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富士 (戦艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
富士
基本情報
建造所 テムズ鉄工所(イギリスロンドン)[1]
運用者  大日本帝国海軍
艦種 戦艦
艦歴
計画 明治26年度(1893年)
起工 1894年8月1日[1]
進水 1896年3月31日[1]
竣工 1897年8月17日[1]
除籍 1945年11月30日
その後 1948年解体
要目
常備排水量 12,533トン
垂線間長 114.0m(374ft)
最大幅 22.3m(73ft)
吃水 8.1m(26ft6in)
ボイラー 円缶 10基
主機 3気筒3段レシプロ2基
推進 2軸
出力 13,500馬力
速力 18.25ノット
燃料 石炭:1,117トン
航続距離 7,000カイリ / 10ノット
乗員 726名
兵装 30.5cm40口径連装砲2基
15.2cm40口径単装砲10基
47mm単装砲24基
45cm水上魚雷発射管1門
45cm水中魚雷発射管4門
装甲 ハーベイ鋼
舷側:18in(457.2mm)-14in(355.6mm)[2]
砲塔:14in(355.6mm)-9in(228.6mm)[2]
砲郭:6in(152.4mm)-2in(50.8mm)[2]
司令塔:14in(355.6mm)[2]
甲板:最大4インチ(102mm)[要出典]
その他 信号符字
GQJF(竣工時)[3]
JWXD(1933年12月〜)[3]
JFAQ(1941年12月〜)[4]
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富士(ふじ)は、日本海軍戦艦[5][6]富士型戦艦1番艦。日本海軍が初めて保有した近代的戦艦の1隻[7]。 日本海軍の軍艦で最高厚の舷側装甲を持つ(最高457mm。後の大和型戦艦でも410mm厚)。 旧式化により海防艦へ類別変更[8]。その後、練習艦として使用された[9][10]

艦名は日本の最高峰富士山にちなむ[11][12]。 艦名としては明治初期の軍艦「富士山」に続いて2代目[11][12]

艦歴

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富士型戦艦2隻を含む1891年明治24年)の軍艦建造予算は第2回議会で否決[12]。翌年の第3回議会、第4回議会でも否決され、これに対し明治天皇が自らの宮中費を節約する建艦詔勅を出して、ようやく議会を通過した。本艦はイギリスロンドンテームズ社で建造され、1894年(明治27年)8月1日に起工[12]1895年(明治28年)8月18日、日本海軍は建造中の甲号甲鉄戦艦(本艦)を「富士」、乙号甲鉄戦艦を「八島」、甲号報知艦を「宮古」と命名する[5][13]1896年(明治29年)3月31日、進水[12]10月28日、回航事務所を海軍省内に設置[14]。回航委員長は三浦功海軍大佐。回航委員は山本安次郎機関大監、木村壮介軍医大監(のち、海軍軍医総監)、斎藤実少佐、坂本一少佐、岩本耕作少佐、津田三郎少佐、桑原荘吉軍医少監(のち、海軍軍医総監)、但馬惟孝大尉(のち、防護巡洋艦「済遠」艦長となるも戦死[15])、野間口兼雄大尉、富岡延次郎大機関士、瀬戸菊次郎大機関士、兼常猪三大機関士、鳥山頼二大主計、山田昌壽大主計、加藤寛治少尉、中島資朋少尉(のち、戦艦「山城」艦長[16])、吉岡範策少尉、斎藤七五郎少尉、吉松稜威麿少機関士、宮川邦基少機関士という陣容だった[17]10月29日、本籍を佐世保鎮守府と定められる[18]

1897年(明治30年)6月14日、竣工に先立って領収し軍艦旗を掲げ[12]常備艦隊に編入[19]防護巡洋艦須磨」に代わって常備艦隊旗艦となる[20]。これはスピットヘッドで行われるヴィクトリア女王即位60周年記念観艦式に参加するための処置だった[12]6月27日、旗艦は富士から戦艦「鎮遠」となった[21]8月17日に竣工[12][22]。艦長三浦功海軍大佐の下直ちに日本に回航され、10月31日に横須賀到着[12][23]11月1日、警備艦と定められる[24]12月20日、常備艦隊に編入[25]

1898年(明治31年)3月21日、日本海軍は海軍軍艦及び水雷艇類別標準を制定し、1万トン以上の戦艦を一等戦艦と定義[26]。該当する4隻(富士八島朝日敷島)が一等戦艦に類別された[6][27]。 同年11月19日、明治天皇は神戸沖の常備艦隊を天覧、その際に「富士」は天皇の御召艦となる[28][29]

1902年(明治35年)4月1日に本籍を呉鎮守府に変更[30]。7月22日、役務を解かれ第一予備艦扱いとなる[31]

1903年(明治36年)12月28日、常備艦隊が解隊され、戦艦を中心とする第一艦隊と巡洋艦が主体の第二艦隊が設置される。第一・第二艦隊で連合艦隊(司令長官:東郷平八郎海軍中将)を構成した。富士は第一艦隊隷下の第一戦隊(戦艦《三笠朝日富士八島敷島初瀬》・通報艦宮古)に配属される[32]

日露戦争では主力戦艦として、旅順口攻撃旅順港閉塞作戦黄海海戦日本海海戦と主な作戦に参加した[12]

1904年7月24、「富士」と「三笠」の艦載水雷艇は大河湾のロシア駆逐艦を雷撃した[33]。「富士」艇の発射した魚雷は1本が「バエヴォーイ」に命中した[33]

12月15日、「富士」の艦載水雷艇はロシア戦艦「セヴァストーポリ」襲撃に参加した[34]

1911年(明治44年)10月中旬、明治天皇皇太子大正天皇)が岐阜県・愛知県・広島県に行啓することになった[35]。10月20日、皇太子は宮島で富士に乗艦した[36][37]。21日、日向・土佐間の洋上で第一艦隊・第二艦隊・水雷戦隊の演習がおこなわれる[38]。翌日、御召艦は佐伯湾に入港[39]。23日、皇太子は佐伯湾大入島に上陸した[40]。富士に帰艦後、戦艦朝日艦長伏見宮博恭王大佐と会食した[41]。 24日夕刻、富士は広島湾に到着[42][43]。翌25日、第一艦隊の射撃演習を見学したあと[43]、神戸へ移動する[44]。同26日午後、神戸港に到着[45]。27日、皇太子は富士を退艦して帰京した[45][46]

1912年大正元年)8月28日、日本海軍は艦艇類別等級表を改訂する[47]。富士を含め6隻(壱岐丹後富士石見相模周防)が一等海防艦に類別された[8][48]

1922年(大正11年)7月、富士は廃棄戦艦加賀(加賀型戦艦)を神戸から横須賀まで曳航、続いて8月には廃棄戦艦土佐(加賀型戦艦)を長崎から呉へ曳航した[49]。 9月1日、2隻(富士、石見〈元ロシア戦艦オリョール〉)は軍艦籍より除かれた[50][51][52]。「富士」は特務艦(運送艦)となる[53][54]。 同年12月1日、「富士」は運送艦から練習特務艦に類別変更された[10][55]ワシントン軍縮条約に基づき兵装、装甲を撤去、運用術練習艦となる[49]1923年(大正12年)の関東大震災では救護活動に参加[56]

1926年(大正15年)より横須賀吉倉海岸に繋留、定繋練習艦となった[49]1934年昭和9年)に海軍航海学校が創設されると、航海学校保管艦として艦上に居住区施設や講堂を増設、浮き校舎となった[49]1939年(昭和14年)、海軍航海学校が海軍砲術学校の傍に移転すると、富士も繋留地を変更した[49]。その後、終戦直前の1945年7月18日の横須賀空襲により炎上し大破着底[57]、戦後に解体された。

年表

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旅順口の海戰に我冨士艦砲術長山中少佐奮戰の図, 右田年英

艦長

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※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

歴代の艦長
(特記ない限り海軍大佐
氏名 在任期間 備考
0 三浦功 1896年2月20日 - 1896年11月21日 回航委員長、1896年3月25日英国出張
1 三浦功 1896年11月21日 - 1898年1月22日 1897年10月31日英国より帰着
2 鹿野勇之進 1898年1月22日 - 1899年3月22日
3 舟木錬太郎 1899年3月22日 - 1899年6月17日
4 世良田亮 1899年6月17日 - 1900年5月15日
欠員 1900年5月16日 - 1900年6月17日
5 上村正之丞 1900年6月18日 - 1900年12月6日
6 舟木錬太郎 1900年12月6日 - 1901年10月1日
7 新島一郎 1901年10月1日 - 1902年3月12日
8 井上敏夫 1902年3月12日 - 1903年9月26日
9 松本和 1903年9月26日 - 1905年11月2日
10 坂本一 1905年11月2日 - 12月12日
11 毛利一兵衛 1905年12月12日 - 1906年11月22日
欠員 1906年11月23日 - 1907年2月6日
12 大城源三郎 1907年2月7日 - 10月21日
13 広瀬勝比古 1907年10月21日 - 1908年9月15日
14 財部彪 1908年9月15日 - 12月10日
15 西山実親 1908年12月10日 - 1909年1月25日
16 石橋甫 1909年1月25日 - 4月1日
欠員 1909年4月2日 - 5月21日
17 藤本秀四郎 1909年5月22日 - 12月1日
18 山田猶之助 1909年12月1日 - 1911年1月16日
19 大沢喜七郎 1911年1月16日 - 1911年12月1日
20 高島万太郎 1911年12月1日 - 1913年3月7日
21 原静吾 1913年3月7日 - 1914年4月17日
22 荒西鏡次郎 1914年4月17日 - 1916年12月1日
23 島内桓太 1916年12月1日 - 1917年5月8日
24 村上鋠吉 1917年5月8日 - 1918年12月1日
25 山口伝一 1918年12月1日 - 1922年9月1日
歴代の特務艦長
(特記ない限り海軍大佐)
氏名 在任期間 備考
1 (兼)河合退蔵 1922年9月1日 - 1922年12月1日 本職・八雲艦長
2 河合退蔵 1922年12月1日 - 1923年12月1日
3 小副川敬治 1923年12月1日 - 1925年8月22日
4 太田質平 1925年8月22日 - 1925年12月1日
5 (兼)太田質平 1925年12月1日 - 1926年12月1日 本職・春日艦長
6 井上肇治 1926年12月1日 - 1927年11月15日
7 (兼)太田質平 1927年11月15日 - 1929年2月8日 本職・春日艦長
8 (兼)小野弥一 1929年2月8日 - 1931年12月1日 本職・春日艦長
9 (兼)大田垣富三郎 1931年12月1日 - 1932年6月10日 本職・春日艦長
10 坂部省三 1932年6月10日 - 1934年4月1日

脚注

[編集]
  1. ^ a b c d #日本の戦艦(上)2001p.38
  2. ^ a b c d #日本の戦艦(上)2001p.218
  3. ^ a b #達昭和8年10月 画像40『達百二十七號 左記艦艇ノ信號符字ヲ各頭書ノ通リ改正ス 本達ハ昭和八年十二月二十八日ヨリ之ヲ實施ス 昭和八年十月十八日 海軍大臣 大角岑生 新符字 舊符字 艦艇名 … JWXD GQJF 富士 …』
  4. ^ #達昭和16年12月 画像11『海軍艦(船)名及海軍通信隊名略符號 … 特務艦 JFAQ 富士』
  5. ^ a b #達明治28年8月p.12『達第七十八號 英國ニ於テ製造中ノ甲號及乙號甲鐡戰艦並ニ呉鎮守府ニ於テ製造中ノ甲號報知艦左ノ通命名セラル 明治二十八年八月十六日 海軍大臣 侯爵西郷從道|甲號甲鐡戰艦 |乙號甲鐡戰艦 シマ|甲號報知艦 ミヤ
  6. ^ a b #達明治31年3月(1)pp.16-17『達第三十五號 軍艦及水雷艇類別等級別紙ノ通定ム 明治三十一年三月二十一日 海軍大臣侯爵 西郷從道|軍艦|戰艦|一等|富士、八島、敷島、朝日』
  7. ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実237コマ(原本83頁)『一、最初の甲鐡戰艦「富士」「八島」起工―明治二十七年(一八九四)』
  8. ^ a b c #達大正1年8月p.33『達第十二號 艦艇類別等級別表ノ通改正ス 大正元年八月二十八日 海軍大臣男爵 斎藤實|艦艇類別等級表|軍艦|海防艦|一等|壹岐、丹後、富士、石見、相模、周防|』
  9. ^ #日本軍艦集2600年版コマ70(原本110頁)『―練習特務艦― 富士(ふじ) 基準排水量9,179噸、長さ114米、幅22.25米、平均吃水6.66米、速力18.25節、起工明治27年8月、進水明治29年3月31日、竣工明治30年8月17日、建造所英國テームス社―各種水兵の實地教育のために使はれてゐる。なほ、練習特務艦には、ほかに敷島(11,275噸)がある。』
  10. ^ a b c #達大正11年12月p.1『達第二百十二號 特務艦類別等級別表中左ノ通改正ス 大正十一年十二月一日 海軍大臣男爵 加藤友三郎 運送艦ノ項中「、富士」ヲ削リ測量艦ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ |練習特務艦| |富士|』
  11. ^ a b #幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ16(原本8頁)『富士山(ふじやま) 艦種三檣「シップリグ」型「スループ」
    艦名考山名に採る。富士山は駿河國富士・駿東の二郡甲斐國南都留西八代の二郡に跨る。富士郡大宮町より7里30町駿東郡須走村より5里18町、南都留郡上吉田より3里餘にして其山頂に達す。標高12,467尺なり、富士山は別稱36あり、其の中、不二山・芙蓉峰・八葉嶽・四面山等は最も人口に膾炙する所なり。
    艦歴元治元年(1864)米國「ニュヨーク」にて製造、徳川幕府の軍艦、「富士山」と命名す、慶應元年横濱到着。明治元年4月徳川幕府より朝廷に納む、同9年10月機關を撤去す、同13年1月繋留練習艦とし、同18年12月運用術練習船とす。同22年5月軍艦籍より除き、船體を呉鎮守府海兵團に属し、後ち呉水雷隊敷設部に充て、同29年8月該船體を賣却す。(要目略)』
  12. ^ a b c d e f g h i j #幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ54(原本74頁)『富士(ふじ) 艦種戰艦 二檣(戰闘檣あり)
    艦名考初代「富士山」の項(p.8)参照。
    艦歴戰艦富士は姉妹艦八島及び通報艦宮古と共に明治26年度に計畫せられたる艦なり。此三艦建造費は第二帝國議會に於て否決せられたるを以て、皇室費の内より支出し給へる年額30萬圓及び官吏俸給の10分の1を此軍艦製造に充て、實際は同25年より其の製造に着手し、次の議會に之が協賛を得て中途より國庫の支辨となりたる由來あり。明治30年6月14日領収、英國女皇陛下御即位60年祝典観艦式に日本代表艦として参加、同年8月17日竣工、同日英國出發、同10月31日横須賀到着。同31年3月一等戰艦に列す。同37・8年戰役に從軍(第一艦隊第一戰隊、艦長大佐松本和):同37年8月黄海々戰参加、同38年5月日本海々戰参加、同38年12月戰艦の等級を廢せられる。大正元年8月一等海防艦に編入、同3年乃至9年戰役に從軍:同11年9月1日軍艦籍より除き、特務艦とし、同年12月1日運用術練習特務艦とし、現在に至る。
    ―要目― 長374呎/幅73呎/吃水26呎/排水量12,300噸/機關 四汽笛直立三聯成汽機2基、圓罐/馬力13,500/速力18.25/乗組人員600/船材 ハーベイ鋼(甲鐡帶457粍)/兵装 12吋安式砲4/6吋安式砲10/12听安式砲16/2.5听安安砲4/發射管5/起工 明治27-8-1/進水 同29-3-31/竣工 同30-8-17/建造所 英國テームス』
  13. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ198番『◎戰艦富士八島及報知艦宮古命名ノ件』
  14. ^ #本邦回航の件 画像15『冨士後第一号 事務所設置御届 軍艦富士回航事務所ヲ本日本省内ニ設置候条此段御届候也 明治二十九年十月廿八日 軍艦富士回航委員 海軍少佐坂本一 軍務局長山本權兵衞殿』
  15. ^ 日露旅順海戦史、235ページ
  16. ^ 『官報』第1301号、大正5年12月2日。
  17. ^ #富士回航委員 画像10・11・12
  18. ^ #内令29年 画像34『內令第二十七號 軍艦 富士 右本籍ヲ佐世保鎭守府ト定メラル 軍艦 八島 右本籍ヲ吳鎭守府ト定メラル 明治二十九年十月二十九日 海軍大臣 侯爵西郷從道殿』
  19. ^ #内令30年3-28 画像46『內令第二十六號 軍艦 富士 右領收ノ日ヨリ英國女皇陛下即位六十年祝典ニ參列儀式ヲ終ルマテ常備艦隊ニ編入セシメラル 明治三十年六月十四日 海軍大臣 侯爵西郷從道殿』
  20. ^ #30年6月14日 画像1『旗普第七八四號ノ三 本日軍艦須磨ノ常備艦隊司令官旗艦ヲ止メ更ニ軍艦富士ヲ司令官旗艦ニ指定候条此段報告候也 明治三十年六月十四日 博多 常備艦隊司令長官男爵相浦紀道 海軍大臣 侯爵西郷從道殿』
  21. ^ #30年6月27日 画像1『旗普第八五〇號ノ三 報告 本日軍艦冨士ノ常備艦隊司令官旗艦ヲ止メ更ニ軍艦鎮遠ヲ司令官旗艦ニ指定候条此段及報告候也 明治三十年六月廿七日 常備艦隊司令長官男爵相浦紀道 海軍大臣侯爵西郷従道殿』
  22. ^ 明治30年8月24日官報第4244号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ3『○新艦回航 英國ニ於テ製造ノ帝國軍艦富士ハ工事落成本月十七日帝國ヘ回航ノ途ニ就キ モールタ ニ向ヒ英國ヲ抜錨セリ(海軍省)』
  23. ^ 明治30年11月2日官報第4303号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ7『○軍艦發箸 軍艦嚴島ハ去月三十日呉ヘ投錨、同比叡ハ同日長濱ニ向ヒ同港抜錨、同富士ハ横須賀ヘ、同八島ハ コロンボ ヘ〃三十一日孰モ投錨(以下略)』
  24. ^ #内令30年29-63 画像31『內令第四十九號 … 佐世保鎮守府所管 軍艦 富士 右警備艦ト定メラル 明治三十年十一月一日 海軍大臣 侯爵西郷從道殿』
  25. ^ #内令30年29-63 画像40『內令第六十二號 横須賀鎭守府所管 警備艦兼練習艦橋立 吳鎭守府所管 軍艦八島 佐世保鎭守府所管 軍艦富士 右常備艦隊ニ編入セシメラル 明治三十年十二月二十日 海軍大臣 男爵西郷從道』
  26. ^ #達明治31年3月(1)pp.14-15『達第三十四號 海軍大臣ニ於テ別表ノ標準ニ據リ軍艦及水雷艇ノ類別及等級ヲ定メ若ハ其ノ變更ヲ行フコトヲ得セシメラル 明治三十一年三月二十一日 海軍大臣侯爵 西郷從道』
  27. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ50番『◎軍艦及水雷艇類別等級』
  28. ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ239(原本86頁)『〃(明治)三一-一一-一九|海軍大演習御統裁の爲、大阪府下ヘ行幸中常備艦隊ヘ行幸|軍艦富士|神戸にて御乗艦』
  29. ^ 明治31年11月21日官報第4619号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ2『○常備艦隊運動天覽及大阪市臨幸 天皇陛下ハ御豫定ノ如ク一昨十九日午前七土岐大本營御出門同七時三十分大阪御發車神戸港ヘ行幸常備艦隊運動天覽畢テ米利堅波止場ヨリ御上陸神戸居留地通午後二時十五分神戸御發車大阪ヘ還御尋テ同市泉布観ヘ臨御同五時十五分還御アラセラレタリ|○御發車及御安箸 天皇陛下ハ御豫定ノ如ク昨二十日午前七時二十分大本營御發車午後六時三十分静岡行在所ヘ御安箸アラセラレタリ』
  30. ^ #35年4月 画像2『內令第四十五號 … 佐世保鎭守府在籍 軍艦富士 … 右本籍ヲ吳鎭守府ニ改定セラル 明治三十五年四月一日 海軍大臣男爵山本權兵衞』
  31. ^ #35年7月 画像2『內令第九十五號 … 常備艦隊 軍艦富士 右役務ヲ解カル 呉鎭守府豫備艦 軍艦富士 右第一豫備艦ト定メ全定員ヲ置ク 明治三十五年七月二十二日 海軍大臣男爵山本權兵衞』
  32. ^ #36年-38年戦時日誌 画像3『開戰前誌 明治三十六年十二月二十八日(月) 一聯合艦隊左ノ通リ編制セラル |聯合艦隊(司令長官東郷中將)|第一艦隊(長官東郷中將)|第一戰隊|三笠 初瀨 朝日 敷島 富士 八島 宮古|』
  33. ^ a b 真鍋重忠『日露旅順海戦史』136-137ページ
  34. ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』260ページ
  35. ^ 大正天皇実録第三 2018, p. 291岐阜・愛知両県下並びに佐伯・呂島両湾に行啓
  36. ^ 明治44年10月21日官報第8502号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ4『○宮廷録事|○東宮御安著 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク一昨十九日午前七時二十分名古屋離宮御出門同七時五十分名古屋停車場御發車午後誤字岡山停車場御著車同五時十五分御旅館 岡山後樂園 ニ御安著アラセラレタリ/○東宮御發艦 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク昨二十日午前七時二十五分御旅館 岡山後樂園 御出門同七時四十分岡山停車場御發車午後零時五十五分宮島停車場御著車續テ同一時十五分御乗艦 軍艦富士 同二時六分御發艦アラセラレタリ』
  37. ^ 大正天皇実録第三 2018, p. 292宮島より軍艦富士に御乗艦
  38. ^ 大正天皇実録第三 2018, p. 293a洋上に演習御覧
  39. ^ 大正天皇実録第三 2018, p. 293b佐伯湾に御仮泊
  40. ^ 大正天皇実録第三 2018, pp. 293c-295大入島の御動静
  41. ^ 大正天皇実録第三 2018, pp. 294–295.
  42. ^ 明治44年10月21日官報第8506号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ15『○宮廷録事|○東宮演習御覧竝御著艦 皇太子殿下ハ本月二十日宮島御發艦引續キ海軍聯合小演習御覧一昨二十四日午後五時十分廣島灣ニ御着艦アラセラレタリ(以下略)』
  43. ^ a b 大正天皇実録第三 2018, p. 295a広島湾にて演習御覧
  44. ^ 明治44年10月27日官報第8507号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ5『○宮廷録事|○東宮演習御覧竝御發艦 皇太子殿下ハ一昨二十五日廣島灣ニ於テ第一艦隊特殊研究射撃御覧午後零時十五分御發艦神戸港ニ向ハセラレタリ/○東宮御著艦 皇太子殿下ハ昨二十六日午後二時三分神戸港ニ御箸艦アラセラレタリ』
  45. ^ a b 大正天皇実録第三 2018, p. 295b神戸港に御上陸
  46. ^ 明治44年10月28日官報第8508号。国立国会図書館デジタルコレクション コマ10『○宮廷録事|○東宮御安著 皇太子殿下ハ御豫定ノ如ク昨二十七日午前六時神戸御上陸同六時二十分神戸停車場御發車午後四時静岡停車場御著車同四時十分静岡御用邸ニ安著アラセラレタリ(以下略)』
  47. ^ #達大正1年8月p.32『達第十一號 艦艇類別標準別表ノ通改正セラル 大正元年八月二十八日 海軍大臣男爵 斎藤實』
  48. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ56番『◎艦艇類別等級 大正元年八月二十八日(達一二)艦艇類別等級別表ノ通改正ス(別表)』
  49. ^ a b c d e 日本補助艦艇物語240-242頁『運用術練習艦』
  50. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940)コマ59『大正十一年九月一日(達一五九)艦艇類別等級別表中軍艦ノ欄内「富士、石見」ヲ削除ス』
  51. ^ a b #達大正11年9月p.1『達第百五十八號 軍艦 富士 軍艦 石見 右帝國軍艦籍ヨリ除カル 大正十一年九月一日 海軍大臣男爵 加藤友三郎』
  52. ^ #達大正11年9月p.1『達第百五十九號 艦艇類別等級別表中軍艦ノ欄内「富士、石見」ヲ削除ス 大正十一年九月一日 海軍大臣男爵 加藤友三郎』
  53. ^ #幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ187(原本281頁)『富士(ふじ)〔再出〕 艦種特務艦 艦名考 艦歴}「日清戰争以降、日露戰役迄の艦艇」の部参照(p.74)。
    ―要目― 長114.00米/幅22.25米/吃水6.66米/排水量9,176噸/速力18.25/起工 明治27/進水 同29-3-31/竣工 同30-8-17/建造所 英國テームス』
  54. ^ a b #達大正11年9月p.1『達第百六十號 特務艦類別等級別表中運送艦ノ欄内「神威」ノ次ニ「、富士」ヲ加フ 大正十一年九月一日 海軍大臣男爵 加藤友三郎』
  55. ^ #達大正11年9月p.1『達第二百十一號 特務艦艇類別標準中左ノ通改正セラル 大正十一年十二月一日 海軍大臣男爵 加藤友三郎 特務艦ノ欄内測量艦ノ項ノ次ニ左ノ一項ヲ加フ |練習特務艦|  |』
  56. ^ #震災救護日報
  57. ^ 雑誌丸編集部『写真 日本の軍艦 第13巻 小艦艇 1』光人社、1990年、60頁。ISBN 978-4769804635 

参考文献

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  • 泉江三『軍艦メカニズム図鑑 日本の戦艦 上』グランプリ出版、2001年4月。ISBN 4-87687-221-X 
  • 井上敏夫「軍艦富士馬関海峡通過顛末」水交社記事1-4、1902年12月
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』光人社、1993年。ISBN 4-7698-0386-9
  • 宮内庁図書寮 編『大正天皇実録 補訂版 第三 自明治四十一年至明治四十四年』株式会社ゆまに書房、2018年8月。ISBN 978-4-8433-5041-6 
  • 福井静夫『福井静夫著作集第1巻 日本戦艦物語I』光人社、1992年。ISBN 4-7698-0607-8
  • 福井静夫『福井静夫著作集第2巻 日本戦艦物語II』光人社、1992年。ISBN 4-7698-0608-6
  • 福井静夫福井静夫著作集-軍艦七十五年回想記第十巻 日本補助艦艇物語』光人社、1993年12月。ISBN 4-7698-0658-2 
  • 真鍋重忠『日露旅順海戦史』、吉川弘文館、1985年、ISBN 4-642-07251-9
  • 『軍艦富士自英国至日本航海報告』水路部、1898年。
  • 雑誌丸編集部『写真 日本の軍艦 第13巻 小艦艇 1』光人社、1990年、60頁。ISBN 978-4769804635 
  • 官報
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『明治28年 達 完/8月』。Ref.C12070035400。 
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    • 『明治30年 達 完/3月(4)』。Ref.C12070038100。 
    • 『明治30年 公文雑輯 巻7 艦船1/明治30年6月14日 軍艦須磨の常備艦隊司令官旗艦を止めの件』。Ref.C10126094700。 
    • 『明治30年 公文雑輯 巻7 艦船1/明治30年6月27日 軍艦富士の常備艦隊司令官旗艦を止めの件』。Ref.C10126094700。 
    • 『明治30年 公文雑輯 巻1 官職 儀制 教育/明治30年11月26日 英国に於て製造軍艦富士回航委員として曩に同国へ出張の処今般帰朝拝謁の件』。Ref.C12070035400。 
    • 『明治31年 達 完/3月(1)』。Ref.C12070040500。 
    • 『明治32年 達 完/1月』。Ref.C12070042000。 
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    • 『戦時日誌 明治36.12.28~38.10.14/戦時日誌(1)』。Ref.C09050281400。 
    • 『明治38年 達 完/6月』。Ref.C12070053000。 
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    • 『記念品の件』。Ref.C04015870600。 
    • 『昭和8年 達 完/10月』。Ref.C12070097400。 
    • 『昭和16年7月~12月 達/1月(1)』。Ref.C04015870600。 
  • 戦史史料・戦史叢書検索防衛省防衛研究所
    • 『海軍内令 明治29年分/内令第2号 明治29年4月1日~内令第35号 明治29年12月19日』。 
    • 『海軍内令 明治30年分/内令第3号 明治30年3月8日~内令第28号 明治30年6月23日』。 
    • 『海軍内令 明治30年分/内令第29号 明治30年6月30日~内令第63号 明治30年12月21日』。 

関連項目

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外部リンク

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