田村村顕
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 宝永4年5月24日(1707年6月23日) |
死没 | 宝暦5年8月3日(1755年9月8日) |
改名 | 喜七郎・弁之助(幼名)、典顕(初名)、村顕 |
戒名 | 霊鳳院殿故左京兆尹性海玄理大居士 |
墓所 | 東京都港区高輪の東禅寺 |
官位 | 従五位下・隠岐守、左京大夫 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川吉宗→家重 |
藩 | 陸奥一関藩主 |
氏族 | 伊達氏(宇和島伊達家)→田村氏 |
父母 |
父:伊達宗贇、母:中里氏 養父:田村誠顕 |
兄弟 | 伊達宗相、曽智、岩次郎、伊達村年、村顕、初、民、百助、桑折宗恒、清、長、久米、悦、幾久 |
妻 | 田村誠顕の三女・百 |
子 |
女子4人 養子:村隆、倫 |
田村 村顕(たむら むらあき)は、江戸時代中期の大名。陸奥国一関藩の第3代藩主。官位は従五位下・隠岐守、左京大夫。
略歴
[編集]宝永4年(1707年)5月24日、伊予国宇和島藩の第3代藩主・伊達宗贇の次男として宇和島にて誕生した。享保11年(1726年)10月に田村誠顕の養子となり、翌年に誠顕が死去したために跡を継いだ。従兄(父・宗贇の兄・綱村の子)で仙台藩主・伊達吉村から偏諱を受け村顕と名乗る。
藩政に見るべきところはないが、鷹狩や狩猟を好んだと言われている。宝暦5年(1755年)8月3日に死去した。享年49。子は女児しかいなかったため、吉村の五男・村隆が養子となって家督を継いだ。
系譜
[編集]父母
正室
- 百 - 田村誠顕の三女
子女
- 娘4人
養子、養女