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釜屋忠道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
釜屋かまや 忠道ちゅうどう
生誕 1862年11月4日
山形県米沢市矢来町
死没 (1939-01-19) 1939年1月19日(76歳没)
神奈川県三浦郡逗子町
所属組織  大日本帝国海軍
軍歴 1886年 - 1915年
最終階級 海軍中将
除隊後 朝日信用金庫組合長[1]
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釜屋 忠道(かまや ちゅうどう、1862年11月4日文久2年9月13日) - 1939年昭和14年)1月19日)は、日本海軍軍人手旗信号の改良で功績があり、日清戦争では第一遊撃隊参謀日露戦争では「龍田」「佐渡丸」の艦長として歴戦した海軍中将である。旧名は源五郎

生涯

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釜屋が回航委員を務め、のちに艦長となる出雲

略歴

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幕末米沢に生まれる。海軍兵学校11期を26名中15番で卒業した。村上格一川島令次郎らが同期生である。米沢では小森沢長政の影響があり、山下源太郎10期)、上泉徳弥12期)、黒井悌次郎13期)、千坂智次郎14期)、釜屋の弟である釜屋六郎(14期、のち中将)などの海兵進学が続き、のちに米沢の海軍と呼ばれることとなる。

釜屋は水雷練習所の教官や、水雷団長などを務めた水雷を専門とする士官であった。1889年(明治22年)、「扶桑」乗組み少尉であった釜屋は、有馬良橘が手旗信号の改良を図っていることを知り、さらなる改善に成功した。

1894年(明治27年)6月、常備艦隊参謀となる。日清戦争を目前とした時期であり、司令長官伊東祐亨であった。7月には日本海軍史上最初の連合艦隊が編成され、釜屋は中村静嘉とともに第一遊撃隊の参謀へ異動となった[2]。司令官・坪井航三を補佐して、豊島沖海戦黄海海戦を戦い、功五級に叙されている[3]。戦後は「出雲」回航委員や軍艦の副長職を務め、「龍田艦長に就任。日露戦争開戦を迎え、日本海海戦では仮装巡洋艦「佐渡丸」艦長として戦った。

その後は4艦の艦長、大湊要港部参謀長などを経て、1910年(明治43年)12月、少将へ昇進。鎮守府参謀長や馬公要港部司令官などを経て、1914年大正3年)、中将に進級し翌年予備役となった。

手旗信号の改良

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手旗信号では最初にこの形をつくり
次いでこの形をなすことで「ア」となる

有馬良橘は、従前の手旗信号から片仮名五十音を用いる新たな手旗信号を開発する実験研究を行っていた。釜屋はこれを見て片仮名の字画を利用することで、「最簡便ナル」手旗信号の開発に成功する[4]。釜屋は生家付近にあった木場で働く人夫たちが用いる「笠信号」に興味を持っており、これを利用した信号方法の開発を考えていたのである[5]

両人によって開発された手旗信号は、1889年(明治22年)に海軍に、4年後には陸軍に導入され、日清戦争で機能した。なお手旗信号は日本海軍軍人の全てが習得を要求された技能である。

日露戦争

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1904年(明治37年)5月15日、釜屋が艦長を務める通報艦龍田」は、第一戦隊司令官梨羽時起に率いられ、ロシア太平洋艦隊封鎖のため、旅順港外の警戒にあたった。僚艦は「初瀬」、「八島」、「敷島」、「笠置」であったが、「初瀬」、「八島」は「アムール」が敷設した機雷に触雷し沈没する。釜屋は「初瀬」乗員の救助、及び出撃したロシア駆逐艦の撃退を行った。「初瀬」の戦死者は452名[6]、「龍田」が救助した人数は、梨羽司令官をはじめ214名である[7]ロシア海軍潜水艇による攻撃という懸念もある中での釜屋の活動を、伊藤正徳は「大童の活躍」と評している[8]。しかしこの作戦行動からの帰途、「龍田」は霧が原因で座礁する。この離礁作業は三浦功の指導の下に成功。「龍田」は横須賀海軍工廠で修理を受け、9月上旬に復帰。旅順港の封鎖作戦に従事し、翌1905年(明治38年)1月の旅順要塞陥落をもって帰還した。なお「初瀬」の乗員救助にあたった釜屋の措置について、海軍中央には救助よりも「龍田」の保全を優先すべきであったとの意見を持つものいた。この意見には一部誤伝に基づいたものもあり、釜屋は司令官の指示に従ったこと、「龍田」はすでに機雷が爆発した地点に留まったこと(救助には端舟、伝馬船を使用)、離脱には「敷島」の通過した航路を選んだと説明している[7]

釜屋は仮装巡洋艦「佐渡丸」艦長に転じ、日本海海戦に参戦する。1905年(明治38年)5月23日バルチック艦隊対馬海峡通過に備え、哨戒の任に就いていた「佐渡丸」は『タタタ 地点一八三』とバルチック艦隊の発見を報じ、連合艦隊は鎮海湾を出撃した。しかしこれは誤りで同じく哨戒についていた第3戦隊を誤認したものであった。5月27日、「佐渡丸」は中央線を担当していたが[9]、バルチック艦隊は右幹線を担当した「信濃丸」に発見された。「佐渡丸」は日本海海戦において、沈没に瀕した「ナヒーモフ」を発見。既に乗員は離艦しつつあり、「不知火」が救助作業を行っていた。釜屋は「佐渡丸」を「不知火」に接舷させてロシア海軍将兵を移乗させるとともに、「ナヒーモフ」の捕獲を図って犬塚助次郎大尉を派遣した。「ナヒーモフ」には艦長や士官数名が留まっており、犬塚は沈没間近として離艦を勧告。この間に「モノマーフ」や「グロムキー」が出現したためこれを砲撃し、「不知火」と追撃行動に移る。「モノマーフ」は降伏し、釜屋は乗員を「佐渡丸」に収容しようとしたが、すでに「ナヒーモフ」の将兵523名を収容していたため手狭であった。釜屋は「満州丸」を呼び寄せ、「モノマーフ」の乗員406名が救助された[10]

日本海海戦後は海戦で捕獲された海防艦「沖島」(ロシア名「ゲネラル・アドミラル・アプラクシン」)の艦長となり、樺太作戦に参加した。

年譜

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最初に乗組んだ「東艦
上泉徳弥は釜屋の葬儀で号泣しつつ会葬者に礼を述べた[12]

栄典

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位階
勲章等

脚注

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  1. ^ 米沢信用金庫2012年3月16日閲覧
  2. ^ 『回想の日本海軍』p.14
  3. ^ 『遠い潮騒』p.56
  4. ^ 「海軍大尉正七位勲六等功五級釜谷忠道以下二名勲位進級及勲章加授ノ件」
  5. ^ 『遠い潮騒』pp.349-350
  6. ^ 「第98号 明治37年5月15日旅順港外遭難の際に於る軍艦初瀬戦死者人名表」
  7. ^ a b 『懐旧録』釜屋忠道「龍田の遭難」
  8. ^ 『大海軍を想う』pp.174-175
  9. ^ 日本海海戦当日朝敵艦発見時に於る哨艦配備図」 アジア歴史資料センター Ref.C05110095900 
  10. ^ 第2編 日本海海戦/第3章 5月28日に於る戦闘」 アジア歴史資料センター Ref.C05110084600 、25 - 27枚目
  11. ^ 『海軍兵学校沿革』では少尉補
  12. ^ 『遠い潮騒』p.348
  13. ^ 『官報』第1001号、大正4年12月2日。
  14. ^ 『官報』第2541号「叙任及辞令」1891年12月17日。
  15. ^ 『官報』第4903号「叙任及辞令」1899年11月2日。
  16. ^ 『官報』第6422号「敍任及辞令」1904年11月25日。
  17. ^ 『官報』第8243号「叙任及辞令」1910年12月12日。
  18. ^ 『官報』第731号「叙任及辞令」1915年1月12日。
  19. ^ 『官報』第1024号「叙任及辞令」1915年12月29日。
  20. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1889年12月29日。
  21. ^ 『官報』第3727号「叙任及辞令」1895年11月29日。
  22. ^ 『官報』第3858号・付録「辞令」1896年5月12日。
  23. ^ 『官報』第3899号「敍任及辞令」1896年6月29日。
  24. ^ 『官報』第5960号「叙任及辞令」1903年5月18日。
  25. ^ 『官報』第7771号「叙任及辞令」1909年5月24日。
  26. ^ 『官報』第539号「叙任及辞令」1914年5月18日。
  27. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  28. ^ 『官報』第2836号「叙任及辞令」1922年1月18日。

参考文献

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  1. 「海軍大尉正七位勲六等功五級釜谷忠道以下二名勲位進級及勲章加授ノ件」(ref: A10112454800)
  2. 「29年分.30年分 臨時叙勲に関する書類綴 27.28年 戦役関係 台湾関係(5)」(ref: C11080726300)
  3. 「第98号 明治37年5月15日旅順港外遭難の際に於る軍艦初瀬戦死者人名表」(ref:C05110010000)
  4. 「第48号 佐渡丸艦長海軍大佐釜屋忠道の提出せる仮装巡洋艦佐渡丸の日本海海戦に於る戦闘報告」(ref: C05110090100)
  • 伊藤正徳『大海軍を想う』文藝春秋新社、1956年。 
  • 海軍歴史保存会編『日本海軍史』第9巻、第一法規出版、1995年。
  • 児島襄『日露戦争(2)』文春文庫、1994年。ISBN 4-16-714147-7 
  • 児島襄『日露戦争(6)』文春文庫、1994年。ISBN 4-16-714151-5 
  • 児島襄『日露戦争(7)』文春文庫、1994年。ISBN 4-16-714152-3 
  • 水交会 編『回想の日本海軍』原書房、1985年。ISBN 4-562-01672-8 
  • 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。ISBN 4-8295-0003-4 
  • 松野良寅『遠い潮騒 米沢海軍の系譜と追憶』米沢海軍武官会、1980年。 
  • 明治百年史叢書第74巻『海軍兵学校沿革』原書房
  • 有終会編『懐旧録』第2輯