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小田急相模原駅

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
相模原駅 (小田急)から転送)
小田急相模原駅*
北口(2021年)
おだきゅうさがみはら
Odakyu Sagamihara
OH 28 相模大野 (2.4 km)
(2.2 km) 相武台前 OH 30
地図
所在地 相模原市南区南台丁目20-1
北緯35度30分54.5秒 東経139度25分21.5秒 / 北緯35.515139度 東経139.422639度 / 35.515139; 139.422639座標: 北緯35度30分54.5秒 東経139度25分21.5秒 / 北緯35.515139度 東経139.422639度 / 35.515139; 139.422639
駅番号 OH29
所属事業者 小田急電鉄
所属路線 小田原線
キロ程 34.7 km(新宿起点)
駅構造 地上駅橋上駅
ホーム 2面2線
乗降人員
-統計年度-
[小田急 1]49,416人/日
-2022年-
開業年月日 1938年昭和13年)3月1日
備考 * 1941年(昭和16年)に相模原駅より改称。
テンプレートを表示
南口(2019年4月)
改札口(2015年9月)
ホーム(2015年9月)

小田急相模原駅(おだきゅうさがみはらえき)は、神奈川県相模原市南区南台丁目にある、小田急電鉄小田原線である。駅番号OH 29

歴史

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小田急相模原駅があるこの周辺地域は元々「相模野」と呼ばれる原野の一部であり、周辺農村の入会地とされていた。それまで人が誰も住んでおらず江戸時代は狐や兎が住み着く徳川将軍の鷹狩りの一部に過ぎなかった。

江戸末期嘉永6年(1853年[1]この入会地が分割されて周辺各村の領域に組み込まれ、小田急相模原駅付近は高座郡上鶴間村新戸村座間宿村[2]北広野、新田宿村飛び地の各村が境界を接する区域となった。

それらの村はやがて1889年明治の大合併により同郡新磯村大字新戸・大字磯部[3]相模原市南区相模台)、座間村大字座間北広野(座間市相模が丘一丁目)・大字新田宿飛び地見分塚(座間市相模が丘五丁目)、この小田急相模原駅がある南台松が枝町は高座郡大野村大字上鶴間となった。

1875年[4]この地の将来性に着目した高座郡綾瀬村蓼川の平出富士太郎という、豪商(醤油製造業)・豪農(田畑百町歩)の長男で農業の多角経営者が私財を投じて、大和市福田の保田善兵衛所有の小田急相模原駅の周りと駅の北側一帯、座間村域の北広野(座間市相模が丘一丁目)の一部を含む[5]この地、約二十町歩[6]を購入し、当時の座間村の人々に開拓を勧め呼びかけた。その後、その熱い呼びかけに応えて座間河原宿在住の鈴木孫七[7]以下7名[8]が開拓に加わった。まだ一面の(かや)が生い茂る不毛の原野で秣場[9]であった南台に、初めて人の手が入ったのは1877年であり、原野の開拓が進められた[10]。元々この地には府中道(行幸道路)という、厚木から当時の武蔵の国国府が置かれていた府中に通じる古街道が通っており、開拓はこの街道に沿って行われた。開拓者たちは座間から毎日鍬を担ぎ弁当持参のわらじ履きで通っていた。そのうち1880年12月新開の中にようやく一戸の家を建てて全員で住み着いた[11]。この時からこの地は中和田新開または蓼川新開と呼ばれるようになった[12][13]。屋敷内には鳥居を建立し、伏見稲荷大社から主祭神正一位伏見稲荷大明神神璽(おみたま)の勧請を受け祠に御鎮座。「屋敷稲荷」をお祀りし、先人たちは家業の繁栄と家内安全を願い、毎年2月最初のの日「初午」には、近所の人々が御馳走を持って集まり、子供たちにはお菓子が配られ楽しいひと時を過ごす『稲荷講』が開かれた。道祖神[14]は、中和田新開が開かれた頃、西側のサウザンロード相模台(国立病院通り)沿いに建てられていたが、当初の碑は盗難に遭い南台五丁目行幸道路脇に新設され[15]、「屋敷稲荷」と共に開墾から150年近く経った今も大切に祀られて地域の発展を見守っている[16]

しかしながら各村の境界域ということもあり、市街地を形成することは困難を極めたが、その後、1894年になって新開の座間分北広野に座間中宿出身者1人が居を構え入植に加わる。1901年には開拓者たちは次々と府中道(南台五丁目付近)に沿った本家隣地に分家し、新たな入植者も加わり、新開地は一つの集落として活気をおびて来た[17]

1927年4月1日には小田原急行鉄道小田原線が開通したが、新原町田駅~座間駅(現・相武台前駅)間には駅がなく中和田新開を通過するだけであった。

大きな転換点となったのは、臨時東京第三陸軍病院の進出である[18]。高座郡新磯村磯部字大野[19]同病院1938年3月1日開院に合わせ、小田原急行鉄道が中和田新開を通過していた小田原線上の座間町と大野村との境界に、病院前駅を開業し[20]、同駅と同病院を結ぶ街路[21]周辺が市街化する契機となった。同年6月1日には小田原急行鉄道バス事業営業開始・相模原駅(小田急相模原駅)⇔陸軍第三病院(国立病院機構相模原病院)間の運行を始めた[22]

1941年4月29日大野村は、高座郡北部の座間町新磯村上溝町麻溝村大沢村田名村相原村と合併し、人口48,482人[23]の高座郡相模原町が誕生したが、1948年9月1日に、旧座間町域(座間市域)が相模原町から分離独立した。相模原町は残りの区域で、1954年11月20日市制施行して人口約8万人[24]相模原市が発足した。

戦争が終わり、中和田新開の古老たちは戦後の荒廃した人心のよりどころにと神社建立を考えた[25]。境内予定地は行幸道路に面した松林で、新開に関係した平塚在住の所有者から快く用地を譲渡され、1947年4月22日、二宮神社を現在地に建立し、翌23日小田原市報徳二宮神社から主祭神御分霊の勧請を受け本殿御鎮座[26][27]

小田急相模原駅周辺の市街地化[28]と並行して、1958年には日本住宅公団鶴ケ丘団地・翌1959年上鶴間団地竣工など更に住民が増加し発展した。

相模原市上鶴間であった小田急相模原駅周辺は、次々と新しい町丁に分割され、南口は松が枝町として1967年10月1日、北口は南台として1969年7月1日町丁を新設し同時に住居表示を施行。駅西側の座間市大字相模台[29]1981年6月1日座間市相模が丘町名変更し住居表示を施行した。

年表

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駅名の由来

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駅開設当時は、町村名(自治体)としての「相模原」はなかった。しかし「相模原軍都計画」などにより「相模原」の呼称が定着しつつあったこと、また開設当時の駅所在地であった大野村で周辺町村との合併計画で「相模原」が新自治体名として有力となったことから、相模原駅が採用された[30]。その後、鉄道省が横浜線に相模原駅を開設したため、「小田急相模原駅」へ改称した[30]。これは当時、お上の権限が強かったことによるもので、現在の京急新子安駅とほぼ同様の理由である[32]

本駅は相模原市域南端の座間市との市境付近に位置し、横浜線の相模原駅は相模原市域中央部に位置しており、相互の駅は直線距離で約9 km離れている。また、小田急多摩線延伸計画に記されている「相模原駅」も当駅とは異なり、JR相模原駅を計画予定地としている。

1974年(昭和49年)に小田急多摩線の小田急永山駅が開設するまでは、小田急電鉄で唯一駅名に「小田急」を冠する駅であった。現在も小田原線では唯一である。

地域住民からは「オダサガ」と略称され、2014年(平成26年)より毎年10月に小田急相模原駅北口で開催されているイベント「おださがロードフェスタ」[33]にもこの名称が使用され、定着している。

駅構造

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相対式ホーム2面2線を有する地上駅橋上駅舎を備え、ホーム階へはエレベータエスカレータで連絡している。

各ホームではエレベーター新設工事が進められ、2007年平成19年)2月24日に上下ホーム・南口のエレベーターが使用開始となった。同年7月14日に仮北口通路が閉鎖、新北口通路が開通した。

のりば

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ホーム 路線 方向 行先[34]
1 OH 小田原線 下り 小田原箱根湯本方面
2 上り 相模大野新宿C 千代田線方面

駅設備

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利用状況

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2022年度(令和4年度)の1日平均乗降人員49,416人である[小田急 1](小田急線全70駅中20位)。

近年の1日平均乗降乗車人員の推移は以下の通り。

年度別1日平均乗降・乗車人員[* 1][* 2]
年度 1日平均
乗降人員[* 3]
1日平均
乗車人員[* 4]
出典
1975年(昭和50年) 48,952 24,141
1980年(昭和55年) 50,881 25,695
1985年(昭和60年) 54,001 27,156
1989年(平成元年) 61,564
1990年(平成02年) 31,449
1993年(平成05年) [注釈 1]63,542
1995年(平成07年) 30,327 [神奈川県統計 1]
1998年(平成10年) 57,429 29,351 [神奈川県統計 2]
1999年(平成11年) 28,860 [神奈川県統計 3]
2000年(平成12年) 28,555 [神奈川県統計 3]
2001年(平成13年) 28,543 [神奈川県統計 4]
2002年(平成14年) 55,895 28,402 [神奈川県統計 5]
2003年(平成15年) 55,944 28,389 [神奈川県統計 6]
2004年(平成16年) 55,388 28,002 [神奈川県統計 7]
2005年(平成17年) 54,477 27,585 [神奈川県統計 8]
2006年(平成18年) 54,111 27,419 [神奈川県統計 9]
2007年(平成19年) 54,473 27,595 [神奈川県統計 10]
2008年(平成20年) 55,754 28,182 [神奈川県統計 11]
2009年(平成21年) 55,392 27,940 [神奈川県統計 12]
2010年(平成22年) 55,034 27,719 [神奈川県統計 13]
2011年(平成23年) 54,366 27,386 [神奈川県統計 14]
2012年(平成24年) 55,530 27,969 [神奈川県統計 15]
2013年(平成25年) 56,767 28,626 [神奈川県統計 16]
2014年(平成26年) 55,612 27,978 [神奈川県統計 17]
2015年(平成27年) 56,293 28,330 [神奈川県統計 18]
2016年(平成28年) 56,153 28,233 [神奈川県統計 19]
2017年(平成29年) 56,568 28,431 [神奈川県統計 20]
2018年(平成30年) 57,597 28,943 [神奈川県統計 21]
2019年(令和元年) 57,496 28,920 [神奈川県統計 22]
2020年(令和02年) 43,632 21,893 [神奈川県統計 23]
2021年(令和03年) [小田急 2]45,726 22,974 [神奈川県統計 24]
2022年(令和04年) [小田急 1]49,416

駅周辺

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近年、駅周辺は相模原市[36]および座間市の地域拠点[37]として積極的な再開発事業が行われ、東京や横浜などのベッドタウンとして人口が増加し、急速に都市化している。

当駅は相模原市と座間市の市境に位置し、当駅南西にある踏切の先は座間市となっている。駅北側には県道町田厚木線(行幸道路)が通り、国立病院機構相模原病院方面に向かって「サウザンロード相模台商店街[38]」が形成されている。南口付近は松が枝町付近に商店が広がる。1960年代より日本住宅公団公団鶴が丘団地等の宅地開発が始まり1970年代にはピークを迎え、相模原・座間両市域に広範囲な住宅地が形成されている。北口・南口ともに多くの飲食チェーン店が軒を連ね、特に南口はラーメン店が多くなっている。

再開発事業

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ラクアル・オダサガ
ペアナードオダサガ
リビオタワー小田急相模原 コモンズざま

駅北口は再開発事業が行われ、2005年(平成17年)3月24日には北口駅前ロータリーが閉鎖され、東側に仮設駅前広場とロータリーが移転した。

北口旧広場には地下4階地上20階の再開発ビル「ラクアル・オダサガ」が建設され、2007年(平成19年)12月2日に開業した。地下2 - 3Fは市営自動車駐車場、地下1Fはオダサカ自転車駐車場、1 - 3Fは商業施設、4Fは相模原市の文化施設が入居し、5F以上は集合住宅となっている。再開発前は駅前広場が狭く、歩行者や自転車・自動車などで常に混雑していたが、再開発によりビル建設と共に駅前広場が整備された[39]

続いて行幸道路北側に、地下1階地上29階の再開発ビル「ペアナードオダサガ」が建設され、2013年(平成25年)10月10日に開業した。1階・2階は商業モール、3階はクリニックモール、4階以上は集合住宅となっている。また県道横断デッキも建設され、2階部分で小田急相模原駅やラクアル・オダサガと接続し、歩行者は県道町田厚木線(行幸道路)を横断することなく両施設を行き来出来るようになった。

この県道横断デッキには、両再開発ビル管理組合が市と契約を結んで2018年(平成30年)3月にネーミングライツを導入「ラクアル/ペアナードオダサガ歩道橋」という愛称が付けられた。歩道橋に愛称が付されるのは相模原市内で初となる[40]

相模原市によれば、これらの再開発事業については当初の目標は概ね実現されたと評価しており、駅周辺の利便性は向上している[41]

さらに駅北口の行幸道路東側(座間市域)では、小田急相模原駅前西地区第一種市街地再開発事業が進められ、2019年1月に再開発ビル「リビオタワー小田急相模原」が完成した[42]。なお「リビオタワー小田急相模原」の建設段階から、「リビオタワー小田急相模原」の2階と「ペアナードオダサガ」の2階との間にも県道を横断するデッキを建設する計画があるが、「リビオタワー小田急相模原」が座間市側、「ペアナードオダサガ」が相模原市側にあることから、両市の間で調整を図ることとされている。

また2019年(令和元年)現在、駅周辺地域で「麻溝台・新磯野地区整備推進事業」が行われている[43]

北口

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ラクアル・オダサガ
ペアナードオダサガ
リビオタワー小田急相模原コモンズざま
  • 座間市立市民交流プラザ「プラっとざま」
  • 座間市立第2子育て支援センター ざまりんのおうち「ひまわり」
その他の施設

南口

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バス路線

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北口広場

北口にバス乗り場がある。神奈川中央交通東により以下の路線が運行されている。

小田急相模原駅
1番のりば - 国立相模原病院方面
小04 麻溝台 北里大学病院北里大学
小14 北里大学病院・北里大学 麻溝車庫
相21 北里大学病院・北里大学 相模原駅南口
古09 大沼 古淵駅
町09 大沼・古淵駅 町田バスセンター
小11 相武台グリーンパーク
2番のりば
小02 ひばりが丘 南林間駅
小03 イオンモール座間・ひばりが丘 南林間駅
小05 直行 イオンモール座間
小06 豊町 相模大野駅北口
3番のりば - 降車場

急行の停車要望

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神奈川県鉄道輸送力増強促進会議は、2013年度の小田急電鉄向け要望書で、ラッシュ時間帯に当駅への急行停車を要望しているが、小田急電鉄はこれに対し「急行の速達性を損なう」との理由で停車の計画はないとしている[44]。これは東林間駅とほぼ同じ理由である。

隣の駅

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小田急電鉄
OH 小田原線
快速急行・急行
通過
通勤準急・準急・各駅停車(通勤準急は平日朝上り、準急は平日夜下りのみ)
相模大野駅 (OH 28) - (相模大野分岐点) - 小田急相模原駅 (OH 29) - 相武台前駅 (OH 30)

脚注

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注釈

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  1. ^ 当駅の乗降人員最高値年度

出典

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  1. ^ この年から座間市域の芝原(しばあら)と呼ばれた小田急相模原駅周辺の相模が丘から広野台小松原ひばりが丘の元座間入谷分にかけて開墾がはじまり、文久年間に地割が完成し耕作が始まった。元・栗原分のさがみ野東原・ひばりが丘大部分の開墾明治時代に入ってからはじまった。『座間の地名18頁』『座間むかしむかし第1集18頁・芝原の開墾』『座間むかしむかし第3集4頁・字名のおこり』『座間むかしむかし第3集17頁~19頁・相模台の昔』『座間むかしむかし第3集・巻末 座間市略年表』
  2. ^ 座間宿村は1868年に座間村になった。引用元:座間の地名18頁
  3. ^ 当該地域は1951年1月に統合され大字新磯野が起立した。
  4. ^ 『座間の地名20頁①中和田新開』
  5. ^ 『座間の地名20頁①中和田新開』
  6. ^ 約20ヘクタール
  7. ^ 平出富士太郎義弟にあたる。引用元:『座間の地名20頁①中和田新開』
  8. ^ 鈴木孫七ほか、座間出身の青年6人と海老名出身の青年1人。合計8名。引用元:『座間の地名20頁①中和田新開』
  9. ^ 共同の草刈り場
  10. ^ 『ふるさと~相模台地域の移り変わり~平成12年8月発行 小山德孝/著 17頁~20頁◇中和田新開(蓼川新開)』
  11. ^ 『座間の地名20頁①中和田新開』
  12. ^ 農政上、明治時代になってから畑作地として開墾された土地を「新開」と呼び、すでに江戸時代に開墾された畑作地は「新田」と言って区別した。
  13. ^ 座間分の本村である座間村座間入谷村新田宿村四ツ谷村栗原村の人々は「芝原(しばあら)」の一番奥地にあることから、この地を「奥野(おきの)」「沖野」と呼んでいた。『座間むかしむかし第3集4頁・字名の起こり』より。
  14. ^ 古くから集落の入り口あたりに祀られ、集落に入る疫病や災いを防ぎ、地域の安全等を守るものとされている。『ふるさと~相模台地域の移り変わり~平成12年8月発行 小山德孝/著 22頁・23頁◇道祖神と稲荷』
  15. ^ 建立昭和二年の銘がある。
  16. ^ 『ふるさと~相模台地域の移り変わり~平成12年8月発行 小山德孝/著 22頁・23頁◇道祖神と稲荷』
  17. ^ 1901年は入植者が新たに6軒加わった。『ふるさと~相模台地域の移り変わり~平成12年8月発行 小山德孝/著 19頁◇中和田新開(蓼川新開)』『座間の地名20頁①中和田新開』
  18. ^ 『ふるさと~相模台地域の移り変わり~平成12年8月発行 小山德孝/著 33頁◇臨時東京第三陸軍病院)』
  19. ^ 昭和4年刊行 土地宝典・高座郡新磯村地番反別入図より
  20. ^ 相模台地区の都市化の移り変わり”. 相模台地区自治会連合会. 2017年7月19日閲覧。開業してすぐ相模原駅に改称。1941年3月1日小田原急行鉄道は小田急電鉄と改称、同年4月5日に小田急相模原駅と改称。
  21. ^ 古来からの辰街道。現・サウザンロード相模台(国立病院通り)。往時は高座郡座間村座間字北広野・新田宿飛地字見分塚<現・座間市相模が丘一丁目>、大野村上鶴間<現・相模原市南区南台五丁目>と新磯村新戸・磯部<現・相模原市南区相模台二丁目>の境界となっていた。※辰街道:高座郡相原村大字清兵衛新田(現・相模原市中央区清新丁目)の『せんぞう峠』と書かれた地名標柱が起点。相模原市清新付近から小田急相模原駅付近を通って座間市海老名市綾瀬市大和市を経て藤沢市にいたる街道で、広大な相模野台地を北西から東南へ(辰巳の方角)縦断する道であった。名前の由来もそこにある。引用元:座間の地名15頁・16頁
  22. ^ 小田急電鉄(株)『小田急五十年史』(1980.12)”. 渋沢社史データベース. 2024年12月10日閲覧。
  23. ^ 9.戦争(せんそう)と相模原”. 相模原市. 2024年12月16日閲覧。
  24. ^ 10.町から市へ「相模原市の誕生(たんじょう)」と人口の増加(ぞうか)”. 相模原市. 2024年12月16日閲覧。
  25. ^ 引用元:『ふるさと~相模台地域の移り変わり~平成12年8月発行 小山德孝/著 43頁◇二宮神社の建立』
  26. ^ 当初、鎌倉鶴岡八幡宮など古来の神社から御分霊の勧請を受けようと奔走尽力したが八幡神などの神々は軍神武神であるためGHQより差し止められた。昭和初期から農村地帯では農村振興の偉人~二宮尊徳翁を崇敬する気風が盛んとなり、各地に報徳会が組織されていた。この事から小田原市報徳二宮神社にお願いし二宮尊徳翁御分霊を勧請。引用元:『ふるさと~相模台地域の移り変わり~平成12年8月発行 小山德孝/著 43頁◇二宮神社の建立』
  27. ^ この地域は新開地で神社がなく、それまで祭りは4キロも離れた本村の中和田にある長嶋神社で行われて、子供や女性は簡単に参加できない状況だった。引用元:『ふるさと~相模台地域の移り変わり~平成12年8月発行 小山德孝/著 43頁◇二宮神社の建立』
  28. ^ 「相模銀座」・通称(森川通り)の歴史”. さがみパらねっと. 2018年11月19日閲覧。
  29. ^ 敗戦直後から小田急相模原駅周辺の高座郡座間町大字座間北広野、大字新田宿飛地見分塚をはじめとした現・相模が丘宅地化が進行し、救急や郵便等で該当地番を探すのが困難になってきたことから(新田宿違いなど)、1959年4月20日にこれらの各大字小字を統合し、高座郡座間町相模台として新しい大字を新設し、新たに地番の付け直し(不動産登記法に基づく地番整理)を実施した。引用元:座間の地名26頁・『座間の地名・付録昭和3年刊行「神奈川県高座郡座間村地番反別入図」の「高座郡座間村全略図」』座間市字概略図”. のうかる. 2016年12月7日閲覧。
  30. ^ a b c d 小田急電鉄株式会社社史編集事務局 編『小田急五十年史』1980年、647頁。 
  31. ^ 小田急線・箱根登山線・箱根ロープウェイ・箱根海賊船にて 2014年1月から駅ナンバリングを順次導入します! 新宿駅から箱根・芦ノ湖まで通しのナンバリングにより、わかりやすくご利用いただけます』(PDF)(プレスリリース)小田急電鉄 / 箱根登山鉄道、2013年12月24日。オリジナルの2021年5月9日時点におけるアーカイブhttps://web.archive.org/web/20210509093516/http://www.odakyu.jp/program/info/data.info/8052_1284200_.pdf2021年5月9日閲覧 
  32. ^ 電気車研究会発行「鉄道ピクトリアル」1998年7月臨時増刊号(通巻656号)129ページ
  33. ^ 小田急相模原駅最大のイベント おださがロードフェスタ”. ミカハウジング. 2019年3月16日閲覧。
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  37. ^ 座間市都市マスタープラン運用方針(地域別構想・地域別都市づくりの方針「広野台地域」) (PDF) - 座間市都市計画課、平成25年5月、2022年2月18日閲覧。
  38. ^ サウザンロード相模台商店街
  39. ^ ラクアル・オダサガ - ちょっといい、ちょうどいい。”. 2020年10月2日閲覧。
  40. ^ 相模原市内初、歩道橋に愛称 3月から表示 2管理組合と契約 - カナロコ、神奈川新聞、2018年2月23日
  41. ^ 相模大野駅西側地区、小田急相模原駅北口A地区及び小田急相模原駅北口B地区第一種市街地再開発事業に係る事後評価書 (PDF) - 相模原市、2019年4月閲覧。
  42. ^ 駅前再開発施設が完成、小田急相模原駅 にぎわい演出へ - カナロコ、神奈川新聞、2019年1月10日
  43. ^ 麻溝台・新磯野地区整備推進事業”. 相模原市. 2019年4月6日閲覧。
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小田急電鉄の1日平均利用客数
  1. ^ a b c 鉄道部門:駅別乗降人員・輸送人員ほか”. 小田急電鉄. 2023年7月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年10月3日閲覧。
  2. ^ 鉄道部門:駅別乗降人員・輸送人員ほか”. 小田急電鉄. 2023年3月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年10月3日閲覧。
小田急電鉄の統計データ
  1. ^ 相模原市統計書 - 相模原市
  2. ^ 統計要覧 - 座間市
  3. ^ レポート - 関東交通広告協議会
  4. ^ 神奈川県県勢要覧
神奈川県県勢要覧
  1. ^ 線区別駅別乗車人員(1日平均)の推移 - 21ページ
  2. ^ 平成12年 - 223ページ
  3. ^ a b 平成13年 (PDF) - 225ページ
  4. ^ 平成14年 (PDF) - 223ページ
  5. ^ 平成15年 (PDF) - 223ページ
  6. ^ 平成16年 (PDF) - 223ページ
  7. ^ 平成17年 (PDF) - 225ページ
  8. ^ 平成18年 (PDF) - 225ページ
  9. ^ 平成19年 (PDF) - 227ページ
  10. ^ 平成20年 (PDF) - 231ページ
  11. ^ 平成21年 (PDF) - 241ページ
  12. ^ 平成22年 (PDF) - 239ページ
  13. ^ 平成23年 (PDF) - 239ページ
  14. ^ 平成24年 (PDF) - 235ページ
  15. ^ 平成25年 (PDF) - 237ページ
  16. ^ 平成26年 (PDF) - 239ページ
  17. ^ 平成27年 (PDF) - 239ページ
  18. ^ 平成28年 (PDF) - 247ページ
  19. ^ 平成29年 (PDF) - 239ページ
  20. ^ 平成30年 (PDF) - 223ページ
  21. ^ 令和元年 (PDF) - 223ページ
  22. ^ 令和2年 (PDF) - 223ページ
  23. ^ 令和3年 (PDF) - 215ページ
  24. ^ 令和4年 (PDF) - 219ページ

関連項目

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外部リンク

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