利用者:Mahopa/下書き
安井 てつ(やすい てつ、(筆名は安井 哲・安井 哲子、やすい てつこ)1870年3月24日(明治3年2月23日) - 1945年(昭和20年)12月2日)は、東京府駒込曙町(現東京都文京区本駒込)出身の教育者。明治大正昭和の50年余にわたって日本の女子教育と幼児教育の発展に尽した。
古河藩の士族に生まれ、高等師範学校女子部を卒業。イギリス留学後海老名弾正から洗礼を受けキリスト教徒となる。母校女子高等師範学校の教授兼舎監に服した後、1904年(明治37年)バンコック府皇后女学校(現ラーチニー女学校)教育主任を命じられシャム国に赴任。帰国後学習院女子部講師、女子英学塾教授を務めた。1909年(明治42年)に創刊された婦人雑誌『新女界』では主筆として家庭教育を論じている。1910年(明治43年)東京女子高等師範学校に復職し、以後8年にわたり同附属幼稚園主事として幼児教育に携わる。
1918年(大正7年)には学長新渡戸稲造たちとともに東京女子大学を創立。初代学監に就任しキリスト教精神に基づく教育を進めた。新渡戸訪欧後の1923年(大正12年)から第2代学長となり、在職した17年間で同大学の基礎を築く。1940年(昭和15年)に辞職し名誉学長の称号を授与。晩年は東洋英和女学校顧問、同校校長事務取扱として奉職した。1945年(昭和20年)12月2日、腹膜炎により逝去。享年76。
来歴
[編集]
- 本章は、青山なを著『安井てつと東京女子大学 -青山なを著作集第三巻-』(慶應通信(発売)、1982年)を底本とした。また、同書の凡例とあとがき、及び安井てつ関係資料の節に記載されている出典のうち、閲覧可能なものについては必要に応じて参照した。
- 留学中の様子や影響を受けた人物との出会いなどの心情に係わる部分については、被伝者が執筆した文章から一部を引用し本文及び脚注欄に記載した。引用についてはできる限り原文どおり旧字体を用いたが、やむを得ず新字体とした部分がある。
- 安井のほか、東京女子師範学校、女子高等師範学校卒業生の卒業年月は、東京女子高等師範学校編『東京女子高等師範学校・第六臨時教員養成所一覧』(東京女子高等師範学校、1938年)の「本校卒業者氏名」の節を参照した。頻出のため、脚注には出典として記載していない。
- 本章では、被伝者への理解を助ける目的で、本文中に当時の教育制度や社会的背景の説明を加えた。その際使用した出典は、被伝者が置かれていた状況を端的に記述していると思われる新しい記事を選び、必ずしも基本文献を含まない。
- 本章では特に満年齢と表記しない限り、年齢を旧暦(明治3年2月23日)からの数え年で表す。
出生と学生時代
[編集]安井てつは士族の娘に生まれ、東京女子師範学校予科を経て東京女子師範学校に入学。高嶺秀夫の指導を受け教育者を目指した。
1870年3月24日(明治3年2月23日)、古河藩土井家に仕えた藩士安井國之助政章(政明)の養女千代と娘婿津守の間に7人きょうだいの第一子として出生[1][2][† 1][† 2]。住まいは東京駒込曙町の土井家下屋敷にあった[6][† 3]。1876年(明治9年)7才で仰高学校(現豊島区立仰高小学校)に入学[10][† 4]。1880年(明治13年)仰高学校が一時閉鎖されると誠之小学(現文京区立誠之小学校)に転校し、同年10月尋常科一級後期を卒業[12][13]。3ヶ月の温習期間を経て、1881年(明治14年)2月東京府大試験を受け合格[14][15]。同年春ごろ、12才で東京女子師範学校予科五級に編入した[16][17][† 5]。1883年(明治16年)7月、14才で東京女子師範学校附属高等女学校下等科三年の課程を卒業。上等科には進級せず本校入学の資格年齢である満15才になるのを待った。1884年(明治17年)9月、満14才半だったが年を加え15才として東京女子師範学校に入学[19][† 6]。親元を離れ寄宿舎に入った[17]。
1885年(明治18年)8月、東京女子師範学校は東京師範学校と合併し東京師範学校女子部と改称[† 7][† 8]。翌年4月には師範学校令に基づき尋常師範学校教員の養成機関として再編され、高等師範学校女子部となる[22][27][† 9]。男子と同じ教場で、同じ教授陣から指導を受けるようになった女子部では、それまでよりも高い水準で専門的な教育が施された[† 10]。安井は校長高嶺秀夫が導入していた開発主義教授法に基づく教育学の講義に感銘し、教育者として立つ決意を固めた[30][† 11][† 12]。高嶺から受けた初めての講義を安井は次のように回想している。
敎育學とは如何なる事を學ぶのであらうか、校長は如何なる先生であらうかと、若い心に種々の想像を描きつゝ、最初の御敎授を待ち兼ねて居りました。(中略)時間を過ぐる事十分許、殆音なしに入口の戸が開かれました。悠然と室内に歩を移されたのは即ち先生で、靜々敎壇上の椅子に着かれるや否や、私共を初め敎室内の隅から隅まで見廻はされますと、やがて卓上の白墨の箱や何やかやと其位置を正しくせられ、『かういふ物が曲つて居ても何ともないか』と仰せられました。其厳かな低い御音調は十七八歳の若い心には非常に強く響きました。(中略)最初の時間に先問はれたのは、『心とはどんな者か』といふ事で、種々なる答を試みましたが、誰も明瞭な定義を下す事が出来ず皆困つて居りますのを、問答法に拠つて巧みに導かれました。先生は又生理學に精通して居られました。(中略)『腦を黑板に圖解してごらん』といふ御命令が私に下りました。曾て生理學で學んだ幾分の知識はありましても、其外形と皺のある事位の外何を畫いてよいか分らず、黑板の前に眞赤になつて困つて立つて居た事もありました。かゝる有様で御座いましたから、一時間先生の敎を受けますと、何となく學力が進歩したやうな自覺が致したのみならず、多くの時間を學科の準備に費やしますので、敎育學に對する興味は眞に深くなりました。
高嶺が東京師範学校に導入した開発主義教授法は卒業生を通じ各地に展開されていた[† 13][† 14]。
は伊沢修二とともに取り組んだ高等師範学校の改革を経て、を紹介。問答法を用いた開発主義教授法を確立していた[† 15][† 16]。また国府寺新作から教授された心理学と倫理学は、その後長く安井の研究対象となる[† 17][† 18]。さらに1887年(明治20年)9月には学生の編成替えが行われ、安井は高等師範学校女子部高等師範科二年に転科[47][48]。このとき選ばれた13名の中には野口ゆか、小川はま、西里みちゑがいた[† 19][† 20][† 21]。女子最高学府であった高等師範学校女子部では、一方で欧化主義に起因した洋装化が進められていた。講堂では舞踏会が開かれ、クリスマスには祝賀会が催されたが、安井は異様で不快と感じこうした場からは距離を置いた[56][† 22]。1890年(明治23年)3月、安井は5年半に及んだ修学を終え、満20才で高等師範学校女子部高等師範科を卒業した[59][† 23][† 24]。
教員時代
[編集]高等師範学校女子部卒業後は母校の附属校に2年間勤めた。その後赴任先の盛岡で松岡もとを知り、帰京後には樋口一葉、津田うめから教えを受けた。
1890年(明治23年)4月、卒業とともに改称した母校女子高等師範学校の助教諭となり附属高等女学校で数学を教えたあと、同年8月から附属小学校訓導を務めその後は初等教育に従事[59]。1892年(明治25年)4月、教頭中川謙二郎の勧めを受け岩手県尋常師範学校附属小学校に赴任[61][† 25][† 26]。高等小学科女児2学級60名を指導した[64][65][† 27]。そこで当時私立盛岡女学校の教員だった松岡もとと知り合う。20才の松岡と23才の安井は宗教について終日語り合ったという。安井は松岡の人柄を好んだがキリスト教は受け入れられなかった[67][† 28]。1894年(明治27年)3月帰京[† 29]。4月には女子高等師範学校訓導として同附属小学校第二部で男女共学、合級教授の研究主任を務め、師範生の実習を指導した[74][† 30]。1895年(明治28年)4月、野々宮きくの紹介で樋口一葉から和歌や源氏物語などの国文学を学び始める[77][78][† 31][† 32]。毎週木曜夕方に野々宮と安井は本郷区丸山福山町の樋口家を訪れ、一葉の妹くにとともに講義を受けた。このとき一葉は24才、安井は26才だった。一葉はしばしば安井との交流について日記に書き残した。
此夜中町に紙かひにゆく。あらざりしほどに、安井てつ子岩手よりもらひたるのなりとて大いなる林檎もてきにける。それも女子師はん校の方へ田舎よりとゞきたるを、直に我家にもて来しのよし。常は口重に世辞など数々なき人なれど、心にしみてうれしとおもふ事のあればかく取わきての事などもすめり。可愛き人のこゝろよと母も妹もひとしくいふ。 — 樋口一葉『水のうへ日記』明治28年10月9日の条[82]
「常は口重に世辞など数々なき人」「可愛き人のこゝろよ」という一葉の描写は、青年時代の安井を記録した貴重な人物評となっている[83]。
1896年(明治29年)の春、安井は文部省からイギリス留学の内命を受けた。夏からは一葉の講義を休み、津田うめ宅に住み込んでイギリス人宣教師ミス・バラードと英語のレッスンを始めた[84][† 33][† 34]。女子高等師範学校からの文部省派遣留学生は1886年(明治19年)の加藤錦子以来となり、イギリスへの女子教育者の渡航は1895年(明治28年)8月まで2年間に及んだ下田歌子の欧米教育視察に続くものだった[88][89][† 35][† 36]。安井はこの留学が中川教頭や文相西園寺公望、文部次官牧野伸顕の女子教育に対する理解によって実現したと記している[88][† 37][† 38]。
安井が教員を務めていた1890年(明治23年)から1896年(明治29年)にかけて、日本の女子教育は教育勅語と日清戦争という2度の転換点を経験した。
同年10月7日小学校令が公布[94]。同30日には教育勅語が発布された。同年7月に日清戦争が開戦し、翌年3月講和されている。明治初年の近代教育導入以来、師範学校の教育方針は校長が自身の裁量で定めていた。しかし1890年(明治23年)10月の教育勅語発布によって、それは儒教主義の徳育に基づいた国体認識と近代的立憲政治の定着という、旧新思想の結合体として国家が提示したものに替わった[95][96][97][† 39]。翌年9月には勅語の官制注釈書とされた井上哲次郎著の『勅語衍義』が刊行[98]。井上はここで「孝悌忠信」と「共同愛国」の二元論を用いて家族観念と国家体制を結びつけ、家族への愛情が深化すれば愛国に至ると構想した[99][100][† 40]。このころ高等女学校用修身教科書に採用された勅語注釈書や女訓書には、将来家庭を支える「良き妻」となるために守るべき儒教主義に基づく徳目が記されている[102][† 41]。教育勅語起草者の一人だった井上毅は、1893年(明治26年)3月から翌年8月まで文相を務め、教育勅語を柱とする制度改革と教育者精神の徹底を図った。
明治20年代中ごろには、欧化主義への反動から修身と家政が重視されたため、女子教育は家庭でのしつけや裁縫学校で十分との認識が広まり、男子と同じ学科を課す中等教育は衰退した[105][106]。こうした動きに対し、1894年(明治27年)10月文相となった西園寺公望は、文明の基礎を固め増進するために女子教育を重視すると言明した[107]。また日清戦争の勝利によって得た予算と賠償金を元に京都帝国大学の設立準備を開始し、1896年(明治29年)3月予算案が第九帝国議会を通過すると、4月には留学生を増員する勅令を発して新大学の教員養成に取りかかった[108][109]。安井が留学の内命を受けたのはこの頃である[110]。
日本が近代的な国民国家となりつつあった時代、西園寺や津田の助力を得て安井はイギリスに留学した。安井はそこで新しい日本に相応しい女子教育の姿と、理想とする教育者像を追求していく。
イギリス留学
[編集]イギリスではケンブリッジ大学の女子教員養成校ケンブリッジ・トレーニング・カレッジ(The Cambridge Training College for Women Teachers、以下CTC。現ヒューズ・ホール(Hughes Hall))の校長エリザベス・フィリップス・ヒュースと出会い強い影響を受けた。ヒュースの休職後はオックスフォード大学にも学んだ。
1897年(明治30年)3月、安井はイギリスのロチェスター(Rochester)で留学生活を始めた[111]。安井に与えられた研究題目は教育学と家政学だったが、教育学は大学で受講することとし、家政学は休暇中の学校視察や家庭の観察を充てた[112][113][114]。その後ケンブリッジ大学のカレッジCTCへ入学が決まり、それまでの間安井は度々ロンドンに行き見聞を広めた[115]。
同年9月CTCの校長エリザベス・フィリップス・ヒュースと出会い教育者としての知見と人格に感銘を受けた[116]。尊敬する教育者に出会った喜びと、ただ一人の日本人として奮闘する様子を安井は野口と同級生たちに書き送っている[117][118]。
其親切にて學文ひろきニハ實にかん服致し候、(中略)智德そなはりてしかも愉快なる親切かゝる校長の如きハ未だ見ざる處、(中略)今までかくまでニ愛せられたる事なしと申さバ我邦の大恩ある師をわすれしといはれんなれ共、我舊師ハ決してわすれじ、併實ニ私のごとき頑固なる西洋ぎらひをしてかくまでに同師に心醉せしむるとハ實に非常の人物なりと知るべし、(中略)學期の終りに論文をかゝせられ、問 如何にして兒童に興味を與へ得べきか(普通の有様に於て)、(中略)尤英文に熟せざれば考を十分にのべられずとことわり置きしに、僥倖にして非常の賞賛を得、日本人ハ美術にたけたりと知り居たれど論理的の思想ありとハ考へざりし、との有り難き御批評、私ハいはん、英婦人ハ暗記力に富み言葉をオームの様にまねる事は上手なれ共システマチックの思想なし、(中略)學校參觀の折々に生徒に向ひて日本文字を示せといはれ、これがためジャパンをニッポンに改めて紹介するの機會を得申候、
- (改行は省略した。舊師は旧師のこと) — 安井てつから野口ゆかへの書簡、明治30年12月11日付[119]
安井はCTCで教育学と授業法、他のカレッジで英文学と心理学を受講。図書館で家政学を独学し、特に児童心理学について十分勉強するつもりとも記している[120]。休暇になるとヒュースに同行し、イングランド、ウェールズ各地の学校を視察した[121]。
また安井の許には留学中の日本人が訪れ旧交を温めた。1898年(明治31年)の初めに小西信八は、安井が翻訳したヒュースの女子教育論を茗溪会を通じ日本に紹介[122][123]。同年夏には遊学中の松本亦太郎が訪れ、秋には津田うめと再会した[124][125][126]。津田は11月後半と翌1899年(明治32年)1月初めの2回にわたって安井と行動を共にし、2月から5月の1学期間はオックスフォード大学セント・ヒルダズ・カレッジ(St Hilda's College)で現代英語や英文学を受講。アメリカ経由で同年7月に帰国した[127][128]。同年9月には建築家となった野口ゆかの弟野口孫市が安井と再会した[129]。
安井は1899年(明治32年)5月にケンブリッジを離れ、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンのジェームズ・サリー(James Sully)から児童心理学を1ヶ月余学んだ後、6月には病気療養中のヒュースとともにスイスなどで7週間を過ごした[130]。アルプスの自然と登山の体験は安井に強い印象を与えている[131][132]。同年10月にはオックスフォード大学の心理学者ジョージ・スタウト(George Stout)に師事した[133]。
翌1900年(明治33年)は留学最後の年となる。国費で留学した安井はその成果を女子高等師範学校に還元し、国に尽すことが使命だと心に決めていたが、安井にとってそれはキリスト教の受容抜きには実現できないことだった。
キリスト者へ
[編集]安井は自らの理想とする教育を求めるうちキリスト教に近づく。ヒュース校長や津田うめを通じ信仰について考察した後、新渡戸稲造と出会いキリスト者としてあるべき教師像を見出した。
安井ははじめキリスト教は日本の精神と相容れず危険なものと見なしていた。だが高嶺秀夫の指導を受けた後は冷静に考えるようになり、留学前に生活を共にした津田うめとは良好な師弟関係を築いた[134][135]。イギリスへの航海中聖書の学習を強いたバラードに反感を抱くものの、それは教義のせいではなく個人の性質によるものと捉えている[136]。ロチェスターでは日曜の朝夕教会の礼拝に出席し聖職者たちと問答を重ねた。安井は聖職者に尊敬の念を抱く一方で、自分がキリスト教を受け入れられない理由を明らかにし距離を取っていた[137][138][139]。
しかしケンブリッジではその隔たりを徐々に縮めていく。自由な寄宿生活の下、学生たちが品位を保ち生活していることを知った安井は、厳格な規則が定められていた母校との違いを痛感し、日本の女子教育にもキリスト教に根ざす自主性と道徳性が必要だと認めた[140]。CTC入学から1年たった1898年(明治31年)の秋には帰国後改宗する意志をヒュース校長に打ち明けたが、逆に自重するよう説得されている[141]。安井は同じ頃津田うめと小鹿島筆の渡英計画を知り、その目的に強い不満を表した[142][143]。さらに1899年(明治32年)1月休暇を共にした際には、津田の考え方や行動を自らの理想とするキリスト教徒の姿と重ねてそこに違いを見出している。イギリスで敬虔な信徒たちと接した安井には、津田の信仰心が飽き足らなく感じられたのである[144][145]。
安井は自らの信仰を見つめると同時に教育者としてどのように自立するか模索した。5月にはヒュースの許を離れ、これまでを振り返り帰国後の生活について考え始める[146][147]。安井はクリスマス休暇を荒川領事宅で過ごしたが、そこで面会した日本人女性が男性に従属している様子に憤慨した。そのことが野口への書簡に繰り返し記されている[148]。
翌1900年(明治33年)1月安井は洗礼を受けキリスト教徒となる決意を野口に伝えた[149][150]。
實ハ此の三年間わが國の女子敎育の爲におもひつめたる結果が非常の熱心をもつてキリスト敎を信ずる事と相成、不日洗禮を受くる次第さだめて御おどろきと存じ候、私の希望は女子の位置を高むるにありて、いさゝかながら女子の爲に盡力致し度心算、ことに將來になす處あらんには、一の大勢力即パーソナル、ゴッドと調和し、其助をかるにあらざればとてもなしがたしと存じ候、 — 安井てつから野口ゆかへの書簡、明治33年1月1日付[151]。
安井はこの書簡で「パーソナル、ゴッド」(英:personal God)と人格神について記し、女子教育のためにその助けを借りると述べた[152][153]。3月にはキリスト教の助けを得つつ女子教育に生涯を捧げると記している[154]。
1900年(明治33年)5月1日、安井は万国博覧会が開かれたばかりのパリを訪れ、翌日には留学中の従兄岡村司にイギリス留学の成果を報告した。
て津子より種々龍動の話しなど聞きぬ。(中略)渠又曰く、日本女子教育の振はざるは男子の女子に期待する所のものゝ極めて卑汚なるに在りと。これは男子が無智卑屈なる女子を欲するが故に女子教育が振はずと謂ふなり。又曰く、女子教育の目的は完全なる女人を養成するに在り、完全なる女人さへ養成すれば、自ら良妻とも賢母ともなり得らるべしと。これは余が嘗て日本に在りける頃、女子教育の要は良妻賢母を作るに在りと云ふことを記して渠に寄せたることありけるを以て、之に反対の意見を表したるなり。渠は英国女子の地位の高尚にして、自由に言論するの風を喜ぶものゝ如し。仏国人は開轄なれども軽噪なり。英国人は沈鬱なれども着実なり。余は寧ろ英国人を可とすなど云へりき。其の言の得失は姑く舎き、是れ皆留学の結果にして一段の見識を長ぜるものと評すべきなり。
岡村の「女子教育の要は良妻賢母を作るに在り」という意見に、安井は「女子教育の目的は完全なる女人を養成するに在り」と応え自らの理念を表した。良妻賢母教育は否定しないが、それより先に人格教育を行うべきという安井独自の教育観は、イギリス留学中に形作られた[156]。
5月10日夜、日本公使館で開かれた皇太子殿下御結婚祝賀会で安井は新渡戸稲造と出会い、5月13日には四五人の留学生とともに新渡戸に招かれ歓談する機会を得る。札幌農学校教頭時代、新渡戸が授業の前に黙祷していたことを知った安井は、そこにキリスト者としての理想の教師像を見出した[157][158]。
殊に又私の心を最も強く刺戟した事は、先生が敎室に出られる前数分間黙祷せられたといふ事柄であつた。先生はフレンド敎派に属せられるから、黙祷の習慣を有つて居られたと想像する。そして後年先生が東京女子大學の學長となられた時、學生に屡黙想の必要を説かれた事を記憶する。先生の此經驗談に感激した私は、敎育は實に祈りを以てなさるべき神聖なる仕事であると深く覺つたのであつた。そして英國の學校が毎朝祈りを以て業を初むる所以も思ひ合はされたのである。此時又私は東京女子高等師範學校卒業直前、恩師高嶺先生との宗敎問答をも想ひ起こしたのである。學生時代高嶺先生の感化に依つて、敎育を通して國家に奉仕しようと決心して居た私は、基督教は愛國の精神と相容れぬ者であると堅く信じてゐた。そして其同じ私が十年の後、同じく敎育を通して祖國に奉仕しようと一大決心をなした時に當り、優良なる國民を造るには宗教を基礎とせねばならぬといふ確信を有つ様になつた。殊に人間の心に働きかける敎育者は、其人自身に崇高なる人格の有ち主であらねばならず、且又敎育者の様な奉仕の生活をなす者は深く且廣い愛の有ち主であらねばならぬと考へる様になつたのである。かく考へ来たつた時に私の愛國心は深められ廣められた。そして正義と愛とを基調とするクリスチャンの生活が、決して愛國の精神と矛盾するものでない事を明らかに覺るに至つたのである。 — 安井てつ「私の今日に至るまで」『教育』、第3巻第10号、昭和10年10月号より[159]
安井はこの出会いについて「新渡戸稻造氏と巴里にて、スピリッチュアル、フレンドに相成、」と野口に書き送っている[160]。
翌日、安井は岡村からキリスト教への傾斜について経緯を問われた。
晩餐の饗を受けゝり。此の間、て津子が頗る耶蘇教に傾ける様になりたる経歴を聞きぬ。其の訳は人間は到底欠点あることを免れざれば、之を師とするも決して完全の人となるべからず。それよりは此に完全無欠なる神と云ふものあることを信じ、之を仰ぎ之に倣ひて完全の人とならんには如かじと思ひたるに由れりと云へり。さればて津子が耶蘇教に傾けりと云ふは、世間のものが神を信じて其の冥福を求むるが如きとは大に其の趣を異にし、深く咎むるにも及ばざるべし。
- (原記事では読点はコンマ使用) — 岡村司『西遊日誌』、明治33年5月14日部分より[161]。
このとき安井は神の存在が人間形成の師として必要であると答えている[162]。
安井は5月15日パリを離れロンドンに戻り、6月は3週間アメリカに滞在。7月22日に帰国した[163]。そして留学の間に変貌した日本の教育事情を知ることになる。
女高師教授
[編集]帰国後女子高等師範学校教授兼舎監となり、その年の12月に本郷教会の海老名弾正から受洗した。女子教育の正統概念となった良妻賢母主義の下で、安井は現実と葛藤しつつ自らの教育観を確立する。1901年(明治34年)にはエリザベス・フィリップス・ヒュースが来日し、安井は視察旅行の随伴と通訳を務めた。
1897年(明治30年)から1900年(明治33年)にかけて、日本では初等教育の浸透が図られ女子の就学率は上昇していた[164]。その一方で、1899年(明治32年)の内地雑居後にはキリスト教の大規模な布教が始まると考えられたため、文部省は地方の女子中等教育を主導していたキリスト教主義学校に替わる新たな女学校の設立を急いだ。同年2月8日公布の高等女学校令で各道府県に公立高等女学校の設置を義務付け、8月3日公布の私立学校令ですべての私立学校を地方長官の監督下に置き、同日公布の文部省訓令第十二号で教育現場での宗教教育を禁止[165][166]。高等女学校令の目的について、文相樺山資紀は良妻賢母の育成と中流以上の女子に必要な学術技芸の習得にあると演説したが、文部次官菊池大麓は内地雑居への準備だと記している[167]。
女子高等師範学校は女子教育の振興に伴い整備され、生徒の定員を120名から300名と拡張[168]。教育学のほか体操や看護などの教授法を習得するため、文部省は安井の帰国を待たず若い教育者を欧米に留学させた[169][170]。これに前後して、女子高等師範学校と附属高等女学校では、良妻賢母を範とする厳しい指導が進められていた[171][172]。
1900年(明治30年)の夏、安井は高嶺校長に留学の報告をしたが、その際高嶺校長は個人の信仰は自由だが学校ではキリスト教を伝道しないよう忠告している[17][173]。同年9月安井は女子高等師範学校教授兼舎監を受任。教育と英語の学科目を担当し、舎監を兼任することとなった[174]。31才で母校の教壇に戻った安井は女学生の尊敬の的となる[175]。寄宿舎でも安井は強い影響力を発揮していくが、次第に古参の舎監たちと対立していく[176][177][178]。
同じ年のクリスマス、安井は本郷教会の海老名弾正から洗礼を受けた[179]。このときのことを安井は最も謙虚で最も厳粛な精神にあったと回想したが、一方で暫くは組合教会の礼拝と会衆に親しめず、落ち着かなかったとの文章も残る[180]。
さらに安井は講演や論説を通じ自らの教育観を女学生に伝えた[181][182]。当時刊行された教育書『今世女訓』には、パリで岡村に語ったとおり、学問の目的を完全な人間になることとする安井の見解が記されている。
一体女子が學問するといふのは、よい處に嫁入りをする爲ばかりではありません。勿論人の妻たるには敎育のあると云ふ事は極大切な資格で御座いますけれども、之が決して學問の直接の目的ではないので御座います。これでは何が學問の目的であるかと申せば『可成完全に近い人間になる』といふ事です。そこで其完全といふのは、第一、健康な精神の宿であり、又其活動の機關である身体の完全なる事と、第二、眞理を認め、物事の道理を正しく判斷することの出來る様な智力の完全なる事と、第三、唯強壯な身体を有し、明瞭正確な思考力を有する動物といふばかりでなく、其人格の立派な事を意味するので御座います。(中略)私はどうか吾日本の娘さん達が、輕浮で、無思慮で、何でも人の云ふまゝに其考を變へたり、其言葉を直に改めたりするといふ事がなく、自分には一つの信ずる主義があつて、善を喜び惡を憎むの心が強く、無暗に利慾の爲又は墓無い人爵の爲に其操を變へない確乎とした者になつて頂きたいと思ひます。
- (改行、傍点などは省いた) — 安井哲「女子と學問」『今世女訓』、西川政憲編、松邑三松堂、明治34年刊[183]。
ただし安井の道徳観は、良妻賢母主義を主導した先達の女子教育家たちと大きく変わるものではなかった。同じ論説の後半部分は、従順、謙遜、貞操に代表される女徳についての記述が占める[184]。
士族の娘として培われた美徳を保ちながら、キリスト教徒として新しい人格教育を目指した安井は、女子教育の正統概念である良妻賢母主義に従い女学生の人格向上に専心した。しかし二つの異なる価値観を併せ持つことで、双方から批判を受けやすい状況に置かれていたと考えられる。すなわち、伝統を守り教育勅語の厳行を推し進めた日本主義の教育家にとって、イギリス留学後に受洗しキリスト教徒となった安井は攻撃対象の欧化主義者であり、他方、急速な変革を志向し、次代の女性運動を担った当時の女学生にとって、古来からの道徳観に立つ安井は旧態依然とした一世代前の人物と映った[185]。さらに、教育をめぐる主張が新聞や教育雑誌によって次々に発表され、大衆を巻き込んだ世論を形成したことも安井たち現場の教育者を翻弄した。
安井は着任して半年から1年ほどで舎監職兼任のまま寄宿舎から離れ、自宅に住み始めたと考えられる[186]。1901年(明治34年)から翌年にかけては野口幽香と同居し、公私にわたりその活動を助けた[187][188]。東京の幼稚園関係者が結成したフレーベル会発刊の教育雑誌『婦人と子ども』では、留学で見聞したイギリスの幼稚園について報告している[189][190]。
野口との共同生活については、野口から続木斉宛ての書簡にその様子が窺われる記述がある[191][192]。
いつになく安井が「けふは一つヒムをうたって」と、それから内村さんの「かの世々の磐」の英語のを出して何遍でもうたえば、安井大喜びで「何といふ平和になったか」とそれから二葉の家の返事ききに行けば嬉しくもかしてやるとの事、急ぎ友の許尋ねて事の由かたり喜び合ひました。
- (ヒム:(英:hymn) 聖歌、賛美歌の意) — 野口幽香から続木斉への書簡、明治35年5月12日付[193]。
野口はこのころまでに本郷教会から一番町教会へ転会していた[194]。安井は野口を通じ植村正久、内村鑑三の思想に触れていたと推察される[195][196][197]。
1901年(明治34年)8月エリザベス・フィリップス・ヒュースが来日し、東京で学校視察や講演活動を行った[198]。
11月13日東京帝国大学文科大学を訪問したヒュースは、小泉八雲の英文学史の講義を無断で聴講し八雲に強く嫌悪される。安井は事態を収めるべく努めたものの和解するには至らなかった[199][200]。翌1902年(明治35年)の6月から9月にかけてヒュースは通訳を務めた安井とともに東日本の学校を訪問[201][202][203]。10月には東京を離れ西日本の学校を視察[204][205][206]。翌月ヒュースは1年3ヶ月に及んだ日本での活動を終え離日した[207]。安井はヒュースの随伴を通じて地方の教育事情を見聞したと考えられるが、視察旅行に関する資料は残していない[208]。良妻賢母教育を推進すべき職にありながら、通訳とはいえヒュースの教育論を広めたことで、安井は後に苦しい立場に追い込まれることとなる。
国際交流のなかで
[編集]日本の教育が各国から注目を集めはじめ、視察や留学に訪れる外国人が増えた。1903年(明治36年)シャム国駐在弁理公使稲垣満次郎の働きかけにより、安井はシャム赴任の打診を受け、これに応じた。
安井やヒュースがイギリスの教育法を紹介する一方で、高等師範学校校長嘉納治五郎や文相を務めた犬養毅は清からの留学生や華僑の子弟の教育に力を注いでいた[209][210][211]。1899年(明治32年)に実践女学校を創立した下田歌子は、河原操子を初めとする女子教育者を清国へ派遣[212][213][214]。実践女学校は清国女子留学生受け入れの中心となる[215]。1901年(明治34年)には文部省直轄学校外国人特別入学規程が定められ、私立学校に加え公立学校も外国人の留学を支援する体制を整えた[216]。日本の教育は各国に注目され、西洋人が取材した日本に関する研究書も現れ始めた[217][218]。
このころ清と同じく列強の脅威に晒されながら独立を守っていたのが、国王チュラーロンコーンの下チャクリー改革と呼ばれる近代化政策を進めていたシャムだった。1897年(明治30年)初代駐在弁理公使となった稲垣満次郎は、法律顧問政尾藤吉とともに、通商航海条約の成立に向けてシャム国総務顧問ロラン=ジャックマン(Gustave Rolin-Jaequemyns)と交渉を重ね、翌年日本暹羅修好通商航海条約の締結にこぎつけた[219][220]。ロラン=ジャックマンに認められた政尾は総務顧問補佐に採用されたが、稲垣は西洋人が顧問を務める組織に日本人が入り込むことの難しさを知り、日本人を任用できる新しい政府部局の設置を宮廷に働きかけるようになる[221]。
シャムでは1880年代からたびたび教育制度の改革が試されたものの、国王が期待したほどの成果は挙げていなかった[222][223][224]。1902年(明治35年)4月、国王は文部省の人事を刷新し、6月には全ての国民教育を文部省が統括する体制を整えた[225]。同年12月16日にはワチラーウット皇太子がイギリス留学からの帰途訪日し、出迎えたプラヤー・ウィスットスリヤサック(เจ้าพระยาพระเสด็จสุเรนทราธิบดี)教育局長一行とともに日本各地を視察している[226][227][228]。
女子教育もまた改革を必要としていた。1880年創立のシャム初の公立女学校は、西洋式の教育がなじまず1902年までに閉校[229]。皇太子訪日中の1903年(明治36年)1月1日、サオワパー王妃(Saovabha Phongsri)は王宮に稲垣公使を呼び、日本人校長のもと女学校を設立し、教員養成のため留学生を派遣する計画について日本の協力を求めた[230]。同年5月22日、一時帰国する政尾一家に同行して9名の男女留学生が来日[231][232]。そのうち4名の女子留学生が女子高等師範学校に入学し、技芸と日本語を学んだ[233][234][235]。
同じころ安井はシャムにできる新しい女学校の校長に赴任するよう打診を受けた。はじめ安井は固辞したが、文相菊池大麓の勧めもありこれに応じたとされる[236][237][238]。1901年(明治34年)6月から1903年(明治36年)7月にかけて文相を務めた菊池大麓は、
1904年(明治37年)1月安井はシャムへ向け出発した。
シャム国赴任・二度目の留学
[編集]1904年(明治37年)から3年間シャム国皇后女学校教育主任としてタイに奉職。任期満了後2度目のイギリス留学を経て1908年(明治41年)帰国。
乃木希典院長の学習院女子部講師を務めた後、女子英学塾教授として津田梅子を助けた。またこのころ海老名弾正が主幹の『新女界』主筆となる。1910年(明治43年)高嶺秀夫が死去し、中川謙二郎が校長を継いだ東京女子師範学校の講師嘱託。2年後には同校教授として復帰。
評価と批判
[編集]肯定的な評価
[編集]安井と繋がりのあった次の人々はその人物や仕事に対し肯定的な評価をしている。
- 中川謙二郎
- 石原謙
- 中野好夫
対比的な評価
[編集]安井は学生時代から著名な教育者と接点を持った。多くの研究者が同時代の教育者と比較対照している。
- 野口幽香
- 津田梅子
- 河井道
- 大江スミ
批判的な評価
[編集]対比的な評価の多くが人物や仕事に対する批判に繋がっている。
- 人物性格
- 家政学を批判した教育者として
- 自由主義的なキリスト者として
- 戦前戦中の行動について
人物像
[編集]生前を知る人々が書いたエピソードからも安井の人物像が浮かび上がる。
- 山川菊枝
- 渡辺善太
- 林要
- 瀬戸内寂聴
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ てつが生まれたとき父津守は20才、母千代は19才だった。3才のときに弟信一郎が出生してから、てつは一家を支える長姉として仏教徒の祖父母に育てられ、特に祖母かねからは感化を受けた。安井家は槍術の指南で代々土井家に仕えたとされる[3]。
- ^ 津守は古河藩士岡村忠左衛門の三男。津守の兄弟に岡村司の父岡村忠右衛門がおり、岡村司は安井の3才年上の従兄にあたる。『古河市史 資料』の「明治三年諸課役員士族等名面」によると、当時20才の安井津守は東京詰の史生(下級書記官)として勤めていた[2][4][5]。
- ^ 土井家下屋敷の表門から裏門までは五六町(約600メートル)、その中に土井家邸宅と20余の家臣の家があり、その間は森と畑と茶畑で占められていた。自然に囲まれて育ったてつは幼少の頃母が育てた野菜を食べていたと回想している。土井家下屋敷は明治時代にほぼそのまま「駒込曙町」と区画された。2012年現在の東京都文京区本駒込一丁目と二丁目を合わせた範囲に相当する[7][8][9]。
- ^ 1876年(明治9年)11月、仰高学校は土井家下屋敷北側に面した長源寺の境内に開校した[11]。
- ^ 東京府大試験は1881年(明治14年)2月10日東京府師範学校で実施され、合格を受け同14日には誠之小学校で卒業証書授与式が行われている。東京女子師範学校の入学試業は毎年2月後半と9月中旬に定められていたが、予科については入学希望者があれば随時編入試験を実施していた。安井が東京女子師範学校予科の入学を希望したときには入学試験は終わっていたため、補欠を申請し編入試験を受けて合格した。五級には12才から18才の生徒がおり、安井は最年少者の一人だった。安井は編入して間もなく行われた漢文の試験に苦労したことを回想している[14][16][18]。
- ^ 東京女子師範学校附属高等女学校の母体は1872年(明治5年)創立の官立東京女学校。1877年(明治10年)2月西南戦争にともなう財政危機のため廃校となるが、生徒は新設された東京女子師範学校英文科に移籍。英文科は別科へ改称、予科に編入され存続するものの1879年(明治12年)3月廃止。生徒は私立女子師範予備学校へ移された。1880年(明治13年)7月東京女子師範学校予科が再設立され生徒は復校。1882年(明治15年)7月東京女子師範学校附属高等女学校となる。安井卒業後の1886年(明治19年)2月、森有礼文相は同校を高等女学校として独立させ同年6月東京高等女学校に改称。翌年文部省直轄学校となるが、森の死後1890年(明治23年)3月女子高等師範学校附属高等女学校に戻された[20][21][22]。
- ^ 1884年(明治17年)5月参事院議官兼文部省御用掛に任命された森有礼は師範学校改革に乗り出す。翌年8月26日の東京師範学校と東京女子師範学校の合併はその第一歩となった。また文部省は同年10月1日付で府県の女子師範学校にも師範学校との合併を布達。この結果府県に65校あった師範学校は57校となった。森は1885年(明治18年)の「師範学校合併に関する示諭」で、合併の理由を合理的、経済的な師範学校の質的改善と述べている。東京師範学校は合併直後は教職員が増大したが、1886年(明治19年)に人員整理され教員数は半減。さらに経費削減も推し進められた。1893年(明治26年)9月高嶺秀夫に次いで高等師範学校長に就任した嘉納治五郎は、その小規模なことに驚愕したと自伝に記している[23][24][25]。
- ^ 東京師範学校との合併に反対した教員たちが発起し、1886年(明治19年)共立女子職業学校を創立した。東京女子師範学校で算術掛を務めていた宮川保全は、同年の共立女子職業学校創立記念式の講演で、中村正直摂理、福羽美静摂理、那珂通世校長時代を振り返り、「東京女子師範学校は僅々十年の間に、学校の教科も、生徒の風俗も、漢、和、洋の三変化を致して居り、従ってその十年間の卒業生は、区々異様の教養を以て社会へ出たという次第でございます。斯様な訳で、官立学校はその長官の代る毎に主義主張を変更し、生徒は全くその方向に迷うの感がございました。私はこの有様を見て感慨に堪えませんので、是非とも女子のために私立学校を設立して、一定不動の主義の下に教育を授けねばならぬということを、痛切に感じたのでございました。」と述べている[25][26]。
- ^ 1885年(明治18年)7月、文部省は書記官江木千之、同手島精一、権少書記官吉村寅太郎、同中川元、東京師範学校長高嶺秀夫、東京女子師範学校長那珂通世、文部一等属山田行元からなる師範学校条例取調委員を任命。高等師範学校と尋常師範学校による国民教育のための教員養成組織について討議したと考えられる。同年8月26日、森有礼が東京師範学校監督に就任。同年10月には大木喬任文部卿が高等師範学校構想を地方官に演達。その中で入学資格、費用負担、卒業生の奉職義務などの骨子が定められた。同月には男子の募集を開始。12月22日の森の文相就任を挟んで翌1886年(明治19年)3月20日には女子の募集も開始された。4月10日に師範学校令が公布。同29日に東京師範学校は高等師範学校と改称した[28]。
- ^ 桜陰会の東京女子高等師範学校六十年記念の祝賀会の席上で安井は「東京師範女子部時代は男子と合併致しました時代、教授の方法は、全く開発的になりました。先生方は男子と同じやうに女生徒をお扱ひになりました為に、私共の生活状態がすつかり変つてまゐりました。即ち非常に緊張した生活状態をつゞけねばならないやうな境遇におかれたのでございます。(後略)」「教育の程度も高まりまして、殊に男子と女子とは同じ先生によつて同じ教室に於て教授される、男女共学ではありませんでしたが、気分に於てはさうしたやうな気持で大いに緊張味を持つてをつたと思ふのでございます。」と回想した。青山(1982)は、安井がこのとき男女共学について強い印象を受け、その教育思想に深い影響を残したとしている[29]。
- ^ 1875年(明治8年)夏、文部大輔田中不二麿の命を受け伊沢修二、神津専三郎とともにアメリカに渡った高嶺は、同年9月ニューヨーク州のオスウィーゴー師範学校(State Normal and Training School at Oswego)に留学し2年後に卒業。動物学などを研究したあと1878年(明治11年)4月に帰朝。翌月から東京師範学校教員として務め、同年10月同校校長心得となりオスウィーゴー師範学校およびジョホノット(James Johonnot)の教授理論に基づいた学則の改正に取り組んだ。ジョホノットは著作"Principles and Practice of Teaching"1878で、心理学(Mental Science)をはじめとする近代科学の成果を教育学に導入。実生活に役立つ教科である自然科学(Natural Science)と人文学(Humanities)の二領域を体系的に教授する理論を示した。この中でジョホノットはペスタロッチ、フレーベル、アガシーの業績を紹介し、スペンサー、ハクスリーを引用している[31][32][33]。
- ^ 1879年(明治12年)2月東京師範学校は学科課程を改正。修業年限を予科2年、高等予科2年、本科1年とし、小学師範科は予科と本科、中学師範科は3科すべてを修めることとした。[32][33][34]。
- ^ 東京師範学校長の高嶺秀夫は、1886年(明治19年)3月6日陸軍大佐山川浩の校長就任に伴って一旦教諭に降格したが、同年4月29日に教頭となっている[37][38]。
- ^ また安井はスマイルズの著作を用いた高嶺の英語の講義について「新しい教授法によつて、的確な訳をつけることを教へて下さつたばかりでなく、スマイルスの『キャラクター』を教科書にして、私達若い女性のため結婚の理想をとかれたこともありました。当時の新知識たる先生は、日本の女性に対して同情深く、女性の地位と教養を高めようとして、女子教育に没頭されたのだと思ひます。」と記している[39]。
- ^ 東京師範学校の高嶺と伊沢修二、長野県師範学校の能勢栄らが実践していた開発主義教授法は、それまで経済的、社会的な地位が低かった教職について、師範生に新しい見方と専門性を与え教職意識を高めた。東京師範学校で高嶺から直接教育学の指導を受けた町田則文は、「併し当時我国に於ける学風は唯書物を読んで文章を解するを主として、其事実を研究するという云ふことはしなかった。(後略)」「第一 生徒の思想を先にして書物を後にすべし 第二 実地より規則に至るべし 第三 既知より未知に至るべし」「三項目は誠に簡単な言葉であるけれども、当時先生は右三項目に附き種々の方面から実例を以て詳細述べられ吾人の是れ迄の主眼たる書物を先にして思想を後にすると云ふことの弊害を打破せられたのである」と述べている[40]。
- ^ 森文政下では中等教育の教員養成は帝国大学文科大学の任とされた。1886年(明治19年)3月帝国大学令が公布。1887年(明治20年)ドイツから招聘されたエミール・ハウスクネヒト(Emil Hausknecht)が文科大学教育学教師に着任した。1889年(明治22年)1月文科大学は帝国大学特約生教育学科制度を導入したが、同年2月森文相が死去し、翌1890年(明治23年)7月に廃止される。同年10月文部省直轄諸学校官制が公布され、高等師範学校は小学校に加え中学校の教員養成機関と位置づけられた[41]。
- ^ 米国留学から帰国した高嶺と伊沢はジョホノットの教育理論を基に、1878年(明治12年)高等師範学校の改革を実施。本科下級で西周訳の『心理学』(『奚般(ヘブン)氏心理学』1875)を教科書とする週5時間の心理学の講義が組まれた。安井の在学中に主流となっていたのはベイン(Alexander Bain)著井上哲次郎抄訳の『心理新説』(『倍因(ベイン)氏心理新説』1882)とサリー(James Sully)著有賀長雄抄訳の『教育適用心理学』("Outlines of Psychology"、1886校正再版)だったと考えられるが、国府寺は教科書を用いなかったと安井は回想している[39][42][43]。
- ^ 国府寺新作(1855-1929)は江戸出身の教育学者。外交官。1880年(明治13年)7月東京大学文学部第1回の卒業生。同期に井上哲次郎、福富孝季がいた。卒業後東京師範学校雇教諭となり翌年末独英に私費留学。1886年(明治19年)に帰国し、入れ替わりに福富が渡英し心理学者サリーに学んだ。東京師範学校のほか哲学館や東京文学院で教鞭を執る。国立国会図書館サーチによれば、1890年(明治23年)から1897年(明治30年)にかけてローゼンクランツ、スエット(John Swett))、ヘルバルトらの心理学や教育学の著作を訳出したほか、1892年(明治25年)には『実用心理学』上下巻を著す。またこの間国粋主義に傾倒し乾坤社に加わった。官報によれば公使館二等書記官として1895年(明治28年)に英国、1897年(明治30年)に清国赴任。1898年(明治31年)10月稲垣満次郎公使の一時帰国に伴い、在シャム代理公使に就任。フランスの政策に倣い華人の登録と日本国籍付与を進めるが、帰国した稲垣はこの方針に反対した。その後一等書記官となりメキシコ、スウェーデンに赴任。1913年(大正2年)には外務省参事官となった[44][45][46]。
- ^ 野口幽香(1866-1950)は播磨国出身の教育者。高等師範学校女子部在学中に両親を亡くしたことがきっかけでキリスト教徒となる。同校卒業のときは満24才2ヶ月で13人のうち最年長。安井に次ぐ成績で総代として答辞を読んだ。女子高等師範学校附属幼稚園に務めた後、1894年(明治27年)華族女学校附属幼稚園に移り、翌年海外視察から帰国した学監下田歌子から助言を受け、同僚森島みねとともに改革に取り組む。森島は津田うめのアメリカ留学に同行し、カリフォルニア幼稚園練習学校で教育を受け帰国。麹町平河町で幼稚園を1年余開いたあと華族女学校附属幼稚園に加わった。1900年(明治33年)、野口は森島とともに貧民の子どもを預かる二葉幼稚園を設立。同園は幼児保育の創成期における規範の一つとされた。野口は後に聖書研究にも取り組み、1910年(明治43年)二葉聖書研究小集会を立ち上げた。後に二葉独立教会と命名され、現在の日本基督教団東中野教会の前身となる[49]。
- ^ 塚本ハマ(1866-1941)は江戸本郷出身の教育者。維新時徳川家に従って遠州横須賀に移る。高等師範学校女子部在学中、野口ゆかを本郷森川町講義所に誘った。同校卒業のときは満23才9ヶ月で野口に次ぐ年長者だった。大阪師範学校女子部に教諭兼舎監として赴任し、そこで『婦人教育雑誌』を発刊。1892年(明治25年)農学者の塚本道遠と結婚し6人の子どもをもうけた。東京女学館教授、女子高等師範学校附属高等女学校教諭を経て共済生命保険会社に勤務。1900年(明治33年)には高等女学校用家事教科書『家事教本』を著す。静岡県立高等女学校教頭次席から青山女学院教授、1912年(明治45年)から同校教頭を11年間務め、1917年(大正6年)には東京女子大学最初の理事となりその創立に加わった。多くの社会福祉事業に参画し、退職後十数年は生活改善同盟会理事として全国で講演。晩年は国際連盟婦人平和協会役員として奉職した[50][51][52]。
- ^ 戸野みちゑ(1870-?)は京都府出身の教育者。高等師範学校女子部卒業時は安井と同じ満20才1ヶ月だった。京都府尋常師範学校から彦根、長野へ転勤しそこで県視学官の戸野周二郎と結婚。安井の書簡から1899年(明治32年)には子どもがいたことが分かる。その後名古屋を経て1902年(明治35年)母校女子高等師範学校に奉職。翌年周二郎が清国武州の湖北師範学堂に総教習として赴任すると、1904年(明治37年)には清国に渡り湖北巡撫端方が設立した中国初の公立幼稚園湖北幼稚園の園長を2年間務めた。また幼稚園内に非公式に付設された女学堂の運営にも関与している。1909年(明治42年)から1915年(大正4年)まで中村高等女学校の初代校長。1916年(大正5年)から1920年(大正9年)まで佐藤高等女学校の第2代校長を務め、1922年(大正11年)には十文字こと、斯波安とともに文華高等女学校を創立した[53][54][55]。
- ^ 1890年(明治23年)の教育勅語発布が契機となり欧化主義は終息する。1891年(明治24年)4月には英語と理科の授業時間が減り、1886年(明治19年)7月から始まった卒業写真での洋装は1893年(明治26年)3月までで終わった[22][57][58]。
- ^ 卒業直前の1890年(明治23年)3月に調査された高等師範学校第四学年試業評点一覧表によると、安井の総約点が87で首席。野口ゆか、大橋とみが86で次席[55]。
- ^ 安井たち13名の高等師範学校女子部第1回卒業生は、便宜上女子高等師範学校第1回卒業生とされている[60]。
- ^ 1887年(明治20年)11月、高等師範学校は卒業者の服務規程を定めた。女子は卒業後5年間は許可なく教職を離れることはできず、内2年間は文部省が指定した学校で勤務する旨の誓書を差し出すこととされた[62]。
- ^ 1890年(明治23年)の小学校令公布後、文部省は就学率向上のため単級小学校、すなわち全ての級を一つの教室に合わせ一人の教員が同時に教授する小規模校の設置を全国の町村に推奨。教授法研究のため各地の師範学校附属小学校に単級教場が作られていった。1891年(明治24年)4月、前文部省学務局長服部一三が岩手県知事に就任。同年5月から6月にかけて岩手県尋常師範学校附属小学校に単級教場が設置された。訓導勝部偉太郎が担任となり尋常小学科1、2、3年生約70名で単級複式学級を編成。勝部の研究報告は翌年、翌々年の「岩手学事彙報」紙に掲載された[63]。
- ^ 安井は盛岡行きを勧めた中川の忠告を貴い教訓だったと後々まで感謝した。岩手県尋常師範学校附属小学校では高等科の女生徒を指導したが、女性の教員は安井のほか裁縫科に一人いるだけだった。安井はこの教員とともに女生徒を手伝って洗い物をしたこと、高等科一年から四年までの生徒を同時に教授したこと、男子の教生が若い一方で小学校には14、5才の女生徒がいたので注意を払ったこと、役人や教育者を招く懇親会には酒がでるので出席しないようにしたなど、東京では得られなかった経験について記している[66]。
- ^ 松岡が東京府高等女学校の最上級生のとき、安井たち高等師範学校女子部13名が参観に訪れている。松岡は女子高等師範学校を受験するが失敗し明治女学校入学を目指した。学費の工面に困った末、校長の巌本善治に直談判し月謝免除で入学を許される。寄宿料の代わりに『女学雑誌』の校正を勤め、そこで多くの教育者や文学者を知り啓発されたが、入学2年目の夏休みに帰郷したまま東京には戻らなかった。1893年(明治26年)1月から八戸尋常小学校教員。野々宮きくの勧めで同年8月に退職し私立盛岡女学校に移る。羽仁(1928)によればこのころは恋愛に夢中だったという。青山(1982)に「羽仁氏が自分の信ずるキリスト教の説明に『文学界』をもち出して、巌本善治氏の名を出した時、先生は、だから日本のためにキリスト教は排すべきだといったとのことである。」の記述がある[68][69][70]。
- ^ 安井の後任には高等師範学校女子部の同級生だった土岐やすが就いた。土岐は高等師範学校女子部卒業後、鳥取県尋常師範学校助教諭兼舎監を務め、1894年(明治27年)3月から1897年(明治30年)12月まで岩手県尋常師範学校附属小学校訓導、1898年(明治31年)には福岡県高等女学校教諭となっている[71][72][73]。
- ^ 1878年(明治11年)9月に開校した東京女子師範学校附属練習小学校は師範生徒の実習校として創設され男児も在学したが、1882年(明治16年)9月女児小学校の模範校として下等科3か年、上等科3か年の東京女子師範学校附属女児小学校となった。1885年(明治18年)8月東京師範学校附属小学校に合併。翌年4月には高等師範学校附属小学校と改称。1890年(明治23年)4月尋常科4か年、高等科2か年の女子高等師範学校附属小学校が新設され、高等師範学校附属小学校の女子児童が転学した。1892年(明治25年)5月単級教育の研究のため附属小学校に分教室を設置。翌年3月には附属小学校第三部と改称した。第二部は同年10月に開かれた。尋常科4か年、高等科2か年で、尋常科1、2年は男女共学、3、4年は男女別の合級学級。安井を含む4名の教員が指導した。同年11月の皇后行啓では3つの部がそれぞれ通覧されている[75][76][25]</ref>。
- ^ 野々宮起久(1869-1922)は下総国多胡藩出身の教育者。1887年(明治20年)木村裁縫伝習所で一葉の妹くにと知り合い、1889年(明治22年)に入学した東京府高等女学校では松岡もと、半井桃水の妹幸子の友人となる。1891年(明治24年)一葉に桃水を紹介した。1892年(明治25年)1月東京府麹町尋常小学校訓導、同年10月私立盛岡女学校教員となるが、翌年春八戸尋常小学校の教員として勤めていた松岡に後を託し、7月に帰郷した。1894年(明治27年)横須賀の小学校訓導、1895年(明治28年)4月女子高等師範学校附属小学校の授業嘱託に転じ安井の同僚となった。野々宮は盛岡時代から安井を知っていた可能性がある。1905年(明治38年)千葉県の町立大多喜補修学校教諭兼舎監として勤務し、同校校長庄司鐫太郎と結婚。一女を得るが1910年(明治43年)夫と死別。1914年(大正3年)宮城県女子師範学校教師、1918年(大正7年)大阪樟蔭高等女学校教諭となり在職中に死去[69][79][80]。
- ^ 一葉の水の上日記に安井の名が初めて現れるのは明治28年4月18日の条である。同年6月6日の条では女子高等師範学校の同窓で、安井の同僚でもあった木村きんが加わったとある[81]。
- ^ 一葉のみつの上日記では、留学準備について記した明治29年7月12日の条が安井についての最後の記述となった。ミつの上日記の同年12月12日の条には「海外」「出発」の書き込みがある。一葉が留学の正式な発令を知り書いたものと推察される[85][86]。
- ^ 安井の英語教育に華族女学校教授の津田が選ばれた経緯はよく判っていない。津田は安井を同居させ学習の場を提供したが、津田が話すアメリカ英語と安井が学ぶべきイギリス英語は発音が異なるため、レッスンは帰国を予定していたイギリス人の女性宣教師に託した。津田は安井留学中の1898年(明治31年)5月に女子高等師範学校教授を兼任した[84][87]。
- ^ 武田錦子(1861-1913)は江戸出身の教育者。幕臣加藤清人の長女に生まれ、1872年(明治5年)6月官立女学校に入学したが、翌年中村正直の同人社に移りカナダ人宣教師ジョージ・カックラン(George Cochran)に英学を学ぶ。1877年(明治10年)9月東京女子師範学校小学師範科に入学。1879年(明治12年)5月多賀春子、丸橋光子とともにアメリカ留学を命ぜられたが同年8月中止。翌年7月に卒業し同附属幼稚園保姆となる。1883年(明治16年)同校助教諭。1886年(明治19年)5月普通師範学科および幼稚園保育科修業のため、初の文部省派遣女子留学生としてアメリカ留学。セイラム師範学校(現セイラム州立大学)(Salem State University)で人文科学を学び、1888年(明治21年)6月に同校を卒業。その後ウェルズリー大学にも学び1889年(明治22年)6月帰国。同年11月高等師範学校教授となり、翌年3月陸軍砲工学校教授武田英一と結婚し2人の子どもをもうけた[90][91]。
- ^ 加藤錦子に続く文部省派遣の女子留学生は1889年(明治22年)アメリカに渡った幸田延。ボストンで1年、ウィーンで5年学びヴァイオリン、ピアノ、和声学、作曲などの高度な教育を受け1895年(明治28年)11月帰国した。安井は女子高等師範学校から2人目、文部省の派遣としては3人目の女子留学生にあたる[92]。
- ^ 下田歌子は安井に先立ちケンブリッジ大学CTCを見学している。下田の視察と安井の留学には直接の繋がりはないが、西園寺や牧野が留学先の選定にあたって下田の報告を検討した可能性はある[89]。
- ^ 牧野伸顕は1893年(明治26年)3月井上毅文相の就任とともに文部次官となり、西園寺文相時代も留任した。牧野の年譜の多くが特命全権大使信任イタリア赴任を1896年(明治29年)としているが、特命全権大使信任は1897年(明治30年)5月29日が正しい[93]。
- ^ 1890年(明治23年)11月29日、女子高等師範学校では第1回帝国議会召集を記念した式典が開かれた。「お茶の水女子大学百年史」が引用した『十文字こと日記』の記述によれば、ある教官は「われわれの安全に日日を送るを得るは、天皇陛下の御光の賜物なり。国会議員は、その天皇陛下の旨に従ひて御賛助を申してわれわれを治め給はる人たち」であるから「国会議員に対するは、天皇陛下に対するが如くにすべし」とし、別の教官は「ここに女子高等師範学校の生徒に望むことあり。剛と柔との字あることは、誰も知るところなり。剛は男子の備ふべきものにして、柔は女の備ふべきものなり。昔の女は柔に過ぎ、すべきこともせず、言ふべきことも言はざりしなり。しかし明治も二十三年、国会の開けたる時分の女子に於いては昔日と似るべからず。さりとて剛に流れず、心の中に剛を入れ、如何なる事に出会ふとも決して恐れず、言ふべきことは言ひ、なすべきことはなし、その外貌に於いては柔にして、女の特性はあくまでも失ふべからず」と述べた[25]。
- ^ 井上の主張は『勅語衍義』の記述である「勅語ノ主意ハ、孝悌忠信ノ德行ヲ修メテ國家ノ基礎ヲ固クシ、共同愛国ノ義心ヲ培養シテ不慮ノ變ニ備フルニアリ」「国君ノ臣民ニ於ケル、猶ホ父母ノ子孫ニ於ケルガ如シ、即チ一国ハ一家ヲ拡充セルモノニシテ、一国ノ君主ノ臣民ヲ指揮スルハ、一家ノ父母ノ慈心ヲ以テ子孫ニ吩咐スルト、以テ相異ナルコトナシ」、「父母ハ固ヨリ愛セザルベカラズ、兄弟、夫婦、朋友モ亦愛セザルベカラズ、然レドモ是等一切ノ愛情ヲ含有スルモノハ、即チ愛国ノ心ニシテ、我国ノ為メニ一命ヲ棄ツベキコトアラバ、苟モ精忠ノ人ニシテ誰レカ欣然之ヲ擲タサランヤ」に代表される[99][101]。
- ^ 『勅語衍義』は、婚姻は財産名誉のためでなく夫婦の高尚な親愛によって成立されるべきとし、また早期の隠居や早婚の弊害について記述した点で、同時期に出版された勅語注釈書よりも近代的な要素を含んでいるとされる[103][104]。
出典
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- ^ 海後(1968)、947-967頁。野口(1994)、432-447頁。立命館(1991)、192-193頁。1893年(明治26年)3月井上毅が文相に就任。井上は法制局長官時代、教育勅語起草に際して帝国憲法28条と矛盾しないよう宗教的な記述を削除させたが、文相としては女子中等教育からキリスト教主義女学校を排除する方針をとる。キリスト教は井上にとって天皇制に立脚した国家体制に対立する存在だった。井上は公立女学校の拡充を図り、女子中等教育機関を中学校から分離独立させる草案の検討を進めたが、1894年(明治27年)8月病気のため辞任した。井上の施策は1895年(明治28年)1月の高等女学校規定公布によって実現した。
- ^ 立命館(1991)、202-230頁。深谷(1998)、138-142頁。西園寺は就任直後から井上元文相の方針に捕われない独自の見解を示した。1894年(明治27年)11月には教育の方針は国家の必要に応じて常に変更できると発言し、1895年(明治28年)3月の女子高等師範学校卒業式で女子教育の重要性を説いた。同年5月華族女学校校長細川潤次郎は『大日本教育会雑誌』に「国力と女子教育との関係」を寄稿。西欧列強が例外なく女子教育を振興している現状とその理由について、女子が家庭の外に交際なく見聞狭く思想の及ぶ所一家一郷に止まるならば、国事に従事する男子を牽制こそすれ奨励することはないと論じた。この論旨は従来の儒教的教育観から一歩踏み込んで、女子教育にナショナリズムが導入されるきっかけを作った。同年7月の同誌で女子高等師範学校校長秋月新太郎は女子には家事の他にも国家に尽す職務があると指摘している。
- ^ 立命館(1991)、160-181、230-242頁。西園寺は1895年(明治28年)6月には静養した陸奥宗光に代わって外相臨時代理を兼任し、三国干渉と乙未事変の対応にあたった。
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- ^ 渡辺(1978)、701頁。安井の留学は出発直前の1896年(明治29年)12月に正式に発令された。
- ^ 青山(1982)、38、42-44頁。青山(1965)、7、38-42、62-63頁。1897年(明治30年)1月16日ミス・バラードが同行し横浜発、3月7日ロンドン着。同日ロチェスターに移動した。ロチェスターではバラード家のあとデューク家に間借りした。安井は出発直後から親友野口ゆかに宛てて便りを書き始めている。『若き日のあと-安井てつ書簡集-』の序文を書いた渡辺善太によれば、イギリス留学時の安井の文体は一葉のそれを想起させるとある。
- ^ 青山(1982)、44頁。飯塚ほか(2007)、4頁。“下田歌子電子図書館”. 実践女子大学図書館. 2010年9月21日閲覧。下田歌子は1893年(明治26年)5月、日本人女性で初めての家政学に関する著作となる『家政学』を刊行した。
- ^ 大濱(1978)、86-89頁。柴沼(1999)、252-255頁。当時のイギリスには家政学を教授する大学がなかった。1902年(明治35年)安井の後を受けてイギリスに留学した宮川スミも同じ問題に直面したが、家政学を追求しバタシー・ポリテクニック(バタシー工芸学校、Battersea Polytechnic Institute(現サリー大学、University of Surrey))に入学。掃除・洗濯・料理・磨きもの・衛生・育児・救急法・家事の教授法などを実地に2年余学び、1905年(明治38年)7月に卒業した。
- ^ 青山(1965)、48-49頁。宮田(1993)、149-151頁。1897年(明治30年)5月31日付けの書簡で安井は野口に「家政學中々おもしろく學文上として當地の習慣を批評致し居り候、」と記しておりイギリス家庭の観察を疎かにしなかった。同年イギリス家庭の特長を『東京茗溪会雑誌』第177号、1897年。で「見聞の三四」と題し報告している。後に安井は家政学に関して批判的な立場を取るが、東京女子高等師範学校附属幼稚園主事時代の幼児教育や『新女界』での執筆活動はこの時期の生活を原点としている。
- ^ 青山(1965)、43-55頁。CTCへの入学手配は加藤高明公使とミス・バラードの父が行った。4月には就役前の戦艦富士に乗船。6月には望月小太郎とともにヴィクトリア女王即位60周年記念式典に出席し、下田歌子の友人エリザベス・アンナ・ゴルドン(下田歌子#欧米教育視察の脚注参照)を紹介された。7月にはイギリス公使館附武官柴五郎と面会し工兵の橋架工事を見学。このころ安井は荒川巳次領事と懇意になり留学中は度々世話を受けている。
- ^ 青山(1982)、44-46頁。ヒュースは留学の目的を知ると、安井に対し講義も大切だがイギリスでしか会えない多くの人の意見を聞き、学校や家庭など広く観察訪問して参考とするよう助言した。
- ^ 青山(1982)、46-50頁。青山(1965)、63-69頁。明治30年12月11日付書簡より。安井ははじめケンブリッジ大近くの教師宅に寄宿した。
- ^ 青山(1982)、52-54頁。青山(1965)、76-79頁。明治31年6月16日付書簡より。丹沢(2005)、43-56頁。1897年(明治30年)のクリスマス休暇の際ヒュースと安井は諍いを起こし、和解したことで却って信頼が深まった。父を亡くしたばかりのヒュース校長にクリスマスを共に故郷で過ごすよう誘われた安井は快諾するが、その後ロチェスターでの寄宿先だったミス・デュークからヒュース宛てに安井を招く案内が届く。ヒュースは安井が既にデュークの誘いを承諾していたと思いこみ”テル・ミー・トゥルース”と問い詰めたが、安井はすぐに”私は唯一つのトゥルースしか有つて居ません”と返した。デュークからの誘いは安井の知らないことだった。安井は誠実を貴ぶイギリス人の性質が二言を使わない日本の武士に近いと感じ、ヒュースに小泉八雲を薦めた。ヒュースは八雲を通じて日本文化を知るが、このことは後年八雲との衝突を生む遠因となる。
- ^ 青山(1965)、65、67-68頁。文頭は12月11日付けだが、結びには12月21日と書かれている。
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- ^ 小西(1997)、解説1-3頁。小西信八(1854-1938)は長岡藩藩医小西善碩の次男として越後国古志郡に出生。私塾や藩校で漢学を、戊辰戦争後は洋学を修めた。1879年(明治12年)5月東京師範学校中等師範科卒業。同校訓導の後同附属幼稚園監事として奉職。仮名使用運動に加わり、「かなのくわい」で石川倉次と知り合う。文部省普通学務局兼務を経て1884年(明治17年)12月東京女子師範学校教諭となった。1、2年時の安井を教授した可能性がある。1886年(明治19年)1月32才で訓盲唖院掛専務に就任し聾唖教育界に入る。翌年改称した東京盲唖学校教諭兼幹事、1893年(明治26年)9月から同校校長を務めた。1896年(明治29年)12月から翌々年9月まで「盲唖教育の外白痴孤児及貧児教育法研究の為」欧米留学。1910年(明治43年)東京盲唖学校から分離独立した東京聾唖学校校長に就任し、1925年(大正14年)3月まで奉職した。障がい児教育に功績を残し多くの論考を著したが生前著書として纏めることはなかった。
- ^ 青山(1965)、69-71頁。明治31年3月9日付書簡より。佐藤(1996)、76-77頁。高橋(1993)、15-24頁。岩谷英太郎「女子教育に関する要項」『東京茗溪会雑誌』第185号、1897年6月20日、1-5頁。に掲載された。スウェーデン体操や戸外遊戯などイギリスの女子体育について紹介している。
- ^ 青山(1982)、74、387-389頁。青山(1965)、41、50、80、86、89頁。明治31年8月12日付書簡より。弓町(1986)、242-243頁。松本亦太郎は初期の同志社英学校に学び、1883年(明治16年)11月京都第二公会で受洗、1887年(明治20年)11月本郷講義所に転会。草創期からの本郷教会会員だった。松本はイェール大学留学中に安井宛ての書簡を送っている。哲学、心理学、倫理学を専門とし欧米各国の美術に触れた松本について安井は「奇人」と野口に評しているが、研究分野を同じくする5才年上の松本は安井にとって得がたい先達だったと考えられる。安井がシャム国に赴任していた1906年(明治39年)頃、松本は教授として務めていた京都帝国大学文科へ安井を入学させるべく大学当局に働きかけたが認められなかった。
- ^ 亀田(2005)、164-175頁。津田(1984)、269-271頁。津田は1898年(明治31年)11月5日ニューヨークを発ち、12日リヴァプール着。22日に安井とケンブリッジで再会。その日のうちにヒュースと対面した。
- ^ 亀田(2005)、163頁。津田塾(2003)、498-500頁。白井(1995)、69-70、72-74頁。アメリカ視察中だった津田うめと小鹿島筆のイギリス訪問は華族女学校、静修女学校の英語教師マライア・ウェストンが企画。来日中の英国聖公会オードレー主教夫妻が駐日イギリス公使アーネスト・サトウに計り、次いでイギリスに帰国していた故ビッカステス主教の夫人と協議し、オックスフォード大学セント・ヒルダズ・カレッジ創設者ドロシア・ビール(下田歌子#欧米教育視察の脚注参照)が滞在費100ポンドの寄付を認めた。さらにこれはカンタベリー大主教とヨーク大主教(Archbishop of York)の夫人たちをはじめとするイギリス国教会の女性有力者、オックスフォード、ケンブリッジの各女子カレッジの学長、女子パブリック・スクールの校長など計18人の連名による正式な招待へ発展した。小鹿島が辞退し日本に帰国したものの、外相大隈重信はイギリス公使加藤高明と準備を進め、津田は滞在費として外務省の機密費から二千円、皇后から一千円を得て渡英した。
- ^ 津田(1984)、269-279、300-302頁。津田は11月22日から12月5日までケンブリッジに滞在。翌1月3日から11日までは安井がロンドンの津田の下に宿泊した。津田の滞英日記 "Journal in London" 1月8日付によると、1月4日に大英博物館、1月5日にはロンドン自然史博物館、1月8日にはナショナル・ギャラリーを訪れ休暇を楽しんでいる。津田は"Miss Yasui and I spend all our leisure moments in talking and reading & writing. I am enjoying myself very much indeed in this easy fashion."と喜びを日記に残した。
- ^ 津田(1984)、321頁。亀田(2005)、172-174頁。津田は安井と別れたあとパリで過ごし2月11日ロンドンに戻る。オックスフォード大学ではセント・ヒルダズ・カレッジの校長バロウズ夫人と相談しながら女子に許された人文科学系の科目を受講した。3月20日には念願だったフローレンス・ナイチンゲールとの面会を果たした。
- ^ 青山(1982)、74-75頁。青山(1965)、114-117頁。明治32年9月11日付書簡より。9月4日から9日まで近くに滞在した。孫市から姉ゆかに宛てた明治32年9月17日付の書簡で孫市は「安井氏には二度面会致候、其変り方全く昔の人と別人の如く御存の通りの無口?な人(少なくも私に対して)も中々以て人をそらさぬ交際家となられ候、」と記している。
- ^ 青山(1982)、57-59頁。青山(1965)、100-109、114-117頁。明治32年4月9日、4月21日及び9月11日付書簡より。礒部(2006)、7頁。中村(1901)、183-187頁。村田(1901)、196-202頁。“History of Hughes Hall”. Hughes Hall. 2010年11月5日閲覧。CTCの学校委員会は1898年12月辞意を通知したヒュースにサバティカルを与えた。ヒュースは翌年夏まで静養したが結局この年でCTCを辞職している。安井はロンドンではサリー宅に寄宿し、津田に続きナイチンゲールと面会した。
- ^ 安井(1909)、4-8頁。10年後安井は1909年(明治42年)8月『新女界』第5号の「アルプス登山の追懐」で回想している。安井はヒュースたち数名の友人とともにスイスのサースグルンド(Saas-Grund)で4週間過ごした。ある日安井とヒュース、友人1人は2人のガイドとともに近くの岩山に登る。午前3時に起床し夜明け前に出発。安井はアルプスの自然に魅了されたが、途中雨が降りガイドがロープで3人を絶壁に引き上げた記述がある。
- ^ 青山(1982)、75頁。青山(1965)、114-117、人名索引3頁。明治32年9月11日付書簡より。安達(2009)、20-23頁。“安達峰一郎”. 山辺町教育委員会社会教育係. 2010年10月16日閲覧。安井はスイスからの帰途パリに立ち寄り安達鏡子に面会した。安達鏡子(1870-1962)は当時フランス大使館で書記官を務めていた安達峰一郎の妻。旧姓高澤。女子高等師範学校高等師範科を1893年(明治24年)3月に卒業。安井の1年後輩にあたる。1892年(明治25年)峰一郎と結婚。1934年(昭和9年)の夫の死後ベルギーで遺品整理にあたっていたが情勢悪化により帰国できなくなった。終戦後も私有財産の持ち出しが禁じられていたため離れられなかったが吉田茂元首相の働きかけにより1958年(昭和33年)帰国。1960年(昭和35年)全資産を投入して財団法人安達峰一郎記念館を設立した。著作に夫と過ごした日々を詠んだ『夫安達峰一郎-歌集』がある。
- ^ 青山(1982)、59頁。青山(1965)、114-117頁。明治32年9月11日付書簡より。
- ^ 青山(1982)、61-62頁。弓町(1986)、248頁。平塚(1985)、245頁。貝出(1974)、26-27頁。高等師範学校女子部に在学中小川はまと野口ゆかが洗礼を受けたことに動揺した安井を、教頭高嶺秀夫が静かに諭し指導した。小川は1889年(明治22年)2月に受洗(平塚によれば明治21年以前)。野口は小川に誘われ本郷森川町講義所に出入りするようになり、明治22年5月村井知至に導かれ宮川経輝から受洗した。
- ^ 青山(1965)、40、249-250、285-286頁。新渡戸(1987)、342-346頁。明治30年3月30日付書簡に「夫故御地にて姉上其他津田先生などに餘りたよりたるくせ付き、」の記載がある。津田は安井の渡航中に度々書簡を送り海外生活について助言したほか、安井の出発前には新渡戸稲造の妻メアリーと連絡を取り、洋行に必要な品々を札幌から送ってもらっている。そのため初対面のときは安井を知っていた新渡戸のほうから気さくに話しかけた。
- ^ 青山(1982)、62-63頁。青山(1965)、7-10、260、272-274頁。旅行日記で度々言及されている。バラードの命令的な態度は安井の自尊心を傷つけた。渡辺善太は後年安井が学生に信仰を押し付けることを嫌った理由として、この経験が心理的に影響したのではと推察している。
- ^ 青山(1982)、63-64頁。信徒の生活について安井は「彼等は家庭に於て朝夕家族と共に礼拝を行ひ、日曜日には家族隣人と共に教会に於て礼拝を行ふのである。彼等の生活の基礎は実に信仰である。即最高永遠の善の源泉である神に服従する生活を営まんとするのである。彼等が謙遜であり、真実であり、又親切であることは最も自然な事であると私は思った」と回想している。
- ^ 松本(1931)、54-55頁。青山(1982)、66-67頁。青山(1965)、55-59頁。明治30年8月19日付書簡より。安井は聖職者の公正で謙遜な態度に心を打たれた。ある牧師は「此國ハ眞のクリスト教國に非ず、予は未だ眞のクリスト教國を見ず、多くの人民ハ恰も御寺ニ行くをクラブか何かに行く氣になり、衣服をきかざりて表面上のそしりをさくる爲に來るもの多し、」と率直に答え、安井は自分の観察が正しいことを確信した。安井は「私の馬鹿ナ質問ニ対して謙遜ニ答ヘラレタ。コレガ初メテ信仰ノ人とシテ私ノ心ヲ惹キツケタ所以デアル」「私に最も美くしいそして最も力強い印象を與へたのは、同地英國敎会の牧師Gedges氏であつた。(中略)氏は不幸にして明を失し、點字の聖書や祈祷書を用いて居られたのであるが、其説敎には熱があり力があつて、強い感激を私に與へたのであつた。」と記している。
- ^ 青山(1982)、64-66頁。青山(1965)、10-11、49-55頁。明治30年7月13日付書簡より。安井はキリスト教を受け入れられない理由として、宗教が社会を統べる勢力として教育には及ばないこと、女子は多く教会に行くが男子はあまり礼拝に出席していないこと、キリストは人間であって三位一体は理解し難いことと纏めている。
- ^ 青山(1982)、59-61、64、88-91頁。安井はケンブリッジでも日曜日の朝には教会に出かけたが、往来で出会う学生たちが紳士淑女として振舞うことに感心した。安井は「私は前に述べたやうに、日本に於て厳格な師範教育を受けたが、其処には服従すべき多くの規則があつた。例へば外出の際には外出簿を携帯して、訪問先で時間を記入し、捺印してもらはねばならなかつた。生徒時代に於て最も心を用ひたことは、帰舎の門限に遅れぬ事であつた。それ故私は、此寄宿舎に舎監もなく、校長も、教授も、学生も自由に外出して、何等の問題も起らぬ事を実に不思議に思つたのである」と記している。ある卒業生は安井が記した外出簿について「酒屋の通ひのやうな形の出入検査簿、之は今日のハンドバックのやうに、外出のときは身辺を離すことの出来ぬ必要品。四十年後の今日まで時々夢の中に往来する印象深き存在物。」と回想した。
- ^ 青山(1982)、55、67-68頁。青山(1965)、89-93頁。明治31年10月9日付書簡より。ヒュースは根本を知らずに外面だけを装う改宗は危険だと教え、一週一時間ずつ女子教育と女子の道徳について語り合うこととした。
- ^ 青山(1965)、89-93頁。明治31年10月9日付書簡より。亀田(2005)、176-177頁。「津田さんと小鹿しまさんハ愈來らるゝ筈、オックスフォードではなく、チェルタナムといふ處にて尤完全な女學校なれ共、華族女學校に類しある階級の女生徒のみ、一般敎育の模範とハできず、これについての内幕憤慨ニたへず、(略)」とあり、以後の激しい言葉を編者が略している。女子教育のためにキリスト教を受け入れようとしていたこのころの安井にとって、華族女学校教授として渡英し上流階級の女学校を見学する津田は、一般の女子のために尽していないと思われた。チェルトナム・レディーズ・カレッジ(Cheltenham Ladies' College)は女子教育者ドロシア・ビール(Dorothea Beale)が設立した女学校。ビールは津田の渡英に際し中心となって教育界を取り纏めたので、チェルトナムへの訪問は津田にとって当然のことだった。
- ^ 青山(1982)、54-55、68-73頁。青山(1990)、63-64、82-90頁。青山なをは『安井てつ伝』(東京女子大学同窓会出版、岩波書店販売、1949年)を著すにあたって野口幽香から書簡を譲り受けたが、津田に対するこの批判部分は採用しなかった。したがって『安井てつ伝』を現代仮名遣いで再録した青山(1982)にもそれは含まれていない。
- ^ 青山(1965)、97-100頁。明治32年2月26日付書簡より。亀田(2005)、178-180頁。「ロンドンにて十日間津田氏と同居しぬ、相變らず缺點も多く見出したれ共まづ幸福に日を送り、此上なき愉快をつくしたりといふも可ならん、氏は多くの人に愛せられ招待せられ非常に幸なり、併あまり内心ニ愉快を感ぜざる様子、クリスト敎の信仰ニ對し、眞にそのアイデアルの人間ニならんとするの決心は氏より私の方がはるかに強し、私は氏の行に對して、又思想に對してむしろキリスト敎ニ反對する處多を認めぬ、」と安井は記している。亀田(2005)はこの書簡から推察し安井が非常に厳格なクリスチャンだったとしている。
- ^ 青山(1965)、123-126頁。明治33年2月4日付書簡より。亀田(2005)、181頁。飯野ほか(2000)、131-132頁。安井は津田と過ごした1年余後になって初めて「津田氏の私立學校ハ如何、出來上り候哉、今少し日本女子敎育の考あらバよからんニと存じ候」と津田の私立学校、女子英学塾について書簡で言及した。津田は渡英に先立ちアメリカで学校創設の意思を明らかにしているが、明治32年前半津田の滞英前後の安井の書簡には私立学校に関する記述はない。1900年(明治33年)3月津田のアメリカでの支援組織である「フィラデルフィア委員会」が発足し、創立準備が本格的に始まった。イギリス滞在中安井に自分の計画を話したかどうかはわからないが、津田が早い段階で安井と野口に伝えていたことは確かである。
- ^ 青山(1965)、109-113頁。明治32年6月10日付書簡より。安井は野口の二葉幼稚園設立準備について「御手紙の上より姉上の大體の意思の向ふ處明に察せられ申候、姉上の所謂事業とは如何なる事に哉、(中略)私の事業を御助け被下候事とても出來ずとは何の意味にや」と困惑し、ヒュースについて「併校長の病氣に付つくづく女子の事業に付てかんずる處有之候、あるひハ結婚が結局幸福なるかも不知、一生を一人にて暮せる財散ありても老人に至り病氣にでもなりし時は心細きものならん、」と同情した。安井は野口に対して将来への不安を隠さなかった。
- ^ 女高師(1981)、82、343、345頁。青山(1982)、88-91頁。青山(1965)、114-117頁。明治32年9月11日付書簡より。1897年(明治30年)11月秋月新太郎に代わって高嶺秀夫が女子高等師範学校校長に就任した。教頭中川謙二郎も秋月とともに退任。高嶺は帰国後舎監へ復職するよう勧めたが安井は固辞するつもりだった。「私は舎監になる積はなかりしが寄宿舎の事についてハ取調べ申候、一の報告書をかくつもり故(女子教育一般ニ付て)、生徒を助け度は勿論なるも、老年の方々と共にはたらく事ハ出来まじく、高嶺氏には何とも申上ず候へ共事情をよくきゝたる上にて辭する積りに候、舎監の責任は生徒の性質陶冶にありと存じ候故、主義ことなりたる人々の年齢を異にせる人が寄合ひて、とても理想的の仕事ハ實行さるゝものにあらずと存じ、」と述べている。このころ女子高等師範学校の舎監を務めていたのは山川二葉(1844-1909)、安達安子(1835-1913)、福田米子ら。
- ^ 青山(1982)、72-74頁。青山(1965)、123-126頁。明治33年2月4日付書簡より。「日本の女子ハ實ニ赤兒のごとく、何も不足をいはずに男子ニ敎育を任し居るにハおどろき入り候、當地ニ居る日本の妻君達ハ、私と同様なる學校の經けんなき故これらに同情なく、其日の事を以て滿足せられ居る様子」。同書、126-130頁。明治33年3月2日付書簡より。「私ハ此クリスマス休に領事の御宅に一週間程とまり日々かんじ候處少からず、日本の女子ハ實に赤兒の如く、男子の女子に對する考の低き事、實におどろくべき程に候」と述べている。
- ^ 青山(1982)、68-71頁。青山(1965)、118-121頁。松本(1931)、59-61頁。礒部(2006)、2-3頁。明治33年1月1日付書簡より。安井は高名なメソジスト派の牧師だったヒュース校長の兄、ヒュー・プライス・ヒュース(Hugh Price Hughes)と問答を交わし受洗の意思を固めた。『私が基督敎を信ずるに至りし經路と體驗』では、ロンドンのセント・ジェームズ・ホール(St James's Hall)で開かれた礼拝に加わり、始まりのオーケストラの演奏を新しく感じたこと、ある婦人が涙を見せ罪を悔いている様子を記した。またこの書簡では野口に「私改宗の事ハ兩親ニハ御申被下まじく、意見ハ無之候べきもあひて後ゆるゆる申聞候方よろしく、不知のものをおどろかせ候もよろしからずと存じ候、御序もあらバ津田氏ニは御もらし被下度候、」と申し添えている。
- ^ 青山(1982)、70頁。青山(1965)、121-123頁。明治33年1月10日付書簡より。ヒュース兄妹は帰国後どの教派に属するかよく考えてから受洗するよう諭し安井もそれに従った。
- ^ 青山(1965)、118-121頁。
- ^ ゴンサレス(2010)、134頁。マクグラス(2002)、366-367頁。キリスト教神学における人格(位格)(英:person)は個別な意識の中心ではなく、神格内部の永遠の存立原理を指す。”personal God”(人格的な神)とは、一人の人格が別な人格に対してするように、神がわれわれと関わりを持ち、神が愛や憐れみなどを行使できることを意味する。マクグラス(2002)はキリスト教神学における人格神の思想が2つの重要な問題を想起するとしている。「1 神が人間であるという意味にとられかねない。神について「人格的存在」として語ることは、神を我々の次元に引き下ろすことである。(後略)」「2 三位一体論は、「三つの位格(persons)」の神について語る。神について一つの人格的存在(a person)として語ることは、こうして三位一体の否定に至る。(後略)」。
- ^ 佐古(1995)、288-293、309-343頁。日本での人格神の概念の受容は、1892年(明治25年)9月から翌年3月まで清沢満之が真宗大学寮で講義した『宗教哲學骸骨』の中でのヘルマン・ロッツェ(Rudolf Hermann Lotze)の解釈に始まる。1895年(明治28年)1月『六合雑誌』第119号で増野悦興は「ポルソナル、ゴッド」の訳語を”靈なる神”とした。翌年1月の同誌第181号では原野彦太郎が「神の『ペルソナリチー』を論ず」を寄稿。ここでは「ペルソナル、ゴード」とカタカナ表記し、人格神という訳語は使われていない。1899年(明治32年)12月『哲学雑誌』第154号で井上哲次郎は「宗教の將來に關する意見」を発表。人格的な実在は必ず個体を成すため、高尚なる哲理は理解できないとした。これに対し綱島梁川は1901年(明治34年)5月「神の人格性につきて」を書き井上を批判。この論文は1905年(明治38年)の『梁川文集』に収められた。
- ^ 青山(1982)、72-74頁。青山(1965)、126-130頁。明治33年3月2日付書簡より。「私ハ先日も申候通りわが一身の爲、ことに將來非常に苦痛なるべき公私の事業に一身を犧牲にせざるべからざる境遇にある身ニハ、どうしても常々依賴する處の者なからざるべからず、私ハ随分從來困難にもたへ、苦痛も忍びて意思強しとみづからも感じ候へ共、種々の重荷の積り候てハ一身上にのみ擔ふ事ハ中々苦しく、如何にしても神の助を得ざるべからざる事をつくづくさとり候、」と述べ、また「併日本の女子ハ常に男子にのみ支配せられ居り候故、とても十分に其位置を高める事出來不申と存じ候、これわが國風にて私もこのひつこみ思案がどうもぬけ不申、唯わが國の有様を考へ如何に西洋の人々がわが東洋人を見下し居るかを考ふれバ、獨りわが邦のみならず、東洋一般の女子の爲に血涙をながし候、日本の女子ハ東洋の女子を助くる位の氣象ありて漸くわが邦の女子に盡す事を得る位に候、」と記している。
- ^ 鈴木ほか(1995.12)、191頁。岡村司『西遊日誌』明治33年5月2日付。
- ^ 鈴木ほか(1995.3)、109頁。『西遊日誌』まえがき。渡辺(1978)、752-756、758-759、774-775頁。深谷(1998)、142-153頁。岡村の海外留学は1899年(明治32年)9月からの2年9ヶ月。それ以前、1897年(明治30年)から1899年(明治32年)にかけて教育者たちは日本独自の女性像を模索していた。女子にも男子の妨げにならない程度の教育は必要だが、日本国が家族制度を基礎に成立している以上、家庭において女性は従属されなければならない。儒教の伝統と西欧の開明性は取捨選択し、日本の女子は東洋と西洋の中間に位置すべきとされた。深谷(1998)は「その意味で良妻賢母は、一つの思想によりどころを求めるのではなく、ナショナリズムの台頭を背景に、儒教的なものを土台にしながら、民衆の女性像の規制を受けつつ、西欧の女性像を屈折して吸収した産物-歴史的複合体-とみなしうる。」と述べている。
- ^ 鈴木ほか(1995.12)、190-191頁。岡村司『西遊日誌』明治33年5月10日、5月12日部分。原武(2003)、20-26頁。岡村によれば安井は5月9日までは安達鏡子と出かけていた。5月10日の午後岡村と安井は建部遯吾とともにセーヴル焼製造所を訪問。その夜祝賀会に出席した。5月12日岡村、安井、建部、立花銑三郎、大槻龍治(京都市助役、後の大阪電気軌道第3代社長)、渡辺千春(後の日本銀行理事)はパッシー街の小学校を参観。岡村は体操の様子と貧民の子に与えている給食について記録している。翌日岡村は別行動をとったが、新渡戸との歓談には安井を含むこの中の数名が加わっていたかもしれない。立花銑三郎(1867-1901)は当時宮内省学習院幹事、教務主任。夏目漱石の友人で、1896年(明治29年)チャールズ・ダーウィンの『種の起源』を『生物始源 一名種源論』として日本で初めて翻訳出版した。ロンドンから留学地ベルリンに帰り、東欧諸国を歴訪後悪性感冒に罹患。1901年(明治34年)5月帰国途上の客船常陸丸で没した。
- ^ 新渡戸(1987)、342-343頁。安井は新渡戸との出会いのことを『新渡戸先生の追憶』の中で”先生は例のフレンドリーな態度で、「あなたが安井さんですか、英国留学の感想はどんなです、ゆっくり話を聞き度いと思ふが、丁度此次の日曜日に四五人の者が集って語り合ふ事になって居るから来ませんか」といふ意味の事を語られたのである。”と述懐している。
- ^ 安井(1935)、219頁。
- ^ 青山(1965)、130-134頁。明治33年7月21日付書簡より。「不思議の事にて新渡戸稻造氏と巴里にて、スピリッチュアル、フレンドに相成、わづか二度の會合が二十年以來の胞友のごとく相成候、胞友と申しては少しく失禮、師弟のごとくに候、此結果米國ニてハ同氏の妻君方に十日間滯在、諸學校等日々參觀、」とある。
- ^ 鈴木ほか(1995.12)、191頁。岡村司『西遊日誌』明治33年5月14日付。
- ^ キリスト(1990)、399-417頁。大塚野百合は安井の信仰の問題点について次のように述べている。「彼女の信仰において、いつも主導権をもっているのは、彼女じしんである。彼女じしんの眼に醜いと認めるものが問題なのである。彼女じしんが醜いと認めないものに関しては、神も関与することがないのである。(中略)キリストは安井にとって「模範」であり、「救主であり保護者」なのである。保護者とは親などを意味し、保護される者と同質である人間を指すので、保護者である救主とは、人間と同質にあるようにみえ、超越者である救主を意味しなくなるように思われ、まことに曖昧な表現である。」
- ^ 鈴木ほか(1995.12)、191頁。岡村司『西遊日誌』明治33年5月15日付。青山(1982)、76-78頁。青山(1965)、130-134頁。明治33年6月23日および7月21日付書簡より。明治33年7月31日付官報。安井は新渡戸の妻メアリー宅に10日間滞在し学校を参観したあと、ニューヘイブンで松本亦太郎、井口阿くりと再会。井口は女子高等師範学校の第3回卒業生で安井の2年後輩。女子体育研究のためマサチューセッツ州ノーサンプトンのスミス大学に留学し体育学と生理学を学んでいた。その後安井はニューヨークからバンクーバー、サンフランシスコを経て横浜着。
- ^ 深谷(1998)、204-214頁。1893年(明治26年)から1896年(明治29年)の女子就学率は停滞していたが、1897年(明治30年)を境に上昇に転じた。各県の就学奨励、裁縫科の導入、女教師の増員、子守学校の開設などの施策によって、1895年(明治28年)から1902年(明治35年)の7年間で、女子就学率は43.9パーセントから87.0パーセントに、男子100に対する女子の割合は57.2から90.8に増加した。
- ^ 寺崎ほか(2005)、115-143頁。第2次山縣内閣は内地雑居に伴う法制度の整備に追われた。内務省はキリスト教徒を行政で管理する対策を進め、1899年(明治32年)6月「神仏道以外ノ宗教ニ関スル省令」案を閣議提出。キリスト教徒が布教活動を行う際には宗教の名称、教旨及び儀式の大要と布教方法を地方長官に届け出、会堂や説教所の設立にはその許可を得、公益に害ありとされれば許可を取り消すとした。この省令案は青木周蔵外相の意見を受け教旨及び儀式の大要の届出、許可取り消しの権限が削除され、1899年(明治32年)7月省令第41号として発布された。さらに同年12月山縣内閣は宗教法案を議会に提出。これは主務官庁の取締りの範囲内で宗教団体の自治権や免税特権を認めるものだったが、神道、仏教、キリスト教を同一待遇としたため仏教側の反対に遭い貴族院で否決されている。
- ^ 深谷(1998)、188-196頁。稲垣(2007)、183-189頁。文部省訓令第十二号の公布によって、キリスト教主義学校は文部大臣指定の女学校として認可されるために宗教教育を放棄するか、宗教教育を続ける代わりに各種学校となるかの選択を迫られた。
- ^ 深谷(1998)、153-172頁。樺山(1988)、426-434頁。“学制百年史資料編”. 文部科学省. 2011年1月21日閲覧。1898年(明治31年)11月の文相就任の際、樺山資紀は外山正一に助言を求め、岡田良平、上田萬年、澤柳政太郎ら教育者を登用して文教政策の刷新にあたった。深谷(1998)は明治30年代前半の女子教育振興の原因として内地雑居のほか、日清戦争の勝利、婦人労働の質的変化を挙げている。
- ^ “お茶の水女子大学百年史(テキスト版)”. お茶の水女子大学. 2012年3月2日閲覧。家政担当の女性教師が不足しその養成が急務となると、女高師は1897年(明治30年)9月家事専修科を新設。10月本科を文科と理科に分け、定員を120名から200名に増員。11月には卒業生を対象とした研究科ができた。さらに1899年(明治32年)2月には技芸科を加え三分科制となり、定員を300名とした。
- ^ “お茶の水女子大学百年史(テキスト版)”. お茶の水女子大学. 2012年3月2日閲覧。真橋(2002)、55-80頁。1899年(明治32年)文部省普通学務局長の澤柳政太郎は、教育学研究のため視学官の下田次郎を英米独に、女子体操研究のため女高師卒業生の井口阿くりを米国に留学させた。下田は海外留学中に女子高等師範学校教授を拝命。1900年(明治33年)女高師校長高嶺秀夫は看護法研究のため家事担当教諭の後閑菊野を東京帝国大学医科大学に聴講生として派遣した。
- ^ 東大医(1995)、65-72頁。女性名(1998)、441-442頁。後閑菊野(1866-1931)は播磨国出身の教育者。1884年(明治17年)2月東京女子師範学校小学師範科卒業。同校教諭として国語、修身、作法、家事を担当。のち東京女子高等師範学校教授。文部省高等女学校用『家事教科書』『家計簿記法』『作法教科書』、一般家政書『家事提要』『女子作法書』などを著し、文部省取調委員、教科書編集委員、視学委員を歴任。明治期家事教育の基礎作りに貢献した。1918年(大正7年)久邇宮良子が皇太子妃に内定すると、久邇宮邸内学問所教育主任に任ぜられ良子に作法、修身、家事を教育した。1924年(大正13年)桜蔭会が創立した桜蔭女学校の初代校長に選出されたが在職中に死去。
- ^ 大濱(1978)、61-63、299-318頁、大江スミ年譜より。1897年(明治30年)母校東洋英和女学校の教員を辞し23才で女子高等師範学校に入学した宮川スミは、東洋英和と女高師の雰囲気の違い、東洋英和の教育のおかげで学課については苦しまずに済んだこと、英語の授業では高嶺校長の計らいで一つ上の組に入ったこと、非キリスト教的な環境の中でじっと耐えて信仰を守ったことを記している。宮川は1901年(明治34年)3月女子高等師範学校を卒業した。
- ^ 平塚(1971)、51-55、96-100頁。平塚明は1898年(明治31年)から1903年(明治36年)まで女子高等師範学校附属高等女学校に学んだ。自伝では修身の時間のボイコットを活写する一方で、受持ちの女教師について「当時の良妻賢母思想一色の時代に、矢作先生が、主婦として母としての生活とともに、教師として長い間働きつづけられたその御苦労は、並みたいていのものではなかったろうと思いますが、そのころのわたくしたちには、そんなことは察しられもしないことなのでした。」と結んでいる。平塚は教生時代の保井コノ、体操場での宮川スミの様子についても回想しているが、安井とは接点がなく「そのころすでに女高師の先生で、舎監もしていられたのか、校内に暮らしていられたようでした。」と記した。平塚にとって安井は同じ駒込曙町に住み、誠之小学校、女子高等師範学校附属高等女学校(予科)を卒業した先輩にあたる。
- ^ 青山(1982)、78-79、82-83頁。青山なをは「官学の牙城である女子高等師範学校の当時に於て、キリスト教は危険思想であった。」「高嶺校長は師範学校の生徒の時代の安井先生に、教育者たらんとの決定的発奮を与えた人であったが、安井先生への理解が十分ではなかったように思われる節がある。」と述べているが、制度上宗教教育が禁じられていたことについては言及していない。
- ^ 女高師(1902)、明治34年(自明治三十四年四月至明治三十五年三月)122、125頁。女高師(1981)、85-87頁。“卒業記念写真帖『蘭香帖』(明治44年3月)”. お茶の水女子大学. 2011年3月9日閲覧。1897年(明治30年)の文・理・技芸科実施当初の学科目と課程は教育学が教育史・応用心理学・論理学大意・教育の原理・教授法・保育法・(学校)管理法・教育法令・教育教授法・実地練習の10課程、外国語(英語)が講読・文法・作文・習字・会話・翻訳・教授法の7課程あった。舎監は山川二葉と喜多見佐喜が務め、安井と福田米が兼任した。
- ^ 青山(1982)、80-81頁。ある卒業生は安井の英語教授について、「この時間は実に私共級友全部の待望の時間でございました。実は英語そのものよりも、その教授中、又は教授後に承る訓話が何ものにも換へがたい心の糧であつたからでございます。先生のお話の時は皆電気に打たれたやうになつて、その一語ものがすまいと傾聴したもので御座います。先生の御話はいつも真剣そのものでしたが、だんだん高潮に達して来ますとよく、『たとへば、たとへば、たとへばですネー』と仰有りはじめます。そしてこの先生の癖は、他の人の場合であつたら笑ひ出す種となるのに、先生の場合には次の言葉がまたれてしづまりかへって」と記している。
- ^ 青山(1982)、80頁。黒田チカは安井の寄宿舎での様子を「寄宿舎で日曜の夕にはキリスト教や仏教の話題が盛であつて、心豊かに学生々活を潤し楽ましめた方面は、正に先生に負ふ所多大であつたに違ひありません。また屡々開かれた寄宿舎の夜会でも、歯切れよき御口調で述べられた先生の御訓話は、母校の誇と権威とを痛感せしめ、強く胸を打つたものでした」と回想している。
- ^ 弓町(1986)、65-66、355-356頁。このころ女高師在学中にキリスト者となる学生が多いと新聞に報じられたため、宗教的な感化力が強かった安井は学内で批判されていたとする記述もある。
- ^ 安井(1935)、220頁。「私の今日に至るまで」で安井は、舎監を務めていた山川二葉、安達安子に対し「生徒の時代先生方を信頼して總てを無批判に生活して居た私は、歸朝後母校に於ける生徒指導の精神に就て疑惑を感ずる様になつて來た。そこで多年の薫陶を受けた母の如き兩舎監に對しては、有りのまゝに自分の意見を述べることもあつたが、寛大なる兩先生は私の如き者の意見にも能く耳を傾けられた。」と記している。
- ^ 弓町(1986)、47-48、59-60、783-793、917-929、933-935頁。本郷教会は海老名の下1886年(明治19年)10月の湯島に始まり、西片町、金助町、春木町、森川町、東竹町と講義所を移設しながらその規模を拡大。1898年(明治31年)3月、春木町の大火で東竹町本郷会堂が焼失したが同年4月に菊坂日本基督教会、9月にはドイツ普及福音教会本郷壱岐殿坂会堂を借りて活動を続けた。安井が洗礼を受けたのはこの壱岐殿坂会堂だったと考えられる。1901年(明治34年)11月にはその同じ通りに本郷教会壱岐坂新会堂が落成し、関東大震災まで活動の中心となった。
- ^ 青山(1982)、79-80頁。松本(1931)、64-65頁。安井は1937年(昭和12年)の手記『クリスマスの回顧』で海老名への弔辞とともに「私ハ先生ノ霊前ニ立ツタトキ、三十八年前肉体ヲ有ツテ居ラレタ先生ノ前ニ頭ヲ垂レテ洗礼を(ママ)受ケタトキノ最モ謙虚ナ最モ厳粛ナ精神状態ニ立チ戻ツタコトヲ自覚シタ。」と記しているが、1931年(昭和6年)の『私が基督敎を信ずるに至りし經路と體驗』では「併し三年有餘、英国敎會の禮拜と靜肅なる會衆とに慣れたる私は、組合敎會の禮拜と敎會生活に充分馴れない會衆とに暫くは親しみ得ないで、何となく落付かぬ氣持ちであつた。」と述べている。
- ^ 高橋(1993)、15-24頁。伊東(1969)、1-76頁。輿水(1985)、90頁。安井は欧州での体験をもとにイギリスで行われている戸外遊戯について紹介し、体育が女子に与える精神面の効果を強調した。1900年(明治33年)秋、安井は日本体育会女子部開催の第1回講演会でイギリスの女子体育について報告。これは日本体育会機関誌『体育』第86号に「英国女子の体育」として掲載され、イギリスでは女子も男子と同じく戸外遊戯を楽しんでいると述べている(高橋(1993)は『体育』第86号を明治32年刊としているが、同誌は前月第63号で廃刊した機関誌『文武叢誌』を改題し明治32年3月創刊号を第64号としているので、第86号は安井帰国後の明治33年刊であると考えられる)。また安井は1901年(明治34年)3月『をんな』に「女子の体育」を寄稿。女子にとって身体を鍛えることは精神面にも良い影響を与えると述べた。
- ^ 松原(1903)、183-191頁。1903年(明治36年)出版の『女学生の栞』では、フランシス・ダヴ(Frances Dove)、J・G・フィッチ(Joshua Girling Fitch)、サミュエル・スマイルズたちの言葉を引用し、戸外遊戯の有効性について論述した。
- ^ 西川(1901)、40-72頁。
- ^ 西川(1901)、60-66頁。
- ^ 小股(1990)、144-167頁。1901年(明治34年)1月11日付『京華日報』の記事「教育界の大怪事」を皮切りに、『日本主義』『富士新聞』が相次いで文部省修身教科書主席起草委員中島徳蔵の教育勅語撤回論提出について報じた。これは根拠のない捏造で、文相松田正久は同年3月の第十五帝国議会衆議院で事実無根と答弁した。しかし5月31日付で中島は起草委員を辞任。中島に替わって吉田熊次が委員に加わった。中島は西洋倫理学を専攻とし、井上哲次郎の教えを受けた国家主義者と目されていたが、こうした人物でも保守派の標的となった。翌年6月5日付『日本』は麻布中学校校長江原素六が教育勅語の変更を企てているとしたが、翌日の『東京日日』は江原が論じた実際の内容を掲載し、騒動は収束した。
- ^ 女高師(1904)、明治36年(自明治三十六年四月至明治三十七年三月)207-208、211頁。明治36年6月末時点で舎監を務めていたのは山川二葉、喜多見佐喜。安井と家事教諭の平野のちが兼任した。安井はヒュースに随行し長期にわたり東京を離れることになるが、その時期も舎監職を解かれなかった。
- ^ 貝出(1974)、49-51、55-61、119頁。青山(1965)、人名索引11頁。上(1980)、86-91頁。御木本(1961)、173-175頁。源氏(1980)、85-86頁。安井が野口と同居した事情については青山(1982)に記述がない。1900年(明治33年)6月野口は文部省から3年間のアメリカ留学の内命を受けたが持病の悪化により断念した。それ以前から野口は御木本幸吉の次女みね、三女よう、四女あいなど四、五人の子どもを自宅で預かって教育していたため、安井が舎監職を辞して助けた可能性がある。御木本の妻うめは1896年(明治29年)4月に死去。このとき長女るい14才、みね11才、よう9才、あい7才、長男隆三は2才だった。みねは1901年(明治34年)女子高等師範学校附属高等女学校を卒業。御木本は二葉幼稚園の有力な後援者となった。
- ^ 青山(1982)、81頁。青山(1965)、104、114頁。白井(1995)、101-106頁。礒部(2006)、8-16頁。上(1980)、30頁。安井と野口が住んだ家は麹町区下二番町二十六番地か。安井から野口への書簡の宛先は1899年(明治32年)4月21日付けが麹町区下二番町二十六番地、同年9月11日付けが麹町区下二番町七十番地。1904年(明治37年)1月28日付けが麹町区元園町一丁目二十七番地。ヒュースから成瀬仁蔵への書簡の発信元は、1901年(明治34年)11月付けが麹町区平河町六丁目22番地、翌年9月付けが麹町区下二番町26番地。またヒュースは1901年(明治34年)12月に平河町のミス・カー宅、翌年4月には麹町区下二番町26番地の安井てつ宅2階で取材を受けている。青山(1982)は「ミス・ヒュースは三十四年十月に来朝し、一年半ほど先生と同居した。元園町の二階建の家でミス・ヒュースは二階の八畳に、安井先生は六畳に、階下には野口先生と生徒七、八人がいた。」としている。
- ^ 湯川(2007)、21-43頁。東(2001)、36-51頁。フレーベル会は1896年(明治29年)4月、東京市内の幼稚園関係者による保育法研究会と、女子高等師範学校附属幼稚園の保姆会が合同して結成された保育研究団体。会長には女子高等師範学校校長の秋月新太郎が就任。評議員に中川謙二郎、小西信八ら、幹事に女子高等師範学校教授の加藤きん、同附属幼稚園の保姆3名のほか野口ゆかと森島みねも加わった。また客員には細川潤次郎、嘉納治五郎、高嶺秀夫らを迎えている。結成から3年間は幼稚園批判に対する保育研究の必要性の追求、幼稚園制度や保姆養成機関の整備について議論された。活動報告や研究結果ははじめ『教育壇』誌上に掲載され、『教育実験界』が引き継ぐ。1900年(明治33年)には東基吉が中心となって機関紙の発行準備にとりかかり、翌年1月に『婦人と子ども』を創刊した。東によれば野口は東の妻くめが瀧廉太郎とともに生み出した童謡を好み保育に取り入れていたという。
- ^ 宮田(1993)、139-149頁。山内(2010)、87-91、106-107頁。“お茶の水女子大学教育・研究成果コレクション TeaPot”. お茶の水女子大学. 2011年5月30日閲覧。安井は明治34年1月創刊の『婦人と子ども』第一巻第一号、第二号で「システイーとドミノー」の翻訳。第三号、第四号で「英国幼稚園の状況」、翌年の第二巻第一号で「子供と天然」を著した。「子供と天然」で安井は「天然を愛し、動植物を友とする者は、情が深く、いたずらに草木を傷つけ、虫魚を苦しめる者は、ついには人の生命をも軽んずる様な恐ろしい者とならぬとは申せません。」と指摘し、第二号では野口幽香が「私は植物乃至は天然を樂しむといふことを、おすゝめしたいのであります、(中略)そこらにある名も知れぬ草花や、路ばたに踏まれながら、尚咲いてる野菊の一輪を見て、無上の樂と感ずるといふ風にしたいのであります」と記した。二人は栽培や飼育を通じた自然との触れ合いの重要性を説いた。
- ^ 柴田(1956)、176-185頁。続木斉(1881-1934)は京都の老舗パン店進々堂の創業者。1881年(明治14年)愛媛県野田村で出生。18才のとき神戸に出て鈴木商店に勤めた。学資を貯めると上京し外国語学校の英文科へ通う。仏、独語を学び詩作に没頭した。このころ内村鑑三の門に入りそこで進々堂の創始者鹿田久次郎と知り合う。1908年(明治41年)久次郎の妹ハナと結婚。1913年(大正2年)社会主義運動に傾倒した久次郎から店を譲り受けた。第一次世界大戦と米騒動が追い風となり経営が安定すると、1924年(大正13年)フランスに留学。3年後に帰朝し本格的なフランスパンの製造にのり出した。1930年(昭和5年)京都帝国大学前にカフェ進々堂を開業。現在は黒田辰秋制作の調度品を備えたベーカリーカフェとして知られる。
- ^ 東女比(1969)、1-2頁。貝出(1974)、57-61頁。東京女子大学比較文化研究所の野口文書は1902年(明治35年)2月23日から翌年の5月16日にかけて野口幽香が続木斉宛てに送った40通、差出日不詳のものを含めると68通の書簡を所蔵する。貝出(1974)の引用からは、自らの信仰と貧児保育の現実の葛藤が表されている。野口は続木を通じ内村鑑三に向けて心情を吐露したとも考えられる。当時内村は『萬朝報』の客員、『聖書之研究』『無教会』の編集を務めており、22才の続木は書生として教えを受けていた。また、不敬事件で知られた内村に直接書簡を送ることは、華族女学校附属幼稚園保姆の野口にとって憚られる行為だったのかもしれない。野口文書の中には安井から続木に宛てた1902年(明治35年)1月29日の葉書がある。
- ^ 貝出(1974)、57頁。
- ^ 貝出(1974)、40-41、56頁。東女比(1969)、43頁。青山(1982)、79頁。弓町(1986)、67頁。貝出(1974)によると、野口幽香は海老名弾正に届けを出し転会しているがその時期ははっきりしない。野口文書に所蔵されている本郷基督教会報告は明治27年5月までで、華族女学校附属幼稚園に勤めてからは本郷教会から次第に離れた。1898年(明治31年)3月、野口と森島みねは当時通っていた一番町教会の宣教師ミス・デントンに、貧児のための慈善幼稚園設立の協力を求めた。一方で青山(1982)は、安井が野口に導かれ1900年(明治33年)12月に本郷教会で受洗したとする。また、1901年(明治34年)11月に組合教会婦人会が中心となって設立した看護(病)婦会の創立委員には野口が加わっている。野口は両教会の活動に関わり、同年の植村・海老名キリスト論論争の後に正式に届けを出したとも考えられる。野口は海老名弾正、綱島佳吉を経て植村正久から教えを受けた。
- ^ 手代木(2007)、27-46頁。植村正久は讃美歌の普及に業績を残した。1883年(明治16年)11月の『東京毎週新報』第16号に日本人最初の讃美歌論「讃美歌編輯の事を記す」を寄稿。1888年(明治21年)5月出版の「新撰讃美歌」では編集の中心を担った。これは訳詞のみ286曲を収めたものだったが、1890年(明治23年)12月には完全な洋本装丁の譜附改訂版が出た。「新撰讃美歌」は文学史においても近代詩への試みを続けていた当時の詩壇に影響を与えたとされる。また植村が多数執筆した讃美歌に関する記事は、「植村正久と其の時代」などの全集に収められ当時の状況を知る手がかりとなっている。一番町教会で多くの讃美歌に出会った野口は、その影響を受けた唱歌を保育に取り入れていた。
- ^ 内村(1981)、128-132頁。内村鑑三は1902年(明治35年)4月20日付『聖書之研究』第20号で「余の特愛の讃美歌」序文とその筆頭として『世々の磐』の解説、その意訳を紹介している。
- ^ 宍戸(1990)、41-49頁。宍戸(1991)、40-61頁。松本(2007)、53-76頁。“二葉保育園100年のあゆみ”. 社会福祉法人二葉保育園. 2011年8月2日閲覧。1900年(明治33年)1月麹町区下六番町二七番地に開園した二葉幼稚園は、同年8月麹町区土手三番町七番地に移転。1902年(明治35年)借家の権利をめぐって家主と衝突すると、同年5月下六番町四八番地に移った。引用した書簡の「二葉の家の返事…」はこの移転が決まった様子を表している。当時園児は40名余りおり、四八番地の園舎は手狭だったという。1906年(明治39年)3月四谷区元鮫河橋六六番地に3回目の移転。東京三大貧民窟の一つとされた地に446坪の敷地と110坪の建物を借り、今日に続く保育活動が始まった。
- ^ 礒部(2006)、12-13頁。ヒュースは安井宅をしばしば訪れている。視察旅行前の4月24日、ヒュースは麹町区下二番町26番地の安井てつ宅2階で『萬朝報』記者河越輝子の取材を受け、記事は「ヒユウス嬢を訪ふ(英国女学生の学生生活)」として4月27日付け『萬朝報』第3090号に掲載された。また帰京後石川栄司宛てに送った書簡は麹町区下二番町26番地の安井宅から出されている。
- ^ 礒部(2006)、10頁。丹沢(2005)、43-56頁。平田(2000)、142-144頁。礒部(2006)によれば、八雲は講義中無断で参観していたヒュースに気付かず、教場を出る時握手を求められ驚いて本を1冊落としたまま自宅へ帰った。ヒュースは本を届けに安井とともに牛込富久町の八雲宅を訪れ、無断で聴講したことを詫びたが、黒い服を着ていたヒュースに八雲は強い不信を抱く。息子一雄もこのとき見た「黒衣の女」ヒュースと「馬鹿にSの音に力をいれて会話をする唇の厚い」安井に好感を持つことはなかった。後日八雲はヒュースが妻セツを日本女子大学校で催される茶会に招待したことを知り激高。1903年(明治36年)1月東京帝国大学文科大学学長井上哲次郎から解雇通知を受けた八雲は、その理由をヒュースが当局のスパイとなって自分を中傷したためと思い込んだ。同年8月ヒュースはイギリスで八雲帰国の噂を耳にし、出版社を通じ弁明の手紙を送っている。
- ^ 田部(1980)、139-140、253-255頁。關田(2003)、107頁。関田(1999)、34-35、62-63頁。八雲の伝記の多くが井上学長の後年の証言に拠り、ヒュースは安井に案内され参観したとする。田部(1980)は本文で「英国の女子教育家ミス・ヒューズ女史(ウエールスの人)が来て日本の教育を視察したが、ヘルンの名声を慕うて安井哲子女史を案内とし文科大学に赴きその講義をきいた。」と記したが、余録”ヘルンと井上博士”の節ではヘルンに関する井上の記事には所々誤りがあると指摘している。田部はこの中で「これも井上博士の説によれば、この案内者は安井哲子女史であったが、ヒューズ女史が、ヘルンに無案内で教室へ入ることはよくなかろうと言ったが、安井女史は独断で無断で入ったのだそうだ。」と伝聞調で表した。關田(2003)は井上の『巽軒日記』を調べ、明治34年11月13日部分にヒュース来訪の記述を見つけたが、そこに安井の名は記されていない。
- ^ 礒部(2006)、13頁。6月14日日本赤十字社千葉支部篤志看護婦例会に出席。その後医学専門学校、千葉病院を巡覧した。15日千葉県師範学校と近隣の中学校、高等女学校を訪問。梅松楼別荘で開かれた千葉町子守教育所解散報告会に出席し、「英国の『スヰートホーム』に就て」と題し演説。東京裁縫女学校校長渡辺辰五郎も招かれ、来場者は4、500名に達した。7月5日帝国教育会英語授業法講演会で、神田乃武男爵の「英語授業法」に次いで「英語教授」と題し講演。通訳は本田増次郎が務めた。語学教育で黒板画を応用すべきと発言している。600余名が来場した。夕刻にはヒュース嬢送別茶話会(晩餐会)が催され、辻新次会長、菊池大麓文相、久保田譲、本多庸一ほか90余名が出席した。
- ^ 礒部(2006)、13-14頁。7月12日安井が随行して東京を発ち同日夜福島に着く。13日福島県会議事堂で演説し、県庁と監獄を訪問。14日福島高等女学校、福島第一尋常小学校、福島第二尋常小学校、福島県師範学校、福島県立蚕業学校、植物試験場を参観。夜には師範学校女子部の茶話会に招かれた。15日中学校を参観した後仙台に移動。16日宮城県高等女学校、仙台女学校、宮城県師範学校等を参観した後県庁を訪問。17日県立宮城県第一中学校、松操学校、仙台市立東二番丁尋常高等小学校を参観。旅館で里見良顕仙台市長の訪問を受けた。午後県会議事堂で開かれた講話会で登壇。来場者は1000名余に及び急病人も出た。夜『河北新報』の取材を受け、「ヒユース嬢と語る」として18日付同紙第1817号に掲載された。18日松島に向け出発。以後は休暇旅行に切り替えたため詳しい行動はわかっていない。
- ^ 礒部(2006)、14-15頁。育成会主幹石川栄司宛ての書簡で、北海道、富士山、浅間山、飛騨、信州を訪れたと述べている。仙台の後は金華山、松島、盛岡、青森を経て小樽から札幌に入ったとみられる。札幌では北星女学校のサラ・クララ・スミスと面会した可能性がある。8月にはヒュースと安井、友人らで富士山と浅間山に登った。1ヶ月余りの休暇の後、8月25日松本大名町聖公会講義所(現日本聖公会中部教区松本聖十字教会)で「国民教育制度の要素」と題し演説。26日松本高等女学校講堂で「西洋の女子教育」と題し講演した。
- ^ 礒部(2006)、15頁。10月16日安井とともに東京を発つ。17日あるいは18日和歌山中学校を訪問し、その後和歌山県師範学校といくつかの小中学校を視察した。20日神戸に移動。21日兵庫県姫路師範学校、姫路城を見学。同日岡山に移動。岡山では門田屋敷のアリス・ペティ・アダムス宅に宿泊。22日石井十次の岡山孤児院、山陽高等女学校、第六高等学校、岡山県師範学校、岡山県立工業学校を視察した。夜アダムス宅で『山陽新報』の取材を受け、「ヒユース嬢を訪ふ」として10月26、28日付同紙に掲載された。このときの通訳はエドワード・ガントレットか妻のガントレット恒子が務めた。23日岡山県女子師範学校、岡山県立岡山高等女学校、岡山医学専門学校、岡山県立商業学校を視察。さらに岡山中学校を参観した後「教育の目的に就て欧州教育思想史の発達」と題し講話を行った。夕方広島に移動。広島では私立英和女学校のナニ・B・ゲーンス(Nannie B.Gaines)宅に宿泊。
- ^ 礒部(2006)、15-16頁。10月24日広島高等師範学校、広島県立広島中学校、広島県立広島高等女学校、広島県立職工学校を参観した。25日広島県師範学校、広島偕行社附属済美小学校を視察。宮島、厳島を遊覧し山口へ向かった。26日山口県立山口中学校で講談会。湯田温泉に投宿。27日山口の各学校を視察。山口県師範学校で開かれた山口婦人会例会で講話。夜半に福岡入りした。28日福岡県師範学校、福岡県立中学修猷館、福岡県福岡工業学校を参観した後福岡市立福岡高等女学校で演説。安井が通訳を務め、400名余が来場した。29日福岡高等女学校を参観した後、熊本に向かう。熊本でヒユースはハンナ・リデル方、安井は櫻井房記第五高等学校校長宅に宿泊した。阿蘇登山、陸軍大演習の見学を希望している。30日第五高等学校で英語教師のため教授法について演説した。また同校職員生徒のための演説も別に行った。11月2日野球大会を観覧。8日米ノ津から海路鹿児島に向かう。
- ^ 礒部(2006)、16頁。11月9日鹿児島県師範学校で談話と問答の後図書館などを視察。岩崎谷洞窟、西郷隆盛終焉の地、仙巌園、田の浦陶器所などを見学。風景楼で晩餐を供せられた。10日鹿児島県中学造士館、鹿児島県師範学校、鹿児島女子徒弟興業学校などを参観。夕方海路長崎へ移動。11日午後『東洋日の出新聞』の取材を受ける。通訳は安井が務めた。12日長崎県立長崎高等女学校、西山女児高等小学校、長崎県師範学校、三菱工業予備学校、実業補習学校を見学。13日交親館で「本邦の女子教育につきて」と題し演説した。通訳は鎮西学館の吉崎彦一が務めた。14日佐賀に向かう。15日佐賀県師範学校、私立成美高等女学校、佐賀県立佐賀高等女学校を参観し、高等女学校で演説する。16日福岡に移動。18日門司に入り投宿。
- ^ 礒部(2006)、16、18頁。11月19日門司から小倉へ移動。福岡県立小倉高等女学校、高等小学校を参観。ジェームズ・ハインド宣教師宅で昼食をとる。福岡県立小倉工業学校で演説した後小倉城を見学し、足立炭鉱を視察した。同日門司に帰る。20日深夜から21日未明、上海に向かう日本郵船株式会舎の客船若狭丸で出国。離日後のヒュースは中国、マレー、インド、エジプト、キプロスを経由して1903年(明治36年)5月末か6月初めに帰国した。
- ^ 青山(1982)、81-82頁。資料が残されていなかったため、青山なをは視察旅行の内容に代えて黒田チカ、保井コノらの回想を元に当時の安井の姿を描写している。
- ^ 阿部(2002)、54-67頁。周(2000)、40-44頁。1896年(明治29年)駐日公使裕庚が本国で募集した業務補助員13名の来日が留学の嚆矢とされている。外相兼文相の西園寺公望はその教育を高等師範学校校長嘉納治五郎に一任した。当時日本には海外留学生を受け入れる学校や法令が整備されていなかったため、嘉納は自宅近くに民家を借り高等師範学校教授本田増次郎を主任として教育に当たらせた。1898年(光緒24年)4月清国湖広総督張之洞が『勧学篇』を著し日本留学と日本書籍の翻訳を推奨。同年5月駐華公使矢野文雄は総理衙門に200人を限度として日本政府が中国人留学生の教育とその費用を負担する提案をしたが、外相西徳二郎の承認は得られなかった。同じ1898年(明治31年)日本では東京帝国大学教授高楠順次郎が日華学堂を創立。参謀本部次長川上操六は校長を兼務していた成城学校に留学生部を開設した。この年清国留学生は約270人に増加。嘉納の私塾は翌年10月に亦楽書院と命名され、本田に替わり三矢重松が主任となった。
- ^ 深澤(1988)、41-52頁。阿部(2002)、64-65頁。“横浜山手中華学校”. 学校法人横浜山手中華学園. 2011年11月20日閲覧。“神戸中華同文学校”. 学校法人神戸中華同文学校. 2011年11月20日閲覧。1898年(明治31年)2月横浜で華僑の子弟を教育するための横浜大同学校が創立され、康有為の推薦で徐勤が校長に就任。翌年には東京高等大同学校、神戸中華同文学校が創立され、両校の校長には梁啓超が就任。犬養毅はこれら3校の名誉校長となり協力した。横浜大同学校は関東大震災で全壊。後を継いだ中華公立学校は横浜大空襲で全焼。戦後横浜中華学校が設立され、1957年(昭和32年)に横浜山手中華学校と改名された。
- ^ 阿部(2002)、41-51頁。留学生の増加とともに清国での日本教育の研究も進んだ。湖広総督張之洞の命で渡日した姚錫光(姚錫光)は1899年(光緒25年)報告書として『東瀛学校挙概』を提出。留学生監督として来日した夏偕復(のち中華民国駐米公使)は1901年(光緒27年)『学校芻議』を刊行。考証学者羅振玉は同年5月中国初の教育専門雑誌『教育世界』を創刊。日本からは藤田豊八や『教育時論』主筆辻武雄が協力した。翌年には張之洞と両江総督劉坤一の依頼で渡日し『扶桑両月記』を刊行。また劉坤一の命で渡日した李宗棠は『攷察学務日記』を出版し、日本の教育事情を伝えた。京師大学堂総教習に要請された呉汝綸は就任前の1902年(光緒28年)に来日し、文部省で19回にわたる特別講義を受けたほか、文相菊池大麓、山川健次郎、辻新次などの教育家たちと意見を交換した。帰国後これらの内容を詳細な報告書『東遊叢録』として刊行し、中国の教育関係者に強い影響を与えた。
- ^ 実践(2001)、43-114頁。周(2000)、55-68頁。1895年(明治28年)8月欧米教育視察から帰国した下田歌子は、翌年5月に華族女学校学監に復職し常宮・周宮御用掛を拝命。両内親王の小学科教育に取り組んだ。1898年(明治31年)11月には帝国婦人協会を設立し会長に就任。さらに帝国婦人協会の教育事業として1899年(明治32年)5月私立実践女学校と私立女子工芸学校を開校し、両校の校長を務めた。実践女学校は修業五ヵ年で、その設立目的を学則第一条に「本校は本邦固有の女徳を啓発し日進の学理を応用し勉めて現今の社会に適応すべき実学を教授し賢母良妻を養成する所とす」と掲げた。女子工芸学校の修業年数は本科三ヵ年、専科二ヵ年。設立目的は「本校は女子に適当なる工芸を授け併せて修身斉家に必要なる実業を修めしめ能く自営の道を立つるに足るべき教育を施す所とす」とした。
- ^ 実践(2001)、115-121頁。阿部(2002)、66-67、97-105頁。村上(2008)、137-156頁。下田は留学生との意思疎通を図るため教員たちとともに当時東京専門学校の学生だった戢翼翬(戢翼翬)から中国語を学び、近衛篤麿、犬養毅、張之洞、孫中山とも親交を結んだ。1901年(明治34年)には帰国した戢翼翬と辺見勇彦が上海に作新社を興し、雑誌『大陸』を発刊したほか、下田の『家政学』や成瀬仁蔵の『女子教育論』などの翻訳出版を始めた。また1903年(明治36年)には清藤秋子、棚橋絢子らとともに東洋婦人会を結成し、清国に派遣する女性教師を養成した。
- ^ 福島(1992)、解説1-5頁。阿部(2002)、191-197頁。実践(2001)、117頁。河原操子(1875-1945)は松本藩の藩儒を務めていた父の教えを受けて育つ。女子高等師範学校に学んだが病気のため中退し長野町立長野高等女学校で教鞭を執る。1900年(明治33年)9月下田の推薦で横浜大同学校に赴任。さらに1902年(明治35年)上海に務本女学堂(务本女塾)が創立され、下田は同年8月河原を派遣した。河原の活動は上海総領事小田切万寿之助、清国北京公使内田康哉の知るところとなる。1903年(明治36年)12月、蒙古喀喇沁(カラチン)王家の教育顧問となり、王妃の協力を得て毓正女学堂を創立した。日露戦争中は「沈」という偽名で諜報活動を行い脇光三らを支援した。終戦後も喀喇沁で教育に従事し1906年(明治39年)2月に帰国。横浜正金銀行ニューヨーク副支店長一宮鈴太郎と結婚。同年10月に渡米し1921年(大正10年)までアメリカで過ごした。
- ^ 周(2000)、55-56、85頁。実践(2001)、115-121頁。成田(1998)、174-188頁。1901年(明治34年)秋、就学目的では初めての女子留学生銭豊保が入学し、実践女学校は受け入れ体制を整えていく。中国女性初の日本留学生は浙江省鄞県(現寧波市)出身の金雅妹(金雅妹)(1864-1934)。3才で父母を亡くし父の友人だったアメリカ人宣教師ダイヴィー・ベスン・マッカーティー(Divie Bethune McCartee)の養女となる。9才のとき来日。日本で初期教育を受け、18才でアメリカに渡り医学を学んだ。中国で初めて西洋医学を修めた女医とされている。1899年には9才の夏循蘭が来日し華族女学校に学んだが、1903年には帰国している。
- ^ “我が国の留学生受入れ制度100年の主なあゆみ”. 文部科学省. 2012年5月2日閲覧。厳(2009)、1-19頁。1899年(明治32年)日華学堂で教育を受けた8名の清国官費生が第一高等学校の聴講生となり、その取扱いが問題とされた。1900年(明治33年)7月、文部省は「文部省直轄学校外国依託生ニ関スル規程」を発布し、外務省推薦の依託外国人学生の取扱いを定めたが、この規程による留学生の入学はなかった。翌年11月、文部省は適用範囲を留学生一般にまで広げた「文部省直轄学校外国人特別入学規程」を発布。同年には清国39名、インド15名、アメリカ3名、フィリピン1名の計58名が、東京帝国大学、東京高等商業学校などの文部省直轄学校に入学した。
- ^ 平田(1997)、90-96頁。1903年(明治36年)上海在住の国際キリスト教協会委員会在外幹事ロバート・E・ルイス(Robert Ellsworth Lewis)は、明治学院第2代総理井深梶之助や在日宣教師たちの協力を得て『極東における教育上の征服』("The Educational Conquest of the Far East")を著した。同書は西洋人による日本教育史研究の先鞭をつけたとされる。同年九州、四国で伝道を進めていたアメリカン・ボードの宣教師シドニー・ギューリック(Sidney Gulick)は、『日本人の進化 -社会的・精神的側面について-』("Evolution of the Japanese; Social and Psychic")を出版。日本人の国民性や宗教を分析した。ギューリックは1906年(明治39年)から同志社大学神学部教授となり、神学のほか進化論や科学概論を講義。のち京都帝国大学で比較宗教学を論じ、大阪梅花女学校でも教鞭を執る。アメリカ移民問題に発した排日運動に反対するなど、日米親善に貢献した人物として知られる。
- ^ 平田(1997)、97-110頁。シャープ(1993)、421-440頁。1904年(明治37年)イギリスの記者アルフレッド・ステッド(Alfred Stead)は、『日本人の日本論 -最高権力者による概説-』("Japan by the Japanese: A Survey by its Highest Authorities")を出版。これは伊藤博文、山県有朋など39名の官民有力者が執筆したさまざまな分野の解説をステッドが編纂したものである。教育分野では大隈重信、沢柳政太郎、末松謙澄らが協力した。ウィリアム・H・シャープ(William Hastings Sharp)はインド総督府の命を受け同年4月から半年間日本各地の教育事情を視察調査。2年後に『日本の教育システム』("The Educational System of Japan")(『ある英国人のみた明治後期の日本の教育』行路社、1993)を刊行。教育勅語を基礎とする日本の道徳教育の現状とその限界について指摘した。ヒュースは報告書や旅行記を著さなかったが、八雲がヒュースをイギリス当局のスパイと誤解したことには、当時こうした日本研究が始まっていたという背景がある。
- ^ 石井ほか(1987)、116-122、129-135、153-157頁。小山(1999)、156-168頁。稲垣満次郎(1861-1908)は肥前国松浦郡平戸出身の外交官。佐賀と鹿児島の私学校に学んだ後長崎監獄で看守見習を務めた。東京の旧藩主松浦家の書生宿泊所で菅沼貞風、浦敬一たちと知り合う。開成学校を経て東京大学に学ぶが、明治十六年事件で退学処分を受け、復学せず当主の長男松浦厚のイギリス留学に随行。1886年(明治19年)10月からケンブリッジ大学に留学しジョン・ロバート・シーリーに影響を受けた。1890年(明治23年)、"Japan and the Pacific ,and a Japanese View of the Eastern Question",1890(London: T.Fisher Unwin)を著し、帰国後同書を『東方策第一編』(活世界社、1891)として出版した。外交問題に関する著作のほか弁舌にも優れ、東邦協会では幹事長に選ばれた。1897年(明治30年)から1905年(明治38年)まで初代駐シャム公使。1907年(明治40年)特命全権公使としてスペインに赴くが、翌年マドリッドで病没。
- ^ 香川(2002)、310-321頁。政尾藤吉年譜より。政尾藤吉(1870-1921)は伊予国喜多郡出身の法律家。慶応義塾、同人社、東京専門学校に学び、海軍兵学校、広島英和女学校の英語教師となり、関西学院神学部を経て1891年(明治24年)渡米。ヴァンダービルト大学神学部で終了証を得た後法律家を目指した。ウエストバージニア州立大学(West Virginia State University)ロー・スクールを卒業後、1895年(明治28年)9月イェール大学ロー・スクールに入学。翌年助手に採用。1897年(明治30年)6月民事法博士号を取得。同年10月稲垣満次郎公使の招請でシャム国に赴任。翌年から総務顧問ギュスターブ・ロラン=ジャックマンの補佐となり刑法の作成に加わる。1901年(明治34年)司法顧問、1905年(明治38年)直訴裁判所裁判官に就任。1913年(大正2年)9月帰国。1915年(大正4年)衆議院選挙に立憲政友会から出馬し当選。2期5年務めた後、1920年(大正9年)12月シャム特命全権公使を拝命。翌年2月に着任するが同年8月脳溢血のため死去した。
- ^ 石井ほか(1987)、146-149、176-192頁。1902年(明治35年)3月農務省は蚕業局を新設し農学博士外山亀太郎を技師長に迎えた。以後のべ18人の養蚕技術者がシャムに渡ったが、1912年(明治45年)蚕病の流行と不採算のため蚕業局は廃止。しかし外山たちがバンコック市内のパトゥムワンに設立した養蚕学校は、地図局、運河局の学校との統合を経て農務省学校となり、今日カセートサート大学(Kasetsart University)として存続している。
- ^ 多賀(1975)、559-598頁。1880年、チュラーロンコーン国王から近衛兵隊指揮官に任ぜられたダムロン親王は、翌年9月近衛兵幹部学校を開校し近侍兵やエリート文官を育成した。1887年、国王は教育局を創設。ダムロン親王を局長とし地方の教育改革を図るが、庶民には新しい教育の意義が浸透しなかった。1892年4月、ダムロン親王は新内閣の内務大臣となり教育行政から離れる。文部大臣となったチャオプラヤー・パッサコーラウオングは実績ある官僚だったが、王族ではなく宮廷内での発言力は弱かった。1898年9月、国王は当時僧籍にあったワチラヤーン親王(Vajirananavarorasa)を地方教育の責任者、ダムロン内相を補佐とし、文部省に代わってサンガが地方初等教育を主導する方針に転換した。しかしこれも近代的な教育を受けた僧が不足していたため行き詰まる。1902年4月、ワチラヤーンはサンガ主導の教育計画の矛盾と限界を国王に訴えた。
- ^ 石井ほか(1993)、203-204頁。日タイ(2009)、241頁。ダムロン親王(1862-1943)はチュラーロンコーン国王の異母弟。国王の側近としてタイ内政の近代化に貢献した。1880年の近衛兵隊指揮官、1887年の教育局局長を経て1992年内務大臣に就任。1897年内務省の下にモントンを最大単位とする地方行政組織を完成。中央集権に反発した騒乱には断固とした対応を示した。1910年国王の崩御とともに政界を引退。以後生涯を通じ学術研究の基礎整備に尽くした。1915年国立図書館の館長に就任。後に国立博物館の整備も行っている。歴史、考古学、芸術などに多くの著作を残したほか、古文書を収集編纂し基礎文献を刊行。「タイ歴史学の父」と呼ばれた。1923年政界に復帰。1925年プラチャーティポック国王の最高顧問となるが、1932年の立憲革命で失脚しペナン島に逃れる。1942年帰国を許され翌年バンコクで死去。ダムロン親王の歴史観は長年タイの学校教育に影響を与えていたが、近年その見直しが行われている。
- ^ 石井ほか(1993)、365-366頁。日タイ(2009)、424頁。多賀(1975)、585-597頁。ワチラヤーン親王(1860-1921)はチュラーロンコーン国王の異母弟。サンガ組織の近代化を進め、僧侶の教育制度を整備した。1879年タンマユット派(Dhammayuttika Nikaya)の指導者パワレート親王の下得度を受け僧となる。パーリ語経典の学習に専心し、1881年僧階試験に合格。1891年ワット・ボーウォーンニウェート(Wat Bowonniwet Vihara)の住職となる。1893年にはマハーマクット仏教大学(Mahamakut Buddhist University)を創立した。1898年4月に上奏された教育問題に対する駐英大使プラヤー・ウィスットスリヤサックの意見書を全面的に支持。同年11月には国王がサンガ組織の近代化と地方初等普通教育への参画を布達した。ワチラヤーン親王は以後3年半にわたって教育の普及に尽力するが、資金と教員の不足で行き詰まり1902年地方教育の責任者から離れる。1910年には最高位のサンカラート(Sangharaja)となり全国を行脚してサンガ統治の徹底に努めた。
- ^ 多賀(1975)、593-601頁。1902年4月、文部大臣チャオプラヤー・パッサコーラウオングが国王に辞表を提出。国王は人事を刷新し、文部省はプラヤー・ウッティカーンボディを大臣、ダムロン親王を顧問、プラヤー・ウィスットスリヤサックを教育局長とする新体制となる。また同年6月にはラタナコーシン暦121年サンガ統治法("The Sangha Act of 1902")を公布。サンガ組織を法律の下に置き、地方教育を含むその役割を規定した。これによりワチラヤーン親王は正式に地方教育責任者の職を解かれた。
- ^ サヤマナン(1977)、249-252頁。多賀(1975)、622頁。村田(2007)、121-124頁。石井ほか(1987)、165頁。ブワアンポン(1990)、87頁。ワチラーウットは13才から21才までの8年間イギリスに留学。英語と軍事の基礎教育の後、サンドハースト王立陸軍士官学校、王室ダーラム軽歩兵隊(Durham Light Infantry)で陸軍将校としての訓練を受けた。さらにクライスト・チャーチで政治経済と地理学、歴史を学び、射撃学校にも通っている。1902年10月にイギリスを離れ2ヶ月間アメリカを視察。ルーズベルト大統領と面会した。日本では明治天皇を公式訪問。滞在中は芝離宮へ案内された。1月14日の離日のあとは香港経由で同月29日帰国した。皇太子の日本視察にはプラヤー・ウィスットスリヤサック教育局長のほかクン・アヌキット・ウィトゥーン教育視学官、ナーイ・オーンサーリッカブット教育視学官の2名が同行。プラヤー・ウィスットスリヤサックは1903年4月17日付けで視察報告書をシャム国文部省に提出した。
- ^ 阿部ほか(1981)、261-283頁。チャオプラヤー・プラサデットスレーンタラーティボディー(เจ้าพระยาพระเสด็จสุเรนทราธิบดี)(1867-1917)はシャムの教育官僚。本名はピヤ・マーラークン。1885年ダムロン親王の勧めでスワンクラープ校(Suankularb Wittayalai School)に入学し1年で修了。1887年ダムロン親王の下教育局に任用。1892年内務大臣秘書官。1893年ワチラーウット皇太子の後見人として欧州留学に同行。この間外交官を兼任し1898年ごろ在英大使。欧州を視察した国王の命により、1898年4月本国の宗教省に意見書を送付し国内教育全体の底上げと優秀な人材の選抜を提言した。これは同年に発布された教育制度に反映された。1902年教育局長、1904年文部次官、1912年文部大臣を歴任。以後1915年まで教育制度改革に携わる。また『医者の倫理』『良き国民』などの教育書を著し、広く国民を啓蒙したことで知られる。
- ^ 阿部ほか(1981)、282-283頁。石井ほか(1987)、165頁。ルワン・パイサーンシンラパサート、プラ・モントリーポッチャナキット、プラヤー・ウィスットスリヤサック、チャオプラヤー・プラサデットスレーンタラーティボディーは同一人物である。1932年の立憲革命まで、タイでは一定の職位以上の官吏になると国王から爵位と欽賜名を授かり、本名は使用しなかった。1902年(明治35年)12月に来日したワチラーウット皇太子を出迎えた教育局長はプラヤー・ウィスットスリヤサックだったが、赤木功が著したこの人物の伝記は「チャオプラヤー・プラサデット」と題され、石井ほか(1987)ではルワン・パイサーンシンラパサートが出迎えたとしている。
- ^ 平松(2008)、107、114頁。石井ほか(1987)、149、166頁。1880年にスナンターライ校、1896年にサオワパー学校が設立されたが、西洋の教育の影響が根強く、周囲が求める良妻賢母型の女性に育たなかったとされる。
- ^ ブワアンポン(1990)、88-90頁。平松(2008)、107、112頁。王妃はこの2年前から日本に留学生を派遣する計画を持っていたが、多忙のため人選などの準備が遅れた。平松(2008)によれば、開設の根拠となったサオワパー王妃の理念は『「男性の後塵をはるかに拝していた」当時のタイの女性に「外国諸国における女性に匹敵する文明へと至る知識を得る機会を開く」』だった。しかしラーチニー女学校に取材し、実際には理念と異なる「クンラサトリー(良家の婦人)」を目標の女性像としていることを明らかにした。タイ最初の本格的な女子教育を目指したラーチニー女学校がその方針を転換した理由について平松は、安井ら日本人教師のタイ語能力の欠如、女子教育に関心のないタイ社会、女性に男性と同じ教育の必要を認めないダムロン親王を始めとする政府高官の女性観によるものとしている。
- ^ 香川(2002)、90、105-106、110-111、284頁。1903年5月3日バンコックを出発。政尾一家は藤吉、妻光子(1883-1970)、4才の長女千代子、生後2ヶ月の長男一郎の4名。一郎は洋上で死亡した。光子は九鬼隆一、波津子の長女で、こののち次男隆二郎、次女久子を生む。子どもに日本の教育を受けさせたため、千代子の学齢期以降は、藤吉は家族を日本に残し単身シャムで働いた。
- ^ 香川(2002)、110-113、122頁。外務省留学生1名と皇后奨学金を受けた男女各4名が来日。慶応義塾に学んだ外務省留学生を除く8名は、文部省直轄学校外国人特別入学規程に基づき公立学校に入学した。男子学生は東京帝国大学教授兼東京外国語学校校長高楠順次郎の監督の下、東京高等工業学校と東京美術学校へ。高楠は日華学堂を創立し清国留学生の受け入れにも尽力している。女子学生は女子高等師範学校校長高嶺秀夫が監督した。
- ^ ブワアンポン(1990)、84-105頁。山根(2003)、103-116頁。“お茶の水女子大学百年史(テキスト版)”. お茶の水女子大学. 2012年5月20日閲覧。ピット(1889-1977)、カチョン(1890-1986)、ヌアン、リーの4名が女子高等師範学校教諭兼舎監喜多見佐喜、同教諭兼保姆雨森釧の世話を受け、女子高等師範学校に設けられた特別教室と私立共立女子職業学校で、日本語、刺繍、裁縫、編物、図画、算術、理科などの学科と技芸を学んだ。当初3年とした修学期間は1年延長されたが、リーは1906年(明治39年)6月に学業停止し帰国。残る3名は1907年(明治40年)3月に全学科を終了し、同年5月29日に離日した。3名はラーチニー女学校の教員となるが、ヌアンにはその後の記録がない。ピットとジョンは官僚と結婚し、晩年までタイ日親善に尽くした。ピットは1937年(昭和12年)世界教育会議に出席した王女の通訳として来日を果たし、安井と再会している。
- ^ 女性名(1998)、366頁。喜多見佐喜(1863-1924)は明治期の教育者。1881年(明治14年)2月東京女子師範学校小学師範科卒業。旧姓杉野。山梨、東京、愛媛、宮城の師範学校に勤務した後、1900年(明治33年)女子高等師範学校教諭となる。のち教授兼生徒監を務めた。著書に『新撰裁縫教授書』『裁縫指南』『家事経済』。また高等女学校用の『割烹教科書』『新編割烹教科書』を著しており、女高師において初期の調理教育を行ったと考えられる。
- ^ 山根(2003)、104-105頁。雨森釧(1870-1933)は松江藩出身の教育者。儒学者雨森精翁の三女。島根県尋常師範学校に在学中、1890年(明治23年)女子高等師範学校を受験し合格。同級の原田愛子と親しく、徳冨蘆花の『蘆花日記』にしばしば現れる。1894年(明治27年)3月女子高等師範学校高等師範科を卒業。宮城県師範学校教諭兼舎監となる。1901年(明治34年)女子高等師範学校教諭兼保母。2年後シャム国留学生を教授した。女高師退職後、小笠原長幹邸、元琉球王尚家の家庭教師となる。生涯独身を通した。
- ^ 小山(1999)、214-216頁。菊池文相と稲垣公使はともにケンブリッジ大学で学位を得た留学生だった。1896年(明治29年)1月24日東京でケンブリッジ大学卒業生の晩餐会が開かれ、菊池も出席している。ここで松浦厚、稲垣満次郎、末松謙澄が起案してケンブリッジ・クラブが創設された。女学校校長の人選について、稲垣が直接菊池に依頼した可能性もある。
- ^ 青山(1982)、84頁。安井てつ「私の今日に至るまで」『教育』、昭和10年10月号からの引用。青山(1965)、223-225頁。明治40年5月18日書簡より。安井自身はこのことについて「私は、女高師教授在官のまゝ三年間の契約にて、同国女子教育のために尽せとの御勧めを受けたのである。私は当時母校に対する報恩のため、最も熱心に後輩学生の教育に従事しつゝあつたので、其処を去るに忍びなかつたのと、又一方に於ては、何等の知識をも有たざるシャム国の女子教育に対して、重大なる責任を負ひ得べき自信を有つて居なかつたので、堅く之れを辞したのであるが、国際上意義深き問題なれば、是非承諾せよとの御勧告に依つて、終に決意したのである。」と記している。
- ^ 青山(1982)、83-91頁。石井ほか(1987)、166頁。女学校設立と留学生派遣が一連の構想だったとすれば、安井がシャム赴任に応じたのは、1903年(明治36年)1月から菊池が文相を辞した同年7月ごろまでの間と考えられる。安井が選ばれた理由について青山(1982)は、後述の『萬朝報』の記事を引用し、山川二葉など当時の舎監を描写。「所詮女高師に於ける先生は、水に浮かぶ油の如く、融和しがたい存在であった。先生は黙して語らないから委しい事情はわからないが、気まずい感情がかさなって、シャム行勧誘という結果となって現われたことは争えない事実であろう。生真面目な先生は、国家の為という対者の武器に抗し得ず、心ならずもシャム行を承諾せざるを得なくなったのである。」とした。また石井ほか(1987)では青山(1982)の前後の文脈から、キリスト教入信が災いしていたと推測している。
参考文献
[編集]書籍
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- 手代木俊一「植村正久と讃美歌」『礼拝音楽研究』第7号、キリスト教礼拝音楽学会、2007年、27-46頁。
- 成田静香「ある中国人女性の神戸における医療伝道 金雅妹の前半生」『人文論究』第48号、関西学院大学、1998年12月、174-188頁。
- 体育史
- 輿水はる海「安井てつの体育観」『日本体育学会大会号』第36号、社団法人日本体育学会、1985年8月、90頁。
- 高橋春子「明治30年代初めの女子体育論とミス・ヒュースによるスウェーデン式体操の推奨」『中京大学体育学論叢』第34号、中京大学、1993年3月、15-24頁。
- 木村吉次「ミス・ヒュースによるスウェーデン式体操のすすめ」『中京体育学論叢』第14号、中京大学、1973年3月、1-19頁。
- 木村吉次「川瀬元九郎とH・ニッセンの体操書」『中京体育学論叢』第13号、中京大学、1971年12月、153-189頁。
- 伊東明「日本における体育・スポーツ雑誌の歴史」『上智大学体育』第2号、上智大学、1969年3月、1-76頁。
外部リンク
[編集]- 国立国会図書館サーチ 国立国会図書館ウェブサイトより
- 近代デジタルライブラリー 国立国会図書館ウェブサイトより
- 学制百年史 資料編 文部科学省ウェブサイトより
- 東京女子大学
- お茶の水女子大学デジタルアーカイブズ お茶の水女子大学附属図書館ウェブサイトより
- 下田歌子電子図書館 実践女子大学図書館ウェブサイトより
- History of Hughes Hall ケンブリッジ大学ヒューズ・ホールWebsiteより(英語)
- Rajini School ラーチニー女学校Websiteより(英語)
[[Category:お茶の水女子大学の教員]
[[Category:学習院大学の教員]
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[[Category:東京女子大学の教員]
[[Category:東京都出身の人物]
[[Category:1870年生]
[[Category:1945年没]