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小栗孝三郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
小栗おぐり 孝三郎こうざぶろう
1917年
生誕 1868年9月19日
慶応4年8月4日
死没 (1944-10-15) 1944年10月15日(76歳没)
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1890年 - 1923年
最終階級 海軍大将
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小栗 孝三郎(おぐり こうざぶろう、1868年9月19日慶応4年8月4日)- 1944年昭和19年)10月15日)は、日本海軍軍人。最終階級は海軍大将

経歴

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大聖寺藩士・小栗勇馬(禄高:200石[1])の三男として生まれる。共立学校を経て、1889年海軍兵学校15期生)を卒業し、1890年少尉任官。1893年海軍大学校(丙号学生)を卒業し「松島」乗組、以後、佐世保海兵団分隊長、装甲艦「比叡(初代)」分隊長、西海艦隊参謀、砲艦「磐城」航海長、「天龍」航海長、常備艦隊参謀などを経て、1901年、海軍大学校(将校科甲種第2期)を卒業し、海軍省副官海相秘書官となり山本権兵衛大臣に仕えた。

1903年から翌年までイギリスに駐在し、英海軍大学校戦術科に学び、潜水艇に興味を持つ。帰国後、軍令部参謀となるが、潜水艇研究を願い出て認められ、1904年6月から11月まで米英出張。アメリカに発注した潜水艇の工事検分、完成後に分解し日本へ積み出し、英国で潜水艇の航海体験などをして帰国。

その後、潜水艇の横須賀工廠艤装委員、第1潜水艇隊司令を歴任。1906年にイギリスに出張し、購入を条件に最新式の潜水艇を検分し帰国するが、艦政本部がその購入を認めず、その責任を取って休職。しかし、山本海軍大臣が5隻購入を決定し現役復帰を決意。以後、水雷母艦「韓崎艦長通報艦鈴谷(初代)」艦長、水路部測器科長、海軍省副官、「香取」艦長、艦政本部第1部長などを歴任し、1913年海軍少将となり、イギリス大使館付武官、軍務局長、第6戦隊司令官、第1特務艦隊司令官呉工廠長、将官会議議員、第3艦隊長官を歴任。1921年東宮訪欧に随行。

さらに、舞鶴鎮守府長官、将官会議議員を経て、1923年海軍大将1938年退役した。

ドイツ文学者で詩人の小栗孝則は長男である[2]

年譜

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栄典・授章・授賞

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位階
勲章等
外国勲章佩用允許

脚注

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  1. ^ 『石川県史 第貳編』石川県、1928年、1566頁。 
  2. ^ 「読売新聞」1925年7月21日「不景気風は武勲の家にも 三浦のかた田舎に引つこむ小栗海軍大将の一家」
  3. ^ 『官報』第2539号「叙任及辞令」明治24年12月15日
  4. ^ 『官報』第3453号「叙任及辞令」1895年1月4日。
  5. ^ 『官報』第4402号「叙任及辞令」1898年3月9日。
  6. ^ 『官報』第4902号「叙任及辞令」1899年11月1日。
  7. ^ 『官報』第6142号「叙任及辞令」1903年12月21日。
  8. ^ 『官報』第3729号「叙任及辞令」1907年12月2日。
  9. ^ 『官報』第159号「叙任及辞令」1913年2月12日。
  10. ^ 『官報』第1466号「叙任及辞令」1917年6月21日。
  11. ^ 『官報』第2517号「叙任及辞令」1920年12月21日。
  12. ^ 『官報』第3369号「叙任及辞令」1923年11月14日。
  13. ^ 『官報』第3483号「叙任及辞令」1924年4月7日。
  14. ^ 『官報』第1190号「叙任及辞令」1916年7月19日。
  15. ^ 『官報』第2858号・付録「辞令」1922年2月14日。
  16. ^ 『官報』第3858号・付録「辞令」1896年5月12日。
  17. ^ 『官報』第1023号「叙任及辞令」1915年12月28日。
  18. ^ a b c d 『官報』第3369号「叙任及辞令」1919年1月24日。

参考文献

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  • 半藤一利他『歴代海軍大将全覧』中央公論新社〈中公新書ラクレ〉、2005年。
  • 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
  • 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。