コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

早埼 (給糧艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
早埼
公試中の早埼(推定1942年8月)[1]
公試中の早埼(推定1942年8月)[1]
基本情報
建造所 大阪鉄工所桜島工場[2]
運用者  大日本帝国海軍
艦種 運送艦[3](給糧艦[2])
級名 杵埼型[3]
建造費 予算:2,110,000[4]
母港 横須賀[5]
艦歴
計画 マル臨計画[6](昭和16年度[2])
起工 1941年12月2日[2]
進水 1942年5月12日[2]
竣工 1942年8月31日[2]
除籍 1945年10月5日(日本海軍)[2]
その後 1946年特別輸送艦[7]
特別保管艦[2]
1947年10月ソ連へ引渡[2]
要目(計画)
基準排水量 910.06英トン[8]
公試排水量 960.00トン[8][9]
満載排水量 990.89トン[8][9]
または990.90トン[10]
軽荷排水量 734.70トン[9]
全長 62.285m[8]
水線長 約59.45m[8]
垂線間長 58.00m[8]
最大幅 9.418m[8]
水線幅 9.400m[8]
深さ 5.30m[8]
吃水 軽荷平均:2.52m[10]
公試平均:3.130m[8]
満載平均:3.20m[8]
主機 艦本式23号甲8型(単動4サイクル[11])ディーゼル 2基[12]
推進 2軸 x 330rpm[11]
直径1.900m[11]
出力 1,600shp[8]
速力 約14ノット[8]
燃料 重油:57.67トン[8][9]
航続距離 3,500カイリ / 12ノット[8]
乗員 計画乗員:准士官以上7人、下士官兵60人[13]
竣工時定員:56名[14][15]
搭載能力 冷凍品、糧食:84.60トン[9]
真水:57.70トン[9]
兵装 40口径3年式8cm高角砲C型 1基、弾薬300発[16]
13mm機銃 連装1基2挺、弾薬4,000発[16]
九五式爆雷8個[12](計画外)
須式手動60cm探照灯 1基[17]
搭載艇 8m(10m)通船 1隻、6m通船 1隻[18]
その他 1トンデリック4基[18]
テンプレートを表示

早埼(はやさき)[19]は、日本海軍運送艦[3](給糧艦[2])。 杵埼型給糧艦の1隻[3]。 艦名は岬の名で、早埼宮城県牡鹿半島東岸、女川湾の南角に当たる[20]

艦歴

[編集]

昭和16年(1941年)度(後にマル臨計画と呼称[6])に雑役船として計画された[2]1941年(昭和16年)12月2日、大阪鉄工所桜島工場で起工[2]1942年(昭和17年)4月8日早埼(ハヤサキ)と命名[19]、 同日、特務艦類別等級で運送艦杵埼型に類別された[3]。 5月12日進水、8月31日竣工した[2]

太平洋戦争では主に糧食補給任務に従事した[2]1942年(昭和17年)9月5日、横須賀に回航し、整備を実視した[21]。 9月6日連合艦隊付属に編入[21]。 12月8日横須賀を出港、以後ラバウルへの補給のために2往復した[21]

1943年(昭和18年)2月7日、ラバウル附近で敵潜水艦グロウラーに衝突[21][要検証] 3月2日に横須賀に帰港、修理を行った[21]。 4月3日横須賀出港、マーシャル方面の補給任務[21]。 5月23日横須賀出港、ラバウル方面の補給任務[21]。 7月21日横須賀に入港し、兵装改造工事を行った[21]。 8月16日横須賀出港、ラバウル方面の補給任務に従事[21]。 11月2日ラバウルで爆撃を受け、直撃弾2発が命中した[21]。 12月2日横須賀入港、横浜で修理を行った[21]

1944年(昭和19年)3月19日横須賀出港、以降はパラオダバオタウイタウイスラバヤ方面の補給任務に従事した[21]。 9月14日シンガポールに入港し、修理を行った[21]。 10月5日シンガポール出港、スラバヤ、セレベスの艦船に補給を行った[21]。 12月2日スラバヤ入港[21]

1945年(昭和20年)5月7日にスマトラ北方で触雷、シンガポールで修理中に終戦を迎えた[2]

同年10月5日(日本海軍籍より)除籍[2]1946年(昭和21年)2月20日に特別輸送艦に指定され[7]、 復員輸送に従事、その後特別保管艦に指定された[2]。 第1回から第3回の艦艇引渡に際しては早埼が同行して回航員の帰路の便乗用に使用された[22]。 第2回は1947年(昭和22年)7月26日に佐世保を出港している[22]。 第4回、早埼ソ連引渡の第1群として9月28日に舞鶴を出港(第2群は佐世保発)、10月1日にナホトカ[23]、 10月3日、早埼は賠償艦としてソ連に引き渡された[2]。 同日付で早埼は横須賀地方復員局所管から解かれた[24](除籍)。

1949年から1950年にかけて同艦が芝浦ふ頭でたびたび見られたという[22]

脚注

[編集]
  1. ^ #日本海軍全艦艇史下巻p.868、No.2747の写真解説
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 中川努「主要艦艇艦歴表」#日本海軍全艦艇史資料篇p.32
  3. ^ a b c d e #昭和17年内令2巻/4月(3)画像25-26、昭和17年4月8日内令第615号
  4. ^ #戦史叢書31海軍軍戦備1p.805
  5. ^ #昭和17年内令3巻/8月(4)画像12-14、昭和17年8月31日内令第1625号
  6. ^ a b #戦史叢書31海軍軍戦備1pp.803-804
  7. ^ a b #S20.12-S21.6第2復員省公報/2月(2)画像50、昭和21年2月20日内令第28号
  8. ^ a b c d e f g h i j k l m n o #一般計画要領書(特務艇)p.2、重要寸法等。「註.上記計画ハ昭和十○年○月計画当初ノモノヲ杵埼完成成績ヲ参照シ艦本ニテ調○セルモノナリ.」
  9. ^ a b c d e f #一般計画要領書(特務艇)p.22、重量比較表
  10. ^ a b #一般計画要領書(特務艇)p.29、復原性能
  11. ^ a b c #一般計画要領書(特務艇)p.14、機関
  12. ^ a b #海軍造船技術概要p.917。
  13. ^ #一般計画要領書(特務艇)p.16、乗員表
  14. ^ 昭和17年4月1日付 内令第560号別表。アジア歴史資料センター レファレンスコード C12070162200 で閲覧可能。
  15. ^ #昭和17年内令3巻/8月(4)画像19-20、昭和17年8月31日内令第1636号
  16. ^ a b #一般計画要領書(特務艇)p.4、砲熕兵装
  17. ^ #一般計画要領書(特務艇)p.10、電気兵装
  18. ^ a b #一般計画要領書(特務艇)p.18、主要ナル艤装品
  19. ^ a b #S17.1-12達/4月(2)画像3-4、昭和17年4月8日達第111号
  20. ^ 銘銘伝 2014, p. 598.
  21. ^ a b c d e f g h i j k l m n o #写真日本の軍艦第13巻p.46、伊達久「『特務艦』行動年表」早埼(給糧艦)
  22. ^ a b c #終戦と帝国艦艇(2011)p.192写真解説
  23. ^ #第4回ソ連引渡回航報告画像1
  24. ^ #S21.10.7-S23.1.1第2復員局公報/昭和22年10月画像1、昭和22年10月3日復2第713号。

参考文献

[編集]
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『昭和17年1月~12月 達/4月(2)』。Ref.C12070114700。 
    • 『昭和17年4月~6月 内令 2巻/昭和17年4月(3)』。Ref.C12070162300。 
    • 『昭和17年7月~9月 内令 3巻/昭和17年8月分(4)』。Ref.C12070164700。 
    • 『自昭和20年12月 至昭和21年6月 第2復員省公報/2月(2)』。Ref.C12070535700。 
    • 『昭和21年10月7日 昭和23年1月1日 復員庁第2復員局公報/昭和22年10月』。Ref.C12070540700。 
    • 『第4回対「ソ」連引渡艦「ナホトカ」廻航報告』。Ref.C08011239700。 
  • 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝<普及版> 全八六〇余隻の栄光と悲劇』潮書房光人社、2014年4月(原著1993年)。ISBN 978-4-7698-1565-5 
  • 福井静夫『終戦と帝国艦艇 わが海軍の終焉と艦艇の帰趨』光人社、2011年1月(原著1961年)。ISBN 978-4-7698-1488-7 
  • 福井静夫『写真 日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』 戦史叢書第31巻、朝雲新聞社、1969年。 
  • 牧野茂、福井静夫 編『海軍造船技術概要』今日の話題社、1987年5月。ISBN 4-87565-205-4 
  • 雑誌「丸」編集部 編『写真 日本の軍艦 第13巻 小艦艇I』光人社、1990年8月。ISBN 4-7698-0463-6 
  • 「特務艇 一般計画要領書 附現状調査」。