松平信平
時代 | 江戸時代前期 |
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生誕 | 寛永13年(1636年) |
死没 | 元禄2年7月28日(1689年9月11日) |
改名 | 鷹司信平→松平信平 |
戒名 | 覺性院殿従四位前羽林次将圓洞浄融大居士 |
官位 | 従四位下左近衛少将 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家光→家綱→綱吉 |
氏族 | 鷹司家→鷹司松平家 |
父母 | 父:鷹司信房、母:顕成王(白川顕成)の娘 |
兄弟 | 信尚、孝子[1]、信平 |
妻 | 正室:徳川頼宣の娘・松姫 |
子 | 信政、竹中重教、米姫(島津綱貴室) |
松平 信平(まつだいら のぶひら)は、江戸時代前期の旗本。鷹司松平家の祖。本姓は藤原氏で、摂政、関白につける公家の最高位である五摂家の一つ鷹司家の出自。
生涯
寛永13年(1636年)、鷹司信房の四男として生まれる。信房により再興された鷹司家は摂家の一つで、公家社会では最高の家格であったが、庶子である信平には門跡寺院に入るか、他の公家の養子になるなどの選択肢しかなかった。しかし信平はいずれも選ばず、15歳になった慶安3年(1650年)、江戸幕府第3代将軍徳川家光の御台所(正室)であった姉・孝子を頼って家臣1人だけを伴い江戸へと下った。家光と孝子の関係は決して良好といえるものではなかったが、信平は家光から歓迎され、1,000俵の廩米と月俸200人扶持を与えられ寄合入りした。
承応2年(1653年)、第4代将軍徳川家綱の配慮により家光の叔父である紀州藩主徳川頼宣の娘を娶り、翌承応3年(1654年)には従四位下左近衛少将に任じられ、紀州徳川家の縁者として松平の名字を称することを許された。この年に従来の俸禄に代わって4,000俵の廩米を授けられる。
明暦2年(1656年)、父の見舞いのために上洛する。延宝2年(1674年)、姉・孝子が病死する。家綱はこれを憐れんで、信平のそれまでの廩米に替えて上野国・上総国に合わせて7,000石の知行地を与えた。
転身
公家から武家(孫信清の代には大名となる)への転身という特殊な経歴から、「実は信平は徳川将軍家の血筋の人物なのではないか?」という憶測を生み出し、後世の松平長七郎伝説の土壌になったとも言われている。
この、公家から武家への転身という事例としては、信平仕官の前年慶安2年(1649年)の戸田氏豊、それ以前にも元和9年(1623年)の日野資栄などがおり、諸藩においても加賀藩士で白川伯王家出身の品川雅直などの例があり、のちの家綱、綱吉の代にも数件の例が見えることから、それほど特殊なことではない。だが幕臣として抱えられる例はほぼ、その高貴な血筋に由来すると推測される「高家旗本」としてであり、一般の旗本として、さらに子孫が大名にまでなった例は稀である。
脚注
- ^ 『日本史諸家系図人名辞典』、講談社、2003年。