吉岡範策
生誕 | 1869年5月8日(明治2年3月27日) |
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死没 | 1930年3月19日(60歳没) |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1891年 - 1924年 |
最終階級 | 海軍中将 |
吉岡 範策(よしおか はんさく、1869年5月8日(明治2年3月27日) - 1930年(昭和5年)3月19日)は、日本の海軍軍人。海軍中将。
経歴
[編集]1869年(明治2年)5月、肥後国(現・熊本県宇城市小川地区)に、肥後藩士の長男として生まれる。済々黌卒業。1891年(明治24年)海軍兵学校18期を卒業し、海軍少尉となる。日清戦争では防護巡洋艦「浪速」の分隊士として東郷平八郎艦長の下に従軍。「富士」回航委員などを経て、1901年(明治34年)海軍大学校2期を卒業。1904年(明治37年)海軍少佐となり、日露戦争では、第2艦隊旗艦「出雲」の砲術長として日本海海戦に参戦した。1912年(大正元年)大喪儀海軍事務委員、海軍演習審判官となる。
「橋立」艦長を経て、1914年(大正3年)8月23日に「浅間」艦長に補される。この日は日本がドイツへ宣戦布告した日であり、吉岡は第一次世界大戦に出征する。当初は山屋他人率いる第1南遣枝隊に属してシュペー率いるドイツ艦隊の捜索にあたり、また南洋群島の占領作戦に従事した[1]。次いで森山慶三郎率いる遣米枝隊に属して南米から北米にかけての通商保護にあたる。しかしメキシコ沖で、海図に記載のない暗礁により座礁事故が起きた[2]。
1915年(大正4年)12月に「筑波」艦長となる。同艦は翌年実施された観艦式において大正天皇のお召艦となった[3]。「金剛」艦長を経て、1917年(大正6年)海軍少将に昇進し、教育本部第2部長となる。1919年(大正8年)第1艦隊参謀長、1920年(大正9年)連合艦隊参謀長を経て、1921年(大正10年)海軍中将、海軍砲術学校長となり、1923年(大正12年)将官会議議員などを歴任し、1924年(大正13年)予備役となる。
海軍中将正四位勲二等功四級。砲術の神様とも呼ばれた。1930年(昭和5年)死去。戒名は誠忠院殿篤翁適中大居士、墓は熊本県宇城市小川町蓮仏にある。
栄典・授章・授賞
[編集]- 位階
- 勲章等
- 1920年(大正9年)11月1日 - 旭日重光章・大正三年乃至九年戦役従軍記章[7]
- 1921年(大正10年)7月1日 - 第一回国勢調査記念章[8]
親族
[編集]出典
[編集]- ^ 『海戦史に学ぶ』「ドイツ太平洋艦隊との海戦」
- ^ 『浅間、日進座礁査問付査定書(2)』
- ^ 『拝謁名簿』
- ^ 『官報』第5963号「叙任及辞令」1903年5月21日。
- ^ 『官報』第2824号「叙任及辞令」1921年12月29日。
- ^ 『官報』第3483号「叙任及辞令」1924年4月7日。
- ^ 『官報』第2578号「叙任及辞令」1921年3月9日。
- ^ 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。
- ^ 日外アソシエーツ『熊本県人物・人材情報リスト、2007』
参考文献
[編集]- 「軍艦浅間准士官以上名簿」 アジア歴史資料センター Ref.C11081162800 (防衛省防衛研究所所蔵 海軍省-遣英遣米-T3-13-19 海軍省公文備考類 遣米枝隊関係書類 巻15)
- 「浅間、日進座礁査問付査定書(2)」 アジア歴史資料センター Ref.C08020614900 (防衛省防衛研究所所蔵 海軍省-公文備考-T4-53-1800)
- 「拝謁名簿」 アジア歴史資料センター Ref.C08020746100 (防衛省防衛研究所蔵 海軍省-公文備考-T5-15-1887)
- 小川町史編纂委員会 編纂『小川町史』小川町役場(熊本県)、1979、1043頁
- 日外アソシエーツ『熊本県人物・人材情報リスト、2007』
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』(9巻)、第一法規出版
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版
- 野村實『海戦史に学ぶ』文春文庫、1994年。ISBN 4-16-742802-4。