田村誠顕
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時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
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生誕 | 寛文10年2月1日(1670年3月21日) |
死没 | 享保12年6月16日(1727年8月3日) |
改名 | 小勝(幼名)、長信、誠顕 |
別名 | 通称:助十郎 |
戒名 | 瀧湛院殿前総州刺史乾樹塊陰大居士 |
墓所 | 岩手県一関市の大慈山祥雲寺 |
官位 | 従五位下・下総守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川綱吉→家宣→家継→吉宗 |
藩 | 陸奥一関藩主 |
氏族 | 田村氏 |
父母 |
父:田村顕当、母:松平昌吉の娘・富 養父:田村建顕 |
兄弟 | 顕豊、長伯(安栖)、顕治、福島為従、誠顕、顕孝 |
妻 |
正室:田村建顕の長女・熊 継室:田村建顕の養女・おいよ |
子 |
高、百、田村顕晋室、女子 養子:泰顕、村顕 |
田村 誠顕(たむら のぶあき)は、江戸時代中期の大名。陸奥国一関藩の第2代藩主。官位は従五位下・下総守。
略歴
[編集]寛文10年(1670年)2月1日、坂上広野の曾孫である田村国当(丹波守)を祖とする丹波田村氏の一族・奥医師田村安栖家の分家にあたる旗本で当時書院番士、のちに留守居番となった田村顕当(助太夫)の五男として誕生した。母は能見松平家の松平昌吉(勝左衛門)の娘で顕当の継室であった。走水奉行を勤めた田村長衞の孫でもある。
元禄9年(1696年)2月に先代藩主・田村建顕の養嗣子となり、宝永5年(1708年)の建顕の死去により跡を継ぐ。
享保12年(1727年)6月16日に死去した。享年58。最初の養子で旗本分家の泰顕は夭折しており、婿養子の村顕が跡を継いだ。
系譜
[編集]父母
正室、継室
子女
養子
脚注
[編集]- ^ 冷泉流の歌人