小寺元武
時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 慶長9年8月14日(1604年9月7日) |
別名 |
小寺鎮賢 通称:又十郎→十郎左衛門尉 略称:小佐 |
戒名 | 悦翁秀忻居士 |
墓所 | 大寧寺(山口県長門市深川湯本) |
官位 | 佐渡守 |
主君 | 毛利元就→隆元→輝元 |
藩 | 長州藩 |
氏族 | 小寺氏 |
妻 | 赤川就秀の次女[1] |
子 | 就武、元賢 |
小寺 元武(こでら もとたけ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。毛利氏の家臣。主に伯耆国や因幡国において活躍したが、防長経略時には豊後国の大名・大友義鎮(大友宗麟)との交渉で活躍し、大友義鎮から偏諱を用いた鎮賢(しげかた)という名を与えられている。
生涯
[編集]前半生
[編集]出自は不明であるが、安芸国高田郡の吉田郡山城を本拠地とする国人である毛利元就に仕える。
天文16年(1547年)6月29日、毛利元就・隆元父子から備後国世羅郡の本郷と京丸の内の30貫の地を給地として与えられ[2]、同年7月2日には備後国世羅郡の寺町と京丸の内で30貫目の知行地を与えられた[3]。
天文17年(1548年)10月10日、毛利元就・隆元父子から備後国世羅郡重永の内の三郎丸名半分15貫目を屋敷分の給地として与えられる[4]。なお、同日に井上元有と児玉就忠が連署の副状を発給している[5]。
天文21年(1552年)9月8日、備中国小田郡笠岡に関する元武の尽力により、小早川隆景から備中国小田郡広浜の田畠2町7反余を与えられる[6][7]。なお、2町7反余の田畠は小さく一見して軽い恩賞のように見えるかもしれないが、当時の広浜は海辺の小村で耕地の少ない土地だったと考えられているため、必ずしも軽い恩賞とは言えないとする見解がある[8]。
天文22年(1553年)頃の11月22日、備中国賀陽郡服部における合戦で敵1人を討ち取ったことについて毛利元就・隆元父子から賞賛される[9]。
天文23年(1554年)12月21日、毛利元就・隆元父子から備後国三谿郡江田において1町5反の地を給地として与えられる[10]。
大友氏との交渉
[編集]天文24年(1555年)10月1日の厳島の戦いで毛利氏が陶晴賢を討ち取った直後から防長経略を進める中、もし大内義長の実兄である大友義鎮(後の大友宗麟)が大内氏に援軍を出すようであれば、大内氏と大友氏を同時に相手することになって毛利氏にとって一大事となるため、毛利元就は大友氏と交渉を行うために元武と小倉元悦を豊後国の府内に派遣した[11][12]。豊後派遣に際して毛利隆元は元武に被官1人、小者3人、中間2人を随行させている[13][14]。
元武と大友氏との具体的な交渉内容は不明であるが、元武は数ヶ月に渡って交渉を続け、毛利氏が大内氏を攻める際に大友氏が介入しないことに同意を得ることに成功した[11][15]。これら数ヶ月に渡る元武の尽力に感心した大友義鎮は弘治2年(1556年)4月14日に元武を佐渡守に任じている[16][17]。さらに同年4月18日に大友義鎮は毛利又三郎を使者として元就・隆元父子に書状を送り、元武の府内における長期間の尽力を労っている[18]。
また、当時筑前国や豊前国の大内方諸勢力の中には大内氏の衰退に乗じて独立を図る者が現れており、同年7月には秋月文種が独立を企てたため、大内義長は麻生鑑益や佐田隆居に秋月氏討伐を命じている[19]。そのような情勢下で、九州北部における大内方勢力の動揺に乗じて大友氏に大内氏を牽制させるべく、同年8月に元就は再び元武を大友氏との交渉に起用して豊後国に派遣し、豊前国に入った元武は府内において再び大友義鎮に拝謁して大内氏への牽制依頼の了承を取り付けることに成功した[20]。
毛利氏の依頼により直ちに府内を出陣して豊前国に入った大友義鎮は豊前国宇佐郡竜王に本陣を置いて豊前国の諸城への攻撃を開始[21]。宇佐郡の三十六人衆を手始めとして、下毛郡長岩城の野中鎮種、京都郡松山城の杉重吉、京都郡馬ヶ岳城の貫親清、企救郡三岳城の長野吉辰、宇佐郡佐野城の佐野親重らを降し、豊前一国を概ね大友氏の勢力圏とした[21]。大友氏の豊前国進攻を脅威に感じた肥前佐嘉城の龍造寺隆信や筑前五箇山城の筑紫惟門らは大友氏への対抗の為、同年秋に使者を派遣して毛利氏に誼を通じたので、元就は大内氏と大友氏への牽制のために龍造寺氏や筑紫氏と誼を通じた[21]。
なお、元武の再びの豊後派遣に際して、同年8月14日に毛利元就・隆元父子は安芸国と周防国の間で50貫文の地を新たに与えることを元武に約束し[22][23]、10月20日に毛利隆元は野間隆実の旧領である安芸国賀茂郡西条の内の勝屋25貫文と周防国玖珂郡多田25貫文の合計50貫文の地を元武に与えている[21][24]。
同年11月15日、毛利隆元は元武の2度に渡る豊後派遣における辛労を賞し、豊後派遣の際に元武に随行させた被官1人、小者3人、中間2人を引き続き元武に随身させた[13][14]。さらに、12月21日に隆元は元武に与えていた周防国玖珂郡多田の替地としての25貫文分に元武の豊後派遣における尽力を賞して5貫文を加えて、周防国玖珂郡日積の内の横山30貫文の地を与えている[25]。以上のように、元武の豊後派遣に合わせて新たに知行地が加増されている点からも、その任務が重要であったことが窺われる[21]。
大内氏が滅んで防長経略が完了した後の弘治3年(1557年)4月8日、大友義鎮から偏諱を用いた「鎮賢」の名を与えられた[注釈 1][17][26]。
弘治4年(1558年)11月1日には毛利隆元が元武に安芸国賀茂郡西条高除の内の重安半名6町を給地として与え[27]、同年11月3日に粟屋元親、粟屋元著、兼重元宣が連署した同様の内容の副状が発給されている[注釈 2][28]。
防長経略においては協力関係を結んでいた毛利氏と大友氏であったが、防長経略後は関係が悪化しており、永禄4年(1561年)の門司城の戦いには元武も従軍し、11月5日に退却する大友軍への攻撃で武功を挙げた能島村上氏の村上武吉のもとに毛利隆元の使者として同年11月9日に赴いている[29][30]。
伯耆・因幡の経略
[編集]永禄6年(1563年)7月3日、行松正盛と協力して伯耆国の尼子方諸城を攻略していた山田満重を討つために尼子義久が伯耆国会見郡の河岡城を攻撃したが、山田満重の奮戦により尼子軍の撃退に成功[31]。同年11月頃に行松正盛が死去したため、その後任となった杉原盛重と共に山田満重は伯耆国の経略を進めた[32]。
永禄7年(1564年)に入ると再び尼子軍が山田満重の河岡城を攻撃したため、元就は元武を援軍として河岡城に派遣[33][34]。元武は嫡男の小寺就武を連れて、吉川元春が派遣した境経俊や小早川隆景が派遣した末近宗久らと共に5月10日に河岡城へ入城した[33][35]。同日、毛利方として備中国から伯耆国に出陣していた三村家親は家臣の山本某を派遣して元武らの援軍を頼もしく思っている旨を元武に伝え[35]、三村軍に同行していたとみられる香川光景と矢田秀職も元武に書状を送って、前日の5月9日に元武と相談できると思って安堵したが、情勢を鑑みて河岡城へ向かう元武を引き留めることはしなかったと伝えている[36]。
同年5月12日に三村家親が帰陣することとなり、元武らも河岡城を開城して立ち退くという話が持ち上がったが、元武は就武、末近宗久、境経俊らと共に河岡城の守りを固めた[37]。同年5月24日、毛利元就、吉川元春、小早川隆景の連名で末近宗久、元武、境経俊の3名に宛てて書状を送り、河岡城における活躍を称賛すると共に伯耆国人の南条宗勝と村上太郎左衛門尉の和合が重要であると伝えている[38]。さらに同年6月15日にも元就は元武に書状を送り、5月12日の三村家親帰陣以降の河岡城守備について称賛している[37]。
また、前年の永禄6年(1563年)3月に因幡守護の山名豊数から離反していた因幡神山城の武田高信が伯耆河岡城に在城する元武を通じて毛利氏に誼を通じ[39][40]、同じ頃に田公氏も毛利氏と手を結んだと考えられている[41]。さらに伯耆国羽衣石城の南条宗勝も武田高信と結んで因幡西部の山名氏領奪取を画策した[39]。尼子義久は山名豊数と協力して毛利方の東進を阻止するために同年7月に因幡国と伯耆国の国境付近に兵を派遣し、元就は因幡経略の必要上、南条宗勝の援軍として伯耆河岡城の元武と伯耆由良嶋城の山田重直を派遣した[39]。
元武は嫡男の就武、吉賀頼貞、一条市介、土屋七郎左衛門ら毛利軍や山田重直や南条宗勝ら伯耆衆と共に因幡西部に侵入し、同年7月22日に山名豊数の支城である因幡鹿野城の麓における武田高信と尼子・山名連合軍の合戦で武田高信に味方して勝利を収め、鹿野城を占拠した[39][42][43][44]。この勝利について元就は同年8月2日付けで元武に送った感状で称賛し、後日褒美を与えることを約束している[45]。また、武田高信も同年8月3日に元武と山田重直に書状を送ってその奮闘を謝し、以後もますます因幡西部の経略に尽力することを要請している[46][47][48]。
同じ頃に山名惣領家である但馬守護の山名祐豊が因幡守護の山名豊数を援護するために但馬出石城を進発して因幡私部城に入城し、毛利氏と山名惣領家は対立状況に至る[42][46][47][49]。8月23日には山名祐豊が毛利軍による鳥取城救援を阻止するためか鳥取城の西方約1里にある因幡国高草郡徳吉に布陣し、気多郡の大坂城や宮吉城へ進攻する動きを見せたため、元就の指示により毛利方の田公氏を救援するため、元武・就武父子と伯耆衆の山田重直や小森久綱らが宮吉城に入城して徳吉の但馬山名軍に備えた[42][46][50]。同年8月25日に元武と山田重直は毛利元就に援兵の派遣と鉄砲の供給を要請し、要請を受けた元就は元武・就武父子と山田重直の適切な処置を褒め、9月2日に伯耆八橋城から兵50~60人と鉄砲20~30挺を急派した[46][49][50][51]。
同年9月に元就が但馬山名氏との和睦交渉を進める中で武田高信が難色を示したため、同年9月28日に元就は元武と久芳賢直に対して但馬山名氏と武田高信との和睦について申し聞かせた内容をよく申し開きするようにと指示している[52][53]。
以上のように因幡国の尼子方勢力である山名豊数を、西から元武、山田重直、南条宗勝らが、東から山名豊弘を擁立する武田高信らが圧迫したことで、山名豊数は死去または没落し、山名豊数を支援していた但馬山名惣領家と毛利氏との和睦も成立したことで因幡国においても毛利方勢力が優勢となり、尼子氏による因幡方面から月山富田城への兵糧供給が困難となった結果、毛利軍の包囲する月山富田城は孤立することとなった[41][46]。
同年11月2日、毛利元就は元武、久芳賢直、矢田幸佐が井上神兵衛尉を使者として送ってきた書状に対する返書において、書状の内容について承知したので、因幡方面の儀について整え、早々に下国することが肝要と伝えている[54]。
その後、元武は因幡と伯耆における尽力に対する知行宛行について愁訴を行っており、年不詳3月18日付けで兼重元宣、綿貫元重、児玉元良が元武に宛てた連署状では、伯耆国八橋郡の赤崎と内蔵の両所についてつぶさに申し上げており、知行を与えるべきであるが、吉川元春と相談できていないためまだ与えることができないとし[55]、吉川元春は4月7日に国司元武に宛てた書状において、元武に因幡国で少し知行を与えるつもりだが未だ与えられていないので、少しでも与えられる土地があれば元武に与えられるよう取り成しを依頼している[56]。
また、年不詳のためこの件に関係するかは不明であるが、年不詳11月8日付けで元武に宛てた吉川元春の書状では、「境春嘉宛ての元武の書状を披見した。元武が自ら内々に訴えていることについては似合いの儀が無いため未だ取り成しが出来ていないが、忘却していたり疎意があったりするわけではないので心中を察してほしい。次男の小寺元賢の進退についても申されているが誠に余儀は無い。また、近年の度々の出陣に尽力させていることについても失念していないので、どうにかして輝元からの御心付けがあるように配慮する」と伝えている[57]。なお、この書状で元武が快気した旨も記されており、この書状以前に元武が病に罹っていたことが窺われる[57]。
南条元続の離反
[編集]元亀元年(1570年)から元武は再び伯耆国に在国し、元亀2年(1571年)6月14日に毛利元就が死去した直後の8月27日、吉川元春は前年以来の元武の伯耆在国について労い、その尽力について毛利輝元によく報告するので輝元からの言葉があるだろうと元武に伝えている[58]。
天正4年(1576年)、前年に伯耆国の国人・南条宗勝の後を継いだ南条元続が織田信長に内通を図って送った密使が三沢氏家臣に捕縛されるという事件があり、南条氏重臣である山田重直、鳥羽久友、南条信正、泉養軒長清、津村基信が吉川元春の本拠地である安芸国新庄に呼び出され対応を協議することとなった[59][60][61]。見つかった密書には尼子氏の旧臣で南条氏の家臣となっていた福山茲正が委細を申し上げる旨が記されていたことから、山田重直らは福山茲正による謀で南条元続は関与していないと弁明し、その主張を認めた吉川元春の命により伯耆国への帰国した翌日の同年7月に福山茲正を討ち果たした[60][61]。
南条氏における事件に対しては吉川元春が伯耆国に入って対処に当たることを考えていたところ、元春の病の養生により元武が事態の対応にあたっており、同年8月1日に吉川元春は境春嘉を使者として南条氏についての書状を元武に宛てて送り[注釈 3]、福山茲正の事件については明確な証拠があるのは言うまでもなく重ねての事であるとして元武らの理解を求めると共に、これ以後に南条氏家中を鎮めることについて元武も異議が無いかを尋ねている[62]。また、南条氏が今後も毛利方に味方するようにすることが肝要であり、事態は未だに落着していないため何かと讒言などもあるだろうとも述べている[62]。
福山茲正の誅殺後は南条氏での混乱は見られなくなったが、天正7年(1579年)6月頃に備前国の宇喜多直家が毛利氏から離反したことで、南条氏の動向を疑った毛利輝元が山田重直を通じて重ねての人質提出を要求したところ[63]、南条元続はかつて毛利氏が南条宗勝に約束した特別な支援を受けられるか不安に思ったためか[64]、重臣の小鴨元清や南条信正らとの協議で南条信正の進言を容れて毛利氏への人質提出を拒否して織田氏へ服属することを決定[65]。合わせて毛利方に近しい山田重直を南条氏居城の羽衣石城に呼び出して誅殺を図ったが失敗したため、同年9月1日には南条元続自ら小鴨元清と共に兵を率いて山田重直の居城である堤城を包囲して自害を迫った[65][61]。何とか堤城を脱出して因幡国の鹿野城に逃れた山田重直・信直父子からの急報を受けた吉川元春は迎えの船を派遣して父子を救出し、出雲国安来で重直から伯耆国の詳細な状況報告を受けた[66]。
ここで南条元続は毛利氏への異心無きことを誓う起請文を持たせて家臣の広瀬若狭守を吉川元春のもとに派遣したが、元春はこれを離反準備のための時間稼ぎと判断し、南条氏離反に備えて因幡国の鹿野城と若桜鬼ヶ城の守兵を増やすと共に、9月5日に南条元続へ再び人質要求することを毛利輝元に進言した[67]。輝元は9月8日に全て元春の意見に同意する旨の書状を送り、一方で9月17日には元武に対して南条元続の離反の意思を翻意させる努力をするよう命じている[67]。その後、南条氏を毛利方に留めさせる方策を講じたが南条氏ははっきりした態度を示さず、10月下旬に至っても人質を提出しなかったため、南条氏が宇喜多氏と結んで毛利氏を離反する考えを持っていると見なした吉川元春は南条氏攻めを決意して毛利輝元と小早川隆景に同意を求め、11月2日に隆景、11月5日に輝元の同意を得ている[67][64]。ただし、元春は杉原盛重を南条氏の抑えとして残し、先に宇喜多氏を攻めて美作国を平定することで南条氏を孤立させる方針を取って、美作国と備中国で宇喜多氏との激戦を繰り広げることとなる[64]。
晩年
[編集]天正8年(1580年)、毛利輝元の備中出陣に嫡男の小寺就武も従軍したが、虎倉城攻撃の途上の同年4月14日に下加茂の山中において宇喜多方の備前国人である伊賀久隆の強襲を受け、毛利軍は先鋒部隊の将であった粟屋元信を始めとして児玉元房、井上元勝、奈古屋元賀(奈古屋清賀)、三戸元好、宇多田藤右衛門、山県三郎兵衛、足立十郎右衛門、斉藤左衛門尉ら40人余りが討ち取られる大敗を喫した(加茂崩れ)[68]。この時の撤退戦において就武は敵方に引き返して戦い戦死した[69]ため、次男の小寺元賢が元武の後継となった。
その後の元武の動向は不明だが、慶長9年(1604年)8月14日に死去している[69]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 他国の家臣が使者として大友氏のもとを訪れた際に偏諱を与えられた事例として、能島村上氏家臣の島吉利が村上武吉の使者として大友宗麟のもとに出向いて両者の盟約を固めた際に豊後国へ長期滞在し、大友宗麟から給地を与えられるような深い関係を築くと共に、大友氏重臣の田原親賢から偏諱を受けて「賢久」と名乗っている[17]。
- ^ ただし、以上の2つの書状は弘治4年11月付けとなっているが、弘治4年は2月28日に永禄元年に改元されているため、書状の真偽については要検討である。
- ^ 吉川元春は元々境春嘉と二宮春澄を元武のもとに派遣してあれこれ相談させるつもりだったところ、同年2月8日に備後国鞆に動座した足利義昭への御礼の儀や、但馬国への加勢についてで立て込んでいたことで遅延したと述べている[62]。
出典
[編集]- ^ 近世防長諸家系図綜覧 1966, p. 197.
- ^ 『閥閲録』巻46「小寺忠右衛門」第15号、天文16年(1547年)6月29日付け、小寺十郎左衛門(元武)殿宛て、(毛利)隆元・(毛利)元就連署宛行状。
- ^ 『閥閲録』巻46「小寺忠右衛門」第16号、天文16年(1547年)7月2日付け、小寺十郎左衛門(元武)殿宛て、(毛利)隆元・(毛利)元就連署宛行状。
- ^ 『閥閲録』巻46「小寺忠右衛門」第17号、天文17年(1548年)10月10日付け、小寺十郎左衛門尉(元武)との宛て、(毛利)隆元・(毛利)元就連署宛行状。
- ^ 『閥閲録』巻46「小寺忠右衛門」第16号、天文17年(1548年)10月10日付け、小寺十郎左衛門(元武)殿宛て、井上与三右衛門元有・児玉三郎右衛門就忠連署状。
- ^ 笠岡市史 第2巻 1989, p. 21.
- ^ 『閥閲録』巻46「小寺忠右衛門」第19号、天文21年(1552年)9月8日付け、小寺十郎左衛門尉(元武)殿宛て、(小早川)隆景書状。
- ^ 笠岡市史 第2巻 1989, p. 22.
- ^ 『閥閲録』巻46「小寺忠右衛門」第30号、天文22年(1553年)比定11月22日付け、小寺十郎左衛門(元武)殿宛て、(毛利)隆元・(毛利)元就書状。
- ^ 『閥閲録』巻46「小寺忠右衛門」第20号、天文23年(1554年)12月21日付け、小寺十郎左衛門(元武)殿宛て、(毛利)隆元・(毛利)元就連署宛行状。
- ^ a b 毛利元就卿伝 1984, pp. 236–237.
- ^ 宇田川武久 1981, pp. 110–113.
- ^ a b 『閥閲録』巻46「小寺忠右衛門」第31号、弘治2年(1556年)比定11月15日付け、小寺十郎左衛門(元武)殿宛て、(毛利)隆元宛行状。
- ^ a b 『閥閲録』巻46「小寺忠右衛門」第32号、弘治2年(1556年)比定11月15日付け、小寺十郎左衛門(元武)殿宛て、兼重彌三郎元宣書状。
- ^ 山本浩樹 2007, p. 141.
- ^ 『閥閲録』巻46「小寺忠右衛門」第1号、弘治2年(1556年)比定4月14日付け、小寺十郎左衛門尉(元武)殿宛て、(大友)義鎮補任状。
- ^ a b c 岸田裕之 2014, p. 254.
- ^ 『閥閲録』巻46「小寺忠右衛門」第14号、弘治2年(1556年)比定4月18日付け、毛利備中守(隆元)殿・毛利右馬頭(元就)殿宛て、(大友)義鎮書状。
- ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 237.
- ^ 毛利元就卿伝 1984, pp. 237–238.
- ^ a b c d e 毛利元就卿伝 1984, p. 238.
- ^ 『閥閲録』巻46「小寺忠右衛門」第21号、弘治2年(1556年)8月14日付け、小寺佐渡守(元武)殿宛て、(毛利)隆元・(毛利)元就連署書状。
- ^ 『閥閲録』巻36号、弘治2年(1556年)比定8月14日付け、赤川左京亮(元保)殿・國司右京亮(元相)殿・兼重彌三郎(元宣)殿宛て、(毛利)元就書状。
- ^ 『閥閲録』巻46「小寺忠右衛門」第22号、弘治2年(1556年)10月20日付け、小寺佐渡守(元武)殿宛て、(毛利)隆元宛行状。
- ^ 『閥閲録』巻46「小寺忠右衛門」第25号、弘治2年(1556年)比定12月21日付け、小寺佐渡守(元武)殿宛て、(毛利)隆元宛行状。
- ^ 『閥閲録』巻46「小寺忠右衛門」第2号、弘治3年(1557年)比定4月8日付け、小寺佐渡守(元武)殿宛て、(大友)義鎮書状。
- ^ 『閥閲録』巻46「小寺忠右衛門」第23号、弘治4年(1558年)11月1日付け、小寺佐渡守(元武)殿宛て、(毛利)隆元宛行状。
- ^ 『閥閲録』巻46「小寺忠右衛門」第24号、弘治4年(1558年)11月3日付け、小寺佐渡守(元武)殿宛て、粟屋右京亮元親・粟屋彌六元著・兼重彌三郎元宣連署状。
- ^ 新裁軍記 1993, pp. 571–572.
- ^ 『村上図書元敬家証文』、永禄4年(1561年)比定11月9日付け、村上掃部頭(武吉)殿宛て、(毛利)隆元書状。
- ^ 毛利元就卿伝 1984, p. 440.
- ^ 毛利元就卿伝 1984, pp. 441–442.
- ^ a b 毛利元就卿伝 1984, p. 442.
- ^ 光成準治 2023, pp. 149–150.
- ^ a b 『閥閲録』巻46「小寺忠右衛門」第37号、永禄7年(1564年)比定5月10日付け、小寺佐渡守(元武)殿宛て、三村修理進家親書状。
- ^ 『閥閲録』巻46「小寺忠右衛門」第40号、永禄7年(1564年)比定5月10日付け、小寺佐渡守(元武)殿宛て、香川左衛門尉光景・矢田助左衛門尉秀職連署状。
- ^ a b 『閥閲録』巻46「小寺忠右衛門」第38号、永禄7年(1564年)比定6月15日付け、小寺佐渡守(元武)殿宛て、(毛利)元就書状。
- ^ 『閥閲録』巻46「小寺忠右衛門」第39号、永禄7年(1564年)比定5月24日付け、末近市郎右衛門尉(宗久)殿・小寺佐渡守(元武)殿・坂井孫右衛門尉(経俊)殿宛て、(毛利)元就・(吉川)元春・(小早川)隆景連署状。
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- ^ 光成準治 2023, p. 164.
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- ^ a b c 光成準治 2023, p. 174.
- ^ 山本浩樹 2007, pp. 136–137.
- ^ 小坂博之 1973, p. 50.
- ^ 『閥閲録』巻46「小寺忠右衛門」第41号、永禄7年(1564年)8月2日付け、小寺佐渡守(元武)殿宛て、(毛利)元就感状。
- ^ a b c d e 毛利元就卿伝 1984, p. 447.
- ^ a b 小坂博之 1973, p. 51.
- ^ 『閥閲録』巻46「小寺忠右衛門」第42号、永禄7年(1564年)比定8月3日付け、小寺佐渡守(元武)殿宛て、武田又五郎高信書状。
- ^ a b 山本浩樹 2007, p. 137.
- ^ a b 『閥閲録』巻46「小寺忠右衛門」第43号、永禄7年(1564年)比定9月3日付け、小寺佐渡守(元武)殿宛て、(毛利)元就書状。
- ^ 『閥閲録』巻46「小寺忠右衛門」第44号、永禄7年(1564年)比定9月5日付け、小寺佐渡守(元武)殿宛て、(毛利)元就書状。
- ^ 光成準治 2023, p. 175.
- ^ 『閥閲録』巻117「久芳五郎右衛門」第5号、永禄7年(1564年)比定9月28日付け、小寺佐渡守(元武)殿・久芳兵庫允(賢直)殿宛て、(毛利)元就書状。
- ^ 『閥閲録』巻117「久芳五郎右衛門」第11号、永禄7年(1564年)比定11月2日付け、久芳兵庫允(賢直)殿・矢田七郎右衛門(幸佐)殿・小寺佐渡守(元武)殿宛て、(毛利)元就書状。
- ^ 『閥閲録』巻46「小寺忠右衛門」第46号、年不詳3月18日付け、小寺佐渡守(元武)殿宛て、兼重左衛門尉元宣・綿貫木工之助元重・兒玉三郎右衛門尉元良連署状。
- ^ 『閥閲録』巻46「小寺忠右衛門」第47号、年不詳4月7日付け、國右(国司右京亮元武)宛て、(吉川)元春書状。
- ^ a b 『閥閲録』巻46「小寺忠右衛門」第51号、年不詳11月8日付け、小寺佐渡守(元武)殿宛て、(吉川)元春書状。
- ^ 『閥閲録』巻46「小寺忠右衛門」第48号、元亀2年(1571年)比定8月27日付け、小寺佐渡守(元武)殿宛て、(吉川)元春書状。
- ^ 『閥閲録』巻46「小寺忠右衛門」第49号、天正4年(1576年)10月16日付け、(南条)元續宛て、鳥羽安藝守久友・南条備前守信正・泉養軒長清・津村新兵衛尉基信・山田出雲守重直連署起請文。
- ^ a b 毛利輝元卿伝 1982, p. 151.
- ^ a b c 光成準治 2023, p. 152.
- ^ a b c 『閥閲録』巻46「小寺忠右衛門」第50号、天正4年(1576年)比定8月1日付け、小寺佐渡守(元武)殿宛て、(吉川)元春書状。
- ^ 光成準治 2023, pp. 152–153.
- ^ a b c 光成準治 2023, p. 153.
- ^ a b 毛利輝元卿伝 1982, p. 152.
- ^ 毛利輝元卿伝 1982, pp. 152–153.
- ^ a b c 毛利輝元卿伝 1982, p. 153.
- ^ 毛利輝元卿伝 1982, p. 167.
- ^ a b 『閥閲録』巻46「小寺忠右衛門」家譜。
参考文献
[編集]- 防長新聞社山口支社 編『近世防長諸家系図綜覧』三坂圭治監修、防長新聞社、1966年3月。 NCID BN07835639。OCLC 703821998。全国書誌番号:73004060。国立国会図書館デジタルコレクション
- 小坂博之『山名豊国』吉川広昭、1973年1月。全国書誌番号:73010430。国立国会図書館デジタルコレクション
- 宇田川武久『瀬戸内水軍』教育社〈教育社歴史新書<日本史>65〉、1981年12月。全国書誌番号:82010891。国立国会図書館デジタルコレクション
- 三卿伝編纂所編、渡辺世祐監修『毛利輝元卿伝』マツノ書店、1982年1月。全国書誌番号:82051060。国立国会図書館デジタルコレクション
- 三卿伝編纂所編、渡辺世祐監修『毛利元就卿伝』マツノ書店、1984年11月。
- 笠岡市史編さん室 編『笠岡市史 第2巻』笠岡市、1989年12月。全国書誌番号:90017530。国立国会図書館デジタルコレクション
- 田村哲夫校訂『毛利元就軍記考証 新裁軍記』マツノ書店、1993年4月。全国書誌番号:93063892。
- 山本浩樹『戦争の日本史12 西国の戦国合戦』吉川弘文館、2007年7月。ISBN 978-4054034686。全国書誌番号:21255499。
- 岸田裕之『毛利元就―武威天下無双、下民憐愍の文徳は未だ―』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2014年11月。ISBN 978-4-623-07224-8。全国書誌番号:22502421。
- 光成準治 編『戦国武将列伝9 中国編』戎光祥出版、2023年9月。ISBN 978-4-86403-448-7。
- 光成準治「南条宗勝・元続―尼子・毛利らの間で揺れる境目の領主―」光成準治編『戦国武将列伝9 中国編』145-157頁。
- 光成準治「山名久通・豊数・豊国―惣領家の支配下に置かれた因幡守護家―」光成準治編『戦国武将列伝9 中国編』158-171頁。
- 光成準治「武田高信―一代で因幡の最有力者にのし上がった戦国領主―」光成準治編『戦国武将列伝9 中国編』172-182頁。
- 山口県文書館編『萩藩閥閲録』巻46「小寺忠右衛門」、巻117「久芳五郎右衛門」