広野台
広野台 | |
---|---|
町丁 | |
北緯35度30分03秒 東経139度25分20秒 / 北緯35.500764度 東経139.422356度 | |
国 | 日本 |
都道府県 | 神奈川 |
市町村 | 座間市 |
人口情報(2023年(令和5年)8月1日現在[1]) | |
人口 | 2,949 人 |
世帯数 | 1,366 世帯 |
面積([2]) | |
0.681234218 km² | |
人口密度 | 4328.91 人/km² |
設置日 | 1974年(昭和49年)11月1日 |
郵便番号 | 252-0012[3] |
市外局番 | 046(厚木MA)[4] |
ナンバープレート | 相模 |
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広野台(ひろのだい)は、神奈川県座間市の町名。現行行政地名は広野台一丁目から広野台二丁目。住居表示実施済み区域[5]。
地理
[編集]座間市の北部に位置し、一丁目北部に1927年4月1日、小田急小田原線が開通、運行しているが最寄り駅はなく、小田急相模原駅と相武台前駅の中間にあり、どちらの駅からも徒歩20分未満。
略史
[編集]広野(ひろの)と呼ばれたこの地域は[6]、1950年代まで、座間・座間入谷の人々の所有地で耕作地であり、皆一同毎日鍬を担ぎ弁当持参わらじ履きで、府中みち[7]、江戸街道[8]、鶴間街道[9]を歩いて通い、桑・麦・陸稲の耕作をした[10]。現・座間市相武台二丁目との境界に目久尻川が流れ谷崖が多く森林であったため、耕作は、元の大字座間入谷飛び地だった現・イオンモール一帯から大字座間字元広野の相模野小学校周辺にかけての区域、元広野窪は谷崖森林が多く座間街道沿いの平坦な限られたところで行われていた。
1927年に小田原急行鉄道小田原線開通し、元広野窪北部を電車が走るようになり座間駅(現・相武台前駅)が最寄り駅となった[11]。
1937年9月30日、市ヶ谷より現在のキャンプ座間のところに陸軍士官学校が移転してきた。同12月20日挙行の卒業式昭和天皇行幸につき、府中みちが改修整備拡張され、行幸道路として原町田駅~士官学校正門まで完成。同年同日、人口約7千人の座間村は単独で町制施行し高座郡座間町となった。1941年4月29日、この時人口7千6百人の座間町は大野村、新磯村、上溝町、麻溝村、大沢村、田名村、相原村と合併し、人口4万人を超える高座郡相模原町が誕生したが、1948年9月1日に、旧座間町域(現在の座間市域・この時人口約1万1千人)が相模原町から分離独立した[12]。
太平洋戦争が終わり、1945年9月2日、米軍により陸軍士官学校が接収されキャンプ座間となった。キャンプ座間~横浜間の米軍車両往来の為、早速、相武台前駅踏切前を起点とし、江戸街道~小池窪~鶴間街道~下鶴間のルートで車両の通行を開始し、既存の町道を県道座間下鶴間線としたが、当初から米軍トラックなど大型車の通行に支障をきたし、バイパスの必要性が検討され、現在の座間街道であるところの幅二間(2けん・3.63メートル)の農道を整備拡張し[13]、1954年10月26日、新たに神奈川県道座間大和線として全面開通し幹線道路となった(従来のルートは同10月15日に廃止、神奈川県から座間町へ移管、暫く旧道と通称された)[14][15][16]。当初は「相武台新道」「行政道路」が通称であったが日産自動車座間工場ができてからは「座間日産通り」と呼んでいて、知らぬ間に「座間県道」やがて「座間街道」と呼ぶようになった。座間街道は相武台団地入口の信号で行幸道路までで突き当り。その先の村富線は相武台団地竣工時までなかった。
この広野台地区は座間市内で人が住み着いたのが最も遅かった。
1955年に座間町営水道が完成すると翌1956年、広野台で最初の住居であるキャンプ座間在勤米軍職員専用アパートメント「座間コート(Zama Court)」[17][18]が竣工し、キャンプ座間在勤米軍職員が入居し始めた。相武台団地入口信号の所には小佐野賢治創業の国際興業が経営する米軍大型バスの洗車場ができ、1960年代後半に入るとボウリングブーム到来とともに、多目的遊技場も兼ねた相武台ボールダイヤモンドレーン(※通称 相武台ボウル)、日産自動車座間工場正門のすぐ隣に座間ボウル、2ヶ所のボウリング場が1970年に営業開始した[19]。しかし、第一次オイルショック、レジャーの多様化が進み、ボウリングブームは数年で終焉した。相武台ボウルはベトナム戦争終戦とともににその役目を終え、1975年9月21日にスーパー忠実屋相武台店〜1980年12月ディスカウントストア・サンエム1号店の相武台店、その後パチンコ店になり漏電による火災で全焼し、ダイエー相武台店になった。
座間街道沿いは相変わらず畑一面・谷崖森林のままであったが、1960年12月20日に宅地開発事業[20]が始まり漸次宅地化、1962年に座間第三小学校が開校、1964年12月には、日産自動車座間工場が一部竣工・稼働を始めると、町役場はこの地の各小字を一括りに「元広野」[21]、行政上の扱いは相武台地区とした。同年7月27日宅地化完了[22]、早速、元広野の第三小学校付近に十数戸住み着いた。しかし小田急線相武台前駅や小田急相模原駅から遠いこともあり、そのため数年間は戸数が微増散見する程度であったが[23]、1968年・1969年に戸数が急増し[24]、新住民達がこの地を、座間街道を境界に隣接する相模台に倣い「広野台」と通称した[25][26]。その後も継続して戸数・人口が増加し、概ね市街地化した1974年11月1日、当該地域の各大字小字を統合し、正式に行政上の町名として広野台1・2丁目を新設し、1999年9月13日には住居表示を実施した。
旧地籍は、現一丁目が大字座間字元広野の鶴間街道以北・字元広野窪全域・相武台・相模台の各一部、現二丁目が大字座間字元広野の鶴間街道以南・大字座間入谷飛び地の向長窪の西半分・東長久保・長久保・長久保中通である[27]。
町内を流れる目久尻川源流は、大字栗原字小池谷の白髪弁財天が通説となっているがそうではなく、行幸道路に面する旧大字座間字上小池と元広野窪の境、現・広野台一丁目1番にあるロイヤルホストの公道を抜けた相模原市南区相武台三丁目と相武台団地の一番低い窪地にある遊水地付近が元々の源流である。源流から、その近くの行幸道路のドコモショップ・ロイヤルホスト周辺[28]、行幸道路を挟んで、反対側の住宅地になっている窪地付近はホタルが自生繁殖するほど清水が多量に湧き、美しい湿地であったが、戦時中に臨時東京第三陸軍病院の病院地下から元広野窪の小田急線線路下まで地下下水道として整備され[29]、病院の汚染水を排水する所謂「ドブ川」になり、源流から清水が湧き流れる美しい川はなくなってしまった。現況の目久尻川は公共下水道の整備により汚染水や生活排水を放出しておらず、溜まった雨水を放流している。
年表
[編集]- 江戸時代
- 1868年(明治元年): 座間入谷村・座間宿村、神奈川府を経て神奈川県に所属。
- 1889年(明治22年)4月1日:町村制施行により高座郡座間村大字座間・大字座間入谷飛び地となる。
- 1927年(昭和2年)4月1日:小田原急行鉄道小田原線開通。
- 1937年(昭和12年)12月20日:同年9月30日、市ヶ谷より現在のキャンプ座間に移転した陸軍士官学校の卒業式(同12月20日挙行)昭和天皇行幸につき、府中みちが改修整備拡張され、行幸道路として原町田駅~士官学校正門まで完成(未完の士官学校正門~座間上宿ほか全面完成は翌年11月)。
- 1937年(昭和12年)12月20日:座間村が町制施行し高座郡座間町となった。人口約7千人。
- 1941年(昭和16年)4月29日:この当時、人口約7千6百人の座間町は大野村、新磯村、上溝町、麻溝村、大沢村、田名村、相原村と合併し、人口4万人を超える高座郡相模原町が誕生。座間町の区域は相模原町の一部となる。
- 1945年(昭和20年)9月2日:終戦につき、陸軍士官学校が米軍に接収され、キャンプ座間となる。キャンプ座間~横浜間の米軍車両往来のため、既存の町道を県道座間下鶴間線として運用開始[31]。
- 1948年(昭和23年)9月1日:旧座間町域(現在の座間市域)が相模原町から分離独立し、高座郡座間町が再置される[32]。人口約1万1千人。
- 1954年(昭和29年)10月15日:県道座間下鶴間線廃止。神奈川県から座間町へ移管。
- 1954年(昭和29年)10月26日:神奈川県道座間大和線(座間街道)全面開通。
- 1960年(昭和35年)12月20日:宅地開発事業開始[33]。
- 1962年(昭和37年)4月1日:高座郡座間町立座間第三小学校創立(座間中学校体育館内に併設開校)。同年11月19日、本館完成により、現在地の高座郡座間町座間字元広野5054番地に移転、新校舎に全児童入校式。11月25日竣工式、開校記念日とす[34]。
- 1964年(昭和39年)7月27日:宅地化完了[35]。
- 1964年(昭和39年)12月:高座郡座間町座間字元広野5000番地に日産自動車座間工場が一部竣工・稼働開始[36]。
- 1965年(昭和40年):日産自動車座間工場完成。
- 1965年(昭和40年)5月30日:座間電報電話局管内[37]の電話、全国ダイヤル自動即時化。市外局番0462・市内局番51[38]。
- 1966年(昭和41年)4月4日:相武台歩道橋竣工(座間町内初の歩道橋)。
- 1967年(昭和42年)7月22日:座間町立広野プール開設。
- 1968年(昭和43年)7月1日:町内の郵便番号が付与される。(〒228)
- 1971年(昭和46年)11月1日:市制施行。人口約6万2千人。
- 1974年(昭和49年)11月1日:当該地域の大字小字を統合し広野台1・2丁目を新設。住所の表記は従来からの地番を使用(例・広野台1丁目xxxx番地の1)[39]。
- 1999年(平成11年)9月13日:住居表示実施(例・広野台一丁目x番1号)[40][41]。
- 2001年(平成13年):電話番号逼迫に伴い市内の市外局番(0462地域)が046へ3桁化。
- 2010年(平成22年)4月1日:相模原市が政令指定都市移行に伴い郵便番号を変更、相模原市一部地域と上3桁「228」を共用していた座間市内も228-00xxから252-00xxに変更。
世帯数と人口
[編集]2023年(令和5年)8月1日現在(座間市発表)の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
丁目 | 世帯数 | 人口 |
---|---|---|
広野台一丁目 | 1,366世帯 | 2,949人 |
広野台二丁目 | 0世帯 | 0人 |
計 | 1,366世帯 | 2,949人 |
人口の変遷
[編集]国勢調査による人口の推移。
年 | 人口 |
---|---|
1995年(平成7年)[42] | 2,426
|
2000年(平成12年)[43] | 2,470
|
2005年(平成17年)[44] | 2,844
|
2010年(平成22年)[45] | 3,075
|
2015年(平成27年)[46] | 3,179
|
2020年(令和2年)[47] | 3,037
|
世帯数の変遷
[編集]国勢調査による世帯数の推移。
年 | 世帯数 |
---|---|
1995年(平成7年)[42] | 838
|
2000年(平成12年)[43] | 925
|
2005年(平成17年)[44] | 1,087
|
2010年(平成22年)[45] | 1,184
|
2015年(平成27年)[46] | 1,248
|
2020年(令和2年)[47] | 1,254
|
学区
[編集]市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2022年12月時点)[48]。
丁目 | 番・番地等 | 小学校 | 中学校 |
---|---|---|---|
広野台一丁目 | 33番~35番 | 座間市立相武台東小学校 | 座間市立座間中学校 |
1~32番 36~50番 |
座間市立相模野小学校 | 座間市立相模中学校 | |
広野台二丁目 | 全域 |
事業所
[編集]2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は、以下の通りである[49]。
丁目 | 事業所数 | 従業員数 |
---|---|---|
広野台一丁目 | 78事業所 | 897人 |
広野台二丁目 | 220事業所 | 8,859人 |
計 | 298事業所 | 9,756人 |
事業者数の変遷
[編集]経済センサスによる事業所数の推移。
年 | 事業者数 |
---|---|
2016年(平成28年)[50] | 142
|
2021年(令和3年)[49] | 298
|
従業員数の変遷
[編集]経済センサスによる従業員数の推移。
年 | 従業員数 |
---|---|
2016年(平成28年)[50] | 5,823
|
2021年(令和3年)[49] | 9,756
|
交通
[編集]鉄道
[編集]一丁目北部に1927年小田急小田原線が敷設され運行しているが、町内に鉄道駅はない。
乗り合いバス
[編集]- 神奈川中央交通東の路線 - 北相武台バス停
- 座間市コミュニティバス(ザマフレンド号)の路線
廃止路線
道路
[編集]- 神奈川県道50号座間大和線 - 終戦後、米軍により従来の農道を整備拡張、1954年10月26日に全面開通し幹線道路となった[51][52]。通称、相武台新道・行政道路→座間日産通り→座間県道→座間街道。
- 東京都道・神奈川県道51号町田厚木線 - 通称・府中みち→行幸道路。1937年9月30日、市ヶ谷より現在のキャンプ座間に移転した陸軍士官学校の卒業式(同12月20日挙行)昭和天皇行幸につき、府中みちが改修整備拡張され、行幸道路として原町田駅~士官学校正門まで完成(未完の士官学校正門~座間上宿ほか全面完成は翌年11月)。
施設
[編集]その他
[編集]日本郵便
[編集]脚注
[編集]- ^ a b “町丁字別年齢別人口統計表(令和5年)” (CSV). 座間市 (2023年8月8日). 2023年8月16日閲覧。 “(ファイル元のページ)”(CC-BY-4.0)
- ^ “『国勢調査町丁・字等別境界データセット』(CODH作成)”. CODH. 2023年8月16日閲覧。(CC-BY-4.0)
- ^ a b “広野台の郵便番号”. 日本郵便. 2023年8月9日閲覧。
- ^ “市外局番の一覧”. 総務省. 2019年6月24日閲覧。
- ^ 不動産登記法に基づく地番整理(地番の付け直し)は実施せず。
- ^ 江戸末期の嘉永6年(1853年)広野(ひろの)と呼ばれた広野台、芝原(しばあら)と呼ばれた相模が丘から小松原・ひばりが丘・さがみ野・東原にかけて開墾がはじまり、文久年間に地割が完成し耕作が始まった。『座間むかしむかし第1集・芝原の開墾』『座間むかしむかし第3集・巻末 座間市略年表』
- ^ 現・行幸道路
- ^ 相武台前駅踏切を渡り相模が丘に向かう道。相模野小学校下、元広野と元広野窪の境界道である小池窪の坂を直進し農道(現・座間街道)を渡り、相模が丘中部(三丁目と四丁目の境界道路・五丁目と六丁目の境界道路)を縦貫し、上鶴間村(東海大相模高校側)と下鶴間村(相模カンツリー倶楽部側)の境の道で八王子道(滝山道)を渡り鶴間村町谷原(町田市南町田の町田街道の町谷原交差点)、小川村を経て、長津田宿で江戸三宅坂へ向かう大山街道(矢倉沢往還)に合流。
- ^ 相模野小学校下、江戸街道の小池窪から座間街道イオンモールへ向かい、下鶴間宿で大山道(矢倉沢往還)と八王子道(滝山道)に合流した。
- ^ 座間むかしむかし第25集・戦前から戦後のまちの様子
- ^ 開通当時は新原町田駅(現・町田駅)の次は座間駅(現・相武台前駅)が停車駅であった。
- ^ 相模原町は残りの区域で、1954年11月20日に市制施行して人口約8万人の相模原市が発足した。
- ^ 『座間むかしむかし第25集・戦前から戦後のまちの様子』
- ^ 座間市史 4(近現代資料編 2・3) 基地の町の実情 272 昭和二十八年二月 米軍移駐にともなう交通対策につき陳情 501
- ^ 『鶴間新町のルーツを探る 座談会・大和市市史編さん事務局』
- ^ 小田急小田原線を跨ぐ「相武台跨線橋」が竣工したのは1953年10月である。※橋梁に刻印あり
- ^ ダイエー相武台店と道一本挟んだロイヤルホストの間にマンションが建っている所。
- ^ 座間市史 4(近現代資料編 2・3) 基地の町の実情 284 昭和二十九年十一月 在日米軍に提供する施設及び区域について 527
- ^ 1970年~1973年には両ボウリング場のイベントに須田開代子・中山律子も数回来場している。
- ^ 某家の登記簿謄本に拠る。
- ^ 『座間広報』の「各地区ごみ収集日」に、昭和37年12月1日号は相武台地区「第三小学校前」、昭和39年10月1日号には同「元広野」と記載されている。
- ^ 某家の登記簿謄本に拠る。※地目変更(畑→宅地)・地番分筆。宅地造成は角栄建設株式会社が施工した。※田中角栄とは無関係。宅地造成と漸次並行して進められた電柱の建柱工事も1965年2月完了。
- ^ 日産が大規模な独身寮・家族用社宅を栗原・相武台・相模台に建設したため。また1966年6月30日には神奈川県住宅供給公社が日産社員向けに相武台団地の一部に勤労者分譲住宅を着工し、1968年に竣工させた<神奈川県住宅供給公社公式サイトより>。
- ^ 1969年10月、座間町の人口が5万人を超えた。『座間むかしむかし第3集・巻末 座間市略年表』
- ^ 『座間の語り伝え 7 村制編 1 村の起こり』
- ^ 『座間の地名』p28
- ^ 『座間の地名・付録昭和3年刊行「神奈川県高座郡座間村地番反別入図」の「高座郡座間村全略図」』
- ^ 新磯野入口信号付近から相武台団地入口信号までの緩やかな坂を「上小池坂」と言う。
- ^ 座間むかしむかし第25集・戦前から戦後のまちの様子
- ^ 『座間むかしむかし第1集・芝原の開墾』『座間むかしむかし第3集・巻末 座間市略年表』
- ^ 相武台前駅踏切前を起点~江戸街道~小池窪~鶴間街道~下鶴間のルート
- ^ 相模原町は残りの区域で、1954年11月20日に市制施行して人口約8万人の相模原市が発足した。
- ^ 某家の登記簿謄本に拠る。
- ^ 相模野小学校五十周年記念誌より
- ^ 某家の登記簿謄本に拠る。※地目変更(畑→宅地)・地番分筆
- ^ 座間入谷飛び地向長窪・東長久保・長久保・長久保中通などの古来の小字が事実上不詳になった。
- ^ 座間町(相模台の町田電報電話局管内・栗原の厚木電報電話局管内を除く)、相模原市新戸全域、磯部・新磯野の大部分。同時に、座間町内の町田局・大和局に収容されていた165回線を座間局に振替収容した。※1965年5月30日当時
- ^ 例①旧表記・座間xx番→新表記・0462-51-00xx、例②旧表記・座間xxx番→新表記・0462-51-0xxx、例③旧表記・座間1xxx番→新表記・0462-51-1xxx
- ^ 住居表示は実施せず。
- ^ “広野台地区(平成11年9月13日施行)”. 座間市. 2023年8月16日閲覧。
- ^ 不動産登記法に基づく地番整理(地番の付け直し)は実施せず。
- ^ a b “平成7年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2014年3月28日). 2019年8月16日閲覧。
- ^ a b “平成12年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2014年5月30日). 2019年8月16日閲覧。
- ^ a b “平成17年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2014年6月27日). 2019年8月16日閲覧。
- ^ a b “平成22年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2012年1月20日). 2019年8月16日閲覧。
- ^ a b “平成27年国勢調査の調査結果(e-Stat) - 男女別人口及び世帯数 -町丁・字等”. 総務省統計局 (2017年1月27日). 2019年8月16日閲覧。
- ^ a b “令和2年国勢調査の調査結果(e-Stat) -男女別人口,外国人人口及び世帯数-町丁・字等”. 総務省統計局 (2022年2月10日). 2022年2月20日閲覧。
- ^ “小・中学校の通学区域” (2022年12月7日). 2023年8月16日閲覧。
- ^ a b c “経済センサス‐活動調査 / 令和3年経済センサス‐活動調査 / 事業所に関する集計 産業横断的集計 事業所数、従業者数(町丁・大字別結果)”. 総務省統計局 (2023年6月27日). 2023年9月15日閲覧。
- ^ a b “経済センサス‐活動調査 / 平成28年経済センサス‐活動調査 / 事業所に関する集計 産業横断的集計 都道府県別結果”. 総務省統計局 (2018年6月28日). 2019年10月23日閲覧。
- ^ 「座間市史 4(近現代資料編 2・3)基地の町の実情」272頁 昭和二十八年二月「米軍移駐にともなう交通対策につき陳情」より。
- ^ 『鶴間新町のルーツを探る 座談会・大和市市史編さん事務局』
- ^ “郵便番号簿 2022年度版” (PDF). 日本郵便. 2023年7月17日閲覧。