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[[File:Ashikaga Motouji.jpg|right|thumb|足利基氏像([[狩野洞春]]画)]] |
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'''足利 基氏'''(あしかが もとうじ)は、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[武将]]。初代[[鎌倉公方]](在職:[[正平 (日本)|正平]]4年/[[貞和]]5年[[9月9日 (旧暦)|9月9日]]([[1349年]][[10月21日]]) - [[正平 (日本)|正平]]22年/[[貞治]]6年[[4月26日 (旧暦)|4月26日]]([[1367年]][[5月25日]])<ref>{{Kotobank|足利基氏}}</ref>)。後の[[古河公方]]の家系の祖でもある。[[室町幕府]]初代[[征夷大将軍|将軍]][[足利尊氏]]の四男で、母は正室の[[赤橋登子]]<ref>上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 31頁。</ref>(登子の子としては次男)。 |
'''足利 基氏'''(あしかが もとうじ)は、[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]の[[武将]]。初代[[鎌倉公方]](在職:[[正平 (日本)|正平]]4年/[[貞和]]5年[[9月9日 (旧暦)|9月9日]]([[1349年]][[10月21日]]) - [[正平 (日本)|正平]]22年/[[貞治]]6年[[4月26日 (旧暦)|4月26日]]([[1367年]][[5月25日]])<ref>{{Kotobank|足利基氏}}</ref>)。後の[[古河公方]]の家系の祖でもある。[[室町幕府]]初代[[征夷大将軍|将軍]][[足利尊氏]]の四男で、母は正室の[[赤橋登子]]<ref>上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 31頁。</ref>(登子の子としては次男)。 |
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== 生涯 == |
== 生涯 == |
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===誕生=== |
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[[暦応]]3年([[1340年]])、父[[足利尊氏]]36歳、母[[赤橋登子]]35歳の時に誕生する。幼名は光王とも亀若ともいわれる。[[今川了俊]]は『[[難太平記]]』にて「光王御料」と読んでいる<ref name="亀田16">亀田俊和・杉山一弥編(2021)『南北朝武将列伝・北朝編』戎光祥出版、p.16</ref>。基氏の兄弟には[[足利竹若丸]]・[[足利直冬]]・[[足利義詮]]・[[鶴王]]らがいる。 |
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足利系図の中には基氏が叔父の[[足利直義]]の融子となったと記すものが多い<ref name="田辺15">田辺久子(2002)『関東公方足利氏四代』吉川弘文館、p.15</ref>。これに関しては、後述の鎌倉下向に際して直義の養子になったとする説<ref>黒田基樹編(2013)『足利基氏とその時代』戎光祥出版、p.8</ref>と、基氏が5歳の時点で直義の融子となっていたとする説がある。[[康永]]3年([[1344年]])6月17日に、尊氏の実子かつ足利直義の融子である男児が深削・[[着袴]]・[[学問始]]・弓始の人生儀式を催した記録が『[[師守記]]』にある。この男児を『[[大日本史料]]』6編は[[足利直冬]]に比定しているが、深剃・着袴の儀礼は5歳頃に行われるとされ、特に着袴の儀礼は後の[[足利将軍家]]でも6代[[足利義教]]と義教の従兄弟などが5歳の時に行われている<ref>田辺 2002 p,4</ref>。このため、この融子の男児は当時23歳(最も若く見積もっても15歳)と推定される直冬ではなく、当時5歳の基氏ではないか<ref name="田辺15"/>というものである。基氏が5歳の時点で直義の融子となっていた場合、のちの[[上杉憲顕]]をはじめとする直義派の東国武将との関係を見る時にきわめて興味深い前提条件となること<ref>亀田・杉山編 2021 pp.16-17</ref>が指摘されている。 |
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===観応の擾乱前期=== |
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p.6</ref>。兄義詮の入京とは対照的に、基氏が鎌倉に向かう際の俱奉の人数は100騎に満たない寂しい行列だった。基氏は当時10歳で、元服前の下向ということにも洞院公賢が疑問を呈している<ref name="亀田17">亀田・杉山編 2021 p.17</ref>。鎌倉に下向した際、わずかな日数ではあるが鎌倉から京に出立する前の義詮と顔を合わせる機会があったとみられる<ref name="亀田17"/>。この折、幼い基氏を補佐した執事(後の[[関東管領]])の1人に[[上杉憲顕]]がいた。 |
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兄義詮の代わりに鎌倉に派遣された基氏は、観応の擾乱に巻き込まれる。当時の鎌倉府は幼い基氏を直義派の上杉憲顕と、[[高師直]]の養子で[[高師冬]]という2人の[[関東執事]]が支える体制をとっていた。[[観応]]元年([[1350年]])12月25日、師冬が基氏を連れて鎌倉を出て、[[相模国]]毛利荘湯山([[神奈川県]][[厚木市]])に移動する。これは同年10月に出家した直義が京都から出奔し反撃に出た動きに呼応した<ref>今井正之助(2022)「『太平記秘伝理尽鈔』と『喜連川判鑑』―足利基氏関連記事の検討―」『愛知教育大学研究報告. 人文・社会科学編』(71)p.45</ref>11月12日の[[常陸国]]信太荘([[茨城県]][[稲敷郡]]<ref>杉山一弥(2019)『図説鎌倉府』戎光祥出版, |
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『[[鎌倉九代後記]]』によれば、基氏は約9年間もの長期間、[[南朝 (日本)|南朝]]方との戦闘のため鎌倉を離れて入間川沿いに在陣したことから「'''入間川殿'''」と呼ばれ、その居館は[[入間川御陣]]と称された。父の死後、南朝方の[[新田義興]]を滅ぼすと共に、正平16年/康安元年([[1361年]])には執事として基氏を補佐していた[[畠山国清]]と対立した家臣団から国清の罷免を求められた結果、抵抗した国清を討つに至った。後任には一時[[高師有]]を用いたが、正平18年/[[貞治]]2年([[1363年]])6月、[[越後国|越後]]にいた上杉憲顕を関東管領として鎌倉に呼び寄せた。 |
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p.84</ref>)での[[上杉能憲]]の挙兵、同年12月1日の上杉憲顕の自身の[[守護]]国である[[上野国]]へ下向といった<ref name="亀田91">亀田俊和(2017)『観応の擾乱』中央公論新社、p.91</ref>、[[常陸国]]や[[上野国]]で活発化した[[上杉氏]]一族の軍事行動へ対応するための動きだった。しかし、翌26日に師冬・基氏に同道していた直義派の近習と[[石塔義房]]が、尊氏派の近習の三戸七郎{{Efn|三戸と彦部は高一族庶流の武士。三戸七郎は叔父師冬の融子。『太平記』によれば三戸は半死半生の重傷を負って行方不明になったとされ、実際、一次史料で三戸の生存を確認できる文書が存在するという<ref name="亀田91"/>。}}・彦部次郎・屋代源蔵人を湯山坊中で討ち取るという騒擾が起きる。基氏は石堂義房ら直義派に身柄を確保されて同月29日に鎌倉に連れ戻されるが、基氏の身柄を奪われた師冬はそのまま[[甲斐国]]に逃亡し、観応2年([[1351年]])正月17日に[[上杉憲将]]らに攻められ、須沢城([[山梨県]][[南アルプス市]])にて敗死した。 |
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鎌倉に戻った基氏は、[[元服]]前かつ慣習では15歳とする判始の前ながら、着到状や感状に[[花押]]を据え始めた。この行動の背景には基氏を関東における直義派の旗頭として担ぐ必要に迫られた<ref name="黒田88">黒田編 2013 p.88</ref>上杉憲顕らの要請があったとみられる。花押は個人的にも基氏敬慕の対象だった<ref>佐藤進一(2000)『増補 花押を読む』平凡社、p.164</ref>直義の花押を模したものとみられている<ref name="黒田88"/>。基氏は終生同じ花押を使用しており<ref>黒田編 2013 pp.88-89</ref>、後代の[[鎌倉公方]]・[[古河公方]]となる基氏の子孫([[足利持氏]]を除く)の花押は、これに始まる「関東足利様」という特徴を代々引き継いだ<ref>{{Cite web ja|title=室町時代の文書を読む|website=埼玉県立文書館HP|url=https://monjo.spec.ed.jp/wysiwyg/file/download/1/2848|accessdate=2024-11-10}}</ref>。基氏の判始は憲顕ら直義派に利用され、政治的・軍事的目的でなされたものと推察される<ref name="黒田42">黒田編2013 p.42</ref>が、基氏が花押を改めなかった理由として、その契機となりそうな直義の死や憲顕の没落といった機会が基氏の元服前の出来事だったこと、成人後しばらく文書を発給しておらず花押型を変える意識がなかったとみられること、本人の早逝が考えられている<ref>黒田編 2013 p.89</ref>。基氏は軍勢催促状などの[[軍事]]関係文書にも署名した<ref>亀田・杉山編 2021 18</ref>。師冬を滅ぼした憲将はそのまま上洛して観応2年(1351年)2月26日に[[武庫川]]で高師直・[[高師泰]]を討ったが、これと同時期に基氏・憲顕が大軍をひきいて上洛するという噂が京都方面で流れた<ref>黒田編 2013 pp.10-11</ref>。しかし直義によって阻止された<ref>{{Cite web ja|title=直義、上杉憲顕の戦功を褒し、其上洛を止む、|website=大日本史料総合データベース|url=https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/02/0614/0699?m=all&s=0699|accessdate=2024-11-10}}</ref>という。 |
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この頃、基氏は兄の義詮と図り、父を助けて越後・[[上野国|上野]]守護を拝命していた[[宇都宮氏綱]]に隠れて、密かに越後守護職を憲顕に与えていたと見られている。この動きに激怒し、憲顕を上野で迎撃しようとした氏綱の家臣で上野守護代の[[芳賀高名|芳賀禅可]]を基氏は[[武蔵国|武蔵]]苦林野で撃退した上、宇都宮征伐に向かった。途中の[[祇園城|小山]]で[[小山義政]]の仲介を元に、氏綱の釈明を受け入れて鎌倉に戻り、公式に氏綱から上野・越後の守護職を剥奪して憲顕に与え、関東における足利家の勢力を固めた。また、京の禅僧[[夢窓疎石]]の弟子である[[義堂周信]]を鎌倉へ招き、[[禅]]や[[五山文学]]を普及奨励させるなど、鎌倉ひいては関東の文化の興隆にも努めた。 |
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[[ファイル:足利基氏花押.png|サムネイル|右|thumb|『足利基氏花押(観応2年12月18日(田代文書)』(東京大学史料編纂所所蔵<ref>{{Cite web ja|title=足利基氏花押|website=花押データベース|url=https://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/w19/detail/00002553?dispid=disp02|accessdate=2024-11-10}}</ref>)を改変]] |
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===観応の擾乱後期=== |
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師直・師泰の死をもって擾乱の前期が終わりを告げた。しかし、和解が成立したかに見えた尊氏と義詮・直義の間は再び緊張状態に陥る。尊氏・義詮の策謀を察知したといわれる直義が、同年8月1日に京都から没落し、擾乱の後期がはじまった<ref>黒田編 2013 p.11</ref>。基氏は同年9月に[[上野国]][[世良田町|世良田]]([[群馬県]][[太田市]])に陣し、10月に[[下野国]]足利([[栃木県]][[足利市]])に移った。これは京都から[[北陸]]経路で関東に向かった直義を迎え入れるのと同時に、北関東の尊氏派を牽制するための動きと考えられる<ref>黒田編 2013 pp.41⁻42</ref>。基氏は9月21日に[[長楽寺 (太田市)|長楽寺]]に[[武蔵国]]長浜郷安保中務丞跡を[[寄進]]している。憲顕が基氏の下命を奉じ、憲将が[[請文]]を納めていることから、この父子が基氏に随行して軍勢も引き連れていたと考えられている<ref>久保田順一(2023)『上野武士と南北朝動乱 新田・上杉・白旗一揆』戎光祥出版、p.155</ref>。直義は11月15日に鎌倉に入り<ref name="亀田169">亀田 2017 p.169</ref>、基氏は同月に直義に俱奉してともに関東に赴いた者たちに対して感状を発給した<ref>亀田・杉山編 2021 p.19</ref>。ただし、こうした基氏の動きについては、当時事実上東国を支配していたのは上杉憲顕であり、当時12歳の基氏が主体的に行ったわけではない<ref name="亀田169"/>という見解がある。 |
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観応2年(1351年)12月29日、[[駿河国]]薩埵山([[静岡県]][[清水区]])にて[[薩埵峠の戦い (南北朝時代)|薩埵峠の戦い]]が行われた。『[[喜連川判鑑]]』は、この時基氏は尊氏と直義を調停しようとしたものの失敗し、[[安房国]]に逃れたと記している。しかし、これを裏付ける確実な一次史料はなく、真偽は不明である<ref name="亀田173">亀田 2017 p.173</ref>。また『喜連川判鑑』は『[[太平記評判秘伝理尽鈔]]』を参照していることがほぼ確実だが『理尽鈔』は基氏の逃亡先を[[武蔵国|武蔵]]と記している<ref>今井 2022 p.51</ref>。この基氏の逃亡先の違いについて、[[建武 (日本)|建武]]4年([[1335年]])に[[北畠顕家]]の攻撃を受けた兄義詮が安房に逃れた先例に『喜連川判鑑』が倣ったのではないかと指摘するとともに、当時12歳の基氏が両者を調停したという記述は疑わしいとする研究がある<ref>{{Cite web ja|title=今井正之助(2022)「太平記秘伝理尽鈔』と『喜連川判鑑』―足利基氏関連記事の検討―」|website=愛知教育大学学術研究機関レポジトリ|url=https://aue.repo.nii.ac.jp/record/8233/files/kenjin714553.pdf|accessdate=2024-11-10}}</ref>。基氏は伊豆[[国府]]([[静岡県]][[三島市]])に本陣を置く直義と共にいたとする方が自然という見方もある<ref name="亀田173"/>。 |
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正平22年/貞治6年(1367年)に死去、[[享年]]28。死因は[[はしか]]と伝わる{{Sfn|田辺|2002|p=66}}。『[[難太平記]]』は自殺の可能性をほのめかすが、あくまで伝聞で真相は分からないとしている。同年[[12月7日 (旧暦)|12月7日]]には兄義詮も亡くなっている。 |
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[[ファイル:三島市本妙寺.jpg|サムネイル|右|三島市本妙寺(伊豆国府国庁の候補地)]] |
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===尊氏の鎌倉下向期=== |
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直義死去の翌月となる[[正平 (日本)|正平]]7年/観応3年([[1352年]])閏2月に、[[新田義興]]・[[新田義宗]]ら東国の南朝勢が蜂起し、そこに先の尊氏方との合戦で敗れた上杉憲顕ら旧直義派の武将が加わった。この南朝方と尊氏方の戦いを[[武蔵野合戦]]という。この戦いで南朝方に攻められた基氏は鎌倉を支えきれず退去し、すでに人見原([[東京都]][[府中市 (東京都)|府中市]])・金井原([[東京都]][[小金井市]])で南朝軍と戦った尊氏が在陣する武蔵国[[石浜城|石浜]](東京都[[台東区]]など諸説あり)に向かい合流したという。合戦が同月28日の[[笛吹峠 (埼玉県)|笛吹峠]]の戦いを以て尊氏方の勝利で決着し、新田軍は同年3月2日に鎌倉を放棄した。同月12日に尊氏は鎌倉に戻ったがこの時、基氏も共に鎌倉に戻ったと思われる<ref>亀田・杉山編 2021 p.20</ref>。その後しばらくの間は鎌倉にて尊氏と行動をともにした。3月には[[沙汰始]]の儀式を行い<ref>鎌倉国宝館 2017『特別展 関東公方足利基氏:新たなる東国の王とゆかりの寺社』p.5</ref>、同年8月30日には[[従五位下]]・[[左馬頭]]に叙任された。尊氏が鎌倉にいた期間、政務に関わる文書はほとんど尊氏が[[執事]]の[[仁木頼章]]が発行しており、基氏の文書はほとんど残されていない<ref>鎌倉国宝館 2017 p.6</ref>。 |
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===入間川御陣時代=== |
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正平8年/[[文和]]2年([[1354年]])7月29日、南朝方からの攻撃で[[近江国|近江]]や[[美濃国|美濃]]に逃れる事態に陥った義詮を救援するため、尊氏が帰洛する。その前日に基氏は尊氏が補佐役として関東執事に指名した<ref>亀田・杉山編 2021 pp.39-40</ref>[[畠山国清]]とともに鎌倉を出て、入間川に向かった。基氏は尊氏主導のもと[[延文]]4年([[1359年]])をさほど遡らない時期に国清の妹(畠山家国の娘)と結婚しており<ref>黒田編2013 pp.175⁻176</ref>、国清は基氏の義兄にあたる。基氏は執事の国清、[[宇都宮氏綱]]、[[河越直重]]ら三人の尊氏派の武将とともに東国の統治をおこなうことになる。これを[[薩埵山体制]]という。『[[鎌倉九代後記]]』によれば、基氏は約9年間もの長期間、[[南朝 (日本)|南朝]]方との戦闘のため鎌倉を離れて入間川沿いに在陣したことから「'''入間川殿'''」と呼ばれ、その居館は[[入間川御陣]]と称された。 |
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基氏は尊氏から、本来京都[[将軍]]が行使すべき土地の[[充行]]や沙汰付などの発令権を東国において認められており、この期間から[[鎌倉公方]]としての基氏自身による発給文書が見られるようになり、文和2年(1354年)ごろから文書の発給が本格化していく。入間川御陣時代は基氏が鎌倉公方としての位置や立場を形づくった時期であり、軍事面の整備に加えて行政面での役割も、規式制定、[[棟別銭]]充行、[[住持]][[安堵]]、寺社興行、[[寺社領]]遵行などに拡大していった。また、寺社への[[寄進]]行為などを通じて鎌倉府と宗教勢力との関係も構築した<ref>亀田・杉山編2021 p.22</ref>。 |
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延文3年([[1358年]])4月に父尊氏が京都で亡くなるが、その死をきっかけに蜂起した南朝方の[[新田義興]]を、国清が[[矢口渡]](東京都[[大田区]])にて謀殺する形で滅ぼした。基氏の入間川在陣はこの義興謀殺事件か、遅くとも翌年10月8日の国清上洛のときまでと考えられている<ref>黒田編 2013 p.20</ref>。 |
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[[File:徳林寺境内.jpg|right|thumb||狭山市徳林寺(入間川御陣推定地の1つ)]] |
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[[ファイル:狭山八幡宮.jpg|サムネイル|右|狭山八幡宮(入間川御陣推定地の1つ)]] |
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===畠山国清の乱=== |
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延文4年(1359年)正月、基氏は[[左兵衛督]]に昇進した。兄[[義詮]]の将軍就任に伴う[[畿内]]南朝勢力討伐にも協力し、同年2月7日に東国武家に軍勢催促状を発給し、[[畠山国清]]とともに軍を上洛させた<ref>亀田・杉山編 2021 pp.21-22</ref>。しかし、この畿内出兵に対して厭世的だった東国武家の中には無断帰国するものもいた。この無断帰国については、義詮に京都への増援を提案したのは国清であり、基氏はこの増援にはじめは不賛成で見解の不一致があり、基氏の意に反する上洛だったという説<ref>佐藤進一(2005)『南北朝の動乱』中央公論新社、p.364</ref>、当時[[室町幕府]]内では[[細川清氏]]と[[仁木義長]]との対立が顕在化していたが、国清が清氏に与してその政治抗争に積極的に関わる姿を見て戦意喪失したという説<ref>黒田編 2013 pp.56-57</ref>などがある。国清は無断帰国した武家の所領を没収したため、正平16年/康安元年([[1361年]])に基氏は、国清と対立した家臣団から国清の罷免を求められた。基氏は国清を[[鎌倉府]]から追放する決断を下す。これを、京都での義詮の細川清氏追放と連動した動きとみる見解もある<ref>亀田・杉山編 2021 p.42</ref>。抵抗した国清は、自身の守護国である[[伊豆国]]に立てこもり基氏に対抗するが<ref>田辺 2002 p.47</ref>、基氏は東国の諸氏を軍勢催促して出兵し、[[貞治]]元年([[1362年]])9月に国清を降伏させた。この時、基氏は[[箱根山]]に着陣したとの所伝が『[[鎌倉大日記]]』などにある<ref>亀田・杉山編 2021 p.43</ref>。国清は降伏後、[[時衆]]・陣僧の援助で京都・[[奈良]]方面に逃亡したという<ref>亀田・杉山編 2021 p.44</ref>。 |
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===上杉憲顕の執事復帰=== |
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国清の後任の関東執事には一時[[高師有]]を用いたが、正平18年/[[貞治]]2年([[1363年]])6月、[[越後国|越後]]にいた上杉憲顕を関東管領として鎌倉に呼び寄せた。同年3月24日に基氏が「関東管領の事」と憲顕に充てた書状が「[[上杉家文書]]」に伝わる<ref>田辺 2002 p.50</ref>。憲顕が基氏の執事に復帰するのは11年ぶりのことで、基氏24歳、憲顕58歳の時のことであった<ref>佐藤 2005 p.366</ref>。 |
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この頃、基氏は兄の義詮と図り、父を助けて越後・[[上野国|上野]]守護を拝命していた[[宇都宮氏綱]]に隠れて、密かに越後守護職を憲顕に与えていたと見られている。この動きに激怒し、憲顕を上野で迎撃しようとした氏綱の家臣で上野守護代の[[芳賀高名|芳賀禅可]]に対し、基氏は同年8月に宇都宮氏綱討伐の軍勢催促を行い、同20日に鎌倉を出発した<ref name="亀田23">亀田・杉山編 2021 p.23</ref>。基氏は[[武蔵国|武蔵]]苦林野(埼玉県[[毛呂山町]])に軍陣を構え、翌26日には北隣の岩殿山(埼玉県[[東松山市]])で宇都宮勢を撃退する。なお『[[太平記]]』には、6月に苦林野で激突があり、着ている鎧の色から敵の目的にされた基氏に気づいた[[岩松直国]]が、鎧を交換し基氏のふりをして奮戦したという話がある<ref>亀田・杉山編 2021 p.69</ref>。{{Wikisource|太平記/巻第三十九}} |
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この戦いでは基氏の元に参じたものは決して多くはなく、勝利後もなかなか合流しないものが多かった。合戦後の岩殿山周辺の宇都宮勢の掃討にも時間がかかったとみられる<ref name="亀田23"/>。基氏は9月に[[下野国]]足利(栃木県[[足利市]])に移って軍勢を整えた上で、宇都宮征伐に向かった。途中の[[祇園城|小山]]で[[小山義政]]の仲介を元に、氏綱の釈明を受け入れて鎌倉に戻り、公式に氏綱から上野・越後の守護職を剥奪して憲顕に与え、関東における足利家の勢力を固めた。11月2日には義詮から関東への申沙汰が憲顕に充てて出されており、基氏の望み通り憲顕が[[関東管領]]に就任したと思われる<ref>田辺 2002 p.52</ref>。 |
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この一連の合戦は、旧直義党である上杉憲顕を鎌倉府中枢に復帰させる上で、尊氏党であった[[宇都宮氏]]と軋轢が生じることが避けられないため、当初より基氏は[[芳賀氏]]ではなく宇都宮氏を攻撃しようとしていたのではないかとも考えられている<ref>杉山 2019 p.97</ref>。また基氏は岩殿山合戦をきっかけとして、宇都宮氏などの「関東武士系」の面々を遠ざけ、上杉氏などの「一門・譜代被官系」のものを政権の中枢に置き、鎌倉府の再編を進めていった<ref>杉山 2019 p.98</ref>。この戦いの翌年には[[上総]]の[[千葉氏胤]]、[[相模国|相模]]の[[河越直重]]がそれぞれ守護職を失っている。 |
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その後も基氏自身の出陣はないものの、[[貞治]]3年([[1364年]])に世良田義正、梶原景泰らの誅伐、貞治4年([[1365年]])には[[信濃国]]の凶徒退治に出兵するなど、鎌倉府体制の構築に努めた。なお、貞治3年([[1364年]])4月14日には[[従三位]]に叙され、公卿の仲間入りをしている。また、京の禅僧[[夢窓疎石]]の弟子である[[義堂周信]]を鎌倉へ招き、[[禅]]や[[五山文学]]を普及奨励させるなど、鎌倉ひいては関東の文化の興隆にも努めた。 |
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===死去=== |
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正平22年/貞治6年(1367年)4月26日死去、[[享年]]28。死因は[[はしか]]と伝わる{{Sfn|田辺|2002|p=66}}。『[[難太平記]]』は自殺の可能性をほのめかすが、あくまで伝聞で真相は分からないとしている。[[義堂周信]]の『空華日用工夫略集』によれば3月頃から既に体調がすぐれなかったようである<ref name="亀田24">亀田・杉山編 2021 p.24</ref>。基氏は4月15日に病を押して[[円覚寺]]の正続院に参詣し、宝塔から[[仏舎利]]を出して拝し、再度封印した。一生に一度の開封であった<ref>田辺 2002 p.65</ref>。この時点で自身の死を悟っていたと考えられている<ref>黒田編 2013 p.28</ref>。4月22日・23日に鎌倉中の禅律寺院が基氏の病気平癒を祈祷し、関東管領の憲顕・[[上杉憲春]]の屋敷でも[[泰山府君]]祭(人の生死を司る泰山の神を祀る)が行われた<ref>田辺 2002 pp.65-66</ref>。24日に基氏は義堂を病床に招いてのちの事を頼んだ。26日の基氏の訃報を聞いて急ぎ公方邸に駆け付けた義堂は、遺骸を擦ったところ、まだぬくもりが残っていたとで述懐している。葬礼は義堂周信がつかさどり、遺命により鎌倉[[瑞泉寺 (鎌倉市)|瑞泉寺]]に葬られた。法名は玉岩道昕、瑞泉寺殿と称される<ref>田辺 2002 p.67</ref>。 |
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京都では5月4日に武家の弔意を示す[[勅使]]が送られるとともに、[[公家]][[雑訴]]が7カ日停止され、弔意が示された。幕府でも基氏の死により喪に服していたが、6月9日に雑訴を再開し、15日に[[等持院]]にて基氏の七七日仏事を行い<ref name="亀田24"/>、24日に[[引付]]を再開した<ref>田辺 2002 p.68</ref>。また[[豊後]][[守護]][[大友氏継]]ほか九州諸氏に基氏の死にともなう「馳参」を禁止する命令が出された。基氏が列島規模の影響力を持つ存在であったことが伺われる<ref>黒田編 2013 p.45</ref>。長年直義派として活動し義詮に反抗していた[[桃井直常]]は、基氏の死を聞いて剃髪し、義詮に帰順するために上京した<ref>黒田編2013 p.30</ref>。 |
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同年[[12月7日 (旧暦)|12月7日]]には兄義詮も亡くなっている。義詮は弟基氏との関係について「兄弟相譲、誓死不変」と[[八幡神]]に誓約をしており、兄弟関係の維持に腐心していた弟基氏への兄の心情吐露とみられる<ref name="亀田16"/>。後代とは異なり、義詮と基氏の時代、京都将軍と鎌倉公方が対立することはなかった。 |
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=== その後 === |
=== その後 === |
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基氏の子孫である鎌倉公方系統の[[足利家]](数流に分かれる。当該項目参照)の1つは、戦乱と激動の関東を生き残り、[[江戸時代]]には[[喜連川氏|喜連川家]]として、1万石に満たない少禄ながら10万石格の[[大名]]として存続した。[[明治]]時代には[[華族]]に列せられ、[[名字]]を足利に復して存続している。 |
基氏の子孫である鎌倉公方系統の[[足利家]](数流に分かれる。当該項目参照)の1つは、戦乱と激動の関東を生き残り、[[江戸時代]]には[[喜連川氏|喜連川家]]として、1万石に満たない少禄ながら10万石格の[[大名]]として存続した。[[明治]]時代には[[華族]]に列せられ、[[名字]]を足利に復して存続している。 |
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[[東松山市]]岩殿字油免には、岩殿山合戦の折、基氏が陣を置いたとされる館の跡(『足利基氏館跡』。土塁や堀の跡、{{ウィキ座標|36|0|19|N|139|22|20.6|E|region:JP_type:landmark|地図|name=足利基氏の塁跡}})が残っている<ref>[{{NDLDC|1122124/99}} 埼玉県編『埼玉県史蹟名勝天然紀念物調査報告 : 自治資料 第5輯 史蹟及天然紀念物之部』埼玉県、1933年、pp.146-148.]</ref>。 |
[[東松山市]]岩殿字油免には、岩殿山合戦の折、基氏が陣を置いたとされる館の跡(『足利基氏館跡』。土塁や堀の跡、{{ウィキ座標|36|0|19|N|139|22|20.6|E|region:JP_type:landmark|地図|name=足利基氏の塁跡}})が残っている<ref>[{{NDLDC|1122124/99}} 埼玉県編『埼玉県史蹟名勝天然紀念物調査報告 : 自治資料 第5輯 史蹟及天然紀念物之部』埼玉県、1933年、pp.146-148.]</ref>。この館跡の伝承については従来の基氏の本陣の他に、基氏が岩殿山合戦後も時間を費やした宇都宮勢掃討の痕跡<ref>亀田・杉山編 2021 p.23</ref>という見方や、岩殿山合戦において「陣塁」という敵方勢力を閉じ込めるために使われた館であり、基氏が実際に住まったものではないと提唱する研究<ref>{{Cite web ja|title=礒貝富士男(2018)「南北朝期鎌倉公方の"閉じ込める城" : 東松山市岩殿の伝足利基氏館跡をめぐって」|website=機関リポジトリ大東文化大学|url=https://opac.daito.ac.jp/repo/repository/daito/52371/AN00137137-20180331-014.pdf|accessdate=2024-11-10}}</ref>が存在する。 |
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== 人物像 == |
== 人物像 == |
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説話集「{{ws|[[:s:塵塚物語|塵塚物語]]}}」において基氏は「武勇の誉れ高く慈悲深い人物、正直者で、和歌の嗜みもある」と評されている{{Sfn|田辺|2002|p=71}}。 |
説話集「{{ws|[[:s:塵塚物語|塵塚物語]]}}」において基氏は「武勇の誉れ高く慈悲深い人物、正直者で、和歌の嗜みもある」と評されている{{Sfn|田辺|2002|p=71}}。 |
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また塵塚物語では、美食家でもあったとされ、基氏と料理人とのエピソードを掲載している。それによると、基氏が取り寄せた鮒を羹にするように料理人に命じたところ、鮒の裏半面が十分焼けておらず生のままであった。これに激怒した基氏は料理人の不忠ゆえの失態であると厳しく糾弾し、料理人に裸のまま縁側で正座するように処罰を下し鷹狩りに出かけた。だが基氏が帰宅すると、料理人はまだ裸のまま縁側に跪いていた。実は執事の配慮で基氏が留守の間は料理人は着衣することを許されていた。しかし、一日中裸で正座していたと思い込んだ基氏は一時の激情であまりに厳しすぎる処分を下してしまったと自分の行いを恥じた{{Sfn|田辺|2002|p=71}}。 |
また塵塚物語では、美食家でもあったとされ、基氏と料理人とのエピソードを掲載している。それによると、基氏が取り寄せた鮒を羹にするように料理人に命じたところ、鮒の裏半面が十分焼けておらず生のままであった。これに激怒した基氏は料理人の不忠ゆえの失態であると厳しく糾弾し、料理人に裸のまま縁側で正座するように処罰を下し鷹狩りに出かけた。だが基氏が帰宅すると、料理人はまだ裸のまま縁側に跪いていた。実は執事の配慮で基氏が留守の間は料理人は着衣することを許されていた。しかし、一日中裸で正座していたと思い込んだ基氏は一時の激情であまりに厳しすぎる処分を下してしまったと自分の行いを恥じた{{Sfn|田辺|2002|p=71}}。 |
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管弦、ことに[[笙]]に強く感心を示し{{Efn|足利尊氏が笙を学んでおり、尊氏の師は後述される豊原信秋、成秋兄弟の父であり[[豊原時秋]]の子の[[豊原竜秋]]であった。当時の高位の支配者階級は笙を学ぶものが多く、さらに源氏の系統には[[源義光]](新羅三郎)と豊原氏との笙の秘曲を巡る逸話もあり、笙とは縁がある。}}、これを嗜む人物であったと考えられる{{Sfn|田辺|2002|p=35}}。[[1353年]](文和2年)、南朝に対抗する為に[[入間川 (埼玉県)|入間川]]に軍を進め陣取っていた際、朝廷の[[三方楽所#楽家|楽家]]の一家であり、[[笙]]の家であった[[豊原成秋]]を関東まで招き、笙を彼から教わったと伝わる。『[[体源鈔]]』に拠れば、文和元年(1352年)12月12日、豊原成秋に対し「鎌倉公方の左馬頭足利基氏の笙の御師範」として、将軍自筆の御書が下され、豊原成秋は鎌倉に下向している。さらに同じ豊原家で[[後円融天皇]]や三代将軍[[足利義満]]の笙の師であった、成秋の兄の[[豊原信秋]]も招いて、彼から「秘曲を伝授」された{{Sfn|田辺|2002|p=35}}。秘曲を伝授してくれた恩賞として、基氏は豊原信秋に対し、[[武蔵国]]に所領を与え、褒美としている。 |
管弦、ことに[[笙]]に強く感心を示し{{Efn|足利尊氏が笙を学んでおり、尊氏の師は後述される豊原信秋、成秋兄弟の父であり[[豊原時秋]]の子の[[豊原竜秋]]であった。当時の高位の支配者階級は笙を学ぶものが多く、さらに源氏の系統には[[源義光]](新羅三郎)と豊原氏との笙の秘曲を巡る逸話もあり、笙とは縁がある。}}、これを嗜む人物であったと考えられる{{Sfn|田辺|2002|p=35}}。[[1353年]](文和2年)、南朝に対抗する為に[[入間川 (埼玉県)|入間川]]に軍を進め陣取っていた際、朝廷の[[三方楽所#楽家|楽家]]の一家であり、[[笙]]の家であった[[豊原成秋]]を関東まで招き、笙を彼から教わったと伝わる。『[[体源鈔]]』に拠れば、文和元年(1352年)12月12日、豊原成秋に対し「鎌倉公方の左馬頭足利基氏の笙の御師範」として、将軍自筆の御書が下され、豊原成秋は鎌倉に下向している。さらに同じ豊原家で[[後円融天皇]]や三代将軍[[足利義満]]の笙の師であった、成秋の兄の[[豊原信秋]]も招いて、彼から「秘曲を伝授」された{{Sfn|田辺|2002|p=35}}。秘曲を伝授してくれた恩賞として、基氏は豊原信秋に対し、[[武蔵国]]に所領を与え、褒美としている。『[[源威集]]』は貞治2年(1363年)8月の岩殿山合戦の前夜、基氏が唐櫃から笙を取り出し、具足を付けたまま音を鳴らさず、息のみで音を立てずに「荒序」を半時ほど吹き、毎日この所作を行ったと伝えている<ref>田辺 2002 p.36</ref>。 |
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宗教面においては、義堂周信に帰依し、禅宗を深く信仰していた。 |
宗教面においては、延文4年([[1359年]])に義堂周信に帰依し、禅宗を深く信仰していた。貞治2年(1362年)、基氏は相模国北深沢庄の荘園を義堂の為に寄進している{{Sfn|田辺|2002|p=57}}。また同年、基氏は入間川に在陣中でありながら、義堂の為に鎌倉まで一旦帰還し、鎌倉・[[瑞泉寺 (鎌倉市)|瑞泉寺]]の一覧亭にて花見を催している{{Sfn|田辺|2002|p=57}}。同年の冬、基氏が鎌倉へ帰還すると、義堂は基氏の為に奉慶の歌を詠んでいる{{Sfn|田辺|2002|p=58}}。このほかにも、基氏は「銅雀研」という[[春屋妙葩]]から奉献された[[硯]]を所持していたが、それにまつわる「銅雀研記」という詩文を義堂に作らせた。この硯は基氏死去の際、ともに墓に収められている<ref>田辺 2002 p.67</ref>。また基氏の命を受けて義堂は「天神祠」と題した詩三篇を詠んだり<ref>田辺 2002 pp.58-59</ref>、故大休寺殿([[足利直義|直義]])に捧げる三篇の漢詩を詠んだりしている<ref>鎌倉国宝館 2017 p.83</ref>。義堂は自らの日記に、自分と基氏は立場の違いなどを考慮せず、友人のように[[水魚の交わり]]をしてきた、と綴っている{{Sfn|田辺|2002|p=59}}。貞治4年([[1365年]])5月4日に基氏の母登子が亡くなるが<ref>黒田編 2013 p.28</ref>、その供養のためか同年7月25日には[[般若心経]]を書写した<ref>田辺 2002 p.41</ref>。基氏が亡くなった際、庶民に心を向け、仁慈の行政を行った基氏を偲んで、義堂をはじめ[[五山]]の僧侶が法語を寄せた<ref>田辺 2002 p.68</ref>。 |
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歌道の家であった[[冷泉家]]の当主[[冷泉為秀]]{{Efn|京ではなく、鎌倉にいることが多かったと伝わる。つまり鎌倉府・基氏の庇護があったと推測される。}}宛てに書かれたと推測される{{Sfn|田辺|2002|p=61}}基氏の手紙が存在しており、それによると、冷泉家から歌道を教わっていたようである。[[新千載和歌集]]に五首、[[新拾遺和歌集]]に八首、[[新後拾遺和歌集]]に三首、[[新続古今和歌集]]に一首の歌がそれぞれ収録されている{{Sfn|田辺|2002|p=61}}。 |
歌道の家であった[[冷泉家]]の当主[[冷泉為秀]]{{Efn|京ではなく、鎌倉にいることが多かったと伝わる。つまり鎌倉府・基氏の庇護があったと推測される。}}宛てに書かれたと推測される{{Sfn|田辺|2002|p=61}}基氏の手紙が存在しており、それによると、冷泉家から歌道を教わっていたようである。[[新千載和歌集]]に五首、[[新拾遺和歌集]]に八首、[[新後拾遺和歌集]]に三首、[[新続古今和歌集]]に一首の歌がそれぞれ収録されている{{Sfn|田辺|2002|p=61}}。 |
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このようにその教養は非常に深く、広い分野にわたって趣味を嗜んだと伝わっているが、義堂周信によれば、[[田楽]]だけは「政道の妨げになる」 |
このようにその教養は非常に深く、広い分野にわたって趣味を嗜んだと伝わっているが、[[永徳]]3年(1383年)8月に、[[足利義満]]から基氏の人物像に尋ねられた際の義堂周信の返答によれば、[[田楽]]だけは叔父直義を見習って「政道の妨げになる」{{Sfn|田辺|2002|p=61}}という理由で生涯一度も見なかったという<ref>亀田・杉山編 2021 p.25</ref>。 |
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== 墓所・寺院 == |
== 墓所・寺院 == |
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基氏は臨済宗に深く帰依し関東各地に寺院を建立したが、とりわけ鎌倉市の[[瑞泉寺 (鎌倉市)|瑞泉寺]]が有名である。また関東への赴任以前に若狭に領地があり大飯郡の青郷に前記と同名の瑞泉寺を建立している。現在は名を大成寺と改め、この地方の名刹として続いている。 |
基氏は[[臨済宗]]に深く帰依し関東各地に寺院を建立したが、とりわけ鎌倉市の[[瑞泉寺 (鎌倉市)|瑞泉寺]]が有名である。また関東への赴任以前に若狭に領地があり大飯郡の青郷に前記と同名の瑞泉寺を建立している。現在は名を大成寺と改め、この地方の名刹として続いている。また父[[尊氏]]の菩提寺の[[長寿寺 (鎌倉市)|長寿寺]]([[鎌倉市]])に七堂伽藍を備えた堂宇を建立した。[[遍照寺 (真岡市)|遍照寺]](栃木県[[真岡市]]・[[真言宗]][[智山派]])や長兄・[[足利竹若丸]]の菩提を弔う[[清河寺]](埼玉県さいたま市・臨済宗円覚寺派)の建立、[[真照寺]] (東京都[[あきる野市]]・真言宗[[豊山派]])の再興なども行っている。 |
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墓所:鎌倉[[瑞泉寺 (鎌倉市)|瑞泉寺]](神奈川県鎌倉市二階堂710) |
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*墓塔は非公開。ただし「[[国史大辞典 (昭和時代)|国史大辞典]]」の基氏の項目に「(伝)足利基氏墓」の白黒写真が掲載されている<ref>国史大辞典編集委員会(1979)『国史大辞典』第1巻、吉川弘文館、p.170</ref>。また[[称名寺 (横浜市)|称名寺]](神奈川県[[横浜市]]金沢区)にも、江戸時代に寺の外護者を顕彰するため作成されたとみられる<ref>鎌倉国宝館 2017 p.87</ref>基氏の位牌(瑞泉寺殿玉厳道昕大禅定門/裏面:貞治六 四月廿十六日)が伝わっている。 |
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[[File:Zuisenji Main Hall Kamakura.jpg||right|thumb|瑞泉寺]] |
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[[File:Chojuji Garden2.jpg|right|thumb|長寿寺]] |
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[[ファイル:清河寺.jpg|right||サムネイル|清河寺]] |
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== 経歴 == |
== 経歴 == |
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※日付=旧暦 |
※日付=旧暦 |
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*[[茂木基知|茂木'''基'''知]]<ref name="eda 2008" />([[茂木氏]]) |
*[[茂木基知|茂木'''基'''知]]<ref name="eda 2008" />([[茂木氏]]) |
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*[[結城基光|結城'''基'''光]]<ref name="eda 2008" /><ref>{{Citation|和書|author=荒川善夫|chapter=総論I 下総結城氏の動向|series=シリーズ・中世関東武士の研究 第八巻|title=下総結城氏|publisher=戎光祥出版|year=2012|page=15}}</ref>{{Efn|また、偏諱を受けたという直接的な表現ではないが、「結城系図」([[東京大学史料編纂所]]架蔵謄写本(原本は[[松平基則]]所蔵))の基光の付記にも「基光謁鎌倉基氏、称八家衆」(基光 鎌倉(の)基氏に謁し、[[関東八屋形|八家衆]]と称す)という、基氏との関係性を窺わせる記載が見られる<ref>{{Citation|和書|title=結城市史 第一巻 古代中世史料編|publisher=[[結城市]]|year=1977|page=665}}</ref>。}} |
*[[結城基光|結城'''基'''光]]<ref name="eda 2008" /><ref>{{Citation|和書|author=荒川善夫|chapter=総論I 下総結城氏の動向|series=シリーズ・中世関東武士の研究 第八巻|title=下総結城氏|publisher=戎光祥出版|year=2012|page=15}}</ref>{{Efn|また、偏諱を受けたという直接的な表現ではないが、「結城系図」([[東京大学史料編纂所]]架蔵謄写本(原本は[[松平基則]]所蔵))の基光の付記にも「基光謁鎌倉基氏、称八家衆」(基光 鎌倉(の)基氏に謁し、[[関東八屋形|八家衆]]と称す)という、基氏との関係性を窺わせる記載が見られる<ref>{{Citation|和書|title=結城市史 第一巻 古代中世史料編|publisher=[[結城市]]|year=1977|page=665}}</ref>。}} |
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; (補足) |
; (補足) |
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# 畠山国清の甥で後に[[畠山氏#畠山金吾家|河内畠山氏]]の当主となる[[畠山基国|畠山'''基'''国]]は、基氏より偏諱を受けて名乗ったものとされる。基国は[[征夷大将軍|将軍]][[足利義満]]時代の[[管領]]に就任するなど、上方での活動の方が知られる人物であるが、当時の畠山氏は上述のように国清が[[関東執事]]であり、その妹[[清渓尼]]が基氏の正室になっているなど、鎌倉府との結びつきが強かった。 |
# 畠山国清の甥で後に[[畠山氏#畠山金吾家|河内畠山氏]]の当主となる[[畠山基国|畠山'''基'''国]]は、基氏より偏諱を受けて名乗ったものとされる。基国は[[征夷大将軍|将軍]][[足利義満]]時代の[[管領]]に就任するなど、上方での活動の方が知られる人物であるが、当時の畠山氏は上述のように国清が[[関東執事]]であり、その妹[[清渓尼]]が基氏の正室になっているなど、鎌倉府との結びつきが強かった。 |
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# [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]中期、基氏から6代目の子孫にあたる[[古河公方]]当主の足利高氏は、時の[[征夷大将軍|将軍]][[足利義澄|足利義高]](後の義澄)の偏諱と関東足利氏の通字である「氏」より「高氏」と名乗っていたが、初代将軍[[足利尊氏]]の初名と被ってしまうことから、後に初代鎌倉公方である基氏から一字を取り「[[足利高基|高'''基''']]」と改めている。 |
# [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]中期、基氏から6代目の子孫にあたる[[古河公方]]当主の足利高氏は、時の[[征夷大将軍|将軍]][[足利義澄|足利義高]](後の義澄)の偏諱と関東足利氏の通字である「氏」より「高氏」と名乗っていたが、初代将軍[[足利尊氏]]の初名と被ってしまうことから、後に初代鎌倉公方である基氏から一字を取り「[[足利高基|高'''基''']]」と改めている。 |
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==系譜== |
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詳細は[[足利氏]]を参照 |
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*父:[[足利尊氏]] |
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*母:[[赤橋登子]] |
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*養父:[[足利直義]] |
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*保母:清江夫人([[応安]]元年([[1368年]])9月29日、鎌倉にて死去。貞和5年(1349年)の基氏の関東下向に際しての[[八坂神社]]の祈祷で撫物の奉納を行っている局と同一とした場合、基氏と共に京都から関東に下向したとみられる<ref>田辺 2002 pp.74-75</ref>)。 |
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*兄弟姉妹<ref>田辺 2002 p.8</ref> |
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**[[足利竹若丸]] |
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**[[足利直冬]] |
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**[[足利義詮]] |
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**女子([[康永]]元年([[1342年]])10月2日没) |
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**[[足利聖王丸]] |
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**[[英仲法俊]] |
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**[[鶴王]] |
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**女子(貞和3年([[1347年]])10月14日没。直義が養育していた。法名了清<ref>田辺 2002 p.7</ref>) |
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**女子(貞和2年([[1346年]])7月7日没) |
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*妻:[[畠山家国]]の娘(鎌倉大平寺の中興・清渓尼とみられる。基氏の死後に出家したとみられ、義堂周信を幼少の氏満の補佐役にした。[[永徳]]2年([[1382年]])6月4日死去<ref>黒田編 2013 p.180</ref>。) |
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*子女 |
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**[[足利氏満]](幼名:金王丸) |
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**基氏の子女を記録している一次史料は『[[師守記]]』貞治6年5月3日条のみで、当時9歳の氏満(金王丸)のほかに、「其外」の「小児」と、妊娠7カ月の胎児がいるとの記録がある。他に確実な一次史料が残されておらず、恐らく幼くして亡くなったと思われる<ref>黒田編 2013 p.181</ref>。 |
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*一次史料以外に見える子女 |
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**足利興満(『篠川太郎蔵篠川系図』による。氏満の兄といわれる<ref>黒田編 2013 p.182</ref>。) |
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**氏満朝臣ノ姉君(『足利治乱記』の他、各種系図に記載される。[[六角満高]]の室といわれる<ref>黒田編 2013 p.183</ref>。) |
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== 関連作品 == |
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; テレビドラマ |
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*『[[太平記 (NHK大河ドラマ)|太平記]]』(1991年 [[日本放送協会|NHK]][[大河ドラマ]]) 演:[[枝松拓矢]] |
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; 小説 |
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* [[アグニュー恭子]]『入間川<ref>{{Cite web ja|title=入間川|website=埼玉新聞社HP 2021年埼玉文学賞正賞・準賞発表|url=https://www.saitama-np.co.jp/information/bungaku/2021.php|accessdate=2024-11-10}}</ref>』(第52回[[埼玉文学賞]] 小説部門正賞) |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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* {{Citation|和書|editor=黒田基樹|title=足利基氏とその時代|series=関東足利氏の歴史 第1巻|publisher=戎光祥出版|year=2013|isbn=978-4864030809}} |
* {{Citation|和書|editor=黒田基樹|title=足利基氏とその時代|series=関東足利氏の歴史 第1巻|publisher=戎光祥出版|year=2013|isbn=978-4864030809}} |
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* {{Citation|和書|editor=松山充宏|title=桃井直常とその一族|series=中世武士選書 49|publisher=戎光祥出版|year=2023|isbn=9784864034876}} |
* {{Citation|和書|editor=松山充宏|title=桃井直常とその一族|series=中世武士選書 49|publisher=戎光祥出版|year=2023|isbn=9784864034876}} |
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* {{Citation|和書|editor=[[亀田俊和]]|title=観応の擾乱 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い|series=中公新書|publisher=中央公論新社|year=2017|isbn=978-4-12-102443-5}} |
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* {{Citation|和書|editor=亀田俊和・[[杉山一弥]]|title=南北朝武将列伝 北朝編|publisher=[[戎光祥出版]]|year=2021|isbn=978-4-86403-381-7}} |
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* {{Citation|和書|editor=[[杉山一弥]]|title=図説鎌倉府 構造・権力・合戦|publisher=[[戎光祥出版]]|year=2019|isbn=978-4-86403-330-5}} |
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* {{Citation|和書|last=佐藤|first=進一|title=日本の歴史9 南北朝の動乱|series=中公文庫|publisher=[[中央公論新社]]|year=2005|isbn=978-4-12-204481-4}} |
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* {{Citation|和書|last=久保田|first=順一|title= 上野武士と南北朝内乱 新田・上杉・白旗一揆|series=中世武士選書47|publisher=戎戎光祥出版|year=2023|isbn=978-4-86403-467-8}} |
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* {{Citation|和書|editor=[[鎌倉国宝館]]|title=足利基氏没後650年記念特別展 鎌倉公方足利基氏 新たなる東国の王とゆかりの寺社|publisher=鎌倉国宝館|year=2017}} |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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* [[薩埵山体制]] |
* [[薩埵山体制]] |
2024年11月10日 (日) 12:33時点における版
足利基氏像 | |
時代 | 南北朝時代 |
生誕 |
興国元年/暦応3年3月5日 (1340年4月2日) |
死没 |
正平22年/貞治6年4月26日 (1367年5月25日) |
改名 | 光王・亀若丸(ともに幼名)→基氏 |
別名 | 入間川殿 |
戒名 | 瑞泉寺玉巌道昕 |
墓所 | 神奈川県鎌倉市の瑞泉寺 |
官位 | 従三位左兵衛督 |
幕府 |
室町幕府初代鎌倉公方 (在職:1349年 - 1367年) |
氏族 | 足利氏、鎌倉公方家 (足利将軍家) |
父母 | 父:足利尊氏、母:赤橋登子 |
兄弟 | 竹若丸、直冬、義詮、基氏、鶴王ほか |
妻 | 正室:清渓尼(畠山家国の娘) |
子 | 氏満、女(六角満高室) |
足利 基氏(あしかが もとうじ)は、南北朝時代の武将。初代鎌倉公方(在職:正平4年/貞和5年9月9日(1349年10月21日) - 正平22年/貞治6年4月26日(1367年5月25日)[1])。後の古河公方の家系の祖でもある。室町幕府初代将軍足利尊氏の四男で、母は正室の赤橋登子[2](登子の子としては次男)。
生涯
誕生
暦応3年(1340年)、父足利尊氏36歳、母赤橋登子35歳の時に誕生する。幼名は光王とも亀若ともいわれる。今川了俊は『難太平記』にて「光王御料」と読んでいる[3]。基氏の兄弟には足利竹若丸・足利直冬・足利義詮・鶴王らがいる。
足利系図の中には基氏が叔父の足利直義の融子となったと記すものが多い[4]。これに関しては、後述の鎌倉下向に際して直義の養子になったとする説[5]と、基氏が5歳の時点で直義の融子となっていたとする説がある。康永3年(1344年)6月17日に、尊氏の実子かつ足利直義の融子である男児が深削・着袴・学問始・弓始の人生儀式を催した記録が『師守記』にある。この男児を『大日本史料』6編は足利直冬に比定しているが、深剃・着袴の儀礼は5歳頃に行われるとされ、特に着袴の儀礼は後の足利将軍家でも6代足利義教と義教の従兄弟などが5歳の時に行われている[6]。このため、この融子の男児は当時23歳(最も若く見積もっても15歳)と推定される直冬ではなく、当時5歳の基氏ではないか[4]というものである。基氏が5歳の時点で直義の融子となっていた場合、のちの上杉憲顕をはじめとする直義派の東国武将との関係を見る時にきわめて興味深い前提条件となること[7]が指摘されている。
観応の擾乱前期
足利将軍家の内紛から発展した観応の擾乱が起こり、政務を担っていた直義が失脚すると、父尊氏は鎌倉にいた嫡男で基氏の兄義詮を、次期将軍として政務を担当させるため京都へ呼び戻し、正平4年/貞和5年(1349年)9月9日に次男である基氏を鎌倉公方として下向させ、鎌倉府として足利氏政権の出張所として機能させた。『難太平記』はこの義詮との公方交代を、尊氏・直義の合議の結果と記している[8]。兄義詮の入京とは対照的に、基氏が鎌倉に向かう際の俱奉の人数は100騎に満たない寂しい行列だった。基氏は当時10歳で、元服前の下向ということにも洞院公賢が疑問を呈している[9]。鎌倉に下向した際、わずかな日数ではあるが鎌倉から京に出立する前の義詮と顔を合わせる機会があったとみられる[9]。この折、幼い基氏を補佐した執事(後の関東管領)の1人に上杉憲顕がいた。
兄義詮の代わりに鎌倉に派遣された基氏は、観応の擾乱に巻き込まれる。当時の鎌倉府は幼い基氏を直義派の上杉憲顕と、高師直の養子で高師冬という2人の関東執事が支える体制をとっていた。観応元年(1350年)12月25日、師冬が基氏を連れて鎌倉を出て、相模国毛利荘湯山(神奈川県厚木市)に移動する。これは同年10月に出家した直義が京都から出奔し反撃に出た動きに呼応した[10]11月12日の常陸国信太荘(茨城県稲敷郡[11])での上杉能憲の挙兵、同年12月1日の上杉憲顕の自身の守護国である上野国へ下向といった[12]、常陸国や上野国で活発化した上杉氏一族の軍事行動へ対応するための動きだった。しかし、翌26日に師冬・基氏に同道していた直義派の近習と石塔義房が、尊氏派の近習の三戸七郎[注釈 1]・彦部次郎・屋代源蔵人を湯山坊中で討ち取るという騒擾が起きる。基氏は石堂義房ら直義派に身柄を確保されて同月29日に鎌倉に連れ戻されるが、基氏の身柄を奪われた師冬はそのまま甲斐国に逃亡し、観応2年(1351年)正月17日に上杉憲将らに攻められ、須沢城(山梨県南アルプス市)にて敗死した。
鎌倉に戻った基氏は、元服前かつ慣習では15歳とする判始の前ながら、着到状や感状に花押を据え始めた。この行動の背景には基氏を関東における直義派の旗頭として担ぐ必要に迫られた[13]上杉憲顕らの要請があったとみられる。花押は個人的にも基氏敬慕の対象だった[14]直義の花押を模したものとみられている[13]。基氏は終生同じ花押を使用しており[15]、後代の鎌倉公方・古河公方となる基氏の子孫(足利持氏を除く)の花押は、これに始まる「関東足利様」という特徴を代々引き継いだ[16]。基氏の判始は憲顕ら直義派に利用され、政治的・軍事的目的でなされたものと推察される[17]が、基氏が花押を改めなかった理由として、その契機となりそうな直義の死や憲顕の没落といった機会が基氏の元服前の出来事だったこと、成人後しばらく文書を発給しておらず花押型を変える意識がなかったとみられること、本人の早逝が考えられている[18]。基氏は軍勢催促状などの軍事関係文書にも署名した[19]。師冬を滅ぼした憲将はそのまま上洛して観応2年(1351年)2月26日に武庫川で高師直・高師泰を討ったが、これと同時期に基氏・憲顕が大軍をひきいて上洛するという噂が京都方面で流れた[20]。しかし直義によって阻止された[21]という。
観応の擾乱後期
師直・師泰の死をもって擾乱の前期が終わりを告げた。しかし、和解が成立したかに見えた尊氏と義詮・直義の間は再び緊張状態に陥る。尊氏・義詮の策謀を察知したといわれる直義が、同年8月1日に京都から没落し、擾乱の後期がはじまった[23]。基氏は同年9月に上野国世良田(群馬県太田市)に陣し、10月に下野国足利(栃木県足利市)に移った。これは京都から北陸経路で関東に向かった直義を迎え入れるのと同時に、北関東の尊氏派を牽制するための動きと考えられる[24]。基氏は9月21日に長楽寺に武蔵国長浜郷安保中務丞跡を寄進している。憲顕が基氏の下命を奉じ、憲将が請文を納めていることから、この父子が基氏に随行して軍勢も引き連れていたと考えられている[25]。直義は11月15日に鎌倉に入り[26]、基氏は同月に直義に俱奉してともに関東に赴いた者たちに対して感状を発給した[27]。ただし、こうした基氏の動きについては、当時事実上東国を支配していたのは上杉憲顕であり、当時12歳の基氏が主体的に行ったわけではない[26]という見解がある。
観応2年(1351年)12月29日、駿河国薩埵山(静岡県清水区)にて薩埵峠の戦いが行われた。『喜連川判鑑』は、この時基氏は尊氏と直義を調停しようとしたものの失敗し、安房国に逃れたと記している。しかし、これを裏付ける確実な一次史料はなく、真偽は不明である[28]。また『喜連川判鑑』は『太平記評判秘伝理尽鈔』を参照していることがほぼ確実だが『理尽鈔』は基氏の逃亡先を武蔵と記している[29]。この基氏の逃亡先の違いについて、建武4年(1335年)に北畠顕家の攻撃を受けた兄義詮が安房に逃れた先例に『喜連川判鑑』が倣ったのではないかと指摘するとともに、当時12歳の基氏が両者を調停したという記述は疑わしいとする研究がある[30]。基氏は伊豆国府(静岡県三島市)に本陣を置く直義と共にいたとする方が自然という見方もある[28]。
合戦は尊氏方が勝利し、尊氏は直義を伊豆山神社(静岡県熱海市)にて降伏させると[31]、翌年正月5日に鎌倉に共に入り浄妙寺境内の延福寺に幽閉した。そして、同年2月25日に基氏は鎌倉にて13歳で元服するが、その翌日の26日に直義は病死(暗殺とも)している[32]。基氏にとって観応の擾乱は人生儀礼だけでなく、近習の抗争、直義の死など激動の体験とともに記憶されたと思われる[33]。
尊氏の鎌倉下向期
直義死去の翌月となる正平7年/観応3年(1352年)閏2月に、新田義興・新田義宗ら東国の南朝勢が蜂起し、そこに先の尊氏方との合戦で敗れた上杉憲顕ら旧直義派の武将が加わった。この南朝方と尊氏方の戦いを武蔵野合戦という。この戦いで南朝方に攻められた基氏は鎌倉を支えきれず退去し、すでに人見原(東京都府中市)・金井原(東京都小金井市)で南朝軍と戦った尊氏が在陣する武蔵国石浜(東京都台東区など諸説あり)に向かい合流したという。合戦が同月28日の笛吹峠の戦いを以て尊氏方の勝利で決着し、新田軍は同年3月2日に鎌倉を放棄した。同月12日に尊氏は鎌倉に戻ったがこの時、基氏も共に鎌倉に戻ったと思われる[34]。その後しばらくの間は鎌倉にて尊氏と行動をともにした。3月には沙汰始の儀式を行い[35]、同年8月30日には従五位下・左馬頭に叙任された。尊氏が鎌倉にいた期間、政務に関わる文書はほとんど尊氏が執事の仁木頼章が発行しており、基氏の文書はほとんど残されていない[36]。
入間川御陣時代
正平8年/文和2年(1354年)7月29日、南朝方からの攻撃で近江や美濃に逃れる事態に陥った義詮を救援するため、尊氏が帰洛する。その前日に基氏は尊氏が補佐役として関東執事に指名した[37]畠山国清とともに鎌倉を出て、入間川に向かった。基氏は尊氏主導のもと延文4年(1359年)をさほど遡らない時期に国清の妹(畠山家国の娘)と結婚しており[38]、国清は基氏の義兄にあたる。基氏は執事の国清、宇都宮氏綱、河越直重ら三人の尊氏派の武将とともに東国の統治をおこなうことになる。これを薩埵山体制という。『鎌倉九代後記』によれば、基氏は約9年間もの長期間、南朝方との戦闘のため鎌倉を離れて入間川沿いに在陣したことから「入間川殿」と呼ばれ、その居館は入間川御陣と称された。
基氏は尊氏から、本来京都将軍が行使すべき土地の充行や沙汰付などの発令権を東国において認められており、この期間から鎌倉公方としての基氏自身による発給文書が見られるようになり、文和2年(1354年)ごろから文書の発給が本格化していく。入間川御陣時代は基氏が鎌倉公方としての位置や立場を形づくった時期であり、軍事面の整備に加えて行政面での役割も、規式制定、棟別銭充行、住持安堵、寺社興行、寺社領遵行などに拡大していった。また、寺社への寄進行為などを通じて鎌倉府と宗教勢力との関係も構築した[39]。
延文3年(1358年)4月に父尊氏が京都で亡くなるが、その死をきっかけに蜂起した南朝方の新田義興を、国清が矢口渡(東京都大田区)にて謀殺する形で滅ぼした。基氏の入間川在陣はこの義興謀殺事件か、遅くとも翌年10月8日の国清上洛のときまでと考えられている[40]。
畠山国清の乱
延文4年(1359年)正月、基氏は左兵衛督に昇進した。兄義詮の将軍就任に伴う畿内南朝勢力討伐にも協力し、同年2月7日に東国武家に軍勢催促状を発給し、畠山国清とともに軍を上洛させた[41]。しかし、この畿内出兵に対して厭世的だった東国武家の中には無断帰国するものもいた。この無断帰国については、義詮に京都への増援を提案したのは国清であり、基氏はこの増援にはじめは不賛成で見解の不一致があり、基氏の意に反する上洛だったという説[42]、当時室町幕府内では細川清氏と仁木義長との対立が顕在化していたが、国清が清氏に与してその政治抗争に積極的に関わる姿を見て戦意喪失したという説[43]などがある。国清は無断帰国した武家の所領を没収したため、正平16年/康安元年(1361年)に基氏は、国清と対立した家臣団から国清の罷免を求められた。基氏は国清を鎌倉府から追放する決断を下す。これを、京都での義詮の細川清氏追放と連動した動きとみる見解もある[44]。抵抗した国清は、自身の守護国である伊豆国に立てこもり基氏に対抗するが[45]、基氏は東国の諸氏を軍勢催促して出兵し、貞治元年(1362年)9月に国清を降伏させた。この時、基氏は箱根山に着陣したとの所伝が『鎌倉大日記』などにある[46]。国清は降伏後、時衆・陣僧の援助で京都・奈良方面に逃亡したという[47]。
上杉憲顕の執事復帰
国清の後任の関東執事には一時高師有を用いたが、正平18年/貞治2年(1363年)6月、越後にいた上杉憲顕を関東管領として鎌倉に呼び寄せた。同年3月24日に基氏が「関東管領の事」と憲顕に充てた書状が「上杉家文書」に伝わる[48]。憲顕が基氏の執事に復帰するのは11年ぶりのことで、基氏24歳、憲顕58歳の時のことであった[49]。
この頃、基氏は兄の義詮と図り、父を助けて越後・上野守護を拝命していた宇都宮氏綱に隠れて、密かに越後守護職を憲顕に与えていたと見られている。この動きに激怒し、憲顕を上野で迎撃しようとした氏綱の家臣で上野守護代の芳賀禅可に対し、基氏は同年8月に宇都宮氏綱討伐の軍勢催促を行い、同20日に鎌倉を出発した[50]。基氏は武蔵苦林野(埼玉県毛呂山町)に軍陣を構え、翌26日には北隣の岩殿山(埼玉県東松山市)で宇都宮勢を撃退する。なお『太平記』には、6月に苦林野で激突があり、着ている鎧の色から敵の目的にされた基氏に気づいた岩松直国が、鎧を交換し基氏のふりをして奮戦したという話がある[51]。
この戦いでは基氏の元に参じたものは決して多くはなく、勝利後もなかなか合流しないものが多かった。合戦後の岩殿山周辺の宇都宮勢の掃討にも時間がかかったとみられる[50]。基氏は9月に下野国足利(栃木県足利市)に移って軍勢を整えた上で、宇都宮征伐に向かった。途中の小山で小山義政の仲介を元に、氏綱の釈明を受け入れて鎌倉に戻り、公式に氏綱から上野・越後の守護職を剥奪して憲顕に与え、関東における足利家の勢力を固めた。11月2日には義詮から関東への申沙汰が憲顕に充てて出されており、基氏の望み通り憲顕が関東管領に就任したと思われる[52]。
この一連の合戦は、旧直義党である上杉憲顕を鎌倉府中枢に復帰させる上で、尊氏党であった宇都宮氏と軋轢が生じることが避けられないため、当初より基氏は芳賀氏ではなく宇都宮氏を攻撃しようとしていたのではないかとも考えられている[53]。また基氏は岩殿山合戦をきっかけとして、宇都宮氏などの「関東武士系」の面々を遠ざけ、上杉氏などの「一門・譜代被官系」のものを政権の中枢に置き、鎌倉府の再編を進めていった[54]。この戦いの翌年には上総の千葉氏胤、相模の河越直重がそれぞれ守護職を失っている。
その後も基氏自身の出陣はないものの、貞治3年(1364年)に世良田義正、梶原景泰らの誅伐、貞治4年(1365年)には信濃国の凶徒退治に出兵するなど、鎌倉府体制の構築に努めた。なお、貞治3年(1364年)4月14日には従三位に叙され、公卿の仲間入りをしている。また、京の禅僧夢窓疎石の弟子である義堂周信を鎌倉へ招き、禅や五山文学を普及奨励させるなど、鎌倉ひいては関東の文化の興隆にも努めた。
死去
正平22年/貞治6年(1367年)4月26日死去、享年28。死因ははしかと伝わる[55]。『難太平記』は自殺の可能性をほのめかすが、あくまで伝聞で真相は分からないとしている。義堂周信の『空華日用工夫略集』によれば3月頃から既に体調がすぐれなかったようである[56]。基氏は4月15日に病を押して円覚寺の正続院に参詣し、宝塔から仏舎利を出して拝し、再度封印した。一生に一度の開封であった[57]。この時点で自身の死を悟っていたと考えられている[58]。4月22日・23日に鎌倉中の禅律寺院が基氏の病気平癒を祈祷し、関東管領の憲顕・上杉憲春の屋敷でも泰山府君祭(人の生死を司る泰山の神を祀る)が行われた[59]。24日に基氏は義堂を病床に招いてのちの事を頼んだ。26日の基氏の訃報を聞いて急ぎ公方邸に駆け付けた義堂は、遺骸を擦ったところ、まだぬくもりが残っていたとで述懐している。葬礼は義堂周信がつかさどり、遺命により鎌倉瑞泉寺に葬られた。法名は玉岩道昕、瑞泉寺殿と称される[60]。
京都では5月4日に武家の弔意を示す勅使が送られるとともに、公家雑訴が7カ日停止され、弔意が示された。幕府でも基氏の死により喪に服していたが、6月9日に雑訴を再開し、15日に等持院にて基氏の七七日仏事を行い[56]、24日に引付を再開した[61]。また豊後守護大友氏継ほか九州諸氏に基氏の死にともなう「馳参」を禁止する命令が出された。基氏が列島規模の影響力を持つ存在であったことが伺われる[62]。長年直義派として活動し義詮に反抗していた桃井直常は、基氏の死を聞いて剃髪し、義詮に帰順するために上京した[63]。 同年12月7日には兄義詮も亡くなっている。義詮は弟基氏との関係について「兄弟相譲、誓死不変」と八幡神に誓約をしており、兄弟関係の維持に腐心していた弟基氏への兄の心情吐露とみられる[3]。後代とは異なり、義詮と基氏の時代、京都将軍と鎌倉公方が対立することはなかった。
その後
基氏の子孫である鎌倉公方系統の足利家(数流に分かれる。当該項目参照)の1つは、戦乱と激動の関東を生き残り、江戸時代には喜連川家として、1万石に満たない少禄ながら10万石格の大名として存続した。明治時代には華族に列せられ、名字を足利に復して存続している。
東松山市岩殿字油免には、岩殿山合戦の折、基氏が陣を置いたとされる館の跡(『足利基氏館跡』。土塁や堀の跡、北緯36度0分19秒 東経139度22分20.6秒)が残っている[64]。この館跡の伝承については従来の基氏の本陣の他に、基氏が岩殿山合戦後も時間を費やした宇都宮勢掃討の痕跡[65]という見方や、岩殿山合戦において「陣塁」という敵方勢力を閉じ込めるために使われた館であり、基氏が実際に住まったものではないと提唱する研究[66]が存在する。
人物像
説話集「 塵塚物語」において基氏は「武勇の誉れ高く慈悲深い人物、正直者で、和歌の嗜みもある」と評されている[67]。
また塵塚物語では、美食家でもあったとされ、基氏と料理人とのエピソードを掲載している。それによると、基氏が取り寄せた鮒を羹にするように料理人に命じたところ、鮒の裏半面が十分焼けておらず生のままであった。これに激怒した基氏は料理人の不忠ゆえの失態であると厳しく糾弾し、料理人に裸のまま縁側で正座するように処罰を下し鷹狩りに出かけた。だが基氏が帰宅すると、料理人はまだ裸のまま縁側に跪いていた。実は執事の配慮で基氏が留守の間は料理人は着衣することを許されていた。しかし、一日中裸で正座していたと思い込んだ基氏は一時の激情であまりに厳しすぎる処分を下してしまったと自分の行いを恥じた[67]。
管弦、ことに笙に強く感心を示し[注釈 2]、これを嗜む人物であったと考えられる[68]。1353年(文和2年)、南朝に対抗する為に入間川に軍を進め陣取っていた際、朝廷の楽家の一家であり、笙の家であった豊原成秋を関東まで招き、笙を彼から教わったと伝わる。『体源鈔』に拠れば、文和元年(1352年)12月12日、豊原成秋に対し「鎌倉公方の左馬頭足利基氏の笙の御師範」として、将軍自筆の御書が下され、豊原成秋は鎌倉に下向している。さらに同じ豊原家で後円融天皇や三代将軍足利義満の笙の師であった、成秋の兄の豊原信秋も招いて、彼から「秘曲を伝授」された[68]。秘曲を伝授してくれた恩賞として、基氏は豊原信秋に対し、武蔵国に所領を与え、褒美としている。『源威集』は貞治2年(1363年)8月の岩殿山合戦の前夜、基氏が唐櫃から笙を取り出し、具足を付けたまま音を鳴らさず、息のみで音を立てずに「荒序」を半時ほど吹き、毎日この所作を行ったと伝えている[69]。
宗教面においては、延文4年(1359年)に義堂周信に帰依し、禅宗を深く信仰していた。貞治2年(1362年)、基氏は相模国北深沢庄の荘園を義堂の為に寄進している[70]。また同年、基氏は入間川に在陣中でありながら、義堂の為に鎌倉まで一旦帰還し、鎌倉・瑞泉寺の一覧亭にて花見を催している[70]。同年の冬、基氏が鎌倉へ帰還すると、義堂は基氏の為に奉慶の歌を詠んでいる[71]。このほかにも、基氏は「銅雀研」という春屋妙葩から奉献された硯を所持していたが、それにまつわる「銅雀研記」という詩文を義堂に作らせた。この硯は基氏死去の際、ともに墓に収められている[72]。また基氏の命を受けて義堂は「天神祠」と題した詩三篇を詠んだり[73]、故大休寺殿(直義)に捧げる三篇の漢詩を詠んだりしている[74]。義堂は自らの日記に、自分と基氏は立場の違いなどを考慮せず、友人のように水魚の交わりをしてきた、と綴っている[75]。貞治4年(1365年)5月4日に基氏の母登子が亡くなるが[76]、その供養のためか同年7月25日には般若心経を書写した[77]。基氏が亡くなった際、庶民に心を向け、仁慈の行政を行った基氏を偲んで、義堂をはじめ五山の僧侶が法語を寄せた[78]。
歌道の家であった冷泉家の当主冷泉為秀[注釈 3]宛てに書かれたと推測される[79]基氏の手紙が存在しており、それによると、冷泉家から歌道を教わっていたようである。新千載和歌集に五首、新拾遺和歌集に八首、新後拾遺和歌集に三首、新続古今和歌集に一首の歌がそれぞれ収録されている[79]。
このようにその教養は非常に深く、広い分野にわたって趣味を嗜んだと伝わっているが、永徳3年(1383年)8月に、足利義満から基氏の人物像に尋ねられた際の義堂周信の返答によれば、田楽だけは叔父直義を見習って「政道の妨げになる」[79]という理由で生涯一度も見なかったという[80]。
墓所・寺院
基氏は臨済宗に深く帰依し関東各地に寺院を建立したが、とりわけ鎌倉市の瑞泉寺が有名である。また関東への赴任以前に若狭に領地があり大飯郡の青郷に前記と同名の瑞泉寺を建立している。現在は名を大成寺と改め、この地方の名刹として続いている。また父尊氏の菩提寺の長寿寺(鎌倉市)に七堂伽藍を備えた堂宇を建立した。遍照寺(栃木県真岡市・真言宗智山派)や長兄・足利竹若丸の菩提を弔う清河寺(埼玉県さいたま市・臨済宗円覚寺派)の建立、真照寺 (東京都あきる野市・真言宗豊山派)の再興なども行っている。
墓所:鎌倉瑞泉寺(神奈川県鎌倉市二階堂710)
- 墓塔は非公開。ただし「国史大辞典」の基氏の項目に「(伝)足利基氏墓」の白黒写真が掲載されている[81]。また称名寺(神奈川県横浜市金沢区)にも、江戸時代に寺の外護者を顕彰するため作成されたとみられる[82]基氏の位牌(瑞泉寺殿玉厳道昕大禅定門/裏面:貞治六 四月廿十六日)が伝わっている。
経歴
※日付=旧暦
- 正平4年/貞和5年(1349年)9月9日、鎌倉公方に就任し、鎌倉へ下向。
- 正平7年/文和元年(1352年)2月25日、元服して基氏と名乗る。8月29日、従五位下に叙され、左馬頭に任官。
- 正平14年/延文4年(1359年)1月26日、左兵衛督に転任。同日、従四位下に昇叙か。
- 正平19年/貞治3年(1364年)4月14日、従三位に昇叙。左兵衛督如元。
偏諱を受けた人物
- (補足)
- 畠山国清の甥で後に河内畠山氏の当主となる畠山基国は、基氏より偏諱を受けて名乗ったものとされる。基国は将軍足利義満時代の管領に就任するなど、上方での活動の方が知られる人物であるが、当時の畠山氏は上述のように国清が関東執事であり、その妹清渓尼が基氏の正室になっているなど、鎌倉府との結びつきが強かった。
- 戦国時代中期、基氏から6代目の子孫にあたる古河公方当主の足利高氏は、時の将軍足利義高(後の義澄)の偏諱と関東足利氏の通字である「氏」より「高氏」と名乗っていたが、初代将軍足利尊氏の初名と被ってしまうことから、後に初代鎌倉公方である基氏から一字を取り「高基」と改めている。
系譜
詳細は足利氏を参照
- 父:足利尊氏
- 母:赤橋登子
- 養父:足利直義
- 保母:清江夫人(応安元年(1368年)9月29日、鎌倉にて死去。貞和5年(1349年)の基氏の関東下向に際しての八坂神社の祈祷で撫物の奉納を行っている局と同一とした場合、基氏と共に京都から関東に下向したとみられる[88])。
- 兄弟姉妹[89]
- 妻:畠山家国の娘(鎌倉大平寺の中興・清渓尼とみられる。基氏の死後に出家したとみられ、義堂周信を幼少の氏満の補佐役にした。永徳2年(1382年)6月4日死去[91]。)
- 子女
- 一次史料以外に見える子女
関連作品
- テレビドラマ
- 小説
脚注
注釈
- ^ 三戸と彦部は高一族庶流の武士。三戸七郎は叔父師冬の融子。『太平記』によれば三戸は半死半生の重傷を負って行方不明になったとされ、実際、一次史料で三戸の生存を確認できる文書が存在するという[12]。
- ^ 足利尊氏が笙を学んでおり、尊氏の師は後述される豊原信秋、成秋兄弟の父であり豊原時秋の子の豊原竜秋であった。当時の高位の支配者階級は笙を学ぶものが多く、さらに源氏の系統には源義光(新羅三郎)と豊原氏との笙の秘曲を巡る逸話もあり、笙とは縁がある。
- ^ 京ではなく、鎌倉にいることが多かったと伝わる。つまり鎌倉府・基氏の庇護があったと推測される。
- ^ また、偏諱を受けたという直接的な表現ではないが、「結城系図」(東京大学史料編纂所架蔵謄写本(原本は松平基則所蔵))の基光の付記にも「基光謁鎌倉基氏、称八家衆」(基光 鎌倉(の)基氏に謁し、八家衆と称す)という、基氏との関係性を窺わせる記載が見られる[87]。
出典
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- 杉山一弥 編『図説鎌倉府 構造・権力・合戦』戎光祥出版、2019年。ISBN 978-4-86403-330-5。
- 佐藤進一『日本の歴史9 南北朝の動乱』中央公論新社〈中公文庫〉、2005年。ISBN 978-4-12-204481-4。
- 久保田順一『上野武士と南北朝内乱 新田・上杉・白旗一揆』戎戎光祥出版〈中世武士選書47〉、2023年。ISBN 978-4-86403-467-8。
- 鎌倉国宝館 編『足利基氏没後650年記念特別展 鎌倉公方足利基氏 新たなる東国の王とゆかりの寺社』鎌倉国宝館、2017年。
関連項目
外部リンク
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