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鈴谷 (通報艦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ノヴィーク
完成時[1]
完成時[1]
基本情報
建造所 ドイツ・シーシャウ造船所[2]
艦種 防護巡洋艦[3]
艦歴
起工 1898年[3]
進水 1900年8月15日[4]
竣工 1901年[3]
最期 1904年擱座放棄
その後 日本海軍が捕獲
要目([3]
排水量 3,080英トン
水線長 360 ftin (109.86 m)
40 ft (12.19 m)
吃水 16 ft 5 in (5.00 m)
ボイラー シュルツ・ソーニクロフト缶 12基
主機 直立3段膨張レシプロ
推進 3軸
出力 計画:17,000ihp
公試:19,000ihp
速力 計画:25ノット
公試:25.6ノット
燃料 石炭:500英トン(満載)
乗員 337名
兵装 45口径12cm砲 6門
3ポンド砲 6門
15インチ水上魚雷発射管 5門
その他 船材:[2]
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鈴谷(すずや)は、日本海軍通報艦[2]。 艦名は樺太(現在のサハリン)大泊(現コルサコフ)に河口のある鈴谷川からとられる[2]

概要

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元はロシア帝国の二等防護巡洋艦「ノヴィーク(Новик)」[注釈 1] (日本語表記にはノーウィック[1]などがある)。 速力25ノットは当時の巡洋艦より数ノット優勢であり、高速の偵察巡洋艦として世界的に有名だった[5]

日露戦争黄海海戦に参加し、単独で逃走したが樺太の大泊付近で「千歳」「対馬」に発見・攻撃され擱座処分とされた(コルサコフ海戦)。その後日本軍が引き上げて横須賀海軍工廠で整備、1906年(明治39年)8月20日「鈴谷」として日本海軍の艦籍入りをした。ただし被害が大きかったために完全復旧は諦め、3軸だったものを1軸推進とし、ボイラーの数も減少、そのため速力は19ノットに低下していた。

就役後の大部分は旅順警備艦として使用された[4]が、在籍8年目(就役は5年弱)という短期間で除籍された。

艦型

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ノヴィーク

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3本煙突、1本マスト[4] の防護巡洋艦[3]。 当時は超高速巡洋艦や軽巡洋艦の先駆けで、駆逐艦襲撃や強力偵察に威力があった[1]。 艦首にはラムを持つ[3]

鈴谷

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鈴谷
1908年(明治41年)11月7日、呉軍港での「鈴谷」[6]
1908年(明治41年)11月7日、呉軍港での「鈴谷」[6]
基本情報
運用者  大日本帝国海軍
艦種 通報艦[7]
1912年8月28日:二等海防艦[8]
母港 旅順[9]
艦歴
就役 1906年8月20日、日本海軍籍に編入[2]
除籍 1913年4月1日[2]
その後 売却[10]
要目([11]
排水量 3,000英トン[2]
長さ 348 ft (106.07 m)
39 ft 4 in (11.99 m)
吃水 19 ft (5.79 m)
ボイラー ソーニクロフト式缶[9]
4基(1912年時)[12]
主機 4気筒3段膨張レシプロ 1基
推進 1軸
速力 19ノット[2]
燃料 石炭
乗員 定員:312名(1906年9月3日制定)[13]
兵装 1911年時
40口径安式4.7インチ(12cm)砲 4門[14]
40口径安式3インチ(7.6cm)砲 2門[14]
15インチ[15](45cm)露式水上ヒ形(旋回[16])発射管 4門[17]
装甲 2インチ(51mm[5])クルップニッケル甲鈑
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ノヴィークより速力が落ちたために日本海軍では通報艦に類別、警備用の大型砲艦的な使用を前提とした[18]。 ボイラー数減少により1番煙突を撤去[4]、 1本マスト、2本煙突の特徴的な外観となった[6]

機関

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上記の通り、推進を1軸(中央のみ)としボイラー数を減少、速力は19ノットに落ちた[6][4]。 明治45年(大正元年)の公文備考によるとボイラー数は4基[12]。 同年に1基(第9号缶)が故障したが、残りの3基で16.5ノットが可能で[19]、 役務変更まで修理は行われないことになった[20]

兵装

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出典により様々なデータがある。

  • 『海軍艦艇史2』(1980):12cm砲6門、水上発射管 5門[6]
  • 『聯合艦隊軍艦銘銘伝』(1993):10.2cm砲 2門、3インチ砲 4門[4]
  • 『日本海軍全艦艇史』(1994):45口径12cm単装砲 6門、4.7cm単装砲 8門、45cm水上魚雷発射管 5門[11]
  • 『日本海軍史』第7巻(1995):12cm単装砲 6門、4.7cm単装砲 8門、魚雷発射管 5門[21]

変遷

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1909年(明治42年) 2月10日、ビルジキール新設の認許[22]。 前年の大演習参加時に横風時などに傾斜最大40度以上、平均でも30度超になり、探照灯の使用が困難になる場合があった[23] バラスト搭載の影響と思われ[23]、 排水量約2,600英トンの時にGMが3 ft 8 in (1,120 mm)と著しく高かったため、ビルジキール装備が判断された[22]

1911年(明治44年)に 四三式一号送信機1組、同受信機1組を新たに装備、そのために無線電信室の位置を変更し、また後部兵員室の水嚢棚11人分を移動して無線用の3kW交流発電機を設置した[24]。 また既存のマストの上に長さ17ft(5.18m)の無線マストを追加し、上端から4ft(1.22m)下の位置に長さ14ft(4.27)の桁を設けて無線桁とした[25]

艦歴

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ノヴィーク

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1898年シーシャウ社で起工[3][注釈 2]1900年8月15日[26]進水[4][27]1901年に竣工した[3][注釈 2]

日露戦争

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1904年2月9日未明、戦艦「ペトロパヴロフスク」以下「ノヴィーク」も含むロシア艦艇が旅順港外に停泊していたところを日本の駆逐隊が襲撃し、戦艦「ツェサレーヴィチ」、「レトヴィザン」と巡洋艦1隻が被雷[28]。次いで同日昼には日本海軍の第一戦隊(三笠、朝日、富士、八島、敷島、初瀬)、第二戦隊(出雲、吾妻、八雲、常盤、磐手)、第三戦隊(笠置、千歳、高砂、吉野)がロシア側と交戦した[29]。「ノヴィーク」は列から離れ、快速を生かして奮戦したが、「八雲」から命中弾を受けてマストが倒れた[30]

3月10日、駆逐艦「レシーチェリヌイ」と「スチェレグーシチー」が日本の第三駆逐隊(薄雲、東雲、曙、漣)の攻撃を受け、「スチェレグーシチー」は日本側に捕獲された[31]。「ノヴィーク」と巡洋艦「バヤーン」が「スチェレグーシチー」救援に向かい、日本側が「スチェレグーシチー」を曳航しようとしているところに現れて日本の駆逐艦を砲撃したが、日本の第四戦隊(浪速、高千穂、新高)が現れるとロシア側は退避した[32]

戦艦「ペトロパヴロフスク」が触雷沈没することになった4月13日の出撃に「ノヴィーク」も参加している[33]

6月23日、戦艦「ツェサレーヴィチ」以下「ノヴィーク」も含むロシア艦隊は出港したが、日本艦隊と遭遇すると引き返した[34]

6月26日、日本軍の第三軍が大連西方の剣山を攻撃[35]。それに対し、「ノヴィーク」、砲艦3隻、駆逐艦14隻が出撃して日本軍を砲撃した[35]。翌日も「ノヴィーク」などが出撃して砲撃を行っている[35]。7月3日から4日にかけてロシア軍は剣山奪還を試み、「ノヴィーク」なども3日に出撃して支援したが、反攻は失敗に終わった[36]。「ノヴィーク」は砲艦、駆逐艦とともに4日と5日にも出撃し、5日には剣山の日本軍を砲撃した[37]

7月26日、「ノヴィーク」は竜王塘湾西方で日本の掃海隊を攻撃し、仮装砲艦「吉田川丸」と「宇和島丸」に命中弾を与えた[38]

8月8日、日本軍の攻撃を受けていた大孤山の地上軍支援のため、「ノヴィーク」は砲艦「ボーブル」や駆逐艦とともに出撃して日本軍を砲撃したが、日本の第四戦隊と第五戦隊が接近すると撤退した[39]。その後大孤山は陥落[40]。8月9日、「ノヴィーク」や砲艦、駆逐艦が大河湾へ出撃して大孤山などの日本軍陣地を砲撃した[40]。それに対して日本軍は第五戦隊が大河湾へ向かい、「厳島」が「ノヴィーク」と交戦した[40]。この交戦で「厳島」側は死者14名を出した[40]

1904年8月10日の黄海海戦に参加し小破[41]

「ノヴィーク」は巡洋艦「アスコリド」とともに逃走したが、故障した復水器の修理中に「アスコリド」とはぐれ、単独でウラジオストクを目指す[42]。しかし8月11日朝に石炭不足が判明し、青島へ向かった[42]。「ノヴィーク」は同日中に青島に到着し、石炭を積んで翌日出港[42]。日本の東を回ってウラジオストクへ行こうとしたが、復水器の不調により石炭消費量が多かったため8月20日6時55分にコルサコフに入港した[43]。日本側は「千歳」と「対馬」を津軽海峡方面へ派遣[42]。次いで「ノヴィーク」が国後海峡を通過する可能性があるとの情報により、「千歳」は宗谷海峡、「対馬」は大島付近へ向かった[42]。「ノヴィーク」の国後海峡通過の情報が8月19日午後届くと翌日2隻は合流し、それから「対馬」はコルサコフへ向かった[43]。「ノヴィーク」は17時20分日本艦の煙を発見し、出港した[44]。18時5分、距離8000mで「ノヴィーク」と「対馬」は戦闘を開始[44]。「ノヴィーク」は被弾が続いて戦闘続行不可能となる[45]。「ノヴィーク」はコルサコフへ向かい「対馬」は追撃したが、被弾して浸水し艦が傾いたため「対馬」は追撃を止めた[45]。この戦闘で「ノヴィーク」では2名が死亡し15名が負傷した[46]。日本側は「対馬」に代わって「千歳」が「ノヴィーク」を監視し、被害甚大の上、日本艦がいることで「ノヴィーク」の艦長は自沈を決めた[46]。「ノヴィーク」は港外で自沈し、8月21日8時25分に完全に沈んだ[46]。右舷に30度傾き、煙突やマストなどが水面上に出ている状態であった[46]

鈴谷

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救難作業

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自沈したノヴィーク

1905年(明治38年)8月、日本海軍が引き上げ作業を開始[41]。 「栗橋丸」などが作業を行った[47]。 冬期は作業を中止し、翌1906年(明治39年)6月10日に作業を再開、7月13日に浮揚した[41]。 工作船「関東丸」が曳航して7月31日大泊発、8月5日に函館港に入港し応急修理の為に入渠した[47]

同年8月20日艦籍に編入[2]、 「鈴谷(スズヤ)」と命名[48]、 9月3日通報艦に類別された[7]。 その後函館で応急修理、 9月12日出渠[49]、 9月26日に函館を出港[47]、 工作船「関東丸」で横須賀へ回航され[18]、 9月28日横須賀軍港に入港した[47]横須賀海軍工廠で本格整備を行った。 1908年(明治41年) 9月もしくは10月、整備完了。

明治41年大演習観艦式

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同年10月31日、二重底で漏水し航行に危険があったため神戸に寄港し停泊[50]、 11月1日神戸を出港し呉軍港に向かった[51]。 この航海の前後に種々の故障があった[52]

11月17日、神戸沖で行われた大演習観艦式に参列[53]、 第3列13番目に停泊した[54]

1910年

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1909年(明治42年) 11月22日佐世保港を出港、以降旅順方面の警備活動を行った[55]

1910年

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1910年(明治43年) 5月6日佐世保に帰港[55]、 5月20日佐世保を出港した[55]

1911年

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1911年(明治44年) 2月24日佐世保に帰港した[55]。 3月12日仁川を出港[55]、 5月4日佐世保に帰港した[55]。 5月23日佐世保を出港した[55]

1912年

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1912年(明治45年) 5月15日佐世保に帰港、5月23日出港した[55]

海防艦

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1912年(大正元年)8月28日二等海防艦に類別が変更された[4][8]。 10月に「津軽]」と共に威海衛膠州湾へ航海し、訓練、視察、水路研究を行う計画(10月13日旅順発、18日旅順着の予定[56])があったが[57]、 都合により中止となった[58]。 10月29日に鎮南浦に一時寄港、31日出港した[55]。 12月2日大同江に入港、4日出港した[55]

除籍

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1913年(大正2年) 2月6日、『「鈴谷」は来年度(4月1日以降)に廃艦予定のために佐世保軍港へ帰投するよう』に旅順鎮守府へ令達され[59]、 2月14日海州邑に入港、20日仁川を出港した[55]。 「鈴谷」は3月25日旅順発、31日佐世保着の予定とされ[60]、 3月29日所安島に到着した[55]

4月1日除籍[2]、艦艇類別等級表から削除[61]。 6月12日売却の訓令、「大阪市青山新三郎に75,000円で売却」の報告が11月1日に提出された[10]

艦長

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ノヴィーク

日露戦争開戦時にはニコライ・フォン・エッセンが艦長を務めていた。なお、司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』では黄海海戦時の艦長をエッセンとしているが、すでに戦艦セヴァストポリの艦長となっていたためこれは誤りである。

鈴谷

※『日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」及び『官報』に基づく。

  • 茶山豊也 大佐:1906年10月20日 - 1907年4月18日
  • (兼)吉見乾海 大佐:1907年4月18日 - 1907年7月1日
  • (兼)仙頭武央 大佐:1907年7月1日 - 1908年2月26日
  • 小栗孝三郎 大佐:1908年2月26日 - 1908年5月15日
  • (兼)小栗孝三郎 大佐:1908年5月15日 - 1908年7月11日
  • (兼)笠間直 大佐:1908年7月11日 - 1908年8月15日
  • (臨時)釜屋六郎:1908年大演習時[62]
  • 志津田定一郎 中佐:1909年5月25日 -
  • 志津田定一郎 中佐:1909年11月1日 - 1910年12月1日
  • 川原袈裟太郎 中佐:1910年12月1日 - 1911年2月7日
  • 関重孝 中佐:1911年2月7日 - 1911年12月1日
  • 佐藤皐蔵 大佐:1911年12月1日 - 1913年4月1日

同型艦

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ノヴィーク

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  • Zemtchug(ゼムチューグ)[1]
  • Izumrud(イズムルード)[1]

脚注

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注釈

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  1. ^ 片仮名表記稲子恒夫編著『ロシアの20世紀』東洋書店2007年に基づく。
  2. ^ a b 『日本海軍史 第7巻』によると1899年(明治32年)起工、1901年(明治34年)竣工。『聯合艦隊軍艦銘銘伝』によると1898年(明治31年)ドイツのシーシャウ社で起工、1902年(明治35年)竣工。

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e #海軍艦艇史2巡洋艦(1980)p.136、写真No.2208の解説
  2. ^ a b c d e f g h i j 日本海軍艦船名考 1928, p. 154「180 鈴谷 すずや Suzuya.」
  3. ^ a b c d e f g h Conway1860-1905, p. 196,NOVIC
  4. ^ a b c d e f g h 『聯合艦隊軍艦銘銘伝』p.134
  5. ^ a b 『日本の軍艦 第5巻』p250。
  6. ^ a b c d #海軍艦艇史2巡洋艦(1980)p.138、写真No.2214の解説
  7. ^ a b 海軍制度沿革8 1971, p. 69『明治三十九年九月三日(達一一五) 艦艇類別等級別表中通報艦ノ欄内「姉川」ノ次ニ「鈴谷」ヲ加フ』
  8. ^ a b 海軍制度沿革8 1971, pp. 72–74『大正元年八月二十八日(達一二) 艦艇類別等級別表ノ通改正ス』
  9. ^ a b #M44公文備考23/試験検査(4)画像24、旅順鎮守府明治四十四年検定汽醸集合成績表
  10. ^ a b #T2公文備考22/亡失、売却及撤去、処分(3)画像49-50、大正2年11月1日佐鎮第17号の91。
  11. ^ a b #阿部要目表1994p.50
  12. ^ a b #M45(T1)公文備考31/修理改造 大正元年分(4)画像19、軍艦鈴谷第九号罐修理ニ関スル件「本艦ノ現ニ装備シアル罐四個ノ内第九号罐以外ノ他ノ三罐モ(以下略)」
  13. ^ #海軍制度沿革10-1(1972)p.491、「通報艦定員表 其五」「将校同相当官23人、准士官7人、下士60人、卒222人」
  14. ^ a b #M44公文備考68/艦砲検定射撃成績表(5)画像2、「旅順鎮守府検定射撃各艦艇砲種別成績表(軍艦)」
  15. ^ #M44公文備考72/魚形水雷戦闘発射(2)画像36、「魚形水雷発射報告第二表」
  16. ^ #M44公文備考72/魚形水雷戦闘発射(4)画像37、「旅順鎮守府明治四十四年度軍艦教練発射集合成績表」
  17. ^ #M44公文備考75/魚形水雷発射集合成績表(2)画像9、「軍艦鈴谷明治四十四年度魚形水雷発射集合成績報告」
  18. ^ a b #日本海軍全艦艇史(1994)p.470、写真No.1148の解説
  19. ^ #M45(T1)公文備考31/修理改造 大正元年分(4)画像16-17、大正元年8月31日旅鎮第105号の2「軍艦鈴谷罐修理ニ関スル件」
  20. ^ #M45(T1)公文備考31/修理改造 大正元年分(4)画像14、大正元年9月20日官房第417号の2「旅鎮第一〇五號ノ二上申軍艦鈴谷第九號罐修理ヲ役務変更迄著手セザルノ件認許ス」
  21. ^ 『日本軍艦史 第7巻』p208-209
  22. ^ a b #M42公文備考17/修理(2)画像39-40、明治42年2月10日官房第308号の2『横廠第四号ノ五軍艦鈴谷「ビルジキール」新設ノ件認許ス 備考 本艦ノGM.ハ今日普通ノ状態ニ於テ約三呎八吋(排水量約二六〇〇)ニシテ著シク高キニ○○ル○之ヲ減少スルノ方法ナキヲ以テ「ビルジキール」新設然ルベシト認ム』
  23. ^ a b #M42公文備考17/修理(2)画像42-43
  24. ^ #M44公文備考22/改造修理2止(6)画像35-48
  25. ^ #M44公文備考22/改造修理2止(3)画像29-34
  26. ^ グレゴリオ暦、以下同じ
  27. ^ Anthony J. Watts, The Imperial Russian Navy, p. 98
  28. ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』18-22ページ
  29. ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』5-6、26-28ページ
  30. ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』27ページ
  31. ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』55-57ページ
  32. ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』57ページ
  33. ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』75-80ページ
  34. ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』123-125、127-129ページ
  35. ^ a b c 真鍋重忠『日露旅順海戦史』134ページ
  36. ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』134-135ページ
  37. ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』135ページ
  38. ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』138ページ
  39. ^ 真鍋重忠『日露旅順海戦史』143-144ページ
  40. ^ a b c d 真鍋重忠『日露旅順海戦史』144ページ
  41. ^ a b c #海軍艦艇史2巡洋艦(1980)p.136、写真No.2209の解説
  42. ^ a b c d e 真鍋重忠『日露旅順海戦史』192ページ
  43. ^ a b 真鍋重忠『日露旅順海戦史』192-193ページ
  44. ^ a b 真鍋重忠『日露旅順海戦史』193ページ
  45. ^ a b 真鍋重忠『日露旅順海戦史』194ページ
  46. ^ a b c d 真鍋重忠『日露旅順海戦史』195ページ
  47. ^ a b c d #海軍艦艇史2巡洋艦(1980)p.136、写真No.2210の解説
  48. ^ 海軍制度沿革8 1971, p. 359戦利軍艦鈴谷命名ノ件 明治三十九年八月二十日(達一一一) 戦利軍艦「ノーヴヰック」ヲ鈴谷(スズヤ)ト命名セラル
  49. ^ #M39公文備考17/造修6止(6)画像43、9月12日函館発電報「鈴谷水試シノ結果良好只今出渠ス 本月十二日 関東丸指揮官」
  50. ^ #M41公文備考9/試験検査(3)画像40-41、10月31日神戸局発電報「電報要領暗号 大臣宛 臨時鈴谷艦長 三一日午後四時十分無電 二重底内底漏洩ノ為 汚水.貯水ニ混合シ貯水濃分増進シ此侭航行危険ト認ム右漏洩検査並ニ貯水入替ノ為当港ニ停泊ス明朝出港二日呉軍港着ノ豫定」
  51. ^ #M41公文備考9/試験検査(3)画像43、11月1日神戸相生発電報「呉軍港ニ向ケ発 鈴谷艦長」
  52. ^ #M41公文備考34/雑(6)画像14-35、明治41年11月4日鈴機密第127号「横須賀ヨリ呉ニ至ル航海中諸故障報告ノ件」
  53. ^ #M41公文備考40/行幸御次第書並勅語(2)画像2-3、「御召艦供奉艦及観艦式ニ参列スル艦艇]」
  54. ^ #M41公文備考40/行幸御次第書並勅語(2)画像10-13、「明治四十一年十一月十七日神戸沖観艦式諸艦船配列位置図」
  55. ^ a b c d e f g h i j k l #S9.12.31恩給叙勲年加算調査(下)/軍艦(3)画像45-46、旧鈴谷
  56. ^ #M45(T1)公文備考20/艦船行動回航及派遣(4)画像44、「巡航予定発着表」
  57. ^ #M45(T1)公文備考20/艦船行動回航及派遣(4)画像42、大正元年9月21日旅鎮第21号ノ10「軍艦鈴谷ヲ威海衛及膠州湾ニ派遣ノ件」
  58. ^ #M45(T1)公文備考20/艦船行動回航及派遣(4)画像34、「旅鎮第二一号ノ三〇上申鈴谷ヲ威海衛及青島ニ派遣ノ件ハ作業ノ都合ニ依リ取止メラレタルニ付書類一度返却サレタシ」
  59. ^ #T2公文備考22/行動回航及派遣、航路予定(5)画像18-19、大正2年3月6日電報「軍艦鈴谷ハ来年度ヨリ廃艦ノ豫定ナルヲ以テ三月中ニ本籍軍港ニ帰投セシメラレタシ(以下略)」
  60. ^ #T2公文備考22/行動回航及派遣、航路予定(5)画像37、大正2年3月20日旅鎮機密第106号の3「軍艦鈴谷帰朝ノ件 本月6日海軍次官ヨリ電報ノ次第モ有シ軍艦鈴谷ハ来ル二十五日出港三十一日佐世保帰朝ノ事ニ豫定致候條 右報告ス」
  61. ^ #海軍制度沿革(巻8、1940) 74頁。◎大正二年四月一日(達六六) 艦艇類別等級別表中軍艦ノ欄内「鈴谷」「葛城」ヲ、驅逐艦ノ欄内「文月」「皐月」「漣」「卷雲」「敷波」「霞」ヲ、水雷艇ノ欄内「第三十號」「第二十五號」「第五十五號」「第五十六號」「第五十七號」「第三十一號」「第三十二號」「第三十六號」「第三十七號」「第三十八號」「第三十九號」「第四十號」「第四十一號」「第四十三號」「第四十四號」「第四十五號」「第四十六號」「第六十二號」「第六十三號」「第六十四號」「第六十五號」ヲ削ル。
  62. ^ #M42公文備考17/修理(2)画像42

参考文献

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  • Rober Gardiner, Roger Chesneau, Eugene Kolesnik ed. (1979). Conway's All The World's Fighting Ships, 1860-1905. (first American ed.). Mayflower Books. ISBN 0-8317-0302-4 
  • 浅井将秀/編『日本海軍艦船名考』東京水交社、1928年12月。 
  • 真鍋重忠『日露旅順海戦史』吉川弘文館、1985年、ISBN 4-642-07251-9
  • Anthony J. Watts, The Imperial Russian Navy, Arms and Armour Press, 1990, ISBN 0-85368-912-1
  • アジア歴史資料センター [1]
    • 『明治39年 公文備考 艦船7 巻16/造修 6止(3)』。Ref.C06091741300。 
    • 『明治39年 公文備考 艦船7 巻16/造修 6止(6)』。Ref.C06091741600。 
    • 『明治41年 公文備考 艦船2 巻9/試験検査(3)』。Ref.C06091993400。 
    • 『明治41年 公文備考 艦船27止 巻34/雑(6)』。Ref.C06092033900。 
    • 『明治41年 公文備考 演習2 大演習観艦式2 巻40/行幸御次第書並勅語(2)』。Ref.C06092043900。 
    • 『明治42年 公文備考 艦船2 巻17/修理(2)』。Ref.C06092161200。 
    • 『明治44年 公文備考 演習2 巻68/艦砲検定射撃成績表(5)』。Ref.C07090193500。 
    • 『明治44年 公文備考 艦船6 巻22/改造修理2止(3)』。Ref.C07090134000。 
    • 『明治44年 公文備考 艦船6 巻22/改造修理2止(6)』。Ref.C07090134300。 
    • 『明治44年 公文備考 艦船7 巻23/試験検査(4)』。Ref.C07090135200。 
    • 『明治44年 公文備考 演習6 巻72/魚形水雷戦闘発射(2)』。Ref.C07090197300。 
    • 『明治44年 公文備考 演習6 巻72/魚形水雷戦闘発射(4)』。Ref.C07090197500。 
    • 『明治44年 公文備考 演習9 巻75/魚形水雷発射集合成績表(2)』。Ref.C07090199800。 
    • 『明治45年 大正元年 公文備考 艦船5 巻31/修理改造 大正元年分(4)』。Ref.C08020043700。 
    • 『明治45年 大正元年 公文備考 艦船20 巻46/艦船行動回航及派遣(4)』。Ref.C08020065700。 
    • 『大正2年 公文備考 艦船3 巻22/亡失、売却及撤去、処分(3)』。Ref.C08020260400。 
    • 『大正2年 公文備考 艦船3 巻22/行動回航及派遣、航路予定(5)』。Ref.C08020261000。 
    • 「除籍艦艇/軍艦(3)」『恩給叙勲年加算調査 下巻 除籍艦艇 船舶及特務艇 昭和9年12月31日』、Ref.C14010005700。 
  • 海軍省/編『海軍制度沿革 巻八』 明治百年史叢書 第180巻、原書房、1971年10月(原著1941年)。 
  • 海軍省/編『海軍制度沿革 巻十の1』 明治百年史叢書 第182巻、原書房、1972年4月(原著1940年)。 
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝』(光人社、1993年) ISBN 4-7698-0386-9
  • 国立国会図書館デジタルコレクション - 国立国会図書館
  • 福井静夫『海軍艦艇史 2 巡洋艦コルベット・スループ』KKベストセラーズ、1980年6月。 
  • 福井静夫『写真 日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。ISBN 4-584-17054-1 
    • 阿部安雄、協力:福井静夫「主要艦艇要目表」『写真 日本海軍全艦艇史 資料篇』、ベストセラーズ、1994年10月1日、ISBN 4-584-17054-1 
  • 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第5巻 重巡I』(光人社、1989年) ISBN 4-7698-0455-5
  • 官報

関連項目

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