茶屋町 (大阪市)
茶屋町 | |
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茶屋町の街並み | |
国 | 日本 |
都道府県 | 大阪府 |
市町村 | 大阪市 |
区 | 北区 |
人口 (2010年(平成22年)10月現在) | |
• 合計 | 26人 |
等時帯 | UTC+9 (JST) |
郵便番号 |
530-0013 |
茶屋町(ちゃやまち)は、大阪府大阪市北区の町名。丁番を持たない単独町名である。2010年10月1日現在の人口は26人、世帯数は18世帯[1]。郵便番号は〒530-0013。
地理
大阪市北区、阪急梅田駅ホームの高架と新御堂筋に挟まれた一帯にあたる。北で豊崎、東で鶴野町、南東の一点で中崎西、南で角田町、西で芝田と隣接する。
歴史
もとは西成郡北野村の一部。また、北隣の同郡下三番村(現・中津1丁目)で亀岡・池田方面から能勢街道が中国街道へ合流するため、往来の多い区間であった。
2008年(平成20年)末から翌年初頭にかけて発掘調査が行われ、その結果、1世紀ごろはこの辺りは大阪湾の干潟があり、淀川や大和川からの土砂が運ばれ、自然堤防が形成され、5世紀中頃にはこの辺りで人が活動をしていたことがわかっている。
江戸時代まで
江戸時代までは大阪市街地から離れた旧中津川沿岸に近い野原であり、茶屋町の形成が始まったのは18世紀後半からとされる。1874年(明治7年)に鉄道が開業し、梅田停車場(現在の大阪駅)が設置されたことにより周辺の開発が本格化する。
明治から昭和にかけて
1875年(明治8年)には西成郡第三区第八番小学校(のちの梅田東小学校)が開校している。1877年(明治10年)ごろに西天満にあった綱敷天神社御旅所が土地の寄進を受けて当地に遷座した。
1889年(明治22年)には、現在の梅田東コミュニティ会館付近に高さ39m、9階建ての「凌雲閣」が建設された。1、2階は五角形、3階より上は八角錘台形で、いちばん上は丸屋根の付いた展望台となっていた楼閣で、「キタの九階」と呼ばれた。「ミナミの五階」と呼ばれた「眺望閣」とともに大阪のシンボルタワーとなったが昭和初期に取り壊されている。
1897年(明治30年)に北野村は大阪市へ編入され大阪市北区大字北野となり、1900年(明治33年)に大字北野は18町に分割され、そのひとつの町名として北野茶屋町が誕生した。
1924年(大正13年)より北野の冠称が外れて茶屋町となり、一部が鶴野町・芝田町・小深町に分離、北野西之町・本庄西権現町の各一部を編入、1978年(昭和53年)に一部が角田町として分離、鶴野町・浜崎町・豊宮町・東和町・芝田町・小深町のそれぞれ一部を編入している。このように、現在の町域は旧 西成郡本庄村や同郡南浜村といった北野村以外の一部地域を含んでおり、後述の再開発地域の大半(NU茶屋町以外)もこれらの地域に該当する。
昭和時代末期には都心部のドーナツ化現象が進み、住居人口が減少して就学人口も減少。梅田東小学校は1989年(平成元年)3月に廃校し、新設された大阪北小学校へ統合される。跡地の校舎施設はそのまま大阪市梅田東学習ルーム(生涯学習施設)となったが、2011年(平成23年)3月31日をもって閉館となった。
現代
1990年頃から茶屋町の再開発が始まり、まず毎日放送が吹田市の千里丘陵から移転し、梅田ロフトが開業したことを発端とする。
1992年(平成4年)にはちゃやまちアプローズが完成、2005年(平成17年)10月20日にはNU茶屋町が、2006年(平成18年)3月31日にはアーバンテラス茶屋町が、2010年(平成22年)4月23日にはチャスカ茶屋町が、2011年(平成23年)4月29日にはNU茶屋町プラスが、それぞれオープンしている。
地名の由来
町名は大坂と尼崎・西宮を結ぶ中国街道沿いに「鶴乃茶屋」「車乃茶屋」「萩乃茶屋」と呼ばれた茶屋があったことに由来する。
施設
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綱敷天神社 御旅社
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町並み、背景にロフトとMBS本社
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アプローズタワー
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茶屋町の高層ビル群
交通
鉄道
道路
脚注
参考資料
- 茶屋町(角川日本地名辞典 JLogos版)
関連項目
外部リンク
- 大阪市
- 茶屋町地区市街地再開発事業(大阪市公式サイト)
- 茶屋町地区土地区画整理事業(大阪市公式サイト)
- 茶屋町遺跡発掘調査(芝田商店街ポータルサイト)
- 茶屋町(大阪市北区)(大阪再発見!)
- 梅田・茶屋町 再開発地区 - 大阪DEEP案内
- 綱敷天神社 氏地 茶屋町(綱敷天神社ウェブサイト)
座標: 北緯34度42分25.9秒 東経135度29分57.7秒 / 北緯34.707194度 東経135.499361度