中溝徳太郎
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中溝 徳太郎(なかみぞ とくたろう、1858年2月5日(安政4年12月22日) - 1923年(大正12年)2月13日)は、日本の海軍軍人、最終階級は海軍中将。男爵。
経歴
[編集]佐賀藩士・中溝孝稠の長男として生まれる。攻玉社を経て、1878年7月、海軍兵学校(5期)を卒業し、1881年1月、海軍少尉任官。「葛城」「大和」の各分隊長、海軍省艦政局、「浪速」水雷長、「八重山」副長、横須賀水雷隊施設部司令、千代田副長などを歴任し、日清戦争に「秋津洲」副長として出征した。
旅順口水雷敷設隊司令、「愛宕」艦長、臨時海軍建築部舞鶴支部長、兼舞鶴水雷団長、イギリス公使館付、舞鶴鎮守府参謀長、イギリス駐在、などを経て、1903年7月、海軍少将に進級。常備艦隊司令官、海軍省軍務局長などを経て、日露戦争時は呉鎮守府参謀長、舞鶴工廠長を務めた。1907年3月、海軍中将となり、軍務局長を務めた後、1909年12月に待命となり、1911年4月17日、予備役に編入された[1]。
1907年9月、男爵の爵位を授爵し華族となり、1911年7月10日から[2]1918年7月9日まで貴族院議員を務めた[3]。
栄典
[編集]- 位階
- 1883年(明治16年)12月25日 - 従七位[4]
- 1886年(明治19年)11月27日 - 正七位[5]
- 1892年(明治25年)3月23日 - 従六位[6]
- 1896年(明治29年)12月21日 - 正六位[7]
- 1898年(明治31年)3月8日 - 従五位[8]
- 1903年(明治36年)4月20日 - 正五位[9]
- 1907年(明治40年)5月10日 - 従四位[10]
- 勲章等
- 1894年(明治27年)11月24日 - 勲五等瑞宝章[11]
- 1895年(明治28年)
- 1906年(明治39年)4月1日 - 勲二等旭日重光章・功三級金鵄勲章・明治三十七八年従軍記章[14]
- 1907年(明治40年)9月21日 - 男爵[15]
親族
[編集]脚注
[編集]- ^ 『官報』第8343号、明治44年4月18日。
- ^ 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、20頁。
- ^ 『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』79-80頁。
- ^ 『官報』第183号「叙任」1884年2月12日。
- ^ 『官報』第1033号「叙任」1886年12月8日。
- ^ 『官報』第2617号「叙任及辞令」1892年3月24日。
- ^ 『官報』第4046号「叙任及辞令」1896年12月22日。
- ^ 『官報』第4402号「叙任及辞令」1898年3月9日。
- ^ 『官報』第5937号「叙任及辞令」1903年4月21日。
- ^ 『官報』第7157号「叙任及辞令」1907年5月11日。
- ^ 『官報』第3430号「叙任及辞令」1894年12月3日。
- ^ 『官報』第3676号「叙任及辞令」1895年9月28日。
- ^ 『官報』第3838号・付録「辞令」1896年4月18日。
- ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1907年1月28日。
- ^ 『官報』第7272号「授爵敍任及辞令」1907年9月23日。
- ^ 千田稔『華族総覧』講談社現代新書、2009年7月、527頁。ISBN 978-4-06-288001-5。
参考文献
[編集]- 『貴族院要覧(丙)』昭和21年12月増訂、貴族院事務局、1947年。
- 衆議院・参議院編『議会制度百年史 - 貴族院・参議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』第2版、東京大学出版会、2005年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
男爵 中溝(徳太郎)家初代 1907年 - 1923年 |
次代 中溝三郎 |