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すずらん丸

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フェリー伊豆から転送)
すずらん丸
1970年
基本情報
船種 フェリー
船籍 日本の旗 日本(1970-1994)
ギリシャの旗 ギリシャ
所有者 日本の旗 新日本海フェリー(1970-1975,1977-1979)
日本の旗 東九フェリー(1975-1977)
日本の旗 西日本汽船(1979-1994)

ギリシャの旗 POSEIDON SHIPPING
ギリシャの旗 Five Star Lines
運用者 日本の旗 新日本海フェリー(1970-1975,1977-1979)
日本の旗 東九フェリー(1975-1977)
日本の旗 西日本汽船(1979-1994)
ギリシャの旗 Med Link Lines
ギリシャの旗 Five Star Lines
アルジェリアの旗 Algerie Ferries
建造所 幸陽船渠[1]
建造費 17億3000万円[1]
航行区域 沿海[2]
船級 JG第二種船[2]
IMO番号 7029483
改名 フェリー伊豆(1975-1977)
フェリーライラック(1977-1979)
ゆうとぴあ(1979-1994)
POSEIDON
POSEIDON X
POSEIDON C
経歴
起工 1970年2月20日[2]
進水 1970年5月6日[2]
竣工 1970年7月29日[2]
就航 1970年8月
最後 2008年にインドで解体
要目
総トン数 9,053トン(竣工時)[3]
15,818トン(西日本汽船時代)[4]
載貨重量 3,086トン[3]
全長 160.5 m[3]
垂線間長 151.0 m[2]
25.6 m[3]
深さ 8.8 m[3]
満載喫水 6.1 m[3]
機関方式 ディーゼル
主機関 富士ディーゼル 18PC2V 2基[2]
推進器 2軸
最大出力 18,000馬力(連続)[3]
最大速力 23ノット[1]
航海速力 22ノット(竣工時)[3]
17ノット(西日本汽船時代)[4]
旅客定員 1,107名(竣工時)[3]
590名(西日本汽船時代)[4]
乗組員 50名(竣工時)[2]
54名(西日本汽船時代)[4]
車両搭載数 トラック103台、乗用車150台[3]
テンプレートを表示

すずらん丸(すずらんまる)は、新日本海フェリーが運航していたフェリー日本海初の長距離フェリーとして、舞鶴港小樽港を結ぶ航路に就航、20ノットを超える当時としては破格の航海速力で「海の新幹線」と称された[5]

概要

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高速化した大型フェリー2隻によるデイリー運航やトラック無人航送の実施といった新たなサービスを導入した阪九フェリーによる神戸~小倉間の長距離フェリーの成功を受け、関光汽船が内航貨物船を運航していた日本海航路にもフェリーサービスを導入するべく、1969年に新日本海フェリーが設立された[5]。本船は新日本海フェリーの第1船として、冬期の日本海の海況に耐えるため、就航当時日本最大となる10,000トン級のフェリーとして計画され、三井造船の技術指導のもと幸陽船渠で建造された[6]。ウインチの凍結を防ぐことを目的とした船首を覆う遮浪ドームが外観上の特徴で[6]、ドームは続いて建造されたフェリーはまなすフェリーあかしあにも継承されたが、波がドームのスロープを滑り上がり操舵室の窓ガラスを破壊する欠点が生じその後取り外された[6]

1970年8月、舞鶴~敦賀~小樽間に週2便で就航、片道32時間で運航した。

1975年フェリーてんりゅうフェリーとねと交換で東九フェリーに売却され、フェリー伊豆として東京~小倉を結ぶ直行便に就航した。1977年に新日本海フェリーに買い戻され、フェリーライラックとして再就航、新潟~小樽航路に就航した。1979年に新日本海フェリーの定期航路から引退。

1980年よりその後西日本商船(1984年に西日本汽船に改称)に売却され、クルーズ客船に改造されゆうとぴあとして就航[7]。下関港から中国・青島までの「日中友好の船」チャーターで初就航し、青島航路を中心とした日中間の不定期運航や研修船クルーズに用いられた[4]。1985年12月には下関港にてSHKラインの母体である関光汽船の創業者・入谷豊州の社葬が本船を用い行われている[7]。その後1986年に再度改造を受け、1990年代まで運航された。

1994年に海外売船され、ギリシャMed Link LinesFive Star LinesアルジェリアAlgerie Ferriesなどで、船名をPOSEIDONPOSEIDON XPOSEIDON Cと変更しながら地中海などで運航されたが、2008年インドで解体された。

船内

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新日本海フェリー時代

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船室
  • 一等室(134名)[8]
  • 特二等室(268名)[8]
  • 二等室(585名)[8]
  • ドライバー室(120名)[8]
設備
  • Aデッキ[8]
    • 貴賓室
    • 遊歩甲板
  • Bデッキ[8]
    • 2等食堂
    • 1等・特2等食堂
    • ゲームルーム
    • マージャン室
    • バー
    • 1等喫煙室
    • 特2等室
    • 2等室
    • 1等室
    • 特別室
  • Cデッキ[8]
    • 2等浴室
    • 1等・特2等浴室
    • 2等喫煙室
    • 2等室
    • 特2等室
    • ドライバー室

西日本汽船時代

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西日本汽船「ゆうとぴあ」時代
  • スポーツデッキ[4]
  • Aデッキ[4]
    • サロン(日本・韓国近海のみ70名和室兼用)
    • セミナールーム
    • 特別室(ツインベッド・ユニットバス・リビングルーム)
  • Bデッキ[4]
    • 特等客室(2名×20室 ツインベッド・ユニットバス)
    • 2等室(8名×27室 二段ベッド)
    • シアター「ゆうとぴあホール」(470席・2層吹き抜け)
    • ラウンジ
    • プロムナードデッキ
  • Cデッキ[4]
    • 1等室(2名×50室 ツインベッド・2室共用シャワー付き)
    • 2等室(8名×35室)
    • バスルーム
    • オーガナイザーズオフィス(2室)
    • 案内所
    • エントランスホール
    • 医務室
    • 上下船タラップ
    • グリル「UTOPIA」
    • 売店
    • ゲームコーナー
    • レストランシアター
    • バーカウンター
    • ステージ
  • Dデッキ[4]
    • 主要上下船口

事故・アクシデント

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着氷による通信途絶

1972年12月13日、オホーツク海中部からの低気圧による時化の状況下で小樽から舞鶴へ向かっていた本船は17時頃の積丹岬沖通過後前部マストと通信用の空中線に波しぶきが凍着し速度20ノットで南下するなかで空中線の着氷が拡大し22時頃に碍子から切断・落下、翌日10時の復旧まで通信が途絶し行方不明の状況に陥った[9]

船橋ガラス破損

1973年12月24日14時40分頃、舞鶴から小樽に向かっていた本船は奥尻島青苗岬西方沖約11kmの地点にて高波を受け船橋の縦80cm横90cm厚さ20mmのフロントガラス11枚のうち4枚を破損、航海計器類が海水を被り故障。函館海上保安部の「りしり」と江差海上保安署「ひやま」の巡視船2隻が誘導し25日午前2時に函館港中央ふ頭に臨時入港した。乗組員39名・乗客72名への負傷なし、トラック72台・乗用車10台に破損なし。事故当時の海象は西からの風速20mの風、波高4mで荒れていたものの社内の運行管理規程上は問題がない状況とされていた[10]

脚注

[編集]
  1. ^ a b c 新船紹介 新日本海フェリー「すずらん丸」 - 旅客船 No.88(日本旅客船協会 1970年)
  2. ^ a b c d e f g h 新造船写真集 旅客船兼車両渡船 すずらん丸 SUZURAN MARU 新日本海フェリー株式会社 - 船の科学1970年10月号
  3. ^ a b c d e f g h i j 世界の艦船(1972年8月号,p32)
  4. ^ a b c d e f g h i j 客船紹介編[クルーズ船編]西日本汽船株式会社ゆうとぴあ - マリンブルー・ファンタジー客船新時代の船旅ハンドブック(日本外航路客船協会 1991年)
  5. ^ a b 池田, 良穂「クルーズ客船,フェリーを取り巻く環境」『マリンエンジニアリング』第47巻第2号、日本マリンエンジニアリング学会、2012年、197-202頁、doi:10.5988/jime.47.1972015年10月31日閲覧 
  6. ^ a b c SHKライン「長距離フェリー50年の航跡 -SHKライングループの挑戦-」 - ダイヤモンド社
  7. ^ a b 長距離フェリーを創る 入谷豊洲伝 - 内航ジャーナル社
  8. ^ a b c d e f g 新造船の紹介 すずらん丸 - 船の科学1970年10月号
  9. ^ 沢田照夫「日本近海の船体着氷」 - 海の気象第19巻第2号(海洋気象学会 1973年)
  10. ^ 高波、フェリー・すずらん丸KOブリッジの窓破るSOS函館に臨時入港 - 北海道新聞1973年12月25日朝刊