の違い]- 賀川サッカーライブラリー </ref>の2試合連続ハットトリックを含む毎試合得点の通算9得点で得点王の活躍、また彼をサポートする[[アラン・ジレス]]、[[ジャン・ティガナ]]のテクニシャンに加え若い[[ルイス・フェルナンデス (サッカー選手)|ルイス・フェルナンデス]]が中盤の守備を担当し弱点を補強<ref>[http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=1043 イダルゴ監督が追求したサッカーの完成を見た]- 賀川サッカーライブラリー </ref>、これらの選手で構成される中盤は他を圧倒し、マスコミやファンは'''シャンパンサッカー'''と讃えた。プラティニが満面の笑みでアンリ・ドロネー杯を頭上高く掲げる姿は大会を象徴するシーンとして現在も目にする事が出来る<ref>[http://jp.youtube.com/watch?v=qza4Gn05DRQ Platini]</ref>。 |
|||
[[6月]]には[[アルゼンチン]]で行われた本大会に出場。結果的にグループリーグで敗退したが地元[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン]]やイタリアと接戦を演じ、最終戦で[[サッカーハンガリー代表|ハンガリー]]に3-1で勝利し[[1958 FIFAワールドカップ|ワールドカップスウェーデン大会]]以来20年ぶりの勝利を上げるなど、プラティニを中心としたパスサッカーは高い評価を受けた<ref>{{cite news | url=http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=2036 | title=ミシェル・プラティニ(2)1970年代後半、フランス代表の中心選手に| publisher=賀川サッカーライブラリー |author=賀川浩|date=|accessdate=2010-11-03}}</ref><ref>[[#大住 2004|大住 2004]]、200頁</ref>。 |
|||
====ワールドカップ・メキシコ大会==== |
|||
ユヴェントスとフランス代表における活躍で1983年から1985年まで3年連続で欧州最優秀選手([[バロンドール]])を受賞するなど、まさに絶頂期にあった。これらの成功でワールドカップ・メキシコ大会での優勝を期待されたが、プラティニ自身は脚の状態がおもわしくなかった、また予選では格下の[[サッカー東ドイツ代表|東ドイツ]]<ref>[http://www.fff.fr/cgi-bin/historique/hist_detail.pl?nomatch=446 FFF : Equipe de France de Football]</ref>や[[サッカーブルガリア代表|ブルガリア]]<ref>[http://www.fff.fr/cgi-bin/historique/hist_detail.pl?nomatch=444 FFF : Equipe de France de Football]</ref>に敗れるなどピンチの連続であった。 |
|||
[[1979年]][[9月5日]]、[[ストックホルム]]で行われた[[UEFA欧州選手権1980予選]]の[[サッカースウェーデン代表|スウェーデン]]戦で初めてキャプテンに任命され名実共に中心選手となる<ref>[[#大住 2004|大住 2004]]、201頁</ref>が、チェコスロバキアに競り負け本大会出場は逃した。 |
|||
[[1986年]]の本大会では、決勝トーナメント1回戦で前回優勝国のイタリアを2-0で下し、準々決勝で[[サッカーブラジル代表|ブラジル]]と好勝負を演じ1-1からPK戦でプラティニはPKを外したものの4-3で勝利した<ref>[http://www.fff.fr/cgi-bin/historique/hist_detail.pl?nomatch=455 FFF : Equipe de France de Football]</ref><ref>[http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=522 芸術的で戦闘的、技術的で戦術的と、これこそサッカーの一戦の幸せに酔う]- 賀川サッカーライブラリー </ref>。しかしこの試合で総ての気力を使い果たし、準決勝では良い所無く西ドイツに0-2で敗れた<ref>[http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=524 メキシコ史に深い影響を与えたフランス、そのプラティニらの敗退にしばしぼう然]- 賀川サッカーライブラリー </ref><ref>[http://www.fff.fr/cgi-bin/historique/hist_detail.pl?nomatch=456 :FFF Equipe de France de Football]</ref>。西ドイツには前回大会でも敗れており、プラティニは雪辱を果たすことは出来なかった。<!-- かつて19世紀の[[ナポレオン・ボナパルト]]が欧州を席巻しながら最終的に敗れ去った事に例える者もいた。そんな感慨に耽るファンの心配は他所に-->3位決定戦の[[サッカーベルギー代表|ベルギー]]戦は[[ジャン=ピエール・パパン]]など若手中心のオーダーで挑み、プラティニは表彰式のみの参加となった。 |
|||
=== |
=== 1980年代 === |
||
この時期に[[FCジロンダン・ボルドー|ボルドー]]所属の[[アラン・ジレス]]がレギュラーとなり、[[オリンピック・リヨン|リヨン]]所属の[[ジャン・ティガナ]]、[[FCソショー|ソショー]]所属の[[ベルナール・ジャンジニ]]といった中盤のタレントが代表デビュしたこともあり、プラティニがFWとして起用される機会もあった<ref name="大住202">[[#大住 2004|大住 2004]]、202頁</ref>。 |
|||
[[1987年]]4月29日、ヘルシンキで行われた欧州選手権予選[[サッカーアイスランド代表|アイスランド]]戦<ref name="fff476">[http://www.fff.fr/cgi-bin/historique/hist_detail.pl?nomatch=476 FFF : Equipe de France de Football]</ref>を最後に32歳の若さで現役引退を発表した。この早すぎる引退には自身が出場した1985年の[[UEFAチャンピオンズカップ]]決勝戦直前に発生した[[ヘイゼルの悲劇]]が深く関わっているといわれる。 |
|||
[[1982 FIFAワールドカップ|ワールドカップスペイン大会]]予選では1974、78年大会の準優勝時のメンバー[[ルート・クロル]]、[[ヨハン・ニースケンス]]らが残る[[サッカーオランダ代表|オランダ]]や[[UEFA欧州選手権1980]]準優勝の[[サッカーベルギー代表|ベルギー]]と同じ組に入った。予選は混戦となり残り2試合を残して勝ち点6のグループ4位という状況となった<ref name="大住202"/>が、[[1981年]][[11月18日]]、ホームのパルク・デ・プランスで行われたオランダとの直接対決では、プラティニのFKなどで2-0でオランダを下し勝利。[[12月15日]]の[[サッカーキプロス代表|キプロス]]との最終戦は欠場したが4-0で勝利し勝ち点を10まで伸ばし2大会連続出場を果たした。 |
|||
* 代表キャップ数71試合、41得点、キャプテン試合数49 |
|||
* クラブ通算429試合、224得点 |
|||
==== 1982 FIFAワールドカップ ==== |
|||
==引退後の活動== |
|||
{| style="float: right; margin-left: 1em; margin-bottom: 0.5em; width: 180px; border: #99B3FF solid 1px" |
|||
|- |
|||
|<div style="position: relative;"> |
|||
[[ファイル:Soccer.Field Transparant.png|200px]] |
|||
{{Image label|x=0.42|y=1.07|scale=220|text=[[ジャン=リュック・エトリ|<span style="font-size: 80%; color: white;">'''エトリ'''</span>]]}} |
|||
{{Image label|x=0.70|y=0.83|scale=220|text=[[マキシム・ボッシ|<span style="font-size: 80%; color: white;">'''ボッシ'''</span>]]}} |
|||
{{Image label|x=0.50|y=0.91|scale=220|text=[[ジェラール・ジャンヴィオン|<span style="font-size: 80%; color: white;">'''ジャンヴィオン'''</span>]]}} |
|||
{{Image label|x=0.20|y=0.91|scale=220|text=[[マリユス・トレゾール|<span style="font-size: 80%; color: white;">'''トレゾール'''</span>]]}} |
|||
{{Image label|x=0.08|y=0.83|scale=220|text=[[マニュエル・アモロ|<span style="font-size: 80%; color: white;">'''アモロ'''</span>]]}} |
|||
{{Image label|x=0.60|y=0.44|scale=220|text=[[アラン・ジレス|<span style="font-size: 80%; color: white;">'''ジレス'''</span>]]}} |
|||
{{Image label|x=0.54|y=0.66|scale=220|text=[[ジャン・ティガナ|<span style="font-size: 80%; color: white;">'''ティガナ'''</span>]]}} |
|||
{{Image label|x=0.22|y=0.66|scale=220|text=[[ベルナール・ジャンジニ|<span style="font-size: 80%; color: white;">'''ジャンジニ'''</span>]]}} |
|||
{{Image label|x=0.18|y=0.44|scale=220|text=[[ミシェル・プラティニ|<span style="font-size: 80%; color: white;">'''プラティニ'''</span>]]}} |
|||
{{Image label|x=0.47.5|y=0.25|scale=220|text=[[ドミニク・ロシュトー|<span style="font-size: 80%; color: white;">'''ロシュトー'''</span>]]}} |
|||
{{Image label|x=0.24|y=0.25|scale=220|text=[[ディディエ・シクス|<span style="font-size: 80%; color: white;">'''シクス'''</span>]]}} |
|||
</div> |
|||
|- |
|||
|style="font-size: smaller;"|[[1982 FIFAワールドカップ]]準決勝、[[サッカードイツ代表|西ドイツ]]戦のスタメン。 |
|||
|} |
|||
[[1982年]]6月の本大会では1次リーグで[[サッカーイングランド代表|イングランド]]、[[サッカークウェート代表|クウェート]]、[[サッカーチェコスロバキア代表|チェコスロバキア]]と同じ組となった。初戦のイングランド戦ではプラティニは精彩を欠き<ref>[[#大住 2004|大住 2004]]、208頁</ref>1-3で敗れたが、第2戦のクウェート戦では回復し、ジレス、ジャンジニの揃った中盤を率いてクウェートに4-1で勝利。第3戦のチェコスロバキア戦は1-1で引分け、グループ2位で2次リーグ進出を果たした。 |
|||
2次リーグでは初戦の[[サッカーオーストリア代表|オーストリア]]戦は太股の肉離れが回復していなかったため欠場した<ref>[[#大住 2004|大住 2004]]、212頁</ref>が、代わって出場したティガナが好調なプレーを見せた。このことでフランスのメディアの間では「体調が万全ではないプラティニを諦めるべきではないか」との意見が多数を占めた<ref>[[#大住 2004|大住 2004]]、213頁</ref>が監督のイダルゴは悩んだ末にプラティニ、ジレス、ジャンジニ、ティガナの4人を中盤で同時に起用する道を選択した<ref>[[#大住 2004|大住 2004]]、214頁</ref>。2次リーグ最終戦の[[サッカー北アイルランド代表|北アイルランド]]戦では4人のパスワークで中盤を制圧するだけでなく、チャンスと見るとゴール前に飛び出す流動的なサッカーで4-1で勝利し準決勝進出。この試合で復活を果たしたことでメディアからの批判を封じ込めた<ref>[[#グランヴィル 1998|グランヴィル 1998]]、296頁</ref>。 |
|||
準決勝の[[サッカードイツ代表|西ドイツ]]戦は17分に先制点を許したが10分後の27分に味方選手がペナルティエリア内で倒され獲得したPKをプラティニが決め1-1の同点とした。試合は1-1のスコアのまま延長戦へと突入したが、プラティニとジレスが変わらず好調を維持<ref name="グランヴィル297">[[#グランヴィル 1998|グランヴィル 1998]]、297頁</ref>。延長前半2分にジレスのパスからトレゾールがシュートを決めて勝ち越し、延長前半12分にはプラティニのパスからジレスがシュートを決め3-1と2点差に突き放した。ここから西ドイツの反撃にあい3-3の同点のまま決着はつかず、ワールドカップ史上初のPK戦<ref name="グランヴィル297"/>の末に4-5で敗れた<ref>{{cite news | url=http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=2037 | title=ミシェル・プラティニ(3)魅力的なチームのドラマティックな敗戦| publisher=賀川サッカーライブラリー |author=賀川浩|date=|accessdate=2010-11-03}}</ref>。 |
|||
3位決定戦では他の主力選手と共に欠場<ref>[[#グランヴィル 1998|グランヴィル 1998]]、299頁</ref>し、[[サッカーポーランド代表|ポーランド]]に敗れ4位となった。20代中盤と選手として円熟期を迎えたプラティニを中心としたポゼッションサッカーは、同じく、この大会を席巻した[[サッカーブラジル代表|ブラジル]]と共に高い評価を得た<ref>{{cite news | url=http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=168 | title=82年スペインW杯 最も魅力的だったフランス| publisher=賀川サッカーライブラリー |author=賀川浩|date=|accessdate=2010-11-03}}</ref>。ブラジルの中盤が[[黄金のカルテット|黄金の4人]](クワトロ・オーメン・ジ・オーロ)と呼ばれたのに対し、フランスのメディアは、この時の中盤を[[アレクサンドル・デュマ]]の[[三銃士]]に準え「四銃士」と呼んだ<ref>[[#大住 2004|大住 2007]]、216頁</ref>。 |
|||
==== 欧州選手権1984 ==== |
|||
1982年のワールドカップ後、新たに[[ルイス・フェルナンデス (サッカー選手)|ルイス・フェルナンデス]]が代表に加わり守備的MFを担ったことでチームとしての安定感を増し<ref>{{cite news | url=http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=1043 | title=イダルゴ監督が追求したサッカーの完成を見た| publisher=賀川サッカーライブラリー |author=賀川浩|date=|accessdate=2010-11-03}}</ref>、プラティニはイタリアで積極的な得点感覚を身に付ける<ref>{{cite news | url=http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=2038 | title=ミシェル・プラティニ(4)真価を発揮、優勝と得点王を手にしたEURO84| publisher=賀川サッカーライブラリー |author=賀川浩|date=|accessdate=2010-11-03}}</ref>など、チームとして熟成期を迎えていた<ref>[[#大住 2004|大住 2004]]、227頁</ref>。 |
|||
1984年のUEFA欧州選手権1984では初戦で[[サッカーデンマーク代表|デンマーク]]と対戦。均衡した試合は78分に自ら決勝点を決め1-0で勝利。この得点でプラティニは代表通算27得点としたが、この記録はそれまで[[ジュスト・フォンテーヌ]]の保持していたフランス代表の最多得点記録を塗り替えるものだった<ref>[[#大住 2004|大住 2004]]、228-229頁</ref>。続くベルギーを5-0、[[サッカーユーゴスラビア代表|ユーゴスラビア]]を3-2で下し1位でグループリーグを突破したが、この両試合でハットトリックを達成<ref>{{cite news | url=http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=1046 | title=サンテチエンヌの整然とした組織に日仏の違い| publisher=賀川サッカーライブラリー |author=賀川浩|date=|accessdate=2010-11-03}}</ref>。準決勝の[[サッカーポルトガル代表|ポルトガル]]戦は常に相手にリードを許す展開だったが延長戦の末、プラティニの逆転ゴールにより3-2で勝利<ref>{{cite news | url=http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=1048 | title=マルセイユでフランスの驚くべき力を見たのだ| publisher=賀川サッカーライブラリー |author=賀川浩|date=|accessdate=2010-11-03}}</ref>。 |
|||
[[パルク・デ・プランス]]競技場で行われた決勝の[[サッカースペイン代表|スペイン]]戦は77分に相手ゴール前18mの地点で得たフリーキックをプラティニが決め先制。その後も追加点を奪ったフランスは2-0でスペインを下し、初の欧州チャンピオンとなった<ref>{{cite news | url=http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=169 | title=自国開催の84年欧州選手権で優勝| publisher=賀川サッカーライブラリー |author=賀川浩|date=|accessdate=2010-11-03}}</ref>。 |
|||
プラティニは毎試合得点の9得点を上げる活躍で得点王となった。また彼を中心に脇を固めるジレス、ティガナ、フェルナンデスとで形成する中盤({{lang-fr|carré magique}}、[[魔方陣]]の意)は大会を通じて好調を維持し、パスワークと攻撃力は他を圧倒した<ref>[[#大住 2004|大住 2004]]、230頁</ref>。この大会の結果、プラティニは点取り屋としてもゲームメーカーとしても一流である事を示した<ref>{{cite news | url=http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=2295 | title=プラティニのヘッド| publisher=賀川サッカーライブラリー |author=賀川浩|date=|accessdate=2010-11-03}}</ref>。 |
|||
==== 1986 FIFAワールドカップ ==== |
|||
{| style="float: right; margin-left: 1em; margin-bottom: 0.5em; width: 180px; border: #99B3FF solid 1px" |
|||
|- |
|||
|<div style="position: relative;"> |
|||
[[ファイル:Soccer.Field Transparant.png|200px]] |
|||
{{Image label|x=0.42|y=1.07|scale=220|text=[[ジョエル・バツ|<span style="font-size: 80%; color: white;">'''バツ'''</span>]]}} |
|||
{{Image label|x=0.70|y=0.83|scale=220|text=[[マキシム・ボッシ|<span style="font-size: 80%; color: white;">'''ボッシ'''</span>]]}} |
|||
{{Image label|x=0.50|y=0.91|scale=220|text=[[パトリック・バチストン|<span style="font-size: 80%; color: white;">'''バチストン'''</span>]]}} |
|||
{{Image label|x=0.24|y=0.91|scale=220|text=[[マニュエル・アモロ|<span style="font-size: 80%; color: white;">'''アモロ'''</span>]]}} |
|||
{{Image label|x=0.12|y=0.83|scale=220|text=[[ティエリ・テュソー|<span style="font-size: 80%; color: white;">'''テュソー'''</span>]]}} |
|||
{{Image label|x=0.60|y=0.44|scale=220|text=[[アラン・ジレス|<span style="font-size: 80%; color: white;">'''ジレス'''</span>]]}} |
|||
{{Image label|x=0.50|y=0.66|scale=220|text=[[ルイス・フェルナンデス (サッカー選手)|<span style="font-size: 80%; color: white;">'''フェルナンデス'''</span>]]}} |
|||
{{Image label|x=0.22|y=0.66|scale=220|text=[[ジャン・ティガナ|<span style="font-size: 80%; color: white;">'''ティガナ'''</span>]]}} |
|||
{{Image label|x=0.18|y=0.44|scale=220|text=[[ミシェル・プラティニ|<span style="font-size: 80%; color: white;">'''プラティニ'''</span>]]}} |
|||
{{Image label|x=0.52|y=0.25|scale=220|text=[[ドミニク・ロシュトー|<span style="font-size: 80%; color: white;">'''ロシュトー'''</span>]]}} |
|||
{{Image label|x=0.24|y=0.25|scale=220|text=[[ヤニック・ストピラ|<span style="font-size: 80%; color: white;">'''ストピラ'''</span>]]}} |
|||
</div> |
|||
|- |
|||
|style="font-size: smaller;"|[[1986 FIFAワールドカップ]]準々決勝、[[サッカーブラジル代表|ブラジル]]戦のスタメン。 |
|||
|} |
|||
[[1986 FIFAワールドカップ|ワールドカップメキシコ大会]]予選では東ドイツやブルガリアに敗れるなど苦戦したものの、1985年[[11月16日]]にパリで行われたユーゴスラビアとの最終戦で2得点を上げる活躍で3大会連続ワールドカップ出場へと導いた。フランスは2年前の欧州選手権優勝の実績もあり大会の優勝候補の一つと目されていた<ref>[[#リベイロ、レモス 2008|リベイロ、レモス 2008]]、121頁</ref>が、一方でプラティニ自身は1985年末に負った左足の怪我の状態が回復せず疲弊していた<ref name="大住237"/>。 |
|||
[[1986年]]6月の本大会のグループリーグでは[[サッカーソビエト連邦代表|ソビエト連邦]]、ハンガリー、[[サッカーカナダ代表|カナダ]]との組み合わせとなり、ソビエト連邦に次いで2位で決勝トーナメント進出を果たしたが、プラティニは3試合で無得点と動きに精彩を欠いていた<ref>[[#大住 2004|大住 2004]]、231頁</ref>。決勝トーナメント1回戦では前回優勝国のイタリアとの対戦となったが、15分に前線でパスを受けたプラティニが相手GKの[[ジョバンニ・ガッリ]]の頭上を越すチップキックで先制すると57分にも追加点を奪い2-0で勝利。大会序盤はコンディションが整わなかったが、この試合で従来のプレーを取り戻した<ref name="大住237"/>。 |
|||
[[6月21日]]、[[グアダラハラ (メキシコ)|グアダラハラ]]で行われた準々決勝は[[サッカーブラジル代表|ブラジル]]との対戦となったが、プラティニはこの試合の日に31回目の誕生日を迎えた。試合は17分にブラジルの[[カレカ]]の得点で先制されたものの、41分にジレスからの強いパスを受けた[[ドミニク・ロシュトー]]が右サイドからクロスを上げ、これをプラティニがゴール前で左足で押し込み同点とした。その後も試合は一進一退の攻防が続き、延長戦に入った後も勝負はつかず1-1の同点のままPK戦へと入った。プレースキックの名手と言われた<ref>[[#ウィリアムズ 2007|ウィリアムズ 2007]]、165頁</ref>プラティニはフランスの4人目のキッカーとして登場したが、これをクロスバーの上に外すミスを犯したものの、5人目のキッカーのフェルナンデスが冷静に決め最終的に4-3で勝利した<ref>{{cite news | url=http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=522 | title=芸術的で戦闘的、技術的で戦術的と、これこそサッカーの一戦の幸せに酔う| publisher=賀川サッカーライブラリー |author=賀川浩|date=|accessdate=2010-11-03}}</ref>。 |
|||
この試合は「歴史に残る試合<ref>[[#田村 2010|田村 2010]]、35頁</ref><ref>[[#グランヴィル 1998|グランヴィル 1998]]、334頁</ref>」「ワールドカップ史上最も美しい試合<ref>[[#大住 2004|大住 2004]]、246頁</ref>」と評されている。 |
|||
準決勝の西ドイツ戦は前回大会の雪辱戦となったが、9分に[[アンドレアス・ブレーメ]]のフリーキックから1点を先制された。フランスは反撃に転じたが、GKの[[ハラルト・シューマッハー]]らを擁する西ドイツの堅守を崩すことは出来ず。後半のプラティニのシュートで同点に追いついたかに思われたがオフサイドと判定された<ref>[[#大住 2004|大住 2004]]、247頁</ref>。終了間際にカウンターから[[ルディ・フェラー]]の追加点を許し0-2で敗れ決勝進出を逃した<ref>{{cite news | url=http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=524 | title=メキシコ史に深い影響を与えたフランス、そのプラティニらの敗退にしばしぼう然| publisher=賀川サッカーライブラリー |author=賀川浩|date=|accessdate=2010-11-03}}</ref>。3位決定戦の[[サッカーベルギー代表|ベルギー]]戦は[[ジャン=ピエール・パパン]]など若手中心のオーダーで挑み、プラティニは表彰式のみの参加となった。表彰式にはピンク色のポロシャツを身に付けて参加し終始にこやかな表情だったという<ref>[[#西部 2010|西部 2010]]、127頁</ref>。 |
|||
プラティニは選手生活を通じてワールドカップ優勝を成し遂げることが出来なかったが、 |
|||
{{Quotation|1978年は若すぎた、1982年は内臓の具合が悪かった、1986年も脚の具合が悪かった、どういう訳かそういう巡り合わせなんだ。|ミシェル・プラティニ}}と4年に一度の大会との巡り合わせの悪さを語っている<ref>[[#大住 2004|大住 2004]]、249頁</ref>。 |
|||
== 現役引退 == |
|||
ワールドカップ優勝を逃したことで一時は選手生活からの引退を決意していた<ref name="イレブン">「突然引退を表明したフランスの将軍プラティニ「私のサッカー選手としての情熱は燃え尽きた」」『イレブン』1987年8月号、84-86頁</ref>が、同大会で[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン]]を優勝に導いた[[ディエゴ・マラドーナ]]の「ナポリを必ずリーグ優勝させる」との発言に触発され<ref name="イレブン"/>引退を1年先延ばししてピッチに舞い戻った。しかし1986-87シーズンが開幕すると首位を独走するナポリを捉えることは出来ずに優勝を明け渡した<ref name="イレブン"/>。またプラティニ自身のプレーも衰えを見せ始めていた<ref name="イレブン"/>。ユヴェントス会長の[[ジャンニ・アニェッリ]]は説得に努めたが本人の意思は固く[[1987年]][[5月17日]]、セリエAの[[ブレシア・カルチョ]]戦後、 |
|||
{{Quotation|プレーをすることが以前ほど楽しくなくなった。これ以上、自分の気持ちを偽ることは出来ない。私はユヴェントスのユニフォームを二度と着ることはないだろう。|ミシェル・プラティニ}}と引退を発表した<ref name="イレブン"/>。スタジアムに残ったサポーターはフランス国歌『[[ラ・マルセイエーズ]]』を合唱して敬意を示した<ref name="イレブン"/>。 |
|||
ユヴェントスの引退と合わせてフランス代表からの引退も表明したため、同年[[4月29日]]に[[ヘルシンキ]]で行われた[[UEFA欧州選手権1988予選]]の[[サッカーアイスランド代表|アイスランド]]戦が最後の試合となった。フランス代表での通算成績は国際Aマッチ72試合出場41得点。49試合で代表キャプテンを務めた。通算得点は[[2007年]][[10月17日]]に行われた[[UEFA欧州選手権2008予選]]の[[サッカーリトアニア代表|リトアニア]]戦で[[ティエリ・アンリ]]により記録が塗り替えられるまで歴代最多記録だった<ref name="ESPN">{{cite news | url=http://soccernet.espn.go.com/report?id=197454&cc=4716 | title=France 2-0 Lithuania: Henry smashes Platini record |
|||
| publisher=ESPN Soccernet |author= |date=2007-10-17|accessdate=2010-11-03}}</ref>。 |
|||
== 引退後経歴 == |
|||
=== フランス代表監督 === |
=== フランス代表監督 === |
||
[[1988年]]10月22日、[[1990 FIFAワールドカップ| |
[[1988年]][[10月22日]]、[[1990 FIFAワールドカップ|ワールドカップイタリア大会]]予選においてフランス代表が各下の[[サッカーキプロス代表|キプロス]]に1-1で引き分けると、4日後の[[10月26日]]にフランスサッカー連盟の強化責任者クロード・ベスは監督のアンリ・ミッシェルを解任。新監督としてプラティニに白羽の矢を立てた<ref name="大住248">[[#大住 2004|大住 2004]]、248頁</ref>。プラティニは監督資格を所持していなかったため「最高管理者」として指揮を執り、[[ジェラール・ウリエ]]がアシスタントコーチを務めた<ref name="大住248"/>。 |
||
[[11月19日]]、敵地[[ベオグラード]]でのユーゴスラビア戦が初采配となったが2-3で落とし、[[1989年]][[4月29日]]に行われたユーゴスラビアとのホームゲームは0-0で引き分けた。ホームを無敗(3勝1分)という強さを持ち合わせながらアウェイでの勝負弱さ(2敗2分)が響き、全8試合を3勝2敗3分で同組のユーゴスラビア、[[サッカースコットランド代表|スコットランド]]に次ぐグループ3位で予選敗退という結果に終わった。 |
|||
[[1990年]]に入るとチームを刷新し、プラティニ世代のフェルナンデスや[[マニュエル・アモロ]]といったベテランと、エースストライカーのパパンや当時ヨーロッパ屈指のリベロと評された[[ローラン・ブラン]]らを軸に<ref name="マガジン">「将軍プラティニ率いるトリコロール軍団、優勝候補に急成長」『[[週刊サッカーマガジン|サッカーマガジン]]』1992年2月号付録</ref>、相手に時間とスペースを与えないプレッシングサッカーを志向した<ref name="マガジン"/>。同年9月から始まった[[UEFA欧州選手権1992予選]]ではスペインやチェコスロバキアと同じ組み合わせとなったが8戦全勝で予選を突破を果たし、[[1991年]][[11月20日]]に行われたアイスランド戦まで16勝3引分けの無敗記録を打ちたて、優勝候補の一角に挙げられた<ref name="マガジン"/>。また同年には[[ワールドサッカー (雑誌)|ワールドサッカー]]誌の選ぶ世界最優秀監督に選ばれた。 |
|||
[[1992年]]6月に[[スウェーデン]]で行われた[[UEFA欧州選手権1992]]ではスウェーデンとのグループ初戦を1-1、第2戦の[[サッカーイングランド代表|イングランド]]戦を0-0で引分け、最終戦では[[サッカーデンマーク代表|デンマーク]]に1-2で敗れ2分け1敗の成績でグループ1リーグ敗退となった。この責任を取り代表監督を辞任し、以後、完全に監督業から足を洗い何れのクラブや代表チームを率いたことはない。 |
|||
=== その他の活動 === |
|||
1992年2月に地元フランスの[[サヴォワ県]][[アルベールヴィル]]で開催された[[アルベールビルオリンピック]]では最終聖火ランナーを担当。同年に[[1998 FIFAワールドカップ|ワールドカップフランス大会]]開催が決まると、フランスサッカー連盟会長のフェルナン・サストルと大会組織委員会の共同委員長に就任。[[2001年]]1月からはフランスサッカー連盟(FFF)副会長。[[2002年]]からは国際サッカー連盟(FIFA)と欧州サッカー連盟(UEFA)の理事を歴任。[[2006年]]からはFIFAの技術委員と普及委員を務めた。 |
|||
同年[[7月]]にUEFA会長選挙への立候補を表明。プラティニは[[UEFAランキング]]上位3か国の[[UEFAチャンピオンズリーグ]]出場枠を現行の4から3に減らし下位国に分配する改革案などを公約として掲げていた<ref>{{cite news | url=http://www.afpbb.com/article/sports/soccer/uefa/2160732/1201494 | title=<サッカー>プラティニ氏 UEFA会長選に向けマニフェストを発表 - フランス | publisher=AFPBB News |author= |date=2006-12-29|accessdate=2010-11-03}}</ref>。当初、[[ドイツ]]の[[フランツ・ベッケンバウアー]]が出馬するものと考えられていたが、最終的に辞退<ref name="AFPBB070110">{{cite news | url=http://www.afpbb.com/article/sports/soccer/soccer-others/2164626/1222548 | title=<サッカー>プラティニ氏 会長選対立候補のヨハンソン氏を激しく批難 - フランス | publisher=AFPBB News |author= |date=2007-01-10|accessdate=2010-11-03}}</ref>。退任することが確実視されていた現職でスウェーデン人の[[レナート・ヨハンソン]]が出馬を表明し両者間で争われることになった<ref name="AFPBB070110"/>。 |
|||
=== UEFA会長 === |
|||
[[2007年]][[1月26日]]、[[ドイツ]]・[[デュッセルドルフ]]でのUEFA総会で次期会長選挙を行い、2002年から理事になっていたプラティニを会長に選出した<ref name="AFPBB070127">{{cite news | url=http://www.afpbb.com/article/sports/soccer/uefa/2173118/1275536 | title=<サッカー>プラティニ氏 UEFA新会長に当選 - ドイツ | publisher=AFPBB News |author= |date=2007-01-27|accessdate=2010-11-03}}</ref>。任期は4年。加盟52協会による投票で1回目に50の有効票から27票を獲得し、当選に必要な過半数の支持を獲得し現職のレナート・ヨハンソンを退けた<ref name="AFPBB070127"/>。また規約により自動的にFIFAの副会長に就任した。 |
|||
プラティニは会長就任後、最初の総会で公約の実現を改めて提言<ref>{{cite news | url=http://www.afpbb.com/article/sports/soccer/champion-league/2173962/1280435 | title=<サッカー>プラティニ新会長 チャンピオンズリーグ出場枠の見直しを再度提言 - フランス| publisher=AFPBB News |author= |date=2007-01-29|accessdate=2010-11-03}}</ref> |
|||
。[[アーセナルFC]]を初めとしたビッグクラブによる選手の異常な青田買いなどの規制を掲げており、[[G-14]]間でのクラブ間の経済力格差の拡大や、その他中小クラブとの格差拡大に歯止めをかけられうる人物としての手腕が期待された<ref>{{cite news | url=http://footballtruth.at.webry.info/200702/article_1.html | title=第219回 UEFA新会長ミシェル・プラティニの挑戦| publisher=フットボールの真実 |author= |date=2007-02-13|accessdate=2010-11-03}}</ref><ref>{{cite news | url=http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=2035 | title=ミシェル・プラティニ(1)UEFA新会長になったフランスの“将軍”| publisher=賀川サッカーライブラリー |author=賀川浩 |date=|accessdate=2010-11-03}}</ref>。 |
|||
[[File:Wroclaw-Platini-visit.jpg|250px|thumb|left|[[ヴロツワフ]]にある[[UEFA欧州選手権2012]]の会場の建設現場を視察したプラティニ]] |
|||
同年[[11月30日]]、UEFA理事会で2009年から2012年に行われるUEFAチャンピオンズリーグにおいて新方式のルールを導入することを決定した<ref name="AFPBB071201">{{cite news | url=http://www.afpbb.com/article/sports/soccer/champion-league/2319596/2415092 | title=欧州チャンピオンズリーグ 2009年から12年までは新方式を導入 | publisher=AFPBB News |author= |date=2007-12-01|accessdate=2010-11-03}}</ref>。本戦は現行方式を踏襲するが、本戦出場チームの決定に2つの予選を併用。5枠はUEFAランキング上位15か国のクラブで争われ、残りの枠は同ランキングの16位から最下位までの国内リーグ勝者同士で争われることになった<ref name="AFPBB071201"/>。この新方式は小国にチャンピオンズリーグへの出場機会を与えることを公約として掲げていたプラティニの意向を取り入れたものになった<ref name="AFPBB071201"/>。 |
|||
[[2008年]][[5月30日]]、FIFA 総会でクラブによる試合において自国の選手6人を先発出場させ、外国籍選手の先発を最大5人までに制限する「6+5ルール」制度の導入が採択<ref name="AFPBB080530">{{cite news | url=http://www.afpbb.com/article/sports/soccer/uefa/2173118/1275536 | title=FIFA 総会で6+5ルールの導入を採択| publisher=AFPBB News |author= |date=2008-05-30|accessdate=2010-11-03}}</ref>され、これを支持した。 |
|||
しかし、[[イビチャ・オシム]]が率いるユーゴスラビアの前に、アウェイを2-3で落とし<ref name="fff476" />、ホームでも0-0で引き分けた<ref>[http://www.fff.fr/cgi-bin/historique/hist_detail.pl?nomatch=479 FFF : Equipe de France de Football]</ref>。ホームを無敗(3勝1分)という強さを持ち合わせながらアウェイでの勝負弱さ(2敗2分)が響き、全8試合を3勝2敗3分で同組のユーゴスラビア、[[サッカースコットランド代表|スコットランド]]の後塵を拝しグループ3位で予選敗退という結果に終わった。 |
|||
また誤審問題に関して、従来の3人審判制から5人審判制に移行する案に賛成の対場を取っており<ref name="AFPBB071104">{{cite news | url=http://www.afpbb.com/article/sports/soccer/soccer-others/2306779/2311009 | title=プラティニ会長 5人審判制の導入を改めて主張 | publisher=AFPBB News |author= |date=2007-11-04|accessdate=2010-11-03}}</ref>、[[ビデオ判定]]の導入には反対の立場を取っている<ref name="AFPBB071104"/>。 |
|||
翌年からの欧州選手権予選ではチームを刷新し、パパン、フェルナンデスら過去の栄光を知る選手を軸に、若い[[エリック・カントナ]]や[[ローラン・ブラン]]らを抜擢、全勝で予選を突破すると優勝候補の一角に挙げられた。 |
|||
しかし期待された[[UEFA欧州選手権1992]]では最終戦でこの大会の覇者、[[サッカーデンマーク代表|デンマーク]]の前に1-2で敗れ去り<ref>[http://www.fff.fr/cgi-bin/historique/hist_detail.pl?nomatch=504 FFF : Equipe de France de Football]</ref>1次リーグ敗退。この責任を取り代表監督を辞任した。 |
|||
== 人物 == |
|||
以後、完全に監督業から足を洗い、いずれの国やクラブも率いた事は無い。 |
|||
=== プレースタイル === |
|||
[[File:Michel Platini in Wroclaw by Klearchos Kapoutsis wide crop.jpg|thumb|2009年のプラティニ]] |
|||
[[司令塔 (スポーツ)|ゲームメーカー]]として有すべき視野の広さ、足元のテクニックに右足から繰り出す様々な種類のパスと正確な[[フリーキック (サッカー)|フリーキック]]、得点感覚が特徴<ref>[[#ウィリアムズ 2007|ウィリアムズ 2007]]、167頁</ref>。中盤では長短のパスを自在に操り試合のリズムに変化を与えることに優れていたが、その多くはシンプルなダイレクトプレーであり<ref>[[#西部 2010|西部 2010]]、116頁</ref>、相手選手との接触プレーをかわすように1タッチ2タッチでのパスを回しを基調としていた<ref>[[#西部 2010|西部 2010]]、118頁</ref>。 |
|||
===UEFA会長=== |
|||
[[ヨーロッパサッカー連盟]](UEFA)は2007年1月26日、[[ドイツ]]・[[デュッセルドルフ]]での総会で次期会長選挙を行い、2002年から理事になっていたプラティニを会長に選出した。任期は4年で、スウェーデン人の[[レナート・ヨハンソン]]と争ったプラティニは、加盟52協会による投票で1回目に50の有効票から27票を獲得し、当選に必要な過半数の支持を得た<ref>[http://jp.uefa.com/footballeurope/news/kind=2/newsid=500698.html UEFA新会長にプラティニ氏] - UEFA.com</ref><ref>[http://jp.uefa.com/footballeurope/news/kind=2/newsid=501045.html プラティニ新会長、「冒険の始まり」] - UEFA.com</ref>。 |
|||
また、ゲームメーカーとしての能力だけでなく、両サイドに流れたりペナルティエリア内に積極的に進入して得点を決める、[[フォワード (サッカー)#セカンドトップ|1.5列目]]やトップ下と形容される位置でのプレーも得意とした<ref>{{cite news | url=http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=2038 | title=ミシェル・プラティニ(4)真価を発揮、優勝と得点王を手にしたEURO84| publisher=賀川サッカーライブラリー |author=賀川浩 |date=|accessdate=2010-11-03}}</ref><ref>{{cite news | url=http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=2039 | title=ミシェル・プラティニ(5)プレーメイカー&ストライカーとしてペレ、クライフの系譜に| publisher=賀川サッカーライブラリー |author=賀川浩 |
|||
プラティニは[[UEFAランキング]]上位協会の欧州チャンピオンズリーグ出場枠を現行の最大4から3に減らし、他協会に振り分ける改革案や、[[アーセナル]]を初めとしたビッグクラブによる選手の異常な青田買いなどの規制を掲げており、[[G-14]]間でのクラブ間の経済力格差の拡大や、その他中小クラブとの格差拡大に歯止めをかけられうる人物として期待されている<ref>[http://footballtruth.at.webry.info/200702/article_1.html 第219回 UEFA新会長ミシェル・プラティニの挑戦] - フットボールの真実</ref>。 |
|||
|date=|accessdate=2010-11-03}}</ref>。ゴール前では中盤でのプレースタイルとは打って変わって接触プレーを恐れずに強引なプレーを仕掛けていた<ref>[[#西部 2010|西部 2010]]、119頁</ref>が、シュートの瞬間は得意な角度から力強いシュートを叩き込むのではなく<ref name="西部121">[[#西部 2010|西部 2010]]、121頁</ref>、冷静に無理なくゴールに流し込むタイプだった<ref name="西部121"/>。 |
|||
プラトッシュ(Platoche)と呼ばれたフリーキックに関しては1976年の代表デビューとなったチェコスロバキア戦、1981年のワールドカップスペイン大会予選最終戦オランダ戦、1985年のワールドカップメキシコ大会予選最終戦のユーゴスラビア戦、1984年の欧州選手権決勝のスペイン戦<ref>{{cite news | url=http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=2296 | title=プラティニのFK | publisher=賀川サッカーライブラリー |author=賀川浩|date=|accessdate=2010-11-03}}</ref>など勝負の懸かった重要な試合で得点を決めた事から彼の代名詞となっている。 |
|||
== プレースタイル == |
|||
[[司令塔 (スポーツ)|ゲームメーカー]]として有すべき視野の広さ、足元の優雅なテクニックに右足インサイドキックから繰り出す芸術的な[[フリーキック (サッカー)|フリーキック]]、得点感覚、どれをとっても「'''将軍'''」という愛称に相応しいものだった。選手時代の記録と実績、それ以上に人々の記憶に残るプレーの数々で今も強烈な印象を残している<ref>[http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=2035 ミシェル・プラティニ(1)UEFA新会長になったフランスの“将軍”]- 賀川サッカーライブラリー </ref>。 |
|||
[[ヨハン・クライフ]]やマラドーナのような瞬間的な加速力<ref name="西部124">[[#西部 2010|西部 2010]]、125頁</ref>、あるいは若い頃に心肺機能に問題があると判断されたように高い身体能力を持ち合わせてはいなかった<ref name="西部124"/>。一方でサッカーの王様と言われる[[ペレ]]はプラティニを次のように評している<ref>[[#ウィリアムズ 2007|ウィリアムズ 2007]]、167頁</ref>。{{Quotation|いかなる時代のブラジル代表においても、いかなるポジションを務めることが出来ただろう、唯一のフランス人選手。|ペレ}} |
|||
また、ゲームメーカーとしての能力だけでなく、両サイドに流れたりペナルティエリア内に積極的に進入して得点を決める、現在でいう[[1.5列目]]や[[トップ下]]と形容されるプレーも得意とした<ref>[http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=2038 ミシェル・プラティニ(4)真価を発揮、優勝と得点王を手にしたEURO84]- 賀川サッカーライブラリー </ref><ref>[http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=2039 ミシェル・プラティニ(5)プレーメイカー&ストライカーとしてペレ、クライフの系譜に]- 賀川サッカーライブラリー </ref><ref>[http://www.fcjapan.co.jp/coaching/striker/12_3.html バチストンからのライナー性のクロスは一つの「型」だ]- 賀川 浩「ストライカーの技術講座」 </ref>。 |
|||
=== 人となり === |
|||
フランス代表時代の監督だったミシェル・イダルゴはプラティニの人物像について |
|||
{{Quotation|彼は生まれながらのシェフであり、オーケストラの指揮者である。|ミシェル・イダルゴ}}と評している<ref name="大住254">[[#大住 2004|大住 2004]]、254頁</ref>。当時のフランス代表では国外でプレーする数少ないの選手の一人であり、ピッチ上だけでなく外でもリーダーシップを発揮できる選手だった<ref name="大住254"/>。その点がピッチ上では才能を発揮するが普段は寡黙なジダンと決定的に違うとイダルゴは発言している<ref name="大住254"/>。 |
|||
将軍の愛称から孤高のイメージを持たれるが<ref name="西部125">[[#西部 2010|西部 2010]]、125頁</ref>、感情の起伏が激しいマラドーナや無表情な[[ジーコ]]とも異なる<ref name="西部125"/>。前述のトヨタカップで得点を取り消された場面のように感情を強く表に出す訳でもなく、どこか飄々としていて人間臭い<ref name="西部125"/><ref name="ウィリアムズ149">[[#ウィリアムズ 2007|ウィリアムズ 2007]]、149頁</ref>、物事を一歩引いた位置から眺めている<ref name="ウィリアムズ149"/><ref>[[#西部 2010|西部 2010]]、127頁</ref>ような人物と評される。 |
|||
フリーキックに関しては[[1976年]]の代表デビューとなった[[サッカーチェコスロバキア代表|チェコスロバキア]]戦<ref>[http://www.fff.fr/cgi-bin/historique/hist_detail.pl?nomatch=365 FFF :Equipe de France de Football]</ref>、1981年の[[1982 FIFAワールドカップ|ワールドカップ・スペイン大会]]予選最終戦[[サッカーオランダ代表|オランダ]]戦<ref>[http://www.fff.fr/cgi-bin/historique/hist_detail.pl?nomatch=407 FFF : Equipe de France de Football]</ref>、1985年の[[1986 FIFAワールドカップ|ワールドカップ・メキシコ大会]]予選最終戦[[サッカーユーゴスラビア代表|ユーゴスラビア]]戦<ref>[http://www.fff.fr/cgi-bin/historique/hist_detail.pl?nomatch=448 FFF : Equipe de France de Football]</ref>、1984年の[[UEFA欧州選手権1984|欧州選手権]]決勝の[[サッカースペイン代表|スペイン]]戦<ref>[http://www.fff.fr/cgi-bin/historique/hist_detail.pl?nomatch=439 FFF : Equipe de France de Football]</ref><ref>[http://www.fcjapan.co.jp/coaching/striker/13_2.html 相手の判断の裏をかくタイミングの良さで自信を持つFK ]- 賀川 浩「ストライカーの技術講座」</ref>など勝負の懸かった重要な試合で得点を決めた事から彼の代名詞となっている。 |
|||
== エピソード == |
== エピソード == |
||
*靴下を下ろし、ユニフォームの裾を出してプレーするのがトレードマーク |
*靴下を下ろし、ユニフォームの裾を出してプレーするのがトレードマークだった<ref name="西部125"/>。裾を出す理由は「お尻の大きさを隠せるから」というものである。 |
||
*[[パスタ]]が好物で、太りやすい体質だった<ref name="西部125"/>。引退後フランス代表の監督時代には、現役時代に比べかなり太っていた。 |
|||
*ワールドカップについて「1978年は若すぎた、1982年は内臓の具合が悪かった、1986年も脚の具合が悪かった、どういう訳かそういう巡り合わせなんだ」と語っている<ref name="ワールドカップ">{{Cite book|和書|author=[[大住良之]]|year=2004|title=理想のフットボール敗北する現実|volume=249頁|publisher=双葉社}}</ref>。 |
|||
*喫煙者でもあり<ref name="ウィリアムズ149"/>、ユベントス時代にクラブの会長に禁煙を言い渡されたこともあるが、「[[マッシモ・ボニーニ|ボニーニ]]<ref>当時のユベントスの名バイプレイヤー。[[サンマリノ]]出身。</ref>が吸わない限りは大丈夫だ。」と言い返したという。 |
|||
*自身が出場した、1984-85シーズンの[[UEFAチャンピオンズカップ]]決勝戦で、[[ヘイゼルの悲劇]]が起こり、そのショックで、その次のシーズンを最後に現役を引退した(なお、この決勝戦での優勝カップは更衣室で受け取った)。 |
|||
*1986年ワールドカップの3位決定戦には出場せず、フランス代表は彼の後継者と目された[[ジャン=ピエール・パパン]]など若手中心のオーダーでベルギーを退ける。3位メダルはピンクのシャツを着て受け取り、物議を醸した。 |
|||
*[[パスタ]]が好物で、太りやすい体質であった。引退後フランス代表の監督時代には、現役時代に比べかなり太っていた。 |
|||
*喫煙者でもあり、ユベントス時代にクラブの会長に禁煙を言い渡されたこともあるが、「[[マッシモ・ボニーニ|ボニーニ]]<ref>当時のユベントスの名バイプレイヤー。[[サンマリノ]]出身。</ref>が吸わない限りは大丈夫だ。」と言い返したという。 |
|||
== 語録 == |
== 語録 == |
||
*「サッカーに人種はない。下手な白人ほど黒人を差別する。」 |
*「サッカーに人種はない。下手な白人ほど黒人を差別する。」 |
||
*「サッカーはミスのスポーツです。全ての選手が完璧なプレーをしたらスコアは永遠に0対0です。」 |
*「サッカーはミスのスポーツです。全ての選手が完璧なプレーをしたらスコアは永遠に0対0です。」 |
||
*「 |
*「ジダンがサッカーボールを使って出来ることをマラドーナならオレンジでやってしまう。」(マラドーナとジダンを評して<ref>{{cite news | url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/euro2000/teams/france/814529.stm | title=Platini: Zidane no match for Maradona | publisher=BBC SPORT |author= |date=2000-07-01|accessdate=2010-11-03}}</ref>) |
||
*「10番というより9.5番だ。」([[ロベルト・バッジョ]]を評して) |
*「10番というより9.5番だ。」([[ロベルト・バッジョ]]を評して) |
||
:バッジョが9番([[ストライカー]])と10番([[プレイメーカー]]、攻撃的MF)両方の役割をこなせる選手という意味。 |
:バッジョが9番([[ストライカー]])と10番([[プレイメーカー]]、攻撃的MF)両方の役割をこなせる選手という意味。 |
||
*「私はゴールすることが最大の喜びだったが、彼はチームが勝つことが最大の喜びだった。」( |
*「私はゴールすることが最大の喜びだったが、彼はチームが勝つことが最大の喜びだった。」(ジダンを評して) |
||
== |
== 獲得タイトル == |
||
=== クラブ === |
|||
* 1976年 [[フランス・フットボール]]選定フランス年間最優秀選手 |
|||
; ASナンシー |
|||
* 1977年 フランス・フットボール選定フランス年間最優秀選手 |
|||
* |
* [[リーグ・ドゥ|ディヴィジョン・ドゥ]] 1回(1976年) |
||
* |
* [[クープ・ドゥ・フランス]] 1回(1978年) |
||
; ASサンテティエンヌ |
|||
* [[リーグ・アン|ディヴィジョン・アン]] 1回(1981年) |
|||
* 1982年 [[クープ・ドゥ・フランス]]準優勝(ASサンテティエンヌ) |
|||
; ユヴェントス |
|||
* [[セリエA (サッカー)|セリエA]] 2回(1984年、1986年) |
|||
* 1983年 [[UEFAチャンピオンズリーグ|UEFAチャンピオンズカップ]] 優勝(ユヴェントス) |
|||
* |
* [[コッパ・イタリア]] 1回(1983年) |
||
* [[UEFAカップウィナーズカップ]] 1回(1984年) |
|||
* 1983年 [[バロンドール]]受賞 |
|||
* [[UEFAスーパーカップ]] 1回(1984年) |
|||
* 1984年 [[セリエA (サッカー)|セリエA]] 優勝(ユヴェントス) |
|||
* |
* [[UEFAチャンピオンズリーグ|UEFAチャンピオンズカップ]] 1回(1985年) |
||
* |
* [[インターコンチネンタルカップ (サッカー)|トヨタカップ]] 1回(1985年) |
||
* 1984年 [[セリエA (サッカー)|セリエA]] 得点王(20 ゴール) |
|||
* 1984年 [[バロンドール]]受賞 |
|||
* 1984年 世界最優秀選手([[ワールドサッカー (雑誌)|ワールドサッカー誌]]) |
|||
* 1985年 [[UEFAチャンピオンズリーグ|UEFAチャンピオンズカップ]] 優勝(ユヴェントス) |
|||
* 1985年 [[インターコンチネンタルカップ (サッカー)|トヨタカップ]] 優勝(ユヴェントス) |
|||
* 1985年 [[セリエA (サッカー)|セリエA]] 得点王(18 ゴール) |
|||
* 1985年 [[バロンドール]]受賞 |
|||
* 1985年 世界最優秀選手([[ワールドサッカー (雑誌)|ワールドサッカー誌]]) |
|||
* 1986年 [[セリエA (サッカー)|セリエA]] 優勝(ユヴェントス) |
|||
* 1991年 [[ワールドサッカー (雑誌)|ワールドサッカー誌選出・世界最優秀監督]](フランス代表) |
|||
* 1999年 [[ワールドサッカー (雑誌)|20世紀の偉大なサッカー選手100人]] 5位(ワールドサッカー誌) |
|||
* 2004年 [[FIFA 100]] |
|||
* 2004年 [[ゴールデンフット賞]](all time legend) |
|||
== 代表 |
=== 代表 === |
||
* [[UEFA欧州選手権1984]] 1回(1984年) |
|||
* 1978年 [[1978 FIFAワールドカップ|ワールドカップ・アルゼンチン大会]]: 一次リーグ |
|||
* [[アルテミオ・フランキ・トロフィー]] 1回(1985年) |
|||
* 1982年 [[1982 FIFAワールドカップ|ワールドカップ・スペイン大会]]: 4位 |
|||
* 1984年 [[UEFA欧州選手権1984|UEFAヨーロッパ選手権フランス大会]]: 優勝 |
|||
* 1985年 [[アルテミオ・フランキ・トロフィー]]: 優勝 |
|||
* 1986年 [[1986 FIFAワールドカップ|ワールドカップ・メキシコ大会]]: 3位 |
|||
=== 個人 === |
|||
72試合41得点を記録し主将として49試合に出場した。得点数はフランス歴代1位である。 |
|||
; 現役時代 |
|||
* [[フランス・フットボール]]選定フランス年間最優秀選手賞 2回(1976年、1977年) |
|||
* セリエA得点王 3回(1983年、1984年、1985年) |
|||
* [[バロンドール]] 3回(1983年、1984年、1985年) |
|||
* [[オンズドール]] 3回(1983年、1984年、1985年) |
|||
* [[ワールドサッカー (雑誌)|ワールドサッカー]]選定世界最優秀選手賞 2回(1984年、1985年) |
|||
* グエリン・スポルティーヴォ選定イタリア最優秀選手 1回(1984年) |
|||
* UEFA欧州選手権1984最優秀選手(1984年) |
|||
* UEFA欧州選手権1984得点王(1984年) |
|||
* UEFAチャンピオンズカップ得点王 1回(1985年) |
|||
* トヨタカップ最優秀選手(1985年) |
|||
==監督歴== |
|||
* [[レジオンドヌール勲章]]シュヴァリエ章(1985年) |
|||
{{Commons|Category:Michel Platini}} |
|||
; 引退後 |
|||
*[[サッカーフランス代表|フランス代表]]監督 1989-1992 |
|||
* レジオンドヌール勲章オフィシエ章(1988年) |
|||
** 1992年 [[サッカー欧州選手権1992|UEFAヨーロッパ選手権スウェーデン大会]]: 一次リーグ |
|||
* ワールドサッカー選定世界最優秀監督賞 1回(1991年) |
|||
* [[エル・パイス]]選定欧州年間最優秀監督賞 1回(1991年) |
|||
==引退後経歴== |
|||
* [[20世紀ワールドチーム]](1998年) |
|||
*UEFA技術開発委員会、委員 1988-90 |
|||
* ワールドサッカー選定20世紀の偉大なサッカー選手100人 5位(1999年) |
|||
*フランスW杯大会組織委員長 1998 |
|||
* [[FIFA 100]](2004年) |
|||
*FIFA執行委員会、委員 2002-2006 |
|||
* [[ゴールデンフット賞]]オールタイム・レジェンド (2004年) |
|||
*UEFA執行委員会、委員 2002-2006 |
|||
* [[イングランドサッカー殿堂]]オールタイム・欧州最優秀選手(2008年) |
|||
*FIFA技術開発委員会議長 ?-2006 |
|||
*UEFA会長 2007- |
|||
== 個人成績 == |
== 個人成績 == |
||
=== クラブでの成績 === |
|||
{|class="wikitable" style="margin:1em; text-align:center;" |
{|class="wikitable" style="margin:1em; text-align:center;" |
||
|- |
|||
!rowspan="2" width=134|クラブ |
|||
!rowspan="2"|年度 |
|||
!colspan="2"|リーグ |
|||
!colspan="2"|カップ |
|||
!colspan="2"|欧州カップ |
|||
!colspan="2"|その他 |
|||
!colspan="2"|合計 |
|||
|- |
|||
!試合 |
|||
!得点 |
|||
!試合 |
|||
!得点 |
|||
!試合 |
|||
!得点 |
|||
!試合 |
|||
!得点 |
|||
!試合 |
|||
!得点 |
|||
|- |
|- |
||
|rowspan="8" align=center valign=center|{{flagicon|FRA}}'''[[ASナンシー|ナンシー]]''' |
|||
!rowspan="2"|年度!! rowspan="2"|クラブ!!rowspan="2"|リーグ!! rowspan="2"|背番号!! colspan="2"|リーグ!! colspan="2"|カップ!! colspan="2"|欧州カップ戦 |
|||
|align="center"|1972-73 |
|||
|align="center"|5 |
|||
|align="center"|2 |
|||
|align="center"|0 |
|||
|align="center"|0 |
|||
|align="center"|0 |
|||
|align="center"|0 |
|||
|align="center"|0 |
|||
|align="center"|0 |
|||
!5 |
|||
!2 |
|||
|- |
|||
|align="center"|1973-74 |
|||
|align="center"|21 |
|||
|align="center"|2 |
|||
|align="center"|3 |
|||
|align="center"|0 |
|||
|align="center"|0 |
|||
|align="center"|0 |
|||
|align="center"|0 |
|||
|align="center"|0 |
|||
!24 |
|||
!2 |
|||
|- |
|||
|align="center"|1974-75 |
|||
|align="center"|33 |
|||
|align="center"|17 |
|||
|align="center"|7 |
|||
|align="center"|13 |
|||
|align="center"|0 |
|||
|align="center"|0 |
|||
|align="center"|0 |
|||
|align="center"|0 |
|||
!40 |
|||
!30 |
|||
|- |
|||
|align="center"|1975-76 |
|||
|align="center"|31 |
|||
|align="center"|22 |
|||
|align="center"|7 |
|||
|align="center"|6 |
|||
|align="center"|0 |
|||
|align="center"|0 |
|||
|align="center"|0 |
|||
|align="center"|0 |
|||
!38 |
|||
!28 |
|||
|- |
|||
|align="center"|1976-77 |
|||
|align="center"|38 |
|||
|align="center"|25 |
|||
|align="center"|1 |
|||
|align="center"|0 |
|||
|align="center"|0 |
|||
|align="center"|0 |
|||
|align="center"|0 |
|||
|align="center"|0 |
|||
!39 |
|||
!25 |
|||
|- |
|||
|align="center"|1977-78 |
|||
|align="center"|36 |
|||
|align="center"|18 |
|||
|align="center"|10 |
|||
|align="center"|7 |
|||
|align="center"|0 |
|||
|align="center"|0 |
|||
|align="center"|0 |
|||
|align="center"|0 |
|||
!46 |
|||
!25 |
|||
|- |
|||
|align="center"|1978-79 |
|||
|align="center"|19 |
|||
|align="center"|12 |
|||
|align="center"|5 |
|||
|align="center"|3 |
|||
|align="center"|0 |
|||
|align="center"|0 |
|||
|align="center"|0 |
|||
|align="center"|0 |
|||
!24 |
|||
!15 |
|||
|- style="background:lemonchiffon" |
|||
!合計 |
|||
!183!!98!!33!!29!!0!!0!!0!!0!!216!!127 |
|||
|- |
|- |
||
|rowspan="4" align=center valign=center|{{flagicon|FRA}}'''[[ASサンテティエンヌ|サンテティエンヌ]]''' |
|||
!出場!!得点!!出場!!得点!!出場!!得点 |
|||
|align="center"|1979-80 |
|||
|align="center"|33 |
|||
|align="center"|16 |
|||
|align="center"|7 |
|||
|align="center"|5 |
|||
|align="center"|7 |
|||
|align="center"|5 |
|||
|align="center"|0 |
|||
|align="center"|0 |
|||
!47 |
|||
!26 |
|||
|- |
|||
|align="center"|1980-81 |
|||
|align="center"|35 |
|||
|align="center"|20 |
|||
|align="center"|10 |
|||
|align="center"|5 |
|||
|align="center"|7 |
|||
|align="center"|4 |
|||
|align="center"|0 |
|||
|align="center"|0 |
|||
!52 |
|||
!29 |
|||
|- |
|||
|align="center"|1981-82 |
|||
|align="center"|36 |
|||
|align="center"|22 |
|||
|align="center"|8 |
|||
|align="center"|5 |
|||
|align="center"|2 |
|||
|align="center"|0 |
|||
|align="center"|0 |
|||
|align="center"|0 |
|||
!46 |
|||
!27 |
|||
|- style="background:lemonchiffon" |
|||
!合計 |
|||
!104!!58!!25!!15!!16!!9!!0!!0!!145!!82 |
|||
|- |
|- |
||
|rowspan="6" align=center valign=center|{{flagicon|ITA}}'''[[ユヴェントスFC|ユヴェントス]]''' |
|||
|1972-73||[[ASナンシー|ナンシー]]||[[リーグアン]]||||4||2||_||_||_||_ |
|||
|align="center"|1982-83 |
|||
|align="center"|30 |
|||
|align="center"|16 |
|||
|align="center"|13 |
|||
|align="center"|7 |
|||
|align="center"|9 |
|||
|align="center"|5 |
|||
|align="center"|0 |
|||
|align="center"|0 |
|||
!52 |
|||
!28 |
|||
|- |
|||
|align="center"|1983-84 |
|||
|align="center"|28 |
|||
|align="center"|20 |
|||
|align="center"|7 |
|||
|align="center"|3 |
|||
|align="center"|8 |
|||
|align="center"|2 |
|||
|align="center"|0 |
|||
|align="center"|0 |
|||
!43 |
|||
!25 |
|||
|- |
|||
|align="center"|1984-85 |
|||
|align="center"|30 |
|||
|align="center"|18 |
|||
|align="center"|7 |
|||
|align="center"|4 |
|||
|align="center"|9 |
|||
|align="center"|7 |
|||
|align="center"|1 |
|||
|align="center"|0 |
|||
!47 |
|||
!29 |
|||
|- |
|||
|align="center"|1985-86 |
|||
|align="center"|30 |
|||
|align="center"|12 |
|||
|align="center"|4 |
|||
|align="center"|1 |
|||
|align="center"|6 |
|||
|align="center"|3 |
|||
|align="center"|1 |
|||
|align="center"|1 |
|||
!41 |
|||
!17 |
|||
|- |
|||
|align="center"|1986-87 |
|||
|align="center"|29 |
|||
|align="center"|2 |
|||
|align="center"|8 |
|||
|align="center"|1 |
|||
|align="center"|4 |
|||
|align="center"|2 |
|||
|align="center"|0 |
|||
|align="center"|0 |
|||
!41 |
|||
!5 |
|||
|- style="background:lemonchiffon" |
|||
!合計 |
|||
!147!!68!!39!!16!!36!!19!!2!!1!!224!!104 |
|||
|- style="background:beige" |
|||
!colspan="2"|通算 |
|||
!434!!224!!97!!60!!52!!28!!2!!1!!585!!313 |
|||
|} |
|||
=== 代表での成績<ref>{{cite news | url=http://www.rsssf.com/miscellaneous/platini-intlg.html | title=Michel Platini - Goals in International Matches | publisher=rsssf.com |author= |date=|accessdate=2010-11-03}}</ref> === |
|||
{| class="wikitable" style="text-align: center;" |
|||
|- style="background:beige" |
|||
!rowspan="2"|チーム |
|||
!rowspan="2"|年 |
|||
!colspan="2"|公式戦 |
|||
!colspan="2"|親善試合 |
|||
!colspan="2"|合計 |
|||
|- style="background:beige" |
|||
!出場 |
|||
!得点 |
|||
!出場 |
|||
!得点 |
|||
!出場 |
|||
!得点 |
|||
|- |
|- |
||
|rowspan="12"|{{FRA|fb}} |
|||
|1973-74||ナンシー||リーグアン||||21||2||3||0||_||_ |
|||
|1976 |
|||
| 2 || 2 || 3 || 2 || 5 || 4 |
|||
|- |
|- |
||
|1977 |
|||
|1974-75||ナンシー||リーグドゥ||||32||17||6||13||_||_ |
|||
| 2 || 1 || 5 || 1 || 7 || 2 |
|||
|- |
|- |
||
|1978 |
|||
|1975-76||ナンシー||リーグアン||||31||22||7||6||_||_ |
|||
| 3 || 1 || 3 || 3 || 6 || 4 |
|||
|- |
|- |
||
|1979 |
|||
|1976-77||ナンシー||リーグアン||||38||25||1||0||_||_ |
|||
| 2 || 1 || 2 || 1 || 4 || 2 |
|||
|- |
|- |
||
|1980 |
|||
|1977-78||ナンシー||リーグアン||||36||18||10||7||_||_ |
|||
| 2 || 3 || 4 || 2 || 6 || 5 |
|||
|- |
|- |
||
|1981 |
|||
|1978-79||ナンシー||リーグアン||||19||12||5||3||_||_ |
|||
| 3 || 2 || 1 || 0 || 4 || 2 |
|||
|- |
|- |
||
|1982 |
|||
|1979-80||[[ASサンテティエンヌ|サンテティエンヌ]]||リーグアン||||33||16||7||5||7||5 |
|||
| 5 || 2 || 5 || 2 || 10 || 4 |
|||
|- |
|- |
||
|1983 |
|||
|1980-81||サンテティエンヌ||リーグアン||||35||20||10||5||7||4 |
|||
| 0 || 0 || 4 || 1 || 4 || 1 |
|||
|- |
|- |
||
|1984 |
|||
|1981-82||サンテティエンヌ||リーグアン||||36||22||8||5||2||0 |
|||
| 8 || 11 || 2 || 2 || 10 || 13 |
|||
|- |
|- |
||
|1985 |
|||
|1982-83||[[ユヴェントス]]||[[セリエA (サッカー)|セリエA]]||||30||16||9||7||9||5 |
|||
| 6 || 2 || 0 || 0 || 6 || 2 |
|||
|- |
|- |
||
|1986 |
|||
|1983-84||ユヴェントス||セリエA||||28||20||7||3||8||2 |
|||
| 8 || 2 || 1 || 0 || 9 || 2 |
|||
|- |
|- |
||
|1987 |
|||
|1984-85||ユヴェントス||セリエA||||30||18||9||4||9||7 |
|||
| 1 || 0 || 0 || 0 || 1 || 0 |
|||
|- style="background:beige" |
|||
!colspan="2"|通算 |
|||
! 40 || 27 || 32 || 14 || 72 || 41 |
|||
|- |
|- |
||
|1985-86||ユヴェントス||セリエA||||30||12||6||1||6||3 |
|||
|- |
|||
|1986-87||ユヴェントス||セリエA||||29||2||8||1||4||2 |
|||
|- |
|||
!rowspan="4"|通算 |
|||
!colspan="3"|リーグアン |
|||
|253||139||51||31||16||9 |
|||
|- |
|||
!colspan="3"|リーグドゥ |
|||
|32||17||6||13||_||_ |
|||
|- |
|||
!colspan="3"|セリエA |
|||
|147||68||39||16||36||19 |
|||
|- |
|||
! colspan="3" | 合計 !!432!!224!!96!!60!!52!!28 |
|||
|} |
|} |
||
== 脚注 == |
|||
<!--== 将軍の罪(プラティニとジダンの罪) == |
|||
{{Reflist|2}} |
|||
フランス史上偉大な選手プラティニは代表を率いて様々な功績を上げ、名実ともにフランスサッカー界に名を残す選手である。しかし、フランスのサッカーは彼に頼ってしまい、プラティニ引退後に後継者不在の状況を作ることとなり、プラティニの引退後のフランス代表は[[ジネディーヌ・ジダン|ジダン]]を擁すようになった母国でのFIFAワールドカップまでの約10年ほど世界の舞台から離れる結果となった。<br /> |
|||
日韓W杯以降にはジダンが代表引退を表明したときも同じような現象(後継者不在)を招いてしまい、2006年のドイツW杯欧州予選で予選敗退の危機に陥ることとなり、ジダンに代表復帰してもらうなど皮肉にも歴史は繰り返された。--> |
|||
== |
== 参考文献 == |
||
* {{Cite book|和書|author=ブライアン・グランヴィル著、[[賀川浩]]監修、田村修一、土屋晃、田邊雅之訳|year=1998|title=決定版ワールドカップ全史|publisher=[[草思社]]|isbn=978-4794208187|ref=グランヴィル 1998}} |
|||
{{reflist|2}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=[[大住良之]]著、|year=2004|title=理想のフットボール 敗北する現実|publisher=[[双葉社]]|isbn=978-4575296594|ref=大住 2004}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=リチャード・ウィリアムズ著、町田敦夫訳|year=2007|title=背番号10のファンタジスタ|publisher=[[ベースボール・マガジン社]]|isbn=978-4583100104 |ref=ウィリアムズ 2007}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=アンドレ・リベイロ、ヴラジール・レモス著、市之瀬敦訳|year=2008|title=背番号10 サッカーに「魔法」をかけた名選手たち|publisher=[[白水社]]|isbn=978-4560026403|ref=リベイロ、レモス 2008}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=田村修一「将軍の域 ミシェル・プラティニ」|year=2010|title=ワールドカップ伝説80年代編 マラドーナの時代|publisher=[[ベースボール・マガジン社]]|isbn=978-4583616452|ref=田村 2010}} |
|||
* {{Cite book|和書|author=西部謙司|year=2010|title=神の足 サッカースーパースター技術録|publisher=コスミック出版|isbn=978-4774790398 |ref=西部 2010}} |
|||
==外部リンク== |
== 外部リンク == |
||
{{Commons|Category:Michel Platini}} |
|||
* [http://www.fff.fr/servfff/historique/historique.php?cherche_joueur=PLATINI フランスサッカー連盟による選手経歴の紹介]{{fr icon}} |
|||
* [http://www.fff.fr/servfff/historique/ |
* [http://www.fff.fr/servfff/historique/historique_new.php?cherche_joueur=PLATINI フランスサッカー連盟公式サイトによる選手歴の紹介] {{fr icon}} |
||
* [http://www.fff.fr/servfff/historique/selectionneur_new.php?id=PLATINI フランスサッカー連盟公式サイトによる監督歴の紹介] {{fr icon}} |
|||
* [http://www.fifa.com/classicfootball/players/player=28528/index.html FIFA Classic Player: Michel Platini]{{en icon}} |
* [http://www.fifa.com/classicfootball/players/player=28528/index.html FIFA Classic Player: Michel Platini]{{en icon}} |
||
* [http://www.footballdatabase.eu/football.joueurs.michel.platini.15257.fr.html footballdatabase.eu] {{en icon}} |
|||
{{先代次代|[[サッカーフランス代表|フランス代表]][[監督]]|1988-1992|[[アンリ・ミシェル]]|[[ジェラール・ウリエ]]}} |
{{先代次代|[[サッカーフランス代表|フランス代表]][[監督]]|1988-1992|[[アンリ・ミシェル]]|[[ジェラール・ウリエ]]}} |
||
{{先代次代|[[UEFA]]会長|2007 - |[[レナート・ヨハンソン]]| - }} |
{{先代次代|[[欧州サッカー連盟|UEFA]]会長|2007 - |[[レナート・ヨハンソン]]| - }} |
||
{{Navboxes|title = フランス代表 - 出場大会 |
{{Navboxes|title = フランス代表 - 出場大会 |
||
257行目: | 576行目: | ||
{{サッカーセリエA得点王}} |
{{サッカーセリエA得点王}} |
||
{{バロンドール受賞者}} |
{{バロンドール受賞者}} |
||
{{FIFA 100}} |
|||
{{トヨタカップMVP}} |
{{トヨタカップMVP}} |
||
{{UEFA欧州選手権得点王}} |
{{UEFA欧州選手権得点王}} |
||
{{フランス年間最優秀選手賞}} |
|||
{{FIFA 100}} |
|||
{{WTTC}} |
{{WTTC}} |
||
}} |
}} |
||
265行目: | 585行目: | ||
{{DEFAULTSORT:ふらていに みしえる}} |
{{DEFAULTSORT:ふらていに みしえる}} |
||
[[Category:フランスのサッカー選手]] |
[[Category:フランスのサッカー選手]] |
||
[[Category:イタリア系フランス人]] |
|||
[[Category:ASナンシーの選手]] |
[[Category:ASナンシーの選手]] |
||
[[Category:ASサンテティエンヌの選手]] |
[[Category:ASサンテティエンヌの選手]] |
||
279行目: | 597行目: | ||
[[Category:バロンドール受賞者]] |
[[Category:バロンドール受賞者]] |
||
[[Category:UEFA会長]] |
[[Category:UEFA会長]] |
||
[[Category:レジオンドヌール勲章受章者]] |
|||
[[Category:オリンピック聖火点火者]] |
[[Category:オリンピック聖火点火者]] |
||
[[Category:イタリア系フランス人]] |
|||
[[Category:ムルト=エ=モゼル県出身の人物]] |
|||
[[Category:1955年生]] |
[[Category:1955年生]] |
||
[[Category:存命人物]] |
[[Category:存命人物]] |
||
329行目: | 650行目: | ||
[[sr:Мишел Платини]] |
[[sr:Мишел Платини]] |
||
[[sv:Michel Platini]] |
[[sv:Michel Platini]] |
||
[[th:มิเชล พลาตินี]] |
|||
[[tr:Michel Platini]] |
[[tr:Michel Platini]] |
||
[[uk:Мішель Платіні]] |
[[uk:Мішель Платіні]] |
2010年12月18日 (土) 11:03時点における版
| ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
名前 | ||||||
本名 |
ミシェル・フランソワ・プラティニ Michel François Platini | |||||
愛称 | 将軍 | |||||
ラテン文字 | Michel PLATINI | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | フランス | |||||
生年月日 | 1955年6月21日(69歳) | |||||
出身地 | ムルト=エ=モゼル県ジェフ | |||||
身長 | 178cm | |||||
体重 | 74kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | MF | |||||
利き足 | 右足 | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 (得点) | ||||
1972-1979 1979-1982 1982-1987 |
ASナンシー サンテティエンヌ ユヴェントス |
175 (98) 107 (58) 147 (68) | ||||
代表歴 | ||||||
1975-1976 1975-1976 1976-1987 |
フランス五輪代表 フランスU-21代表 フランス |
7 (4) 3 (0) 72 (41) | ||||
監督歴 | ||||||
1988-1992 | フランス代表 | |||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
ミシェル・プラティニ(Michel Platini, 1955年6月21日 - )はフランス出身の元サッカー選手、元サッカー指導者。欧州サッカー連盟(UEFA)会長、国際サッカー連盟(FIFA)副会長、フランスサッカー連盟(FFF)副会長。
サッカーフランス代表のエースとして1984年のUEFA欧州選手権において同国に初の国際タイトルをもたらした1980年代を代表するサッカー選手の一人[1]であり、1950年代のレイモン・コパや1990年代のジネディーヌ・ジダンと共にフランスサッカー史に名を残す選手である[1]。愛称「Le Roi」は直訳すれば「王」だが、日本では「将軍」と意訳されることが慣例化している。
生い立ち
プラティニは1955年 6月21日にドイツの国境に近いロレーヌ地方ムルト・エ・モゼル県のジェフという貧しい製鋼の町にイタリア系移民の家庭の子として生まれる[2]。プラティニ家は、もともとは、イタリアのピエモンテ州とロンバルディア州の州境となっているノヴァーラ山の中腹にある町、アグラーテ・コントゥルビアの出身だった[2]が、祖父のフランチェスコ(左官工)が、職を求めてロレーヌに移民した[2]。プラティニ家は名字からイタリア的アクセント(プラティーニ)は取り払われ最後の“I”にアクセントが付けられるプラティニに変わっていった。
数学教師であり、ASジェフという地元のクラブのサッカー選手でもあった父、アルド・プラティニの影響でサッカーを始める[2]と、父の教えもあって早くからサッカー選手としての才能を示し始めた。1969年に行われたクープ・ガンバルデッラ(Coupe Gambardella)というユース大会での活躍がリーグアンのFCメスのスカウトの目を引き練習に参加することになった。契約寸前まで話が進んだが、心肺能力テストの結果は担当医師の要求を満たすことが出来るものではなく、呼吸器系と心臓に問題があるとして不合格となった[3][4]。1972年6月22日に17歳でASナンシーと練習生契約を結ぶことになった。
クラブ経歴
ASナンシー
1973年5月3日の1972-73シーズンのディヴィジョン・アン、ニーム・オリンピック戦でトップチームデビューを果たし(試合は3-1でナンシーの勝利)、5月12日のオリンピック・リヨン戦で初得点を記録した。同シーズンには6位という成績を残したASナンシーだが、クラブは1部と2部の間を行き来する弱小チームであり、翌1973-74シーズンにはリーグ戦17位となり2部リーグへ降格した。この時期にプラティニは代名詞となるFKを極め[5]、1974-75シーズンに自身17得点をあげる活躍をみせ、1部昇格に貢献。1年で2部から昇格して迎えた1975-76シーズンには、自身が20得点を挙げてクラブを7位にまで押し上げた。1977-78シーズンにはクープ・ドゥ・フランスで決勝に進出。OGCニースとの決勝戦では唯一となる得点を決め優勝に導き、ヴァレリー・ジスカール・デスタン大統領(当時)から優勝カップを受領した。
ASサンテティエンヌ
1979年にASサンテティエンヌに移籍。サンテティエンヌは1970年代から1980年代初頭のフランス国内において顕著な強さを誇り、国際舞台においても1974-75シーズンのUEFAチャンピオンズカップでベスト4進出、翌1975-76シーズンには準優勝の結果を残すなど活躍を続けていた。プラティニは移籍2年目の1980-81シーズンに自身初となるリーグ優勝を果たしたが、リーグタイトルはこの一つのみに終わった。国際試合においては1979-80シーズンのUEFAカップで準々決勝進出を果たしたもののドイツのボルシア・メンヒェングラートバッハに敗退。1981-82シーズンのUEFAチャンピオンズカップでは予備予選で東ドイツのディナモ・ベルリンに敗退するなど多くの結果を残すことは出来なかった。サンテティエンヌとの契約満了を前にイタリアのインテル・ミラノやイングランドのアーセナルFCと交渉を進めていたが[6]、最終的にイタリアのユヴェントスに移籍することになった。なお、この移籍はフランス人選手としてはレイモン・コパが1956年にスペインのレアル・マドリードと契約したとき以来となる大型移籍だった[7]。
ユヴェントス
1982年にイタリアのユヴェントスに移籍。ユヴェントスは、ワールドカップ・スペイン大会で優勝したイタリア代表のガエターノ・シレア、アントニオ・カブリーニ、マルコ・タルデッリ、同大会得点王のパオロ・ロッシらを擁する強豪であり、同大会で3位入賞したポーランド代表のズビグニェフ・ボニエクもプラティニと同じシーズンに加わるなど実力者揃いのクラブだったが、その中で早くも中心選手となっていった。
1982-83シーズン早々にヘルニアを患い出遅れたが、UEFAチャンピオンズカップ 1982-83決勝では西ドイツのハンブルガーSVに敗れ準優勝。国内リーグではASローマに次いで2位となり優勝は逃したが、自身は16得点を上げ得点王となった。翌1983-84シーズンには20得点を上げ2年連続で得点王となると共にユヴェントスの21回目のスクデット獲得と、UEFAカップウィナーズカップ優勝に貢献。1984-85シーズンのリーグ戦では5位となり優勝を逃したが、自身は18得点を上げて3年連続得点王を受賞した。UEFAチャンピオンズカップ 1984-85では決勝に進出しイングランドのリヴァプールFCとの対戦となった。
ヘイゼルの悲劇
1985年5月29日にベルギー・ブリュッセルのエゼル競技場で行われた決勝戦は、直前にスタジアム内でサポーター同士による暴動が発生し、死者39名重軽傷者600名を出す惨事となった。試合は予定を過ぎた1時間後に執り行われ、56分にボニエクが倒されて獲得したPKを自ら決め、クラブに初のチャンピオンズカップ優勝をもたらしたが、プラティニ自身は「人生最悪の試合[8]」「この試合の後、罪悪感に悩まされるようになり人生は変わってしまった[8]」と発言している。
トヨタカップ
同年12月8日、日本の国立霞ヶ丘競技場で行われたトヨタカップにヨーロッパ代表として出場しアルゼンチンのアルヘンティノス・ジュニアーズと対戦。試合はアルヘンティノスが先行する展開だったが、63分に獲得したPKを自ら決め1-1の同点とし、再びリードを許した後の82分には相手守備陣の裏をかくループパスをミカエル・ラウドルップに供給し2-2の同点に追いついた。延長戦でも決着はつかずPK戦までもつれこんだが、ユヴェントスの5番目のキッカーとして登場したプラティニが確実にシュートを決め4-2で勝利。ユヴェントスをヨーロッパ勢としては初のトヨタカップ優勝に導くと共に、この大会のMVPに選ばれた[9]。
またプラティニはこの試合で「トヨタカップ史上で最も美しいシュート[10]」と評される見せ場を作った[11]。68分のコーナーキックのチャンスにおいて、胸トラップから右足アウトサイドのキックフェイントでボールを浮かせ3人のDFのマークを外し、そのまま反転して左足でボレーシュートを放ちゴールネットに突き刺した。プラティニは最高のパフォーマンスを見せたとの確信からガッツポーズを見せチームメイトも彼に駆け寄り祝福したが、線審はオフサイドフラッグを掲げていたためオフサイドと判定され、幻のゴールとなった[10]。オフサイドと判定された直後に芝生の上で寝そべり、頬杖をついて判定に抗議する姿は強い印象を残した[11][12]。後にプラティニは、フランスの日刊紙リベラシオンに掲載された作家のマルグリット・デュラスとの対談において当時を振り返り、
私の選手としてのピークは、1985年の12月だった。 — ミシェル・プラティニ
と述べている[13]。
その後、UEFAチャンピオンズカップ 1985-86では準々決勝でベルント・シュスターを擁するFCバルセロナに敗退。1985-86シーズンのリーグ戦では4年連続得点王のタイトルは逃したものの、ASローマやSSCナポリを退け22回目のスクデット獲得に導いた。またフランス代表での活躍(後述)もあり1983年から3年連続でバロンドール(欧州年間最優秀選手)に選ばれるなど絶頂期にあった。一方で1985年末のクリスマス頃に痛めた左足踵の炎症の状態が回復せず[8][14]、痛みを庇いながらプレーを続けていたためにフォームが崩れ[14]、シーズンが終了するころには疲労はピークに達していた[14]。
代表経歴
1970年代
フランス代表としては、1976年3月27日に行われたチェコスロバキアとの親善試合で代表デビュー。この試合の71分にFKから直接ゴールを決めて代表初得点[15]。同年にはフランス五輪代表としてカナダで開催されたモントリオールオリンピックに参加。準々決勝まで進出したが、この大会を制した東ドイツの前に敗れた。
ワールドカップアルゼンチン大会予選は4大会連続出場のブルガリアと同じ組となったが、監督のミシェル・イダルゴの下で若返りを図る代表チームはアンリ・ミシェルとマリユス・トレゾールという2人のベテランとプラティニ世代の若い選手を軸[16]に強化を進めていった。1977年11月16日、パリで行われた予選最終戦のブルガリア戦。敗れるか引き分ければワールドカップ出場を逃す苦しい状況だったが、18分に自らロングシュートを決める活躍もあり3-1でブルガリアを下し12年ぶりの本大会出場を果たした。
1978年2月8日、敵地のナポリで行われたイタリアとの親善試合において、GKのディノ・ゾフを相手に2本のフリーキックを決めると(試合は2-2で引分け)ヨーロッパ全土にその名が知れ渡るようになった[17]。
6月にはアルゼンチンで行われた本大会に出場。結果的にグループリーグで敗退したが地元アルゼンチンやイタリアと接戦を演じ、最終戦でハンガリーに3-1で勝利しワールドカップスウェーデン大会以来20年ぶりの勝利を上げるなど、プラティニを中心としたパスサッカーは高い評価を受けた[18][19]。
1979年9月5日、ストックホルムで行われたUEFA欧州選手権1980予選のスウェーデン戦で初めてキャプテンに任命され名実共に中心選手となる[20]が、チェコスロバキアに競り負け本大会出場は逃した。
1980年代
この時期にボルドー所属のアラン・ジレスがレギュラーとなり、リヨン所属のジャン・ティガナ、ソショー所属のベルナール・ジャンジニといった中盤のタレントが代表デビュしたこともあり、プラティニがFWとして起用される機会もあった[21]。
ワールドカップスペイン大会予選では1974、78年大会の準優勝時のメンバールート・クロル、ヨハン・ニースケンスらが残るオランダやUEFA欧州選手権1980準優勝のベルギーと同じ組に入った。予選は混戦となり残り2試合を残して勝ち点6のグループ4位という状況となった[21]が、1981年11月18日、ホームのパルク・デ・プランスで行われたオランダとの直接対決では、プラティニのFKなどで2-0でオランダを下し勝利。12月15日のキプロスとの最終戦は欠場したが4-0で勝利し勝ち点を10まで伸ばし2大会連続出場を果たした。
1982 FIFAワールドカップ
1982 FIFAワールドカップ準決勝、西ドイツ戦のスタメン。 |
1982年6月の本大会では1次リーグでイングランド、クウェート、チェコスロバキアと同じ組となった。初戦のイングランド戦ではプラティニは精彩を欠き[22]1-3で敗れたが、第2戦のクウェート戦では回復し、ジレス、ジャンジニの揃った中盤を率いてクウェートに4-1で勝利。第3戦のチェコスロバキア戦は1-1で引分け、グループ2位で2次リーグ進出を果たした。
2次リーグでは初戦のオーストリア戦は太股の肉離れが回復していなかったため欠場した[23]が、代わって出場したティガナが好調なプレーを見せた。このことでフランスのメディアの間では「体調が万全ではないプラティニを諦めるべきではないか」との意見が多数を占めた[24]が監督のイダルゴは悩んだ末にプラティニ、ジレス、ジャンジニ、ティガナの4人を中盤で同時に起用する道を選択した[25]。2次リーグ最終戦の北アイルランド戦では4人のパスワークで中盤を制圧するだけでなく、チャンスと見るとゴール前に飛び出す流動的なサッカーで4-1で勝利し準決勝進出。この試合で復活を果たしたことでメディアからの批判を封じ込めた[26]。
準決勝の西ドイツ戦は17分に先制点を許したが10分後の27分に味方選手がペナルティエリア内で倒され獲得したPKをプラティニが決め1-1の同点とした。試合は1-1のスコアのまま延長戦へと突入したが、プラティニとジレスが変わらず好調を維持[27]。延長前半2分にジレスのパスからトレゾールがシュートを決めて勝ち越し、延長前半12分にはプラティニのパスからジレスがシュートを決め3-1と2点差に突き放した。ここから西ドイツの反撃にあい3-3の同点のまま決着はつかず、ワールドカップ史上初のPK戦[27]の末に4-5で敗れた[28]。
3位決定戦では他の主力選手と共に欠場[29]し、ポーランドに敗れ4位となった。20代中盤と選手として円熟期を迎えたプラティニを中心としたポゼッションサッカーは、同じく、この大会を席巻したブラジルと共に高い評価を得た[30]。ブラジルの中盤が黄金の4人(クワトロ・オーメン・ジ・オーロ)と呼ばれたのに対し、フランスのメディアは、この時の中盤をアレクサンドル・デュマの三銃士に準え「四銃士」と呼んだ[31]。
欧州選手権1984
1982年のワールドカップ後、新たにルイス・フェルナンデスが代表に加わり守備的MFを担ったことでチームとしての安定感を増し[32]、プラティニはイタリアで積極的な得点感覚を身に付ける[33]など、チームとして熟成期を迎えていた[34]。
1984年のUEFA欧州選手権1984では初戦でデンマークと対戦。均衡した試合は78分に自ら決勝点を決め1-0で勝利。この得点でプラティニは代表通算27得点としたが、この記録はそれまでジュスト・フォンテーヌの保持していたフランス代表の最多得点記録を塗り替えるものだった[35]。続くベルギーを5-0、ユーゴスラビアを3-2で下し1位でグループリーグを突破したが、この両試合でハットトリックを達成[36]。準決勝のポルトガル戦は常に相手にリードを許す展開だったが延長戦の末、プラティニの逆転ゴールにより3-2で勝利[37]。
パルク・デ・プランス競技場で行われた決勝のスペイン戦は77分に相手ゴール前18mの地点で得たフリーキックをプラティニが決め先制。その後も追加点を奪ったフランスは2-0でスペインを下し、初の欧州チャンピオンとなった[38]。
プラティニは毎試合得点の9得点を上げる活躍で得点王となった。また彼を中心に脇を固めるジレス、ティガナ、フェルナンデスとで形成する中盤(フランス語: carré magique、魔方陣の意)は大会を通じて好調を維持し、パスワークと攻撃力は他を圧倒した[39]。この大会の結果、プラティニは点取り屋としてもゲームメーカーとしても一流である事を示した[40]。
1986 FIFAワールドカップ
1986 FIFAワールドカップ準々決勝、ブラジル戦のスタメン。 |
ワールドカップメキシコ大会予選では東ドイツやブルガリアに敗れるなど苦戦したものの、1985年11月16日にパリで行われたユーゴスラビアとの最終戦で2得点を上げる活躍で3大会連続ワールドカップ出場へと導いた。フランスは2年前の欧州選手権優勝の実績もあり大会の優勝候補の一つと目されていた[41]が、一方でプラティニ自身は1985年末に負った左足の怪我の状態が回復せず疲弊していた[14]。
1986年6月の本大会のグループリーグではソビエト連邦、ハンガリー、カナダとの組み合わせとなり、ソビエト連邦に次いで2位で決勝トーナメント進出を果たしたが、プラティニは3試合で無得点と動きに精彩を欠いていた[42]。決勝トーナメント1回戦では前回優勝国のイタリアとの対戦となったが、15分に前線でパスを受けたプラティニが相手GKのジョバンニ・ガッリの頭上を越すチップキックで先制すると57分にも追加点を奪い2-0で勝利。大会序盤はコンディションが整わなかったが、この試合で従来のプレーを取り戻した[14]。
6月21日、グアダラハラで行われた準々決勝はブラジルとの対戦となったが、プラティニはこの試合の日に31回目の誕生日を迎えた。試合は17分にブラジルのカレカの得点で先制されたものの、41分にジレスからの強いパスを受けたドミニク・ロシュトーが右サイドからクロスを上げ、これをプラティニがゴール前で左足で押し込み同点とした。その後も試合は一進一退の攻防が続き、延長戦に入った後も勝負はつかず1-1の同点のままPK戦へと入った。プレースキックの名手と言われた[43]プラティニはフランスの4人目のキッカーとして登場したが、これをクロスバーの上に外すミスを犯したものの、5人目のキッカーのフェルナンデスが冷静に決め最終的に4-3で勝利した[44]。 この試合は「歴史に残る試合[45][46]」「ワールドカップ史上最も美しい試合[47]」と評されている。
準決勝の西ドイツ戦は前回大会の雪辱戦となったが、9分にアンドレアス・ブレーメのフリーキックから1点を先制された。フランスは反撃に転じたが、GKのハラルト・シューマッハーらを擁する西ドイツの堅守を崩すことは出来ず。後半のプラティニのシュートで同点に追いついたかに思われたがオフサイドと判定された[48]。終了間際にカウンターからルディ・フェラーの追加点を許し0-2で敗れ決勝進出を逃した[49]。3位決定戦のベルギー戦はジャン=ピエール・パパンなど若手中心のオーダーで挑み、プラティニは表彰式のみの参加となった。表彰式にはピンク色のポロシャツを身に付けて参加し終始にこやかな表情だったという[50]。
プラティニは選手生活を通じてワールドカップ優勝を成し遂げることが出来なかったが、
1978年は若すぎた、1982年は内臓の具合が悪かった、1986年も脚の具合が悪かった、どういう訳かそういう巡り合わせなんだ。 — ミシェル・プラティニ
と4年に一度の大会との巡り合わせの悪さを語っている[51]。
現役引退
ワールドカップ優勝を逃したことで一時は選手生活からの引退を決意していた[52]が、同大会でアルゼンチンを優勝に導いたディエゴ・マラドーナの「ナポリを必ずリーグ優勝させる」との発言に触発され[52]引退を1年先延ばししてピッチに舞い戻った。しかし1986-87シーズンが開幕すると首位を独走するナポリを捉えることは出来ずに優勝を明け渡した[52]。またプラティニ自身のプレーも衰えを見せ始めていた[52]。ユヴェントス会長のジャンニ・アニェッリは説得に努めたが本人の意思は固く1987年5月17日、セリエAのブレシア・カルチョ戦後、
プレーをすることが以前ほど楽しくなくなった。これ以上、自分の気持ちを偽ることは出来ない。私はユヴェントスのユニフォームを二度と着ることはないだろう。 — ミシェル・プラティニ
と引退を発表した[52]。スタジアムに残ったサポーターはフランス国歌『ラ・マルセイエーズ』を合唱して敬意を示した[52]。
ユヴェントスの引退と合わせてフランス代表からの引退も表明したため、同年4月29日にヘルシンキで行われたUEFA欧州選手権1988予選のアイスランド戦が最後の試合となった。フランス代表での通算成績は国際Aマッチ72試合出場41得点。49試合で代表キャプテンを務めた。通算得点は2007年10月17日に行われたUEFA欧州選手権2008予選のリトアニア戦でティエリ・アンリにより記録が塗り替えられるまで歴代最多記録だった[53]。
引退後経歴
フランス代表監督
1988年10月22日、ワールドカップイタリア大会予選においてフランス代表が各下のキプロスに1-1で引き分けると、4日後の10月26日にフランスサッカー連盟の強化責任者クロード・ベスは監督のアンリ・ミッシェルを解任。新監督としてプラティニに白羽の矢を立てた[54]。プラティニは監督資格を所持していなかったため「最高管理者」として指揮を執り、ジェラール・ウリエがアシスタントコーチを務めた[54]。
11月19日、敵地ベオグラードでのユーゴスラビア戦が初采配となったが2-3で落とし、1989年4月29日に行われたユーゴスラビアとのホームゲームは0-0で引き分けた。ホームを無敗(3勝1分)という強さを持ち合わせながらアウェイでの勝負弱さ(2敗2分)が響き、全8試合を3勝2敗3分で同組のユーゴスラビア、スコットランドに次ぐグループ3位で予選敗退という結果に終わった。
1990年に入るとチームを刷新し、プラティニ世代のフェルナンデスやマニュエル・アモロといったベテランと、エースストライカーのパパンや当時ヨーロッパ屈指のリベロと評されたローラン・ブランらを軸に[55]、相手に時間とスペースを与えないプレッシングサッカーを志向した[55]。同年9月から始まったUEFA欧州選手権1992予選ではスペインやチェコスロバキアと同じ組み合わせとなったが8戦全勝で予選を突破を果たし、1991年11月20日に行われたアイスランド戦まで16勝3引分けの無敗記録を打ちたて、優勝候補の一角に挙げられた[55]。また同年にはワールドサッカー誌の選ぶ世界最優秀監督に選ばれた。
1992年6月にスウェーデンで行われたUEFA欧州選手権1992ではスウェーデンとのグループ初戦を1-1、第2戦のイングランド戦を0-0で引分け、最終戦ではデンマークに1-2で敗れ2分け1敗の成績でグループ1リーグ敗退となった。この責任を取り代表監督を辞任し、以後、完全に監督業から足を洗い何れのクラブや代表チームを率いたことはない。
その他の活動
1992年2月に地元フランスのサヴォワ県アルベールヴィルで開催されたアルベールビルオリンピックでは最終聖火ランナーを担当。同年にワールドカップフランス大会開催が決まると、フランスサッカー連盟会長のフェルナン・サストルと大会組織委員会の共同委員長に就任。2001年1月からはフランスサッカー連盟(FFF)副会長。2002年からは国際サッカー連盟(FIFA)と欧州サッカー連盟(UEFA)の理事を歴任。2006年からはFIFAの技術委員と普及委員を務めた。
同年7月にUEFA会長選挙への立候補を表明。プラティニはUEFAランキング上位3か国のUEFAチャンピオンズリーグ出場枠を現行の4から3に減らし下位国に分配する改革案などを公約として掲げていた[56]。当初、ドイツのフランツ・ベッケンバウアーが出馬するものと考えられていたが、最終的に辞退[57]。退任することが確実視されていた現職でスウェーデン人のレナート・ヨハンソンが出馬を表明し両者間で争われることになった[57]。
UEFA会長
2007年1月26日、ドイツ・デュッセルドルフでのUEFA総会で次期会長選挙を行い、2002年から理事になっていたプラティニを会長に選出した[58]。任期は4年。加盟52協会による投票で1回目に50の有効票から27票を獲得し、当選に必要な過半数の支持を獲得し現職のレナート・ヨハンソンを退けた[58]。また規約により自動的にFIFAの副会長に就任した。
プラティニは会長就任後、最初の総会で公約の実現を改めて提言[59] 。アーセナルFCを初めとしたビッグクラブによる選手の異常な青田買いなどの規制を掲げており、G-14間でのクラブ間の経済力格差の拡大や、その他中小クラブとの格差拡大に歯止めをかけられうる人物としての手腕が期待された[60][61]。
同年11月30日、UEFA理事会で2009年から2012年に行われるUEFAチャンピオンズリーグにおいて新方式のルールを導入することを決定した[62]。本戦は現行方式を踏襲するが、本戦出場チームの決定に2つの予選を併用。5枠はUEFAランキング上位15か国のクラブで争われ、残りの枠は同ランキングの16位から最下位までの国内リーグ勝者同士で争われることになった[62]。この新方式は小国にチャンピオンズリーグへの出場機会を与えることを公約として掲げていたプラティニの意向を取り入れたものになった[62]。
2008年5月30日、FIFA 総会でクラブによる試合において自国の選手6人を先発出場させ、外国籍選手の先発を最大5人までに制限する「6+5ルール」制度の導入が採択[63]され、これを支持した。
また誤審問題に関して、従来の3人審判制から5人審判制に移行する案に賛成の対場を取っており[64]、ビデオ判定の導入には反対の立場を取っている[64]。
人物
プレースタイル
ゲームメーカーとして有すべき視野の広さ、足元のテクニックに右足から繰り出す様々な種類のパスと正確なフリーキック、得点感覚が特徴[65]。中盤では長短のパスを自在に操り試合のリズムに変化を与えることに優れていたが、その多くはシンプルなダイレクトプレーであり[66]、相手選手との接触プレーをかわすように1タッチ2タッチでのパスを回しを基調としていた[67]。
また、ゲームメーカーとしての能力だけでなく、両サイドに流れたりペナルティエリア内に積極的に進入して得点を決める、1.5列目やトップ下と形容される位置でのプレーも得意とした[68][69]。ゴール前では中盤でのプレースタイルとは打って変わって接触プレーを恐れずに強引なプレーを仕掛けていた[70]が、シュートの瞬間は得意な角度から力強いシュートを叩き込むのではなく[71]、冷静に無理なくゴールに流し込むタイプだった[71]。
プラトッシュ(Platoche)と呼ばれたフリーキックに関しては1976年の代表デビューとなったチェコスロバキア戦、1981年のワールドカップスペイン大会予選最終戦オランダ戦、1985年のワールドカップメキシコ大会予選最終戦のユーゴスラビア戦、1984年の欧州選手権決勝のスペイン戦[72]など勝負の懸かった重要な試合で得点を決めた事から彼の代名詞となっている。
ヨハン・クライフやマラドーナのような瞬間的な加速力[73]、あるいは若い頃に心肺機能に問題があると判断されたように高い身体能力を持ち合わせてはいなかった[73]。一方でサッカーの王様と言われるペレはプラティニを次のように評している[74]。
いかなる時代のブラジル代表においても、いかなるポジションを務めることが出来ただろう、唯一のフランス人選手。 — ペレ
人となり
フランス代表時代の監督だったミシェル・イダルゴはプラティニの人物像について
彼は生まれながらのシェフであり、オーケストラの指揮者である。 — ミシェル・イダルゴ
と評している[75]。当時のフランス代表では国外でプレーする数少ないの選手の一人であり、ピッチ上だけでなく外でもリーダーシップを発揮できる選手だった[75]。その点がピッチ上では才能を発揮するが普段は寡黙なジダンと決定的に違うとイダルゴは発言している[75]。
将軍の愛称から孤高のイメージを持たれるが[76]、感情の起伏が激しいマラドーナや無表情なジーコとも異なる[76]。前述のトヨタカップで得点を取り消された場面のように感情を強く表に出す訳でもなく、どこか飄々としていて人間臭い[76][77]、物事を一歩引いた位置から眺めている[77][78]ような人物と評される。
エピソード
- 靴下を下ろし、ユニフォームの裾を出してプレーするのがトレードマークだった[76]。裾を出す理由は「お尻の大きさを隠せるから」というものである。
- パスタが好物で、太りやすい体質だった[76]。引退後フランス代表の監督時代には、現役時代に比べかなり太っていた。
- 喫煙者でもあり[77]、ユベントス時代にクラブの会長に禁煙を言い渡されたこともあるが、「ボニーニ[79]が吸わない限りは大丈夫だ。」と言い返したという。
語録
- 「サッカーに人種はない。下手な白人ほど黒人を差別する。」
- 「サッカーはミスのスポーツです。全ての選手が完璧なプレーをしたらスコアは永遠に0対0です。」
- 「ジダンがサッカーボールを使って出来ることをマラドーナならオレンジでやってしまう。」(マラドーナとジダンを評して[80])
- 「10番というより9.5番だ。」(ロベルト・バッジョを評して)
- 「私はゴールすることが最大の喜びだったが、彼はチームが勝つことが最大の喜びだった。」(ジダンを評して)
獲得タイトル
クラブ
- ASナンシー
- ディヴィジョン・ドゥ 1回(1976年)
- クープ・ドゥ・フランス 1回(1978年)
- ASサンテティエンヌ
- ディヴィジョン・アン 1回(1981年)
- ユヴェントス
- セリエA 2回(1984年、1986年)
- コッパ・イタリア 1回(1983年)
- UEFAカップウィナーズカップ 1回(1984年)
- UEFAスーパーカップ 1回(1984年)
- UEFAチャンピオンズカップ 1回(1985年)
- トヨタカップ 1回(1985年)
代表
- UEFA欧州選手権1984 1回(1984年)
- アルテミオ・フランキ・トロフィー 1回(1985年)
個人
- 現役時代
- フランス・フットボール選定フランス年間最優秀選手賞 2回(1976年、1977年)
- セリエA得点王 3回(1983年、1984年、1985年)
- バロンドール 3回(1983年、1984年、1985年)
- オンズドール 3回(1983年、1984年、1985年)
- ワールドサッカー選定世界最優秀選手賞 2回(1984年、1985年)
- グエリン・スポルティーヴォ選定イタリア最優秀選手 1回(1984年)
- UEFA欧州選手権1984最優秀選手(1984年)
- UEFA欧州選手権1984得点王(1984年)
- UEFAチャンピオンズカップ得点王 1回(1985年)
- トヨタカップ最優秀選手(1985年)
- レジオンドヌール勲章シュヴァリエ章(1985年)
- 引退後
- レジオンドヌール勲章オフィシエ章(1988年)
- ワールドサッカー選定世界最優秀監督賞 1回(1991年)
- エル・パイス選定欧州年間最優秀監督賞 1回(1991年)
- 20世紀ワールドチーム(1998年)
- ワールドサッカー選定20世紀の偉大なサッカー選手100人 5位(1999年)
- FIFA 100(2004年)
- ゴールデンフット賞オールタイム・レジェンド (2004年)
- イングランドサッカー殿堂オールタイム・欧州最優秀選手(2008年)
個人成績
クラブでの成績
クラブ | 年度 | リーグ | カップ | 欧州カップ | その他 | 合計 | |||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
試合 | 得点 | 試合 | 得点 | 試合 | 得点 | 試合 | 得点 | 試合 | 得点 | ||
ナンシー | 1972-73 | 5 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 2 |
1973-74 | 21 | 2 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 24 | 2 | |
1974-75 | 33 | 17 | 7 | 13 | 0 | 0 | 0 | 0 | 40 | 30 | |
1975-76 | 31 | 22 | 7 | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 38 | 28 | |
1976-77 | 38 | 25 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 39 | 25 | |
1977-78 | 36 | 18 | 10 | 7 | 0 | 0 | 0 | 0 | 46 | 25 | |
1978-79 | 19 | 12 | 5 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 24 | 15 | |
合計 | 183 | 98 | 33 | 29 | 0 | 0 | 0 | 0 | 216 | 127 | |
サンテティエンヌ | 1979-80 | 33 | 16 | 7 | 5 | 7 | 5 | 0 | 0 | 47 | 26 |
1980-81 | 35 | 20 | 10 | 5 | 7 | 4 | 0 | 0 | 52 | 29 | |
1981-82 | 36 | 22 | 8 | 5 | 2 | 0 | 0 | 0 | 46 | 27 | |
合計 | 104 | 58 | 25 | 15 | 16 | 9 | 0 | 0 | 145 | 82 | |
ユヴェントス | 1982-83 | 30 | 16 | 13 | 7 | 9 | 5 | 0 | 0 | 52 | 28 |
1983-84 | 28 | 20 | 7 | 3 | 8 | 2 | 0 | 0 | 43 | 25 | |
1984-85 | 30 | 18 | 7 | 4 | 9 | 7 | 1 | 0 | 47 | 29 | |
1985-86 | 30 | 12 | 4 | 1 | 6 | 3 | 1 | 1 | 41 | 17 | |
1986-87 | 29 | 2 | 8 | 1 | 4 | 2 | 0 | 0 | 41 | 5 | |
合計 | 147 | 68 | 39 | 16 | 36 | 19 | 2 | 1 | 224 | 104 | |
通算 | 434 | 224 | 97 | 60 | 52 | 28 | 2 | 1 | 585 | 313 |
代表での成績[81]
チーム | 年 | 公式戦 | 親善試合 | 合計 | |||
---|---|---|---|---|---|---|---|
出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||
フランス | 1976 | 2 | 2 | 3 | 2 | 5 | 4 |
1977 | 2 | 1 | 5 | 1 | 7 | 2 | |
1978 | 3 | 1 | 3 | 3 | 6 | 4 | |
1979 | 2 | 1 | 2 | 1 | 4 | 2 | |
1980 | 2 | 3 | 4 | 2 | 6 | 5 | |
1981 | 3 | 2 | 1 | 0 | 4 | 2 | |
1982 | 5 | 2 | 5 | 2 | 10 | 4 | |
1983 | 0 | 0 | 4 | 1 | 4 | 1 | |
1984 | 8 | 11 | 2 | 2 | 10 | 13 | |
1985 | 6 | 2 | 0 | 0 | 6 | 2 | |
1986 | 8 | 2 | 1 | 0 | 9 | 2 | |
1987 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | |
通算 | 40 | 27 | 32 | 14 | 72 | 41 |
脚注
- ^ a b 国吉好弘『サッカーマルチ大辞典 改討版』ベースボール・マガジン社、2006年、397頁
- ^ a b c d ウィリアムズ 2007、150頁
- ^ ウィリアムズ 2007、151頁
- ^ リベイロ、レモス 2008、118頁
- ^ 大住 2004、191頁
- ^ ウィリアムズ 2007、155頁
- ^ ウィリアムズ 2007、156頁
- ^ a b c 田村 2010、34頁
- ^ “Toyota Cup 1985”. FIFA.com 2010年11月3日閲覧。
- ^ a b 牛木素吉郎 (2008年10月7日). “プラティニ、幻のゴール”. YOMIURI ONLINE 2010年11月3日閲覧。
- ^ a b ウィリアムズ 2007、148頁
- ^ 西部 2010、126頁
- ^ ウィリアムズ 2007、141頁
- ^ a b c d e 大住 2004、237頁
- ^ 田村 2010、32頁
- ^ 大住 2004、191-192頁
- ^ ウィリアムズ 2007、152頁
- ^ 賀川浩. “ミシェル・プラティニ(2)1970年代後半、フランス代表の中心選手に”. 賀川サッカーライブラリー 2010年11月3日閲覧。
- ^ 大住 2004、200頁
- ^ 大住 2004、201頁
- ^ a b 大住 2004、202頁
- ^ 大住 2004、208頁
- ^ 大住 2004、212頁
- ^ 大住 2004、213頁
- ^ 大住 2004、214頁
- ^ グランヴィル 1998、296頁
- ^ a b グランヴィル 1998、297頁
- ^ 賀川浩. “ミシェル・プラティニ(3)魅力的なチームのドラマティックな敗戦”. 賀川サッカーライブラリー 2010年11月3日閲覧。
- ^ グランヴィル 1998、299頁
- ^ 賀川浩. “82年スペインW杯 最も魅力的だったフランス”. 賀川サッカーライブラリー 2010年11月3日閲覧。
- ^ 大住 2007、216頁
- ^ 賀川浩. “イダルゴ監督が追求したサッカーの完成を見た”. 賀川サッカーライブラリー 2010年11月3日閲覧。
- ^ 賀川浩. “ミシェル・プラティニ(4)真価を発揮、優勝と得点王を手にしたEURO84”. 賀川サッカーライブラリー 2010年11月3日閲覧。
- ^ 大住 2004、227頁
- ^ 大住 2004、228-229頁
- ^ 賀川浩. “サンテチエンヌの整然とした組織に日仏の違い”. 賀川サッカーライブラリー 2010年11月3日閲覧。
- ^ 賀川浩. “マルセイユでフランスの驚くべき力を見たのだ”. 賀川サッカーライブラリー 2010年11月3日閲覧。
- ^ 賀川浩. “自国開催の84年欧州選手権で優勝”. 賀川サッカーライブラリー 2010年11月3日閲覧。
- ^ 大住 2004、230頁
- ^ 賀川浩. “プラティニのヘッド”. 賀川サッカーライブラリー 2010年11月3日閲覧。
- ^ リベイロ、レモス 2008、121頁
- ^ 大住 2004、231頁
- ^ ウィリアムズ 2007、165頁
- ^ 賀川浩. “芸術的で戦闘的、技術的で戦術的と、これこそサッカーの一戦の幸せに酔う”. 賀川サッカーライブラリー 2010年11月3日閲覧。
- ^ 田村 2010、35頁
- ^ グランヴィル 1998、334頁
- ^ 大住 2004、246頁
- ^ 大住 2004、247頁
- ^ 賀川浩. “メキシコ史に深い影響を与えたフランス、そのプラティニらの敗退にしばしぼう然”. 賀川サッカーライブラリー 2010年11月3日閲覧。
- ^ 西部 2010、127頁
- ^ 大住 2004、249頁
- ^ a b c d e f 「突然引退を表明したフランスの将軍プラティニ「私のサッカー選手としての情熱は燃え尽きた」」『イレブン』1987年8月号、84-86頁
- ^ “France 2-0 Lithuania: Henry smashes Platini record”. ESPN Soccernet. (2007年10月17日) 2010年11月3日閲覧。
- ^ a b 大住 2004、248頁
- ^ a b c 「将軍プラティニ率いるトリコロール軍団、優勝候補に急成長」『サッカーマガジン』1992年2月号付録
- ^ “<サッカー>プラティニ氏 UEFA会長選に向けマニフェストを発表 - フランス”. AFPBB News. (2006年12月29日) 2010年11月3日閲覧。
- ^ a b “<サッカー>プラティニ氏 会長選対立候補のヨハンソン氏を激しく批難 - フランス”. AFPBB News. (2007年1月10日) 2010年11月3日閲覧。
- ^ a b “<サッカー>プラティニ氏 UEFA新会長に当選 - ドイツ”. AFPBB News. (2007年1月27日) 2010年11月3日閲覧。
- ^ “<サッカー>プラティニ新会長 チャンピオンズリーグ出場枠の見直しを再度提言 - フランス”. AFPBB News. (2007年1月29日) 2010年11月3日閲覧。
- ^ “第219回 UEFA新会長ミシェル・プラティニの挑戦”. フットボールの真実. (2007年2月13日) 2010年11月3日閲覧。
- ^ 賀川浩. “ミシェル・プラティニ(1)UEFA新会長になったフランスの“将軍””. 賀川サッカーライブラリー 2010年11月3日閲覧。
- ^ a b c “欧州チャンピオンズリーグ 2009年から12年までは新方式を導入”. AFPBB News. (2007年12月1日) 2010年11月3日閲覧。
- ^ “FIFA 総会で6+5ルールの導入を採択”. AFPBB News. (2008年5月30日) 2010年11月3日閲覧。
- ^ a b “プラティニ会長 5人審判制の導入を改めて主張”. AFPBB News. (2007年11月4日) 2010年11月3日閲覧。
- ^ ウィリアムズ 2007、167頁
- ^ 西部 2010、116頁
- ^ 西部 2010、118頁
- ^ 賀川浩. “ミシェル・プラティニ(4)真価を発揮、優勝と得点王を手にしたEURO84”. 賀川サッカーライブラリー 2010年11月3日閲覧。
- ^ 賀川浩. “ミシェル・プラティニ(5)プレーメイカー&ストライカーとしてペレ、クライフの系譜に”. 賀川サッカーライブラリー 2010年11月3日閲覧。
- ^ 西部 2010、119頁
- ^ a b 西部 2010、121頁
- ^ 賀川浩. “プラティニのFK”. 賀川サッカーライブラリー 2010年11月3日閲覧。
- ^ a b 西部 2010、125頁
- ^ ウィリアムズ 2007、167頁
- ^ a b c 大住 2004、254頁
- ^ a b c d e 西部 2010、125頁
- ^ a b c ウィリアムズ 2007、149頁
- ^ 西部 2010、127頁
- ^ 当時のユベントスの名バイプレイヤー。サンマリノ出身。
- ^ “Platini: Zidane no match for Maradona”. BBC SPORT. (2000年7月1日) 2010年11月3日閲覧。
- ^ “Michel Platini - Goals in International Matches”. rsssf.com 2010年11月3日閲覧。
参考文献
- ブライアン・グランヴィル著、賀川浩監修、田村修一、土屋晃、田邊雅之訳『決定版ワールドカップ全史』草思社、1998年。ISBN 978-4794208187。
- 大住良之著、『理想のフットボール 敗北する現実』双葉社、2004年。ISBN 978-4575296594。
- リチャード・ウィリアムズ著、町田敦夫訳『背番号10のファンタジスタ』ベースボール・マガジン社、2007年。ISBN 978-4583100104。
- アンドレ・リベイロ、ヴラジール・レモス著、市之瀬敦訳『背番号10 サッカーに「魔法」をかけた名選手たち』白水社、2008年。ISBN 978-4560026403。
- 田村修一「将軍の域 ミシェル・プラティニ」『ワールドカップ伝説80年代編 マラドーナの時代』ベースボール・マガジン社、2010年。ISBN 978-4583616452。
- 西部謙司『神の足 サッカースーパースター技術録』コスミック出版、2010年。ISBN 978-4774790398。
外部リンク
- フランスサッカー連盟公式サイトによる選手歴の紹介
- フランスサッカー連盟公式サイトによる監督歴の紹介
- FIFA Classic Player: Michel Platini
- footballdatabase.eu
|
|
|