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島吉利

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

島 吉利(しま よしとし、生年不詳 - 慶長7年(1602年)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。能島村上水軍の家臣。通称は越前守。村上吉利とも。

生涯

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村上吉放の子として誕生。南北朝時代の武将・村上義弘の子孫ともいわれる。子に島吉知島吉氏島吉方島吉繁

瀬戸内海の水軍衆である能島村上氏(能島村上水軍)の一族であるが、はじめは他の水軍衆に仕え、のちに村上武吉に仕えるにあたって姓をに改めた。

以後、武吉の重臣として、瀬戸内で活躍。天文24年(1555年)の厳島の戦いでも軍功があったという。

永禄10年(1567年)に中国地方毛利氏の意を受けて、能島村上氏は讃岐国の香西氏の拠点であった備前国本太城を攻め、吉利も敵将・香西又五郎を討つなどして、これを攻略した。ところが翌永禄11年(1568年)に畿内三好氏の後援を受けた香西氏の反撃が始まり苦境に立たされると、豊後国大友氏家臣の田原親賢と懇意であった吉利が大友氏へ和睦仲介要請の使者となり、香西氏との和睦を成立させた。この功により吉利は本太城主に任命されている。しかしその後、能島村上氏は大友氏との関係を深め反毛利の姿勢を示すようになり、そのため毛利家臣・小早川隆景によって侵攻を受け本太城は落城した。

その後、能島村上氏は小早川氏に帰属し、吉利も文禄の役に参戦した。晩年は屋代島(周防大島)に移住、慶長7年(1602年)に同地にて死去した。

参考文献

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