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現代、全世界に道教の信徒を自認する人は3000万人ほどおり、[[台湾]]や[[東南アジア]]の[[華僑]]・[[華人]]の間で信仰されている{{Sfn|P.R.ハーツ|2005|p=12}}。また、中国のみならず中国文化の影響下にあった[[朝鮮半島]]・[[東南アジア]]・[[日本]といった地域では、道教的な文化を多く受容している{{Sfn|P.R.ハーツ|2005|p=13}}。中国本国においては、[[五四運動]]による近代政治思想の影響や[[日中戦争]]による軍事混乱の影響、また[[中国共産党]]の宗教禁止政策などで下火になったが、近年徐々に復興している{{Sfn|P.R.ハーツ|2005|pp=146-152}}。 |
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2024年4月29日 (月) 00:06時点における版
道教 | |||||||||||||
中国語 | |||||||||||||
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繁体字 | 道 教 | ||||||||||||
簡体字 | 道 教 | ||||||||||||
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朝鮮語 | |||||||||||||
ハングル | 도 교 | ||||||||||||
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ベトナム語 | |||||||||||||
ベトナム語 | đạo giáo |
道教 |
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基礎 |
道教の歴史 · 道 · 徳 · 無極 · 太極 · 陰陽 · 五行 · 気 · 内丹術 · 無為 · 道観 · 道士 |
典籍 |
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宗派 |
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聖地 |
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カテゴリ |
道教(どうきょう、拼音: )とは、中国三大宗教(三教、儒教・仏教・道教の三つ)の一つであり、中国の漢民族の固有の宗教。時には外来宗教を除いてその後に残る中国の宗教形式をすべて「道教」の名で呼称する場合もある。
一般には、老子の思想を根本とし、その上に不老長生を求める神仙術や、符籙(おふだを用いた呪術)・斎醮(亡魂の救済と災厄の除去)、仏教の影響を受けて作られた経典・儀礼など、時代の経過とともに様々な要素が積み重なった宗教とされる[1]。道教は典型的な多神教であり、その概念規定は確立しておらず、さまざまな要素を含んだ宗教である[2]。伝説的には、黄帝が開祖で、老子がその教義を述べ、後漢の張陵が教祖となって教団が創設されたと語られることが多い[2]。
ほかにも、『墨子』の鬼神信仰や、儒教の倫理思想・陰陽五行思想・讖緯思想・黄老道(黄帝・老子を神仙とみなし崇拝する思想)なども道教を構成する要素として挙げられる[1]。道教は中国のさまざまな伝統文化の中から生まれており、中国で古くから発達した金属の精錬技術や医学理論との関係も深い[3]。道教の信仰する神仙は大きく分けて「神」と「仙」の2種類である。「神」には天神、地祇、物霊、地府神霊、人体の神、人鬼の神などが含まれる。「仙」は仙真を指して、後天的に修練を経て道を得て、神通力は広大で、変化は計り知れず、また不死の人である。[4]
しかし、道教は中国の歴史上の道家とは別物であり、また「道家の教・道門・道宗・老子の教・老子の学・老教・玄門」などの呼称がある[5]。
歴史
道教は後漢末頃に生まれ、魏晋南北朝時代を経て成熟し定型化し、隋唐から宋代にかけて隆盛の頂点に至った[3]。その長い歴史の中で、悪魔祓いや治病息災・占い・姓名判断・風水といった巫術や迷信と結びついて社会の下層に浸透し、農民蜂起を引き起こすこともあった[3]。一方で、社会の上層にも浸透し、道士が皇帝個人の不老長生の欲求に奉仕したり、皇帝が道教の力を借りて支配を強めることもあった[3]。また、隠遁生活を送った知識人の精神の拠りどころとなる場合も多い[3]。こうした醸成された道教とその文化は現代にまで引き継がれ、さまざまな民間風俗を形成している[3]。
現代、全世界に道教の信徒を自認する人は3000万人ほどおり、台湾や東南アジアの華僑・華人の間で信仰されている[6]。また、中国のみならず中国文化の影響下にあった朝鮮半島・東南アジア・日本といった地域では、道教的な文化を多く受容している[7]。中国本国においては、五四運動による近代政治思想の影響や日中戦争による軍事混乱の影響、また中国共産党の宗教禁止政策などで下火になったが、近年徐々に復興している[8]。
教義
道教が幅広い内容を含むものであることは古くから指摘されており[1]、たとえば南朝梁の劉勰が著した『滅惑論』では、道教の3つの要素たる「道教三品」として以下の三点を挙げている[5][9]。
また、元の馬端臨が著した『文献通考』の「経籍考」では、道教の内容を五つ挙げている[5][9]。
- 清浄 - 老子・荘子・列子などの清浄無為の思想。
- 煉養 - 内丹などの養生術。
- 服食 - 仙薬を服用し不老長生を図ること(外丹)。
- 符籙 - 符籙(おふだ)を用いた呪術。
- 経典科教 - 仏教に対抗して作られた経典や儀礼で、近世の道士が用いるもの。
これらの説を受けて、『四庫提要』の「道家類」の序文では、道家(道教)は老荘の「清浄自持」を根本とし、その後、神仙家・煉丹術・符籙・斎醮(亡魂を救済したり災厄を除去するために行う)・章呪(神々への上書文や呪術)などが加わっていったという説明がなされている[9]。
以下、重要な要素ごとに説明を加える。
老子の「道」
老子は先秦時代の学者とされるが、その経歴については不明な点が多く、その思想を記した書である『老子道徳経』の成立時期もさまざまな説がある[10]。道教は中国古来の宗教的な諸観念をもとに長い期間を経て醸成されたもので、一人の教祖によって始められたものではないから、老子が道教の教祖であるとはいえない[10]。
しかし、『老子』に説かれる「道」の概念が道教思想の根本であることは確かである[10]。道教においては、不老長生を得て「道」と合一することが究極の理想として掲げられ、道徳の教理を記した書の冒頭には『老子』の「道」または「道徳」について説明がなされるのが通例である[10]。
『老子』の冒頭には以下のようにある[11]。
道の道とすべきは、常の道に非ず。名の名とすべきは、常の名に非ず。名無し、天地の始めには。名有り、万物の母には。故に常に無欲にしてその妙(深遠な根源世界)を観て、常に有欲にしてその徼(明らかな現象世界)を観る。この両者は同じきより出でて名を異にし、同じくこれを玄(奥深い神秘)と謂う。玄のまた玄、衆妙の門。 — 『老子』第一章
『老子』では、世間で普通に「道」と言われているような道は本当の道ではないとして否定し、目に見える現象世界を超えた根源世界、天地万物が現れた神秘の世界に目を向ける[11]。「道」は超越的で人間にはとらえがたいものだが、天地万物を生じるという偉大な働きをし、気という形で天地万物の中に普遍的に内在している[12]。
『老子』に見られる「道」「徳」「柔」「無為」といった思想は、20世紀後半に発掘された馬王堆帛書や郭店楚簡から推測すると、戦国時代後期には知られていたと考えられる[13]。「道」を世界万物の根源と定める思想もこの頃に発生し、やがて老子の思想と同じ道家という学派で解釈されるようになった[14]。一方、『老子道徳経』の政治思想は、古代の帝王である黄帝が説く無為の政治と結びつきを強め、道家と法家を交えた黄老思想が成立した。前漢時代まで大きく広まり実際の政治にも影響を与えたが[15]、武帝が儒教を国教とすると民間に深く浸透するようになった。その過程で老荘思想的原理考究の面が廃れ、黄帝に付随していた神仙的性質が強まっていった。そして老子もまた不老不死の仙人と考えられ、信仰の対象になった[16]。
道教においては、不老長生を得て「道」と合一することを理想とするが、その際には精神的な悟脱だけを問題とするのではなく、身体的な側面も極めて重視する[17]。そのため、形而上の「道」の具体的な発現である「気」もクローズアップされるようになった[17]。
神仙道
健康で長生きしたいという人々の共通の願いが、永遠の生命を得るという超現実的なところまでふくらませたものが神仙という観念であり、道教では理念的には神仙になることを最終目標としている[18]。神仙は、東の海の遠くにある蓬萊山や西の果てにある崑崙山に棲み、不老不死などの能力を持っている[19]。また、戦国時代から漢代にかけては、神仙は羽の生えた人としてイメージされることが多く[18]、神仙は天へと飛翔する存在とされる[20]。神仙は、『荘子』においては「真人」「神人」「至人」などとも呼称される[21]。
外丹
神仙への憧れは様々な伝説を生み、『列仙伝』や『神仙伝』といった仙人の伝承が生まれた[22]。仙人になるための修行理論や方法は葛洪の『抱朴子』に整理されている[23]。葛洪は、人は学んで仙人になることができると主張し、そのための方法として行気(呼吸法)や導引、守一(身体の「一」を守り育てること)などを挙げる。葛洪が特に重視するのは「還丹」(硫化水素からなる鉱物を熟して作ったもの)と「金液」(金を液状にしたもの)の服用である[24]。このように、金石草木を調合して不老不死の薬物を錬成することを「外丹」(練丹術、金丹)と呼ぶ[25]。葛洪は、神仙になる方法を知りながらも経済的理由で必要な金属や鉱物を入手できないため実践に至らないとも述べている[26]。
実際には、水銀化合物を含む丹薬は毒薬であり、唐代には丹薬の服用による中毒で死に至った皇帝が何人も出た[27]。煉丹術の研究は丹砂や鉛といった鉱物に対する科学的知識を多く蓄積し、唐代の道士が煉丹の過程で事故を起こしたことがきっかけとなって火薬の発明に至った。また、道士は中毒死を防ぐために医学について研究したため、漢方医学の発展を促し、煉丹術の成果は医学に吸収されて外科の薬物として用いられている[28]。
宋代以後は、金丹といった「外物」(自己の身体の外にある物質)の力を借りるのではなく、修練によって自己の体内に丹を作り出すという「内丹」の法が盛んになることとなり、外丹は下火になった[27]。
内丹
内丹とは、人間の肉体そのものを一つの反応釜とし、体内の「気」を薬材とみなして、丹薬を体内に作り出そうとするもので、それによって不老長生が実現するとされた瞑想法・身体技法である[29]。呼吸法には「吐故納新」、瞑想法には五臓を意識して行う「化色五倉の術」、ほかに禹の歩みを真似て様々な効用を求めた「禹歩」などがある[30]。また、道教においては身体と精神は密接につながっていると考えられるため、感情を調和のとれた穏やかな状態に保つ精神的な修養も不老不死のために必要であるとされた[29]。
唐代までは外丹が盛んであったが、宋代以後には不老長生法の主流は内丹に移り、『周易参同契』と張伯端の『悟真篇』が内丹の根本経典とされた[31]。『悟真篇』の内丹法は、「金丹」を体内で練成する段階と、それを体内に巡らせる「金液還丹」の段階に分かれている。前者の段階は、腎臓の部位に感じられる陽気の「真陽」と、心臓の部位に感じられる陰気の「真陰」を交合させると、丹田に金丹が生じるというもの。後者の段階は、体内の金丹を育成し、身体の精気を金液に変化させる。この時、金液は督脈と任脈のルートに沿って体内を還流し、十ヶ月続けると神仙になる[31]。ただし、これと同時に心性・精神の修養も必要であるとされ、これは「性命兼修」また「性命双修」と呼ばれのちの全真教で重視された[31]。
羽化仙と尸解仙
以上のように、道教においてはさまざまな方法によって不老長生の仙人になることが目指されたが、現実には死は避けがたいものであった[32]。そこで、形の上では死ぬという手続きを経た上で、のちに仙人になるという考え方が生まれ、これを「尸解」という[32]。尸解仙の伝説にはさまざまなものがあり、死んだ人が生き返った、棺の中の遺体が消えて服だけになっていた、遺体がセミの抜け殻のように皮だけになっていたといった逸話が語られた[32]。また、丹薬によって中毒死した場合も、それは本当の死ではなく、尸解仙になったものと考えられた[28]。
宇宙論
道教は多神信仰の宗教であり、「三清」を最高神とする。道教の信仰する神仙は大きく分けて「神」と「仙」の2種類である。「神」には天神、地祇、物霊、地府神霊、人体の神、人鬼の神などが含まれる;このうち天神、地祇、陰府神霊、人体の神のような「神」は、先天的に存在する真聖である。「仙」は仙真を指して、仙人と真人を含んで、後天的に修練を経て道を得て、神通力は広大で、変化は計り知れず、また不死の人である。[33]
道教における神
道教は多神教であり、中心となる神としては当初は老子を神格化した「老君」や「太上老君」がおり、6世紀ごろからは宇宙の「道」を神格化した「元始天尊」や「太上道君」、13世紀ごろからは黄帝の変身である「玉皇大帝」や「呂祖」がいる[2]。ほかにも、かまどの神や媽祖(海上の守護神)など無数と言えるほどに多くの神が存在する[2]。
道教には、人々が自力で仙界に到達し、苦しみから救済されるという自己救済の形式のほか、人々の苦しみを救う神格も存在している[34]。特に六朝時代中期以降は、仏教の大乗思想を道教が受容し、冥界の死者をも含めたすべての存在を救済するという考え方が取り込まれ、様々な斎法儀礼が整えられた[34]。たとえば「元始天尊」は、宇宙の原初の気を受け、天地の崩壊を超越して不変とされる存在で、「劫」のサイクルごとに救済を行うとされた[35]。
天界説
道教において、天の世界は神々の住む場所であり、人も程度に応じて到達可能な理想の境地であるとされた[36]。しかし、具体的な天界説は道教経典においてさまざまな形で現れ、統一されていない。唐代初期の頃に一応の完成された天界説として定着したのが「三十六天説」である[36]。『道門経法相承次序』は以下のように述べている。
天界は三十六の天が積み重なった構造をしている。三界のうちにある二十八天と、その上にある八天に分かれる。三界二十八天のうち、一番下の六天は欲界、次の十八天は色界、次の四天は無色界である。三界二十八天に住む者たちは、寿命は長く、美しい宝玉に囲まれているが、生死を免れない。無色界の上には四天があり、種民天という名前で、そこには生死はなく、災害も及ばない。その上には三境(太清境・上清境・玉清境)があり、これは三天(大赤天・禹余天・清微天)または三清天ともいう。…三境の上、すなわち三十六天の最上部には大羅天がいて、過去・現在・未来の三世の天尊がそこにいる。天尊は三十六天すべてを統括している。 — 『道門経法相承次序』巻上
三十六天説は、仏教の三界二十八天説を下層部に取り込んでおり、仏教の天界の上に道教独自の天を置くことによって仏教よりも優位であることを示した[36]。また、神仙は細かくランク分けされ、それぞれの位階に応じて住む場所が決まっており、三境には九仙・九真・九聖の二十七の位があり、それぞれの位の仙人・真人・聖人が住むとされた[37]。
地上の仙人
天界は神仙の住む場所とされたが、地上にも神仙の住む場所はあるとされ、古くは蓬萊山や崑崙山がその場所であるとされた[38]。地仙(地上で暮らす仙人)の別天地として徐々に整理されたのが「洞天」の世界で、六朝時代中期ごろから、天と同様に三十六の洞天があるという観念が生まれた[38]。『真誥』では洞天の一つとして茅山にあるとされる「華陽洞天」について記載されており、その洞窟の中は特殊な光によって外界と同じように明るく、草木・水沢・飛鳥・風雲など外界と同じ自然が広がっている。宮殿や役所があって多くの地仙が仙官(仙人世界の官僚)となり、全体が上位の神仙の統轄のもとにある[38]。
鬼の世界
「鬼」とは死者の霊魂や天地山川の精霊のことである。不老不死を理想に掲げる道教としては、鬼は理想を達成できなかった存在ということになるが、実際には誰もが死からは逃れられず、実際には道教と鬼の観念は深いかかわりを持っていた[39]。
もともと前漢末頃には、死者の霊魂は泰山に集まるという観念があった。泰山には冥府(冥界の役所)があり、地上と同じような官僚組織が存在し、泰山府君(冥府の長官)が冥吏とともに一般の鬼を支配すると考えられていた[39]。中国に仏教が流入すると、地獄の観念と結びつき、人は死後に泰山地獄に入って泰山府君による裁きを受け、冥界での処遇が決まると考えられるようになった[39]。道教の鬼の考え方もこういった背景のもとに現れており、『真誥』では、死者が第一から第六まで存在する天宮に赴き、鬼界での処遇を決められることが描かれている[39]。
『真誥』においては、世界が仙界・人界・鬼界の三部からなることと、それぞれの世界に住む者は固定しておらず行為の善悪によって上に昇ったり下に降ったり循環往来することが説かれている[40]。人界から仙界への移動のためには、服気・存思などの道術や、経典の読誦、按摩・理髪・導引などの健康法などが必要とされる[40]。一方、鬼界から仙界・人界に移ることができる者は、地下主者・地下鬼者と呼ばれる、鬼と仙との中間的な存在である。地下主者となることができるのは、生前に忠孝や貞廉であったり陰徳があった人で、死後長い年月を経て仙人になれるとされている[40]。このようにして、現世において仙人になることができなかったものでも、死後に仙人になることがありうるとされ、仙界への道がより広く開かれることとなった[40]。
日常倫理
道教においては、地上の人間の行為を天の神が見ていて、行為の善悪に従ってその応報として禍福がもたらされるという観念があり、そこから日常で守るべき倫理が説かれることとなる[41]。人の行為に天が賞罰を与えるという考え方は『墨子』や董仲舒の災異説など中国に古くから存在し、道教関連では『抱朴子』のほか、『太平経』や『霊宝経』などに見えている。『霊宝経』には日常において守るべき倫理として「十戒」が挙げられており、これは仏教の「戒」の影響を受けつつ、中国の日常倫理と融合したようなものになっている[42]。
一には、殺さず、まさに衆生を念ずべし。二には、人の婦女を淫犯せず。三には、義にあらざるの財を盗み取らず。四には、欺いて善悪正反対の議論をせず。五には、酔わず、常に浄行を思う。六には、宗親和睦し、親を謗ることをせず。七には、人の善事を見れば、自分も同じように歓喜する。八には、人の憂いあるを見れば、助けてそのために福をなす。九には、相手の方から私に危害を加えても、志は報いざるにあり。十には、一切未だ道を得ざれば、我は望みを有せず[42]。 — 『太上洞玄霊宝智慧定志通微経』
その後、宋代以後に民衆の間で流行した「善書」や、行為の善悪を点数化する「功過格」によって日常倫理が説かれることとなった[41]。
善書
善書は一般民衆を教化する通俗的な民衆道徳書であり、下層知識人や庶民に向けて書かれていた[43]。道教系・仏教系のものがあり、無料で頒布された(無料で頒布するという行為自体が善行であるともされた)。道教的な善書の源流は南宋にあるが、明末になって三教合一の風潮が強くなると特に流行した[43]。善書の誕生の背景には、一般民衆が主体的な行動によって自身の禍福を定められるという観念があり、これは宋代以降の庶民の社会的地位の向上を反映していると考えられる[44]。
道教的な善書の最初の例が南宋の『太上感応篇』で、太上老君に授けられた言葉として12世紀中ごろから流行するようになった。13世紀の理宗は、この本の出版流通を積極的に行った[45]。ここには、身近な日常倫理が具体例とともに平易に説かれており、その内容は儒教・仏教・道教の枠を超えて全ての人々に通用するものであった[46]。この書は、勧善懲悪の書として人々を教化する書として長い間中国社会において大きな役割を果たした[46]。
功過格
同じく宋代以降に流行した「功過格」は、行為の善悪を点数によって示し、その数値によって自分の行いを反省し、道徳実践に向かうように勧めた書の総称である[47]。現在伝わる最古の功過格は1171年に浄明道の道士によって伝えられたとされる『太微仙君功過格』であるが、当初は道士や信徒を対象に規律を具体化した道教教団的な色彩が濃いものであった[48]。明末になると、より庶民に開かれた日常的行為の規範として簡潔な功過格が生まれた[48]。たとえば、「重病人を一人救うと10ポイント」「人の財物を盗んだ場合は百銭でマイナス1ポイント」というように細かに点数が定められており、人々は寝る前に「簿籍」(功過簿)にその点数を正直に記入し、自分の功過の総数を知り、自身の道徳的行為を省察した[47]。
善書・功過格を実践した人物として著名なのが袁了凡で、彼は当初は人間の運命は定められているという宿命論的思考を持っていたが、功過格を授けられ、自分の意思と善行によって運命を改変することができるという立命論(造命論)の立場に転じた[49]。彼は功過格を実践して願いを成就して進士に至り、民衆に善書を広め、下級知識人層に影響を与えた[49]。
儀式・呪術
霊符・符籙
中国には何らかの霊的な能力が宿るとされる「符」(おふだ、霊符)が古くから用いられ、天災・人災を防ぐほか、邪悪・病魔を退散させる呪術の一種として普及した[50]。古くは、睡虎地秦簡・日書に符の存在を暗示する「禹符」の文字があるほか、馬王堆帛書・五十二病方にも符を使う記述が見られる。後漢の洛陽郊外の邙山漢墓からは、延光元年(122年)と年代が判明している最古の符が発見された[51]。道教においても古くから符・霊符が用いられ、その結びつきは強く、符籙といった呪術に対抗して生まれた全真教でさえ後になると符を用いていた[52]。
符は、道士によって書写され、紙や布の上に篆書・隷書の文字が書かれたり、文字ではない屈曲した図柄や星・雷の図形などが書かれた[53]。道教経典によれば、太上老君が東方に発する気の形状や、蛇のようにうねる山岳や川の様子を天空から見て描写したとされる[54]。こうして書かれた符は、宇宙の生成化育・変化流転を表し、神秘の力と共鳴して不可思議な力を発揮するとされた[55]。
天師道の家では、7歳から16歳までに道術を学び、道術を会得すれば「符籙」が授けられるとされた[56]。「籙」とは、名簿・記録のことで、天官や神仙の名籙と道士の名冊(登真籙)の二種がある[56]。登真籙には、道士の姓名や道号などが記され、儀式を挙行して霊的に道士の名前が登記され、これによって道士として認められて天神の加護を得ることができた[56]。したがって、道士によって籙は神に授かった非常に重要なものであり、その授受の儀式は荘厳なものであった。籙は霊符とともに用いられることも多いため、「符籙」とも呼ばれる[56]。
伝度儀礼
伝度とは、道教教団への加入式であり、道士になるための儀式である[57]。基本的には、戒律を受けることや、天師の牒籙を受けることによって道士となる。道士の階級は細かく区分されており、籙・戒をどれほど受けたかによって差が設けられている[58]。正一教の場合、子供は七歳で最初の宗教的位階を受けて「更令」と呼ばれ、数年の間隔を置いて最初の籙である「童子一将軍籙、三将軍籙、十将軍籙」を受け、思春期の頃に「七十五将軍籙」を受け、「籙生」となる。籙を伝授されるということは、受けたものがその籙の神々を盟約関係を結ぶということである[59]。叙階の前夜には儀式の開催を告げる「上章」を行い、集まった神々に位階を授ける弟子を知ってもらい、翌朝に「度籙」の儀礼が行われる[59]。
ただ、一度籙を受ければ一生神々との関係が持続するわけではなく、その籙に関係する神々と定期的に盟約を行進する必要があった。祈祷によって呼び出された神々は、「閲籙」の儀式によって道士に検閲をかけ、その後に供物を受ける「醮籙」の儀式が行われた[59]。これらの儀式によって得られた法位は、非常に官僚的なシステムによって統制されており、伝授による位階が細かく定められていた[60]。
斎醮儀礼
斎と醮はもともとは別系統の儀礼であったが、のちに一連の儀式として行われるようになった。斎醮は、死者を救済する死者儀礼と、人々の生活における危険を排除し平安を祈る祈安儀礼の二つの系統がある[57]。
死者救済儀礼として成功したのが黄籙斎である。これは斎主の依頼によって道士が行う儀礼である。道士は本来は修行によって自らが仙人となることを目指す修行者であるが、そうした道士が他者である斎主の依頼によって、罪の懺悔を主とする儀礼を行い、その功徳を使者に振り向ける。道士にとってはこれが他者のためのための利他行であり、こうした儀式を行うことそのものが一種の修行となる[61]。また、これとは別に在家信者の間では『度人経』の読誦による死者儀礼も行われていたと考えられる。『度人経』は霊宝経の代表であり、世界の普遍的な救済を説き、この経を読誦すれば仙人になれる、またた人の寿命を延ばし人を災厄から救うとされた[62]。
一方、生者の救済のために行われるのが祈安儀礼であり、金籙斎がその代表である[63]。祈安の対象はさまざまで、災厄を起こす星を占いで特定してその送星に対する儀式を行う例や、一種の地鎮祭を行う例、生前に予め黄籙斎を行い一定の符を与えておく儀式、疾病に対して神に謝罪する儀式などがある[63]。こうした儀式においては、灯儀(神灯を関祝する儀式)と醮儀(酒を神に献上する儀式)が多く見られる[64]。
養生術
養生術に対する関心は戦国時代から存在し、『荘子』において呼吸術や導引の術(身体の屈伸運動)に対する言及が見られる[65]。また、『漢書』芸文志の方技略の「神僊」には10冊の書名が記録されており、いずれも現代には伝わらないが、内容は推測可能であり、以下の例がある[19]。
- 「歩引」 - 呼吸法などを含めた体の屈伸運動・柔軟体操で、長生法の一つ。
- 「按摩」 - マッサージによる健康法。
- 「芝菌」 - 神仙が食べたというキノコのこと。
- 「黄治」は - 錬丹術のこと。黄帝や伏羲など神話的人物の技とみなされる。
また、『漢書』方技略には他に「医経」(医学の基礎理論である経絡や陰陽、針灸などの技法)、「経方」(本草・薬学)、「房中」(性交の技)があり、健康や長寿を目的としたこれらの技法も道教と密接な関係を持った[19]。ほか、道教の修行法として重要なものとして辟穀(五穀を食べないこと)、胎息(宇宙の元気を身体に取り入れて全身に巡らせる特殊な呼吸法)、存思(瞑想のうちに神々を思い描く観想法)などが知られている[2]。
養生術においては「気」が大きな役割をもち、『老子』においては純粋な「気」を保ち、この上なき柔軟性を持ち続けることによって、嬰児のような生命力を維持できるとされる[65]。道教においては、気を保つ方法の一つとして「服気」と呼ばれる呼吸法が重視された[66]。こうした養生術は、医学・薬学ともかかわりを持ちながら、「気」を基盤に置く身体鍛錬の方法として、徐々に道教の中に取り込まれていった[66]。
胎息
胎息とは、道教独自の呼吸法のことで、胎児が母親の体内にあるときには口や鼻では呼吸を行わないことから連想された[67]。その方法は、口や鼻からの息の出し入れを、その音も聞こえず、また自覚もできないほどにきわめて微弱にし、吸い込んだ息を呼吸器から消化管に通し、できるだけ長時間体内に留めておき、その後に口から吐き出す[67]。道教においては、人間に肉体は気からできており、気が消滅すると人間は死亡すると考えられておいたため、体内の気を保持充足させる必要が生まれた。胎息は、道教の呼吸法の中では高度なものとされ、これが修行の目標とされる場合もある[67]。
気が重視されたことから、気を体内に巡らせることも重要視され、これは「行気」と呼ばれた[68]。行気の実践法の基本事項は、呼吸において生命力に満ちた清らかな「気」を吸入すること、より多く吸い込みより少なく吐き出すこと、体内の気海(下丹田)に気を充満させること、気を吸入した後に気管を閉ざし気を体内に巡らせることなどである[69]。
導引
導引とは、気との一体化を目指して長生きするために行う一種の柔軟体操で、健康維持・治病などにも役立てようとするものである[70]。導引の歴史は古く、馬王堆帛書の「導引図」には数十人の男女の様々な」動作が描かれ、確認されるものだけで44の導引の型がある[71]。導引は秦漢時代から普及し、後漢末から三国初期に「五禽戯」(虎・鹿・熊・猨・鳥)という五種類のパターンに体系化された[72]。たとえば「虎」のポーズでは、まず身体をかがめて両手を地面につけ、頭をあげて両目は前方を見る。左手をあげ、右足をあげて重心を前に移し、前へ歩きはじめ、左手と右足が落地すると同時に、右手と左足を前に出して歩く。このようにして前に三歩進み、後ろに三歩戻って、左腕と右太ももを曲げ、身体を左側へごろんと一回転させてから、両手両足を着けて元の姿勢に戻る[70]。
導引は医療・神仙術・道教儀礼などさまざまな場面に取り入れられ、現代は気功としてよく知られている[72]。
医薬
中国最古の薬物書に後漢初期に成書したとされる『神農本草経』があり、365種類の漢方薬が記されて、上品(養命の薬)・中品(養性の薬)・下品(治病の薬)の三つの分類がある[73]。以後、梁の道士の陶弘景によって『神農本草経集注』が作られるなど、特に道士によって本草学の研究が進んだ[73]。
鍼灸
鍼灸は中国においては古くから行われており、殷代にまで遡るとされるが、その実質的な誕生は後漢の頃であり、道教との接触が認められる。たとえば『太平経』には鍼灸に関する記述が含まれている[74]。のち、隋の『諸病源候論』には不老長生の薬を体内で生育する場所としての「丹田」の学説が説かれているが、これには『難経』以来の鍼灸医学が反映されている[74]。
房中術
道教において、性交は自己と自己以外の気の結合(合気)で、宇宙と身体の相関システムの調和のために必要なものであると考えられたため、房中術が発展した[75]。これは集団的乱交、婚姻による夫との関係、人間と神との想像上の結合といったさまざまな形式で現れるが、いずれにしても、性実践は道教の核心部に位置するものであった[76]。性の力は生命の表現であり、男性には創生、女性には変化という役割が与えられて、その気の運動によって「一気」を得て、道に近づくことができると考えられた[77]。
房中術に関する記載は『抱朴子』や『太平経』といった初期の経典にも見えるほか、たとえば天師道においては性生活は宗教生活の一部に取り入れられ、「過度」や「合気」といった性の儀式が行われた[75]。「過度」は、通過儀礼の意とする説と、救済の意とする説がある[78]。この儀式には十歳以上の一組の男女の弟子が参加し、地域の祭酒(師)の教会において以下のような手順で行われた(『上清黄書過度儀』による)[78]。
- 師と男女は静室に入り、師は彼らを東に向かわせる。男は左に、女は右にいて、互いに手を交差し、存思して神を思い浮かべる[78]。
- 師は男女のために告神して救済を請い、弟子たちは合掌して念呪し、死籍から取り除くように唱えた後、師に従って四方の神々に乞い、三気・十神を存思し、六十神に祝告し、太陽・月などの五神を存思する[78]。
- 「合気」に入る。八生(男女が定められた方位に立って、龍虎戯・転関・龍虎交といった性行為を始める)、解結食(衣服を説き、髪を結び、生気を食す)、甲乙呪法(性行為を行いながら男女が定められた呪文を唱える)、王気(四時五方と対応する五臓の気のなかで、四時それぞれに王となる気を存思する)といった手続きがある[78]。
- 神々に功徳を報告する。嬰児回(嬰児が戯れるのを模倣する)、断死(男女が相手を見つめながら全身を撫で、呪文を唱える)、謝生(十二尊に向かって生を賜ったことを感謝する)といった儀式がある[78]。
これらの儀式は合同で行われることもあり[75]、遊女通いをする道士も多く、道観が身分の低い女性や遊女の受け入れ先となる場合もあった[79]。こうした状況は仏教などから批判されることもあり、寇謙之によって気の合一の禁止が唱えられたことがあったほか、宗派によっては房中術に対して曖昧な態度をとることもあった[80]。たとえば、『真誥』においては房中術にさほど意義を認めない箇所もあれば、道に従って交接するのであれば有益な術であると説く個所もある[81]。結局、陰陽の交流は道教からは切り離せないものであり、その交流の重要性は説かれ続けた[75]。房中術の文化はのちにさまざまな方向に発達し、春画の制作や、性交渉時の体位における工夫、薬の使用などに繋がった[82]。唐から宋の頃になると、悦楽のための房中術も発展し、性文学が現れたほか、性具も用いられるようになった[82]。
芸術・文化
文学
また、道教は「神仙」という現実を超えた存在を理想として掲げるため、想像力の世界と深く関わり、さまざまな文学作品を生み出した[83]。以下の例がある。
- 遊仙詩 - 俗界を離れて仙界で遊ぶことをうたった詩[83]。
- 志怪小説
- 歩虚詞 - 神仙となって虚空を飛行するさまをうたった歌曲[83]。
- 変文 - 唐から五代にかけて流行した布教のための絵解きの話本[83]。
- 宝巻 - 明清時代に流行した布教のための語り物[83]。
特に文学作品として大きな影響を与えたのが、5世紀末に陶弘景によって編纂された『真誥』である。ここには洞天や鬼界が生き生きと描かれているほか、その詩は『楚辞』との関連が指摘される[84]。『真誥』は白居易・李白・杜甫・韋応物・李商隠らの詩にその影響が見られる[85]。
また、口語で書かれた通俗的な作品は、当時の庶民文化を濃厚に反映するため、道教を始めとする宗教の要素が多く見出される[86]。たとえば、『水滸伝』の冒頭は宋の仁宗が龍虎山の張天師のもとへ疫病鎮圧の依頼のために役人を派遣するシーンから始まる。また、『三国志演義』に登場する諸葛亮は道士として登場し、道術によって風を起こす。ただし、通俗文学に対する影響は道教だけではなく、仏教や儒教の影響も濃厚に見出される[86]。
演劇・音楽
宋から清にかけて戯曲が流行し、道教に関連する作品も少なくない。明の朱権が元の雑劇を12に分類した際、第一に「神仙道化」劇、第二に「隠居楽道」劇を挙げており、ともに道教思想を反映する[87]。神仙道化劇においては、人間は仙人に人生のむなしさや欲望の愚かさを説かれ、紆余曲折を経てようやく世俗を棄て、得道に至るという筋書きの話が多い。不飲酒不邪淫といった戒律が説かれる場合もあれば、練気による体感、または厭世感や神仙世界への憧憬といった心情を中心に描くものもある[87]。 [87]。
また、演劇の際に必要となる音楽も道教との関係が深い。もともと『太平経』に音楽と天地自然の気の関係が説かれており、道観において「道曲」が演奏された。そのうち歌唱局は唐代の梨園で歌舞と融合して「法曲」に取り込まれ、器楽曲は「俗曲」として急速に民間に広まって「道情」と呼ばれた[88]。当初は道教の経典の内容を歌唱に託して教えを広めるためのものであったが、その後は民間の語り物である説唱の一種「道情鼓子詞」として形を変えた。これには地域によってさまざまな形態があり、南方の四川竹琴や湖北漁鼓、北方の「道情戯」などがある[88]。
絵画
道教をモチーフにして描かれた絵画も多く存在し、魏晋南北朝時代には顧愷之の「洛神賦図」「列仙図」や張僧繇の「行道天王図」といった作品群が生み出された[89]。その全盛期は唐代から宋元時代にかけてであり、唐代の作品として現存するものはないが、『歴代名画記』『益州名画録』などには長安や洛陽に存在した道観壁画が数多く記録されている。宋代の『宣和画譜』には唐代画人の道教絵画が列挙されているほか、呉道玄といった代表的な作家が生まれた[89]。宋代に入っても開封の道観壁画など多くの作例があるが、道教絵画の画作を生業とする画工の作品はやや軽んじられるようになった[89]。
また、そもそも中国では絵画を書くためには精神を集中し、精神と自然を調和させる必要があるとされる。そのためには道と合一し陰陽の調和を保つことが求められるため、絵画芸術と道教の関係は深い。特に山水画に道教の理想が現れているとされる[90]。山水画は、神仙思想や道教思想に基づく想像上の理想郷や、隠逸思想を基礎とした心象風景を描いているという点でも道教的である[91]。
書
中国の書芸術を代表する人物である東晋の王羲之は熱心な道教徒であり、彼が書した『黄庭経』は道教経典であったほか、『真誥』の制作に関わっていた許氏一族と深い関係を有していた[92]。また、『真誥』には王羲之自身も登場している[93]。『真誥』を整理し道教の教理を整備した陶弘景も能書家として知られ、『法書要録』には南朝梁の武帝と彼の書に関する往復書簡が収められている[94]。唐の顔真卿も上清派に傾斜していたことで知られ、「麻姑仙壇記」「魏夫人仙壇碑」「華姑仙壇碑」など道教ゆかりの作品を数多く残した。顔真卿自身が尸解仙になったという伝説もある[95]。
道教の神仙世界では、「天書」と呼ばれる天上の文字が用いられており、これを模写することから「地書」つまり地上の文字が生まれたとされる [96]。
建築
道教の宗教活動のための施設は「道観」(道宮・道院)と呼ばれ、現存するものとしては宋元時代に由来を持つものが最古である。ただし、道教建築にはさまざまな要素が混在しており、仏寺・道観・民間祠が区別しがたい場合も多い[97]。道教研究者の奈良行博は、道教の祀廟(礼拝活動をする施設)を以下の三種に分けて整理している。
- 朝祭系祀廟
- 中国では古くから五嶽に対する信仰があり、道教でも聖地として尊ばれた。泰山や華山に山裾には嶽神を祀る巨大な嶽神廟が建てられた。基本的には山の南側に立地し、廟の背後から山体をさらに北側へと遥拝できるようになっている。これらはもとは朝廷祭祀用の施設であったが、道教や仏教の活動拠点となった[98]。
- 平地都市型祀廟
- 平地に建設される祀廟は広大な敷地を持ち、中軸線上に霊宮・三清の順に祠殿が置かれるか、両者のいずれかが置かれる。蓋部装飾は簡素で、大棟両端に鴟尾が控え、場合によっては中央に宝珠が載る。ただ、いずれも外観から明確な道教建築の特徴が見出せるわけではない[99]。
- 山中・山頂型祀廟
経典
道教の経典を集めた『道蔵』は、三洞四輔十二類の分類で分けられている[101]。三洞とは、洞真経・洞玄経・洞神経の三つで、それぞれが本文・神符・玉訣・霊図・譜録・戒律・威儀・方法・衆術・記伝・讃頌・表奏の十二類に分かれている[101]。三洞は上清経・霊宝経・三皇経(三皇文)とも呼ばれ[102]、4世紀から5世紀に茅山派を中心に制作された[101]。四輔はこれより遅れて5世紀から6世紀に作られ、太平道や天師道、道家や神仙家などの書物を補って成立した[101]。ただ、三洞四輔が厳格に分類通りに分けられているわけではなく、また『墨子』や『韓非子』など道教以外の書物も一部含まれている[101]。
- 洞真経(上清経)
- 三洞最上位の上清経を伝えた一派の開祖は、任城国任城県の女性の魏華存である。彼女は2人の息子と戦乱を避けて江南に移住し、そこで天師道の祭酒(指導者)になったという。その後仙道を極めて仙女となり、紫虚元君・南岳夫人を名乗った。東晋の役人の許謐は霊媒の助けを借りて紫虚元君らを仙界から降臨させ、教示を書き残した。これが時代を得て上清経になったという[102]。精神を研ぎ澄ます瞑想法の存思法などの修練を通して汚れた人間界を脱し、神仙界へ至ることを説く[102]。
- 洞玄経(霊宝経)
- 霊宝経の起源は禹の時代に遡るとされ、邪鬼を排し昇仙を成すという神人から賜った「霊宝五符」とその呪術にあるとされる。これは江南の葛氏道と呼ばれる一族が伝え、経典として整備された。その内容は仏教、特に大乗仏教の影響を受け、輪廻転生や元始天尊が衆生を救済するという思想を持つ。また儀礼を詳しく定めている点も特徴である[102]。
- 洞神経(三皇経)
- 三皇経という名は天皇・地皇・人皇から来ているという。出自には2つの説があり、西城山の石室の壁に刻まれた文言を帛和という人物が学び取ったとも、嵩山で鮑靚という人物が石室から発見したとも言う。既にほとんどが散逸し現在には全く伝わらないが、悪鬼魍魎の退散法や鬼神の使役法などが書かれていたという[102]。
- 四輔
- 「四輔」は太玄・太平・太清・正一の四部からなる[101]。太玄・太平・太清は、洞真・洞玄・洞神の教義を補足するもので、正一は三洞・三輔の内容を全て含む[101]。太玄部は『老子道徳経』およびこれに関係する経典類、太平部は『太平経』の残存しているもの、太清部は金丹に関係した文献、正一部は五斗米道・天師道関係の経典である[103]。
三教の関係
道教・儒教・仏教の間には様々な相互交渉と融合が起こった。仏教と道教の融合の事例としては、天界説・「劫」の観念・地獄・止観・禅の思想・大乗思想・空思想・仏性思想などがある。儒教と道教の融合の事例は倫理思想の面によく現れており、『太平経』や『抱朴子』など儒教の倫理道徳が基調となっている経典は多い[104]。
仏教と道教
仏教が中国に伝来した際、中国に固有に存在した道家思想・神仙思想を媒介として中国の社会・文化の中に入っていった[105]。老子がインドに入って仏となり作ったのが仏教とする「老子化胡説」や、老子・孔子・顔淵は仏が中国の人々を教化するために派遣した仏弟子であるとする「三聖派遣説」などが唱えられ、道教・仏教は互いの優位性を争うこととなった[105]。
元徽年間、道士の顧歓が「夷夏論」を著すと、「夷夏論争」と呼ばれる仏教と道教の論争が始まった[106]。顧歓は、仏教と道教はその根源的な真理は一致しており、どちらも人々の本性を完成させるという目的は同じであるが、そのための教化方法が異なり、中国においては中国の風俗に合った道教がふさわしいと述べた[106]。
仏教の要素は道教にも取り入れられるようになったが、特に霊宝経の仏教需要は顕著であり、仏教の宇宙論・大乗思想・因果応報思想・戒律などが霊宝経の中に取り入れられている[107]。
儒教と道教
儒教で最も重んじられる道徳である「孝」も道教に取り入られており、祖先祭祀を行うことによって、亡き先祖を思う心が天を感動させ、冥界の魂に報いが及ぶと考えられていた[108]。陸修静が整備した儀礼である「霊宝斎」は、父母の重恩を思う気持ちが斎の根本であることを強調し、家の祖先を供養するための斎や国家の安寧を祈願する斎を整備した。これは儒教の思想と同じように家と国家の安寧を祈願するものであり、唐代に道教が王朝に重んじられるきっかけを作った[108]。
三教帰一の思想
こうして三教の間の交渉・融合が進むにつれて、儒・仏・道の一致を主張する説も多く提出されるようになってきた。特に宋代以後になると、自己修養を目的に内丹に関心を持つ人が増え、その一致が説かれるようになった。道教の側からこの議論を行ったのが『悟真篇』で、この書では「性」に重きを置く仏教と「命」に重きを置く道教は不可分で、かつ儒教経典である『論語』や『易』を引用しながら孔子が性命の奥義に通じていたと述べられている[109]。
現代の道教
近代に入り、道教は五四運動・日中戦争・中国共産党の宗教禁止政策などで打撃を受けたが、近年復興している[8]。現代中国では、主に北方で信仰されて出家主義をとる全真教と、主に南方で信仰されて在家主義をとる正一教が盛んである[110]。現存する道観としては、北京白雲観・瀋陽太清宮・茅山道院・龍虎山天師府・嵩山中岳廟・武当山紫霄宮などがあり、合わせて中国本土で1500ほどが現存するとされる[111]。また、道士は2万5千人ほどであるとされる[110]。
中国外における道教
道教は特にアジアにおいて伝播し、各地域の文化にさまざまな影響を与えた。現在、シンガポールにおいては総人口の3割ほどが道教信者であるほか、香港でも熱心に信仰されている。道観の最大の拠点は台湾に置かれている[112]。また、西洋においては仏教・儒教ほど普及したわけではないが、華人の住む地区には道教信徒コミュニティが多く存在するほか、道教の技術や実践に対する関心は高い[112]。
たとえば、道教の寺院の媽祖廟(海上守護・航海安全の祈願)は、もともと海難の予言を行った福建の巫女を祀ったものであり、アジアの沿海地域(シンガポール・台湾・日本など)に数多く存在する[113]。また、関帝廟(関聖廟・関聖帝君廟・武帝廟・老爺廟)も山西商人によって商業神として広められ、各地に存在する[113]。
韓国
韓国道教については、韓国の道教研究者は韓国で自生したものとする説が多い一方、国外の研究者からは中国から伝来したものであると考えられることが多い[114]。自生説の根拠は、『三国史記』に新羅の「風流」や「花郎」という独自の教えがあり、これらと神仙の関わりが指摘されている。また、韓国道教の説話には、檀君説話や高句麗の建国神話と関連し、韓国で発生したことを説くものがある[115]。伝来説の根拠は、『三国史記』に624年に唐の高祖が道士・天尊像・道法を高句麗に送ったと記されており、これによって道教が積極的に導入され、制度的に定着したとする。また、これ以前にも、4世紀初め以前の楽浪の遺跡から道教の呪具である銅鏡が見つかっているし、5世紀初めの古墳壁画にも仙人・仙獣が描かれている[115]。
琉球
琉球には、道士が渡来して定住した記録や、道観が建築された記録は残っておらず、道教が体系的に伝来したわけではない。しかし、道教とかかわりの深い神々が琉球に渡来したことは確かで、その神々は民間の廟神・国家の守護神といった多元的な面を有していた[116]。また、国王と道教の関わりとしては、1436年に中山王の懐機は龍虎山の張天師に書簡を送り、符籙を賜るように願い、その後に符籙を受け取ったことがある[117]。沖縄における中国伝来の信仰・習俗を詳細に調査したのが道教研究者の窪徳忠で、彼によって久米村の天妃廟・天尊堂や、人家のかまど神、集落の土帝君、屋敷の入り口に設けられた屏風、祭祀用の紙銭といった事例が報告されている[116]。
日本
道教の日本への伝来は、儒教・仏教が総合的な文化体系として日本に大きな影響を与えたのに比べると、組織的な形で流入したわけではない。実際、遣唐使が玄宗に謁見した際、道士を紹介されたが日本は道教を尊ばないという理由で拒否したことがあり、遣唐使などの正式な形で道士が日本に渡来したことはない[118]。日本では道士や道観はほとんど見受けられず、道教が体系的な構造をもって日本に定着したとはいえない[119]。
しかし、思想面では道教の影響を多大に受けており、日本の人々の基本的思惟の形成に関わってきたとされる[119]。道教を構成するさまざまな要素は日本に伝わっており、特に神仙術・養生思想は早くから日本に流入していた[118]。『日本国見在書目録』には、『神仙伝』や『列仙伝』のほか、『山海経』『神異経』『十洲記』といった道教的宇宙観に関わる書、また『抱朴子』『老子化胡経』『本際経』『太上霊宝経』などが記録されている[120]。
古代日本文化と道教
古くは、古墳時代前期の遺跡から発掘されている三角縁神獣鏡には神仙の像が刻まれたものがあり、合わせて不老長寿・富貴栄達・子孫繁栄を願う文が記されている。神仙思想は「常世国」の観念と結びつき、不老不死の仙人が住む理想郷としての常世国が考えられるようになった。『浦島太郎』の物語となった『日本書紀』の記録においては、常世国と蓬莱山が結び付けられている[121]。日本の神と道教神話が関係する場合も多く、たとえば天理市石上神宮のフツノミタマには道教の尸解仙のイメージが重ね合わされており、その逸話は『荘子』と共通する部分がある。こうした古代日本文化と道教の関係は、福永光司によって網羅的に論じられている[122]。
神仙思想のほか、医薬の術・養生法・除災の呪術・占術といった日常生活に密接に結びついた実用的・具体的な面も多く受容された[123]。『日本書紀』によれば、6世紀に百済から易博士・暦博士・医博士・採薬師などが派遣されたほか、7世紀初期には僧侶によって暦本や遁甲方術の書がもたらされた。こうした技術の中には、道教の要素の一つである陰陽五行思想や呪禁・占い・おふだなどが含まれている。こうした技術は、大宝律令によって陰陽寮(陰陽・暦・天文・漏刻)と典薬寮(医薬)が設置され、律令国家の中に組み込まれることとなった[123]。また、927年成立の『延喜式』に記された天地の神々に対する祭祀においては、そこで用いられる祝詞に儒教・道教の色濃い影響が見受けられる[124]。
また、呪術やおふだも広く用いられており、古代から中世に至るまで多数の「呪符木簡」が発見されている。これは短冊状の木の板に符の文様と文字を記したもので、さまざまな用途に用いられた[123]。中世から近年に至るまでよく用いられている道教由来の呪文に「急々如律令」という言葉がある。これはもとは中国の公文書の決まり文句が道教の呪術に転用されたものであり、日本では修験道で広く用いられたほか、瓦の魔除けやおふだ、また仏教寺院で用いられている例もある[125]。また、修験道で用いられる九字護身法も『抱朴子』に由来し、もとは道教系統の呪文である[125]。
三教指帰
道教を仏教・儒教と並べて「三教」と呼び、三者を比較しつつそれぞれの思想の要点を論じたのが、空海の『三教指帰』である。この書では、三教はそれぞれ聖人の説でありそれぞれが価値を持つことを認めた上で、仏教を最上とする。空海は道教を『老子』を基調とする無欲にして「道」と一体化するという思想に、『抱朴子』の神仙思想を合わせたような形で捉えていた[126]。
研究史
日本における道教研究は、江戸時代の平田篤胤らを先駆として、明治時代に正式に始まった[127]。戦前はマイナーな研究対象であり、中国哲学・中国文学・東洋史学・宗教学・民俗学など諸分野の研究者や、在野研究者、満鉄調査部・東亜研究所が別々に研究していたが、戦後の1950年に「日本道教学会」ができると、徐々にメジャーな研究対象となった[127]。フランスのマスペロらの翻訳紹介も戦後に進められた[127]。
戦前の研究者として、小柳司気太、吉岡義豊、酒井忠夫、幸田露伴、橘樸、伊東忠太、窪徳忠らがいる[127]。戦後は無数の研究者がいるが、特に福永光司は、それまで儒教が正統的だった中国哲学界で初めて東大教授となり、多くの後進を育てた[128]。
脚注
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参考文献
専門書
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- 野口鐵郎; 福井文雅; 山田利明 ほか 編『道教と中国思想』雄山閣出版〈講座道教4〉、2000年。ISBN 9784639016946。
- 二階堂善弘「通俗文学と道教」2000年。
- 有澤晶「演劇・音楽と道教」2000年。
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- 鄭在書 著、野崎充彦 訳「朝鮮と道教」2001年。
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- 横手裕『中国道教の展開』山川出版社〈世界史リブレット〉、2008年。ISBN 978-4-634-34934-6。
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辞書項目
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関連文献
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- 大淵忍爾『初期の道教』創文社〈東洋学叢書〉、1991年。
- 大淵忍爾『道教とその経典』創文社〈東洋学叢書〉、1997年。
- 神塚淑子『道教経典の形成と仏教』名古屋大学出版会、2017年。ISBN 9784815808853。
- 神塚淑子『『老子』 : 「道」への回帰』岩波書店〈書物誕生 : あたらしい古典入門〉、2009年。ISBN 9784000282963。
- 神塚淑子『六朝道教思想の研究』創文社〈東洋學叢書〉、1999年。ISBN 4423192470。
- 小林正美『中国の道教』創文社〈中国学芸叢書〉、1998年。ISBN 4423194090。
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- 菊地章太『儒教・仏教・道教:東アジアの思想空間』講談社〈講談社選書メチエ〉、2008年。ISBN 978-4-06-258428-9。
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- 小林正美『六朝道教史研究』創文社〈東洋学叢書〉、1990年。
- 小林正美『唐代の道教と天師道』知泉書院、2003年。
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関連項目
外部リンク
- Taoism - スタンフォード哲学百科事典「道教」の項目。
- 日本大百科全書(ニッポニカ)『道教』 - コトバンク
- 『道教に就いて』:旧字旧仮名 - 青空文庫(幸田露伴著)
- 小柳司気太『道教概説』
- 小柳司気太『老荘の思想と道教』
- wikisource:ja:道教
- 日本道教学会
- 東洋學研究者のための電腦四寶 道氣社