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広野台

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
日本 > 神奈川県 > 座間市 > 広野台
広野台
町丁
地図北緯35度30分03秒 東経139度25分20秒 / 北緯35.500764度 東経139.422356度 / 35.500764; 139.422356
日本の旗 日本
都道府県 神奈川県の旗 神奈川
市町村 座間市
人口情報2023年令和5年)8月1日現在[1]
 人口 2,949 人
 世帯数 1,366 世帯
面積[2]
  0.681234218 km²
人口密度 4328.91 人/km²
設置日 1974年昭和49年)11月1日
郵便番号 252-0012[3]
市外局番 046(厚木MA[4]
ナンバープレート 相模
ウィキポータル 日本の町・字
神奈川県の旗 ウィキポータル 神奈川県
ウィキプロジェクト 日本の町・字
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広野台(ひろのだい)は、神奈川県座間市町名。現行行政地名は広野台一丁目から広野台二丁目。住居表示実施済み区域[5]

地理

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座間市の北部に位置し、一丁目北部に1927年4月1日小田急小田原線が開通、運行しているが最寄り駅はなく、小田急相模原駅相武台前駅の中間にあり、どちらの駅からも徒歩20分未満。

略史

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広野(ひろの)と呼ばれたこの地域は[6]1950年代まで、座間座間入谷の人々の所有地で耕作地であり、皆一同毎日鍬を担ぎ弁当持参わらじ履きで、府中みち[7]、江戸街道[8]、鶴間街道[9]を歩いて通い、陸稲耕作をした[10]。現・座間市相武台二丁目との境界に目久尻川が流れ谷崖が多く森林であったため、耕作は、元の大字座間入谷飛び地だった現・イオンモール一帯から大字座間元広野の相模野小学校周辺にかけての区域、元広野窪は谷崖森林が多く座間街道沿いの平坦な限られたところで行われていた。

1927年小田原急行鉄道小田原線開通し、元広野窪北部を電車が走るようになり座間駅(現・相武台前駅)が最寄り駅となった[11]

1937年9月30日市ヶ谷より現在のキャンプ座間のところに陸軍士官学校が移転してきた。12月20日挙行の卒業式昭和天皇行幸につき、府中みちが改修整備拡張され、行幸道路として原町田駅~士官学校正門まで完成。同年同日、人口約7千人の座間村は単独で町制施行し高座郡座間町となった。1941年4月29日、この時人口7千6百人の座間町は大野村新磯村上溝町麻溝村大沢村田名村相原村と合併し、人口4万人を超える高座郡相模原町が誕生したが、1948年9月1日に、旧座間町域(現在の座間市域・この時人口約1万1千人)が相模原町から分離独立した[12]

太平洋戦争が終わり、1945年9月2日米軍により陸軍士官学校が接収されキャンプ座間となった。キャンプ座間~横浜間の米軍車両往来の為、早速、相武台前駅踏切前を起点とし、江戸街道~小池窪~鶴間街道~下鶴間のルートで車両の通行を開始し、既存の町道県道座間下鶴間線としたが、当初から米軍トラックなど大型車の通行に支障をきたし、バイパスの必要性が検討され、現在の座間街道であるところの二間(2けん・3.63メートル)の農道を整備拡張し[13]1954年10月26日、新たに神奈川県道座間大和線として全面開通し幹線道路となった(従来のルートは10月15日に廃止、神奈川県から座間町へ移管、暫く旧道と通称された)[14][15][16]。当初は「相武台新道」「行政道路」が通称であったが日産自動車座間工場ができてからは「座間日産通り」と呼んでいて、知らぬ間に「座間県道」やがて「座間街道」と呼ぶようになった。座間街道は相武台団地入口の信号で行幸道路までで突き当り。その先の村富線は相武台団地竣工時までなかった。

この広野台地区は座間市内で人が住み着いたのが最も遅かった。

1955年に座間町営水道が完成すると翌1956年、広野台で最初の住居であるキャンプ座間在勤米軍職員専用アパートメント「座間コート(Zama Court)」[17][18]が竣工し、キャンプ座間在勤米軍職員が入居し始めた。相武台団地入口信号の所には小佐野賢治創業の国際興業が経営する米軍大型バスの洗車場ができ、1960年代後半に入るとボウリングブーム到来とともに、多目的遊技場も兼ねた相武台ボールダイヤモンドレーン(※通称 相武台ボウル)、日産自動車座間工場正門のすぐ隣に座間ボウル、2ヶ所のボウリング場が1970年に営業開始した[19]。しかし、第一次オイルショック、レジャーの多様化が進み、ボウリングブームは数年で終焉した。相武台ボウルはベトナム戦争終戦とともににその役目を終え、1975年9月21日にスーパー忠実屋相武台店〜1980年12月ディスカウントストア・サンエム1号店の相武台店、その後パチンコ店になり漏電による火災で全焼し、ダイエー相武台店になった。

座間街道沿いは相変わらず畑一面・谷崖森林のままであったが、1960年12月20日宅地開発事業[20]が始まり漸次宅地化、1962年座間第三小学校が開校、1964年12月には、日産自動車座間工場が一部竣工・稼働を始めると、町役場はこの地の各小字を一括りに「元広野」[21]、行政上の扱いは相武台地区とした。同年7月27日宅地化完了[22]、早速、元広野の第三小学校付近に十数戸住み着いた。しかし小田急線相武台前駅小田急相模原駅から遠いこともあり、そのため数年間は戸数が微増散見する程度であったが[23]1968年1969年に戸数が急増し[24]、新住民達がこの地を、座間街道を境界に隣接する相模台に倣い「広野台」と通称した[25][26]。その後も継続して戸数・人口が増加し、概ね市街地化した1974年11月1日、当該地域の各大字小字を統合し、正式に行政上の町名として広野台1・2丁目を新設し、1999年9月13日には住居表示を実施した。

地籍は、現一丁目が大字座間元広野の鶴間街道以北・元広野窪全域・相武台相模台の各一部、現二丁目が大字座間字元広野の鶴間街道以南・大字座間入谷飛び地の向長窪の西半分・東長久保・長久保・長久保中通である[27]

町内を流れる目久尻川源流は、大字栗原小池谷の白髪弁財天が通説となっているがそうではなく、行幸道路に面する旧大字座間上小池と元広野窪の境、現・広野台一丁目1番にあるロイヤルホスト公道を抜けた相模原市南区相武台丁目相武台団地の一番低い窪地にある遊水地付近が元々の源流である。源流から、その近くの行幸道路のドコモショップロイヤルホスト周辺[28]、行幸道路を挟んで、反対側の住宅地になっている窪地付近はホタルが自生繁殖するほど清水が多量に湧き、美しい湿地であったが、戦時中臨時東京第三陸軍病院の病院地下から元広野窪の小田急線線路下まで地下下水道として整備され[29]、病院の汚染水を排水する所謂「ドブ川」になり、源流から清水が湧き流れる美しい川はなくなってしまった。現況の目久尻川は公共下水道の整備により汚染水や生活排水を放出しておらず、溜まった雨水を放流している。

年表

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世帯数と人口

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2023年令和5年)8月1日現在(座間市発表)の世帯数と人口は以下の通りである[1]

丁目 世帯数 人口
広野台一丁目 1,366世帯 2,949人
広野台二丁目 0世帯 0人
1,366世帯 2,949人

人口の変遷

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国勢調査による人口の推移。

人口推移
人口
1995年(平成7年)[42]
2,426
2000年(平成12年)[43]
2,470
2005年(平成17年)[44]
2,844
2010年(平成22年)[45]
3,075
2015年(平成27年)[46]
3,179
2020年(令和2年)[47]
3,037

世帯数の変遷

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国勢調査による世帯数の推移。

世帯数推移
世帯数
1995年(平成7年)[42]
838
2000年(平成12年)[43]
925
2005年(平成17年)[44]
1,087
2010年(平成22年)[45]
1,184
2015年(平成27年)[46]
1,248
2020年(令和2年)[47]
1,254

学区

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市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2022年12月時点)[48]

丁目 番・番地等 小学校 中学校
広野台一丁目 33番~35番 座間市立相武台東小学校 座間市立座間中学校
1~32番
36~50番
座間市立相模野小学校 座間市立相模中学校
広野台二丁目 全域

事業所

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2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は、以下の通りである[49]

丁目 事業所数 従業員数
広野台一丁目 78事業所 897人
広野台二丁目 220事業所 8,859人
298事業所 9,756人

事業者数の変遷

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経済センサスによる事業所数の推移。

事業者数推移
事業者数
2016年(平成28年)[50]
142
2021年(令和3年)[49]
298

従業員数の変遷

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経済センサスによる従業員数の推移。

従業員数推移
従業員数
2016年(平成28年)[50]
5,823
2021年(令和3年)[49]
9,756

交通

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鉄道

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丁目北部に1927年小田急小田原線が敷設され運行しているが、町内に鉄道駅はない。

乗り合いバス

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廃止路線

道路

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施設

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その他

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日本郵便

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脚注

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  1. ^ a b 町丁字別年齢別人口統計表(令和5年)” (CSV). 座間市 (2023年8月8日). 2023年8月16日閲覧。 “(ファイル元のページ)(CC-BY-4.0)
  2. ^ 『国勢調査町丁・字等別境界データセット』(CODH作成)”. CODH. 2023年8月16日閲覧。(CC-BY-4.0)
  3. ^ a b 広野台の郵便番号”. 日本郵便. 2023年8月9日閲覧。
  4. ^ 市外局番の一覧”. 総務省. 2019年6月24日閲覧。
  5. ^ 不動産登記法に基づく地番整理(地番の付け直し)は実施せず。
  6. ^ 江戸末期嘉永6年(1853年)広野(ひろの)と呼ばれた広野台、芝原(しばあら)と呼ばれた相模が丘から小松原ひばりが丘さがみ野東原にかけて開墾がはじまり、文久年間に地割が完成し耕作が始まった。『座間むかしむかし第1集・芝原の開墾』『座間むかしむかし第3集・巻末 座間市略年表』
  7. ^ 現・行幸道路
  8. ^ 相武台前駅踏切を渡り相模が丘に向かう道。相模野小学校下、元広野と元広野窪の境界道である小池窪の坂を直進し農道(現・座間街道)を渡り、相模が丘中部(三丁目と四丁目の境界道路五丁目と六丁目の境界道路)を縦貫し、上鶴間村東海大相模高校側)と下鶴間村相模カンツリー倶楽部側)の境の道で八王子道(滝山道)を渡り鶴間村町谷原町田市南町田町田街道の町谷原交差点)、小川村を経て、長津田宿江戸三宅坂へ向かう大山街道(矢倉沢往還)に合流。
  9. ^ 相模野小学校下、江戸街道の小池窪から座間街道イオンモールへ向かい、下鶴間宿大山道(矢倉沢往還)と八王子道(滝山道)に合流した。
  10. ^ 座間むかしむかし第25集・戦前から戦後のまちの様子
  11. ^ 開通当時は新原町田駅(現・町田駅)の次は座間駅(現・相武台前駅)が停車駅であった。
  12. ^ 相模原町は残りの区域で、1954年11月20日市制施行して人口約8万人の相模原市が発足した。
  13. ^ 『座間むかしむかし第25集・戦前から戦後のまちの様子』
  14. ^ 座間市史 4(近現代資料編 2・3) 基地の町の実情 272 昭和二十八年二月 米軍移駐にともなう交通対策につき陳情 501
  15. ^ 『鶴間新町のルーツを探る 座談会・大和市市史編さん事務局』
  16. ^ 小田急小田原線を跨ぐ「相武台跨線橋」が竣工したのは1953年10月である。※橋梁に刻印あり
  17. ^ ダイエー相武台店と道一本挟んだロイヤルホストの間にマンションが建っている所。
  18. ^ 座間市史 4(近現代資料編 2・3) 基地の町の実情 284 昭和二十九年十一月 在日米軍に提供する施設及び区域について 527
  19. ^ 1970年1973年には両ボウリング場のイベントに須田開代子中山律子も数回来場している。
  20. ^ 某家の登記簿謄本に拠る。
  21. ^ 『座間広報』の「各地区ごみ収集日」に、昭和37年12月1日号は相武台地区「第三小学校前」、昭和39年10月1日号には同「元広野」と記載されている。
  22. ^ 某家の登記簿謄本に拠る。※地目変更(宅地)・地番分筆宅地造成角栄建設株式会社が施工した。※田中角栄とは無関係。宅地造成と漸次並行して進められた電柱の建柱工事も1965年2月完了。
  23. ^ 日産が大規模な独身寮・家族用社宅を栗原相武台相模台に建設したため。また1966年6月30日には神奈川県住宅供給公社が日産社員向けに相武台団地の一部に勤労者分譲住宅を着工し、1968年に竣工させた<神奈川県住宅供給公社公式サイトより>。
  24. ^ 1969年10月座間町の人口が5万人を超えた。『座間むかしむかし第3集・巻末 座間市略年表』
  25. ^ 『座間の語り伝え 7 村制編 1 村の起こり』
  26. ^ 『座間の地名』p28
  27. ^ 『座間の地名・付録昭和3年刊行「神奈川県高座郡座間村地番反別入図」の「高座郡座間村全略図」』
  28. ^ 新磯野入口信号付近から相武台団地入口信号までの緩やかな坂を「上小池坂」と言う。
  29. ^ 座間むかしむかし第25集・戦前から戦後のまちの様子
  30. ^ 『座間むかしむかし第1集・芝原の開墾』『座間むかしむかし第3集・巻末 座間市略年表』
  31. ^ 相武台前駅踏切前を起点~江戸街道~小池窪~鶴間街道~下鶴間のルート
  32. ^ 相模原町は残りの区域で、1954年11月20日市制施行して人口約8万人の相模原市が発足した。
  33. ^ 某家の登記簿謄本に拠る。
  34. ^ 相模野小学校五十周年記念誌より
  35. ^ 某家の登記簿謄本に拠る。※地目変更(宅地)・地番分筆
  36. ^ 座間入谷飛び地向長窪・東長久保・長久保・長久保中通などの古来の小字が事実上不詳になった。
  37. ^ 座間町(相模台の町田電報電話局管内・栗原の厚木電報電話局管内を除く)、相模原市新戸全域、磯部新磯野の大部分。同時に、座間町内の町田局・大和局に収容されていた165回線を座間局に振替収容した。※1965年5月30日当時
  38. ^ 例①旧表記・座間xx番→新表記・0462-51-00xx、例②旧表記・座間xxx番→新表記・0462-51-0xxx、例③旧表記・座間1xxx番→新表記・0462-51-1xxx
  39. ^ 住居表示は実施せず。
  40. ^ 広野台地区(平成11年9月13日施行)”. 座間市. 2023年8月16日閲覧。
  41. ^ 不動産登記法に基づく地番整理(地番の付け直し)は実施せず。
  42. ^ a b 平成7年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2014年3月28日). 2019年8月16日閲覧。
  43. ^ a b 平成12年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2014年5月30日). 2019年8月16日閲覧。
  44. ^ a b 平成17年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2014年6月27日). 2019年8月16日閲覧。
  45. ^ a b 平成22年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2012年1月20日). 2019年8月16日閲覧。
  46. ^ a b 平成27年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2017年1月27日). 2019年8月16日閲覧。
  47. ^ a b 令和2年国勢調査の調査結果(e-Stat) -男女別人口,外国人人口及び世帯数-町丁・字等”. 総務省統計局 (2022年2月10日). 2022年2月20日閲覧。
  48. ^ 小・中学校の通学区域” (2022年12月7日). 2023年8月16日閲覧。
  49. ^ a b c 経済センサス‐活動調査 / 令和3年経済センサス‐活動調査 / 事業所に関する集計 産業横断的集計 事業所数、従業者数(町丁・大字別結果)”. 総務省統計局 (2023年6月27日). 2023年9月15日閲覧。
  50. ^ a b 経済センサス‐活動調査 / 平成28年経済センサス‐活動調査 / 事業所に関する集計 産業横断的集計 都道府県別結果”. 総務省統計局 (2018年6月28日). 2019年10月23日閲覧。
  51. ^ 「座間市史 4(近現代資料編 2・3)基地の町の実情」272頁 昭和二十八年二月「米軍移駐にともなう交通対策につき陳情」より。
  52. ^ 『鶴間新町のルーツを探る 座談会・大和市市史編さん事務局』
  53. ^ 郵便番号簿 2022年度版” (PDF). 日本郵便. 2023年7月17日閲覧。