田村邦顕
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時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 文化13年12月27日(1817年2月12日) |
死没 | 天保11年8月23日(1840年9月18日) |
改名 | 深美(幼名)、徳顕、邦顕 |
戒名 | 諦観院殿真覚円明大居士 |
墓所 | 東京都港区高輪の東禅寺 |
官位 | 従五位下・左京大夫 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉→家慶 |
藩 | 陸奥一関藩主 |
氏族 | 田村氏 |
父母 | 父:田村宗顕、母:田村村資の娘・おかね |
兄弟 | 邦顕、邦行、鈴木顕泰ら |
妻 |
正室:堀親寚の娘・鏗 継室:松平信行の娘・由 |
子 | 養子:邦行 |
田村 邦顕(たむら くにあき)は、江戸時代後期の大名。陸奥国一関藩の第7代藩主。官位は従五位下・左京大夫。
生涯
[編集]文化13年12月27日(1817年2月12日)、6代藩主・田村宗顕の次男として、江戸愛宕下田村小路の中屋敷にて誕生した。幼名は深美。
文政10年(1827年)に父が死去したため、文政11年(1828年)2月19日に家督を相続して徳顕と名乗り、同月28日に11代将軍・徳川家斉に御目見する。文政12年(1829年)6月7日、宗家・陸奥仙台藩の浜屋敷において元服し、仙台藩主・伊達斉邦から偏諱を受けて邦顕と名乗る。
藩政においては連年の凶作が相次ぎ、藩財政は悪化の一途をたどった。
和算を嗜み、寝所に和算家の千葉胤秀を呼び寄せ、自ら作成した問題を解かせることもあった[1]。
天保11年(1840年)8月23日死去。享年25。実子はおらず、弟の顕允(邦行)が末期養子となって家督を相続した。
系譜
[編集]- 父:田村宗顕(1784年 - 1827年)
- 母:おかね(宣寿院) - 田村村資の娘
- 正室:鏗(楷) - 堀親寚の娘
- 継室:由 - 松平信行の娘
- 養子
- 男子:田村邦行(1820年 - 1857年) - 田村宗顕の四男
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 『一関市史』第一巻(岩手県一関市、1978年)