田村村隆
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時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 元文2年5月23日(1737年6月21日) |
死没 | 天明2年2月6日(1782年3月19日) |
改名 | 幸五郎(幼名)、伊達村候、村勝、田村村隆 |
別名 | 式部(通称) |
戒名 | 景徳院殿賢厳道猷大居士 |
墓所 | 東京都港区高輪の東禅寺 |
官位 | 従五位下・下総守、左京大夫 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 伊達吉村→宗村→徳川家重→家治 |
藩 | 陸奥仙台藩→陸奥一関藩主 |
氏族 | 伊達氏→田村氏 |
父母 |
父:伊達吉村、母:高橋治昌の娘・倫 養父:伊達村倫、田村村顕 |
兄弟 | 伊達村匡、菊次郎、伊達村風、英姫、和姫、富姫、橘姫、敏姫、伊達宗村、三保姫、百合姫、郷姫、村隆、某、富之助、伊達村良 |
妻 | 伊達村実の娘・幸智 |
子 | 養子:伊達村良、村資 |
田村 村隆(たむら むらたか)は、江戸時代中期の大名。仙台藩一門登米伊達家8代当主、のち陸奥国一関藩の第4代藩主。官位は従五位下・下総守、左京大夫。
生涯
[編集]元文2年(1737年)5月23日、陸奥仙台藩の第5代藩主・伊達吉村の五男として青葉城にて誕生した。幼名は幸五郎。
寛保2年(1742年)に一門登米伊達家当主・伊達村倫の養子となって伊達村候(むらよし)と名乗り、のち村勝に改名する。
宝暦2年(1752年)5月に陸奥一関藩主・田村村顕の養子に迎えられ、田村村隆に改名、登米伊達家の家督を同母弟の村良に譲る。宝暦5年(1755年)9月24日、村顕の死去に伴い家督を相続し、宝暦6年(1756年)、甥の重村が仙台藩主となると後見人を務める。宝暦13年(1756年)、仙台藩によって蟄居させられていた儒学者の芦東山を赦免するように重村に助言し、実現させた。東山は村隆に一関での学校創設を要望して村隆もこれに賛成し、村隆の没後の天明3年(1783年)の一関学館創設に繋がった。しかし冷害や旱魃が毎年のように相次ぎ、それによって藩財政が破綻寸前に追い込まれ、一関藩士による宗家・仙台藩への直訴事件が3度発生した。
天明2年(1782年)2月6日死去。享年46。養子の村資(村良の長男)が家督を相続した。
系譜
[編集]父母
正室
- 幸智(栄寿院) - 伊達村実の娘
養子
系図
[編集]長松院 ┣━━━━伊達宗村━━伊達重村 伊達吉村 ┃ ┏田村村隆 ┣━━━┫ ┃ ┗伊達村良━━田村村資 恵心院
参考文献
[編集]- 『一関市史』第一巻(岩手県一関市、1978年)