三浦功 (海軍軍人)
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三浦 功 | |
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生誕 | 1850年6月17日 |
死没 | 1919年4月26日(68歳没) |
所属組織 | 大日本帝国海軍 |
軍歴 | 1871 – 1907 |
最終階級 | 海軍中将 |
三浦 功(みうら いさお、嘉永3年5月8日(1850年6月17日) - 大正8年(1919年)4月26日)は、日本の海軍軍人。運用、航海の大家で新井有貫とともに海軍士官の目標とされる存在であった[1]。最終階級は海軍中将。
人物
[編集]幕臣三浦彦五郎の長男として生まれ、戊辰戦争では榎本武揚率いる旧幕府艦隊の一員として宮古湾海戦を戦う。
明治維新の後、「金剛」副長として西南戦争に従軍、北清事変に功績を挙げる[2]。「山城丸」艦長として日清戦争に出征し、旅順口海軍根拠地知港事となるが、三国干渉の結果旅順は清国へ返還となった。
次いで英国に発注された「富士」回航委員長に選ばれる。「富士」は「八島」とともに日本海軍にとって最初の戦艦であり、明治天皇の建艦詔勅、6年におよぶ官吏の給与一割献納などで建造された[3]日本海海戦における主力艦である。運用の神様の異名があった三浦は特にこの任に就いたのである[4]。副長斎藤實少佐が外交交渉などの補佐にあたり[4]、スエズ運河を通過し帰国した。
日露戦争では戦時艦隊集合地港務部長、艦隊附属港務部長として、掃海などに従事。連合艦隊などの安全確保に努め、戦後は旅順口港務部長として同港の整備を行った。この際引き揚げた艦船は340隻におよぶ。「三浦以前に三浦なく、三浦以後に三浦なし」と言われた卓抜した技量の持ち主であった[5]。
年譜
[編集]- 1871年(明治4年)8月- 海軍兵学寮出仕
- 12月 - 海軍少尉
- 1872年(明治5年)11月 - 海軍中尉
- 1875年(明治8年)10月 - 海軍大尉
- 1878年(明治11年)4月 – 金剛副長
- 1879年(明治12年)12月 - 海軍少佐
- 1883年(明治16年)8月 - 天城艦艦長
- 1884年(明治17年)1月 - 肇敏艦長
- 12月 - 天龍艦長
- 1885年(明治18年)6月 - 海軍中佐
- 1886年(明治19年)7月 - 海軍大佐
- 1887年(明治20年)10月 - 海軍兵学校次長兼教務総理
- 1889年 (明治22年)4月 - 比叡艦長
- 1890年(明治23年)7月 - 横須賀鎮守府兵器部長
- 8月 - 八重山艦長
- 1891年(明治24年)8月 - 横須賀鎮守府予備艦船部長兼横須賀知港事
- 1893年(明治26年)5月 - 呉鎮守府艦船部長兼呉知港事
- 1894年(明治27年)7月 - 山城丸艦長
- 12月 - 旅順口海軍根拠地知港事
- 1896年(明治29年)2月 - 富士回航委員長
- 3月 - 英国出張
- 11月 - 富士艦長
- 1898年(明治31年)1月 - 待命
- 5月 - 海軍少将、呉鎮守府兵器部長
- 1900年(明治33年)5月 - 呉港務部長兼予備艦船部長
- 1903年(明治36年)7月 - 待命
- 1904年(明治37年)4月 - 戦時艦隊集合地港務部長
- 1905年(明治38年)1月 - 艦隊附属港務部長、佐世保鎮守府附
- 1906年(明治39年)12月 - 休職
- 1907年(明治40年)2月14日 - 予備役[6]
- 1913年(大正2年)5月8日 - 後備役[7]
- 1915年(大正4年)5月8日 - 退役[8]
栄典・授章・授賞
[編集]- 位階
- 1876年(明治9年)5月25日 - 正七位[9]
- 1885年(明治18年)9月16日 - 正六位[10]
- 1890年(明治23年)11月1日 - 従五位[11]
- 1895年(明治28年)12月20日 - 正五位[12]
- 1901年(明治34年)1月31日 - 従四位[13]
- 1907年(明治40年)3月11日 - 従三位[14]
- 勲章等
- 1886年(明治19年)5月29日 - 勲四等旭日小綬章[15]
- 1893年(明治26年)11月29日 - 勲三等瑞宝章[16]
- 1895年(明治28年)9月27日 - 旭日中綬章・功四級金鵄勲章[17]
- 1902年(明治35年)5月31日 - 勲二等瑞宝章[18]
- 1906年(明治39年)4月1日 - 功三級金鵄勲章、旭日重光章、明治三十七八年従軍記章[19]
関連する人物
[編集]- 富士回航委員
「富士」回航委員中21名の士官には、このほかにのちの中将1名、少将1名、機関中将1名、機関少将1名、軍医総監2名がいた。
- その他
出典
[編集]- ^ 『歴史と名将』81頁
- ^ 『陸海将校の書生時代』272-274頁
- ^ 『大海軍を想う』65頁
- ^ a b 『歴史と名将』82頁
- ^ 『日本軍閥の興亡』254-255頁
- ^ 『官報』第7086号、明治40年2月15日。
- ^ 『官報』第231号、大正2年5月9日。
- ^ 『官報』第829号、大正4年5月10日。
- ^ 『太政官日誌』明治9年1月-6月
- ^ 『官報』第695号「賞勲叙任」1885年10月23日。
- ^ 『官報』第2207号「叙任及辞令」1890年11月6日。
- ^ 『官報』第3746号「叙任及辞令」1895年12月21日。
- ^ 『官報』第5272号「叙任及辞令」1901年2月1日。
- ^ 『官報』第7107号「叙任及辞令」1907年3月12日。
- ^ 『官報』第904号「賞勲叙任」1886年7月7日。
- ^ 『官報』第3131号「叙任及辞令」1893年12月5日。
- ^ 『官報』第3676号「叙任及辞令」1895年9月28日。
- ^ 『官報』第5671号「叙任及辞令」1902年6月2日。
- ^ 『官報』号外、「叙任及辞令」1906年12月30日。
参考文献
[編集]- 「明治30年11月26日 英国に於て製造軍艦富士回航委員として曩に同国へ出張の処今般帰朝拝謁の件」 アジア歴史資料センター Ref.C10126070900 (防衛省防衛研究所所蔵、海軍省-公文雑輯-MM30-1-204)
- 池田清『日本の海軍(上)』朝日ソノラマ、1987年。ISBN 4-257-17083-2。
- 伊藤正徳『大海軍を想う』文藝春秋新社、1956年。
- 海軍歴史保存会『日本海軍史』(9巻)第一法規出版
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4-8295-0003-4。
- 松下芳男『日本軍閥の興亡』芙蓉書房、1975年。
- 山梨勝之進『歴史と名将』毎日新聞社、1981年。
- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典』 東京大学出版会
- 墨堤隠士『陸海将校の書生時代』大学館、1904年。