徳川頼職
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(徳川頼元から転送)
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 延宝8年1月17日(1680年2月17日) |
死没 | 宝永2年9月8日(1705年10月25日)[1] |
改名 | 長七(幼名)→松平頼元→頼職→徳川頼職 |
別名 | 頼元 |
戒名 | 深覚院殿贈相公三品圓巌真常大居士 |
墓所 | 長保寺(和歌山県海南市) |
官位 | 従五位下・内蔵頭、従四位下・左近衛権少将、贈従三位・参議 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川綱吉 |
藩 | 越前高森藩主→紀伊和歌山藩主 |
氏族 | 紀伊徳川家→高森松平家→紀伊徳川家 |
父母 |
父:徳川光貞、母:真如院 養父:徳川綱教 |
兄弟 | 綱教、次郎吉、頼職、吉宗、栄姫(上杉綱憲正室)、光姫(一条冬経室)、育姫(佐竹義苗正室)、綱姫 |
妻 | なし |
子 | 養子:吉宗 |
徳川 頼職(とくがわ よりもと)は、和歌山藩の第4代藩主。
生涯
[編集]延宝8年(1680年)1月17日、第2代藩主・徳川光貞の三男として生まれる。幼名は長七。元服して松平 頼元(まつだいら よりもと)と称し、その後松平 頼職に改め、従四位下・左近衛権少将兼内蔵頭の官位を受けた。
元禄10年(1697年)4月、和歌山藩邸を訪問した第5代将軍徳川綱吉に御目見し、越前丹生郡内に3万石を与えられ、高森藩を興す。この際に弟の頼方(のちの吉宗)も同様に越前国丹生郡内に3万石を与えられ、葛野藩を立藩している。
宝永2年(1705年)に兄で第3代藩主の綱教が病気に倒れたため、その養子となって徳川姓に復した。5月に綱教が薨去したことによって和歌山藩を相続した。相続の際に高森藩3万石は幕府に一旦返され、内1万石が頼方に加増されている。
8月に父の光貞が薨去した際、頼職はその臨終に駆けつけるべく江戸から早馬で和歌山へ向かい、臨終には間にあった。しかし、無理を押して国元へ駆けつけたのが災いし、頼職も間もなく病に倒れた。父の死去1か月後の9月8日、26歳で病のため卒去した。藩主を相続してからすぐに没したため、和歌山藩主の家督相続時の格式である従三位・左近衛権中将の官位も将軍の偏諱(一字拝領)も受けていない。法名は深覚院殿贈相公三品圓巌真常大居士。藩内では綱教の死から数か月で、同じ年のうちに3人目の葬儀を出す異常事態となり、藩財政悪化に拍車がかかった。
和歌山藩主としての治世は3か月であり、この間の江戸参府はなく、和歌山帰国1回、和歌山在国の通算は1か月であった[2]。
官職および位階等の履歴
[編集]※日付=旧暦
- 元禄8年(1695年)12月 - 従五位下・内蔵頭に叙任。
- 元禄9年(1696年)12月18日 - 従四位下・左近衛権少将に昇叙兼任。
- 元禄10年(1697年)4月15日 - 越前高森藩3万石の藩主となる。
- 宝永2年(1705年)
- 正徳3年(1713年)11月9日 - 贈従三位・参議。
関連作品
[編集]- 「徳川の女たち」(1980年、演:芝本正)
- 「水戸黄門第22部」(1993年、演:若菜孝史)
- 「八代将軍吉宗」(1995年、演:野口五郎)
- 「炎の奉行 大岡越前守」(1997年、演:市川升助)
- 「徳川風雲録 八代将軍吉宗」(2008年、演:河野洋一郎)
- 「大奥」(2023年、演:坂上梨々愛)※男女逆転設定