河原操子
河原 操子(かわはら みさこ、1875年6月6日 - 1945年3月7日)は、日本の女子教育者。日本人女性として初めて中国の女子教育に携った先駆者と評される一方[1]、スパイとも評される[1]。
人物
[編集]筑摩県筑摩郡松本北深志町(現・長野県松本市)に旧松本藩士・河原忠の長女として生まれる[1][2]。長野県師範学校女子部を卒業後[1]、2年間附属小学校の教員として勤める[1]。1895年東京女子高等師範学校に入学するも[1]、翌年肋膜炎により中退する[1]。1899年、長野高等女学校(現 長野西高等学校)に就職する[2]。1990年下田歌子に出会い、下田の推薦で横浜の在日清国人教育機関「大同学校」の教師となる[1]。学校の名誉学長は亜細亜主義者としても知られる犬養毅であった。
1902年、再び下田の推薦により、上海の務本女学堂の創設に向けた最初の女教師として赴任する[1][2]。1903年、喀喇沁(カラチン)右翼旗のジャサク郡王グンサンノルブ(貢桑諾爾布)が日本を視察し、その際に下田歌子と面談し、喀喇沁に女学校を開設するため女性教師の派遣を依頼する[2]。下田は操子を推薦したため[2]、歌子は内蒙古で初めて開設された女学校・毓正女学堂の教師として招聘される[2]。軍事上の特別任務を受けたともされる[2]。なお、毓正女学堂の校長は王妃善坤であり、彼女は粛親王善耆の妹だった[要出典]。
毓正女学堂の設立と操子の赴任の裏には東亜同文会の影響が大きく[1]、会員の川島浪速、佐々木安五郎、内田康哉、小田切万寿之助、福島安正、青木宣純、伊藤柳太郎といった人物が関わる対蒙古工作の一面も持っていた[1]。操子も、日露戦争の最中に特務任務で満洲を偵察した横川省三と沖偵介、脇光三らの面倒を見ている[要出典]。
1906年、後任を鳥居龍蔵夫人のきみ子に任せ、天津から神戸に帰国[要出典]。その際女学堂の生徒3人を連れて行き、実践女学校に留学させている[要出典]。日本に戻り、横浜正金銀行ニューヨーク副支店長の一宮鈴太郎と結婚して渡米[1]。1909年、自身の体験を『蒙古土産』などの著書にまとめた[1]。
著書
[編集]- 『蒙古土産』(改題:カラチン王妃と私)
参考文献
[編集]- 『アジアの曙 憂国の挺身』(田中正明著 日刊工業新聞社刊 昭和56年4月 ISBN 9784819108119)
- 『草原の風の詩』(佐和みずえ著 西村書店刊 平成22年3月 ISBN 9784890136506)