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綱島梁川

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
綱島 栄一郎
(つなしま えいいちろう)
ペンネーム 綱島 梁川(つなしま りょうせん)
誕生 (1873-05-27) 1873年5月27日
岡山県上房郡有漢村
死没 (1907-09-14) 1907年9月14日(34歳没)
墓地 豊島区雑司ヶ谷霊園
職業 思想家哲学者宗教家
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 東京専門学校文科卒業
ジャンル 哲学・思想・宗教
代表作 『予が見神の実験』
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綱島 梁川(つなしま りょうせん、1873年(明治6年)5月27日 - 1907年(明治40年)9月14日)は、日本の宗教思想家、評論家。

生涯

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岡山県上房郡有漢村(現高梁市)生まれ。本名・栄一郎。明治23年に岡山の高梁教会古木虎三牧師より洗礼を受ける。

明治25年(1892年)に東京専門学校(後の早稲田大学)に入学する。坪内逍遥大西祝の教えを受ける。逍遥の『早稲田文学』の編輯に加わり、文藝・美術評論を書く。

横井時雄本郷教会植村正久一番町教会に出席する。この頃正統的な神学に懐疑的になり、倫理に傾倒するようになった。

肺結核神田吉田病院[要曖昧さ回避]に入院しているときに、副院長の橋本善次郎神戸教会牧師の海老名弾正と出会って信仰を回復する。

文芸評論家として活動すると同時に、倫理学者としても活動した。病身になってからは、主に宗教の論評を発表するようになり、明治38年(1905年)に『新人』に発表した『病間録』「余の見神の実験」は大きな反響を呼んだ。この宗教的な思索は、安倍能成、斎藤勇らに大きな影響を与えた。綱島は禅宗浄土真宗などからも学んだが、最後までキリスト教信仰に立っていた。

肺結核のため満34歳で死去[1]

没後、綱島を敬慕する人々により、各地で梁川会が起こった。弟子の一人の宇佐見英太郎が梁川会の参加者の所感をまとめて「回覧集」全7巻を編集した。

人物評

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  • 神に憧れ神に恋した人、そしてやがてその恋を得た喜びと共に、短い生涯を終えた人(川合道雄談)
  • クリスチャンとしての梁川が、いくらか「正統」からはずれたとしても、キリスト教が自らに課した地の塩としての課題(中略)それを「神の理想」に従って再構築していくという課題を梁川は性格に受け止め、それに応えようとしていると言える。(虫明竌行安茂)[2]

影響を与えた人

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著書

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単著

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  • 西洋倫理学史 東京専門学校出版部 1902.6 (早稲田叢書)
  • 梁川文集 日高有倫堂 1905.7
  • 病間録 金尾文淵堂 1905.10
  • 回光録 金尾文淵堂 1907.5
  • 春秋倫理思想史 早稲田大学出版部 1908.1
  • 寸光録 獅子吼書房 1908.5
  • 欧洲倫理思想史 杉本梁江堂 1909
  • 書簡集 綱島政治編 獅子吼書房 1908、1909
  • 我観録 梁川遺稿 杉本梁江堂 1909.9
  • 病窓雑筆 梁川遺稿 杉本梁江堂 1910.2
  • 古今漢文評釈 杉本梁江堂 1910.4
  • 梁川全集 全10巻別巻1 春秋社 1921-1925
  • 綱島梁川集 安倍能成編 岩波文庫 1927
  • 宗教文集 新教出版社 1948 (温故小文選)

共編著

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  • 近松の研究 坪内逍遥 春陽堂 1900

翻訳

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  • スチーブン氏倫理学 育成会 1900.6 (倫理学書解説)
  • マッケンジー氏倫理学綱要 東京専門学校出版部 1900 (名著綱要文学教育科)
  • 快楽派倫理 ヂョン・ワトソン 東京専門学校出版部 1901.10
  • ルナン氏耶蘇伝 東京専門学校出版部 1900-1901 (名著綱要文学教育科)

脚注

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  1. ^ 高橋2003年,200-201頁
  2. ^ 高橋2003年,201頁より引用

参考文献

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  • 新潮社辞典編集部 編 編『新潮日本人名辞典』新潮社、1991年3月。ISBN 4-10-730210-5 
  • 虫明竌行安茂編 編『綱島梁川の生涯と思想早稲田大学出版部、1981年4月。ISBN 978-4-657-81006-9http://www.waseda-up.co.jp/history/post-227.html 
  • 高橋昌郎著 編『明治のキリスト教吉川弘文館、2003年2月。ISBN 4-642-03752-7http://www.waseda-up.co.jp/history/post-227.html 

関連項目

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外部リンク

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